名所旧跡

2021年2月27日 (土)

20210227勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道再び(川口町~下深谷)」(完)

 朝は風が冷たかったものの、次第に風も弱まり、暖かくなりました。ほぼ1年前に、新型コロナウィルス感染症によって、JRさわやかウォーキングや、近鉄ハイキングが軒並み中止となったため、「勝手に養老鉄道ハイキング」を企画し、桑名の美濃街道を歩きました(20200301勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道を歩く」(川口町~下深谷)(予告編)20200306勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道を歩く」(下深谷~多度)(予告編))。今回、同級生K氏と、昨年と同じルートをもう一度辿ることとし、今日は、川口町から下深谷までを歩いてきました。

Mino  こちらが、今日のコース。昨年3月1日と同じです。美濃街道は、七里の渡しから東海道を南へ160mほど下ったところ、川口町Img_5029c と江戸町の間の三叉路が起点となります。ここから三崎通、参宮通、国道1号線、上之輪、深谷と進みます。今日は、養老鉄道下深谷駅をゴールとし、マップ上6.3㎞の距離。

Img_5035c_20210227155501Img_5032c_20210227155501  これは、お馴染み七里の渡し跡。いつもの散歩コースです。ここから南に向かって東海道が延びています(右の写真)。このあたりもたまに歩くところです。

Img_5041c_20210227155501  上述のように七里の渡し跡から160mほど行ったところに歌行燈本店があります。ここが美濃街道の起点です。9時にスタートしたのですが、次に行く前にいきなりの余談。

Img_5044c_20210227155501 Img_5047c  この三叉路のところに「通り井跡」があります。桑名では地下水に海水が混じるため、寛永3(1626)年に町屋川から水を引いた水道をつくり、町内の主要道路の地下につつを埋め、ところどころの道路中央に正方形のマスを開けて、一般の利用に供しました。これが「通り井」。ここは、昭和37(1962)年、工事のため道路を掘っていて、通り井の跡の一つがみつかったところ。道路面には「井」と書いた石が埋められています。

Cca076f9 Img_5062c_20210227155501 スタートして西に向かい、370mほどのところに、三崎見附跡(今日は写真を撮り忘れましたので、これは去年のもの)。多度や美濃国への出入り口として、番所と三崎門があり、また、寺の開帳や芝居・相撲の開催を告げる立て札が立てられるところでもあったといいます。その先、750mで(スタートから、以下同じ)北桑名神社。我が家の氏神様ですが、天照大御神、建速須佐之男命の他、持統天皇も祀っています。明治41(1908)年、宝殿町にあった佐乃富神社を合祀したのですが、佐乃富神社が、壬申の乱のとき、後の持統天皇が滞在された桑名郡家であると伝わっています(由緒書による)。

8c32c2f3 Dsc00374  北桑名神社のすぐ先で追分に行き当たります。かつてここには、常夜燈と道標がありました(右の写真)。美濃街道は、左の写真で向かって右の細い道(福島縄手といわれました)。左の道は八丁畷といわれ、久松松平家の墓所がある東海山照源寺に続いています。常夜燈は、安政3(1856)年の建立でした。400人ほどが寄進を行い、現在も桑名で営業している店の屋号も刻まれていました。道標(弘化4(1847)年建立)には,「右 みの 多度道」「左 すてん志ょみち」とありました。美濃街道はこの先、スタートから1㎞のところで国道1号線と重なります。

Img_5067c_20210227155501 Img_5070c_20210227155501  美濃街道が国道1号線に重なるところに「参宮国道碑」があります。大正時代まで、木曽・長良・揖斐の三大川は渡船に頼っていました。そこに橋を架ける運動が進むとともに、「東海道国道」が新しくつくられました(現在の国道1号線)。町屋橋から伊勢大橋までの3.87㎞は、昭和6~7(1931~32)年にかけて、当時のお金で55万円でつくられたそうです。その竣工記念として西桑名町(当時)によって建てられたのがこの碑。ここから立代町あたりまで、700mほど、国道1号線を行きます。

Img_5088c_20210227155501 Img_5095c_20210227155501  立代町交差点で1号線から離れ、大山田川に向かいます。スタートから2㎞ほどのところに桑北山西浄寺。もとは、北河原葬所の境内の庵でした。お寺という感じの建物ではありません。右の写真は、六地蔵。元禄3(1690)年のもの。六地蔵は、地蔵菩薩の6分身。生前の行為の善悪によって、人は死後、地獄、畜生、餓鬼、修羅、人、天という六道の境涯を輪廻、転生するとされますが、そのそれぞれに、衆生救済のために配される檀陀、宝印、宝珠、持地、除蓋障、日光の6地蔵をいいます。

Img_5085c  さらに、ここには、釈迦如来立像と六字名号碑があります。写真の向かって左が、釈迦如来立像。去年来たとき、きちんとした写真を撮り忘れたのです。これは、嘉永2(1849)年のもので、美濃街道沿いにあったものを昭和10(1935)年に移動しています。六字名号碑は、天保12(1841)年のもので、これももとは街道沿いに建っていたのですが、昭和4(1929)年に移動したそうです。

B5357cfa Img_5103c_20210227155501  西浄寺の先で大山田川を渡ります。美濃街道のルートには、現在は、人自転車専用橋が架かっています。このあたりは、冬にときどきバードウォッチングに来るところ。カワセミ、ウグイス、メジロ、ホオジロ、オオジュリン、アオジなどがいます。

Img_5109c_20210227155501 Img_5117c_20210227155501  橋を渡ってすぐに上之輪神社(神明社・縣社・多度社)。主祭神は、天照大神。相殿神は、天津日子根命(あまつひこねのみこと)と天穂日命(アマノホヒノミコト)。この上之輪神社あたりに中江城があったとされます。戦国時代の豪族・中江(あるいは森)清十郎が居城しました。長島一向一揆の時には、5大拠点の一つで、最後まで抵抗した砦です。多数の人が立て籠もったところを焼き払われたと伝わっています。現在は、城の遺構は認められません。

Img_5119c  上之輪神社(2.3㎞地点)を過ぎると、深谷までは見るところ、立ち寄るところはありませんので、ひたすら歩くのですが、近鉄、JRの線路が見えるところに出たら、近鉄特急ひのとり(名古屋行き)。どうも予定しないときに遭遇することがよくあります。この先は、東名阪道・桑名東インターに抜ける道で、クルマがたく三通り増す。

Img_5146c_20210227155501Img_5163c_20210227155501  美濃街道は、桑名東インターの下をくぐって、深谷に入ります。スタートから5㎞ほど来たところの東に稲荷社があります。去年も立ち寄りました。あれこれ推測したのですが、同級生K氏の話その他で、もう少し詳しいことが分かりました。個人の方がご自宅の敷地内に勧請した稲荷社でした。この方は、ここのすぐ目の前で商売をしておられたのですが、大変信仰心の篤い方でいらっしゃったようです。ここで、歩き始めて1時間あまり。近くにあった高砂公園で小休止。

Img_5169c_20210227155501 Img_5172c_20210227155401  稲荷社のすぐ先には、真宗大谷派の深江山南楽寺(ふかえざんなんらくじ)が西に見えます。平安時代初期の天長元(824)年に天台宗の僧院として建立されましたが、織田信長の伊勢侵攻の時、兵火で焼失し、再建後、浄土真宗に改宗しています。以前は、深江山阿弥陀寺といい、正保2(1645)年にここに移ってきたそうです。

Img_4668c_20210227175901 Img_4672c_20210227175901  頌徳碑が1基あったのですが、黒ずんでいて判読困難でした。帰宅後、「桑名市史 補編」にある「第7章 主要墓碑集覧」をチェックしたところ、「南楽寺」のところに載っていました(p.456)。調べて見るものです。題額には「頌徳碑」。「宇野智賢頌徳碑 山脇春樹題額 花山大安撰、 江東子 原雪堂書 大正九年八月建立」とあるそうです(ちなみに、この主要簿費集覧は、照源寺に碑があった平岡潤によるもの。2021年2月5日:20210201勝手に養老鉄道ハイキング「桑名駅西歴史散歩」(その3)……円妙寺、照源寺から専明寺まで)。

31eb1ab7 Img_5182c_20210227155401  去年は、この先にある末広屋さんでみたらし団子を買ってくるようにという司令があったのですが、今年はパス。醤油だけの味付けで私好みなのです。末広屋の先で流石川に突き当たり、美濃街道はここで左折し、西に向かうのですが、この曲がり角、流石川の右岸に地元の方が「角の地蔵」と呼ぶ地蔵堂があります。「地蔵」といいながら、祀られているのは、如来様。ただし、「くわな史跡めぐり」には「薬師如来」とあるのに、「みえの歴史街道ウォーキングマップ」には「阿弥陀如来」とあり、詳細は不明。

4c044825  深谷の町を進み、美濃街道は、深江神社や養老鉄道の東のあたりを北上するのですが、街道歩きは、今日はここまで(左の写真の交差点)。去年同様、ここで左折して、深江神社に向かいます。

Img_5185c_20210227155401  深江神社。深江(ふかえ)はこのあたりの古名。勧請年月は不詳ですが、延喜式神名帳に「伊勢国桑名郡深江神社」とありますので、いわゆる「式内社」と考えられます。ここも、織田信長の伊勢侵攻の時、兵火に焼かれました。桑名藩主・松平定勝の子・定実(さだざね)が深く信仰し、元和8(1622)年、社殿を寄進し、現在に至るといいます。主祭神は、天之菩毘能命(アマノホヒノミコト)と、天照大御神。相殿神は、宇迦之御魂神、大山津見神、武三熊之大人(たけみくまのうし;『古事記』では建比良鳥命(たけひらとりのみこと)とされます。

Img_5195c_20210227155401  深江神社のすぐ西には、西林寺。現在は、真宗本願寺派ですが、永正6(1509)年、北廻城主・近藤家教が父の菩提を弔うために創建しました。当時は、禅宗の済林寺。天正2(1574)年、本願寺第9世実如上人(蓮如上人の5男;「御文(おふみ)」を布教の指針としました)により、真宗に改めました。織田信長の伊勢侵攻の時、焼失し、後再建されています。

Img_5198c  この西林寺の裏山あたりが、北廻(きたはざま)城址といわれます。織田信長の侵攻によって滅ぼされましたが、北廻城は堅固な城であり、信長勢(滝川一益)も攻めあぐねて、ついにトンネルを掘って、地下から攻め登ったといいます。籠城したのですが、水がなくなったのを知られないため、馬を洗うのに白米を用いました。遠目には水に見えたからです。これによって「白米城」とも呼ばれました。北廻城主であった近藤氏の子孫が、この西林寺の住職になっています(こちら)。

Img_5227c_20210227155401  西林寺から、桑名北高校の裏手を通って、雨尾山味光院飛鳥(ひちょう)寺。東寺真言宗のお寺。ご本尊は、十一面観世音菩薩。伊勢西国三十三ヵ所観音巡礼の第32番札所。延暦13(794)年、大和国生駒山周辺から黄金の花瓶(けびょう;十一面観音の持物)を喰えた霊鳥が、現在地より2km山中の坊ケ谷に飛んで来て、美声にて仏法を説いたといいます。その噂を聞きつけた弘法大師が来山し、霊鳥が十一面観音に変化したそうで、弘法大師は、早速、感得されたお姿を一刀三礼して等身大の御尊像を刻み草庵に安置し、霊鳥が飛来した寺という事で「飛鳥寺(ひちょうじ)」と名付けたことに始まります。最盛期には、寺域一里半、寺領千石、12の坊舎が並ぶ密・律・禅の名刹となっています。しかし、ここもご多分に漏れず、元亀2(1571)年、織田信長の伊勢長島の一向一揆攻略により全山灰燼に帰し、小堂一宇を残すのみとなりました。その後、寛永12(1635)年、桑名藩主松平定網公が、眼病平癒祈願のため参籠し、その満願の夜に、観世音菩薩の花瓶より滴る霊薬水で洗眼する夢をご覧になられ、忽ちに平癒したといいます。定綱は供料田を寄進し、また、万治3(1660)年には定重から年々の祈願料が寄進されました。元禄年間、桑名藩家臣・南條三太左衛門宗親が、念持仏として地蔵菩薩を得て、それを奉安しています。山号については止雨のみならず、雨壷という古い陶器の壷があり、旱魃の時にこれに水を滴らすと忽ちに降雨したので、「雨尾山(あまおさん)」と呼ばれています。

Img_5230c_20210227155401  明治2(1869)年、参詣に不便ということで本堂及び地蔵堂が現在地に移転。木曽三川を眼下に、名古屋市街、濃尾平野、遠くは木曽御嶽山が、一望できる眺望絶佳の高台にあります。こちらがその眺め。平成29(2017)年末にNHKで放送していたドラマ「マチ工場のオンナ」のロケ地の1つです。ちなみに、去年来たときには、桑名北高校の裏手から、この飛鳥寺の墓地あたりにニホンザルがたくさんいたのですが、今年はまったく見当たりませんでした。

