旅行・地域

2021年5月 4日 (火)

朝から鹿2頭、午後にはアナグマが登場(笑)

Dsc_0110c  5月4日、実家へ来て3日目、朝5時頃起きて、外へ出てビックリ。「超証拠写真」ではありますが、鹿の写真。実家の裏庭にニホンジカが2頭。ずいぶん昔から、鹿が来るとは聞いていたものの、この目で見たのは初めて。向こうも驚いた様子。スマホしか持っておらず、遠かったので、こんな写真ですが、鹿だということはお分かりいただけると思います。5年前の夏には、実家から帰る途中、道路に飛び出してきた鹿と接触したこともありましたっけ(2016年8月03日:実家からの帰り道、シカと接触……散歩では、アオサギにビビる)。

Img_4152c_20210506152001 Img_4172c_20210506152001  さて、この日も天気はよく、気持ちよく過ごせました。。この日も、いつも通り、7時半から散歩。前日とほぼ同じコースで4.3㎞。1時間半あまり。湯香里橋のところには、この日は、カルガモ2羽。ここから掛子橋あたりでは、昨日も書きましたがオシドリや、カワガラスなども見たことがあります(2018年5月5日:オシドリ発見、歴史散歩と高田本山専修寺へも……家内の実家へ(5/4、5)、2021年1月4日:2020~2021年末年始実家de散歩)。

Img_3768c_20210506152101 Img_4189c_20210506153701  前日同様、この日も射山神社に参拝。伊勢神宮の祭礼では、この地に自生する榊の枝を、神社内に湧く泉「長命水」に一晩浸して奉納する習わしがあり、古くから「神の井」として、伊勢詣でに訪れる人々の信仰を集めてきたといいます。この長命水は、現在は、御手洗場となって自由に汲むことができます(右の写真)。

Img_4206c_20210506152101  射山神社のすぐ東に神湯館という旅館があります。その玄関脇に美少女キャラクターを描いた幟旗がありました。「温泉♨むすめ 榊原伊都」だそうです。リンク先に詳しいキャラが書かれていますが、「高貴な雰囲気が漂う、文武両道で清廉潔白なむすめ。何事もズバズバと的確に答えてくれるので『榊原恋愛相談室』と言われている。いつも涼しい顔をしているが意外と負けず嫌いで、心の内では闘志を燃やしている」のだそうです。高校3年生で、誕生日は7月9日の蟹座、陸上部。趣味はお伊勢参りとネイルアートなどなど。公開日は、2017年10月27日だそうですから、私は3年半以上、気づかなかったと言うこと?? もっとも、中日新聞の記事によれば、昨年8月からPRの前面に押し出されたばかりでした(こちら)。

Img_4247c_20210506152101 Img_4248c  公民館のところで、コシアカツバメ。あまりよく撮れていませんが……。探したら、公民館の裏手(北西側)にコシアカツバメの巣らしきものがいくつかありました。コシアカツバメは、ここ家内の実家あたりや(2017年5月3日:コシアカツバメ……家内の実家にて)、九華公園でも見たことがあります(2019年9月18日:九華公園で今日もダイサギ……コシアカツバメも)。

Img_4282c_20210506152101 Img_3924c  実家のあたりは、水田がたくさんあります。前日もそうでしたが、この日も田植をする光景が何ヶ所かで見られました。結婚した頃、実家の田植を手伝ったことはあります(もちろん、戦力にはほとんどなりません。邪魔にならないよう、苗を運んだくらい……苦笑)。稲の他、麦を植えてあるところもかなりあります。麦は、すでに右の写真のように穂がかなり実ってきています。

Img_4296c_20210506152101 Img_4309c_20210506152101  湯の瀬の近くの電線では、ホオジロのオス。圓浄寺のそばのお宅では、鬼瓦にセグロセキレイ。たくさんではないものの、あちこちで鳥は見られます。この日、セグロセキレイは水田でも見られました。前日のことを思い出し、清少納言などの裏手にも行って見たものの、この日はセグロセキレイどころか、鳥は何もいませんでした。

Img_4343c_20210506152101  実家での散歩コース、かなり高低差があります。善福寺の東から県道28号線(亀山白山線)を見ると、このようにかなり見下ろす形になるのです。4㎞ほどしか歩きませんが、運動量はかなりあります。

Img_4360c_20210506152101  実家に戻って、思いついて、以前、愚息がつくった野鳥用の餌台にクッキーを細かく砕いて置いてみました。このあと、愚息がキンカンの実も追加したのですが(これまでにもキンカンを置いたら、なくなったそうです)、この日は結局、夕方まで鳥はやってこず。実家の裏手、ウグイスが少なくとも3羽いますし、ヒヨドリ、メジロ、コゲラ、フクロウなどの声が聞こえてきます。もちろん、スズメ、カワラヒワもいるのですが、餌の内容が悪かったのか、餌台の場所がよくないのか??

Img_4394c_20210506152101  午後、ふと見たら、ご覧のような動物が出て来て、ビックリ。イタチかとも思ったのですが、どうも違うということで、帰宅して今日になってから調べたところ、ニホンアナグマと判明。「体型はずんぐりしている。 食性はタヌキとほとんど同じ」「本州、四国、小豆島、九州地域の里山に棲息する。11月下旬から4月中旬まで冬眠する」「体長は40 - 60cm程度。尾長11.6 - 14.1cm。体重12~13㎏」だそうです。「同じ穴の狢」といいますが、タヌキとともに「狢(むじな)」扱いされるとか。実家の裏山に棲んでいるのでしょう。

Img_4418c_20210506152101 この日は、午後からツバメが2羽、実家にやって来て、玄関先、車庫、裏口あたりを飛び交っていました。巣をつくる場所を探している様子。玄関先には、巣がかけやすいようにと思って、受け皿がつくってあるのですが、ツバメはどうも車庫が気に入ったようです。しかし、車庫に巣をつくられると、シャッターが閉められなくなり、不用心。玄関のところか、勝手口につくってくれないかとこちらは思っていますが、どうなりますか。

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2021年5月 3日 (月)

実家でも散歩(微苦笑)……県立美術館で若冲も見る

Img_3694c_20210506132701 Img_3711c_20210506132701  大型連休は、5月2日の午後から5日まで家内の実家に行っておりました。どこへ行っても、毎朝することは同じ(笑)。散歩です。これしかありません。実家の田んぼは、田植が終わっていました。といっても、よその方にお願いして作ってもらっているのです。そのため、米も買うことになっています。この日も、いつものように、朝7時半から散歩開始。西に見える青山高原には、風力発電の風車がたくさん見えます。よく晴れて散歩日和。気持ちよい天気。町内一周、4.5㎞ほど。

Img_3725c_20210506132701  あちこちでツバメが飛び交っています。巣のあるお宅もけっこうたくさん。家内の母は、自分のところにも来て、巣をつくってくれないかと熱望しています。

Img_3731c Img_3744c_20210506132701  貝石山のふもとを川が流れ、そこに湯香里橋がかかっています。去年でしたか、塗り直してきれいになっています。その上流にキセキレイが1羽。3年前には、ここでオシドリ夫婦を見たので、また見たいと思ったものの、そうそううまい話はありません。

Img_3751c_20210506132701  湯香里橋のさらに上流側に掛子橋。このあたりは山里ですから、ここまで来ると、セキレイもセグロセキレイがかなりたくさん見られ、ときどきキセキレイもいるという感じになります。バードウォッチングとしては、まぁ好スタート。

Img_3765c_20210506132701  続いては、実家へ行くといつもお参りする氏神様の射山神社。主祭神は、大己貴命(おおあなむちのみこと:大国主神)、少彦名命(すくなひこなのみこと:農業・酒造・医薬・温泉の神)、天照大神。式内社。大己貴命と少彦名命が、温泉大明神として古くから祀られてきました。

Img_3777c_20210506132801  この日散歩をしていて、気づいたのがこちら。憲法記念日でしたが、何軒かのお宅で、日の丸が掲げられていたのです。私が子どもの頃は、どこのお宅でも祝日には日の丸を玄関先に掲げていましたし、祝日を「旗日(はたび)」と呼んでいました。今では、我が家あたりや、いつもの散歩コースではほとんど見られなくなりました。

Img_3814c Img_3837c_20210506132801  ずっと歩いて、湯の瀬(榊原自然の森 温泉保養館)の東まで来ました。最近、この季節にはあちこちで鯉のぼりがたくさん泳いでいるのを見ますが、ここにも。ちょっと小規模ではありますが……。湯の瀬は、今年秋からリニューアル工事に入るようです。家内の実家あたりでは、飛びをたくさん見ます。ここでも頭上を飛んでいました。

Img_3861c_20210506132801 Img_3874c_20210506132801  湯の瀬からさらに東に行くと、実家の菩提寺。真宗高田派髙福山清浄光院圓城寺。花も、線香も、蝋燭も持ってきませんでしたが、墓参りというか、お墓にご挨拶という感じで立ち寄って来ました。西に布引の山並みが見えて、気持ちの良いところにあります。

Img_3902c_20210506132801  お寺近くの榊原川でダイサギ。尺ヶ寺橋あたりで見つけました。橋のすぐ下にいたのが、かなり遠くまで逃げられてしまい、この証拠写真。橋の西にある小公園で休んでいたら、ヤマガラが出てきたものの、うまく写真には撮れず、残念。

Img_3917c_20210506132801  実家に戻る方向に歩いています。途中に「キッチンしろ」。ローストビーフ専門店。去年10月にオープン。食べログなどではかなりの評判。150gのローストビーフ丼が¥850。テイクアウトもできますので、機会があれば是非と思っているのです。ちなみに、以前、ここは飲み屋さんでした。

Img_3953c Img_4081c_20210506132801  キッチンしろの少し先から西へ。秘密の場所(笑)へ。子どもの頃、探検したようなところ。榊原川に沈下橋が架かっているのです。旅館清少納言などの裏手。人はほとんどきません。温泉の源泉があります。この日は、ここで右のように、セキレイのひなを見つけました。ハクセキレイなのか、セグロセキレイなのかと思っていたら……。

Img_4073c_20210506132901Img_3972c_20210506150301  親鳥がやって来ました。セグロセキレイのひなでした。真っ黒ではなく、灰色をしているのです。親鳥が右の写真のように、餌をくわえてやって来ましたので、給餌シーンが撮れるかと、かなり粘って、移動したのにもついていったものの、結局、失敗。残念。左の写真は、ヒナに餌を与えたあとでした(苦笑)。セグロセキレイの親子は、上流へ移動してしまい、どこへ行ったのやら? ということで、セグロセキレイで30分。9時半頃帰宅。

Img_4130c_20210506132901  その後、家内、娘と3人で三重県立美術館へ。4月10日から5月23日まで行われている「若冲と京の美術―京都 細見コレクションの精華―」を見に行きました。といっても、家内は別行動。この展覧会、見たいと思っていたのですが、先日、江戸橋に仕事に行ったとき、助手の先生から「美学の先生がご紹介くださったので」とパンフレットをいただいていたのです(美学の先生は、後期の授業のとき、同じ時間帯なのです。細見美術館の研究員でいらっしゃいました)。

Img_4142c_20210506132901  1時間もあれば見て回れるかと思ったら、娘がけっこう熱心に見て回り、結局、2時間近く(苦笑)。家内からは、「私の存在は、忘れられたかと思った」と言われてしまいました。

5bea9888 F8e0f16b 帰りには、大門近くの蜂蜜まん本舗に立ち寄りました。ここの名物「蜂蜜まんじゅう」を買うため。蜂蜜まん本舗は、養蜂業の傍ら昭和28(1953)年に創業しました。蜂蜜まんの人気が高まるとともに、昭和40(1965)年ごろには養蜂業をやめ、蜂蜜まんの製造・販売一本に絞り、以来、津を代表する菓子として愛されています。我が家でも皆の好物。これは、絶品。実は、今回実家に行くとき、道の駅津かわげでも売っていないか探したのですが、売り切れていたのです。店舗の写真は、去年2月2日のJRさわやかウォーキングの時に撮ったものです(20200202JRさわやかウォーキング「~新春キャンペーン~令和2年2月2日に、津の真ん中ウォーク 藤堂高虎ゆかりの地と日本三観音『津観音寺』を訪ねて」へ(予告編))。

【お断り】 記事は、5月6日に、5月3日付けで投稿しています。

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2021年4月27日 (火)

20210425「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第2回「伊勢朝日駅~近鉄富田駅」(その2)……松寺の小公園、松寺御厨神明社、タカハシ酒造、松寺立場跡、輝子頌徳記念碑、蓮証寺、宝性寺、蒔田御厨神明社、長明寺から鏡ヶ池跡へ

