勝手にハイキング

2021年7月20日 (火)

20210717「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第5回「日永の追分~鈴鹿・神戸」(その3)……神戸の町を歩いて、鈴鹿市駅へゴール(完)

210717oiwake5  7月17日に行ってきた「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」の第5回、その3です。その2では、鈴鹿市に入り、高岡町を歩いてきました。階段付常夜燈や、神戸見附跡を見て、神戸の町に入りました。「神戸」は「かんべ」と読みます。詳細なコースマップは、その5。ご覧いただいてお分かりのように、ゴールに設定した鈴鹿市駅はすぐ近くですが、ちょっと通り越して、札の辻などを見てからゴール。マップでいうと、札の辻などがある三叉路で伊勢街道は左折(東へ)。次の安倍歯科のところで街道は右折しますが、この日の伊勢街道歩きはここまで。

Img_3283c_20210719042901  旅館加美亭の先は、神戸の古くからの町。古いものがいろいろと目に入ってきます。左は、桑名の町でも見る「祭車庫」。常磐町祭車庫とありました。ここ神戸にも石取祭があります(神戸石取祭)。その歴史は明治30(1897)年頃、常盤町・北萱町・南萱町(橋北三町)が、石取祭発祥の地である桑名より祭車を譲り受け、それまで行われていた夏祭とあわせ、祭車を曳き石取祭へと変遷したものと伝えられています。神館飯野高市本多神社(神戸宗社;鈴鹿市神戸2丁目)のお祭りとして挙行されます。ちなみに、この神舘飯野高市本多神社は、倭姫命ゆかりの神社で、ご巡幸の折、この地にしばらく滞在されたといいます。それが、「神舘」という名前に残っているのでしょう。

Img_3286c_20210719042901  その先で、古い看板や、昔のクーラーの室外機を見つけました。ペプシコーラやコカコーラの看板があります。「セーフガード」の広告看板には、「ひと息に、ヘルシー」と書かれていますし、「あゝ 未知の味。」とあるのは、100円販売機でお馴染み、チェリオのスウィーティー。室外機、これはまだエアコンではなく、クーラー(要するに冷やす専用)のものと思います。

Img_3289c_20210719042901 Img_3292c_20210719042901  さらに、軒先の瓦屋根。しかも、粘土瓦を使い、土葺がされています。昔は、これが普通だったのですが、今となっては珍しい。瓦屋根はずいぶん減ってしまいましたし、今、屋根を瓦で葺くとしても、防水シートを敷いて、薄くて軽い瓦を載せます。また、ガルバリウム鋼板を使った金属製の屋根もあります。右は乳母車。今でも保育園での散歩に子どもたちが乗っているところを見かけますが、一般的には見なくなりました。

Img_3299c_20210719053201  近鉄鈴鹿線の踏切を越えたところに「ナショナル」の看板。今はPanasonicブランドになっていますが、その昔は松下電器/松下電工でした。

Img_3303c_20210717171301 Img_3307c  ナショナルの看板があったところの手前、7.5㎞地点で近鉄鈴鹿線を越えています。その先に大橋。神戸小学校のすぐ東で、六郷川という小さい川を渡る橋です。このあたりは、かつては神戸藩士の水練場であったといいます。今では、こんなところで泳げたのか、という気がするくらいです。しかし、これは現代のわれわれの感想に過ぎません。ここはまた、蛍の名所でもあったそうです。

Img_3325c_20210717171301  大橋から200m、札の辻が見えてきます。江戸時代には、高札場があったところ。油伊(あぶい)旅館がありますが、その手前に里程標と道路元標があります。

Img_3334c_20210717171301 Img_3338c_20210719061201  里程標には、「大正三年拾壱月 三重縣」、「日永村へ 壱里貳拾町拾六間  白子町へ 壱里貳拾貳町四拾四間  神戸町」、「距 津市元標五里参拾四町拾七間」、「距 三重縣桑名郡長島村大字押付管轄境七里参拾壱町五拾間」とあります。また、里程標の手前にあるのが、「神戸町道路元標」で、大正3(1914)年の建立。

Img_3354c_20210717185801  油伊旅館も営業しています。築150年。素泊まりは¥4,000~だそうです。3年前に内装と水回りのリフォームを終えているといいます。先ほどの加美亭といい、この油伊旅館といい、こういうところに一度は泊まってみたいものです。

Img_3351c_20210719061301 Img_3348c_20210719061301  油伊旅館にも、いろいろ昔のものが残っていました。「松竹 東宝○○」「上映中」「次週上映」という文字が読めます。昔の映画館の看板がかかったのだと思います。

Img_3370c_20210719061601  軒下を見上げると、電線。実家の昔の家でも、こういう風に配線してありました。プラスとマイナスと別々の電線がこのように平行に、碍子を使って走っていたのです。

Img_3386c_20210717171301  この日の伊勢街道歩きは、油伊旅館の東の三叉路まで。伊勢街道は、マップで安倍歯科とあるところで右折して南に向かいます。ゴールに設定した近鉄鈴鹿線鈴鹿市駅に向かいます。と書きましたが、実は、昼食を摂るところを探して、若干ウロウロしました(苦笑)。予め調べて行ったものの、行列ができていたり、店に入ったものの店の方がいなかったり(^_^)。近鉄ハイキングで来たときに入った喫茶店は、営業していませんでした(休業や閉店ではなさそうでしたが)。ウロウロした挙げ句、結局、駅横ファミマで軽食をゲットし、イートイン(神戸見附跡で休憩したときに、おやつをかなり食べたのです……爆)。一応、近鉄鈴鹿市駅には13時15分頃到着。30分の休憩を含め、3時間35分ほどで8.0㎞を歩いてきました。

Img_3383c_20210717171301 Img_3397c_20210717171301  電車は、13時38分発の伊勢若松行きに乗車。伊勢若松に13時42分着。ここで名古屋線の急行に乗り換え。名古屋行き急行は、13時55分。待ち時間がそれなりにありますが、まあ遊びに来ていますから、気になりません。桑名駅には、14時22分に到着。¥500。左の写真は鈴鹿市駅の改札、右は乗り換えた伊勢若松駅のホーム。

Img_3411c_20210717171301  この日の歩数。スマホのALKOOのデータでは、20,145歩。20,000歩越えは久しぶり。よく歩きました。あすなろう追分駅から近鉄鈴鹿市駅までが8.0㎞、自宅から桑名駅往復が2.2㎞。合計10.2㎞を歩いたという次第。暑くなって大丈夫かとちょっと心配しましたが、日頃の修行の成果はあるようです。

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2021年7月19日 (月)

20210717「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第5回「日永の追分~鈴鹿・神戸」(その2)……鈴鹿市に入り、階段付常夜燈や神戸見附跡を訪ねる

210717oiwake3 Img_3146c  7月17日に行ってきた「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」の第5回その2です。その1では、四日市あすなろう鉄道追分駅をスタートし、内部川を渡って、河原田の町を歩きました。光明山常超院の先で、鈴鹿市に入ります。常超院は県道103号線沿い。そのまま県道を進み善誓寺に立ち寄ったあと、伊勢街道に戻ります。鈴鹿市高岡町を進んでいます。高岡城址にある高岡神社と大福田寺にも行こうと思ったものの、かなり長い階段が見えて、断念。関西線沿いの常夜燈、鈴鹿川を高岡橋で渡って階段付常夜灯へというのが、詳細なコースマップその3。

Img_3150c_20210717171201 Img_3154c_20210717171201  鈴鹿に入って最初の立ち寄り先は、善誓寺。臨済宗妙心寺派のお寺。近鉄ハイキングの時にも立ち寄ったのですが、記事では言及していません(2019年4月11日:20190411近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅3日目~東海道、旅人気分で四日市宿から伊勢路へ」(予告編))。平成30(2018)年の台風21号で大きな被害を受けたようで、山門、本堂、鐘楼とも立ち入らないようにという注意書きがありました。由緒のあるお寺と思うのですが、荒れているのはとても残念。ネット検索では詳しい情報は出て来ません。

Img_3162c_20210717171201  善誓寺の先では、JR関西線沿いを歩きます。この北にJR河原田駅があります。この駅で、関西線と伊勢鉄道線が別れ、伊勢街道は2つの路線の間を進んでいます。ちょうど、伊勢鉄道線を名古屋行きの快速みえが走っていきました。伊勢鉄道は河原田から津までの路線。関西線の名古屋方面と紀勢本線の津以南を短絡するため、昭和48(1973)年9月に国鉄伊勢線として開業したのですが、昭和62(1987)年3月から第三セクター「伊勢鉄道」に継承されています。特急「南紀」や快速「みえ」がここを通っています。

Img_3164c_20210718194501  関西線沿いに右手に「大泉源之助翁彰功碑」があります。これについてネットで検索すると、「大泉式稲作法(大泉源之助著、大正8(1919年、神戸町(三重県)」という本が出て来ました(こちら)。この著者の顕彰碑かと思うものの、確証はありません。

Img_3171c_20210718194901 Img_3178  県道103号線をくぐったところに高岡神社の社号標。その西、JR関西線の踏切の手間に、高岡神社の一の鳥居。大福田寺(臨済宗東福寺派)、高岡神社に立ち寄ろうと思ったものの、河原田神社と同じく、かなり階段を登っていかないといけないことが判明。断念しました(苦笑)。ここは、高岡城址。高岡城は神戸城の北の支城として築かれた城で、神戸城主・神戸友盛の家老、山路弾正種常が城主をつとめ、永禄10(1567)年と翌年の2度にわたって北伊勢に侵攻してきた織田信長の軍勢に攻められたものの、落城しませんでした。その後、三男・織田信孝の養子を条件に両者は和睦しました。その後、謀反の企てなどがあったのですが、失敗に終わり、信孝の異母兄弟にあたる小島兵部が城主となっています。本能寺の変後に、信孝が岐阜城主になると兵部は神戸城へ移り、廃城となり、現在は、城址の一部が「高岡城跡公園」として整備されており、わずかに土塁や空掘が残っているといいます。

Img_3181c_20210718195301  その先、JR関西線沿いに常夜燈が見えます。これは、寛政11(1799)年に建立されたもの。このあと渡る高岡橋の北詰にあったもののようで、江戸から寄進されたと伝わっています。

Img_3192c_20210717171201 Img_3199c_20210718195501  高岡橋で鈴鹿川を渡ります。江戸時代には、この高岡橋あたりは、嘉永6(1853)年に無銭渡しの木橋がかけられるまでは、橋はなく、大変不便であったといいます。橋は、現在の高岡橋よりも少し西(上流側)にあったようです。ほとんど余談ですが、高岡神社の一の鳥居当たりから、この高岡橋を渡ったところまでは、ウグイスがたくさんいて、あちこちで鳴いていました。右の写真は、高岡橋の下流側。

Img_3213c_20210717171201 Img_3202c_20210717171201  高岡橋を渡って、スタートから5.5㎞ほどのところに常夜燈。この常夜燈には、点火用の階段がついています。「太神宮常夜燈」「国土安穏」などと刻まれています。文化4(1807)年の建立。点火用の階段がついた常夜燈は、ここでしか見た記憶がありません。階段部分は傷んでしまったようで、平成11(1999)年に修復されています。「平成十一年十月吉日修復 大泉源之」とありました。平成の世の中になっても、こういうものを修復してくださる奇特な方がいたんだと感激しました。

Img_1390c  これを書いていて、思いついたのですが、先の顕彰碑は「大泉源之助」さんのもの。同じ名字ということは、修復した「大泉源之」さんは、「大泉源之助」の子孫なのでしょうか?(勝手な推測で、たまたま同じ名字の他人かも知れません)。この写真は、平成31(2019)年4月11日の撮影。

Img_3219c_20210717171201 Img_3231c_20210717171301  常夜燈のところから下って、高岡の町に入っていきます。「みえの歴史街道」の伊勢街道のマップの説明には、このあたりは「古代条里制の面影が残り、一直線に進んでいる」という説明があります。条里制とは、7~8世紀頃、全国的に平野部を区画した地割のこと。幅六町(約654メートル)の直交する条と里(り)によって、大区画を作り、これで囲まれた正方形の各辺を六等分した幅一町の線で面積を36等分します。この一辺一町の小区画が面積一町で、これをさらに長地形、半折形に10等分して一段になります。

210717oiwake4  詳細なコースマップはその4。十宮に入ると常夜燈があり、7㎞を過ぎたところには、神戸見附跡。その東に阿自賀神社社号標、すぐのところに旅館加美亭があります。

Img_3237c  スタートから6.6㎞、十宮(とみや)に入ったところに常夜燈。文化14(1817)年に建立されたもの。大正9(1920)年に再建されています。十宮村三軒屋の入り口にあります。ここで、同行のK氏が、「常夜燈の内側はどうなっているんだろう?」といいます。確かに、疑問。この記事を書くに当たって、ネットでいろいろと調べて見たら、台座のところは、外側は石が並べられていますが、もともとは砂が詰められているようでした(たとえば、常夜燈の据付直し工事 | 山本石材の近状報告ブログ)。現代、修理するときは、台座の内部はコンクリートで埋め、石の継ぎ目はボンドで貼り付け、目地はモルタル仕上げになるようです。

Img_3242c_20210717171301 Img_3245c_20210718202101  神戸(かんべ)見附跡。伊勢街道の両側に土塁と石垣を築いたものが残っています。ここが神戸宿の入り口。町の治安を守るために番人がいて、夜間遅くには木戸を閉じて通行を禁じたといわれています。

F5d81910 Img_3254c  明治2(1869)年の絵図にこの見付の様子が描かれています。絵図では、上が神戸の町。石垣が両側にあり、両開きの木戸が描かれています。街道の両側の石垣には木戸の柵を支えた溝が今も残っています(右の写真)。

Img_3269c_20210718204301  東側の土塁・石垣の傍らには、阿自賀神社社号標があります。「式内阿自賀神社 距此凡三町」とありました。明治2(1869)年建立。阿自賀(あじか)神社は、鈴鹿市須賀一丁目に現在もあります。距離がありましたので、行ってはいませんが、主祭神は品陀和気命、創建は建暦2(1212)年3月以前と考えられています。

