お知らせ

  • データの移行について
    2005年10月26日のブログ開始当初から、2024年10月31日までの記事は、「猫の欠伸研究室(アーカイブ)」に移行しました(http://blog.livedoor.jp/taichimaru151/)。 このココログの「猫の欠伸研究室」には、2019年1月以降の記事を残し、2018年12月以前の記事は削除しました(2019年1月1日から2024年10月31日までの記事は、両方にあります)。

レンズを通した自然観察

  • この「レンズを通した自然観察」ということばは、恩師のお一人が、私の趣味を形容しておっしゃったものです。2023年2月7日のブログに書きましたが、実はときどき思い出していることばです。お世話になった先生方はたくさんいらっしゃいますが、この恩師は、就職のことから学位論文の執筆、審査に至るまで本当にお世話になった先生です。「写真の撮り方を指南してもらいたい」ともおっしゃったのですが、これはお世辞と理解しています。私はほぼ隠居状態となって10年以上になりますが、今、改めてこのことばをかみしめています。この先生には結婚式の際に「理論と臨床をつなぐ仕事をするように」ということばをいただきました。体調を崩してそれには十分に応えられませんでしたので、せめてこの「レンズを通した自然観察」については、極めるとまでは行かないにしても、もう少し精進したいと考えています。

最近のコメント

ブログ名の由来

  • ブログ名の「猫の欠伸研究室」は、中日新聞の夕刊に連載されている「紙つぶて」というコラム(平成22(2010)年1月13日)に、元新党さきがけ代表の武村正義さんが書いていらっしゃった「人生は猫の欠伸である」というコラムによります。武村さんは、“チベットで鳥葬を取り仕切る僧侶が、「人の生涯は猫の欠伸のようなもの」と語った”と書いていらっしゃいます。「猫の欠伸のようなもの研究室」としたかったのですが、ちょっと間延びしますので、「猫の欠伸研究室」とした次第です。「研究室」とつけたのは、過去、大学に勤めていたことがあるということやら、知らないこと、分からないことがあると何でも調べずにはいられない性分であること、屁理屈、講釈が大好きであることからであります。しかし、「人生の研究をしている」のではありません。「大所高所」からのご高説を開陳できるほどの力量はないが故、「小所低所」からの戯れ言をつぶやくのが精一杯(苦笑)。身の程に合わせ、勝手なことを書き綴っていますので、御用とお急ぎでない皆様には、今後ともご交誼のほど、お願いいたします。是非ともコメントを頂戴し、少しでも世間を広げたいと熱望しております。

モットー

  • 座右の銘というほど立派なものはありませんが、過去に体調を崩し、療養生活を送った経験から、私なりのモットーをつくっています。その一つは、「淡々と飽きもせず……」です。自分では、「……」と余韻を残しているところが気に入っています。こだわりすぎや、やり過ぎはよくありません。若い頃はムキになってやったこともありますが、今はこのように「淡々と飽きもせず……」が自分に合っていると思っています。もう一つは「晴耕雨読」ならぬ「晴歩雨読」です。マンション暮らし故、耕すところはありません。代わりに歩いています。そして、最近(令和3(2021)年に入った頃から)追加したのが、「散歩生活、ときどき仕事」。NHKのテレビ番組に「晴れ、ときどきファーム!」というものがあります。これのもじり。浅学非才の身ですので、ご交誼の上、いろいろとご教示をお願いします。

JRさわやかウォーキング

2024年10月28日 (月)

20241026JRさわやかウォーキング「亀山の広大な茶畑を歩く」へ(その2)……亀山公園、ますみ児童公園、多聞櫓、石井兄弟敵討遺跡石碑、伊勢亀山 備中松山藩主交替之碑から亀山駅にゴールにて「完」

20241026jrwalkingkameyama2  10月26日(土)に行ってきたJRさわやかウォーキング「亀山の広大な茶畑を歩く」の本編その2です。その1では、JR関西線井田川駅をスタートし、能褒野神社、中の山パイロットまで来ました。中の山パイロットを通り抜けて、アイリス町、亀田町、羽若町と進み、亀山公園に行きます。このあたりもアップダウンがあり、この日、歩くのは大変でした。

Img_6546c_20241027145001 Img_6542c_20241027145001  亀田町に法蔵寺という浄土宗のお寺がありましたので、覗いてみました。由緒書きもありませんし、ネットでもほとんど情報は出て来ません。あるブログには、子育て観音があり、安産祈願もできるとありました。

Img_6569c_20241027145001  この先は、亀山市立医療センターの近くで左折し、南下。羽若町の町中を通って、亀山公園に向かうのですが、狭い町中の道をあちこちぐねぐねと歩きます。途中で2箇所ほど、こういうものがあるのに気づきました。津島神社の御札を祀った祠があるのです。調べてみたら、亀山市歴史博物館こちらのサイトにある天王信仰の風習と関連していると思われます。リンク先の記事の中に、「亀山地区の羽若町の辻天王さんは、疫病が流行った時に子供を守るためにまつった神様だといわれている」とあります。

Img_6582c  くどいのですが、羽若町から亀山公園にいたるあたりも、相当のアップダウンがありました。ヘトヘトになりながら、スタートから9.7㎞ほどで亀山公園の公園池までやって来ました。亀山公園へは、5年前に花しょうぶまつりを見に来ています(2019年6月9日:20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(予告編)……雨にも負けず(苦笑))。このときは、ブログ記事のタイトルにもありますように、雨に降られて大変でした。写真で、右手にある赤い橋の奥が、花菖蒲園になっています。

 Img_6609c_20241026161101 Img_6624c_20241026161101 上の写真の赤い橋を渡って、さらに上った先にますみ児童公園があります。ここには、C58-359という蒸気機関車が保存されています。第二次大戦中の昭和19(1944)年につくられた客貨両用のもんで、昭和45(1970)年に廃車になっています。主に関西線で活躍した蒸気機関車です。

Img_6621c_20241026161101  ますみ児童公園でで11時半頃でしたので、お昼を食べることにしました。亀山駅のすぐ近くには、食事をするところがほとんどありませんので、あらかじめ桑名でコンビニ弁当を仕入れてきたのです。さらに、ここで昼ご飯にするとちょうどよいとも見込んでいました。ファミマの「おむすび&焼きそばセット(税込み¥420)」。最近は、これくらいの量でちょうどよくなりました(苦笑)。

Img_6638c_20241026161201 Img_6645c_20241026161201  11時45分に再出発。旧亀山城のところを通って亀山駅に向かいます。ここには多聞櫓があります。この多聞櫓は、天守台と呼ばれる本丸高石垣上にあり、寛永 9(1632)年頃に築造されたと考えられています。三重県で唯一現存する城郭建造物で、県史跡。何度か内部を見学していますので(2019年6月9日:20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(予告編)……雨にも負けず(苦笑))、今日はパス。多門櫓近くには、亀山神社、亀山演武場、明治天皇行在所旧蹟などがありますが、今回は訪ねていません。以前のブログ記事をご覧ください(2019年6月17日:20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(その3)……雨の中、亀山古城跡、花しょうぶまつり、亀山城多門櫓から亀山神社へ、2019年6月19日:20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(その4)……亀山演武場、明治天皇行在所、いくつかの石碑と姫垣外苑からでころぼ坂を経て亀山駅にゴール(完)

Img_6648c_20241027152201  亀山城址をあとにして、池の側の畔を歩いて行くと、「石井兄弟敵討遺跡石碑」があります。元禄14(1701)年5月9日早朝に、石井源蔵(33歳)・半蔵(30歳)兄弟が、28年目にして父の敵・赤堀水之助を、ここ亀山城石坂門外で討ち取ったことを記念して、昭和7(1932)年に亀山保勝会によって建立されたものです。本懐を遂げた石井兄弟は、旧主の青山忠重に帰参を許されています。当時「元禄曽我兄弟」と称され、歌舞伎、講談、絵本、浮世絵などに取り上げられ、赤穂浪士の討ち入りと並び賞賛されました。

Img_6659c_20241026161201  亀山駅に行く途中、これまで見落としていたものに気づきました。田中病院の前あたりに「伊勢亀山 備中松山藩主交替之碑」というものがあったのです。亀山ライオンズクラブと高梁ライオンズクラブが、平成元(1989)年に建てています。亀山藩主であった板倉勝澄(かつずみ)が、延享元(1744)年、備中松山に移り、石川総慶(ふさよし)が、備中松山から亀山に替わったのです。石川市は、慶安4(1651)年から寛文9(1669)年まで亀山に在城しましたので、75年ぶりに旧領に戻ったことになります。板倉氏とは、2度目の交替だそうです。

Img_6666c_20241026161201  この石碑からもう少し下ったところからも、旧亀山城多聞櫓がよく見えます。この眺めもなかなかのものです。

Img_6674c_20241026161201 Img_6678c_20241026161201  JR関西線亀山駅には、12時頃到着。ゴール受付で、参加ポイントをいただき、12時24分の関西線名古屋行き快速に乗車。四日市から快速になります。桑名駅には、13時8分着、¥680。亀山駅で何か、土産を売っていないかと思ったのですが、今日は何も店は出ておらず(キオスクは、数年前に廃止されています)。3月に来たときには、臨時の販売ブースが出ていて、関宿の銘菓である「志ら玉」を買っています(2024年3月3日:20240303JRさわやかウォーキング「本能寺の変、家康公も通ったと言い伝えのある隠れ古道を歩こう」へ(予告編))。

Screenshot_20241026133016c Screenshot_20241026133025c  左の画像は、スマホアプリの「からだメイト」の記録。右は、同じくGoogle Fitのデータ。歩数は、ほぼ一緒で、22,000歩前後でしたが、歩いた距離は、16.3㎞と、13.7㎞。現地で歩いたのは、10.8㎞+αです。自宅から桑名駅往復は、2㎞あまりですから、やはりGoogle Fitの方が実際に歩いた距離に近いかも知れません。

2024年10月27日 (日)

20241026JRさわやかウォーキング「亀山の広大な茶畑を歩く」へ(その1)……井田川駅をスタートし、能褒野神社、中の山パイロット(亀山茶畑)へ

Img_6258c_20241027123701 Img_6270c_20241027123701  10月26日(土)に行って来たJRさわやかウォーキング「亀山の広大な茶畑を歩く」の本編その1です。当日は、ほぼ曇りの1日です。気温も、18.4~23.3℃とあまり上がりませんでしたが、ちょっと蒸した感じ。桑名駅を8時14分に発車するJR関西線亀山行き普通に乗車。スタートの井田川駅には8時54分着。¥590。案外たくさんの人が下車して、さわやかウォーキングに参加していました。

Img_6267c Img_6272c_20241026161001  いつものように、JRさわやかウォーキングのスタート看板。これを撮影しないと、JRさわやかウォーキングに来た気がしないのです。コースマップを受け取り、9時5分にスタート。

20241026jrjwalkingkameyama 20241026jrwalkingkameyama1  こちらの画像は、実際に歩いてきたルート。全体で10.8㎞ほど。井田川駅をスタートして、みどり町という住宅団地を通って行きます。かなりアップダウンがあり、結構きついコースです。このあとも同様で、キョリ測で見ると、標高60~80mのアップダウンが4箇所ありました。安楽川を越えて能褒野(のぼの)神社へ。少し戻って田園地帯を3㎞ほど歩いて、中の山パイロットという茶畑へ。ここで茶畑を通り抜けるのに約30分。実に広い茶畑でした。亀山公園、旧亀山城多聞櫓を経て、亀山駅へ。右は、少し詳しくしたルートマップその1。

Img_6283c  井田川駅前には日本武尊の石像があります。その向かって右手には、古事記に見える日本武尊の歌「倭は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる倭しうるはし」を刻んだ石碑。「大和は(これまで渡り歩いた国々と比べても)素晴らしい国だ。青く重なり合うように連なった山々に囲まれている大和はとても美しい」といった意味。

Img_6301c_20241026161001  こちらは、亀山市みどり町あたり。井田川駅から国道1号線を越えて、このような上り坂が続いています。歩き始めて早々から、こういう坂道は結構キツいものがあります。国道1号線を越えて少し上ったところを右に入ると、みどり町第4公園があり、そこは井田川茶臼山古墳の跡地。寄って、見たい気もしたのですが、とくに遺構はなさそうでしたので、パス。

Img_6331c_20241026161001  Img_6347c_20241027142101 みどり町を越えて、安楽川を能褒野橋で渡ると、能褒野神社に至ります。ここは、ぜひとも来てみたかったところ。

Img_6366c_20241026161101 Img_6369c_20241027142301  境内は広く、長い参道は神聖な雰囲気を醸し出しています。このあたり一帯には日本武尊の陵墓と伝えられる古墳がいくつかありましたが、明治12(1879)年に「王塚」あるいは「丁字塚」と呼ばれていた前方後円墳(現在の能褒野王塚古墳)が、内務省によって「能褒野墓」に治定されました。その後、地元の有志により日本武尊の遺徳をしのぶため能褒野陵周辺での神社の創建が企画され、明治28(1895)年に社殿が竣工し、神宮祭主・賀陽宮邦憲王より御霊代を拝戴して鎮座祭がとりおこなわれました。

Img_6390c_20241026161101  主祭神は、日本武尊。相殿神は、建貝児王(たけかいこのみこ:日本武尊の妃である穴戸武媛(あなとのたけひめ)が産んだ日本武尊の子という)と、弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと:日本武尊の妃)。