Iseasahi2  4月25日の「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第2回「伊勢朝日駅~近鉄富田駅」の本編その2です。朝明川を越えて四日市へ入ります。松寺の御厨神明社のあと、酒造会社を見つけ、行ったものの直売所は休み(残念)。松寺立場跡・輝子頌徳記念碑、蓮証寺、宝性寺、蒔田の御厨神明社へ。ここで小休止の後、長明寺、鏡ヶ池跡。その2はここまで。このあと、八風街道をちょっと冨田方向に道草して、田村寺に行ったりしましたが、これ以降はその3にて。

Img_0871c_20210425165901 Img_0875c_20210427065801  朝明川を渡ったところにある小公園。ここで2.6㎞。東海道の案内板、力石、ベンチなどが配されています。案内板には、「ここは四日市の東海道北玄関 松寺」とあり、簡単な地図が添えられています。なぜかシーボルトがここを通ったという説明もあります。シーボルトは、文政9(1826)年、オランダ商館長の江戸参府に随行し、同年3月26日夜遅く四日市に着き、翌27日、朝9時頃ここを通ったといいます。

Img_0879c_20210427065801 Img_0885c_20210427071201  こちらは、公園内に保存されている力石。江戸末期から明治初期にこの地で営まれていた茶店「橋南(はしみなみ)のつる」の主・大久保つるが残したものだそうです。石には「二十七メ」と刻まれ、その目方が27貫目(約100㎏)と思われます。北勢地方では、力石は神社仏閣の境内にあることが多いのですが、これは数少ない民家の軒先にあったものです。

Img_0891c_20210425165901 Img_0895c_20210427071901  公園の先で朝明川の河岸段丘を降りて、東海道は緩くカーブし、じきに松寺の御厨神明社があります。御厨という名称ですから、伊勢神宮に関わりのある土地であったことがわかります。主祭神は、豊受姫命(とようけひめのみこと:食物をつかさどる女神、伊勢神宮外宮に祀られている豊受大御神と同じとされる)、相殿神は、大山祇命(おおやまつみのみこと)。創立年代は不詳。静かで、小さな神社。

Img_0898c_20210427071901  境内には、山の神様が1基ありました。この神明社を過ぎると、薬師堂があると「ホントに歩く東海道」の地図にはあったのですが、見逃してしまいました。前回ここを歩いたときも見ていません。細い道の奥に入っていく必要があるのです(苦笑)。

Img_0905c_20210425182901 Img_0911c_20210425165901  次の目的地である蓮証寺に向かって歩いていたら、御厨神明社を出て100mあまりで、東海道の東に醸造所らしき建物。気になりました(微笑)。気づいたところや、気になったところは見てくるというのが、原則(笑)。タカハシ酒造でした。文久2年の創業だそうですから、1862年。江戸末期の激動の頃。直売所があったのですが、あいにく日曜は定休で残念。天遊琳・伊勢・伊勢物語・伊勢の白酒などの酒を造っています。今度見かけたら、買って、試してみることにしましょう。

Img_0933c_20210425165901 Img_0917c_20210427162001  蓮証寺の手前、東側に松寺立場跡という案内板と、輝子頌徳記念碑とがあります。江戸時代、桑名宿と四日市宿との間には、5カ所の立場があり、その一つがここ松寺でした。タカハシ酒造の南側あたりに立場があったと書かれていました。

Img_0921c_20210427162001  立場跡の案内板の奥に「輝子頌徳記念碑」があります。碑には「佐藤輝子碑」とあります。佐藤輝子は、大矢知村字松寺で佐藤庄九郎の娘として、弘化3(1846)年に生まれました。25歳の時に夫が他界した後は、裁縫の教育に携わり、門者は千数百人に及んだと言います(実際には三千人ほどの子弟がいたとも言われます)。輝子は、大正6(1917)年に亡くなったのですが、翌年3月門人によってこの碑が建てられました。女性の頌徳碑というのは、比較的少ないと思います。

Img_0937c_20210425165901Img_0944c  松栄山蓮証寺。真宗本願寺派。400年くらい前、ここにお堂があり、本堂も200年くらい前に建てられたといいます。松栄山蓮証寺という山号・寺号の最初と最後の文字をとると「松寺」となり、何か関係があるかと案内板にありました。

Img_0941c_20210427170801 Img_0948c_20210427171401  この寺で気になったものは、左の写真。手水鉢だと思うのですが、どうでしょう? 右は境内にあった碑。「昭和三十三年 御巡教記念」とあります。碑の左には「勝如上人御手植月桂樹(これまたちょっとアヤシい)」。勝如上人(明治44(1911)~平成14(2002)年)は、真宗本願寺派23世門主。

Img_0952c_20210427171401  また、こういう石碑もあります。「畢竟依」とあります。K氏と「どう読む?」という話になったのですが、「ひっきょうえ」という読みが浮かんできました。真宗の御経にあったような記憶があったものの、この時点では自信がありません。「畢竟(ひっきょう)」は、仏語で、「畢」も「竟」も終わる意味ですから、究極、至極、最終ということになります。などと調べていたら、「畢竟絵を帰命せよ」という文言が浮かんできました。親鸞上人の「浄土和讃」にあることば(最近、勤行をサボっていますので、記憶が朧気になっていました……苦笑。罰が当たるかも)。「畢竟依(ひっきょうえ)」とは、究極の依り所ということです。

5bf441c1 Img_0994c_20210425170001  さらに進み、松寺から蒔田に入りました。スタートから3.7㎞、10時35分、御厨神明社と、蒔田観音 龍王山宝性寺という2つの標柱が建ったところに来ます。中に入ると、鳥居の向こうにお寺の本堂があるという景色。以前に2回ほど来ていますので、私はどういうところか知っていましたが、初めて見ると、お寺と神社の名前が並んでいるので、不思議に思うかも知れません。隣り合ってというか、同じ境内にというか、神社とお寺があるのです(左の写真は、2017年11月10日に撮影したもの:旧・東海道ウォーク(安永~富田)へ(後編))。

Img_0972c_20210425170001Img_0988c_20210427180201  まずは、龍王山宝性寺。本堂の建物は市の文化財。享保4(1719)年の棟札が残り、また、鬼瓦には文化十一年正月吉日の刻銘がありますので、本堂は文化11(1814)年に建立され、棟札はそれ以前にあった堂のものと考えられています。重層になった本堂は、立派です。言い伝えによると、宝性寺は天平12(740)年に聖武天皇の勅願によって創建されました。永禄11(1568)年に織田信長の家臣・滝川一益が、長島一向一揆を攻略した際、戦火に遭い、焼失した後、小堂が建立されたものの、正徳元(1711)年に再び焼失したといいます。境内には、阿弥陀堂もあります(右の写真)。現在は、蒔田第一自治会が管理しています。

Img_0991c_20210427180201  これは、「舟止石」だそうです。高さは約60㎝。変形した穴が通る硅灰岩(珪灰石か?)で、穴に縄を通し、海中に投入して、船の碇にしたと説明されています。この寺のご本尊と近江国石山寺の開基である良弁(ろうべん)僧正の縁により、石山寺から運ばれたものと思われるともありました。

Img_0984c Img_0980c_20210427180201  こちらは、御厨神明社。松寺のものと区別するため、蒔田の御厨神明社ともいわれます。『勢陽五鈴遺響』に「文治建久中(1185~1198年)富田庄六箇村ノ内の一でもある」と伝わっています。主祭神は、豊宇気毘売神(とようけひめのかみ:食物をつかさどる女神、伊勢神宮外宮に祀られている豊受大御神と同じとされる)。相殿神は、大山祇命(おおやまつみのみこと:山の神)、応神天皇天児屋根命(あまのこやねのみこと:天照大神が天の岩屋に隠れたとき、祝詞を奏した神)。境内には、山の神が1基あります。

Img_0999c  宝性寺と御厨神明社を一緒に撮った写真。お寺は、西に向かって拝むように造られています。神社は、南を向いています。伊勢神宮の方を向いているのかという気がしますが、それが本当かどうかは分かりません。

Img_1006c_20210425170001 C1b3df07  宝性寺と御厨神明社のすぐ南に朝明殿長明寺があります。浄土真宗本願寺派。立派な山門があるのと、寺の周りが、素掘りの環濠で囲まれているのが特徴(右の写真。これは、2017年11月10日に撮影したもの:旧・東海道ウォーク(安永~富田)へ(後編))。環濠に囲まれているのは、ここは文治年間(1185~90)に蒔田相模守宗勝が居城した、蒔田城(まいた)跡といわれるからです。

Img_1023c_20210427192001  創立年代、開基などは不明ですが、寺誌によると、もと真言宗潮音寺と称し、近郷の豊田村(川越町豊田)にあったと考えられています。川越町豊田には、字長恩寺という地名があり、そこが旧地と伝わっています。文明4(1485)年、画像本尊を下付されたそうですので、その頃真宗に改宗したと思われます。慶安4(1651)年、領主松平隠岐守(松平定綱公と思います)から現在の寺地を賜り、翌年寺基を移したといいます。本堂は、昭和31(1956)年に再建。鐘楼は、延宝年間(1637~801年)に建立と伝わっています。

Img_1010c_20210427192001 Img_1020c  山門(昭和初年に建立)の前に石柱。何だか分からなかったのですが、山門前にある寺の案内板を読んで、分かりました。ヒントは、右の写真。新しい橋の下に古い、石造の橋があります。これが、案内板にある「部下3(1806)年に築造された参詣橋」と考えられます。左の写真の石柱には、「文化三年 丙寅二月」と刻まれています。ということは、これは橋の親柱なのでしょう。ちなみにこの寺の塀には、4本の筋が入っています。かなり格式の高いお寺と思います。

Img_1026c_20210425170001  長明寺を出てすぐにスタートから4㎞。その先で蒔田交差点。蒔田交差点を渡ってすぐ東(左)に鏡ヶ池跡。ここは、聖武天皇ゆかりの地です。聖武天皇の伊勢行幸の際(天平12(740)年11月23日に朝明郡の頓宮(とんぐう)にお着きになったといいます)、このあたりで天皇の笠が風で飛んで池に落ちたのを洗濯をしていた娘が拾い上げたそうです。翌日、旅立つ天皇と見送る娘の姿が池に映り、それが鏡のようだったとして鏡池と言うようになったとか。馬上豊かな天皇の姿と、天皇を伏し拝む少女の姿が共に池に映って絵に描いたような美しい光景だったと伝わっています。文明年間に東海道のコースが代わり、この池の真ん中を通るようになり、池は分断されました。明治末期まで東海道の両脇にしばらくは池が残っていたそうですが、現在では、この昭和8(1933)年建立の碑だけになっています。

 その2はここまで。マップには、三光寺と田村寺がありますが、それはその3にて。

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2021年4月26日 (月)

20210425「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第2回「伊勢朝日駅~近鉄富田駅」(その1)……橘守部生誕地遺跡、浄泉坊、西光寺、豊田一色道標、桜並木から多賀大社常夜燈へ

 4月25日の「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第2回「伊勢朝日駅~近鉄富田駅」の本編その1です。今回のハイキングは、桑名から伊勢神宮まで、10数回に分けて、歩いてお参りに行こうというもの。平成31(2019)年に近鉄ハイキングの企画で開催された「昔も今もお伊勢参り」(2020年1月2日:2019年近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り」の記録)に再挑戦。4月9日に第1回として、桑名・七里の渡し跡から朝日町にある近鉄伊勢朝日駅まで歩きました(2021年4月 9日:20210409「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」……第1回「七里の渡し跡~近鉄伊勢朝日駅」その1……七里の渡し跡から七曲見附跡、2021年4月11日:20210409「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」……第1回「七里の渡し跡~近鉄伊勢朝日駅」その2……天武天皇社からゴールの伊勢朝日駅へ(完))。

Iseasahi0   第2回の今回は、近鉄伊勢朝日駅から朝日町を歩き、四日市へ。松寺、大矢知、蒔田を経て、近鉄富田駅までの6.9㎞を歩いてきました。この日のコース全体のマップ。伊勢朝日駅をスタート。駅の側にポケットパークがあり、そこに樹齢300年以上のエノキ。朝日町内で浄泉坊、西光寺など寺を周り、北勢バイパスの手前で多賀大社常夜燈。朝明川を越えると、四日市に入ります。そこに小公園。松寺の御厨神明社のあと、酒造会社を見つけ、行ったものの直売所は休み(残念)。松寺立場跡・輝子頌徳記念碑、蓮証寺、宝性寺、蒔田の御厨神明社へ。ここで小休止の後、長明寺、鏡ヶ池跡。さらに八風街道をちょっと冨田方向に道草して、田村寺。続いて、三光寺を出たところで、鳥居を見つけ、若宮八幡神社にも立ち寄り、冨田一里塚跡碑、八幡神社、行啓道路記念碑と進み、玉吉稲荷神社。ゴールの近鉄富田駅に向かっていたとき、大きな松の木を見つけ、またもや道草。そこは蓮光寺跡でした。

