九華公園を楽しく歩こう
このウェブページは、平成29(2017)年3月に「九華公園を楽しく歩こう」と題してつくった「パネル展示」をもとにしてあります。この「九華公園を楽しく歩こう」は、当時、九華公園の指定管理者であった株式会社KMI桑名のご協力、ご理解をいただいて、九華公園に展示したものです。その内容をもとにウェブページとしてつくりました(必要に応じて、加筆修正をしてあります)。九華公園を散策される際の参考としてご覧いただければ幸いです。なお、写真は、当時のものをとりあえずそのまま使用していますが、撮り直した方がよいと考えています。
1.九華公園の概要
1)概要
JR・近鉄桑名駅から東へ1.5㎞、揖斐川右岸に桑名城跡(三重県指定史跡)があり、現在は九華(きゅうか)公園として整備されています。広さは約7.2ヘクタール(桑名市観光案内サイトによる広さ。桑名市作成の九華公園パンフレットによれば、8.65ヘクタール)。かつて「扇城」と呼ばれ、海道の名城とたたえられた城の面影を残し、たくさんのさくらやつつじ、花菖蒲が植えられ、市民の憩いの場として親しまれています。4月の「さくらまつり」や5月の「金魚まつり」「つつじまつり」、6月の「花菖蒲まつり」など、季節に応じて多彩な催しが開かれます。公園内には、松平定綱(鎮国公)と松平定信(楽翁公・守国公)を祭る鎮国守国神社があります。
2)沿革
明治の廃城ののち荒れる一方であった桑名城旧本丸跡(鎮国守国神社に接する南一帯地域)を、昭和3(1928)年、「楽翁公一百年記念大祭」を期に公園として整備し、「九華公園」と名づけました。戦災等を受けたため閉鎖された旧帝室林野局所管の貯木場を含めた区域を公園敷地として再整備することとなり、昭和23(1948)年11月より手がけて現在に至っています。
九華公園は、「日本の歴史公園100選」の1つに選ばれています。日本の歴史公園100選は、都市公園法施行50周年を記念し、都市公園法施行50周年等記念事業実行委員会によって、平成19(2006)年10月27日に112の公園が選定されました。地域に個性や魅力をもたらす「優れた歴史的・文化的資源を有し、地域の活性化に貢献している歴史公園」を再評価し、その整備を推進することで、観光振興や活力に満ちた地域社会の実現することを目的としています。
平成20(2007)年2月5日には、138の公園が追加選定され、その結果、250の歴史公園が選出されました。三重県では、松阪公園(松阪市)と、九華公園(桑名市)が選ばれています。
九華公園の入り口(扇橋の西)には、「九華公園碑」があります。刻まれた文字は、陸軍中将・福原銭太郎によるものです。福原銭太郎(慶応3(1867)~昭和13(1938)年)は、桑名藩士・福原資英の長男。陸軍士官学校を卒業し、日清、日露戦争に出征。その後、桑名町長、三重県議会議員、長島村長も務めています。碑蔭には、「昭和3年5月建之 桑名町会議員一同」とあります。
3)九華公園の設景(設計)者
九華公園を設計(設景)したのは、小沢圭次郎(おざわ けいじろう:天保13(1842)~昭和7(1932)年)です。小沢は、桑名藩医師・小沢長安の二男として江戸築地の桑名藩下屋敷で生まれ、江戸で医学・蘭学を学び、22 歳のときには長崎へ行き、のちに大坂の緒方洪庵の塾で学びました。幕末の激動期である慶応3(1867)年12 月に江戸から桑名に来ています。明治3(1870)年1 月に上京し、海軍兵学校教官、文部省字書取調掛、東京師範学校長補を経て、明治12(1879)年3月から19(1886)年5月まで東京学士会院書記。職務の余暇に古い庭園を記録し、資料を収集。退職後、さらに庭園研究に励みました。自らも日本式庭園の設計(彼は設景という)を行い、大阪天王寺公園、伊勢内宮・外宮の外苑、ロンドンの日英博覧会などの庭園設計をしています。桑名では、昭和3(1928)年、楽翁公百年祭にともない、旧城内の整備が図られ、小沢が九華公園の設景(設計)を行いました。