Img_5260c  このあと、下深谷駅の東にある安養寺にも立ち寄るつもりでしたが、下深谷駅まで来たら、12時7分。次の桑名行きは12時12分、その次は12時52分でしたので、今日はここまで。安養寺は、次回のスタートの時にということにしました。スタートからほぼ3時間、コースマップ上は6.3㎞を歩いてきました。

Img_5268c_20210227155401 Img_5264c_20210227155401  12時12分発の桑名行きに乗車。桑名までは¥260。さらに、桑名着は何と12時18分。3時間かけて歩いてきたのに、電車ではたったの6分で到着。笑えます。

Img_5276c 1614397570497c  例によって例の如く、せっかく出て来ましたので、お昼は外食。サンファーレの北や東のエリアを探索して、「とんかつ銀座」へ。トンカツランチ(¥1,000)をチョイス。いつもながら、家ではなかなか食べさせてもらえないもの(苦笑)。前回(2021年2月 6日:20210206桑名の八風街道を行く(能部から志知へ)(予告編))、桑名駅にある伊勢ノ国ダイニングSicili(シチリ)で食べた「とろアジフライランチ(税込み¥980)」はボリュームがあり過ぎましたが、今日は、適量(微笑)。

Img_5291c_20210227155401  ALKOOによる歩数データは、17,545歩。実際に歩いたのは、我が家からスタート地点までと、桑名駅から帰宅までを含めて、9.2㎞でした。

Img_5272c_20210227155401  桑名駅で養老鉄道を降りたところから、元の駅舎があったあたりの写真を撮ってきました。すっかり様変わりしています。

Img_5211c_20210227155401  余談を少しだけ。深谷の町を歩いているとき、我々よりも高齢の男性から、「何かの調査をしているんですか?」と訪ねられました(微苦笑)。自作コースマップを持ち、リュックを背負って歩いていますが、そんな風に見えるのでしょうか。また、あるお寺では、「どちら様ですか?」と不審そうに誰何されました。これからは、「街道歩き」といったゼッケンでもつくってつけて歩いた方がよいか、という気もします(爆)。

 今日の勝手にハイキングは1回完結。詳細は、昨年の記事をご参照ください。

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2021年2月10日 (水)

20210206桑名の八風街道を行く(能部から志知へ)その3……揚げ雲雀の鳴き声を聞きながら連敬寺、景清屋敷跡、久米まちづくり拠点施設で「完」

210206happuu3  2月6日の「桑名の八風街道を行く(能部から志知へ)」のその3です。今回で完結予定。その2では、平群神社と平群沢ため池公園まで来ました。念願を一つ果たしたという次第。このあとは、八風街道に戻って、すぐに右折し、連敬寺へ。ここも、長島一向一揆に関わるお寺。さらに、もう一つ、訪ねたいとずっと思っていた景清屋敷跡へ。本来であれば、八風街道をもう少し西に行ったところにある来遊寺(真宗大谷派。長島一向一揆では一揆方に味方。元は、多度・法泉寺の末寺)にも行きたかったのですが、今回はパス。景清屋敷跡からは砂出川沿いを歩いて、久米まちづくり拠点施設へ。この前に平群神社前バス停がありますので、ここがこの日のゴール。

Img_4639c_20210206185401 Img_4642c_20210208164801  景清山連敬寺(かげきよざんれんぎょうじ)。真宗大谷派のお寺。このあたりの小字名が「鎮守堂」で、平景清(たいらのかげきよ)と深い関係があったと推測されています。連敬寺は、もとは多度・香取の法泉寺の末寺でした。長島一向一揆のとき、一揆方に味方し、信長に焼かれ、江戸時代初期に再興されています。

Img_4645c_20210208164801  本堂をよく見たら、入り口が障子戸になっていました。最近はサッシにガラス窓になっているところが多く、珍しい気がします。ここでは、このお寺の男の子が遊んでいたので、挨拶して見せてもらっていたら、「お父さんを呼んできましょうか?」と尋ねられました。丁寧な応対と、きちんとしたしつけを受けているようで、「さすがにお寺で育つと違うなぁ」と思った次第。

Img_4647c_20210208164801  連敬寺のすぐ北の麦畑の脇には「連敬寺跡」という石碑が建っていました。このあたりを歩いていると、あちこちで揚げ雲雀の鳴き声が聞こえてきました。揚げ雲雀は、ヒバリのオスによる「縄張り宣言」。ヒバリたち、すでに繁殖の準備に入っているようです。春がもうすぐそこに来ているのを感じます。

Img_4656c  連敬寺から北西へ300m弱、水田の畦道沿いに景清屋敷跡があります。景清は、平家物語にも登場する平七兵衛景清(藤原景清)で、平安時代に平資盛(たいらのすけもり・平清盛の孫)の名代として、志知に住み、代官として治政にあたったという伝説があるのです。景清は、源平の戦に臨み、勇名をとどろかし、「悪七兵衛景清」と称されました。ここは戦前までは森となっていたそうです。中世の城館跡で、山茶碗、大窯製品などが出土しています。また、周辺は鎌倉時代の陶器などが出土したということで、連敬寺遺跡になっています。ここ景清屋敷跡も、以前から訪ねたかったところです。

Img_4656c2  景清屋敷跡には、石碑が建てられています。碑には、「平家住みし 遺跡を濡らす 春の雨」という内田一舟の句が刻まれています(内田一舟について、ネット検索では詳細不明)。昭和53(1978)年3月の建立。さらに、下記のような漢詩がそれに続いています。この漢詩には、「訪平景清公遺跡/戌午弥生桑城」と添えられています。「戊午」は昭和53(1978)年の干支。「弥生」は3月でしょうから、昭和53(1978)年3月に「桑城」という方がここを尋ねて詠んだ漢詩ということでしょう。

聞説景公留志知
當年遺跡再興誰
恩讐如夢恨何限
八百星霜剰一碑

 ちなみに、源平合戦で、源氏は敗れ、東国に去りましたが、伊勢国は、平氏の影響が大きくありました。桑名にも、平氏は平安時代から勢力があったといいます。伊勢平氏ということばがあるくらいです。伊勢平氏とは、桓武(かんむ)平氏の諸流のうち平維衡(たいらのこれひら)の子孫をいいます。伊勢・伊賀地方を根拠地としていました。5代忠盛以後、中央政界に進出し、その子の清盛が武家としてはじめて政権を樹立しています。

Img_4672c_20210206185501  これで、来遊寺を残して、今回の目的地はコンプリート。時刻は12時25分を過ぎました。次の桑名駅前行きのバスは、平群神社前を12時26分発。乗り遅れ確定です(苦笑)。次は1時間後。やむなく、久米まちづくり拠点施設のところまで戻って、グラウンドゴルフをする広場のベンチで時間つぶしをしたり、ここにある石碑などを見て回ったりすることに。12時45分にまちづくり拠点施設に到着。

Img_4661c_20210208173401  久米まちづくり拠点施設には裏門の方から入ったのですが、そこに石造りの門柱があり、「久米村役場」と刻まれています。このあたりは、昭和30(1955)年に桑名市に合併するまでは、久米村でした。久米村は員弁郡に属していましたので、郡境を越えての合併。江戸時代にあった坂井村、赤尾村、友村、島田村、志知村、中上村が明治22(1889)年に合併して久米村となっています。古代に大和の久米から移住してきた人びとによって開発されたため、久米郷と呼ばれていました。 昭和23(1948)年の町村合併促進法の施行の際に、三重県庁では大長村、稲部村、神田村と合併する計画を立てたものの、村民の世論調査では桑名市への合併を希望するものが過半数を占めたといいます。これに対して中上地区は東員村(現東員町)への合併を希望し、合併問題は一時紛糾したのですが、中上地区は東員村と合併し、その他の地区は桑名市と合併したという歴史があります。

Img_4678c_20210208173401  忠魂碑。昭和12(1937)年4月に「帝国在郷軍人會 久米村分會」が建立しています。陸軍大将・杉山元(すぎやまはじめ)の書。杉山は、福岡県の生まれで、元帥、陸軍大将。昭和15(1940)年、参謀総長に就任し、太平洋戦争初期の陸軍の総指揮に当たった人物。終戦後、自殺しています。昭和12(1937)年4月は、盧溝橋事件の前ですから、日清、日露両戦争に従軍した方のための忠魂碑と考えられます。

Img_4518c_20210208180701  敷地の東端には、「藤ノ森平太郎碑」。またもや、あのミスを犯し、碑陰を見てきませんでした(苦笑)。というのも、この写真は、平群神社に行くのに、ここを通ったときに撮ったものなのです。ハイキングでは毎回、こういうミスを1回は必ず犯します。学習しません。他人様にエラそうにはいえません。ちなみに、ネット検索では情報なし。桑名市史、新桑名歴史散歩などにも出てこない人物でした。

Img_4694c_20210208173401  もう一つ。「久米小学校跡」と刻まれた記念碑。「佐々木宗一書」とあります。明治8(1875)年、連敬寺境内に設けられた志知学校が起源。明治20(1887)年に設立された教立尋常小学校が、補修科を併設した後、明治40(1907)年にここに新築落成移転しています。この碑は、昭和50(1975)年に創立百周年を記念して建立されたもの。

Img_4698c_20210208173401  向かって右には、「念いれて かへり見て亦 学ぶ秋」と刻まれています(たぶん。というのも、自分で解読した故、間違っているかも)。ただ、残念ながら、作者名が読めず(苦笑)。しばらく前にくずし字の入門書を読んだものの(小林正博: これなら読める!くずし字・古文書入門 (潮新書))、まだまだ勉強が足らず。左には、「百歳の学びの庭の思いでは 緑さやかに 松の下影」という一舟の和歌が刻まれています。

Img_4675c_20210206185501  休憩したり、石碑を見たりしているうちに、桑名駅前行きのバスの時刻が近づきました。平群神社前バス停発13時26分に乗車。この帰りのバスには桑名西高の生徒さんが多数乗車。途中から乗る人もけっこうありました。桑名駅前には13時58分着。¥420。

Img_4705c_20210206185501 Dsc_0063c  いつものように、桑名駅あたりで遅めの昼食を摂って帰ることにし、桑名駅自由通路にある伊勢ノ国ダイニングSicili(シチリ)へ。ここも前から一度入ってみたかった店なのです。「とろアジフライランチ(税込み¥980)」をチョイス。大きくて、部厚いアジフライを堪能。桑名の魚城の卵焼きが付いていました。前期高齢者には、食べ過ぎで(苦笑)、夕食の量を減らしたくらい。ちなみに、このお店も、最近は、ご多分に漏れず、テイクアウトも充実しています。

Img_4712c_20210206200301 Sisekimeguri  この日、現地で歩いたのは6.5㎞。自宅から桑名駅前のバスターミナルへの往復が2.3㎞。合計8.8㎞を歩いてきました。スマホのALKOOでは、歩数は16,477歩を達成。今回の「桑名の八風街道を行く」ハイキングも、2月1日の「勝手に養老鉄道ハイキング 桑名駅西歴史散歩」、いずれもネタ本は「くわな史跡めぐり」(桑名市文化課、平成28(2016)年3月刊行)。この本は、ミス多発で、新聞やテレビで取り上げられたこともあって、すぐに販売停止に至っていますから、稀覯本といえるかも知れません。詳細な正誤表がありますので、自分で訂正を書き込むのに、むしろ熟読できてよいと私などは思っています。冗談はともかく、市内の歴史散歩には格好のガイドブックです。

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2021年2月 9日 (火)

20210206桑名の八風街道を行く(能部から志知へ)その2……善教寺、櫛田神社、野村増右衛門の墓から平群神社へ

210206happuu2  2月6日に行ってきた「桑名の八風街道を行く(能部から志知へ)」のその2です。その1では、ゼニス羽田の敷地内にある島田城跡を眺めたところまで。その後、ゼニス羽田の敷地に沿って、善教寺、櫛田神社、野村増右衛門の墓へと行きます。

Img_4428c_20210206185301 Img_4442c_20210207175601  遍照山善教寺へ。真宗本願寺派のお寺。しかし、もとは、弘仁3年(812)年、空海が開基した真言宗の寺でした。応仁元(1467)年、僧隆教のとき、蓮如上人の巡教により真宗に改宗したといわれます。長島の願証寺の末寺でしたが、正徳5(1715)年、願証寺が高田派に改修したときにそれにしたがわず、本願寺派に留まっています。ご本尊(阿弥陀如来像)は、この地方出身の野村増右衛門吉正の持念仏(弘法大師作という)であるとされます。

Img_4445c_20210207183801Img_4588c_20210207184101  善教寺の南、「タケル遊歩道」の看板が立っている階段を登ったところに櫛田神社があります。あとで平群神社に行くのですが、このあたりには日本武尊が来られたという伝承があり、このように「タケル遊歩道」が整備されているのです。

