お知らせ

  • データの移行について
    2005年10月26日のブログ開始当初から、2023年10月31日までの記事は、「猫の欠伸研究室(アーカイブ)」に移行しました(http://blog.livedoor.jp/taichimaru151/)。 このココログの「猫の欠伸研究室」には、2018年1月以降の記事を残し、2017年12月以前の記事は削除しました(2018年1月1日から2023年10月31日までの記事は、両方にあります)。

レンズを通した自然観察

  • この「レンズを通した自然観察」ということばは、恩師のお一人が、私の趣味を形容しておっしゃったものです。2023年2月7日のブログに書きましたが、実はときどき思い出していることばです。お世話になった先生方はたくさんいらっしゃいますが、この恩師は、就職のことから学位論文の執筆、審査に至るまで本当にお世話になった先生です。「写真の撮り方を指南してもらいたい」ともおっしゃったのですが、これはお世辞と理解しています。私はほぼ隠居状態となって10年以上になりますが、今、改めてこのことばをかみしめています。この先生には結婚式の際に「理論と臨床をつなぐ仕事をするように」ということばをいただきました。体調を崩してそれには十分に応えられませんでしたので、せめてこの「レンズを通した自然観察」については、極めるとまでは行かないにしても、もう少し精進したいと考えています。

ブログ名の由来

  • ブログ名の「猫の欠伸研究室」は、中日新聞の夕刊に連載されている「紙つぶて」というコラム(平成22(2010)年1月13日)に、元新党さきがけ代表の武村正義さんが書いていらっしゃった「人生は猫の欠伸である」というコラムによります。武村さんは、“チベットで鳥葬を取り仕切る僧侶が、「人の生涯は猫の欠伸のようなもの」と語った”と書いていらっしゃいます。「猫の欠伸のようなもの研究室」としたかったのですが、ちょっと間延びしますので、「猫の欠伸研究室」とした次第です。「研究室」とつけたのは、過去、大学に勤めていたことがあるということやら、知らないこと、分からないことがあると何でも調べずにはいられない性分であること、屁理屈、講釈が大好きであることからであります。しかし、「人生の研究をしている」のではありません。「大所高所」からのご高説を開陳できるほどの力量はないが故、「小所低所」からの戯れ言をつぶやくのが精一杯(苦笑)。身の程に合わせ、勝手なことを書き綴っていますので、御用とお急ぎでない皆様には、今後ともご交誼のほど、お願いいたします。是非ともコメントを頂戴し、少しでも世間を広げたいと熱望しております。

モットー

  • 座右の銘というほど立派なものはありませんが、過去に体調を崩し、療養生活を送った経験から、私なりのモットーをつくっています。その一つは、「淡々と飽きもせず……」です。自分では、「……」と余韻を残しているところが気に入っています。こだわりすぎや、やり過ぎはよくありません。若い頃はムキになってやったこともありますが、今はこのように「淡々と飽きもせず……」が自分に合っていると思っています。もう一つは「晴耕雨読」ならぬ「晴歩雨読」です。マンション暮らし故、耕すところはありません。代わりに歩いています。そして、最近(令和3(2021)年に入った頃から)追加したのが、「散歩生活、ときどき仕事」。NHKのテレビ番組に「晴れ、ときどきファーム!」というものがあります。これのもじり。浅学非才の身ですので、ご交誼の上、いろいろとご教示をお願いします。

勝手にハイキング

2023年11月29日 (水)

20231125「菰野ウォーキング」(その1)……西覚寺、見性寺、廣幡神社、旧横山家住宅、菰野城隅櫓跡から菰野城跡へ

Img_3792c_20231125165401  前日から寒くなり、この日がその寒さの底だという予報でしたが、11月25日に「菰野ウォーキング」に行ってきました。2018年が「湯の山温泉開湯1300年記念」ということで、近鉄ハイキングが何回も開催され、それらに参加して、私自身は菰野町をかなり歩きました(2018年9月2日:20180902近鉄ハイキング“「開湯1300年 ゆこうよ 湯の山」菰野藩主土方雄豊公ゆかりの見性寺での開湯1300年記念祭を訪ねて”へ……予告編、2018年10月12日:20181012近鉄ハイキング“「開湯1300年 ゆこうよ 湯の山」こもガク&大日本市菰野博覧会を楽しもう!”(予告編)、2018年10月20日:20181020近鉄ハイキング「芸術の秋!鈴鹿山脈を望み湯ったりウォーキング」へ……菰野駅をスタート、五郎兵衛地蔵、三滝川ジョギングコース、大羽根園運動公園から湯の山温泉駅、観光列車「つどい」もしっかり見てきました(完)、2019年9月16日:20190916近鉄ハイキング「特別企画ハイキング 菰野まるごとハイキング・夏 そろそろ夏納め♪菰野富士ハイキング」……菰野で富士登山(笑)(予告編))。今回は、同級生K氏と二人旅。歩き始めは晴れていたのですが、途中、鈴鹿の山にかかる雪雲からみぞれのようなものが飛んできたり、冷たい風に吹かれたりということもありました。冒頭の写真は、スタートして4㎞あたりの湧水池のあたりから見た鈴鹿山脈。中央に御在所岳があるのですが、上の方はたぶん雪雲におおわれています。桑名では最高気温は13.5℃、最大風速は5.5m/sでした。

Img_3379c_20231125165301  Img_3384c_20231128164701 近鉄桑名駅を8時22分に出る伊勢中川行き急行に乗り、近鉄四日市駅に8時34分到着。8時50分発の湯の山線湯の山温泉行き普通に乗り換えて、菰野駅に9時9分着。¥560。

Komono0  こちらがこの日歩いてきた全ルートマップ。主な立ち寄り先は、西覚寺、見性寺、廣幡神社、旧横山家住宅、菰野城隅櫓跡、菰野城跡、瑞龍寺、湧水池、廣幡神社御旅所(旧菰野神社)、五郎兵衛地蔵、湧水池、蟹池(智積養水の水源地)、二分八分、三十三限筒そして智積養水記念公園です。ルートマップ上では、8.5㎞。

 詳しいルートマップその1はこちら。Komono1 菰野駅のすぐ西に西覚寺。湯の山線を渡って南に行ったところに見性寺。西に向かうと廣幡神社。北に向かい、旧横山家住宅、菰野城角櫓跡、菰野城跡、札の辻、瑞龍寺と進みます。

Img_3387c_20231128164701  まずは、宝樹院西覚寺。菰野駅西の踏切の側にあります。浄土真宗大谷派。大変立派な本堂があるお寺ですが、ネットではこれという情報はありませんし、寺にも案内板などはありませんでした。

Img_3399c_20231128165401 Img_3403c_20231128165401  西覚寺から見性寺に向かう途中で見た鈴鹿山脈。このときは、全体としては晴れていたのですが、山の高いところには雲がかかっています。

Img_3407c_20231128165701  真如山見性寺は、臨済宗妙心寺派。菰野藩主・土方氏の菩提寺として、寛永21(1644)年に菰野藩第2代藩主・土方雄高(かつたか)が三霊禅師を尾張国より招き、この地に創建したのが始まりといいます。開山の三霊和尚は臨済初期の高僧で、後に孝明天皇より紫衣と禅師号を賜わっています(こちら)。なお、菰野藩は外様、1万2,000石。

Img_3481c_20231125165401  寛文9 (1669)年、火災により庫裡が焼失しましたが、享保11(1726)年、菰野藩5代藩主・土方雄房(かつふさ)が本堂、庫裡、山門を再建立しました。山門は豪壮で、大名の菩提寺にふさわしい、立派なものです。

Img_3436c_20231128171901  本堂は禅宗の方丈建築様式です。方丈は、もとは1丈 (約 3m) 四方の部屋の意で、禅宗寺院の住持や長老の居室をさしました。方丈建築様式は、分かりやすく書けば、「多目的建造物」といえそうです(こちら)。本堂に向かって右は、書院の玄関。これは菰野出身の名工・高木藤造の作です。高木藤造は、菰野の城下の川原町、新池の西に屋敷を構え、藩の御用大工を勤めていました。文化5(1808)年の生れ。その一代に見性寺をはじめ石榑の照光寺、中上の遍崇寺、 大強原の随法寺など、多くのお宮、お寺の建築にたずさわった宮大工です。

Img_3476c_20231128172301  方丈のとなりには、大師堂があります。3代藩主土方雄豊(かつとよ)夫人寄進の梵鐘があります。この鐘は、寛文3(1663)年、京都の鋳物師近藤丹波掾藤久の作になるもので、鐘銘は2世住職越伝の撰文です。戦争中の供出にも危うく難を免れて保存されているといいます。

Img_3455c_20231128174601 Img_3448c_20231128174601  本堂の左手、階段を上ったところに土方家歴代藩主の墓所があります。こちらは、階段を上がった正面にある、2代藩主・雄高公のお墓。藩祖である雄氏(かつうじ)公の墓碑は、京都北山の功運院にあります(こちら)。これは、雄氏公が、京都に住んでいたためと思われます。また、土方家の墓地は東京湯島の麟祥院と高野山奥の院にもあるそうです。なお、12代雄永(かつなが)公は神葬の為、墓地はありません。外様大名で、これだけの大きい藩主の墓碑が残るところは珍しいといいます(こちら)。

Img_3458c_20231128174601 Img_3410c_20231128175101  前回ここに来たときには気づかなかったのですが、藩主墓所の向かい側には藩主夫人などの墓所がありました。左の写真は、初代藩主・雄氏公の正室八重姫(天正16(1588)~延宝7(1679)年)のお墓。八重姫は、織田信雄の娘で、4歳で雄氏と婚約したといいます。幼少期から菰野藩で育ち、藩の草創期の礎を築いた陰の功労者といえ、最近、その業績が見直されているようです。晩年はここ見性寺で座禅三昧の生活を送ったといわれています。また当時としては異例の長寿で92歳の天寿を全うしました。

 続いて廣幡神社へ。Img_3542c_20231129061901 旧くは正八幡宮と称し、寛永7(1630)年8月、菰野藩主・土方雄氏公が、京都の石清水八幡宮より勧請し、それ以来、同家の鎮守社となっています。一の鳥居は、金渓川のすぐ北に建っています。神社に行くには、金渓川にかかる廣幡橋を渡って、さらに南へ。擬宝珠の付いた立派な橋は、昭和9(1934)年5月に架けられたとしるされています。

Img_3495c_20231129062101 Img_3510c_20231125165401  神社は小山の麓の少し高いところにあります。右の写真が、廣幡神社の拝殿。合殿に諏訪神社がありますが、これは、菰野郷草創の社で、村中里民の産土神であったものを、慶長年間に土方家並に藩士の産土神としますが、慶長13(1608)年3月、領主雄高公の命で諏訪神社を南山に奉遷しました。明治4(1871)年10月、菰野県庁の命によって諏訪神社を正八幡宮に合祀して廣幡神社と改称しています。明治40(1907)年から、村内全部の郷社1、村社である倭文神社、菰野神社、平岡神社、日吉神社、江田神社、須賀神社、豊岡御厨神社、春日神社を合祀しました。これだけ合祀したためか、御祭神は、主祭神の誉田天皇(応神天皇)の他、28座もの多数。詳細は、2018年10月25日の記事をご参照ください(20181012近鉄ハイキング「こもガク&大日本市菰野博覧会を楽しもう!」へ(その1)……菰野駅をスタート、西覚寺、忠魂碑・地蔵堂、道標を見て、廣幡神社へ)。ここ廣幡神社の拝殿には、大小様々な絵馬・額があります。それらについても、このリンク先に写真とともに書いていますので、そちらをご覧ください。

Img_3523c_20231129063201  見性寺でもそうでしたが、ここも紅葉が見事でした。

Img_3530c_20231129063301  廣幡神社にいた頃から空模様が怪しくなってきました。鈴鹿山脈は、雲におおわれ、廣幡神社あたりにもみぞれのようなものが風で飛んでくるのです。寒くて、冷たい!

Img_3550c_20231125165401 Img_3554c_20231129063601  廣幡神社のすぐ北に旧横山家住宅があります。建物は登録有形文化財で、庭園は登録文化財(名勝地)となっています。一般公開はされてはいないのですが、外からだけでも見てみようと立ち寄ってきました。横山氏は、永禄7(1564)年に菰野地域に移り住んだとされ、江戸時代には菰野藩士で代官を務め、明治時代以降も村長や衆議院議員を輩出しています。

Img_3568c_20231129070401 Img_3572c_20231129070401  ミルクロードの下、湯の山線の線路脇に菰野城角櫓跡。菰野城(実際には、陣屋)は、このあと訪ねる菰野小学校の所にありました。説明板によれば、菰野藩は外様の小藩でしたので、城の防御に堀や角櫓を設けることは許されず、城の周りに土居を築き、その上に竹木を植え、柵を編み、それを守りとしていたそうです。幕府が滅び、その禁が解け、12代藩主雄永の正室として京都の公家から益子姫を迎えるとき、城域の雰囲気を高めようと領民の力を借りて、明治2(1869)年に堀を掘り、角櫓を建てたといいます。このあたりがその角櫓の跡ということです。

Img_3589c_20231125165401  菰野城跡にやって来ました。菰野藩1万2,000石の大名土方氏の代々の居城であったところです。現在は、町立菰野小学校の敷地になっています。菰野城跡の碑があるのは、藩邸の庭園の一部(西南の隅)です。石碑には、「薦野城址」と刻まれています。初代・雄氏公の頃の藩邸はきわめて簡素でしたが、2代・雄高公は城の中心部に館を建て、藩邸の整備を行い、領内の藩士を周囲に住まわせま、四日市街道沿いに東町、庄部、河原町などの街区を整え、城下町造りを行っています。3代・雄豊公が、万治3(1660)年、陣屋の全面修理を行いました。陣屋は大手門、玄関、対面所、御用部屋、書院、奥居間、納戸、台所などに間取りされ、その周りを馬小屋、兵糧庫、武器庫、中間部屋などが取り囲んでいたといいます。現在は、西側と北側に城壕の一部と築地が遺り、また、西南を流れる振子川に面して、角櫓跡があり、その東方に石積の遺構の一部が見られるのですが、角櫓跡以外は見てきていません。

 キリがよいので、その1はここまで。その2は、札の辻・高札場跡や瑞龍寺から。

2023年11月25日 (土)

20231125「菰野ウォーキング」(予告編)

Img_3792c_20231125165401  昨日から寒くなり、今日がその寒さの底だという予報でしたが、予定通り、「菰野ウォーキング」に行ってきました。2018年が「湯の山温泉開湯1300年記念」ということで、近鉄ハイキングが何回も開催され、それらに参加して、私自身は菰野町をかなり歩きました(2018年9月2日:20180902近鉄ハイキング“「開湯1300年 ゆこうよ 湯の山」菰野藩主土方雄豊公ゆかりの見性寺での開湯1300年記念祭を訪ねて”へ……予告編、2018年10月12日:20181012近鉄ハイキング“「開湯1300年 ゆこうよ 湯の山」こもガク&大日本市菰野博覧会を楽しもう!”(予告編)、2018年10月20日:20181020近鉄ハイキング「芸術の秋!鈴鹿山脈を望み湯ったりウォーキング」へ……菰野駅をスタート、五郎兵衛地蔵、三滝川ジョギングコース、大羽根園運動公園から湯の山温泉駅、観光列車「つどい」もしっかり見てきました(完)、2019年9月16日:20190916近鉄ハイキング「特別企画ハイキング 菰野まるごとハイキング・夏 そろそろ夏納め♪菰野富士ハイキング」……菰野で富士登山(笑)(予告編))。今回は、同級生K氏と二人で菰野を訪ね歩いてきました。歩き始めは晴れていたのですが、途中、鈴鹿の山にかかる雪雲からみぞれのようなものが飛んできたり、冷たい風に吹かれたりということもありました。冒頭の写真は、スタートして4㎞あたりの湧水池のあたりから見た鈴鹿山脈。中央に御在所岳があるのですが、上の方はたぶん雪雲におおわれています。桑名では最高気温は13.5℃、最大風速は5.5m/sでした。今日のところは、予告編。

Img_3379c_20231125165301  近鉄桑名駅を8時22分に出る伊勢中川行き急行に乗り、近鉄四日市駅に8時34分到着。8時50分発の湯の山線湯の山温泉行き普通に乗り換えて、菰野駅に9時9分着。¥560。

Komono0  こちらが今日歩いてきたルートマップ。立ち寄り先で見て回った分は割愛してあります。主な立ち寄り先は、見性寺、廣幡神社、菰野城跡、瑞龍寺、廣幡神社御旅所(旧菰野神社)、五郎兵衛地蔵、蟹池(智積養水の水源地)、二分八分、三十三限筒です。ルートマップ上では、8.5㎞。