Img_6351c_20241027142501  二ノ鳥居の南に「左 日本武尊御墓参道」という石碑が建っています。事前によく調べなかったのですが、ここを左に向かい、下って回り込むと、日本武尊の陵墓があるようでしたので、行ってみました。ほかの参加者の方でこちらに行く方はほとんどありません。実にもったいない。

Img_6416c_20241026161101  こちらが、「能褒野墓(のぼののはか)」。宮内庁によって、第12代景行天皇皇子の日本武尊の墓に治定されています。実際の被葬者は明らかでありません。全長90mにおよぶ前方後円墳です。古墳の周囲には、大小10数基の陪冢(ばいちょう:円墳)があると考えられ、能褒野神社とその一帯が古墳群となっています。宮内庁の管轄ですので、陵墓の入口は門で閉じられていて、柵越しに古墳を見ます。

Img_6470c_20241026163401 Img_6455c_20241027143401  これで念願が果たせました。こう書くといけませんが、私にとって、コースの残りの部分はオマケ。オマケにしては先が長いのですが……。能褒野橋を戻り、橋を越えたところで右折。田園地帯を、とくに立ち寄るところもなく、約3㎞をひたすら歩いて行きます。ほとんど平坦なところでしたから、歩くのには楽なのですが、立ち寄るところがないというのは、ちょっと苦痛。そういえば、能褒野橋の袂に「まむし注意」という看板があって、少しビビりました。

Img_6478c_20241027143501  スタートから5㎞を過ぎたあたりから、茶畑になります。このあたりから再び上り道になります。けっこうたくさんの参加者がいたのですが、このあたりに来ますと、皆ばらけてしまって、前後を歩く人も少なくなっています。この写真のところについたのが、10時25分頃。

Img_6492c_20241026161101 Img_6496c_20241026161101  この茶畑が、中の山パイロット(亀山茶畑)です。今日は、第26回亀山青空お茶まつりが開催されていました。大きな給水タンクがあるところが、その会場。茶摘み体験、手もみ実演、亀山茶カフェ、電子レンジによるお茶づくり、フォトコンテスト表彰式、農産物販売などが行われていましたが、立ち寄っては来ませんでした。今朝の中日新聞三重版にこのお茶まつりの記事があり、それによれば、「亀山茶の歴史は古く、約1100年前に現在の四日市市水沢町で空海直伝の茶の木が植えられ、そこから鈴鹿山脈にお茶の栽培が広がったとされる」といいます。

Img_6504c_20241026161101 Img_6516c_20241026161101  ここは、本当に広大な茶畑。若い頃、隣の鈴鹿市で働いていましたので、「中の山パイロット」という名前はわずかに記憶があったのですが、これほど広い茶畑とは思ってもみませんでした。初めに書きましたが、この茶畑を通り抜けるのに、約30分を要しました。ルートマップで「中の山パイロット」と書いたあたり一帯が、茶畑なのです。5.5㎞あたりから約2㎞にわたって続いていました。しかも、もっとも高いところで標高80m、低いところで40mというアップダウンが3箇所もあり、参りました。毎日散歩をしてはいますが、ほとんど平坦なところしか歩いていませんから。

 立ち寄るところが少ないので、短い記事ですが、その1はここまで。

2024年10月26日 (土)

20241026JRさわやかウォーキング「亀山の広大な茶畑を歩く」へ(予告編)

Img_6267c  ほぼ曇りの1日です。気温も、18.4~23.3℃とあまり上がっていません。予定通り、JRさわやかウォーキング「亀山の広大な茶畑を歩く」に行って来ました。桑名駅を8時14分に発車するJR関西線亀山行き普通に乗車。スタートの井田川駅には8時54分着。¥590。案外たくさんの人が下車して、さわやかウォーキングに参加していました。今日のところは、予告編。

Img_6272c_20241026161001 20241026jrjwalkingkameyama  コースマップを受け取り、9時5分にスタート。右の画像は、実際に歩いてきたルート。10.8㎞ほど。井田川駅をスタートして、みどり町という住宅団地を通って行きます。かなりアップダウンがあり、結構きついコースです。このあとも同様で、キョリ測で見ると、標高60~80mのアップダウンが4箇所ありました。安楽川を越えて能褒野神社へ。少し戻って田園地帯を3㎞ほど歩いて、中の山パイロットという茶畑へ。ここで茶畑を通り抜けるのに約30分。実に広い茶畑でした。亀山公園、旧亀山城多聞櫓を経て、亀山駅には12時少し前に到着。

Img_6301c_20241026161001  こちらは、亀山市みどり町あたり。井田川駅から国道1号線を越えて、このような上り坂が続いています。歩き始めて早々から、こういう坂道は結構キツいものがあります。

Img_6331c_20241026161001 Img_6390c_20241026161101  スタートから約2.6㎞、9時35分頃に能褒野神社に到着。ここは、ぜひとも来てみたかったところ。主祭神は、日本武尊。相殿神は、建貝児王(たけかいこのみこ:日本武尊の妃である穴戸武媛(あなとのたけひめ)が産んだ日本武尊の子という)と、弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと:日本武尊の妃)。このあたり一帯には日本武尊の陵墓と伝えられる古墳がいくつかありましたが、明治12(1879)年に「王塚」あるいは「丁字塚」と呼ばれていた前方後円墳(現在の能褒野王塚古墳)が、内務省によって「能褒野墓」に治定されました。その後、地元の有志により日本武尊の遺徳をしのぶため能褒野陵周辺での神社の創建が企画され、明治28(1895)年に社殿が竣工し、神宮祭主・賀陽宮邦憲王より御霊代を拝戴して鎮座祭がとりおこなわれました。

Img_6416c_20241026161101  こちらが、「能褒野墓(のぼののはか)」。宮内庁によって、第12代景行天皇皇子の日本武尊の墓に治定されています。実際の被葬者は明らかでありません。

Img_6470c_20241026163401  能褒野神社からは、少し戻って、安楽川を渡り、田園地帯を3㎞ほど進みます。

Img_6492c_20241026161101 Img_6496c_20241026161101  亀山茶畑/中の山パイロットの入り口についたのが、10時25分頃。今日は、第26回亀山青空お茶まつりが開催されていました。大きな給水タンクがあるところが、その会場。茶摘み体験、手もみ実演、亀山茶カフェ、電子レンジによるお茶づくり、フォトコンテスト表彰式、農産物販売などが行われていましたが、立ち寄っては来ませんでした。

Img_6504c_20241026161101 Img_6516c_20241026161101  ここは、本当に広大な茶畑。若い頃、隣の鈴鹿で働いていましたので、「中の山パイロット」という名前はわずかに記憶があったのですが、これほど広い茶畑とは思ってもみませんでした。初めに書きましたが、この茶畑を通り抜けるのに、約30分を要しました。ルートマップで「中の山パイロット」と書いたあたり一帯が、茶畑なのです。5.5㎞あたりから約2㎞にわたって続いていました。

Img_6582c  国道1号線を越えて羽若町の街中を過ぎると、亀山公園に入ります。亀山公園には、5年前に花しょうぶまつりを見に来ています(2019年6月9日:20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(予告編)……雨にも負けず(苦笑))。写真で、右手にある赤い橋の奥が、花菖蒲園になっています。

Img_6609c_20241026161101 Img_6624c_20241026161101  こちらは、ますみ児童公園にあるC58-359。第二次大戦中の昭和19(1944)年につくられ、昭和45(1970)年に廃車になっています。主に関西線で活躍した蒸気機関車です。

Img_6621c_20241026161101  ますみ児童公園で11時半頃でしたので、お昼を食べることにしました。亀山駅のすぐ近くには、食事をするところがほとんどありませんので、あらかじめ桑名でコンビニ弁当を仕入れてきたのです。さらに、ここで昼ご飯にするとちょうどよいとも見込んでいました。ファミマの「おむすび&焼きそばセット(税込み¥420)」。最近は、これくらいの量でちょうどよくなりました。

Img_6645c_20241026161201 Img_6638c_20241026161201  11時45分に再出発。旧亀山城のところを通って亀山駅に向かいます。ここには多聞櫓があります。多聞櫓は、天守台と呼ばれる本丸高石垣上にあり、寛永 9(1632)年頃に築造されたと考えられています。三重県で唯一現存する城郭建造物で、県史跡。何度か内部を見学していますので(2019年6月9日:20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(予告編)……雨にも負けず(苦笑))、今日はパス。

Img_6659c_20241026161201  亀山駅に行く途中、これまで見落としていたものに気づきました。田中病院の前あたりに「伊勢亀山 備中松山藩主交替之碑」というものがあったのです。亀山ライオンズクラブと高梁ライオンズクラブが、平成元(1989)年に建てています。亀山藩主であった板倉勝澄が、延享元(1744)年、備中松山に移り、石川総慶が、備中松山から亀山に替わったのです。石川市は、慶安4(1651)年から寛文9(1669)年まで亀山に在城しましたので、75年ぶりに旧領に戻ったことになります。板倉氏とは、2度目の交替だそうです。

Img_6674c_20241026161201 Img_6678c_20241026161201  JR関西線亀山駅には、12時頃到着。ゴール受付で、参加ポイントをいただき、12時24分の関西線名古屋行き快速に乗車。四日市から快速になります。桑名駅には、13時8分着、¥680。亀山駅で何か、土産を売っていないかと思ったのですが、今日は何も店は出ておらず(キオスクは、数年前に廃止されています)。

Screenshot_20241026133016c Screenshot_20241026133025c  左の画像は、スマホアプリの「からだメイト」の記録。右は、同じくGoogle Fitのデータ。歩数は、ほぼ一緒で、22,000歩前後でしたが、歩いた距離は、16.3㎞と、13.7㎞。現地で歩いたのは、10.8㎞+αです。自宅から桑名駅往復は、2㎞あまりですから、やはりGoogle Fitの方が実際に歩いた距離に近いかも知れません。

 

2024年10月20日 (日)

20241020JRさわやかウォーキング「2つの可動橋と旧みなとまち巡り」へ(一回完結)

Img_5892c_20241020142101  昼くらいまではよく晴れました。朝は、17.1℃と涼しいくらいでしたが、気温は24.0℃まで上がりました。今日は、予定通り、JRさわやかウォーキング「2つの可動橋と旧みなとまち巡り」へ行って来ました。鉄道会社のウォーキング/ハイキングイベントに参加するのは、5月11日のJRさわやかウォーキング「かつて世界最大級の無線通信所!! 依佐美送信所記念館を訪ねて」以来(その後、勝手にハイキングなどには3回ほど行っていますが)。

Img_5888c_20241020142101 Img_6234c_20241020142201  JR桑名駅を8時14分に出る関西線亀山行き普通に乗車。JR四日市駅には、8時31分に到着。¥250。今日は、四日市駅がスタート&ゴール。参加者はさほど多くはありません。ここから、思案橋、稲葉翁記念公園、プロムナード、臨港橋、末広橋梁と歩く、5.1㎞のコース。タイトルにある2つの可動橋というのが、臨港橋と末広橋梁。

241020jrwalkingyokkaichi  こちらが今日歩いてきたルートマップ。実は、同じコースや、同じあたりはもう何度も訪ねていて、立ち寄り先さえ聞けば、地図なしで歩けます。初めに書きましたように、このところ、鉄道会社のウォーキングハイキングイベントに来ていませんでしたし、このあたりは気に入ったところなので、参加したという次第。臨港橋と末広橋梁が動くところも改めて見てみたいというのもありました。

Img_5926c_20241020142101 Img_5938c_20241020143501  思案橋。四日市市浜町と蔵町の間にあります。国道164号を挟んで両側の歩道に復元された橋が設置されています。古くは勧進橋とも呼ばれ、幅14間(約25.5m)の水路を跨ぐ水門でもあり、水路は新丁不動寺前に至っていました。天正10年6月、徳川家康は本能寺の変を避け泉州堺より浜松に向かう途上、ここより海路を進むか、陸路を進むかを思案したとされます。結局、当地の廻船問屋の協力を得て、海路を採り、常滑に渡ったといいます。この伝承があるため、思案橋と呼ばれることとなりました。この「神君伊賀越え」のルートについては、よく知られているように、諸説があります。伊勢湾を越えた海路についても、伊勢国長太(なご、現・三重県鈴鹿市)で乗船し、伊勢湾を横断して三河国大浜(現・愛知県碧南市)にたどり着いたという説もあります。私としては、郷土である三河国大浜についたという説に気持ちが傾きます。現在は、川は流れていませんが、昭和62(1987)年に橋を模したモニュメントが復元設置されています。

Img_6035c_20241020142101  Img_6043c_20241020142101 国道23号線を越え、四日市旧港に向かいます。ここには、四日市旧港を開いた稲葉三右衛門を記念した稲葉翁記念公園があります。左の写真は、「稲葉三右衛門君彰功碑」。明治30(1897)年に立てられています。そのすぐ南東には、波止改築紀念碑があります。これは、防波堤改築を記念して明治27(1894)年に作られた碑です。

Img_5983c_20241020142101 Img_6025c_20241020142101  旧港の東側にあるのが、潮吹防波堤。稲葉三右衛門が築いた旧港が暴風雨によって大破したため、改修工事を行い、明治26(1893)年に築かれました。この時の工事を担当したのが服部長七で、長七は人造石とよばれるものを発明して、防波堤に利用しています。現在も残る大小2列の防波堤は、潮吹防波堤と呼ばれ、波の力を弱めるため大堤に複数の穴が開いているのが特徴の堤で、一説には、政府のお雇外国人であったオランダ人ヨハネス・デレーケ設計案ではないかともされますが、真偽は不明。これらはいずれも国の重要文化財に指定されています。公園内には、この潮吹防波堤の、動く模型があります。ちなみに、服部長七は、私の郷土出身です。