Img_3273c_20210717171301  神戸見附跡で12時15分。ここまで休憩を取ってきませんでしたので、小休止。見附跡の西側は小公園になっていて、桜並木があり、ちょうど日陰になっていて、座れます。見附跡の西側の土塁が目の前にあり、またもやK氏から「土塁はどうやって作ってあるんだろう?」と。土塁は、もちろん「土を盛り上げて築いたとりで」。敵などの侵入を防ぐために築かれた、主に盛土による堤防状の防壁です。「城のつくり方図典(三浦正幸著)」によれば、平地に土塁を築く場合には、当然、よそから土を運んでこなければなりません。この神戸見附跡の場合、どのようにしたかは分かりませんが、城に土塁を作る場合、ほとんどの場合、土塁の横に堀を掘りますから、堀を掘った拝土を盛ったそうです。土塁の法面を保護するためには、草を植えるか、叩き固めるかの2つの方法があります。臨戦態勢では、叩きの方が堅固ですが、ひと雨降るごとに修復が必要になるので、やむを得ず草を植えたといいます。叩き土塁を築くには、厚さ数センチずつ層状に土砂を盛り上げ、各層ごとに叩き固める「版築(はんちく)」という工法が用いられました。この工法でつくって、乾燥すると大変強固な地盤となるそうです。土塁に植えられた草は、芝・小笹・麦門冬(ばくもんどう:ジャノヒゲまたはリュウノヒゲ)などが多かったといいます。余談が過ぎましたが、ここで30分ほど休憩。風がよく通って、暑かったものの、気持ちよいところでした。

Img_3279c_20210717171301  神戸見附跡のすぐ先、西側に、旅館加美(かみ)亭。創業250年以上のようです。主屋は明治13年に建てられたものですが、内部は、その後何度も改装されたそうです。今も営業しており、1泊4,000円。神戸は、十日市町(現神戸2丁目)が中心で、本陣や問屋もそこに集中していました。幕末には旅籠は19軒あり、常磐町(現神戸8丁目)に14軒もあったといいます。賀美亭は、当時は「紙屋」という屋号だったといいます。こちらに実際に泊まった方のブログ記事があります。

 ゴールは近いのですが、キリも良いので、その2はここまで。その3では神戸の町を歩きます。

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2021年7月18日 (日)

20210717「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第5回「日永の追分~鈴鹿・神戸」(その1)……四日市あすなろう鉄道追分駅をスタートし、内部川を越え、河原田へ

Isemap  7月17日に行ってきた「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」の第5回です。前回が5月22日でしたから、2ヶ月ぶり(2021年5月22日:20210522「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第4回「四日市~日永の追分」(予告編))。サボっていたわけではなく、諸般の事情があったということです。5月22日には、四日市にある日永の追分まで来ています。この日永の追分は、東海道伊勢街道(参宮街道)の分岐点です。この日からは、伊勢街道を歩いていきます。距離は、およそ18里(約70km)で、脇街道として整備されています。江戸時代、多くの人が伊勢参りに来ています。時には500万人もの人々が熱狂的に伊勢を目指したのが、この伊勢街道。東海道に次いで交通量が多く、物資や文化、情報の行き交う賑やかな街道であったといいます。また東海道、伊勢別街道伊賀街道和歌山街道初瀬(はせ)街道など多くの街道と合流するこの街道は、伊勢国の幹線道路として、旅人だけでなく地元の人々にも利用されていました。マップは、みえの歴史街道からお借りしました

210717oiwake0  四日市あすなろう鉄道追分駅をスタートし、近鉄鈴鹿線鈴鹿市駅まで。東海地方は、この日がやっと梅雨明け。桑名では最高気温は31.6℃でしたが、風が吹いていて「猛暑」という感じではありませんでした。今日は、いつものように「予告編」。同級生K氏との二人旅の続きです。左の画像が、この日歩いたコースの全体マップ。追分駅から旧伊勢街道である県道13号線を南下します。日永の追分の少し南からです。この日は、立ち寄るところは少なめ。とくに、内部川を越えて、河原田の町に入るまではほとんどありません。河原田の町で、又兵衛橋、里程標、河原田神社、忘帰處、常超院。その先で鈴鹿市に入り、善誓寺、鈴鹿川を渡って、階段付常夜燈、常夜燈、神戸見附跡。ここから神戸(かんべ)の町に入り、旅館加美亭、大橋、札の辻、里程標、道路元標、油伊旅館を経て、近鉄鈴鹿線鈴鹿市駅へゴール。8㎞となりました。ひたすら歩くという感じでしたが、あまりあちこち立ち寄らなかったせいか、さほど疲れたという感じはありません。

Img_2895c_20210717171001 Img_2898c_20210718164401  桑名駅を8時42分に出る五十鈴川行き急行に乗車。近鉄四日市駅で下車(8時55分着、¥300)。四日市あすなろう鉄道に乗り換えます。これらの写真は、あすなろう四日市駅。鉄道キャラクターの「鉄道むすめ『追分あすな』」ちゃんがいます(右の写真)。今年の3月にデビューしたとか。

Img_2902c_20210717171101Img_2906c  あすなろう四日市駅9時23分発の内部線の電車で追分駅まで行きます。左は、四日市あすなろう鉄道の電車。ここも、三岐鉄道北勢線と同じく、ナローゲージ。スピードもゆっくりで、いかにも電車に揺られているという感覚がたっぷり。

Img_2920c_20210717171101  今日のスタートである四日市あすなろう鉄道追分駅。追分駅には、9時35分着、¥270。9時40分にスタートします。

210717oiwake1  こちらが詳細なコースマップのその1。追分駅は、日永の追分のすぐ南西にあります。旧伊勢街道は、今は県道13号線。追分3丁目の交差点から県道13号線に入り、しばらくは、立ち寄るところはありません。工場地帯をひたすら南に歩いて行きます。

Img_2923c_20210717171101 Img_2926c  ここが追分3丁目の交差点。左は、日永の追分の方向を見たもの。残念ながら、道が少し曲がっていて、日永の追分は見えません。右の写真は、これから進む県道13号線の南の方面。時々、道ばたの水路を覗き込んで、魚や水生昆虫がいないか見るのですが、なかなか見つからず。

210717oiwake2  早くも詳細なコースマップその2。本来の伊勢街道は、このマップで大宗建設のところから萩野メタルワークスのある方向に進みます。しかし、今は、旧道に橋はなく、川原田橋を渡りますので、そのまま県道を直進。また、この本来の伊勢街道を行くと、大治田3丁目一里山に表忠碑と平和之礎があったのですが、県道からはそれは見えません。内部川を越えて、又兵衛橋、河原田小学校の北で里程標、小学校のところで孝女森田いと刀自像。河原田小学校の南西隅には、伊勢街道最初の一里塚があったそうですが、今は何もありません。その先で、河原田神社と忘帰處、また、常超院に立ち寄ります。

Img_2948c Img_2958c_20210718171901  河原田橋。内部川にかかっています。本来の伊勢街道のルートは、もう少し上流側。木橋がかかっていたそうです。右の写真で、小さい橋(NTTの電話ケーブルが通っています)のあたり。

Img_2971c_20210717171101 Img_2974c_20210717171101  河原田橋をわたってすぐに右折。堤防道路から降りて河原田の町に入っていきます。右が又兵衛橋。内部川のすぐ南側にある谷川を跨ぐ幅5.8m,長さ6.8mの小さな橋です。名前の由来は、橋の改修に尽力された石崎又兵衛という方からきています。昭和13(1938)年に鉄筋コンクリートで造られ、当時としては、数少ない石橋で河原田自慢の橋であったそうです(こちら)。

Img_2981c_20210717171101  又兵衛橋の先の伊勢街道。たぶん昔と同じくらいの道幅。いかにも旧街道というイメージです。伊勢までまだ約68㎞。先は長いのですが、ユルユルと参りましょう(微笑)。

Img_2999c Img_2989c  スタートから2.4㎞ほど、河原田の郵便局の近くに里程標があります。ここは、采女道(うねめみち)との交差点。「距 名古屋市 十五里十一町 守山町 十七里十五町」、「距 宇治山田市 十七里四町 久居町 八里三十二町」、「距 津市 六里三十二町 海蔵村 二里八町」と刻まれています。中央あたりで割れたのか、継いだ跡があります。これを観ていたら、散歩していた地元の高齢者の方が声をかけてこられました。「伊勢街道を歩いているの? この里程標は、20年の地震で折れてつないだんや」とおっしゃいました。20年の地震というのは、三河地震(昭和20(1945)年1月13日)かと思って尋ねたのですが、耳が遠いようで、返事はいただけませんでした。

Img_3014c_20210717171101 Img_3021c_20210718183801  その南に河原田小学校。伊勢街道に沿ったフェンスに子どもたちが書いたと思われる校歌や、街道沿いの名所の絵があります。右の写真は、先ほど渡ってきた又兵衛橋が描かれたもの。

Img_3003c Img_3010c_20210718183901  小学校には付きものだったのですが、二宮金次郎像。一時は気になって、桑名市内だけでも小学校を回ってチェックしようと思ったことがありました(苦笑)。さらにその近くに「孝女森田いと刀自像」。森田いとという方については調べても分かりませんでした。孝女(こうじょ)は、孝行な娘。刀自(とじ)は、「家事をつかさどる婦人。主婦。いえとうじ、あるいは、女性を尊敬または親愛の気持をこめて呼ぶ称」です。孝女を顕彰する石碑は、たまに見かけます。たとえば、津市の偕楽公園には「孝女登瀬碑」が、また、弥富の三ツ又池公園近くには、「孝女曽與(そよ)宅址」があります。

Img_3026c_20210718184801  この河原田小学校の南西隅には、かつて伊勢街道最初の一里塚があったといいます。この写真は、東側の塚があったと思われる場所です。慶長9(1604)年につくられ、街道の西側には松が、東側には榎が植っていたようですが、明治2(1869)年に樹木が切られ、今はありません。

Img_3031c Img_3047c_20210717171101  河原田小学校のすぐ南、スタートから2.6㎞あたりのところの西に河原田神社があります。明治42(1909)年6月、八幡社(河原田村大字内堀中屋敷)と須賀社(河原田村大字貝塚字一ノ縄)を三神社(河原田村大字河原田字三神山)へ合祀し、村社河原田神社と改名しました。平成10(1998)年12月火災により本殿、拝殿、社務所を全焼し、平成12(2000)年に再建されています。神社は小高い丘の上にあり、約100段ほどの階段を登っていかねばなりません。

Img_3059c_20210717171101  ご祭神は、天照大神大国主神弥都波能売神(ミツハノメノカミ;伊奘冉尊が火神を生んで病んだとき、その尿より生まれ、水の神としてまつられます)、猿田毘古神宇迦之御魂神建速須佐之男命五男三女神天児屋根命品陀和気命上筒之男命中筒之男命底筒之男命仁徳天皇木花之開耶姫命市杵島比売命の他、神社検索三重のサイトによれば、不詳八座とあります。

Img_3063c_20210718190201  拝殿の北には、頌徳碑が2つ。向かって左は、「熊沢市兵衛翁頌徳碑」です。熊澤家は農家で河原田の旧家で地主で、代々津藩・藤堂家の御金御用達の役を務めていました。熊澤市兵衛は幕末に庄屋などを務めており、戊辰戦争で『撒隊士』という身分で東征にしたがい、明治になって四日市に帰郷しました。明治時代に若くして三重県議会議員になり、河原田村の村長などの名誉職にも就いています。熊澤市兵衛は、農村出身の農民の家柄でしたが、勉学の必要性に気づき学問を重視していました。明治42(1909)年には河原田尋常高等小学校の建築費の一部を寄付しています。大正時代、皇太子であった裕仁親王の成婚時には、河原田尋常高等小学校の講堂を新築する費用の寄付と、入学志願者が少なくて不振だった三重郡立農学校(現・三重県立四日市農芸高等学校)に対しても、長男の熊澤一衛と協力して3万円と広い敷地を寄付しました。さらに、『熊沢奨学資金』を新設して、貧困家庭の子供たちの学業の補助をしています。また、河原田地区の西部丘陵地帯には、明治後半に熊沢市兵衛翁がみかん栽培を伝え、今も「河原田みかん」として親しまれています。 境内には、他に「神武天皇遙拝所」もあります。

Img_3091c Img_3078c_20210717171201  神社の西、さらに少し登ったところに忘帰處(ぼうきしょ)があります。河原田神社のある三神山頂上にあります。ここから見る眺めは河原田随一の景勝地だそうで、田中光顕伯爵が熊沢市兵衛翁宅を訪れた際に、この地の風景の美しさに見とれて帰ることを忘れたということから「忘帰處」と名づけられています。標高41mあまりの山上に建てられている記念碑は、伯爵自らの筆によるもので、昭和8(1933)年10月、88歳になった熊沢市兵衛翁が建てています。山上からの眺めは一望千里に渡り、晴れた日には、知多半島から木曾御岳の山並みも望み見ることができる絶好の名勝地です。

Img_3074c_20210718190701  上左の写真が、「忘帰處」から見た東の方角。樹木がかなり茂っていて視界を妨げていました。木々がこれほど茂っていなければ、景色がよく見えると思います。見とれて帰るのを忘れるという気持ちは何となく分かります。我々は、ちょっと腰を下ろしてお茶を飲んだだけ。「帰るのを忘れないうちに、行こう」と降りていったのです(苦笑)。河原田神社、忘帰處の詳細は、こちらにあります。

Img_3118c_20210717171201  河原田神社から降りて来て、二の鳥居をくぐったところで、神社の前にある水路にアオサギさんを発見。何気なく佇んでいました。草が生い茂っていますが、餌の魚が捕れるのでしょうか?

