名所旧跡

2023年1月24日 (火)

20230121美濃街道ウォーキング「多度から石津」(その3)……山除川沿いの地蔵尊、天白神社から国道258号線を渡って杉生神社にお参りし、石津駅にゴールで「完」

Tado3  1月21日にってきた美濃街道ウォーキング「多度~石津」の本編その3です。その2では、願超寺まで来ました。その前に訪ねた御鍬神社は、標高約45mでしたが、一気に下って、願超寺あたりでは標高は8mほど。願超寺を過ぎると山除川に出ます。しばらくこの川沿いに北上して、途中、子安・延命地蔵尊と、天白神社に立ち寄ります。

Img_9335c_20230121184901 Img_9368c_20230121184901  こちらは、願超寺から山除川沿いに出たあたり。川の名前をなんと読むのか疑問だったのですが、表示板がありました。「やまよけがわ」でした。海津市南濃町太田から松山を経て、三重・岐阜県境をなし、県境付近でUターンして揖斐川に注ぐ川です。ネットで調べると、バス釣りのポイントがあると出て来ます。

Img_9352c_20230123074001 Img_9400c_20230121184901  護岸がコンクリートやブロックで固められているところも多いのですが、上流方向に進むにつれ、昔のままの土になっているところもありました。春や夏になると、いろいろな生き物が見られそうです。カルガモ、キンクロハジロ、オカヨシガモ(と思われる)などカモも何種類か見ましたし、同級生K氏はカワセミが飛んだといっていました。

Img_9343c_20230121202701  Img_9346c_20230123074201 スタートから5㎞のところ、山除川の右岸に地蔵堂があります。「子安・延命地蔵尊」で、傍らの石柱には「四國第十九番立江寺子安延命地蔵尊」と刻まれています。立江寺は、四国八十八箇所巡りの19番札所。ここから勧請したものなのだろうと思います。立江寺は、聖武天皇の勅願寺で、天平19(747)年に行基菩薩が光明皇后のご安産の念持仏として、勅命により「延命地蔵尊」を本尊として建立開基した寺です。

Img_9341c_20230123075001  山除川沿いには立ち寄りポイントは少ないのですが、キョロキョロしているといろいろなものが目に入ります。「庭園都市 海津市」という看板があります。「庭園都市」とはなかなかのキャッチフレーズと思って調べたら、平成17(2005)年3月28日、海津町、平田町及び南濃町の3町が合併して「海津市」が誕生することに伴い、海津市の将来像に「光と風と水のふれあい庭園都市」を掲げたようでした(こちら)。

Img_9358c_20230123075401 Img_9365c_20230121184901  山除川には、こんな昔風の橋も残っていました。「石津橋」で、昭和28年12月竣工とありました。われわれが子どもの頃、故郷の小さな川にもこういう橋がたくさんかかっていました。ちなみに、この石津橋には、下流側にライブカメラが設置されています(こちら)。山除川、石津橋、さらにこの東にある三切池が見えます。

Img_9375c_20230121184901 Img_9393c_20230121184901  地蔵尊からさらに1㎞ほど歩くと、やはり山除川から少し西に入ったところに天白神社があります。ご祭神は、天白神。創立は不詳ですが、社殿にある棟札には「宝永4(1707)年6月22日奉造営天白大明神」とあり、これ以前に創立されたと考えられます。一説には、三重県員弁郡藤原から遷したといいます。天白神は、海や川を鎮める神様とされます。

Tado4  天白神社の先で国道258号線を超えます。スタートから7㎞。ここからコースマップはその4へ。もうゴールは目と鼻の先ですが、石津駅の手前で杉生神社に立ち寄ります。

Img_9414c_20230121203701 Img_9410c  国道258号線太田交差点。交差点の手前の美濃街道沿いに、右の標識があります。「桑名16㎞ 大垣23㎞」と書かれています。大垣まではかなり距離があると思っていましたので、けっこう近いものなのだなというのが、この標識を見たときの印象。

Img_9431c_20230121184901  最後の立ち寄り先である杉生(すぎお)神社。南側の参道が、社の正面ですから、こちらが表参道と思います。御祭神は、須佐之男命。創建年月は不詳ですが、この郷は元多芸郡河戸庄太田郷と称し、建久元(1190)年、当時上野河戸に居を構えた平家の士・河戸七郎が社殿を造営したといいます。ちなみに、河戸七郎については、次のようなエピソードがあります。海津市南濃町上野河戸にかつて、平治元(1159)年頃、河戸七郎によってつくられた河戸城(こうずじょう)という城がありました。河戸城は河の関所と呼ばれて、かなり重要視されていたそうです。その守りを任されていた河戸七郎は、平家の者でありながら平治の乱では、敗れて柴船に乗って落ちてゆく源義朝(源頼朝の父)を、調べもせずに見逃してやったといいます。そのため、建久4(1194)年、源頼朝が平氏の残党を追悼した際、河戸七郎は見逃されています。この話、どこかで聞いたぞと思ったら、去年11月5日に参加したJRさわやかウォーキング「地酒と文化に触れる蟹江町散策」で訪ねた源氏塚公園でのエピソードとつながりました(2022年11月5日:20221105JRさわやかウォーキング「地酒と文化に触れる蟹江町散策」(一回完結))。源氏塚公園のあたりは、平安時代の末期ころは海だったそうです。平治元(1159)年、平治の乱で平清盛に敗れた源義朝一行が、東国に落ちに延びる折、美濃の国⻘墓(現在の大垣市⻘墓)から養老、荷の上を通り、内海の庄野間へ船で向かう途中、ここにあった⼩島にしばし船を⽌め休息し、蟹江の漁⺠のもてなしを受け、漁船により内海に送り届けられたという話。

Img_8359  さらなる余談。河戸城は、海津市にある日本武尊の杖衝坂あたりにあったそうです。杖衝坂といえば、四日市市采女と思っていたのですが、このあたりにもそういう話があったとは、まったく知りませんでした。海津市南濃町上野河戸にも「日本武尊の杖衝坂」があると伝わっています。海津市のWebサイトの説明では、日本武尊の杖衝坂とは、日本最古の歴史書「古事記」に日本武尊が伊吹山で冷たい氷雨に合い重病になり、養老山地の東側にあった伊勢街道を通って故郷・大和国に帰る途中、このあたりが急な坂道だったので杖にすがりつきながらあえぎあえぎ進んだという言い伝えのある場所だとなっています。南濃町上野河戸は、養老鉄道美濃山崎駅の北西にあります。次のときにできれば立ち寄ることにしましょう。写真は、こちらからお借りしました。

Img_9453c_20230121184901  杉生神社の話に戻ります。上述のように、平治元年頃、河戸七郎によってつくられたとされますが、元々は、太田郷総社と言われましたが、度重なる戦乱や水害等によって記録は少なく、わずかに残る棟札等に「元久元暦甲子卯月(1204年)」「永録元年戊午葵月(1558年)」等の年号が記されているといいます。

Img_9461c_20230123083101 Img_9464c_20230123083101  境内には、八幡神社(ご祭神:誉田別命(応神天皇))、春日神社(ご祭神:建御賀豆智神外三柱神)、住吉神社(ご祭神:上筒男神外二柱神)、津島神社(ご祭神:素盞男命)、山神神社(ご祭神:大山祇神)も祀られています。

Img_9483c_20230123083801  こちらは、「柑橘翁伊藤東太夫碑」。明治10(1877)年、みかん苗木200本余りを和歌山より購入し、急斜面を開墾してミカン園をつくり、同村石津地区の特産となる南濃みかん栽培の基礎を作ったのが、伊藤東太夫(弘化3(1846)~大正6(1917)年、明治~大正時代の殖産家)。その業績を讃える石碑が、大正9(1920)年、地元有志により、杉生神社境内に建立されたものです。伊藤は、ここ美濃太田村の庄屋から太田戸長となりました。

Img_9515c_20230121184901 Img_9508c_20230123084301  東参道には、ケヤキの大木があり、ご神木になっています。岐阜県天然記念物にも指定されています。樹齢800年以上といい、樹高約25m、根元幹周囲約6.2m。このほか、海津市天然記念物のヒトツバタゴ(通称、ナンジャモンジャ)もあったのですが、見逃しました。余談ですが、東参道から杉生神社にお参りするには、養老鉄道の踏切を渡っていかなければなりません。養老鉄道沿線の寺社には、こういうところがたくさんあります。寺社があるところに鉄道を後から通したということです。

Img_9527c_20230121185001 Img_9556c_20230121205001  ゴールの養老鉄道石津駅には、12時半少し前に到着。多度駅からは2駅。7.8㎞を3時間あまりで歩いた計算(途中、八幡神社で小休止しましたから)。12時34分発の桑名行き普通に乗車。桑名には、12時58分着。¥420。

Dsc_6985c Img_9578c_20230121185001  今日は途中、食堂も、コンビニも1軒もないルートでした。弁当を買っていってどこかで食べようかとも思ったのですが、寒風吹きすさぶ中、冷えた弁当を食べるのもどうかということで、結局、昼食は、桑名に着いてから。何回か行った目利きの銀次に行こうと思ったら、営業していません。そこで、桑名一番街にあるエンシュウヤで、日替わりランチ。¥750。昭和の雰囲気が残る店で、賑わっていました。

Screenshot_20230121141025c  Google Fitによるこの日のトータルの歩行距離と歩数。11.9㎞は、過大評価のような気もします。歩数は、18,773歩ですが、「からだメイト」で見ると20,000歩を超えていました。今日のハイライトは、「ブッシュ・ウォーキング」だなぁと同級生K氏と話していました。

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2023年1月23日 (月)

20230121美濃街道ウォーキング「多度から石津」(その2)……柚井遺跡、難儀した「ブッシュ・ウォーキング」を経て八幡神社、御鍬神社から願超寺へ

Tado2 1月21日に出かけた美濃街道ウォーキング「多度から石津」の本編その2です。その1では、多度駅をスタートし、空念寺と宇賀神社を回ってきました。その2では、NTN多度製作所の先にある柚井遺跡を眺めた後、「ブッシュ・ウォーキング」を経て、県境を越え、岐阜県海津市へ。海津市南濃町松山あたりで八幡神社、御鍬神社さらに願超寺と回ります。

Img_9156c_20230121184701  スタートから2.2㎞ほど、NTN多度製作所の南で美濃街道は左折します。その先に、柚井(ゆい)遺跡。昭和3(1928)年、耕地整理の際、木簡が出土しています。日本で最初に見つかった木簡です(くわな史跡めぐり)。ほかに、「萬」「福」などの吉祥句を書いた墨書土器も多く、近隣の多度神社及び多度山と関係する祭祀品一括と考えられています。木簡の材質は杉材と思われ、上端と下端に切り込みをもつ典型的な付札木簡で、「櫻樹郷守部春□□□籾一斛」の墨書があるそうです。この向こうの堤防に伊勢国と美濃国の国境を示す石柱があるそうです。「くわな史跡めぐり」によれば、伊勢国側の堤防の中央部に15㎝ほど突き出た石柱があるといいます。江戸時代に堤防の高さをめぐる争いがあり、伊勢国側の堤防の高さを制限する定杭とされます。場所が、わかりにくそうでしたのでパスしてしまいました。

Img_9160c_20230121184701 Img_9164c_20230121184701 柚井遺跡の先にある三叉路で、美濃街道は向かって左の道をたどります。当初、勘違いをして向かって右が美濃街道と思い込んだのですが、前日にGoogleマップを見ていて、勘違いに気づいた次第。左の道に入ってすぐのあたりには、紅梅がたくさん咲いていたりして、いいところだななどと話していました。

Img_9175c_20230122164101  家畜の飼育でも行っていたと思われるところの片隅に、小さな地蔵堂。背後には、飼料を保管していたと思われる大きな容器が残っています。

Img_9180c_20230121184801 Img_9192c  ここまではよかったのですが、この先でとんでもない事態が待ち受けていました(爆)。勝手に同級生K氏を登場させましたが、「ブッシュ・ウォーキング」でした。200mあまりでしたが、最近はほとんど人が通っていないような印象。右はここを通り抜けたあと、振り返ってみた写真。トゲのあるつる性の植物も多くて、まさに難儀しました。

Bush1c Bush2c  そういえば、Googleのストリート・ビューを見たとき、こんな画像が載っていました。左の画像は、2021年12月とあり、しばらく前だから大丈夫かと思ってしまったのです(これ、「正常性バイアス」の一種だったかも知れません)。右の画像は、その先のあたり。ただし、こちらは2013年1月の画像でした。2021年にはこの先、ストリート・ビューの撮影ができなかったということなのでしょう。丁寧に確認しておけばよかった。