Img_6039c_20241020142101Img_6017c_20241020142101  オマケ。波止改築紀念碑の先の突堤の基礎に、旧桑名城の石垣が使われています。基礎に使われていますから、見たことはありません。もう1つオマケ。今日は、旧港スタンプラリーも行われていました。思案橋と、ここ稲葉翁記念公園、臨港橋の3箇所でスタンプをもらいます。

Img_6054c_20241020142101 Img_6058c_20241020142101  稲葉翁記念公園の先にプロムナード。高潮護岸の防壁前面平場を利用した、遊歩道。旧港から千歳橋までつづいています。平成3(1991)年に整備されました。旧港を眺めながら散策することができ、ベンチもありますので、なかなかよいところ。

Img_6071c_20241020142201 Img_6094c_20241020142101  臨港橋。末広町と千歳町の間にある千歳運河に架けられた可動橋(跳ね上げ橋)です。船舶が通るときは遮断機で車の通行を止め、中央部の橋桁を約70度押し上げて開きます。初代は昭和7(1932)年に竣工しました。現在の橋は平成3(1991)年11月に完成した3代目。橋は、東側を起点にして跳ね上がります。

Img_6103c_20241020142101  今日は、3回開閉がありました。1回目の9時25分に間に合うよう、ここまでちょっと急いで歩いてきました。午前中は、ほぼ逆光になる位置からしか見えません。こちらに開くシーンの動画がアップロードしてあります。

Img_6118c_20241020142101 Img_6122c_20241020142101  臨港橋のすぐ北にあるのが、末広橋梁。千歳運河にかかる現役唯一の跳開式可動鉄道橋梁です。昭和6(1931)年に竣工しました。全長58メートルのうち中央部16メートルの橋桁が、80度ほど跳ね上がります。平成10(1998)年に国の重要文化財に指定されました。こちらに末広橋梁が降りてくるシーンの動画をアップロードしました(9時35分頃)。さらに、ここには、末広橋梁を貨車が通過するシーンの動画をアップロードしました(10時頃)。橋梁上で貨車が、一時停止したのですが、そこであいにく、カメラはバッテリー切れとなり、完全に通過するまでは撮れていません。このあと、貨車が戻ってきて、10時20分頃に末広橋梁が上がることになっていましたので、待っていたのですが、車両の不具合で、中止となってしまいました。残念。

Img_6157c_20241020142201 Img_6167c_20241020142201  末広橋梁、もう少し近付いて撮ってきた写真。左の写真で、向かって左側がJR四日市駅の方向です。通過する列車は、三岐鉄道三岐線東藤原からJR関西本線富田、四日市を経由して、四日市港の太平洋セメントへセメントや土砂を運ぶ貨物列車です。

Img_6181c Img_6206c_20241020142201  これで立ち寄り先はコンプリート。末広橋梁からゴールのJR四日市駅までは、1.5㎞弱。途中、再び国道23号線を越えます。住友電装があるところですが(左の写真)、ここはクルマではよく通るところ。まさか、徒歩でここを渡るとは思ってもみませんでした。右は、JR四日市駅にて、通称RedbearというJR貨物の機関車。正しくは、JR貨物DF200形ディーゼル機関車といい、電気式ディーゼル機関車です。つまり、ディーゼルエンジンで発電を行い、発生した電力によってモーターを回しているのです。

Img_6231c_20241020142201 Img_6222c_20241020142201  ゴールには、10時40分頃に到着。ゴール受付でポイントをいただき、さらに今日実施されていた「四日市港まちあるきイベント 秋の旧港スタンプラリー」もコンプリートしましたので、記念品の缶バッチをゲット。JR四日市駅を10時56分に出る関西線名古屋行き快速に乗車。桑名駅には11時8分着。¥250。今日の交通費は、往復で¥500で済みました(微笑)。

Screenshot_20241020112600c Screenshot_20241020112608c  今日歩いた距離と歩数。左のスクリーンショットは、「からだメイト」によるもの。歩いた距離は9.0㎞、歩数は12,229歩。右は、Google Fitのもの。歩数は11,785歩と、からだメイトと500歩弱しか違いませんが、歩いた距離は7.32㎞と、1.7㎞ほど違います。今日のコースはマップ上5.1㎞で、桑名駅往復は2.5㎞くらいですから、Google Fitの方が歩行距離は近いようです。

2024年8月30日 (金)

今日もカワセミセンサーが敏感に作動しました(微笑)

0830typhoon10 08300920rader  台風10号は、テレビのワイドショーで「日本列島に居座っている」と表現されるほどゆっくりとしたスピードで進んでいます。桑名あたりでも、雨が降ったり、止んだり、ときに大雨になったりしています。大雨警報が発令されたり、解除されたりをくり返しています。進路予想を見ますと、日曜あたりに桑名、名古屋あたりにやってきそうですが、その頃には熱帯低気圧に変わっているのではないかと予測されています。

Dsc08230c 08301030amedas  朝6時頃には雨は降っておらず、雨雲レーダーの画像を見ても、9時頃までは降らないとありましたので、これ幸いと6時半から散歩に出かけました。住吉神社から九華公園に着いたとき、スマホでYahoo!天気を見ますと、何と「35分後から雨が降る」と出て来ました(笑)。6時50分くらいのことです。やられました。よくあるパターンで、降らないと思って出かけたものの、結局降られるというパターンに陥りそうでした。そのまま、九華公園を半周しただけでUターン。来たコースをそのまま戻って、7時20分頃帰宅。歩いたのは、4.2㎞。結局、予告された時間になっても雨は降らず。8時過ぎから降り始めました。こんなことなら、いつものコースを歩いてきても大丈夫だったのにと思うものの、まぁ降られずによかったということ。右の画像は、10時半現在のアメダスのデータ。それにしても、昨日は良く降りました。

Dsc08234c_20240830105301 Dsc08232c  散歩に出るときの諸戸氏庭園から長良川河口堰方面の写真。右は、河口堰をズームしたもの。河口堰のゲートは、いつも通り、降りています。長良川の流れは、これまたいつも通り、ゲートをわずかにオーバーフローしているくらい。大雨で長良川の水量がかなり増えると、ゲートが全開されますが、今回の台風ではまだそういう状況には至っていません。四日市港潮汐表では、2時52分が満潮で、9時42分に干潮を迎えます。ちなみに河口堰のリアルタイムの状況はこちらに、また、ライブ画像はここにあります。さらに魚道の様子はこちらで見られます。

Dsc08236c_20240830105301 Dsc08246c_20240830105301  さて、散歩の話に戻ります。桑名七里の渡し公園のところで、アタマの上から「デデポポー」という鳴き声が聞こえます。キジバトが1羽、電線に止まっていました。住吉神社のところでは、ドバトが数羽、エサを拾っていました。今日はハトしかいないのか、と一瞬頭をよぎります。

Dsc08296c  住吉水門のところから揖斐・長良川の中州を見たら、アオサギがいるのが見えました。川幅は、このあたりでは300mくらいですが、ちょっと上流にいましたので、400m以上先です。

Dsc08268c_20240830105401  ちなみに、昨日の記事で「高潮対策で堤防は補強されている」と書きましたが、住吉神社前では、この写真のようになっています。川縁から道路までは、50m以上あります。左端に写っている建物は、住吉浦休憩施設。トイレを備えた無料の休憩施設で、観光案内窓口を兼ね、さらに、あのアイスまんじゅうなども売っています。

Dsc08337c_20240830105401 Dsc08361c_20240830105401  七里の渡し跡のところへさしかかったら、私の「カワセミセンサー」がピピッと反応!! いました、伊勢一の鳥居のある側の護岸の上にです。

Dsc08383c_20240830105401  こちらの写真を見ますと、下の嘴の根元の方が赤くなっているようですので、メスの幼鳥かと思います。いやぁ、雨が降りそうな中、出て来た甲斐があるというものです。

Dsc08610c_20240830105401  さらに、三の丸水門のところでは、メスのイソヒヨドリがいました。青虫をくわえていますので、苦手な方は、写真をクリックなさらないでください。

Dsc08648c  九華公園では、散歩をする方がチラホラ。しかし、初めに書きましたように、途中で「35分後から雨が降る」とYahoo!天気に出ているのを見つけてしまい、公園内を半周したところで、Uターン。それもあって、九華公園で見た野鳥はドバトだけ。今日は、アオサギさんは来ていませんでした。

Dsc08696c_20240830105301  その後のことは、初めに書いたとおり、8時過ぎまで雨は降りませんでした。昼近くからは、晴れ間も出て来ています。帰宅後、ネットを見ていたら、JRさわやかウォーキングも、近鉄ハイキングも9月以降の予定が出ていました。これからチェックし、参加したいイベントをリストアップしなくては(微笑)。サルスベリの花は、今日も、桑名七里の渡し公園にて。

17_01 17_02  余談。散歩から帰って、ワイドショーを眺めていたら、災害時や大規模な通信障害時など、いざという時に使える00000JAPAN(ファイブゼロジャパン)というフリーWi-Fiがあるといっていました。これは覚えておいた方がよさそうだと思って、調べました。リンク先にありますように、災害時にドコモ、au、ソフトバンクの携帯キャリアが垣根をこえて無料開放する、公衆無線LANサービスだそうです。これが最初に提供されたのは2016年の熊本地震。携帯キャリアに関係なく誰でも簡単に使え、スマホのWi-Fi画面のネットワーク一覧から、00000JAPANを選んで接続するだけということでした。利用できる場所は、主に普段、携帯キャリアのWi-FiやフリーWi-Fiが提供されているアクセスポイントが設置されているところですが、避難所などに設置されている臨時のアクセスポイントから利用できる場合もあるそうです。さらに、2023年5月にはガイドラインが改訂され、災害発生時だけでなく大規模通信障害時にも00000JAPANが利用できるようになっています。画像は、リンク先からお借りしました。

2024年5月15日 (水)

20240511JRさわやかウォーキング「かつて世界最大級の無線通信所!! 依佐美送信所記念館を訪ねて」へ(補遺編その2)

240511jrwalkingkariya0  5月11日のJRさわやかウォーキング「かつて世界最大級の無線通信所!! 依佐美送信所記念館を訪ねて」に参加したとき、コースのすぐ近くに私が卒業した高校がありますので、寄り道してきました。書こうか、若干迷ったのですが、補遺編その2として載せておきます。

Img_1756c_20240511150801 Img_1732c_20240515062501  最初の立ち寄り先である刈谷市美術館から数100m、富士見町交差点近くに卒業した高校があります。卒業生とはいえ、勝手に立ち入るのははばかられましたので、門のところから、校舎の様子や、校訓が刻まれた石碑を見るなどしてきたくらいです。創立は大正8(1919)年。私が入学したのが昭和45(1970)年ですが、正門は、昔と同じままでした。さすがに、校舎はすっかり替わってしまっています。卒業は昭和48(1973)年ですから、卒業して51年。「紅顔の美少年」も、年を取るわけです。

Img_1740c_20240511150801  上右の写真にも写っていますが、こちらは校訓「質実剛健」を刻んだ石碑。校訓の意味は、「飾りけがなく、まじめで、心身ともに強くたくましい」という意味。旧制中学の初代校長である羽生隆先生の書によります。

Img_1745c_20240515062501 Img_1753c_20240515062501  敷地の西端の方にこういう建物があります。同窓会記念館です。われわれが生徒であった頃は、1階には卒業生が寄贈した著書などの資料が展示してありました。2階は会議室のようになっていたのですが、3年生のとき、なぜかここが我がクラスの教室になっていたのです。冷暖房が入っていたような気がします。ここで1年間、大学受験に向けて切磋琢磨したという次第。ちなみに、生徒同士は仲が良く、どのように勉強したらよいかとか、日付が変わる前には寝た方が効率がよいとか話をしていました。あの頃は、本当によく勉強しました。3年生のとき、正規の授業前と、授業後とに補習が行われていました。朝は、国語、数学、英語の科目で、午後は理科、社会の科目と記憶しています。1日8時間授業だったというわけ。数学の授業では、3年生の1学期までで数学Ⅲまで済ませ、2学期からは授業で、受験用の問題集を解いていたと思います。

Img_1782c_20240515062501  Img_1772c_20240515062501最後に正門を見上げ、体育館に掲げられていた校章を眺めて、JRさわやかウォーキングのルートに戻り、依佐美送信所記念館に向かいました。つかの間のセンチメンタル・ジャーニーです。

2024年5月12日 (日)

20240511JRさわやかウォーキング「かつて世界最大級の無線通信所!! 依佐美送信所記念館を訪ねて」へ(補遺編)

Img_1866c_20240512154901  5月11日のJRさわやかウォーキング「かつて世界最大級の無線通信所!! 依佐美送信所記念館を訪ねて」で訪れた依佐美送信所記念館などについてもう少し書いておこうと思って、この補遺編としました。内容が本編と重複する部分もあります。

Img_1918c_20240511150801 Img_2167c  依佐美送信所(よさみそうしんじょ)は、愛知県碧海郡依佐美村(現在の刈⾕市⾼須町⼭ノ⽥1番地)に建設された、超⻑波の使⽤を主とした無線送信所です。アンテナ出力500kW(世界最大級)、波長17.2km、周波数17.442kHzの長波送信所として、昭和4(1929)年に運⽤を開始しました。その敷地面積は6.6haもありました。長波は、海面下まで電波が届くという特性から、太平洋戦争時には日本海軍潜水艦との交信に重用され、「ニイタカヤマノボレ」の暗号文も依佐美送信所から潜水艦へ発信されています。戦後は⽶軍に接収されましたが、平成5(1993)年、⽶軍より閉鎖する旨の通告を受け、翌平成6(1994)年に⽇本に返還されています。平成9(1997)年にはアンテナ鉄塔が、また、建物は平成18 (2006)年にそれぞれ解体されました。送信設備の⼀部は依佐美送信所記念館に保存され、平成19(2007)年に⾼周波発電機が機械遺産に認定、平成20(2008)年には送信設備⼀式が未来技術遺産に制定されています。さらに、平成21(2009)年には、IEEEよりマイルストーンとして認定されています。

