昨日(11/3)、近鉄ハイキング「蒲生氏郷を訪ねて 氏郷まつりと松阪城下町散策」へ出かけてきました。松阪へは、5月26日にJRさわやかウォーキングで行っていますが(20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(予告編))、そのときと多少異なる立ち寄りポイントも設定されていましたし、5月に見忘れたところもありましたので、行ってきたという次第です。ちょうど昨日は、ハイキングのテーマにもありますように、松阪では氏郷まつりが開かれていて、大賑わいでした。

松阪駅での受付は、9時半から11時ということで、近鉄桑名駅を9時1分に出

る五十鈴川行き急行に乗車、近鉄松阪駅には10時10分着。¥940。松阪駅は、北口が近鉄。右が、この日のコースマップ。八雲神社、愛宕山龍泉寺、松阪神社、本居宣長ノ宮、松坂城跡、松阪市立歴史民俗資料館、旧長谷川邸を経て、松阪市観光情報センターで抽選会で、ゴールは再び松阪駅(JR側、南口)という約5㎞コース。このうち、松坂城跡や、旧長谷川邸は、5月に訪れています。
松阪市立歴史民俗資料館は、そのときは疲れてパスしましたが、現在、「
開館40周年記念特別企画 松坂城1588-2018 ~天下人も認めた武将 氏郷の城~」という展覧会が催されていますので、是非とも見てこようと思っていました。

左が実際に歩いたルートマップ。抽選会が13時30分までということもあっ

て、旧長谷川邸などはパスしました。他に、5月の時、蒸し暑くて、疲れたため寄り道しなかった本居宣長墓所(樹敬寺)を見て来ました。結局、5.8㎞。暑くもなく、寒くもなく、ハイキング日和でした。右は、氏郷まつりの会場案内図に歩いたコースを入れたもの。ご覧いただくとお分かりですが、150ほどの店舗やブースが出ていて、大賑わいでした。

スタートしたのは10時20分。近鉄側からですので、上記のように北口。松

阪の市街地は、駅の西にあります。松阪駅北側にある地下通路を通って、移動。右の写真が、JR松阪駅。駅の前には、本居宣長が好んだ「
驛鈴」のモニュメントがあります。宣長ゆかりの遺品「七古鈴(七種鈴)」の一つ。

松阪駅から南東に延びるメインストリートを下っていきます。中央ステー

ジとされているあたり。「松阪しょんがいソーラン」の方たちが、出番待ち。露店には、昔懐かしいスマートボールも。昔からある
ベルタウン のところを左折し(南東)八雲神社に向かいます。

スタートから600mほどで八雲神社の楼門。道からは少し入り込んでい

て、見逃しそうでした。平安時代に松ケ島に創建された天王社が起源で、天正16(1588)年、蒲生氏郷が松坂城を築城したとき、松ケ島から当地に移されたと伝えられています。

御祭神は、
建速須佐之男命(タケハヤノスサノオノミコト)と
櫛名田比売命
(クシナダヒメノミコト)なっています。が、境内には摂社、末社がたくさん。右はその一部の福徳稲荷、八幡社、多賀社。他にも住吉大明神、浅間神社、大国主社などなど。

こういう立派な神宮遙拝所までありました。神社検索三重には登録されていませんので、調べるのに苦労しそう(苦笑)。

八雲神社から500mほど。愛宕町の信号のすぐ北に
愛宕山龍泉寺(真言

宗)があります。昔から「お伊勢に七度 熊野に三度 愛宕さんへは月参り」といわれ、火防安住、商売繁盛、良縁祈願所として信心を集めています。地元の方からは、「あたごさん」と親しまれています。ご本尊は、火防(ひぶせ)の霊神「愛宕大権現」と、その御分身の「愛染明王(あいぜんみょうおう)」。三重四国八十八霊場の「第八十番札所」であり、伊勢乃国・松阪霊地七福神 「毘沙門天(びしゃもんてん)」も祀っている寺院でもあります。