Img_9229c_20230121184801 Img_9246c_20230121184901  ブッシュを乗り越え、スタートから3㎞を過ぎると、三重・岐阜県境を越えます。この先、標高数mくらいから40mほどを登る、かなりキツい坂みちになります。その途中に八幡神社。ご祭神は、応神天皇。創立は不詳であるものの、300年以上前と考えられています。1時間半ほど歩いてきましたので、ここで20分ほど小休止。境内には、五穀神社と、山神神社があります。ちなみにこの八幡神社あたりで、標高は36m(キョリ測による)。

Img_9268c_20230122170801  八幡神社のすぐ裏手で美濃街道は右折し、もう少し登っていきます。この写真のあたりが、この日の最高地点。標高45mほどのところ。東側(向かって右)は、なだらかな斜面になっていて、眺望がよく利きました。西側(向かって左)は、養老の山並み。多度山の北側になります。

Img_9261c_20230121184901 Img_9264c_20230121184901  東を眺めた写真。かなりズームアップしてとっていますが、左の写真の中央には、木曽御嶽山が見えます。右は、名古屋方面。名駅前の高層ビル群などがよく見えています。

Img_9273c_20230122171101 Img_9277c_20230122171101  同じあたりから広角21mmで撮ると、こんな景色が見えます。揖斐川、長良川から濃尾平野が一望できるのです。

Img_9304c_20230122171301 Img_9293c_20230121184801  さらに進み、スタートから4㎞を過ぎたところに御鍬神社。鳥居は、神社から東に下ったところにあります。元は、松山村下組の氏神だったのですが、ここのすぐ北にある諏訪神社が創立されたときに創立されたといいます。

Img_9287c_20230121184801  社頭には、この写真のような由来が書かれた案内板がありました(下記の引用の通り)。神亀元(724)年、聖武天皇が養老に行幸されたとき、天皇の御後にが安産なさったことに由来するといいます。この神亀元年に聖武天皇は、元正天皇から譲られて即位し、天平感宝元(749)年、娘の阿倍内親王(のちの孝謙天皇)に譲位するまで26年間在位。聖武天皇は、天平12(740)年10月に伊勢へ行幸。11月に美濃国多度山の美泉をご覧になり、不破郡の宮処寺・曳常泉・美濃国府・不破関を巡幸されたといいますが、神亀元年に美濃国に行幸されたかどうか、私が調べた限りでは不明。ちなみに、元正天皇は、霊亀3(717)年9月、近江国を経て美濃国当耆郡(多芸郡)にいたり、多度山の美泉を見、駕に随う国司らに物を与え、不破・当耆・方県・務義諸郡の百姓に減税などの恩恵を施した。同年11月には詔勅を出し、この多度山の美泉について、病が癒えるなどの効験が大きく、これは大瑞であると述べ、養老への改元を布告しています。

 さらに、下記の引用中、「御後」ということばがあります。これもよく分かりません。「後(あと)」を調べると、コトバンクに「後妻。のちぞい」という意味が載っています(精選版 日本国語大辞典)。聖武天皇は藤原不比等の娘光明子を妃としたこと、また、県犬養広刀自を夫人としたことが「朝日歴史人名辞典」に載っていますが、よく分かりません。聖武天皇が神亀元年に養老に巡行されたかなどについて詳しい方がいらっしゃれば、ぜひともご教示くださるようお願いいたします。

 奈良朝時代(紀元724年)神亀元年第45代聖武天皇が、養老の霊泉へ行幸の途路、天皇の御後がこの地に於いて安産なされた。

 (旧暦8月12日)このとき湯をいやために御後が鍬にて泉を掘られ召し上がられたるところ、神秘的に母乳が豊となり慈後の、お肥立ちも健やかなるを拝し付近住人、その鍬を拝領し御霊として、御鍬神社を興し信仰を高めた、その御神徳は、古くより五穀豊穣家内安全の、乳神様として、その霊験灼かなることが知られ遠近をとわず母乳不足の婦人が参詣されるようになり、以来氏子と崇敬し居る社なり、ほかに同境内に八幡神社、及び山の神社も併せてお祭りされ、春夏秋冬を通して、郷土一帯の山川を治め賜ふ御社として鎮座されてゐる。

Img_9331c_20230121184801Img_9317c_20230121184801  御鍬神社から東へ下ったところに松壽山願超寺。真宗大谷派のお寺。ここもいろいろとネットで調べたものの、詳しいことは分かりませんでした。

Img_9320c_20230121184801  このお寺にも見事なロウバイが咲いていました。この日歩いたコースのあちこちでロウバイが咲いていました。この寒い時期、花が少ないので、ロウバイの花は目を楽しませてくれます。

Img_9308c_20230123072501  願超寺付近で見た民家の石積み。さほど大きくない石を丁寧に積んであります。コンクリートやモルタルなどはほとんど使ってありませんので、かなり昔のものと思われます。ここまで、傾斜地に建つお宅や、ミカン畑など、こうした石積みがあちこちで見られました。願超寺から東に進み、山除川沿いを歩いて行きますが、それは、その3にてということで、その2はここまで。

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2023年1月22日 (日)

20230121美濃街道ウォーキング「多度から石津」(その1)……多度駅をスタートし、空念寺と宇賀神社へ【空念寺について追記(1/29)】

 1月21日に行ってきた美濃街道ウォーキング「多度から石津」の本編その1です。一般に美濃街道とは、尾張の東海道宮宿と美濃の中山道垂井宿をつなぐ脇街道のことをいいますが(こちらは「美濃路」とも呼ばれています)、江戸時代には、桑名から長良川に沿って美濃へと通じる街道を美濃街道と呼んでいました。美濃街道は、すでに桑名から多度までは歩きましたが、その先は未踏(2021年2月27日:20210227勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道再び(川口町~下深谷)」(完)、2021年3月14日:20210314勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道再び(下深谷~多度)」(完))。同級生K氏と話し合い、今年は、美濃街道で養老まで行き、そこから養老街道、美濃路を経て大垣まで歩こうということになり、今日がその第1回。桑名市多度町から海津市石津町までを歩いてきました。今回は、その予告編。なお、美濃街道は、美濃国では伊勢街道あるいは桑名街道と呼ばれたようです。

Tado0  こちらは歩いたコースの全体図。養老鉄道多度駅から石津駅まで、現地で歩いたのは、7.8㎞ほど。多度川にかかるみどり橋まではこれまでに歩きましたから、ここが実際にはスタート地点。空念寺、宇賀神社、柚井遺跡、八幡神社、御鍬神社、願超寺から山除川沿いを北上。子安・延命地蔵尊、天白神社と周り、石津駅の手前で杉生神社に立ち寄ってゴール。

Img_9026c_20230121184601 Img_9015c_20230122062701  桑名駅を8時45分に出る大垣行きに乗車。今日のスタートである養老鉄道多度駅には、8時58分着。¥310。そういえば同級生K氏が最初に近鉄ハイキングに行ったのは、この駅から細川酒造を訪ねるハイキングでした(2020年1月26日:20200126近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 細川酒造の銘酒『上げ馬』と多度大社・追儺祭」へ……祝ご当選!でめでたく「完」)。

Tado1  詳しいコースマップその1。多度駅の来たから小山の尾津神社の前を経てみどり橋へ。もちろん江戸時代には、橋はかかっていません。ここまで前回(2021年3月14日)、来ていますので、ここがこの日の実際のスタート地点。橋を渡って養老鉄道の高架をくぐって空念寺。西に向かい、いったん美濃街道からはずれ、宇賀神社にお参り。街道に戻って北上。NTN多度製作所の先で美濃街道は左折していきます。

Img_9042c_20230121184701 Img_9045c_20230121184701  多度川にかかるみどり橋です。三重県では「みえの歴史街道」というサイトがあり、県内の街道についての詳しい情報があります。多度までは美濃街道の詳しい情報がありますが、多度から先はいろいろと調べたものの、美濃街道についての情報はネットではあまり載っていません。岐阜県に入ってからのルートを特定するのにもかなり苦労しました。また、たとえば「美濃街道(美濃国での伊勢街道)を歩いた」というブログにも行き当たりませんでした。その意味では、美濃街道(伊勢街道)を歩くのは、かなりオリジナリティが高いかも知れません。

Img_9075c_20230122064101 Img_9072c  養老鉄道の高架をくぐって空念寺に向かうところにこのような立派な長屋門のあるお宅がありました。前回の美濃街道ウォーキングで見てきた西田家住宅に似た作りのお屋敷です(2021年3月14日:20210314勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道再び(下深谷~多度)」(完))。西田家は、戸津村の庄屋を代々世襲されたお宅です。こちらもそういうお宅かと思うのですが、詳細は不明。多度町内、あちこちのお宅でロウバイがよく咲いていました。

Img_9096c_20230121184701 Img_9089c_20230121184701  般若山空念寺。真宗大谷派のお寺。元来は天台宗の聖徳山空然寺として多度山中にあったという伝承を持つといいます。山中より当地に下りて後、顕如上人により浄土真宗に改宗して現在に続いています。本堂余間に蓮如上人の木像を奉安しています。また、外陣狭間には中国の二十四孝(24の孝行話)の故事を題材にした装飾彫刻(江戸時代)を掲げるそうです。

Img_9093  空念寺で目を引いたのは、本堂に向かって右手にある建物(書院でしょうか)の2階部分。左の写真で中央に写っています。花頭窓(火灯窓とも)があります。長島の願證寺(真宗本願寺派)でも同じものを見ています(2022年12月26日:20221223長島ウォーキング(本編その2)……正敬寺、花林院、善明寺、蓮生寺、明治の東海道道標、又木神明社、願證寺、深行寺から水辺のやすらぎパーク・旧久我屋敷へ)。

Img_9099  空念寺の先で美濃街道は右折して、北に向かいます。そこに宇賀神社の一の鳥居。ここは、多度山への登山口の一つにもなっています。オレンジ色の看板に「入り口 多度山上公園/自然教室・水郷展望ハイキングコース」と大書されています。一昨年10月、多度山に登ったときも、ここから入って行きました(2020年10月14日:20201014勝手に養老鉄道ハイキング「多度山に登ろう」)。

Img_9131c_20230121184701 一の鳥居から西へ200mほど行くと、宇賀神社があります。美濃街道からは少しはずれますが、立ち寄っていきます。元々は、有力者を祀っていたのが、後に農耕神として宇迦之御魂神を祀るようになったといわれています。正面にはシイの巨木群があります。主祭神は、宇賀御魂神。相殿神は、大山津見神火之迦具土神、火之夜芸速男神、火之炫毘古神(以上の2神は、火之迦具土神に同じ)、表筒男神、中筒男神、底筒男神(以上の3神は、いわゆる住吉大神)、大己貴命少彦名命。住吉大神が祀られているということは、このあたり、昔は舟運で栄えたのかも知れません。

Img_9109c_20230121184701  古くは「天田社」といい、天田はあがたの訛ではないかとされています。「県の神」として農耕神を祀り五穀豊熟を祈つた社ではなかったかと推測されるのです。延喜式内社で明治43(1910)年、境内、区内の神々を合祀し、現在の宇賀神社となっています。大正年間に村社より郷社に昇格したのですが、遠く、仁寿元(851)年すでに神階正六位に叙せられています。農事、山と火の安全、舟便、医薬の神として崇められているといいます。地元では、「椎の宮さん」と呼ばれているそうです。

Img_9109c_20230122072801 Img_9121c_20230122072801  ちなみに、正面にシイの巨木群があります。拝殿の前にも、ご覧のように巨木が立っています。教育委員会による「シイの巨樹からなる宇賀神社の森」という説明板もありました。

Img_9135c_20230121184701 Img_9140c_20230121184701  宇賀神社の近くで、白梅が咲き始めていました。日当たりのよいところです。右の写真は、宇賀神社から美濃街道に戻ったあたり。これからこの北の方角に歩いて行きます。その1は、ここまで。その2は、柚井遺跡から。

【追記(1/29)】空念寺で興味を持った建物(書院?の2階部分)は、形としては、太鼓楼に似ています。真宗系のお寺にはよくあるそうです。

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2023年1月21日 (土)

20230121美濃街道ウォーキング「多度から石津」(予告編)

 気温は8.7℃と低く、風も強かったものの、天候には恵まれましたので、予定通り、美濃街道ウォーキング(多度~石津)に行ってきました。一般に美濃街道とは、尾張の東海道宮宿と美濃の中山道垂井宿をつなぐ脇街道のことをいいますが(こちらは「美濃路」とも呼ばれています)、江戸時代には、桑名から長良川に沿って美濃へと通じる街道を美濃街道と呼んでいました。美濃街道は、すでに桑名から多度までは歩きましたが、その先は未踏。同級生K氏と話し合い、今年は、美濃街道から養老街道、美濃路を経て大垣まで歩こうということになり、今日がその第1回。桑名市多度町から海津市石津町までを歩いてきました。今回は、その予告編。なお、美濃街道は、美濃国では伊勢街道あるいは桑名街道と呼ばれたようです。