Iseasahi1  こちらは、詳細なコースマップその1。伊勢朝日駅から多賀大社常夜燈まで。朝日町は、小さな町ですが、見どころはいろいろあります。ただし、この日歩いた東海道筋には、橘守部生誕地遺跡、浄泉坊、西光寺、豊田一色道標、桜並木(昔は松並木)、多度大社常夜燈くらい。朝日町は、何回か歩きに来ています(たとえば、2020年12月11日:20201211勝手にJRさわやかウォーキング三重・朝日町へ……朝日町歴史博物館の「古文書から歴史をよみとく-江戸時代の朝日-」を見て、井後神社、善照寺、移田神社、井後神社旧址へ、2018年6月24日:20180624勝手に近鉄・三交バスハイキング「朝日町天神山、苗代神社、縄生廃寺跡から東海道を江場まで」)。ちなみに、朝日町という地名は、日本書紀に、天武天皇が壬申の乱のときに、この付近で朝日を拝んだという記述があるためだそうです。

Img_0791c_20210425165901   近鉄桑名駅を8時44分に出る四日市行き準急に乗車。スタートの伊勢朝日駅は、2駅目。8時52分に到着、¥210。伊勢朝日駅のホームは対面式で、駅舎も上下線が別にあります。下りの改札を出たすぐが、東海道。8時55分にスタート。

201022155014_3 Img_0796c_20210425165901  踏切を越えてじきにポケットパークがあります。と書きましたが、調べたら、改修されて令和2年4月から「語らいの広場」という名前に変わっていました(写真は、朝日町のサイトからお借りしました)。木陰がもう少しあるといいなとは思ったものの、よい公園です。この公園の南端には樹齢300年以上といわれるエノキがあります。このあたり、小向(おぶけ)にも、焼き蛤を売る茶屋があり、立場になっていたといいます。東海道中膝栗毛にも、小向や縄生(なお)の地名とともに、蛤が名物であることが出てきます。

Img_5871c_20210426131301  スタートから800mほど、ちょうど朝日町役場の北の東海道沿いに「橘守部生誕地遺跡」があります(写真は、2017年10月5日撮影:朝日町歴史散歩へ……昼は、味噌天丼)。橘守部(1781~1849年)は、江戸後期の国学者。17歳のとき、一家離散のため江戸に下り、20歳を過ぎてから学問を志したのですが、香川景樹、平田篤胤、伴信友とともに「天保の国学四大家」の一人に数えられるに至っています。ここの裏手にある町役場の敷地の一角に「橘守部翁生誕の地」の石碑が建っています。

Img_0805c_20210425165901Img_0836c_20210426132201  この遺跡からすぐ、朝日跨線橋東交差点の手前、西側に小向山浄泉坊(おぶけさんじょうせんぼう)。浄土真宗本願寺派のお寺。由来書きによれば、正治元年(1199)年、正治寺として小向御厨神明宮の別当寺として建てられました。当初は禅宗であったといいます。その後、愛洲宗貫が小向に城を構え、延元4(1339)年に朝明郡の地頭職に補せられ、伊勢守を名乗り、この寺を菩提寺にして愛洞山と称しました。寛正の頃(1460~1465年)、伊勢左衛門尉真弘のの末裔が出家して小向坊浄泉と言って、正治寺に住み、応仁元(1467)年、蓮如上人が関東から帰洛の際、その教化を受けたと言います。天正年間、沼木宗喜、飯田庄之助の城が寺院付近にあり、それを攻めた滝川一益の兵火にかかって焼失しました。慶長8(1603)年に、伊勢慶昭が小向にあった正治寺を再興し、小向山浄泉坊と改称し、寛永15(1638)年、西本願寺から木仏と寺号の公称を受けています。

Img_0808c_20210426132201  徳川家にゆかりのある桑名藩主の奥方の菩提寺になっていたことがあるといわれ、本堂の棟や、山門に徳川家の定紋三ツ葉葵が入っています。そのため参勤交代の大名はこの寺の門の前では駕籠から降りて一礼したと伝えられます。

Img_0812c  ここは何度か訪ねたのですが、いつもすっかり失念して、見ていないところがあります(かといって、突然行っても見られないと思うのですが)。この寺の書院が、旧桑名城の三の丸御殿を移築したものだといわれているのです(西羽晃著「郷土誌を訪ねて」,pp.134~135)。

Img_0823c_20210426132201  境内には、「明治廿七八年戦役従軍者紀念碑(大迫尚敏書)」、「日露戦役従軍者記念碑(大山巌書)」「殉難之碑(と私には読めますが、かなりアヤシい)(靖国神社宮司 筑波藤麿為)」の3つの碑があります。大山元帥が揮毫したこういう碑、この地方でもかなりよく見ます。いったいどのくらい書かれたのでしょう。

Img_0839c Img_0842c_20210425165901  朝日跨線橋東交差点を渡ってさらに進み、スタートから1.2㎞のところに朝明山西光寺。真宗大谷派のお寺。確実な証跡はないものの、現存する絵像ご本尊の裏書きからは、明応5(1496)年に開基されたと考えられています。その後、貞享2(1685)年、大谷派に転じ現在に至ったといいます。現在の建物は、明治10~23年にかけて建立されたもの。

31a68bfc  このお寺、以前立ち寄ったときには、街道沿いに立派な松があり、松並木の名残かという気がしたのですが、この日は、松の木は見当たりませんでした。写真は、平成29(2017)年10月5日に撮ったもの(朝日町歴史散歩へ……昼は、味噌天丼)。一昨年の近鉄ハイキング「昔も今も伊勢参り」で通ったときも松はありました(2019年3月10日:20190310近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅1日目~東海道、旅人気分で七里の渡しから富田へ」……雨天決行にて「完」)。ちょっと残念な気がしつつ、歩き続けます。

Img_0846c_20210425165901 7ba5b98a  スタートから1.5㎞のところで、東海道は左折となります。そこに「東海道はこちらでござる」という看板。地元の方の手作りと思いますが、ありがたいご配慮。4年ほど前にみたものと違って、新しくなったなと思ったら、やはりそうでした(右の写真は、2017年11月9日に撮影:旧・東海道ウォーク(安永~富田)へ(前編))。

D0a511fe  341a785e その先、1.8㎞あたりの道路脇に、見逃しそうな小さな道標があります。「豊田一色」への道を示しています。豊田一色は、川越町の地名。ここから南東側にあります。道標から、柿交差点のところまでは、現在は桜並木になっていますが(右の写真。ただし、これは2017年11月9日に撮影:旧・東海道ウォーク(安永~富田)へ(前編))、明治の地図では、このあたりは、東海道の両側は水田だったようです。「ホントに歩く東海道」の解説には、「当時は民家は一軒もなかった。郷土資料「大矢知地区幕末・明治生まれの実話」には、「追い剥ぎ、辻切り、乞食」の出没する寂しい道だったとある」と書かれています。

Img_0854c  柿交差点の西に多賀大社常夜燈があります。弘化3(1846)年に、滋賀県の多賀大社から勧請して祀られた神社(現在は、井後(いじり)神社に合祀)の神殿前に建てられていたものといいます。元々は、東海道沿いにあったものでしたが、昭和46 (1971)年に街道から30m西の現在地に移転されています。「お多賀さんの灯籠」と親しまれ、かつては燈籠番が毎夜、火を灯していたそうです。ここは、伊勢湾岸自動車道や、北勢バイパスの高架のすぐ下。右手(西)には、鈴鹿の山並みがよく見えますが、今でも水田がたくさんあり、江戸時代などは、さみしいところだったと思われます。

Img_0861c_20210426173301 Img_0864c_20210425173201  柿交差点を渡り、伊勢湾岸自動車道&北勢バイパスの高架をくぐると、朝明橋で朝明川を渡ります。東征中の日本武尊が当地で夜明けを迎え、朝明川の水で口をすすいだことから川の名が付いた、とする伝承があります。右の写真は、朝明川の上流方向。鈴鹿の山並みも見えます。

 キリが良いので、その1は、朝日町内を歩いた、ここまで。その2では、四日市に入り、松寺、大矢知、蒔田と進みます。

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2021年4月25日 (日)

20210425「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」……第2回「伊勢朝日駅~近鉄富田駅」(予告編)

 本日・4月25日は、「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」の第2回に行ってきました。前回の終点である近鉄伊勢朝日駅から東海道を歩いて、近鉄富田駅まで。第1回のときは、1回で完結できるだろうと書き始めたものの、予想外に記述が長くなり、急遽2回の記事になりました。反省して(微笑)、今日のところは、予告編。この伊勢詣りツアー、同級生K氏と二人旅。

Iseasahi0  こちらが、今日のコース全体のマップ。伊勢朝日駅をスタートしますが、伊勢朝日駅は東海道に沿ったところにあります。駅の側にポケットパークがあり、そこに樹齢300年以上のエノキ。朝日町内で浄泉坊、西光寺など寺を周り、北勢バイパス側で多賀大社常夜燈。朝明川を越えると、四日市に入ります。そこに小公園。御厨神明社のあと、酒造会社を見つけ、行ったものの直売所は今日は休み(残念)。松寺立場跡、蓮証寺、宝性寺、蒔田御厨神明社、長明寺、鏡ヶ池。さらに八風街道をちょっと冨田方向に道草して、田村寺。三光寺を出たところで、鳥居を見つけ、若宮八幡神社に立ち寄り、冨田一里塚跡碑、八幡神社、行啓道路記念碑と進み、玉吉稲荷神社。ゴールの近鉄富田駅に向かっていたとき、大きな松の木を見つけ、またもや道草。蓮光寺跡でした。現地で歩いたのは、6.9㎞。

Img_0791c_20210425165901 Img_0796c_20210425165901  スタートの近鉄伊勢朝日駅。桑名駅を8時44分に出る四日市行き準急に乗車。8時52分着、¥210。8時55分に伊勢朝日駅をスタート。ホームは対面式で、駅舎も上下線が別にあります。東海道に出てすぐに踏切を渡ります。その先にポケットパークがあり、この公園の南端に樹齢300年以上といわれるエノキ。東海道を往来した旅人たちを見てきたと思います。街道の並木としては、松が一般的で、朝日町内も同様だったのですが、エノキのような「雑木」も混じっていたそうです。

Img_0805c_20210425165901  朝日町役場の北で「橘守部生誕地遺跡」を見たあと(今回は割愛)、浄泉坊。スタートから800mほど。真宗本願寺派。桑名藩にゆかりのあるお寺で、山門などに三ツ葉葵のご紋があります。参勤交代の大名は、ここで駕籠を降りて黙礼したと伝わります。朝日跨線橋東の交差点を過ぎ、JR関西線朝日駅の東に西光寺。真宗大Img_0842c_20210425165901 谷派。安永6(1777)年の銘のある梵鐘があります。ここのお寺には、以前来たときには、立派な松があり、松並木の名残かと思ったのですが(2017年10月5日:朝日町歴史散歩へ……昼は、味噌天丼、2019年3月10日:20190310近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅1日目~東海道、旅人気分で七里の渡しから富田へ」……雨天決行にて「完」)、今日は見当たりませんでした。切られてしまったのでしょうか。

Img_0800c_20210425172501 Img_0846c_20210425165901  朝日町内にも、東海道を案内する標識、看板がたくさんあります。左の写真は、浄泉坊より伊勢朝日駅よりにある小向神社を案内する社号標ですが、その脇に東海道の案内板が見えます。「みえ歴史街道」とありますから、行政が建てたものでしょう。西光寺の先、スタートから1.5㎞ほどのところで東海道は左折します。右の写真は、そこにあるもの。これは手作りですから、どなたかが掲げてくださったものと思います。

Img_0854c Img_0864c_20210425173201  スタートから2.2㎞で、伊勢湾岸自動車道&北勢バイパスの高架に来ます。柿交差点の北西に多賀大社常夜燈。弘化3(1846)に建立され、かつては燈籠番が毎夜火を灯したそうです。この先で、高架をくぐり、朝明川を朝明橋で渡ります。東征中の日本武尊が、このあたりで夜明けを迎え、朝明川の水で口をすすいだことから川の名が付いたという伝承もあります。さらに、余談というか、講釈というか(笑)。朝日町という地名、日本書紀に、天武天皇が壬申の乱のときに、この付近で朝日を拝んだという記述があるためだそうです。

