桑名の東海道を行く
このウェブページは、平成30(2018)年8月に「桑名の東海道」と題してつくった「パネル展示」をもとにしてあります。このパネルは、当時、九華公園の指定管理者であった株式会社KMI桑名のご協力、ご理解をいただいて、九華公園に展示したものです。その内容をもとにウェブページをつくりました。桑名の東海道を散策される際の参考としてご覧いただければ幸いです。なお、写真は、当時のものをとりあえずそのまま使用しています。また、ウェブページ化にあたり、文章は一部加筆修正しましたが、さらに吟味が必要であると考えています。
1.東海道
東海道は、江戸時代の五街道の1つです。江戸・日本橋から太平洋沿いに京・三条大橋に至る街道で、総距離は126里6町1間(約495.5㎞)でした。この間に53の宿駅がおかれ、軍事的な意味から河川の架橋は禁じられていました。また、箱根、新居などには関所が設けられています。
なお、五街道は、徳川家康が整備した江戸時代の主要な5つの街道で、東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道である。これらは、いずれも江戸を起点としました。
2.桑名宿
桑名は、東海道五十三次の42番目の宿場です。徳川四天王の本多家のほか、久松・奥平両松平家の大名が藩主を務めた桑名藩の城下町でした。江戸時代後期の調査(天保14(1843)年の調査が基本)では、本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠屋120軒を擁し、家数2,544軒、人口8,848人(男4,390人、女4,458人)であったと記録されています(東海道宿村大概帳)。東海道では、旅籠屋数で宮宿に次ぐ2番目の規模を誇りました。この宮宿とは、東海道で唯一の海上路である七里の渡しで結ばれ、伊勢国および伊勢参りの玄関口となっていました。
3.桑名市内の東海道のルート
こちらは、桑名市内の東海道の全ルートです。七里の渡しから町屋川まで、約1里(約4㎞)の行程で、見附が3ヶ所にありました。
七里の渡しから吉津屋町までの詳しい東海道のルートです。東海道は、桑名城の西側を通っています。現在の京町公園のあたりに「京町見附」があり、道は枡形になっていました(現在は、枡形は消失しています)。
吉津屋町から伝馬町あたりまでの東海道のルートです。鍛治町には、「吉津屋見附」があり、ここの枡形は、今でも残っています。吉津屋町から鍛治町が独立したため、「鍛治町御門」とも呼ばれました。
伝馬町から安永に入るところまでの東海道のルートです。新町、伝馬町のあたりには寺が集められています。矢田には、立場がありました。
安永あたりの東海道のルートです。町屋川まで来ています。現在の町屋橋の上流側に江戸時代には、町屋橋がかかっていました。
4.東海道沿いの寺社仏閣、名所旧跡
東海道沿いにある寺社仏閣、名所旧跡などを七里の渡し跡から町屋橋跡まで順番に見ていきます。
1)蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)
歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」でも、海上の名城と謳われた桑名を表すためにこの櫓が描かれています。船の航路監視のための2層の櫓でした。龍は水を司る聖獣で、「蟠龍」とは天に昇る前のうずくまった状態の龍のことです。蟠龍櫓も、航海の守護神としてここに据えられたものと考えられます。蟠龍の瓦が乗っていたため、その下には魚が寄ってこなかったという伝説があります。堤防改修による水門の機械室建設のため、蟠龍櫓跡に当時の大きさで外見が復元されました。