4)九華公園の名称の由来
桑名城は、揖斐川に面した平城で、その形から扇城ともいわれました。中国に「九華扇」という扇があり、江戸時代に「九華」を「くわな」と読ませ、扇城とかけていたところから「九華公園」と名付けられたのです。
2.桑名城について
1)桑名城の歴史
この地に初めて城館を構えたのは、伊藤武左衛門です。それは、元亀以前といわれ、東城と称しました。文禄年間(1592~96年)に、豊臣秀吉の家臣・一柳直盛が城郭を築き、桑名城と称しています。慶長6(1601)年、徳川四天王の一人・本多忠勝が入城、修築を行い、天守・三之丸などを完成させました。忠勝は、同時に桑名の町割にも着手し、城下町が形成されました(慶長の町割)。5代藩主松平定綱のときには、「海道の名城」といわれた。元禄14(1701)年、7代藩主松平定重のとき大火により、天守・二之九・三之丸などを焼失、その後、天守は再建されませんでした。
明治4(1871)年の廃藩置県後は、城内の遺構は取り払われ、城石は、四日市港防波堤資材となり、堀は改変せられて貯木場(帝室林野局)、御殿及び本丸の一部は東洋紡績工場(現・柿安他)となりました。昭和3(1928)年、松平定信没後百年を記念し、旧桑名町により本丸・二之丸跡が整備され、九華公園となっています。
2)桑名城の規模
松平定重転封当時(明暦3(1657)年)の「城廓引渡帳」には「櫓数51(三重櫓3、二重櫓24、附櫓24)、多門12、門46(内舟入門1、埋門2) 井戸14、水門3、武具蔵9」と記されています。桑名城の総構(そうかまえ)は、揖斐川の水を利用し、赤須賀門より伊賀町、柳原、新屋敷、伝馬町(七曲り)から、鍋屋町を経て北折、一色町、三丁掛より寺町、太一丸を流れて、住吉へ注ぐクリークから成っていました。桑名城の特徴は舟入門で、水城であるということです。
この写真は、九華公園の入り口に掲げられた「桑名城絵図」です。正保年間(1644~48年)に作成された絵図の一部をもとにしています。これを見ると、「扇城」と呼ばれる所以がよく分かります。
3)歴代桑名藩主一覧
| 代 | 襲封 | 藩主名(生没年) | 備考 | |
| 初代 | 慶長6(1601)年 | 本多家 | 本多忠勝(ほんだただかつ:1548~1610年) | 徳川四天王の一人。慶長の町割を行った |
| 2代 | 慶長14(1609)年 | 本多家 | 本多忠政(ほんだただまさ:1575~1631年) | 息子・忠刻と千姫が結婚。元和3(1617)年、姫路へ移封 |
| 3代 | 元和3(1617)年 | 久松松平家 | 松平定勝(まつだいらさだかつ:1560~1624年) | 伏見より移封。家康の異母弟、長島兼涼 |
| 4代 | 寛永元(1624)年 | 久松松平家 | 松平定行(まつだいらさだゆき:1578~1668年) | 町屋御用水をつくる。寛永12(1635)年、伊予松山へ移封 |
| 5代 | 寛永12(1635)年 | 久松松平家 | 松平定綱(まつだいらさだつな:1592~1651年) | 大垣より移封。桑名城完成 |
| 6代 | 承応元(1652)年 | 久松松平家 | 松平定良(まつだいらさだよし:1632~1657年) | |
| 7代 | 明暦3(1657)年 | 久松松平家 | 松平定重(まつだいらさだしげ:1644~1717年) | 定行の孫で、定良の養子となった。天守閣が焼失。宝永7(1710)年、越後高田へ移封 |
| 8代 | 宝永7(1710)年 | 奥平松平家 | 松平忠雅(まつだいらただまさ:1683~1746年) | 備後福山より移封。この頃、萬古焼創始 |
| 9代 | 延享3(1746)年 | 奥平松平家 | 松平忠刻(まつだいらただとき:1718~1782年) | 宝暦治水が行われる |