こちらは、境内にある、松坂城を築いた
蒲生氏郷(弘治2 (1556)~文禄4

(1595)年)の墓。文禄4年2月の建立とありますから、氏郷がなくなったときに建てたと思われますが、氏郷は、天正18(1590)年に会津若松に転封になっています。さらに境内には、津島神社や、稲荷社2社、不明社1社などもあり、神仏習合の色合いが濃く感じられます。

本堂には、絵馬がいくつか奉納されています。それをよく見ると、たとえばこちらの願主は、「三重修験道会」となっています。
修験道は、密教との関連が深いためかという気がします。

龍泉寺には立派な三門があります。切り妻造りの
薬医門で、時代は安土桃山時代のもので、その風格を示すといわれます。松ヶ島城裏門を移したとも、松坂城の門を移したともいわれるようですが、確証はないそうです。

龍泉寺を出て、愛宕町交差点から愛宕町西交差点で右折。北西へ向か

います。ここは、昔の
伊勢街道(参宮街道)。氏郷まつりでは、戦国ステージとなり、忍者ショーが開かれていました。午後からは、氏郷の出身地である滋賀県日野町から鉄砲隊が来て演武があるようでした。500mほど進むと日野町交差点。ここで先ほどの「松阪しょんがいソーラン」の方たちに遭遇。

日野町交差点の南側の角のヒシナカ薬局の前には、伊勢街道(参宮海道)と
和歌山街道との追分を示す道標があります。写真は、南から撮っています。「左 さんぐう道 八雲神社 右 わかやま道」と刻まれています。ここで左折し、伊勢街道から和歌山道に入りました。ちなみに、「日野町」とは、蒲生氏郷が近江国日野から移転してきた際、日野から連れてきた商人や住民がいたことから、町名になったといわれます。

道標から100mほど、少し奥まったところに法幢山
樹敬寺(じゅきょうじ)。

京都知恩院の末寺で、浄土宗。建久6(1195)年、俊乗坊重源上人によって開かれました。ここは、代々、本居一族の菩提寺です。宣長墓(国史跡指定)もあるのですが、5月に来たときは、蒸し暑くて、汗だく、ヘロヘロの状態でしたので、右の案内図を見て、断念(苦笑)。相当奥まで入って行かなければならない印象を持ったのです。そこで、今回、リベンジ。

立派な本堂の脇を通って、墓所へ。本居宣長墓所は、本堂の裏、道を一

本隔てたところにあります。「本居宣長・春庭墓」は、国指定の史跡。

こちらが、本居宣長墓所。宣長は72才で生涯を閉じる前年、遺言書をし

たため、墓所と戒名を定めています。「高岳院石上道啓居士(こうがくいんせきじょうどうけいこじ)」を刻んだ墓石が、子の春庭の墓と背中合わせに並んでいます。左の写真では、「史跡 本居宣長墓」の石柱に向かって左側にあります。

本居宣長墓所の奥(南西)には、原田二郎墓所があります。
原田二郎は、紀州藩松坂領の町奉行所の同心の家に生まれ、大蔵省に勤めた後、31歳で横浜の第74国立銀行(現在の横浜銀行の前身)の頭取となり手腕を発揮。34歳のとき松阪に戻ります。54歳の時、井上肇の依頼で大阪の鴻池銀行の整理、再建にあたりました。71歳で再建に成功した後、退職。その時得た莫大な退職金、全財産をすべてつぎこみ、社会公益事業に対する助成団体、原田積善会を設立しました(大正9(1920)7月)。5月に
原田二郎旧宅(市指定有形文化財)を訪れています。これで5月にやり残した課題が1つ、解決。

和歌山街道に戻って、新町交差点まで400m。右折し、松阪工業高のグラ

ウンドのところで右折し、松阪工業高校の前へ。グラウンドの片隅には、松阪商業学校、松阪商業高校の跡地であることを示す石碑があります(左の写真で左隅)。松阪工業高校のすぐとなりが松阪神社。