Img_0871c_20210425165901 Img_0891c_20210425165901  四日市に入ってすぐ、川沿いに小公園。「ここは四日市の東海道 北玄関 松寺」と看板にあります。なぜかシーボルトが通ったことが取り上げて書かれています。近くには、力石。100㎏だそうです。2.8㎞地点に御厨神明社。「御厨」は、伊勢神宮の神領をいいます。「神明社」は、天照大神を御祭神とする神社。他の地方のことは承知していませんが、三重県北勢地方ではあちこちに「御厨神明社」があります。ここは松寺の御厨神明社、あとで蒔田の御厨神明社も訪ねています。

Img_0905c_20210425182901 Img_0911c_20210425165901  御厨神明社を出て100mあまりで、東海道の東に醸造所らしき建物。見つけたらからには見に行かないといけません(笑)。タカハシ酒造でした。文久2年の創業だそうですから、1862年。江戸末期の激動の頃。直売所があったのですが、あいにく日曜は定休。残念。

Img_0933c_20210425165901 Img_0937c_20210425165901  その先に松寺立場跡と「輝子頌徳記念碑」。桑名宿から四日市宿までの間に、立場は5つあったといいます。朝日町小向、四日市の富田などです。「輝子頌徳記念碑」は、大矢知村で弘化3(1846)年に生まれた佐藤輝子を検証するもの。若くして夫を亡くしたものの、裁縫などを千数百人以上に教えたといいます。右の写真は、松栄山蓮証寺。真宗本願寺派。400年くらい前、ここに御堂があったといいます。

Img_0972c_20210425170001 Img_0984c  大矢知に入って、まずは、龍王山宝性寺と、蒔田の御厨神明社。隣り合って建っています。宝性寺は、天平12(740)年に聖武天皇の勅願で創建されたのが始まり。現在は、蒔田第一自治会が管理しています。本尊は十一面観音菩薩。本堂は市の文化財。阿弥陀堂もあります。本堂に向かって右手(北)に蒔田の御厨神明社。

Img_1006c_20210425170001  宝性寺と御厨神明社のすぐ南に朝明殿長明寺があります。浄土真宗本願寺派。立派な山門があるのと、寺の周りが、素掘りの環濠で囲まれているのが特徴。環濠に囲まれているのは、ここは文治年間(1185~90)に蒔田相模守宗勝が居城した、蒔田城(まいた)跡といわれるからです。

Img_1026c_20210425170001  蒔田の交差点を渡ったところに鏡ヶ池跡。聖武天皇が朝明頓宮に入る途中、池に差しかかられたとき、突風で天皇の笠が池に吹き落とされたのを村の少女が進み出て笠を拾い上げ、天皇に渡したという話が伝わっています。文明年間に東海道のコースが代わり、この池の真ん中を通るようになり、池は分断されたといいます。明治末期まで東海道の両脇にしばらくは池が残っていたそうです。

Img_1039c_20210425170001  鏡ヶ池の先で、東海道は八風街道に交わります。弘法山田村寺の話をしたら、行ってみようということになり、寄り道。八風街道を200mほど東に行ったところにあります。真言宗醍醐派。ここは、2度ほど訪ねています(たとえば、2017年12月22日:近鉄ハイキング「巨大かぼちゃ『中風封じの田村寺』と垂坂公園を訪ねて!!」へ(その1))。冬至のとき、中風封じが行われ、巨大カボチャで有名。

Img_1043c_20210425170001 Img_1079c_20210425170001  関西本線の踏切を渡り、三岐鉄道三岐線の高架をくぐると、木下山三光寺。真宗本願寺派。平安時代末期、時の後鳥羽院守護職としてこの地を治めた蒔田相模守宗勝の墓碑があります。三光寺の先で東海道は左折するのですが、右を見たら、鳥居が見えました。年寄りの割に好奇心旺盛で、またもや行ってみようとなりました。若宮八幡神社です。元治元(1864)年、「氏子相計り應神天皇を鎮め神として奉祀」だそうです。

Img_1093c_20210425170001 Img_1117c_20210425170001  東海道に戻って、近鉄名古屋線・三岐鉄道三岐線の高架橋をくぐったところ、スタートから5.8㎞ほどのところに冨田一里塚跡碑があります。江戸・日本橋からは98里。JR関西線富田駅の西に八幡神社。康安2(1279)年に勧請されたといいますから、鎌倉時代。境内には、江戸時代から若者たちがトライしてきたという力石(100㎏)があります。

Img_1124c_20210425170001 Img_1140c_20210425190501  富田八幡社の先に、「行啓記念道路碑」。大正天皇が皇太子の時代、ここを通られたことを記念して建てられたもの。大正天皇は、明治43(1910)年11月、第三師団と第十五師団の対抗演習見学のためいらした途中、当時の三重県立第二中学校(旧制富田中学校、現在の四日市高校)に立ち寄られたのです。この碑の先で、東海道は右折。電柱に手作りの案内板が掲げられていて助かります。東海道は、さらに直進するのですが、今日は、次の交差点を右折し、ゴールの近鉄名古屋線・富田駅に向かいます。途中で、吉玉稲荷神社。明治39(1906)年に伏見稲荷大社から勧請してつくられました。

Img_1144c_20210425170101  そのまま富田駅に向かおうとしたら、K氏が「あの大きな松は何だ?」と。私自身、何回か見た記憶はあるのですが、さほど疑問を持たずにいました(苦笑)。やはり一人で行くよりも同行者がある方が、見ているものが違って、よいのです。冨松山(ふしょうざん)蓮光寺跡でした。かつての冨田城主南部家ゆかりの寺があったところ。寺は、平成10(1998)年に茂福に移転しています。現在は、公園。

Img_1151c_20210425170101  そして、スタートから6.9㎞を歩いて、12時15分を過ぎた頃、近鉄富田駅に到着。途中、宝性寺で休憩していますが、歩き始めからは3時間20分。薄曇りで、風はあったものの寒いということはありません。

Img_1163c_20210425170101 1619322033863c  駅の周りを見て回った結果、西口の前にある「達磨や」でお昼を食べることに。「四日市とんてき丼」をチョイス、¥660。とんてきは、四日市名物。リンク先にある「四日市とんてき」の定義からすると、ちょっと外れるところはあったものの、味はまさにとんてきでした。

Img_1189c_20210425192001  昼食を済ませ、近鉄富田駅12時56分発の名古屋行き急行に乗車。桑名駅には、何と13時03分に到着。あっけない(苦笑)。¥260。今日は、最初に書いたように、現地で6.9㎞を歩き、桑名駅~自宅往復が2.2㎞、合計9.1㎞を歩いて、17,100歩でした。明日以降、本編を書きます。

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2021年4月24日 (土)

20210422勝手に近鉄名古屋線ハイキング「長島漫歩」(その2)……稲荷阿岐波神社、道標、長島水辺のやすらぎパークから花市場に立ち寄り、そのまま歩いて伊勢大橋を渡り「完」

Nagashima11 4月22日の“勝手に近鉄名古屋線ハイキング「長島漫歩」”のその2です。その1では寺をめぐったあと、長島城跡の長島中学校・長島中部小学校のところまで来ました。長島中部小学校にある「大松」を見たところで、スタートから1.4㎞、時刻は10時20分頃。まだ歩き始めてから25分くらいです。その割に講釈が多くなっていますが、ご容赦ください。

Img_9362c_20210423170401 Img_9366c_20210423170401  長島中部小学校の先100数十mのところに大手橋。上に載せた長島城の説明板の絵図を見ると、城があった頃にも、このあたりに橋がかかっています。左の写真は、大手橋から振り返った長島城跡の方角。右は、大手橋。西から東を見ています。

Img_9370c_20210422172401  この大手橋の西に稲荷阿岐波神社があります。主祭神は、宇迦之御魂神。相殿神は、大名持之命とあります。神社検索(三重)で調べたとき、これを私は、「だいみょうもち……??」と思ってしまったのですが、これは大国主命の別名でした。大国主命には、たくさんの別称があるようです(こちら)。

Img_9390c_20210422172401  社伝などによれば、初めは、萱町の田村邸の邸内社でしたが、後に中町の花林院門側に遷座、それ以後、次第に長島三町(下町、中町、萱町と思われます)の産土神として祀られています。また、長島城内未申に位置する二ノ丸櫓東隅に「杉峠稲荷社」が祀られており、歴代長島城主の崇敬をうけ、藩主・松平忠充により貞享3(1686)年、礼殿等の造営がなされていたといいます。その後、天保年間(1830~1843年)に至って、藩主・定政(神社検索(三重)にはこのようにありますが、享和元(1801)~天保13(1842)年の藩主は7代・増山正寧(まさやす)、天保13(1842)~明治2(1869)年は、増山正修(まさなお)が8代藩主。「定政」という名前は、増山家の藩主には見当たりません。こちら)により現鎮座地への遷座が行なわれました。大正3(1914)年、中町の稲荷社を合祀し、稲荷阿岐波神社と単称しています。「阿岐波神社」という割には、秋葉さんを祀っていないのが不思議。

Img_9374 Img_9386c_20210423181301  下町・中町・萱町の3町内によって石取祭が行われており、7月最終の金・土曜日に町内を回ります。説明板によれば、もともとは稲荷社境内秋葉社の石取神事として行われ、神社の玉垣の敷石を年に一度新しくするために、美しい石を町屋川から拾い採ってきたもので、江戸時代末期ごろからは大祭として行われるようになっています。かつては街道沿いに神社があり、渡祭も行われていたのですが、昭和初期に稲荷社へ合祀となり、現在は、祭車を曳いて鐘や太鼓を鳴らしながら歩く町練りのみが行われています。なお、境内には、日露戦役記念碑が建っています。書は、大山巌。元帥、陸軍大将。日露戦争のときは、満州軍総司令官を務めています。

Img_9397c_20210423182001 Img_9394c_20210423182001  この神社でおもしろかったのは、狛犬。狛犬そのものが変わっているとか、そういうことではありません。左右の狛犬が置かれている高さが明らかに異なっているのです。向かって右の狛犬は、石垣の上に鎮座しているのに、向かって左は石垣はありません。どうでもよいこと、ささいなことが気になる質です(苦笑)。

Img_9411c Img_9418c_20210423182401  大手橋に戻って、東に渡ります。そこに道標が1基。。正面には、「👈 前ヶ須 津島/宮 名古屋道」、左右両面には「右 久波奈ミち」「左 くわなみち」とそれぞれ刻まれています。予告編を書いてからさらに調べたら、この道標は、「明治の東海道」を示しているものでした。明治4(1871)年に七里や三里の渡しが廃止され、東海道は熱田から前ヶ須(現在の弥富市)に至り、前ヶ須から官営渡船で長島を横断する鰻江川(うなぎえがわ:長島輪中と葭ヶ崎輪中の間の水路を鰻江川といいました。明治24(1891)年に締め切られています)を通り、桑名川口町へ着くコースに変更されました。なお、これとは別に、前ヶ須から民営渡船で押付(桑名市長島町、国道1号線と県道7号線の交差点あたり)へ渡り、長島を陸路で横断し、十日外面(とおかども:伊勢大橋東詰交差点あたり)から桑名福島へ渡る民営渡船のコースもありました。予告編では、正面には、「👈 前ヶ須 浮(? 「津」とも見えます)島/宮 名古屋道」と刻まれていると書きましたが、明治の東海道であれば、これは「津島」と考えられます。

Img_9423c Img_9430c_20210423192101  その先の長島川遊歩道。遊歩道沿いには、ハナミズキ(桑名市の木)が植わっていますが、もう花のピークは過ぎています。歩く人も多くはなく、ゆっくりブラブラ川沿いを歩くのに最適。又木茶屋のところで、国道1号線の下をくぐります(右の写真)。スタートからは、まだ1.8㎞、10時半。こういう川沿いの遊歩道は、なかなかいい感じです。

Img_9551c_20210423193101 Img_9453c  国道1号線をくぐって200mも行かないうちに長島水辺のやすらぎパークがあります(スタートからは2.2㎞)。ここが、今日のメインの目的地。ここに牡丹園があり、最近、毎年見に来ているのです(2020年4月28日:河口堰でコアジサシ、コムクドリ、ヒレンジャク、ササゴイ、長島水辺のやすらぎパークで牡丹……プチ遠征を楽しみました)。昔のたたずまいの風情が楽しめるように旧久我邸を改修し、休憩施設として整備されたところ。

Img_9532c_20210423193501 Img_9472c_20210423193501  まずは、牡丹園。今年は、九華公園でも、御坊さんでもボタンが咲くのは早かったのですが、ここでもたぶん同じ。写真は、当然のこと長良、花が咲いているところを撮りますので、よく咲いているように見えますが、実際には、前のパラグラフの左の写真の通り、全体としては花は少ない印象。

Img_9460c_20210423193801 Img_9464c  ここには、藤棚もありますが、フジの花は明らかにピークを過ぎていました。鳥見も難しいのですが、花を見に行くのもタイミングが難しい。

