名所旧跡

2022年9月26日 (月)

20220924笠寺ウォーキング(その1)……名鉄桜駅をスタートし、桜神明社、富部神社、呼続公園の頼朝公旗掛の松

Img_1911c_20220926042101  9月24日の「笠寺ウォーキング」の本編その1です。当初は、9月23日に出かける予定をしていたのですが、この日は台風15号が接近し、大雨となりましたので、順延。当日は、まさに台風一過の良い天気となりました。今回歩いたコースは、3年7ヶ月あまり前にJRさわやかウォーキングで行ったところを多少アレンジしたものです(2019年2月3日:20190203JRさわやかウォーキング「節分の尾張四観音・笠寺観音と旧東海道めぐり」へ(予告編))。笠寺観音は行ったことがありませんでした。この年、笠寺観音は恵方ではなかったので、空いているだろうと思ったら、まったくの想定外。大賑わいで前にも進めないような混雑。一度ゆっくり見て回りたいと思っていたのです。今回も、同級生K氏と二人旅。

Kasadera0  こちらがこの日、歩いたルートマップ。名鉄名古屋本線桜駅から桜神明社、富部神社、呼続公園で頼朝公旗掛の松、長楽寺から東海道を少し歩いて笠寺観音へお参り。続いて笠寺公園にある見晴台考古資料館、笠寺高射砲陣地跡、きんさん桜・ぎんさん桜を見て、笠寺一里塚跡と七所神社を経て、名鉄名古屋本線本笠寺駅まで。名鉄線では、1駅分でしたが、ぐるぐると回って、実際に歩いたのは5.7㎞ほどです。

Img_1922c_20220924191801  近鉄桑名駅を8時25分に出る名古屋行き急行に乗車。近鉄名古屋駅には8時46分着。名鉄名古屋駅を8時54分発の東岡崎行き普通に乗り換え。桜駅には9時7分着。近鉄が¥450、名鉄は¥300。桜駅スタートは、9時10分頃。ちなみに、桜駅も、本笠寺駅も乗り降りするのは、初めて。学生時代、通学に名鉄を使っていましたので、何回も通っていました。

Kasadera1  詳しいルートマップのその1。桜駅の南に桜神明社があります。駅の名前が何に由来するのかずっと分からなかったのですが、たぶんこの神社の名前から来ているのでしょう。今回、気づきました。桜駅の出入り口は駅の西にあるのですが、地図で見るとそこから神社に直接行けるかどうかよく分からず、大回り。塩付街道を少し歩き、東海道を横切って富部神社、呼続公園、長楽寺と廻り、東海道へ出て南に向かいます。

Img_1939c_20220926043001 Img_1934c_20220926043001  桜駅は普通電車しか停まりません。対面式のホームで、名鉄には珍しいと思うのですが、跨線橋があります。駅の北側の踏切を回っていきます。さすがに名鉄名古屋本線。ひっきりなしに電車が通っていきます。

Img_1942c_20220926043101 Img_1945c_20220926043101  桜駅の東側の路地。子どもの頃よく見たような、まさに昭和の風景で、懐かしく感じます。そう思って、あちこちキョロキョロしていたら、イヌに吠えられました(苦笑)。若くはないパグでしたが、立派に番犬の任務を果たしています。

Img_1990c_20220924191801  ぐるっと回って、スタートから300mほどで桜神明社。江戸時代は櫻村にあったということで、桜神明社と呼ばれます。境内の説明板によると、創建年は不明。本殿は古墳の上にあり、大正5(1916)年に近くにあった熊野三社をここに移して合祀したとのことです。

Img_1969c  ご祭神は、天照大神伊佐那岐命(いざなぎのみこと)、事解之男命(ことさかのをのみこと:伊邪那岐命が吐いた唾を掃きはらって生まれた神)、速玉之男命(はやたまのをのみこと:伊邪那岐命が黄泉国の伊邪那美命を訪れたとき、見ないでほしいといわれたその姿を見てしまい、離縁することになったが、その約束をかためるためにはいた唾から生まれた神)、應神天皇木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと:大山祇神の娘で、富士山の神とされる)、倉稲魂命(うかのみたまのみこと:穀物神)です。拝殿は神明造。

Img_1972c_20220924191801 Img_1948c  この桜神明社には、古墳があります。直径36m、高さ4.5mの円墳で、北側から西側にかけて幅3メートルの濠の一部が原形のまま残っていて、比較的保存状態が良い古墳です。墳裾から埴輪片などが出土しており、5世紀末頃の古墳と推定されています。その古墳の上に本殿が建っています。左の写真は、拝殿の脇から撮ったもの。右の写真は、神社の東、名鉄の線路越しに撮ったもの。古墳は、「ひめ塚」とも呼ばれていたと説明板にありました(比米塚、姫塚の字を当てることもあるようです)。環濠は見たものの、写真は撮り忘れました。

Img_1982c_20220926181901 Img_1986c_20220926181901  大正5(1916)年に近くにあった熊野三社をここに移して合祀しました。「合祀之記」によれば、神明社に移された熊野三社は平安時代創建という古い神社で、今の鯛取通一丁目あたりにあり(鎌倉街道と塩付街道が交差するあたり)、500坪ほどの境内を有し、松や杉の大木が密生していたといいます。本地垂迹記によれば、僧侶が代々奉仕し、また、修験者の道場としても広く知られていたそうです。

Img_1976c_20220926183101 Img_1979c_20220926183101  境内には、秋葉神社と、津島神社とがあります。秋葉神社は火伏せの神ですから、桑名でも江戸時代、藩命で防火のためあちこちに建てたそうです。ちなみに、桶狭間の合戦のとき、ここは、織田方の兵卒の宿舎になったところと伝わっているそうです(こちら)。

Img_1995c_20220926184201 Img_1998c_20220924191801  桜神明社の前の道が、塩付街道であったといわれます。星崎7ヵ村といわれた山崎・戸部・笠寺・本地・南野・荒井・牛毛の各村の塩浜(ほぼ現在のJR東海道本線沿い)では、塩の生産が盛んで「前浜塩(星崎の浜の塩)」として有名だったようです。慶長13(1608)年頃には約100ヘクタールの塩浜があったといいます。各村の塩浜で生産された塩は一度、村の塩倉に集められ、富部神社あたりから桜(東宝寺西から鳥栖神明社西)、新屋敷、中根を経て遠く信州塩尻まで、馬の背に乗せられて送られたといいます。左の写真は塩付街道であった道、右は東海道との交差点。新しい石碑に「塩付街道」と刻まれています。

Img_2019c_20220924191801  桜神明社から、その塩付街道であったと考えられる道を通って、富部神社へ。ここは、2019年2月3日のJRさわやかウォーキングで訪ねています(2019年2月15日:20190203JRさわやかウォーキング「節分の尾張四観音・笠寺観音と旧東海道めぐり」へ(その1))。詳細は、そのときの記事をご覧ください。

Img_2052c_20220924191801  慶長8(1603)年、愛知県津島市に鎮座する津島神社から牛頭天王を勧請したもので、「戸部天王」とか、「蛇毒天王」とも呼ばれたそうです。「蛇毒神(あるいは蛇毒気神((ダドクケノカミ)」は私にとっては初見。京都の八坂神社に祭られているそうで、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)が変化したものとも言われています。その後、慶長11(1606)年、清洲城主・松平忠吉(ただよし)(徳川家康四男)が、病気平癒の祈願をしたところ、日ならずして快復し、その恩頼奉謝のしるしとして本殿以下拝殿・祭文殿・廻廊が創建されました。本殿は桃山建築の姿を残し、国の重要文化財に指定されています。ご祭神は、素戔嗚尊(スサノオノミコト)。相殿神は、田心姫命(タゴリヒメノミコト;記紀神話の神。宗像三女神の一柱。天照大神と素戔嗚尊との誓約(うけい)の際生まれた)、湍津姫命(タギツヒメノミコト;天照大神と素戔嗚尊との誓約のときに、素戔嗚尊の剣から生まれた三女神の一。福岡県の宗像大社の祭神)、市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト;こちらも、天照大神と素戔嗚尊との誓約の時に生まれた三女神の一。福岡県の宗像大社の辺津(へつ)宮の祭神)、菊理媛神(ククリヒメノカミ;伊奘諾尊と伊弉冉尊を仲直りさせたとして、縁結びの神とされているものの、そのとき菊理媛神が何を言ったかや、出自なども不明の神様)。

Img_2038c_20220926192901 Img_2041c_20220926193001  前回訪ねたときに気づかなかったものについて触れておきます。左の写真は「明治天皇御駐蹕(ちゅうひつ)之處」の石柱。鳥居をくぐった先の参道の右にあります。「駐蹕」は、天皇が行幸の途中、一時乗り物をとめること。また、一時その土地に滞在すること。「駐輦(ちゅうれん)」ともいいます。明治天皇は、明治4(1872)年、ここ富部神社で一時、滞在なさったようです。右は、「當古城主戸部新左衛門政直墓地移轉記念碑」。戸部政直(生没年不詳)は、戦国時代の武将。尾張国戸部城主。初め織田氏にしたがっていたのですが、今川氏とも関係を持ち、織田信秀の死後は今川義元に寝返ったとされます。墓は、当初、名古屋市南区戸部町の戸部城址にあったのですが、。 現在は、ここ富部神社に移されています。

Img_2066c_20220924191801 Img_2071c_20220924191801  富部神社は、呼続公園の隣にあります。呼続公園も、JRさわやかウォーキングで訪ねたのですが、そのときはまったく知らず、後で調べたら、呼続公園には「頼朝公旗掛松」があるのを知りました。この日は、これは是非とも見なくてはと思って行ってきました。源頼朝が上洛の折、ここに旗を掛けて休息を取ったといわれる松です。ちなみに、源頼朝は、文治5(1189)年の奥州征伐によって藤原泰衡を滅ぼし、翌建久元(1190)年、ついに上洛を果たしました。このときに旗をかけて休んだとすれば、830年も前からある松ということになります。確かにそう言われても納得しそうな雰囲気の老松です。

 その1は、ここまで。その2は、長楽寺から。

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2022年9月24日 (土)

20220924笠寺ウォーキング(超予告編)

 昨日計画していた「笠寺ウォーキング」は、台風15号の影響で雨になりましたので、今日に順延。今日は、まさに台風一過で、よく晴れました。最高気温も、桑名で31.0℃。ちょっと暑くはなったものの、真夏ほどでもなく、それなりに歩きやすい気候でした。いつものように、同級生K氏と二人旅。今日のところは、超予告編。以前は、ウォーキングに行って帰ってからもまだ元気があって、写真の整理や、実際に歩いたルートマップの作成などを難なくこなしたのですが、最近はなかなか(苦笑)。それ故、「超予告編」。ちょっと手抜きもありますが、明日以降、この予告編にも手を入れつつ、本編も書いていきます。

Kasadera0  こちらが実際に歩いたルートマップ。名鉄名古屋本線桜駅をスタート。桜神明社、富部神社、呼続公園、長楽寺から東海道を少し歩いて笠寺観音へお参り。続いて笠寺公園にある見晴台考古資料館から笠寺一里塚跡と七所神社を経て、名鉄名古屋本線本笠寺駅まで。名鉄線では、1駅分でしたが、ぐるぐると回って、実際に歩いたのは5.7㎞ほど。

Img_1922c_20220924191801  近鉄桑名駅を8時25分に出る名古屋行き急行に乗車。近鉄名古屋駅には8時46分着。名鉄名古屋駅を8時54分発の東岡崎行き普通に乗り換え。桜駅には9時7分着。近鉄が¥450、名鉄は¥300。桜駅スタートは、9時10分頃。

Img_1990c_20220924191801 Img_1969c  桜駅のすぐ南に桜神明社。創建時期は不明。ご祭神は、天照大神を含む8柱(こちらに詳しい説明があります)。大正5(1916)年、近在にあった熊野権現社の祭神を合祀。また、天保年間の作と伝わる馬具が伝わっていて、毎年10月の例大祭の際に展示されるそうです。このあたりは、鎌倉街道と塩付街道が交わるあたり。

Img_1972c_20220924191801  桜神明社の本殿は古墳の上に建っています。桜神明社古墳と名付けられた古墳は、直径が36メートルほどの円墳で、出土品の須恵器などから5世紀末に造られたものと考えられています。かつては比米塚(ひめづか)と呼ばれていたようで、姫塚の字を当てることもあったといわれます。墳丘の西と北に周濠の一部が残っており、円墳部分も元の形状をよく保っています。

Img_2019c_20220924191801 Img_2052c_20220924191801  こちらは富部神社。笠寺台地上に位置し、古代、この台地の周辺は海で「年魚市潟(あゆちがた)」と呼ばれ、「愛知」の地名のおこりの地ともいわれています。慶長年間、清洲城主松平忠吉公(徳川家康四男)が、富部神社を創建しました。桃山建築の姿を残す本殿は、国の重要文化財、また、祭文殿・廻廊そして享保12年(1727)作の山車は名古屋市指定有形文化財に指定されています。

Img_2066c_20220924191801 Img_2071c_20220924191801  富部神社の北から西は呼続公園になっています。このあたりこは、3年前JRさわやかウォーキングで来ています(2019年2月3日:20190203JRさわやかウォーキング「節分の尾張四観音・笠寺観音と旧東海道めぐり」へ(予告編)。そのとき、事前によく調べず、後からここにあるのに気づいたが、「頼朝公旗掛松」。今日はこれは是非観ないとと思って行ってきました。源頼朝公が上洛の折、ここに旗を掛けて休息を取ったといわれる松です。ちなみに、源頼朝は、文治5(1189)年の奥州征伐によって藤原泰衡を滅ぼし、翌建久元(1190)年、ついに上洛を果たしました。このときに旗をかけて休んだとすれば、830年も前からある松ということになります。確かにそう言われても納得しそうな雰囲気の老松です。