Img_3481c_20231125165401  最初の立ち寄り先の真如山見性寺は、臨済宗妙心寺派。菰野藩主・土方氏の菩提寺として、寛永21(1644)年に菰野藩第2代藩主・土方雄高(かつたか)が三霊禅師を尾張国より招き、この地に創建したのが始まりといいます。開山の三霊和尚は臨済初期の高僧で、後に孝明天皇より紫衣と禅師号を賜わっています(こちら)。寛文9 (1669)年、火災により庫裡が焼失しましたが、享保11(1726)年、菰野藩5代藩主・土方雄房(かつふさ)が本堂、庫裡、山門を再建立しました。山門は豪壮で、立派なものでした。

Img_3510c_20231125165401  続いて、廣幡神社。旧くは「正八幡宮」と称し、寛永7(1630)年8月15日、菰野藩主・土方雄氏が、京都の石清水八幡宮から勧請したもので、それ以来、土方家の鎮守社となっています。主祭神は、八幡様ということで、誉田天皇ですが、相殿神は、29柱もいらっしゃいます。明治4(1871)年に諏訪神社を合祀してからは廣幡神社と号するようになりました。

Img_3550c_20231125165401  廣幡神社からすぐ北に旧横山家住宅があります。建物は登録有形文化財で、庭園は登録文化財(名勝地)となっています。一般公開はされてはいないのですが、外からだけでも見てみようと立ち寄ってきました。横山氏は、永禄7(1564)年に菰野地域に移り住んだとされ、江戸時代には菰野藩士で代官を務め、明治時代以降も村長や衆議院議員を輩出しています。

Img_3589c_20231125165401  菰野城跡。菰野藩1万2,000石の大名土方氏の代々の居城であったところです。現在は、町立菰野小学校の敷地になっています。菰野城跡の碑があるのは、藩邸の庭園の一部(西南の隅)です。石碑には、「薦野城址」と刻まれています。初代・雄氏の頃の藩邸はきわめて簡素でしたが、2代・雄高は城の中心部に館を建て、藩邸の整備を行い、領内の藩士を周囲に住まわせま、四日市街道沿いに東町、庄部、河原町などの街区を整え、城下町造りを行っています。

Img_3603c_20231125165401  菰野城跡の東に札の辻。ここには高札場もありました。巡見街道菰野道が交差しています。

Img_3638c  札の辻のすぐ東には、長松山瑞龍寺。臨済宗妙心寺派です。ご本尊は薬師如来。菰野藩士たちの菩提寺として崇敬を集めてきました。もとは天台宗のお寺でしたが、永禄11(1568)年、信長の兵火により焼失し、正保年間(1644~47年)に宗貞和尚によって臨済宗のお寺として再建されています。境内には延命殿があり、お地蔵様がいらっしゃいました。地蔵さんは延命除災の功徳があるとあつい信仰を受け、菰野の町に昔から大きな火事が起きたことがないことも、この地蔵さんの加護があるからと信じられているそうです。

Img_3672c_20231125165401  瑞龍寺から湯の山街道を渡り、廣幡神社の庄部御旅所(庄部は、地名)へ。ここは、元は菰野神社でしたが、明治40(1907)年に廣幡神社に合祀されました。前回来たときには(2018年10月12日:20181012近鉄ハイキング“「開湯1300年 ゆこうよ 湯の山」こもガク&大日本市菰野博覧会を楽しもう!”(予告編))、拝殿に奉納された絵馬があったのですが、今日は見当たりませんでした。

Img_3717c_20231125165401  御旅所から菰野中学、菰野高校の南を通って、五郎兵衛地蔵へ。南部公民館の隣にあります。昔、五郎兵衛という男がおり、お地蔵様の前の石がみんなの邪魔になると思って動かしたところ、その後、五郎兵衛が困難に直面したとき、お地蔵さまは五郎兵衛を助けてくれたということです。これに因んでお地蔵様は、「五郎兵衛地蔵」と呼ばれ、大事にされてきていま。お地蔵様は、堤防にあったものを明治10(1877)年2月、ここにお堂を建てたそうです。

Img_3867c_20231125165401  このあと湧水池を1ヶ所回り、水田地帯をひたすら歩いて、蟹池へ。ここは、智積養水の水源地です。智積養水は、ここから四日市市智積町へと1.784kmを流れています。幅は1~2m、水量は1日あたり19tで、水温は1年を通して安定しています。水はとてもきれいです。智積町あたりの智積養水は、これまでに訪ねたことがあり(2020年2月8日:20200208近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 銘酒「鈿女」伊藤酒造と智積養水をたずねて」へ(一回完結))、水源地の蟹池を訪ねたいと思っていました。

Img_3904c  湯の山水産研究センターのところに「二分八分(にぶはちぶ)」という、分水地点があります。ここは、江戸時代の頃から、たびたび「水争い」の争点となった場所だそうで、「蟹池」からの流水が、この地点で「二分八分」の割で分流され、二分の流水は神森地区東方の水田を灌漑し、八分は智積養水路に流されました。ネットで調べた限りでは、正確な場所は特定できませんでしたが、先のリンク先の説明によれば、この写真の奥のところが「二分八分」と考えられます。

Img_3965c_20231125165401  もう1ヶ所、智積養水に関する重要ポイントは、「三十三限筒(さんじゅうさんげんどう)」。蟹池の湧水を、智積側に引いてくるには、金渓川と天王川がその行程の障害になります。そこで、考え出されたのが、金渓川と天王川の両川を横切る形で、川底に樋を埋設して貫通させ、川の北岸(神森)から、南岸(桜一色)へ水を送る土木工法です。つまり、二つ川はこの三十三間筒の上を交差する形で流れています。この埋設された樋の長さが三十三間(約59m)あるので、三十三間筒と呼んでいます。

Img_3985c_20231125165401  桜駅の北側に智積養水記念公園。せせらぎを中心とした憩いの公園です。このせせらぎは、智積養水を引いていて、透明度が高く清々しい気持ちにさせてくれます。ここに来たときが、13時10分頃。ちょうど四日市行きの電車が駅に入って来てしまいましたので、どこかで昼食を、ということになりました。

Img_3995c_20231125165401  231125132745652c イタリアンのキャナリィ・ロウもあったのですが、大賑わいの様子。そこで、桜駅の北側にある韓丼四日市インター桜店へ。大正解(微笑)。「温玉カルビ丼(並み)」(¥720)をチョイス。体が冷えていましたので、暖まったのが何よりですし、美味しかったのです。

Img_3999c_20231125165401  近鉄湯の山線・桜駅には13時40分着。13時45分に四日市行き普通があり、それに乗車。四日市には13時59分に到着し、14時10分発の名古屋行き急行に乗り換えて、桑名には14時22分に到着。¥510。

Screenshot_20231125144800c  こちらは今日のGoogle Fitのデータ。ほぼ13㎞を歩き、21,303歩。自宅から桑名駅までの往復も含みます。現地ではほぼ10㎞を歩いてきたことになります。本編は、またいつものように、明日以降ボチボチと書いていきます。年内の同級生K氏とのウォーキングは、12月中旬にでももう1回行こうと話しています。

Img_3757c_20231126031301 Img_3807c_20231125165401  余談。今日は、途中でバードウォッチングも楽しめました(微笑)。まずは、4㎞地点に「湧水池」とありますが、そこで出て来たカワセミ。アオサギは、6㎞地点の蟹池の手前に2羽。ほかにノスリや、ハイタカの仲間と思われる猛禽も見かけました。

2023年11月 2日 (木)

20231028名古屋ウォーキング(その2)……愛知県議員会館、名古屋市市政資料館から四間道、円頓寺商店街、円頓寺本町商店街へ(完)

Nagoya2  10月28日に行ってきた勝手にハイキングシリーズ「名古屋ウォーキング」の本編その2です。その1では、JR名古屋駅をスタートし、白山神社、名古屋東照宮、那古野神社、愛知県護国神社と回りました。その2では、愛知県議員会館、名古屋市市政資料館から名古屋城の南を歩いて、四間道と円頓寺商店街へ向かいます。ルートマップはその2になります。

Img_2598c_20231031175901  愛知県護国神社からは三之丸にある官庁街の南、外堀通りを東に向かいます。こちらは大津橋。名古屋城三の丸のお堀と大津通りの交点にかかっています。大津通は、県庁や市役所のある官庁街から南、栄、大須、金山に向かう名古屋の南北の目抜き通りの一つです。欄干にあるベイス(飾り花瓶)と球形電球が4本ある照明がレトロ感を出しています。 昭和8(1933)年に完成。

Img_2615c_20231028171701  市政資料館南の交差点を左折して、北へ。愛知県議員会館があります。標札は「愛知縣議員会館」。元々は名古屋市長も務めた弁護士・大喜多寅之助(慶応2(1866)~昭和36(1961)年)の自邸兼事務所でした。東京帝国大学法科大学を明治25(1892)年に卒業後、名古屋市で弁護士事務所を開業し、その後、名古屋市会議員、同参事会員、名古屋市会議長に選出され、大正10(1921)年には名古屋市長に就任しています。大正9(1920)年に建てられた邸宅は、木造平屋建の洋館と木造二階建の日本家屋、土蔵で構成されていて、名古屋市の中心街に残る数少ない戦前の邸宅建築です。こういう建物、邸宅は是非とも内部を見てみたいものです。

231028110646271c 231028104304208c  続いて、名古屋市市政資料館。このブログではすでに何度も取り上げています。大正11(1922)年に建てられたネオ・バロック様式のレンガ造建築物で、昭和54(1979)年まで裁判所として使用されました。昭和59(1984)年5月、国の重要文化財に指定されました。詳しい紹介は、「2016年10月06日:支援員講座のあと、名古屋市市政資料館へ……旧・名古屋控訴院・地方裁判所・区裁判所」にあります。

Img_2635c_20231031172201  こちらは、地下にある留置場。ステンドグラスは、もちろんきれいなので気に入っているのですが、留置場も何故だか、気になるのです。当然、こういうところに収容されたような経験はありませんし、これから先もないことを痛切に願っています(苦笑)。ナオ、留置場についての詳しい記事は、「2018年03月11日:ウィルあいちで支援員養成講座の講師……終わって市政資料館で留置場を見て、名古屋ウィメンズマラソンにも遭遇」をご覧ください。市政資料館の前庭で小休止。

Img_2654c_20231031174501  いささか余談。名古屋市市政資料館の北に名古屋拘置所があります。この建物を見ると、何となく緊張を感じます。ここに収容されている受刑者は、刑が確定し、移送先の刑務所が決定するまでの間、居室内で紙加工等短期間でも技能習得可能な軽作業を行っているそうです。昭和13(1938)年5月に竣工し、同年7月2日に開所式・落成式が行われました。昭和20(1945)年に戦災で一部が焼失したものの、昭和23(1948)年に復旧。その後、全面改築工事が行われ、昭和58(1983)年(昭和58年)3月に竣工。外塀のない高層都市型矯正施設は日本初といいます。私の最初の職場であった国立療養所を管轄していた当時の厚生省東海北陸地方医務局が確か、このすぐ近くにあったのです。

231028112949971c Img_2676c_20231031175501  市役所交差点まで来ると、名古屋市役所と愛知県庁とが見えます。私の2番目の職場は、「親方丸八(名古屋市のマークが○に漢数字の『八』なのです)」でしたが、用事がありませんでしたので、市役所の本庁舎には行ったことはありません。どちらも帝冠様式という建て方の建物です。帝冠様式(ていかんようしき)は、昭和10年前後(1930年代)の日本で流行した和洋折衷の建築様式です。鉄筋コンクリート造の洋式建築に和風の屋根を冠しています。愛知県庁は、屋根の葺き替え工事が行われています。

Img_2721c_20231028171801  出来町通(県道215号線)を西へ。国道22号との交差点・三之丸一丁目で左折して南へ。新御園橋交差点を右折、すぐに景雲橋を左折して、五条橋を渡ります。慶長年間の「清洲越し」で、清洲の五条川にあった木造の橋をそのまま名古屋に移したため、名称ももとのままになっています。昭和13(1938)年に木造の橋に似せたデザインで架け替えられました。ここを渡ると、四間道や円頓寺商店街になります。

Nagoya1  マップはその1に戻ります。

Img_2744c_20231028171801  まずは、四間道(しけみち)へ。堀川の西側にあり、江戸時代の初め慶長15(1610)年、名古屋城築城とともに始まった清須越にともなってつくられた商人町です。四間道は、元禄13(1700)年の大火の後、防火の目的と旧大船町商人の商業活動のため、道路幅を四間(約7メートル)に広げたので、その名前がついたといわれています。四間道は、療養していた頃に一度来たことがあります(2010年12月14日:名古屋、四間道を散歩)。町の外観はあまり変わっていませんが、新しいカフェ、レストランなどがたくさんできていて、その意味では様相は一変していました。

231028120922691c  ここで見てきたのは、屋根神様と、子守地蔵尊。この屋根神様は、津島神社、秋葉神社、熱田神宮を祭神としています。屋根神は名古屋独特だそうで、疫病や火災などから身を守るために創られたということです。長屋住まいが多く、社殿が建てられないために工夫されたものだそうです。

Img_2781c_20231101063601 231028120834574c  子守地蔵尊は、路地の突き当たりに祭られていて、風情があります。この子守地蔵尊は、約150年前に井戸を掘っていた際に発見された約30センチのお地蔵様を祀っています。お地蔵様はさらにその150年も前に作られたもので、洪水の際に流れて埋もれたと推測されているそうです。お地蔵様が掘り出して祀ってほしいという意志が、掘り出させたと信じられており、1895年から祀られているそうです。

Img_2801c_20231028171801 Img_2808c_20231101064201  四間道から円頓寺商店街に戻る途中で真宗高田派愛知別院。正保4(1647)年、専稱院義起玄怒によって尾張国皆戸町(現在の中区丸の内付近)に臨光山信行院として創建されました。明暦3(1657)年、元は東本願寺の末寺で、前年に高田派へ転じた順正寺を合併して現在地に移転しています。ご本尊は恵心僧都作と伝えられています。山門が倒壊する危険性があると書かれていました。

231028125417277c 231028124222200c  いよいよ円頓寺商店街へ。愛知別院から円頓寺商店街に入るところの角にスペイン料理屋Bar Dufiという店があり、大賑わいでした。時刻も12時20分頃で、「これだけ賑わっているなら、美味しいのかもしれない」ということで急遽、ここで昼食を摂ることに。これが大正解。私は、ローストビーフ丼を選びました。とても美味しかったのい、¥880。みそ汁もついています。スペイン料理屋でなぜローストビーフ丼かという疑問があるかも知れませんが、ランチメニューの1つ。

Img_2823c_20231028171801 F9d222d0  ランチを済ませ、円頓寺商店街をブラブラ。こちらは、金刀比羅神社。名古屋弁みくじで有名です(2018年10月31日:20181027JRさわやかウォーキング「来てちょ~だゃ~名古屋の産業をめぐって 秀吉生誕の地 中村へ!!」へ(その2)……円頓寺商店街を歩く)。今日は女性で大賑わいでしたので、おみくじは引いてきませんでした。リンク先の記事にここでおみくじを引いた話があります。右の写真は、そのときに引いた名古屋弁みくじ。これを読んでいたら、河村たかし名古屋市長に何かいわれているような感じがしたのを思い出します。

Img_2833c_20231028171801  金刀比羅神社の目と鼻の先に、長久山円頓寺。円頓寺商店街は、このお寺の門前町が発展したもの。円頓寺は、承応3(1654)年に、普敬院日言上人によって開創された日蓮宗のお寺。当初は、普敬院と称したものが、円頓寺に改められました。ちなみに、お寺の名前は「えんどんじ」と読むようですが、商店街は「えんどうじしょうてんがい」。

Img_2837c_20231101065001  円頓寺にも色々なものがありますが、それは以前訪ねたときの記事(2018年10月31日:20181027JRさわやかウォーキング「来てちょ~だゃ~名古屋の産業をめぐって 秀吉生誕の地 中村へ!!」へ(その2)……円頓寺商店街を歩く)をご覧ください。お寺の北西で巨大・高級マンションの工事が行われていました。極めて現代風の景色となりそうです。

Img_2869c_20231028171801  名古屋市道江川線を越えた先は、円頓寺本町商店街。円頓寺商店街と同じく、昭和レトロの雰囲気がたっぷり。江川線の交差点の4隅に三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)と水戸黄門のモニュメント像がありますが(2018年10月31日:20181027JRさわやかウォーキング「来てちょ~だゃ~名古屋の産業をめぐって 秀吉生誕の地 中村へ!!」へ(その2)……円頓寺商店街を歩く)、今回は割愛。リンク先をご覧ください。

Img_2876c_20231028171801 Img_2895c_20231101065901  円頓寺本町商店街の一角には、多賀社があります。御祭神は、伊邪那岐、伊邪那美の2神。由来書によれば、明治中期、多賀大社から分祀したとあります。現在の社殿は、昭和32(1957)年に改修したもの。これで目的地は、ほぼコンプリート。名古屋駅に向かいます。

Img_2909c_20231028171801  が、余談を2つ(苦笑)。円頓寺本町商店街にある店で、例のものを見つけました。お食事処・富士の店先に、あのKingの飲料水自販機。こんなところで目にするとは、想定外でした。ちなみに、四日市や津、伊勢では見たことがありますが、桑名では未発見。