Img_3112c_20210719065201  河原田神社に登っていく階段の下にも「森田いと女遺徳碑」があります。よほどその徳がすぐれていた刀のでしょう。ただ、木々や草が生い茂っていて、碑陰を確認できませんでした。どのような方か知りたかったのに、残念。

Img_3132c_20210717171201 Img_3136c_20210717171201  続いて、伊勢街道から少し外れ、光明山常超院に立ち寄りました。県道13号線に面しています。昇平3(応安元(1368))年に僧湛空の創建により、天台宗でしたが、寛永元(1624)年に真宗高田派に属しています。鐘楼門が大変立派なものでした。平成10(1998)年につくられたものと記憶しています。「鐘楼門といいながら、上がれないな。どうやって鐘をつくんだ?」などと思っていたら、門の内側に鐘をつくためのロープ(?)が下がっていました(苦笑)。伊勢街道には戻らず、そのまま県道13号線を進みます。

 その1は、ここまで。その2では、いよいよ鈴鹿市に入ります。

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2021年7月17日 (土)

20210717「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第5回「日永の追分~鈴鹿・神戸」(予告編)

Img_2902c_20210717171101  東海地方は、今日になってやっと梅雨明けが宣言されました。梅雨期の日数が62日と昭和26(1951)年の統計開始以降最長だったそうです。梅雨明けは、平年より2日、昨年より15日それぞれ早かったのですが、今年は梅雨入りが5月16日と平年より21日も早かったので、最長ということになったようです。梅雨明けを記念して、ということではありませんが、5月22日以来の「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」に行ってきました(2021年5月22日:20210522「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第4回「四日市~日永の追分」(予告編))。今日は第5回。「日永の追分~鈴鹿・神戸」ということで、四日市あすなろう鉄道追分駅をスタートし、近鉄鈴鹿線鈴鹿市駅まで。桑名では最高気温は31.6℃でしたが、風が吹いていて「猛暑」という感じではありませんでした。今日は、いつものように「予告編」。同級生K氏との二人旅の続きです。

210717oiwake0  こちらが今日歩いてきたコースの全体図。四日市市追分から、鈴鹿に入り神戸(かんべ)まで、実際に歩いたのは、8㎞+α。追分駅からほぼひたすら南に歩くというコース。今日からは、伊勢街道(参宮街道)になります。今日は、立ち寄りポイントはあまりなく、ひたすら歩くという感じでした。しかし、あちこち立ち寄らなかったせいか、コースマップ上の距離は、これまでで最も長かったものの、さほど疲れたという感じはありません。

Img_2895c_20210717171001 Img_2920c_20210717171101  桑名駅を8時42分に出る五十鈴川行き急行に乗車。近鉄四日市駅で下車し〈8時55分着、¥300)、四日市あすなろう鉄道に乗り換え。あすなろう四日市駅9時23分の内部線の電車で追分駅まで行きます。追分駅には、9時35分着、¥270。左は、四日市あすなろう鉄道あすなろう四日市駅、右は、今日のスタートである四日市あすなろう鉄道追分駅。9時40分にスタート。

Img_2923c_20210717171101 Img_2926c  追分三丁目の交差点から伊勢街道(県道13号線)に入ります。左の写真で向かって左から来て、手前に曲がりました。写真奥の方が、日永の追分。追分が見えないかと思ったのですが、道がカーブしていますので、残念ながら追分にある伊勢二の鳥居などは見えず。ここからしばらくは、立ち寄るところもありません。故にひたすら工場地帯の間を歩いて行くことになります。道沿いにある流れを時々眺めて、魚などが泳いでいないかを確かめるくらい。

Img_2948c Img_2971c_20210717171101  スタートから2㎞地点で内部川を渡ります。旧伊勢街道では、木橋がかかっていたのですが、今はありません。そのため、県道13号線にかかる河原田橋を渡ります。内部川を渡ると、河原田の町に入っていきます。

Img_2974c_20210717171101  河原田に入ってすぐに又兵衛橋。内部川のすぐ南側にある谷川を跨ぐ幅5.8m,長さ6.8mの小さな橋です。名前の由来は、橋の改修に尽力された石崎又兵衛という方からきています。昭和13(1938)年に鉄筋コンクリートで造られ、当時としては、数少ない石橋で河原田自慢の橋であったそうです(こちら)。

Img_2981c_20210717171101  又兵衛橋をわたったところから眺めた伊勢街道。県道13号線は、道幅も広く、交通量も多いので、昔の街道というイメージはほとんど感じられませんでしたが、このあたりからはいかにも旧街道という感じになります。

Img_2989c Img_2999c  スタートから2.4㎞ほど、河原田の郵便局の近くに里程標があります。ここは、采女道との交差点。「距 名古屋市 十五里十一町 守山町 十七里十五町」、「距 宇治山田市 十七里四町 久居町 八里三十二町」、「距 津市 六里三十二町 海蔵村 二里八町」と刻まれています。中央あたりで割れたのか、継いだ跡があります。これを観ていたら、散歩していた地元の高齢者の方が声をかけてこられました。「伊勢街道を歩いているの? この里程標は、20年の地震で折れてつないだんや」とおっしゃいました。20年の地震というのは、三河地震(昭和20(1945)年1月13日)かと思って尋ねたのですが、耳が遠いようで、返事はいただけませんでした。

Img_3014c_20210717171101 Img_3018c_20210717171101  その先に河原田小学校。敷地を囲うフェンスに「河原田小学校校歌」の他、伊勢街道や、近くの名所旧跡を示す絵が掲げられていました。たぶん子どもたちの手書き。こういうのは微笑ましくていい感じ。街道沿いの敷地内には、二宮金次郎像や、「孝女森田いく刀自像」がありました。また、河原田小学校の敷地南西隅には、伊勢街道最初の一里塚があり、西側には松、東側にはエノキが植わっていたそうですが、今は何もありません。

Img_3031c Img_3059c_20210717171101  河原田小学校のすぐ南、2.6㎞あたりのところの西に河原田神社があります。明治42(1909)年6月、八幡社(河原田村大字内堀中屋敷)と須賀社(河原田村大字貝塚字一ノ縄)を三神社(河原田村大字河原田字三神山)へ合祀し、村社河原田神社と改名しました。平成10(1998)年12月火災により本殿、拝殿、社務所を全焼し、平成12(2000)年に再建されています。ご祭神は、天照大神大国主神弥都波能売神(ミツハノメノカミ;伊奘冉尊が火神を生んで病んだとき、その尿より生まれ、水の神としてまつられます)、猿田毘古神宇迦之御魂神建速須佐之男命五男三女神天児屋根命品陀和気命上筒之男命中筒之男命底筒之男命仁徳天皇木花之開耶姫命市杵島比売命の他、神社検索三重のサイトによれば、不詳八座とあります。

Img_3078c_20210717171201 Img_3091c  河原田神社の西の、さらに高いところには忘帰處(ぼうきしょ)があります。ここは河原田随一の景勝地だそうで、田中光顕伯爵が熊沢市兵衛翁宅を訪れた際に、この地の風景の美しさに見とれて帰ることを忘れたということからと名づけられています。標高41mあまりの山上に建てられている記念碑は、伯爵自らの筆によるもので、昭和8(1933)年10月、88歳になった熊沢市兵衛翁が建てています。山上からの眺めは一望千里に渡り、晴れた日には、知多半島から木曾御岳の山並みも望み見ることができる絶好の名勝地とされます。ただ、今は、左の写真のように、木が生い茂ってしまい、眺めが少し妨げられています。ここは、2019年4月11日に近鉄ハイキングの「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り」で尋ねています(というか、そもそもこの伊勢詣りハイキングが、近鉄ハイキングのこの企画を再現しています(20190411近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅3日目~東海道、旅人気分で四日市宿から伊勢路へ」(予告編))。

Img_3132c_20210717171201 Img_3136c_20210717171201  河原田神社、忘帰處から伊勢街道に戻り、続いて光明山常超院に立ち寄りました。伊勢街道からは外れて、県道13号線に面しています。昇平3(応安元(1368))年に僧湛空の創建により、天台宗でしたが、寛永元(1624)年に真宗高田派に属しています。鐘楼門が大変立派なものでした。記憶では、平成10(1998)年につくられています。「鐘楼門といいながら、上がれないな。どうやって鐘をつくんだ?」などと思っていたら、門の内側に鐘をつくためのロープ(?)が下がっていました(苦笑)。伊勢街道には戻らず、そのまま県道13号線を進みます。

Img_3146c  スタートから4㎞の手前で鈴鹿市に入りました。思えば、桑名を出発したのが、4月9日でした(20210409「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」……第1回「七里の渡し跡~朝日」その1……七里の渡し跡から七曲見附跡)。朝日町、四日市市を経てここまで来られました。

Img_3150c_20210717171201 Img_3154c_20210717171201  鈴鹿に入って最初の立ち寄り先は、善誓寺。臨済宗妙心寺派のお寺。近鉄ハイキングの時にも立ち寄ったのですが、記事では言及していません。平成30(2018)年の台風21号で大きな被害を受けたようで、山門、本堂、鐘楼とも立ち入らないようにという注意書きがありました。ネット検索では詳しい情報は出て来ません。

Img_3178  善誓寺の先、県道103号線をくぐったところで大福田寺(臨済宗東福寺派)、高岡神社に立ち寄ろうと思ったものの、河原田神社と同じく、かなり階段を登っていかないといけないことが判明。断念しました(苦笑)。ここは、高岡城址。高岡城は神戸城の北の支城として築かれた城で、神戸城主・神戸友盛の家老、山路弾正種常が城主をつとめ、永禄10(1567)年と翌年の2度にわたって北伊勢に侵攻してきた織田信長の軍勢に攻められたものの、落城しませんでした。その後、三男・織田信孝の養子を条件に両者は和睦しました。その後、謀反の企てなどがあったのですが、失敗に終わり、信孝の異母兄弟にあたる小島兵部が城主となっています。本能寺の変後に、信孝が岐阜城主になると兵部は神戸城へ移り、廃城となり、現在は、城址の一部が「高岡城跡公園」として整備されており、わずかに土塁や空掘が残っているといいます。

Img_3192c_20210717171201  高岡橋で鈴鹿川を渡ります。江戸時代には、この高岡橋あたりは、嘉永6(1853)年に無銭渡しの木橋がかけられるまでは、橋はなく、大変不便であったといいます。橋は、現在の高岡橋よりも少し西(上流側)にあったようです。ほとんど余談ですが、高岡神社の一の鳥居当たりから、この高岡橋を渡ったところまでは、ウグイスがたくさんいて、あちこちで鳴いていました。

Img_3213c_20210717171201 Img_3202c_20210717171201  高岡橋を渡って、スタートから5.5㎞ほどのところに常夜燈。この常夜燈には、点火用の階段がついています。「太神宮常夜燈」「国土安穏」などと刻まれています。文化4(1807)年の建立。点火用の階段がついた常夜燈は、ここでしか見た記憶がありません。階段部分は傷んでしまったようで、平成11(1999)年に修復されています。「平成十一年十月吉日修復 大泉源之」とありました。平成の世の中になっても、こういうものを修復してくださる奇特な方がいたんだと感激しました。

Img_3231c_20210717171301 Img_3219c_20210717171201  常夜燈のところから下って、高岡の町に入っていきます。「みえの歴史街道」の伊勢街道のマップの説明には、このあたりは「古代条里制の面影が残り、一直線に進んでいる」という説明があります。

Img_3237c  スタートから6.6㎞、十宮(とみや)に入ったところに常夜燈。文化14(1817)年に建立されたもの。大正9(1920)年に再建されています。十宮村三軒屋の入り口にあります。

Img_3242c_20210717171301 Img_3254c  7.1㎞を過ぎたところ、常楽寺の東に神戸見附跡があります。伊勢街道神戸宿の入り口にあたり、両側に土塁と石垣を築いたものです。町の治安を守るために番人がいて、夜間遅くには木戸を閉じて通行を禁じたといわれています。明治2(1869)年の絵図にこの見付の様子が描かれています。街道の両側の石垣には木戸の柵を支えた溝が今も残っています(右の写真)。この溝、近鉄ハイキングで来たときには見つけられませんでした(苦笑)。

Img_3273c_20210717171301  ここ、神戸見附跡の西側は、小公園として整備されています。ゴールまで1㎞もありませんでしたが、今まで休憩を取っていませんでしたので、ここで小休止。12時15分から30分ほど。桜の木がたくさん植えられており、春には花見ができそうです。風がよく通って、暑かったものの、気持ちよいところでした。

Img_3279c_20210717171301  神戸見附跡のすぐ先、西側に、旅館加美(かみ)亭。今も営業しており、1泊4,000円。神戸は、十日市町(現神戸2丁目)が中心で、本陣や問屋もそこに集中していました。幕末には旅籠は19軒あり、常磐町(現神戸8丁目)に14軒もあったといいます。賀美亭は、当時は「紙屋」という屋号だったといいます。こちらに実際に泊まった方のブログ記事があります。

Img_3303c_20210717171301 Img_3307c  7.5㎞地点で近鉄鈴鹿線を越えます。その先に大橋。神戸小学校の手前、六郷川という小さい川を渡る橋です。このあたりは、かつては神戸藩士の水練場であったといいます。今では、こんなところで泳げたのか、という気がするくらいです。しかし、これは現代のわれわれの感想に過ぎません。ここはまた、蛍の名所でもあったそうです。

Img_3325c_20210717171301 Img_3334c_20210717171301  大橋から200m、札の辻が見えてきます。江戸時代には、高札場があったところ。油伊(あぶい)旅館がありますが、その手前に里程標と道路元標があります。里程標には、「大正三年拾壱月 三重縣」、「日永村へ 壱里貳拾町拾六間  白子町へ 壱里貳拾貳町四拾四間  神戸町」、「距 津市元標五里参拾四町拾七間」、「距 三重縣桑名郡長島村大字押付管轄境七里参拾壱町五拾間」とあります。また、里程標の手前にあるのが、「神戸町道路元標」で、大正3(1914)年の建立。

Img_3354c_20210717185801  油伊旅館も営業しています。築150年。素泊まりは¥4,000~だそうです。3年前に内装と水回りのリフォームを終えているといいます。先ほどの加美亭といい、この油伊旅館といい、こういうところに一度は泊まってみたいものです。

Img_3386c_20210717171301  油伊旅館の先で、今日の伊勢街道歩きは区切り。ゴールに設定した近鉄鈴鹿線鈴鹿市駅に向かいます。と書きましたが、昼食を摂るところを探して、若干ウロウロしました(苦笑)。予め調べて行ったものの、行列ができていたり、店に入ったものの店の方がいなかったり(^_^)。近鉄ハイキングで来たときに入った喫茶店は、営業していませんでした(休業や閉店ではなさそうでしたが)。ウロウロした結果、駅横ファミマで軽食をゲットし、イートイン(神戸見附跡で休憩したときに、おやつをかなり食べたのです……爆)。

Img_3383c_20210717171301 Img_3397c_20210717171301  鈴鹿市駅あたりには13時15分頃に着いたのですが、このようにウロウロした結果、結局、電車は、13時38分発の伊勢若松行きに乗車。伊勢若松に13時42分着。ここで名古屋線の急行に乗り換え。名古屋行き急行は、13時55分。待ち時間がそれなりにありますが、まあ遊びに来ていますから、気になりません。桑名駅には、14時22分に到着。¥500。

Img_3411c_20210717171301  今日の歩数。スマホのALKOOのデータでは、20,145歩。20,000歩越えは久しぶり。よく歩きました。あすなろう追分駅から近鉄鈴鹿市駅までが8㎞、自宅から桑名駅往復が2.2㎞。合計10.2㎞を歩いたという次第。暑くなって大丈夫かとちょっと心配しましたが、日頃の修行の成果はあるようです。以上、予告編でした。明日以降、本編を書きます。

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2021年5月25日 (火)

20210522「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第4回「四日市~日永の追分」(その3)……日永小学校の表忠碑・稲垣末吉翁頌徳碑、実蓮寺、西昌寺、日永一里塚跡碑から名残の一本松、東海道日永郷土資料館を経て日永の追分へ(完)

210522yokkaichi1 210522yokkaichi1  5月22日の「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第4回「四日市~日永の追分」の本編その3です。その2では、コースマップ#2の途中でしたが、日永神社とそのとなりにある長命山薬師堂まででした。#2の残りの日永小学校にある表忠碑・稲垣末吉翁頌徳碑、実蓮寺、西昌寺、日永一里塚跡碑を回り、続いて、コースマップ#3に入り、名残の一本松を見て、東海道日永郷土資料館から日永の追分まで。日永の追分は、東海道と伊勢街道(参宮街道)の追分。次回からは、伊勢街道を歩きます。

