お知らせ

  • データの移行について
    2005年10月26日のブログ開始当初から、2024年11月30日までの記事は、「猫の欠伸研究室(アーカイブ)」に移行しました(http://blog.livedoor.jp/taichimaru151/)。 このココログの「猫の欠伸研究室」には、2019年1月以降の記事を残し、2018年12月以前の記事は削除しました(2019年1月1日から2024年11月30日までの記事は、両方にあります)。

レンズを通した自然観察

  • この「レンズを通した自然観察」ということばは、恩師のお一人が、私の趣味を形容しておっしゃったものです。2023年2月7日のブログに書きましたが、実はときどき思い出していることばです。お世話になった先生方はたくさんいらっしゃいますが、この恩師は、就職のことから学位論文の執筆、審査に至るまで本当にお世話になった先生です。「写真の撮り方を指南してもらいたい」ともおっしゃったのですが、これはお世辞と理解しています。私はほぼ隠居状態となって10年以上になりますが、今、改めてこのことばをかみしめています。この先生には結婚式の際に「理論と臨床をつなぐ仕事をするように」ということばをいただきました。体調を崩してそれには十分に応えられませんでしたので、せめてこの「レンズを通した自然観察」については、極めるとまでは行かないにしても、もう少し精進したいと考えています。

ブログ名の由来

  • ブログ名の「猫の欠伸研究室」は、中日新聞の夕刊に連載されている「紙つぶて」というコラム(平成22(2010)年1月13日)に、元新党さきがけ代表の武村正義さんが書いていらっしゃった「人生は猫の欠伸である」というコラムによります。武村さんは、“チベットで鳥葬を取り仕切る僧侶が、「人の生涯は猫の欠伸のようなもの」と語った”と書いていらっしゃいます。「猫の欠伸のようなもの研究室」としたかったのですが、ちょっと間延びしますので、「猫の欠伸研究室」とした次第です。「研究室」とつけたのは、過去、大学に勤めていたことがあるということやら、知らないこと、分からないことがあると何でも調べずにはいられない性分であること、屁理屈、講釈が大好きであることからであります。しかし、「人生の研究をしている」のではありません。「大所高所」からのご高説を開陳できるほどの力量はないが故、「小所低所」からの戯れ言をつぶやくのが精一杯(苦笑)。身の程に合わせ、勝手なことを書き綴っていますので、御用とお急ぎでない皆様には、今後ともご交誼のほど、お願いいたします。是非ともコメントを頂戴し、少しでも世間を広げたいと熱望しております。

モットー

  • 座右の銘というほど立派なものはありませんが、過去に体調を崩し、療養生活を送った経験から、私なりのモットーをつくっています。その一つは、「淡々と飽きもせず……」です。自分では、「……」と余韻を残しているところが気に入っています。こだわりすぎや、やり過ぎはよくありません。若い頃はムキになってやったこともありますが、今はこのように「淡々と飽きもせず……」が自分に合っていると思っています。もう一つは「晴耕雨読」ならぬ「晴歩雨読」です。マンション暮らし故、耕すところはありません。代わりに歩いています。そして、最近(令和3(2021)年に入った頃から)追加したのが、「散歩生活、ときどき仕事」。NHKのテレビ番組に「晴れ、ときどきファーム!」というものがあります。これのもじり。浅学非才の身ですので、ご交誼の上、いろいろとご教示をお願いします。

名所旧跡

2024年11月 5日 (火)

20241103近鉄ハイキング「祝!国宝指定!!『宝塚1号墳出土の船形埴輪』と松阪『氏郷まつり』をたずねて」へ(その2)……松阪市文化財センター「はにわ館」から松坂城跡、御城番屋敷、原田二郎旧宅を経て、氏郷まつりを見て、豪商のまち松阪観光交流センターにゴールにて「完」

241103kintetsumatsusaka3  11月3日に行って来た近鉄ハイキング「祝!国宝指定!!『宝塚1号墳出土の船形埴輪』と松阪『氏郷まつり』をたずねて」の本編その2です。その1では、松阪駅北口をスタートし、御厨神社、アニバーサリー、513Bakeryと回って、鈴の森公園に向かうところまででした。

Img_6857c_20241104125101  松阪市立図書館を過ぎると、鈴の森公園への入口があります。その1でも書きましたように、ここはカネボウ綿糸松阪工場跡。大正12(1923)年に建築された煉瓦倉庫も残っていて、市民ギャラリーとして活用されています。

Img_6861c_20241104170601 Img_7007c_20241104170601  公園内から「はにわ館」へ入ります。はにわ館へは、その煉瓦倉庫を活用した市民ギャラリーのところを通って行きます。この建物は、国の登録有形文化財となっています。

Img_6992c_20241104170701 Img_6883c_20241103161101  こちらが、松阪市文化財センター「はにわ館」。これは煉瓦で作ったようになっていますが、煉瓦倉庫を利用した建物ではありません。

Img_6978c_20241104171301  「伊勢の王墓 宝塚古墳の謎」と、「王権と首長墓の埴輪」の2つの展覧会が開かれています。入館料が¥200のところ、近鉄ハイキング割引で、¥160(団体料金)。写真は、「伊勢の王墓 宝塚古墳の謎」の展示室の入口。パネルが斬新で、カッコイイ。この「宝塚古墳の謎」の方は、フラッシュを焚かなければ、写真撮影可でした(「王権と首長墓の埴輪」展は、個人利用の場合のみ撮影可で、SNSへの利用は不可)。

241103104819788c  こちらが国宝に指定された船形埴輪三重県宝塚1号古墳から出土しています。船形埴輪は、ほぼ完全な形で復元されています。船形埴輪は、大阪府や奈良県をはじめとして全国各地でみつかっていますが、宝塚1号墳の船形埴輪は、全長140cm、円筒台を含めた高さ94cm、最大幅36cmと、これまでにみつかっているものの中では最大規模のものだそうです。さらに特筆すべき特徴として、他に類例のない豪華な装飾がほどこされていることがあげられるといいます。しばし見入ってしまい、横から、裏からとしっかり眺めてきました。

Img_6907c_20241105041701 Img_6914c_20241105041701  ほかにも、宝塚1号古墳から出土した埴輪が展示されていました。左の写真で中央からやや左にあるのは、家形埴輪。右の写真に写っているのは、盾形埴輪。

Img_6926c_20241104185501  宝塚1号古墳の様子も模型で展示されています。宝塚古墳は、松阪市宝塚町・光町にある古墳2基(宝塚1号墳・宝塚2号墳)の総称。松阪市街地から南方約3㎞、阪内川右岸の低丘陵地(南北1㎞・東西1.25㎞)上に築造された古墳2基です。国の史跡に指定され、1号墳から出土した埴輪が国宝に指定されています。宝塚1号古墳は、伊勢地域最大の前方後円墳(全長111m)。

Img_7026c_20241105042301 Img_7046c_20241105042301  船形埴輪をしっかり見て、満足しつつ、次に向かいます。鈴の森公園に隣接してあるのが、MOMO café。ここもパスしたのですが、あとで調べたら、鈴の森公園を見ながら食事やお茶がいただけるそうで、なかなかよい感じ。阪内川を越え、殿町中学から松坂城の裏手を通って、自然生料理本居庵。このあたりは何度も来ていますので、この本居庵があるのは知っていました。自然薯料理の専門店です。この近くには、松坂城跡本居宣長記念館本居宣長ノ宮松阪神社御城番屋敷が集まっています。

Img_7062c_20241103161101  ここは、松坂城の搦手門のところ。松坂城跡も何度も訪ねています(2018年6月23日:20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(その3)……本居宣長旧宅、松坂城跡(まだ書きかけです)、2018年7月6日:20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(その4)……松坂城跡の続きから旧長谷川邸まで)。今回は立ち寄っていませんので、詳しいことは、これらリンク先の記事をご覧ください。

Img_7079c_20241103161101  続いて、御城番屋敷のところを通って行きます(2022年5月31日:20220528松阪ウォーキング(その2)……樹敬寺で本居宣長墓・原田二郎墓所、松阪三珍花の発祥地をめぐり、原田二郎旧宅、松阪工業高校の赤壁校舎から御城番屋敷へ)。ここも今回は通り抜けただけです。詳しいことはリンク先の記事をお読みください。御城番屋敷は、松坂城を警護する「松坂御城番」という役職の武士20人とその家族が住んだ武士の組屋敷です。屋敷には、今も子孫の方が住み、維持管理を行っています。この景色、私の気に入ったところです。松坂城二の丸跡からこの御城番屋敷を見下ろした景色も素晴らしいものです。

241103kintetsumatsusaka4_20241105062501  ここからルートマップは、その4へ。原田二郎旧宅から、氏郷まつりの会場へ。コースマップでは、駅弁のあら竹に寄ってからゴールの豪商のまち松阪観光交流センターに向かうのですが、私は、先にゴールへ。観光交流センターの近くにある三井家発祥の地が、11月の土日は特定公開されていますので、それを見て松阪駅に。氏郷まつりの会場は賑わっていましたので、1本東のお寺が集まっているところを通って、駅弁のあら竹商店を見て、松阪駅南口へ。

Img_7102c_20241103161101  原田二郎旧宅。ここも何度も来ていますので(2022年5月31日:20220528松阪ウォーキング(その2)……樹敬寺で本居宣長墓・原田二郎墓所、松阪三珍花の発祥地をめぐり、原田二郎旧宅、松阪工業高校の赤壁校舎から御城番屋敷へ)、今日はパス。詳しくは、リンク先の記事をご覧ください。

Img_7123c_20241103161101 Img_7132c_20241103164701  氏郷まつりのメイン会場は、日野町交差点。ステージも設けられ、大賑わい。商都松阪の礎を築いた蒲生氏郷公を偲んで開催する氏郷まつりは、今年で63回だそうです。翌日の中日新聞によれば、18万人もの人出だったそうです。観光交流センターに向かう県道60号線も露店やら人出やらで混雑。松阪肉で有名な和田金もこの通りにあります。その和田金の手前を入ると、不二屋というお店があります。以前ここで食べた焼きそばが美味しかったので(2022年6月1日:20220528松阪ウォーキング(その3)……本居宣長ノ宮、松阪神社、松坂城跡から不二屋で焼きそばにて「完」)、もう一度食べようかと思ったのですが、店外まで大行列で断念。

Img_7145c_20241103161101 Img_7139c  こちらがゴールの豪商のまち松阪観光交流センター。今日は、近鉄ハイキングのゴール受付があり、コースマップに印字された番号で、抽選会。

Img_7144c_20241103161101 241104062822246c  私がいただいたマップの番号は、#120。「下1桁が、0、5」はクッキー1枚ということで、プレーン・クッキーをいただいてきました。よくみたら、立ち寄り先の1つであるアニバーサリーの品物でした。

Img_7155c_20241103161101  三井家発祥の地が、11月の土日は特定公開という情報を見ましたので、立ち寄ってきました(こちらに読売新聞オンラインの記事があります)。残念ながら、内部は撮影禁止ということで、外観というか、入口だけ。ここは、三井高利の兄である俊次、弘重の屋敷のいずれかにあたるといわれています。

Img_7159c_20241105064101  大正7(1918)年、 先祖顕彰と事業の安寧を祈念して三井家同族会により、発祥地の整備が開始され、 昭和7(1932)年、 総領家第10代当主で男爵の三井高棟は、 遠祖高俊300年祭の際に発祥地へ記念碑を建立し、保存されてきました。その後、戦後の荒廃と地元有志による維持を経て、昭和31(1956)年、霊廟として整備され、松阪市指定史跡となりました。昭和58(1983)年には、三井家同族会と三井グループ各社が、霊廟・墓所の整備、植樹を実施し、以後、今日まで折節の改修を経て護持されています。現在、ここには高利の祖父高安と父高俊の墓碑、高利の長兄俊次らの供養碑とともに、高利の産湯に使ったという伝承の井戸があります。

 Img_7163c_20241103161101 ここから松阪駅に戻るのですが、メインストリートは大賑わいでしたので、1本東の道へ。岡寺山継松寺(左の写真)など、お寺が集まっている通りです。継松寺ほか、このあたりにあるお寺については、すでに訪ねましたので(2021年10月25日:20211016「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第12回「松阪・小津~松阪駅」(その4)……松阪駅手前で寺めぐりで「完」)、この日は行っていません。詳しくは、リンク先の記事をご覧ください。

Img_7169c_20241103161101 Img_7174c_20241103161101  いったん祭会場のベルタウン前に出て、駅弁のあら竹商店前を通って、松阪駅南口へ。あら竹商店さんの駅弁は買いたかったのですが、それなりのお値段ですので、今日は諦めました。松阪駅南口には、12時10分頃到着。

 1730603479894c 241104062716421c 駅前のまつさか物産交流館で土産に「老伴(おいのとも)」を購入。これ、大好物なのです。6個入りが、税込み¥1,300。実は、これをつくっている柳屋奉善の店の前も通ったのですが、わらび餅などの出店があり、大賑わいでしたので、こちらでゲット。

Img_7188c_20241103161101  昼ご飯を食べ損ねましたので、やむなく駅ナカ・ファミマで弁当を購入。次の名古屋行き急行は、12時33分でしたので、ホームのベンチでランチタイム(笑)。年を取って、恥ずかしげもなく、こういうことができるようになりました。これも進歩でしょうか?? 今日は、「助六おかずセット(税込み¥498)」。12時33分の名古屋行き急行に乗り、桑名には13時40分着。¥1,140。桑名から松阪は結構遠いな、と思うようになりました。

Screenshot_20241103095153c  今日は、松阪駅で、エキタグのデジタルスタンプをゲットしてきました。これで9個目。なかなか増えませんが、地道に集めましょう。

Screenshot_20241103140130c  歩いた距離は、Google Fitのデータでは、9.3㎞。原地では、6.5㎞ほどですから、これくらいでしょう。歩数は、15,655。普段の散歩より5割増しくらいの歩数でした。この日は、高低差はあまりありませんでしたので、筋肉痛にはなっていません。

2024年11月 4日 (月)

20241103近鉄ハイキング「祝!国宝指定!!『宝塚1号墳出土の船形埴輪』と松阪『氏郷まつり』をたずねて」へ(その1)……松阪駅をスタートし、御厨神社から、アニバーサリー、513Bakeryを見て、鈴の森公園に向かう