Tado0  こちらが今日歩いたコース。養老鉄道多度駅から石津駅まで、現地で歩いたのは、7.8㎞ほど。多度川にかかるみどり橋まではこれまでに歩きましたから、ここが実際にはスタート地点。空念寺、宇賀神社、柚井遺跡、八幡神社、御鍬神社、願超寺から山除川沿いを北上。子安・延命地蔵尊、天白神社と周り、石津駅の手前で杉生神社に立ち寄ってゴール。

Img_9026c_20230121184601  桑名駅を8時45分に出る大垣行きに乗車。今日のスタートである養老鉄道多度駅には、8時58分着。¥310。そういえば同級生K氏が最初に近鉄ハイキングに行ったのは、この駅から細川酒造を訪ねるハイキングでした(2020年1月26日:20200126近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 細川酒造の銘酒『上げ馬』と多度大社・追儺祭」へ……祝ご当選!でめでたく「完」)。

Img_9042c_20230121184701 Img_9045c_20230121184701  多度川にかかるみどり橋です。以前、桑名から多度まで美濃街道を歩いたときのゴールがここでした。三重県では「みえの歴史街道」というサイトがあり、県内の街道についての詳しい情報があります。多度までは美濃街道の詳しい情報がありますが、多度から先はいろいろと調べたものの、美濃街道についての情報はネットではあまり載っていません。「美濃街道(美濃国での伊勢街道)を歩いた」というブログにも行き当たりませんでした。

Img_9089c_20230121184701 Img_9096c_20230121184701  多度川を越えてまずは、般若山空念寺。真宗大谷派のお寺。元来は天台宗の聖徳山空然寺として多度山中にあったという伝承を持つといいます。山中より当地に下りて後、浄土真宗に改宗して現在に続いています。本堂余間に蓮如上人の木像を奉安しています。また、外陣狭間には中国の二十四孝(24の孝行話)の故事を題材にした装飾彫刻(江戸時代)を掲げるそうですが、それは見られません。

Img_9131c_20230121184701 Img_9109c_20230121184701  空念寺の西には宇賀神社。多度山登山口に位置します。2020年に多度山に登ったとき、参拝しています(2020年10月14日:20201014勝手に養老鉄道ハイキング「多度山に登ろう」)。創祀並に由緒については不詳。式内社。濃尾平野を見下ろすあたりにあります。主祭神は、宇賀御魂神。相殿神は、大山津見神、火之迦具土神、火之夜芸速男神、火之炫毘古神(以上の2神は、火之迦具土神に同じ)、表筒男神、中筒男神、底筒男神(以上の3神は、いわゆる住吉大神)、大己貴命、少彦名命。正面にシイの巨木群があります。

Img_9135c_20230121184701 Img_9140c_20230121184701  宇賀神社の東で、白梅が咲いていました。日当たりのよいところ。右の写真は、宇賀神社から美濃街道に戻ったあたり。これからこの方角に歩いて行きます。

Img_9156c_20230121184701  NTNの多度製作所の先に柚井遺跡。昭和3(1928)年耕地整理の際、木簡が出土しています。確か日本で最初に見つかった木簡だったと思います「萬」「福」などの吉祥句を書いた墨書土器も多く、近隣の多度神社及び多度山と関係する祭祀品一括と考えられています。材質は杉材と思われ、上端と下端に切り込みをもつ典型的な付札木簡で、「櫻樹郷守部春□□□籾一斛」の墨書あるそうです。この向こうに伊勢国と美濃国の国境を示す石柱があるそうですが、わかりにくそうなのでパス。

Img_9160c_20230121184701 Img_9164c_20230121184701  この先で道が二股に分かれています。向かって左が美濃街道。グーグルのストリートビューで予習したとき、細い道でけっこう雑草が繁っているのを見たのですが、何とか行けそうでしたのでそちらに進みます。すぐのところには紅梅も咲いていて、気楽に歩いていたのですが……。

Img_9180c_20230121184801 Img_9192c  その先で、とんでもないことに(爆)。勝手に同級生K氏を登場させましたが、「ブッシュ・ウォーキング」でした。200mあまりでしたが、最近はほとんど人が通っていないような印象でした。右はここを通り抜けたあと、振り返ってみた写真。トゲのあるつる性の植物も多くて、まさに難儀しました。

Img_9229c_20230121184801 Img_9246c_20230121184901  柚井遺跡の先で県境を越え、岐阜県に入ります。岐阜に入ってすぐ、八幡神社。ご祭神は、応神天皇。創立は不詳であるものの、300年以上前と考えられています。ここで小休止。

Img_9261c_20230121184901 Img_9264c_20230121184901  八幡神社から坂道を上り、本日の最高地点を過ぎると、御鍬神社に至るのですが、そこから東の眺望が素晴らしい。今日の最高地点で、「キョリ測」によれば、標高約45mほど。木曽御嶽山や、名古屋駅前の高層ビル群がよく見えます。

Img_9287c_20230121184801  御鍬神社です。Img_9284c_20230121184801 元は、松山村下組の氏神だったのですが、ここのすぐ北にある諏訪神社が創立されたときに創立されたといいます。右の写真にあるように、神亀元(724)年、聖武天皇が養老に行幸されたとき、天皇の御後にが安産なさったことに由来するといいます(ただし、聖武天皇が養老に行幸されたのが史実かどうかは、不明)。本編を書くまでにもう少し調べることにします。

Img_9317c_20230121184801 Img_9331c_20230121184801  御鍬神社から東に下ると、松壽山願超寺。真宗大谷派のお寺。ここもいろいろとネットで調べたものの、詳しいことは分かりませんでした。

Img_9320c_20230121184801  願超寺の境内に咲いていたロウバイ。今日歩いたコースのあちこちでロウバイが咲いていました。この寒い時期、花が少ないので、ロウバイの花は目を楽しませてくれます。

Img_9335c_20230121184901 Img_9368c_20230121184901  願超寺からすぐに山除川沿いに進みます。なんと読むのかと思ったら、途中、右のような看板があり、「やまよけがわ」と判明。先ほど触れた諏訪神社に大楠があったのですが、通り過ぎてしまい、戻るとしたら500m。ちょっとなぁということで、断念。

Img_9343c_20230121202701  養老鉄道美濃松山駅の西を通って、地蔵尊。「子安・延命地蔵尊」とあります。傍らに「四国第十九番札所立江寺延命・子安地蔵尊」という石碑が建っています。立江寺は、四国八十八箇所巡りの19番札所。ここから勧請したものなのだろうと思います。

Img_9400c_20230121184901  山除川は、ところどころで護岸が昔のままの土でした。いい感じです。川には、カルガモ、キンクロハジロ、オカヨシガモなどたくさんのカモがあちこちにいましたし、同級生K氏はカワセミが飛んでいたといいます。

Img_9375c_20230121184901 Img_9393c_20230121184901  6㎞を過ぎて、天白神社。ご祭神は、天白神。創立は不詳ですが、社殿にある棟札には「宝永4(1707)年6月22日奉造営天白大明神」とあり、これ以前に創立されたと考えられます。一説には、三重県員弁郡藤原から遷したといいます。

Img_9410c Img_9414c_20230121203701  この先で国道258号線を横断します。太田交差点。その手前に左の標識。桑名からは16㎞、大垣までは23㎞。大垣までも、けっこう近いなというのが、この標識を見たときの印象。

Img_9431c_20230121184901 Img_9453c_20230121184901  石津駅の手前に杉生(すぎお)神社。御祭神は、須佐之男命。創建年月は不詳ですが、この郷は元多芸郡河戸庄太田郷と称し、建久元(1190)年当時上野河戸に居を構えた平家の士河戸七郎が社殿を造営したといいます。

Img_9478c_20230121184901  境内には摂社末社もいくつかありました。こちらは、「柑橘翁伊藤東太夫碑」。明治10(1877)年、みかん苗木200本余りを和歌山より購入し、南濃みかん栽培の基礎を作ったのが、伊藤東太夫で、その業績を讃える石碑。大正9(1920年)地元有志により、杉生神社境内に建立されたものです。

Img_9515c_20230121184901  境内にはケヤキの大木があり、ご神木になっています。岐阜県天然記念物にも指定されています。樹齢800年以上といい、樹高約25m、根元幹周囲約6.2m。余談ですが、杉生神社にお参りするには、養老鉄道の踏切を渡っていかなければなりません。養老鉄道沿線の寺社には、こういうところがたくさんあります。寺社があるところに鉄道を後から通したということです。

Img_9556c_20230121205001 Img_9527c_20230121185001  養老鉄道石津駅には12時半少し前にゴール。多度駅からは2駅。7.8㎞を3時間あまりで歩いた計算(途中、八幡神社で小休止しましたから)。12時34分発の桑名行き普通に乗車。桑名には、12時58分着。¥420。

Img_9578c_20230121185001 Dsc_6985c  今日は途中、食堂も、コンビニも1軒もないルートでした。昼食は、桑名に着いてから。何回か行った目利きの銀次に行こうと思ったら、営業していません。そこで、桑名一番街にあるエンシュウヤで、日替わりランチ。¥750。

Screenshot_20230121141025c  Google Fitによる今日のトータルの歩行距離と歩数。11.9㎞は、過大評価のような気もします。歩数は、18,773歩ですが、「からだメイト」で見ると20,000歩を超えていました。今日のハイライトは、「ブッシュ・ウォーキング」だなぁと同級生K氏と話していました。本編はまたボチボチ書きます。

 

 

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2023年1月14日 (土)

専修寺のお七夜へ……義母の百か日法要を済ませ

Dscn5769c Dscn5765c  今日は義母の百か日法要があり、昨晩から今日の夕方まで家内の実家へ出かけてきました。法要は、午前中に無事に勤められ、午後からは、帰宅途中に高田本山専修寺お七夜にも行ってきました。専修寺に着く頃には、雨もほぼ上がり、こちらも無事にお参りし、義父のお骨が納めてある納骨堂にも参ってきました。お七夜には、何度か行っていますが、去年は、同級生K氏とともに出かけています(2022年1月10日:20220110勝手にハイキング「高田本山専修寺のお七夜」へ(予告編))。

Dscn5769c Dscn5746c  左の写真は御影堂、右は如来堂。いずれも国宝に指定されています。御影堂には、親鸞聖人の木像が中央須弥壇上に安置され、歴代上人の画像を両脇壇および両余間に敬置するお堂。 畳780枚が敷かれており、全国の国宝木造建築の中でも5番目の巨大なお堂です。如来堂は、「証拠の如来(リンク先の法話第42話にあります)」と呼ばれる阿弥陀如来立像(快慶作 国指定重要文化財)を本尊とし、教義上この堂が伽藍の本堂となっています。

Dscn5755c Dscn5750c  こちらは、納骨堂。初めに書きましたように、義父のお骨が納めてあります。義母も近いうちにここに納骨に来る予定です。納骨堂に行く途中、去年拝観した雲幽園が見えます(右の写真)。ここには安楽庵という茶室もあります。わが家(私の実家)の宗旨は同じ真宗でも大谷派なのですが、私自身は専修寺に親近感を感じており、いいお寺だと思っています。

Img_8684c_20230114170101 Dscn5744c  お参りした後で、土産を購入。高田本山に来て、お七夜にお参りしたとなると、私にとってはこれしかありません。桜おこしです。今回は、境内に出店していた春乃舎(はるのや)さんのものを買ってきました。桜おこし、玉お古し、鶯宿梅の3種類がセットになったもの(¥550)。このおこしは、年1回、お七夜での土産に売り出されるおこしなのです。ほかにも、進納所で高田派の仏事や、教えについての本も買ってきました。

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2023年1月 8日 (日)

2022年ウォーキング/ハイキングのまとめ

 2022(令和4)年も新型コロナウィルス感染症はまだ治まらず、JRさわやかウォーキングや近鉄ハイキングの企画は、コロナ禍以前ほどたくさんはありませんでした。そこで、2021年同様、「勝手にハイキング」も行いつつ、JR、近鉄のウォーキング/ハイキングにも参加するということで計17回のウォーキングに出かけました。以下、時系列に沿ってそのまとめをしています。リンクは、「猫の欠伸研究室(アーカイブ)」の記事に貼ってあります。

1.2022年1月10日:高田本山お七夜

2022年1月10日:20220110勝手にハイキング「高田本山専修寺のお七夜」へ(予告編)