| 10代 | 明和8(1771)年 | 奥平松平家 | 松平忠啓(まつだいらただひら:1746~1786年) | 七里の渡し場に鳥居建立 |
| 11代 | 天明7(1787)年 | 奥平松平家 | 松平忠功(まつだいらただかつ:1756~1830年) | 紀州徳川家から養子に入った |
| 12代 | 寛政5(1793)年 | 奥平松平家 | 松平忠和(まつだいらただとも:1759~1802年) | 忠功の実弟、紀州徳川家から養子に入った |
| 13代 | 享和2(1802)年 | 奥平松平家 | 松平忠翼(まつだいらただすけ:1780~1821年) | 越後与板藩から養子に入った。藩校進脩館設立 |
| 14代 | 文政4(1821)年 | 奥平松平家 | 松平忠堯(まつだいらただたか:1801~1864年) | 文政6(1823)年、忍へ移封 |
| 15代 | 文政6(1823)年 | 久松松平家 | 松平定永(まつだいらさだなが:1791~1838年) | 白河より移封。定信の子 |
| 16代 | 天保9(1838)年 | 久松松平家 | 松平定和(まつだいらさだかず:1812~1841年) | |
| 17代 | 天保12(1841)年 | 久松松平家 | 松平定猷(まつだいらさだみち:1834~1859年) | |
| 18代 | 安政6(1859)年 | 久松松平家 | 松平定敬(まつだいらさだあき:1846~1908年) | 美濃高須藩から養子に入った。京都所司代に就任。戊辰戦争では旧幕府方として戦う |
| 19代 | 明治2(1869)年 | 久松松平家 | 松平定教(まつだいらさだのり:1857~1899年) | 定猷の子、定敬の養子となる。版籍奉還で藩知事となった |
| 明治4(1871)年 | 廃藩置県 |
4)松平越中守家(久松松平家)の系図
これは、松平越中守家(久松松平家)の系図です。鎮国守国神社に掲示されていた系図からお借りしました。
3.桑名城の遺跡
1)桑名城天守台跡
桑名城天守閣が建っていた址で、三重県指定史跡です。松平定綱公の寛永年間(1635~1651年)に城郭が完成し、「海道の名城」と讃えられていました。しかし、元禄14(1701)年2月、城下より発した猛火に襲われて城も焼失しています。天守閣は、その後再建されることなく、明治時代、廃城に到りました。現在の石組みは、昭和53(1978)年5月に、「楽翁公没後150年記念大祭協賛事業」の一環として、新しく巨石を入れて献備したものです。
2)辰巳櫓跡
桑名城本丸の東南角(辰巳の方角)にあり、三重櫓でした。元禄14(1701)年、天守閣が焼失し、再建されませんでしたので、以後は、この辰巳櫓が桑名城のシンボル的存在でした。そのため、戊辰戦争に敗れたとき、降伏の印として新政府軍に焼き払われています。現在、大砲が置かれていますが、その由来は不明です。『桑名の戦争遺跡』によれば、この大砲は、幕末期に製作された国産の大型様式カノン砲で、軍艦または砲台に備え付けて使用されていたものではないかといいます。
3)神戸櫓跡
桑名城本丸未申の方角(北西)にあります。この櫓は、文禄の頃(1592~1596年)、一柳直盛が城主となる城郭がこのあたりに築かれ、その際、伊勢神戸城の天守を移したといわれ、通称「神戸櫓」と呼ばれました。江戸時代中期には、減失したといいます。
4)奥平屋敷跡石垣
奥平屋敷跡の東面と南面には石垣が残存しています。水面に出ている部分は、後世に積み直されている様子が見られるといいます。
5)二の丸堀石垣礎石
九華公園の西外側の遊歩道沿いには、二の丸堀石垣礎石があります。これは、平成10(1998)年に実施された発掘調査で出土したものです。
6)刻印石
管理事務所の東あたりに多数の刻印席があります。城の石垣の石にはさまざまな文様や記号が刻まれており、これを「刻印」といいます。刻印は、築城に関わった関係者による家紋、家印、符丁、石の産地などを示したものです。九華公園にある刻印石に刻まれた刻印は、桑名城の建設に関わった石工のものと思われます。