Img_6730c_20241103161001  前日とは打って変わって好天に恵まれました。北西の風がやや強かったものの、桑名では最高気温は24.5℃となり、ハイキング日和。予定通りに、近鉄ハイキング「祝!国宝指定!!『宝塚1号墳出土の船形埴輪』と松阪『氏郷まつり』をたずねて」に行って来ました。氏郷まつりは、2度見たことがありますし(2019年11月4日:20191103近鉄ハイキング「蒲生氏郷を訪ねて 氏郷まつりと松阪城下町散策」へ(完)【付記(11/4)中日新聞の記事を載せました】、2018年11月4日:20181103近鉄ハイキング「蒲生氏郷を訪ねて 氏郷まつりと松阪城下町散策」へ……予告編)、松阪には何度も訪れています。今回は、船形埴輪をぜひとも見たいと思って出かけたのです。桑名駅を8時42分に出る五十鈴川行き急行に乗車。松阪には、9時48分着。¥1,140。

Img_6726c_20241103161001 241103kintetsumatsusaka0  こちらが本日のコースマップ。松阪にはもう何度も来ていますが、駅から北の方、川井町あたりには行ったことがありません。松阪駅北口をスタートし、主な立ち寄り先は、御厨神社、アニバーサリー、513 BAKERY三重松阪川井町店、松阪市文化財センター「はにわ館」、MOMO café、自然生料理本居庵、原田二郎旧宅、氏郷まつり会場、駅弁のあら竹と回って、豪商のまち松阪 観光交流センターがゴール。ここから松阪駅南口までは徒歩約10分。右が実際に歩いたルートマップ。指定されたコースを若干、勝手に変え、また、ほかにも立ち寄ってきたところがあります。9時55分にスタート。

241103kintetsumatsusaka1  こちらは詳しルートマップその1。松阪駅北口(近鉄側)をスタートし、線路に沿って進み、継松寺の裏で右折し、御厨神社を目指します。その後、阪内川を越え、川井町に向かいますが、しばらく立ち寄るところはありません。

Img_6807c_20241104053601  御厨神社。当社の創始については詳らかなことはわかりませんが、大化2(646)年頃、神宮の御厨所として 飯高郡下ツ牧(現、平生)に創建されたと伝えられています。天正12(1584)年、 蒲生氏郷が四五百(よいほの)森に松坂城を開府する際、当社の尊厳を考え城郭の大手先に奉遷しましたが、元和6(1620)年、紀州藩主徳川頼宣の家臣・長野九左衛門が城の鬼門の鎮守として現在地に遷宮されています。明治41(1908)年に八幡神社、奥津彦神社、市岐島姫神社を合祀しています。鳥居に向かって右手に、嘉永3(1850)年、紀州藩主・徳川斉彊(なりかつ)が奉納した「境内殺生禁断」の石標があったのですが、見逃してしまいました。鳥居の奥には、神門があります。

Img_6757c_20241103161001  神社検索(三重)の説明によれば、御祭神は、建速須佐之男命、加夫呂岐命(素戔嗚尊の荒魂か?)、火産霊命木花之開耶姫命大山祇命奥津彦命、奥津姫命応神天皇宇迦之御魂命市岐島姫命。旧郷社。ちなみに、本居宣長も当社を常に尊崇し、多数の図書を献じています。ちなみに、夏に行われる「松阪祇園まつり三社みこし」では、ここ御厨神社と、松阪神社、八雲神社から御輿が出るそうです。

Img_6767c_20241104121301  境内神社には、三囲(みめぐり)稲荷神社、髙春稲荷神社、大山祇神社、猿田Img_6787c_20241104115401彦神社、祓所社があります。左の写真は、三囲稲荷神社。この神社は宇迦御魂之命を祭神として、豪商三井家祖先の祈願社で東京向島の三囲神社の分霊が祀られ、松阪の三井家の下屋敷から移されたといいます。ちなみに、右の写真の髙春稲荷神社は、井村屋製菓にゆかりの深い稲荷社で、毎年5月の例祭には、同社からも出席され、また、同社の津工場にある「幸春稲荷」はこの分霊を祀っているといいます。

Img_6799c_20241104121601  境内には、宮城遙拝所もありました。

241103kintetsumatsusaka2  御厨神社から1㎞ほど歩くと、松阪地区消防本部の前を通って、川井町1丁目交差点に出ます。ここを左折。県道59号線に出て、南西に向かいます。

Img_6836c_20241104122301 Img_6844c_20241104122301  途中、立ち寄り先として、2ヶ所が示されています。まずは、アニバーサリーというカフェ、ケーキ&スイーツなどのお店。さらに、松阪市民文化会館前の交差点のところに、513 Bakery三重松阪川井町店。桑名の大山田にもありますが、松阪発祥のパン屋さんだそうです。例によって(こういうお店、申し訳ないのですが、たいていは立ち寄らないのです)、どちらも写真を撮っただけでパス。

241103kintetsumatsusaka3 Img_6857c_20241104125101  松阪市民文化会館前の交差点で左折。いよいよ鈴の森公園にある松阪市文化財センターに向かいます。ここには、カネボウ綿糸松阪工場がありました。工場が、平成5(1993)年に閉鎖された跡地を利用して、公園になっています。大正12(1923)年建築の赤レンガの綿糸倉庫を活用したギャラリーがあり、市民の芸術活動の場として利用されています。また、宝塚古墳から出土した船形埴輪を常設展示している文化財センター「はにわ館」もあります。ちなみに、カネボウ綿糸は、昭和52(1977)年に、鐘紡本体から綿紡織部門が分離してつくられた会社のようです。

 キリがよいので、その1はここまで。その2は、松阪市文化財センター「はにわ館」から。

2024年11月 3日 (日)

20241103近鉄ハイキング「祝!国宝指定!!『宝塚1号墳出土の船形埴輪』と松阪『氏郷まつり』をたずねて」へ(予告編)

Img_6730c_20241103161001  昨日とは打って変わって好天に恵まれました。北西の風がやや強かったものの、桑名では最高気温は24.5℃となり、ハイキング日和。予定通りに、近鉄ハイキング「祝!国宝指定!!『宝塚1号墳出土の船形埴輪』と松阪『氏郷まつり』をたずねて」に行って来ました。桑名駅を8時42分に出る五十鈴川行き急行に乗車。松阪には、9時48分着。¥1,140。

Img_6726c_20241103161001 241103kintetsumatsusaka0  こちらが本日のコースマップ。松阪にはもう何度も来ていますが、駅から北の方、川井町あたりには行ったことがありません。主な立ち寄り先は、松阪駅北口をスタートし、御厨神社、アニバーサリー、513 BAKERY 三重松阪川井町店、松阪市文化財センター「はにわ館」、MOMO café、自然生料理 本居庵、原田二郎旧宅、氏郷まつり会場、駅弁のあら竹と回って、豪商のまち松阪 観光交流センターがゴール。ここから松阪駅南口までは徒歩約10分。右が実際に歩いたルートマップ。指定されたコースを若干、勝手に変え、また、ほかにも立ち寄ってきたところがあります。9時55分にスタート。

Img_6757c_20241103161001  最初の立ち寄り先は、御厨神社。大化2(646)年頃、神宮の御厨所として 飯高郡下ツ牧(現、平生)に創建されたと伝えられています。天正12(1584)年、 蒲生氏郷が四五百(よいほの)森に松坂城を開府する際、当社の尊厳を考え城郭の大手先に奉遷しましたが、元和6(1620)年、紀州藩主徳川頼宣の家臣・長野九左衛門が城の鬼門の鎮守として現在地に遷宮されています。主祭神は、建速須佐之男命、神明神。このあと、アニバーサリー、513 BAKERY 三重松阪川井町店に行くことになっていますが、私は例によって通過。写真だけ撮っていますが、予告編では割愛します。

Img_6883c_20241103161101 Img_6992c_20241103161101  松阪市文化財センター「はにわ館」には、10時40分過ぎに到着。私としては、ここが今日のハイキングの主たる目的地。国宝に指定された船形埴輪が見られるのです。現在、特別展「王権と首長墓の埴輪」が開催されていて、入館料は¥200のところ、近鉄ハイキング割引で¥160。

241103104819788c  こちらがその船形埴輪。三重県宝塚1号古墳から出土しています。船形埴輪は、ほぼ完全な形で復元されています。船形埴輪は、大阪府や奈良県をはじめとして全国各地でみつかっていますが、宝塚1号墳の船形埴輪は、全長140cm、円筒台を含めた高さ94cm、最大幅36cmと、これまでにみつかっているものの中では最大規模のものだそうです。さらに特筆すべき特徴として、他に類例のない豪華な装飾がほどこされていることがあげられるといいます。しばし見入ってしまい、横から、裏からとしっかり眺めてきました。このあと、MOMO café、自然生料理 本居庵は、通過。

Img_7062c_20241103161101 Img_7079c_20241103161101  松坂城跡の前を通って(2018年6月23日:20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(その3)……本居宣長旧宅、松坂城跡(まだ書きかけです)、2018年7月6日:20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(その4)……松坂城跡の続きから旧長谷川邸まで)、御城番屋敷のところを歩いて(2022年5月31日:20220528松阪ウォーキング(その2)……樹敬寺で本居宣長墓・原田二郎墓所、松阪三珍花の発祥地をめぐり、原田二郎旧宅、松阪工業高校の赤壁校舎から御城番屋敷へ)、原田二郎旧宅に向かいます。このあたりは、私のお気に入りのところです。

Img_7102c_20241103161101  こちらが原田二郎旧宅。何度も来ていますので(2022年5月31日:20220528松阪ウォーキング(その2)……樹敬寺で本居宣長墓・原田二郎墓所、松阪三珍花の発祥地をめぐり、原田二郎旧宅、松阪工業高校の赤壁校舎から御城番屋敷へ)、今日はパス。

Img_7123c_20241103161101 Img_7132c_20241103164701  氏郷まつりの会場は、日野町交差点(左の写真)を中心に東西南北の道路が、歩行者天国になり、またステージも設けられています。大賑わいです。右は、あの和田金の前を通って、ゴールの豪商のまち松阪観光交流センターに向かう途中。和田金の手前を入ると、不二屋というお店があります。以前ここで食べた焼きそばが美味しかったので(2022年6月1日:20220528松阪ウォーキング(その3)……本居宣長ノ宮、松阪神社、松坂城跡から不二屋で焼きそばにて「完」)、もう一度食べようかと思ったのですが、店外まで大行列で断念。

Img_7145c_20241103161101 Img_7139c  こちらがゴールの豪商のまち松阪観光交流センター。今日は、近鉄ハイキングのゴール受付があり、コースマップに印字された番号で、抽選会。

Img_7144c_20241103161101  私がいただいたマップの番号は、#120。「下1桁が、0、5」はクッキー1枚ということで、プレーン・クッキーをいただいてきました。よくみたら、立ち寄り先の1つであるアニバーサリーの品物でした。

Img_7155c_20241103161101  三井家発祥の地が、11月の土日は特定公開という情報を見ましたので、立ち寄ってきました(こちらに読売新聞オンラインの記事があります)。残念ながら、内部は撮影禁止ということで、外観というか、入口だけ。

Img_7163c_20241103161101  ここから松阪駅に戻るのですが、メインストリートは大賑わいでしたので、1本東の道へ。岡寺山継松寺(左の写真)など、お寺が集まっている通りです。

Img_7169c_20241103161101 Img_7174c_20241103161101  いったん祭会場のベルタウン前に出て、駅弁のあら竹商店前を通って、松阪駅南口へ。あら竹商店さんの駅弁は買いたかったのですが、それなりのお値段ですので、今日は諦めました。松阪駅南口には、12時10分頃到着。

1730603479894c Img_7135c_20241103170001  駅前のまつさか物産交流館で土産に「老伴」を購入。6個入りが、税込み¥1,300。実は、柳屋奉善の店の前も通ったのですが、わらび餅などの出店があり、大賑わいでした。

Img_7188c_20241103161101  昼ご飯を食べ損ねましたので、やむなく駅ナカ・ファミマで弁当をゲット。次の名古屋行き急行は、12時33分でしたので、ホームのベンチでランチタイム(笑)。年を取って、恥ずかしげもなく、こういうことができるようになりました。これも進歩でしょうか?? 今日は、「助六おかずセット(税込み¥498)」。12時33分の名古屋行き急行に乗り、桑名には13時40分着。¥1,140。

Screenshot_20241103095153c  今日は、松阪駅で、エキタグのデジタルスタンプをゲットしてきました。これで9個目。

Screenshot_20241103140130c  歩いた距離は、Google Fitのデータでは、9.3㎞。原地では、6.5㎞ほどですから、これくらいでしょう。歩数は、15,655。普段の散歩より5割増しくらいの歩数でした。今日は、高低差はあまりありませんでしたので、筋肉痛になるようなことはないと思います。記事の本編は、また明日以降に。

2024年10月28日 (月)

20241026JRさわやかウォーキング「亀山の広大な茶畑を歩く」へ(その2)……亀山公園、ますみ児童公園、多聞櫓、石井兄弟敵討遺跡石碑、伊勢亀山 備中松山藩主交替之碑から亀山駅にゴールにて「完」

20241026jrwalkingkameyama2  10月26日(土)に行ってきたJRさわやかウォーキング「亀山の広大な茶畑を歩く」の本編その2です。その1では、JR関西線井田川駅をスタートし、能褒野神社、中の山パイロットまで来ました。中の山パイロットを通り抜けて、アイリス町、亀田町、羽若町と進み、亀山公園に行きます。このあたりもアップダウンがあり、この日、歩くのは大変でした。

Img_6546c_20241027145001 Img_6542c_20241027145001  亀田町に法蔵寺という浄土宗のお寺がありましたので、覗いてみました。由緒書きもありませんし、ネットでもほとんど情報は出て来ません。あるブログには、子育て観音があり、安産祈願もできるとありました。

Img_6569c_20241027145001  この先は、亀山市立医療センターの近くで左折し、南下。羽若町の町中を通って、亀山公園に向かうのですが、狭い町中の道をあちこちぐねぐねと歩きます。途中で2箇所ほど、こういうものがあるのに気づきました。津島神社の御札を祀った祠があるのです。調べてみたら、亀山市歴史博物館こちらのサイトにある天王信仰の風習と関連していると思われます。リンク先の記事の中に、「亀山地区の羽若町の辻天王さんは、疫病が流行った時に子供を守るためにまつった神様だといわれている」とあります。

Img_6582c  くどいのですが、羽若町から亀山公園にいたるあたりも、相当のアップダウンがありました。ヘトヘトになりながら、スタートから9.7㎞ほどで亀山公園の公園池までやって来ました。亀山公園へは、5年前に花しょうぶまつりを見に来ています(2019年6月9日:20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(予告編)……雨にも負けず(苦笑))。このときは、ブログ記事のタイトルにもありますように、雨に降られて大変でした。写真で、右手にある赤い橋の奥が、花菖蒲園になっています。

