9月15日に行ってきた「養老の滝ウォーキング」の本編その1です。この日のウォーキングは、「美濃街道ウォーキングオプショナルツアー」の#1です。記事その1では、養老駅をスタートし、聖武天皇巡幸記念碑、せせらぎ街道から妙見堂を経て養老の滝から養老神社まで来ました。このその2では、北原白秋歌碑、元正天皇行幸遺跡、養老寺、養老説教場、鬼面山谷五郎碑などを経て養老駅に戻ります。
滝を過ぎてからは下る一方ですから、楽でした。養老神社のところから、寄り道へ。前回来たときには(2018年12月4日:20181110近鉄ハイキング「親孝行のふるさと『養老フェスタ』」へ(その3)……養老神社、菊水泉あたりの石碑など、歴史ある旅館)、養老神社からほど近いところに旅館・掬水があったのですが、今回は見当たりません。掬水があったあたりでは、砂防工事が行われていました。創業明治23(1890)年という歴史のある料理旅館でした(左の写真は、2018年11月10日に撮影)。養老町観光協会のサイト(こちら)には掬水は載っていませんので、閉業したのだろうと思われます。
神社の表参道を東に向かい、一の鳥居のところに北原白秋歌碑があります。昭和55(1980)年に建碑されたというのですが、苔生していて、かなり古びていて歌はほとんど読めない状態。碑には「紫闌 さいていささか 紅き石の しま目に見えて 寿々し 夏去りにけり」という歌が刻されています。昭和2(1927)8月、大阪毎日新聞が行った「日本新八景」の人気投票の審査のため、子息を同伴して養老を訪ねた際に詠まれた歌の一つ。このとき、白秋は、木曽川、養老、長良川、多度などを訪ねたといいます。
白秋歌碑の西に千歳楼(せんざいろう)があります。宝暦14(1764)年に開業した旅館。その名は、この年が元正天皇行幸から一千年に当たることに由来するそうです。皇太子時代の大正天皇、有栖川宮、山岡鉄舟、横山大観など錚々たる方々がここを訪れています(こちら)。千歳楼の下、道路沿いに池がありましたが、ここにはハリヨが生息しているようでした。ハリヨは、トゲウオ目トゲウオ科の魚で、岐阜県と滋賀県の湧水のある河川に分布しています。美濃街道ウォーキングのときには、清水池というハリヨの生息地を見てきています(2023年5月24日:20230522美濃街道ウォーキング「美濃津屋~養老」(その1)……美濃津屋駅をスタートし、白山神社、津屋城跡の本慶寺、清水池ハリヨ生息地、慈眼寺から諏訪神社へ)。
千歳楼の少し先には、豆馬亭(とうまてい)という旅館。創業明治13(1880)年、北原白秋をはじめ、数々の著名人が訪れたといいます。北原白秋、野口雨情の扁額が掛っているそうです。養老山系の猪、鹿が食べられるといいます。道路に面した壁面にイノシシやシカの頭蓋骨が飾られていました。
豆馬亭からほど近いところに、元正天皇行幸遺跡があります。元正天皇は、霊亀3(717)年9月、近江国を経て美濃国当耆郡(多芸郡)にいたり、多度山の美泉に浴されました。この年11月に詔勅を出し、この多度山の美泉について、病が癒えるなどの効験が大きく、これは大瑞であると述べ、「養老」への改元を布告しておられます。行幸の際に行宮が造られたとされますが、その場所は不明。また、「美泉」が指すものは、養老の滝と、現養老神社内の湧水との二説があるといいます。
現在ここにはお社があります。かつては、ここに多岐行宮(あんぐう)神社(御祭神は、元正天皇、聖武天皇)がありました。元正天皇行幸の時、この地に神輿を駐輦された古跡といいます。多岐行宮神社は、明治41(1908)年9月、養老神社へ合祀されました。その後、多岐行宮神社之諸施設はそのまま存置され、養老神社の御旅所として現在に至っています。
この遺跡の辺りに大鍬神社があるというのですが(ルートマップにも記載しました)、よく分かりませんでした。帰ってから調べたら、御旅所の背後にあった小さな祠がそれのようでした。祭神は豊受姫神(とようけひめのかみ)です。現在は行われていないのですが、農耕の神様として最も重要な神様で五穀豊饒を願う祭礼が毎年10月に行われていたといいます。
さらにこのあたりは、旧濃州多芸郡白石村といい、孝子伝説の源丞内の出身地だそうで、元正天皇行幸遺跡の近くにこのような石碑があります。この石碑は、開村500年を記念して平成16(2004)年12月に木碑を立て、平成22(2010)9月に石碑に建て直したとありました。