7)奥平屋敷跡
堀に浮かぶもっとも西の島を「奥平屋敷跡」と呼びます。かつて、内曲輪の南に桜門があり、その南にはこの門を守る重臣(奥平家)の屋敷がありました。幕末には、奥平八郎左衛門が住んだため、通称「奥平屋敷」と呼ばれていました。
なお、ここに立つ「奥平屋敷由縁の記」には、別の見解が示されています。この「由縁の記」は、昭和61(1986)年11月に桑名ライオンズクラブと行田ライオンズクラブの友好提携十周年記念として建てられました。そこには、「奥平屋敷と呼ばれるに至ったのは、桑名藩3代藩主・松平定勝公夫人(碑には、「松源夫人奥平氏」とある)が隠棲した故事に因む」という内容が記されています。「由縁の記」には、「この二の丸の一郭を奥平屋敷と呼ぶ」とありますが、この場所は、二の丸跡ではなく、上記のように奥平八郎左衛門屋敷の跡とされますから、この見解は誤りであるというのが通説です。
8)精忠苦節碑
戊辰戦争で新政府に対抗した桑名藩の責任を一身に負って切腹した藩士・森陳明を讃えた碑です。明治23(1890)年に建立されました。もとは九華招魂社の傍に建てられていたのですが、時計塔のところに移設されています。小山生武(桑名藩士・漢学者)謹撰並書、松平定敬篆額で、「故桑名藩士森君殉難旌節之碑」とあります。森陳明(もりつらあき:文政9(1826)~明治2(1869)年)は、藩主・松平定敬が京都所司代であったときには公用人筆頭として、朝廷や諸藩との外交責任者を務めています。戊辰戦争の責任をとって、明治2(1869)年11月江戸藩邸において斬首されました。
碑文は次の通りです:
明治廿二年二月十一日勅命煥発大赦天下而故桑名藩士森君與焉同郷士民感激不已乃相謀建碑于桑名城址之招魂社側以旌君之忠節君諱陳明通称弥一左衛門桑名藩世
臣也元治慶応之際藩主松平晴山公奉職于京師君輔公周旋盡力于朝廷既而戊辰之事起桑名藩亦獲罪及事平朝廷問罪首君奮當之従容伏刑于東京時年四十四葬東京深川霊岸寺塋域實明治二年己巳十一月十四日也旧藩士民莫不悼惜抑元和寛永以来桑名藩養士二百有余年一旦臨其難君以一身贖闔藩之罪使其君臣血食不断則如君者豈可不謂烈丈夫乎哉宜矣同郷士民之追悼欽慕弥久而弥不巳也先是明治十五年晴山公樹碑于君之墓上今茲公又應同郷士民之請親題碑額曰誠忠苦節以表之嗚呼可謂君死而有余栄矣頃日桑名父老諸君託正武以碑文正武辞謝而不許乃據父老諸君之所傳及旧藩主家文書謹叙森君晩節之要領云
9)輪違い灯籠
九華公園開設当時から残る灯籠といいますが、詳細は不明です。灯籠側面には、「製作人 岡崎市 小林秋三郎」とあります。
10)本多忠勝公銅像
桑名藩初代藩主で、近世桑名城を建設し、桑名の町割(慶長の町割)を行った本多忠勝公の銅像が、三の丸跡につくられた吉之丸コミュニティパーク入り口にあります。本多忠勝公は、徳川四天王の一人です。徳川四天王とは、徳川家康の側近として仕え、江戸幕府の樹立に功績を立てた酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人の武将をいいます。
4.九華公園の文学碑
1)土生暁帝句碑
土生暁帝(はぶぎょうてい:1902~1989年)は、三重県度会郡滝原町に生まれ、小学校教員、警察書記官を歴任しています。昭和46(1971)年より俳誌「揖斐」(1971-1978)(揖斐くらぶ)を主宰。句碑には、「松籟も さくら吹雪も 濠を越す』という句があります。この句碑は、揖斐俳句会が昭和59(1984)年4月に建立。
2)葛山たけし句碑
葛山(くずやま)たけしは、桑名の材木商で、山口誓子に師事していた。句碑には、「大河越え 尾張にひびく 祭太鼓」という句が刻まれている。句碑は、昭和59(1984)年7月、天狼支部、八風俳句会、あやめ俳句会により建立されました。