Img_2104c_20240511150901 Img_2108c_20240511150901  ⾼さ250 mの鉄塔8基(4基×2列)によって⻑さ1.8 km、16条のアンテナ⽤ワイヤーを⽀えていました。鉄塔は鉄骨を組み合わせた構造で、一辺が3mの正三角柱です。鉄塔には自立式と支線式があり、依佐美の長波鉄塔は支線式でした。倒れないよう3方向から支線と呼ばれるワイヤーロープで支えていました。この記念鉄塔には支線は1段しかありませんが、実際は6段ありました。鉄塔の下の部分は鉛筆の先を下にして立てたように尖っており、これが支線式鉄塔の特徴です。根元は固定されておらず、台座の上に置いてあるだけです。支線式鉄塔は弱そうに見えるものの、非常に丈夫なつくりで、昭和20(1945)年の三河地震や昭和34(1959)年の伊勢湾台風にも耐えています。ちなみに250mという高さは、東京タワー(333m)が建設される昭和33(1958)年まで、「東洋一」の高さを誇っていました。現在は、鉄塔の下部25mと、先端部分とが保存されています。アース線は、1.76km×0.88kmの範囲内の地中に深さ60 cmで網の目状に敷き詰められていたといいます。

Img_1900c  こちらは、鉄塔の頂上部分。最上部に滑車が3個ありますが、その上にアンテナ線16条(本)をつるすための吊架線(ワイヤーロープ)が乗っていたそうです。その下に航空障害灯(赤色灯)が設置されていました。

Img_2015c_20240511150801 Img_2124c_20240511153801  記念館には、依佐美送信所のジオラマが2つあり、8本の鉄塔がどのように建っていたかを見ることができます。私は、ここからほど近い高校に通っていましたが、冬になると体育の授業では、最初にこのあたりを持久走ということで数㎞走らされていました。ただし、どのあたりを走ったかは、忘却の彼方です。また、働くようになってから、東京などへの出張の帰りに、新幹線の車窓からこの鉄塔が見えてくると、「あぁ、帰ってきたな」と思ったものです。

Img_2163c_20240511150901  ちなみに、撤去された7基の跡地には、クスノキが2本ずつ植えられています。クスノキは、刈谷市の木です。写真は、記念館から南にある「依佐美のクスノキ(6号)」と思われます。

Img_2007c_20240511150801 Img_2095c_20240511150801  長波を発生させるためには、巨大なアンテナのほかに大きな電力が必要だそうです。そのため、依佐美送信所では、大電力のテレフンケン式発電機(ドイツ製)を使用した長波送信設備がありました。しかも、商⽤電源から交流モーターを使って直接発電機を回すのではなく、まず交流モーターで直流発電機を回転させて直流電⼒を発⽣させ、取り出した直流を使って直流モーターで⾼周波発電機を回転させていたといいます。依佐美では予備を含めてこのセットを2組⽤意し、これらを含めた送信設備は鉄筋コンクリート造り、建延1338.5平⽅メートルの送信機室に納められていました(現在、依佐美送信所記念館には、このうち1組が保存されています)。発電機の出⼒周波数には⾼い安定性が求められるため、発電機の回転部分は16トンもの重量(もしくは慣性能率が16トン)がありました。

Img_1991c_20240512164801 Img_2098c_20240512164801  一通り見て回った印象は、送信所というよりは発電所だなというものでした。私の知識では発電機など個々の機器の説明は、手に余りますので割愛。依佐美送信所の公式サイトや、依佐美送信所記念館のパンフレット(pdf)をご覧ください。

Img_2131c_20240511150901 240511jrwalkingkariya2  こちらは、ジオラマの1つにあった「依佐美送信所ジオラマ」。中央にあるのが本館。その背後の大きな建物が、長波送信所。依佐美送信所記念館は、この送信所の建物を模して、規模を縮小してつくられています。記念館は、平成19(2007)年に開館しています。記念館を含め、フローラルガーデンよさみがあるのは、社宅があったところだそうです。保存されている鉄塔が立っているところは、2号塔の跡。本館や送信所は、フローラルガーデンよさみと双葉小学校の間にありました。

Img_2208c_20240511150901  フローラルガーデンよさみにあるフローラルプラザは、依佐美送信所の建物をモチーフにつくられています。

Yokkaichi  ここ依佐美送信所は、その名の通り、超長波の送信に特化した施設でした。通信を行うためには、対となる受信所も必要です。受信所の立地条件としては、送信電波が受信を妨害しないために、受信所の位置は対⼿局と送信所とを⼤圏をもつて連絡する線に対し、送信所より⾒て60度以上転位し、約30km以上離れていることが必要でした。この条件に合致するところとして、三重県三重郡海蔵村(現在の四日市市海蔵地区。海蔵川の両岸、阿倉川や三ツ谷など)が選ばれ、海蔵受信所が昭和3(1928)年につくられています。13,000の坪の敷地にアンテナは、高さ85mの鉄塔が2基と60mの鉄塔3基が並んでおり、長波と短波の受信機が配置されていました(こちら)。その後、昭和5(1930)年に海蔵村が四⽇市市に編⼊されたため、四⽇市受信所と改称。しかし、昭和13(1938) に対外通信整備拡張計画にもとづいて、兵庫県加東郡⼩野町に受信所が新設されたことにともなって、⼿狭な四日市同受信所 は廃⽌されています。10年間という短い歴史しかありませんので、四日市受信所のことは地元でもあまり知られていないようです。

 以上、5月11日のJRさわやかウォーキング「かつて世界最大級の無線通信所!! 依佐美送信所記念館を訪ねて」の補遺編でした。なお、今後、読み直して、追加修正を行うかも知れません。

2024年5月11日 (土)

20240511JRさわやかウォーキング「かつて世界最大級の無線通信所!! 依佐美送信所記念館を訪ねて」へ(一回完結)

Img_1649c_20240511150501  よく晴れて、桑名では夏日になりました。最高気温は、25.3℃。予定通りにJRさわやかウォーキング「かつて世界最大級の無線通信所!! 依佐美送信所記念館を訪ねて」に行ってきました。桑名駅を8時ちょうどに出るJR名古屋行きの普通に乗車。名古屋には、8時32分着。名古屋駅を8時43分に出る豊橋行き特別快速に乗り換えて、JR刈谷駅には9時3分に到着。料金は、通しで¥870ですが、名古屋駅でいったん改札を出て、乗車区間を桑名~名古屋、名古屋~刈谷と分けますと、¥360+¥430=¥790と、¥80安くなります。

Img_2331c_20240511150901 Img_1653c_20240511150901  スタート&ゴールは、JR刈谷駅。刈谷市にある高校に通っていましたが、通学に利用したのは、名鉄刈谷市駅。刈谷駅で下車したのは、たぶん50年ぶりくらい。高校の第1回クラス会のときと記憶しています。その後、もう1回クラス会があったのですが、そのときは確か東刈谷駅で降りています。

240511jrwalkingkariya0  こちらが今日実際に歩いてきたルートマップ。刈谷駅南口から、刈谷市美術館、依佐美送信所記念館、フローラルガーデンよさみ、ミササガパーク、刈谷市交通児童遊園と回り、7.2㎞。

Img_1662c_20240511150501 Img_1686c_20240511150801  刈谷駅の南口あたりの様子。まったく知らない街に来た感じで笑えます。9時10分頃にスタートしました。

Img_1709c_20240511150801  最初の立ち寄り先は、刈谷市美術館になっています。「new born 荒井良二 いつも しらないところへ たびするきぶんだった」という展覧会が開催されており、ウォーキング参加者は割引がありますが、パス。

Img_1756c_20240511150801 Img_1740c_20240511150801  1㎞半あまりを歩いたところで、勝手に寄り道をしてきました。私の出身高校があるのです。卒業生とはいえ、勝手に立ち入るのははばかられましたので、門のところから、校訓が刻まれた石碑を見るなどしてきたくらいです。正門は、昔と同じままでした。ちなみに校訓は「質実剛健」というもので、「飾りけがなく、まじめで、心身ともに強くたくましい」という意味。旧制中学の初代校長である羽生隆先生の書によります。ちなみに、創立は大正8(1919)年。私が入学したのが昭和45(1970)年で、卒業は昭和48(1973)年ですから、卒業して51年。年を取るわけです。

Img_1918c_20240511150801 Img_1898c_20240511150801  コースに戻って、真面目に2.5㎞あまりを歩くと、依佐美送信所記念館に至ります。依佐美送信所とは、現在の刈谷市(当時の愛知県碧海郡依佐美村)に世界最大級の大電力無線通信所として設立され、昭和4(1929)年からヨーロッパに向けて運用を開始しています。大電力のテレフンケン式発電機(ドイツ製)を使用した長波送信設備と、刈谷市のシンボルとして市民から親しまれた高さ250mのアンテナ鉄塔8基がありました。長波は、海面下まで電波を届けることが特性があるため、太平洋戦争時には日本海軍潜水艦との交信に重用され、「ニイタカヤマノボレ」の暗号文も依佐美送信所から潜水艦へ発信されたといいます。戦後は、アメリカ軍に接収され、アメリカ軍が運用していましたが、平成5(1993)年にその役目を終えました。

Img_2015c_20240511150801  ここは以前から訪ねてみたかったところです。というのも、高校生時代、冬になると体育の授業では、最初にこのあたりを持久走ということで数㎞走らされたのです(「走らされた」などと書いていますが、当時はまさにそういう気持ちでした)。ジオラマの写真を撮ってきましたが、鉄塔は8基。どのあたりを走ったかは、忘却の彼方です。また、働くようになってから、東京などへの出張の帰りに、新幹線の車窓から、この鉄塔が見えてくると、「あぁ、帰ってきたな」と思ったものです。

Img_2007c_20240511150801 Img_2095c_20240511150801  記念館内には、2セットあった長波送信設備のうちの1セットが保存されています。産業考古学会(現在は産業遺産学会)から産業遺産に認定されていますし、ほかも機械遺産に指定されるなど、いくつもの団体から認められた遺産です。

Img_2163c_20240511150901  依佐美送信所記念館に行ったら、もう1つぜひ確認したいものがありました。上述のように、鉄塔は8基ありましたが、現在は、高さ250mであったものの1基下部25mと、先端部分1基が保存されています。撤去された7基の跡地には、クスノキが2本ずつ植えられていますが、それもぜひ見たいと思ったのです。写真は、記念館から南にある「依佐美のクスノキ(6号)」と思います。NHKのBSで放送している「日本縦断こころ旅」で、2019年4月18日に火野正平さんが、この「よさみの記念鉄塔近くの2本の楠(クスノキ)」を訪ねています。

Img_2176c_20240511150901 Img_2185c  記念館見学を終えて、隣にあるフローラルガーデンよさみで一休み。園内には、明治用水の水を引いたせせらぎがありました。私の出身は西三河でしたが、小学校の道徳の教科書にこの明治用水の話が載っていました。明治用水の祖である都築弥厚(つづきやこう)という方について学んだのです。今でも、私は明治用水と見聞きすると、都築弥厚というお名前が浮かんできます。

Img_2208c_20240511150901  こちらはフローラルガーデンよさみのフローラルプラザ。依佐美送信所の建物をモチーフにつくられています。

Img_2223c_20240511150901  スタートから5.5㎞ほどでミササガパーク。ミササガパーク(猿渡公園)は、刈谷市と姉妹提携都市であるカナダのミササガ市との友好を記念して整備された公園だそうです。ここはパスしてきました。

Img_2272c_20240511150901 Img_2282c_20240511150901  さらに6.5㎞ほどのところに刈谷市交通児童遊園。ここも素通りしたのですが、名古屋の市電1603号と、蒸気機関車D51の777号だけ写真を撮ってきました。このあと、JR東海道線の下をくぐるのですが、その左手に「宮城道雄供養塔」があるのですが、道路から見えると思っていたら、道路沿いに塀が巡らされていて、見えず。失敗しました。「春の海」を作曲した筝曲家宮城道雄は、大阪・神戸・京都など関西での演奏旅行のため夜行急行「銀河」に乗ったところ、昭和31(1956)年6月25日未明、刈谷駅東で列車から転落して亡くなったのです。

Img_2309c_20240511150901 Img_2315c_20240511150901  11時25分頃、JR刈谷駅北口に戻ってきました。南口と同様に、すっかり変貌しています。ゴール受付をして、参加ポイントをいただいて、11時37分の大垣行き特別快速に乗車し、名古屋駅には11時58分着。往きと同じく、いったん改札を出て、12時6分発の関西線亀山行きの快速に乗車。快速は、桑名駅まで止まりませんから、21分で桑名に到着(12時27分着)。料金は、朝と同じく、¥430+¥360=¥790。往復でペットボトル飲料1本分くらいの節約(微苦笑)。