2)七里の渡し跡
東海道の江戸方面からの玄関口です。熱田の「宮の渡し」から海路で七里(約27㎞)であったことに由来して、「七里の渡し」と呼ばれました。渡し船による所要時間は、潮の干満によって異なりました、約4時間であったといいます。渡し口には 舟番所、高札場、舟会所があり、付近には 本陣、脇本陣、問屋などが建ち並んでいました。鳥居は、伊勢国に入って最初にある伊勢神宮の鳥居の意から「伊勢国一の鳥居」と呼びます。別名、「間遠(まどお)の渡」ともいわれました。
3)大塚本陣跡
桑名でもっとも格式の高い本陣で、幕末の建坪は、221坪(約730.6㎡)でした。庭先には大名の御座船が着岸でき、大名は直接船から本陣に入ることができました。明治元(1868)年には明治天皇 の宿泊所となっています。のちに改築され料理旅館「船津屋」となり、一 名「眺憩楼」と称されたが、戦災により建物は焼失し、 再建されました。本陣は、幕府の役人や大名、朝廷からの使者(勅使)、旗本などが使用する宿です。ここに泊まりきれないときや、本陣がふさがっている時などには、脇本陣が利用されました。写真は、船津屋。桑名宿の本陣、脇本陣については、こちらも参照。
4)脇本陣「駿河屋」跡
桑名宿には脇本陣が4軒ありましたが、そのうちでもっとも大きくかつ格式も高かったのが駿河屋です。幕末の建坪は、109 坪(約360.3㎡)でした。料理旅館「山月」の一部となっていましたが、山月は廃業し、現在は駐車場となっています。「山月」の入口には、戦災の際に爆風によって城跡の石垣から飛ばされてきた石を利用した石碑がありました。左の写真は、平成30(2018)年7月に撮影。右の写真は、令和8年1月の様子。
5)歌行燈句碑
「船津屋」の塀の一部に立てられています。泉鏡花が、明治42(1909)年に船津屋に一泊し、のち船津屋を舞台として名作 「歌行燈」を発表しました。久保田万太郎が、この「歌行燈」を戯曲化していますが、久保田が詠んだ句の自筆句碑が、昭和31(1956)年に立てられました。「かわをそに 火をぬすまれて あけやすき 万」とあります。
6)山月玄関の石碑
山月の玄関にあった石碑には、百五銀行頭取で陶芸などを嗜んだ川喜田半泥子の筆で次のように刻まれていました。「勢州桑名に過ぎたるものは銅(かね)の鳥居に二朱の女郎」 ちなみに、この石碑は、戦災の爆風によって飛ばされてきた桑名城の石垣の石だといわれています。
7)舟会所跡
舟会所(ふなかいしょ;舟役所または警固屋ともいう)は宮及び佐屋へ渡る旅人のため乗船の手配をする事務所です。渡船場の南にあったが、現在は、跡地ははっきりしません。旅人は、舟会所に乗船の申込みをして料金を支払って、指示された船に乗りました。正徳元(1711)年の規定では、乗合船一人当り、宮まで45文(1,125円)、佐屋まで19文(475円)でした。
8)問屋場跡
問屋場(といやば)は、馬や人夫を手配する所で、宿場には必ず設けられていました。問屋には宿役人、助役を勤める年寄、事務をする帳付(ちょうづけ)がおり、その他、人馬に荷物をふりわける「馬指(うまさし)」もいました。人馬は、原則として、次の宿で交替したので、「人馬継立て(じんばつぎたて)」ともいいました。問屋には、このほか、飛脚業務もありました。幕府公用の文書や、荷物を運ぶのが主な仕事でしたが、大名や一般の人が利用することもありました。舟会所の南隣にありましたが、現在は、跡地ははっきりしません。ちなみに、四日市まで馬1匹を利用すると、正徳元(1711)年の規定では、151文(3,775円)です。なお、当時の素泊まり宿賃は、一人35 文(875円)であったといいます。
9)通り井址