Img_9180c_20210522165201  長命山薬師堂からすぐというか、日永神社のすぐ南に日永小学校があります。小学校の敷地内に「表忠碑」と「稲垣末吉翁頌徳碑」とがあります。表忠碑は、戦没者の遺徳をたたえ、永遠に顕彰するため、明治42(1909)年8月に、日永村在郷軍人の方々が発起人となって、日永村が建立しています。揮毫者は、元帥公爵の大山巌(天保13(1842)~大正5(1916)年、明治期に活躍した陸軍軍人)。稲垣末吉は、日永の追分まで自費で配管を敷設して、水を旅人達に供した方です。稲垣は、明治時代、東京で製錨工場を創設。後に製鋼工場となり、巨万の富を築きました。地元に戻り、地域社会のために、社会福祉、寺社建立、学校建設にも尽力し、さまざまな寄付をするなど貢献された方です。日永小学校の前身である日永尋常小学校の講堂も、明治42(1909)年に稲垣の寄附でできているそうです。

Img_9210c_20210522165201 Img_9216c_20210522165201  日永小学校の東に普光山証明院実蓮寺(ふこうざん しょうめいいん じつれんじ)があります。ここは初めて来たのですが、滝川一益に関わりがあって、前から一度訪ねたかったところです。浄土宗のお寺。開山の由来は不明ですが、昔は、登城山にあったものが、承久2(1220)年、現地に移転したといいます。当時、尼御所(内親王や摂関家の女子が出家し、一寺の住持となった際の、その寺、またはその尼の敬称)と称されていて、寺領は日永地内に37ヶ所あり、6,000石を領していました。大永2(1522)年に伏見宮皇女今日姫が入寺したといいます。その後、寺は一時荒廃したものの、滝川一益が北勢5郡の領主に任じられたとき、一益は、寺領20石を与えて菩提寺とし、母の位牌と墓碑を安置しています。慶長年間(1596~1625年)にも、宮家の尼公が住しており、世間では尼御所といわれていたのですが、その後、寺領を失い、寺は衰退しています。大正11(1922)年、宮内省は今日姫の事跡を調査し、皇室御内緒寺院となっています。

Img_9224c_20210522165201  滝川一益の母の墓碑は、よく調べていかなかったのですが、こちらのサイトによれば、右の写真で中央にある大きなものがそれのようです。お寺は無住のように思ったのですが、実蓮寺のインスタによれば、ご住職は倒れてリハビリ中で、息子さんが世話をしておられるようです。

Img_9232c_20210522165201  実蓮寺を出て東海道に戻ったところに雲祥山西唱寺(うんしょうざん さいしょうじ)。真宗高田派。永禄2(1559)年、僧・玄聖(げんしょう)の開創で、もとは安立院という浄土宗のお寺でした。江戸時代初期、誓宅が住持の時に、專修寺第14世尭秀(ぎょうしゅう)上人に帰依して真宗高田派となり、上人から本尊を賜っています。寛文元(1661)年には西唱寺と改められました。正徳2(1712)年、中川十兵衛尉が、聖徳太子の木造を奉じて当山に立ち寄り、伝法法師に願ってここに留まり、享保2(1717)年、ここで没しています。

Img_9239c_20210522165201 Img_9248c  西昌寺には、寺宝がたくさんあったそうですが、昭和20(1945)年6月18日の四日市空襲によって本堂や庫裏、太子堂、書院などが全焼してしまい、寺宝、古文書等は一切灰燼に帰してしまいました。戦後、昭和21(1946)年から35(1960)年にかけて順次、庫裏、梵鐘、本堂、書院が再建されて今日に至っています。境内には、安政6(1859)年、近隣の有志で登城山(白鬚神社の北)から竹管で水道を引いた「水道記念碑」があります(右の写真)。現在、その水源は公園になり、碑はそこから移されたそうです(ホントに歩く東海道 四日市~石薬師による)。この記念碑、ようやく見られました。というのも、4年前のJRさわやかウォーキングのときも(2017年12月19日:雪もちらつく中、JRさわやかウォーキング(関西線・南四日市駅)へ……10.9㎞コース(その3、完))、一昨年の近鉄ハイキングのときも(2019年4月27日:20190411近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅3日目~東海道、旅人気分で四日市宿から伊勢路へ」(その2)……興正寺、両聖寺、日永神社、頌徳碑と表忠碑)見忘れたのです。4年越しで宿題を終えた感じ(笑)。

Img_9263c_20210522165201  西昌寺のすぐ南、スタートから4.7㎞地点に「日永一里塚址」の石碑が建っています。県指定史跡。四日市市内には4ヶ所の一里塚がありました(富田、三ツ谷(海蔵川の北詰)、日永、釆女(杖衝坂を登りつめたあたり))。日永の一里塚は、江戸からちょうど百里。塚はもとは5m四方で高さ2.5mの塚が街道の両側に築かれていたそうです。「東海道分間延絵図(とうかいどうぶんげんのべえず)」(文化3(1806)年)によれば、西側の塚に松の木3本、エノキ1本、東側の塚にエノキ1本が描かれています。西側の塚にはエノキが残っていたのですが、明治2(1869)年には伐採され、塚自体もすでにありません。家屋と倉庫の境界のわずかな空き地に細い標柱が立っているのみですから、見逃しそうです。

Img_9276c_20210522165201  コースマップ#3に入ります。5㎞を過ぎたところに「東海道名残の一本松」。旧・東海道の東側に立派な松の木が一本、立っていて、いかにも松並木の名残という雰囲気。かつて、ここ日永の集落と泊村の集落との間は、家は一軒もなく、道の両側に低い土手が築かれ、松並木が植えられていたといいます。このような場所は縄手と呼ばれており、この松はその縄手の名残りで、往時の東海道や日永の歴史の一端を今に伝える貴重なものです。松は、今では、この一本だけが残っています。そのため「東海道名残の一本松」と呼ばれているのです。たくさんあった松は、戦時中、松根油を採ったためほとんどなくなったといいます。縄手の道幅は、土手も入れて約5間(9m)でした。旧東海道の道幅は、3間(約5.5m)で、これは現在も変わっていません。写真はいったん通り過ぎて、南から撮ったもの。

Img_9281c  今日のゴールにかなり近づいてきました。とはいえ、今日は、マップ上は5㎞弱。「駅から駅」が基本ですのでこうなっています。それはさておき、さらに東海道を下っていくと、伊勢蔵(いせぐら)という醸造屋さんがあります。以前JRさわやかウォーキングや近鉄ハイキングで2回訪ねています(2018年6月2日:「近鉄あみま倶楽部30周年記念ハイキング ~ものづくりのまち・四日市探訪~ 伝統工芸、老舗の味を満喫。わくわく感いっぱいの四日市を楽しもう!」へ(完)、2017年12月17日:雪もちらつく中、JRさわやかウォーキング(関西線・南四日市駅)へ……10.9㎞コース(その1))。

Img_9284c_20210524164501 Img_9286c  直売所もあります。立ち寄るつもりはなかったのですが、敷地内に気になるものが見えましたので、確認(微笑)。味噌仕込みに使っていた30石の桶。直径210cm、高さ194cmで、1回の仕込み量は約5,000㎏。味噌汁を作ったら、30万人分が作れる量だそうです。創業は大正3(1914)年。味噌、醤油を醸造しておられます。

Img_9301c_20210522165201  続いて、東海道日永郷土資料館に立ち寄ろうと思ったのですが、閉まっていました。新型コロナのためかと思ったら、「令和3年には家主に返却するため、令和2年9月から片付け、移転で休館」ということでした。ここは土蔵付きの商家の建物を借りて日永郷土史研究会が営んでいました。「日永足袋」「日永うちわ」をはじめ、地域に残る歴史・民俗・文化・街道(東海道・伊勢街道)などに関わるさまざまな資料を、古代から昭和30年代ごろまで時代別、テーマごとに展示していました。

Img_9311c_20210522165201 Img_9316c_20210524165601  そして、いよいよ、今日の最終目的地である「日永の追分」に到着。スタートから6㎞、時刻は12時22分。ここもJRさわやかウォーキングや、近鉄ハイキングで何度か来ていますし(たとえば、2019年4月30日:20190411近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅3日目~東海道、旅人気分で四日市宿から伊勢路へ」(その3)……日永の追分から伊勢街道に入り、河原田神社)、その昔は、この交差点はクルマで何度も通っていました。鳥居は桑名の七里の渡しに建てられた「伊勢一の鳥居」に対して「二の鳥居」と呼ばれます。鳥居は、安永3(1774)年に一志郡須ヶ瀬村(現在の津市)出身の伊勢商人渡辺六兵衛が東海道を往来する人のために遥拝鳥居として建てさせたのが最初。その後たびたび建替えが行われ、現在のものは、平成28(2016)年10月に、伊勢神宮の遷宮にあたり、内宮の別宮である伊雑宮(いざわのみや)の鳥居を移建しています。当初は伊勢街道をまたぐように建てられていましたが、現在は伊勢街道が鳥居の横を迂回して、鳥居をくぐらずに進めるようになり、また、昭和48(1973)年の移建時に周りが公園化されました。

Img_9332c  現在の追分には、常夜燈、道標、清めの手水所があります。元々あった道標は、明暦2(1656)年に建てられたもので、現存する東海道の道標としてはもっとも古いものです。これは、現在は、日永神社の境内に移されています(日永神社で見て来ましImg_9319c_20210524165701 た)。今ここにあるものは、嘉永2(1849)年に桑名・魚町の尾張屋文助が建てたとあります。現在、桑名・魚町に尾張屋という屋号の店はないと思いますが、近くの吉津屋には仏壇屋さんが(昨年、廃業しました)、北寺町には酒屋さんがそれぞれ同じ屋号であります。常夜燈のひとつは奉献時から存在したと推定されます。手水所の水は、西に位置する丘陵地(泊山(登城山))からの湧水です。昭和4(1929)年、地元実業家・稲垣末吉が、泊山に別荘を建てた時、掘った井戸からとても良い水が湧き出したので、自費で配管を敷設して、日永の追分まで引き、旅人達に供したのだといいます。稲垣末吉の頌徳碑が、日永小学校にありました。「追分鳥居の水」と呼ばれ、名水の評判が高く、たくさんの人が汲みに来ます。私も一口飲んでみました。まったくの個人的印象では、お茶や珈琲を入れるのに適している感じ(もっと冷たいと、生で飲んでも美味しいと感じた気がします)。これで、今日の目的地はコンプリート。帰りは、四日市あすなろう鉄道に乗って帰るのですが、時間も時間ですから、電車の時刻を確かめて、昼食にします。四日市行きは、12時38分、13時8分、13時38分。

Img_9346c_20210522165201 1621655724345c  昼食は、予めリサーチしておいた洋風食堂モンヴェールにて。けっこう人気の店のようです。今日は、日替わりランチのチキンカツのタルタルソースをチョイス(¥950)。いや、美味しかったです。カツの揚げ具合が絶妙でしたし、タルタルソースも美味しい。他のテーブルを見ると、ハンバーグや、オムライスを食べている方も多く、それもよかったかも知れません。

Img_9353c_20210522165201 Img_9354c_20210524171101  ゴールの四日市あすなろう鉄道追分駅には、13時30分着。ここまでで6.3㎞。券売機の上にこにゅうどうくんのイラスト。これ、飛び出しているように見えますが、いわゆる「だまし絵」。楽しめます。この路線は、元は近鉄内部線でしたが、平成27(2015)年4月1日に四日市あすなろう鉄道が内部線及び八王子線の運営を引き継ぎました。社名の「あすなろう」には、未来への希望(明日にむかって)や、内部・八王子線の特徴であるナローゲージ(特殊狭軌線:線路幅が762 ㎜)、将来にわたり市民とともに育てていく鉄道という思いが込められています。

Img_9370c_20210522165201 Img_9378c_20210524171501  13時38分発のあすなろう四日市駅行きに乗車。13時52分に四日市着。¥270。今日は、ほぼあすなろう鉄道の路線に沿って歩いてきましたので、車窓からそれらを眺めながら乗ってきました。ちなみにここもナローゲージの電車。ナローゲージは、全国で3ヶ所残っているそうですが、そのうち2ヶ所が三重県、しかも北勢地方にあります。もう1ヶ所の三岐鉄道北勢線と同じく、「電車に乗ってるぞ」感が堪りません(微笑)。

Img_9382c  四日市駅から近鉄に乗り換え。14時10分発の名古屋行き急行に乗車。桑名には、14時22分着、¥300。近鉄四日市駅の改札口近くに、こにゅうどうくん。これは、ホントに立体。萬古焼でできているそうです。

Img_9395c_20210522165201  この日の歩数は、ALKOOで16,632歩。現地で6.3㎞、自宅から桑名駅までの往復が2.2㎞、計8.5㎞でした。この日で、「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」も4回目。東海道は歩き終えました。次回からは、伊勢街道に入ります。桑名・七里の渡し跡から伊勢神宮・内宮までは、どこにも立ち寄らず、ひたすら東海道・伊勢街道だけを歩いて約94㎞。日永の追分は、20㎞地点の少し前。ということは、まだ74㎞以上残っています。まぁ、仕事ではありませんから、慌てず、ゆっくりと参ることにします。

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2021年5月24日 (月)

20210522「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第4回「四日市~日永の追分」(その2)……水沢道標、大聖院、円楽寺、興正寺、両聖寺と寺が続き、日永神社、長命山薬師堂へ

210522yokkaichi1  5月22日の「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」の第4回「四日市~日永の追分」のその2です。その1では、近鉄四日市駅をスタートし、崇顕寺、東漸寺と回り、日永に入って、大宮神明社まででした。詳細なマップはその2(左の画像)。日永駅近くを歩いています。水沢道標のあとは、大聖院、延楽寺、興正寺から天白川を渡って、両聖寺と続きます。その先で笹川通りを越えます。平成2(1990)年の4月から平成5(1993)年の3月初めまで、この近くにある笹川団地に住んでいましたので、懐かしいあたり。笹川通りを渡って、日永神社、長命山薬師堂、日永小学校にある表忠碑・稲垣末吉翁頌徳碑、滝川一益の菩提寺・実蓮寺、西昌寺から日永一里塚跡碑へと進みます。

Img_8969c  大宮神明社から300mほど、大聖院へ入る角に「水沢(すいざわ)道標」があります。大正12(1923)年9月にあった集中豪雨による水害までは、この碑の手前(南)の道が水沢(四日市市の南西端、鈴鹿山脈の麓、伊勢茶の栽培が盛んな地区)への道でした。碑は、元は東海道との角にありましたが、現在は、少し西に入った民家の庭にあります。 