寄り道はここまで。再び養老神社のところに戻って、滝沿いの道をさらに下っていきます。往きは右岸側でしたが、帰りは左岸側の道。土産物店などが多数あります。養老サイダーという看板が目立ったのですが、これ、日本で最初のサイダーだそうです。明治23(1890)年から製造開始し、平成12(2000)年に製造中止。その後会社も消滅したのですが、その後、平成29(2017)年が養老改元1300年にあたることから、復活プロジェクトが動きはじめ、現在は「養老サイダー復刻合同会社」によって販売され、製造は桑名の鈴木鉱泉が行っているそうです。飲んだことがないので、飲んでくればよかったかと反省。
滝寿山元正院養老寺。養老公園内にあります。奈良時代の元正天皇の御代、孝子源丞内が開いた寺とされます。天平時代には七堂伽藍も整い、多芸七坊の一つに数えられていましたが、永禄年間(1558~1569)に織田信長のために焼かれてしまい、その後慶長12(1607)年、高須藩主・徳永寿昌(とくなが ながまさ)が再建しました。再建以前は法相宗に属していましたが、再建されるとき真宗大谷派に改宗し今日に及んでいます。ご本尊は、十一面千手観音立像。1mたらずの寄木造りですが、鎌倉初期のみごとなものだそうですし、「銘国光」の太刀があり、ともに国指定重要文化財となっています。西美濃三十三霊場の第二十五番札所。写真は不動堂です。
境内には、孝子源丞内のものとされる墓もあります。お参りしてきました。養老寺の境内には、句碑などが多数あります。前回来たときの記事にその一部が取り上げてあります(2018年12月4日:20181110近鉄ハイキング「親孝行のふるさと『養老フェスタ』」へ(その4)……元正天皇行幸遺跡、養老寺、養老説教場から大菩提寺を経て、勝手に養老駅にゴール変更(完))。
養老寺から下って駐車場のところへ出て来ます。ここに養老説教場があります。坂道を上っていかねばなりませんので、ちょっとキツいのですが、行ってきました。浄土真宗の説教場です。ここの設置計画は、当時の岐阜県令小崎利準に支援されたこともあり、美濃国全域から多額の浄財が集ったそうです。養老説教場には現在の海津市である高須藩から移築された御殿があり、高僧等を招くために作られたそうです。養老説教場は養老郡の、また、土地は県の所有で、養老町内の浄土真宗の寺院が持ち回りで管理しています。前回来たときには、紅葉がとてもきれいでした(右の写真、2018年11月10日)。
最後の立ち寄りスポットは、養老公園駐車場の入り口付近にある横綱鬼面山谷五郎碑。鬼面山谷五郎(きめんざんたにごろう)は、第13代横綱。岐阜県で唯一の、また、明治になって初めての横綱です。養老町鷲巣の出身で、美濃街道ウォーキングの時には生家跡を見てきました(2023年5月22日:20230522美濃街道ウォーキング「美濃津屋~養老」(予告編))。身長は186cm、体重140kgの巨漢。初め京都力士となり、25歳のとき、江戸の相撲武隅部屋に入門し修行。幕内成績は27場所143勝24敗16分で、優勝相当成績7回という輝かしい成績を残しています。明治2(1869)年に横綱になりましたが、翌年に引退。さらに引退後1年たたずに亡くなりました。
これで立ち寄り先は、コンプリート。昼食は、前回、美濃街道ウォーキングのときに休みで(2023年5月22日:20230522美濃街道ウォーキング「美濃津屋~養老」(予告編))、行けなかった「そば処たみと」さんへ。12時45分くらいの到着。なかなかよい感じのお店です。「ざる蕎麦(白)」を頼みましたが、十割蕎麦です。写真のように美しい蕎麦で、腰もしっかりしていましたし、味と香りも十分。こんなにおいしい蕎麦をいただいたのは、久しぶり。税別¥950。
人気店のようで、われわれが食べ終えて店の外に出たら、「本日分完売」とありました。十二分に満足。もう少し遅かったら、食べ損ねるところでした。この日も、オーダーのときに「黒」はもう売り切れているといわれたくらい。
養老駅には、13時20分頃、戻ってきました。次の桑名行きは13時31分でちょうどよい時間。桑名着は14時18分。¥580。
この日のGoogle Fitのデータ。11.15㎞、17,979歩でした。高低差がかなりありましたので、普通に11㎞を歩いたよりも運動量ははるかに多くなっています。いつもより足がだるくなっています(苦笑)。美濃街道ウォーキングオプショナルツアー#2は、行基寺に行く予定です。養老鉄道美濃山崎駅から往復するつもりですが、「キョリ測」で見ると、美濃山崎駅の標高は5m、行基寺は124m。今回よりは高低差は少ないのですが、途中、海津の「杖つき坂」もあり、難所かも知れません。
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