桑名藩第4代藩主松平定行が、寛永3(1626)年、町屋川を水源とする「町屋御用水」を引き、町の所々に井戸を設けて住民の飲み水にしました。正方形の枡を道路中央に開けて、水汲井戸としていました。文政3(1820)年頃には17ヵ所に「通り井(通り道に設けられた井戸)」があったといいます。現在、町屋御用水井の跡はないものの、江戸町と川口町の2ヶ所で通り井跡が発見され、道路面に「井」と彫った石がはめこまれています。左の写真は、江戸町の歌行燈本店の近くで撮りました。
10)春日神社(桑名宗社)
春日神社は通称で、正式には、桑名神社と中臣(なかとみ)神社の2社からなり、あわせて桑名宗社といいます。両社とも、延喜式神名帳に掲載された古い神社で、古来から桑名の総鎮守として崇敬されてきました。桑名神社の御祭神は、天津彦根命と天久々斯比乃命(桑名地方の豪族「桑名首(おびと)」の祖神)、中臣神社は、天日別命を祀っています。永仁4(1296)年に奈良から春日大明神を勧請して合祀したため、「春日さん」の名で親しまれています。
11)春日さんの青銅鳥居
春日神社前の広小路に東海道に面して建っています。寛文7(1667)年に桑名藩第7代藩主松平定重の命で建立されています。高さは、6m90cmで、桑名鋳物師の辻内善右衛門種次の作です。建立後、3度にわたり破損しましたが、その都度、辻内家の子孫によって修復されています。
12)しるべ石
春日神社の青銅鳥居のかたわらにあります。明治18(1885)年、東京の蘆田政吉により建てられました。正面に「志るべい志」 、左面に「たづぬるかた」 、右面に「おしゆるかた」と刻まれています。これは、行方不明の人を探すための伝言板でした。人々が多く集まる各地の寺社門前に建てられていましたが、現存するのは全国でも珍しいものです。
13)石取会館
石取祭について展示、紹介しています。建物は、大正14(1925)年に四日市銀行桑名支店として建てられたものです。外観はほぼ当時の姿をとどめ、ギリシャ神殿の柱を真似たスタイルです(登録有形文化財)。展示されている祭車は、諸戸家が所有していたものを平成元(1989)年12月に寄贈を受け、修復したもの。漆仕上げで江戸時代末期の作。彫刻は幕末期の桑名彫刻の一端を担った野々垣兵助により施された総牡丹彫りです。
14)桑名市博物館
旧百五銀行桑名支店を買収し、昭和46(1971)年、県下初の美術館「桑名市立文化美術館」として発足しました。昭和60(1985)年、県下最初の市立博物館として再出発しています。松平定信、萬古焼などの資料を収集しています。博物館前にある道標は、市内の民家の納屋から発見されたもので、旧東海道の往還に建っていたと推測されるものです。
15)京町毘沙門堂
京町公園の東にあります。詳細は不詳ですが、『久波奈名所図会』によれば、京町北側、職人町にあったものを員弁郡福王山(現在の三重郡菰野町、福王神社)に移し、その後、ここに戻したといわれます。福王山に移した時期については異説があります。「慶長の町割移転説」では、桑名京町の北側、職人町にあったものを慶長年間、桑名が町割りのとき移したといいます(菰野町観光協会、菰野町、みえ歴史街道の各HPによります)。一方、「松平定綱公移転説」では、松平定綱が桑名城の守りに、桑名城の京町御門前にあった毘沙門堂を、田口村の福王山に移して、その境内を藩の御用林に指定したといいます(菰野町の「歴史こばなし」第360回)。
16)京町見附跡
京町公園あたりに京町見附がありました。江戸時代ここは東海道の往還で、この付近一帯には「京町門」と「番所」があり、足軽が常勤して警護にあたっていました。このように、櫓があり番兵を置いた門を「見附」と呼び、桑名には京町門の他3箇所の見附がありました。門は枡形で、京橋は江戸時代にはなかったので、門を出ると堀で行き止まり、コの字形に曲がり吉津屋通りへ出ました。現在は、枡形は残っていません。