Img_4450c_20210206185401  こちらが櫛田神社の一の鳥居。向かって右の柱には「神明昭々」とあります。「神明」は天照大神のことかと思います。「昭々」は、「明らかに、心に明白である」といった意味のようです。天照大神の御神徳を讃えることばでしょうか。向かって左の柱には「天壌無窮(てんじょうむきゅう)」とあります。「天地とともに永遠に続くこと(デジタル大辞泉)」という意味。

Img_4454c_20210207185301  鳥居をくぐってさらに登っていきます。創立年月は、不詳。昔は、現在地の南方の丘の下に鎮座して、蔵王権現(修験道における最高の礼拝対象で、金峰山寺(きんぷせんじ:奈良県吉野山にある金峰山修験本宗の総本山)蔵王堂の本尊。役(えん)の行者(修験道の祖)が金峰山で衆生救済のために祈請して感得したと伝える)、天白大明神Img_4464c_20210207185801 (諸説あるものの、伊勢土着の麻積(おみ)氏の祖神天白羽神(あめのしらはのかみ、長白羽神の別名:伊勢麻績の祖。天照大神が天の岩屋にこもったとき青和幣(あおにきて:麻製の幣(ぬさ))をつくった)に起源を求める説が有力か)として他村よりの崇敬を受けていた記録があるといいます。実際、拝殿に向かって左手(南側)に、右の写真のように、「延喜式内櫛田神社遺構碑」が建っていました。島田城の西方の出城の役目を果たしていたのではないかという推測もあります。「延喜式」の中に朝明郡に櫛田神社と記載されていますので、古くは朝明郡に鎮座していたと考えられます。明治42(1909)年12月、平群神社に合祀された後、昭和27(1952)年12月に分祀して現在に至っています。

Img_4457c_20210206185401  主祭神は、櫛名田比売命(くしなだひめのみこと:八岐大蛇のいけにえとなるところを、素戔嗚尊によって助けられ、その妻となった)。相殿神は、奇日方命(くしびがたのみこと:事代主神の子。妹の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)が神武天皇の皇后になったことにより、可美真手命(うましまでのみこと)とともに申食国政大夫(けくにのまつりごともうすうなきみ:貢進国の高官)となったという)、須佐之男命保食神(うけもちのかみ:食物の神)、大山津見命(おおやまつみのみこと:山の神)。本殿前の燈籠は野村増右衛門が寄進したものといわれ、燈籠竿石には「寶永弐乙酉年十一月吉日」と刻まれているそうですが、これを知ったのは、この記事を書くプロセスにて。後の祭りというのはこういうこと(残念)。

Img_4468c_20210207203401  櫛田神社の境内には、稲荷社がありました。しかし、社名を示すものはありません。拝殿の背後に石碑がありましたが、それには「定礎」とあり、寄贈者の名前が彫られていました。

Img_4482c_20210206185401  いったん善教寺のところまで戻って、櫛田神社下の道を行くと、島田自治会が管理する島田共同墓地に行き当たります。ここに、野村増右衛門(正保3(1646)~宝永7(1710)年)の墓があります。増右衛門は、ここ島田の出身。郡代の手Img_4475c_20210206185401 代(8石2人扶持)という低い身分から藩政を左右する地位にまで昇ったものの(元禄13(1700)年には物頭(ものがしら)となり、分限帳によると、宝永2(1705)年の時点で禄高750石で郡代を勤めています)、妬みから宝永7(1710)年に処刑されました。墓は最勝寺にあったものが、善教寺に移された後、さらに、ここに移っています。野村増右衛門の「事件」は、桑名藩にとっても大きな影響を与え、藩主松平定重は越後高田(新潟県上越市)に国替えを命ぜられています。ちなみに、先日訪ねた岸西山遺跡にある大正寺に、増右衛門の供養塔があります(2021年1月15日:大山田川あたりでバードウォッチングとプチ歴史散歩……大正寺と尾野神社について付記、修正しました【1/18】)。

Img_4484c_20210207203401  野村増右衛門の墓にお参りしましたので、八風街道に戻りますが、その途中、善教寺の北の四つ辻に大日堂。これは、野村増右衛門の持念仏と称される大日如来像を安置している小さなお堂です。もとは善教寺南の丘陵上にあったものを集落の中を通る往還脇に新築し、移転しています。野村増右衛門が善教寺に寄進したという、三具足(みつぐそく:香炉、ロウソク立て、花瓶)を置く前卓(まえじゃく:燭台・香炉・花瓶を置くための机で、須弥壇の前におく)が保存されているそうです。覗いてみたら、厨子のようなものが見えました。

Img_4492c_20210208044301 Img_4504c  八風街道に戻り、島田のバス停のところから西に向かいます。このあたりには、日露戦争などに従軍して亡くなられた方の碑や、墓がいくつか建っています。左の碑は、日露戦争に従軍なさった方のもので、母と次男の名義で立てられていました。右は、太平洋戦争に従軍し、戦死なさった方のものでした。今も、花が飾られ、世話が行われています。これらの他にも何ヶ所かでこういう碑、墓を見ました。

Img_4512c  久米小学校前の信号交差点まで来ました。信号を越えると、右手(北側)に久米まちづくりImg_4521c_20210208044801 拠点施設が、左手(南側)に久米小学校があります。右の写真が、久米まちづくり拠点施設。今日はここがゴールに設定してありますが、この先にある平群神社などを回ってから。

Img_4524c_20210206185401  まちづくり拠点施設を過ぎるとすぐに、左手(南側)に平群(へぐり)神社の一の鳥居があImg_4532c ります。予告編にも書きましたが、ここはずっと以前から訪ねてみたいと思っていたところです。そう思った訳の一つは、日本武尊の伝説があることです。日本武尊は、東征の帰り伊吹山で病となり、多度を通り、桑名の志知村・平群山にさしかかった時、同じ名前の故郷の平群を想い、 歌を詠み、また、神社の裏の平群池でヤマトタケルが足を洗ったといいます。「足を洗った」といえば、桑名・新屋敷にも「天武天皇御足洗井」があります(2020年12月9日:円通寺の大イチョウを見てきました)。もう一つは、平群池に伝説というか昔話があり、平群池を見てみたいということです。「片目の魚」、「久左衛門と白鷺」という話し(こちら)。

Img_4535c_20210208050201 Img_4539c_20210208051201  平群神社の背後の平群山(右上の写真を参照)は、古代神奈備(かんなび:上代、神霊の鎮座すると信じられた山や森)の遺跡といわれるだけあって、神社には神々しい雰囲気が感じられます。延喜式内社。平安時代前期、第54代仁明天皇(在位:833~850年)から第56代清和天皇(在位:858~876年)の間に創立したと伝わっています。木菟宿祢(ずくのすくね:大和平野に居住する臣姓の豪族。伝承城の人物)の後裔である平群氏族は、味酒臣(うまざけのおみ)の姓を賜り、大和国から伊勢国のこの地に移住、祖神を祀ったものだといいますので、志知の氏神様となります。

Img_4543c_20210206185401 Img_4564c_20210208055601  主祭神は、木菟宿禰と、天照大御神。相殿神は、武内宿禰命(たけうちのすくね:古代,大和朝廷初期に活躍したといわれる伝承上の人物)、大己貴命(おおなむちのみこと:「日本書紀」が設定した国の神の首魁(しゅかい)。「古事記」では大国主神(おおくにぬしのかみ)の一名とされる)、須佐之男命(すさのおのみこと)、大山津見命(おおやまつみのみこと:山の神)、倭建命

Img_4571c_20210208062201 Img_4561c_20210208062401  拝殿の北側には、慰霊社。戦争などの殉難者を祀っていると思われます。右の写真は、拝殿前から境内を見下ろした写真。木々の茂り具合、木漏れ日の感じなど、いかにも神様がいらっしゃるという雰囲気を醸し出しています。

Img_4623c_20210206185401  こちらは、日本武尊の歌碑。「いのちのまたけむ人はたたみこもへくりの山のくまかしか葉をうすにさせその子」。氏子の皆さんが建立されたものだそうです。意味は、概略次の通り:

 

命が無事だつた人は、大和の國の平群の山のりつぱなカシの木の葉を頭插にお插しなさい。お前たち。

Img_4548c_20210208065101Img_4552c  また、境内には、狛犬の台座2基に俳句。向かって左の狛犬には、「いろいろの草を沈めて秋の水」という小林雨月の句。小林雨月は、桑名別院本統寺にある芭蕉の「冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす」句碑を建立した人物。

Img_4555c_20210208065401  向かって右の狛犬の台座にも、同様に、小林雨月の句が刻まれています。こちらには、「菊の世や多度も鈴鹿も一かすみ」とあります。いずれも、昭和8(1933)年春の建立。

Img_4602c_20210208071001  平群神社の南西に平群池があります。ここは、水環境整備事業の一環として「平群沢ため池Img_4617c_20210208071001 公園」として整備されています。上述のように、倭建命の足洗池と伝わっています。池の周囲には遊歩道が整備されていて、散策にも好適。池には、コイなど魚もたくさん泳いでいるのが見えました。が、いろいろ伝説がありますから、魚を釣ったり、撮ったりするのは憚られます。

Img_4599c Img_4620c  池の北側には、平郷水神が祀られています。また、池の東側にある芝生広場の一角には、日本武尊の銅像が鎮座。

 その2は、ここまで。平群神社あたりで、スタートから4㎞を歩いてきました。神社を出るときには12時を過ぎていましたが、目的としたところは残り2箇所ですので、このまま歩き続けます。その話は、その3にて。

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2021年2月 8日 (月)

20210206桑名の八風街道を行く(能部から志知へ)その1……能部神社、平田御薗神明社、浄光寺、島田城跡

Img_4310c_20210206185301  2月6日に行ってきた「桑名の八風街道を行く(能部から志知へ)」への本編、その1です。昨年12月19日に出かけた「2020年12月19日:20201219桑名の八風街道を行く(東金井から能部へ)」の続きで、桑名の八風街道を歩いてきました。もともと先週の土曜日に行こうかと計画していたのですが、その日は午前中は雪模様という予報で、この日に延期。ポカポカ陽気でした。風も弱く、最高気温も14.2℃。ダウンジャケットで歩いていると汗をかくくらいでした。前回も書きましたが、本来の八風街道は、四日市市富田一色を起点として東海道と交差し、大矢知、平津を経て菰野町田光で巡見道と合流、八風峠を越える道です。桑名では、町屋川右岸の街道を八風街道を呼びます(「くわな史跡めぐり」による)。これには、町屋川右岸の道が田光付近で四日市からの八風道と交わるからとも、桑名の道が昔は八風道と呼ばれていたからと、諸説があります。桑名の八風街道は、桑名市東金井から志知まで約7㎞あります。前回は、東金井から能部(のんべ)までを歩き、この日は、能部から志知(しち)までです。

210206happuu0  こちらが歩いたコース全体のルートマップ。桑名西高校行きの八風バスで能部まで行き、能部神社へ。本来の八風道は、能部バス停から西へ行き、赤尾(あこお)交差点へと進みます。しかし、能部神社からそのまま西に進み、正和台の団地を通り抜け、多少ウロウロして、平田御薗神明社、浄興寺を回って、八風道に戻りました。ゼニス羽田(旧羽田ヒューム管)のところで島田城跡を眺め、善教寺、櫛田神社、野村増右衛門の墓(島田共同墓地内)。久米小学校前から平群(へぐり)神社、平群沢ため池公園、連敬寺、景清屋敷跡まで足を伸ばして、ゴールの久米まちづくり拠点施設へ。ここにある平群神社前のバス停から八風バスで、桑名駅前まで戻って来ました。現地で歩いたのは、6.5㎞ほど。

Img_4320c_20210206185301   桑名駅前バスターミナルの8番乗り場から八風バス・桑名西高校行きが出ます。乗車したのは、9時25分発。この1本前は7時Img_4325c_20210206185301 55分ですので、いかにも早い。土曜日で、バスは空いています。ここから、前回ゴールとした能部バス停までは20分、¥340。今日のハイキングは、この能部バス停から、9時45分にスタート。

210206happuu1  こちらは、詳しいルートマップその1。能部バス停から南に少し入って、能部神社。そこから西へ向かい、正和台の団地を通過。県道26号線をそのまま横断できると思ったら、勘違い。大回りして、平田御薗神明社(マップでは、神明社)と浄光寺へ。その後、八風街道に戻ります。

Img_4328c_20210206185301  まずは、八風道を少し戻って南に入り、能部神社へ。創立は不詳。旧・能部村には、明治12(1879)年当時、春日神社、山神社、八幡宮社、白山神社が鎮座していたのですが、明治40(1907)年、字南貝戸の八幡宮境内(現在地)に移し、「能部神社」と単称しています。明治41(1908)年には桑部にある長谷(ながたに)神社(ここは、前回(12月19日)に訪ねています)に合祀となりました。終戦後、氏子の総意により分祀されることになり、ここの旧社地に分祀、鎮座されました。