Img_9475c_20210423194001Img_9481c_20210423194001  先に書きましたように、ここは、久我邸を改修したところです。久我家は江戸時代、長島藩の重職にありました。しかし、明治4(1871)年の廃藩置県によって一時は長島県が置かれ、当時の藩主増山氏が知事になりましたが時を経ず、安濃津県に編入され、明治5(1872)年には三重県と改称されました。この時、久我氏は戸長に任命され、長島・大島・松ヶ島・駒江・出口・又木・小島の各村を治め、明治22(1889)年、市町村制が施行されるまで続きました。

Img_9503c_20210423194001 Img_9507c_20210423194001

 昭和21(1946)年の農地改革にともない、地主として所有してきた農地が解放され、今日の屋敷が残ったのだそうです。家屋は明治12(1879)年に建てられたもので、少こし改修されたものの、ほぼ原型を留めていて、明治の生活様式を知る上で貴重な建物であったことから、空家となっていた家屋敷を平成15(2003年、当時の長島町が譲り受け、観光客などの休憩施設として改装をし、「長島水辺のやすらぎパーク」としてオープンしたところです。左の写真は2階に上がる階段、右は2階の西側の部屋。

Img_9485c_20210423194601 Img_9478c_20210423194601  台所も当時のまま残っています。いわゆる「お竈(くど)さん」もありますし、向かって左手にあるのは、水瓶と思われます。右の写真は、お庭。

Img_9492c_20210422172501 Img_9495c_20210423195001  裏庭には、シャクヤクがたくさん植えられていました。管理者の方(たぶんシルバー人材センターから派遣の方)が育てておられるようでした。その方がおっしゃるには、「あと1週間したら、咲いて来て、見頃になるので、その頃またいらっしゃい」と(苦笑)。「立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花」ということばを思い出します(ひょっとして、今時、セクハラ用語といわれるかも知れませんが)。

Img_9543c_20210422172501 Img_9562c_20210422172501  水辺のやすらぎパークで小休止。そこかしこにベンチがあり、また、四阿も一つあるのです。四阿が空いていたので、そこで、来るとき桑名駅のファミマでゲットしてきた「豆大福」をおやつに(微笑)。この日、水辺のやすらぎパーク、観光客は私を入れて、10名弱。見聞きしている限り、今シーズン、マスコミでは取り上げられていないからでしょう。穴場です。

Img_9613c_20210422172501 Img_9628c_20210422172501  水辺のやすらぎパークで20分ほど過ごし、さらに長島川遊歩道を進みます。途中で、ついでにバードウォッチング。ツグミと、カルガモがそれぞれ1羽。こういう水辺ですと、歴史散歩とバードウォッチングの両方が楽しめます。グリコと同じ。その心は、「一粒で二度美味しい」(お粗末)。

Img_9632c_20210422192901 Img_9636c  長島川遊歩道は、長島幼稚園近くが終点。ここでほぼ3.4㎞、11時10分。この近くに、コチドリやコアジサシが、一時営巣していたところがありますので、見てきましたが、何もおらず。長島幼稚園は、園舎の南に、小ぶりながらも藤棚があり、いい感じ。

Img_9639c_20210422172501  ここ長島川遊歩道の終点のすぐ西に、なばなの里がやっている花市場があります。今日は、最初から立ち寄るつもりでしたが、その前に、花市場の駐車場の一角にある日神神社(ひがみじんじゃ)。天照大神を祀っています。由緒書きには、元和3(1617)年頃開墾された駒江新田に延宝6(1678)年、西外面(にしども)の八幡社の摂社として現在地に勧請され、天照大神を祀っています。なばなの里や、花市場をつくるとき、駐車場の一角に残されたのだと思われます。

Img_9647c 28b5b944  花市場。なばなの里に隣接したファーマーズ・マーケット。ときどき来ます。今日の目当ては、植物や花ではなく、昼の弁当(笑)。ここには私のふるさとのものと同じ「押し寿司」を売っているのです(2012年10月13日:花市場で買い物のついでに、またまた河口堰へ)。今日はあいにく、押し寿司だけのものは売り切れ。やむなく助六と押し寿司のセットを購入(¥420)。ここで時刻は、11時20分。右の写真は押し寿司のセット、2012年のもの。

Img_9666c_20210422194001 Img_9674c  時間のこともあって、なばなの里にも、長良川河口堰にも立ち寄りません。なばなの里は、現在、イルミネーション期間中ですから、入場料は、2,300円なのです。今の時期、ネモフィラが満開になっているようですから、それは見たい気もします。また、なばなの里限定の「さくら安永餅」を今年も売っていますので、それを買いたいとも思います。しかしながら、この2つだけのために、今から2,300円を払うのもなぁと思った次第。年間パスポートがありますから、やはりそれをゲットしておくとよいのかも知れませんが、そんなに頻繁に行くかなぁ?と、未だに踏み切れずにいます(苦笑)。

Img_9680c_20210422172501  長良川河口堰のところを過ぎると、伊勢大橋東詰交差点までのところにナガシマという浚渫専門の会社があります。その敷地内で、ホオジロのオス、メス。Img_9703c_20210422172501

Img_9709c  伊勢大橋を渡る手前で、三重交通のバス停であったところにこんな看板。4月1日から路線の統廃合で、伊勢大橋東詰のバス停が廃止されたのです(こちら)。桑名駅から長島温泉に行くバスは、53系統に統合され、ここは通らなくなったのです。もともと本数も少なかったですし、たぶん利用客も多くはなかったのでしょう。儲からないと廃止というのはやむを得ないこととはいえ、復活はたぶんほとんど期待できません。鉄道、学校などはとくにそうですが、廃止されることでそのあたりが寂れてしまうことも多いので、淋しい限り。

Img_9720c  伊勢大橋東詰交差点には、11時35分。スタートからは4.7㎞。当初は、ここから北に向かって、大智院光栄寺小田江神崎神社などに立ち寄って近鉄長島駅まで行くつもりでしたが、方針変更。伊勢大橋を歩いて渡って帰宅することにしました。扱ったこともあって、わざわざ大回りすることもないかと考えたのです。

Img_9742c_20210422172601  伊勢大橋の中程にある、中堤交差点の東で珍しい看板を見つけました。「カワウ駆除のため通行止め」の予告看板。中堤道路で、5月10日~6月30日の間の4日間、朝4時~8時にカワウの駆除をするので、通行止めになるのだそうです。千本松原あたりから治水神社国営木曽三川公園三川センターのところの間の松林にカワウが巣をつくっています。それを駆除するということだと思われます。

Img_9804c_20210422172601  伊勢大橋は、全長約1.1㎞。歩いて渡ると20分弱。大型トラックやダンプが通ると、揺れて、少々怖いのですが、無事に渡り終えました。伊勢大橋西詰交差点から、揖斐川右岸を下ります。途中、河川敷や、その上空で揚げ雲雀やら、ヒバリの鳴き声が聞こえてきま。揚げ雲雀は2ヶ所ほど。写真は撮ったもののペケ写真。河川敷に降りて来たところを1枚撮ったものが、これ。このあたりで繁殖すると思うのですが、巣を見つけるのは至難の業。

Img_9826c_20210422172601 Img_9830c_20210422172601  こちらは、六華苑。長屋門の前にある大イチョウも青々としてきました。いつもの住吉神社には、12時17分。スタートからは7㎞ちょうど。海上安全の神様ですが、無事に歩いてこられましたので、御礼にお参り。この近くで散歩友達・通称Tちゃんに遭遇。屋外で昼ご飯を食べておられました。

Img_9938c_20210422172601 Img_9946c_20210422172601  散歩友達のマネをしてではありませんが、外の方が気持ちよさそうでしたので、諸戸氏庭園前の桜並木のところのベンチで、私も昼ご飯にすることに。花市場でゲットしてきた弁当を食べてきました。ということで、長島駅からは7.5㎞、朝、自宅から桑名駅までが1.1㎞、合計8.6㎞を歩いてきました。諸戸氏庭園前に戻って来たのは、12時25分。3時間半で7.5㎞を歩き、あちこち見て回ってきたという次第。歩数は、15,273歩となりました。

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2021年4月23日 (金)

20210422勝手に近鉄名古屋線ハイキング「長島漫歩」(その1)……光岳寺、花林院、正敬寺から長島城跡へ

Img_9196c_20210422174301  4月22日の“勝手に近鉄名古屋線ハイキング「長島漫歩」”のその1です。天気がよくて、気温が上がるのはこの日までということもあり、出かけようと思っていました。幸か不幸か、朝早く目が覚めて、前日の授業のQ&Aや、仕事のメールを書き終えられるなど、9時頃には、dutyを一通り済ませられたのです。そこで、先日から考えていた「長島漫歩」に行ってきました。水辺のやすらぎパークにある牡丹園を見に行こうというのが、第一の目的。去年まではクルマを使ったのですが、最近、コペンは娘の通勤用になってしまっています。故に長島駅まで電車で行き、あとは歩きました。

Nagashima11  歩いたコースはこちら。近鉄長島駅から南を歩いてきました。光岳寺、花林院、正敬寺と寺を回ったあと、長島城跡である長島中学校、長島中部小学校の前を通り、長島川遊歩道を下って、稲荷阿岐波神社から、水辺のやすらぎパークへ。久我邸や、牡丹園を見て、一休みしてから、長島幼稚園近くの遊歩道の終点まで。そのすぐ近くには、花市場があり、そこに立ち寄って来ました。いつもバードウォッチングに行く河口堰は今日はパス。近鉄長島駅に戻って電車で帰るつもりが、国道1号線の伊勢大橋東詰交差点でこのまま歩いて帰った方が早い、と思い直し、伊勢大橋を徒歩で渡って帰宅。長島駅から自宅までが7.5㎞。自宅から桑名駅までが1.1㎞で、合計8.6㎞の散歩でした。

Img_9203c Img_9210c  桑名駅を9時48分に出る名古屋行き普通に乗車。次の駅が近鉄長島駅。乗車時間はわずかに4分、料金は210円。車両はガラガラ。近鉄、儲かってないと思います。近鉄長島駅前(駅の南)には、伊勢湾台風の水位標があります(右の写真)。当時、このあたりは5mを越える水に浸かったそうです。この写真を撮っていたら、名古屋行きの特急ひのとりが通過して行くのが見えました(右の写真の奥に写っています)。ひのとりが走り始めて1年あまり。一度くらいは乗りたいもの。といいつつ、来年で登場10年になる「しまかぜ」にもまだ乗っていません。同級生K氏と「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣り」を始めましたが、伊勢まで行ったら、帰りはしまかぜに乗って宴会をしながら帰ってこようと話しています(笑)。ウォーキングのスタートは、9時55分。ちなみに、ひのとりは、1本だけ桑名駅にも停車します(こちら)。大阪難波21時発の名古屋行き「ひのとり621列車」。このひのとり、白子、四日市にも止まり、桑名には22時59分。名古屋着は、23時16分。

Img_9228c  近鉄長島駅から南へ下っていきます。長島は、平成16(2004)年に多度町とともに桑名市に合併しています。木曽三川河口部に位置し、町全域が平坦です。かつては堤防に囲まれた複数の輪中によって構成されていました。地名の長島は7つの洲からなる「七島」、あるいは南北に長い土地であることから付けられたとされます。明治時代に行われた木曽三川分流工事に伴って、輪中を分けていた小河川の多くが廃川となるとともに、一部の土地は長良川の新河道となり、現在のような地形となっています。木曽三川改修工事についての簡単な歴史は、こちら

Img_9231c Img_9237c_20210423042501  近鉄長島駅から500mで、天機山伝通院光岳寺。浄土宗のお寺。山門に三つ葉葵の御紋があって驚きました。後述のように、徳川家康の母である伝通院の方の菩提寺だったのです。今回は、事前の予習をほとんどしないで出かけました。思わぬところ、身近なところに歴史ありです。学生諸君にもいつも言っていますが、予習は、やはり必要です(苦笑)。

Img_9240c_20210422172401 Img_9234c  創建は不詳ですが、古くは、下野国(現在の千葉県関宿)にあり、弘経寺と称していました。慶長7(1602)年、徳川家康は母親である伝通院の菩提寺の1つに定め、天機山伝通院光岳寺と改称しました(法名が、伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼によると思われます)。当時の領主で、家康の異父弟である松平康元が光岳寺を庇護し、同家の移封先である加納藩(岐阜県岐阜市)、小諸藩(長野県小諸市)に随行し、慶安2(1649)年、当時の当主松平康尚が長島藩に移封になると、長島城下に移りました。ここに祀られている「沓踏子安延命地蔵菩薩」は、伝教大師最澄が自ら彫り込んだと伝えられるもので、伝通院の念持仏だったといいます。