2022年1月11日:20220110勝手にハイキング「高田本山専修寺のお七夜」へ(その1)……専修寺でまずはお庭を拝見し、太鼓門、御影堂、如来堂、通天橋へ

2022年1月12日:20220110勝手にハイキング「高田本山専修寺のお七夜」へ(その2)……専修寺で御廟、御廟拝堂、納骨堂、外へ出て窪田の常夜燈、一身田寺内町の館、一御田神社からランチ

2022年1月13日:20220110勝手にハイキング「高田本山専修寺のお七夜」へ(その3)……専修寺を出て、聖俗の結界を抜け、仲之町商店街から橋向通を経て、臼井織布さんを見てゴールの伊勢鉄道・東一身田駅

89e63e82 D4041c75  真宗高田派の本山である専修寺は、私の好きなお寺です。その周囲は一身田寺内町を形成していて、なかなか良い感じの街になっています。さらに、専修寺のお七夜(大谷派でいう報恩講。親鸞上人のご命日の法要)もたびたび出かけるほど気に入っています。一度、庭園を拝観したいと思っていたら、この年のお七夜では、一身田寺内町の館のほっとガイド会の方が雲幽園(うんゆうえん)と茶室である安楽庵を案内してくださるということで、ぜひ見たいと思って出かけたのです。同級生K氏と2人旅。近鉄高田本山駅から高田本山へ。専修寺境内を周り、少し足を伸ばして、窪田の常夜燈、一身田寺内町の館、一御田神社、高田会館にある和彩あかりで昼食、土産を買って、釘貫門から中之町商店街を経て、道標1基を見て、黒門跡から伊勢別街道へ。伊勢木綿の臼井織布の建物を見て、伊勢鉄道・東一身田駅にゴール。歩いたのは9.6㎞。電車賃が計¥1,560、昼食は高田会館和彩あかりで「まぐろとろろ丼」(¥1,300)、土産は「高田山サブレ(定価¥850のところ、賞味期限が近いということで35%ディスカウントで¥595)」と、昔ながらのお七夜土産である「桜おこし」。岡田屋さんで¥800。

2.2022年2月5日:東海道ウォーキング「日永の追分~加佐登(かさど)」

2022年2月5日:20220205東海道ウォーキング(日永の追分~加佐登)(予告編)

2022年2月9日:20220205東海道ウォーキング(日永の追分~加佐登)(その1)……四日市あすなろう鉄道・追分駅から、三寺めぐりを済ませ、内部川へ

2022年2月10日:20220205東海道ウォーキング(日永の追分~加佐登)(その2)……杖衝坂で日本武尊や芭蕉に思いを馳せ、采女一里塚跡から鈴鹿に入り、自由が丘でランチ

2022年2月11日:20220205東海道ウォーキング(日永の追分~加佐登)(その3)……石薬師宿に入り、北町地蔵堂、小澤本陣跡、佐佐木信綱記念館へ

2022年2月12日:20220205東海道ウォーキング(日永の追分~加佐登)(その4)……浄福寺、石薬師寺、蒲冠者範頼之社、蒲桜を見て石薬師一里塚跡からゴールの関西線加佐登駅へ(完)

04b27b42_20230107172201 C2aaf39f  2021年は、同級生K氏と17回に分けて桑名・七里の渡し跡から伊勢神宮・内宮まで歩いて参拝しました(2022年1月5日:2021年「東海道・伊勢街道歩いて伊勢参りツアー」のまとめ)。「今年はどうしようか?」と考えた結果が、まずは、四日市の日永の追分から関宿あたりまで東海道を歩こうということでした。私自身、この区間は、部分的には歩いていますが、通して歩いたことがありませんでした。この東海道ウォーキングも、同級生K氏と二人旅。初回のこのときは、四日市・日永の追分から杖衝坂を上り、石薬師宿を通って、庄野宿の手前の鈴鹿・加佐登まで東海道を歩いて来ました。歩いたのは、12.6㎞。電車賃は計¥1,080、昼食は自由が丘のレストランミヤコで日替わりランチ(¥990)。このあたり、実は、大学院を修了して就職した病院からほど近いところで、懐かしいところ。レストランミヤコのランチも何度も食べました。近くのレストランスオーや、来来憲(とんてきで有名)にも来ていました。いわば、ちょっとしたセンチメンタルジャーニー(微笑)。

3.2022年2月17日:四日市市立博物館「昭和のくらし 昭和のおもちゃ」展

2022年2月17日:20220217勝手にハイキング「四日市博物館で”昭和のくらし 昭和のおもちゃ”展を見て、鵜の森公園」へ

4f9001fc  四日市市立博物館で「昭和のくらし 昭和のおもちゃ」展が開かれていましたので、それを見たついでに鵜の森公園に行ってきました。四日市市立博物館では、毎年、新年に「昭和の暮らし」などを巡る展覧会が開かれますので、私はここ数年、毎年見ています。小学生向けの学習支援展示ですが、昭和生まれの私にとっては懐かしいものが見られるのです。展覧会を見たあと、鵜の森公園へ。ここは浜田城跡で、現在は、泗水庵という茶室と鵜の森神社があります。同級生K氏と出かけてきました。歩いたのは、5.6㎞。電車賃は計600円。昼食は、寒かったので、諏訪の商店街にある東京荻窪ラーメン・えびすや四日市店で、「おぎくぼラーメン」(¥795)。四日市近鉄百貨店に立ち寄って、土産に出張販売に出ていた木村屋の「季節のあんぱん」5種類の詰め合わせ(¥1,182)。

4.2022年2月27日:近鉄酒蔵立ち寄りハイキング「神楽酒造(神楽)」

2022年2月27日:20220227近鉄ハイキング「銘酒『神楽』神楽酒造をたずねて」へ(完)……ほぼ2年ぶりの近鉄ハイキングに参加、オマケはKINGの自販機の話

6d7149c3 C0599c6b  ほぼ2年ぶりに近鉄ハイキングに参加してきました。この前に行ったのは、新型コロナウィルス感染症が蔓延し始めたころ出かけた「酒蔵みてある記」でした(2020年2月9日:20200209近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 早川酒造部『天一』」へ(完))。「酒蔵みてある記」は人気があり、再開希望がたくさん寄せられたようで、2022年、「酒蔵立ち寄りハイキング」として復活しました。神楽酒造は、四日市市室山町にあります。近鉄湯の山線・伊勢松本駅から、春の丘、夏の広場を経て神楽酒造に立ち寄り、四日市あすなろう鉄道・西日野駅がゴール。歩いたのは7.4㎞。電車賃は計¥950。試飲を1杯、土産は「神楽」という特別純米生酒の4合瓶1本(¥1,320)。昼食は、自宅にて。

5.2022年3月5日:近鉄酒蔵立ち寄りハイキング「丸彦酒造(三重の寒梅)」

2022年3月5日:20220305近鉄酒蔵立ち寄りハイキング「銘酒『三重の寒梅』丸彦酒造をたずねて」へ(1回完結)

107c9837 726e5edf  丸彦酒造さんの「三重の寒梅」はなかなかの銘酒と思います。四日市市川島町にある酒蔵です。同級生K氏と2人旅。伊勢松本駅から南へ。松井神社を経て(このあと鹿化川沿いに出るまで、境内で寄り道をし、少しコースを外れています)、鹿化川沿いを歩いて、上布田遺跡の説明板、鹿化川千本桜並木を歩いて、丸彦酒造さんへ。その後、コースマップでは伊勢川島駅へ向かうのですが、「もうちょっと歩いても良いな」ということになり、西福寺、伊勢三郎首塚、河島御厨神明神社まで足を伸ばしてきました。丸彦酒造さんで、1杯¥100の有料試飲を2杯。内緒ですが、小宴会(微笑)。歩いたのは、8.8㎞。電車賃は計¥910。直売所では、「三重の寒梅 初しぼり」(¥1,400)と、ワンカップ(¥300)を購入。昼食は、近鉄四日市駅で途中下車して、駅ナカにあるうどん・そばの「四日市庵」で天ぷらきしめん(¥380)。

5.2022年3月19日:東海道ウォーキング「加佐登~井田川」

2022年3月19日:20220319東海道ウォーク「加佐登~井田川」(予告編)

2022年3月22日:20220319東海道ウォーク「加佐登~井田川」(その1)……加佐登駅から庄野宿へ

2022年3月23日:20220319東海道ウォーク「加佐登~井田川」(その2)……汲川原から西冨田の福萬寺へ

2022年3月24日:20220319東海道ウォーク「加佐登~井田川」(その3)……西富田町から井田川駅にゴール(完)

05ea0822 E916bc31  2月5日の東海道ウォーキングの続きとして、鈴鹿市加佐登町から亀山市井田川町まで。JR関西線・加佐登駅から庄野宿に入ります。善照寺、庄野宿資料館、妙法寺、集会所・本陣跡、常楽寺、川俣神社でスダジイの大木(ちなみに、川俣神社という名前の神社が、このあたりには4社あります)、平野道道標、いぼとり地蔵、真福寺、神戸藩領界石・女人堤防碑、川俣神社・中冨田一里塚跡碑、清光寺、常念寺、福萬寺、道標(ひろせ道)、川俣神社・無上冷水井戸跡、弘法井戸、川俣神社、和泉公民館で地蔵尊、道標(のゝぼり道)、地蔵尊、明治天皇御小休所碑・観音堂跡、地福寺と実にたくさん見て回って、JR関西線・井田川駅がゴール。歩いたのは10.1㎞。電車賃は計¥1,100。昼食は、国道1号線沿いの「すき家1国亀山店」で、「クリーミーオニサラ牛丼」にお新香セットをつけて、計¥700。
 このときは、途中の庄野町集会所にいらした女性から「お茶でもどうですか?」と呼び込まれ、温かい梅昆布茶を頂き、いろいろと話を伺っていたら、「庄野 寄っといで音頭」をつくったといって、生歌を聴かせていただき、さらにそれを収録したCDまで頂戴してきました。炭坑節の替え歌でした。

6.2022年4月23日:東海道ウォーキング「井田川~亀山」

2022年4月23日:20220423東海道ウォーク「井田川~亀山」(予告編)

2022年4月25日:20220423東海道ウォーク「井田川~亀山」(その1)……井田川駅を降りて、和田一里塚跡へ

2022年4月26日:20220423東海道ウォーク「井田川~亀山」(その2)……能褒野神社二の鳥居・露心庵跡から姫垣外苑まで

2022年4月27日:20220423東海道ウォーク「井田川~亀山」(その3)……亀山城址にて多門櫓、明治天皇行在所旧蹟、亀山演武場などを見て、亀山駅にゴール(完)

066e6f35  「東海道ウォーク」の3回目。JR関西線・井田川駅から西信寺、正福寺、谷口法悦供養塔、幸福寺、福禅寺、石上寺、和田一里塚、巡検道との追分、亀山宿の江戸門口跡、福泉寺、法因寺、弘法院、樋口本陣跡、高札場跡、大手門跡、亀山城跡、亀山神社、石井兄弟亀山敵討石碑からJR関西線亀山駅がゴール。亀山駅前では、リニア開通を見越して、駅前の整備とともに、マンションの建設などが行われていました。歩いたのは、10.2㎞。電車賃は計¥1,270。昼食は、亀山駅前で食べるところがなかなか見つからず、ウロウロしましたが、結局、駅前にあった「瑞宝軒」という和菓子屋さんがやっているカフェで。最初は、和菓子屋さんだから昼ご飯はないなと思って、いったん通り過ぎたものの、ほかに飲食店はなく、戻って来て「食事ができますか?」と聞いたら、ランチがありましたので、それをチョイス。コーヒー付きで¥1,100。サワラのフライとハンバーグ。

7.2022年5月7日:東海道ウォーキング「亀山~関」

2022年5月7日:20220507東海道ウォーキング「亀山宿~関宿」(超予告編)

2022年5月11日:20220507東海道ウォーキング「亀山宿~関宿」(その1)……亀山駅をスタートし、武家屋敷などを見て、京口門跡あたりまで

2022年5月12日:20220507東海道ウォーキング「亀山宿~関宿」(その2)……野村から太岡寺畷へ

2022年5月13日:20220507東海道ウォーキング「亀山宿~関宿」(その3)……いよいよ念願の関宿へ

2022年5月14日:20220507東海道ウォーキング「亀山宿~関宿」(その4)……念願の関宿はおもしろい(完)