Img_4331c_20210206185301  主祭神は、建御雷之男神(タケミカヅチノカミ:武甕槌神とも書きます。出雲の国譲り神話で、高天原から経津主(ふつぬし)神とともに派遣され、大国主神に国譲りを交渉し、成立させた神。雷神・剣神・武神とされ、鹿島神宮、春日大社に祀られImg_4334c_20210207071201 ます)。相殿神は、大日孁貴命(おおひるめのむちのみこと:天照大神の別称)、素盞嗚尊(すさのおのみこと:天照大神の弟。多くの乱暴を行ったため、天照大神が怒って天の岩屋にこもり、高天原から追放された。出雲に降り、八岐大蛇を退治し、奇稲田姫を救い、大蛇の尾から得た天叢雲剣を天照大神に献じた)、品陀和気命(ほむたわけのみこと:応神天皇)、大山祇神(おおやまつみのかみ:山をつかさどる神)、菊理姫命(くくりひめのみこと:黄泉国からにげる伊奘諾尊黄泉平坂(よもつひらさか:現世と黄泉(よみ)の国との境にあるとされた坂)で伊奘冉尊と争ったとき、二神の主張を聞きいれ、助言した女神)。お社は小ぶりで、東名阪道の下にひっそりと建っているという印象ですが、もちろん高速道路の方があとからできたもので、神様には迷惑かも知れません。

Img_4343c_20210206185301 Img_4350c_20210207150301  来た道を戻って、八風街道へ行くところですが、桑部神社の前の道をそのまま西に行けば良さそうだと思い込み(結局、これは勘違い)、県道26号線のところで若干ウロウロし(歩きに来たのですし、時間はたっぷりありますから、まぁこれも良し)、赤尾台の団地から平田御薗神明社へ。神社の由緒書きによれば、南北朝時代の中頃にはすでに、神明社あるいは平田神社と呼ばれていました。このあたりは、伊勢神宮の御料地で、伊勢の両神宮へ米を奉納していたといいます。神社は、幾多の変遷を経て、中世の赤尾氏城跡にありました。なお、この「赤尾氏城跡」は、桑名市史本編(p.84)には「赤尾堡 赤尾 赤尾某」とのみ言及があります。桑名市史補遺p.566には、「赤尾城址 久米地区赤尾の西山にあり、赤尾氏が居城したと伝え、先年この地から古刀を掘り出したという」とあります。桑名市の遺跡包蔵地検索サイトには載っていません。大正時代に入り、村の中心地にお社をという赤尾村民の願いで、赤尾東山に社を造営(現在の赤尾台東公園の西側あたり:マップでは「ひがし公園」と思われます)。その後、昭和57(1982)~平成6(1994)年にわたる赤尾台団地の造成によって、現地に遷っています。明治40(1907)年4月、八幡社(品陀和気命)、天満社(菅原道真公)、八坂社(須佐之男命)、日枝神社(大山咋命)、山神社(大山祇命)の5社を久米神社(今の多奈閇(たなべ)神社)(東員町大字中上)へ合祀、昭和27(1952)年12月、当社に分祀されています。

Img_4355c_20210207151501 Img_4373c  主祭神は、天照皇大神。相殿神は、品田和気命(ほむたわけのみこと:応神天皇)、須佐之男命(すさのおのみこと:天照大神の弟。多くの乱暴を行ったため、天照大神が怒って天の岩屋にこもり、高天原から追放された。出雲に降り、八岐大蛇を退治し、奇稲田姫(くしなだひめ:素戔嗚尊に助けられ、その妻となった)を救い、大蛇の尾から得た天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ:のちに、熱田神宮に祭られた。別称、草薙剣)を天照大神に献じた、菅原道真大山咋命(おおやまくいのかみ:大津の日吉神社、京都の松尾神社などの祭神)、大山祇命(山をつかさどる神)。

Img_4376c_20210206185301 Img_4390c_20210207163801  平田御薗神明社のすぐ隣(北西)に西南山浄光寺。真宗本願寺派のお寺。創建は、不明ですが、元は真言宗でした。明応5(1496)年、本願寺第8代・蓮如上人のときに、僧・正西(しょうさい)が中興し、真宗に改宗。元亀4(天正元年、15573)年、長島一向一揆の兵火に遭って中絶したものの、1750~1800年頃に万牛(まんぎゅう)が再興。当時は、員弁郡山田村字野田(寺号標による。現在の東員町に山田という地名があります。東員町役場の東で、員弁川と藤川に囲まれたところ。ここから北西へ直線距離で4㎞ほど)にあったのですが、度重なる水害に遭い、文化2(1805)年、水害を避けて、檀家ともどもここに移ってきました。「檀家ともども」というのがすごいと思います。当時の寺と檀家の結びつきの強さを伺わせます。

Img_4405c_20210206185301 Img_4412c_20210207165701  浄光寺からは北に向かい、ようやく八風街道に戻りました。浄光寺から八風街道に出たところから見た北の方角の様子が、左の写真。正面には大山田団地、少し左には多度の山並みが見えます。北西の方を見ると、右の写真。藤原岳、竜ヶ岳などが見えます。右の写真の道が八風街道。これから向かう先。

210206happuu2  詳しいルートマップはその2になります。赤尾西交差点を過ぎ、ゼニス羽田(旧羽田ヒューム管)の入り口あたりでスタートから2㎞。時刻は、10時40分頃。このゼニス羽田の敷地内に島田城跡があります。その先で八風街道からはそれて、善教寺、櫛田神社、さらには島田共同墓地内にある野村増右衛門の墓へと進んでいきます。

Img_4414c_20210206185301 Img_4421c_20210207172101  ゼニス羽田(旧・羽田ヒューム管)の工場の敷地内に島田城跡が見えます。写真で前方に見える小高い丘がそれ。戦国時代に島田兵庫助が居城したといいます。永禄11(1568)年、織田信長の伊勢侵攻で滅ぼされています。中世の城館跡で、郭、堀、土塁があるといいますが、残念ながら、勝手には入れません。八風街道沿いから見てみたのですが(右の写真)、竹が鬱蒼と茂っており、中の様子はうかがえません。

 ここでキリが良く、また、長くなるといけませんので、その1はここまでとします。その2は、善教寺、櫛田神社から。

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2021年2月 6日 (土)

20210206桑名の八風街道を行く(能部から志知へ)(予告編)

Img_4310c_20210206185301  もともと先週の土曜日に行こうかと計画していたのですが、その日は午前中は雪模様という予報で、今日に延期。ポカポカ陽気でした。風も弱く、最高気温も14.2℃。ダウンジャケットで歩いていると汗をかくくらいでした。昨年12月19日に出かけた「2020年12月19日:20201219桑名の八風街道を行く(東金井から能部へ)」の続きで、桑名の八風街道を歩いてきました。前回も書きましたが、本来の八風街道は、四日市市富田一色を起点として東海道と交差し、大矢知、平津を経て菰野町田光で巡見道と合流、八風峠を越える道です。桑名では、町屋川右岸の街道を八風街道を呼びます(くわな史跡めぐり)。これは、町屋川右岸の道が田光付近で四日市からの八風道と交わるからとも、桑名の道が昔は八風道と呼ばれていたからと、諸説があります。桑名の八風街道は、桑名市東金井から志知まで約7㎞あります。前回は、東金井から能部までを歩きました。今日は、能部から志知までの予告編。

210206happuu0  こちらが今日歩いたルートマップ。桑名西高校行きの八風バスで能部まで行き、能部神社へ。本来の八風道は、能部バス停から西へ行き、赤尾交差点と進みます。しかし、能部神社からそのまま正和台の団地を通り抜け、多少ウロウロして、平田御薗神明社、浄興寺を回って、八風道に戻り、ゼニス羽田のところで島田城跡を眺め、善教寺、櫛田神社、野村増右衛門の墓。久米小学校前から平群神社、平群沢溜池公園、連敬寺、景清屋敷跡まで足を伸ばして、ゴールの久米まちづくり拠点施設へ。ここにある平群神社前のバス停から八風バスで、桑名駅前まで戻って来ました。現地で歩いたのは、6.5㎞ほど。

Img_4320c_20210206185301 Img_4325c_20210206185301  桑名駅前のバスターミナル8番乗り場から八風バス・桑名西高校行きが出ます。乗車したのは、9時25分発。この1本前は7時55分ですので、いかにも早い。ここから、前回ゴールとした能部(のんべ)バス停までは20分、¥340。9時45分に今日のハイキングはスタート。

Img_4328c_20210206185301Img_4331c_20210206185301  能部神社。創立は不詳。明治21(1888)年、春日神社が鎮座していたのですが、明治40(1907)年、八幡宮境内に移し、「能部神社」と単称。明治41(1908)年には桑部にある長谷神社に合祀となりました。終戦後、氏子の総意により分祀されることになり、ここの旧社地に分祀、鎮座されました。主祭神は、建御雷之男神、相殿神は、大日孁貴命、素盞嗚尊、品陀和気命、大山祇神、菊理姫命。このあと、八風道に戻らなくても、正和台を抜けて行けそうでしたので、そのまま西へ。

Img_4343c_20210206185301 Img_4373c  赤尾台(あこおだい)まで来て、まずは、平田御薗神明社。創立年月は不詳ですが、由緒書きによれば、南北朝時代にはあったといいます。御薗神明社の社名の如く、赤尾は伊勢神宮の御料として、米を奉納していたところです。社地は、いろいろと変遷はあったものの、中世の赤尾氏城跡にあったといいます。大正時代には、赤尾東山に移り、さらに昭和から平成の時代、住宅地造成などにより、ここに移転したといいます。主祭神は、天照皇大神。相殿神は、品田和気命、須佐之男命、菅原道真、大山咋命、大山祇命。

Img_4376c_20210206185301  平田御薗神明社のすぐ隣に西南山浄光寺。真宗本願寺派のお寺。元は真言宗でした。名桜5(1496)年、僧・正西(しょうさい)が中興し、真宗に改宗。長島一向一揆の兵火に遭って中絶したものの、1750~1800年頃に再興。文化2(1805)年、員弁郡野田村から水害を避けて、檀家ともどもここに移ってきました。「檀家ともども」というのがすごいと思います。

Img_4414c_20210206185301  八風道に戻って西へ、スタートから2㎞ほどでゼニス羽田(旧・羽田ヒューム管)の工場前へ。この敷地内に島田城跡があります。写真で前方に見える小高い丘がそれ。戦国時代に島田兵庫助が居城したといいます。永禄11(1568)年の信長の伊勢侵攻で滅ぼされています。中世の城館跡で、郭、堀、土塁があるといいますが、ゼニス羽田の敷地内で、残念ながら、勝手には入れません。

Img_4428c_20210206185301  島田城跡を過ぎたところで、八風道から離れ、遍照山善教寺へ。もとは、弘仁3年(812)年、空海が開基した真言宗の寺でしたが、応仁元(1467)年、僧隆教のとき、蓮如上人の巡教により真宗に改宗したといわれます。真宗本願寺派のお寺。長島の願証寺の末寺でしたが、正徳5(1715)年、願証寺が高田派に改修したときにそれにしたがわず、本願寺派に留まっています。ご本尊(阿弥陀如来像)は、この地方出身の野村増右衛門吉正の持念仏(弘法大師作という)であるとされます。

Img_4450c_20210206185401  善教寺から少し登ったところに、櫛田神社。創立年月は不詳。昔は、現在地の南方の丘の下に鎮Img_4457c_20210206185401 座し、蔵王権現、天白天明神であったといいます。寛永12(1635)年の郷村帳には、現在地として明記されているそうです。明治42(1909)年、平群神社に合祀されたものの、昭和27(1952)年に分祀して現在に至っています。

Img_4482c_20210206185401  櫛田神社からさらに南に行った島田地区の共同墓地に、野村増右衛門(正保3(1646)~宝永7(1710)年)の墓があります。増右衛門は、こImg_4475c_20210206185401 こ島田の出身。郡代の手代(8石2人扶持)という低い身分から藩政を左右する地位にまで昇ったものの(元禄13(1700)年には物頭(ものがしら)となり、分限帳によると、宝永2(1705)年の時点で禄高750石で郡代を勤めています)、妬みから宝永7(1710)年に処刑されました。墓は最勝寺にあったものが、善教寺に移された後、さらに、ここに移っています。野村増右衛門の「事件」は、桑名藩にとっても大きな影響を与え、藩主松平定重は越後高田(新潟県上越市)に国替えを命ぜられています。ちなみに、先日訪ねた岸西山遺跡にある大正寺に、増右衛門の供養塔があります(2021年1月15日:大山田川あたりでバードウォッチングとプチ歴史散歩……大正寺と尾野神社について付記、修正しました【1/18】)。