 Img_6609c_20241026161101 Img_6624c_20241026161101 上の写真の赤い橋を渡って、さらに上った先にますみ児童公園があります。ここには、C58-359という蒸気機関車が保存されています。第二次大戦中の昭和19(1944)年につくられた客貨両用のもんで、昭和45(1970)年に廃車になっています。主に関西線で活躍した蒸気機関車です。

Img_6621c_20241026161101  ますみ児童公園でで11時半頃でしたので、お昼を食べることにしました。亀山駅のすぐ近くには、食事をするところがほとんどありませんので、あらかじめ桑名でコンビニ弁当を仕入れてきたのです。さらに、ここで昼ご飯にするとちょうどよいとも見込んでいました。ファミマの「おむすび&焼きそばセット(税込み¥420)」。最近は、これくらいの量でちょうどよくなりました(苦笑)。

Img_6638c_20241026161201 Img_6645c_20241026161201  11時45分に再出発。旧亀山城のところを通って亀山駅に向かいます。ここには多聞櫓があります。この多聞櫓は、天守台と呼ばれる本丸高石垣上にあり、寛永 9(1632)年頃に築造されたと考えられています。三重県で唯一現存する城郭建造物で、県史跡。何度か内部を見学していますので(2019年6月9日:20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(予告編)……雨にも負けず(苦笑))、今日はパス。多門櫓近くには、亀山神社、亀山演武場、明治天皇行在所旧蹟などがありますが、今回は訪ねていません。以前のブログ記事をご覧ください(2019年6月17日:20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(その3)……雨の中、亀山古城跡、花しょうぶまつり、亀山城多門櫓から亀山神社へ、2019年6月19日:20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(その4)……亀山演武場、明治天皇行在所、いくつかの石碑と姫垣外苑からでころぼ坂を経て亀山駅にゴール(完)

Img_6648c_20241027152201  亀山城址をあとにして、池の側の畔を歩いて行くと、「石井兄弟敵討遺跡石碑」があります。元禄14(1701)年5月9日早朝に、石井源蔵(33歳)・半蔵(30歳)兄弟が、28年目にして父の敵・赤堀水之助を、ここ亀山城石坂門外で討ち取ったことを記念して、昭和7(1932)年に亀山保勝会によって建立されたものです。本懐を遂げた石井兄弟は、旧主の青山忠重に帰参を許されています。当時「元禄曽我兄弟」と称され、歌舞伎、講談、絵本、浮世絵などに取り上げられ、赤穂浪士の討ち入りと並び賞賛されました。

Img_6659c_20241026161201  亀山駅に行く途中、これまで見落としていたものに気づきました。田中病院の前あたりに「伊勢亀山 備中松山藩主交替之碑」というものがあったのです。亀山ライオンズクラブと高梁ライオンズクラブが、平成元(1989)年に建てています。亀山藩主であった板倉勝澄(かつずみ)が、延享元(1744)年、備中松山に移り、石川総慶(ふさよし)が、備中松山から亀山に替わったのです。石川市は、慶安4(1651)年から寛文9(1669)年まで亀山に在城しましたので、75年ぶりに旧領に戻ったことになります。板倉氏とは、2度目の交替だそうです。

Img_6666c_20241026161201  この石碑からもう少し下ったところからも、旧亀山城多聞櫓がよく見えます。この眺めもなかなかのものです。

Img_6674c_20241026161201 Img_6678c_20241026161201  JR関西線亀山駅には、12時頃到着。ゴール受付で、参加ポイントをいただき、12時24分の関西線名古屋行き快速に乗車。四日市から快速になります。桑名駅には、13時8分着、¥680。亀山駅で何か、土産を売っていないかと思ったのですが、今日は何も店は出ておらず(キオスクは、数年前に廃止されています)。3月に来たときには、臨時の販売ブースが出ていて、関宿の銘菓である「志ら玉」を買っています(2024年3月3日:20240303JRさわやかウォーキング「本能寺の変、家康公も通ったと言い伝えのある隠れ古道を歩こう」へ(予告編))。

Screenshot_20241026133016c Screenshot_20241026133025c  左の画像は、スマホアプリの「からだメイト」の記録。右は、同じくGoogle Fitのデータ。歩数は、ほぼ一緒で、22,000歩前後でしたが、歩いた距離は、16.3㎞と、13.7㎞。現地で歩いたのは、10.8㎞+αです。自宅から桑名駅往復は、2㎞あまりですから、やはりGoogle Fitの方が実際に歩いた距離に近いかも知れません。

2024年10月27日 (日)

20241026JRさわやかウォーキング「亀山の広大な茶畑を歩く」へ(その1)……井田川駅をスタートし、能褒野神社、中の山パイロット(亀山茶畑)へ

Img_6258c_20241027123701 Img_6270c_20241027123701  10月26日(土)に行って来たJRさわやかウォーキング「亀山の広大な茶畑を歩く」の本編その1です。当日は、ほぼ曇りの1日です。気温も、18.4~23.3℃とあまり上がりませんでしたが、ちょっと蒸した感じ。桑名駅を8時14分に発車するJR関西線亀山行き普通に乗車。スタートの井田川駅には8時54分着。¥590。案外たくさんの人が下車して、さわやかウォーキングに参加していました。

Img_6267c Img_6272c_20241026161001  いつものように、JRさわやかウォーキングのスタート看板。これを撮影しないと、JRさわやかウォーキングに来た気がしないのです。コースマップを受け取り、9時5分にスタート。

20241026jrjwalkingkameyama 20241026jrwalkingkameyama1  こちらの画像は、実際に歩いてきたルート。全体で10.8㎞ほど。井田川駅をスタートして、みどり町という住宅団地を通って行きます。かなりアップダウンがあり、結構きついコースです。このあとも同様で、キョリ測で見ると、標高60~80mのアップダウンが4箇所ありました。安楽川を越えて能褒野(のぼの)神社へ。少し戻って田園地帯を3㎞ほど歩いて、中の山パイロットという茶畑へ。ここで茶畑を通り抜けるのに約30分。実に広い茶畑でした。亀山公園、旧亀山城多聞櫓を経て、亀山駅へ。右は、少し詳しくしたルートマップその1。

Img_6283c  井田川駅前には日本武尊の石像があります。その向かって右手には、古事記に見える日本武尊の歌「倭は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる倭しうるはし」を刻んだ石碑。「大和は(これまで渡り歩いた国々と比べても)素晴らしい国だ。青く重なり合うように連なった山々に囲まれている大和はとても美しい」といった意味。

Img_6301c_20241026161001  こちらは、亀山市みどり町あたり。井田川駅から国道1号線を越えて、このような上り坂が続いています。歩き始めて早々から、こういう坂道は結構キツいものがあります。国道1号線を越えて少し上ったところを右に入ると、みどり町第4公園があり、そこは井田川茶臼山古墳の跡地。寄って、見たい気もしたのですが、とくに遺構はなさそうでしたので、パス。

Img_6331c_20241026161001  Img_6347c_20241027142101 みどり町を越えて、安楽川を能褒野橋で渡ると、能褒野神社に至ります。ここは、ぜひとも来てみたかったところ。

Img_6366c_20241026161101 Img_6369c_20241027142301  境内は広く、長い参道は神聖な雰囲気を醸し出しています。このあたり一帯には日本武尊の陵墓と伝えられる古墳がいくつかありましたが、明治12(1879)年に「王塚」あるいは「丁字塚」と呼ばれていた前方後円墳(現在の能褒野王塚古墳)が、内務省によって「能褒野墓」に治定されました。その後、地元の有志により日本武尊の遺徳をしのぶため能褒野陵周辺での神社の創建が企画され、明治28(1895)年に社殿が竣工し、神宮祭主・賀陽宮邦憲王より御霊代を拝戴して鎮座祭がとりおこなわれました。

Img_6390c_20241026161101  主祭神は、日本武尊。相殿神は、建貝児王(たけかいこのみこ:日本武尊の妃である穴戸武媛(あなとのたけひめ)が産んだ日本武尊の子という)と、弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと:日本武尊の妃)。

Img_6351c_20241027142501  二ノ鳥居の南に「左 日本武尊御墓参道」という石碑が建っています。事前によく調べなかったのですが、ここを左に向かい、下って回り込むと、日本武尊の陵墓があるようでしたので、行ってみました。ほかの参加者の方でこちらに行く方はほとんどありません。実にもったいない。

Img_6416c_20241026161101  こちらが、「能褒野墓(のぼののはか)」。宮内庁によって、第12代景行天皇皇子の日本武尊の墓に治定されています。実際の被葬者は明らかでありません。全長90mにおよぶ前方後円墳です。古墳の周囲には、大小10数基の陪冢(ばいちょう:円墳)があると考えられ、能褒野神社とその一帯が古墳群となっています。宮内庁の管轄ですので、陵墓の入口は門で閉じられていて、柵越しに古墳を見ます。

Img_6470c_20241026163401 Img_6455c_20241027143401  これで念願が果たせました。こう書くといけませんが、私にとって、コースの残りの部分はオマケ。オマケにしては先が長いのですが……。能褒野橋を戻り、橋を越えたところで右折。田園地帯を、とくに立ち寄るところもなく、約3㎞をひたすら歩いて行きます。ほとんど平坦なところでしたから、歩くのには楽なのですが、立ち寄るところがないというのは、ちょっと苦痛。そういえば、能褒野橋の袂に「まむし注意」という看板があって、少しビビりました。

Img_6478c_20241027143501  スタートから5㎞を過ぎたあたりから、茶畑になります。このあたりから再び上り道になります。けっこうたくさんの参加者がいたのですが、このあたりに来ますと、皆ばらけてしまって、前後を歩く人も少なくなっています。この写真のところについたのが、10時25分頃。

Img_6492c_20241026161101 Img_6496c_20241026161101  この茶畑が、中の山パイロット(亀山茶畑)です。今日は、第26回亀山青空お茶まつりが開催されていました。大きな給水タンクがあるところが、その会場。茶摘み体験、手もみ実演、亀山茶カフェ、電子レンジによるお茶づくり、フォトコンテスト表彰式、農産物販売などが行われていましたが、立ち寄っては来ませんでした。今朝の中日新聞三重版にこのお茶まつりの記事があり、それによれば、「亀山茶の歴史は古く、約1100年前に現在の四日市市水沢町で空海直伝の茶の木が植えられ、そこから鈴鹿山脈にお茶の栽培が広がったとされる」といいます。

Img_6504c_20241026161101 Img_6516c_20241026161101  ここは、本当に広大な茶畑。若い頃、隣の鈴鹿市で働いていましたので、「中の山パイロット」という名前はわずかに記憶があったのですが、これほど広い茶畑とは思ってもみませんでした。初めに書きましたが、この茶畑を通り抜けるのに、約30分を要しました。ルートマップで「中の山パイロット」と書いたあたり一帯が、茶畑なのです。5.5㎞あたりから約2㎞にわたって続いていました。しかも、もっとも高いところで標高80m、低いところで40mというアップダウンが3箇所もあり、参りました。毎日散歩をしてはいますが、ほとんど平坦なところしか歩いていませんから。

 立ち寄るところが少ないので、短い記事ですが、その1はここまで。

2024年10月26日 (土)

20241026JRさわやかウォーキング「亀山の広大な茶畑を歩く」へ(予告編)

Img_6267c  ほぼ曇りの1日です。気温も、18.4~23.3℃とあまり上がっていません。予定通り、JRさわやかウォーキング「亀山の広大な茶畑を歩く」に行って来ました。桑名駅を8時14分に発車するJR関西線亀山行き普通に乗車。スタートの井田川駅には8時54分着。¥590。案外たくさんの人が下車して、さわやかウォーキングに参加していました。今日のところは、予告編。

Img_6272c_20241026161001 20241026jrjwalkingkameyama  コースマップを受け取り、9時5分にスタート。右の画像は、実際に歩いてきたルート。10.8㎞ほど。井田川駅をスタートして、みどり町という住宅団地を通って行きます。かなりアップダウンがあり、結構きついコースです。このあとも同様で、キョリ測で見ると、標高60~80mのアップダウンが4箇所ありました。安楽川を越えて能褒野神社へ。少し戻って田園地帯を3㎞ほど歩いて、中の山パイロットという茶畑へ。ここで茶畑を通り抜けるのに約30分。実に広い茶畑でした。亀山公園、旧亀山城多聞櫓を経て、亀山駅には12時少し前に到着。

Img_6301c_20241026161001  こちらは、亀山市みどり町あたり。井田川駅から国道1号線を越えて、このような上り坂が続いています。歩き始めて早々から、こういう坂道は結構キツいものがあります。

Img_6331c_20241026161001 Img_6390c_20241026161101  スタートから約2.6㎞、9時35分頃に能褒野神社に到着。ここは、ぜひとも来てみたかったところ。主祭神は、日本武尊。相殿神は、建貝児王(たけかいこのみこ:日本武尊の妃である穴戸武媛(あなとのたけひめ)が産んだ日本武尊の子という)と、弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと:日本武尊の妃)。このあたり一帯には日本武尊の陵墓と伝えられる古墳がいくつかありましたが、明治12(1879)年に「王塚」あるいは「丁字塚」と呼ばれていた前方後円墳(現在の能褒野王塚古墳)が、内務省によって「能褒野墓」に治定されました。その後、地元の有志により日本武尊の遺徳をしのぶため能褒野陵周辺での神社の創建が企画され、明治28(1895)年に社殿が竣工し、神宮祭主・賀陽宮邦憲王より御霊代を拝戴して鎮座祭がとりおこなわれました。

Img_6416c_20241026161101  こちらが、「能褒野墓(のぼののはか)」。宮内庁によって、第12代景行天皇皇子の日本武尊の墓に治定されています。実際の被葬者は明らかでありません。

Img_6470c_20241026163401  能褒野神社からは、少し戻って、安楽川を渡り、田園地帯を3㎞ほど進みます。

Img_6492c_20241026161101 Img_6496c_20241026161101  亀山茶畑/中の山パイロットの入り口についたのが、10時25分頃。今日は、第26回亀山青空お茶まつりが開催されていました。大きな給水タンクがあるところが、その会場。茶摘み体験、手もみ実演、亀山茶カフェ、電子レンジによるお茶づくり、フォトコンテスト表彰式、農産物販売などが行われていましたが、立ち寄っては来ませんでした。

Img_6504c_20241026161101 Img_6516c_20241026161101  ここは、本当に広大な茶畑。若い頃、隣の鈴鹿で働いていましたので、「中の山パイロット」という名前はわずかに記憶があったのですが、これほど広い茶畑とは思ってもみませんでした。初めに書きましたが、この茶畑を通り抜けるのに、約30分を要しました。ルートマップで「中の山パイロット」と書いたあたり一帯が、茶畑なのです。5.5㎞あたりから約2㎞にわたって続いていました。