Img_8976c_20210523203001 Img_8979c_20210523203001  碑表には、「水澤は藍より出て紅葉哉 大坂 羽津み」とあります。「羽津み」は、江戸中期(1780~1800年頃)の大坂の古銭研究家・河村羽積(はづみ)のこと。碑陰には、「猿丸太夫名歌古跡水澤へ 是より三里」と刻まれています。水沢には、宮妻峡や、もみじ谷という紅葉の名所があります。百人一首にある「奥山に 紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき」という三十六歌仙の一人である猿丸太夫の読んだといわれる歌の情景を、紅葉の名所・水沢楓谷(もみじだに)に名残を求めたものであろうかと、「日永ものがたり」にあるといいます。水沢の楓谷は昔から紅葉の名所で、菰野藩主の土方公(初代は、土方雄氏(ひじかたかつうじ)」は必ずこの紅葉を愛でたというくらいです。

Img_8986c_20210522165101Img_9003c_20210522165101  水沢道標のすぐ西に無動山大聖院(むどうさん だいしょういん)。真言宗醍醐派。ご本尊は不動明王。寺伝によれば、天平10(738)年、行基(天智7(668)~天平勝宝元(749)年)の開山に係る古刹とされ、当初は西方の愛宕山に位置し、塔頭17院を有する大寺であったと言われます。平安時代には醍醐寺座主定海(ていかい)僧正御住坊でした。永禄8(1565)年、松井親蔵法印が千草氏の庇護のもの、一族の守り本尊であった不動明王を奉じ、氏寺として寺院を再興しました。元禄3(1690)年、中興第4世大僧都・海養法印は寺院を現在地に移し、寺名を大聖院と改めました。神戸藩主御祈願寺として信仰を集めましたが、明治初めの廃仏毀釈の風潮が厳しく、寺領地を失い、境内も現在の範囲を残すのみとなったといいます。本尊の不動明王(秘仏)は、鎮守府将軍源頼義公、義家公父子の念持仏で、平安後期のもの。大正4(1915)年、重要文化財に指定されています。他に、県指定有形文化財に指定された絹本著色釈迦三尊十六善神像もあります。

Img_9011c_20210523204201 Img_9014c_20210523204201  境内には、地蔵堂(左の写真)の他に、庚申(こうしん)堂もあります。庚申とは、十干と十二支とを組み合わせたものの第57番目。庚申信仰は、もとは道教の守庚申より出た庚申(かのえさる) の年または日の禁忌行事を伴う信仰でした。庚申の夜には,人の体内にいる三尸 (さんし)の虫が、その体内を抜け出して天帝にその人の罪過を告げると信じられ、これを防ぐため道士たちは不眠の行を行なったのです。これが守庚申で、庚申講として伝わっています。

Img_9025c_20210522165101 Img_9043c  大聖院から100mあまり先に萬松山円楽寺(ばんしょうざんえんらくじ)。天台宗。昔は「延楽寺」とも書かれ、比叡山延暦寺の末寺です。ご本尊は、不動明王。文明2(1470)年の「扶桑鏡銘梵鐘銘文集」にこの寺のことが触れられており、それ以前の創基と考えられるのですが、安政元(1854)年の大地震で倒壊し、また、大正12(1923)年の水害にも遭い、寺の記録は失われているそうです。

Img_9047c_20210524063501 Img_9054c  境内には、観音堂、地蔵堂(左の写真)のほかに、白龍稲荷大明神も祀られています。禅宗系のお寺に稲荷社が祀られているのをよく見る気がします。何か理由があるのでしょうか。あの有名な豊川稲荷も、正式名は「妙嚴寺」といい、山号を圓福山とする曹洞宗のお寺です。この円楽寺、最近は人形供養で有名のようです(こちら)。

Img_9065c_20210522165101  お寺が続きます。こちらは、日永山興正寺(こうしょうじ)。真宗高田派。貞観6(864)年の創建。もとは登城山(現在地から1㎞ほど西、南部丘陵公園のところ)にあり、そのときは天台宗でしたが、文暦元(1234)年、親鸞聖人が当寺に立寄られたとき浄土真宗に改宗。その後200年程して、真宗高田派第十世・真慧(しんね)上人が津の一身田に本山を定められた時に、高田派となっています。天文13(1544)年、真宗高田派第十二世・堯慧(ぎょうえ)上人は、ここ興正寺で「日永千部」というこの寺の復興勧進法要を勤め、興正寺が高田派の有力な末寺になったといいます。天正2(1574)年、現在地に移ってきています。

Img_9070c  秀吉、家康の庇護が篤く、また、天正3(1575)年に滝川一益から寺領の寄進と諸役免除を受けているといいます。滝川一益が興正寺に対して出した「日永興正寺四至傍至の事」という寺領を与える文書、豊臣秀吉の寺内「禁制状」などの文書が残っているそうです。寺のそばを流れる天白川が、寺を囲むように曲がっているのも、滝川一益が堀の役目をするようにしたという話もあり、この堤を昔の人は「滝川堤」と呼んだそうです。冒頭のコースマップをご覧いただくと、天白川がこの興正寺の裏手で大きく蛇行しているのが見て取れます。

Img_9106c_20210522165101 Img_9119c_20210522165101  天白川を渡って150mほどで、林光山弘願院両聖寺(りんこうざん こうがんいん りょうしょうじ)があります。浄土宗のお寺。最初は、天台宗林光山西教院と称していましたが、住職の専阿(せんな)上人が、浄土宗第三祖記主良忠禅師と比叡山で一緒に修行した縁で、宝治2(1248)年、記主良忠禅師がここで浄土教を宣布されたのを契機に、浄土宗に改宗しています。それ故、記主良忠禅師を開基とし、専阿上人を第二代としています。第三代道阿玄忍上人のとき、前期の両聖人に因んで寺号を両聖寺としています。明治40(1907)年、両聖寺の鎮守であった八幡社は分離され、大宮神明社(先に立ち寄った神社)に合祀されています。

Img_9122c_20210524071701  両聖寺には、毎年8月に天白川の堤を固めるために行われた「つんつく(堤築)踊り」が今に伝わっています(動画はたとえば、こちらにあります)。踊りながら太鼓を打ち鳴らす踊りで、2020年に発祥400年を迎えました。この起源については、滝川一益の母の隠居所を実蓮寺境内に建築する地固め工事に歌った歌謡と動作を取り入れた踊りであるという伝承や、滝川一益が田畑を流失する農民の困窮を見て、天白川の堤防を築くための地固め、地つきに歌ったとする伝承があります。なお、元和6(1620)年の「清水九朗左衛門手記」に「日永踊之事ツンツクノ事ハ此ノ町地タカメ浪切踊トテ帯ヲ手ニモチ扇ニ而踊浪入也」とあり、近世の初頭には現在のような「つんつくおどり」があったと推測されています。

Img_9128c  両聖寺の先で笹川通りを渡ります。この道は、昔、笹川に住んでいた頃よく通りましたし、名古屋に通う通勤のバスの経路でした。写真は、西を向いて撮っています。この先に笹川団地というURと県営住宅等の大規模な団地があります。

Img_9161c_20210522165201  笹川通りを越えて、4㎞を過ぎると左手(西側)に日永神社があります。棟札によれば、慶長14(1609)年、天照大御神を当地に勧請し、南市場神明社が創建されました。その後、社名を南神明社と改称。明治40(1907)年、日吉神社、岡山白髭神社、山之神、並びに天正10(1582)年創建と伝えられる追分神明社をそれぞれ南神明社に合祀の上、日永神社と単称するに至っています。明治44(1911)年、日永字蔵屋敷の池鯉鮒(ちりゅう)社、字登城山の稲荷社を合祀しています。江戸時代には神戸藩主本多氏の崇敬厚く、神社は栄えました。

Img_9138c_20210522165201  ご祭神は、天照大神天手力男神(あめのたぢからおのかみ:天照大神が天岩戸に閉じこもった時、神々は、天岩戸から出てもらうために神事を行い、また天鈿女命(あめのうずめのみこと)が卑猥な踊りをしたところ、神々が爆笑しました。天照大神が不思議に思い、天岩戸を細めに開いたとき、この神が手をとって引き出したといいます)、栲幡千々姫神(たくはたちぢひめのみこと;天照大神の子の天忍穂耳命と結婚し、天火明命と瓊瓊杵尊を産んだ)、大山咋命猿田彦命波邇夜須比売命(はにやすひめのみこと;火之夜芸速男神を産んで死ぬ間際の伊邪那美命の大便から波邇夜須毘古神・波邇夜須毘売神の二神が化生した。ハニは土のこと)、菅原道真大物主神(オオモノヌシノカミ;奈良県桜井市の大神(おおみわ)神社の祭神)、大山津見神(オオヤマツミノカミ;山をつかさどる神)、道反之大神(チガエシノオオカミ;黄泉の国へとイザナミを迎えに行ったイザナギがそこで、腐り蛆にまみれ穢れたイザナミを見て、逃げ出し、黄泉の国と現世の間に大きな岩(千引き岩)を置いて塞ぎました。その岩のことをいいます)、宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ;五穀、食物をつかさどる神)です。天照大神に関わるたくさんの神様がいらっしゃいます。

Img_9142c_20210522165201  境内には、追分旧道標があります。明暦2(1656)年に仏性院(四日市市川原町)を開いた恵心という僧によって建てられた、東海道現存最古の道標(全国では5番目、県内では2番目に古いといいます)です。嘉永2(1849)年、今の大きな道標が建てられるまで、日永の追分に建っていたものがここに移設されました(明治40(907)年)。正面に「大神宮」と刻まれ、左面に「山田」、右面に「京」と刻まれています。この「石造旧日永の追分道標」は、四日市市有形文化財に指定されています。

Img_9158c_20210524130501  ここにも、皇大神宮遙拝所があります。「皇大神宮」は、もちろん、伊勢の神宮の2つの正宮のうちの1つである「内宮」のことです。「遙拝」は、遠く離れた所から神仏などをはるかにおがむことですから、この方角に伊勢の内宮がある訳です。この皇大神宮遙拝所の石碑は新しいのですが、昭和57(1982)年に建てられています。

Img_9169c_20210524131601  日永神社のすぐ南隣に長命山薬師堂があります。市指定文化財である薬師如来座像が納められています。鎌倉時代中期の作とされ、元は伊勢安国寺の旧像。天正年間(1573~1592年)、安国寺炎上の時、日永村の実蓮寺(あとで訪ねています)に運び出され、その境内の小堂で内仏として信仰されていたものが、文化13(1816)年、ここに移されたといいます(説明板による)。

 コースマップ#2も、まだ最後まで行っていませんが、長くなりましたので、その2はここまで。日永小学校にある表忠碑・稲垣末吉翁頌徳碑、実蓮寺、西昌寺、日永一里塚跡からその3とします。

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2021年5月23日 (日)

20210522「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第4回「四日市~日永の追分」(その1)……近鉄四日市駅をスタート、崇顕寺(丹羽文雄の生家)、東漸寺、大宮神明社へ

210522yokkaichi0  5月22日に行ってきた「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」の第4回「四日市~日永の追分」の本編第1回です。この「伊勢詣りツアー」は、同級生K氏と二人旅。この日は、朝8時過ぎは晴れていましたが、その後は曇り。しかし、最高気温23.9℃で、ウォーキング日和といえます。スタートは近鉄四日市駅。東海道を歩いて、日永の追分まで歩き、ゴールは、四日市あすなろう鉄道追分駅に設定。四日市駅から300mほど東へ行くと東海道に入ります。崇顕寺(作家・丹羽文雄の生家)、東漸寺から赤堀を通り、鹿化川(かばけがわ)を越えて大宮神明社へ。その後、水沢道標を見て、大聖院、延楽寺、興正寺と寺巡り。天白川を渡り、両聖寺、日永神社へ。日永小学校で表忠碑と稲垣末吉翁頌徳碑を見て、実蓮寺、西昌寺と行くと、日永一里塚跡碑がひっそり建っています。名残の一本松を越えるとゴールも近い。東海道日永郷土資料館を見たかったものの、閉館してしまっていました。日永の追分が今日の最終目的地。そこからゴールの四日市あすなろう鉄道追分駅まで6.3㎞。駅近くの洋風食堂モンヴェールで昼食。

Img_8798c_20210522165101 Img_8803c_20210522165101  桑名駅を8時42分に出る松阪行き急行で近鉄四日市まで。8時54分着、¥300。8時58分にスタート。四日市駅から東へ300mほど行くと、中央通りをはさんで、北に前回歩いたスワマエ商店街の入り口が見えます。ここを右折して、東海道に入ります。

Img_8800c Img_8807c  曲がり角の手前に「こにゅうどうくん」の自販機。あとからも触れるつもりですが、四日市は、観光や東海道に力を入れているのがよく分かります。各地区ごとに名所旧跡に案内板が建てられていますし、東海道を示す看板も豊富にあります。右の写真は、近鉄四日市駅から来て、東海道に曲がるところにある石柱。四日市の取り組みに比べると、桑名のそれは、はっきり言って貧弱です。

210522yokkaichi1  こちらは、詳しいコースマップその1です。四日市駅、「あすなろう四日市」となっていますが、ここが近鉄四日市駅。四日市あすなろう鉄道も乗り入れています。南出口から出て、国道1号線方面に向かい、諏訪栄町交差点の手前で右折し、東海道に入ります。阿瀬知川を越えて崇顕寺、東漸寺と回って、赤堀へ。しばらく立ち寄るところはありません。鹿化川(かばけがわ)を渡って、大宮神明社・二柱神社に立ち寄るのですが、その手前にはかつてなが餅の笹井屋がありました。

Img_8810c_20210523185801  阿瀬知川にかかる阿瀬知橋。阿瀬知川は、三滝川から引いた水路で、雨水幹線の1つです。阿瀬知川は戦争直後まではホタルの舞う自然豊かな川だったそうですが、事業所や家庭からの雑排水が流入した結果、汚染が進み、どぶ川になっていました。平成12(2000)年頃から、「阿瀬知川をきれいにする会」の浄化活動が行われ、錦鯉が住めるようになったと言います。市街を貫流し、四日市港に至っています。

Img_8814c_20210522165101 Img_8818c_20210523185801  阿瀬知川を渡ってすぐに、仏法山崇顕寺。真宗高田派のお寺で、作家・丹羽文雄(明治37(1904)~平成17(2005)年)の生家です。昭和7(1932)年「鮎」でみとめられ、風俗小説を多作しましたが、のち仏教への傾斜から「親鸞」、「蓮如」を著しました。日本芸術院会員で、文化勲章を受章しています。田原藤太秀郷(藤原)の末胤である田原忠秀が、文明元(1469)年、浜田城を築き、孫元網の時元正3(1575)年に織田勢の滝川一益に滅ぼされたのですが、この田原家の一族丹羽弥八郎時定が菩提のため、創建したといわれています。もとは天台宗の寺でしたが、文亀2(1502)年に眞慧(しんね)上人に帰依し高田派の寺となっています。天和元(1618)年の火災と、昭和20年四日市大空襲で焼失し、由緒の詳細は不明。