Img_4524c_20210206185401Img_4543c_20210206185401  八風道に戻って、さらに西へ。久米小学校や、久米まちづくり拠点施設を過ぎると、街道沿いに平群(へぐり)神社の一の鳥居が建っています。ここは、ずいぶん前から一度来てみたかった神社で、念願が叶ったという次第。延喜式内社で、志知の氏神様。主祭神は、木菟宿禰(ずくすくね)と、天照大御神。相殿神は、武内宿禰命、大己貴命、須佐之男命、大山津見命、倭建命。木菟宿禰は、平群氏族の祖神です。また、このあたりは、また、倭建命(日本武尊)御駐足の跡と伝えられています。ここは、いかにも神様がいらっしゃるという雰囲気の神社でした。神社の背後の平群山は、古代神奈備(かんなび:上代、神霊の鎮座すると信じられた山や森)の遺跡といわれます。

Img_4602c_20210206185401  Img_4623c_20210206185401境内には、氏子などによって建てられた日本武尊の御歌「いのちのまたけむ人はたたみこもへくりの山のくまかしか葉をうすにさせその子」を刻んだ石碑があります。また、境内奥には倭建命の足洗池と伝えられる池があり、「平群池の白サギ」などの伝説も残っています。池の周りは、平群沢溜池公園として整備されています。この平群池も、一度は来たいと思っていたところです。

Img_4639c_20210206185401  平群神社の近くには、平景清(たいらのかげきよ)伝説に関わる遺跡があり、そちらにも行ってみたいところですので、足を延ばしました。そこへ行く途中に景清山連敬寺(かげきよざんれんぎょうじ)。真宗大谷派のお寺。このあたりの小字名が「鎮守堂」で、平景清と深い関係があったと推測されています。連敬寺は、もとは多度・香取の法泉寺の末寺でした。長島一向一揆のとき、一揆方に味方し、信長に焼かれ、江戸時代初期に再興されています。近くの畑には「連敬寺跡」という石碑が建っていました。

Img_4656c  連敬寺から北西へ少し行くと、田畑の中に「景清屋敷跡」があります。景清は、平家物語にも登場する侍大将。代官として桑名に住んだという伝説があるのです。ここは戦前までは森となっていて、周辺は鎌倉時代の陶器などが出土したということで、連敬寺遺跡になっています。中世の城館跡で、山茶碗、大窯製品などが出土。景清屋敷跡を見終えた時点で、12時25分を過ぎました。帰りのバスは、久米まちづくり拠点施設のところにある平群神社前を12時26分発。乗り遅れです(苦笑)。次は1時間後。

Img_4672c_20210206185501  やむなく、久米まちづくり拠点施設のところまで戻って、グラウンドゴルフをする広場のベンチで時間つぶし。12時45分にまちづくり拠点施設に到着。13時26分Img_4675c_20210206185501 発の桑名駅前行きを待って、それに乗車。桑名駅前には13時58分。¥420。

Img_4705c_20210206185501Dsc_0063c  桑名駅にある伊勢ノ国ダイニングSicili(シチリ)で昼ご飯。ここも前から一度入ってみたかった店なのです。「とろアジフライランチ(税込み¥980)」をチョイス。大きくて、部厚いアジフライを堪能。桑名の魚城の卵焼きが付いていました。前期高齢者には、食べ過ぎで(苦笑)、夕食の量を減らしたくらい。

Img_4712c_20210206200301  その後、徒歩にて15時に帰宅。今日の歩数は、ALKOOでは、16,477歩でした。今日は、取り敢えず、行ってきたところの紹介としました。本編は、明日以降書きます。

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20210201勝手に養老鉄道ハイキング「桑名駅西歴史散歩」(その4)……尾野神社を経て、やっと養老鉄道播磨駅にゴールで「完」

210201ekinishi1 2月1日の「勝手に養老鉄道ハイキング『桑名駅西歴史散歩』」の本編です。その3で終わるつもりが長くなり、ついにその4。尾野神社を経て、養老鉄道播磨駅にゴールで、今回で「完」。詳細なルートマップは、その1に戻りました。スタートしてすぐに歩いていたところから少し東のあたりです。

Img_2949c_20210201192801  市立大成小学校の下を通って行きます。「下を通る」というのは、大成小学校は、小高い丘の上にあるからでImg_2952c す。その大成小学校のすぐ北に尾野神社。尾野神社もやや小高い丘にありますが、ここは尾野山城跡でもあります。中世の城館跡で、遺構としては、郭が残っています。尾野神社もこれまでに何回か訪ねています(2006年1月28日:例によって例のごとくなど)。鳥居脇には、「縣社 式内尾野神社 式内立坂神社」という社号標が建っています。

Img_2961c_20210201192801  鳥居をくぐってすぐ右に進むと拝殿があります。お社が2つ連なって建っていますが、向かって左が尾野神社、右の少し小さい方が立坂神社です。尾野神社は平安時代からこの地にあったようです。先日訪れた岸西山遺跡にあった尾野神社北之宮にもともとあったのが、こちらに移ったと考えられます(2021年1月15日:大山田川あたりでバードウォッチングとプチ歴史散歩……大正寺と尾野神社について付記、修正しました【1/18】)。

Img_2981c_20210204074401  こちら、尾野神社。主祭神は、天押帯日子命(あめのおしたるひこのみこと:孝昭天皇の皇子。春日、大宅(おおやけ)、栗田、小野、柿本氏ら中央豪族の祖)。相殿神は、天照大御神春日神(かすがのかみ:春日大社の祭神である以下の四柱の神の総称:武甕槌命(たけみかづちのかみ:経津主神とともに大国主神と談判し、国譲りをさせた神。鹿島神宮の祭神)、経津主命(ふつぬしのかみ:刀剣の神格化された神。武甕槌命とともに国譲りをさせた神)、天児屋根命(あまのこやねのみこと:天照大神が天の岩屋に隠れたとき、祝詞を奏した神)、比売神(ひめがみ:特定の神の名前ではなく、神社の主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神を指すもの))、船戸神(ふなどのかみ:外部から邪霊が侵入するのを防ぐ神)、八幡大神(はちまんおおかみ:応神天皇、武家の守護神)、宇賀神(うがじん:古来、人間に福徳をもたらすと考えられている福の神たちの総称あるいは宇迦御魂(うかのみたま:食物、ことに稲の神霊)の異称)、山神(さんじん:山に鎮座する神。やまのかみ)となっています。神社検索(三重)によれば、創立は不詳。桑名市史には 「(前略)昔は入江村、田宮村、船戸村の三ヶ村の総社であったが、中古、三ケ村が合併して東方村と称し、入江村は尾野入江の辺に居住して尾野神社を祀り、(中略)。一説には尾野山の北の鼻山に鎮座してあったのを、後に船着大明神の社へ奉還して相殿としたという」とあります。尾野神社も、織田信長の伊勢侵攻の際に焼かれ、古文書などは失われたといいます。

Img_2984c_20210204074401  立坂神社です。立坂神社は、もともと市内西方にあったのですが(その2で書きましたように、市立桑陽保育所のところに「立坂神社旧蹟」の石碑があります)、明治41(1908)年、ここ尾野神社に合祀されました。立坂神社は、別名、「草鞋社」といいます。海善寺の僧が修行に出る時、道中安全を祈願して草鞋を供えたといいますし、また、足止め信仰があったため、家出人があった場合には、ここに草鞋を供えて、家出人の足を止めることを祈願したともいいます。市内新矢田にも立坂神社がありますが、そちらは、もともとは矢田八幡社と称していました。桑名藩主本多忠勝の宗敬深く、以後代々の藩主の保護を受けています。明治以後は、この矢田八幡社が、式内立坂神社と称しています。

Img_2987c  これは、ご神木。推定樹齢300年という梛(なぎ)の木がありました。相当の大木です。

Img_2990c_20210204085601 Img_2964c  境内社としては、康髙稲荷大神と祖霊社があります。康髙稲荷大神についての詳細は不明。祖霊社は、昭和55(1980)年7月に創建された新しいものです。由緒書きによれば、尾野神社が鎮座して以来、神社を崇敬守護した氏子すべての祖先の霊を永遠に祀るとともに、数代に渡って、昭和初期に至るまで神主を務めた鬼島家の霊、および戦火に倒れた氏子出身兵士の霊などを祀ったとありました。

Img_3002c_20210204090301  そして、尾野神社と云えば、これが外せません。「船繋ぎ(ふなつなぎ)の松」です。あるいは「船着きのImg_3016c_20210201192801 松」とも呼ばれます。尾野神社は、1,000数百年前には、船着大明神と呼ばれていました。当時、この地は町屋川と大山田川が合流するところで(本多忠勝による慶長の町割によって、両河川は現在のところを流れるよう改修されています)、海陸交通の接点として船の出入りがあったといいます。

Img_3025c_20210201211301  さて、この記事の初めの方にも書きましたが、ここは、尾野山城跡でもあります。写真は、一の鳥居をくぐったあたりの参道から西の様子。広場の向こうに登り口がありました。尾野神社の別当・尾野山正斎坊が築城したのですが、永録天正のころ、織田信長によって滅亡したとも、また永禄中には建部(渡部とも)掃部下介が居城したとも伝わっています。登ってみようとは思ったのですが、登っていくところがあまり手入れされていませんでしたので、やめておきました。これで、この日予定したところはすべて回り終えました。時刻は、11時15分。6㎞近くを歩いてきました。養老鉄道播磨駅に向かいます。

Img_3035c  が、その途中で、これまた以前から気になっていたところがありましたので、ちょっとだけ確認。マップで、尾野山城跡と岸Img_3039c_20210204091801 西山遺跡とある中間あたりに、「最上稲荷山大祥寺」というところがあるのです。一時期、この「大祥寺」と、岸西山遺跡にある「大正寺」とを混同していたこともありました(苦笑)。アヤシげなお寺というか、お稲荷さんというからには神社か? と不思議に思っていたのです。

Img_3042c_20210204091801  こちらが本堂のようで、そこにある看板をよく見ると、「最上稲荷山奥秘修法祈祷桑名教会」と書いてありました。「最上稲荷」を調べたら、岡山市にある「最上稲荷山妙教寺 (さいじょういなりさん みょうきょうじ)」という日蓮宗に属するお寺でした。そのWebサイトには、「伏見・豊川と並ぶ日本三大稲荷の一つ」とあり、1,200年以上の歴史を有するそうでした。今年の初詣の案内も貼ってありましたので、活動はしているようです。これで、ここは何かという疑問は解けましたので、安心してゴールへ。

Img_3059c  ゴールは、養老鉄道播磨駅。11時25分に到着。6.5㎞を歩いてきたのですが、この日歩いたところはかなり高低差があり、いImg_3079c_20210201192801 ささかお疲れ。電車がなければ、家内に迎えに来てもらおうと思ったのですが、幸い、11時35分に桑名行きがありました。「センロク」と呼ばれる1600系電車。元は近鉄名古屋線を走っていたそうです。

Img_3090c_20210201192801  桑名までは1駅、たった3分で、¥210。播磨駅は無人駅ですので、乗車票を取って、桑名駅で精算。11時38分着。

Img_3077c_20210204124301  ちなみに、播磨駅から南西を見ると、こういう景色。踏切のすぐ向こうに見えているのが、岸西山遺跡。さらに「NTN」の青い看板の左手にあるのが、尾野山城跡・尾野神社。

Img_3100c  桑名駅では、ついでに旧駅舎がどうなっているか、覗いてきました。この写真は、東口の少し北からImg_3093c_20210204093301 見たもの。名鉄タクシーの待機場があったあたり。左端に少し見えているのは、桑栄メイトの建物と、東口に上がる階段。駅舎や、通路はすでに取り壊されてしまっていました。右の写真は、名鉄タクシーの待機場跡。こちらも取り壊され、整地作業が行われていました。

Img_3123c  12時前に帰宅。スマホのALKOOでは、歩数は16,091歩でした。現地で6.5㎞、桑名駅から自宅までなどが1.2㎞ですから、合計7.7㎞ほどを歩いてきました。

Img_3138c Img_2861c_20210204093601  こちらは、照源寺で授与していただいてきたお守り。「利剣の名号」という名前。念仏の功徳を煩悩や徐魔を切り裂く鋭利な刀剣の文字で現したものだそうです。

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2021年2月 4日 (木)

20210201勝手に養老鉄道ハイキング「桑名駅西歴史散歩」(その2)……秋葉三尺膨大権現、尾畑山城跡、立坂神社旧蹟から円妙寺墓地で松平定良公墓所へ

210201ekinishi2  2月1日の「勝手に養老鉄道ハイキング『桑名駅西歴史散歩』」のその2です。その1では、播磨を出発して、北別所神明社、北別所中世墓を経て、高塚第三公園から高塚山古墳に登ろうとして、途中で断念。竹林にある式部泉のあたりを通って、土佛山聖衆寺まできました。その2は、この聖衆寺の奥の院でもある、秋葉三尺膨大権現からです。

Img_2534c_20210202203501Img_2550c_20210201192701 聖衆寺の本堂に向かって右手に秋葉三尺坊大権現へ上がっていく階段があります。かなり急な階段。左の写真の上にさらに階段があるのです。私より年配の男性が、手すりにしがみつくようにして降りてこられます。笑えません。「明日は我が身」という気がします。