Screenshot_20240511124927c Screenshot_20240511122248c  今日のGoogle Fitのデータ。11.63㎞で、歩数は17,134でした。出身高まで寄り道しましたから、現地で歩いたのは7.2㎞+α。右は、JRさわやかウォーキングアプリに登録されたウォーキングログ。直近12ヶ月の記録が載っています。JRさわやかウォーキングは、近場ではなかなか開催されませんから、参加回数が伸びません。

Img_2167c  一回完結としましたが、依佐美送信所記念館については、明日以降にでも補遺編を書こうかと考えています。

 

2024年3月 7日 (木)

20240303JRさわやかウォーキング「本能寺の変、家康公も通ったと言い伝えのある隠れ古道を歩こう」へ(その3)……旧東海道から亀山城多門櫓、古刹遍照寺に参拝して、亀山駅にゴール(完)

240303jrwalkkameyama3  3月3日に行ってきたJRさわやかウォーキング「本能寺の変、家康公も通ったと言い伝えのある隠れ古道を歩こう」の本編その3です。その2では、松月地蔵、忍山神社から野村町に出て旧東海道沿いのお寺、旧家を見て京口門跡あたりまで来ました。京口門跡から先のあたりも、2022年に訪ねています(2022年5月11日:20220507東海道ウォーキング「亀山宿~関宿」(その1)……亀山駅をスタートし、武家屋敷などを見て、京口門跡あたりまで)。詳しくはこちらの記事もご覧ください。

Img_8170c_20240306070501  京口門跡の先で東海道は、右折します。そこに亀山城西の丸外堀跡があります。亀山城の外堀の一部で、東海道と外堀が並行して接する場所で、城の防御上、また、景観上重要な場所だったといいます。町屋側には番所、した。跡北復元地南には西之丸西櫓があったそうです。深さ1.8m程度の水堀で、水深は60㎝程度であったといいます。

Img_8190c_20240306070701  右折し、さらに左折したところに旧舘家住宅。「升屋」という屋号で、幕末から大正にかけて呉服商を営んでいた大店で、現在の主屋は、明治6(1873)年に建てられました。市文化財です。この日は、おひな様の展示が行われていましたが、パス。

Img_8194c_20240306071501  東海道が左折するところに飯沼慾斎生家跡。飯沼慾斎(天明3(1783)~慶応1元(1865)年)は、江戸後期の蘭方医、植物学者。伊勢国亀山の商人西村信左衛門の次男。母方の伯父で美濃国大垣の飯沼長顕に入塾し、のち京都に出て漢方、本草学を学んだ後、蘭方に転学し、大垣で開業しています。2022年に大垣に行ったとき、飯沼慾斎邸跡を確認しています(2022年06月21日:20220612水の都・大垣ウォーキング(その3)……船町川湊から美濃路を歩いてゴールの大垣駅へ(完))。

Img_8201c_20240306072101 Img_8205c  北に向かって行くと、青木門跡。西の丸の西南に位置する門で枡形を形成しており、今もそれが残っています。元和元(1615)年、徳川家康が大阪へ出陣のとき、亀山城に宿泊し、搦手門から出立の時、附近に繁茂した青木を見て、「おお青木」と賞賛したことから、門を青木門と呼ぶようになったという話が伝わっています。

Img_8208c  枡形の先に旧加藤家屋敷があります。江戸時代後期、亀山藩主・石川家の家老職を務め、亀山城西之丸に居を構えていた加藤家の屋敷跡です。もともとは相当な敷地面積があったようですが、明治以降、ほとんどの建物が他所へ移築されました。現在は屋敷の表門である長屋門とこれに連なる土蔵などが遺されており、白壁や白と黒の対比が美しいなまこ壁が、武家屋敷の威厳と風格を感じさせてくれます。江戸時代後期の建築です。

Img_8216c_20240303164601 Img_8229c_20240306073001  田中病院のところから外堀であった「池の側」のところに出ます。ここで東海道からはいったん離れます。「池の側」自体が、堀の名残であるこの池の名前になっています。そこから旧亀山城多門櫓が見えます。多門櫓は、天守台といわれる本丸高石垣上にあり、寛永9 (1632)年頃に築造されたとみられます。三重県で唯一現存する城郭建造物として県史跡に指定されています。土日祝日は公開されています。

D16900dd 06273b02  以前、2回ほど内部を拝観しています(2022年4月27日:20220423東海道ウォーク「井田川~亀山」(その3)……亀山城址にて多門櫓、明治天皇行在所旧蹟、亀山演武場などを見て、亀山駅にゴール(完)、2019年6月17日:20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(その3)……雨の中、亀山古城跡、花しょうぶまつり、亀山城多門櫓から亀山神社へ)。 左の写真は2022年、右の写真は2019年に訪ねたときのもの。

Img_8239c_20240306074201 Img_8248c_20240306074201  亀山城跡にあるますみ児童公園で2回目の小休止。ここには、SL C58359が保存されています。保存状態はかなりよいといえます。昭和19(1944)年、川崎車両神戸工場で製造され、王寺機関区、竜華機関区、亀山機関区で運行されていた車両です。昭和45(1970)年3月に廃車となるまでに1,315,593kmを走行しました。こちらに設置されたのは昭和45(1970)年の12月。

Img_8261c_20240306074701  Img_8268c_20240306074701 亀山市役所と亀山西小学校の間を東に向かうと、江ヶ室交番前交差点に出ます。ここは、亀山藩の高札場跡。今は、高札場跡の説明板があるところに広告が多数掲げられていて、さながら「現代の高札場」となっています。ここから江戸までは百四里半、庄野宿まで二里、関宿まで一里半あったそうです。

Img_8272c_20240306075001 Img_8276c_20240306075001  江ヶ室交番前交差点で再び東海道に出ます。江戸方面の東海道は、ここから東に直進しますが、今回のコースでは、京都に戻る方向に歩きます。東海道へはここで右折し、下っていきます。枡形のようになったところの東に「ナガイ種苗東店」がありますが、そこに「東海道亀山宿 横町 わかさざ跡」と書かれた看板が見えました。近くには、ほかに「ひらいや跡」の看板もあるそうです。横町は、古い町名なのでしょう。「わかさざ」が、たとえば「若狭座」であれば、芝居小屋だったのかも知れません。「ひらいや」は何かの商店か、屋号を示すものかでしょう。こちらの市民協働センターの記事によれば、2003年に400枚の屋号看板を取り付けたとありますから、その名残と思われます。

Img_8345c_20240303164701  その先に延寿山地蔵院遍照寺(へんじょうじ)。天台真盛宗のお寺。江戸時代の末の天保14(1843)年7月に焼失したため、創建した時代は不明ですが、亀山有数の古刹。中本山に次ぐ四末頭に位置づけられるお寺の1つだそうです。江戸時代には、天台真盛宗を学ぶ多くの修行僧がいたといいます。

Img_8327c_20240303164701 Img_8315c_20240306081501  本堂は、明治5(1843)年に旧亀山城二の丸御殿玄関を移築したもので、近世殿舎建築の希少な遺構です。本尊の阿弥陀如来立像は鎌倉時代に作られたもの(県文化財)です。運慶の弟子である行快の作といわれます。両脇侍として、木造観音菩薩坐像・木造勢至菩薩像(県文化財)が安置されています。正面の鬼瓦には、亀山藩の笹竜胆がそのまま使われ、三角形の千鳥破風の降り棟には波型の瓦に上り亀と下り亀の瓦が施されています。

 遍照寺は、Img_8295c_20240306081601 Img_8338c_20240306081601 街道から鐘楼門をくぐると急な坂で、坂の下に本堂があるため「頭で鐘撞く遍照寺」といわれたそうです。実際、左の写真は、東海道から見下ろして撮ったもの。右は、境内から山門を見上げて撮っていますが、東海道からはかなり低くなっています。

Img_8320c_20240306082201  遍照寺では、女性の方(お寺の奥様かと思いました)が、寺のことを説明してくださった上に、説明書と散華をいただきました。

Img_8349c_20240306082101 Img_8362c_20240306082101  遍照寺の西に梅照山誓昌院。真宗高田派のお寺。静かな、よい感じのお寺ですが、詳しいことは分かりませんでした。

Img_8384c_20240303164701 Img_8377c_20240303164701  誓昌院から池の側の南を通って亀山駅に向かって下っていきます。亀山駅に戻ってきたのは、11時50分過ぎ。10.6㎞を2時間45分ほどで歩いてきました。ゴール受付でチェックを受け、10ポイントをゲット。さらに今日の参加記念として「金王道」ストラップをいただきました。竹細工のようです。

Img_8396c_20240303164701 Img_8399c_20240303164701  家内から「ひなまつりだから土産に関の戸を買ってきて欲しい」といわれていたのですが、亀山駅ではキオスクはなくなってしまっていました。臨時の販売ブースが出ていたのですが、そこにも関の戸は売っておらず。しかし、同じ関宿の銘菓である「志ら玉」がありましたので、それを購入。2個で¥240を2つ。こし餡を上新粉の生地で包んだ素朴な生菓子です。三色の彩りは、四季を現しているそうです。

Img_8393c_20240306083001Img_8390c_20240306083001  余談ですが、この日、亀山駅には、三重応援ポケモンであるミジュマルが来ていました。11時から12時頃まで、みえ鉄道スタンプラリー最後のイベントキャラバン田ということで、賑わっていました。

Img_8402c  昼食をどうしようかと思って、いちおう電車に乗る前にファミマで「明太海苔弁当(¥460)」を買ってきていました。次の名古屋行きは12時24分発でしたので、待合室のベンチでこれをいただいてきました。若い頃でしたら、こういうことは恥ずかしくてできませんでしたが、これも年を取って図々しくなったお陰でしょうか(苦笑)。

Img_8381  ということで昼食も無事に済ませ、12時24分発の快速名古屋行きに乗車。四日市までは各駅に停車します。桑名には13時8分着。 賑わっていましたが、何とか座席を確保できました。¥680。

Screenshot_20240303132830c  今日のGoogle Fitのデータ。12.86㎞、21,668歩でした。久しぶりによく歩いたと実感。現地では、10.4㎞+αを歩きました(ルートマップには、立ち寄り先で歩いた分はカウントしていません)。

 

2024年3月 6日 (水)

20240303JRさわやかウォーキング「本能寺の変、家康公も通ったと言い伝えのある隠れ古道を歩こう」へ(その2)……松月地蔵、忍山神社から野村・京口門跡あたりへ

240303jrwalkkameyama2 240303jrwalkkameyama3  3月3日に行ってきたJRさわやかウォーキング「本能寺の変、家康公も通ったと言い伝えのある隠れ古道を歩こう」の本編その2です。その1では、蓮光寺から金王道まで来ました。金王道は、天神公園のところまで約2㎞、続いています。天神公園のところから県道28号線に出て北上。亀山橋の手前から左折し、鈴鹿川沿いを西に向かいます。忍山橋を渡って、忍山神社へ。さらに旧東海道沿いを東に向かって歩きます。このウォーキングの企画で立ち寄り先となっていたのは、旧舘家住宅、旧亀山城多門櫓、遍照寺でした。しかしせっかくですから、以前訪ねたことのある名所旧跡、寺社なども見てきました。

Img_8038c_20240305164001 Img_8048c_20240305164001  6㎞地点あたりの写真。公園になっていましたので、ベンチで小休止。6㎞というと、普段の散歩で歩く距離です。さらに川沿いを進みます。

Img_8058c_20240305164401  忍山橋を渡って、JR関西本線の方に少し行ったところに松月(しょうげつ)地蔵があります。五体のお地蔵様がいらっしゃいます。リンク先の亀山市歴史博物館のサイトによれば、亀山駅近くに住む方が中心になってお世話をしておられ、地蔵や五輪塔(部分)を「松月地蔵」と名づけたそうです。「川原の地蔵さん」というのが昔からの呼び名のようです。詳しい由緒などは、検索しても不明ですし、亀山市歴史博物館のサイトにもありません。

Img_8068c_20240305165101  スタートから7㎞を過ぎ、1時間45分ほどで忍山神社に着きます。式内社です。第10代崇神天皇7年(紀元前91年)、伊香我色雄命(いかがしこめのみこと)に猿田彦を鎮座せしめられ、その子・大水口宿禰(おおみなくちのすくね)の子孫(80代)が相継いで神主となって明治に至ったとされます。

Img_8083c_20240303164601  主祭神は、猿田彦命と、天照皇大神。相殿神は、天児屋根命倭姫命ほか21柱。この忍山神社は、以前にも訪ねていますので、詳しくはそちらの記事をご覧ください(2019年6月13日:20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(その1)……亀山駅前で能褒野神社一の鳥居、松月地蔵を見て、倭姫命が鎮座され弟橘姫が生まれた忍山神社へ)。明治41(1908)年、村社能牟良(のむら)神社他、近隣の20社を合祀しています。

Img_8080c_20240305174501  垂仁天皇の御代に倭姫命が御杖代となって天照大御神の鎮座の地を求めて、大和の国から忍山に御遷幸になり、ここに半年御鎮座されたといいます。また、景行天皇の御代には、日本武尊が東征に際し、忍山神社に立ち寄られ、神主・忍山宿禰の長女・弟橘媛(おとたちばなひめ)を妃とされ、媛は東征に従われ、相模の海が海神の怒りで荒れたため、入水してその怒りを鎮められたと伝承されています。倭姫命(ヤマトヒメノミコト)が御杖代となって天照大御神の鎮座の地を求めて、大和の国から忍山に御遷幸になり、ここに半年御鎮座されたといいます。拝殿前には倭姫命がここにいらっしゃったことを記した柱が立っています。ちなみに、倭姫命が「ここはどこか」と聞いたところ、大比古命が「味酒鈴鹿国(ウマサケスズカノクニ」と答えたといいます。