Img_8835c_20210523192901  崇顕寺の先あたりの東海道の様子。道路の広さは、昔と同じくらいのように思えます。東海道を含む五街道は、幅5間(9メートル)と規格が定められていました(こちら)。また、このあたりは古い家がかなり残っていますので、昔の街道の雰囲気を偲ぶことができます。

Img_8838c_20210522165101 Img_8845c_20210522165101  スタートから800mほどで東漸寺。こちらも真宗高田派。建仁元(1201)年創建の古刹です。童話作家・東光敬(あずまこうけい)の生家。東は、丹羽文雄の弟である房雄(文雄に代わって、崇顕寺を継いでいます)と同級生。東については、こちら(四日市文化協会の広報誌)に言及されています。

Img_8849c  この東漸寺で驚いたのは、本堂の入り口。障子に板戸。今は、多くのところがサッシになっていますので、珍しい。

Img_8873c_20210523200501  東漸寺の先、四日市あすなろう鉄道赤堀駅の手前に地蔵堂。かなり年月が経っている印象。建物がコンクリートブロックの上に載せられていて、大切にされているように思えます。ただ、残念ながら、道沿いにあるお地蔵様については、よく分からないことが多いのです。この地蔵尊についても、「ホントに歩く東海道」の第12集「桑名~庄野」のマップに載っているものの、説明はありません。みえの歴史街道にある東海道マップにも「お地蔵さん 連子格子の家の前の小さな祠に祀られている」とあるだけです。

Suzukipharmacy_20210523193601  東漸寺のあとはしばらく立ち寄るところはありません。赤堀にかつて鈴木薬局という四日市でもっとも古い建物(嘉永5(1852)年建築)があったのですが、4年ほど前に解体されてしまいました(こちら)。残念です。鈴木薬局は、200年以上も続いた旧家でした。現在は、跡地に鈴木という表札が出た、大きなお宅があります。この鈴木薬局の写真は、四日市・常磐地区のホームページからお借りしました。

Img_8889c Img_8892c  2㎞を過ぎて鹿化川(かばけがわ)を越えます(左の写真)。鹿化川を越えると日永に入ります。鹿化川の上流には、「鹿化川千本桜」と呼ばれる桜並木があり、名前のとおり約千本のソメイヨシノが 5km にわたり咲いています(2019年1月26日:20190126近鉄ハイキング“酒蔵みてある記 銘酒「三重の寒梅」丸彦酒造をたずねて”へ(予告編))。鹿化川橋を渡ってすぐ左手には、かつてなが餅の笹井屋があったといいます(右の写真のあたり。昭和30年に現在の本店に移転。本店は前回見てきました)。

Img_8947c_20210522165101 Img_8905c_20210523194601  スタートから2.3㎞のところに大宮神明社があります。詳しい由緒は不詳ですが、社伝によれば第11代・垂仁天皇の御代、皇大神宮が伊勢にお遷りになる時に岡山の丘陵地(現在、四日市南高校があるところ)に一時お留りになり、そこに神宮の神領地として皇大神宮を勧請したのが始まりとされています。永禄5(1562)年、それまで舟付け明神といって崇め祀っていたこの岡山の神明社が炎上したので、その頃出来上がりつつあった新道路(東海道)の傍らに遷座されたのが今の大宮神明社です。江戸時代には神戸(かんべ)藩主・本多家の崇敬を受けていました。「永宮さん」とも呼ばれるそうです。

Img_8914c_20210522165101  主祭神は、天照大御神。相殿神は、天手力男命(アマノタヂカラオノミコト;天照大神の隠れた天の岩屋の戸を手で開けた大力の神)、栲幡千千比売命(たくはたちぢひめのみこと;高皇産霊神の子の児火之戸幡姫の子で、天照大神の子の天忍穂耳命と結婚し、天火明命と瓊瓊杵尊を産んだ。織物の神として信仰される他、安産、子宝等の神徳をもつとされる)、市寸杵島姫命(イチキシマヒメノミコト;天照大神と素戔嗚尊との誓約の時に生まれた三女神の一。福岡県の宗像大社の辺津宮の祭神)、田心姫命(タキリビメまたはタギリヒメとも;日本神話に登場する女神で、宗像三女神の一柱。宗像大社では「田心姫神」として、沖ノ島にある沖津宮に祀られている)、多岐津比売命(タギツヒメノミコト;天照大神と素戔嗚尊との誓約のときに、素戔嗚尊の剣から生まれた三女神の一。福岡県の宗像大社の祭神で、中津宮に鎮座するとされる)、品陀和気命(ホンダワケノミコト、応神天皇)、大山津見命(オオヤマツノミコト;山をつかさどる神)、弥都波能売命(ミズハノメノミコト;代表的な水の神(水神))となっています。明治40(1907)年に天白社、八幡社の二社を合祀し、明治41(1908)年には5社を合祀しています。例祭は10月の体育の日。獅子舞があり、八幡獅子が家々を回るそうです。また、6月30日夜には、那護志(なごし)の大祓があり、いわゆる「茅の輪くぐり神事」が盛大に行われます。

Img_8921c_20210522165101 Img_8917c_20210523195601  境内には、摂社として二柱大神があります。ここは江戸時代末より病気平癒の神(センキの神)として信仰されています。少彦名命(すくなびこなのみこと;農業・酒造・医薬・温泉の神)と、大己貴命(おおなむちのみこと;天照大神に対して国津神(土着の神々)の頭領たる位置をあらわす)が祀られていますから、二柱神社。他に、稲荷社、山の神社と靖国社があります。さらに、皇大神宮遙拝所も(右の写真)。皇大神宮は、もちろん伊勢神宮。前にも書きましたが、四日市市内の神社では、こうした伊勢神宮の遙拝所を時々見ます。

Img_8948c  大宮神明社を出たところに紀念碑。田中光治郎という、明治6(1873)年に生まれた方のもの。日清戦争に参戦され、亡くなられました。明治31(1905)年3月の建立。上司であった、第三師団歩兵第六聯隊第二中隊長で、陸軍歩兵大尉である口羽清之の撰。

Img_8952c_20210522165101  大宮神明社のすぐ先に立派な屋敷がありました。見入っていたら、買い物途中と思われる地元の女性が、「ここはね、昔、庄屋さんの家だったんだよ」と教えてくださいました。確かに、そう思えるようなお宅です。屋敷も広く、縦も桃大きく、蔵がありますし、門も立派でした。四日市駅から南あたりの東海道、あちこちで新しい住宅も建っているのですが、そういう中にこうした昔風の建物が残っています。

 その1は若干短めですが、キリが良いのでここまで。その2は、水沢道標や大聖院から。

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2021年5月22日 (土)

20210522「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第4回「四日市~日永の追分」(予告編)

210522yokkaichi0  朝8時台は晴れていましたが、その後は曇り。最高気温23.9℃。ウォーキング日和でした。「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」の第4回として四日市から日永の追分までの東海道を歩いてきました。スタートは近鉄四日市駅、ゴールは四日市あすなろう鉄道。今日は、取り敢えず予告編。左の画像は、今回のコースマップ。近鉄四日市駅から300mほど東へ行くと東海道に入ります。崇顕寺(丹羽文雄の生家)、東漸寺から赤堀を抜け、鹿化川を越えて大宮神明社。水沢道標を見て、大聖院、延楽寺、興正寺、天白川を渡り、両聖寺、日永神社へ。日永小学校で表忠碑と頌徳碑を見て、実蓮寺、西昌寺と行くと、日永一里塚跡碑が建っています。名残の一本松を越えるとゴールも近くなります。東海道日永郷土資料館を見たかったものの、閉館していました。日永の追分が今日の最終目的地。ゴールの四日市あすなろう鉄道追分駅まで6.3㎞。駅近くの洋風食堂モンヴェールで昼食。

Img_8798c_20210522165101 Img_8803c_20210522165101  桑名駅を8時42分に出る松阪行き急行で近鉄四日市まで。8時54分着、¥300。8時58分にスタート。東へ300mほど行くと、中央通りをはさんで、北に前回歩いたスワマエ商店街の入り口が見えます。ここを右折して、東海道に入ります。

Img_8814c_20210522165101 Img_8845c_20210522165101  阿瀬知川を越えると東海道の左手(東側)に仏法山崇顕寺があります。真宗高田派のお寺ですが、作家・丹羽文雄(明治37(1904)~平成17(2005)年)の生家です。昭和7(1932)年「鮎」でみとめられ、風俗小説を多作しましたが、のち仏教への傾斜から「親鸞」、「蓮如」を著しました。日本芸術院会員、文化勲章を受章しています。崇顕寺は、もとは天台宗の寺でしたが、文亀2(1502)年に眞慧(しんね)上人に帰依し高田派の寺となっています。天和元(1618)年の火災と、昭和20年四日市大空襲で消失していて、由緒の詳細は不明。右の写真は、東漸寺。こちらも真宗高田派。建仁元(1201)年創建の古刹です。童話作家・東光敬(あずまこうけい)の生家。東は、丹羽文雄の弟である房雄(文雄に代わって、崇顕寺を継いでいます)と同級生。東については、こちら(四日市文化協会の広報誌)に言及されています。

Img_8889c Img_8892c  東漸寺のあとはしばらく立ち寄るところはありません。赤堀にかつて鈴木薬局という四日市でもっとも古い建物(嘉永5(1852)年建築)があったのですが、4年ほど前に解体されてしまいました(こちら)。鈴木薬局は、200年以上も続いた旧家でした。2㎞を過ぎて鹿化川を越えます(左の写真)。橋を渡ってすぐ左手には、かつてなが餅の笹井屋があったといいます(右の写真のあたり。昭和30年に現在の本店に移転。本店は前回見てきました)。

Img_8914c_20210522165101 Img_8921c_20210522165101  その先に大宮神明社。詳しい由緒は不詳ですが、社伝によれば第11代・垂仁天皇の御代、皇大神宮が伊勢にお遷りになる時に岡山の丘陵地(現在、四日市南高校があるところ)に一時お留りになり、そこに神宮の神領地として皇大神宮を勧請したのが始まりとされています。永禄5(1562)年、それまで舟付け明神といって崇め祀っていたこの岡山の神明社が炎上したので、その頃出来上がりつつあった新道路(東海道)の傍らに遷座したのが今の大宮神明社。「永宮さん」とも呼ばれるそうです。主祭神は、天照大御神。境内社に二柱大神があります(右の写真)。江戸時代末より病気平癒の神(センキの神)として信仰されています。少彦名命(すくなびこなのみこと;農業・酒造・医薬・温泉の神)と、大己貴命(おおなむちのみこと;天照大神に対して国津神(土着の神々)の頭領たる位置をあらわす)が祀られています。

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 大宮神明社を出てすぐのところに立派なお宅があり、見入っていましたら、通りかかった近所の女性が、「ここはね、昔、庄屋さんの家だったんだよ」と教えてくださいました。確かに、そう思えるようなお宅です。屋敷も広く、縦も桃大きく、蔵がありますし、門も立派でした。四日市駅から南あたりの東海道には、あちこちにこうした昔風の建物が残っています。

Img_8969c Img_9003c_20210522165101  日永駅の東を過ぎたところに水沢道標。大正12(1923)年9月にあった集中豪雨による水害までは、この碑の前(南)の道が水沢(四日市市の南西端、鈴鹿山脈の麓、伊勢茶の栽培が盛んな地区)への道でした。碑は元は東海道との角にありましたが、現在は、民家の庭にあります。その西に無動山大聖院(むどうさん だいしょういん)。真言宗醍醐派のお寺。ご本尊は不動明王。寺伝によれば、天平10(738)年、行基の開山に係る古刹とされ、当初は西方の愛宕山に位置し、塔頭17院を有する大寺であったと言われます。平安元禄3(1690)年、中興第4世大僧都・海養法印は寺院を現在地に移し、寺名を大聖院と改めました。神戸藩主御祈願寺として信仰を集めましたが、明治初めの廃仏毀釈の風潮が厳しく、寺領地を失い、境内も現在の範囲を残すのみとなったといいます。 

Img_9043c Img_9065c_20210522165101  このあと、お寺が続きます。まずは、萬松山円楽寺。天台宗。昔は「延楽寺」とも書かれ、比叡山延暦寺の末寺。文明2(1470)年の「扶桑鏡銘梵鐘銘文集」にこの寺のことが触れられており、それ以前の創基と考えられるのですが、安政元(1854)年の大地震で倒壊し、また、大正12(1923)年の水害にも遭い、寺の記録は失われているそうです。右の写真は、日永山興正寺。真宗高田派。貞観6(864)年の創建。もとは登城山(現在地から1㎞ほど西、南部丘陵公園のところ)にあり、そのときは天台宗でしたが、文暦元(1234)年、親鸞聖人が当寺に立寄られたとき浄土真宗に改宗。その後200年程して、真宗高田派第十世・真慧(しんね)上人が津の一身田に本山を定められた時に、高田派となっています。天正2(1574)年、現在地に移ってきています。秀吉、家康の庇護が篤く、また、天正3(1575)年に滝川一益から寺領の寄進と諸役免除を受けています。

Img_9119c_20210522165101  興正寺の先で天白川を越えると、すぐに林光山弘願院両聖寺があります。浄土宗。最初は、天台宗林光山西教院と称していましたが、住職の専阿(せんな)上人が、浄土宗第三祖記主良忠禅師と比叡山で一緒に修行した縁で、宝治2(1248)年、記主良忠禅師がここで浄土教を宣布されたのを契機に、浄土宗に改宗しています。それ故、記主良忠禅師を開基とし、専阿上人を第二代としています。第三代道阿玄忍上人のとき、前記の両聖人に因んで寺号を両聖寺としています。両聖寺には、毎年8月に天白川の堤を固めるために行われた「つんつく(堤築)踊り」が今に伝わっています。踊りながら太鼓を打ち鳴らす踊りで、2020年には発祥400年を迎えます。その起源については、滝川一益の母の隠居所を実蓮寺境内に建築する地固め工事に歌った歌謡と動作を取り入れた踊りであるという伝承や、滝川一益が田畑を流失する農民の困窮を見て、天白川の堤防を築くための地固め、地つきに歌ったとする伝承があります。

Img_9138c_20210522165201 Img_9142c_20210522165201  さらに笹川通りを越え、南日永駅のすぐ東に日永神社。昔は南神明社と呼ばれていました。明治40(1907)年以降、日永神社というようになりました。建仁年間(1201-1204)頃に創建されたといわれます。天正年間(1573-1592年)に織田信長の伊勢侵攻の際、焼失。その後、再建され、江戸時代には神戸藩主本多氏の崇敬厚く、神社はさかえました。ご祭神は、天照大神天手力男神(あめのたぢからおのかみ)他。境内には、追分旧道標があります。明暦2(1656)年に仏性院(四日市市川原町)を開いた恵心という僧によって建てられた、東海道現存最古の道標(全国では5番目、県内では2番目に古いといいます)。嘉永2(1849)年、今の大きな道標が建てられるまで、日永の追分に建っていたものがここに移設されました(明治40(907)年)。