Img_2595c  こちらが秋葉三尺坊大権現の本殿。伝承によると、三尺坊という信濃出身で、越後の栃尾蔵王堂所属の修験者がいました。秋葉山(浜松市天竜区の天竜川中流左岸にある山。別称「あきばさん」。標高885m。頂上には古くから火伏せの神をまつる秋葉神社があります)に一千日参籠し火生三昧(かしようざんまい:身から火炎を出す三昧で、身から火炎を出し、その火でいっさいの悪魔、煩悩を焼き尽くすというもの)の法を修し、神通不思議の験力を得、飛行昇天したので、秋葉山に合祀し、秋葉三尺坊というようになったとも、秋葉山に大火が発生した際に三尺坊が現れ、火生三昧を修して猛火を止めたことにより火防鎮守としてまつられたとも伝わっています。ここに祀られた経緯については調べが付きませんでしたが、毎年4月17日に行なわれる秋葉大祭火渡り神事は、明治元(1868)年より続いています。

Img_2559c_20210203041401  この秋葉堂には、天手力雄命(アマノタヂカラオノミコト:天照大神の隠れた天の岩屋の戸を手で開けた大力の神)、天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと:天照大神に天岩戸から出てもらうことを考え、成功させた神(ちなみに、思兼神(おもいかねのかみ)とは、多くの思慮を兼ね備えた神、深く思慮する神)、妙音楽天女(みょうおんがくてんにょ:弁才天(べんざいてん:インド神話で、河川の女神。音楽・弁舌・財福・智慧の徳があり、吉祥天とともに信仰されました。仏教・ヒンズー教に取り入れられ、ふつう琵琶を弾く天女の姿で表されます。日本では財福の神として弁財天と書かれるようになり、七福神の一として信仰されています)の異称。美しい音楽を奏するところからこの名前)、天表治命(あめのうわはるのみこと:天八意思兼命の子)、九頭竜大神(くずりゅうのImg_2565c おおかみ:戸隠山の地主神)、地蔵大菩薩、秋葉三尺房大権現、聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ:七観音(千手・馬頭・十一面・聖・如意輪・准胝・不空羂索)または、六観音(七観音のうち不空羂索を除く)の一つ。普通、観音といった場合は、聖観世音菩薩をさします。左の手に蓮華(れんげ)を持ち、右手を開いた形をし、衆生を救済するために種々の身を現ずる大慈大悲の菩薩)、恵比須神(えびすがみ:七福神の一つ。蛭子神(ひるこのかみ)とも、事代主命(ことしろぬしのみこと)ともいわれます。風折り烏帽子に狩衣(かりぎぬ)、指貫(さしぬき)を着け、釣りざおで鯛を釣りあげている姿をしており、商家の福の神として祭られることが多くあります)、大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん:頭は象、身体は人間の姿をした仏法守護神。もとインド神話の魔王で、のち仏教にとり入れられたもの。単身像と双身像とあり、双身像は、男神と女神とが抱擁する姿をとることが多い。夫婦和合・子宝の神として信仰されます)、大日大聖不動明王(だいにちだいしょうふどうみょうおう:仏教守護の明王。無動尊・無動使者・不動尊とも呼ばれます。明王中の最高とされ、忿怒(ふんぬ)の姿で火焔の中にあり、右手に剣、左手に索縄を持ち、心の内外の悪魔を祓います)、大黒天(だいこくてん:もとインドで破壊を意味する暗黒の神。密教では、大自在天の眷(けん)族として三宝を守護し、飲食をつかさどる神となり、忿怒(ふんぬ)相を示す。寺の厨房などに祭られました。日本の民間信仰では、大国主命(おおくにぬしのみこと)と同一視されて広く信仰され、恵比須とともに福徳の神とされます。七福神の一で、米俵の上に乗り、頭巾をかぶり、打ち出の小槌を持ち、大きな袋を肩に担ぐ像で知られています)および毘沙門天(びしゃもんてん:四天王の一神で、北方の世界を守護します。一般に右手に宝棒、左手に宝塔をもつ姿で表され、財宝を施す神として施財天ともいわれます。七福神の一。常に仏法の道場を守り、日夜、法を聞くので多聞天(たもんてん)ともいう)が祀られています。いつも通り、神様などを調べたのですが、たくさんいらっしゃり、大変でした(苦笑)。これだけたくさん祀られているには、理由があると思うのですが、私にはとても理解が及びません。

Img_2574c_20210203050101 Img_2580c_20210203050101  境内には他にもいろいろとあります。まずは、正一位福寿稲荷大明神。「正一位」は、お稲荷さんには必ずといってよいほど書かれていますが、最高位の位階。京都の伏見稲荷大社が正一位を授与されたことから、各地の稲荷もそのように称しているという話を読んだことがあります。他のお稲荷さんも、由緒が分からないことが多いのですが、この福寿稲荷大明神も同じ。

Img_2618c_20210203050601 Img_2598c_20210203050601  拝殿に向かって左手前には、小さなお社とお地蔵様。どちらもその名前などは掲げられていません。同じく拝殿に向かって右側には、「秋葉権現堂由来記」があります。伊藤文助翁という桑名南魚町の人(大正6(1917)年12月、77才で亡くなる)が勧請した旨のことが書かれていました。勧請年月については、記されていません。碑は昭和19(1944)年4月に建立。

Img_2625c_20210203075601  奥の院は高台で見晴らし良く、往時は景勝地として憩いの場所であったと伝えられていまImg_2628c_20210203075801 す。実際、聖衆寺からここまでの階段を登り切ったところから東を見ますと、左の写真のような眺望が広がっています。今ほど木々が生い茂っていなければ、揖斐・長良川から伊勢湾まで見えるでしょう。ズームアップすると、右の写真のように、長良川河口堰や、名古屋駅前の高層ビル群まで望めます。

Img_2632c_20210201202201  また、もう少し右に視線を向けると、この写真のように、桑名市街地のマンションの奥には、名港トリトンまでよく見えます。蟠龍櫓も見えていますので、今はマンションの陰になってしまっていますが、桑名城なども見えたと思われます。景勝地であったであろうことがよく分かります。

Img_2656c_20210203081401  聖衆寺に降りて来て、次の目的地に向かいますが、ここ聖衆寺に来たのは2回目(2006年2月11日:標高88.62メートル)。まだ、その山号の由来となった土佛を拝観したことはありません。是非その機会を得たいもの。

Img_2661c_20210203081801  スタートから3.2㎞ほど、照源寺霊園の西まで来ました。コミュニティバスの北別所バス停のところに道標が1基建っていました。「右Img_2665c_20210201192701  土佛山 左 西方(にしかた)」とあります(西方は、ここから西へ1㎞あまりのところの地名(イオン桑名があるあたりですが、現在は、新西方となっています。また、これから行く大福田寺、円妙寺、照源寺などは「東方」)。石碑には、「東京 多賀源」とも刻まれています。この向かい側(東北側)に小高い丘というか、山というかがあります。ここは、尾畑城跡(おばたじょうせき)。ただし、今は私有地になっていますので、入れません。ここには、やはり15年ほど前に来ています(2006年1月9日:尾畑城跡を求めて6.5㎞)。史料には、田辺伊勢丸が居城したとありますが、築城時期など詳細は不明。中世の城館跡で、土塁を巡られた方形の曲輪が残っているといいます。

210201ekinishi3  その先、照源寺墓地の角を右折し、南へ。県立桑名高校の方へ進みます。さらに、桑陽(そうよう)保育所に向かいます。ここの敷地内に立坂神社旧蹟があるのです。このあとは、円妙寺墓地、大福田寺、円妙寺と回り、北に向かって、照源寺を目指します。照源寺は、私が好きなお寺で何度も訪ねています。

Img_2671c_20210201192701 Img_2686c_20210201192701  市立桑陽保育所の敷地内にある立坂神社旧蹟。元はこのあたりを田宮村といい、その産土神である「高野御前」を祀ったそうです。海善寺の僧が修行に出る時、道中安全を祈願して草鞋を供えたので、草鞋(わらじ)社とも呼ばれました。ここにあった立坂神社は、尾野神社に合祀されています(新矢田にある立坂神社は、もともと矢田八幡社と称しており、明治以後、式内立坂神社と称しています)。実は、この立坂神社旧蹟、桑陽保育所の敷地内にあるはずと思って行ったのですが、なかなか見つけられず、ちょっと苦労(右の写真が桑陽保育所。立坂神社旧蹟は、写真の右端にあります)。というのも、石碑は西向きに建っているのですが、この裏手から西に向かって歩いていたので、木陰になっていて見えず、通り過ぎてウロウロしたという次第。

Img_2697c_20210201192701  続いて、県立桑名高校の北を通って、円妙寺(えんみょうじ)墓地へ。桑名藩6代藩主・松平定良(1632~1657)とその正室養仙院の墓があります。

Img_2709c_20210201192701Img_2713c_20210203090101  定良公は明暦2(1656)年に病となり、有馬温泉で治療しましたが、翌明暦3(1657)年7月18日、桑名への帰路、京都で26歳の若さで客死しています。日蓮宗を信仰したので、松平家の菩提寺照源寺とは別に、円妙寺が創建され、ここに葬られました。法名は、光徳院円妙日法大居士。霊廟は墓地の奥(北隅)に東面し、石廟造りで、正面4mの光徳院殿が松平定良公、その後方右から一安院は殉死堀田一可、法性院は殉死多賀道次、蓮心院は殉死長瀬政直で計4基。霊廟は、荒廃して石垣が崩れ、樹木雑草に蔽われているのは、残念。円妙寺はもともとこの墓地の東北あたりにあったといいます。

Img_2727c_20210203090101  こちらは、正室養仙院の墓。墓地よりやや斜面を下がった東側に独立しています。養仙院(~1683年)は7代定重の母、京極高広の女、法名は、養仙院了栄妙護日立。

Img_2737c_20210201192701  円妙寺からすぐ南東に大福田寺があります。このあたりでほぼ4㎞、時刻は10時20分。大福田寺は、高野山真言宗の寺。山号は神宝山。院号は法皇院。本尊は阿弥陀如来。ほかに聖天(歓喜天ともいう:仏教を守護する天部の善神。多く象頭人身で表されます。仏教に取り入れられてからは富貴・子孫・消厄の得の神とされ、双身で男女抱合像として祀られることもあります)を祀り、日本三大聖天(三大聖天には、東京都台東区の待乳山聖天(本龍院)と、奈良県生駒市の生駒聖天(宝山寺)の2つは必ず入っていますが、他はいろいろ)の一つに数えられています。毎年2月3日に節分祭が、また、4月1日・2日に桑名聖天大祭が行われます。

Img_2740c_20210203124001

 この寺の創建年代については正確ではありませんが、用明天皇の時、聖徳太子が度会郡山田に開いたと伝えられます。鎌倉時代中期、後宇多天皇の建治年間に神宮詞人大和守・額田部実澄(ぬかたべのさねずみ)・忍性(にんしょう)によって、市内江場大福地内に再興されましたが、度重なる兵火や風水害によって、寛文2(1662)年、現在地に移築されています。当初は、福田村にあったため福田寺と称したのですが、足利尊氏から「大」の字を賜り、大福田寺と改められたという話が伝わっています。左の写真は、本堂。

Img_2753c_20210201192701 Img_2744c  こちらが聖天堂。歓喜天(聖天)は松平定信の寄進によるものとされるそうです。この日は2月1日でしたが、すでに節分祭が始まっていたようで、人も多く、露店も複数出ていました(ただし、今年は豆まきは中止)。境内には、稲荷社もあります。ちなみに、ここ大福田寺の節分行事は、地元では有名。境内では豆まきや福餅投げが行なわれ、大賑わいになります。また、鬼が市内を練り歩く「鬼追い厄払い」もあり、大福田寺にお願いすると、施設だけでなく、個人宅でも赤鬼・青鬼が揃ってやって来てくれます。

 その2も長くなりましたので、ここまで。その3では、円妙寺、照源寺、円妙寺、尾野神社からゴールまでを取り上げます。

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2021年2月 3日 (水)

20210201勝手に養老鉄道ハイキング「桑名駅西歴史散歩」(その1)……播磨を出発して北別所神明社、高塚山古墳に登るつもりがリタイア、式部泉を通って土佛山聖衆寺へ

Img_3059c  2月1日に行ってきた「勝手に養老鉄道ハイキング『桑名駅西歴史散歩』」の本編、その1です。予告編にも書きましたが、下調べは少しずつしていたものの、日程としては、ほぼ思いつきでこの日に出かけました。非常勤の講義も終わり、成績も付け終えましたし、確定申告の準備も済みましたので、前日の夜、「行こう」と決めた次第(微笑)。「勝手に養老鉄道ハイキング『桑名駅西歴史散歩』」というタイトルにしましたが、「養老鉄道ハイキング」となったのは、結果論。一応、養老鉄道播磨駅をゴールにしていたのですが、電車の時刻が合わなければ家内に迎えに来てもらおうと思っていました。しかし、ゴールの10分後に桑名行きの電車がありましたので、急遽「勝手に養老鉄道ハイキング」になったのです。この日歩いたのは、「くわな史跡巡り」という桑名市文化課が、平成28(2016)年3月に刊行した本(ミス多発で、すぐに販売停止され、今日に至っていますから、稀覯本といえるかも知れません)の122~125ページにある「駅西コース:照源寺コース」を参考にコースを組み立てました。本編、いつものように書きながら考えますが、3回くらいを見込んでいます。