3)水谷一楓の歌碑
水谷一楓(みずたにいっぷう)は、明治37(1904)年6月生まれで、桑名市大福の人。平成4(1992)年没。昭和2(1927)年4月、歌誌「金雀枝(えにしだ)」を創刊し、主宰。歌碑には、「城址乃 松を深めて 出し月に 遊べる船は 灯りを消しにけり」とあります。この歌碑は、「金雀枝」創刊50周年を記念し、昭和51(1976)年に建立されています。
4)楽翁公歌碑
松平定信(楽翁公)が老中を辞めたときに詠んだといわれる「朝落花 朝附日さすもしずけき梢よりのどけさそえてちるさくらかな 凮月」という歌が刻まれている。散りゆく桜の花を見て、朝の明るい光線のなごみをうけたのどかな美の発見が読まれています。昭和49(1974)年5月に、久徳高文氏が献進したもの。松平定信は、江戸時代中期の大名、老中で、桑名藩第15代藩主・定永は、定信の長男です。
5.九華公園の戦争遺跡
1)戊辰殉難招魂碑
「戊辰殉難招魂碑」は、桑名城天守台跡地に、戊辰戦争の犠牲者を追悼して、明治20年(1887)年12月に建てられたものです。松平定敬撰并書で、鋳物師は、広瀬与左衛門です。
右面には「忠哉義哉桑名士民守節取義各殉其難郷党追慕建碑招魂(忠ナルカナ義ナルカナ。桑名の士民。節ヲ守り義ヲ取ル。其ノ難ニ各ガ殉ズ。故郷ヲ忍ビ碑ヲ建テ魂ヲ招ク)」と、また、左面には「嗚呼忠節永照千春 明治二十年十二月 正四位松平定敬撰并書(アア忠節。永昭千春) 鋳物師 広瀬与左衛門 造之」とある。
2)記念碑建詮義梢者姓名碑
「戊申殉難招魂碑」建立に際しての義捐者名414人の氏名が刻まれています。佐治為政謹書、石工は根来市蔵です。
3)九華招魂社手水石
戊辰戦争の際、柏崎で編成された「致人隊」が寄進した舟形の手水石が、九華招魂社の参道にある。正面舳先に致人隊と刻まれ、その下に隊長松浦正明(秀八)以下52名の氏名と隊外者1名、運送寄付者3名の氏名が刻まれていますが、風化により非常に不鮮明になっています。「致人隊」は、戊辰戦争の際、柏崎で編成された桑名藩の戦闘部隊の1つです。
4)九華招魂社入り口石柱
西側の柱表面には「盡忠報国」、東側の柱表面には「義勇奉公」と刻まれていたようですが、容易には読めないように字面が削られています。西側柱の裏面には「支那事変記念 昭和十四年十月」、東側柱裏面には「本町貝新 二代目 水谷新兵衛」と刻されています。
5)九華招魂社灯籠
九華招魂社の参道に左右一対で設置されています。正面(南面)に「大砲隊」、裏面に「明治三年庚午三月吉日」と刻まれています。「大砲隊」は、「致人隊」と同じように、戊辰戦争の際、柏崎で編成された桑名藩の戦闘部隊の1つです。
6)九華招魂社奉納物台座
九華招魂社入り口石柱からの参道脇西側に設置されています。正面中央に「奉献」、正面右に「日本海海戦記念」、正面左に「桑名郡海友會」と刻まれているます。この台座の上に何か載っていたか、また撤去の時期やその経緯についても不明です。日本海海戦(にほんかいかいせん、1905年5月27~28日)は、日露戦争中に日本海軍連合艦隊が、対馬沖でロシアのバルチック艦隊を破った戦いです。
7)九華公園辰巳櫓大砲
この大砲が設置された時期や、その経緯については不詳です。鋳鉄製で、正五角形を呈したコンクリート製の台座に載っています。砲尻上部に発射薬に点火するための火口(ほぐち)穴が、確認できます。砲身は、磁北から約70度西に振られた角度で設置され、仰角は約28度です。日本銃砲史学会の調査では、幕末期に製作された国産の大型洋式カノン砲で、軍艦または砲台に据え付けて使用されていたものではないかとされています。
6.鎮国守国神社
1)ご祭神・例祭日
鎮国守国神社の御祭神は、鎭國大明神(松平越中守定綱公)、守國大明神(松平越中守定信公)で、相殿神は、旭八幡大明神(応神天皇・誉田別命)、山末之大明神(日吉大神・大山咋命)、天満天神(菅原道真公)、八天宮(火之迦具土神)です。例祭日は、5月2・3日に金魚まつり、5月13日に当日祭・献茶式(茶道松尾流)、12月25日に御由緒祭があります。