 もう1つは、飲み屋さん。Img_2904c_20231101071201 円頓寺商店街、円頓寺本町商店街とも飲食店は多数あります。ここは「立呑み お酒の神様」という名前。よほどお参りしていこうかと思ったくらいのネーミング。すでに営業しており、お客さんも二人。立ち呑みしていらっしゃるんでしょうか。気になりつつ名古屋駅に向かったのです。

Img_2921c_20231028171801  JR名古屋駅に行く途中で名古屋市消防局特殊消防隊とある建物。いわゆる「ハイパーレスキューNAGOYA」の庁舎でした。第一方面隊から第五方面隊まで5つの部隊が設置され、それぞれ異なる災害への装備・任務が与えられているそうで、ここ第二方面隊は、低所災害と地下災害に対応するのが役割だそうです。

Img_2917c_20231028191501 Screenshot_20231028142236c   JR名古屋駅には、13時半近くに戻ってきました。13時37分の快速みえ11号・鳥羽行きに乗れました。桑名には、13時59分着。¥350。さすがに速いのです。快速でも、自由席であれば、普通運賃のみで乗車できるのが嬉しい。Google Fitのデータでは、歩いたのは13.46㎞、21,508歩。

2023年10月31日 (火)

20231028名古屋ウォーキング(その1)……JR名古屋駅をスタートし、白山神社、那古野神社、名古屋東照宮、愛知県護国神社へ

Img_2948c_20231028171901  10月28日に行ってきた勝手にハイキングシリーズ「名古屋ウォーキング」の本編その1です。この日は、昼頃から風が強くなってきましたが、天気は良く、桑名での最高気温は22.6℃。冒頭の写真は、わが家の玄関先から見た名古屋駅あたり。この日は、これらの高層ビル群の向こう側を歩いてきました。

Nagoya0  歩いたルートはこのマップの通り(細かい立ち寄り先は割愛してあります)。JR名古屋駅をスタート&ゴールとし、丸の内から名古屋東照宮、那古野神社、愛知県護国神社、名古屋市市政資料館から名古屋城の南を歩いて、四間道と円頓寺商店街へ。四間道で屋根神と子守地蔵尊、円頓寺商店街では真宗高田派愛知別院から金刀比羅神社、円頓寺を、また、円頓寺本町商店街では多賀宮などを回ってきました。ルートマップ上では、8.3㎞ほどでした。同級生K氏と二人旅。

Img_2333c_20231028171701 Img_2331c  JR桑名駅を8時10分に出る名古屋行き普通に乗車し、JR名古屋駅には8時10分着。¥350。9時20分頃、名古屋駅の桜通口をスタートし、桜通を東に向かいます。私が名古屋に来たのは、5月27日以来(2023年5月27日:20230527院生OG会)。名古屋にはすっかり足が遠のいてしまっています。たまに来ると人の多さに圧倒されるようになってしまいました。ちなみにJRを利用したのは、名古屋までの運賃が近鉄のそれ(¥530)に比べ、はるかに安いから。

Nagoya1  こちらが詳しいルートマップその1。都会の地図ですから、色々な施設などがあり、立ち寄り先を記入するのに苦労しました。

Img_2346c  江川線・泥江(ひじえ)町交差点、国際センタービルを過ぎて、1㎞の手前で堀川を桜橋で渡ります。昭和12(1937)年、名古屋汎太平洋平和博覧会が開催された時に、名古屋駅の正面から東へ延びる桜通を完成させ、近代都市名古屋をアピールするための意欲を現した記念的な橋です。その名の通り、親柱や橋灯、高欄などに桜をモチーフにした装飾が施されています。古い橋では、この桜橋のように、親柱、橋灯、高欄などに独自のデザインで装飾が施されているのを見るのも、ウォーキングの楽しみです。

Img_2361c_20231028171701  ie丸の内ビルと、中京銀行の間にひっそりと(という感じ)白山(はくさん)神社があります。御祭神は、菊理媛命(くくりひめのみこと)。元は白山権現と称しました。創建は明らかではありませんが、加賀国の白山比咩(しらやまひめ)神社を勧請したのが始まりといわれます。応永・永禄の頃(1394~1569)は、泥江縣神社(広井八幡宮;中区錦一丁目)の境内続きの末社でしたが、慶長の検地の際に境内が二分されたといいます。昭和12年、桜通の開通によって境内地が大幅に減少し、昭和39年現在地に移ったといいます(教育委員会による現地説明板による)。

Img_2383c_20231028171701   境内は細長く、奥まったところに拝殿があり、拝殿に向かう参道の左側(西側)に末社8社が並んでいます。右隣には、白玉稲荷社もあります。狭い境内にこれだけの神様がいらっしゃるというのは、歴史を辿るといろいろ興味深いことがありそうです。白山(はくさん)神社のリンク先(名古屋神社ガイド)もご覧ください。戦前までは境内が173坪あったといいます。

Img_2375c_20231030183101 Img_2379c_20231030183101  この神社で私の目を引いたのは、狛犬。珍しいタイプ。左の写真は向かって左に立つ狛犬、右は向かって右に立つもの。無角の獅子と有角の狛犬とが一対になっていたり、阿吽の一対になっていたり、子取り玉取りになっているのが多いのですが、いささか異なります。獅子が手にしているものは、右は子獅子と思われますので、左は「玉取り」になると思うのですが、穴あき銭をヒモに通したようなものでした。いや、面白い。詳細は、全く不明。説明書きにもありません。ここには、 4年前にJRさわやかウォーキングで来ています(2019年12月29日:20191221JRさわやかウォーキング「歴史や文化が見える市政資料館と輝く金のシャチホコ 名古屋城を歩こう」へ(その1)……桜通、桜橋、白山神社)。詳細は、リンク先にあります。

Img_2398c_20231028171701  続いては、那古野神社と名古屋東照宮。隣接してあります。スタートからは2㎞過ぎ。まずは、那古野神社。「なごやじんじゃ」と仮名が振られていることがほとんどなのですが(教育委員会による説明板も「なごやじんじゃ」でした)、「なごのじんじゃ」とされていることもあります。創建は醍醐天皇の御代、延喜11(911)年と伝わります。津島牛頭天王社(つしまごずてんのうしゃ、現在の津島神社)を総本社とする天王社の一つで、当初は亀尾天王社と呼ばれました。天文元(1532)年の合戦で社殿を焼失しましたが、天文8(1540)年、織田信秀により再建。文禄4(1595)年、豊臣秀吉が社領348石を寄進。元和6(1620)年、徳川義直が改めて同じ石高を寄進し、社殿を修造しています。創建時より若宮八幡社と隣接していたのですが、慶長15(1610)年の名古屋城築城の際に、当神社のみが三の丸の郭内に取り込まれ、若宮八幡社は城外に遷座しました。これ以降、三之丸天王社とも呼ばれ、城の総鎮守、城下町の氏神とされました。また、この時、新たに三之丸東照宮(現・名古屋東照宮)と隣接しています。

Img_2404c_20231028171701   明治維新のとき、須佐之男神社と改称し、明治9(1876)年、名古屋鎮台が城内に置かれたのを機に、東照宮とともに旧藩校明倫堂跡地である現在地に遷座、明治32(1899)年に那古野神社と改称しています。神社は昭和20(1945)年3月19日の名古屋大空襲で本殿などを焼失、戦後再建されました。御祭神は、須佐之男命(すさのおのみこと)、奇稲田姫神(くしなだひめのかみ)、兵主神(ひょうすのかみ;弓矢を司る軍神)、八柱神。かつて、6月15・16日(現在は、7月15・16日)の例大祭には車楽(だんじり)が曳き出され、近隣からも山車が集まって賑やかだったといいます。

Img_2442c_20231028171701  こちらは、名古屋東照宮。その名の通り、名古屋で徳川家康を祀る神社。尾張藩初代藩主・徳川義直が、父家康の三回忌である元和4(1618)年に大祭を行い、翌元和5(1619)、名古屋城内三の丸に取り込んだ亀尾天王社(現在の那古野神社)の隣地に東照宮を勧請し、成瀬正成、竹腰正信を奉行にし、南天坊天海を導師とし9月17日家康の神像を祀ったのが創祀。三之丸東照宮とも呼ばれ、創建当時の境内は3,600坪もありました。本殿の社殿には権現造、楼門、唐門、渡殿、祭文殿等があり、東照宮としてもっとも豪華であったといわれ、社殿などには極彩色がほどこされた華麗なものであったといいます。東照宮は、明治9(1876)年にここに遷されていますが、昭和20(1945)年の戦災により焼失しています。現在の社殿は、義edc3596f.jpg 直公の正室・高原院の霊廟で、万松寺内にあったものを大正3(1914)年、建中寺に遷し、さらに昭和28(1953)年に東照宮社殿として移建されたものです。棟札によると、慶安4(1651)年の建物だそうです。

 なお、那古野神社、名古屋東照宮ともに私は4年前のJRさわやかウォーキングで訪ねています(2019年12月30日:20191221JRさわやかウォーキング「歴史や文化が見える市政資料館と輝く金のシャチホコ 名古屋城を歩こう」へ(その2)……名古屋東照宮、那古野神社、本町橋、大津橋を経て、名古屋市市政資料館へ)。詳細は、リンク先をご覧ください。

Img_2486c_20231028171701  那古野神社・名古屋東照宮の北、すぐのところに外堀通り。この北に愛知県護国神社があります。私は、ここには初めて行きましたが、K氏は以前来たことがあり、「戦艦大和の大砲の弾があった」といいますので、それも見たかったのです。戊辰戦争から第二次世界大戦までの愛知県関係の戦没者9万3千余柱を祀っています。明治元(1868)年、尾張藩主徳川慶勝が戊辰戦争で戦死した藩士ら25人の霊を現在の愛知県名古屋市昭和区川名山に祀り、翌明治2(1869)年5月に「旌忠社」として祠を建てたのに始まります。明治8(1875)年に招魂社となり、明治34(1901)年には官祭招魂社となりました。さらに、大正7(1918)年、城北練兵場(現・名城公園北園内)に、また、昭和10(1935)年に現在地に遷座しています。昭和14(1939)年、愛知縣護國神社に改称しました。

Img_2498c_20231028171701  主祭神は、愛知県ゆかりの戦没者9万3千余柱。この日は、「秋のみたま祭」が挙行されており、境内にはたくさんの方がいらっしゃっていました。

Img_2530c_20231028171701  こちらが、戦艦大和記念碑。その主体が戦艦大和の主砲弾です。この記念碑は、戦艦「大和」乗組の英霊2,700余柱を顕彰のため、東海地区戦艦大和会が昭和42(1967)年4月に建立。戦艦大和の主砲弾とは、大和主砲(四六糎砲(46cm砲))弾の実物(91式徹甲弾)です。

Img_2550c_20231030190501  愛知県護国神社の境内には、多数の慰霊碑や鎮魂碑があります(こちらを参照)。これは、パラオ海軍部隊慰霊碑。駆逐艦の碇がモニュメントになっています(艦名は、記載されていません)。こちらのWebサイトには、愛知県護国神社にある慰霊などのすべてが載っています。

 キリがよいので、その1はここまで。その2は愛知県議員会館、名古屋市市政資料館から。

2023年10月28日 (土)

20231028名古屋ウォーキング(予告編)

Img_2948c_20231028171901 Nagoya0  昼頃から風が強くなってきましたが、天気は良く、桑名での最高気温は22.6℃。予定通りに「名古屋ウォーキング」に行ってきました。 冒頭の写真は、わが家の玄関先から見た名古屋駅あたり。今日歩いてきたルートは右のマップの通り。JR名古屋駅をスタート&ゴールとし、丸の内から名古屋東照宮、那古野神社、愛知県護国神社、名古屋市市政資料館から名古屋城の南を歩いて、四間道と円頓寺商店街へ。四間道で屋根神と子守地蔵尊、円頓寺商店街では真宗高田派愛知別院から金刀比羅神社、円頓寺を、また、円頓寺本町商店街では多賀宮などを回ってきました。ルートマップ上では、8.3㎞ほどでした。同級生K氏と二人旅。今日は、予告編。

Img_2333c_20231028171701  JR桑名駅を8時10分に出る名古屋行き普通に乗車し、JR名古屋駅には8時10分着。¥350。9時20分頃、名古屋駅の桜通口をスタートし、桜通を東に向かいます。私が名古屋に来たのは、5月27日以来(2023年5月27日:20230527院生OG会)。名古屋にはすっかり足が遠のいてしまっています。たまに来ると人の多さに圧倒されるようになってしまいました。

Img_2361c_20231028171701  スタートから1㎞を過ぎたところに白山神社。 4年前にJRさわやかウォーキングで来ています(2019年12月21日:20191221JRさわやかウォーキング「歴史や文化が見える市政資料館と輝く金のシャチホコ 名古屋城を歩こう」へ(予告編)……年内最後のハイキング/ウォーキング【カモの名前を付記(12/22)】。御祭神は、菊理媛命(くくりひめのみこと)。創建は明らかではありませんが、加賀国の白山比咩(しらやまひめ)神社を勧請したのが始まりといわれます。

Img_2398c_20231028171701 Img_2404c_20231028171701  次に訪れたのは、那古野(なごの)神社名古屋東照宮。那古野神社は、延喜11(911)年に現在の中区丸の内に鎮座され、城の総鎮守、名古屋の氏神として祭らてれいましたが、廃藩置県により明治9(1876)年に現在地に移されました。ご祭神は、須佐之男命(すさのおのみこと)、奇稲田姫神(くしいなだひめのかみ)、兵主神(ひょうすのかみ;兵主神社にまつられる神。弓矢をつかさどる軍神とされますが、実際に祀られているのは大己貴命(おおむなちのみこと、大国主神)や素戔嗚尊(すさのおのみこと)など)、八柱神

Img_2442c_20231028171701  こちらが東照宮。ご祭神は、徳川家康公。創建は、元和5(1619)年9月。家康公が亡くなられて3年後、尾張徳川家初代・義直公が、日光山鎮座の式に準じて、城内三の丸に社殿を創建したことに始まります。明治9(1876)年10月、藩校明倫堂跡地である現在地に遷座しています。東照宮、那古野神社ともに桜の名所だそうです。那古野神社、名古屋東照宮ともに、4年前にJRさわやかウォーキングで来ています(2019年12月21日:】20191221JRさわやかウォーキング「歴史や文化が見える市政資料館と輝く金のシャチホコ 名古屋城を歩こう」へ(予告編)……年内最後のハイキング/ウォーキング【カモの名前を付記(12/22)】)。

Img_2486c_20231028171701 Img_2498c_20231028171701  続いて愛知県護国神社へ。私は、ここには初めて行きました。K氏は以前来たことがあり、「戦艦大和の大砲の弾があった」といいますので、それも見たかったのです。今日は、「秋のみたま祭」が挙行されており、境内にはたくさんの方がいらっしゃっていました。

 こちらが、戦艦大和の主砲弾。戦艦大和記念碑の主体がこれです。この記念碑は、Img_2530c_20231028171701戦艦「大和」乗組の英霊2,700余柱を顕彰のため、東海地区戦艦大和会が昭和42(1967)年4月に建立。戦艦大和の主砲弾とは、大和主砲(四六糎砲(46cm砲))弾の実物(91式徹甲弾)です。

Img_2615c_20231028171701  愛知県護国神社から名古屋市市政資料館に向かう途中に愛知県議員会館があります。元々は名古屋市長も務めた弁護士・大喜多寅之助(慶応2(1866)~昭和36(1961)年)の自邸兼事務所でした。大正9(1920)年に建てられた邸宅は、木造平屋建の洋館と木造二階建の日本家屋、土蔵で構成されていて、名古屋市の中心街に残る数少ない戦前の邸宅建築といいます。こういう建物、邸宅は是非とも内部を見てみたいものです。

Img_2623c_20231028171801 231028104304208c  名古屋市市政資料館。このブログでは何度も取り上げています。私自身、何回ここを訪ねたかもうよく分からなくなっています(苦笑)。大正11(1922)年に、当時の名古屋控訴院・地方裁判所・区裁判所として建てられたネオ・バロック様式のレンガ造建築物で、昭和54(1979)年まで裁判所として使用されました。昭和59(1984)年5月、国の重要文化財に指定されました。ここは、同級生K氏も気に入ってくれるだろうと思っていたのですが、予想通りでした。

231028112949971c  市政資料館から清水口を通って、市役所交差点へ。ここの南には、名古屋市役所と愛知県庁が並んでいます。愛知県庁は、工事中。どちらも帝冠様式という建て方の建物です。帝冠式(ていかんしき)は、昭和10年前後(1930年代)の日本で流行した和洋折衷の建築様式です。鉄筋コンクリート造の洋式建築に和風の屋根を冠しています。