Img_9255c Img_9355c_20210422172401  近鉄長島駅あたりから、長島幼稚園付近まで、途中、ちょっと途切れてはいますが、長島川遊歩道があります。長島駅の南のポケットパークから光岳寺のところ、長島城跡の近くの城東橋から長島幼稚園あたりまで、です。今日は、ほぼこれに沿って歩いてきました。光岳寺からさらに南に向かいます。長島中学校の東で長城橋を渡って長島川の東へ。お寺が2ヶ所ありますので、そちらに。

Img_9272c Img_9280c  スタートから1㎞のところに、盤龍山花林院(ばんりゅうざんかりんいん)。曹洞宗のお寺。門の脇に「乳授薬師(ちちやくし)」という石碑も建っています。しかし、碑陰には何も説明はありませんし、ネットで調べても情報は出て来ません。最近の経験では、「長島町史」を見れば分かると思うのですが、あいにく手元にはありません。

Img_9284c_20210423045801 Img_9288c_20210423045801  禅寺らしく、山門の脇には、大きな「戒壇石(かいだんせき)」があり、「不許葷酒入山門(=葷酒山門に入るを許さず:クンシュサンモンニイルヲユルサズ)」と刻まれています。山門をくぐった右手(北側)には、地蔵堂が2ヶ所あります。

Img_9291c_20210422172401  ここは、家康の異父同母弟である松平康元が父・久松俊勝の冥福を祈るため、三州西郡(こちらの記述によれば、現在の愛知県蒲郡市に含まれる地域)に一寺を建て父の法号を採って花林院と名づけました。その後、松平氏は下総関宿へ移封。さらに加納、信州小諸へと移封されたので、寺もこれにしたがって移転しています。松平康尚が長島藩主となると、花林院も長島に寺基を移しました。その後、増山氏が長島に入封すると増山氏もまた花林院を代々の位牌所として庇護しています。墓所には増山氏の13基の墓碑があるそうですが、調べて行きませんでしたので、墓所は見てこず(こちら)。また、慶長6(1601)年に長島藩主菅沼家初代となった菅沼定仍(さだより)の室、菅沼定盈(さだみつ)の継室の墓も残っているため、花林院以前にこの地には菅沼氏の女系の菩提寺、祈願所があったと考えられています。

Img_9296c_20210423072001  元の本堂は天保年間の建立だったそうですが、昭和36(1961)年に焼失。その後鉄筋コンクリートで再建されています。

Img_9309c_20210422172401 Img_9319c  花林院のすぐ南、細い道を1本隔てて石城山正敬寺(しょうきょうじ)。真宗大谷派のお寺。お寺にも由緒書きなどはなく、また、ネットで検索してもとくに情報は出て来ませんでした。

Img_9327c_20210422172401  再び長城橋を渡って、元の道に戻ります。そこは、長島中学校の東側。長島中学校には、城の大手門のような立派な門があります。それもそのはず、ここは、長島城の跡なのです。

Img_9331c_20210422172401  長島城の起源は、寛元3(1245)年、藤原(九条)道家が館を築いたことにさかのぼります。文明14(1482)年、北勢四十八家の一人、伊藤重晴によって城が再建されました。元亀元(1570)年、一向宗・願証寺の住職・証意蓮淳蓮如上人の6男)の曽孫)によって伊藤氏一族が追放され、長島一向一揆の拠点となりますが、その後、織田信長によって攻略され、滝川一益の居城となりました。賤ヶ岳の戦い後、織田信雄の居城となるのですが、天正14(1586)年の天正地震で天守が倒壊するなど甚大な被害を受けたため、信雄は清洲城に移りました。江戸時代に入ると、菅沼氏が2万石で封じられ、長島城を改修。元和7(1621)年、菅沼氏が移封されると、長島藩は廃藩となり、長島城も一時廃城となったものの、慶安2(1649)年、久松松平家の松平康尚が那須藩より1万石をもって入り、長島藩が再興されました。元禄15(1702)年には、4代将軍家綱の生母の弟・増山正利の子の正弥(まさみつ)が常陸下館より2万石で移され、以後8代続き明治維新に至っています。この間、城郭は順次拡大されましたが、天守は上げられませんでした。

Img_9341c_20210422190001  現在、城跡は長島中部小学校・長島中学校の敷地となり、遺構の大半は失われていますが、東側に石垣および堀が残るそうです(ただし、まったく気づかず、見ていません)。長島中部小学校内の「大松」は、天然記念物であり、市の指定文化財にもなっています。クロマツの大樹で、樹齢300年以上と推定されており、長島城があった当時は本丸の西南にあったといいます。

 その1はここまで。その2は、稲荷阿岐波神社から。その2で完結のつもり。

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2021年4月22日 (木)

20210422勝手に近鉄名古屋線ハイキング「長島漫歩」(予告編)……水辺のやすらぎパークでボタンを楽しむ他

Img_9196c_20210422174301  今日もよく晴れ、27℃になりました。朝早く目が覚めたので、昨日の授業のQ&Aや、仕事のメールを書き終え、さらに、ワケあって家事にも勤しみ、「本日のduty」を一通り済ませられました。そこで、先日から考えていた「長島漫歩」に行ってきました。水辺のやすらぎパークにある牡丹園を見に行こうというのが、第一の目的。去年まではクルマを使ったのですが、最近、コペンは娘の通勤用になってしまっています。故に長島駅まで電車で行き、あとは歩きました。

Nagashima11 Img_9946c_20210422172601  今日歩いたコースはこちら。長島駅から南を歩いてきました。光岳寺、花林院、正敬寺と寺を回ったあと、長島城跡である長島中学校、長島中部小学校のところを通り、長島川遊歩道を下って、稲荷阿岐波神社から、水辺のやすらぎパークへ。長島幼稚園のところからなばなの里にある花市場に立ち寄って来ました。河口堰は今日はパス。近鉄長島駅に戻って電車で帰るつもりが、国道1号線の伊勢大橋東詰交差点でこのまま歩いて帰った方が早い、と思い直し、伊勢大橋を渡って帰宅。長島駅から自宅までが7.5㎞。自宅から桑名駅までが1.1㎞で、合計8.6㎞の散歩でした。歩数は、15,273歩。今日は、取り敢えず、予告編。今日は、下調べはコースのみで、立ち寄り先については白紙状態でした。

Img_9203c Img_9210c  桑名駅を9時48分に出る名古屋行き普通に乗車。次の駅が近鉄長島駅。乗車時間はわずかに4分、料金は210円。車両はガラガラ。近鉄、儲かってないと思います。近鉄長島駅前(駅の南)には、伊勢湾台風の水位標があります(右の写真)。この写真を撮っていたら、名古屋行きの特急ひのとりが通過。走り始めて1年あまり。一度くらいは乗りたいもの。といいつつ、「しまかぜ」にもまだ乗っていません。同級生K氏と「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣り」を始めましたが、伊勢まで行ったら、帰りはしまかぜに乗って宴会をしながら帰ってこようと話しています(笑)。ウォーキングのスタートは、9時55分。

Img_9231c Img_9240c_20210422172401  浄土宗天機山伝通院光岳寺。スタートから500m。山門に三つ葉葵の御紋があって驚きました。創建は不詳ですが古くは弘経寺と称し現在の千葉県関宿にありました。慶長7(1602)年、徳川家康は母親である伝通院の菩提寺に定め、光岳寺と改称しました。当時の領主で家康の異父弟である松平康元が光岳寺を庇護し、同家の移封先である加納藩(岐阜県岐阜市)、小諸藩(長野県小諸市)に随行し、慶安2(1649)年、当時の当主松平康尚が長島藩に移封になると長島城下に移りました。ここに祀られている「沓踏子安延命地蔵菩薩」は、伝教大師最澄が自ら彫り込んだと伝えられるもので、伝通院の念持仏だったといいます。

Img_9355c_20210422172401 Img_9583c_20210422172501  近鉄長島駅あたりから、長島幼稚園付近まで、ちょっと途切れてはいますが、長島川遊歩道があります。長島駅の南のポケットパークから光岳寺のところ、長島城跡の近くの城東橋から長島幼稚園あたりまで、です。今日は、ほぼこれに沿って歩いてきました。右の写真は、水辺のやすらぎパークあたりのものですが、なかなかよい感じですし、何よりも空いているのがいい。

Img_9272c Img_9291c_20210422172401  長島中学校の手前で、長島川を渡り、盤龍山花林院(ばんりゅうざんかりんいん)へ。曹洞宗のお寺。門の脇に「乳授薬師(ちちやくし)」という石碑も建っています。長島藩主松平、増山両家の位牌所で、墓所には増山氏の13基の墓碑があるそうですが、調べて行きませんでしたので、墓所は見てこず(こちら)。家康の異父同母弟である松平康元が父俊勝の冥福を祈るため、三州西郡に一寺を建て父の法号を採って花林院と名づけたそうです。

Img_9309c_20210422172401 Img_9319c  花林院のすぐ南には、石城山正敬寺(しょうきょうじ)。真宗大谷派。ここについては、ネット検索ではとくに情報は出て来ません。

Img_9327c_20210422172401 Img_9331c_20210422172401  長島川沿いに戻ります。立派な門がありますが、これは桑名市立長島中学校の門。長島中学校や、長島中部小学校のあたりが、長島城の跡です。寛元3(1245)年、藤原道家が館を築いた後、長島一向一揆の本城、長島藩の居城を経て現在長島中部小学校・中学校地となっています。

Img_9341c_20210422190001  長島中部小学校校内の「大松」は、天然記念物であり、市の指定文化財になっています。クロマツの大樹で、樹齢300年以上と推定されており、長島城があった当時は本丸の西南にありました。現在は長島中部小学校のシンボルとなっています。

Img_9370c_20210422172401 Img_9390c_20210422172401  長島中部小学校の南、大手橋の南たもとのところに稲荷阿岐波神社があります。主祭神は、宇迦之御魂神。初めは、萱町の田村邸の邸内社でしたが、後に中町花林院門側に遷座、それ以後、次第に長島三町の産土神として祀られています。下町・中町・萱町の3町内によって石取祭が行われており、7月第3金・土曜日に町内を回ります。

Img_9411c  稲荷阿岐波神社から大手橋を渡った先に道標が1基あります。正面には、「👈 前ヶ須 浮(? 「津」とも見えます)島/宮 名古屋道」、左右両面には「右 久波奈ミち」「左 くわなみち」とそれぞれ刻まれています。

Img_9468c_20210422172401  スタートから2.2㎞、時刻は、10時35分、長島水辺のやすらぎパークに到着。旧久我邸を改修し、休憩施設として整備したところです。久我家は江戸時代、長島藩の重職にありました。しかし、明治4(1871)年の廃藩置県によって一時は長島県が置かれ、当時の藩主増山氏が知事になりましたが時を経ず、安濃津県に編入され、明治5年(1872年)には三重県と改称されました。この時、久我氏は戸長に任命され、長島・大島・松ヶ島・駒江・出口・又木・小島の各村を治め、明治22年(1889年)市町村制が施行されるまで続きました。去年は、4月28日に来ています(2020年4月28日:河口堰でコアジサシ、コムクドリ、ヒレンジャク、ササゴイ、長島水辺のやすらぎパークで牡丹……プチ遠征を楽しみました

Img_9453c Img_9492c_20210422172501  ここには、牡丹園が整備されています。しかし、今年は花が早かったのか、咲いているところは少ない感じでした。今日は平日ということもあってか、空いていました。去年も書きましたが、「穴場スポット」です。藤棚、屋敷内にはツツジなどもありますが、いずれも盛りを過ぎつつありました。久我邸の裏手には、シャクヤクが育てられていました。係の方によれば、「1週間ほどすると咲くから、また是非見に来て欲しい」ということでした。

Img_9543c_20210422172501  40分ほど歩いてきましたので、四阿で一休み。桑名駅のファミマでゲットしてきた「豆大福」をおやつに(微笑)。朝5時半頃には、朝食を食べますので、10時を過ぎると小腹が空いてくるのです(笑)。水辺のやすらぎパークで20分ほど過ごし、10時55分にウォーキングを再開。長島川遊歩道を歩いて、長島幼稚園方面に向かいます。

Img_9632c_20210422192901 Img_9636c  遊歩道は、長島幼稚園のところが終点。途中、ツグミや、カルガモがいました。長島幼稚園近くで、とある野鳥が来ていないか見てきたのですが、見当たらず。ここまで来ると、なばなの里や、花市場がすぐ近くです。もちろん、初めから承知の上で歩いてきています(笑)。

Img_9639c_20210422172501  花市場の駐車場の一角に日神神社(ひがみじんじゃ)。天照大神を祀っています。由緒書きには、元和3(1617)年頃開墾された駒江新田に延宝6(1678)年、西外面(にしども)の八幡社の摂社として現在地に勧請され、天照大神を祀っています。