Img_2099c_20220924191901  続いて稲荷山長楽寺。曹洞宗。寺伝では、弘仁12(821)年に弘法大師が巡礼に訪れた際に見た夢のお告げで、呼続の浜に七堂伽藍を創建、真言宗戸部道場寛蔵寺と命名して「鎮守清水叱枳眞天」を安置したのが始まりといいます。ここは最近、ペット供養で有名です。今日われわれが訪ねた時も、愛犬の「8周忌法要」が営まれていました。

Img_2108c_20220924194801  ここで、私がもう一度見たかったのは、戦国時代に織田と今川両家の国境線であった谷です。前回は、標識を見つけられなかったのですが、今回はしっかり確認してきました。向こう側には「旧今川領」という標識が立っていました。長楽寺からしばらくは、旧東海道を歩きます。

Img_2180c_20220924191901 Img_2239c_20220924191901  スタートから3㎞弱で、笠寺観音に到着。正式な名称は、天林山笠覆寺(りゅうふくじ)。真言宗智山派の寺院。前回来たのは、節分のときで大賑わいで、境内をしっかり見て回る余裕がありませんでした。本堂の周りも新しい建物があったり、本堂へのスロープも新しくなったようです。

Img_2302c_20220924191901  笠寺観音の東、笠寺公園の中に名古屋市見晴台考古資料館があります。このあたりには、見晴台遺跡(みはらしだいいせき)があります。弥生時代後期を中心とした環濠集落で、この資料館は見晴台遺跡を中心として調査、建久、展示をしています。弥生時代の竪穴式住居を再現したところもありますし、笠寺高射砲陣地の遺構もあります。あのきんさんぎんさん桜もここにあります。

Img_2372c_20220924191901  笠寺公園から南に降りてまっすぐ行くと、東海道に行き当たり、笠寺一里塚跡があります。日本橋からは88里。名古屋市内には、9カ所に一里塚があったそうですが、現存するのはこの「笠寺一里塚」だけです。かつては一対の塚で、道を隔てた南側に大正時代までムクノキが植えられていました。こちらには、土を盛った上に大きなエノキが根を張っています。節分に来た時には水仙が満開でしたが、今日は、ヒガンバナ。

Img_2381c_20220924191901 Img_2388c_20220924192001  今日最後の目的地は、七所(ななしょ)神社。ご祭神は、日本武尊、須佐之男尊、宇賀御魂尊(うがのみたまのみこと)、天穂日尊(あめのほひのみこと;天照大神の子)、天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと;瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の父)、宮簀媛命(みやずひめのみこと;日本武尊の妃)、乎止与命(おとよのみこと;天火明命(天忍穂耳尊の子)の子孫で尾張氏の十一世。尾張国造)の七柱。これらの七柱を祀っていることから、七所神社と呼ばれています。天慶3(940)年、平将門降伏祈願のために、熱田の宮の神々を勧請したと伝えられています。また境内には、昔から熱田神楽の正統を継承してきた神楽師の碑があります。

Dsc_6813c Img_2427c_20220924191901  ここからゴールの名鉄本笠寺駅へ向かいます。駅前に着いたのは12時半頃。例によって昼食ということで店を探しました。まず目についたのはうなぎ屋さんでしたが、これが小丼のうな丼でも¥1,980。手が出ません(苦笑)。その先の「珈琲ミハル」へ。創業60年を超えている、まさに昭和風の喫茶店。昭和のオッサンであるわれわれにはこちらの方がぴったり(苦笑)。和風ハンバーグランチ、コーヒー付きで¥850。

Img_2424c_20220924191901  食事を済ませ本笠寺駅に着いたのは、13時20分過ぎ。現地で歩いたのは5.7㎞。本笠寺駅を13時30分に発車する犬山行き急行に乗車し、名鉄名古屋駅には13時46分着。14時1分の松阪行きの近鉄急行に乗り換え、近鉄桑名駅には、14時22分着。電車賃、名鉄は往きと同じく¥300。桜と本笠寺は隣の駅。今日は1駅分を歩いたのみなのです。近鉄の料金は¥450。

Img_2464c_20220924191901 Img_2455c_20220925063201  帰りに柿安シティホールに立ち寄って、ご近所の方が関わっておられる写真展を見てきました。自宅から桑名駅往復、今日は2.8㎞。今日歩いたのはトータルで8.5㎞、歩数は16,636歩でした。以上、今日のところは、超予告編。明日以降、本編を書いていきます。

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2022年9月 8日 (木)

20220902勝手にハイキング「壬申の乱から1350年記念 霞ヶ浦~大矢知ウォーキング」(その3)……久留倍官衙遺跡・くるべ古代歴史館、長倉神社、照恩寺、忍藩大矢知陣屋跡から龜屋佐吉でかき氷を食べて大矢知駅にゴール(完)

Kasumigaura2 9月2日の勝手にハイキング「壬申の乱から1350年記念 霞ヶ浦~大矢知ウォーキング」の本編その3です。その2では、浄恩寺、南伊賀留我神社、福徳寿御嶽神社、北伊賀留我神社、荒木十兵衛頌徳碑、浄恩寺道石碑と回ってきました。実際に歩いたルートマップは、まだその2です。その3では、天武天皇迹太川御遙拝所跡から久留倍官衙遺跡へ行きます。久留倍官衙遺跡には、くるべ古代歴史館もあり、この日は、壬申の乱から1350年を記念した企画展も開かれていました。

Img_0925c_20220902194101  荒木十兵衛頌徳碑から十四川を挟んですぐのところに「天武天皇迹太川御遙拝所跡」があります。(県指定史跡)。壬申の乱(672年)の際、大海人皇子(のちの天武天皇)は、奈良の吉野を離れて伊賀に入り、鈴鹿から三重郡家に進み、さらに朝明郡の迹太川(とおがわ)のほとりで天照大神に戦勝祈願したといいます。御遥拝所跡の碑が立つこの地は、江戸時代の人がその場所であると考えたところだそうです。

Img_0928c  慶応2(1866)年に造立された石柱には「天武天皇呪志(のろし)の御松斉宮」とあります。近年まで松の古木が立っていたといい、そのためこの地が御遥拝所跡として昭和16(1941)年に県の史跡に指定されたのです。松は平成14(2002)年に枯れ、今は、地元自治会が植えた槇の木があります。ここはよく手入れされています。この御遥拝所跡は、十四川(じゅうしがわ)沿いにあります。十四川は、古くは、咒志川(しゅうしがわ)といったようです。「迹太川(とおがわ)」は、現在の「米洗川(よないがわ)」とされます(ホントに歩く東海道など)。米洗川は、垂坂公園の北から東にかけて流れている川で、四日市港の霞大橋の近くに注いでいます。この地に「天武天皇のろしの松」とされた老松があったために天武天皇の御遥拝所と定められたということですから、確かにここで大海人皇子が戦勝祈願をしたかどうかは、分かりません。その2にも書きましたが、大海人皇子が遙拝したのは、伊勢神宮というよりも、太陽神である天照太神即ち太陽(朝日)だと考える方が妥当だともいわれています。遙拝の際には、遙拝所を設け、結界を結んで儀式を行ったと、くるべ古代歴史館で出会ったボランティアガイドの方がおっしゃっていました。結界を結んだのですから、御幣も用いたはずで、それがその1で訪ねた志氐神社に繋がっているのだろうと思います。

Img_0919c_20220907172801  余談。十四川を渡って天武天皇迹太川御遙拝所跡に入っていくところに「斎宮橋」という名前の橋がかかっています。コースマップでこれを知った同級生K氏は、もっと立派な橋がかかっていると思ったらしく、「何だ、こんな橋か」とガッカリしていました。確かにそういえば、そうです(左の写真の橋が、斎宮橋)。

Img_0938c_20220902194101  スタートから5㎞あまり、10時55分に「くるべ古代歴史館」に到着。くるべ古代歴史館は、四日市市大矢知町で見つかった久留部官衙(くるべかんが)遺跡の中に、2018年3月25日にオープンしています。

Img_0962c_20220902194101  大矢知町は四日市市北部にあり、伊勢湾を望む丘陵の東先端部に「久留倍遺跡」という弥生時代から室町時代にかけての遺跡があります。久留倍官衙遺跡は、この久留倍遺跡に含まれています。国道1号線北勢バイパス建設の事前調査によって、古代の役所跡が発見され、それが国指定史跡久留倍官衙遺跡となっています。「久留部」は地名(訓覇とも書くようです)、「官衙 」は役所ですから、久留部にあった役所の跡ということです。古代、このあたりは「朝明郡」と呼ばれましたので、「朝明郡役所跡」という意味になります。左の写真で、下の方を左右に北勢バイパスが通っています。北勢バイパスの南に駐車場や、くるべ古代歴史館があります。史跡に指定された範囲は、北勢バイパスの上(北西側)に広がっています。ここに、正殿(せいでん)・脇殿(わきでん)・東門(八脚門(はっきゃくもん)などを備える東を向く政庁(せいちょう:役所の中心)の跡が見つかったのです。周囲には、官衙関連施設と考えられる多くの建物も見つかっています。この久留倍官衙遺跡は、また、壬申の乱や聖武天皇の東国行幸などの史実との関連も注目されていて、 考古学のみならず古代史や万葉集研究にも一石を投じる重要な遺跡と考えられています。

A53e042e 39a107df  くるべ古代歴史館を入ったところにあるパネルと人形(ここから4枚のくるべ古代歴史館の写真は、2018年に撮影したものです。この日は、内部の写真は撮りませんでした)。発掘調査は平成11(1999)年に始まりました。平成18(2006)年には、伊勢国朝明郡の郡家(ぐんけ、ぐうけ、官衙)跡である可能性が高いということで国の史跡に指定されています。朝明郡は、現在の四日市市北部を中心とした地域です。館内には、学習展示室があり、久留倍官衙遺跡の変遷や、古代朝明郡のこと、壬申の乱や聖武天皇東国行幸、万葉集との関わりを、イラストや建物の模型、映像、出土遺物で解説されています。

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 壬申の乱のことも詳しい展示があります。このとき、大海人皇子(のちの天武天皇)は、672年6月24日、吉野を出立し、翌25日までに吉野、宇陀、榛原、室生、名張、伊賀、柘植(加太越え)、鈴鹿(伊勢国司が出迎え)、河曲、采女と100km以上を進んでいます(河曲、采女は現在の四日市市)。さらに、26日には、朝明郡家から桑名郡家へ入りますが、その前に「迹太川」のほとりで天照大神を遙拝し、戦勝祈願をしたとされます(日本書紀)。これが、天武天皇迹太川御遥拝所跡とされるのです。ボランティアガイドの方に一通り、説明をしてもらいました。

Img_0958c_20220908042401  北勢バイパスの取り付け道路をくぐると、久留倍官衙遺跡のある「くるべ歴史公園」に出ます。北勢バイパスが目の前に見えていますが、その向こうに八脚門と正殿とが復元されています(こちら)。前回来た時には(2018年9月15日:20180915近鉄ハイキング「四日市の古代ロマンを想う 歴史探訪! くるべ古代歴史館を訪ねる」へ(予告編))、八脚門の復元工事が始まったばかりでした。

Img_0976c_20220902194101 Img_0980c_20220908044101  丘陵上部に政庁が建てられ、正殿とその手前左右(南北)の脇殿が「コ」の字形に並び、これらの東側正面に八脚門がありました。八脚門とは、正面柱間が3間で、本柱の前後に控柱が4本ずつ(計8本)立つ形式の門で、格式の高い門とされます。政庁区域の規模は、東西42m、南北51m、面積2,142平方メートルでした。こちらが八脚門です。古代の役所のほとんどは、正門が南にありますが、ここの場合は東にあります。門は当時の建物と同じ外観でつくられています。

Img_0987c Img_0991c_20220908044201  八脚門の北に正殿が復元されています。正殿は「丁屋」とも呼ばれ、11.3m×7.4m、83.6平方メートル(畳52枚分)の広さ。政庁の中心的な建物で、正殿前の広場では、役人が集まって儀式や宴といったまつりごとが行われたといいます。復元された建物は、正殿の大きさを示すもので、現代の材料と工法が用いられ、休憩所として利用できます。こちらは、現代の素材を用いて再現された「立体表示」です。

Img_0997c_20220908044701 Img_0984c_20220902194101 ここでは他にも、半立体表示として、短い柱を立てて、当時の建物の大きさが分かるようにしてあるところもあります。広々としていて、とても気持ちが良いところ。小高い丘にあり、伊勢湾の方まで眺望がよく利きます。公園内には、他にも万葉植物が植えられたエリアもあります。

Kasumigaura3  久留倍官衙遺跡には11時半頃まで滞在。ここから、実際に歩いたルートマップはその3となります。ゴールの三岐鉄道三岐線大矢知駅も近くなります。長倉神社、照恩寺、郷倉を見て、大矢知阪神や後である大矢知興譲小学校へ。ハ風街道に出て道標を見て、今日の最大の目的ともいえる亀屋佐吉でかき氷。そして、大矢知駅へと向かいます。

Img_1048c_20220908061801 Img_1012c_20220908061801  久留倍官衙遺跡のすぐ北、歩き始めてから6㎞を過ぎたところに長倉神社があります。これは二の鳥居。ここからかなり昇っていきます。今日は、けっこうアップダウンのあるコースです。この二の鳥居をくぐっていくと、すぐにお稲荷さんの朱い鳥居が並んでいます。豊栄稲荷神社(とよさかいなりじんじゃ)です。ネット検索では何も情報は出て来ません。神社検索(三重)の長倉神社の項目にも言及はありません。