Img_2721c_20231028171801 Img_2737c_20231028171801  さらに西に進み、名古屋城の南を通過。円頓寺商店街に向かいます。五条橋を渡って、円頓寺商店街へ。大賑わいだと思ったら、今日・明日は、「円頓寺 本のさんぽみち2023」が開催されていました。小さな本屋さんがたくさん出ていました。

Img_2744c_20231028171801  円頓寺商店街の前に四間道(しけみち)へ。堀川の西側にあり、江戸時代の初め慶長15(1610)年、名古屋城築城とともに始まった清須越にともなってつくられた商人町です。四間道は、元禄13(1700)年の大火の後、防火の目的と旧大船町商人の商業活動のため、道路幅を四間(約7メートル)に広げたので、その名前がついたといわれています。四間道は、療養していた頃に一度来たことがあります(2010年12月14日:名古屋、四間道を散歩)。町の外観はあまり変わっていませんが、新しいカフェ、レストランなどがたくさんできていて、その意味では様相は一変していました。

231028120922691c 231028120834574c  ここで見てきたのは、屋根神様と、子守地蔵尊。この屋根神様は、津島神社、秋葉神社、熱田神宮を祭神としているようです。名古屋独特だそうで、疫病や火災などから身を守るために創られたということです。長屋住まいが多く、社殿が建てられないために工夫されたものだそうです。子守地蔵尊は、路地の突き当たりに祭られていて、風情があります。150年ほど前に井戸を掘ったときに見つかった30cmのお地蔵様を祀っています。

Img_2801c_20231028171801  円頓寺商店街に戻る途中に真宗高田派愛知別院。正保4(1647)年、専稱院義起玄怒によって尾張国皆戸町(現在の中区丸の内付近)に臨光山信行院として創建されました。明暦3(1657)年、元は東本願寺の末寺で、前年に高田派へ転じた順正寺を合併して現在地に移転しています。ご本尊は恵心僧都作と伝えられています。山門が倒壊する危険性があると書かれていました。

231028125417277c 231028124222200c  愛知別院から円頓寺商店街に戻った、ちょうど角のところにスペイン料理Bar Dufiがあり、賑わっていました。「これだけ賑わっているなら、美味しいのかもしれない」ということで急遽、ここで昼食を摂ることに。12時20分頃。これが大正解。私は、ローストビーフ丼を選びました。これで¥880。みそ汁もついています。スペイン料理屋でなぜローストビーフ丼かという疑問があるかも知れませんが、ランチメニューの1つ。

Img_2823c_20231028171801  ランチを済ませ、円頓寺商店街をブラブラ。こちらは、金刀比羅神社。名古屋弁みくじで有名です(2018年10月31日:20181027JRさわやかウォーキング「来てちょ~だゃ~名古屋の産業をめぐって 秀吉生誕の地 中村へ!!」へ(その2)……円頓寺商店街を歩く)。今日は女性で大賑わいでしたので、おみくじは引いてきませんでした。リンク先の記事にここでおみくじを引いた話があります。そのとき、名古屋弁みくじを読んでいたら、河村たかし名古屋市長に何かいわれているような感じがしたのを思い出しました。

Img_2833c_20231028171801  金刀比羅神社の目と鼻の先に、長久山円頓寺。円頓寺商店街は、このお寺の門前町が発展したもの。円頓寺は、承応3(1654)年に、普敬院日言上人によって開創された日蓮宗のお寺。当初は、普敬院と称したものが、円頓寺に改められました。ちなみに、お寺の名前は「えんどんじ」と読むようですが、商店街は「えんどうじしょうてんがい」。

Img_2869c_20231028171801 Img_2876c_20231028171801  名古屋市道江川線を越えた先は、円頓寺本町商店街。円頓寺商店街と同じく、昭和レトロの雰囲気がたっぷり。円頓寺本町商店街の一角には、多賀社があります。御祭神は、伊邪那岐伊邪那美の2神。由来書によれば、明治中期、多賀大社から分祀したとあります。現在の社殿は、昭和32(1957)年に改修したもの。これで目的地は、ほぼコンプリート。名古屋駅に向かいます。

Img_2921c_20231028171801  その途中で名古屋市消防局特殊消防隊とある建物。いわゆる「ハイパーレスキューNAGOYA」の庁舎でした。第一方面隊から第五方面隊まで5つの部隊が設置され、それぞれ異なる災害への装備・任務が与えられているそうで、ここ第二方面隊は、低所災害と地下災害に対応するのが役割だそうです。

Img_2917c_20231028191501 Screenshot_20231028142236c  JR名古屋駅には、13時半近くに戻ってきました。13時37分の快速みえ11号・鳥羽行きに乗れました。桑名には、13時59分着。¥350。さすがに速いのです。快速でも、自由席であれば、普通運賃のみで乗車できるのが嬉しい。Google Fitのデータでは、歩いたのは13.46㎞、21,508歩。

Img_2909c_20231028171801  予告編なのに余談(苦笑)。ご容赦ください。円頓寺本町商店街にある店で、例のものを見つけました。お食事処・富士の店先に、あのKingの飲料水自販機。こんなところで目にするとは、想定外でした。本編は、いつものように明日以降、ボチボチとと書いて行きます。

2023年10月22日 (日)

20231020行基寺ウォーキング……行基寺は素晴らしい

Img_1913c_20231020163301  10月20日に行ってきた「行基寺ウォーキング」で訪ねた行基寺について、今回は少し詳しく書くことにします。同級生K氏も私も、行基寺があるということは、桑名に住むようになって早い時期から知っており、二人とも一度来てみたかったところで、ようやく念願が叶ったという次第です。冒頭の写真は、山門。文政3(1820)年の建立。

Img_1933c_20231020163501 Img_1957c_20231021205801  臥竜山行基寺(がりょうざんぎょうきじ)は、海津市南濃町上野河戸(こうず)にあります。天平の初め頃(約1300年前)、当時、大仏建立の勧進のため諸国を行脚していた行基が、天平16(744)年、この地の洪水による被害を目の当たりにし、 聖武天皇の勅願を得て、人々のために美濃・尾張・伊勢の三国の守護霊場山として、この地に七堂伽藍を尽くした菩提寺を建立したのが始まりといいます。行基寺の伝承によれば、行基は、天平宝字元(757)年にここで82歳で亡くなったと伝わります。その後、南北朝の動乱期(約700年前)、戦乱の際の兵火により全山焼失しましたが(延元元(1336)年、結城友定の手により焼失したといいます)、正平年間(1346~1370年)に尾張津島の領主ならびに信徒らが、再びこの臥龍山の地に伽藍を建立しています。元禄年間(1688~1704年)、尾張藩二代藩主徳川光友公の次男である松平義行公(徳川家康公の曾孫)が、美濃高須藩の藩主として封ぜられるにあたり、当山を松平家の菩提寺として境内および全伽藍を城郭に見立てて改築し、宝永2(1705)年に完成しています。その後、行基寺は明治維新に至る160年間は一般庶民の登山参詣は禁止されていたそうです。現在の本堂は、天保3(1832)年に再建されたもの。

Img_1901c_20231020171001 Img_1936c_20231021203401  地元産の河戸(こうず)石を使い、高い石垣を持つ城郭造りで、一見すると小規模な城です。一説には、緊急時には高須藩の城としての機能を有していたといいます。本堂、大書院、小書院、庫裡、松平家廟を有し、寺院というより城の御殿に近い印象があります。ちなみに、河戸石は、名古屋城築城の際にも使われています。境内には、「刻紋石」として、蜂須賀家政が切り出したものの、使われなかった石が置かれています。当時輸送中に落としたか、あるいは何らかの理由により放棄されたものと考えられています。

Img_1834c_20231020163301   寺は、濃尾平野を見下ろせる山腹にあります。キョリ測のデータでは、標高は125mほどのところです。

Img_1987c_20231020163401 Img_1992c_20231021210001  宝永2(1705)年に造られた美しい回廊式庭園があり、有料(¥400)で拝観できます。庫裡にある対面所(月見の間)からは、津屋川や揖斐川から濃尾平野のあたりが一望できます。 これらの写真は、対面所から東の方を眺めたもの。薄曇りでしたので、眺めは今ひとつでしたが、晴れていればさぞ見事だろうと思います。

Img_2032c_20231021210301 Img_2020c_20231021210301  対面所と藩主の間のある建物の間のお庭。左の写真に写っている建物に小書院(藩主の間)がありますが、写真を撮るのを失念。 小書院の写真は、こちらにあります。

Img_2101c_20231021211001 Img_2080c_20231021211001  小書院の北側には苔庭があります。スギゴケなどが生えていて、手入れもきちんとされていていい感じです。苔庭の奥には、岩肌を伝って落ちる滝水もあります。

Img_2109c_20231021211201  苔庭の一角には、鹿威しも設けられていて、しばらく見入ってしまいました。

 Img_2130c_20231020163401 本堂の西にある断層。 今年7月1日に放送されたブラタモリ「木曽三川〜暴れ川vs.人間 激闘の歴史とは?〜」でタモリさんが見に来たのが、確かこの断層です。隆起した海底の堆積岩の痕跡だそうです(こちら)。それが石垣と一体化しています。養老山地は、砂岩などの堆積岩でできているそうです。

Img_1926c_20231021211601 Img_2149c_20231021183001  行基寺の境内には、このほか、真影堂があります。ここには浄土宗の開祖である法然上人が祀られているのであろうと思います。右の写真は、本堂の西にある弁天堂の方を撮ったもの。ここは公開されていませんが、この奥に高須藩主暦代の墓所があります。

Img_2156c_20231020163401  行基寺からは東の方へ降りていきますが、その前に駐車場の一角に「御山の燈台」。平成になって再建されたものですが、臥竜山に大寺院が建立された時、この地に仏舎利塔と一丈あまりの石積みによる高燈籠が築かれたといいます。常夜灯として延宝の人々から「菩提山(臥竜山)の燈台、法燈様」と崇められました。戦乱時にはのろし台としても利用され、鎌倉末期・南北朝時代には寺院もろとも焼失しました。その後、江戸中期、高須藩藩主松平義行公が行基寺を再建した際に、再び築かれ揖斐・木曽・長良川を行き交う船の標識と夜間の目印を示す役割も果たしています。

000160043  ところで、美濃高須藩は、美濃、尾張、伊勢(桑名)の境に位置し、廃藩までは、尾張藩分家として三万石の小藩ではあったものの、徳川家康の曾孫松平義行公に始まり、御三家を除けば将軍家筆頭家門というべき家柄で、江戸城における格式も甚だ高く大大名と同格であったといいます。高須藩松平家は、尾張徳川家の分家、支藩でしたが、尾張藩主に後継者が絶えた場合に藩主を出す役割がありました。両家の関係は密接で、江戸時代の尾張藩主17代のうち4代が高須藩松平家の出身でした。幕末から明治維新にかけて大きな役割を担い歴史に名を残した、尾張藩主徳川慶勝(よしかつ)、徳川茂徳(もちなが)、会津藩主松平容保(かたもり)、桑名藩主松平定敬(さだあき)公は美濃高須藩松平家出身の四兄弟です。写真は、東京都新宿歴史博物館のWebサイトからお借りしました。

Img_2064c_20231022001101 Img_1874c_20231020163301  念願であった行基寺を訪ねられて、われわれ二人とも感激しました。寺は標高125mのところにありましたので、上り下りはきつかったものの、寺そのものはもちろん、庭園や、対面所からの眺望は素晴らしいものでした。杖つき坂から登った道にはカエデが沢山ありましたし、紅葉の季節に行くと、いっそう良い眺めが楽しめたと思います。 またいつか、紅葉の季節に訪れてみたいものです。

2023年10月20日 (金)

20231020行基寺ウォーキング

Img_1748c_20231020163201  曇りのち雨という予報でしたが、雨は15時を過ぎてからということでしたので、予定通り、行基寺ウォーキングに行ってきました。今年1月から歩いていた「美濃街道ウォーキング」のオプショナルツアーその2です。養老鉄道美濃山崎駅から行基寺までを往復。高低差は125mほど(キョリ測のデータ)。同級生K氏と二人旅。桑名では25.7℃と、今日も夏日でした。今日のところは、全体の概要。行基寺について詳しいことをまた別に書きます。

Gyokiji0  こちらが今日歩いたルートマップ。養老鉄道美濃山崎駅から浄国寺、宝珠院、龍芳寺、杖つき坂を回って行基寺へ。寺内、庭園を拝観し、御山の燈台を見てから覚法寺、八幡神社を経て美濃山崎駅へ戻ってきました。ルートマップ上は5.6㎞でしたが、寺社ではあちこち見て回りましたので、かなり歩いています。

Img_1744c_20231020163901 Img_1776c_20231020163201  桑名駅を8時45分に出る大垣行きに乗車。美濃山崎駅には9時10分に到着。¥420。駅を出て国道258号線方面に向かったところで、目の前をオスのキジが1羽、飛んで行きました。国道をくぐってすぐに八幡神社があります。右の写真の道は、美濃街道ウォーキングで歩き、この神社にも立ち寄っています(2023年4月9日:20230409美濃街道ウォーキング「石津~駒野」(予告編))。今日は、美濃街道を横切って西へ。

Img_1779c_20231020163301 Img_1786c_20231020163301  左の写真は、真宗大谷派の浄国寺。右の写真は、その先にある浄土宗の宝樹寺。いずれもネット検索ではこれという情報はありませんでしたし、現地でも説明板などはありません。

Img_1826c_20231020163301 Img_1834c_20231020163301  こちらは、真宗大谷派の龍芳寺。このお寺についても、やはり詳しい情報はありません。いずれも立ち寄って、お参りしてきたのみ。龍芳寺の先で、今日のメインの目的地である行基寺が遠望できます。

Img_1838c_20231020163301 Img_1842c_20231020163301  その先、スタートから1.5㎞ほどのところに「杖つき坂」。私にとって「杖衝き坂」といえば、四日市市采女にあるところがイメージされるのですが(2022年2月5日:20220205東海道ウォーキング(日永の追分~加佐登)(予告編))、ここ海津市南濃町にもあることを美濃街道ウォーキングで知ったのです。現地説明板によれば、「日本武尊が伊吹山で氷雨にあい、病を得、大和への帰途、ここが急な坂のため杖をついて上がったといわれる」とあります。『古事記』では、伊吹山からの日本武尊の道順は、玉倉部(たまくらべ:関ケ原町)→当芸(たぎ:養老町)→杖つき坂(海津市)→尾津(おづ:多度町)→三重(四日市市)→能褒野(のぼの:亀山市)ですから、これを素直に読めば、ここが杖つき坂となります。

Img_1868c_20231020163301 Img_1874c_20231020163301  杖つき坂の先から本格的な上り道になります。標高30mほどから125mまで昇っていきます。以前、多度山に登った時の経験を思い出しました(2020年10月14日:20201014勝手に養老鉄道ハイキング「多度山に登ろう」)。多度山は標高403mですから、今日の方が楽なはず(微苦笑)。ですが、途中で一度、休憩15分。途中で出会ったのは、後からオートバイで昇ってきたカップルらしき方たちのみ。女性がにっこりと微笑んで行かれたのですが、「ジイ様たち、大丈夫なのか?」とでも思われたのかも知れません。

Img_1913c_20231020163301 Img_1901c_20231020171001  臥竜山行基寺に着いたのは、10時40分ころ。上記のように途中で15分休んでいましたので、ここまで1時間10分ほど。同級生K氏も私も、かなり以前から一度来てみたかったところで、二人ともようやく念願が叶ったという次第です。

Img_1933c_20231020163501  天平の初め頃(約1300年前)、当時、大仏建立の勧進のため諸国を行脚していた行基聖武天皇の勅願を得て、美濃・尾張・伊勢の三国の守護霊場山として、この地に七堂伽藍を尽くした菩提寺が建立されたのが始まりといいます。行基は、天平宝字元(757)年にここで82歳でなくなったと伝わります。南北朝の動乱期(約700年前)、戦乱の際の兵火により全山焼失してしまいましたが、尾張津島の領主ならびに信徒らが、再びこの臥龍山の地に伽藍を建立しています。元禄年間(1688~1704年)、尾張藩二代藩主徳川光友公の次男である松平義行公(徳川家康公の曾孫)が、美濃高須藩の藩主として封ぜられるにあたり、当山を松平家の菩提寺として境内および全伽藍を城郭に見立てて改築し、宝永2(1705)年に完成しました。

Img_1987c_20231020163401  地元産の河戸石を使った城郭造りで、濃尾平野を見下ろせる山腹にありますし、庭園も見事なものです。拝観料¥400を支払って建物内と庭園を見せていただきました。左の写真は、対面所から東の方を眺めたもの。手前にある庭園はよく手入れされていて、見事です。津屋川や揖斐川から濃尾平野が一望できます。薄曇りでしたので、眺めは今ひとつでしたが、晴れていればさぞ見事だろうと思います。