Img_9647c 28b5b944  花市場。なばなの里に隣接したファーマーズ・マーケット。ときどき来ます。今日の目当ては、植物や花ではなく、昼の弁当(笑)。ここには私のふるさとのものと同じ「押し寿司」を売っているのです(2012年10月13日:花市場で買い物のついでに、またまた河口堰へ)。今日はあいにく、押し寿司だけのものは売り切れ。やむなく助六と押し寿司のセットを購入(¥420)。ここで時刻は、11時20分。

Img_9674c Img_9666c_20210422194001  時間のこともあって、なばなの里にも、長良川河口堰にも立ち寄りません。なばなの里は、現在、イルミネーション期間中ですから、入場料は、2,300円なのです。なばなの里限定の「さくら安永餅」を今年も売っていますので、それを買いたいと思うものの、2,300円を払ってまで買いに行くのもどうかと思うのです。

Img_9720c  伊勢大橋東詰交差点には、11時35分。スタートからは4.7㎞。当初は、ここから北に向かって、大智院、光栄寺、小田江神崎神社などに立ち寄って近鉄長島駅まで行くつもりでしたが、方針変更。伊勢大橋を歩いて渡って帰宅することにしました。扱ったこともあって、わざわざ大回りすることもないかと考えたのです。

Img_9709c  伊勢大橋を渡る手前で、三重交通のバス停であったところにこんな看板。4月1日から路線の統廃合で、伊勢大橋東詰のバス停が廃止されたのです(こちら)。桑名駅から長島温泉に行くバスは、53系統に統合され、ここは通らなくなったのです。もともと本数も少なかったですし、たぶん利用客も多くはなかったのでしょう。

Img_9742c_20210422172601  伊勢大橋の中程にある、中堤交差点の東で珍しい看板を見つけました。「カワウ駆除のため通行止め」の予告看板。中堤道路で、5月10日~6月30日の間の4日間、朝4時~8時にカワウの駆除をするので、通行止めになるのだそうです。千本松原あたりから治水神社木曽三川公園三川センターのところの間の松林にカワウが巣をつくっています。それを駆除するということだと思われます。

Img_9826c_20210422172601 Img_9830c_20210422172601  伊勢大橋からしばらくは割愛して、六華苑。長屋門の前にある大イチョウも青々としてきました。いつもの住吉神社には、12時17分。スタートからは7㎞ちょうど。無事に歩いてこられましたので、御礼にお参り。この近くで散歩友達・通称Tちゃんに遭遇。屋外で昼ご飯を食べておられました。

Img_9938c_20210422172601  マネをしてではありませんが、外の方が気持ちよさそうでしたので、諸戸氏庭園前の桜並木のところのベンチで、私も昼ご飯にすることに。花市場でゲットしてきた弁当を食べてきました。ということで、長島駅からは7.5㎞、朝、自宅から桑名駅までが1.1㎞、合計8.6㎞を歩いてきました。諸戸氏庭園前に戻って来たのは、12時25分。3時間半で7.5㎞を歩き、あちこち見て回ってきたという次第。もう少し詳しい記事は、またいつものように、明日以降ボチボチと。

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2021年4月11日 (日)

20210409「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」……第1回「七里の渡し跡~近鉄伊勢朝日駅」その2……天武天皇社からゴールの伊勢朝日駅へ(完)

210409sichirinowatasi1 4月9日の「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」の第1回「七里の渡し跡~近鉄伊勢朝日駅」のその2です。あまり考えずに書き始めたため、1回の記事で収まりませんでした。その1では、七里の渡し跡をスタートして七曲がり見附跡まで来ました。新町のお寺を丁寧に見て回った結果です。七曲がり見附跡は、この詳細マップその1の中央最下部にあります。ここで右折して、東海道は西へ。鍋屋町という名前の通り、鋳物師などが集まっていたあたりに入ります。

Img_5119c_20210410044401 Img_5125c_20210410044401  天武天皇社天武天皇を祀る、全国で唯一の神社だそうです。壬申の乱(672年)に大海人皇子(のちの天武天皇)が桑名郡家に駐泊されたことにちなみ、のちに創建されました。右は、「本願寺跡・梅花仏鏡塔」。ここにはかつて本願寺という大きな寺があり、その境内に芭蕉の門人である各務支考の分骨墓・梅花仏鏡塔があります。墓は各務の姓にちなんで、円形の鏡を模しています。この2箇所は以前に立ち寄っていますので、パス。

Img_5128c_20210410044401  本願寺跡の先の交差点のところに一目連神社があります(マップにはスペースがなくなり、記入してありません)。御祭神は、天目一箇命(あめのまひとつのみこと)。鍛冶(かじ)に関わる神様で、多度大社の別宮にも祀られています。このあたりは「鍋屋町」地名のとおり、鍋屋が多かったので、天目一箇命への信仰が篤く、金属工業の神として勧請されました。この日は、社殿を新しくする工事が行われていました。境内には、美濃派の俳人・徐風庵(じょふうあん)の句碑があり、また、道をはさんだ向かいには、道標が1基あります(2020年5月4日:20200501ご近所神社めぐり……(その2)一目連神社、本願寺跡・梅花仏鏡塔、天武天皇社、伝馬公園、金刀比羅神社)。

 スタートから3㎞ほどのところにお寺が2つ。まずは、瑞瑋山明圓寺。Img_5132c_20210410044401浄土真宗大谷派のお寺。開基は不明ですが、元は多度町香取にある法泉寺の末寺。戦国時代に香取(多度)の安田空明の家臣・伊藤孫右衛門が出家して再興したといいます。

Img_5144c  続いて、Img_5141c_20210410044401松下山教覚寺。浄土真宗本願寺派のお寺。文明3(1471)年、深谷部の地主・紀伊氏の一族紀伊直行が出家して正玄と名乗り、町屋に道場を開いたのが始まりとされます。ここでも墓地を見たのですが、「正四位勲三等加藤久米四郎墓」とあるのに気づきました。加藤久米四郎は、明治17(1884)年、市内西方に生まれ、明治40(1907)年、日本法律学校(現在の日本大学)を卒業し、大正6(1917)年、政界入り。衆院議員を7期連続務めました。国道1号線沿いにある「参宮国道碑」を書いています(2021年2月27日:20210227勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道再び(川口町~下深谷)」(完))。顕彰碑が、西方連合自治会により、平成19(2007)年6月に笹山溜池公園に建てられています(2021年3月23日:20210320勝手にハイキング「諸戸水道・駅西を行く」……その3(南大山田神社から海善寺を経て桑名駅西口にゴールで「完」))。

Img_5151c  教覚寺の墓地で、このようなお墓を見つけました。よくよく見てみましたが、「囲い」の部分は跡から支えるためにつけたものではなさそうで、初めからこういう形のようでした。

Img_8249c_20210410065801 Img_5165c_20210410070101  教覚寺を出たところに中川梵鐘店。江戸末期創業の鋳造会社で、全国各地の梵鐘を手がけており、永平寺や、名古屋の日泰寺、三河の鳳来寺などの梵鐘もここがつくったもの。その先、矢田町交差点で国道1号線を渡ります。交差点の南東、南西には右の写真のように「左右対称」と思える建物があります。向かって左は、和菓子の和(かず)。ここの最中は絶品。右は、呉服屋の「にし眞」ですが、もう営業はしていません。

Img_5167c_20210410070401 Img_5173c_20210410070401  交差点を渡ったところには、走井山善西寺。浄土真宗本願寺派のお寺。戦国時代、矢田城の城主・矢田俊元(としもと)は、織田信⻑と戦って亡くなりましたが、その孫・俊勝(としかつ)は出家してこの寺を建て、祖父の法号をとって寺号にしています。善西寺を検索したら、ご住職は、名古屋大学大学院理学研究科修了の理学博士。生命科学の研究者でいらしたそうです。

Img_5175c_20210410070501 Img_5174c  このあたりは、慶⻑町割当時は城下外の矢田村でしたが、東海道に⾯して家並が続き、旅人の休息する茶店が多く、立場となっていました。国道1号線に分断され、東⻄に分れたのですが、東矢田町は戦災でほぼ全焼したのに対し、こちら側の⻄矢田町は戦災を免がれ、連子格子の家も見られ、街道の⾯影を残しています。この写真の竹内家には馬をつないだ輪が道路に⾯して残っています(善西寺のすぐ西)。

Img_5184c_20210410070501 Img_5190c_20210410070501  さらにその先、南側には江戸時代に建てられたというお宅が残っており、ここには現在もお住まいだそうです。お庭なども立派なものがあると聞きます。機会があれば、拝見してみたいもの。右の写真は、矢田の火の見櫓跡。文政8(1825)年、町方からの願いによって火の見櫓が建てられています。現在のものは、東海道宿駅制定400年を記念して復元されたもの。東海道はここで左折し、南へ。

210409sichirinowatasi2 Img_5193c_20210410071501  ようやく詳細マップはその2に入ります。南に向いたあたりの東海道の様子が、右の写真。地名でいうと、福江町。

Img_5196c_20210410071501  スタートして3.6㎞ほどのところに神戸岡神社があります。縁起は不詳ですが、この付近には伊勢神宮の領地があり、古地図には「神⼾岡」とあるといいます。また、伊勢国風土記にはこの付辺を「桑名神⼾」と称したいいますので、伊勢神宮に関わりがあるかも知れません。明治28(1895)年、立坂神社に合祀されましたが、昭和35
(1960)年に現在地に再建しています。小さい神社ですので、これまできちんと観ていませんでしたが、境内にはいろいろとありました。

Img_5206c_20210410071501 Img_5200c_20210410071501  まずは「戦役勇士碑」。裏には回れず、碑陰は確認できませんでしたが、碑表にはたくさんの方のお名前が刻まれていました。このあたりから出征された方々と思います。向かって右は、橋の親柱。現地では何と書いてあるのかよく分からなかったのですが、帰宅して、町屋御用水のことを調べていたら、判明。「新福橋」と刻まれています。神戸岡神社の西にある「新地」は正徳年間(1711~16年)に足軽屋敷として開発された土地で、東海道沿いの福江町から新地へ出入りするために町屋御用水に橋が架けられました。この橋は、新地の「新」と福江町の「福」を採って「新福橋」と名付けられたのです。その橋の親柱ということ。これでスッキリ(微笑)。

Img_5212c_20210410071501  神戸岡神社から100mあまり行った、西側に御用水親水広場があります。御用水とは、町屋御用水。寛永3(1626)年、桑名藩主松平定行によってつくられた上水道。4月10日にその取水口を見てきています(町屋川へキジを探しに……ついでに町屋御用水取水口も見てくる)。町屋御用水は、繁松新田の東京堂書店の南、桑名医師会の看護専門学校の南を通り、近鉄と JR の線路下を暗渠で抜けると新地地内へ入り、広い道路の真ん中
を流れます。護岸は石張りで整備され、ここに水面へ降りられるように階段が設けられ、親水広場になっています。それがここ。

Img_5218c_20210410194801 Img_5221c_20210410194801  御用水親水広場を覗いてすぐのところ、東側に桑部山了順寺。浄土真宗本願寺派のお寺。戦国時代の桑部城主・毛利秀重(ひでしげ)の 孫・秀元(ひでもと)が、永禄10(1567)年に織田信長に敗れて後出家して、元和7(1621)年に創建した寺です。山門は 桑名城の門を移したものといわれています。現在の建物は明治35(1902)年の建築で、戦災を免がれ、東海道筋に昔ながらのたたずまいを残しています。

Img_5228c_20210410194801  了順寺を出ると、日立金属桑名工場が西側にあります。このあたりが、江場松原跡。東海道は、七里の渡し跡から大福村までは両側に家並が続いていたのですが、大福村を過ぎて江場安永にかけては、両側には家はなく、松並木となっていたといいます。この松並木を通して、両側とも眺望が秀れ、東は伊勢の海が見られ、⻄には鈴⿅の山脈が遠望されたそうです。松並木は、昭和34(1959)年の伊勢湾台風頃まで残っていたのですが、現在は一本の松もなく、家並となり、一部は⽇立金属工場庭園となっています。

Img_5234c_20210410194801 スタートから4㎞を過ぎて、西に城南神社。江⼾時代までは「神明宮」と呼ばれていました。倭姫命が、伊勢神宮鎮座地を求めて巡行された時立ち寄られたという伝承があります。その縁で、伊勢神宮の遷宮ごとに皇大神宮(内宮)の一の鳥居、占殿舎の一部を下賜されて、御木曳きが行われます。明治41(1908)年、旧城南
村各字の神社を合祀して城南神社と称しました。境内の手水鉢には、嘉永4(1851)年の銘があります。合祀された各社は昭和30(1955)年に旧社地に分祀されました。