2)由緒
| 年 | 事項 |
| 元和6(1620)年 | 旭八幡社を松平定綱(1592-1651)が桑名に勧請。旭八幡社は、松平氏祖先(尾張国知多郡坂部村八幡社)の産土神 |
| 寛政9(1797)年 | 定綱・鎭國大明神の神号を裁許 |
| 天明4年(1787) | 松平定信(1758-1829)が白河城内の祖廟に定綱を奉祀 |
| 文政7年(1824) | 松平定永のとき、白河から桑名に複封にともない桑名城内に造替 |
| 天保4年(1833) | 松平定永が、定信の霊を守国霊神として旭八幡社に祀る |
| 安政2年(1855) | 定信・守國大明神の神号を裁許 |
| 明治8年(1875) | 村社となる |
| 明治12年(1879) | 内務省貯木場設置で社地収用、吉之丸49番地に移転 |
| 明治13年(1880) | 県社となる 鎭國大明神・守國大明神を主神とする |
| 明治40年(1907) | 現在地に移転 |
| 大正9年(1920) | 現本殿造替(大正期:狛犬、灯篭、鳥居寄進) |
| 昭和39(1964) | 拝殿玉垣整備、昭和41年(1966)参道玉垣整備 |
3)九華招魂社
御祭神は、桑名藩領内殉難護国之英霊です。明治9(1876)年に奉祀建されています。元治甲子明治戊申を初め、大東亜戦争までのすべての戦役の郷土桑名出身の戦没者を祀っています。例祭日は、4月第3日曜日に春季大祭、7月第3日曜日にみたま祭、10月第3日曜日に秋季大祭がおこなわれます。
4)鎮国稲荷社
御祭神は、正一位稲荷大明神(倉稲魂神)です。藩祖松平越中守定綱公が、本城鎮護稲荷大明神と称し、勧請しました。その後、二十四柱の稲荷大明神を合祀しています。例祭日は、4月3日です。
5)高靇神社(たかおかみじんじゃ)
ご祭神は、高靇神(龍神・水神)です。藩祖松平越中守定綱公が、本丸に一井を堀り、高靇神を崇め、本城鎮護・延命長寿、子授け・子育てを願って奉祀したものです。例祭日は、11月15日です。
6)九華天神 神牛像
「神牛像献進会」によって、久松松平家の祖神天満天神を相殿に奉祀するところから、昭和天皇の御賀齢を寿ぎ、ご生誕の日を卜して奉納されたとあります。昭和60(1985)年4月29日に建立。
7)楽翁公百年祭記念宝物館
松平定信(楽翁)公を顕彰する記念宝物館です。昭和3 (1928)年の「楽翁公没後百年記念祭」を契機に、昭和9(1934)年に完成しました。その後、昭和33(1958)年に改修されています。「集古十種板木」(国指定重要文化財)を初め、定綱及び定信を中心に収集した遺品千数百点を所蔵しています。毎年5月2~3日の大祭日に一般公開されます。建築面積86㎡、鉄筋コンクリート造2階建て、寄せ棟造、桟瓦葺、正面に切妻破風を飾る。外壁は洗出し仕上げで、1階を石積風とし、2階は柱や長押型を表現するなど、和風の意匠を加味しています。登録有形文化財(第24-0071号)に指定されています。
8)鎭国守国神社の文化財
重要文化財:集古十種版木、三宝類聚名義抄(蓮成院本)
三重県指定有形文化財:絹本着色松平定信像
桑名市指定有形文化財:松平家御胴丸鎧(保国公所用之鎧)、脇差 銘来国光、松平家御胴丸鎧(不動利剣之鎧)、刀金象嵌銘和泉守兼定 鳴神、松平家御具足(紺糸縅五枚胴具足)、松平家御具足(熊毛皮張二枚胴具足)、象牙製字さし(松平定信所用)、谷文晁筆木製絵馬曳駒図、徳川家斉筆光格天皇御製漢詩
桑名市指定無形民俗文化財:詩かるた (通称:けんかかるた)
江戸時代の桑名藩の藩校が、子どもたちに戦場での心構えを教えようと始めたもので、取った札を座布団の下に隠すまで横取りできるのが特徴。毎年1月5日に大会が開かれます。
登録有形文化財(国登録):楽翁公百年祭記念宝物館