Img_1015c_20220908061801  稲荷舎の参道の鳥居脇に、「祈念表」という石碑が建っています。大正9(1920)年7月に、素麺製造のための機械が発明され、それを組合が率先して試用したところ収益顕著に加わり、幾多の改善が得られたことを祈念して建てたといった趣旨の内容が記されていました。石碑には、発起人として松永仁吉、水谷丑松、人見猪之松の3名の方他多数の名前が刻まれています。大矢知は、江戸時代末期(約200年前)から素麺造りが、農家の副業として行われるようになったところです。旅の僧侶をもてなしたお礼として素麺の作り方を伝えられたという話も伝わっています。大正時代中頃には、それまでの手延べ生産から機械生産に次第に移ったということですから、この石碑はそれに関わるものと思われます。生産量は、全国の1%にも満たないそうですが、コシの強さには評判があります。

Img_1018c_20220902194101  豊栄稲荷神社からさらに100mほど登って行くと、ようやく長倉神社に到着。境内は結構広くなっていました。延喜式内社。江戸時代には八幡神社と称して、應神天皇を奉斎していたといいます。創祀不詳。主祭神は、応神天皇。相殿神は、木花之佐久夜毘売神(このはなさくやひめのかみ:大山祇命の娘、天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妃にして、富士山の神。浅間神社に祀られる)、大山祇命(おおやまつみのみこと:山をつかさどる神)、高龗神(たかおかみのかみ:雨をつかさどる神)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、倭姫命(やまとひめのみこと:垂仁天皇の皇女。天照大神の社を、伊勢の五十鈴川のほとりに建てたと伝えられる)、宇迦能御魂神(うかのみたまのかみ:五穀、食物をつかさどる)。明治41(1908)年2月、大矢知村大字大矢知字山畑の無格社・斎宮神社、井後神社、山神社二坐を合祀しています。さらに、同年10月、字冨士谷の村社桜神社も合祀。昭和6(1931)年、村社から郷社に昇格。同年神饌幣帛料供進社に指定されています。このうち、斎宮神祠は天武天皇が天照大神を拝んだ迹太川遙拝所跡だという説があります(こちら)。

Img_1021c_20220908061801  さてこの長倉神社には神馬殿に向かって左手に「宮城遙拝所」があります。皇紀二千六百年(昭和15年、1940年:神武天皇の即位から2600年目に当たるとされた)に建之されています(これはある意味、お約束)。献主は、人見重吉。さらに、境内に入る鳥居脇には、「神宮遙拝所」。神宮は、もちろん伊勢神宮。伊勢神宮に向かっています(右の写真)。こちらも皇紀二千六百年に建之。献主は小林三郎。これまであちこち神社を訪ねた範囲では、四日市市の北部にこういう宮城遙拝所や、神宮遙拝所が多い印象を持っています。

Img_1027c_20220908063401 Img_1039c_20220908061801  神社の拝殿脇には、「大矢知砦跡」の説明板もあります。それによれば、南北朝時代(1331~1392)、北勢地区は南朝方の北畠氏の配下でしたが、足利幕府(北朝)は伊勢守護を二木義長に命じ、文中元(1372)年、大矢知に砦を築いて伊勢攻略の足がかりとしました(二木義長は、仁木義長か?)。このとき、南富田の地頭・南部頼勝(こちらに出て来ます)が北朝方の二木氏に味方して大矢知砦に立てこもり、いったんは南朝軍を破ったものの、垂坂山の合戦(こちらに言及があります)で大敗北してのち、廃城になったといいます。長倉神社には、4ね前にも訪ねています。他にも色々とありますので、詳しくはその記事をご覧ください(2018年9月20日:20180915近鉄ハイキング「四日市の古代ロマンを想う 歴史探訪! くるべ古代歴史館を訪ねる」へ(その3)……豊栄稲荷神社、長倉神社、大矢知砦跡そして桑名城城門のある照恩寺)。

Img_1053c_20220908064901  続いて、青木山照恩寺という、浄土真宗本願寺派のお寺。ここは、前回、近鉄ハイキングできた時たまたま立ち寄ったお寺。開基は天文4(1535)年。寛文10(1634)年12月に本願時代13世・良如上人から阿弥陀如来像と寺号を下賜されています。現本堂の創建は宝暦年間(1746~1751年)と伝えられています。

Img_1056c_20220908064901 Img_1059c_20220902194101  前回立ち寄った時、本堂脇にこのような説明板があるのを見つけました。山門が、桑名城内の城門の一つで、四日市市蒔田にある長明寺に移転されたのち、大正15(1926)年に照恩寺に受譲されたという記述が棟札にあるというのです。右の写真がその山門。桑名城のどこの門下は、不明のようです。

Img_1063c_20220908065301  照恩寺から出たところに「郷倉」があります。単なる古い蔵のようで、そのまま通り過ぎそうですが、大矢知地区で唯一現存してる郷倉だそうです。江戸時代末期~明治初期の建築と推察され、その用途は大家千村の穀物倉庫として、また、緊急非常用の米を一時保管するために建てられたもの。郷倉番や、五人組が管理したといいます。

Img_1081c_20220902194101  大矢知興譲小学校です。大矢知の地名の由来は、朝明川流域で最初の大きな谷地を形成することによるといわれれます。古くは朝明郡に属し、中世には、大矢知御厨がありました。江戸時代には、大矢知村は桑名藩領でしたが、文政6(1823)年武蔵国忍藩領、天保13(1842)年に幕府領(近江信楽代官所支配)、安政元(1854)年に再び忍藩領となっています。文政6(1823)年、桑名藩主・松平忠堯(ただたか)公(奥平系)が、武蔵国忍藩へ国替えとなったのですが、忍藩では桑名に比べ石高が少なく、それを補うため、北勢四郡のうち72ヵ村(松寺、蒔田、西富田を除く)4万3,000石が忍藩領になりました。そのとき、ここ大矢知に陣屋が置かれ、忍藩が支配したのです。

Img_1093c_20220902194101 Img_1094c_20220908065801  その陣屋跡を示すものは、学校の敷地の東側にある「忍藩大矢知陣屋(想像図)解説」です。代官所を中心に郡代屋敷、目付詰所、米蔵、足軽長屋などがあり、羽津用水で囲まれている様子が描かれています。表門が、現在の小学校正門にあたります。西側には観音山、妙見山が見えています。明治3(1870)年に忍藩は、藩士のために興譲堂を開設しました。忍藩の進修館の分館とも言える藩学校の興譲館を大矢知陣屋に興しました。忍藩の進修館の分館とも言える藩学校ができたということです。明治5(1872)年の廃藩置県にともない、ここは懲役場(刑務所)となったのち、明治9年(1876)年の伊勢暴動で焼失。明治13(1880)年、興譲学校として再建され、現在に至っていると説明にあります。今の大矢知興譲小学校の名称も、これに因んでいます。小学校のサイトには、「興譲の精神を育むために/ めざす学校の姿 「興譲」の意義を受けつぐ"開かれた学校"」とあります。

Img_1100c_20220908070101  想像図には、羽津用水が流れている様子が描かれていますが、今もその痕跡が学校の北側にあります。もっとも今は、暗渠になっていますが、この下には、昔のままに羽津用水が流れているものと思われます。

Img_1111c_20220908070301 Img_1117c_20220908070301  大矢知興譲小学校から三岐鉄道三岐線の踏切を越えると八風街道に行き当たります。その交差点の北東側に道標があります。南側(左の写真)には「左 たどミち」とあります。北側(右の写真)には「右 こものミち」とあります。写真は割愛しますが、西側には「右 四日市ミち 左 くわなミち」と掘られています。碑陰(東側)には「安政三年 辰七月なつ 御蔵米問屋 石仙蔵 車力中」とありました。安政3年は1856年。この道標は大矢知陣屋の年貢米を扱う車力衆により立てられたものだそうです。当時は、米を運ぶ大八車の往来も盛んだったのでしょう。現在は、十字路北東に立っていますが、もとは北へ抜ける道はなく、羽津の金場町で東海道と分かれた濃州道と八風道の交差する三差路であり、この道標は、三差路中央に立っていたといいます(『よっかいち歴史と文化財散歩』より)。

Img_1122c_20220902194101 Dsc_6802c  続いて、これが今日のメインイベントかも知れません。道標からすぐ東にある亀屋佐吉。ここのかき氷が絶品なのです。9月の初めでまだ暑いだろうから、帰りに是非ともここに立ち寄って、かき氷を食べようと思って、ここまで歩いてきたのです(笑)。「白玉和三盆みるく」(¥870)。をいただいてきました。私は、今までに2回、来ています(2016年7月3日:コアジサシの営巣地で給餌シーン……なばなの里ではコチドリが抱卵、午後からは龜屋佐吉で氷(苦笑)、2018年7月24日:20180714近鉄ハイキング「湖面を渡る風が心地よい夏の伊坂ダムを訪ねて」(その2)……旧・大矢知村役場跡、龜屋佐吉でかき氷、八郷小学校の3つの石碑から東名阪自動車道まで)。9月に入り、しかも平日(金曜日)でしたので、空いていました。

Img_1135c Img_1141c_20220908072701  三岐鉄道三岐線大矢知駅にゴールしたのは、12時35分。7.5㎞を3時間19分ほどで歩いてきました。 亀屋佐吉さんに30分近く滞在していました(おばちゃんとしゃべったりして)。12時49分の近鉄富田行き普通に乗車。近鉄富田には、12時54分着。12時56分に名古屋行き急行がありましたから、それに乗って桑名駅には13時3分着。¥450。

Img_1144c_20220908072701 Img_1166c_20220908072701  大矢知駅はまさにローカル線の駅の風情。のんびりした感じで、ゆったりと時間が過ぎていきます。待ち時間も苦になりません。

Img_1138c_20220908072701  また三岐鉄道三岐線では、切符は今でもいわゆる「硬券」が使われています。これに改札口ではさみを入れてもらうのです。

Img_1193c_20220902194201 Dsc_0284c  昼食は、桑名駅のコンコースにある伊勢ノ国食堂しちりで。この日は、「天ぷら中華そば」(¥850)。このお店、最近ランチでは、麺類と丼物がメインとなっています。昔の「支那そば」という感じ。鰹出汁が効いた醤油味の和風スープで若干、甘みがあるものの、あっさりとした味わいでした。

Img_1196c_20220902194201  この日の歩数は、18,686歩。現地で歩いたのは、7.5㎞。桑名駅往復が、2.7㎞(帰りにアピタ桑名店に寄って、文庫本を買ってきました)。歩いた距離の合計は、10.2㎞。スマホのアプリでは14㎞ほど歩いたことになっていますが、さすがにそれほどは歩いていないはず。その3は、長くなりましたが、これにて勝手にハイキング「壬申の乱から1350年記念 霞ヶ浦~大矢知ウォーキング」の記事は、「完」。

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2022年9月 7日 (水)

20220902勝手にハイキング「壬申の乱から1350年記念 霞ヶ浦~大矢知ウォーキング」(その2)……浄恩寺、南北伊賀留我神社、荒木十兵衛頌徳碑から浄恩寺道道標へ

Kasumigaura2  9月2日に行ってきた、勝手にハイキング「壬申の乱から1350年記念 霞ヶ浦~大矢知ウォーキング」の本編その2です。その1では、まだ、スタートした霞ヶ浦駅から2㎞あまりの大膳寺跡までしかたどり着いていません。志氐神社について、あれこれ講釈を垂れてしまったため。左は、その2で歩いた辺りの詳しいルートマップ。浄恩寺、南伊賀留我神社、福徳寿御嶽神社、北伊賀留我神社、荒木十兵衛頌徳碑、浄恩寺道石碑から天武天皇迹太川御遙拝所跡へと進んでいきます。

Img_0802c_20220906165901 Img_0764c_20220905191801  斑鳩山浄恩寺。真宗本願寺派。その1で立ち寄った旧・斑鳩山大膳寺(天台宗)に長享2(1488)年3月、本願寺の蓮如上人が立ち寄った際、その教化を受けて延徳年間(1489~1490年)に浄土真宗に転じたといいます。このとき、蓮如上人から御親筆六字及び十字の名号が与えられ、寺宝として残されているそうです。現在の本堂は明治28(1895)年の建立。

Img_0798c_20220906165901  境内には、聖徳太子堂があります。聖徳太子は仏教を篤く敬い保護したため、日本仏教興隆の祖として宗派を問わず信仰されています。様々な寺院に聖徳太子像を安置した堂があり、仏像同様篤く信仰されているのです。この太子堂は、明治2(1869)年に、四日市市西富田町にある三光寺(浄土真宗本願寺派)から移建されたものです。ちなみに、三光寺には、去年の「歩いて伊勢参りツアー」の時、立ち寄っています(2021年4月25日:20210425「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」……第2回「朝日~富田」(予告編))。余談ですが、このあたりの地名は「羽津戌(はづぼ)」だそうです。ちょっと珍しい感じ。

Img_0815c_20220902194101  浄恩寺辺りは、細い入り組んだ道。3㎞を過ぎて、南伊賀留我神社へ。伊賀留我神社は、南と北と2社があります。北伊賀留我神社にあった説明板には、伊賀留我神社は、斎宮と記されており、斎宮は伊勢神宮の斎宮ですから、伊勢神宮との関連があると思われます。また、鵤(いかるが)の地名は、大和の斑鳩との関わりも伺わせます。ここ鵤は、聖徳太子の御料地という言い伝えもあるそうです。この御遙拝所跡の北西には、「斎宮」という地名もあります。