Img_6582c  国道1号線を越えて羽若町の街中を過ぎると、亀山公園に入ります。亀山公園には、5年前に花しょうぶまつりを見に来ています(2019年6月9日:20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(予告編)……雨にも負けず(苦笑))。写真で、右手にある赤い橋の奥が、花菖蒲園になっています。

Img_6609c_20241026161101 Img_6624c_20241026161101  こちらは、ますみ児童公園にあるC58-359。第二次大戦中の昭和19(1944)年につくられ、昭和45(1970)年に廃車になっています。主に関西線で活躍した蒸気機関車です。

Img_6621c_20241026161101  ますみ児童公園で11時半頃でしたので、お昼を食べることにしました。亀山駅のすぐ近くには、食事をするところがほとんどありませんので、あらかじめ桑名でコンビニ弁当を仕入れてきたのです。さらに、ここで昼ご飯にするとちょうどよいとも見込んでいました。ファミマの「おむすび&焼きそばセット(税込み¥420)」。最近は、これくらいの量でちょうどよくなりました。

Img_6645c_20241026161201 Img_6638c_20241026161201  11時45分に再出発。旧亀山城のところを通って亀山駅に向かいます。ここには多聞櫓があります。多聞櫓は、天守台と呼ばれる本丸高石垣上にあり、寛永 9(1632)年頃に築造されたと考えられています。三重県で唯一現存する城郭建造物で、県史跡。何度か内部を見学していますので(2019年6月9日:20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(予告編)……雨にも負けず(苦笑))、今日はパス。

Img_6659c_20241026161201  亀山駅に行く途中、これまで見落としていたものに気づきました。田中病院の前あたりに「伊勢亀山 備中松山藩主交替之碑」というものがあったのです。亀山ライオンズクラブと高梁ライオンズクラブが、平成元(1989)年に建てています。亀山藩主であった板倉勝澄が、延享元(1744)年、備中松山に移り、石川総慶が、備中松山から亀山に替わったのです。石川市は、慶安4(1651)年から寛文9(1669)年まで亀山に在城しましたので、75年ぶりに旧領に戻ったことになります。板倉氏とは、2度目の交替だそうです。

Img_6674c_20241026161201 Img_6678c_20241026161201  JR関西線亀山駅には、12時頃到着。ゴール受付で、参加ポイントをいただき、12時24分の関西線名古屋行き快速に乗車。四日市から快速になります。桑名駅には、13時8分着、¥680。亀山駅で何か、土産を売っていないかと思ったのですが、今日は何も店は出ておらず(キオスクは、数年前に廃止されています)。

Screenshot_20241026133016c Screenshot_20241026133025c  左の画像は、スマホアプリの「からだメイト」の記録。右は、同じくGoogle Fitのデータ。歩数は、ほぼ一緒で、22,000歩前後でしたが、歩いた距離は、16.3㎞と、13.7㎞。現地で歩いたのは、10.8㎞+αです。自宅から桑名駅往復は、2㎞あまりですから、やはりGoogle Fitの方が実際に歩いた距離に近いかも知れません。

 

2024年10月20日 (日)

20241020JRさわやかウォーキング「2つの可動橋と旧みなとまち巡り」へ(一回完結)

Img_5892c_20241020142101  昼くらいまではよく晴れました。朝は、17.1℃と涼しいくらいでしたが、気温は24.0℃まで上がりました。今日は、予定通り、JRさわやかウォーキング「2つの可動橋と旧みなとまち巡り」へ行って来ました。鉄道会社のウォーキング/ハイキングイベントに参加するのは、5月11日のJRさわやかウォーキング「かつて世界最大級の無線通信所!! 依佐美送信所記念館を訪ねて」以来(その後、勝手にハイキングなどには3回ほど行っていますが)。

Img_5888c_20241020142101 Img_6234c_20241020142201  JR桑名駅を8時14分に出る関西線亀山行き普通に乗車。JR四日市駅には、8時31分に到着。¥250。今日は、四日市駅がスタート&ゴール。参加者はさほど多くはありません。ここから、思案橋、稲葉翁記念公園、プロムナード、臨港橋、末広橋梁と歩く、5.1㎞のコース。タイトルにある2つの可動橋というのが、臨港橋と末広橋梁。

241020jrwalkingyokkaichi  こちらが今日歩いてきたルートマップ。実は、同じコースや、同じあたりはもう何度も訪ねていて、立ち寄り先さえ聞けば、地図なしで歩けます。初めに書きましたように、このところ、鉄道会社のウォーキングハイキングイベントに来ていませんでしたし、このあたりは気に入ったところなので、参加したという次第。臨港橋と末広橋梁が動くところも改めて見てみたいというのもありました。

Img_5926c_20241020142101 Img_5938c_20241020143501  思案橋。四日市市浜町と蔵町の間にあります。国道164号を挟んで両側の歩道に復元された橋が設置されています。古くは勧進橋とも呼ばれ、幅14間(約25.5m)の水路を跨ぐ水門でもあり、水路は新丁不動寺前に至っていました。天正10年6月、徳川家康は本能寺の変を避け泉州堺より浜松に向かう途上、ここより海路を進むか、陸路を進むかを思案したとされます。結局、当地の廻船問屋の協力を得て、海路を採り、常滑に渡ったといいます。この伝承があるため、思案橋と呼ばれることとなりました。この「神君伊賀越え」のルートについては、よく知られているように、諸説があります。伊勢湾を越えた海路についても、伊勢国長太(なご、現・三重県鈴鹿市)で乗船し、伊勢湾を横断して三河国大浜(現・愛知県碧南市)にたどり着いたという説もあります。私としては、郷土である三河国大浜についたという説に気持ちが傾きます。現在は、川は流れていませんが、昭和62(1987)年に橋を模したモニュメントが復元設置されています。

Img_6035c_20241020142101  Img_6043c_20241020142101 国道23号線を越え、四日市旧港に向かいます。ここには、四日市旧港を開いた稲葉三右衛門を記念した稲葉翁記念公園があります。左の写真は、「稲葉三右衛門君彰功碑」。明治30(1897)年に立てられています。そのすぐ南東には、波止改築紀念碑があります。これは、防波堤改築を記念して明治27(1894)年に作られた碑です。

Img_5983c_20241020142101 Img_6025c_20241020142101  旧港の東側にあるのが、潮吹防波堤。稲葉三右衛門が築いた旧港が暴風雨によって大破したため、改修工事を行い、明治26(1893)年に築かれました。この時の工事を担当したのが服部長七で、長七は人造石とよばれるものを発明して、防波堤に利用しています。現在も残る大小2列の防波堤は、潮吹防波堤と呼ばれ、波の力を弱めるため大堤に複数の穴が開いているのが特徴の堤で、一説には、政府のお雇外国人であったオランダ人ヨハネス・デレーケ設計案ではないかともされますが、真偽は不明。これらはいずれも国の重要文化財に指定されています。公園内には、この潮吹防波堤の、動く模型があります。ちなみに、服部長七は、私の郷土出身です。

Img_6039c_20241020142101Img_6017c_20241020142101  オマケ。波止改築紀念碑の先の突堤の基礎に、旧桑名城の石垣が使われています。基礎に使われていますから、見たことはありません。もう1つオマケ。今日は、旧港スタンプラリーも行われていました。思案橋と、ここ稲葉翁記念公園、臨港橋の3箇所でスタンプをもらいます。

Img_6054c_20241020142101 Img_6058c_20241020142101  稲葉翁記念公園の先にプロムナード。高潮護岸の防壁前面平場を利用した、遊歩道。旧港から千歳橋までつづいています。平成3(1991)年に整備されました。旧港を眺めながら散策することができ、ベンチもありますので、なかなかよいところ。

Img_6071c_20241020142201 Img_6094c_20241020142101  臨港橋。末広町と千歳町の間にある千歳運河に架けられた可動橋(跳ね上げ橋)です。船舶が通るときは遮断機で車の通行を止め、中央部の橋桁を約70度押し上げて開きます。初代は昭和7(1932)年に竣工しました。現在の橋は平成3(1991)年11月に完成した3代目。橋は、東側を起点にして跳ね上がります。

Img_6103c_20241020142101  今日は、3回開閉がありました。1回目の9時25分に間に合うよう、ここまでちょっと急いで歩いてきました。午前中は、ほぼ逆光になる位置からしか見えません。こちらに開くシーンの動画がアップロードしてあります。

Img_6118c_20241020142101 Img_6122c_20241020142101  臨港橋のすぐ北にあるのが、末広橋梁。千歳運河にかかる現役唯一の跳開式可動鉄道橋梁です。昭和6(1931)年に竣工しました。全長58メートルのうち中央部16メートルの橋桁が、80度ほど跳ね上がります。平成10(1998)年に国の重要文化財に指定されました。こちらに末広橋梁が降りてくるシーンの動画をアップロードしました(9時35分頃)。さらに、ここには、末広橋梁を貨車が通過するシーンの動画をアップロードしました(10時頃)。橋梁上で貨車が、一時停止したのですが、そこであいにく、カメラはバッテリー切れとなり、完全に通過するまでは撮れていません。このあと、貨車が戻ってきて、10時20分頃に末広橋梁が上がることになっていましたので、待っていたのですが、車両の不具合で、中止となってしまいました。残念。

Img_6157c_20241020142201 Img_6167c_20241020142201  末広橋梁、もう少し近付いて撮ってきた写真。左の写真で、向かって左側がJR四日市駅の方向です。通過する列車は、三岐鉄道三岐線東藤原からJR関西本線富田、四日市を経由して、四日市港の太平洋セメントへセメントや土砂を運ぶ貨物列車です。

Img_6181c Img_6206c_20241020142201  これで立ち寄り先はコンプリート。末広橋梁からゴールのJR四日市駅までは、1.5㎞弱。途中、再び国道23号線を越えます。住友電装があるところですが(左の写真)、ここはクルマではよく通るところ。まさか、徒歩でここを渡るとは思ってもみませんでした。右は、JR四日市駅にて、通称RedbearというJR貨物の機関車。正しくは、JR貨物DF200形ディーゼル機関車といい、電気式ディーゼル機関車です。つまり、ディーゼルエンジンで発電を行い、発生した電力によってモーターを回しているのです。

Img_6231c_20241020142201 Img_6222c_20241020142201  ゴールには、10時40分頃に到着。ゴール受付でポイントをいただき、さらに今日実施されていた「四日市港まちあるきイベント 秋の旧港スタンプラリー」もコンプリートしましたので、記念品の缶バッチをゲット。JR四日市駅を10時56分に出る関西線名古屋行き快速に乗車。桑名駅には11時8分着。¥250。今日の交通費は、往復で¥500で済みました(微笑)。

Screenshot_20241020112600c Screenshot_20241020112608c  今日歩いた距離と歩数。左のスクリーンショットは、「からだメイト」によるもの。歩いた距離は9.0㎞、歩数は12,229歩。右は、Google Fitのもの。歩数は11,785歩と、からだメイトと500歩弱しか違いませんが、歩いた距離は7.32㎞と、1.7㎞ほど違います。今日のコースはマップ上5.1㎞で、桑名駅往復は2.5㎞くらいですから、Google Fitの方が歩行距離は近いようです。

2024年9月15日 (日)

20240911近鉄あみま俱楽部ハイキング「久居散策」へ(その2)……高通児童公園、賢明寺、本念寺、川併神社、奈良道、妙華寺、玉セン寺を経て久居駅にゴールにて「完」

 9月11日に行って来た、近鉄のあみま俱楽部のハイキングコース「久居(ひさい)散策」の本編その2です。その1では、久居駅をスタートし、寺町あたりで寺社を巡ってから、子午の鐘・木槿塚までやってきました。このその2では、誠之小学校、久居農林高校、久居中学校と文教地区を通り抜けて、高通児童公園、伊勢自動車道をくぐって戸木地区を回ってから、賢明寺、本念寺などへと続きます。

Img_4374c_20240915133101  子午の鐘・木槿塚を西に出たところに、「幸町(さやまち)御門跡」という案内がありました。初代藩主・藤堂高通は、藩主御殿と武家屋敷の周りを堤や土構で囲み、城外の、万町、幸町、旅篭町、本町、ニノ町(奈良街道筋)には町人を住まわせています。ここは、武家屋敷と町屋を結ぶ御門があったところ。

Hisai2  こちらは、実際に歩いてきたルートマップその2。誠之小学校、久居農林高校、久居中学校と文教地区を通り抜けます。江戸時代には、武家屋敷があったところです。久居中学の西に隣接して、高通(たかみち)児童公園があります。その後は、伊勢自動車道を潜り、戸木(へき)地区を廻り、再び伊勢自動車道を越えます。

Img_4421c_20240911165401  高津藩主藤堂高虎の孫高通が、宗家から分かれて久居藩を立てたのですが、その藩主御殿跡がこの高通児童公園になっています。隣にある久居中学校の敷地までが久居陣屋だったそうです。津2代藩主・藤堂高次が隠居するとき(寛文9(1669)年)、津藩領32万3950石のうち、5万石を弟の高通に分けて、久居藩がつくられています。翌年から陣屋や城下町を建設し、寛文11(1671)年に高通が入府しました。「永久に鎮居する」という意味で、「久居」と名づけています。陣屋の遺構はありませんが、陣屋御殿跡と開府の碑などがあります。こちらに久居350年の歴史についての説明があります。左の写真は、「御殿山記念碑」。久居藩初代藩主高通公の久居入府250年を記念して大正10(1921)年に建てられた「御殿山の記念碑」があります。石碑は、本体だけで高さ4mを超える大きなもので、歴代の久居藩主の功績をたたえる碑文が彫られています。高通の入府250年を記念して、大正10(1921)年に建てられています。

Img_4425c_20240915134401  御殿山記念碑に向かって左手には、「高通公生誕三百五十年記念句碑」が立っています。平成6(1994)年の建立。高通は、文教藩学をすすめ、俳人としても秀れていて、任口(にんこう)と号しています。句碑には、「躬(み)やことし高野にからば花の春 任口」と彫られています。また、説明板には、「町生まる世も斯く湧けり雲の峰 及道」「伊勢路より伊賀路に入りて句碑のどか 芳泉」の句が添えられていました。

Img_4438c_20240915135101  こちらは、昭和3(1928)年に建てられた「玉井丈次郎先生彰徳碑」。玉井丈次郎(たまいじょうじろう)は、明治41(1908)年、津~久居間の軽便鉄道の開通に重要な役割を果たし、また陸軍第三師団が三重県に部隊を置く際には、連隊の誘致に乗り出し、歩兵第51連隊の招致を成功させるなど、久居の町の発展に著しく貢献をした人物で、碑文には、その功績が記されています。