Img_8108c_20240306044601 Img_8100c_20240306044601  忍山神社を出て坂道を250mほど登っていくと旧東海道に出ます。街道に出たところに「焼肉長治郎」があります。以前見たときも古い建物をリノベーションしてあるなと思ったのですが、新たに「明治天皇お召替所跡 内池家主屋」 という説明板が掲げられていました。明治13(1880)年5月、明治天皇は東京から山梨県を行幸され、続いて伊勢神宮を参拝されました。東京にお帰りになる途中、5月11、12日に亀山では陸軍の大坂鎮台の勢揃いをご覧になっています。その折、当家でお休みになり、御茶料として3円を下されたそうです。

Img_8111c_20240306052201  この焼肉長治郎のところから旧東海道を歩いて行きます。寺や旧家、旧跡がありますが、それらのほとんどは一昨年の東海道ウォーキングで訪ねています(2022年5月7日:20220507東海道ウォーキング「亀山宿~関宿」(超予告編))。

Img_8115c_20240306052701 5d4bcda1  スタートから8㎞あたりに亀鶴山(きかくさん)無量院慈恩寺(じおんじ)。浄土宗のお寺。ご本尊は、木造阿弥陀如来立像(国重要文化財。右の写真。これは、2019年6月9日に訪ねたときに撮らせていただきました(2019年6月15日:20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(その2)……布気皇館太神社、野村一里塚、浄恩寺、羽柴秀吉亀山城攻め本陣跡から、亀山市歴史博物館へ【布気皇館太神社のお社について追記しました(6/17)】))。現在は無住となっており、ほかのお寺のご住職が兼務されているそうですが、境内は檀家の皆さんが手入れされていらっしゃっていて、きれいに保たれています。詳しくは、2019年の記事をご覧ください。

Img_8122c_20240306053301  続いて、真宗本願寺派の究竟山光明寺。ここも一昨年訪ねています。そのときは、話し好きのご住職がいらっしゃり、いろいろな話を伺えたのですが、いつまで経っても話が終わらないような感じで気をもんだことを思い出します(2022年5月12日:20220507東海道ウォーキング「亀山宿~関宿」(その2)……野村から太岡寺畷へ)。見えている大木は、イチョウとクスノキ。ほかにイスノキがあり、そのイスノキにできる虫こぶが、「ひょんなこと」の語源になっているそうです。詳しくは、2022年の記事にあります。

Img_8131c_20240306063501  京口坂の手前に旧佐野家住宅。大地主の商家で、家主は質店などを経営していました。明治初期に改築されていますが、江戸時代の家の様子も引き継ぐといいます。「入り母屋妻入り」の造りで、街道に切り妻の正面を向ける妻入りの町屋は多くないそうです。

Img_8143c_20240306063701  その先、北側に妙亀山照光寺。日蓮宗のお寺。山門の写真は、京口橋の西側から撮っています。見下ろすようになっていますが、昔の東海道は、この山門の高さのところを通っていました。照光寺は、その1で見てきた蓮光寺の由緒のところに出てくるお寺です(2024年3月5日:20240303JRさわやかウォーキング「本能寺の変、家康公も通ったと言い伝えのある隠れ古道を歩こう」へ(その1)……亀山駅をスタートし、蓮光寺、金王道へ)。

Img_8147c_20240306064001  京口門跡。西側から撮っています。亀山宿の西端、西町と野村の境を流れる竜川左岸の崖上に門がありました。東町に築かれた江戸口門とともに亀山城総構の城門として位置づけられました。大正3(1914)年、京口橋がかけられ、この坂道を登る道筋は途絶えてしまいましたが、往時は坂の下から見上げると門・番所がそびえる姿が壮麗だったといいます。この先に京口門、亀山城が見えたということです。歌川広重が東海道五十三次で描いた「亀山」は、このあたりから見た景色という説があります。

Img_8155c_20240306064001  京口門跡の先に純一山常寿院梅厳寺。浄土宗のお寺。伊勢亀山藩主・石川氏の先祖・石川家成は徳川家康の忠実なる家臣であり、石川昌勝が慶安2(1650)年、伊勢亀山藩主となった時に、石川家成の菩提寺をここに移して、藩主・石川氏の菩提寺にしています。寺名の梅巌は、石川家成の院号だそうです。このあたりの詳しいことは、2019年に訪ねたときの記事をご覧ください(2022年5月11日:20220507東海道ウォーキング「亀山宿~関宿」(その1)……亀山駅をスタートし、武家屋敷などを見て、京口門跡あたりまで)。

 長くなりますので、その2は、ここ京口門跡あたりまでとします。その3は、亀山城西の丸外堀跡、旧舘家住宅などから。

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  • 関裕二: アマテラスの正体(新潮新書)

    関裕二: アマテラスの正体(新潮新書)
    著者の前著『スサノヲの正体』も、興味深く読みました。斬新な着眼点と発想で、思いもかけない結論に至っています。読み物としてはとてもおもしろいという点で、☆を5つとしました。ネタバレになりますから、詳しいことを書くのは控えておきますが、著者は、伊勢神宮に祀られているのは、いわゆる「天照大神」ではなく、別の霊威の強い(祟る)、二柱の神だとしています。祟るが故に、伊勢に放逐されたのだと主張するのです。ただ、著者の肩書きは、歴史作家にして、武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェローであり、仏教美術に関心をもち、奈良に通ううち、独学で日本古代史を研究したということですから、現在の歴史学や考古学が明らかにした内容と整合性がとれている主張なのかどうかは、私には判断はできかねます。それ故、「読み物としてはおもしろい」と評価しています。 (★★★★★)

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    タイトルに惹かれて読みました。ただし、初めにお断りしておきますが、図表こそないものの、心理学の専門書といっても良いくらいの、分厚い記述になっていますので、馴染みのない方にとっては読みやすいものではありません。「性格が悪い」ことについて、最近研究が進んできた「ダークな性格」を中心にまとめられています。ダークな性格とは、マキャベリアニズム、サイコパシー、ナルシシズム、サディズムの4つの特性です。これらの特性とリーダーシップ、社会的成功との関連、身近な人間関係中でのダークな性格、ダークな人物の内面、ダークな性格の遺伝、ダークさとは何かについて、文献を引用しつつ論じられています。その上で、性格の良し悪しは、その内容ではなく、どのような結果に結びつくかで判断されるというのが、著者の結論でした。 (★★★★)

  • 和田 秀樹: 老いるが勝ち! (文春新書)

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    和田秀樹さんは、もともと高齢者専門の精神科医です。浴風会病院というところで35年間勤務され、6,000人以上の高齢者の方を診てこられました。その臨床経験から、高齢者については、理屈通りに行かないと思うことがたくさんあるといっておられます。タバコをたくさん吸っていても100歳まで生きる人もいれば、検査データはすべて正常なのにガンで亡くなる人もいるのだそうです。医者にいわれて血圧その他に注意していたのに、脳卒中を起こす人もいます。和田さんはこの本で80歳を過ぎたら我慢せず、好きな物を食べ、行きたいように生きることを勧めています。また、医療に関わらない方が長生きできる共書いています。不摂生を勧めておられるわけではありませんが、常識にとらわれず、自由に生きた方が楽しみも見つかってよいのではないかと思います。養老孟司先生流にいえば「なるようになる」のですから。 (★★★★★)

  • 彬子女王: 赤と青のガウン オックスフォード留学記 (PHP文庫)

    彬子女王: 赤と青のガウン オックスフォード留学記 (PHP文庫)
    彬子女王殿下の英国留学記です。彬子女王は、ヒゲの寛仁親王のご長女。殿下は、女性皇族として初めての博士号をオックスフォード大学で取得されました。この留学記は、ネットで話題になっていましたので、ぜひとも読んでみたいと思っていました。今上天皇の「テムズとともに」も読んだことがありますが、皇族の皆様は、どなたも誠実で朗らかで、それでいてユーモア溢れるお人柄をお持ちのようですが、殿下も同様でいらっしゃり、それがよく感じられる文章で楽しく拝読し、爽やかな読後感を持ちました。 (★★★★★)

  • 石井光太: ルポ スマホ育児が子どもを壊す

    石井光太: ルポ スマホ育児が子どもを壊す
    タイトルに惹かれて買ったのですが、帯にあるように「衝撃の現場報告」でした。この本に書かれているエピソードのうち、いくつかはこれまでにもマスコミ報道などで接していましたが、これだけのことがらが一度に示されると圧倒されます。現代の子どもたちは、まさに私たちが知っている(知っていた)子どもではなくなっているといえるようです。たとえば、「2歳児のネット利用率は58.8%」「子守歌はアプリで聞く赤ちゃん」「ヘッドガードの制服化」「教室の『アツ』に怯える小学生」「褒められ中毒はエスカレートする」などなど。スマホが登場して16年でその影響は大ですが、子どもたちの特徴に影響しているのはスマホだけではなく、現代社会や、大人達のありようも大きく影響しているといえます。「『将来の夢は交通整理のバイト』と言う女子高生」などはその例でしょう。私が教えている学生も、「『アツ』がすごい」ということがあり、いったい何だ?と思っていましたが、よく分かりました。すでに若い先生方は、デジタル・ネイティブ世代になっていますし、この本に登場する若者達が社会に出て、その中核を担うのも遠い将来のことではありません。これらの若者は、高い情報処理能力を持ち、周囲に適応する力もあり、コンプライアンス能力も高いのですが、それらを認めた上で、彼らが自立した大人になるために何が必要か見極め、それを提供することが必要とされるのでしょう。その意味では、大人の世代にも彼らを適切に理解し、必要な支援を提供する責任があります。 (★★★★)

  • 養老 孟司, 中川 恵一: 養老先生、再び病院へ行く

    養老 孟司, 中川 恵一: 養老先生、再び病院へ行く
    『養老先生、病院へ行く』の続編です。医療とは距離をとっておられる養老先生が、再診のため1年3ヶ月ぶりに東大病院に行かれました。大病から復活された今だからこそ語ることができる老い、医療、健康、死との付き合い方について、養老先生ご自身と、教え子にして主治医の中川恵一先生がお書きになっています。養老先生のスタイルをそのまままねすることは、凡人には不可能であり、よろしくはありません。しかし、健康についての考え方や、死についてのとらえ方などはとても参考になります。私が啓蒙されたことがらは、「健康法は人の数だけ存在する」「養老先生は抜け道の天才」「不連続な体調の変化に気をつける」「具合が悪いときは一週間様子を見ると医者に行くべきかどうか分かる」「お酒はもはや百薬の長ではないが飲む飲まないは自分で決めてよい」などでした。 (★★★★★)

  • 宮口幸治: 歪んだ幸せを求める人たち―ケーキの切れない非行少年たち3―(新潮新書)

    宮口幸治: 歪んだ幸せを求める人たち―ケーキの切れない非行少年たち3―(新潮新書)
    「ケーキの切れない非行少年たち」シリーズの3冊目です。本の帯には「『幸せを求めて不幸を招く人』の戦慄ロジック」とあります。「みんな幸せになりたい」という動機は万人がもつものでしょう。しかし、幸せの形は人それぞれですし、幸せになりたいと強く願うものの、かえって生きづらさや苦悩を抱える人たちもたくさんいます。著者は、人は幸せになりたいが故に、結果的に他人が不幸になることでもやってしまうといいます。さらに、幸せになりたいのだけれど、そのやり方がよくない」と考える、結果的に他人を不幸にする人たちを理解できるともいいます。著者が長年関わってきた非行少年達にもそれは共通するそうです。歪んだ幸せを求める人たちの背景にある要因として、著者は、怒りの歪み、嫉妬の歪み、自己愛の歪み、所有欲の歪み、判断の歪みの5つの歪みを取り上げ、事例も含めて考察しています。これを読むと、こうした5つの歪みは、ごく普通の人びとも多少とももっているものといえます。最終章では、自分と他者の「ストーリー」という概念を用いて、歪んだ幸せを求める事についてどう向き合えばよいか、提案されています。 (★★★★)

  • 森永 卓郎: 書いてはいけない

    森永 卓郎: 書いてはいけない
    他の本を買いに行った時、書店で平積みになっていましたので、思わず買ってしまいました。メディアのタブーに触れつつ、現在の日本が凋落している要因を3つ指摘しています。サブタイトルは、「日本経済墜落の真相」となっています。3つは、ジャニーズの性加害、財務省のカルト的財政緊縮主義、日本航空123便の墜落事件。この3つについては、関係者は皆知っているものの、触れてはいけない、本当のことをいってはいけないタブーになっているといいます。メディアで触れたら、瞬時にメディアには2度と出られなくなるそうです。ジャニーズ問題は、BBCの報道のためにオープンになってしまいましたが、著者の森永さんは、ご自身が病を得られたこともあって、現状を打破するためにこの本を書かれました。財務省による必要以上の財政緊縮政策と、日航123便の事故のお陰で日本がアメリカに対してどんどん主権を失っていったことが、日本経済の衰退の主たる要因と主張しています。たぶんそれは本当だろうなというのが、私の読後感。 (★★★★)

  • 立木 康介: フロイト『夢判断』 2024年4月 (NHKテキスト)