左の写真は、松阪神社の二の鳥居。ここから、御城番屋敷の方に一の

鳥居があります。そちらを見ると、何やらかけ声が聞こえ、行列が進んできていました。武者行列がやって来たようでした。これは見逃す手はありません。

蒲生氏郷公と、冬姫は行列のはじめにいらしたようで見逃してしまいましたが、行列は何とか見られました。松坂城跡を11時にスタートし、ここは11時40分頃通り過ぎて行きました。
松阪神社の拝殿。古来「意悲神社」(おいじんじゃ)と呼ばれ、平安時代以前の創立で、飯高の國式内社九座の一座と伝えられていますが、その創立の年代は詳かではありません。室町末期の天正16(1588)年、蒲生氏郷が、飯高郡矢川庄の宵の森と呼ばれていた丘に築城された時に、城の鎮守社と定めて、宵の森の南の丘に社を新たに御造営されて出来た神社です。明治41(1908)年3月、大字殿町の雨龍神社(建速須佐之男命)はじめ8社を合祀し松阪神社と称しています。また同年6月には、飯南郡松江村大字西之庄字片間の八重垣神社(建速須佐之男尊)他6社を、さらに42(1909)年4月には、飯南郡鈴止村大字東岸江字里の鈴止神社(五男三女神)を合祀し現在に至っています。

そのため御祭神はかなりたくさんいらっしゃいます。主祭神は、誉田別命(ホンダワケノミコト、八幡様)と宇迦御魂神(ウカノミタマノカミ、お稲荷様)。その他、天照皇大神、伊邪那岐大神、伊邪那美大神など33柱(
こちらをご覧ください)。いやぁ、調べるのが大変そう。ざっと見ても、初めて名前を目にする神様も多数。

樹齢900年を越える大楠がご神木。氏郷が神社を造営した頃、すでにこの位置に500年の経過した木になっていたといいます。樹高25m、胸高周囲7m。木下には、深さ3mの穴があり、太い根は穴の上にまたがって生えています。

境内社の少名彦命社。この社は、松阪市愛宕町より、昭和38(1963)年2月に遷されて来ました。少彦名命は、「古事記」や「出雲神話」などに登場する神様で、“一寸法師”の童話のモデルとも云われています。また、薬や酒を造ったとされ、特に病気平癒に御利益があると、信仰を集めています。

松阪神社の隣には、
本居宣長ノ宮があります。松阪神社とはまったく別。本居大人奥墓がある旧山室村から大正4(1915)年、この森に遷座。ながく本居神社と称していましたが、平成7(1995)年、社号を本居宣長ノ宮と改めました。御祭神は、本居宣長と、賀茂真淵。それ故、学問の神として広く知られています。

宣長の歌碑がありました。「志きしまの やまとこころを 人とはば 朝日ににほふ 山さくら花」。本居宣長61歳(寛政2(1790)年)の時の自画像に添えられた歌だそうです。

境内社には、末広稲荷神社があります。御祭神は、宇迦之御魂大神。も

とは、
興和紡績・松阪工場(松阪市垣鼻町)の前身、松阪木綿株式会社が京都伏見に鎮座する旧官幣大社伏見稲荷神社の分霊を勧請したのが始まりで、同工場の守護神として祀られていました。平成10(1998)年12月、同工場閉鎖により、平成11(1999)年4月、ここに正式に御遷座。

そして、
松坂城跡。12時に到着。スタートから4㎞。左の写真は、
搦手口。

ここを登って右へ行くと二の丸跡。二の丸跡からは、御城番屋敷がよく見えます。5月の時と同じく、御城番屋敷を見ながら弁当。

昼食後は、予定通り、。
松阪市立歴史民俗資料館へ。「
開館40周年記念
特別企画 松坂城1588-2018 ~天下人も認めた武将 氏郷の城~」という展覧会を見てきました。入館料は¥100なのですが、あみま倶楽部の会員割引で、何と¥80。稀代の戦国武将・蒲生氏郷と、後に天下人といわれた織田信長、豊臣秀吉、徳川家康との関わりや、明治以降の近代の松坂城跡にも焦点を当てた興味深い展示でした。

この松阪市立歴史民俗資料館の建物は、旧飯南郡図書館の本館と倉庫でした。明治43(1910)年、皇太子の行啓を祈念して建設され、明治45(1912)年に開館しました。昭和52(1977)年に図書館が別の場所に新築移転したため、歴史民俗資料館となっています。国の登録有形文化財です。