Img_4410c_20240915135501  また、昭和8(1933)年に建てられた久居町と本村の合併記念碑も公園内に立っています。明治22(1889)年、市制・町村制の施行により、久居は町制を施行しています。そのとき、東鷹跡町に役場を置きました。一方、本村(もとむら)は、小戸木村(こへきむら)と合併し、本村(もとむら)と称しています。久井町と本村は、人家が続いて市街を形成していて、近隣同士で生活を助けあう関係にあったといいます。また、陸軍用地が両町村にまたがっていたこともあり、経済的にも密接なつながりがありました。このようなことから、昭和6(1931)年に無条件で合併したのです。

Img_4450c_20240915140101 Img_4542c  このあとは伊勢自動車道の下をくぐって戸木地区へ。戸木小学校のところを通り、遠くに青山高原などを眺めながら、暑い中、ひたすら2㎞以上を歩きます。

Img_4535c_20240911174101 Img_4505c_20240915140401  このような水田地帯が続きます。春や秋でしたら、さぞ気持ちがよいのでしょうが、この日は最高気温32.3℃とかなり暑く、結構大変でした。

Hisai3  この先、ルートマップはその3へ。賢明寺、本念寺、川併神社へと進みます。

Img_4599c_20240911165501 Img_4611c_20240915140701  再び伊勢自動車道をくぐって、青龍山千手院賢明寺(けんみょうじ)へ。天台宗。「ひさいの観音さん」と親しまれているそうです。比叡山延暦寺の末寺に属し、創建は奈良時代の天平年間(730年ごろ)で、聖武天皇の勅願により、行基によって開かれたと伝えられています。南北朝時代に兵火を被りましたが、北畠氏が再建し、以来北畠氏代々の祈願所となっています。その後、織田信長の軍勢により焼失したものの、江戸期に入り寛永年間(1630年ごろ)に再興されました。仁王門(市文化財)は、貞享元(1684)年のもので、大変立派でした。

Img_4608c_20240915140701 Img_4655c_20240911165501  久居藩初代藩主高通公も深く本尊に帰依し、貞享2(1685)年に銅灯籠を寄進しています(市文化財)。また、このお寺には、鎌倉時代(弘安8(1285)年)の石造板五輪塔(県文化財)があります。鎌倉中期の代表的な五輪塔で、石を組み合わせたものではなく、花崗岩の板状の一石を五輪塔に刻んだものです。この石造板五輪塔は、東大寺大仏殿を再建した重源上人(ちょうげんしょうにん)の母の三十三回忌供養のために建立されたものと伝えられています。三重県下最古のもので、三重県の指定文化財にもなっています。

Img_4670c_20240911165501 Img_4674c_20240915141401  賢明寺の近くに受福山本念寺。真宗高田派。天正年間(1573~1592年)の創建。もとは真言宗でした。

Img_4736c_20240915141901 Img_4697c_20240911165501  本念寺から東に川併(かわい)神社式内社。ご祭神は、天忍穂耳命ほか9座(詳細は、上野リンク先をご覧ください)。創始は明らかではありませんが、平安時代以前と考えられ地升。戦国時代、荒廃していましたが、久居藩が建てられる前は、地名にちなんで「野辺惣社」と称し、村域の氏神でした。寛永2(1625)年、本殿が造立され、同7(1632)年には山城国宇治郡木幡神社より八王子を勧請して配祀されています。元禄4(1691)年に社殿が造立され、久居藩主参列のもと盛大な完成式典が斎行されたといいます。

Img_4707cc  神社の説明板によれば、本殿は、この地方には稀な、古風な「一間社春日造(いっけんやしろかすがづくり)」の様式を伝えているそうです。「一間」というのは、井桁の土台の上に4本の丸柱を立てた平面が、方一間であるからです。「方」は正方形の一辺の長さを意味します。要するに、正方形の井桁の形に、四つの柱を立てたものの上に床や屋根を乗せています。「春日造」は、春日神社本殿の形式であるということ。塀の隙間から写真を撮ってきました。なお、久居にある神社については、「久居浄化案内人の会」がこちらにまとめておられます。

Img_4716c_20240915141901  ほかに境内には、神宮遙拝所もあります。

Img_4754c_20240911165501 Img_4401c_20240915143901  川併神社から北東に向かいます。途中、このような古い町屋も残っています。この家は、奈良道に沿ったところに建っていました。奈良道とは、月本追分で伊勢街道から分かれ、雲出川を遡り、久居の町から戸木、羽野、塩見阪、稲葉をへて五百野(津市美里町五百野)で伊賀街道と合流します。「伊賀越えならみち」「奈良道」と呼ばれ、古くから開けたルートでしたが、藤堂高虎が津へ入城すると、津と上野間の往来が激しくなり、明治10(1877)年には津から上野までが「伊賀街道」となり、奈良道の名称は月本~久居~五百野の間だけ残ることになっています。「奈良道」は、2018年12月23日の近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 酒蔵めぐり油正『初日』と桃園三地蔵」で、別のところを少しだけ歩いています(2018年12月26日:20181223近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 酒蔵めぐり油正『初日』と桃園三地蔵」へ(その2)……宝樹寺から奈良道を通って、八柱神社に立ち寄り、栄松寺へ)。そういえば、街のあちこちに、奈良道などを案内する石柱が立てられていました。

Img_4761c_20240915145401 Img_4779c_20240911170301  さて、久居駅にほど近いところに寂陽山法苑院妙華寺。真宗高田派。天和元(1681)年の創建。藤堂家の姻戚寺院だそうです。本堂は、国の有形登録文化財。

Img_4804c Img_4826c_20240915145801  妙華寺の東に霊雲山玉セン寺。天台真誠宗。山門は武家の屋敷門の形式。久居藩の菩提所として初代藩主高通公から境内地が与えられ、延宝7(1679)年に創建されました。文政4(1821)年の「久居焼け」といわれる大火により焼失しましたが翌年に再建、また明治36(1903)年に再び焼失し、現在の本堂は大正3(1914)年に再建されたものです。今も鐘堂に大火の跡が残されています。本堂には市の文化財である藩主の木像(初代藩主高通公の像、2代藩主高堅公の像)が納められているそうです。

Img_4830c_20240911170401  久居藩主2代高堅(たかかた)、3代高陣(たかのぶ)の墓所があり、それぞれの大五輪塔があります。この写真がそれと思います。 

Img_4823c_20240911175801  当初は、玉泉寺といったのですが、2代藩主高堅のときに高虎の官名「和泉守」に差し障るという理由で改名しています。正しい文字は、左の写真のとおりです(パソコンでは変換できませんでした。ATOKの手書き入力でも不可能)。これで目的地はコンプリート。なお、久居にあるお寺については、「久居城下案内人の会」が解説をWebにあげておられます(こちら)。

Hisai4 Img_4840c_20240911170401  ゴールは、スタートした久居駅。11時10分に戻ってきました。2時間40分かかっています。蒸し暑かったため、全身汗びっしょり。歩いた距離は、Google Fitでは8.1㎞(実家に戻った時点で)。スマホの「からだメイト」では、11.8㎞になっていましたが、これは過大評価でしょう。11時16分に実家方面へ行くバスがあり、それに乗って12時前には実家に帰宅。

Screenshot_20240911112503c Screenshot_20240911112512c  今日歩いたコースは、初めに書きましたように近鉄あみま俱楽部のハイキングコース。アプリ対応コースでしたので、 左の画像のように、久居駅、子午の鐘、高通児童公園、賢明寺、玉セン寺でデジタルスタンプをゲット。また、右の画像(左上)のように踏破賞ももらいました。

2024年9月13日 (金)

20240911近鉄あみま俱楽部ハイキング「久居散策」へ(その1)……久居駅をスタートし、寺町、久居八幡宮、子午の鐘・木槿塚を回る

Img_4077c_20240911165201  家内の実家での一人暮らしの退屈しのぎに、9月11日は暑かったものの、ハイキングへ。津のアメダスでは、最高気温は32.3℃。湿度も高く、蒸し暑い日でした。そういえば、ウォーキング/ハイキングは、6月8日に斎宮へ花菖蒲を見に行って以来です(2024年6月8日:20240608勝手にハイキング「斎宮の花菖蒲群落へ」(一回完結))。今日は、近鉄のあみま俱楽部のハイキングコースから「久居(ひさい)散策」を選びました。近鉄名古屋線久居駅がスタート&ゴールで、約7㎞。久しぶりに歩くには、ちょうど良い距離。今日の記事は、予告編。

Hisai0  実家からは三重交通のバスで久居駅へ。約30分、¥580。左の画像は、この日歩いたコース。主な立ち寄り先は、子午(とき)の鐘、高通児童公園、賢明寺、玉せん寺。アプリ対応コースですので、これらのチェックポイントでチェックインすると、デジタルスタンプがもらえ、すべてそろえると踏破賞のデジタルスタンプが1個いただけます。8時半に久居駅前をスタート。

Hisai1  こちらは、詳しいルートマップその1。久居駅をスタートし、久居寺町にあるお寺をまずは巡って、その後、久居八幡宮へ足を伸ばし、再び寺町に戻り、超然寺から子午の鐘・木槿塚へ。

Img_4119c_20240911165201 Img_4115c_20240912162901  久居駅からすぐ西に永昌山本妙寺。日蓮宗。延宝5(1677)年の創建。開山は、本妙院日厳聖人(津・仏眼寺第十五世)。久居藩初代藩主・藤堂高通(たかみち)が寺領1,500坪を与えました。

Img_4128c_20240911165201 Img_4124c_20240912163301  続いて、本妙寺のすぐ西にあるのが万松山専淋寺。真宗本願寺派。元禄元(1688)年、津の大門にある専淋寺から分寺。

Img_4158c_20240911165301 Img_4137c_20240912163601  このあたりは久居の寺町。専淋寺の西に曹洞宗の龍沢山天心寺。残念ながら、雑草が生い茂ってしまっていました。寛文10(1670)年の創建。

Img_4151c_20240912163601  馬頭観音立像があるということでしたが、よく分かりませんでした。このお堂かと思ったのですが、内部にはさらに厨子があり、何が祀られているかは不明。

Img_4161c_20240911165301 Img_4173c_20240912164001  寺町交差点を渡ったところに見性寺。曹洞宗。寛文2(1662)年、初代藩主・藤堂高通の筆頭家老・藤堂源助(高虎の甥、2,000石)が開府2年前に伊賀上野から来る途中、長野峠で和尚に会い、寺を開くことになったといいます。

Img_4177c  境内には、藤堂源助一族の墓所がありました。ほかにも多数の藩士の墓があるそうです。

Img_4190c_20240912164201 Img_4197c_20240911165301  寺町交差点の南西に見上山(けんしょうざん)光月院天然寺(てんねんじ)。浄土宗。寛文11(1671)年の創建。久居藩初代藩主・藤堂高通が、津の天然寺五世聖誉(しょうよ)上人に帰依しており、分封の時に建立し、寄進しています。久居藩主の藤堂高通は俳諧を好み、たびたび城内で句会を開催していたようで、ある観月の宴の席で、藩主が夜空に輝く月を見て「見上ぐれば 月も今宵は 天然寺」と詠んだそうです。その日同席していた天然寺二世本誉上人が、その句を山号と院号に頂戴したいと願い出たところ、これが許され、「見上山 光月院 天然寺」と称するようになったといいます。山門に向かって右に、この句を刻んだ天然石の碑があります(左の写真で丸くみえるのがそれ。昭和48(1973)年の建立)。

Img_4194c_20240912164901 Img_4201c_20240912165001  山門は、文化5(1808)年に上棟再建されたものを、平成2(1990)年に大修理を施したものだそうです。文化4(1832)年の久居大火のとき、この山門だけが焼けませんでした。梵鐘と鐘楼は、貞享4(1687)年に製作建立されたのですが、久居大火で鐘楼を焼失し、翌文政5(1808)年にによって再建されました。鐘楼はさらに、昭和34(1959)年、改築されていますが、梵鐘は久居大火によって少しひびが入っているものの製作当時のものだそうです。第2次大戦中、一度は供出されたものの、制作年代が貞享4年と古いことから戻され、今日に至っているといいます。

Img_4279c_20240911165301  久居八幡宮。主祭神は、品陀和気命。相殿神は、11座(煩雑になりますので、割愛します。詳細は、こちらを参照してください)。久居藩ができるとき、領内小戸木にあった八幡宮を御殿の艮(うしとら)の方角に鬼門除けとして遷し、久居の総守護としました。明治の合祀令により、近在の21社を合祀し、野辺野(のべの)神社と改称しましたが、令和2(2020)年に久居八幡宮に復しています。

Img_4242c_20240913144201 Img_4259c_20240913144301  ご神木と思いますが、立派な大木。右の写真に写っているのは、「在士の藤(ざいじのふじ)」といい、久居藩を治めた藤堂家の出身地である滋賀県甲良町に鎮座する在士八幡神社から株分けされたものだそうです。藤堂家始祖の三河守景盛が応永年間に京都の石清水八幡宮から近江国犬上郡藤堂村(現滋賀県甲良町)に八幡大神を勧請したとき、男山から柴藤一枝を持ち帰り、子孫繁栄を願って神社の庭に植えたものです。

Img_4225c_20240913144201 Img_4246c_20240913144201  境内には、天満宮や、稲荷社も祀られています。

Img_4232c_20240913144201  また、皇居遙拝所と、神宮遙拝所もあり、境内も広く、立派な神社でした。さすがに久居の総守護というだけのことはあります。

Img_4307c_20240913145501 Img_4320c_20240911165401  久居八幡宮から寺町交差点に戻り、西へ。一本松交差点の手前に浄土宗の超然寺。元和3(1683)年、伊賀上野代超寺の末寺としてつくられています。

Img_4313c_20240913145501 Img_4325c_20240913145501  久居城下案内人の会のWebサイトには、石造地蔵菩薩と、エンマ像があると書かれていましたが、現地には表示などはとくにありませんでした。これがそうかなという気がします。

Img_4349c  これで寺町あたりのお寺、神社はほぼ回りました。続いては、子午の鐘・木槿塚へ行くのですが、うっかりすると見逃しそうな瀬古道を入っていきます。子午の鐘と、木槿塚は並んでいます。左の写真が、子午(とき)の鐘(市文化財)。天文元(1736)年に、当時の久居城下に時を知らせる鐘として、津の鋳物師・辻越後種茂につくらせたもの。もとは武家屋敷の中大手町(現。久居東鷹跡町)にありましたが、寛政元(1789)年に現在地に移転。