602d8e55 3de10ec1  関宿は、江戸時代の町並みがよく保存されていますので、ずっと以前から一度は訪ねてみたいと思っていた、念願の地です。JR関西線・亀山駅から、加藤家屋敷、西之丸庭園、青木門跡、飯沼慾斎生家跡と道標2基、旧舘家住宅、善導寺、西之丸堀跡、京口門跡、梅厳寺、照光寺、旧佐野家住宅、光明寺、慈恩寺から野村の一里塚、亀山藩大庄屋打田権四郎昌克旧宅跡、毘沙門天、布気神舘大神社、昼寝観音、清福寺、太岡寺畷と回って、いよいよ関宿へ。関宿では、関の小萬の碑、関宿東の追分(伊勢別街道との追分)、長谷屋資料館、宝林寺、御馳走場跡、関の山車会館、延命寺、関まちなみ資料館、百六里庭(ひゃくろくりてい)・眺関亭(ちょうかんてい)、関宿旅籠玉屋歴史資料館、深川屋(銘菓関の戸を製造販売)、高札場跡、福蔵寺、地蔵院と回って、道の駅・関宿で昼食を摂って、JR関西線・関駅にゴール。歩いたのは、11.7㎞。電車賃は計¥1,450。昼食は、道の駅・関宿にある「定食屋みくら」で「冷やし海老おろしうどん」(¥840)。土産は、深川屋関の戸。和三盆と抹茶の6個ずつの詰め合わせ(¥1,118)。ちなみに、深川屋さんは創業約380年で、「忍びの隠れ蓑」だそうです。「関の戸」は、忍者の末裔・服部伊予保重が考案した餅菓子です。

8.2022年5月22日:JRさわやかウォーキング・近鉄ハイキング合同企画「四日市けいりんバンク特別開放と四日市の鉄道・バスグッズマルシェ」

2022年5月22日:20220522JRさわやかウォーキング・近鉄ハイキング共同企画「四日市けいりんバンク特別開放と四日市の鉄道・バスグッズマルシェ第2弾!!」(完)

2de6d852 41b22aed  この日は、JRさわやかウォーキング・近鉄ハイキングの共同企画である「四日市けいりんバンク特別開放と四日市の鉄道・バスグッズマルシェ第2弾!!」に娘と2人で参加してきました。近鉄富田駅をスタートし、浜園緑地、四日市港ポートビル、霞ヶ浦緑地、四日市競輪場、稲葉翁記念公園、JR貨物四日市駅を経て、JR四日市駅がゴールというコース。四日市競輪場で、バンクが特別開放されたのですが、そのためにこのウォーキングに参加したようなもの(微笑)。バンクは1周400m。直線コースが62.4mと、他の競輪場に比べ長いそうです。ここのバンクの傾斜角度(カント)は、コーナーでは32° 15′ 07″だそうですが、見た目では45°くらい傾いているように見えました。このバンクを歩いて1周。もう1つの楽しみは、JR貨物四日市駅での鉄道・バスマルシェ。ここに松阪の駅弁屋さんである「あら竹商店」さんが出店。あの「モー太郎弁当」を是非とも買いたかったのです。娘はゴールが近づくにつれ、早足になっていました。歩いたのは11.2㎞。電車賃は計¥500。モー太郎弁当は、1個が¥1,500を3個お買い上げ。

9.2022年5月28日:勝手にハイキング「松阪ウォーキング」

2022年5月28日:20220528松阪ウォーキング(予告編)

2022年5月30日:20220528松阪ウォーキング(その1)……縁切り不動、八雲神社、松阪大映、松阪撫子を見て来迎寺へ

2022年5月31日:20220528松阪ウォーキング(その2)……樹敬寺で本居宣長墓・原田二郎墓所、松阪三珍花の発祥地をめぐり、原田二郎旧宅、松阪工業高校の赤壁校舎から御城番屋敷へ

2022年6月1日:20220528松阪ウォーキング(その3)……本居宣長ノ宮、松阪神社、松坂城跡から不二屋で焼きそばにて「完」

533749d7 Bb254857  2022年は、東海道ウォーキングとして、四日市の日永の追分(東海道と伊勢街道との追分)から関宿まで歩きましたが、この先は、JR関西線と東海道とが離れてしまい、「電車で行って歩き、電車で帰る」というスタイルで行けるのは関まで(三重県にはもう1箇所、坂下宿があり、その先は鈴鹿峠越えになります)。次のウォーキングはと考え、取り敢えず、この日は松阪へ。松阪駅から八雲神社、来迎寺、常教寺、樹敬寺(本居宣長の墓があります)、御城番屋敷、松坂城跡などを巡ってきました。同級生K氏との二人旅。歩いたのは、8.7㎞。電車賃は計¥1,920。昼食には不二屋の焼きそば(¥800)。土産は、いつもの柳屋奉善老伴。6個入りで¥1,140。

10.2022年6月12日:勝手にハイキング「水の都・大垣ウォーキング」

2022年6月12日:20220612水の都・大垣ウォーキング(予告編)

2022年6月17日:20220612水の都・大垣ウォーキング(その1)……大垣城、郷土館、藩校敬教堂跡から八幡神社へ

2022年6月18日:20220612水の都・大垣ウォーキング(その2)……四季の路を通り、円通寺から船町川湊、奥の細道むすびの地へ

2022年6月21日:20220612水の都・大垣ウォーキング(その3)……船町川湊から美濃路を歩いてゴールの大垣駅へ(完)

74eecb4c Beac5431  当初は前日に予定していたものの、天気があまり良くないという予報で、この日に延期しました。大垣は、水の都といわれますが、まさにその通りで、とても良いところでした。養老鉄道大垣駅がスタート&ゴール。大垣城、郷土館、大垣藩校敬教堂跡、八幡神社、円通寺、奥の細道むすびの地、住吉神社、船町港跡・港灯台、船町道標、美濃路大垣宿本陣跡、大手門跡、堀抜井発祥の地、愛宕神社・岐阜町道標などを回ってきました。現地で歩いたのは、6.3㎞ほどでしたが、あちこちで資料館なども見て回り、4時間半も滞在。この日も同級生K氏と二人旅。歩いた合計距離は、8.7㎞。電車賃は、養老鉄道の1日フリー切符を購入し、¥1,500。昼食は、大垣駅ビルのアスティ大垣にある「おらが蕎麦」でちくわ天おろしそば(¥660)。土産に「金蝶園製菓総本家」で、大垣名物水まんじゅう。

11.2022年7月17日:勝手にハイキング「堀川・宮の渡し・熱田神宮ウォーキング」

2022年7月17日:20220717堀川・宮の渡し跡・熱田神宮ウォーキング

2022年7月18日:20220717堀川・宮の渡し跡・熱田神宮ウォーキング(その1)……アオサギを見つけ、松重閘門から堀川沿いを下り、闇之森八幡社、堀川橋梁へ

2022年7月19日:20220717堀川・宮の渡し跡・熱田神宮ウォーキング(その2)……尾頭橋他から断夫山古墳、白鳥古墳へ

2022年7月20日:20220717堀川・宮の渡し跡・熱田神宮ウォーキング(その3)……被爆堤防・空襲跡、宮の渡し跡、円通寺、熱田神宮から神宮前駅でゴール(完)

41cc9858 5551fb0d  同級生K氏と二人で、名鉄名古屋本線山王駅から松重閘門、そこから掘川沿いを歩いて下り、熱田神宮公園で断夫山古墳と、すぐ近くにある白鳥古墳を見て、宮の渡し跡へ。その後、円通寺と熱田神宮にお参りしてきました。歩いたのは合計10.5㎞。電車賃は計¥1,300。昼食は、熱田神宮内にある宮きしめん神宮店で、冷やし宮きしめん(¥800)。ここできしめんを食べたかったのですが、これまでは大賑わいで諦めていました。ようやくリベンジ。土産は、定番のきよめ餅。5個入りで¥750。

12.2022年9月2日:勝手にハイキング「壬申の乱1650年記念大矢知ウォーキング」

2022年9月2日:20220902勝手にハイキング「壬申の乱から1350年記念 霞ヶ浦~大矢知ウォーキング」(予告編)

2022年9月5日:20220902勝手にハイキング「壬申の乱から1350年記念 霞ヶ浦~大矢知ウォーキング」(その1)……霞ヶ浦駅から志氐神社、明円寺そして大膳寺跡へ

2022年9月7日:20220902勝手にハイキング「壬申の乱から1350年記念 霞ヶ浦~大矢知ウォーキング」(その2)……浄恩寺、南北伊賀留我神社、荒木十兵衛頌徳碑から浄恩寺道道標へ

2022年9月8日:20220902勝手にハイキング「壬申の乱から1350年記念 霞ヶ浦~大矢知ウォーキング」(その3)……久留倍官衙遺跡・くるべ古代歴史館、長倉神社、照恩寺、忍藩大矢知陣屋跡から龜屋佐吉でかき氷を食べて大矢知駅にゴール(完)

78c5b717 5b2cfbe1  2022年は、壬申の乱(672年)から1350年ということで、「壬申の乱から1350年記念 霞ヶ浦~大矢知ウォーキング」と銘打って出かけてきました。霞ヶ浦駅をスタートして、志氐(しで)神社、明円寺、大膳寺跡、浄恩寺、南北伊賀留我神社、荒木十兵衛頌徳之碑、天武天皇迹太川遙拝所跡、久留倍官衙遺跡・くるべ古代歴史館、長倉神社、照恩寺、大矢知興譲小学校(忍藩陣屋跡)、亀屋佐吉などを回って、三岐鉄道三岐線大矢知駅まで。歩いたのは、10.2㎞。電車賃は計¥710。暑い時期に大矢知に行くなら、何が何でも立ち寄ってかき氷を食べなくてはと思って、亀屋佐吉で「白玉和三盆金時みるく」(¥870)をいただいてきました。昼食は、桑名駅コンコースにある伊勢ノ国食堂しちりで、「天ぷら中華そば」(¥850)。同級生K氏と二人旅。

13.2022年9月24日:勝手にハイキング「笠寺観音を訪ねて」

2022年9月24日:20220924笠寺ウォーキング(超予告編)

2022年9月26日:20220924笠寺ウォーキング(その1)……名鉄桜駅をスタートし、桜神明社、富部神社、呼続公園の頼朝公旗掛松

2022年9月29日:20220924笠寺ウォーキング(その2)……長楽寺、東海道、笠寺観音へ

2022年9月30日:20220924笠寺ウォーキング(その3)……法性寺、笠寺公園で見晴台考古資料館、住居跡観察舎、笠寺高射砲陣地跡、きんさん桜・ぎんさん桜、笠寺一里塚跡、七所神社を巡る(完)

63d8472e 361873db  同級生K氏と前日に計画していたのですが、台風15号の影響で雨になりましたので、この日に順延。まさに台風一過で、よく晴れました。名鉄名古屋本線桜駅をスタート。桜神明社、富部神社、呼続公園、長楽寺から東海道を少し歩いて笠寺観音へお参り。続いて笠寺公園にある見晴台考古資料館から笠寺一里塚跡と七所神社を経て、名鉄名古屋本線本笠寺駅まで。名鉄線では1駅分でしたが、ぐるぐると回って、歩いた距離は8.5㎞。電車賃は計¥750。昼食は、笠寺駅近くの「珈琲ミハル」へ。創業60年を超えている、まさに昭和風の喫茶店で、和風ハンバーグランチ、コーヒー付きで¥850。

14.2022年10月9日:勝手にハイキング「桑名駅西ウォーキング」

2022年10月9日:20221009桑名駅西ウォーキング(一回完結)

C9f59c3f 0cf02eed  桑名駅集合で、円妙寺、大福田寺、円妙寺墓地、立坂神社𦾔跡、聖衆寺、秋葉三尺坊大権現から竹林を歩いて、式部泉を見て、高塚山古墳の麓へ行くつもりだったのですが、竹林が住宅工事で通れなくなっていて、予定変更。北別所神明社へショートカットし、さらに、旧桑名市民病院跡地を見て、岸西山へ。大正寺、岸西山遺跡、尾野神社北之社、尾野神社・立坂神社・舟着社、専明寺、照源寺と歩いてきました。歩いたのは、8.6㎞。全行程徒歩です。昼食は、目利きの銀次桑名駅前店であじフライ(¥700)。この日も名コンビの同級生K氏と。

15.2022年10月29日:JRさわやかウォーキング「伊勢鉄道線開業35周年記念 歴史と文化に触れる鈴鹿市を再発見!」

2022年10月29日:20221029JRさわやかウォーキング「伊勢鉄道線開業35周年記念 歴史と文化に触れる鈴鹿市を再発見!」(予告編)

2022年10月30日:20221029JRさわやかウォーキング「伊勢鉄道線開業35周年記念 歴史と文化に触れる鈴鹿市を再発見!」(その1)……関西線河曲駅をスタートし、鈴鹿市考古博物館、伊勢国分寺跡、冨士山1号古墳、高岡山中央公園から高岡城跡へ