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 こちらが、この日のルート。朝は家族にクルマで送ってもらい、播磨郵便局近くを8時25分頃スタート。先日行った岸西山の西を通って南下(2021年1月15日:大山田川あたりでバードウォッチングとプチ歴史散歩……大正寺と尾野神社について付記、修正しました【1/18】)。県道142号線を越えて、北別所神明社、北別所中世墓、高塚第三公園、高塚山古墳(途中で断念)、式部泉あたり、土佛山聖衆寺、立坂神社𦾔跡、円妙寺墓地、大福田寺、円妙寺、東海山照源寺、専明寺、尾野神社と回って、養老鉄道播磨駅にゴール。11時25分。歩いたのは6.5㎞ほど。しかし、けっこう高低差があり、運動量はかなりありました。

210201ekinishi1 210201ekinishi2  詳しいルートマップその1(左)。スタートして、すぐに南下。1月15日に訪れた岸西山の西側を通って行きます。「南下」で南に下るのですが、道は登り坂。県道142号線は、桑名東員線。このあたりはずーっと、昔からの住宅団地を通って行きます。142号線を越えて左折し、旧桑名西医療センター(元市民病院)の東を通って北別所神明社(マップでは神明社)、北別所中世墓へ。そこから髙塚町の住宅団地を西へ。ここも登り坂。高塚第三公園から高塚山古墳に登ろうと思ったものの、途中で断念。竹林を通って、式部泉(しきぶせん)、土佛山聖衆寺、その奥の院である秋葉三尺膨大権現と回って行きます。

Img_2354c_20210201192601 Img_2356c  スタートは、このあたり。大山田川をはさんでいます。向かって左が播磨郵便局。向かって右は、今はけっこう少なくなったと思いますが、不二家桑名播磨店。不二家の洋菓子を扱っています。右の写真は、岸西山遺跡の西側。登り坂が続きます。こういうダラダラと登る坂は、けっこうしんどい(苦笑)。

Img_2371c_20210202182301 Img_2374c_20210202182301  坂を登り切ったところで、県道142号線の上を越えます。桑名東員線ですが、我が家からは、イオン桑名や、東員の万助溜公園、いなべの両ヶ池公園などに行くときに通る道。左の写真は東の方、右の写真は西の方。西の方は、小公園になっています。県道は、トンネル。このトンネルをくぐった東西で天気が少し違うなと思うことがたまにあります。

Img_2383c_20210201194101  こちらは、旧桑名西医療センターの跡地を望んだ写真。かつては、正面に病院がありました。桑名市民病院、山本総合病院そして平田循環器病院が合併して、桑名市総合医療センターになりました。山本総合病院のところに新しい病院の建物ができるまでは、市民病院は西医療センターでした。すでに建物は解体され、更地。早ければ、昨年、有料老人ホームと分譲型の医療モール、介護ショップを併設した調剤薬局など開業するということでしたが(こちら)、まだ建物は見えません。

Img_2395c_20210201192601  西医療センターの跡地を過ぎ、角を右に曲がったところに北別所神明社。歩き始めてほぼ1㎞。創始は不詳。旧社格は、村社。織田信長の伊勢侵攻の時、桑名ではここに本陣を置いたといいます。また、神社の由緒には、織田信長在陣の時、当神明社を崇敬し、幣帛等を奉納し、また、社内に信長の駒繋の松と伝える松があったといいます。

Img_2398c_20210201194701 Img_2401c_20210202192701  主祭神は、天照大御神。相殿神は、大山祇神(おおやまつみのかみ:山を司る神)、迦具土神(かぐつちのかみ:火の神)、天満大自在天神(菅原道真、天神に同じ)。由緒書きに、宝物として、信行焼御神酒壺一対(市文化財)、信行焼狛犬一対とあります(ただし、拝殿前の狛犬は、石造)。信行(しんぎょう)は、江戸時代の中頃、聖衆寺を再興した瓦師・岡本信行(1648~1732年)。信行は、瓦師として鍋屋町に住んでいたのですが、 脱俗して北別所の聖衆寺に入り作陶を手がけました。個人的に珍しいと思ったのは、右の写真にあるように、神額。石に文字が刻まれているように見えました。

Img_2414c_20210202193101 Img_2427c  拝殿に向かって左手には、「皇太子殿下御生誕記念御造営」という石碑。碑表、碑陰とも、寄附者の名簿になっています。石碑の古さから勝手に推測するに、現在の上皇陛下がお生まれになったときのものかという気がします。上皇陛下は、昭和8(1933)年12月23日のお生まれ。神社の境内地東側には、「殉国戦士之碑」(右の写真)。詳細不明。以前は、三重県遺族会のサイトに県内のこういう忠魂碑、慰霊碑のリストがあったのですが、最近はなくなってしまい、調べられません。

Img_2424c  北別所神明社の向かいに北別所中世墓(きたべっしょちゅうせいぼ)があったと、「くわな史跡巡り」にあります。この写真がその場所なのですが、建物が建ち、裏手は駐車場になっています。その名の通り、中世の墓の跡と考えられ、古瀬戸、常滑等の焼き物が出土したそうですが、きちんとした調査はされないまま破壊されてしまいました。

Img_2438c_20210201195301 Img_2445c_20210201192601  北別所神明社、北別所中世墓のところからは西へ直進。高塚の住宅団地の中です。西に向かって、さらに登り坂。登り切って、高塚の住宅団地の西の端に高塚第三公園(右の写真)。このあたりで標高70mほど。スタート地点が12~13mでしたから、かなり登ってきました。この公園の西に高塚山古墳があります。15年前に訪ねていますが(2006年2月11日:標高88.62メートル)、改めて行ってみようと思ったのです。高塚山古墳は、全長約56mの桑員地区最大の前方後円墳。平成16(2004)年の調査で盾型や朝顔型、円筒埴輪、籠の文様のついた土師器がたくさん発見され、築造時期は4世紀後半の古墳と推定されています。有力な豪族の墓なのでしょう。

Img_2450c_20210201192601Img_2466c_20210201192601  高塚山古墳に登ろうかどうしようか迷っていたら、地元にお住まいの男性が通りかかられたので伺ってみました。「う~ん、行けるけど、今は難しいよ」ということでした。しかし、「まあせっかく来たから」と登りかけたものの、途中で右の写真のような状態。この古墳、竹林になっているのですが、最近は人の手が入っていないようで、かなり荒れていました。男性も、「古墳の標識も、今は倒れてしまっている」とおっしゃっていましたので、登るのは結局、断念。

6ba2504f  ちなみに、2006年1月に登ったときの写真を載せておきます。左の写真が高塚山古墳のもっとも高いとこ9aab434d ろ。「高塚山古墳」という木製の碑が建っていますが、地元の男性によれば、これはすでに根腐れして、倒れているといいます。向かって左手にあるのは、一等三角点

Img_2453c_20210202200401Img_2478c_20210201200401  降りて来て、高塚第三公園の南の高いところから東を見ますと、眺望が開けていて、揖斐・長良川から名古屋の方までよく見えました。ズームアップすると、我が家のマンションも小さく見えています。このあたりで歩き始めて2㎞。時刻は、9時15分。

Img_2480c Img_2482c_20210202200901  ここからは、土佛山聖衆寺(どぶつざんせいしゅうじ)に向かいますが、この先はずっと竹林の端を通って行きます。

Img_2498c  この先に式部泉(しきぶせん)という泉がありました。平安時代の歌人・和泉式部が硯の水にした、あるいは、長嶋一向一揆の時、江州住人山本式部何某が討れて、その首を洗ったという話があります。式部泉がどこにあったかは、今となっては不明。雰囲気というか、イメージというか、京都の嵯峨野を彷彿とさせる静けさがあります。外からの音が、竹に吸い取られているような感じでした。ちなみに、和泉式部にまつわる説話、伝説は、民間信仰と結びついて広く各地に分布しているといいますから、硯の水にしたというのも真偽は不明と思います。

Img_2509c_20210202201701 Img_2511c_20210202202201  高塚第三公園から10分足らずで、竹林が途切れ、土佛山聖衆寺の下に出ます。この写真で、左手に階段があり、聖衆寺に行くにはこれを登ります。まったくのトリビアですが、向かって右にある電柱には、「とらや饅頭」とあります。とらや饅頭は、春日神社(桑名宗社)門前にある饅頭屋さん。メインのとらや饅頭は、酒饅頭。宝永元(1704)年創業で、江戸時代には桑名宿の土産物などとして武士や町人に親しまれたそうです。

Img_2642c_20210201192701 Img_2514c_20210202202301  土佛山大正院聖衆寺です。ここで2.5㎞。真言宗醍醐寺派のお寺。桑名では「土佛さん(どぶっつぁん)」と呼ばれます。鎌倉初期の建仁4(1204)年に、北伊勢地方鎮護のため定舜法師が建立したといわれる古刹です。永正年間(1504~1520年)に乗覚照範和尚が伽藍修復と堂宇建立を行い、中興されました。当時は、43坊を有し、僧兵も1,000余名置くほどの大寺であったといいます。しかし、信長の伊勢侵攻の時に焼かれ、現在の堂宇のみが残りました。江戸時代の中頃、瓦師岡本信行が、桑名藩主松平定重に寺運再興を言上して再興し、瓦製阿弥陀如来(市文化財)をつくったため、「土佛さん」といわれます。本堂は大正12(1923)年の建立。

Img_2523c_20210202203001 Img_2526c_20210202202301  伊勢七福神恵比寿神)にして、三重四国八十八箇所第2番札所。境内には、7体のお地蔵様もいらっしゃいます。

Img_2534c_20210202203501 Img_2550c_20210201192701  聖衆寺から、奥の院の秋葉三尺坊大権現へ行くには、またもや急な階段を登っていかなければなりません。普段の散歩では、ほとんど高低差のないところを歩いています(せいぜい5~10m)ので、ちょっと大変。奥の院は、かなり広いところ。ここには、秋葉三尺坊大権現の他、稲荷社などがありますが、長くなりますので、その1はここまで。その2は、秋葉三尺坊大権現からとします。

 

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2021年2月 1日 (月)

20210201勝手に養老鉄道ハイキング「桑名駅西歴史散歩」(予告編)

Img_2344c_20210201212201  下調べはしていたものの、日程的には、ほぼ思いつきで出かけてきました。「勝手に養老鉄道ハイキング『桑名駅西歴史散歩』」というタイトルにしましたが、「養老鉄道ハイキング」となったのは、結果論。「くわな史跡巡り」という桑名市文化課が、平成28(2016)年3月に刊行した本があります(ミス多発で、すぐに販売停止され、今日に至っていますから、稀覯本といえるかも知れません)。これの122~125ページにある「駅西コース:照源寺コース」を参考にコースを組み立てたのです。あれこれ見て回り、写真も多数になりますので、今日のところは予告編。

210201ekinishi0  こちらが歩いたコース。播磨郵便局あたりから先日行った岸西山の西を通って南下。県道142号線を越えて、北別所神明社、北Img_3123c 別所中世墓、高塚第三公園、高塚山古墳(途中で断念)、式部泉あたり、土佛山聖衆寺、立坂神社𦾔跡、円妙寺墓地、大福田寺、円妙寺、東海山照源寺、専明寺、尾野神社と回って、養老鉄道播磨駅にゴール。播磨駅で10分待つと桑名駅往きの電車がありましたので、ここで初めて「勝手に養老鉄道ハイキング」となった次第。現地で歩いたのは、6.5㎞。桑名駅から自宅が1.2㎞ほど。スマホのALKOOでは、16,091歩(12.3㎞は、電車その他を含んでいると思います)。

Img_2354c_20210201192601  スタートしたのは、故あってこのあたり。播磨郵便局が見えています。ここから坂道を登って、高塚、北別所当たりの住宅街をImg_2383c_20210201194101進んでいきます。県道142号線(国道1号線宮前交差点から大山田方面に通じています)を越え、旧・桑名市民病院(前桑名西医療センター)の南を通って行きます。すでに建物は解体され、更地になっています。早ければ、昨年、有料老人ホームと分譲型の医療モール、介護ショップを併設した調剤薬局など開業するということでしたが(こちら)、まだ建物は見えませんでした。

Img_2395c_20210201192601  旧・市民病院の南、歩き始めて1㎞で北別所神明社。創始は不詳。織田信長の伊勢侵攻の時、桑名ではここに本陣を置いたとImg_2398c_20210201194701 いいます。神社の由緒には、織田信長在陣の時、当神明社を崇敬し、幣帛等を奉納し、また、社内に公の駒繋の松と伝える松があったといいます。