17)吉津屋見附跡
吉津屋見附は、京町に次いで置かれた東海道筋の見附で、枡形になっています。枡形は現在も残り、写真に入れた赤いラインのように四角形の3辺を通ります。この場所はもと吉津屋町内でしたが、吉津屋町から鍛冶町が独立したので「鍛冶町門」とも呼ばれました。町屋御用水は、町屋川の水源からこの見附のところまで開削水路でしたが、ここからは地下水路となっていました。
18)七つ屋橋跡
吉津屋見附を越えますと、桑名市内の東海道では初めて、堀に架けられた橋を渡ります。それが七つ屋橋です。横幅は3間3寸(約5.5m)、長さは4間1尺2寸(約7.6m)の石でできた橋でした。現在は、堀も橋もありません。ちなみに、現在、七里の渡し跡に建っている常夜燈は元々ここに置かれていたものです。
19)鍛治町常夜灯
鍛冶町の七津屋橋の近く、東海道北側に常夜灯がありました。天保4(1833)年に江戸、名古屋、桑名の人たち241名が寄進して建立された多度神社常夜燈です。しかし、自動車の発展にともない戦後に道路拡張のため、「七里の渡し跡」に移築されました。写真は、七里の渡し跡に移築された常夜灯ですが、台風により倒壊し、その後上部を多度神社から移し現在に至っています。
20)教宗寺
浄土真宗本願寺派。江戸時代には、萱町にある法盛寺の塔頭の1つとして、その境内にありましたが、昭和39(1964)年にここへ移っっています。ちなみに、法盛寺は、もとは三河国矢矧(やはぎ、現岡崎市)にあり、室町時代後期に戦乱を避けて桑名三崎に移って来ました。柳堂阿弥陀寺と称し、長島一向一揆では、本願寺の基幹寺院として重要な位置を占めていました。この戦乱ののち、法盛寺と改称、慶長の町割りで現在地へ移っています。
21)光明寺
山号は瑠璃山。西山浄土宗。開基は不明ですが、室町時代にはすでに本町付近に設立されていたといいます。江戸時代、慶長の町割の時、現在地に移されました。当時の正門は東海道に面していたといいます。ここには、町田武須計(まちだぶすけ)の墓があります。町田は、元桑名藩士で、桑名町の初代町長を務めました。戊辰戦争では、神風隊の隊長として東北各地を転戦しています。立見尚文は実弟です。墓地には、寛政2(1790)年に七里の渡しの渡航船が難破し、その供養塔があります。
22)泡洲崎八幡社
江戸時代以前、この付辺一帯(新町から江場)を泡州崎(あわすざき)と称しました。この八幡社は、元は、一色町付辺にありましたが、江戸時代の町割りの時、現在地に移っています。境内に標示石(道標)があります。元は、新町北端の東海道筋にあったのですが、戦後、現在地へ移っています。「右きやういせみち、左ふなばみち」とあり、天保13(1842)年の建立です。
23)光徳寺
鎮照山凝念院(ちんしょうざんぎょねんいん)と号します。浄土宗。鎌倉時代に「泡洲崎念仏道場」として創建され、天文2(1533)年、智恩院の徳誉上人が荒廃していた道場を再建して、「光徳寺」と名付けたといわれます。明治7(1874)年には、日進小学校の前身「進善学校」がこの寺で開始されました。境内墓地に、萬古焼の祖である 沼波弄山(ぬなみろうざん)の墓があります。
24)十念寺
仏光山九品院(ぶっこうさんくほんいん)と号します。浄土宗。元は朝明寺(あさけでら)といい、朝明郡切畑(現在の三重郡菰野町)にあり、室町時代に桑名(のちの桑名城本丸の地)に移り、慶長町割の際に現在地に移りました。西側道路を隔てた墓地に「森陳明之墓」がある。森陳明は、明治維新の際に桑名藩敗北の責任を負って斬首されています。また、当寺境内に七福神を祀り、11月23日に七福神まつりが行われます。