2022年11月1日:20221029JRさわやかウォーキング「伊勢鉄道線開業35周年記念 歴史と文化に触れる鈴鹿市を再発見!」(その2)……常夜灯2基、神戸の見附跡、観音寺、龍光寺、神戸宗社、神戸城跡を経て伊勢鉄道・鈴鹿駅にゴール(完)

60828a9e 8d8aad39  JR関西線河曲(かわの)駅から鈴鹿市考古博物館、伊勢国分寺跡、冨士山1号古墳、高岡山中央公園、高岡城跡、常夜灯、神戸の見附跡、観音寺、龍光寺、神戸宗社、神戸城跡と回ってきました。長丁場でしたが、3箇所ほど寄り道をしてきました。今回も同級生K氏と二人旅。歩いたのは合計15.2㎞。電車賃は計¥1,060。昼食は、鈴鹿市駅の手前で、京都北白川 ラーメン 魁力屋 鈴鹿矢橋店に立ち寄り、「特製醤油味玉ラーメン(¥869)」。伊勢国分寺跡と、鈴鹿市考古博物館は訪ねてみたかったところです。高岡城跡からの眺めはかなりよいものでした。こういうところに城をつくりたくなるのはよく分かります。

16.2022年12月10日:近鉄ハイキング「青木酒造の銘酒『米宗』を訪ねて(酒蔵みてある記)」

2022年12月10日:20221210近鉄ハイキング「青木酒造の銘酒『米宗』を訪ねて(酒蔵みてある記)」(1回完結)

Ec25e466 F252419a  近鉄ハイキングでは、3年ぶりに「酒蔵みてある記」が復活し、今日がその初回。これはやはり行くしかありません。弥富駅を出て途中、薬師寺、難畑地蔵尊、興善寺地蔵に立ち寄り、東名阪自動車道を越えて、愛西市へ。青木酒造で試飲、抽選会、即売会。その後は、ひたすら弥富駅に戻るコースですが、帰り道に源空寺と聖覚寺にちょっとだけ寄ってきました。今回は1人。ちなみに、4年前に同じコースで青木酒造に行っています(2018年12月9日:20181209近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 青木酒造の銘酒「米宗」をたずねて」へ(予告編)……いよいよ「酒蔵みてある記」の季節到来)。歩いた距離は、11.7㎞。電車賃は計¥520。青木酒造で「純米米宗」の720mmlを1本買ってきました(¥1,600)。昼食は、自宅にて。

17.2022年12月23日:勝手にハイキング「長島ウォーキング」

2022年12月23日:20221223長島ウォーキング(予告編)

2022年12月25日:20221223長島ウォーキング(本編その1)……近鉄長島駅から光岳寺、長島八幡社、小田江神崎神社、大智院、光栄寺、稲荷阿岐波神社、長島城跡へ

2022年12月26日:20221223長島ウォーキング(本編その2)……正敬寺、花林院、善明寺、蓮生寺、明治の東海道道標、又木神明社、願證寺、深行寺から水辺のやすらぎパーク・旧久我屋敷へ

2022年12月27日:20221223長島ウォーキング(本編その3)……長島川遊歩道を歩いて日神神社にお参りしなばなの里へゴールして地ビールで乾杯(完)

31bdc6b8 2953d50f  同級生K氏と二人で桑名市長島町をウォーキング。2022年のウォーキング納めです。近鉄長島駅から南のあたりの歴史散歩という次第。光岳寺、長島八幡社、小田江神崎神社、大智院、光栄寺、稲荷阿岐波神社、長島城跡、正敬寺、花林院、善明寺、蓮生寺、神明社、崇泉寺、願證寺、皇大神社、深行寺、旧久我屋敷・水辺のやすらぎパーク、長島川遊歩道、日神神社と回って、なばなの里がゴール。なばなの里では、今年のウォーキング納めを祝して、ビールで乾杯してきました(微笑)。「長島ビール園」で冬季限定のビールである「ボック」で祝杯を挙げた次第。歩いたのは、合計12.6㎞。電車賃・バス代は合計¥640。

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2022年12月31日 (土)

よい年をお迎えください

Img_7026c_20221231144601 Img_6838c_20221231144601  いよいよ令和4年も大晦日を迎えました。大晦日でもまずは、散歩と変わりありません。今朝の津の最低気温は、2.4℃でしたが、アメダスがあるのは島崎町の津地方気象台。伊勢湾沿いですから、実家あたりとは気温などずいぶん違うはず。7時に散歩に出たときは、冷たくて手がかじかんでいました。いつものように町内一周+アルファで、7.5㎞。日が昇ってきて、日が当たるようになったら、ずいぶん暖かくなりました。

Img_6951c_20221231144601 Img_6957c_20221231144601  しっかり歩いたのに、残念ながら、今朝は鳥は本当に少なく、サギはまったく見ませんでした。トビも鳴き声はあちこちで聞いたものの、姿は確認できず。ほかは、ハクセキレイ、カワラヒワにスズメくらい。榊原川沿いでキセキレイ、カワガラスを見たのに、写真は撮れずか、ピンぼけ。最後の締めくくりなのに、鳥果は上がりませんでした。まともに写真が撮れたのは、コガモたち。

Img_7096c_20221231144601  実家に戻ってきたら、ジョウビタキのメスが出迎えてくれました。ジョビ姫は、実家あたりに縄張りを構えたようで、毎日、よく見ます。

Img_6998c_20221231144601 Img_6990c_20221231144601  ところで、Googl Mapを見ていたら、二区集会所のところに「本願寺跡・明治の榊原小学校遺構」とあるのに気づき、見てきました。集会所では、ずいぶん昔、かんこ踊りが行われるのを亡くなった義父に誘われ見に行きました。お墓のようなものが並んでいるなとは思ったのですが、さほど気にしていませんでした。右の写真の場所が、本願寺跡・明治の榊原小学校遺構のはず。榊原小学校の沿革を見ますと、「明治8(1875)年6月1日、榊原小学校 谷杣学校創設」とあります。その地がここなのだろうと思うのですが、ネット検索のみでは、これ以上は不明。本願寺跡についても、分かりませんでした。

Img_6850c_20221231144601  さて、この1年、拙いブログにお付き合いいただきまして、皆様には厚く御礼申し上げます。住まいのマンションの管理組合理事長も、今月半ばでなんとか任期を終えられ、ずいぶん気が楽になりました。来年も引き続き、「淡々と飽きもせず……」「晴歩雨読」「散歩生活、ときどき仕事」でボチボチとやって行こうと考えています。江戸橋での非常勤は来年度も続けられますし、教育委員会関係の仕事も続くと思います。ウォーキングは、近鉄ハイキングやJRさわやかウォーキングのほか、「勝手にハイキング」では美濃街道、養老街道、美濃路をたどって大垣まで行きたいと思っています(すでに多度までの美濃街道は歩きました)。もちろん、日々の散歩とバードウォッチングは生活の中心です。引き続きよろしくお願い申し上げます。

Img_6806c_20221231144601  皆様には、どうぞ良い年をお迎えください。

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2022年12月26日 (月)

20221223長島ウォーキング(本編その2)……正敬寺、花林院、善明寺、蓮生寺、明治の東海道道標、又木神明社、願證寺、深行寺から水辺のやすらぎパーク・旧久我屋敷へ

20221223nagashima1  12月23日に行ってきた「長島ウォーキング」の本編その2です。その1は、旧長島城跡まででした。ルートマップはその1。マップの中央あたりです。その2では、長島川を渡って、川の東へ。正敬寺、花梨院、善明寺、蓮生寺とお寺が続きます。

Img_5801c_20221223190001 Img_5807c_20221223190001  まずは、石城山正敬寺(しょうきょうじ)。真宗大谷派。写真でお分かりのように、手入れが行き届いた、良いお寺なのですが、残念ながら、由緒書きもなく、また、ネット検索ではとくに情報は出て来ません。

Img_5849c_20221223190101 正敬寺の北に盤龍山花林院(ばんりゅうざんかりんいん)へ。曹洞宗のお寺。家康の異父同母弟である松平康元が父久松俊勝の冥福を祈るため、三州西郡(こちらの記述によれば、現在の愛知県蒲郡市に含まれる地域)に一寺を建て父の法号を採って花林院と名づけたそうです。その後、松平氏は下総関宿へ移封。さらに加納、信州小諸へと移封されたので、寺もこれにしたがって移転しています。松平康尚が長島藩主となると、花林院も長島に寺基を移しました。その後、増山氏が長島に入封すると増山氏もまた花林院を代々の位牌所として庇護しています。門の脇に「乳授薬師(ちちやくし)」という石碑も建っています。

Img_5845c_20221223190101  禅寺らしく、山門の脇には、大きな「戒壇石(かいだんせき)」があり、「不許葷酒入山門(=葷酒山門に入るを許さず」と刻まれています。山門をくぐった右手(北側)には、地蔵堂が2ヶ所あります。

Img_5824c_20221223190001  元の本堂は天保年間の建立だったそうですが、昭和36(1961)年に焼失。その後、鉄筋コンクリートで再建されています。

Img_5830c  長島藩主松平、増山両家の位牌所で、墓所には増山氏の13基の墓碑があるそうです。左の写真は、増山正修(ましやま まさなお)公のお墓。天保13(1842)年、長島藩主増山家7代となっています。

Img_5839c_20221223190001 Kyuka  境内には、また、福原銭太郎(ふくはらせんたろう:慶応3(1867)~昭和13(1938)年))の墓があります。福原は、伊勢国桑名郡長島村(現在の三重県桑名市長島町)出身。士族・福原資英の長男として生まれ、陸軍軍人で最終階級は陸軍中将。日清、日露戦争に参戦。陸軍士官学校教官、参謀本部部員、近衛師団参謀も歴任し、日露戦争時には第12師団高級参謀を務めています。大正9(1920)年、桑名町長に選出され、10年間在職。また、大正11(1922)年には三重県会議員に当選し、2期務めました。その後、昭和6(1931)年から昭和8(1933)年まで長島村長も務めています。余談ながら、福原は、九華公園の西側入り口にある碑の文字を書いています(右の写真)。この碑陰には、「昭和3年5月建之 桑名町会議員一同」とあります。

Img_5868c_20221223190101 Img_5862c_20221223190101  続いては、長崎山善明寺。真宗大谷派で、長島六坊の1つ。開祖は長崎新蔵。長崎は一向一揆の後しばらく尾張にいましたが、その後長島に戻り、寛永12(1635)年、善明寺を開創。現本堂は大正4年(1915)の再建。

Img_5883c_20221223190101 Img_5896c_20221223190101  善明寺の先でグルッと回って今度は西へ。紫雲山蓮生寺。真宗高田派。このお寺では、旧長島城の大手門の一部が山門として使われています。蓮生寺第十一世賢道のとき(明治9(1876)年)に払い下げを受けたものです。旧大手門より縮小されているそうです。

Img_5879c_20221225190701  山門の瓦には、当時の藩主・増山家の家紋が見られます。

Img_5931c_20221223190101  一回りして、稲荷阿岐波神社の近くにある大手橋のところに戻ってきました。橋の東側に道標が1基あります。稲荷阿岐波神社の前から大手橋のところは街道であったようです。ここは三叉路で、道標の正面には正面には、「👈 前ヶ須 津島/宮 名古屋道」、左右両面には「右 久波奈ミち」「左 くわなみち」とそれぞれ刻まれています。この道標は、「明治の東海道」を示しているものでした。明治4(1871)年に七里や三里の渡しが廃止され、東海道は熱田から前ヶ須(現在の弥富市)に至り、前ヶ須から官営渡船で長島を横断する鰻江川(うなぎえがわ:長島輪中と葭ヶ崎輪中の間の水路を鰻江川といいました。明治24(1891)年に締め切られています)を通り、桑名川口町へ着くコースに変更されました。なお、これとは別に、前ヶ須から民営渡船で押付(桑名市長島町、国道1号線と県道7号線の交差点あたり)へ渡り、長島を陸路で横断し、十日外面(とおかども:伊勢大橋東詰交差点あたり)から桑名福島へ渡る民営渡船のコースもありました。

Img_5953c_20221223190101 Img_5943c_20221223190101  このあと、国道1号線を越えて、1号線の南側へ。まずは、又木交差点のところにある神明社へ。ご祭神は、天照大神。慶長19(1614)年、西外面村遠浅に神明宮として勧請したのが始まりといいます。その後、荒廃したため、西外面鎮座のハ幡宮を当地の産土神として崇敬するに至りました。大阪の陣に際し、当地の民が多く徴発されて出陣しましたが、全員つつがなく帰村したのは、神明の加護によるものとして再び社殿を造営し奉斎したと伝えられています。さらに、享和3(1803)年には秋葉社を、また、天保2(1831)年には末社金刀比羅宮を勧請し、当地の氏神として多くの崇敬者の信仰を集めています。簡素な社ですが、それなりの由緒、経緯があるものです。