Img_2130c_20231020163401  本堂の西にある断層。 今年7月1日に放送されたブラタモリ「木曽三川〜暴れ川vs.人間 激闘の歴史とは?〜」でタモリさんが見に来たのが、確かこの断層です。隆起した海底の堆積岩の痕跡だそうです(こちら)。それが石垣と一体化しています。養老山地は、砂岩などの堆積岩でできているそうです。

Img_2156c_20231020163401 Img_2194c_20231020172101  行基寺からは東の方へ降りていきますが、その前に駐車場の一角に「御山の燈台」。平成になって再建されたものですが、臥竜山に大寺院が建立された時、この地に仏舎利塔と一丈あまりの石積みによる高燈籠が築かれたといいます。常夜灯として延宝の人々から「菩提山(臥竜山)の燈台、法燈様」と崇められました。こちらの坂道の方が、はるかに急で、ここから昇らなくて良かったと思います。

Img_2218c_20231020163401 Img_2223c_20231020163401  かなり下ったところに大慈山覚法寺があるのですが、「本堂解体工事を行っています」という看板が出て、実際に工事が行われていました。臨済宗妙心寺派のお寺なのですが、廃寺になったのではないかと思われます。工事発注者は、近くにある寒窓寺になっていました。寒窓寺は、美濃街道ウォーキングで訪ねています(2023年4月9日:20230409美濃街道ウォーキング「石津~駒野」(予告編))。寒窓寺も臨済宗妙心寺派のお寺です。

Img_2250c_20231020163401 Img_2240c_20231020163401  その近くに八幡神社。創立年月など、詳しいことはわかりません。現在の社は、小さなものですが、境内地は広く、かつては栄えたと思われます。これで、今日の立ち寄り先は、コンプリート。当初は、国道258号線に出て美濃山崎駅に戻るつもりでしたが、国道を歩いてもつまらないということで、来た道を戻ってきました。が、途中でわずかにコースミスをしました(苦笑)。

Img_2263c_20231020163401 231020124409126c  美濃山崎駅に戻ってきたのは、12時40分。次の桑名行きは、13時10分でしたので、朝、ファミマで買ってきた弁当をここで食べることにしました。というのも、この駅あたりには食事ができるところがないのです。ファミマの「明太海苔弁当」(¥460)。海苔弁当、好みなのです。

Img_2283c_20231020173201 Img_2289c_20231020173201  美濃山崎駅を13時10分に出る桑名行きに乗って、桑名には、13時38分着。美濃山崎駅には券売機はありませんので、乗車票をとって乗ります。車内で係の方が回ってきましたので、料金を支払って「車内補充票」をもらいました。手書きタイプで、今では珍しい気がします。

Screenshot_20231020140220c  今日のGoogle Fitのデータ。9.81㎞も歩いています。自宅から桑名駅往復も含みますし、行基寺の中でかなり歩き回りました。歩数は、17,260。アップダウンがかなりありましたし、歩幅がどうしても小さくなりますので、歩数はいつものウォーキング以上になったと思います。

Img_2298c_20231020163501 Img_2302c_20231020163501  余談。桑名駅東口を降りたら、シェアサイクル事業の『Charichari(チャリチャリ)』の実証実験が行われていました。10月19日(木)~10月25日(水)に「プレ運営」が行われるのだそうです(こちらに号外ネット桑名市・いなべ市の記事があります)。

 

 

2023年9月18日 (月)

20230915「養老の滝ウォーキング」(美濃街道ウォーキングオプショナルツアー#1)その2……北原白秋歌碑、豆馬亭、元正天皇行幸遺跡、養老寺、養老説教場から横綱鬼面山谷五郎碑を見て養老駅に戻って「完」

Yoro2_20230916160001  9月15日に行ってきた「養老の滝ウォーキング」の本編その1です。この日のウォーキングは、「美濃街道ウォーキングオプショナルツアー」の#1です。記事その1では、養老駅をスタートし、聖武天皇巡幸記念碑、せせらぎ街道から妙見堂を経て養老の滝から養老神社まで来ました。このその2では、北原白秋歌碑、元正天皇行幸遺跡、養老寺、養老説教場、鬼面山谷五郎碑などを経て養老駅に戻ります。

7ce36c41 滝を過ぎてからは下る一方ですから、楽でした。養老神社のところから、寄り道へ。前回来たときには(2018年12月4日:20181110近鉄ハイキング「親孝行のふるさと『養老フェスタ』」へ(その3)……養老神社、菊水泉あたりの石碑など、歴史ある旅館)、養老神社からほど近いところに旅館・掬水があったのですが、今回は見当たりません。掬水があったあたりでは、砂防工事が行われていました。創業明治23(1890)年という歴史のある料理旅館でした(左の写真は、2018年11月10日に撮影)。養老町観光協会のサイト(こちら)には掬水は載っていませんので、閉業したのだろうと思われます。

Img_1267c_20230915165701 Img_1271c_20230917121601  神社の表参道を東に向かい、一の鳥居のところに北原白秋歌碑があります。昭和55(1980)年に建碑されたというのですが、苔生していて、かなり古びていて歌はほとんど読めない状態。碑には「紫闌 さいていささか 紅き石の しま目に見えて 寿々し 夏去りにけり」という歌が刻されています。昭和2(1927)8月、大阪毎日新聞が行った「日本新八景」の人気投票の審査のため、子息を同伴して養老を訪ねた際に詠まれた歌の一つ。このとき、白秋は、木曽川、養老、長良川、多度などを訪ねたといいます。

Img_1277c_20230917122101 Img_1293c_20230917123101 白秋歌碑の西に千歳楼(せんざいろう)があります。宝暦14(1764)年に開業した旅館。その名は、この年が元正天皇行幸から一千年に当たることに由来するそうです。皇太子時代の大正天皇、有栖川宮、山岡鉄舟、横山大観など錚々たる方々がここを訪れています(こちら)。千歳楼の下、道路沿いに池がありましたが、ここにはハリヨが生息しているようでした。ハリヨは、トゲウオ目トゲウオ科の魚で、岐阜県と滋賀県の湧水のある河川に分布しています。美濃街道ウォーキングのときには、清水池というハリヨの生息地を見てきています(2023年5月24日:20230522美濃街道ウォーキング「美濃津屋~養老」(その1)……美濃津屋駅をスタートし、白山神社、津屋城跡の本慶寺、清水池ハリヨ生息地、慈眼寺から諏訪神社へ)。

Img_1284c_20230917123701  千歳楼の少し先には、豆馬亭(とうまてい)という旅館。創業明治13(1880)年、北原白秋をはじめ、数々の著名人が訪れたといいます。北原白秋、野口雨情の扁額が掛っているそうです。養老山系の猪、鹿が食べられるといいます。道路に面した壁面にイノシシやシカの頭蓋骨が飾られていました。

Img_1296c_20230915170101  豆馬亭からほど近いところに、元正天皇行幸遺跡があります。元正天皇は、霊亀3(717)年9月、近江国を経て美濃国当耆郡(多芸郡)にいたり、多度山の美泉に浴されました。この年11月に詔勅を出し、この多度山の美泉について、病が癒えるなどの効験が大きく、これは大瑞であると述べ、「養老」への改元を布告しておられます。行幸の際に行宮が造られたとされますが、その場所は不明。また、「美泉」が指すものは、養老の滝と、現養老神社内の湧水との二説があるといいます。

Img_1299c_20230915170101  現在ここにはお社があります。かつては、ここに多岐行宮(あんぐう)神社(御祭神は、元正天皇、聖武天皇)がありました。元正天皇行幸の時、この地に神輿を駐輦された古跡といいます。多岐行宮神社は、明治41(1908)年9月、養老神社へ合祀されました。その後、多岐行宮神社之諸施設はそのまま存置され、養老神社の御旅所として現在に至っています。

Img_1314c_20230917130701  この遺跡の辺りに大鍬神社があるというのですが(ルートマップにも記載しました)、よく分かりませんでした。帰ってから調べたら、御旅所の背後にあった小さな祠がそれのようでした。祭神は豊受姫神(とようけひめのかみ)です。現在は行われていないのですが、農耕の神様として最も重要な神様で五穀豊饒を願う祭礼が毎年10月に行われていたといいます。

Img_1317c_20230917131001  さらにこのあたりは、旧濃州多芸郡白石村といい、孝子伝説の源丞内の出身地だそうで、元正天皇行幸遺跡の近くにこのような石碑があります。この石碑は、開村500年を記念して平成16(2004)年12月に木碑を立て、平成22(2010)9月に石碑に建て直したとありました。

Img_1331c_20230917131501  寄り道はここまで。再び養老神社のところに戻って、滝沿いの道をさらに下っていきます。往きは右岸側でしたが、帰りは左岸側の道。土産物店などが多数あります。養老サイダーという看板が目立ったのですが、これ、日本で最初のサイダーだそうです。明治23(1890)年から製造開始し、平成12(2000)年に製造中止。その後会社も消滅したのですが、その後、平成29(2017)年が養老改元1300年にあたることから、復活プロジェクトが動きはじめ、現在は「養老サイダー復刻合同会社」によって販売され、製造は桑名の鈴木鉱泉が行っているそうです。飲んだことがないので、飲んでくればよかったかと反省。

Img_1352c_20230915170301  滝寿山元正院養老寺。養老公園内にあります。奈良時代の元正天皇の御代、孝子源丞内が開いた寺とされます。天平時代には七堂伽藍も整い、多芸七坊の一つに数えられていましたが、永禄年間(1558~1569)に織田信長のために焼かれてしまい、その後慶長12(1607)年、高須藩主・徳永寿昌(とくなが ながまさ)が再建しました。再建以前は法相宗に属していましたが、再建されるとき真宗大谷派に改宗し今日に及んでいます。ご本尊は、十一面千手観音立像。1mたらずの寄木造りですが、鎌倉初期のみごとなものだそうですし、「銘国光」の太刀があり、ともに国指定重要文化財となっています。西美濃三十三霊場の第二十五番札所。写真は不動堂です。

 Img_1337c_20230915170301 境内には、孝子源丞内のものとされる墓もあります。お参りしてきました。養老寺の境内には、句碑などが多数あります。前回来たときの記事にその一部が取り上げてあります(2018年12月4日:20181110近鉄ハイキング「親孝行のふるさと『養老フェスタ』」へ(その4)……元正天皇行幸遺跡、養老寺、養老説教場から大菩提寺を経て、勝手に養老駅にゴール変更(完))。

Img_1391c_20230915170601 72b6d791  養老寺から下って駐車場のところへ出て来ます。ここに養老説教場があります。坂道を上っていかねばなりませんので、ちょっとキツいのですが、行ってきました。浄土真宗の説教場です。ここの設置計画は、当時の岐阜県令小崎利準に支援されたこともあり、美濃国全域から多額の浄財が集ったそうです。養老説教場には現在の海津市である高須藩から移築された御殿があり、高僧等を招くために作られたそうです。養老説教場は養老郡の、また、土地は県の所有で、養老町内の浄土真宗の寺院が持ち回りで管理しています。前回来たときには、紅葉がとてもきれいでした(右の写真、2018年11月10日)。

Img_1394c_20230915171101  最後の立ち寄りスポットは、養老公園駐車場の入り口付近にある横綱鬼面山谷五郎碑。鬼面山谷五郎(きめんざんたにごろう)は、第13代横綱。岐阜県で唯一の、また、明治になって初めての横綱です。養老町鷲巣の出身で、美濃街道ウォーキングの時には生家跡を見てきました(2023年5月22日:20230522美濃街道ウォーキング「美濃津屋~養老」(予告編))。身長は186cm、体重140kgの巨漢。初め京都力士となり、25歳のとき、江戸の相撲武隅部屋に入門し修行。幕内成績は27場所143勝24敗16分で、優勝相当成績7回という輝かしい成績を残しています。明治2(1869)年に横綱になりましたが、翌年に引退。さらに引退後1年たたずに亡くなりました。

Img_1423c_20230915170601 230915130037277c  これで立ち寄り先は、コンプリート。昼食は、前回、美濃街道ウォーキングのときに休みで(2023年5月22日:20230522美濃街道ウォーキング「美濃津屋~養老」(予告編))、行けなかった「そば処たみと」さんへ。12時45分くらいの到着。なかなかよい感じのお店です。「ざる蕎麦(白)」を頼みましたが、十割蕎麦です。写真のように美しい蕎麦で、腰もしっかりしていましたし、味と香りも十分。こんなにおいしい蕎麦をいただいたのは、久しぶり。税別¥950。

Img_1415c_20230917133401  人気店のようで、われわれが食べ終えて店の外に出たら、「本日分完売」とありました。十二分に満足。もう少し遅かったら、食べ損ねるところでした。この日も、オーダーのときに「黒」はもう売り切れているといわれたくらい。

Img_1430c_20230915170601 Img_1454c_20230915170601  養老駅には、13時20分頃、戻ってきました。次の桑名行きは13時31分でちょうどよい時間。桑名着は14時18分。¥580。

Screenshot_20230915144208c  この日のGoogle Fitのデータ。11.15㎞、17,979歩でした。高低差がかなりありましたので、普通に11㎞を歩いたよりも運動量ははるかに多くなっています。いつもより足がだるくなっています(苦笑)。美濃街道ウォーキングオプショナルツアー#2は、行基寺に行く予定です。養老鉄道美濃山崎駅から往復するつもりですが、「キョリ測」で見ると、美濃山崎駅の標高は5m、行基寺は124m。今回よりは高低差は少ないのですが、途中、海津の「杖つき坂」もあり、難所かも知れません。

2023年9月17日 (日)

20230915「養老の滝ウォーキング」(美濃街道ウォーキングオプショナルツアー#1)その1……養老駅をスタートし、聖武天皇巡幸記念碑、せせらぎ街道から妙見堂を経て養老の滝から養老神社へ

Img_0927c_20230915163301  9月15日に行ってきた「養老の滝ウォーキング」の本編その1です。この日のウォーキングは、「美濃街道ウォーキングオプショナルツアー」の#1です。「美濃街道ウォーキング」は、今年1月から7月にかけて、多度から大垣まで歩いたものです。正確には、養老から美濃街道を外れ、養老街道を歩いています。というのも、養老から先美濃街道は関ヶ原に向かうのですが、途中鉄道が通っていませんので、このように変更したのです。美濃街道を歩きながら、同級生K氏と養老の滝や、行基寺にも行ってみたいと話していたのですが、まずは大垣まで歩き通すことを優先したのです。7月2日に美濃青柳から大垣まで歩いて、これは目標を達成。夏場にかなり高低差のあるところを歩くのはやめようということで、「養老の滝ウォーキング」はこの日になった次第。しかし、予想外に暑くて大変でした。同級生K氏と二人旅。

Yoro0_20230916040901  こちらがこの日歩いたルートマップ。マップ上では、6.4㎞。養老公園から聖武天皇巡幸記念碑、妙見堂、養老の滝を経て、養老神社・菊水泉、北原白秋歌碑、元正天皇行幸遺跡、養老寺、養老説教場、鬼面山谷五郎碑などを経て養老駅に戻るというコースです。養老駅あたりの標高が20m、養老の滝が270m(いずれもキョリ測による数値)で、高低差は250mという高齢者にとってはいささか難コースであった上に、この日は猛暑日一歩手前という、9月中旬にしては例外的な暑さで大変でした(苦笑)。なお、私自身は、養老の滝には5年前に近鉄ハイキングで来ています。その時の記事については、予告編(2023年9月15日 :20230915「養老の滝ウォーキング」(美濃街道ウォーキングオプショナルツアー#1)(予告編))の末尾にリストをつけてあります。今回の記事では、文学碑などはほとんど省略しますので、そちらをご覧ください。また、養老の滝近辺の石碑の一覧は、こちらにあります。

Img_0933c_20230915163301 Img_1438c_20230916153901  桑名駅を8時45分に出る養老鉄道大垣行きに乗車。養老駅には9時27分着。¥580。9時35分に養老駅をスタート。美濃街道ウォーキングで来たときには(2023年6月4日:20230604美濃街道ウォーキング「養老~美濃高田」(予告編))、「養老公園県営100周年記念往復割引切符」があったのですが(往復で¥1,000)、それは予定数に達して、買えませんでした。

Yoro1_20230916154201  あまり意味がないかも知れませんが、こちらが詳しいルートマップその1。養老公園のあたりは、往復とも同じルートをたどっています。聖武天皇巡幸記念碑まで養老公園の中を通っていきます。岐阜県こどもの国、養老天命反転地、養老ランドなどがありますが、何れにも立ち寄っていません。

Img_0947c Img_0957c_20230916154901  養老駅を出てすぐの辺り。すでに上り坂です。ここから先、養老の滝までは多少のアップダウンはあるものの、基本的には上り坂が続きます。右の写真は、こどもの国の入り口にある案内看板。養老天命反転地は、世界的に活躍したアーティスト荒川修作氏とそのパートナーで詩人のマドリン・ギンズ氏の構想を実現したテーマパーク。広大な敷地には、水平、垂直な線は極力排除され、人工的な地平線が数多く配置されるなど、至る所に人間の平衡感覚や遠近感を混乱させる仕掛けが施されています。というところですから、高齢者が行くには不適切(笑)。