25)寿量寺
妙延山(みょうえんざん)と号します。日蓮宗。初めは一色町にあり、天台宗で「妙蓮寺」といいいましたが、日蓮宗に改宗し、寺の名称も改めています。江戸時代の慶長の町割りのとき、現在地へ移転しました。旧大黒殿と鐘楼は平成25(2013)年に国登録有形文化財に指定されています。狩野派の絵師・狩野光信の墓があります。狩野光信(1565~1608)は、慶長13(1608)年、江戸城の障壁画を描いた京都への帰路、桑名で病気で亡くなり、当寺に葬られたのです。入口すぐ南側にある小さな五輪塔がそれです。
26)長円寺
大悲山(だいひざん)と号します。浄土真宗本願寺派。もとは真言宗で江場にありましたが、明応5(1496)年、真宗に改宗、江戸時代の慶長の町割りで現在地に移っています。この寺の11世魯繽庵義道(ろこうあんぎどう、宝暦11(1761)~天保5(1834)年)は『久波奈名所図会(くわなめいしょずえ)』『 桑府名勝志(そうふめいしょうし)』(いずれも市指定文化財)などの地誌を著わしています。また、一枚の紙に切り込みを入れるだけで、連続した鶴を折る連鶴を考案し、寛政9(1797)年、『秘伝千羽鶴折形』が刊行され、49種類の連鶴が紹介されています(桑名の千羽鶴;市無形文化財)。
27)報恩寺
真宗本願寺派。もとは江場村にありましたが、ここに移されています。寺内には、竹内文平の墓があります。竹内文平は、号を「篁園」といい、桑名町長を務めるかたわら郷土の文献や書画を集めました。
28)七曲見附跡
桑名城下南端の見附であり、門(木戸)と番所がありました。ここは、七里の渡しから東海道を7度曲ってきたところであることから「七曲り」と称しました。門は、「七曲門」とも「釘貫門(くぎぬきもん)」ともいいます。門を出ると、道は枡形に曲折していました。跡地は、現在の日進小学校の一部と、桑名市消防団第一分団車庫付辺です。
29)廣瀬鋳物工場跡
桑名藩初代藩主本多忠勝公は、城の建設などのため、鋳物師を桑名に招き、地代を免除するなど優遇しました。廣瀬氏もその一人で、ここに土地を与えられ、そのため、この付近は「鍋屋町」と呼ばれています。文政9(1826)年、シーボルトがここを通り、工場を見学したことがシーボルトの日記に記されています。戦災後、工場は移転し、現在は、個人住宅となっています。
30)天武天皇社
壬申の乱(672年)のときに大海人皇子(のちの天武天皇)が、「桑名郡家」に宿泊されたことにちなみ、のちに創建されました。ただし、桑名郡家の場所は、分かっていません。「郡家」は「ぐんけ」「こおりのみやけ」「ぐうけ」などと読み、各郡に置かれた役所のことです。もとは、新屋敷(天武天皇御足洗井の所)にあったといわれますが、寛永12(1635)年、新屋敷を武家屋敷としたため、鍋屋町南側に移転しています。のち、鍋屋町北側の現在地に移りました。天武天皇・持統天皇(天武の皇后)・高市皇子(天武天皇の子)を祀っています。天武天皇を祭祀する全国唯一の神社です。
31)本願寺跡・梅花仏鏡塔・句碑
御影山(みえいざん)と号します。西山浄土宗。第二次大戦の戦災で建物や記録が焼失したため、由緒などは不詳ですが、室町時代に天台宗の寺として創建されたといいます。現在は、廃寺。江戸時代は、このあたりに本願寺村があり、古くから巨刹であったと思われます。境内に梅花仏鏡塔(ばいかぶつかがみとう)と句碑(桑名市指定史跡)があります。梅花仏鏡塔は、各務支考(1665~1731)の分骨墓です。支考は、美濃の人で、松尾芭蕉について俳句を学び、美濃俳壇の中心人物となりました。本願寺の当時の住職雲裡坊は、支考の俳諧の弟子で、「間遠社(まどおしゃ)」という俳句結社を結成していました。支考が亡くなったとき、雲裡坊は分骨を受け、この鏡塔を建立しています。形が円形なのは、支考の姓「各務=鏡」にちなんでいるからです。周囲の句碑は、間遠社歴代社長のもの。
