20231125「菰野ウォーキング」(その1)……西覚寺、見性寺、廣幡神社、旧横山家住宅、菰野城隅櫓跡から菰野城跡へ
前日から寒くなり、この日がその寒さの底だという予報でしたが、11月25日に「菰野ウォーキング」に行ってきました。2018年が「湯の山温泉開湯1300年記念」ということで、近鉄ハイキングが何回も開催され、それらに参加して、私自身は菰野町をかなり歩きました(2018年9月2日:20180902近鉄ハイキング“「開湯1300年 ゆこうよ 湯の山」菰野藩主土方雄豊公ゆかりの見性寺での開湯1300年記念祭を訪ねて”へ……予告編、2018年10月12日:20181012近鉄ハイキング“「開湯1300年 ゆこうよ 湯の山」こもガク&大日本市菰野博覧会を楽しもう!”(予告編)、2018年10月20日:20181020近鉄ハイキング「芸術の秋!鈴鹿山脈を望み湯ったりウォーキング」へ……菰野駅をスタート、五郎兵衛地蔵、三滝川ジョギングコース、大羽根園運動公園から湯の山温泉駅、観光列車「つどい」もしっかり見てきました(完)、2019年9月16日:20190916近鉄ハイキング「特別企画ハイキング 菰野まるごとハイキング・夏 そろそろ夏納め♪菰野富士ハイキング」……菰野で富士登山(笑)(予告編))。今回は、同級生K氏と二人旅。歩き始めは晴れていたのですが、途中、鈴鹿の山にかかる雪雲からみぞれのようなものが飛んできたり、冷たい風に吹かれたりということもありました。冒頭の写真は、スタートして4㎞あたりの湧水池のあたりから見た鈴鹿山脈。中央に御在所岳があるのですが、上の方はたぶん雪雲におおわれています。桑名では最高気温は13.5℃、最大風速は5.5m/sでした。
近鉄桑名駅を8時22分に出る伊勢中川行き急行に乗り、近鉄四日市駅に8時34分到着。8時50分発の湯の山線湯の山温泉行き普通に乗り換えて、菰野駅に9時9分着。¥560。
こちらがこの日歩いてきた全ルートマップ。主な立ち寄り先は、西覚寺、見性寺、廣幡神社、旧横山家住宅、菰野城隅櫓跡、菰野城跡、瑞龍寺、湧水池、廣幡神社御旅所(旧菰野神社)、五郎兵衛地蔵、湧水池、蟹池(智積養水の水源地)、二分八分、三十三限筒そして智積養水記念公園です。ルートマップ上では、8.5㎞。
詳しいルートマップその1はこちら。 菰野駅のすぐ西に西覚寺。湯の山線を渡って南に行ったところに見性寺。西に向かうと廣幡神社。北に向かい、旧横山家住宅、菰野城角櫓跡、菰野城跡、札の辻、瑞龍寺と進みます。
まずは、宝樹院西覚寺。菰野駅西の踏切の側にあります。浄土真宗大谷派。大変立派な本堂があるお寺ですが、ネットではこれという情報はありませんし、寺にも案内板などはありませんでした。
西覚寺から見性寺に向かう途中で見た鈴鹿山脈。このときは、全体としては晴れていたのですが、山の高いところには雲がかかっています。
真如山見性寺は、臨済宗妙心寺派。菰野藩主・土方氏の菩提寺として、寛永21(1644)年に菰野藩第2代藩主・土方雄高(かつたか)が三霊禅師を尾張国より招き、この地に創建したのが始まりといいます。開山の三霊和尚は臨済初期の高僧で、後に孝明天皇より紫衣と禅師号を賜わっています(こちら)。なお、菰野藩は外様、1万2,000石。
寛文9 (1669)年、火災により庫裡が焼失しましたが、享保11(1726)年、菰野藩5代藩主・土方雄房(かつふさ)が本堂、庫裡、山門を再建立しました。山門は豪壮で、大名の菩提寺にふさわしい、立派なものです。
本堂は禅宗の方丈建築様式です。方丈は、もとは1丈 (約 3m) 四方の部屋の意で、禅宗寺院の住持や長老の居室をさしました。方丈建築様式は、分かりやすく書けば、「多目的建造物」といえそうです(こちら)。本堂に向かって右は、書院の玄関。これは菰野出身の名工・高木藤造の作です。高木藤造は、菰野の城下の川原町、新池の西に屋敷を構え、藩の御用大工を勤めていました。文化5(1808)年の生れ。その一代に見性寺をはじめ石榑の照光寺、中上の遍崇寺、 大強原の随法寺など、多くのお宮、お寺の建築にたずさわった宮大工です。
方丈のとなりには、大師堂があります。3代藩主土方雄豊(かつとよ)夫人寄進の梵鐘があります。この鐘は、寛文3(1663)年、京都の鋳物師近藤丹波掾藤久の作になるもので、鐘銘は2世住職越伝の撰文です。戦争中の供出にも危うく難を免れて保存されているといいます。
本堂の左手、階段を上ったところに土方家歴代藩主の墓所があります。こちらは、階段を上がった正面にある、2代藩主・雄高公のお墓。藩祖である雄氏(かつうじ)公の墓碑は、京都北山の功運院にあります(こちら)。これは、雄氏公が、京都に住んでいたためと思われます。また、土方家の墓地は東京湯島の麟祥院と高野山奥の院にもあるそうです。なお、12代雄永(かつなが)公は神葬の為、墓地はありません。外様大名で、これだけの大きい藩主の墓碑が残るところは珍しいといいます(こちら)。