Img_0965c_20230916154901  Img_0952c_20230916160301 途中に養老ランドがあります。広い敷地に多数の遊具があるのが見えました(こちら)。現役の遊園地です。昭和48年(1973)年から営業を続けているそうです。上り道がずっと続いています。

Img_0972c_20230915163901  スタートからほぼ1㎞で聖武天皇巡幸記念碑があります。天平12(740)年に聖武天皇が巡幸された折、「天狗の小場」と称されるこのあたりに行宮(あんぐう)が造営され、4日間駐留されたと伝わっているそうです。碑は、平成30(2018)年3月に建立された、新しいもの。

Yoro2_20230916160001  詳しいルートマップは、聖武天皇巡幸記念碑の先からその2になります。ルートマップは、キョリ測で描いていますが、このエリア、未知がきちんとすべて載っているわけではありませんので、概略で描いたところがあります。

Img_0983c_20230915163901 Img_0986c_20230916160201  聖武天皇巡幸記念碑の先からせせらぎ街道に入ります。妙見堂へと続く、1㎞ほどの道で、モミジがたくさんありますので、秋の紅葉は見事と思われます。一般に養老の滝に上る道からは1本奥にありますので、隠れた紅葉スポットだろうと思えます。

 いきなりの余談ですが、5年前に近鉄ハイキングできたとき、このせせらぎ街道に入るところでコースミスをしでかしました(2018年11月28日:20181110近鉄ハイキング「親孝行のふるさと『養老フェスタ』」へ(その1)……養老駅から養老公園へ、コース間違いで余分に2㎞歩く(笑))。私だけではなく、近くを歩いていた参加者10数人がみんな間違えたのです。しばらく歩くと、どうも方角が違うという話になりました。養老の滝に向かうには、西の方へ、しかも少しずつ登るはずが、南に向いているのです。しかもかなり平坦な道。近くにいた方が公園の仕事をしている人に確認して、間違いに気づいたということがありました。このときは、結局2㎞ほど余分に歩いてしまい、私は設定されたゴールの美濃高田駅に向かうのを断念し、勝手に養老駅に戻って、ゴールしたことにしました(苦笑)(2018年12月4日:20181110近鉄ハイキング「親孝行のふるさと『養老フェスタ』」へ(その4)……元正天皇行幸遺跡、養老寺、養老説教場から大菩提寺を経て、勝手に養老駅にゴール変更(完))。

Img_0989c_20230915163901 Img_1004c_20230916160601  2㎞ほど歩くと妙見堂に至ります。この妙見堂は、明治13(1880)年、岐阜県県令小崎利準(こさき としなり/ おざき りじゅん)氏が日鑑上人(身延山久遠寺第74世)を招き、堂宇を建立したのが始まりとされます。この年は、養老公園が開設されています。説明板によれば、この地は370年あまり前、久遠寺第21世寂照院日乾上人が、大干魃が続いたときに雨乞いの霊場として開かれたものが始まりです。ちなみに、小崎利準は、幕末の伊勢亀山藩士、明治期の内務官僚(天保9(1838)~大正12(1923)年)。

Img_1131c_20230916161101 Img_1044c_20230916161201  妙見堂の先でいったん下って、通常の滝に上る道に入ります。ここからが大変でした。途中、2回ほど小休止。途中は割愛しますが、妙見堂から川沿いを600mほど上って、「養老の滝はまだか?」と思った途端に視野が開け、右の写真のように滝が見えました。このときはさすがに「オーッ!」と声が出ました。

Img_1064c_20230915165201  ここには、5年ぶりに来ました(2018年11月10日:20181110近鉄ハイキング「親孝行のふるさと『養老フェスタ』」へ……予告編)。養老の滝は、落差32m、幅4mと見事なものです。この日は水量もあって、見応えがありました。滝のすぐ目の前まで上って、そこにあったベンチに座り、しばし滝を眺めながら休憩をしてきました。水と緑、勢いのある滝の流れ、時間さえあれば、いつまでも眺めていられそうです。平日でしたが、観光客の方もそれなりにありました。

Img_1122c_20230917061901 Img_1151c_20230917062001  しばし休憩しながら滝を眺めてから養老神社に向かいます。ここからは下り。来るときに比べかなり楽になります。途中では「丁石(ちょういし)」。滝まで上る人に向けて、残りの距離を示しています。また、「観光リフトのりば」の建物も見えています。養老ロープウェイが営んでいたのですが、平成27(2015)年以降、施設老朽化のため運行停止中。養老公園の妙見橋付近(養老神社)から養老の滝付近の駐車場を結ぶ、固定循環式の一人乗りリフトだったそうです。全長約200 mを約3分17秒で結んでいました。

Img_1161c_20230915165301 Img_1192c_20230915165301  養老神社には裏参道から入りました。「養老孝子伝説」の源丞内ゆかりの神社といわれ、奈良時代養老年間以降の創建と推測されます。平安時代、美濃国神明帳には「養老明神」とあり、菊理媛命(くくりひめのみこと)が祭神とも伝わっています。永正元(1504)年、菅原道真を合祀し、養老天神といわれていました。明治初期、近くの元正天皇・聖武天皇祭場を移転し、合祀。この際、養老神社に改称しています。現在のご祭神は、天照皇大神元正天皇聖武天皇菅原道真

Img_1197c_20230915165301 Img_1200c_20230917063201  境内には、今もこんこんと湧いている清水があります。それが菊水泉。孝子源丞内が汲んで老父にすすめたところ酒になったという伝説の水は、この水だといわれています。この菊水泉の周りにも文学碑その他が多数ありますが、今回は割愛。5年前の記事(予告編にリストを載せてあります)をご覧ください。

Img_1222c_20230915165301  この泉の水、養老神社を降りたところで飲んでみました。無色無臭でしたが、味はまろやか。この日は暑かったので、まさに甘露という感じでした。ここで出会った男性は、毎日のようにこの水を汲みに来るとおっしゃっていました。

 ここらでキリがよいので、その1はここまで。その2は、この先ちょっと寄り道をして、北原白秋歌碑、元正天皇行幸遺跡・大鍬神社などから。

2023年9月15日 (金)

20230915「養老の滝ウォーキング」(美濃街道ウォーキングオプショナルツアー#1)(予告編)

Img_0927c_20230915163301  予想していたよりかなり暑い日になりました。桑名では最高気温が34.8℃。危うく全国のトップテン入りしそうな気温。これほど暑くなるとは思わず、以前から予定していた「養老の滝ウォーキング」に行ってきました。今年1月から7月にかけて歩いていた「美濃街道ウォーキング」のオプショナルツアーの1つです。美濃街道を歩きながら、同級生K氏と養老の滝や、行基寺にも行ってみたいと話していたのですが、まずは大垣まで歩き通すことを優先したのです。7月2日に美濃青柳から大垣まで歩いて、これは目標を達成。夏場にかなり高低差のあるところを歩くのはやめようということで、「養老の滝ウォーキング」は今日になった次第。しかし、暑くて大変でした。同級生K氏と二人旅、今日の記事は予告編。

Img_0933c_20230915163301Yoro0_20230916040901  桑名駅を8時45分に出る養老鉄道大垣行きに乗車。養老駅には9時27分着。¥580。9時35分に養老駅をスタート。右が、今日歩いたルートマップ。マップ上では、6.4㎞。養老公園から妙見堂、養老の滝を経て、養老神社・菊水泉、北原白秋歌碑、元正天皇行幸遺跡、養老寺、養老説教場、鬼面山谷五郎碑などを経て養老駅に戻るというコースです。養老駅あたりの標高が20m、養老の滝が270m(いずれもキョリ測による数値)で、高低差は250mという、高齢者にとってはいささか難コース。

Img_0947c Img_0972c_20230915163901  養老駅を出てすぐのあたり。すでに登り坂。養老の滝までの間、多少のアップダウンはありますが、基本的にはずっと上り。せせらぎ街道に入るところに「聖武天皇巡幸記念碑」があります。碑陰の説明によれば、天平12(740)年に聖武天皇が巡幸された折、「天狗の小場」と称されるこのあたりに行宮(あんぐう)が造営され、4日間駐留されたと伝わっているそうです。碑は、2018年3月に建立。

Img_0983c_20230915163901 Img_0989c_20230915163901  聖武天皇巡幸記念碑の先からせせらぎ街道に入ります。妙見堂(右の写真)へと続く、1㎞ほどの道で、モミジがたくさんありますので、秋の紅葉は見事と思われます。一般に養老の滝に上る道からは1本奥にありますので、隠れた紅葉スポットだろうと思えます。妙見堂の創建は明治15(1882)年、当時の岐阜県令・小崎利準氏が日鑑上人(身延山久遠寺第74世)を招き堂宇を建立したのが始まりとされます。

Img_1053c_20230915164801 Img_1064c_20230915165201  妙見堂の先でいったん下って、通常の滝に上る道に入ります。ここからが大変でした。途中、2回ほど小休止。途中は割愛しますが、妙見堂から川沿いを600mほど上って、「養老の滝はまだか?」と思った途端に視野が開け、左の写真のように滝が見えました。このときはさすがに「オーッ!」と声が出ました。5年ぶりに来ました(2018年11月10日:20181110近鉄ハイキング「親孝行のふるさと『養老フェスタ』」へ……予告編)。養老の滝は、落差32m、幅4mと見事なものです。今日は水量もあって、見応えがありました。滝のすぐ目の前まで上って、そこにあったベンチに座り、しばし滝を眺めながら休憩をしてきました。時間さえあれば、いつまでも眺めていられそうです。

Img_1161c_20230915165301 Img_1192c_20230915165301  養老の滝から降りて、養老神社に向かいます。「養老孝子伝説」の源丞内ゆかりの神社といわれ、奈良時代養老年間以降の創建と推測されます。平安時代、美濃国神明帳には「養老明神」とあり、菊理媛命(くくりひめのみこと)が祭神とも伝わっています。永正元(1504)年、菅原道真を合祀し、養老天神といわれていました。明治初期、近くの元正天皇・聖武天皇祭場を移転し、合祀。この際、養老神社に改称しています。

Img_1197c_20230915165301 Img_1222c_20230915165301 境内には、今もこんこんと湧いている清水があります。菊水泉。孝子源丞内が汲んで老父にすすめたところ酒になったという伝説の水は、この水だといわれています。この泉の水、養老神社を降りたところで飲んでみました。無色無臭でしたが、味はまろやか。ここで出会った男性は、毎日のようにこの水を汲みに来るとおっしゃっていました。

Img_1267c_20230915165701  滝を過ぎてからは下る一方ですから、楽。養老神社の表参道の一の鳥居のところに北原白秋歌碑があります。昭和55(1980)年に建碑されたというのですが、苔生していて、かなり古びていて歌はほとんど読めない状態。碑には「紫闌 さいていささか 紅き石の しま目に見えて 寿々し 夏去りにけり」という歌が刻されています。昭和2(1927)8月、大阪毎日新聞が行った「日本新八景」の人気投票の審査のため、子息を同伴して養老を訪ねた際に詠まれた歌の一つ。

Img_1299c_20230915170101  養老神社からさらに北東へ向かうと、「元正天皇行幸遺跡」があります。元正天皇は、霊亀3(717)年9月、近江国を経て美濃国当耆郡(たぎぐん:多芸郡)にいたり、多度山の美泉に浴されました。この年11月に詔勅を出し、この多度山の美泉について、病が癒えるなどの効験が大きく、これは大瑞であると述べ、「養老(717~724年)」への改元を布告しておられます。

Img_1337c_20230915170301 Img_1352c_20230915170301  元正天皇行幸遺跡から養老神社に戻り、川沿いの道を下っていきます。元正院瀧寿山養老寺へ。孝子源丞内が開いた寺とされ、天平時代には七堂伽藍も整い、多芸七坊の一つに数えられていたものの、永禄年間(1558~1569)に織田信長のために焼かれてしまい、その後慶長12(1607)年、高須藩主・徳永寿昌が再建しました。再建される以前は法相宗のお寺でしたが、再建されるとき、真宗大谷派に改宗し今日に及んでいます。境内には、孝子源丞内のものとされる墓もあります。

Img_1391c_20230915170601  養老寺から養老公園駐車場の方に降りてきますと、駐車場入り口の近くに養老説教場。浄土真宗の説教場で、明治13(1880)年の養老公園開設時に創設されています。養老町内の真宗寺院が持ち回りで管理しています。前回来たときは、紅葉が見事でインスタ映えしそうなスポットでした。

Img_1394c_20230915171101  最後の立ち寄り先は、養老公園駐車場の入り口付近にある横綱鬼面山谷五郎碑。鬼面山谷五郎(きめんざんたにごろう)は、第13代横綱。岐阜県で唯一の横綱で、また、明治になって初めての横綱です。養老町鷲巣の出身で、美濃街道ウォーキングの時には生家跡を見てきました(2023年5月22日:20230522美濃街道ウォーキング「美濃津屋~養老」(予告編))。27場所143勝24敗16分で、優勝相当成績7回という輝かしい成績を残しています。明治2(1869)年に横綱になりましたが、翌年に引退。さらに引退後1年たたずに亡くなりました。

Img_1423c_20230915170601 230915130037277c  これで立ち寄り先は、コンプリート。昼食は、前回、美濃街道ウォーキングのときに休みで(2023年5月22日:20230522美濃街道ウォーキング「美濃津屋~養老」(予告編))、行けなかった「そば処たみと」さんへ。12時45分くらいの到着。なかなかよい感じのお店です。「ざる蕎麦(白)」を頼みましたが、十割蕎麦です。写真のように美しい蕎麦で、腰もしっかりしていましたし、味と香りも十分。こんなにおいしい蕎麦をいただいたのは、久しぶり。人気店のようで、われわれが食べ終えて店の外に出たら、「本日分完売」とありました。十二分に満足。

Img_1454c_20230915170601 Img_1430c_20230915170601  養老駅には、13時20分頃、戻ってきました。次の桑名行きは13時31分でちょうどよい時間。桑名着は14時18分。¥580。美濃街道ウォーキングで来たときには(2023年6月4日:20230604美濃街道ウォーキング「養老~美濃高田」(予告編))、「養老公園県営100周年記念往復割引切符」があったのですが(往復で¥1,000)、それは予定数に達して、買えませんでした。

Screenshot_20230915144208c  今日のGoogle Fitのデータ。11.15㎞、17,979歩でした。高低差がかなりありましたので、普通に11㎞を歩いたよりも運動量ははるかに多くなっています。いつもより足がだるくなっています。本編は、また明日以降書きます。

 なお、本文中にも書きましたが、養老の滝へは2018年11月10日に近鉄ハイキングで訪ねています。その時の記事は、次のようになっていますので、ご興味がおありでしたら、ご覧ください。今回は、文学碑などは割愛するつもりですが、これらの記事には詳しく書いてあります。

 2018年11月10日:20181110近鉄ハイキング「親孝行のふるさと『養老フェスタ』」へ……予告編

 2018年11月28日:20181110近鉄ハイキング「親孝行のふるさと『養老フェスタ』」へ(その1)……養老駅から養老公園へ、コース間違いで余分に2㎞歩く(笑)

 2018年11月29日:20181110近鉄ハイキング「親孝行のふるさと『養老フェスタ』」へ(その2)……妙見堂、養老の滝から養老神社、菊水泉へ

 2018年12月4日:20181110近鉄ハイキング「親孝行のふるさと『養老フェスタ』」へ(その3)……養老神社、菊水泉あたりの石碑など、歴史ある旅館

 2018年12月4日:20181110近鉄ハイキング「親孝行のふるさと『養老フェスタ』」へ(その4)……元正天皇行幸遺跡、養老寺、養老説教場から大菩提寺を経て、勝手に養老駅にゴール変更(完)

 また、養老公園にある石碑をたどるハイキングコースが、ここにあります。文学碑などが網羅されています。

 ちなみに、「美濃街道ウォーキングオプショナルツアー」#1としましたが、#2として、行基寺へも行こうと計画しています。行基寺へは、養老鉄道美濃山崎駅から往復するつもり。

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  • 関裕二: スサノヲの正体(新潮新書)

    関裕二: スサノヲの正体(新潮新書)
    タイトルに惹かれて手に入れたものの、序章の記述が私にとっては退屈でしばらく放っておいたり、読み直そうと思ってくじけたりしていました。しかし、そこを乗り越えるとこの本はとても面白くなり、ほとんど一気読みしました。スサノヲ(素戔嗚尊)の正体を探るプロセスでアマテラス(天照大神)の謎も明らかにされて行き、それもとても興味深いものがあるのです。アマテラスは皇祖神とされますが、実在の初代王と言われる崇神天皇はアマテラスを伊勢に追いやっています。また、伊勢神宮を整備した持統天皇だけは伊勢に参ったものの、それ以降明治になるまで、1,000年以上も歴代天皇は伊勢神宮を訪れていません。明治天皇が東京に遷御したあと武蔵国の鎮守勅祭の社に定めたのは、スサノヲの祀られる氷川神社(現さいたま市)です。明治天皇は氷川神社を訪れた翌年に、伊勢神宮を訪れています。そもそも伊勢にいる神はアマテラスなのかという疑問にも立ち向かっている、古代史や神に関心がある方にはお勧め。 (★★★★★)