32)一目連神社
一目連神社は、多度大社の別宮で、天目一箇命を祀ります。天目一箇命は、古くから金属工業の神として知られ、鍛冶や鋳物を生業とする人から信仰を集めました。鍋屋町には、鋳物師が多く住んでいたことから、勧請されたと思われます。境内には、徐風庵の句碑「名いろいろ定まる夏の木げ 可南」があります。また、神社から道路の向かい側には、明治20(1887)年建立の道標があり、「左 東海道渡船場道、右 西京伊勢道」と刻まれています(この道標、元は、道路の反対側にありました)。
33)明円寺
山号は瑞瑋山。真宗大谷派。開基は不明ですが、戦国時代に香取(桑名市多度町)の安田空明の家臣・伊藤孫右衛門が出家して再興したといいます。
34)教覚寺
真宗本願寺派。文明3(1471)年、深谷部の地主・紀伊氏の一族紀伊直行が出家して正玄と名乗り、町屋に道場を開いたのが始まりといいます。道場は一時東方に移りましたが、江戸時代、現在地に戻っています。
35)善西寺
山号は走井山。真宗本願寺派。戦国時代、矢田城の城主・矢田俊元(としもと)は、織田信長と戦って亡くなりましたが、その孫・俊勝(としかつ)が出家してこの寺を建て、祖父の法号をとって寺号にしました。
36)矢田立場
慶長の町割の当時は、城下外の矢田村でしたが、東海道に面して家並が続き、旅人の休息する茶店が多く、矢田町となりました。現在は、国道1号線に分断されたため、東西に分れました。東矢田町は、戦災でほぼ全焼、西矢田町は、戦災を免がれ、連子格子の家も見られ、街道の面影を残しています。竹内家には馬をつないだ環が道路に面して残っています。ちなみに、旅人が休憩する所を「茶屋」といいましたが、景色のよい所や、宿場と宿場の中間に数軒まとまった茶屋を「立場」と呼びました。
37)火の見櫓跡
矢田町から福江町に曲がる角には火の見櫓がありました。この先の福江町も矢田立場の続きです。ここに、現在ある火の見櫓は、文政8(1825)年、町方からの願いによって建てられたものを東海道宿駅制定400年を記念して、平成3(1991)年に復元したものです。馬道への分岐点には、新たに木戸が設けられた様子が城下絵図には描かれています。現在、博物館の前に移設されている道標は、ここに建てられていたと推定されています。
38)神戸岡神社
縁起は不詳ですが、この付近には伊勢神宮の領地があり、古地図には「神戸岡」とあります。『伊勢国風土記』には、この付辺を桑名神戸と称したとあるそうです。明治28(1895)年、立坂神社に合祀されましたが、昭和35(1960)年に現在地に再建されています。
39)了順寺
桑部山と号します。真宗本願寺派。戦国時代の桑部城主・毛利秀重(ひでしげ)の 孫・秀元(ひでもと)が出家して、元和7(1621)年に創建した寺。山門は 桑名城の門を移したものといわれています。現在の建物は、明治35(1902)年の建築で、戦災を免がれ、東海道筋に昔ながらのたたずまいを残しています。境内墓地には、間遠社三世春亭裏鏡(しゅんていりきょう)の円筒形の墓があります。
40)江場松原跡
東海道は、七里の渡し跡から大福村までは、両側に家並が続いていましたが、大福村を過ぎて江場安永にかけては両側には家はなく、松並木となっていました。松並木を通して両側とも眺望が秀れ、東は伊勢の海が見られ、西には鈴鹿の山脈が遠望されたといいます。松並木は、昭和34(1959)年の伊勢湾台風の頃まで残っていましたが、現在は一本の松もなく、家並となり、一部は桑名金属工業となっています。