Img_4362c_20240911165401  この子午の鐘のすぐ西に芭蕉の句碑があります。「道端(原文は道ばた)の木槿は午に喰われけり」とあります。安永7(1778)年の建立。旅の途次の静岡県大井川付近でつくったといわれ、貞亨元(1684)年『甲子吟行』にでているそうです。また『野ざらし紀行』には「眼前」と前書して載っているといいます。句碑の建立について、正確なところは不明のようです。

 その1が長くなりましたが、これでルートマップその1に載せたところはすべて回りました。その2は、誠之小学校、久居農林高校、久居中学校と文教地区を通り抜けて、スタートから2㎞あまりで高通児童公園へと続きます。

2024年9月11日 (水)

20240911近鉄あみま俱楽部ハイキング「久居散策」へ(予告編)

Img_4077c_20240911165201  家内の実家での一人暮らしの退屈しのぎに、今日は暑かったものの、ハイキングへ。津のアメダスでは、最高気温は32.3℃。湿度も高く、蒸し暑い日でした。そういえば、ウォーキング/ハイキングは、6月8日に斎宮へ花菖蒲を見に行って以来です(2024年6月8日:20240608勝手にハイキング「斎宮の花菖蒲群落へ」(一回完結))。今日は、近鉄のあみま俱楽部のハイキングコースから「久居(ひさい)散策」を選びました。近鉄名古屋線久居駅がスタート&ゴールで、約7㎞。久しぶりに歩くには、ちょうど良い距離。今日の記事は、予告編。

Hisai0  実家からは三重交通のバスで久居駅へ。約30分、¥580。8時半に久居駅前をスタート。主な立ち寄り先は、子午(とき)の鐘、高通児童公園、賢明寺、玉せん寺。アプリ対応コースですので、チェックポイントでチェックインすると、デジタルスタンプがもらえ、すべてそろえると踏破賞のデジタルスタンプが1個。

Img_4119c_20240911165201 Img_4128c_20240911165201  久居駅からすぐ西に永昌山本妙寺。日蓮宗。延宝5(1677)年の創建。久居藩初代藩主・藤堂高通(たかみち)が寺領1,500坪を与えました。続いて、万松山専淋寺。真宗本願寺派。元禄元(1688)年、津の大門にある専淋寺から分寺。

Img_4158c_20240911165301  このあたりは久居の寺町。その先に曹洞宗の龍沢山天心寺。残念ながら、雑草が生い茂ってしまっていました。寛文10(1670)年の創建。

Img_4161c_20240911165301 Img_4177c  寺町交差点を渡ったところに見性寺。曹洞宗。寛文2(1662)年、初代藩主・藤堂高通の筆頭家老・藤堂源助(高虎の甥)が開府2年前に伊賀上野から来る途中、長野峠で和尚に会い、寺を開くことになったといいます。藤堂源助一族の墓所がありました。

Img_4197c_20240911165301  寺町交差点の南西に見上山光月院天然寺。浄土宗。寛文11(1671)年の創建。久居藩初代藩主・藤堂高通が、津の天然寺五世聖誉(しょうよ)上人に帰依しており、分封の時に建立寄進。

Img_4279c_20240911165301 Img_4217c_20240911165301  天然寺の南に久居八幡宮。ご祭神は品陀和気命ほか11座。久居藩ができるとき、領内小戸木にあった八幡宮を御殿の(うしとら)の方角に鬼門除けとして遷し、久居の総守護としました。明治の合祀令により、近在の21社を合祀し、野辺野(のべの)神社と改称しましたが、令和2(2020)年に久居八幡宮に復しています。

Img_4320c_20240911165401  寺町交差点まで戻って、その西に浄土宗の超然寺。元和3(1683)年、伊賀上野代超寺の末寺としてつくられています。

Img_4349c Img_4362c_20240911165401  超然寺から南に行き、見逃しそうな細い道を入っていきます。そこに子午(とき)の鐘(市文化財)。天文元(1736)年に、当時の久居城下に時を知らせる鐘としてつくられたもの。寛政元(1789)年に現在地に移転。この子午の鐘のすぐ西に芭蕉の句碑があります。「道端(原文は道ばた)の木槿は午に喰われけり」とあります。安永7(1778)年の建立。

Img_4421c_20240911165401  このあとは、誠之小学校、久居農林高校、久居中学校と文教地区を通り抜けて、スタートから2㎞あまりで高通児童公園へ。津藩主藤堂高虎の孫高通が、宗家から分かれて久居藩を立てたのですが、その藩主御殿跡がこの公園になっています。津2代藩主・藤堂高次が隠居するとき(寛文9(1669)年)、津藩領32万3950石のうち、5万石を弟の高通に分けて、久居藩がつくられています。翌年から陣屋や城下町を建設し、寛文11(1671)年に高通が入府しました。「永久に鎮居する」という意味で、「久居」と名づけています。陣屋の遺構はありませんが、陣屋御殿跡と開府の碑などがあります。こちらに久居350年の歴史についての説明があります。

Img_4535c_20240911174101 Img_4542c  このあとは伊勢自動車道の下をくぐって戸木地区へ。遠くに青山高原などを眺めながら、暑い中、ひたすら2㎞以上を歩きます。

Img_4599c_20240911165501 Img_4655c_20240911165501  再び伊勢自動車道をくぐって、青龍山千手院賢明寺(けんみょうじ)へ。天台宗。「ひさいの観音さん」と親しまれているそうです。仁王門(市文化財)は、貞享元(1684)年のもので、大変立派でした。このお寺には、鎌倉時代(弘安8(1285)年)の石造板五輪塔(県文化財)があります。鎌倉中期の代表的な五輪塔で、石を組み合わせたものではなく、花崗岩の板状の一石を五輪塔に刻んだもの。

Img_4697c_20240911165501  Img_4670c_20240911165501 賢明寺の近くに受福山本念寺。真宗高田派。天正年間(1573~1592年)の創建。もとは真言宗でした。本念寺から東に川併(かわい)神社。ご祭神は、天忍穂耳命ほか9座。創始は明らかではありませんが、江戸時代は、地名にちなんで「野辺惣社」と称していました。式内社。

Img_4779c_20240911170301  川併神社から北に向かいます。駅にほど近いところに寂陽山法苑院妙華寺。真宗高田派。天和元(1681)年の創建。藤堂家の姻戚寺院だそうです。本堂は、国の有形登録文化財。

Img_4804c Img_4830c_20240911170401  その東に霊雲山玉セン寺。天台真誠宗。山門は武家の屋敷門の形式。久居藩主2代高堅(たかかた)、3代高陣(たかのぶ)の墓所があります。右の写真がそれと思います。

Img_4823c_20240911175801  当初は、玉泉寺といったのですが、2代藩主高堅のときに高虎の官名「和泉守」に差し障るという理由で改名しています。正しい文字は、左の写真のとおりです(パソコンで変換できるか、確かめていません)。これで目的地はコンプリート。なお、久居にあるお寺については、「久居城下案内人の会」が解説をWebにあげておられます(こちら)。

Img_4840c_20240911170401 Screenshot_20240911112054c  ゴールは、スタートした久居駅。11時10分に戻ってきました。2時間40分。全身汗びっしょり。歩いた距離は、Google Fitでは8.1㎞(実家に戻った時点で)。スマホの「からだメイト」では、11.8㎞になっていましたが、これは過大評価でしょう。11時16分に実家方面へ行くバスがあり、それに乗って12時前には実家に帰宅。

Screenshot_20240911112503c Screenshot_20240911112512c  今日歩いたコースは、初めに書きましたように近鉄あみま俱楽部のハイキングコース。アプリ対応コースでしたので、 左の画像のように、久居駅、子午の鐘、高通児童公園、賢明寺、玉セン寺でデジタルスタンプをゲット。また、右の画像(左上)のように踏破賞ももらいました。

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  • 関裕二: アマテラスの正体(新潮新書)

    関裕二: アマテラスの正体(新潮新書)
    著者の前著『スサノヲの正体』も、興味深く読みました。斬新な着眼点と発想で、思いもかけない結論に至っています。読み物としてはとてもおもしろいという点で、☆を5つとしました。ネタバレになりますから、詳しいことを書くのは控えておきますが、著者は、伊勢神宮に祀られているのは、いわゆる「天照大神」ではなく、別の霊威の強い(祟る)、二柱の神だとしています。祟るが故に、伊勢に放逐されたのだと主張するのです。ただ、著者の肩書きは、歴史作家にして、武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェローであり、仏教美術に関心をもち、奈良に通ううち、独学で日本古代史を研究したということですから、現在の歴史学や考古学が明らかにした内容と整合性がとれている主張なのかどうかは、私には判断はできかねます。それ故、「読み物としてはおもしろい」と評価しています。 (★★★★★)

  • 小塩真司: 「性格が悪い」とはどういうことか ――ダークサイドの心理学 (ちくま新書)

    小塩真司: 「性格が悪い」とはどういうことか ――ダークサイドの心理学 (ちくま新書)
    タイトルに惹かれて読みました。ただし、初めにお断りしておきますが、図表こそないものの、心理学の専門書といっても良いくらいの、分厚い記述になっていますので、馴染みのない方にとっては読みやすいものではありません。「性格が悪い」ことについて、最近研究が進んできた「ダークな性格」を中心にまとめられています。ダークな性格とは、マキャベリアニズム、サイコパシー、ナルシシズム、サディズムの4つの特性です。これらの特性とリーダーシップ、社会的成功との関連、身近な人間関係中でのダークな性格、ダークな人物の内面、ダークな性格の遺伝、ダークさとは何かについて、文献を引用しつつ論じられています。その上で、性格の良し悪しは、その内容ではなく、どのような結果に結びつくかで判断されるというのが、著者の結論でした。 (★★★★)

  • 和田 秀樹: 老いるが勝ち! (文春新書)

    和田 秀樹: 老いるが勝ち! (文春新書)
    和田秀樹さんは、もともと高齢者専門の精神科医です。浴風会病院というところで35年間勤務され、6,000人以上の高齢者の方を診てこられました。その臨床経験から、高齢者については、理屈通りに行かないと思うことがたくさんあるといっておられます。タバコをたくさん吸っていても100歳まで生きる人もいれば、検査データはすべて正常なのにガンで亡くなる人もいるのだそうです。医者にいわれて血圧その他に注意していたのに、脳卒中を起こす人もいます。和田さんはこの本で80歳を過ぎたら我慢せず、好きな物を食べ、行きたいように生きることを勧めています。また、医療に関わらない方が長生きできる共書いています。不摂生を勧めておられるわけではありませんが、常識にとらわれず、自由に生きた方が楽しみも見つかってよいのではないかと思います。養老孟司先生流にいえば「なるようになる」のですから。 (★★★★★)

  • 彬子女王: 赤と青のガウン オックスフォード留学記 (PHP文庫)

    彬子女王: 赤と青のガウン オックスフォード留学記 (PHP文庫)
    彬子女王殿下の英国留学記です。彬子女王は、ヒゲの寛仁親王のご長女。殿下は、女性皇族として初めての博士号をオックスフォード大学で取得されました。この留学記は、ネットで話題になっていましたので、ぜひとも読んでみたいと思っていました。今上天皇の「テムズとともに」も読んだことがありますが、皇族の皆様は、どなたも誠実で朗らかで、それでいてユーモア溢れるお人柄をお持ちのようですが、殿下も同様でいらっしゃり、それがよく感じられる文章で楽しく拝読し、爽やかな読後感を持ちました。 (★★★★★)

  • 石井光太: ルポ スマホ育児が子どもを壊す

    石井光太: ルポ スマホ育児が子どもを壊す
    タイトルに惹かれて買ったのですが、帯にあるように「衝撃の現場報告」でした。この本に書かれているエピソードのうち、いくつかはこれまでにもマスコミ報道などで接していましたが、これだけのことがらが一度に示されると圧倒されます。現代の子どもたちは、まさに私たちが知っている(知っていた)子どもではなくなっているといえるようです。たとえば、「2歳児のネット利用率は58.8%」「子守歌はアプリで聞く赤ちゃん」「ヘッドガードの制服化」「教室の『アツ』に怯える小学生」「褒められ中毒はエスカレートする」などなど。スマホが登場して16年でその影響は大ですが、子どもたちの特徴に影響しているのはスマホだけではなく、現代社会や、大人達のありようも大きく影響しているといえます。「『将来の夢は交通整理のバイト』と言う女子高生」などはその例でしょう。私が教えている学生も、「『アツ』がすごい」ということがあり、いったい何だ?と思っていましたが、よく分かりました。すでに若い先生方は、デジタル・ネイティブ世代になっていますし、この本に登場する若者達が社会に出て、その中核を担うのも遠い将来のことではありません。これらの若者は、高い情報処理能力を持ち、周囲に適応する力もあり、コンプライアンス能力も高いのですが、それらを認めた上で、彼らが自立した大人になるために何が必要か見極め、それを提供することが必要とされるのでしょう。その意味では、大人の世代にも彼らを適切に理解し、必要な支援を提供する責任があります。 (★★★★)

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    養老 孟司, 中川 恵一: 養老先生、再び病院へ行く
    『養老先生、病院へ行く』の続編です。医療とは距離をとっておられる養老先生が、再診のため1年3ヶ月ぶりに東大病院に行かれました。大病から復活された今だからこそ語ることができる老い、医療、健康、死との付き合い方について、養老先生ご自身と、教え子にして主治医の中川恵一先生がお書きになっています。養老先生のスタイルをそのまままねすることは、凡人には不可能であり、よろしくはありません。しかし、健康についての考え方や、死についてのとらえ方などはとても参考になります。私が啓蒙されたことがらは、「健康法は人の数だけ存在する」「養老先生は抜け道の天才」「不連続な体調の変化に気をつける」「具合が悪いときは一週間様子を見ると医者に行くべきかどうか分かる」「お酒はもはや百薬の長ではないが飲む飲まないは自分で決めてよい」などでした。 (★★★★★)