    立木 康介: フロイト『夢判断』 2024年4月 (NHKテキスト)
    何を今さら勉強しているのか? と思われるかも知れませんが、ちょっと前に流行った言葉でいえば、リスキリングに相当するかも知れません。学生時代に読みましたが、しっかり理解したかといえば、アヤシいのです。学生時代からは50年近い月日が経っていますので、その後の研究成果も含め、新しいことがあるだろうと思ったのです。100分de名著というNHK Eテレの番組のテキストです。講師の立木先生は、パリ第8大学で精神分析の博士号を取得され、京大人文科学研究所の教授。精神分析は「昨日までとは違う自分を手に入れるために行う」とおっしゃっていました。この番組でもっとも印象に残ったのは、あの有名な「エディプス・コンプレックス」よりも、今日、重要なフロイトが提案した概念は、「両性性」であるということでした。これは、いかなる個人も与えられた解剖学的性にしばられないセクシュアリティの自由を持つことをうたうものです。この視点に立てば、同性愛も、トランスジェンダーもいわば当たり前の存在であるということになります。これらを踏まえると120年間に書かれた「夢判断」の内容は、きわめて今日的な意義を持ってくると再認識する必要があります。 (★★★★★)

  • 諸富 祥彦: NHK「100分de名著」ブックス フランクル 夜と霧

    諸富 祥彦: NHK「100分de名著」ブックス フランクル 夜と霧
    フランクルのこの本は、改めて紹介するまでもないほど、有名な本です。私も学生時代、霜山徳爾先生の翻訳で読みましたが、ことばでは書き尽くせないほどの衝撃を受けたことを、いまでもよく覚えています。第二次世界大戦中にナチスの強制収容所に収監された経験をもとに、精神医学者・フランクルが、人生の目的を明確にし、その実現に向けて没頭する心理療法を紹介する本です。原題を直訳すると「それでも人生に然りと言う:ある心理学者、強制収容所を体験する」となります。実存心理学の名著であり、極限の環境におかれたとしても、何かが、あるいは、誰かがあなたを待っているということを主張しています。絶望して終わるのではなく、人生が何をわれわれに期待しているのかが問題であり、私たちはそれを学ぶことが重要だとしています。何度か読み直すことによって、人生への理解が深まる気がします。 (★★★★★)

  • 松田 忠徳, 増田 晋作: 枕草子の日本三名泉 榊原温泉

    松田 忠徳, 増田 晋作: 枕草子の日本三名泉 榊原温泉
    榊原温泉は、全国的に有名とはいえないかも知れませんが、名湯です。それは、枕草子に「湯は七栗の湯 有馬の湯 玉造の湯」にある、七栗の湯が榊原温泉と考えられるからです。最近、日本三名泉といえば、有馬温泉/兵庫県、草津温泉/群馬県、下呂温泉/岐阜県とされますが、枕草子に取り上げられたのはそれよりも古く、「元祖日本三名泉」といえます。榊原温泉の湯は、肌がきれいになる「美人の湯」というだけでなく、抗酸化作用もある健康の湯でもあります。この本は、日本一の温泉教授・松田先生と、地元を知り尽くした増田さんの共著で、「何もない」といわれていた榊原温泉の魅力を語り尽くしています。ちなみに、私にとっては家内の実家を知る上で格好のガイドブックです。 (★★★★)

  • 文藝春秋: 定年後に読む不滅の名著200選 (文春新書)

    文藝春秋: 定年後に読む不滅の名著200選 (文春新書)
    この本の帯には「これが定年後の知の道しるべ!」とありますが、私自身はさほど大上段に構えたつもりで読んではいません。どのような本が選ばれているかにももちろん興味はあったのですが、それらがどのように紹介されているかといった方面に興味があって読みました。本を紹介している方々はいろいろな分野で功なり、名を挙げた方ばかり。それらの方がどんな本を読み、どのように唱歌していらっしゃるかが知りたかったのです。ちょっと邪道な読み方ではありましたが、しっかりと楽しめました。 (★★★★)

  • 石田泰弘(編著): 街道今昔 佐屋路をゆく (東海の街道2) (爽BOOKS 東海の街道 2)

    石田泰弘(編著): 街道今昔 佐屋路をゆく (東海の街道2) (爽BOOKS 東海の街道 2)
    さほど本格的に取り組んでいるわけではありませんが、昔の街道を歩くのは好きです。この本のテーマである佐屋路(佐屋街道)も歩きたいと思って調べています。佐屋路は、東海道佐屋廻りとも呼ばれたように、東海道の迂回路でした。江戸時代に東海道宮宿と桑名宿の間を、陸路万場宿、佐屋宿の陸路を経て、佐屋から桑名宿への水路三里の渡しによって結んでいた街道です。実際に歩いて書かれたと考えられますが、旅人目線で書かれたウォーキングガイドです。津島街道、高須道も取り上げられています。部分的には歩いたところがありますが、佐屋路はいずれ、歩いてみたいと思い、計画中ですので、とても参考になりました。実際に歩かなくとも、歴史読み物としても楽しめます。 (★★★★★)

  • 柳瀬博一: カワセミ都市トーキョー 【電子限定カラー版】 (平凡社新書1049)

    柳瀬博一: カワセミ都市トーキョー 【電子限定カラー版】 (平凡社新書1049)
    東京都心にたくさんのカワセミが棲んでいるというのは、最近割とよく知られるようになっています。清流の鳥というイメージがあるかも知れませんが、東京の「野生」環境をうまく利用して繁殖もしています。そのカワセミが暮らす街は東京屈指の高級住宅街ばかりだそうです。すなわちカワセミも、人間も好む環境は同じというのです。カワセミが暮らす街は、人間にとってもよい街ということです。カワセミの存在に気付いたことから、「小流域源流」をキーワードに「新しい野生」と「古い野生」の繋がりを論じています。カワセミの生態も詳しく観察されていますので、私も今までよく知らなかったことが多々書かれていて、興味深く読みました。 (★★★★)

  • 内田 樹: コモンの再生 (文春文庫)

    内田 樹: コモンの再生 (文春文庫)
    私は、内田樹先生の評論が好きで割とよく読みます。「コモン(common)」とは、形容詞としては「共通の、共同の、公共の、ふつうの、ありふれた」という意味ですし、名詞としては「町や村の共有地、公有地、囲いのない草地や荒れ地」を意味します。昔は、ヨーロッパでも日本でも村落共同体はそういう「共有地」を持っていました。コモンを管理するには「みんなが、いつでも、いつまでも使えるように」という気配りが必要になるのですが、近代になって怒った「囲い込み」によって「コモンの私有化」が起こり、村落共同体が消え、集団的に維持されていた儀礼、祭祀、伝統芸能、生活文化が消えてしまったのです。著者は、このコモンを再生することが市民の原子化、砂粒化、血縁、地域共同体の瓦解、相互扶助システムの不在という索漠たる現状を何とかするために必要と考えています。ちなみに、マルクスとエンゲルスによるコミュニズムは、著者によれば「共同体主義」と訳した方がよく、彼らは「コモンの再生」が必要と提言したといいます。「共産主義」と訳されてしまったがため、なんだかよく分からないことになっているのです。「共有主義」あるいは「共同体主義」と意訳してくれていたら、もろもろが変わっていたかも知れないという話には、膝を打ちました。 (★★★★★)

  • 本田 秀夫: 知的障害と発達障害の子どもたち (SB新書)

    本田 秀夫: 知的障害と発達障害の子どもたち (SB新書)
    児童精神科医の本田先生の最新刊です。今回は知的障害が取り上げられています。これまでの本田先生の御著書では、発達障害が主に取り上げられてきたのですが、実は知的障害を持つ子どもたちも一定数存在していますし、発達障害と知的障害を合わせ持つ子どもたちもいます。その意味で、発達に困難のある子どもたちのことをきちんと理解して、適切な支援をする上では、両者を視野に入れることが重要です。著者は、知的障害の支援では、「早く」と「ゆっくり」がキーワードになると書いておられます。これは私もそうだと思います。可能な限り早期から支援を受けた方がよく、一方で、発達のスピードに合わせて「ゆっくり」としたペースで支援をすることが大切になります。発達障害の子どもたちにも「本児のペースに遭わせた支援が必要」とおっしゃる方がありますが、発達障害の子どもたちの理解/支援の上でのキーワードは「アンバランス」です。この本は、発達が気になるお子さんをお持ちの保護者の方、特別支援教育に携わる教員の方々にとって、基本的なテキストといえます。 (★★★★★)

  • BIRDER編集部: お手本でわかる!野鳥撮影術 (BIRDER SPECIAL)

    BIRDER編集部: お手本でわかる!野鳥撮影術 (BIRDER SPECIAL)
    バードウォッチングや野鳥撮影を趣味にしています。とはいえ珍鳥を追うのではなく、主に自宅近くを散歩しながら、いわば「定点観測」のように野鳥を見ています。自分の写真の撮り方を振り返ると、図鑑的に撮ることがほとんどです。なぜそうなのかを考えてみると、研究者の端くれであったことが関わっている気がします。つまり、写真を撮ることを、観察した記録やデータと見ているからではないかということに思い当たりました。野鳥撮影の「幅を広げたい」と思っていたら、この本が出版されました。ざっと目を通したところ、「色とりどりの花と鳥」「木の実レストラン」「やわらかい表情を追う」などさまざまなテーマで鳥とその周辺を撮る方法が載っています。これを参考に、自分の野鳥写真の世界を広げられたらいいなと思える本です。 (★★★★★)

  • 磯田 道史: 磯田道史と日本史を語ろう (文春新書)

    磯田 道史: 磯田道史と日本史を語ろう (文春新書)
    磯田道史さんが、さまざまな分野の達人と歴史についての論賛をしたのをまとめた本です。論纂とは、①人の徳行や業績などを論じたたえること、②史伝の終わりに著者が書き記した史実に対する論評のこと。異分野の専門家同士が議論をすることによって生まれるものは、別次元となり、大変興味深いものとなります。この本がその論より証拠。養老孟司さんとの論賛からは「脳化社会は江戸時代から始まった」という話が出て来ています。忠、孝、身分などは、シンボリズムであり、それらは見たり、触れたりできません。また、関東大震災に遭遇したことは、被害に対する鈍感さをもたらし、それが太平洋戦争につながったという指摘には、なるほどそういう面も確かにありそうだと思わされました。その他、歴史や人間について、実にさまざまな、新しい見方が示され、大変おもしろく読み終えました。 (★★★★★)

  • 保阪 正康: 近代日本の地下水脈 I 哲学なき軍事国家の悲劇 (文春新書 1440)

    保阪 正康: 近代日本の地下水脈 I 哲学なき軍事国家の悲劇 (文春新書 1440)
    本の帯に「『水脈史観』で日本の失敗を読み解く」とあります。「水脈史観」という概念には初めて接しましたが、「攘夷のエネルギーは、いまも日本社会の根底に流れている」という見方です。明治維新後、日本がとりえた国家像は、欧米型帝国主義国家、道義的帝国主義国家、自由民権国家、米国型連邦制国家、攘夷を貫く小日本国家の5つであったが、哲学なきまま欧米型帝国主義国家の道を突き進み、軍事中心の国家作りを推し進めたことが、戦前の日本の失敗の原因であったというのが著者の主張です。それは確かにそうだと思いますが、私には、ほんのサブタイトルにある「哲学なき国家」ということが、現代日本の様々な問題の背景にあるような気がしてなりません。 (★★★★)

  • 佐伯 泰英: 陰流苗木(かげりゅうなえき)~芋洗河岸(1)~ (光文社文庫)

    佐伯 泰英: 陰流苗木(かげりゅうなえき)~芋洗河岸(1)~ (光文社文庫)
    今回も特別に時代小説を取り上げます。この2つ前の本に佐伯泰英さんの「恋か隠居か 新・酔いどれ小籐次(二十六)」を取り上げ、これは佐伯さんの300冊目の「文庫書き下ろし小説」だと書きました。今回のこの本は、301冊目です。しかも、80歳を越えて、さらに新しいシリーズを始められたのです。美濃を食い詰めた浪人・小此木善治郎が、職なし、金なし、住むあてなしながら、剣の達人にしてとぼけた侍であるものの、なんとも頼りになる存在で、親切な住人や大家によって受け入れられた長屋の秘密と謎の渦に巻き込まれるという設定。これまたおもしろそうなシリーズです。毎月刊行で、全3巻の予定とか。第2巻が待ち遠しい内容です。 (★★★★★)

  • 養老孟司, 鵜飼哲夫: なるようになる。 僕はこんなふうに生きてきた(中央公論新社)

    養老孟司, 鵜飼哲夫: なるようになる。 僕はこんなふうに生きてきた(中央公論新社)
    養老先生の新刊が出たというので早速入手し、ほぼ一気に読み終えました。「はじめての自伝!」といううたい文句で、帯には「虫と猫と、バカの壁。考え続けた86年」ともあります。養老先生は、かなりしつこい性格でいらっしゃるようで、疑問に思ったことは「まぁいいか」などと思わず、考え続けてこられたそうです。その結果が、これまでのユニークな著作に結実しています。それはさておき、考え続けた結果、「なるようになる。」というのが、養老先生の現時点での結論だそうです。「なるようにしかならない」ではなく、「なるようになる。」のです。物事は、はっきりとした目的意識があって進むのではないので、「なるようになる。」なのです。忘れてしまったような些事がその後の人生を動かしてきたかもしれないともあります。なるほどと、この本を読み、養老先生の来し方をいささか知ると、納得できます。というか、納得した気になっているだけかも知れませんが…… (★★★★★)

  • 佐伯 泰英: 恋か隠居か 新・酔いどれ小籐次(二十六) (文春文庫)