Img_0824c_20220902194101 Img_0885c_20220907041501  鵤村は、もとは一つの村でしたが、寛永年間(1624~1645年)に南北2村に分れました。北鵤村は桑名藩領で、北の伊賀留我神社は、齋宮(いつきのみや)大明神とか、北鵤村伊賀留我神社と称しました。一方、分村した南鵤村(こちらは、忍藩支配所)にも、新たに伊賀留我神社を祀り(左の写真)、ここに新旧二社が併立となりました。しかし、安永8(1779)年に、両村の氏子で本社末社の争論が起こったといいます。社記によれば鵤御厨(いかるがみくりや)の地名より起り、垂仁天皇のとき、額田部の子孫が天照大神を奉斎して鈴鹿忍山宮への巡幸中に休んだ場所に天照大神の荒御魂を祀ったと伝えられるものの、天正の信長の兵乱によって神社所有の古文書などが失われ、創祀年代など由緒は不詳だということです。以上は、北伊賀留我神社にあった説明板(右の写真)によります。

Img_0849c_20220906172901  御祭神は、天照大御神荒魂(あまてらすおおみかみのあらみたま)、大年命(おおとしのみこと:稲の実りを守護する神)、大山津見命(おおやまつみのみこと:山の神)、天武天皇。「荒魂」は、「物事に対して激しく活動する神霊」をいい、「和魂(にぎみたま)」に対して称されます。古く日本人は神の霊魂の作用および徳用を異なる作用を持つ霊魂の複合によると考えたことによります。伊勢神宮の内宮にも、別宮として「荒祭宮」があり、そこには天照大神の荒魂が祀られています。

Img_0828c_20220906171501 Img_0825c  南伊賀留我神社には、皇居遙拝所と神宮遙拝所とがあります。左の写真が皇居遙拝所。昭和11(1936)年10月、「角力會」が建立しています。昭和11年は、226事件、ベルリンオリンピック、日独防共協定成立など、大きな動きがあった年。皇居遙拝所は、これまでに訪ねた神社では、同じく四日市の椿岸神社(2018年2月20日:20180217酒蔵みてある記「伊藤酒造の銘酒「鈿女」と智積養水をたずねて」(その2)……大師堂と、椿岸神社あれこれ)、鈴鹿の蒲冠者範頼之社(2019年5月5日:20190420JRさわやかウォーキング「旧東海道 石薬師宿と鈴鹿「植木まつり」を訪ねて」へ(その2)……佐々木家の菩提寺・浄福寺から石薬師寺、蒲冠者範頼之社、蒲桜を見て、石薬師一里塚跡)にありました。

Img_0834c_20220906171501  以前に来た時には、気づきませんでしたが、砲弾らしきものも置かれていました。ネットで検索したら、こういうものもきちんと調べている方がありました(こちら)。全長約82㎝、直径約25㎝。弾体に次のように文字が刻まれているそうです:大正元年奉納 海軍一等水兵勲八等 相松弥曾七」。大正元年は、1912年。他の神社で私も砲弾などが奉納されているのを見たことがあります。例えば、川越町の神明神社上海事変記念のもの(2019年2月10日:20190210近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 早川酒造部『天一』」へ……早川酒造部で楽しんで「完」、いなべ市下笠田の八幡神社の砲弾と機雷(2018年3月2日:近鉄ハイキングで“昭和レトロな町でおひなさん 早春の鈴鹿山脈を眺め「あげきのおひなさん」へ”(その2)……下笠田の八幡神社)などがあります。八幡神社のものは、日露戦争の記念品のように思われました。

Img_0837c_20220907032801 Img_0846c_20220907033301  拝殿に向かって左手(西側)には、スダジイの古木。幹の内部は空洞になってしまい、樹皮だけで生きていると説明がありました。それでも上部では枝を伸ばし、青々と葉が茂っています。樹齢などは書かれていませんでしたが、「老樹の不老長寿にあやかり、健康長寿を祈りましょう」とも書かれています。もう1つ(右の写真)、南伊賀留我神社の由緒を記した石碑もありました。なお、南伊賀留我神社では、「日待祭」が伝わっているそうです。「日待」とは、旧暦1・5・9月の15日または農事のひまな日に講員が頭屋(とうや)に集まり、斎戒して神をまつり徹宵して日の出を待つ行事といいます。ここ伊賀留我神社では、祈年祭の前夜、2月15日の夕刻から16日の早朝にわたって日待祭が執り行われています。

Img_0852c_20220907033801 Img_0858c_20220907033801  北伊賀留我神社へ行く前に近くに福徳寿御嶽神社という神社があるのが分かっていましたので、寄ってみることにしました。由緒などは分かりませんが、御嶽信仰に関わる神社のようです。御嶽信仰であれば、ご祭神は、国常立尊(くにのとこたちのみこと:天地創成神話の国土神の最初の神)、少彦名命(すくなひこのみこと:穀霊、酒造りの神、医薬の神、温泉の神)、大己貴命(おおあなむちのみこと:「日本書紀」が設定した国の神の首魁(しゅかい)=大国主命)と思われます。

Img_0870c_20220907033801 Img_0862c_20220907033801  境内には色々なものがありましたが、左の写真にある石碑を見ると、「御嶽山頂上鎮座 大己貴命-神武天皇-白河天皇(白河大神)総霊神」、「噴火の御嶽山鎮座」などと刻まれています。「五円玉」は、全産業に渡って「ご縁をいただくもの」とありました。この神社の境内から、裏にある糠塚山に登れるという話もあったのですが、そちらはパスしてしまいました。

Img_0874c  これが、その糠塚山。県道64号線の伊賀留我神社前交差点近くから撮った写真。額突山、斑鳩山、浄恩寺山ともいいます。壬申の乱の時、天武天皇(大海人皇子)が、迹太川(とほがわ)の辺に進み、天照大神を望遥し、戦勝祈願をしたとされていますが、このとき遥拝した丘(山)が糠塚山であるという説があります。すなわち、ここで「ぬかずいた」ため「糠塚(ぬかづか)山」となったというのです。古墳でもあり、頂上には「天武天皇神宮遙拝所」の石柱があるそうです。しかし、当時の伊勢神宮の主神は天照大神ではなく、高御産巣日神(たかみむすびのかみ:高皇産霊尊ともいう:天地開闢の時、天御中主(あめのみなかぬし)神、神皇産霊(かんみむすひ)尊とともに高天原に現れた神)であったと考えられており、伊勢神宮を拝んだというよりも、太陽神である天照太神即ち太陽(朝日)を拝んだと考える方が、地形から見ても妥当といわれています。ちなみに、日本書紀には「丙戌に、旦に、朝明郡の迹太川の辺にして、天照太神を望拝みたまふ。」とあります。

Img_0881c Img_0891c_20220902194101  伊賀留我神社前の交差点の北に北伊賀留我神社があります。ご祭神は、大日霊貴命(おおひるめのむちのみこと:天照大神の別称)。相殿神は、大山祇命(おおやまつみのみこと:山の神)、意富伊我都命(おういがつのみこと:武神として崇敬を集めた天之御影神の息子)、倉稲魂(うかのみたま:食物(稲)の霊魂)。この神社には、「いのこ神事」の名残の大太鼓、大鉦が伝わっているそうです。「いのこ」は、「亥の子」で、旧暦10月の亥の日に、行われる行事で、収穫祭の一つのようです。古来、春の亥の日にやって来られた田の神が、山に去っていく日と信じられているそうです。関西地方で盛んに行われるといいます。「祭典行事表」には、「11月26日 奉告祭 いのこ」とあり、実際には11月末の日曜日にあると書かれていました。

Img_0900c_20220902194101  北伊賀留我神社から100mほど北に荒木十兵衛頌徳碑があります。荒木十兵衛は、桑名藩領朝明郡北鵤村の庄屋で、羽津用水を築造した人物です。田園地帯であるこの地は七つのため池があるものの、水利に恵まれずたびたび干害に見舞われました。十兵衛は村を干害から救うために、困難な利害を調整し、朝明郡平津村(現平津町)の朝明川から取水工事を行い、宝永3(1706)年、全長6㎞に及ぶ羽津用水を完成させました。この用水のおかげで北鵤、羽津、茂福等の村々の水田に水を潤すことができ、作物も豊かに実るようになったといいます。

Img_0903c しかし、同年、十兵衛の俊英を恐れた桑名藩は、褒賞を与えると見せかけて十兵衛を城内に召し、毒殺してしまったそうです。昭和27(1952)年(昭和28(1953)年4月としている情報源もあります)、四日市市長の吉田千九郎は十兵衛の功績を讃え、顕彰碑を北鵤の地に建てました。鵤説教所には、荒木十兵衛の位牌が安置されているそうです。なお、羽津用水の開削者については、時の郡代・野村増右衛門とする異説もあります(ただし、こちらは根拠が弱いようです。上記の羽津用水のリンク先をご覧ください)。

7b05544d  荒木十兵衛頌徳之碑に並んで「殉難の碑」があります。こちらは、羽津用水改作の際、十四川と交差させる地下の難工事で殉じた方々のためのものです(写真は、2018年9月18日撮影)。

Img_0915c_20220907044001 Img_0907c_20220907044001  さらに、荒木十兵衛頌徳碑の西、100m足らずのところに「浄恩寺道」の道標があります。「昭和貳年三月 道路改修祈念 現住専行」とあります。ここは、十四川のほとり。浄恩寺への参道であることを示すものと思われます。昭和2年ですから、1927年の建立。冒頭のルートマップを見ていただくと、ここから南西にまっすぐ、浄恩寺に道が続いています。

 ルートマップその2の途中ですが、長くなりましたので、本編その2はここまで。その3は、天武天皇迹太川遙拝所跡から。

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2022年9月 5日 (月)

20220902勝手にハイキング「壬申の乱から1350年記念 霞ヶ浦~大矢知ウォーキング」(その1)……霞ヶ浦駅から志氐神社、明円寺そして大膳寺跡へ

Img_0938c_20220902194101  9月2日に行ってきた、勝手にハイキング「壬申の乱から1350年記念 霞ヶ浦~大矢知ウォーキング」の本編その1です。前回ウォーキングに行ったのは、7月17日で(2022年7月17日:20220717堀川・宮の渡し跡・熱田神宮ウォーキング)、それから1ヶ月半ぶり。今回の行き先は、四日市の大矢知あたり。今年(2022年)は、壬申の乱(672年)から1350年。壬申の乱には、桑名や四日市辺りも大いにかかわりがあります。桑名市博物館でも「壬申の乱と桑名」という展覧会がありましたし(2022年7月24日:九華公園のアオサギは2羽……博物館で「壬申の乱と桑名」を観る)、今日の行き先の1つであるくるべ古代歴史館でも記念展示が行われています。ということで、まさに勝手に「壬申の乱から1350年記念」と銘打って、ゆかりのところを中心に訪ね歩く「霞ヶ浦~大矢知ウォーキング」に出かけたという次第。台風11号と秋雨前線の影響を心配したのですが、午前中は上天気。桑名では最高気温32.8℃。汗だくになって歩いてきたのですが、最後に、これまた勝手にご褒美を設定しておきました。冒頭の写真はくるべ古代歴史館。今回も、同級生K氏とのウォーキング。

 いきなりの余談ですが、壬申の乱と桑名のかかわりは、概略、次の通りで、これらのことが「日本書紀」に書かれているのです。ちなみに「桑名」の名前が資料に初めて出てくるのが、この「日本書紀」の記述です。また、今回のウォーキングで歩いたのが、次の中に出てくる「朝明」なのです。

天智天皇が亡くなると、討手がかかるのを恐れた大海人皇子は、6月24日、少人数で吉野を脱出し、休息はあっても昼夜道を急ぎ、伊賀・鈴鹿・三重(現在の四日市市の一部・菰野町)・朝明(あさけ:現在の四日市市の一部と川越町・朝日町)を経て26日に桑名へ着いてやっと宿泊するという強行軍で、吉野から約145㎞離れた桑名に到着しました。

Kasumigaura0  この日歩いたルートの全体図。近鉄名古屋線の霞ヶ浦駅をスタートして、志氐(しで)神社、明円寺、大膳寺跡、浄恩寺、南北伊賀留我神社、荒木十兵衛頌徳之碑、天武天皇迹太川遙拝所跡、久留倍官衙遺跡・くるべ古代歴史館、長倉神社、照恩寺、大矢知興譲小学校(忍藩陣屋跡)、亀屋佐吉などを回って、三岐鉄道三岐線大矢知駅まで。現地で実際に歩いたのでは、7.5㎞でした。

Img_0681c_20220902194001Kasumigaura1  近鉄桑名駅を8時30分に発車する塩浜行き普通電車に乗車。霞ヶ浦駅には8時43分に到着。¥260。8時50分頃にスタート。右の画像は、詳しいルートマップその1。マップには、旧東海道のルートも示してあります。ここは、去年の伊勢参りツアーでも歩きました(2022年1月5日:2021年「東海道・伊勢街道歩いて伊勢参りツアー」のまとめ)。

Img_0753c_20220902194001  まずは、志氐(しで)神社。前から訪ねたかったところです。昨年、東海道を歩いたとき、一の鳥居と、ここの神社に関わる「妋石(みよといし)(夫婦石)」は見ています(2021年5月10日:20210508「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第3回「富田~四日市」(その2)……八幡常夜燈、八幡地蔵堂、八幡神社跡、かわらずの松、志氐神社一の鳥居と妋石、光明寺を経て国道1号線へ)。

Img_0711c_20220902194001  御祭神は、気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)他9柱です。気吹戸主神は罪・穢れけがれを祓い去る神様で、様々な災いから守り、生きる気力を授けるとされます。また、伊邪那岐命・伊邪那美命を祀っており、縁結び・夫婦円満などの信仰も篤く、これが東海道にある「妋石(みよといし)」に関わります。羽津の氏神様でもあります。