Img_5963c Img_5957c_20221223190101  神明社の東に真宗大谷派の崇泉寺。草木が生い茂っていて、無住かとも思えますが、墓地は割ときれいでした。この崇泉寺については、詳しいことは不明。

Img_5999c Img_5982c  さて、いよいよ願證寺(がんしょうじ)へ。山号は、長島山願證寺。長島御坊ともいいます。願證寺は戦国時代、織田信長と長島の一向宗門徒の間で起こった長島一向一揆の舞台となった寺として、悲惨な歴史があります。しかし、もとの願證寺は杉江につくられ、その跡は明治期の河川改修工事によって、長良川の川底に沈んでしまいました。現在の願證寺は、門徒のために祐泉寺を寺縁により願證寺の名称で呼ぶようになったものです。

Img_5989c  こちらが長島一向一揆殉教の碑。長島願證寺は、当時、東海地方の一向宗の中心として、その門徒は、およそ10万人といわれるほどで、長島の城主伊藤重晴を追い出し、一向宗門徒による自治を行っていました。天正2(1574)年7月、信長は三度目の長島攻撃を開始し、志摩の九鬼水軍を中心に数百艘の軍船を用いるなど、これまでにない大軍を動員しました。この軍船の威力は大きく、長島方の受けた被害は甚大でした。長島方では食糧不足から餓死者が続出、二つの砦は落ち、風雨に紛れて砦から脱出した男女千人余りが信長軍に斬り殺されました。三カ月にわたる籠城戦が続き、9月29日、遂に長島方は降伏し、門徒衆は船で逃げ出しました。しかし、待ちかまえていた信長軍に攻められ、砦に残っていた男女2万人余りは、周囲に柵を設けて閉じ込められ、四方から火を放たれ焼き殺されてしまったといいます。殉教の碑は、長島一向一揆400年追悼法要を勤修するに当り、昭和50(1975)年9月に建てられています。今は、ナガシマスパーランド、なばなの里、イルミなど観光で知られる長島の地にも、このような痛ましい出来事があったのです。

Img_6003c_20221223190201  次の深行寺へ行く途中に小さな社がありました。コースマップを描いた「キョリ測」には載っていなかったのですが、皇大(こうたい)神社です。元禄12(1699)年、長島藩主松平忠充公により勧請されたとしています。後年、増山氏が藩主になってからも、例祭には必ず幣帛が供進されるなど、代々の長嶋城主の崇敬と附近の人々の信仰が篤い神社であると伝えられています。明治3(1870)年、現在地に遷っています。後同城主増山公の代に毎年旧暦九月一六日の例祭には必ず幣帛を供進され、

Img_6027c_20221223190201 Img_6033c_20221223190201  願證寺の東には、佐々木山深行寺(じんぎょうじ)。真宗大谷派で、ここも長島六坊の1つ。開祖は平野智忍。平野は、一向一揆の後しばらくは、越前にいましたが、寛永3(1626)年、千倉に創設し、元禄3(1690)年殿名に遷っています。このとき、佐々木と改姓。長島城の奥書院がここに移築され、本堂として使われていたそうですが、昭和63(1988)年老朽化のため改築されています。

Img_6047c_20221223190201  深行寺から長島水辺のやすらぎパーク・旧久我屋敷へと戻ります。ここは、ボタンの名所で、見に来たことがあります(2020年4月28日:河口堰でコアジサシ、コムクドリ、ヒレンジャク、ササゴイ、長島水辺のやすらぎパークで牡丹……プチ遠征を楽しみました)。久我屋敷は、長島藩の重臣であった久我家のもの。明治になって久我氏は戸長に任命され、長島・大島・松ヶ島・駒江・出口・又木・小島の各村を治めました。、家屋は明治12(1879)年)に建築されたもの。水辺のやすらぎパーク・旧久我屋敷については、昨年4月に訪ねた記事にも詳しくあります(2021年4月24日:20210422勝手に近鉄名古屋線ハイキング「長島漫歩」(その2)……稲荷阿岐波神社、道標、長島水辺のやすらぎパークから花市場に立ち寄り、そのまま歩いて伊勢大橋を渡り「完」)。

 その2はここまで。その3では、長島川遊歩道を歩いて、日神神社にお参りし、なばなの里にゴール。「ウォーキング納め」で祝杯(微笑)。

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2022年12月25日 (日)

20221223長島ウォーキング(本編その1)……近鉄長島駅から光岳寺、長島八幡社、小田江神崎神社、大智院、光栄寺、稲荷阿岐波神社、長島城跡へ

Img_5605c_20221223190501  12月23日に行ってきた「長島ウォーキング」の本編その1です。この日から「クリスマス寒波襲来」ということで、西風が強くて寒い日でした。しかし、これで令和4(2022)年のウォーキング納めということで、予定通り出かけたという次第。いつものように、同級生K氏と二人で歩いてきました。冒頭の写真は、この日の朝の藤原岳。

Img_5618c_20221223185901 20221223nagashima0  近鉄桑名駅を8時23分に出る名古屋行き準急に乗車。近鉄長島駅までは1駅で、8時27分に到着。¥210。今日のウォーキングは、昔流行った言葉でいえば「安近短」です。右の画像が、この日歩いたルートマップ。近鉄長島駅から南のあたりの歴史散歩という次第。主な立ち寄りスポットは、光岳寺、長島八幡社、小田江神崎神社、大智院、光栄寺、稲荷阿岐波神社、長島城跡、正敬寺、花林院、善明寺、蓮生寺、神明社、崇泉寺、願證寺、皇大神社、深行寺、旧久我屋敷・水辺のやすらぎパーク、長島川遊歩道、日神神社と回って、なばなの里がゴール。この日が、年内最後のウォーキングということで、「ウォーキング納めだからなばなの里で乾杯しよう」というのが、最大のテーマ(微笑)。

20221223nagashima1  ルートマップその1。この範囲に訪ねたところのほとんどがあります。さほど広くはない範囲をあちこちウロウロしてきました。たくさん立ち寄りたいところがありましたから、なるべく効率的に回ろうと考えた結果です。崇泉寺から先は、願證寺、皇大神社、深行寺と回って、水辺のやすらぎパーク・旧久我屋敷に戻る形でしたので、ルートが往復となって、重複しています。

Img_5624c_20221224084401 Img_5621c_20221224085201  近鉄長島駅を8時半にスタートしましたが、駅前に「伊勢湾台風水位標」があります。伊勢湾台風に襲われたとき、当時の桑名郡長島町内では堤防が15ヶ所も決壊し、1ヶ月間は水没したままであったそうです。この水位標の上の部分にあるのが、伊勢湾台風の時の水位です。輪中の郷にも同様の水位標がありますが、そこでの水位は3.9mだったといいます。 

Img_5628c_20221224085301  最初の目的地である光岳寺に向かう途中、西を見ると鈴鹿の山並みがみえました。長島は、もともと輪中地帯ですから、ほぼ平地で、あちこちで鈴鹿山脈がみえるのです。

Img_5658c_20221223185901 Img_5635c  近鉄長島駅から500m弱で天機山伝通院光岳寺。浄土宗のお寺。屋根瓦や、山門に三つ葉葵の御紋があります。徳川家康の母である伝通院の菩提寺の1つだからです。

Img_5641c_20221223185901  創建は不詳ですが、古くは、下野国(現在の千葉県関宿)にあり、弘経寺と称していました。慶長7(1602)年、徳川家康は母親である伝通院の菩提寺の1つに定め、天機山伝通院光岳寺と改称しました(伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼という法名によると思われます)。当時の領主で、家康の異父弟である松平康元が光岳寺を庇護し、同家の移封先である加納藩(岐阜県岐阜市)、小諸藩(長野県小諸市)に随行し、慶安2(1649)年、当時の当主松平康尚(やすひさ)が長島藩に移封になると、長島城下に移りました。ここに祀られている「沓踏子安延命地蔵菩薩」は、伝教大師最澄が自ら彫り込んだと伝えられるもので、伝通院の念持仏だったといいます。

Img_5683c_20221223185901 Img_5676c_20221223185901  光岳寺からは長島八幡神社へ。この神社は、寛元3(1245)年に藤原(九条)道家が勧請したと伝えられている、長島最古の神社です。ご祭神は、応神天皇仲哀(ちゅうあい)天皇神功皇后(じんぐうこうごう)。天正12(1584)年には、小牧長久手の戦いに際して織田信雄が戦勝祈願をなし、その賽謝として鎧・兜一領を奉納したといい、また、歴代長島城主からも武神として崇敬されていました。獅子舞は、元禄12(1699)年に北島村の氏子によって始められた獅子舞神事が今も伝わっています。この獅子舞を一度は見てみたいとずっと思っているのですが、なかなか実現していません。

Img_5673c_20221224180701  ここの境内は、歴史を感じさせる、なかなか良い雰囲気です。一の鳥居をくぐると、池があり、太鼓橋が架かっています。この橋を渡って境内に進むのです。

Img_5700c_20221223190001  八幡神社からは、長島自動車学校、エスペランス桑名の南を通って、予定では大智院に向かうことにしていました。しかし、曲がり角で小田江神崎神社(おだえかんざきじんじゃ)がすぐ近くに見えましたので、寄り道。ご祭神は天照大神、豊受大神。

Img_5696c_20221223190001  社頭にあった由緒書きには、概略次のような説明がありました。天文13(1544)年、小田江崎(於多井川の川元)に勧請奉祀したと伝わります。その後洪水や長島一向一揆の際の小田御崎砦の近くであったため社頭は大破。慶長8(1603)年、再建されています。寛文7(1667)年、藩主・松平良尚公が、社頭近くを往還が通るのを見て、社頭を東表にし南方の藪下に往還を付け替え、社の前後50間の社地を与えています。20年ごとに遷宮を行い、それが今なお受け継がれています。

Img_5693c_20221223190001  この神社は、一説には天文13(1544)年の大水の時、上流から漂着した流れ宮を村民が拾い上げて勧請したともいう。この社の対岸、現在の桑名市蛎塚の揖斐川堤腹に蛇ノ宮という社があり、この社に大蛇が住んで、常にこの両者の間を行き来しているので、この川を船が通行するときには両岸の社に向かって、船頭が拝礼をしないと、川に濁流が渦巻いて、その船の進路をふさぎ、船を襲うといい伝えられているといいます。そのため、当社では、毎年8月7日の祭礼でかがり火をたいて、夜を徹する行事を行うそうです(濁り祭)。

Img_5713c_20221223190001 Img_5710c_20221223190001  長良川左岸の堤防道路に沿って南下すると、大智院があります。真言宗智山派のお寺。ここは、元禄2(1689)年松尾芭蕉が奥の細道の旅を大垣で結んだ後、伊勢神宮の遷宮を参拝に行ったのですが、その最初に立ち寄ったところです。ここで、芭蕉は挨拶句「うき我を さひしからせよ 秋の寺」をしたためたといいます。その直筆の色紙「真蹟懐紙」が残されています。

Img_5707c_20221225164801  芭蕉が来訪した100年後(寛政元(1789)年)に長島藩主・増山正賢(雪斎)公は、近習などを集めて詩文をつくったり、自筆によって記念の石碑を建立しました。それが、この「蕉翁信宿処」の石碑です。時の藩主が自ら筆をとり顕彰碑を建立したのは珍しいことで、歴史、文学的に評価が高いものだそうです。 文人藩主らしい堂々とした風格の書体と評されています。また、三重県内に現存する芭蕉碑(約120基)中11番目に古く大切に保管されてきたそうです。なお、「信宿」は、同じ場所に二泊するという意味だそうです。

Img_5716c_20221225164801  山門の脇にあるこちらの碑は、曽良塚です。右の方には、「伊勢乃国 長島……曽良」とあるようです。調べてみましたら、「行き行きてたふれ伏とも萩の原」という句が刻まれているということです。元禄2年8月の「おくのほそ道」本文に、山中温泉滞在中の出来事として、「曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云所にゆかりあれば、先立ちて行に、「行き行きてたふれ伏とも萩の原」曾良 と書置たり(後略)」とあるそうです。この「ゆかり」が大智院で、第四世住職法印良就が曽良の叔父です。ちなみに、前回訪ねたときも忘れたのですが、今回も、境内にあるはずの芭蕉句碑を見逃しました(苦笑)。前期の句に「伊勢国長島大智院に信宿ス」という前書きがつけられた句碑があるのです(「信宿」は、二泊という意味)。元の句碑は、伊勢湾台風でながされてしまい、後に再建されたそうです。この芭蕉の句「うき我を さひしからせよ 秋の寺」は、後に『嵯峨日記』で推敲されて、「憂きわれを寂しがらせよ閑古鳥」と変えられています。