9)石造鳥居
元桑名藩士・高木貞作が 大正 10 年(1921年)5 月に寄進したもの。高木貞作は、嘉永元年(1848年)11月23日、桑名元赤須賀生まれ、昭和8年(1933 年)1月14日、東京府玉川村(現在の東京都世田谷区)で亡くなっています。墓は、桑名・法盛寺にあります。服部半蔵と酒井孫八郎のいとこ。慶応 4 年(明治元年、1868 年)閏4月3日、山脇隼太郎とともに、桑名藩家老吉村権左衛門宣範を越後柏崎の路上で暗殺。その後二人は新選組に所属し、五稜郭の戦いに参戦し、敗北。アメリカ留学を経て、商法講習所(現在の一橋大学)の創設に参加、助教授として商業簿記を講義しました。明治11(1878)年以降、第十五国立銀行(現在の三井住友銀行の前身の一つ)、横浜正金銀行(現在の三菱東京 UFJ 銀行)に勤務。
10)灯籠
桑名城旧天守台跡の南に一基が置かれています。金属部分には、「奉燈 報国社 寄附(?)」 「製造人 内山治助 辻内周吉 明治廿一年戌子十一月」と記されています。台座には、「奉納」と記されています。九華招魂社参道脇にこれの対になると思われるものが、壊れた状態で置かれています。詳細は不明です。
7.九華公園のまつり
1)さくらまつり
九華公園には、ソメイヨシノ、しだれ桜、山桜など約450本があり、毎年4月1日~15日に「さくらまつり」が開催されます。さくらまつりの期間中は、午後9時30分まで夜間ライトアップが行われますし、堀めぐりの船も運航されます (桜の開花状況によって変更されます)。
2)つつじまつり
公園内には、約550本のつつじ(ヒラドツツジ、オオムラサキツツジ)があり、4月下旬より咲き、楽しめます。毎年5月1日~15日にはつつじまつりが開催されます。
3)花菖蒲まつり
公園内には3つの菖蒲園(820平方メートル)があり、約4,000株の花菖蒲(伊勢系、肥後系、江戸系)が咲き誇ります。花菖蒲まつりは、6月1日~15日に開催されます。
4)金魚まつり
毎年5月2日、3日の両日、鎮国守国神社にて金魚まつりが開かれます。両日とも、氏子各町からいろいろな形の金魚の御神輿が出され、子供らに担がれて練り歩きます。2日(試楽)は各町練り、3日(本楽)は正午から神社に順番に20数基の御神輿練り込み参拝をします。境内には金魚の露店をはじめ多くの店が並び、午前中から夜まで賑います。
8.その他
1)上皇陛下ご生誕記念植樹
昭和8(1933)年12月23日の 上皇陛下のご生誕記念に植樹されたクスノキがあります。本丸跡西側、鎭国守国神社鳥居脇にあります。
2)九華公園散策マップ(第3版)
桑名歴史案内人の会が2015年に作成した「九華公園散策マップ」です。
3)現代と正保年間の桑名城付近の対比図
桑名市教育委員会(1983)が発行した『目で見る桑名の江戸時代(桑名市立文化美術館)』に掲載された対比図です。ここでの「現代」とは、1983年ころをいいます。
9.参考資料
1)桑名市教育委員会(1983):目で見る桑名の江戸時代.桑名市立文化美術館.
2)桑名市総務部文化課(編)(2016):くわな史跡めぐり.桑名市役所.
3)桑名市都市整備部都市計画課:九華公園パンフレット.
4)桑名ふるさと検定実行委員会(編)(2007):桑名ふるさと検定公式ガイドブック 桑名のいろは.桑名商工会議所.
5)桑名歴史案内人の会(2015):九華公園散策マップ(3版).郡義武(2009):桑名藩.現代書館.
6)しるべ石勉強会(編)(2012):桑名の戦争遺跡.
7)西羽晃(1974):新桑名歴史散歩.新光堂書店.
8)西羽晃(2001):郷土史を訪ねて.
9)野呂肖生・山川出版社編集部(編)(2002):歴史散歩便利帳.山川出版社.
その他、インターネット上の資料を参照しました。











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