Img_0689c_20220904043601  垂仁天皇の御代の鎮座とされ、古くは高野御前(たかのみまえ)と称されていました。倭姫命が天照大神を奉斎して神宮御鎮座の地を求めて巡幸された際、桑名野代の宮から鈴鹿忍山宮への途次に当たっているため、伊勢の皇大神宮の御鎮座である垂仁26(BC4)年より前とみられています。壬申の乱の際、大海人皇子が吉野から鈴鹿を経て桑名の頓宮へ至る途中、迹太(とほ)川のほとりで伊勢の皇大神宮を遥拝しています。その時、「御幣(しで)」を垂らして禊祓いをしたことによって、この地に「志氐(しで)」の名が起こり、社名となったといいます。皇子がお祓いをした岡が御祓岡(岡山)、天照大神を望拝された山が額塚山(ぬかつかやま)であり、望拝の時に献じる米を迹太川で洗ったので、以後これを米洗川(よないがわ)と称したとされています(以上は、志氐神社のサイトにある説明)。延喜式内社

Img_0738c_20220904045301  明治維新までは羽津村、吉沢村、別名村、八幡村、鵤村の総社とされ、明治40(1907)年以降、白須賀の神明社と住吉社、八幡の八幡神社、別名の長谷神社と荒神社、各字の山之神、その他の祭神が合祀されています。

Img_0711c_20220902194001  境内にはさまざまなものがあります。まずは古墳。拝殿に向かって左手の森がそれです。古墳時代前期に築造された北勢随一の前方後円墳で、培塚は7基あったと伝えられていますが、現在は1基残すのみです。社務所建築等により前方部は取り壊されていますが、椎の古樹が前端部にあたるとされています。嘉永5(1852)年、後円部の墳頂が発掘され、内行花文鏡、勾玉、管玉、車輪石などが出土したそうです。古墳の規模、出土品等からこの地の高貴な方の墳墓とみられ、一説には額田連(ぬかたのむらじ)の祖・意富伊賀都命(おういがつのみこと)の陵墓ともいわれています。四日市市内に残る唯一の前方後円墳。

Img_0731c Img_0719c_20220905064101  こちらは、四泥(しで)の御神木。樹齢推定500年と伝えられるスダジイの木です。意富伊賀都命の陵墓とされる前方後円墳の前方部の位置に自生しています。古より四泥能埼の霊木として力強い双幹の樹形をしており、それは夫婦和合の象徴の姿だとされています。御神木のところには、万葉集の歌碑があります。いかに引用する歌が刻まれていますが、聖武天皇が天平12(740)年、藤原広嗣の乱のとき、戦禍をさけて奈良の京をたち、一志郡の方から朝明、桑名と美濃に潜幸された際に、従者の丹比家(屋)主真人(たじひのやかぬしのまひと)が詠んだ歌とされています。奈良の都に残した妻を恋しく思い、志氐神社の神様にお供えして妻の無事を祈った歌といいます。

後爾之 人乎思久 四泥能埼 木綿取之泥而 将徃跡其念

(後(おくれ)にし 人(ひと)をしのはく 志氐(しで)の崎(さき)
木綿(ゆふ)取りしでて さきくとそおもう)
巻第六 一〇三一番  丹比家主真人

Img_0701c_20220905190101  ちなみに、この歌碑に関連して、「万葉旧跡 四泥能埼(しでのさき)」という石碑もあります。これは、昭和48(1973)年に寿風会が建てたもの。

Img_0741c_20220905064401  妻恋稲荷神社(つまこいいなりじんじゃ)。御祭神は、倉稲魂命、日本武尊、弟橘田媛命。この本社は、東京都文京区妻恋町妻恋坂に鎮座する妻恋神社。日本武尊が、東征の時、「吾妻者耶……」と恋い慕った故事から、妻恋明神と号されています。源頼義が奥州鎮圧のとき信仰したことや、徳川家康・家光・慶善などの崇敬篤く、関八州の稲荷の総司とも仰がれた名社で、江戸庶民の崇敬深く、ことに「虫封じ」の祈願は有名で、大正天皇が御幼少の折にも御祈祷を奉斎された神社だといいます。神社名の妻は日本武尊、恋は弟橘媛命、稲荷は倉稲魂命に由来します。嘉永6(1853)年、志氐神社の神主森出雲守泰友の代に、この妻恋神社の御分霊を庭内に分霊されています。

Img_0692c_20220905070601  個人的にもっとも目を引かれたのは、こちら。戦艦陸奥の第3砲塔の破片だそうです。戦艦陸奥は、日本海軍の戦艦で、長門型戦艦の2番艦。大正9(1920)年進水、大正10(1921)年就役の超弩級戦艦。ミッドウェー海戦に参加。昭和18(1943)年、広島湾において火薬庫の爆発事故のため沈没しています。破片につけられたプレートには「燈99小型20四分電路筐」「小型18四分(舟右発電機室)」「◎施術科倉庫通路」「◎入口」「小型22四分(甲板倉庫入口)」という表示があったのですが、私にはちんぷんかんぷん。これがここにある由来については、「神社の近所にあるスクラップ業者が『こういうものが入ったので神社に納めたい』と持ってこられたもの」という話がこちらのブログに載っていました。社務所でお聞きになったということですから、間違いはなさそうです。しかし、そのスクラップ業者さんは、どこから手に入れたのか、気になります。

Img_0698c Img_0708c_20220905190101  他に志氐神社にあったのは、明治神宮遙拝所と、皇大神宮遙拝所です。明治神宮遙拝所は、四日市市内の神社でときどき見かけます。たとえば、小許曽神社(2019年3月7日:20190302近鉄ハイキング「ふるさとの味と春風を感じて悲劇の千奈美姫に想いを馳せる 四日市うつべのヤマトタケル・芭蕉の足跡を体感!」へ(その1)……塩浜駅をスタート、観音寺と小許曽神社へ【小許曽神社の記述を加筆修正しました(3/7)】)や、諏訪神社(2018年3月26日:20180323近鉄ハイキング「港町、四日市を散策 みやまどさんから四日市臨港をたずねて」へ(オマケ)……四日市旧港の「波止改築記念碑」、諏訪神社の伊勢神宮遙拝所、諏訪公園の「誓文御文御柱」)で見たことがあります。

Img_0757c_20220902194001 Img_0764c_20220905191801  志氐神社には、どうやら裏参道から入って、表参道から出たようでした(苦笑)。表参道の鳥居から出たところに真宗本願寺派の放光山明円寺。事前に何も調べず、ノーマークでした。創建は、永正12(1515)年だそうですが、ネットで調べたものの、由緒その他は分かりませんでした。

Img_0780c  この後、別名あたりを歩いて、南いかるが町へ。2㎞を過ぎたところにある某マンションの北東にあるお宅の庭に「大膳寺跡」という石碑があります。道路からは奥まっていますので、見逃しそうなところ。ここには、延長7(929)年にに慈恵大師(じえだいし:良源。元三大師とも呼ばれる)の弟子である覚鎮(かくちん)が建立した斑鳩山大膳寺があったといいます。昭和52(1977)年から5年にわたる発掘調査で、建物跡や土壙(穴のこと)、溝址などの遺構とともに平安時代の前期から後期にわたる瓦や土馬などが発掘されています。ちなみに、延長7(929)年に、慈恵大師は垂坂に観音寺を建てています。その後、名僧が続いて法威を保ち近在の人々の篤い信仰を得て隆盛を極めました。第21代空源の時に織田信長に対して伊勢美濃三河の僧徒とともに長島に一揆をおこし、7年間に亘って抵抗したものの、天正2年7月、信長の大軍の前に敗れて空源は戦死。大膳寺は、この戦闘の際に信長の家臣、滝川一益によって、観音寺とともに焼き払われたとされています。この大膳寺は、このあと訪ねた慈恩寺にも関連しますが、長くなりましたので、その1はここまで。その2は、慈恩寺から。

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2022年7月20日 (水)

20220717堀川・宮の渡し跡・熱田神宮ウォーキング(その3)……被爆堤防・空襲跡、宮の渡し跡、円通寺、熱田神宮から神宮前駅でゴール(完)

220717sanno4  7月17日の「堀川・宮の渡し跡・熱田神宮ウォーキング」の本編その3です。ルートマップはその3とかなり重なりますが、その4です。堀川の白鳥橋を渡って、堀川右岸へ。愛知時計の工場東で、まずは、被爆堤防・空襲跡。続いて、宮の渡し跡へ行きますが、その前に軻遇突智社。宮の渡し跡からは、伝馬町を経て円通寺、熱田神宮へ。

B181557e  白鳥橋を過ぎると、右手(西側)に愛知時計電機があります(写真は、2020年1月11日に撮影)。元は、明治時代中期に創業された掛時計メーカー。現在もその系譜を継ぐ社名ですが、実際には、精密計測機器類メーカーになっています。戦前から時計製造による技術・資本蓄積によって派生した機械、電機、化学部門などを擁し、さらには航空機とそのエンジン製造にまで携わった歴史があります。昭和初期には九六式艦上爆撃機、九九式艦上爆撃機などを設計、製造しました。

Img_6652c Img_6655c_20220719170501  その愛知時計電機の敷地の東側、堀川沿いの遊歩道に古い護岸が保存されています。これは、昭和8(1933)年に築造された護岸の一部です。この表面には、昭和20(1945)年6月9日の「熱田空襲」の際の爆撃でできたものだそうです。平成4(1992)年から「マイタウン・マイリバー整備事業」で新しい護岸が設置されたときに撤去されたものを保存しています。ここのほぼ対岸に大瀬子公園があります。ここはかつて、熱田魚市場があったところ。天正年間(1573~1592年)には既に魚市場があり、織田信長の居城清須に魚介類を運んでいました。また、寛永年間(1624〜1644年)には木之免、大瀬子に四戸ずつの問屋ができ、市場が開設されていたといいます。

Img_6669c_20220719170801  宮の渡し跡の手前、マンションの敷地内に軻遇突智(かぐつち)社軻遇突智(カグツチ)は火の神。この一帯には秋葉社・軻遇突智社が合わせて5社あるといいます。この5社の他にも路地に入っていくと、小さな秋葉社の祠や、屋根神様もあるそうです。

Img_6726c_20220717203201  いよいよ宮の渡し跡へ。宮の渡し跡は、東海道五十三次のうち41番目の宿場である宮宿(みやしゅく、みやじゅく;宮の宿)にあった渡し場。スタートから5.7㎞、11時20分に到着。宮宿は、東海道にある宿場のなかでも最大級の規模でした。42番目の宿場である桑名宿(くわなしゅく、くわなじゅく)に行くには、船で海路を行かねばなりません。その距離が七里であったため「七里の渡し」と呼ばれていました。七里の渡しが始まったのは、元和2(1616)年といいます。満潮時には陸地沿いの航路を辿り、それは約7里(27㎞)でしたが、干潮時には沖を廻らねばならず、この場合は約10里(39㎞)でした。所要時間は、3時間から4時間と推定されています。渡し賃は、正徳元(1711)年の規定では乗合船一人当り45文(1,125円)であったといいます。宮の渡し跡、今は、「宮の渡し公園」として整備され、時の鐘と、常夜燈が復元されています。

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 時の鐘は、延宝4(1676)年に尾張藩2代藩主・徳川光友の命によって作られました。熱田の住民や、東海道をゆく旅人に時刻を知らせる役目を担いました。江戸時代に使われていた鐘は、今も蔵福寺(熱田区神宮二丁目、浄土宗西山禅林寺派)に保管されています。昭和58年に宮の渡し公園内に復元され、ふたたび近隣住民や訪れた人に時間を知らせています。

Img_6737c_20220719171201  常夜灯は寛永2(1625)年、藩の家老にして犬山城主である成瀬正房が熱田須賀浦太子堂(聖徳寺(熱田区大瀬子町、浄土宗西山禅林寺派)の隣地に建立したものの、風害で破損。承応3(1654)年からは現在の位置に移り、神戸町の宝勝院に管理がゆだねられ、で宮の渡しの安全を見守る役となりました。しかし、寛政3(1791)年、またしても火事で焼失。同年、成瀬正典によって再建されたもののすぐに荒廃。昭和30(1955)年になってやっと当時とほぼ同じ位置に復元されました。宮の渡し跡で11時半過ぎ。スタートからは6.5㎞。

Img_6776c_20220719171701  このあとは、内田橋から伝馬町を経て、秋葉山円通寺へ。伝馬町という地名は、宿場町ならどこにもあります。名古屋の伝馬町は、旧東海道沿いにあり、慶長3(1601)年に宮宿と隣の今道が、共に伝馬役に任命されたことが、町名の由来となっています。ちなみに、桑名にも伝馬町があり、ここも東海道沿いの町です。桑名の伝馬町も、伝馬持ちのものが多く居住したと桑名市史本編にあります。

Img_6779c_20220719172201  秋葉山円通寺です。曹洞宗の寺院。山号は補陀山(ほださん)ですが、秋葉山、羽休山ともいうようです。ご本尊は釈迦如来。熱田の両参り「熱田さま」「秋葉さま」として親しまれているといいます。秋葉大権現は、火の神様。「火防守護」その他七難を除き、除災開運・家内安全・授福繁栄の神様だそうです。

Img_6783c_20220719172401 Img_6791c_20220719172501  お寺なのに神様?? お堂が二つある!?など、疑問があるのですが、始まりが、尾張国の豪族であった尾張氏が熱田社に神宮寺として建立したものとされることに関連するのでしょう。つまり、神仏習合の色合いが濃く残っているということ。弘仁年間(810~824年)に当地を訪れた空海がこの地に小宇を築いて、自ら彫った十一面観音像を安置したと伝わっています。宝暦7(1757)年に伽藍の大造営が行われましたが、明治24(1891)年の濃尾地震で全壊。明治40(1907)年に本堂が建て直されるなどしたものの、これらは昭和20(1945)年の名古屋大空襲によって焼失、戦後に再建されました。寺が開かれて多くの修行僧が集まった中に、一人の僧に姿を変えた秋葉三尺坊(あきばさんじゃくぼう)がおり、長年の修行を経て永享年間(1429~1441年)、ついに鎮防火燭の秘法を得たといいます。喜びのあまり本当の姿を見せた三尺坊は寺の守護を誓したと伝わり、これに由来して、秋葉三尺坊大権現や羽休の秋葉などの通称で呼ばれています。