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    宮口幸治: 歪んだ幸せを求める人たち―ケーキの切れない非行少年たち3―(新潮新書)
    「ケーキの切れない非行少年たち」シリーズの3冊目です。本の帯には「『幸せを求めて不幸を招く人』の戦慄ロジック」とあります。「みんな幸せになりたい」という動機は万人がもつものでしょう。しかし、幸せの形は人それぞれですし、幸せになりたいと強く願うものの、かえって生きづらさや苦悩を抱える人たちもたくさんいます。著者は、人は幸せになりたいが故に、結果的に他人が不幸になることでもやってしまうといいます。さらに、幸せになりたいのだけれど、そのやり方がよくない」と考える、結果的に他人を不幸にする人たちを理解できるともいいます。著者が長年関わってきた非行少年達にもそれは共通するそうです。歪んだ幸せを求める人たちの背景にある要因として、著者は、怒りの歪み、嫉妬の歪み、自己愛の歪み、所有欲の歪み、判断の歪みの5つの歪みを取り上げ、事例も含めて考察しています。これを読むと、こうした5つの歪みは、ごく普通の人びとも多少とももっているものといえます。最終章では、自分と他者の「ストーリー」という概念を用いて、歪んだ幸せを求める事についてどう向き合えばよいか、提案されています。 (★★★★)

  • 森永 卓郎: 書いてはいけない

    森永 卓郎: 書いてはいけない
    他の本を買いに行った時、書店で平積みになっていましたので、思わず買ってしまいました。メディアのタブーに触れつつ、現在の日本が凋落している要因を3つ指摘しています。サブタイトルは、「日本経済墜落の真相」となっています。3つは、ジャニーズの性加害、財務省のカルト的財政緊縮主義、日本航空123便の墜落事件。この3つについては、関係者は皆知っているものの、触れてはいけない、本当のことをいってはいけないタブーになっているといいます。メディアで触れたら、瞬時にメディアには2度と出られなくなるそうです。ジャニーズ問題は、BBCの報道のためにオープンになってしまいましたが、著者の森永さんは、ご自身が病を得られたこともあって、現状を打破するためにこの本を書かれました。財務省による必要以上の財政緊縮政策と、日航123便の事故のお陰で日本がアメリカに対してどんどん主権を失っていったことが、日本経済の衰退の主たる要因と主張しています。たぶんそれは本当だろうなというのが、私の読後感。 (★★★★)

  • 立木 康介: フロイト『夢判断』 2024年4月 (NHKテキスト)

    立木 康介: フロイト『夢判断』 2024年4月 (NHKテキスト)
    何を今さら勉強しているのか? と思われるかも知れませんが、ちょっと前に流行った言葉でいえば、リスキリングに相当するかも知れません。学生時代に読みましたが、しっかり理解したかといえば、アヤシいのです。学生時代からは50年近い月日が経っていますので、その後の研究成果も含め、新しいことがあるだろうと思ったのです。100分de名著というNHK Eテレの番組のテキストです。講師の立木先生は、パリ第8大学で精神分析の博士号を取得され、京大人文科学研究所の教授。精神分析は「昨日までとは違う自分を手に入れるために行う」とおっしゃっていました。この番組でもっとも印象に残ったのは、あの有名な「エディプス・コンプレックス」よりも、今日、重要なフロイトが提案した概念は、「両性性」であるということでした。これは、いかなる個人も与えられた解剖学的性にしばられないセクシュアリティの自由を持つことをうたうものです。この視点に立てば、同性愛も、トランスジェンダーもいわば当たり前の存在であるということになります。これらを踏まえると120年間に書かれた「夢判断」の内容は、きわめて今日的な意義を持ってくると再認識する必要があります。 (★★★★★)

  • 諸富 祥彦: NHK「100分de名著」ブックス フランクル 夜と霧

    諸富 祥彦: NHK「100分de名著」ブックス フランクル 夜と霧
    フランクルのこの本は、改めて紹介するまでもないほど、有名な本です。私も学生時代、霜山徳爾先生の翻訳で読みましたが、ことばでは書き尽くせないほどの衝撃を受けたことを、いまでもよく覚えています。第二次世界大戦中にナチスの強制収容所に収監された経験をもとに、精神医学者・フランクルが、人生の目的を明確にし、その実現に向けて没頭する心理療法を紹介する本です。原題を直訳すると「それでも人生に然りと言う:ある心理学者、強制収容所を体験する」となります。実存心理学の名著であり、極限の環境におかれたとしても、何かが、あるいは、誰かがあなたを待っているということを主張しています。絶望して終わるのではなく、人生が何をわれわれに期待しているのかが問題であり、私たちはそれを学ぶことが重要だとしています。何度か読み直すことによって、人生への理解が深まる気がします。 (★★★★★)

  • 松田 忠徳, 増田 晋作: 枕草子の日本三名泉 榊原温泉

    松田 忠徳, 増田 晋作: 枕草子の日本三名泉 榊原温泉
    榊原温泉は、全国的に有名とはいえないかも知れませんが、名湯です。それは、枕草子に「湯は七栗の湯 有馬の湯 玉造の湯」にある、七栗の湯が榊原温泉と考えられるからです。最近、日本三名泉といえば、有馬温泉/兵庫県、草津温泉/群馬県、下呂温泉/岐阜県とされますが、枕草子に取り上げられたのはそれよりも古く、「元祖日本三名泉」といえます。榊原温泉の湯は、肌がきれいになる「美人の湯」というだけでなく、抗酸化作用もある健康の湯でもあります。この本は、日本一の温泉教授・松田先生と、地元を知り尽くした増田さんの共著で、「何もない」といわれていた榊原温泉の魅力を語り尽くしています。ちなみに、私にとっては家内の実家を知る上で格好のガイドブックです。 (★★★★)

  • 文藝春秋: 定年後に読む不滅の名著200選 (文春新書)

    文藝春秋: 定年後に読む不滅の名著200選 (文春新書)
    この本の帯には「これが定年後の知の道しるべ!」とありますが、私自身はさほど大上段に構えたつもりで読んではいません。どのような本が選ばれているかにももちろん興味はあったのですが、それらがどのように紹介されているかといった方面に興味があって読みました。本を紹介している方々はいろいろな分野で功なり、名を挙げた方ばかり。それらの方がどんな本を読み、どのように唱歌していらっしゃるかが知りたかったのです。ちょっと邪道な読み方ではありましたが、しっかりと楽しめました。 (★★★★)

  • 石田泰弘(編著): 街道今昔 佐屋路をゆく (東海の街道2) (爽BOOKS 東海の街道 2)

    石田泰弘(編著): 街道今昔 佐屋路をゆく (東海の街道2) (爽BOOKS 東海の街道 2)
    さほど本格的に取り組んでいるわけではありませんが、昔の街道を歩くのは好きです。この本のテーマである佐屋路(佐屋街道)も歩きたいと思って調べています。佐屋路は、東海道佐屋廻りとも呼ばれたように、東海道の迂回路でした。江戸時代に東海道宮宿と桑名宿の間を、陸路万場宿、佐屋宿の陸路を経て、佐屋から桑名宿への水路三里の渡しによって結んでいた街道です。実際に歩いて書かれたと考えられますが、旅人目線で書かれたウォーキングガイドです。津島街道、高須道も取り上げられています。部分的には歩いたところがありますが、佐屋路はいずれ、歩いてみたいと思い、計画中ですので、とても参考になりました。実際に歩かなくとも、歴史読み物としても楽しめます。 (★★★★★)

  • 柳瀬博一: カワセミ都市トーキョー 【電子限定カラー版】 (平凡社新書1049)

    柳瀬博一: カワセミ都市トーキョー 【電子限定カラー版】 (平凡社新書1049)
    東京都心にたくさんのカワセミが棲んでいるというのは、最近割とよく知られるようになっています。清流の鳥というイメージがあるかも知れませんが、東京の「野生」環境をうまく利用して繁殖もしています。そのカワセミが暮らす街は東京屈指の高級住宅街ばかりだそうです。すなわちカワセミも、人間も好む環境は同じというのです。カワセミが暮らす街は、人間にとってもよい街ということです。カワセミの存在に気付いたことから、「小流域源流」をキーワードに「新しい野生」と「古い野生」の繋がりを論じています。カワセミの生態も詳しく観察されていますので、私も今までよく知らなかったことが多々書かれていて、興味深く読みました。 (★★★★)

  • 内田 樹: コモンの再生 (文春文庫)

    内田 樹: コモンの再生 (文春文庫)
    私は、内田樹先生の評論が好きで割とよく読みます。「コモン(common)」とは、形容詞としては「共通の、共同の、公共の、ふつうの、ありふれた」という意味ですし、名詞としては「町や村の共有地、公有地、囲いのない草地や荒れ地」を意味します。昔は、ヨーロッパでも日本でも村落共同体はそういう「共有地」を持っていました。コモンを管理するには「みんなが、いつでも、いつまでも使えるように」という気配りが必要になるのですが、近代になって怒った「囲い込み」によって「コモンの私有化」が起こり、村落共同体が消え、集団的に維持されていた儀礼、祭祀、伝統芸能、生活文化が消えてしまったのです。著者は、このコモンを再生することが市民の原子化、砂粒化、血縁、地域共同体の瓦解、相互扶助システムの不在という索漠たる現状を何とかするために必要と考えています。ちなみに、マルクスとエンゲルスによるコミュニズムは、著者によれば「共同体主義」と訳した方がよく、彼らは「コモンの再生」が必要と提言したといいます。「共産主義」と訳されてしまったがため、なんだかよく分からないことになっているのです。「共有主義」あるいは「共同体主義」と意訳してくれていたら、もろもろが変わっていたかも知れないという話には、膝を打ちました。 (★★★★★)

  • 本田 秀夫: 知的障害と発達障害の子どもたち (SB新書)

    本田 秀夫: 知的障害と発達障害の子どもたち (SB新書)
    児童精神科医の本田先生の最新刊です。今回は知的障害が取り上げられています。これまでの本田先生の御著書では、発達障害が主に取り上げられてきたのですが、実は知的障害を持つ子どもたちも一定数存在していますし、発達障害と知的障害を合わせ持つ子どもたちもいます。その意味で、発達に困難のある子どもたちのことをきちんと理解して、適切な支援をする上では、両者を視野に入れることが重要です。著者は、知的障害の支援では、「早く」と「ゆっくり」がキーワードになると書いておられます。これは私もそうだと思います。可能な限り早期から支援を受けた方がよく、一方で、発達のスピードに合わせて「ゆっくり」としたペースで支援をすることが大切になります。発達障害の子どもたちにも「本児のペースに遭わせた支援が必要」とおっしゃる方がありますが、発達障害の子どもたちの理解/支援の上でのキーワードは「アンバランス」です。この本は、発達が気になるお子さんをお持ちの保護者の方、特別支援教育に携わる教員の方々にとって、基本的なテキストといえます。 (★★★★★)

  • BIRDER編集部: お手本でわかる!野鳥撮影術 (BIRDER SPECIAL)

    BIRDER編集部: お手本でわかる!野鳥撮影術 (BIRDER SPECIAL)
    バードウォッチングや野鳥撮影を趣味にしています。とはいえ珍鳥を追うのではなく、主に自宅近くを散歩しながら、いわば「定点観測」のように野鳥を見ています。自分の写真の撮り方を振り返ると、図鑑的に撮ることがほとんどです。なぜそうなのかを考えてみると、研究者の端くれであったことが関わっている気がします。つまり、写真を撮ることを、観察した記録やデータと見ているからではないかということに思い当たりました。野鳥撮影の「幅を広げたい」と思っていたら、この本が出版されました。ざっと目を通したところ、「色とりどりの花と鳥」「木の実レストラン」「やわらかい表情を追う」などさまざまなテーマで鳥とその周辺を撮る方法が載っています。これを参考に、自分の野鳥写真の世界を広げられたらいいなと思える本です。 (★★★★★)

  • 磯田 道史: 磯田道史と日本史を語ろう (文春新書)

    磯田 道史: 磯田道史と日本史を語ろう (文春新書)
    磯田道史さんが、さまざまな分野の達人と歴史についての論賛をしたのをまとめた本です。論纂とは、①人の徳行や業績などを論じたたえること、②史伝の終わりに著者が書き記した史実に対する論評のこと。異分野の専門家同士が議論をすることによって生まれるものは、別次元となり、大変興味深いものとなります。この本がその論より証拠。養老孟司さんとの論賛からは「脳化社会は江戸時代から始まった」という話が出て来ています。忠、孝、身分などは、シンボリズムであり、それらは見たり、触れたりできません。また、関東大震災に遭遇したことは、被害に対する鈍感さをもたらし、それが太平洋戦争につながったという指摘には、なるほどそういう面も確かにありそうだと思わされました。その他、歴史や人間について、実にさまざまな、新しい見方が示され、大変おもしろく読み終えました。 (★★★★★)

  • 保阪 正康: 近代日本の地下水脈 I 哲学なき軍事国家の悲劇 (文春新書 1440)

    保阪 正康: 近代日本の地下水脈 I 哲学なき軍事国家の悲劇 (文春新書 1440)
    本の帯に「『水脈史観』で日本の失敗を読み解く」とあります。「水脈史観」という概念には初めて接しましたが、「攘夷のエネルギーは、いまも日本社会の根底に流れている」という見方です。明治維新後、日本がとりえた国家像は、欧米型帝国主義国家、道義的帝国主義国家、自由民権国家、米国型連邦制国家、攘夷を貫く小日本国家の5つであったが、哲学なきまま欧米型帝国主義国家の道を突き進み、軍事中心の国家作りを推し進めたことが、戦前の日本の失敗の原因であったというのが著者の主張です。それは確かにそうだと思いますが、私には、ほんのサブタイトルにある「哲学なき国家」ということが、現代日本の様々な問題の背景にあるような気がしてなりません。 (★★★★)

  • 佐伯 泰英: 陰流苗木(かげりゅうなえき)~芋洗河岸(1)~ (光文社文庫)

    佐伯 泰英: 陰流苗木(かげりゅうなえき)~芋洗河岸(1)~ (光文社文庫)
    今回も特別に時代小説を取り上げます。この2つ前の本に佐伯泰英さんの「恋か隠居か 新・酔いどれ小籐次(二十六)」を取り上げ、これは佐伯さんの300冊目の「文庫書き下ろし小説」だと書きました。今回のこの本は、301冊目です。しかも、80歳を越えて、さらに新しいシリーズを始められたのです。美濃を食い詰めた浪人・小此木善治郎が、職なし、金なし、住むあてなしながら、剣の達人にしてとぼけた侍であるものの、なんとも頼りになる存在で、親切な住人や大家によって受け入れられた長屋の秘密と謎の渦に巻き込まれるという設定。これまたおもしろそうなシリーズです。毎月刊行で、全3巻の予定とか。第2巻が待ち遠しい内容です。 (★★★★★)

  • 養老孟司, 鵜飼哲夫: なるようになる。 僕はこんなふうに生きてきた(中央公論新社)