  • 安藤 優一郎: 大名屋敷「謎」の生活 (PHP文庫)

    安藤 優一郎: 大名屋敷「謎」の生活 (PHP文庫)
    時代小説をよく読みます。捕物帖、市井の人たちの生活、侍の物語、大名の話などいろいろとあります。庶民の生活については、これまでもいろいろな本でかなり知っていますが、大名の生活については分からないところの方が多いと思っていました。タイトルに惹かれて買ったのですが、大名やその家族の生活が詳しく書かれているのではなく、勤番侍の生活、大名屋敷の庭園、御用達商人や豪農、幕末の動乱と大名屋敷などの話が中心でした。それはそれで知らなかったことが多々あり、興味深く読みました。 (★★★)

  • 服部環ほか: 指導と評価2023年10月号(図書文化社)
    「指導と評価」は、日本教育評価研究会の機関誌であるとともに、日本で数少ない教育評価に関する月刊誌です。この号では、教育・心理検査の意義と活用という特集が組まれています。「教育・心理検査の意義」に始まり、WISC-Ⅴ、KABC-Ⅱなどの個別検査の使い方、解釈の仕方、指導への活かし方がそれぞれの専門の先生によってわかりやすく解説されています。特別支援教育の現場でも、きちんとした心理アセスメント所見に基づいた支援を展開することが望ましいのですが、現場の先生方には敷居が高いようです。ご関心がおありの方には、どのように使えるか、どのように考えたらよいかについて基本的なことがらを理解するのに適しています。出版社のWebサイトからバックナンバーとして購入できます。 (★★★★)
  • 石田 光史, 樋口 広芳(ナツメ社): ぱっと見わけ観察を楽しむ 野鳥図鑑

    石田 光史, 樋口 広芳(ナツメ社): ぱっと見わけ観察を楽しむ 野鳥図鑑
    野鳥図鑑はすでに何冊も持っていますが、この野鳥図鑑は、2015年の刊行で、なぜ今までこの存在に気づかなかったと反省するほど便利そうなもの。掲載されているのは324種ですが、それぞれの特徴や、見わけのポイントがパッとわかるようになっています。その鳥の生活型や生息地、食性や羽色、形態などのほか、雌雄、夏羽冬羽、幼鳥などで特徴が異なる場合は、それらについても説明されています。観察したい行動から、おもしろい生態、探し方までもが載っていますし、鳥の鳴き声が聴けるQRコードも付いています。私自身、野鳥の特定がけっこうアヤシいので、しっかり活用しましょう。 (★★★★★)

  • 千枝大志(風媒社): 街道今昔 三重の街道をゆく (爽BOOKS)

    千枝大志(風媒社): 街道今昔 三重の街道をゆく (爽BOOKS)
    「東海の街道」シリーズの第4巻です。「街道歩きのお供に最適の1冊」といううたい文句。内容は、三重の主な街道、近世三重の城郭図・城下図を読み解く、お伊勢参り小咄、伊勢をめぐる〈参詣〉をデジタル化するの4章構成で、まさに三重の街道歩きの参考書としてよいと思います。私自身も県内の東海道、伊勢街道、美濃街道、濃州街道はほとんど歩き、ほかの街道も部分的に歩いていますし、城もここに載っているところはかなり訪ねています。デジタル化も、ブログに写真・記事を載せていますから、出来不出来はともかく、私も取り組んでいます。県内の街道はさらに歩こうと思っていますし、デジタル化にももっと取り組みたいと考えていますので、十分活用できるでしょう。 (★★★★★)

  • 唐沢孝一: 都会の鳥の生態学 カラス、ツバメ、スズメ、水鳥、猛禽の栄枯盛衰 (中公新書)

    唐沢孝一: 都会の鳥の生態学 カラス、ツバメ、スズメ、水鳥、猛禽の栄枯盛衰 (中公新書)
    都市にもたくさんの野鳥がいることを知る人は少ないかも知れません。私がいつも散歩している地方都市の公園では、これまで10年あまりで70種類近くの野鳥を観察しています。都会は自然の少ない人工的な環境にあふれていますが、野鳥たちはもともとの生態を活かしつつこれらにしたたかに適応してい生きています。この本では、カラス、ツバメ、スズメ、水鳥、猛禽を取り上げ、その都会における生態や、活動の変化、人間と鳥との関係とその変化などについて多くの実例や、調査結果をもとに、豊富な写真を使って楽しく読めるようにまとめられています。 (★★★★★)

  • 堤未果: 堤未果のショック・ドクトリン 政府のやりたい放題から身を守る方法 (幻冬舎新書)

    堤未果: 堤未果のショック・ドクトリン 政府のやりたい放題から身を守る方法 (幻冬舎新書)
    「ショックドクトリン」とは、テロや大災害など、恐怖でこくみんが思考停止している最中に、為政者や巨大資本がどさくさ紛れに過激な政策を推し進める悪魔の手法のことです。アメリカでの3.11以来、日本でも大地震やコロナ禍の裏で知らない間に個人情報や資産が奪われようとしているというのがこの本のテーマ。パンデミックで製薬企業は空前の利益を得、マイナンバーカード普及の先には政府のよからぬ思惑があるなどよくよく注意し、自分の生命・財産を守らないといけないというのが著者の主張。「今だけ、自分だけ、お金だけ」という強欲資本主義に負けないようにするには、ちょっとした違和感を大事にし、お金の流れがその裏にないか、また、それで大もうけして回転ドアをくぐって逃げる輩がいないかをチェックすることです。また、政府が何か、大急ぎで導入しようとしたり、既存の制度を急拡大しようとするときは、要注意だそうです。 (★★★★)

  •  奥山景布子: 葵の残葉 (文春文庫)

    奥山景布子: 葵の残葉 (文春文庫)
    いわゆる「高須四兄弟」である徳川慶勝、松平容保、松平定敬、徳川茂栄は、幕末維新の激動期に、結局のところ官軍と幕府とに分かれて戦う運命になったのですが、この四兄弟を取り上げて埋もれた歴史を活写した小説。私自身は、桑名藩主であった松平定敬が取り上げられているので興味を持って手に取った次第。幕末維新は、次々に色々な出来事が起きて、さまざまな人たちの思惑も複雑に入り組んでいるので、小説にするのは難しいと思っていたのですが、隠れた主人公ともいえる高須四兄弟の視点からとても躍動感のある読み物になっています。また、この時期の歴史をより一層深く理解できたという感想も持っています。 (★★★★)

  • 國分功一郎: 暇と退屈の倫理学(新潮文庫)

    國分功一郎: 暇と退屈の倫理学(新潮文庫)
    ほぼ隠居状態ですから、暇と退屈には困りません(微笑)。それ故にこの本を手に取ったといっても、誤りではありません。著者がいうには、「暇」とは何か、人間はいつから「退屈」しているのだろうかといったなかなか答えにたどりつけない問いに立ち向かうとき、哲学が役に立つというのが著者のスタンス。哲学書なのに、読みやすいのです。スピノザ、ルソー、ニーチェ、ハイデッガーなど、その昔学生時代に取り組んで挫折した哲学者たちの論考を参照しつつ、現代の消費社会における気晴らしと退屈について鋭い指摘がされ、まさに蒙を啓かれます。 (★★★★)

  • 逸見功: 統計ソフト「R」超入門〈最新版〉 統計学とデータ処理の基礎が一度に身につく! (ブルーバックス)

    逸見功: 統計ソフト「R」超入門〈最新版〉 統計学とデータ処理の基礎が一度に身につく! (ブルーバックス)
    今さら、なぜこういう統計ソフトの本を読むのか? と訝られると思うのですが、その昔、現役の頃には統計パッケージソフトIBM SPSSを使ってデータを分析して論文を書いていました。ただ、SPSSを始め、統計パッケージソフトは、値段がバカ高いのです。退職する前からこのRというフリーの統計処理ソフトが出て来て、ずっと興味を持っていました。先日、文庫本を買おうと思って本屋に行ったらこの本を見つけてしまいました(微笑)。今さらこれを使ってバリバリやる訳ではありません。むしろボケ防止かも知れませんが、昔のデータはそのままパソコンにありますから、これを使って、昔はやらなかった分析をしてみようと思っています。何か成果が出るかどうかは極めてアヤシいのですが、まぁゆるりといろいろやってみることにします。 (★★★★)

  • 林(高木)朗子, 加藤忠史, 林(高木)朗子, 加藤忠史: 「心の病」の脳科学 なぜ生じるのか、どうすれば治るのか (ブルーバックス)

    林(高木)朗子, 加藤忠史, 林(高木)朗子, 加藤忠史: 「心の病」の脳科学 なぜ生じるのか、どうすれば治るのか (ブルーバックス)
    たまにはこういう本も読まないと、認知機能が退化するかもしれないと思って(微苦笑)。というよりも、もともと神経心理学に興味がありましたので、本屋の店頭で見つけ、これは面白そうだと思って購入しました。うつ、自閉スペクトラム障害、ADHD、統合失調症、双極性障害など、現代人を悩ませる心の病について、脳にどのような変化が起きているか、最新の知見がまとめられています。最前線の研究者たちがわかりやすく説明しているのですが、知識ゼロで読むのはかなりキツいかも知れません。私は現役をリタイアして10年以上になりますが、その間にこれほど研究が進んだのかというのが正直な感想。心の病の原因は、1つとは限りません。心の病は「症候群」と見た方がよいと考えます。私自身が関わる自閉スペクトラム障害、ADHDなどの発達障害でもそうです。脳機能と心の病との関連について最新の知見を知りたい方にはおすすめ。 (★★★★)

  • 磯田 道史: 徳川家康 弱者の戦略 (文春新書)

    磯田 道史: 徳川家康 弱者の戦略 (文春新書)
    本の帯に「大河より面白い!」とありますが、本当にそうでした。午前中の散歩のついでに買ってきて、夕食までに一気に読み終えてしまいました。もったいない気がするくらい。松平元康がいかにして徳川家康になったか、さらに徳川将軍家がいかに続くよう礎を築いたかが、よく分かりますし、戦国時代から徳川幕府創世記までの歴史を見る目が養われる本です。それというのも、著者の磯田さんが古文書の権威で、一次史料を読みこなすだけでなく、場合によっては価値が怪しい資料まで傍証に用いて(怪しい資料でも使い道があるというのも良く分かりました)、ご自身の頭で考えた結果を実に分かりやすく解いてくれてあります。徳川家康の弱者の戦略のキーワードは、「武威」と「信頼」ということです。また、情報の取得、解読にも意を尽くしたことがよく分かります。混迷を深める世界情勢を読み解いて、我が国が進む方向を考える上でも役に立つ一冊。 (★★★★★)

  • 井手 正和: 発達障害の人には世界がどう見えるのか (SB新書)

    井手 正和: 発達障害の人には世界がどう見えるのか (SB新書)
    発達障害、とくに自閉スペクトラム症(ASD)の方では、感覚過敏や感覚鈍磨をよく伴います。「照明で目がチカチカする」「皆が話している教室では。音が鳴り響き絶えられない」「ケガをしてるのに、痛みを感じない」などさまざまな状況を呈します。著者は実験心理学や、認知神経科学を専門とし、ASDの方に見られる感覚過敏、感覚鈍磨は、脳機能の特性から来ていることを明らかにしてきています。ASDなど発達障害のあるご本人はもちろん、親御さん、教師など関わりを持つ方々は、このことをよく理解して支援にあたることがとても重要です。ASDを始めとして発達障害について、「わがまま」「自分勝手」「やる気がない」などと捉えてしまうと、支援どころか、理解もできなくなります。脳の働きによってさまざまなことが生じてきているという視点が必要不可欠です。この本は、感覚過敏・感覚鈍磨を手がかりにそういう視点について理解を深められます。 (★★★★)

  • 日本放送協会,NHK出版: NHK 100分 de 名著 中井久夫スペシャル 2022年 12月 [雑誌] (NHKテキスト)

    日本放送協会,NHK出版: NHK 100分 de 名著 中井久夫スペシャル 2022年 12月 [雑誌] (NHKテキスト)
    2022年12月のNHKのEテレ「100分de名著 中井久夫スペシャル」のテキストです。今頃(2023年2月)これをリストアップしているのはどうかという気もしますが、録っておいたビデオをみたのが最近なのです。中井久夫さんは、2022年8月にお亡くりになりましたが、日本を代表する精神科医のお一人であり、翻訳家、文筆家としても一流でした。現役の頃、中井さんの本はたくさん読みました。臨床心理学の分野でも「風景構成法」を導入した方として知られています。Eテレの講師である齋藤環さんは、中井さんを評して「義と歓待と箴言知の人」と書いておられますが、まさにそういう気がします。『最終講義』『分裂病と人類』『治療文化論』『「昭和」を送る』『戦争と平和 ある観察』が紹介されています。現在もウクライナで戦争が続いていますが、中井は「戦争は過程、平和は状態」とし、戦争は物語として語りやすく、とにかくかっこよくて美しい、それが問題だといいます。一方、平和は分かりにくく、見えにくいため、心に訴える力が弱いとします。「状態を維持する努力はみえにくい」のですが、戦争と平和に限りません。普段通りの日常生活を維持していくのも同じような気がします。戦争を経験していない人間が指導者層の多くを占めるようになると戦争に対する心理的抵抗が低くなるともいいます。「戦争には自己収束性がない」とも中井さんはいっています。われわれはやっかいな時代に生きていると痛感します。中井さんの本を多くの方が読むと、時代も変わるかも知れません。 (★★★★★)

  • 桑名三郎: 七里の渡しを渡った人達(久波奈工房)
    桑名と名古屋の宮を結んだ東海道唯一の海路「七里の渡し」をテーマにした歴史本です。船頭が旅人を案内しながら、七里の渡しを渡った歴史上の24人を紹介する内容。やさしい話し言葉で紹介されており、読みやすい本です。徳川家光、松尾芭蕉、明治天皇などが取り上げられています。著者は、桑名で歴史案内人をしながら、街の歴史を研究している、街道好きの方です。本は、桑名市内の書店とメルカリで¥1,200で販売。 (★★★★)
  • 磯田 道史: 日本史を暴く-戦国の怪物から幕末の闇まで (中公新書 2729)

    磯田 道史: 日本史を暴く-戦国の怪物から幕末の闇まで (中公新書 2729)
    磯田さんの本は面白い。というのも、話のもとには古文書があるからだと思う。その古文書も磯田さん自身が、古書店などで発掘してきたものがほとんどで、それ故、内容もオリジナリティが高くなる。この本は、戦国時代から幕末あたりを中心にさまざまな古文書の内容をもとに、例えば忍者の悲惨な死に方、江戸でカブトムシが不人気だった背景、赤穂浪士が吉良の首で行った奇妙な儀式などなど、興味深いエピソードを浮かび上がらせている。面白いので一気読みしてしまった。 (★★★★★)

  •  佐藤信(編): 新版 図説歴史散歩事典(山川出版社)

    佐藤信(編): 新版 図説歴史散歩事典(山川出版社)
    史跡や、寺社、町並み、城、美術工芸品等の見方がやさしく解説されている本です。「事典」となっていますが、いわゆる辞書とは違って、普通の本のスタイルです。索引が充実していますので、事典としても十分に使えます。最初の版をもっていますが、40年ぶりに改訂され、写真、図版も多く、歴史散歩の最強の味方です。 (★★★★★)

  • 日下部理絵: 60歳からのマンション学 (講談社+α新書)

    日下部理絵: 60歳からのマンション学 (講談社+α新書)
    今年1年、何の因果か(などと書くとお叱りを受けること必至ですが)、住んでいるマンションの管理組合の理事長を仰せつかっています。今年は、エレベーターリニューアル工事が最大のイベントで、それは無事に済んだのですが、前理事長から8年後に迫った第3回大規模修繕に向けて、修繕積立金が不足する見込みと申し送られました。確かにかなりの金額が不足しそうで、頭を悩ませていました。マンションに住みながら、そもそも基本的な知識が不足しており、管理会社のフロントマンの方の協力を得ながらシミュレーションなどをしていました。ネットであれこれ調べてはいたものの、それで得られる知識は体系的なものではありませんでした。この本は、事例を元にマンション管理について必要な知識が得られるように書かれており、まだすべて読み終えてはいないものの、とても役に立っています。任期残り2ヶ月半となって付け焼き刃ではあるものの、次の理事会に具体的に課題を申し送ることができるよう勉強中(笑)。 (★★★★)

  • 宮口 幸治: ドキュメント小説 ケーキの切れない非行少年たちのカルテ (新潮新書)

    宮口 幸治: ドキュメント小説 ケーキの切れない非行少年たちのカルテ (新潮新書)
    「ケーキの切れない非行少年たち」や「どうしても頑張れない人たち」の著者である宮口幸治さんの新刊です。前2著の内容をよりよく理解できるよう、「ドキュメント小説」として書かれたものです。主人公は、精神科医の六麦克彦。医局から派遣されて要鹿乃原少年院に勤務して5年。彼がそこで目にしたのは、少年院に堕ちてきた加害者ながら、あらゆる意味で恵まれず、本来ならば保護されてしかるべき「被害者」と言わざるを得ない少年たちでした。この内容は、前の2冊のように普通の新書では書き尽くせるものではなく、物語の形を借りざるを得なかったのでしょう。ただし、普通の小説として読むのには少し苦労するかも知れません。特別支援教育が普及して、知的障害や、発達障害のある子どもへの教育や支援は、以前に比べれば改善されてはいますが、最近は、家族の養護能力が十分でなかったり、親など家族自身に支援が必要なケースもたくさんあります。こうした中には、この本で取り上げられたような結末に至ることがあっても不思議ではないという気がします。極端な事例が集められていると思われるかも知れませんが、社会全体として真剣に取り組むべき課題が突きつけられています。 (★★★★)

  • 本田秀夫: 学校の中の発達障害 「多数派」「標準」「友達」に合わせられない子どもたち (SB新書)

    本田秀夫: 学校の中の発達障害 「多数派」「標準」「友達」に合わせられない子どもたち (SB新書)
    本田秀夫先生によるこのSB新書の4冊目のシリーズ。今回は、発達障害のあるお子さんの学校選び、学級選び、友達関係、学習や学力の悩み、不登校など、発達障害のあるお子さんの学校生活全般にわたって、どのような考え方に基づいてサポートしたら良いかについてまとめられています。それぞれ、親と先生とが、どのように取り組むことが基本となるか、解説されています。対策よりも予防的な工夫をコミュニケーション(要求ではなく)に基づいて行う、「学校の標準」を緩める、登校や成績を気にしすぎず、社会に出るための土台作りを考える、発達の特性には寛容になる、学びを大切にするが学力にこだわりすぎない、親と先生とが気づきを伝え合い相談、調整する、子どものモチベーションを重視するなど、具体的に書かれていて、分かりやすくなっています。発達障害のあるお子さんが小中学校で充実した学習が進められるための基本的な考え方やヒントが詰まっていますので、親御さんにも、先生方にもお勧めできます。 (★★★★★)

  • 佐々木秀斗: 小学生博士の神社図鑑 ぼくの近くにはどんな神さまがいるの?