松坂城跡には、たくさんの石碑、文学碑などがあります。5月に来たとき

にかなり見て回ったのですが、1つ、見忘れたものがありました。今日は、その1つを確認しようと、歴史民俗資料館を見てから遠見櫓跡へ。

それが、こちらの「大林翁祈念碑」。幕末・明治期の漢学者である大林省軒を顕彰する碑。大林は、
斎藤拙堂門下の漢学者で、松坂学問所等の教官を経て、桂蔭塾を開講したとのこと(
こちら)。大正6(1917)年建立。「松阪学問所」は、文化元(1804)年に紀州藩が、「代官小路」(現在の第一小学校の校舎の建っている殿町のところ)につくったもの。敷坪350坪。その後、慶応2(1866)年、紀州藩の藩校改革により、松坂学問所は、大手門通に移転し、「松坂学習館」として拡充されています(
こちら)。

これでこの日のメインは制覇。松坂城跡を追手門から出て、市役所前を

通って駅に向かいます。

コースマップでは、旧長谷川邸などにも立ち寄ることになっていますが、5月のJRさわやかウォーキングで来ていますし、ゴールでの抽選会が気になったのでパス(左の写真の小路を入ったところに
旧長谷川邸があります。旧長谷川邸の筋向かいには、
本居宣長旧宅跡、さらにその奥には
牛銀本店などがあります。

本町交差点を右折。旧伊勢街道に入ります。ここは氏郷まつりで大賑わ

い。今日通った中ではもっともお客がたくさん出ていたような気がします。

ここでは、射的の店を発見。これまた懐かしいですねぇ。お客さんもけっ

こうはいっていました。松阪肉で有名な
和田金の前を素通りして(苦笑)、ゴールのJR松阪駅へ。和田金さんも露店を出しておられましたが、松阪牛の切れ端の詰め合わせが¥2,000。なかなか良いお値段でした。

ゴールは、JR松阪駅というか、駅前にある松阪市観光情

報センター。13時12分にゴール。5.8㎞。ここで、抽選会。コースマップに番号が振ってあり、その末尾の数字で当否が決まります。が、あいにく当選は、「5、7」で外れ(苦笑)。

しかし、外れても、
松阪茶と、「ちゃちゃもどら」というお菓子を1個いただけました。「ちゃちゃもどら」は、茶のどら焼き(1個¥140)。
都古水月 (みやこすいげつ)のお菓子。これ、ありがたいですねぇ。桑名である近鉄ハイキングや、JRさわやかウォーキングでも桑名市なり、桑名市観光協会なりがこういう企画をすればよいのに。

13時32分発の名古屋行き急行に乗車。今日は、久居まで。¥300。家内

の実家に寄って帰るのです。

土産というか、家内の父が亡くなって、5年。11月7日が命日なので、仏前にと思って、松阪名物「
老伴(おいのとも)」を買いました。
柳屋奉善(天正3(1575年創業)の和菓子。

天正3(1575)年に作られたお菓子だそうで、後に松阪の豪商で茶人でも

あった
三井高敏(三井家)により、白楽天の詩集から「老伴(永遠に付合えるお菓子)」と改名されたといいます。ずいぶん昔、食べた記憶があり、これを買いました。羊羹の甘さを最中の皮で抑えた、上品で独特の風味が楽しめます。 愚息が絶賛しておりました(微笑)。「松阪まで買いに行っても食べたい」とか。

余談。松阪市立歴史民俗資料館に置いてあったスタンプを押してきました。他では気づきませんでしたが、こういうスタンプ、記念になって良いと思います。しかし、桑名では見かけません。九華公園でも、桑名市につくって欲しいと、原稿までつくって渡したのに、梨のつぶてとか。
予告編にしては相当長編になりました(いつものことかも知れません)。それに、まだ先日の名古屋でのJRさわやかウォーキングの記事が終わっていません。これはマジメに取り組まなければ(微笑)。期待せず、お待ち下さい。
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