    養老孟司, 鵜飼哲夫: なるようになる。 僕はこんなふうに生きてきた(中央公論新社)
    養老先生の新刊が出たというので早速入手し、ほぼ一気に読み終えました。「はじめての自伝!」といううたい文句で、帯には「虫と猫と、バカの壁。考え続けた86年」ともあります。養老先生は、かなりしつこい性格でいらっしゃるようで、疑問に思ったことは「まぁいいか」などと思わず、考え続けてこられたそうです。その結果が、これまでのユニークな著作に結実しています。それはさておき、考え続けた結果、「なるようになる。」というのが、養老先生の現時点での結論だそうです。「なるようにしかならない」ではなく、「なるようになる。」のです。物事は、はっきりとした目的意識があって進むのではないので、「なるようになる。」なのです。忘れてしまったような些事がその後の人生を動かしてきたかもしれないともあります。なるほどと、この本を読み、養老先生の来し方をいささか知ると、納得できます。というか、納得した気になっているだけかも知れませんが…… (★★★★★)

  • 佐伯 泰英: 恋か隠居か 新・酔いどれ小籐次(二十六) (文春文庫)

    佐伯 泰英: 恋か隠居か 新・酔いどれ小籐次(二十六) (文春文庫)
    佐伯泰英さんは、この本で「文庫書き下ろし小説」というジャンルで300冊刊行を達成されました。佐伯さんの時代小説はすべて読んでいます。まさにストーリー・テラーといえる作家で、実に読み応えのある時代小説をたくさん書いておられます。このシリーズは、いったん完結となったかと思ったのですが、この「恋か隠居か」で復活しました(と理解しています)。隠居を考える小籐次ですが、小籐次親子に挑戦状が届くところから始まる物語。今回も楽しめました。 (★★★★★)

  • 安藤優一郎: 15の街道からよむ日本史 (日経ビジネス人文庫)

    安藤優一郎: 15の街道からよむ日本史 (日経ビジネス人文庫)
    街道歩きを少ししています。三重県内では、東海道のほとんど、伊勢参宮街道、美濃街道・養老街道などを歩きました。もっとあちこちの街道を歩きたいと思っていますが、そのときにこの本が出版されましたので、早速入手して読みました。芭蕉の奥州街道、伊勢参宮街道のお伊勢参り、武士の旅日記などの章をとくに興味深く読みました。主要な街道を取り上げることで読みやすい歴史物語となっています。 (★★★★)

  • 大芦治: 心理学をつくった実験30 (ちくま新書)

    大芦治: 心理学をつくった実験30 (ちくま新書)
    「誰もが一度は耳にしたことがある有名実験の背景・内容・影響を紹介、新たな心理学像を呈示する」と帯にあります。心理学全般に関心を持つ社会人を読者に想定しているといいますが、私には心理学史のテキストとして、あるいは、入門段階の心理学を学んだ方がさらに学習を深める際に読む本としてもよいかも知れません。 私自身も、心理学の教科書を執筆したことが何度かありますが、そこに引用する理論や実験については、いわゆる「孫引き」をしてしまったこともよくありました。この本の著者は、可能な限り原典にあたって執筆していらっしゃり、その意味では参考になったところが多々あります。 ところで、著者は心理学の未来にあまり明るい展望を持てないようです。臨床心理士、公認心理師の資格が人気を集め、心理学部などもたくさん設けられました。私自身の勝手な個人的意見を書けば、資格ができると、レベルは下がると思っています。根拠はありません。個人的な印象によるものです。私は実験心理学でトレーニングを受け、臨床心理の分野に進みました。心理学の基本は実験心理学と個人差測定心理学にあると思っています。学部段階からいきなり臨床心理学プロパーに進むのは、相当よろしくないと思います。臨床実践にあたってはその基礎となる確かな、科学的な学問(知見、理論なども含む)が必要です。また、仮説演繹法などのものの見方もきちんと身に付ける必要があります。これらは実験心理学と個人差測定心理学から養われると思っています。 この本は、基礎的知識がない方がいきなり読むのは難しいでしょうが、科学的心理学を学びたいと思う方にはよい参考書となります。 (★★★★)

  • 磯田 道史: 家康の誤算 「神君の仕組み」の創造と崩壊 (PHP新書)

    磯田 道史: 家康の誤算 「神君の仕組み」の創造と崩壊 (PHP新書)
    磯田先生の書く本はどれもとても面白く読めます。といっても、私が読むのは研究書ではなく、新書だからなのかも知れません。この本は、家康がなぜ幕藩体制を創ることができたのか、江戸時代、誰が神君の仕組みを崩わしたのか、幕末、かくして神君の仕組みは崩壊した、神君の仕組みを破壊した人々が創った近代日本とは、家康から考える日本人というものという5つの章からなっています。家康は天下を取ったあとこの国を支配するのに巧妙な仕掛けをつくり、平和な時代が続いたのですが、誤算が生じて、徳川政権が変質し、崩壊に至ったと著者は考え、そのプロセスを俯瞰しています。いろいろな時点で「神君の仕組み」を骨抜きにする人物や政策が表れたといいます。組織が弱体化する姿を見ておくと、自分たちの劣化を防ぐ力が養われると磯田先生は述べています。徳川時代が現在にあたえている影響も多く、その分析も興味深く読めます。 (★★★★★)

  • 多井 学: 大学教授こそこそ日記

    多井 学: 大学教授こそこそ日記
    文庫本を買いに本屋に行ったら、平積みしてあるのを見つけて思わず買ってしまいました。私もその昔、ご同業だったことがあったからです。帯に「いくらでも手抜きのできる仕事」とありますが、私の経験でもそういう人もそれなりにいました。ちなみに私自身は、こき使われたと思っています。さらに「現役教授が打ち明けるちっとも優雅じゃない生活」とも書かれていますが、これはまさに私の体験と同じ。本に書かれていることがらも、ことごとく納得できます。私は、「そうそう!」といいながら読み終えました。大学教授で儲けている人はごく一部などなど。まぁ大学教授の仕事や生活に興味をお持ちの方は、さほど多くはいらっしゃらないとは思いますが、お暇な方にはどうぞ。 (★★★★)

  • 宮口 幸治: 境界知能の子どもたち 「IQ70以上85未満」の生きづらさ (SB新書)

    宮口 幸治: 境界知能の子どもたち 「IQ70以上85未満」の生きづらさ (SB新書)
    「境界知能」という言葉は、専門家はよく知っていると思いますが、一般のご父兄や、小中学校の先生方にはあまりなじみがないかも知れません。IQという指標でいえば、多くの場合70以上85未満の子どもたちがこれに該当する可能性があります。一見したところでは普通の子どもたちと変わりはなく、なかなか気づかれません。しかし、理論的には約14%の子どもたちが含まれますから、本の帯にあるように「日本人の7人に1人」となります。平均と知的障害のはざまにあり、気づかれにくいものの、授業について行けなかったり、友だちと上手くつきあえなかったり、感情のコントロールが苦手であったりして、当事者の子どもたちは苦戦し、辛い思いをしています。発達障害はよく知られるようになりましたが、境界知能の子どもたちにもしっかり目を向け、必要な支援を提供することは喫緊の課題といえます。この本では、境界知能とはどのような状態なのか、教科学習の前に認知機能を向上することの重要性、子どもの可能性をいかに伸ばしたら良いかについて具体的に、分かりやすく解説されています。 (★★★★)

  • 関裕二: スサノヲの正体(新潮新書)

    関裕二: スサノヲの正体(新潮新書)
    タイトルに惹かれて手に入れたものの、序章の記述が私にとっては退屈でしばらく放っておいたり、読み直そうと思ってくじけたりしていました。しかし、そこを乗り越えるとこの本はとても面白くなり、ほとんど一気読みしました。スサノヲ(素戔嗚尊)の正体を探るプロセスでアマテラス(天照大神)の謎も明らかにされて行き、それもとても興味深いものがあるのです。アマテラスは皇祖神とされますが、実在の初代王と言われる崇神天皇はアマテラスを伊勢に追いやっています。また、伊勢神宮を整備した持統天皇だけは伊勢に参ったものの、それ以降明治になるまで、1,000年以上も歴代天皇は伊勢神宮を訪れていません。明治天皇が東京に遷御したあと武蔵国の鎮守勅祭の社に定めたのは、スサノヲの祀られる氷川神社(現さいたま市)です。明治天皇は氷川神社を訪れた翌年に、伊勢神宮を訪れています。そもそも伊勢にいる神はアマテラスなのかという疑問にも立ち向かっている、古代史や神に関心がある方にはお勧め。 (★★★★★)

  • 安藤 優一郎: 大名屋敷「謎」の生活 (PHP文庫)

    安藤 優一郎: 大名屋敷「謎」の生活 (PHP文庫)
    時代小説をよく読みます。捕物帖、市井の人たちの生活、侍の物語、大名の話などいろいろとあります。庶民の生活については、これまでもいろいろな本でかなり知っていますが、大名の生活については分からないところの方が多いと思っていました。タイトルに惹かれて買ったのですが、大名やその家族の生活が詳しく書かれているのではなく、勤番侍の生活、大名屋敷の庭園、御用達商人や豪農、幕末の動乱と大名屋敷などの話が中心でした。それはそれで知らなかったことが多々あり、興味深く読みました。 (★★★)

  • 服部環ほか: 指導と評価2023年10月号(図書文化社)
    「指導と評価」は、日本教育評価研究会の機関誌であるとともに、日本で数少ない教育評価に関する月刊誌です。この号では、教育・心理検査の意義と活用という特集が組まれています。「教育・心理検査の意義」に始まり、WISC-Ⅴ、KABC-Ⅱなどの個別検査の使い方、解釈の仕方、指導への活かし方がそれぞれの専門の先生によってわかりやすく解説されています。特別支援教育の現場でも、きちんとした心理アセスメント所見に基づいた支援を展開することが望ましいのですが、現場の先生方には敷居が高いようです。ご関心がおありの方には、どのように使えるか、どのように考えたらよいかについて基本的なことがらを理解するのに適しています。出版社のWebサイトからバックナンバーとして購入できます。 (★★★★)
  • 石田 光史, 樋口 広芳(ナツメ社): ぱっと見わけ観察を楽しむ 野鳥図鑑

    石田 光史, 樋口 広芳(ナツメ社): ぱっと見わけ観察を楽しむ 野鳥図鑑
    野鳥図鑑はすでに何冊も持っていますが、この野鳥図鑑は、2015年の刊行で、なぜ今までこの存在に気づかなかったと反省するほど便利そうなもの。掲載されているのは324種ですが、それぞれの特徴や、見わけのポイントがパッとわかるようになっています。その鳥の生活型や生息地、食性や羽色、形態などのほか、雌雄、夏羽冬羽、幼鳥などで特徴が異なる場合は、それらについても説明されています。観察したい行動から、おもしろい生態、探し方までもが載っていますし、鳥の鳴き声が聴けるQRコードも付いています。私自身、野鳥の特定がけっこうアヤシいので、しっかり活用しましょう。 (★★★★★)

  • 千枝大志(風媒社): 街道今昔 三重の街道をゆく (爽BOOKS)

    千枝大志(風媒社): 街道今昔 三重の街道をゆく (爽BOOKS)
    「東海の街道」シリーズの第4巻です。「街道歩きのお供に最適の1冊」といううたい文句。内容は、三重の主な街道、近世三重の城郭図・城下図を読み解く、お伊勢参り小咄、伊勢をめぐる〈参詣〉をデジタル化するの4章構成で、まさに三重の街道歩きの参考書としてよいと思います。私自身も県内の東海道、伊勢街道、美濃街道、濃州街道はほとんど歩き、ほかの街道も部分的に歩いていますし、城もここに載っているところはかなり訪ねています。デジタル化も、ブログに写真・記事を載せていますから、出来不出来はともかく、私も取り組んでいます。県内の街道はさらに歩こうと思っていますし、デジタル化にももっと取り組みたいと考えていますので、十分活用できるでしょう。 (★★★★★)

  • 唐沢孝一: 都会の鳥の生態学 カラス、ツバメ、スズメ、水鳥、猛禽の栄枯盛衰 (中公新書)

    唐沢孝一: 都会の鳥の生態学 カラス、ツバメ、スズメ、水鳥、猛禽の栄枯盛衰 (中公新書)
    都市にもたくさんの野鳥がいることを知る人は少ないかも知れません。私がいつも散歩している地方都市の公園では、これまで10年あまりで70種類近くの野鳥を観察しています。都会は自然の少ない人工的な環境にあふれていますが、野鳥たちはもともとの生態を活かしつつこれらにしたたかに適応してい生きています。この本では、カラス、ツバメ、スズメ、水鳥、猛禽を取り上げ、その都会における生態や、活動の変化、人間と鳥との関係とその変化などについて多くの実例や、調査結果をもとに、豊富な写真を使って楽しく読めるようにまとめられています。 (★★★★★)

  • 堤未果: 堤未果のショック・ドクトリン 政府のやりたい放題から身を守る方法 (幻冬舎新書)

    堤未果: 堤未果のショック・ドクトリン 政府のやりたい放題から身を守る方法 (幻冬舎新書)
    「ショックドクトリン」とは、テロや大災害など、恐怖でこくみんが思考停止している最中に、為政者や巨大資本がどさくさ紛れに過激な政策を推し進める悪魔の手法のことです。アメリカでの3.11以来、日本でも大地震やコロナ禍の裏で知らない間に個人情報や資産が奪われようとしているというのがこの本のテーマ。パンデミックで製薬企業は空前の利益を得、マイナンバーカード普及の先には政府のよからぬ思惑があるなどよくよく注意し、自分の生命・財産を守らないといけないというのが著者の主張。「今だけ、自分だけ、お金だけ」という強欲資本主義に負けないようにするには、ちょっとした違和感を大事にし、お金の流れがその裏にないか、また、それで大もうけして回転ドアをくぐって逃げる輩がいないかをチェックすることです。また、政府が何か、大急ぎで導入しようとしたり、既存の制度を急拡大しようとするときは、要注意だそうです。 (★★★★)

  •  奥山景布子: 葵の残葉 (文春文庫)

    奥山景布子: 葵の残葉 (文春文庫)
    いわゆる「高須四兄弟」である徳川慶勝、松平容保、松平定敬、徳川茂栄は、幕末維新の激動期に、結局のところ官軍と幕府とに分かれて戦う運命になったのですが、この四兄弟を取り上げて埋もれた歴史を活写した小説。私自身は、桑名藩主であった松平定敬が取り上げられているので興味を持って手に取った次第。幕末維新は、次々に色々な出来事が起きて、さまざまな人たちの思惑も複雑に入り組んでいるので、小説にするのは難しいと思っていたのですが、隠れた主人公ともいえる高須四兄弟の視点からとても躍動感のある読み物になっています。また、この時期の歴史をより一層深く理解できたという感想も持っています。 (★★★★)