Img_5244c_20210410194801  主祭神は、天照大御神。相殿神は、保食神(うけもちのかみ:食物の神)、少彦名神(スクナビコナノカミ:医薬の神)、天目一箇命(あまのまひとつのみこと:鍛冶の神)、大山津見命(おおやまつみのみこと:山の神)、火産霊神(ほむすびのかみ:火の神)、豊受比売命(とようけひめのみこと:食物を司る神、伊勢神宮外宮に祀られる)。城南神社で11時15分、スタートから2時間以上歩いてきましたので、30分ほど小休止。

Img_5254c_20210410194801 Img_5257c_20210410194801  城南神社から200数十メートルのところに清浄山晴雲寺。真宗大谷派のお寺。大永2(1522)年、東城(現在の九華公園付近にあった)の城主・伊藤武左衛門の一族の明⻄(めいさい)が、一族の菩提を弔うために建立。江⼾時代には、関東へ行く諸大名などは、この晴雲寺に立ち寄って、衣服を改めて桑名城下に入ったといいます。現在の本堂は明治27(1894)年の建築。また、慶応4(1869)年、戊辰戦争の際、赤報隊の一部・滋野井隊(幕末~明治時代の公家・華族である滋野井公寿(しげのい きんひさ)を隊長とする)がここ晴雲寺に宿泊し、「偽勅使」として捕縛されるという事件の舞台でもありました。

Img_6912c Img_5559c_20210410202801  晴雲寺からすぐに国道258号線を地下道でくぐり、安永へ。このあたりも立場でした。安永は東海道筋であると共に、町屋川を利用した舟運の舟着場でもありましたので、通行客を相手とする茶店が多くありました。名物として「安永餅」が売られていたのですが、現在は、このあたりには売る店はありません。しかし料理旅館「玉喜」、「すし清」(右の写真)が茶店の名残りで、両店とも藤の花が見事です。

Img_5285c Img_5295c_20210410194801  すし清の手前に伊勢両宮常夜燈と里程標があります。伊勢両宮常夜燈は、文政元(1818)年、東海道の道しるべと伊勢神宮への祈願を兼ねて桑名や岐阜の材木屋によって寄進されたものです。江⼾時代の東海道はここから町屋川に進み、対岸の縄生(なお)までかけられた板橋を通りました。常夜燈の横にある「里程標」は、明治26(1893)年に建立されたもの。里程標には、町屋川の中央から北が桑名郡であること、三重県庁及び桑名郡役所までの距離が刻まれています。三重県庁までは、11町3里余(約47km)です。江⼾時代の町屋川は、川幅が232問余(約420m)あり、寛永12(1635)年に初めて橋がかけられ
た。昭和8(1933)年、国道1号線にかかる町屋橋がやや下流にできましたので、旧橋は廃止。現在の橋は、平成元(1989)年に架け替えられたもの。

Img_5312c_20210410194801210409sichirinowatasi3  町屋橋を渡ると、三重郡朝日町に入ります。左の写真は、町屋橋を渡った先、縄生(なお)あたりの東海道。南西を向いて写真を撮っています。朝日町に入ってからの詳細マップは、その3(右の画像)。

Img_5315c_20210410194801  橋本川を越えるとじきに、雨宝山金光寺(うほうさんこんこうじ)が西にあります。高野山真言宗のお寺。もともと天台宗で、その後、真言宗になったといわれています。延宝2(1673)年に現在の公民館縄生分館の辺りに小堂が建てられ、本尊十一面観世音を祀ったが、寛政年間(1789-1800)に類焼し、3年後に現在地で再建されました。しかし、明治3(1870)年、当時の住職・浄海(じょうかい)を最後に無住となり、この小さな本堂のみが残されています。ご本尊は、十一面観音菩薩。

Img_5324c_20210410194801 Img_5333c_20210410194801  金光寺の南隣にあるのが、桔梗山真光寺(しんこうじ)があります。浄土真宗本願寺派。大同2(807)年、最澄が天台精舎として創建。興国元(1340)年に本願寺第三世覚如上人の教化を受けて浄土真宗に改宗しています。

Img_5337c_20210410194801  ここ真光寺には、松平家の定紋である梅鉢紋入りの大手水鉢があります。これは、桑名藩7代藩主・松平定重公が、万治3(1660)年に寄進した ものです。先代藩主の定良公が、有馬温泉での湯治から帰藩途中に病死したのですが、町屋川の洪水で、川留めになり、真光寺がその遺骸を3日間安置し、供養したことへの返礼で拝領したものです。

Img_5343c  さらに進みます、スタートから6.1㎞あたり、水谷たばこ店の店先に山口誓子の句碑があります。この句碑には山口誓子の筆跡で、「露けさよ 祷りの指を 唇に触れ 誓子」と刻まれています。以前は、ほとんど読めなかった記憶がありますが、きれいになったかも知れません。「俳句のくに 三重」の説明によれば、「外に出て露けき中でお祈りをした。合掌し、その手を唇に近づけたので指の先が唇に触れた。私はその指先を感じながら祈りを続けた」ということです。昭和25(1950)年10月建立。誓子は、昭和16(1941)年、伊勢富田(四日市市富田)に移り、療養したといいますから、その頃の句でしょう。

Img_5347c Img_5353c  山口誓子句碑から目と鼻の先、「縄生の一里塚跡」の石碑があります。ここは、桑名の七里の渡や、西富田の庚申橋から、それぞれちょうど一里のところになるはず。伊勢国には、12カ所に一里塚がもうけられたといいます。この石碑は、新しいのですが、それもそのはず、平成13(2001)年に、東海道宿場・伝馬制度制定400周年記念事業で作られたもの。ボンヤリと歩いていると、見逃しそうなくらいの小さな石碑です。いささか余談ですが、この日のゴールにした近鉄名古屋線・伊勢朝日駅の手前に「安達本家酒造」があります。以前来たとき(2017年11月9日:旧・東海道ウォーク(安永~富田)へ(前編))、自動販売機で、ここが造っている地酒を買おうと思ったのに、うまく行きませんでした。運転免許証を入れて、年齢認証を受けるというのが、何度やってもうまく行かなかったのです。今日、リベンジできるかと思ったら、自販機には商品が何も入っていませんでした。一度、酒屋さんでここの「富士の光」を探してみましょう。

Img_5359c_20210410194801 Img_5356c_20210410194801  これでこの日の目的地はコンプリート。ゴールは、伊勢朝日駅に設定してあるのですが、その前にすでに時刻は12時半。伊勢朝日駅の手前に「日乃出」という食事処へ。前日にリサーチ済み。今の時期お昼は「日替わり弁当」のみのメニュー。¥700。刺し身、フライ、卵焼きなどに味噌汁付きですから、まぁ「お値打ち」。平日でしたが、我々の他にもお客さんはそこそこやって来ていました。

Img_5366c  昼食を済ませて、伊勢朝日駅には13時10分着。ここは普通電車のみ停車。次の名古屋方面行きは、13時25分の名古屋行き普通。桑名までは2駅。13時30分着とたった5分。¥210。9時から、実質3時間かけて歩いてきたのですが、電車では載ったかと思うと、すぐに降りなくてはならないくらいで笑えます。

Img_5376c  この日のスマホのALKOOのデータ。16,225歩でした。現地で歩いたのが6.7㎞。我が家から七里の渡し跡までと、桑名駅から自宅までとを合わせて1.5㎞。合計8.2㎞を歩きました。

 

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2021年4月10日 (土)

町屋川へキジを探しに……ついでに町屋御用水取水口も見てくる

Img_5401c_20210410172301  昨日も出かけましたが、今日も(苦笑)。三岐鉄道北勢線で西別所駅へ。ここから、町屋川に出て、いつもの日の出橋まで歩いてきました。今日の目的は2つ。その1つは、昨年のリベンジで、キジを見て、撮影すること(2020年5月14日:声はすれども姿は見えず……町屋川でのキジ探しは不首尾)。2つめは、町屋川にある町屋御用水の取水口を確認してくること。西別所駅から日の出橋まで、現地では、6.9㎞を歩いてきました。駅前のバスターミナル/西桑名駅往復が2.4㎞。合計9.3㎞。今日もよく歩きました。

Img_5663c_20210410173401 Img_5724c_20210410172101  まずは、キジ。結論から書きますと、あちこちでキジの鳴き声を聞き、姿を見たのは、オス、メスとも2羽ずつの計4羽。国道1号線町屋橋の上流200mあたりで2箇所から鳴き声が聞かれました。しばらく待ったものの姿は見えず。昨年の二の舞かと危惧しつつ、目撃情報があった国道1号線~国道23号線の方へ。あるあたりで何ヶ所からもキジの鳴き声が聞こえてきました。あたりを一通り歩いたあと、鳴き声がよく聞こえるところで待機。待つこと30分でようやくまずはオスを確認。さらに10分あまり経って、近くにメスが登場。これらのオス・メスは、近いところにいましたので、ペアであろうと思います。

Img_5782c_20210410172201 Img_5715c_20210410173801  その後、少し場所を移動してすぐに別のオス。それが、これらの2枚の写真。後ろ姿も美しい。かなり遠くからキジを見たことは何度かありましたが、これほど近くで見たことは初めて。写真もわりとよく撮れたと思いますが、これほど美しいとは思いませんでした。魅入られた感じ(微笑)。

Img_5813c_20210410172001  このオスのペアと思われるメスがこちら。オスに比べるといかにも地味ではあるのですが、よく見ると眼の周りなど、けっこう整っているように思います。キジ、十分見たと思ったのですが、写真を整理して、こうしてブログの記事を書いていると、また見たくなってきました。

Img_5526c_20210410172301  このほか町屋川で見て来た鳥たち。西別所近くからJR/近鉄の鉄橋あたりまででは、オオバン、コガモ、カルガモ、カワウなどの水鳥が少数。ツバメはかなりの数が、河川敷を飛び交って、餌を採っています。ホオジロのオスを1羽、アオジのオスらしき鳥も1羽を目撃。ダイサギ(左の写真)は、この1羽の他に数羽がいたものの、中洲の草木の陰になってよく見えず。同じあたりにアオサギも2~3羽。これも草木の陰。

Img_6003c Img_5995c_20210410172001  キジを見てから、日の出橋の少し下流まで行ったのですが、中洲にセグロカモメ。座り込んで、動かず。他には、コチドリが2羽。小さいのですが、鳴き声がよく響くので見つけられます。他には、コガモが数羽と、他のカモ(オカヨシガモかと思うのですが、遠くて判別できず。写真もピントが大甘でした)。

Img_6052c Img_6083c_20210410172001  日の出橋近くに戻って来て、橋の上流側にアオサギさん。中洲にはケリ。ハクセキレイのオスも1羽いたものの、真上からの写真のみ。他には、トビ2羽。

Machiyagoyousuic  目的その2について。町屋御用水の取水口の確認。町屋御用水は寛永3(1626)年、桑名藩主松平定行によって作られた上水道です。繁松新田の町屋川(員弁川)から取水し、自然の勾配を利用して桑名城下南西の吉津屋御門まで開渠で通され、そこから先へは地中の樋管で城下へ配水していました。全長約2㎞、全国で6番目にできた水道で、明治37(1904)年に諸戸水道が開通するまで約280年、使われました。場所は、3月31日に行った“20210331“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”の時に調べてあったのですが、この日の主要な目的地とは逆方向でしたので、パスしていたのです。

Img_5479c_20210410172301 Img_5458c_20210410172301  こちらが、町屋川に面した、現在の町屋御用水取水口。川の表面水を直接取り入れる構造になっています。ここからコンクリート製の導水路で堤防と国道258線の下をくぐって、川成町地内に入って行きます。右の写真は、堤防を越えた先のあたりのもの。上のマップには、水路が紺色で入れてあります。また、機会があれば、ここ町屋御用水取水口から、御用水の水路を辿って歩きたいものです。それにしても、あまりきれいでないのには、ちょっと残念な思い。

Img_6019c_20210410172001  西別所駅をスタートしたのは8時35分頃。町屋川を下って、日の出橋の先まで行って日の出橋バス停に戻ったのは11時40分頃。11時44分発の桑名駅前行きバスに乗車して、桑名駅前には12時1分着で帰宅。北勢線が¥190、バスが¥350。いやぁ、しっかり楽しめました。今日は、干潮が11時20分(四日市港)。町屋川河口では、潮干狩りをする人多数。

Img_6134c_20210410172001 今日のALKOOのデータ。15,129歩。日の出橋の上でケリの写真を撮っていたら、九華公園前管理人のOさんがクルマで通りかかって、「今日はここですか?」と聞かれました(微笑)。思わぬところで知人に出遭います。天網恢々疎にして漏らさずといいますが、悪いことはできませんねぇ(爆)。

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