Img_6797c_20220717203201 Img_6822c_20220717203201  最終目的地は、熱田神宮。円通寺のすぐ北になります。まずは、本殿へお参り。3連休の中日で、暑かったのですが、けっこう賑わっていました。その創祀は、三種の神器の一つ草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)の御鎮座に始まります。第12代景行天皇の御代に、日本武尊(やまとたけるのみこと)は神剣を今の名古屋市緑区大高町火上山に留め置かれたまま三重県亀山市能褒野(のぼの)で亡くなりました。妃である宮簀媛命(みやすひめのみこと)が、神剣を熱田の地に祀られたことが熱田神宮の始まりです。延喜式名神大社(みょうじんたいしゃ)・勅祭社に列せられ、国家鎮護の神宮として特別の取り扱いを受けました。御祭神は、熱田大神(草薙神剣を御霊代(みたましろ)としてよらせられる天照大神のこと)。相殿神は、「五神(ごしん)さま」と呼ばれ、草薙神剣とゆかりの深い神々で、天照大神、素戔嗚尊、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命。宮簀媛命、建稲種命は尾張氏の遠祖として仰がれる神々。

Img_6841c_20220717203301 お参りを済ませ、熱田神宮宝物館へ。校倉風鉄筋コンクリート造の建造物で、昭和41(1966)年12月に開館しています。皇室をはじめ、将軍・藩主・一般の篤志家などから熱田神宮に寄進された資料約6,000点が収蔵されているといいます。国宝・重要文化財・愛知県文化財に指定されたものが177点もあります。また、熱田神宮に草薙神剣を奉斎することから、刀剣類はとくに多く、名刀の宝庫ともいわれています。この日は、7月の平常展として「熱田神宮宝物展」のほか、コーナー展として「尾張の名工」が開催されており、熱田神宮に奉納された刀剣類がたくさん見られました。

Img_6833c_20220717203301  ほかに熱田神宮で見てきたのは、信長塀。永禄3(1560)年、織田信長が桶狭間出陣の時、熱田神宮に必勝祈願をし、みごと大勝したので、そのお礼として奉納した築地塀(ついじべい)です。土と石灰を油で練り固め、瓦を厚く積み重ねたものです。兵庫西宮神社の大練塀、京都三十三間堂の太閤塀とともに日本三大土塀の一つ。

Img_6855c_20220717203301 Img_6847c_20220717203301  最後に、私自身が過去2回にわたって果たせなかったことのリベンジ(微笑)。熱田神宮内にある宮きしめん神宮店で、きしめんを食べてきました。まさに「三度目の正直」です。この日もそれなりに賑わっており、席を見つけるのに10分ほど待ちましたし、注文してから商品が提供されるまで15分ほど。冷やし宮きしめん(¥800)を食べてきました。

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Dsc_0094c_20220719173801  土産は、定番のきよめ餅。宮きしめん近くの売店でゲット。抹茶風味のものもあったのですが、オーソドックスな方を選択。こしあんをやわらかい羽二重餅でくるんだお菓子。純白に「きよめ」の焼き印が押されています。5個入りが、¥750。江戸中期の天明5(1785)年頃、「きよめ茶屋」が設けられ、参詣客にお茶を呈したといいます。元々、名物がなかった熱田神宮周辺の地域に、伊勢神宮における赤福餅のような名物を作ろうという考えから、きよめ茶屋の話を基に、きよめ餅総本家・初代・新谷栄之助が第二次世界大戦前に「きよめ餅」と名づけた菓子を考案し、今の名鉄神宮前駅前に店舗を構えたといいます。たちまち評判となり、「熱田参りにきよめ餅」「名古屋土産にきよめ餅」と知られるようになったそうです。

Img_6859c_20220717203301Img_6878c  これで全てコンプリート。名鉄名古屋本線の神宮前駅に向かいます。駅ビルは、解体工事中でした。名鉄神宮前駅は、この駅ビルの裏側(東側)。13時30分に到着。ここまで9.4㎞を歩いてきました。13時33分発の準急可児往きに乗車。名鉄名古屋駅には13時40分着。近鉄名古屋駅を14時1分発の松阪行き急行に乗り換え。桑名駅には、14時22分着。名鉄が¥230、近鉄は¥450。

Img_6893c_20220717203301  この日の歩数。20,650歩。現地で歩いたのが9.4㎞。帰りは、買い物のついでに迎えに来てもらいましたので、朝、自宅から桑名駅までが1.1㎞。合計10.5㎞を歩きました。

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2022年7月19日 (火)

20220717堀川・宮の渡し跡・熱田神宮ウォーキング(その2)……尾頭橋他から断夫山古墳、白鳥古墳へ

220717sanno2  7月17日に行ってきた「堀川・宮の渡し跡・熱田神宮ウォーキング」の本編その2です。その1では、名鉄名古屋本線・山王駅をスタートし、松重閘門から掘川沿いを歩いて下り、JR東海道線・中央線・名鉄名古屋本線の堀川橋梁まで来ました。堀川橋梁は、JR・名鉄の金山駅のすぐ北西にあります。ちょっと思い出話を書きますと、今を去ること40年以上前の学生時代、名鉄の駅は、金山橋駅でした。左の実際に歩いたルートマップその2で、金山町2丁目と波寄町の間辺りの線路の北側辺りに金山橋駅がありました。2面4線の地上駅で、ホームや駅舎も狭く、人があふれていた記憶があります。現在の金山総合駅が開業したのは、平成元(1989)年7月9日。それはともかく、JR・名鉄の堀川橋梁を過ぎてからも堀川沿いを南に下ります。尾頭橋、住吉橋と来て、妙安寺に立ち寄り、瓶屋橋、旗屋橋と進みます。

Img_6505c_20220719121001 Img_6514c_20220719121001  尾頭(おとう)橋。「尾頭」という地名は、ここが熱田台地の尾根筋と尾張平野の南部を結ぶ接点で、長い坂道が鵜の首のようであったため、「烏頭(うとう)の里」と呼ばれていたものが、中世初期に「尾頭」に変化したという説があるそうです(諸説あります。こちら)。尾頭橋は、佐屋街道の橋としてかけられました。佐屋街道は寛永11(1634)年、3代将軍徳川家光公が通られた際に本格的に整備された街道で、東海道・七里の渡しを避ける脇往還(いわばバイパス)です。大正期の尾頭橋には、八幡園と呼ばれる花街もあったそうですが、昭和20年代後半から衰退してしまいました。

Img_6523c_20220717203901 Img_6556c_20220719121301  八熊(やぐま)通が通っている住吉橋。八熊通は昔の勤務先近くに通じている通りです。住吉橋は、珍しい意匠だなと思ったら、昭和12(1937)年のもの。名古屋では珍しいラーメン橋台橋だそうです(ラーメンはドイツ語で、英語ではRigid frame bridgeだそうです)。三連アーチに見える外観はとても美しいと思います。このデザインは、関東大震災後の復興橋梁の標準形式としてよく採用されたといいます。親柱もなかなかよい感じです。

Img_6545c_20220717205001  住吉橋を過ぎたところで、再び寄り道。妙安寺。臨済宗妙心寺派。もとは、現在の中川区富田町にあったのですが、寛文9(1669)年、織田九左右衛門正直が、政秀寺六世江天和尚を開山として、現在の地に移転してきています。熱田四観音の1つといわれる観音堂があり、また、当寺の後園から西南の眺望は、名古屋三景の1つに数えられたそうです。ただし、現在は、建物がたくさん立ってしまい、眺望は利きませんでした。ちなみに、「名古屋三景」は、「尾張名所図会」で「名古屋三景」として推奨されたといいます。その1つは、「不二見原(中区上前津周辺)」。富士山が見えたといい、葛飾北斎が、「富嶽三十六景」の「尾州不二見原」として描いています。2つめは、「大曽根の関貞寺(東区森下の北)」。美濃、近江、三河などの八カ国の山々が見えたといいます。3つめが、ここ「沢の観音の妙安寺(熱田区尾頭橋交差点南)」。境内から南西への眺望は絶景で、文人墨客が往来したそうです。境内には、芭蕉の時雨の句碑ほか、いくつかの句碑があるのですが、この日は境内には入れませんでした。

 瓶屋橋です。Img_6560c_20220719122501こちらは、かなり新しい感じですが、ネット検索では情報はとくに出て来ません。堀川が開削されたころからあった「堀川七橋(ほりかわななはし)」は、上流から五条橋、中橋、伝馬橋、納屋橋、日置橋、古渡橋、尾頭橋でした。それより下流には橋はなく、今の白鳥橋や大瀬子橋あたりにあった渡し船を利用したといいます。

99bcbf71 Img_6566c_20220719122501  この日は、旗屋橋の写真を撮り忘れましたので、2019年1月11日のものを載せています。畑谷橋を渡って、堀川右岸に行くと、名古屋国際会議場があります。前の勤務先の時代、ここのセンチュリー・ホールで入学式や、卒業式が行われていましたので、ちょっと懐かしいところ。旗屋橋は、珍しい名前ですが、5世紀後半に呉から2人の織女がやってきて、そのうちの1人が熱田神宮に留まったことが起源とされていて、機屋あるいは幡屋から変化したと考えられています。

220717sanno3  国際会議場には向かわず、直進して、熱田神宮公園へ。ここから、実際に歩いたルートマップはその3になります。熱田神宮公園で断夫山古墳を見て、近くにある白鳥古墳へ。

Img_6570c_20220719123801 Img_6596c  熱田神宮公園には、「熱田愛知時計120スタジアム」という野球場があります。私の年代では、熱田球場としてなじんでいます。この日は、ちょうど夏の甲子園の愛知県予選が行われていました。元高校球児のK氏は、興奮が抑えられない様子(微笑)。

Img_6587c_20220717203201 Img_6589c_20220719124201  それはともかく、断夫山(だんぷさん)古墳。東海地方最大の前方後円墳で、全長151m、前方部の幅116m、後円部の直径80m、後円部の高さ13mもあるという大きな古墳。とても全体像は見えません。そのため、球場側にミニチュアがつくられています。「古事記」「日本書紀」では、日本武尊が東征したとき、ここ尾張で豪族の娘・宮簀媛(ミヤズヒメ)と結婚の約束をかわしたのですが、東征の帰途、病気がもとで死に、白鳥となり飛去ったとあります。この白鳥となった日本武尊の墓が、後ほど訪ねる白鳥古墳であり、日本武尊への思いをいだいて死んだ宮簀媛の墓がこの断夫山古墳であると伝えられています。このことから夫を断つ山、断夫山古墳と名前がついたそうです。歴史的には、断夫山古墳は、6世紀の初め、尾張南部に勢力を持っていた尾張氏の首長の墓と考えられています。

Img_6624c_20220717203201  こちらが白鳥古墳。断夫山古墳から南に200mあまりのところにあります。こちらは、現在の亀山市能褒野で亡くなった日本武尊が、死後、白い鳥となって飛び立ち、戻って来たところという話もあります。ちなみに、最初の勤務先の近くに加佐登(かさど)神社があり、その西に白鳥塚という古墳がありました。白鳥塚古墳は、日本武尊の墓であり、ここから白鳥になって飛び立ったという話が伝わっています。また、加佐登神社のご祭神は、日本武尊。さらに屁理屈。加佐登は、「笠殿」が転じたもので、日本武尊の笠を収めたところともいわれます。

 白鳥橋を渡って、堀川の右岸に行きます。ここからは、川沿いの遊歩道をさらに下っていきますが、キリがよいので、その2はここまで。その3は、被爆堤防・空襲跡から宮の渡し跡へ。そして、円通寺、熱田神宮へお参りしてゴール。

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2022年7月18日 (月)

20220717堀川・宮の渡し跡・熱田神宮ウォーキング(その1)……アオサギを見つけ、松重閘門から堀川沿いを下り、闇之森八幡社、堀川橋梁へ

220717sanno0  7月17日に行ってきた「堀川・宮の渡し跡・熱田神宮ウォーキング」の本編その1です。名鉄名古屋本線・山王駅をスタートし、松重閘門から掘川沿いを歩いて下り、熱田神宮公園で断夫山古墳と、すぐ近くにある白鳥古墳を見て、宮の渡し跡へ。その後、円通寺と熱田神宮にお参りしてきました。2年あまり前、コロナがまだ問題になる前に行ったJRさわやかウォーキングのルートをほぼたどってきました(2020年1月11日:20200111JRさわやかウォーキング「あいち・なごや生物多様性EXPOと宮の渡し跡から熱田神宮」(予告編))。同級生K氏と二人旅。K氏が、「宮の渡し跡も、一度は見ておきたいな」といったので、実現したウォーキング。

Img_6308c_20220717203101 Eb63e9be  スタートの名鉄山王駅。桑名駅を8時25分に出る名古屋行き急行に乗車。近鉄名古屋駅には8時46分着。名鉄名古屋駅から、8時54分発の東岡崎行き普通に乗り換え。山王駅までは1駅で、8時56分着。近鉄が¥450、名鉄が¥170。山王駅は、かつては「中日球場前駅」、「ナゴヤ球場前駅」という名称で、平成8(1996)年まで中日ドラゴンズのホームグラウンドだったナゴヤ球場への最寄り駅でした。しかし、ホームグラウンドが平成9(1997)年からナゴヤドームに移転したため、利用客も激減し、平成17(2005)年に開業当時と同じ現在の駅名に改称しました。中日球場、ナゴヤ球場の時代、いずれもドラゴンズの試合を見に来たことがあり、かなり懐かしい駅です。ナゴヤ球場は、中日ドラゴンズ二軍の本拠地球場および練習場となっています。ホームから南西に見えますが、一軍の本拠地だった頃とはかなり変貌してしまっています(右の写真:2019年1月11日の撮影)。