Img_9180c_20210522165201  日永神社の南にある日永小学校の敷地に表忠碑と頌徳碑があります。「表忠碑」は、戦没者の遺徳をたたえ、永遠に顕彰するため、明治42(1909)年8月に、日永村在郷軍人の方々が発起人となって建立されています。揮毫者は、元帥公爵の大山巌。頌徳碑は、「稲垣末吉翁頌徳碑」日永出身の実業家・稲垣末吉は、日永の追分まで自費で配管を敷設して、水を旅人達に供した方。稲垣は、明治時代、東京で製錨工場を創設、後に製鋼工場となり、巨万の富を築きました。地元に戻り、地域社会のために、社会福祉、自社建立、学校建設にも尽力し、さまざまな寄付をするなど貢献しています。

Img_9216c_20210522165201 Img_9224c_20210522165201  その先で普光山証明院実蓮寺に立ち寄り。ここは初めて来ました。浄土宗のお寺。開山の由来は不明ですが、昔は、登城山にあったといいます。承久2(1220)年、現地に移転。滝川一益が、菩提寺として母の位牌と墓碑を安置したというので、一度立ち寄りたいと思っていたのです。無住のように思ったのですが、インスタによれば、ご住職は倒れてリハビリ中で、息子さんが世話をしておられるようです。滝川一益の母の墓碑は、よく調べていかなかったのですが、こちらのサイトによれば、右の写真で中央にあるものがそれのようです。

Img_9239c_20210522165201  実蓮寺から東海道に戻ってすぐ、雲祥山西唱寺(うんしょうざんさいしょうじ)。真宗高田派。永禄2(1559)年、僧・玄聖(げんしょう)の開創で、もとは安立院という浄土宗のお寺でした。江戸時代初期、誓宅が住持の時に、專修寺第14世尭秀(ぎょうしゅう)上人に帰依して浄土真宗となり、本尊を賜っています。寛文元(1661)年には西唱寺と改められました。寺宝がたくさんあったそうですが、昭和20(1945)年6月18日の四日市空襲によって本堂や庫裏、太子堂、書院などが全焼してしまい、寺宝、古文書等は一切灰燼に帰してしまいました。境内に、安政6(1859)年、近隣の有志で登城山(白鬚神社の北)から竹管で水道を引いた「水道記念碑」があるのですが、見てくるのを失念。過去に2回も失敗しているのに、さらに失敗を重ねました(苦笑)。

Img_9263c_20210522165201  西昌寺から南へ100m足らずのところに「日永一里塚址」の石碑が建っています。県指定史跡(昭和13年4月指定)。四日市市内には4ヶ所の一里塚がありました(富田、三ツ谷(海蔵川の北詰)、日永、釆女(杖衝坂を登りつめたあたり))。日永のImg_9276c_20210522165201 一里塚は、江戸からちょうど百里。「東海道分間延絵図(とうかいどうぶんげんのべえず)」(文化3(1806)年)によれば、西側の塚に松の木3本、エノキ1本、東側の塚にエノキ1本が描かれています。西側の塚にはエノキが残っていたのですが、明治2(1869)年には伐採され、塚自体もすでにありません。家屋と倉庫の境界のわずかな空き地に細い標柱が立っているのみで、見逃しそうです。その先、東海道の東側に、「東海道名残の一本松」(右の写真)。かつて、ここ日永と泊村との間は、家は一軒もなく、松並木の縄手道だったそうです。今では、この一本松だけが今に残り、往時を偲ぶよすがになっています。そのため「東海道名残の一本松」と呼ばれているのです。たくさんあった松は、戦時中、松根油を採ったためほとんどなくなったといいます。縄手の道幅は、土手も入れて約5間(9m)でした。現在の道幅もほぼ同じです。

Img_9301c_20210522165201  日永の追分の手前に東海道日永郷土資料館がありますので、立ち寄ろうと思ったのですが、閉まっていました。新型コロナのためかと思ったら、令和3年には家主に返却するため、令和2年9月から片付け、移転で休館ということでした。ここは土蔵付きの商家の建物を借りて日永郷土史研究会が営んでいたのですが、残念です。

Img_9311c_20210522165201  12時23分、スタートから6㎞を歩いて、日永の追分に到着。東海道と伊勢街道(参宮街道)との分岐点です。鳥居は、桑名の七里の渡し跡に建てられた「伊勢一の鳥居」に対して「二の鳥居」と呼ばれます。鳥居は、安永3(1774)年に一志郡須ヶ瀬村(現在の津市)出身の伊勢商人渡辺六兵衛が東海道を往来する人のために遥拝鳥居として建てさせたのが最初。その後たびたび建替えが行われ、現在のものは、平成28(2016)年10月に、伊勢神宮の遷宮にあたり、内宮の別宮である伊雑宮(いざわのみや)の鳥居を移建して建替えられました。当初は伊勢街道をまたぐように建てられていましたが、現在は伊勢街道が鳥居の横を迂回して、鳥居をくぐらずに進めるようになり、また、昭和48(1973)年の移建時に周りが公園化されました。現在の追分には、常夜燈、道標、清めの手水所があります。元々あった道標は、現在は、日永神社の境内に移されています。これで、今日の目的地はコンプリート。

Img_9346c_20210522165201 1621655724345c  四日市あすなろう鉄道追分駅へ向かうのですが、電車の時刻だけ確かめて、昼食へ。予めリサーチしておいた洋風食堂モンヴェールにて。けっこう人気の店のようです。今日は、日替わりランチのチキンカツのタルタルソースをチョイス(¥950)。いや、美味しかったです。他のテーブルを見ると、ハンバーグや、オムライスを食べている方も多く、それもよかったかも知れません。

Img_9353c_20210522165201 Img_9370c_20210522165201  ゴールの追分駅には、13時30分着。ここまでで6.3㎞。13時38分発のあすなろう四日市駅行きに乗車。13時52分に四日市着。¥270。今日は、ほぼあすなろう鉄道の路線に沿って歩いてきましたので、車窓からそれらを眺めながら乗ってきました。ちなみにここもナローゲージの電車。元は近鉄内部線でしたが、平成27(2015)年4月1日に内部線及び八王子線の運営を引き継ぎました。社名の「あすなろう」には、未来への希望(明日にむかって)や、内部・八王子線の特徴であるナローゲージ(特殊狭軌線:線路幅が762 ㎜)、将来にわたり市民とともに育てていく鉄道という思いが込められています。三岐鉄道北勢線と同じく、「電車に乗ってるぞ」感が堪りません(微笑)。

Img_9395c_20210522165201  四日市駅から近鉄に乗り換え。14時10分発の名古屋行き急行に乗車。桑名には、14時22分着、¥300。今日の歩数は、ALKOOで16,632歩。現地で6.3㎞、自宅から桑名駅までの往復が2.2㎞、計8.5㎞でした。本編は、いつも通り、また明日以降ボチボチと書いていきます。

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2021年5月13日 (木)

20210508「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第3回「富田~四日市」(その4)……建福寺、四日市陣屋跡、札の辻、本陣跡、問屋場跡、道標、諏訪神社からスワマエ商店街で「完」

210508tomida4  5月8日の「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第3回「富田~四日市」の本編その4です。旧四日市宿の中心部へと進み、建福寺、四日市陣屋跡、黒川本陣跡、問屋場跡、帯屋脇本陣跡、札の辻、道標と回ります。この道標のあたりから諏訪神社のところまで、短い区間ですが、昔の街道は失われています。諏訪神社からスワマエ商店街を出たところで、今日の東海道のコースは終了。昼食を摂り、ゴールの近鉄四日市駅へ。

Img_5492c_20210511112301 笹井屋本店の先、市立中部西小学校の北にお寺の屋根が見えます。曹洞宗のお寺、東冥山建福寺です。一昨年の近鉄ハイキングの伊勢詣りでは、道を間違えて、この寺に立ち寄っています(2019年3月31日:20190324近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅2日目~ 東海道、旅人気分で間の宿・富田から四日市宿へ」(その4)……四日市宿中心部(建福寺、四日市陣屋跡、黒川本陣跡、帯屋脇本陣跡、問屋場跡、札の辻)、道標を見て、諏訪神社からゴールの近鉄四日市駅へ(完))永和3(1377)年、曹洞宗の僧・竺堂了源が開創したと伝えられます。3代目蔵海令珍の時に、周囲の地を会下と称し、数百の人家が移住し、毎月4日を初日にして門前に市がたち、これから四日市の地名が生まれたといわれています。

Img_5468c_20210508170001 その後、文明2(1470)年、浜田城を築城した田原(俵)忠秀がその菩提寺である建福寺の伽藍を再興し、七堂伽藍の大寺としました。しかし、天正3(1575)年、織田信長軍によって浜田城は落城し、建福寺も兵火に遭い、大伽藍も烏有(うゆう)に帰し、その後、安政の地震、明治38(1905)年の大火、第2次大戦の空襲の被害で、すべてを失っています。現在の本堂は、昭和52(1977)年に再建されました。

Img_5472c  山門を入って左手には、「安政元年震災惨死者之碑」があります。安政元年には、東海地震南海地震とが、32時間をおいて起きています。この震災で亡くなられた300人あまりの方々の五十回忌法要を執り行ったときに建てたものと碑陰にありました(明治36(1903)年建立)。前回と同様、よく調べずに立ち寄ったため、境内に残っているという、芭蕉句碑には気づきませんでした(芭蕉の句碑は、本堂に向かって右手のソテツのあたりにあったようです)。また、泗水の井戸(四日市陣屋の辺りに4ヶ所あった良質な井戸のうち、1つが現存するというのです。これか?と思ったものはあったのですが、それは違いました)も見られませんでした。ちょっと残念。やはり、下調べは重要(微苦笑)。

Img_5501c_20210508170001  このあと、中部西小学校の西側を回って、四日市陣屋跡へ。中部西小学校は、四日市陣屋跡にあります。四日市は天領でしたので代官所が置かれました。慶長5(1600)年、徳川家康が水谷光勝を四日市の代官に任じて天領を管理させ、陣屋は、Img_8395c_20210511115701 慶長8(1603)年、水谷光勝によって築かれました。右に案内板にあった陣屋の絵図の部分だけの写真を載せています。時期によって建物には変更があったようですが、この絵図には42の部屋が描かれており、白洲もあります。享保9(1724)年、和郡山の松平吉里の領地となりますが、享和元(1801)年には再び天領となり、以後は多羅尾氏が代々代官を世襲しました。明治維新後は度会県の支所が置かれ、明治5(1872)年から翌年まで三重県庁となっています。しかし、明治9(1876)年に勃発した伊勢暴動によって焼打ちされ焼失してしまいました。ここ中部西小学校の辺りが代官所跡ですが、学校の正門に案内板があるのみで遺構は残っていません。「水谷光勝」という名前に記憶がありましたので、調べてみたら、彼の墓は桑名・萱町の顕本寺にありました(こちら)。

Img_5526c_20210508170001  陣屋跡を見て、旧・東海道に戻ります。東海道に戻るあたりでスタートから7㎞。写真が札の辻。江戸時代には、高札場があったところ。あちこちに「札の辻」という地名が残っています。また、ここは、「菰野道」のスタート地点。菰野道は、菰野町菰野まで続く11㎞の街道です。四日市宿の中心で、このあたりに本陣、脇本陣、問屋場がありました。

Img_5530c_20210508183301  黒川本陣跡は、現在、黒川農薬商会になっています(左の写真)。黒川本陣は、第二本陣で、第一本陣として清水本陣がありました。 第一本陣は清水太兵衛家が代々なり、高札場のあった札の辻北角に明治10(1877)年頃まで続きました。黒川本陣は、二番本陣で、文化8(1811)年頃から脇本陣だった黒川彦兵衛がついています。東京遷都の際、明治元(1868)年9月24日を初めとして明治天皇はこの黒川本陣を合計4回行在所として利用されたといいます。調べたところ、黒川本陣の門が、明治末期に薬師寺に移転されたとありました。その遺構が戦災にも遭わず残っているといいます。しかし、その薬師寺、今は、住職も亡く、表札の「薬師寺」の文字も朽ち果てているようです。場所は、黒川農薬商会から北西へ、国道1号線を渡ったところ。

Img_8401c_1_20210511125401  この近藤建材店が脇本陣の帯屋跡とされています(写真は、2019年3月24日撮影)。その根拠となる資料は必ずしも明確ではないようで、角川日本地名大辞典(旧地名編)の「辻の西南角に脇本陣の帯屋があった」という記述にしたがうと、この近藤建材店のところと考えられるということです。四日市は、海軍第二燃料廠をはじめ多くの工場群を擁した四日市は、アメリカ軍の重要攻撃目標とされ、昭和20(1945)年6月18日午前0時45分には、アメリカ軍B-29戦略爆撃機89機が焼夷弾11,000発・567.3トンを投下しています。このとき、人的被害は、被災者47,153人、死者736人、負傷者1,500人、行方不明者63人。約1時間の絨毯爆撃で全市の35%が焼失、市街地は焦土と化しました。このように空襲に遭ったがため、昔の宿場などは残っていないのだと思います。四日市空襲については、こちらを参照。

Img_5520c_20210508170001  問屋場跡。もとは福生医院という耳鼻咽喉科医院でしたが、現在は、東海道四日市宿資料館になっています。現在は、残念ながら新型コロナのため閉館中。こちらも根拠となる資料がないようで、角川日本地名大辞典(旧地名編)の「北町(近世~近代)」に、「清水家の西隣に問屋場が、辻の西南角に脇本陣の帯屋があった」との記述があり、また、東海道分間延絵図には辻の西南角辺りに脇本陣と問屋場が描かれています。これで旧四日市宿の中心部を一通り見てきたことになります。

Img_8392c_20210511130501  参考までに、こちらは、四日市陣屋跡の案内板にあった「東海道分間延絵図」の四日市宿の部分。「東海道分間延絵図」は、江戸幕府が東海道の状況を把握するために、道中奉行に命じて作成した詳細な絵地図です。地図の中央にあるのが、札の辻で、ここが東海道(東西=左右に伸びています)と菰野道(北に向かう道)の交差点。菰野道はここがスタート。札の辻の右下には四日市陣屋が描かれています。陣屋に向かって右(東)は、三滝川。橋がかかっています。ちなみに四日市は、東海道五十三次43番目の宿場。

Img_5536c  柳通を越えたところの民家の角に道標が建っています。文化7(1810)年に建立された道標で、「すぐ江戸道」「すぐ京いせ道」とあります。元々は、札の辻にあったようです。また、ここに現在建っている道標は、もとの道標が戦災で損傷したのを惜しんで、昭和28(1953)年頃、地元の人・大西清之助が稲葉町の永田石材店でこしらえた複製道標です(『四日市市史研究・すぐ江戸道の札の辻』より)。もとの道標は、昭和20(1945)年の戦火に遭って破損しています。その道標は、慶安(1650年)の頃、問屋役を務めていた吉田角左右衛門兼武の子孫の方の中庭に、鉄枠で補強されて休んでいるといいます(四日市市史研究第3号『“すぐ江戸道”の札の辻』より;情報源はこちら)。この道標については、いろいろな状況があるようですが、詳細はリンク先をご覧ください。