前回ここに来たときには気づかなかったのですが、藩主墓所の向かい側には藩主夫人などの墓所がありました。左の写真は、初代藩主・雄氏公の正室八重姫(天正16(1588)~延宝7(1679)年)のお墓。八重姫は、織田信雄の娘で、4歳で雄氏と婚約したといいます。幼少期から菰野藩で育ち、藩の草創期の礎を築いた陰の功労者といえ、最近、その業績が見直されているようです。晩年はここ見性寺で座禅三昧の生活を送ったといわれています。また当時としては異例の長寿で92歳の天寿を全うしました。
続いて廣幡神社へ。 旧くは正八幡宮と称し、寛永7(1630)年8月、菰野藩主・土方雄氏公が、京都の石清水八幡宮より勧請し、それ以来、同家の鎮守社となっています。一の鳥居は、金渓川のすぐ北に建っています。神社に行くには、金渓川にかかる廣幡橋を渡って、さらに南へ。擬宝珠の付いた立派な橋は、昭和9(1934)年5月に架けられたとしるされています。
神社は小山の麓の少し高いところにあります。右の写真が、廣幡神社の拝殿。合殿に諏訪神社がありますが、これは、菰野郷草創の社で、村中里民の産土神であったものを、慶長年間に土方家並に藩士の産土神としますが、慶長13(1608)年3月、領主雄高公の命で諏訪神社を南山に奉遷しました。明治4(1871)年10月、菰野県庁の命によって諏訪神社を正八幡宮に合祀して廣幡神社と改称しています。明治40(1907)年から、村内全部の郷社1、村社である倭文神社、菰野神社、平岡神社、日吉神社、江田神社、須賀神社、豊岡御厨神社、春日神社を合祀しました。これだけ合祀したためか、御祭神は、主祭神の誉田天皇(応神天皇)の他、28座もの多数。詳細は、2018年10月25日の記事をご参照ください(20181012近鉄ハイキング「こもガク&大日本市菰野博覧会を楽しもう!」へ(その1)……菰野駅をスタート、西覚寺、忠魂碑・地蔵堂、道標を見て、廣幡神社へ)。ここ廣幡神社の拝殿には、大小様々な絵馬・額があります。それらについても、このリンク先に写真とともに書いていますので、そちらをご覧ください。
廣幡神社にいた頃から空模様が怪しくなってきました。鈴鹿山脈は、雲におおわれ、廣幡神社あたりにもみぞれのようなものが風で飛んでくるのです。寒くて、冷たい!
廣幡神社のすぐ北に旧横山家住宅があります。建物は登録有形文化財で、庭園は登録文化財(名勝地)となっています。一般公開はされてはいないのですが、外からだけでも見てみようと立ち寄ってきました。横山氏は、永禄7(1564)年に菰野地域に移り住んだとされ、江戸時代には菰野藩士で代官を務め、明治時代以降も村長や衆議院議員を輩出しています。
ミルクロードの下、湯の山線の線路脇に菰野城角櫓跡。菰野城(実際には、陣屋)は、このあと訪ねる菰野小学校の所にありました。説明板によれば、菰野藩は外様の小藩でしたので、城の防御に堀や角櫓を設けることは許されず、城の周りに土居を築き、その上に竹木を植え、柵を編み、それを守りとしていたそうです。幕府が滅び、その禁が解け、12代藩主雄永の正室として京都の公家から益子姫を迎えるとき、城域の雰囲気を高めようと領民の力を借りて、明治2(1869)年に堀を掘り、角櫓を建てたといいます。このあたりがその角櫓の跡ということです。
菰野城跡にやって来ました。菰野藩1万2,000石の大名土方氏の代々の居城であったところです。現在は、町立菰野小学校の敷地になっています。菰野城跡の碑があるのは、藩邸の庭園の一部(西南の隅)です。石碑には、「薦野城址」と刻まれています。初代・雄氏公の頃の藩邸はきわめて簡素でしたが、2代・雄高公は城の中心部に館を建て、藩邸の整備を行い、領内の藩士を周囲に住まわせま、四日市街道沿いに東町、庄部、河原町などの街区を整え、城下町造りを行っています。3代・雄豊公が、万治3(1660)年、陣屋の全面修理を行いました。陣屋は大手門、玄関、対面所、御用部屋、書院、奥居間、納戸、台所などに間取りされ、その周りを馬小屋、兵糧庫、武器庫、中間部屋などが取り囲んでいたといいます。現在は、西側と北側に城壕の一部と築地が遺り、また、西南を流れる振子川に面して、角櫓跡があり、その東方に石積の遺構の一部が見られるのですが、角櫓跡以外は見てきていません。
キリがよいので、その1はここまで。その2は、札の辻・高札場跡や瑞龍寺から。
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