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 この日歩いた詳しいルートマップのその1です。山王駅の南にナゴヤ球場があります。駅から北へ。中川運河に突き当たって右折し、松重閘門へ。南北橋、松重橋を渡って、堀川沿いを南に下っていきました。古渡橋のところで、闇森八幡社(くらがりのもりはちまんしゃ)へ寄り道。堀川沿いに戻って、さらに南下。JR東海道線・中央線・名鉄名古屋本線の堀川橋梁をくぐるところまで。

 Img_6312c_20220718164401 中川運河です。港区の名古屋港から、中川区の旧国鉄笹島貨物駅(昭和61(1986)年11月1日廃止)の間を結ぶために掘られた運河。昭和時代初頭から昭和30年代頃まで、名古屋地域における中心的な水上輸送路として活用されました。大正15(1926)年に起工され、昭和5(1930)年に竣工しています。

Img_6322c_20220718164801 Img_6327c_20220718164901  運河沿いを歩いていたら、アオサギの若鳥を見つけました。ウォーキングをしながら、バードウォッチングも楽しめ、まさに一石二鳥。運河沿いの建物の屋根に2羽。このほか、松重閘門近くにも、アオサギの成鳥が1羽いました。

Img_6340c_20220717203101  松重閘門。中川運河が開削されたとき、堀川とを結ぶためにつくられたもので、昭和5(1930)年に建設、供用開始は、昭和7(1932)年。両河川は水位が2メートルほど違ったそうです。構造は、水門が上下に動くストーニー式で、水門で仕切られた閘室内の水位を上下に調整することで船の通航を可能としていました。陸上輸送の発達により船の利用が減少したため、昭和51(1976)年に閉鎖されましたが、市民の強い要望により保存されており、昭和61(1986)年に名古屋市指定有形文化財に、平成5(1993)年には名古屋市都市景観重要工作物に指定されました。今は、水路は埋められており、船の通航はできません。

Img_6351c  東西長さ90mの水路の両端に高さ約20mの塔が2棟ずつあり、一対の塔をつなぐ橋に吊られた40トンの鉄板を上げ下げしました。塔の内部には鋼板を動かすのに使う錘が入っています。日本の閘門では、扉式が多いそうですが、このように両側に塔を建設するやり方は珍しいとされます。こちらの写真は、東側の塔です。写真に写っていますが、夜景が素晴らしいようです。

Img_6372c_20220718171001 Img_6358c_20220718171401  奥に続いているのが、堀川。堀川は、江戸時代初期の名古屋開府に際して、建築資材運搬用の運河として伊勢湾から名古屋城付近まで開削されたことがそのルーツとされます。ここにかかっているのが、松重橋(右の写真)。堀川にかかる橋のうち、古いものは、親柱や照明のデザインがなかなかカッコいいのです。これから、堀川沿いを下っていく時にそれらを見るのも楽しみなのです。

Img_6383c_20220718171601  古渡橋の手前で見つけた光景。堀川に材木が浮かんでおり、その蕎麦には材木をつり上げるためのクレーンがあります。この辺りは、材木店が多かったところ。今もかなりたくさん残っています。こちらに「堀川と木材」という記事があります。

Img_6393c  古渡橋(ふるわたりばし)です。堀川が掘られたころにかけられた「堀川七橋(ほりかわななはし)」の1つです。このあたりの地名「古渡」から名付けたといわれています。近くには、昔、鎌倉街道が通っていたといいます。また、古渡城跡が、現在は、真宗大谷派名古屋別院(東別院)になっています。古渡城は、織田信長の父・信秀が天文3(1534)年、東南方に備えるために築城した城で、信長はここで元服したといいます。

Img_6453c_20220718172301  古渡橋のところで左折し、寄り道。闇之森八幡社(くらがりのもりはちまんしゃ)へ。若宮八幡宮ともいわれます。ご祭神は、應神天皇神功皇后仁徳天皇。かつて神域には大木が鬱蒼と茂り、それは月の光も射さぬと句に詠まれるほどで、いつしか闇の森と呼ばれるようになったといいます。名古屋十名所の1つ。

Img_6409c_20220717203101 創建は長寛元(1163)年。源為朝石清水八幡宮を勧請したと伝えられます。境内に為朝の甲冑を埋めたといわれる「鎧塚」があるそうです(残念ながら、見てきませんでした)。

Img_6426c_20220718172801  この神社を一躍有名にしたのは、江戸時代中期の享保18(1733)年に起きた心中未遂事件を描いた「睦月連理玉椿(むつまじきれんりのたまつばき)」でした。「名古屋心中」として知られる浄瑠璃で、翌年に名古屋で大当たりとなり、続いて江戸でもヒットして闇森を全国区にしました。飴屋町(中区)にある遊郭「花村屋(金村屋とも)」の遊女・小さんと、日置町の畳職人・喜八が、ここ闇森で心中を図り、未遂に終わりました。江戸時代、心中は大変重い罪で、たとえ生き残っても3日間さらし者にされ、身分を奪われることになっていました。しかし、当時の尾張藩主徳川宗春は、この心中未遂の話を聞き、3日間さらし者にしたあとは2人を親元に帰すように命じ、2人は結婚して幸せに暮らしたといいます。

Img_6402c_20220718173901  この神社には、鳥居をくぐったところに木製の蕃塀(ばんぺい)があります。なかなかよい感じの蕃塀です。蕃塀、けっこう好きなのです。ちなみに、蕃塀とは、蕃塀は、神社の一施設で、通常は参道上で拝殿の前に存在する短い塀である。「不浄除け」、「透垣」、「籬」などとも呼ばれる。正殿を直視しない(できない)ようにするとか、不浄なものの侵入を防ぐために造られたと思われるが、正確な目的は不明。伊勢神宮や熱田神宮などにもあります。

Img_6494c_20220717203201 堀川沿いに戻って、JR東海道線・中央線・名鉄名古屋本線の堀川橋梁。鉄橋は、北から順にJR中央線、名鉄名古屋本線、JR東海道線です。この3路線の橋梁はかなり古いもの(こちらを参照)。ちょっと煩雑になりますが、以下のような歴史がありました。東海道線の熱田~名古屋間は、明治32(1899)年7月に複線化されました。堀川橋梁は、南側の新線(上り線)に移設されています。中央線の多治見~名古屋間の開通は明治33(1900)年7月で、同線の堀川橋梁は、複線化で余剰となった東海道線の初代橋梁を転用しています。さらに、名鉄名古屋本線の新名古屋~神宮前間は第二次世界大戦中の昭和19(1944)年9月に開通。名鉄の堀川橋梁の下り線は、この区間建設に伴う中央線の線路移設時に廃線となった旧線の橋梁を転用しているといいます。

Img_6467c_20220718174901  この写真で向かって右側の2つが名鉄名古屋本線の橋脚。したがって、右の写真でもっとも右に写っているものが、もっとも古い橋脚となります。向かって左にあるのが、東海道線の橋脚です。明治時代の橋脚や橋桁が今も使われているというのは、驚き。キリがよいので、その1はここまで。その2は尾頭橋から南の辺り。

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2022年7月17日 (日)

20220717堀川・宮の渡し跡・熱田神宮ウォーキング

220717sanno0  今日は、3連休のうちでもっとも天気が良さそうでしたので、名古屋までウォーキングに行ってきました。名鉄名古屋本線山王駅から松重閘門、そこから掘川沿いを歩いて下り、熱田神宮公園で断夫山古墳と、すぐ近くにある白鳥古墳を見て、宮の渡し跡へ。その後、円通寺と熱田神宮にお参りするという2年前、コロナがまだ問題になる前に行ったJRさわやかウォーキングのルートをほぼたどってきました(2020年1月11日:20200111JRさわやかウォーキング「あいち・なごや生物多様性EXPOと宮の渡し跡から熱田神宮」(予告編))。同級生K氏と二人旅。今日は、超予告編。

Img_6308c_20220717203101 Img_6340c_20220717203101  桑名駅を8時25分に出る名古屋行き急行に乗車。近鉄名古屋駅には8時46分着。名鉄名古屋駅から、8時54分発の東岡崎行き普通に乗り換え。山王駅までは1駅で、8時56分着。近鉄が¥450、名鉄が¥170。9時にスタートしたのですが、このときはごく細かい雨がときどき、降っていました。松重閘門(右の写真)、私は3回目。中川運河が開削されたとき、堀川とを結ぶためにつくられたもの(昭和5(1930)年(供用開始は、昭和7(1932)年)。両河川は水位が2メートルほど違ったそうです。東西長さ90mの水路の両端に高さ約20mの塔が2棟ずつあり、一対の塔をつなぐ橋に吊られた40トンの鉄板を上げ下げしました。塔の内部には鋼板を動かすのに使う錘が入っています。日本の閘門では、扉式が多いそうですが、このように両側に塔を建設するやり方は珍しいものです。

Img_6379c_20220717203101 Img_6523c_20220717203901  ここからは、堀川に沿って南に下っていきます。ここから2㎞あまり立ち寄るところは、少ないのですが、堀川にかかる橋は、親柱や照明が凝ったデザインで楽しめます。右の写真は、住吉橋

Img_6409c_20220717203101  途中、古渡橋の東にある闇之森八幡社(くらがりのもりはちまんしゃ)に立ち寄り。創建は長寛年間(1163~1164年)。源為朝が石清水八幡宮を勧請したといいます。かつて神域には大木が鬱蒼と茂り、それは月の光も射さぬと句に詠まれるほどで、いつしか闇の森と呼ばれるようになったそうです。江戸時代、遊女小さんと畳職人喜八が心中未遂を起こし、これが「名古屋心中」として浄瑠璃になっています。

Img_6471c_20220717203201 Img_6494c_20220717203201  JRAウィンズ名古屋のところで、JR東海道線・中央線・名鉄名古屋本線の鉄橋をくぐります。詳しいことは、こちらにあり、また、本編に書くつもりですが、名鉄名古屋本線の鉄橋は、明治時代に東海道線の橋脚として作られたものを使っています。

Img_6545c_20220717205001  住吉橋の近くに妙安寺。臨済宗妙心寺派。もとは、現在の中川区富田町にあったのですが、寛文9(1669)年、現地に移転してきています。熱田四観音の1つといわれる観音堂があり、また、当寺の後園から西南の眺望は、名古屋三景の1つに数えられたそうです。

Img_6587c_20220717203201 Img_6624c_20220717203201  熱田神宮公園内に断夫山古墳。日本武尊が東征したとき、ここ尾張で豪族の娘・宮簀媛(ミヤズヒメ)と結婚の約束をかわしたのですが、東征の帰途、病気がもとで死に、白鳥となり飛去ったとあります。この白鳥となった日本武尊の墓が白鳥古墳(右の写真)であり、日本武尊への思いをいだいて死んだ宮簀媛の墓がこの断夫山古墳であると伝えられています。この事から夫を断つ山、断夫山古墳と名前がついたそうです。

Img_6652c  白鳥橋を越えて、愛知時計電機の敷地の東側、堀川沿いの遊歩道に古い護岸が保存されています。これは、昭和8(1933)年に築造された護岸の一部です。この表面には、昭和20(1945)年6月9日の「熱田空襲」の際の爆撃でできた跡が残っています。

Img_6726c_20220717203201  さらに南へ行き、大瀬子橋を渡ると、いよいよ宮の渡し跡へ。東海道五十三次のうち41番目の宿場である宮宿(みやしゅく、みやじゅく;宮の宿)にあった渡し場。スタートから6.5㎞、11時30分に到着。宮宿は、東海道にある宿場のなかでも最大級の規模でした。42番目の宿場である桑名宿(くわなしゅく、くわなじゅく)に行くには、船で海路を行かねばなりません。その距離が七里であったため「七里の渡し」と呼ばれていました。七里の渡しが始まったのは、元和2(1616)年といいます。

Img_6783c_20220717203201  宮の渡し跡から伝馬町を経て、秋葉山円通寺へ。曹洞宗のお寺で、秋葉山ですので、火の神様。尾張国の豪族であった尾張氏が熱田社に神宮寺として建立したものとされます。弘仁年間(810~824年)に当地を訪れた空海がこの地に小宇を築いて、自ら彫った十一面観音像を安置したと伝わっています。

Img_6797c_20220717203201 Img_6822c_20220717203201  熱田神宮。円通寺のすぐ北が熱田神宮になります。連休中ですが、けっこう参拝客はありました。何はともあれ、まず参拝へ。

Img_6833c_20220717203301  その後、信長塀。永禄3(1560)年、織田信長が桶狭間出陣の時、熱田神宮に必勝祈願をし、みごと大勝したので、そのお礼として奉納した築地塀(ついじべい)です。土と石灰を油で練り固め、瓦を厚く積み重ねたものです。兵庫西宮神社の大練塀、京都三十三間堂の太閤塀とともに日本三大土塀の一つ。

Img_6841c_20220717203301  次いで、宝物館へ。熱田神宮が所蔵する数多くの宝物を順番に展示しています。7月は、平常展として「熱田神宮宝物展」のほか、コーナー展として「尾張の名工」。熱田神宮に奉納された刀剣類がたくさん見られました。