    佐々木秀斗: 小学生博士の神社図鑑 ぼくの近くにはどんな神さまがいるの?
    サンドウィッチマン&芦田愛菜ちゃんMCの「博士ちゃん」に「三国志博士ちゃん」、「日本の神様博士ちゃん」として2回出演した佐々木秀斗君の自由研究を本にしたもの。何故これをここに取り上げたかというと、私のブログに載せた立坂神社の緑色の鳥居について、写真を提供して欲しという依頼が出版社からあったのです。私が提供した写真は、本書の162ページに「提供:猫の欠伸研究室」として載っています。ざっと読みましたが、大人でも、古事記や神社についてよく知らない方が、最初に手に取って基本的なことがらを知るには、わかりやすくて良い本だと思います。 (★★★★★)

  • 森 博嗣: 読書の価値 (NHK出版新書)

    森 博嗣: 読書の価値 (NHK出版新書)
    ネットで見つけ、新刊かと思って購入したのですが、4年前の本でした(微苦笑)。 若い頃に森博嗣さんの小説をすべて読んでいました。いつの頃からか、小説は読まず、森さんのエッセイだけを読むようになっています。「読書の極意を教える」と帯にはあります。もちろんそれについて書かれているのですが、私にはある種の知的生産の技術について著者の方法を開示していると読めます。「何でも検索できる時代にも、本を読む意味がある」というのは、よく首肯できます。また、「教養とは保留できる能力をいう」というのも確かにそうだと思います。自分の問題として抱続けられ、また、考え続けられるのは、容易ではありませんから。 (★★★★★)

  • 井川香四郎: 別子太平記 : 愛媛新居浜別子銅山物語 (文芸書)

    井川香四郎: 別子太平記 : 愛媛新居浜別子銅山物語 (文芸書)
    愛媛県新居浜市にあった別子銅山は、元禄3(1690)年、伝説の切上り長兵衛によって発見されてから、昭和48(1973)年の閉山まで、283年間にわたり、累計65万トンの銅を産出しました。これは、世界の銅の産出量の1/6にも達するといいます。巨大財閥住友の礎となっただけでなく、日本の貿易や近代化にも大きく貢献したのがこの別子銅山です。江戸時代には貨幣改鋳にも深く関わった世界屈指の鉱山を舞台に、そこに関わった人達を鮮やかに描いた、本当の意味での大河小説です。徳間時代小説文庫で読みました。  (★★★★)

  • 養老孟司, 池田清彦: 年寄りは本気だ―はみ出し日本論―(新潮選書)

    養老孟司, 池田清彦: 年寄りは本気だ―はみ出し日本論―(新潮選書)
    養老孟司先生と池田清彦先生の対談であれば、外れはありません。サブタイトルのように、「はみ出し日本論」ではありません。ど真ん中の日本論といってもよい本で、楽しみながら読めます。しかし、それは、自分のアタマできちんと考えているからこそ論じられる内容だと思います。常識や、マスコミで報道されることがらだけをフォローしていては、こういう風に考えることはできません。きちんとした理論、知識、データに基づかなければなりません。さらには、物事を捉える大きな枠組み、私の世代にとっては「パラダイム」といえるものが必要。それも、確固たるパラダイムが必要です。私にとってそれはある種の理想なのですが、なかなか難しい。しかし、まぁ、年寄りになったからこそ見えるものや、年寄りなりの知恵も働くようになるということもありますから、養老・池田の「怖いものなし」コンビを1つの目安として、言うべきこともいえるようになりたいものです。 (★★★★★)

  • 土井 善晴: 一汁一菜でよいと至るまで (新潮新書)

    土井 善晴: 一汁一菜でよいと至るまで (新潮新書)
    先に同じく土井善晴さんの「一汁一菜でよいという提案」を挙げましたが、入手したのはこちらが先。「一汁一菜でよい」というスタイルに至るまでの土井さんの修行、出会い、発見、迷いなどなどが書かれています。「家庭料理に失敗なんて、ない」、「すべては人を幸せにする料理に繋がる」というのが基本。具だくさんの味噌汁はおかずの1つになる。余裕があれば、食べたいものや、食べさせたいものをその都度調べてつくればよい。一汁一菜を入り口にして、一つ一つおかずをつくってみて、10種類ほどでもできるようになれば、それで幸せに一生やっていける。といった話があり、へぇーと感心させられました。これだけで健康に健やかに自足できるとも述べられています。一汁一菜なら、私にもできる、でしょうか?? (★★★★★)

  • 土井善晴: 一汁一菜でよいという提案(新潮文庫)

    土井善晴: 一汁一菜でよいという提案(新潮文庫)
    著者の土井善晴先生は、私と同世代。そして、私の世代にとってはあの土井勝さんの息子というイメージが強くあります。テレビなどにもよく出ておられ、なかなか面白い視点でものを見る人だなと思っていました。この本は,出版された当時(2016年秋)から知っていたのですが、手に取ったのはごく最近。文庫本を探していたのですがなかなか遭遇しなかったのです。「一汁一菜でよい」というのは、ご飯と具だくさんの味噌汁があればよいということです。家庭料理についての提案なのですが、実は、この本はもっと奥深いことを述べています。一言で言えば、日本文化や日本人の哲学について述べる中で、食や生活、生き方などについても論じられています。解説を書いておられる養老孟司先生は、それを「自足の思想」と表現していらっしゃいます。優しい、わかりやすい本ですが、実は奥が深い。著者の端正さもよく表れています (★★★★★)

  • 奥山 景布子: 流転の中将

    奥山 景布子: 流転の中将
    幕末の桑名藩主・松平定敬を描いた歴史小説。定敬は、実の兄で会津藩主である容保とともに徳川家のために尽くそうとしたものの、最後の将軍・徳川慶喜に振り回され、裏切られてしまいます。定敬は、それでも抗おうとしたのですが、国元の家臣たちはいち早く恭順を決め、藩主の座も追われてしまいます。朝敵といわれ、越後、箱館から上海まで流浪した定敬の波乱に満ちた人生と、秘めたる思いが生き生きと書かれています。定敬については、歴史講座で学んだり、本で読んだりしてきましたが、小説家の手にかかるとこのように立体的に、活き活きと動き出すものなのだと実感します。 (★★★★★)

  • サトウタツヤ: 臨床心理学小史 (ちくま新書)

    サトウタツヤ: 臨床心理学小史 (ちくま新書)
    たまには専門のアカデミックな本も取り上げます(微笑)。本屋でみつけ、購入。この本は、同じ著者が東大出版会から昨年刊行した「臨床心理学史」で果たせなかったことを果たそうと構想されたもの。果たせなかったのは、日本の臨床心理学史に触れることと、コンパクトな歴史記述だそうです。東大出版会の本は、読んでみたい気もしますが、¥7,000もしますし、内容もハードそうです。こうして臨床心理学の歴史を俯瞰してみますと、やはり実験心理学を抜きにしては臨床心理学も語れないといえます。私個人の考えでも、臨床心理学を学び、実践するには、実験心理学を学び、実験・調査などの方法で研究をした経験が必須です。臨床心理士、公認心理師の資格に関わり、心理学を志す人は多く、また、大学でも臨床心理学部や臨床心理学科もあります。しかし、私は、自分自身の経験からもやはり、実験心理学などの基礎心理学を抜きにして、臨床心理学は成り立たないと考えますし、学生も実験心理学を含めた基礎心理学を、少なくとも学部段階ではきちんと修得した方がよいと思います。本書を読んで、その考えはいっそう強くなりました。 (★★★★★)

  • 昭文社 旅行ガイドブック 編集部: 三重のトリセツ

    昭文社 旅行ガイドブック 編集部: 三重のトリセツ
    本屋に別の本を買いに行って見つけ、即買い(微苦笑)。私の好むタイプの本です。三重県の地形や地質、歴史、文化、産業などを、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント本。地図も歴史も文化も好きなのです。地図で読み解く三重の大地、三重を駆ける充実の交通網、三重の歴史を深読み!の3部構成。2017年11月にたまたまみつけたJRさわやかウォーキング「~四日市市制120周年記念~ 家族みんなで楽しめる四日市旧港街歩き」に行って以来、JRさわやか、近鉄ハイキング、勝手にハイキングで県内や近郊のあちこちに電車で行って電車で帰るハイキング/ウォーキングをしています。それによって訪ねたあちこちのことが改めてまとめられていて、とても楽しめます。各県のバージョンが出ているようです (★★★★★)

  • 磯田道史: 歴史とは靴である (講談社文庫)

    磯田道史: 歴史とは靴である (講談社文庫)
    歴史家・磯田道史さんが、鎌倉女学院高校で行った特別授業の記録と、ビリギャルの小林さやかさんなどとの対談を収めてあります。基本的には、「歴史の見方」についての本なのですが、それに留まりません。ものの見方、考え方を説いた内容です。むしろ、ものの見方、考え方を学びたい方にお勧めしたいと思うくらいです。ちなみに、タイトルは、「歴史は好きか嫌いかの嗜好品ではなく、安全に世の中を歩くためのむしろ実用品である」という意味です。これは、歴史の見方について、あまりよく理解されていないポイントと思います。講義録ですから、読みやすく、しかも大変おもしろい本です。 (★★★★★)

  • 久住 祐一郎: 江戸藩邸へようこそ 三河吉田藩「江戸日記」 (インターナショナル新書)

    久住 祐一郎: 江戸藩邸へようこそ 三河吉田藩「江戸日記」 (インターナショナル新書)
    この著者の前著「三河吉田藩・お国入り道中記」で読んだ、三河吉田藩(豊橋)の参勤交代の話も大変おもしろく読めましたし、江戸時代の藩邸の様子、殿様や家臣の仕事、暮らしなどに興味があったので、読んでみました。三河吉田藩に残る「江戸日記」などの古文書から、江戸の大名屋敷がどのようなところであったか、江戸で働く武士の状況、江戸の藩邸で起きた事件のいろいろ、藩邸の奥向きの様子、さらには、明治維新後の藩邸から子爵邸への変化について、リアルな武士の暮らしのもろもろがまとまっていて、とても興味深く読めました。三河吉田藩は、現在の愛知県豊橋市にあり、松平伊豆守家が長く藩主を務めています。松平伊豆守家は、「知恵伊豆」の異名を持つ松平伊豆守信綱を初代とし、忍藩、川越藩、古河藩、吉田藩、浜松藩と国替えを繰り返した後、寛延2(1749)年から明治維新まで三河吉田を治めています。 (★★★★)

  • 安藤 優一郎: 江戸の旅行の裏事情 大名・将軍・庶民 それぞれのお楽しみ (朝日新書)

    安藤 優一郎: 江戸の旅行の裏事情 大名・将軍・庶民 それぞれのお楽しみ (朝日新書)
    サブタイトルに「大名・将軍・庶民 それぞれのお楽しみ」とあり、さらに、オビには「300年前は えっ!? 今よりもっと愉快な旅行天国」ともあります。ただし、旅行を心から楽しめたのは、庶民に限られていたようです。参詣者を増やしたい各地の寺社、温泉、宿泊業者が積極的に営業したからです。一方、武士や大名は、トラブルメーカーだったといいます。公用で旅行したり、参勤交代したりなのですが、宿泊料のダンピング、備品の破壊などなどトラブルをまき散らしながらの旅であったり、権威を笠に着たりで、あまり歓迎されなかったようです。江戸時代の旅のエピソード満載で、楽しめる本です。 (★★★★)

  • 藤田 和弘, 熊谷 恵子, 熊上 崇, 星井 純子, 熊上 藤子: 心理検査のフィードバック

    藤田 和弘, 熊谷 恵子, 熊上 崇, 星井 純子, 熊上 藤子: 心理検査のフィードバック
    この本は、WISC-ⅣやKABC-Ⅱなどの知能検査の結果(アセスメント情報)を「子どもの自立と社会参加」により役立つものにしていくには、どのように伝えたらよいか(フィードバック)についてまとめられています。過去には、保護者、学校の担任、子どもたち自身に知能検査の結果を伝えることはされていませんでした。しかし、現在では、苦戦している子どもたちが、自分のことを理解し、自分なりにも工夫して、学習や生活スキルを向上させ、将来の自立と社会参加につなげるために、知能検査の結果(アセスメント情報)を子どもたち自身にも伝えるようになってきています。私も、相談では、お子さんに直接、フィードバックを行い、子どもたち自身が自己理解を深め、意欲的、積極的に取り組めるようにしています。この本は、子どもと支援をつなぐ、支援者をつなぐという視点から、心理検査のフィードバックについて基礎から応用、事例を含んでその全体像を把握できる、優れたものとなっています。 (★★★★★)

  • 新潮文庫: 文豪ナビ 藤沢周平 (新潮文庫)

    新潮文庫: 文豪ナビ 藤沢周平 (新潮文庫)
    藤沢周平の作品案内、小説に見られる名言集、映像化された作品の出演者や、関係者による評伝などによって藤沢周平の作品についてすべてとはいいませんが、かなりが分かります。私は、藤沢周平の小説が好きで、たぶんほとんど読んだと思います。ただそれは、15~6年以上前のことで、リストアップもしていませんから、すべて読んだかどうかについては、不確か。こういう本を読むと、もう一度読もうかという気になります。この本では、娘の遠藤展子さんの「父にとっての家族」がもっとも興味深く読めました。また、藤沢周平の言葉で私が気に入っているのは、「普通が一番」です。ほかにも、「挨拶は基本」「いつも謙虚に、感謝の気持ちを忘れない」「謝るときは素直に非を認めて潔く謝る」「派手なことは嫌い、目立つことはしない」「自慢はしない」という言葉が、遠藤さんが父から言われて心に深く残っていることばだそうです。 (★★★★)

  • 千正康裕: 官邸は今日も間違える(新潮新書)

    千正康裕: 官邸は今日も間違える(新潮新書)
    新型コロナのまん延にともなって、政治的な判断や、もろもろの政策は、迷走したといってもよいと思います。突然の全国一斉休校要請、いわゆるアベノマスクの配布や、閣議決定をやり直した一律給付金など、なぜああいうドタバタになるのか、国民の信頼が得られなかったというか、失ったというのか、ずっと疑問を抱いていました。著者は、元厚生官僚で、社会保障・労働分野で仕事をし、現在はコンサルティング会社を経営。この本では、最近のコロナ禍での出来事の背景を記述する中から、官僚主導から官邸主導への変化に、政治の仕組みの変化がついて行けていないからだとしています。これに関して、政治家、官僚ともに仕事のやり方を変えることが必要であるとともに、国民の側にも良い政策をつくるためには望まれることがあるといいます。 (★★★★)