    佐伯 泰英: 恋か隠居か 新・酔いどれ小籐次(二十六) (文春文庫)
    佐伯泰英さんは、この本で「文庫書き下ろし小説」というジャンルで300冊刊行を達成されました。佐伯さんの時代小説はすべて読んでいます。まさにストーリー・テラーといえる作家で、実に読み応えのある時代小説をたくさん書いておられます。このシリーズは、いったん完結となったかと思ったのですが、この「恋か隠居か」で復活しました(と理解しています)。隠居を考える小籐次ですが、小籐次親子に挑戦状が届くところから始まる物語。今回も楽しめました。 (★★★★★)

  • 安藤優一郎: 15の街道からよむ日本史 (日経ビジネス人文庫)

    安藤優一郎: 15の街道からよむ日本史 (日経ビジネス人文庫)
    街道歩きを少ししています。三重県内では、東海道のほとんど、伊勢参宮街道、美濃街道・養老街道などを歩きました。もっとあちこちの街道を歩きたいと思っていますが、そのときにこの本が出版されましたので、早速入手して読みました。芭蕉の奥州街道、伊勢参宮街道のお伊勢参り、武士の旅日記などの章をとくに興味深く読みました。主要な街道を取り上げることで読みやすい歴史物語となっています。 (★★★★)

  • 大芦治: 心理学をつくった実験30 (ちくま新書)

    大芦治: 心理学をつくった実験30 (ちくま新書)
    「誰もが一度は耳にしたことがある有名実験の背景・内容・影響を紹介、新たな心理学像を呈示する」と帯にあります。心理学全般に関心を持つ社会人を読者に想定しているといいますが、私には心理学史のテキストとして、あるいは、入門段階の心理学を学んだ方がさらに学習を深める際に読む本としてもよいかも知れません。 私自身も、心理学の教科書を執筆したことが何度かありますが、そこに引用する理論や実験については、いわゆる「孫引き」をしてしまったこともよくありました。この本の著者は、可能な限り原典にあたって執筆していらっしゃり、その意味では参考になったところが多々あります。 ところで、著者は心理学の未来にあまり明るい展望を持てないようです。臨床心理士、公認心理師の資格が人気を集め、心理学部などもたくさん設けられました。私自身の勝手な個人的意見を書けば、資格ができると、レベルは下がると思っています。根拠はありません。個人的な印象によるものです。私は実験心理学でトレーニングを受け、臨床心理の分野に進みました。心理学の基本は実験心理学と個人差測定心理学にあると思っています。学部段階からいきなり臨床心理学プロパーに進むのは、相当よろしくないと思います。臨床実践にあたってはその基礎となる確かな、科学的な学問(知見、理論なども含む)が必要です。また、仮説演繹法などのものの見方もきちんと身に付ける必要があります。これらは実験心理学と個人差測定心理学から養われると思っています。 この本は、基礎的知識がない方がいきなり読むのは難しいでしょうが、科学的心理学を学びたいと思う方にはよい参考書となります。 (★★★★)

  • 磯田 道史: 家康の誤算 「神君の仕組み」の創造と崩壊 (PHP新書)

    磯田 道史: 家康の誤算 「神君の仕組み」の創造と崩壊 (PHP新書)
    磯田先生の書く本はどれもとても面白く読めます。といっても、私が読むのは研究書ではなく、新書だからなのかも知れません。この本は、家康がなぜ幕藩体制を創ることができたのか、江戸時代、誰が神君の仕組みを崩わしたのか、幕末、かくして神君の仕組みは崩壊した、神君の仕組みを破壊した人々が創った近代日本とは、家康から考える日本人というものという5つの章からなっています。家康は天下を取ったあとこの国を支配するのに巧妙な仕掛けをつくり、平和な時代が続いたのですが、誤算が生じて、徳川政権が変質し、崩壊に至ったと著者は考え、そのプロセスを俯瞰しています。いろいろな時点で「神君の仕組み」を骨抜きにする人物や政策が表れたといいます。組織が弱体化する姿を見ておくと、自分たちの劣化を防ぐ力が養われると磯田先生は述べています。徳川時代が現在にあたえている影響も多く、その分析も興味深く読めます。 (★★★★★)

  • 多井 学: 大学教授こそこそ日記

    多井 学: 大学教授こそこそ日記
    文庫本を買いに本屋に行ったら、平積みしてあるのを見つけて思わず買ってしまいました。私もその昔、ご同業だったことがあったからです。帯に「いくらでも手抜きのできる仕事」とありますが、私の経験でもそういう人もそれなりにいました。ちなみに私自身は、こき使われたと思っています。さらに「現役教授が打ち明けるちっとも優雅じゃない生活」とも書かれていますが、これはまさに私の体験と同じ。本に書かれていることがらも、ことごとく納得できます。私は、「そうそう!」といいながら読み終えました。大学教授で儲けている人はごく一部などなど。まぁ大学教授の仕事や生活に興味をお持ちの方は、さほど多くはいらっしゃらないとは思いますが、お暇な方にはどうぞ。 (★★★★)

  • 宮口 幸治: 境界知能の子どもたち 「IQ70以上85未満」の生きづらさ (SB新書)

    宮口 幸治: 境界知能の子どもたち 「IQ70以上85未満」の生きづらさ (SB新書)
    「境界知能」という言葉は、専門家はよく知っていると思いますが、一般のご父兄や、小中学校の先生方にはあまりなじみがないかも知れません。IQという指標でいえば、多くの場合70以上85未満の子どもたちがこれに該当する可能性があります。一見したところでは普通の子どもたちと変わりはなく、なかなか気づかれません。しかし、理論的には約14%の子どもたちが含まれますから、本の帯にあるように「日本人の7人に1人」となります。平均と知的障害のはざまにあり、気づかれにくいものの、授業について行けなかったり、友だちと上手くつきあえなかったり、感情のコントロールが苦手であったりして、当事者の子どもたちは苦戦し、辛い思いをしています。発達障害はよく知られるようになりましたが、境界知能の子どもたちにもしっかり目を向け、必要な支援を提供することは喫緊の課題といえます。この本では、境界知能とはどのような状態なのか、教科学習の前に認知機能を向上することの重要性、子どもの可能性をいかに伸ばしたら良いかについて具体的に、分かりやすく解説されています。 (★★★★)

  • 関裕二: スサノヲの正体(新潮新書)

    関裕二: スサノヲの正体(新潮新書)
    タイトルに惹かれて手に入れたものの、序章の記述が私にとっては退屈でしばらく放っておいたり、読み直そうと思ってくじけたりしていました。しかし、そこを乗り越えるとこの本はとても面白くなり、ほとんど一気読みしました。スサノヲ(素戔嗚尊)の正体を探るプロセスでアマテラス(天照大神)の謎も明らかにされて行き、それもとても興味深いものがあるのです。アマテラスは皇祖神とされますが、実在の初代王と言われる崇神天皇はアマテラスを伊勢に追いやっています。また、伊勢神宮を整備した持統天皇だけは伊勢に参ったものの、それ以降明治になるまで、1,000年以上も歴代天皇は伊勢神宮を訪れていません。明治天皇が東京に遷御したあと武蔵国の鎮守勅祭の社に定めたのは、スサノヲの祀られる氷川神社(現さいたま市)です。明治天皇は氷川神社を訪れた翌年に、伊勢神宮を訪れています。そもそも伊勢にいる神はアマテラスなのかという疑問にも立ち向かっている、古代史や神に関心がある方にはお勧め。 (★★★★★)

  • 安藤 優一郎: 大名屋敷「謎」の生活 (PHP文庫)

    安藤 優一郎: 大名屋敷「謎」の生活 (PHP文庫)
    時代小説をよく読みます。捕物帖、市井の人たちの生活、侍の物語、大名の話などいろいろとあります。庶民の生活については、これまでもいろいろな本でかなり知っていますが、大名の生活については分からないところの方が多いと思っていました。タイトルに惹かれて買ったのですが、大名やその家族の生活が詳しく書かれているのではなく、勤番侍の生活、大名屋敷の庭園、御用達商人や豪農、幕末の動乱と大名屋敷などの話が中心でした。それはそれで知らなかったことが多々あり、興味深く読みました。 (★★★)

  • 服部環ほか: 指導と評価2023年10月号(図書文化社)
    「指導と評価」は、日本教育評価研究会の機関誌であるとともに、日本で数少ない教育評価に関する月刊誌です。この号では、教育・心理検査の意義と活用という特集が組まれています。「教育・心理検査の意義」に始まり、WISC-Ⅴ、KABC-Ⅱなどの個別検査の使い方、解釈の仕方、指導への活かし方がそれぞれの専門の先生によってわかりやすく解説されています。特別支援教育の現場でも、きちんとした心理アセスメント所見に基づいた支援を展開することが望ましいのですが、現場の先生方には敷居が高いようです。ご関心がおありの方には、どのように使えるか、どのように考えたらよいかについて基本的なことがらを理解するのに適しています。出版社のWebサイトからバックナンバーとして購入できます。 (★★★★)
  • 石田 光史, 樋口 広芳(ナツメ社): ぱっと見わけ観察を楽しむ 野鳥図鑑

    石田 光史, 樋口 広芳(ナツメ社): ぱっと見わけ観察を楽しむ 野鳥図鑑
    野鳥図鑑はすでに何冊も持っていますが、この野鳥図鑑は、2015年の刊行で、なぜ今までこの存在に気づかなかったと反省するほど便利そうなもの。掲載されているのは324種ですが、それぞれの特徴や、見わけのポイントがパッとわかるようになっています。その鳥の生活型や生息地、食性や羽色、形態などのほか、雌雄、夏羽冬羽、幼鳥などで特徴が異なる場合は、それらについても説明されています。観察したい行動から、おもしろい生態、探し方までもが載っていますし、鳥の鳴き声が聴けるQRコードも付いています。私自身、野鳥の特定がけっこうアヤシいので、しっかり活用しましょう。 (★★★★★)

  • 千枝大志(風媒社): 街道今昔 三重の街道をゆく (爽BOOKS)

    千枝大志(風媒社): 街道今昔 三重の街道をゆく (爽BOOKS)
    「東海の街道」シリーズの第4巻です。「街道歩きのお供に最適の1冊」といううたい文句。内容は、三重の主な街道、近世三重の城郭図・城下図を読み解く、お伊勢参り小咄、伊勢をめぐる〈参詣〉をデジタル化するの4章構成で、まさに三重の街道歩きの参考書としてよいと思います。私自身も県内の東海道、伊勢街道、美濃街道、濃州街道はほとんど歩き、ほかの街道も部分的に歩いていますし、城もここに載っているところはかなり訪ねています。デジタル化も、ブログに写真・記事を載せていますから、出来不出来はともかく、私も取り組んでいます。県内の街道はさらに歩こうと思っていますし、デジタル化にももっと取り組みたいと考えていますので、十分活用できるでしょう。 (★★★★★)

  • 唐沢孝一: 都会の鳥の生態学 カラス、ツバメ、スズメ、水鳥、猛禽の栄枯盛衰 (中公新書)

    唐沢孝一: 都会の鳥の生態学 カラス、ツバメ、スズメ、水鳥、猛禽の栄枯盛衰 (中公新書)
    都市にもたくさんの野鳥がいることを知る人は少ないかも知れません。私がいつも散歩している地方都市の公園では、これまで10年あまりで70種類近くの野鳥を観察しています。都会は自然の少ない人工的な環境にあふれていますが、野鳥たちはもともとの生態を活かしつつこれらにしたたかに適応してい生きています。この本では、カラス、ツバメ、スズメ、水鳥、猛禽を取り上げ、その都会における生態や、活動の変化、人間と鳥との関係とその変化などについて多くの実例や、調査結果をもとに、豊富な写真を使って楽しく読めるようにまとめられています。 (★★★★★)

  • 堤未果: 堤未果のショック・ドクトリン 政府のやりたい放題から身を守る方法 (幻冬舎新書)

    堤未果: 堤未果のショック・ドクトリン 政府のやりたい放題から身を守る方法 (幻冬舎新書)
    「ショックドクトリン」とは、テロや大災害など、恐怖でこくみんが思考停止している最中に、為政者や巨大資本がどさくさ紛れに過激な政策を推し進める悪魔の手法のことです。アメリカでの3.11以来、日本でも大地震やコロナ禍の裏で知らない間に個人情報や資産が奪われようとしているというのがこの本のテーマ。パンデミックで製薬企業は空前の利益を得、マイナンバーカード普及の先には政府のよからぬ思惑があるなどよくよく注意し、自分の生命・財産を守らないといけないというのが著者の主張。「今だけ、自分だけ、お金だけ」という強欲資本主義に負けないようにするには、ちょっとした違和感を大事にし、お金の流れがその裏にないか、また、それで大もうけして回転ドアをくぐって逃げる輩がいないかをチェックすることです。また、政府が何か、大急ぎで導入しようとしたり、既存の制度を急拡大しようとするときは、要注意だそうです。 (★★★★)

  •  奥山景布子: 葵の残葉 (文春文庫)

    奥山景布子: 葵の残葉 (文春文庫)
    いわゆる「高須四兄弟」である徳川慶勝、松平容保、松平定敬、徳川茂栄は、幕末維新の激動期に、結局のところ官軍と幕府とに分かれて戦う運命になったのですが、この四兄弟を取り上げて埋もれた歴史を活写した小説。私自身は、桑名藩主であった松平定敬が取り上げられているので興味を持って手に取った次第。幕末維新は、次々に色々な出来事が起きて、さまざまな人たちの思惑も複雑に入り組んでいるので、小説にするのは難しいと思っていたのですが、隠れた主人公ともいえる高須四兄弟の視点からとても躍動感のある読み物になっています。また、この時期の歴史をより一層深く理解できたという感想も持っています。 (★★★★)