Img_6855c_20220717203301 Img_6847c_20220717203301  そして、私自身は、過去2回にわたって果たせなかったことのリベンジ(微笑)。熱田神宮内にある宮きしめん神宮店で、きしめんを食べてきました。三度目の正直です。今日もそれなりに賑わっており、席を見つけるのに10分ほど待ちましたし、注文してから商品が提供されるまで15分ほど。冷やし宮きしめん(¥800)を食べてきました。

Dsc_0089c  土産は、定番のきよめ餅。宮きしめん近くの売店でゲット。抹茶風味のものもあったのですが、オーソドックスな方を選択。こしあんをやわらかい羽二重餅でくるんだお菓子。純白に「きよめ」の焼き印が押されています。5個入りが、¥750。

Img_6859c_20220717203301 Img_6878c  これで全てコンプリート。名鉄名古屋本線の神宮前駅に向かいます。駅ビルは、解体工事中でした。名鉄神宮前駅は、この駅ビルの裏側(東側)。13時30分に到着。ここまで9.4㎞を歩いてきました。13時33分発の準急可児往きに乗車。名鉄名古屋駅には13時40分着。近鉄名古屋駅を14時1分発の松阪行き急行に乗り換え。桑名駅には、14時22分着。名鉄が¥230、近鉄は¥450。

Img_6893c_20220717203301  今日の歩数。20,650歩。現地で歩いたのが9.4㎞。帰りは、買い物のついでに迎えに来てもらいましたので、朝、自宅から桑名駅までが1.1㎞。合計10.5㎞を歩きました。本編は、また明日以降、ボチボチと。

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2022年6月21日 (火)

20220612水の都・大垣ウォーキング(その3)……船町川湊から美濃路を歩いてゴールの大垣駅へ(完)

Ogaki0_20220620182901  6月12日の「水の都・大垣」ウォーキングの本編その3です。奥の細道むすびの地をしっかり見て、船町道標のところへ来ました。ここから美濃路を歩いて行きます。ルートマップでは、左下にある水都公園のあたりからになります。船町道標のところに大垣城京口門跡、その近くに飯沼慾斎邸跡、柿羊羹で有名なつちや本店を見て、美濃路大垣宿本陣跡、善念寺、問屋場跡、本町道標、大垣城大手門跡、広嶺神社、大垣城名古屋口門跡、稲荷神社、栗屋公園を経て、掘抜井発祥の地、愛宕神社、岐阜町道標を回って、大垣駅へ。昼食を食べてから、金蝶園製菓本店で土産の水まんじゅうをゲットして、コンプリート。

Img_5179c_20220612191201 Img_5197c_20220618175701   水門川の東側に戻り、美濃路を歩きます。水都公園の近くに船町道標。道標は、高さ約2mの円柱状の石製で、文政年間(1818~1830年)に大垣城下京口御門(西総門)の南、美濃路沿いに建立されました。その標面には「左 江戸道」・「右 京みち」とあり、さらに上部には旅人の道中の安全を願い梵字(種子)が刻まれています。第二次大戦で被害を受け、路傍に横たわっていたのですが、修復されたといいます。船町道標の東、水都公園の脇に大垣城西総門(京口門)跡(右の写真)。京都方面にあることから、京口門とも呼ばれました。総堀に橋を架け、門をもうけることによって、防御としています。

Img_5215c_20220618202401  水都公園から北に向かい、はな街道に出た東南角のところが、飯沼慾斎(いいぬまよくさい)邸跡です。飯沼慾斎(天明3(1783)~慶応元(1865)年)は、伊勢亀山の西村安守の次男で(2022年5月11日:20220507東海道ウォーキング「亀山宿~関宿」(その1)……亀山駅をスタートし、武家屋敷などを見て、京口門跡あたりまで)、母方の親戚である大垣の飯沼長顕の娘と結婚し、この地で蘭方医として医学に従事しました。長顕は大垣で町医者をしており、慾斎はそのもとで儒学、医学を習い、京都で福井丹波守に学んだ後に、長顕の娘と結婚して飯沼長顕の跡を継いでいます。28歳の時に、江戸で宇田川玄真に蘭学を学び、天保3(1832)年に義弟に家業を譲って隠居し、大垣郊外に平林荘を築いて30年ほど本草学の研究に専念しました。リンネの分類法を用いた日本で最初の体系的な植物図鑑「草木図説」を安政3(1856)年から文久2(1862)年にかけて出版。人体解剖、種痘、写真の研究などにも取り組んだそうです。

Img_5222c_20220619045601  美濃路をたどっていくと、スタートから4㎞を過ぎたあたりに、柿羊羹のつちや俵町本店があります。すごい建物というか、看板が屋根に乗っており、また、卯建も上がっています。しばし、見入ってしまったくらい。宝暦5(1755)年(薩摩義士による宝暦治水工事が完成した翌年)に、園助という人が「柏屋光章」という屋号で店を開いたのが始まりだそうです。柿羊羹は四代目右助という人が天保9(1838)年に、堂上蜂屋柿の濃密な甘味に注目して、これを羊羹の材料として利用して創製したといいます。ちなみに、柿羊羹は、今回のウォーキングでは購入しておりません。

Img_5247c_20220612191201  つちや俵町本店の先に美濃路大垣宿本陣跡。美濃路は、中山道の垂井宿から、東海道の宮宿(名古屋市熱田)までの約57.5kmの街道です。ここ大垣宿の本陣は、永禄年間(1558~1569年)に創建されたとされています。建物の一部が保存されていますし、明治天皇がお泊まりになったときの部屋も残っています。また、大垣祭の山車に関する資料もたくさん展示されていて、地元の方が説明してくださいました。地元の方が、交代でここに詰めて、観光客の対応をしておられます。ちなみに、明治天皇は、明治11(1878)年の東海・北陸御巡幸の際に宿泊されており、「大垣宿本陣跡附明治天皇行在所跡」として大垣市の史跡に指定されています。この明治天皇の北陸・東海巡幸は、明治11(1878)年8月30日に出発し、東京から前橋・長野・新潟・富山・金沢・福井・京都・岐阜・名古屋・静岡をめぐって11月9日帰京するという、陸路72日間の大旅行だったそうです。

Img_5258c_20220619075801 Img_5266c_20220619075801  大垣宿本陣跡からさらに東へ。美濃路は、結構何度も曲がっています。北に向かう角に真宗大谷派の龍谷山善念寺。事前の調べでは、特に情報はなかったのですが、山門が左の写真のように、珍しいものでしたから、同級生K氏曰く「これは珍しいから、写真を撮って、ブログに載せろ」(笑)。山門の屋根の材質は何か分かりませんが、銀色で、太陽の光を反射して目立っていました。

Img_5270c_20220619080201  善念寺の対面に問屋場跡があります。問屋場は、宿場において人馬の継ぎ立て業務を行ったところです。問屋役や、その助役の年寄、事務担当の帳付、馬指、人馬指が詰めていました。大賀寄宿の問屋場は、もとは本町にありましたが、寛文の頃(1661~1673年)、ここに移ったといいます。幕末には、問屋役は飯沼家が、本陣役と兼帯していたそうです。

Img_5274c_20220619120801  問屋場の先に本町道標。「左江戸道 右京道」と刻まれています。新しいなと思ったら、昭和48(1973)年に再建されたものだそうです。美濃路と竹鼻街道の分岐点に建てられたもので、竹鼻街道は、当初、大垣と竹鼻の往来に利用されたのですが、宝暦治水工事の完成と、宝暦11(1761)年に駒塚の渡しが開設されて、美濃路の短絡道として盛んに利用されることになったといいます。竹鼻街道は美濃国大垣宿から美濃街道と分れ、揖斐川、長良川、木曽川の大河を渡り、尾張国富田宿(愛知県一宮市尾西・富田)で再び美濃街道と合流する街道です。

Img_5289c  続いて、大垣城大手門跡へ。美濃路からは、少し西に入ります。大垣城七口之門の1つで、お城の東にあり、大垣城の正門で、本町に通じていました。初めに高麗門と呼ばれる外の門をくぐると、内側には第二の門である櫓門があり、二重に城門を配置した枡形形式の堅固な門だったといいます。明治4(1871)年に大手門を取り壊し、その跡地に広嶺神社が移建されています。境内東側の石垣は往時のものといわれており、そこにある水路がかつては、堀でした。

Img_5299c_20220620181101 Img_5302c_20220620181101  広嶺神社は、天正年間(1573~1592年)の創建で、もとは下魚屋町にありました。上記のように、明治4(1871)年にここ大手門跡に移転し、広嶺神社と改称しています。大正9(1920)年、本殿・拝殿を造営したものの、昭和20(1945)年7月の空襲で焼失しています。

Img_5304c  狛犬が独特でした。狛犬については、興味はあるものの、詳しくはありません。このタイプの狛犬をどこかで見た記憶はあるのですが、どこの神社だったか、今のところ思い出せません。

Img_5313c_20220620183101 Img_5319c_20220620183101  美濃路に戻って、田中屋煎餅総本家の前に脇本陣跡。この場所は本町大手北側で、戸田家の大垣入封に随従した上田家が務めるようになった元禄の頃(1688~1704年)に成立したといいます。この脇本陣は、「本町本陣」とも呼ばれ、間口12間半、奥行き16間半あまりで坪数127坪半もの格式ある建物でした。その先、美濃路が右折して、東に向かうところが高札場跡。ここは、いわゆる札の辻。高札場は、明治6(1873)年に廃止されましたが、その後、昭和になっても、掲示板として使われていたといいます。

Img_5324c_20220620192701 Img_5327c  高札場跡の先に大垣祭の軕(山車)が収めてある倉。美濃路大垣宿本陣跡で聞いた説明によれば、確かこの倉に収まっている、本町の軕がもっとも大きということでした。右の写真は、大垣城名古屋門口跡。

Img_5331c_20220620193301 Img_5335c_20220620193301  交差点を渡った先には、稲荷神社。大垣城主戸田氏定によって、享保12(1727)年9月の建立。大垣藩主から、毎年御供米15俵などが寄付されたそうです。廃藩後は、明治8(1875)年以降、中町、栗屋町の神社となっています。この稲荷神社も、昭和20年の空襲で、焼失しています。

Img_5350c_20220620194101 Img_5363c_20220620194101  稲荷神社の北に栗屋公園があります。美濃路沿いにここにも自噴井があるというので立ち寄ってきました。いくつかの自噴井がありました。右の写真にある説明板によれば地下150mから563リットル/分の湧水があるそうです(設置時のデータ)。

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 大垣駅近くまで戻ってきました。平和通りに堀抜井発祥の地。天明年間(1781~1789年)頃まで大垣地方では、生活用水として各町の裏通りを流れる用水を利用していましたが、渇水期になると、大垣の三清水(西外側町、清水町、室町)まで汲みにゆくことになり、非常に不便でした。天明2(1782)年、こんにゃく屋文七が、川端に2m程の穴を掘りそこに5mの材木を打ち込み、その後へ節を抜いた青竹を力いっぱい打ち込んだところ、その竹の先からきれいな水が噴出してきたといいます。これはこれはと大層喜び、「これはの井」と名付けられたそうです。それ以来どこの家でも、自噴の井戸が掘られるようになり「井戸槽(いどぶね)」と呼ばれています。

Img_5382c_20220612191201 Img_5379c  大垣駅のすぐ南東に、愛宕神社があり、その境内に岐阜町道標。 愛宕神社のご祭神は、軻遇突智神(かぐつちのかみ)。寛政6(1794)年に創建され、文化9(1826)年、火災に遭い近くにある文珠寺の北へ遷座したのですが、明治4(1871)、創建の旧地へ戻っています。岐阜町道標(ぎふまちみちしるべ)は、重要有形民俗文化財に指定されている道標。高さ3m余の角柱状の常夜燈で、文政5(1822)年、石工の中谷甚平光景が岐阜町から美濃路への南の出口に建立したものです。正面に「右きそ路」「左・京ミち」、左面には「北たにくミ道」とあるほか、道中の安全を願い、梵字(種子)が右面に8文字、左面の上部に1文字深く刻まれています。

Img_5399c_20220620194601 Dsc_6530c  これで今日訪れるところは、コンプリート。14時になっていましたので、何はともあれ、昼ご飯。大垣駅ビルのアスティ大垣へ。1階にある「おらが蕎麦」でちくわ天おろしそば(¥660)。なんとなく既視感があって、調べてみたら、津駅にある津チャムの「信州そば処 そじ坊」と同じ会社(グルメ杵屋レストラン)でした。

Img_5405c_20220612191201 お腹を満たしたあと、もう1つ重要なミッションがあります。土産を買わなければなりません(微笑)。朝、大垣駅をスタートした直後、狙いをつけておいた「金蝶園製菓総本家」へ。大垣駅の南。ここで、大垣名物水まんじゅうを買うことにしていたのです。大垣の水まんじゅうは、大垣の名水によって明治時代の初めに生まれました。冷たい地下水に漬けて冷やすよう、葛に水に強いわらび粉を混ぜ、柔らかく炊き上げた生地を陶器のお猪口に流して固めたものです。

Img_5455c_20220612191201  こちらが、今日の土産。こし餡のものと、向かって右は、「ミナモ」。岐阜県のキャラクターであるミナモをイメージし、水色(ソーダ餡)と黄色(レモン餡)がストライプ状になっています。

Img_5414c_20220612191201 Img_5411c_20220612191301  養老鉄道大垣駅には、14時40分にゴール。次の桑名行きは、15時6分発。桑名には、16時18分着。

Img_4549c_20220620195101  行きも帰りも、7700系の電車。東急からやってきたステンレス車両。

Img_5460c_20220612191201  この日の歩数は、19,089歩でした。現地で6.3㎞、自宅から桑名駅往復が2.4㎞ですから、合計8.7㎞。まぁ、よく歩いた感じです。

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