41)城南神社
城南神社は、江戸時代までは「神明宮」と呼ばれていましたが、明治41(1908)年、旧城南村各字の神社を合祀して城南神社と称しました。倭姫命が、伊勢神宮の鎮座地を求めて巡行されたとき、ここに立ち寄られたという伝承があります。伊勢神宮の遷宮ごとに皇大神宮(内宮)の一の鳥居、占殿舎の一部を下賜されて、御木曳きが行われます。境内手水鉢には嘉永4(1851)年の銘があります。なお、合祀された各社は昭和30(1955)年に旧社地に分祀されました。
42)晴雲寺
清浄山と号します。真宗大谷派。大永2(1522)年、東城(現在の九華公園付近にあった)の城主・伊藤武左衛門の一族の明西(めいさい)が、一族の菩提を弔うために建てた寺です。江戸時代、江戸に向かう諸大名などは、当寺に立ち寄って衣服を改めてのち、桑名城下に入ったといいます。現在の本堂は、明治27(1894)年の建築です。戊辰戦争の際、慶応4(1869)年、赤報隊の一部である滋野井隊がこの寺に宿泊し、「偽勅使」として捕縛されています。
43)安永立場
安永は、東海道筋であるとともに、町屋川を利用した舟運の舟着場でしたので、通行客を相手とする茶店が多くあり、安永立場といわれました。ここでは、当時、名物として「安永餅」が売られていましたが、現在は、このあたりに安永餅を売る店はありません。しかし、料理屋「玉喜」、「すし清」が茶店の名残りであり、両店とも藤の花が見事です。なお、東海道筋には江戸時代の家も見られます。
44)伊勢両宮常夜灯・里程標
伊勢両宮常夜燈は、文政元(1818)年、東海道の道しるべと、伊勢神宮への祈願を兼ねて、桑名や岐阜の材木屋によって寄進されたものです。江戸時代の東海道は、ここから町屋川に進み、対岸の縄生(なお)までかけられた板橋を通りました。常夜灯の横にある里程標は、明治26(1893)年の建立です。里程標には、町屋川の中央から北が桑名郡であること、三重県庁及び桑名郡役所までの距離が刻まれています。三重県庁までは、11町3里余(約47km)です。
45)町屋橋跡
江戸時代の町屋川は、川幅が232間余(約420m)あり、寛永12(1635)年に初めて橋がかけられました。江戸時代中頃は、中洲を利用して大小二つの橋に分れていました。嘉永5(1852)年の架橋では、184間(約334.5m)、幅10尺(約3m)、中央は馬が待避できるよう部分的に広くなっていました。昭和8(1933)年、国道1号線にかかる町屋橋が、やや下流にできたため旧橋は廃止となっています。ちなみに、現在の町屋橋は、平成元(1989)年に架け替えられたものです。
5.参考資料
- 五街道ウォーク・八木牧夫(2014):ちゃんと歩ける東海道五十三次-袋井宿~京三条大橋-.山と渓谷社.
- 風人社編集部(2015):ホントに歩く東海道第12集-桑名~庄野(井田川)-.
- 桑名市総務部文化課(編)(2016):くわな史跡めぐり.桑名市.
- 桑名市教育委員会(編)(1991):志るべ石-桑名史跡巡り-.桑名市教育委員会.
- 桑名ふるさと検定実行委員会(編)(2007):桑名ふるさと検定公式ガイドブック 桑名のいろは.桑名商工会議所.
- 西羽晃(1974):新桑名歴史散歩.新光堂書店.
- 野呂肖生・山川出版社編集部(編)(2002):歴史散歩便利帳.山川出版社.
- 久波奈古典籍刊行会(編)(1977):影印校注 久波奈名所図会 全巻.久波奈古典籍刊行会.
その他、インターネット上の資料を参照を参照しました。











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