Img_5734c_20221223190001 Img_5742c_20221223190001  大智院のすぐ南には、長島六坊の1つである銀杏山光栄寺。真宗大谷派。長島六坊は、織田信長の長島攻めに抵抗するため石山本願寺から寺侍として願證寺に送り込まれた僧らによって創建された寺院です。長島一向一揆では門徒衆の旗頭として活躍しました。長島落城後は、一時、それぞれ石山本願寺や北陸方面へ退散したのですが、豊臣秀吉が天下を統一した頃には、これらの僧やその師弟らは長島に帰ってきて再び寺を建てています。長島六坊は、すべて真宗大谷派の寺院で、元禄年間に六坊の公称が認められ、白袈裟着用を許されるなど大谷派の中でも一般末寺とは異なる特別な地位が与えられました。現在、桑名市長島町にはそのうち4つが残っています。光栄寺は、飯田九蔵が慶長4(1599)年に開創しました。宝暦の洪水を受け、現在の西外面(ども)に堂宇を再建しています。

Img_5770c_20221223190001  続いて、稲荷阿岐波神社に向かいます。光栄寺の南で左折し、東へ。ほぼ水田の中を歩いて行きます。旧長島城の大手橋の西にこの神社があります。主祭神は、宇迦之御魂神。相殿神は、大名持之命。変わった名前ですが、これは大国主命の別名。大国主命には、たくさんの別称があるようです(こちら)。

Img_5759c_20221223190001  社伝などによれば、初めは、萱町の田村邸の邸内社でしたが、後に中町の花林院門側に遷座、それ以後、次第に長島三町(下町、中町、萱町と思われます)の産土神として祀られています。また、長島城内未申に位置する二ノ丸櫓東隅に「杉峠稲荷社」が祀られており、歴代長島城主の崇敬をうけ、藩主・松平忠充により貞享3(1686)年、礼殿等の造営がなされていたといいます。その後、天保年間(1830~1843年)に至って、藩主・定政(神社検索(三重)にはこのようにありますが、享和元(1801)~天保13(1842)年の藩主は7代・増山正寧(まさやす)、天保13(1842)~明治2(1869)年は、増山正修(まさなお)が8代藩主。「定政」という名前は、増山家の藩主には見当たりません。こちら)により現鎮座地への遷座が行なわれました。大正3(1914)年、中町の稲荷社を合祀し、稲荷阿岐波神社と単称しています。「阿岐波神社」という割には、秋葉さんを祀っていないのが不思議。

Img_5747c_20221225171101 Img_5750c_20221225171101  下町・中町・萱町の3町内によって石取祭が行われており、7月最終の金・土曜日に町内を回ります。説明板によれば、もともとは稲荷社境内秋葉社の石取神事として行われ、神社の玉垣の敷石を年に一度新しくするために、美しい石を町屋川から拾い採ってきたもので、江戸時代末期ごろからは大祭として行われるようになっています。かつては街道沿いに神社があり、渡祭も行われていたのですが、昭和初期に稲荷社へ合祀となり、現在は、祭車を曳いて鐘や太鼓を鳴らしながら歩く町練りのみが行われています。なお、境内には、日露戦役記念碑が建っています。書は、大山巌。元帥、陸軍大将。日露戦争のときは、満州軍総司令官を務めています。

Img_5781c_20221223190001 Img_5785c_20221226034501  稲荷阿岐波神社からすぐ北に長島城跡があります。現在、城跡は長島中部小学校・長島中学校の敷地となり、遺構の大半は失われていますが、東側に石垣および堀が残るそうです(ネットにある情報では、石垣は大手橋の下にあるそうです)。長島城の起源は、寛元3(1245)年、藤原(九条)道家が館を築いたことにさかのぼります。文明14(1482)年、北勢四十八家の一人、伊藤重晴によって城が再建されました。元亀元(1570)年、一向宗・願証寺の住職・証意蓮淳蓮如上人の6男)の曽孫)によって伊藤氏一族が追放され、長島一向一揆の拠点となりますが、その後、織田信長によって攻略され、滝川一益の居城となりました。賤ヶ岳の戦い後、織田信雄の居城となるのですが、天正14(1586)年の天正地震で天守が倒壊するなど甚大な被害を受けたため、信雄は清洲城に移りました。江戸時代に入ると、菅沼氏が2万石で封じられ、長島城を改修。元和7(1621)年、菅沼氏が移封されると、長島藩は廃藩となり、長島城も一時廃城となったものの、慶安2(1649)年、久松松平家の松平康尚が那須藩より1万石をもって入り、長島藩が再興されました。元禄15(1702)年には、4代将軍家綱の生母の弟・増山正利の子の正弥(まさみつ)が常陸下館より2万石で移され、以後8代続き明治維新に至っています。この間、城郭は順次拡大されましたが、天守は上げられませんでした。

Img_5777c_20221223190001 C56bcffa  長島中部小学校内の「大松」は、天然記念物であり、市の指定文化財にもなっています。これは、クロマツの大樹で、樹齢300年以上と推定されており、長島城があった当時は本丸の西南にあったといいます。また、長島中学校の建物は何となく、お城風に作られています。右の写真は校門(2021年4月22日に撮影)。

 キリがよいので、その1はここまで。その2は、長島川を東に渡って、真宗大谷派の正敬寺から。

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2022年12月11日 (日)

今日も弥富方面へ(笑)……三ツ又池公園と長良川河口堰、寄り道2箇所

Dsc07693c  今日も15℃を超えています。師走とは思えませんが、火曜日に雨が降ってからは、冷たい空気が入り、木曜くらいから寒くなるそうですから、用心しないといけません。今朝は7時に出て、またもやまずは、弥富方面へ。三ツ又池公園が目的地。ミコアイサが来ていないか見に行こうという次第。その後、2箇所に寄り道して、長良川河口堰へ。歩いたのは合わせて5.2㎞。冒頭の写真は、朝7時頃のもの。今日の日の出は、6時52分です。

Dsc07697c_20221211150301 Dsc07753c  三ツ又池公園には7時半に到着。曇りがちで、ちょっと暗いので、野鳥撮影には早すぎたか(苦笑)。コガモや、カルガモ(右の写真)、オオバンが出迎えてくれました。しかし、コガモや、オオバンは黒っぽく写ってしまいました。

Dsc07864c Dsc07904c_20221211150301  中之島の近くまで来たら、青い小鳥が見えます。カワセミです。九華公園では、このところ、サッパリご無沙汰でした。もうちょっと明るいとよかったのですが、贅沢はいえません。

 

Dsc07858c  例によってたくさん撮ったのですが、その中にこんな写真が混じっていました。ダイビングしたあとの様子。水滴を飛ばすのに、頭を高速で振り回したところ。シャッタースピードは、1/250秒でした。まぁ、余興のような写真。

Dsc07951c Dsc08081c_20221211151301  カンムリカイツブリがあちこちに合計5羽ほど。揖斐川や、長良川河口堰と違って、割と近くでも見られます。

 

Dsc08572c_20221211150201 Dsc08253c_20221211151601  三ツ又池公園といえば、カイツブリなのですが、今日も10羽弱を確認。

 

Dsc08275c_20221211150301  上右のカイツブリを撮っていたら、ちょうどこちらを向いて、ほぼ正面の顔が撮れました。カイツブリの正面顔は、今まで写真に撮った記憶はありません。これも余談。

Dsc08323c  公園の北側エリアで、モズのオス。秋から冬にここへ来ると、たいていモズが見られます。

Dsc08204c Dsc08472c  今日は、結論からいいますと、ミコアイサはいなかったのですが、マガモが5羽いました。オスが2羽にメスが3羽。マガモは別に珍しくはありませんが、私のいつもの行動範囲では木曽川に行かないとみられませんでした。

 

Dsc08593c_20221211150201 Dsc08385c  今日、ここにもっともたくさんいたのは、コガモ。池のあちこちにいます。去年までは、ハシビロガモもたくさんいたのですが、今日は見当たりません。

 

Dsc08604c_20221211150201 Dsc08628c  オオバンもまあまあたくさんいました。他には、ハクセキレイ。今日見たのは、1羽のみ。ミコアイサがいなかったのは、残念。まだ、時期が早かったためかもしれません。月末くらいにもう1度来てみたいもの。

Dsc08542c  三ツ又池公園でのさらなる余談は、ヌートリアの親子。ヌートリアも、ここで毎回見ますから、ここに住んでいるのは確かでしょう。

Dsc09262c Dsc08838c  寄り道の話は、後ほどとし、長良川河口堰。カモやカルガモはかなりたくさんいたものの、他には、期待したほど、鳥たちはいませんでした。

Dsc08869c_20221211150101 Dsc08923c  カモは、ほとんどがキンクロハジロで、一部にホシハジロが混じっていました。合計で250羽以上。ちょっと壮観です。

Dsc08932c Dsc08967c  カルガモも、150羽ほど。これほどたくさんここに集まっているのは、見たことがありません。カンムリカイツブリは7~8羽。

Dsc09003c_20221211150101 Dsc09031c_20221211150101  管理橋を渡って西側へ。閘門へのアプローチの下流側にはアオサギ7羽にダイサギが1羽。西側の魚道、下流側には、アオサギが3羽。3羽とも、若いアオサギでした。

Dsc09086c Dsc09240c  アオサギたち、やはり神経質で、少し近寄って写真を撮ろうとすると、逃げます。決定的シーンとはいいがたいのですが、まあそれなりに撮れました。

Dsc09205c  親水広場には、ムクドリがたくさんいたほかは、モズのオスのみ。ハクセキレイもいません。アユの孵化試験を行う水路に水が入っていて、網がかかっていますから、エサも採れないためかも知れません。今日のバードウォッチングは、以上。

Dsc08718c  ここからは寄り道編。早くに出たため、三ツ又池公園を一回りし終えたのが8時半でした。以前から弥富で行ってみようと思っていたところ2箇所に寄ってきたのです。まずは、「おみよし松」。妙な名前だと思ったのですが、漢字で書くと「御神葭松」。

Dsc08738c  この松は、正保3(1646)年、平島新田が開拓された当時に植えられたと伝わっています。名前の由来は、筏川の岸に津島神社の天王祭の御葦舟(葦で編んだ小舟)が流れ着いたのを記念して植樹し、名付けたとされます。この兄弟松が平島地内にあったそうですが、今は枯れてしまいました。現在の樹高は約21m、幹回りは5.25mといいます。昭和33(1958)年から平成20(2008)年までここに弥富中学校があり、松は校庭にあったため生徒達にも親しまれったそうです。

Dsc08728c  おみよし松のところには、「水難の碑」もあります。このあたりは昭和34(1959)年の伊勢湾台風で水没したのですが、その当時の水深を碑面に標し、長く子孫に伝え、再びこのような惨禍を繰り返さないために昭和34(1959)年12月に建てられています。ちなみに当時の岸信介総理が揮毫したもの。

Dsc08763c Dsc08769c  寄り道その2。前ヶ須蓮如堂。今から400年ほど前、美濃の大垣城主であった伊藤彦兵衛盛宗(盛正とも)は、関ヶ原の戦いで敗れて安八郡の満福寺(現在の大垣市)に逃げ延びたのですが、そこで、安八郡の女人衆から蓮如上人直筆の画像を託されました。その後、盛宗は木曽川河口の前ケ須にたどり着き、そこに草庵を造り画像を本尊として祀っています。明治時代には、本尊の管理が村に託され、村の寺として蓮如堂ができたのが、この蓮如堂です。昭和26(1951)年、前ケ須の大火で蓮如堂は焼失したものの、本尊は無事で、寺は翌年、旧佐織町勝幡の光坊堂の建物を譲り受け、移築して現在に至っています。毎年4月に開催される蓮如まつりの期間中は、本尊を見学することができるそうです。

Dsc08788c  蓮如堂の前には、明治の東海道を整備し、前ケ須の宿駅の完成にも尽力した村田宗之助の墓石があります。村田は佐屋より前ヶ須に移住した元宿役人。前ヶ須の人々とともに新政府に請願し、明治5(1872)年、前ヶ須が公認の宿場となり、また、「新東海道」がつくられました。前ヶ須から平島、六条、筏場福田を経て、熱田、鳴海に最短距離で至る道で、前ヶ須には渡し場と宿駅が設けられています。昭和8(1933)年、尾張大橋が開通するまで前ヶ須は交通の要所だったのです。

 さて、今週は水曜日に非常勤の授業。金曜は、5回目のコロナワクチン接種を予約しています。そして、土曜日はいよいよ管理組合の総会。これを無事に乗り切ると、1年間務めてきた理事長業務から解放されます。

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