Img_8424c_20210511131101 Img_5539c_20210511130201  ちなみに、この道標は、写真(2019年3月24日撮影)にある仏壇店の道をはさんだ右角にあります。ここは、旧南町京方入口付近で、旧東海道が消失する地点です(ここから、諏訪神社の門前までの旧・東海道約50mは、国道1号線を通したため、消失。旧・東海道は、このお宅を斜めに通っていたと思われます。

Img_5557c_20210508170001 Img_5576c_20210508170001  国道1号線諏訪神社前交差点を渡って、諏訪神社へ。諏訪神社は、旧・東海道に面しています。鎌倉時代初期の建仁2(1202)年、信州の諏訪大社の御分霊をこの地に勧請し創祀されたと伝わっています。主祭神は、建御名方命(タケミナカタノミコト)と八重事代主命(ヤエコトシロヌシノミコト;事代主神(コトシロヌシノカミ)ともいいます)で、四日市・浜田の総産土神とされます。ここは、すでに2度ほど来ています。境内社には、稲荷社、山津見社、天神社がありますし、伊勢神宮と明治神宮の遙拝所、さらには明治天皇の御製歌碑もあります。諏訪公園には、誓文御柱(五箇条の御誓文を刻んだ塔)も。境内は一通り見て来ましたが、詳細は割愛します。こちら(20180323近鉄ハイキング「港町、四日市を散策 みやまどさんから四日市臨港をたずねて」へ(オマケ)……四日市旧港の「波止改築記念碑」、諏訪神社の伊勢神宮遙拝所、諏訪公園の「誓文御柱」)をご覧ください。

Dscn5160c 諏訪神社に隣接して諏訪公園があります(写真は、2017年11月28日の撮影)。中世ヨーロッパ調の中庭をイメージした公園として、中央にせせらぎと噴水があります。トリビアですが、公園の地下には、大きな「雨水調整池」があるそうです。すわ公園交流館の係員の方が教えてくださいました。この付近でたびたび洪水が起こり、その水がなかなかひかなかったことから整備されました。平成5(1993)年にできた「諏訪公園雨水調整池」は、長さ48m、幅33.6m、深さは深いところで23mもあり、20,400立方メートルの雨水を貯めることができるといいます。

Img_5566c_20210511144301  公園の北側エリアに、「すわ公園交流館」があります。様々なイベントを企画・開催し、中心市街地活性化をはかるための施設として活用されています。登録有形文化財。もとは、実業家の熊澤一衛が昭和天皇御大典記念事業として、鉄筋コンクリート赤レンガ造り2階建て一部塔屋付きの図書館建物を寄付し、四日市市立図書館として、昭和4(1929)年に開館したもの。

Img_5582c_20210508170001 Img_5588c_20210508170001  諏訪神社の先の東海道は、商店街になっています。その名もスワマエ商店街。諏訪神社の前にある商店街ですし、ここが諏訪神社の表参道の位置づけ。左の写真でアーケードの商店街になっていますが、この道が旧・東海道です。営業していない店もありますが、全体としてはけっこう活気がある商店街です。この商店街で見逃せないのは、大四日市祭に登場する「大入道」の人形(首が伸び縮みします。見たときも伸び縮みしていました)。任下用の前にいるのは、四日市のキャラクターである「こにゅうどうくん」。この商店街を出たところが、今日の東海道歩きの終点。ここまでで8.3㎞。13時10分を過ぎた頃。

Img_5600c_20210508170001 Img_5598c  近鉄四日市駅方面に向かい、一番街で昼食を食べるところを探しました。いろいろと店があって迷ったのですが、なぜか飲み屋さんへ(笑)。本当はここの2階にある「三重人」がいいかと思ったのですが……。アレやコレ屋というお店。隣のテーブルで美味しそうにビールを飲んでいる方も会ったのですが、ランチのみ。ソースカツ丼、¥968(税込み)。美味しかったものの、前期高齢者には、量がやや多く、カツが固め(苦笑)。1時間ほど滞在。

Img_5610c_20210508170001 Img_5617c_20210508170001  ゴールの近鉄四日市駅には、14時30分に到着。北口。14時51分の名古屋行き急行に乗車。桑名には、15時03分着。七里の渡しから近鉄四日市駅までは、3日間(3回)に分けて歩いたのに、たった12分で戻ってこられます(微苦笑)。¥300。現地で歩いたのが8.8㎞、自宅から桑名駅往復が2.2㎞で、合計11.0㎞。歩数は、スマホのALKOOで20,812歩。よく歩きました。ということで、「完」。

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2021年5月11日 (火)

20210508「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第3回「富田~四日市」(その3)……金場延命地蔵、道標2基、多度神社、三ツ谷一里塚跡碑、法泉寺、仏性院からなが餅笹井屋本店まで

210508tomida2  5月8日の「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」の第3回「富田~四日市」の本編その3です。その2は、光明寺という真宗本願寺派のお寺まででした。光明寺の先で東海道は、国道1号線と重なります。1号線に出て、金場延命地蔵(これは、八幡地蔵堂の地蔵と兄弟地蔵)、道標。その後、1号線から逸れて、多度神社と三ツ谷一里塚跡を経て、海蔵川を渡り、法泉寺、仏性院と回って行きます。

Img_5351c_20210508170001  光明寺からすぐに東海道は、左折、右折を繰り返し、国道1号線に出ます。海蔵橋の手前までは東海道と国道1号線は同じルート。その途中、国道の東側に金場延命地蔵があります。交通量が多いので、西側の歩道から写真を撮ったのみですが、ここの地蔵は、その2で書きましたように、八幡地蔵堂の地蔵と兄弟地蔵。もとは、羽津の東海道の南端、二重川(ふたえがわ)にかかる堺橋のたもとの堤(今の金場町交差点付近)にあったのですが、昭和48(1973)年、市道拡幅工事で二重川が埋められたのにともない、ここに移転しています。

Img_5355c Img_5359c_20210510192401  金場町の交差点は、5差路になっています。国道1号線と北から来る県道9号との間に道標があります。東海道と新濃州道の分岐点です。大正12(1923)年に建立された道標。南面には「右 四日市/左 大矢知道」、東面には「右 桑名/左 四日市道」とあります。金場延命地蔵と、この道標は、2019年3月24日の近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅2日目~ 東海道、旅人気分で間の宿・富田から四日市宿へ」で見逃したところでした(2019年3月30日:20190324近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅2日目~ 東海道、旅人気分で間の宿・富田から四日市宿へ」(その3)……「国寶元三大師道」道標、多度神社、三ツ谷一里塚跡、法泉寺を回り、嶋小餅店でみたらし団子を食べ、三滝川を渡る)。これでスッキリ(微笑)。

Img_5374c_20210510193601  国道1号線から多度神社の方に逸れて行くところにも道標があります。「国寶元三大師道」の道標です。これは、垂坂山観音寺への道を示すもの。元三大師(がんざんだいし)は、平安時代の天台宗の僧・良源(りょうげん、延喜12(912)~永観3(985)年)。垂坂山観音寺は、御本尊に良源をまつり、「垂坂山のお大師さん」「元三さん」として信仰を集めており、約1,100年の歴史がある天台宗のお寺。この道標から、北西へ直線距離で約3.5㎞のところにあります。この碑は、大正4(1915)年7月に三ツ谷の森太吉という方が建立しています。森太吉は、「 賣藥界の覇者」と言われます。碑の右側には、「垂坂山観音寺是より二十三丁」と記されています。23丁は、約2.5㎞。

Img_5377c_20210508170001 Img_5385c_20210510201801 この道標からすぐに多度神社があります。この神社は、その名の通り、桑名・多度にある多度大社から分祀された神社。それ故、主祭神は、天津彦根命(あまつひこねのみこと)。創立は、明治18(1885)年。明治40(1907)年、海蔵神社へ合祀されましたが、昭和25(1950)年に復興再建され、現在に至っています。

 Img_5389c_20210510201801 境内には、拝殿の東に南に向いて「慰霊」碑がありました。海蔵地区遺族会が建てたもので、戦没者57柱と戦災没者3柱を祀っています。昭和40(1965)年3月の建立。筆は、当時の田中覚・三重県知事。

Img_5399c_20210508170001  多度神社の、これまたすぐ先(100m足らず)、海蔵川の土手を登る途中の左側に三ツ谷一里塚跡の石碑があります。東海道の三ツ谷には、かつて一里塚がありました。しかし、その場所は昭和20年代に海蔵川が拡幅された際に、川の中に取り込まれてしまいました。「東海道分間之図」(元禄3(1690)年)によると、三ツ谷の一里塚は東海道が海蔵川に突き当った辺りに記されています。このため、平成13(2001)年、東海道宿場・伝馬制度制定四百周年を記念して、海蔵地区地域社会づくり推進委員会がこの場所に一里塚跡の石碑を建てて、後世に伝えることにしたのです。三ツ谷一里塚は、日本橋からは99里。

Img_5406c_20210510202601  旧道には橋がありませんので、国道1号線の海蔵橋に迂回します。海蔵川の堤防は、桜の名所です。海蔵川を渡ると、だんだんと四日市の町に入っていきます。

Img_5431c_20210508170001 Img_5417c  海蔵橋から200mあまりのところ、四日市市京町にあるのが、法泉寺。真宗本願寺派のお寺。四日市にあるのですが、ここは桑名の幕末の歴史を語る上では、外せません。明治元(1868)年、鳥羽伏見の戦いで敗れた桑名藩は恭順を決め、1月23日に先代藩主・松平定猷の嫡子・萬之助(後の松平定教)は家老を引き連れて、四日市の新政府軍陣営(真光寺:朝日町にある真光寺か)に出頭したのですが、実際に幽閉されたのは、ここ法泉寺です。萬之助は、法泉寺に100日間謹慎蟄居して恭順の意を表しました。当時の遺品が残り、寺宝となっているそうです。この時、萬之助はまだ12歳でした。法泉寺では人々の出入りが禁じられましたので、檀家も参詣できずに困ったといいます。

Img_5424c_20210510203001  法泉寺の境内には、太田覚眠師頌徳碑がありました。太田覚眠(慶応2(1866)~昭和19(1944)年)は、四日市出身で、真宗本願寺派の僧。法泉寺16世。明治36(1903)年、年西本願寺の開教師となり、シベリアに渡り、ウラジオストクに駐在。翌明治37(1904)年、日露開戦で強制送還されたが、講和条約締結後再びウラジオストクで布教に当たりました。

Img_5445c_20210508170001 Img_5434c  法泉寺の先に仏性院。浄土宗。ノーマークだったのですが、ふと見たら山門が見えたのです。これは行かねばなりません(微笑)。割と小さなお寺。ネットで調べても、これという情報は得られませんでした。

Img_5441c_20210511072801  境内にはお地蔵様。靖博地蔵尊という説明がありました。昭和19(1944)年1月21日、明野陸軍飛行学校(現在の陸上自衛隊明野駐屯地にある航空学校)北伊勢分教場(三重県鈴鹿郡川崎村(現在の亀山市北東部))を飛び立った複葉機(いわゆる赤とんぼ:日本軍の練習機は目立つように橙色に塗られていたことから別名「赤とんぼ」と呼ばれていました。その代表的な機種は、九三式中間練習機九五式一型練習機)が戦闘訓練中、接触事故を起こし、海蔵川周辺に墜落。林靖博少佐(名古屋市出身、当時27歳)が殉職しました。不憫に思った当地の有力者が発起し、婦人会などの協力を得て浜一色に地蔵尊を建立し、それが令和3(2021)年3月、ここに移転されたとあります。つまり、移転されたばかり。

Img_5454c_20210511110101 Img_5453c_20210511110101  続いて、三滝川を渡ります。橋は、三滝橋。このあたり、道幅は結構広くなっています。この三滝橋、江戸時代は、東海道を往還する人馬でにぎわう土橋でしたが、明治10(1877)年に板橋(長さ42間、幅2.5~3間)に架け替えられ、さらに大正13(1924)年6月には、鉄構橋(長さ約72m、幅6.3m)になっています。橋梁の歩道には、萬古焼陶板で作られた祭の絵や古地図などがあります。

Tokaido43_yokkaichi_20210511110201  ちなみに、歌川広重が「東海道五十三次」で描いた四日市宿は、この三滝橋あたりとされます。絵では、旅人が笠を飛ばされて慌てている光景が描かれています。遠景に船の帆柱らしきが立っていますので、上流側から見ていて、左が桑名宿の方と考えられています。土橋(どばし、つちはし、つちばし)は、一般には丸太を隙間なく並べて橋面を作った木の橋の橋面に土をかけてならした橋だそうです(城における土橋はこれと異なり、堀を横断する通路として設けられる土の堤)。江戸時代まで、日本の川にかかる橋のほとんどは土橋でした。広重の絵は、これとは違ったものになっていますが、実際にはどうだったのでしょう?

210508tomida4  三滝川を渡るあたりから、詳細なマップはその4になります。いよいよ旧四日市宿の中心部へと進みます。第二次大戦の時の空襲で昔の建物は焼失してしまっています。建福寺、四日市陣屋跡、黒川本陣跡、問屋場跡、帯屋脇本陣跡、札の辻、道標と回ります。この道標のあたりから諏訪神社のところまで、短い区間ですが、昔の街道は失われています。諏訪神社からスワマエ商店街を出たところで、今日の東海道のコースは終了。

Img_5461c_20210508170001 Nagamochi  三滝橋を渡った先で旧・東海道は左折します。いささか余談めきますが、三滝橋を渡ったところになが餅の笹井屋本店があります。土蔵造りの建物。天文19(1550)年、戦国時代の頃の創業とされます。初代・彦兵衛が、勢州日永の里に因んでつくったというように、もとは日永に笹井屋はあったようです。あの藤堂高虎も足軽の頃、なが餅のおいしさに感動し「武運のながき餅を食うは幸先よし」と大いに喜んだという話があります。なが餅は、小豆餡を白い搗き餅でくるんで平たく長くのばし、両面を焼香ばしく焼き上げてあります。同様の餅は、東海道や伊勢街道沿いにたくさんあったようですが、現在は、この笹井屋の他、四日市市には太白永餅(金城軒)が、また、桑名には、安永餅(永餅屋老舗と、安永餅本舗柏屋)があります。画像は、永餅屋老舗さんのサイトからお借りしました。小腹が空いたときのおやつに最適です。個人的には、安永餅本舗柏屋さんのものが好みです。

 詳細なマップその4に入って、ちょっと中途半端になりますが、長くなりますから、その3はここまで。その4では、旧四日市宿中心部から諏訪神社、スワマエ商店街へ行きます。

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