Img_2424c  「くわな史跡巡り」には、北別所神明社から道をはさんだ南に「北別所中世墓」があったとあります。ただし、発掘されずに破壊され、詳細は不明。瀬戸焼の壺が出土し、墓があったといいます。今は、左の写真のように、建物が建っています。たぶんここと思います。

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 北別所神明社からは西へ。坂道を登っていきます。登り切って、高塚の住宅団地の西の端にImg_2445c_20210201192601 高塚第三公園。標高70m弱。スタート地点が12~13mでしたから、かなり登ってきました。この公園の西に高塚山古墳があります。15年前に訪ねています(2006年2月11日:標高88.62メートル)。再度訪問しようと思ったのです。

Img_2450c_20210201192601 Img_2466c_20210201192601  高塚山古墳に登ろうかどうしようか迷っていたら、地元にお住まいの男性が通りかかられたので伺ってみました。「う~ん、行けるけど、今は難しいよ」ということでした。しかし、まあせっかく来たからと登りかけたのですが、途中で右のような状態。この古墳、竹林になっているのですが、最近は人の手が入っていないようで、かなり荒れていました。男性も、「古墳の標識も、今は倒れてしまっている」とおっしゃっていましたので、登るのは結局、断念。

Img_2471c_20210201192601  こちらは、左の写真の先の曲がり角から見た東の方。長良川河口堰、伊勢大橋の向こうには、名古屋駅前のImg_2478c_20210201200401 高層ビル群まで見えました。

Img_2480c  高塚第三公園まで戻って、竹林沿いの道を行きます。この先に式部泉といImg_2498c うのがありました。平安時代の歌人・和泉式部が硯の水にした、あるいは、長嶋一揆の時、江州住人山本式部何某が討れて、その首を洗ったという話しがあります。式部泉がどこにあったかは、今となっては不明。雰囲気というか、イメージというか、京都の嵯峨野を彷彿とさせる静けさがあります。外からの音が、竹に吸い取られているような感じでした。ちなみに、和泉式部にまつわる説話、伝説は、民間信仰と結びついて広く各地に分布しているといいますから、硯の水にしたというのも真偽は不明と思います。

Img_2642c_20210201192701  数分歩くと土佛山聖衆寺(どぶつさんせいしゅうじ)に至ります。桑名では「土佛さん(どぶっつぁん)」と呼ばれます。建仁4(1204)年創建の古刹ですが、信長の伊勢侵攻の時に焼かれ、詳細は不明。江戸時代の中頃、瓦師岡本信行が再興し、焼き物で阿弥陀如来(市文化財)をつくったため、「土佛さん」といわれます。伊勢七福神(恵比寿神)にして、三重四国八十八箇所第2番札所。ここで2㎞。

Img_2595c Img_2632c_20210201202201  土佛さんの奥には、秋葉三尺膨大権現。聖衆寺の奥の院の秋葉堂になります。ここには、秋葉三尺房大権現、恵比須神、天手力雄命、九頭龍大神、地蔵菩薩、聖観世音菩薩、大聖歓喜天などが祀られています。高台で見晴らしがとても良く、往時は景勝地として憩いの場所であったと伝えられています。右の写真は、少しズームアップしていますが、名港トリトンまで見えています(ちなみに、拙宅マンションも写っています)。

Img_2665c_20210201192701  聖衆寺から東へ。市街地の方へ歩いて行きます。3.2㎞ほど、照源寺霊園の西まで来ました。ここには、尾畑城跡があります。左の写真で正面の小高い丘がそれ。ただ、今は私有地になっていますので、入れません。ここには、やはり15年ほど前に来ています(2006年1月9日:尾畑城跡を求めて6.5㎞)。史料には、田辺伊勢丸が居城したとありますが、築城時期など詳細は不明。土塁を巡られた方形の曲輪が残っているといいます。

Img_2671c_20210201192701  続いては、立坂神社があった跡へ。桑陽(そうよう)保育所の敷地当たりにあるはずと思って行ったのですが、なかなか見つImg_2686c_20210201192701 けられず、ちょっと苦労。とうのも、石碑は西向きに建っているのですが、この浦の方から西に向かって歩いていたので、見えず、通り過ぎてウロウロしたという次第。その昔は、田宮村。産土神の高野御前を祀ったといいます。海善寺の僧が修行に出る時、道中安全を祈願して草鞋を供えたので、草鞋社ともいったといいます。ここにあった立坂神社は、尾野神社に合祀されています(新矢田にある立坂神社は、もともと矢田八幡社と称しており、明治以後、式内立坂神社と称しています)。

Img_2697c_20210201192701  県立桑名高校の北を通って、円妙寺墓地へ。桑名藩6代藩主・松平定良(1632~165 7)とその正室養仙院の墓があります。Img_2709c_20210201192701 定良は、明暦3(1657)年7月18日、26歳で病没。日蓮宗を信仰したので、松平家の菩提寺照源寺とは別に、円妙寺が創建され、ここに葬られました。法名光徳院円妙日法大居士。右は、定良の墓。円妙院はもともとこの墓地の東北あたりにあったといいます。

Img_2737c_20210201192701 Img_2753c_20210201192701  神宝山法皇院大福田寺。聖徳太子創建と伝えられる真言宗のお寺。山門は江戸時代建立といわれています。毎年2月3日には節分祭が行われますが、すでに賑わっており、門前には露店も出ていました。奈良の生駒、東京の待乳山と並んで、日本三聖天の一つといわれます。ちなみに、今年の豆まきは中止。賑わっていたので、早々に撤退。ここはまだゆっくりと見て回ったことはありません。

Img_2770c_20210201192701 Img_2793c  大福田寺の東には、円妙寺。日蓮宗のお寺。上述のように、定綱系久松松平家第2代当主で伊勢桑名藩主(第6代)の松平定良の菩提寺として建立されました。宝暦年間(1751~1764年)に火災に遭い、境内が全焼したので、当時の旧桑名藩主・久松松平家の領国である陸奥白河藩へ移転しました(ただし、養珠庵と仙妙庵と墓地はそのまま当地に残っています)。文政6(1823)年、白河藩の久松松平家が、桑名へ再び国替えとなり、当寺も桑名に戻って来ています。山門は、嘉永年間(1848~1855年)に建てられ、戦災に遭わず現在に至っています。

Img_2805c  円妙寺の後は、東海山照源寺へ。浄土宗のお寺。ここでほぼ5㎞。寛永元(1624)年、桑名藩主であった松平定勝公(徳川家Img_2855c 康公の異父弟)が亡くなったとき、二代将軍徳川秀忠の命によって、定勝の子・松平定行公が建立した寺。ここは私の好きなお寺で、たびたび訪れています。

Img_2895c_20210201192801 Img_2902c  いろいろな石碑などがありますが、何といっても「松平定綱及び一統之墓所」があります(県史跡)。定勝の他、久松松平系の定綱他の一統の墓、26基が並ぶのです(2013年7月1日:照源寺へ、しかし、ハスは空振りで、松平定綱及び一統之墓所へ……昨日の散歩)。時刻は10時50分頃。

Img_2949c_20210201192801 Img_2961c_20210201192801  照源寺からは北へ。大成小学校のすぐ北に尾野神社。創立不詳。尾野山の北の鼻山に鎮座していたのを、船着大明神の社へ奉還したといいます。社殿は(右の写真)、尾野神社(向かって左)と、立坂神社(向かって右の小さい社)からなっています。尾野神社の御祭神は、天押帯日子命(あめおしたらしひこのみこと)。

Img_3016c_20210201192801 Img_3025c_20210201211301  境内には、「船繋ぎの松」があります。1,000数百年前、このあたりは海陸交通の接点でした(慶長の町割以前、このあたりで町屋川と大山田川が合流し、船の出入りがあったと伝わっています。また、この尾野神社のあるところは、尾野山城跡といわれます。尾野神社の別当・正斎坊が居城し、信長の伊勢侵攻で滅ぼされました。ここは、小野津臣の始祖を祀るといわれ、前方後円墳の形をとどめているそうですが、登り口がやや不安定で下ので、今日はパス。現在、前方部は現在大成小学校の校庭になっています。

Img_3059c  これで、今日訪ねようと思っていたところはほぼコンプリート。養老鉄道播磨駅に11時25分に到着。時刻表を見たら、11時Img_3090c_20210201192801 35分に桑名行きがありましたので、これで帰ることにしました。桑名駅までは1駅、¥210。桑名駅には11時38分着。徒歩にて、12時前に帰宅。ずいぶん長くなりましたが、以上、取り敢えず予告編。明日以降、暇を見て、本編を書きます。

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2021年1月15日 (金)

大山田川あたりでバードウォッチングとプチ歴史散歩……大正寺と尾野神社について付記、修正しました【1/18】

Img_5183c_20210115165901  今日までは暖かいという天気予報でした。遠くに出かけるのは憚られますので、近場でいつもと違うところへと考え、久しぶりに大山田川あたりを歩くことにしました。大山田川は、大山田団地にある光陵中学校の北あたりから東に流れ、東名阪道、国道258号線の下を通って、播磨から伊勢大橋の北で揖斐川に注ぐ一級河川。たぶん6㎞足らずの長さ。いつものように、播磨にある日物谷の市営住宅近くから歩き始めました。まずは、播磨橋まで。今日はここから南に少し下り、岸西山(がんさやま)へ。ここは遺跡になっており、また、大正寺という浄土宗のお寺と尾野神社北之宮があります。初めて訪ねました。その後、大山田川に戻り、沢南橋あたりまで下って、上之輪新田を覗き、大山田水門から伊勢大橋、福島地内と歩いて、六華苑脇から住吉神社へというコース。6.9㎞。最高気温は12.4℃と暖かく、風も弱かったので、今日もまた散歩日和。

Img_4457c_20210115165601  日物谷の市営住宅近くから播磨郵便局近くの間では、まずは、セグロセキレイ。いつもの散歩コースで見るセキレイは、ハクセImg_4477c_20210115165601 キレイがほとんど。セグロセキレイは、大山田川に来るとたいてい見られます。キセキレイもときどき見られますが、今日は出遭いませんでした。右の写真は、コガモ。大山田川の今日歩いた範囲のあちこちで見られます。とくに多いのは新宮西橋のところ。

Img_4480c_20210115165601  播磨郵便局の南あたりで、アオジ。ただし、超証拠写真(苦笑)。ちょっと距離があり過ぎました。さらにImg_4491c_20210115165601 その近くで、ハクセキレイも。

Img_4626c_20210115165701  播磨橋から南へ。岸西山へ向かいます。教育委員会の文化財のサイトによれば、ここは弥生~古墳時代の遺跡で、弥生土器が出土したといいます(岸西山遺跡)。左の写真は、岸西山の南西側から少し登ったところから、大正寺の山門方面を撮ったもの。

Img_4548c_20210115165601  まずは、大正寺へ。浄土宗のお寺。岸西山と号します。こちらのサイトや「くわな史跡めぐり」によれば、江戸時代中期の開基といいImg_4509c ますが(桑名市史によれば、明和(1764~1772年)の頃)、他にネット検索では詳しい情報は出て来ません。お寺は、岸西山の東北側の斜面に建っており、山門から境内へは下っていきます。

Img_4514c_20210115165601  山門を潜って、境内の右手には鳥居とお社がありました。お社の中は暗かったのですが、覗いてみると、狐が見えましたので、おそらく稲荷社と思われます。しかし、社号、由緒を示すものはなく、詳細は不明。

Img_4521c_20210115165601  大正寺に来たのは、野村増右衛門の供養塔があることを知ったからです。野村増右衛門は、桑名藩島田代官所(桑名藩領の員弁郡嶋田村、現桑名市島田)の手代(8石2人扶持という記録があります)という軽輩の身から藩を左右する実力者にのしあがっています(郡代となり、700石を得ています)。その権力は家老をも凌ぐと言われたこともあります。新田開発、河川改修、焼失した城の修理など藩への貢献は大きかったのですが、宝永7(1710)年、突然公金横領等の嫌疑で捉えられ、弁明もむなしく処刑されました。処罰は増右衛門だけでなく一族の老人や、わずか1歳の子どもを含む44人が死刑、関係者数100名が追放または罷免にされたという、桑名藩では前代未聞の大事件でした。藩の公式記録が、後年、すべて焼却されているために不明な点が多いのですが、敏腕を振るう野村に対して長期間ないがしろにされた(と思った)譜代家老らの憎悪(私怨)によるものとされています(こちらも参照)。この失政の責任を問われ、藩主・松平定重(久松松平家)は越後高田(現在の新潟県上越市)に国替えになっています。久松松平家が文政6(1823)年に桑名に再封されると、増右衛門の罪は許され、文政10(1827)年に供養塔が建立されました。最初は、大山田川川原の処刑場に建てられたのですが、明治42(1909)年、ここに移転されています。なお、増右衛門の墓は、現在は、島田の共同墓地にあります。

Img_4562c_20210115165601  大正寺の南に尾野神社北之宮があります。由緒書きなどはありません。尾野神社は、この南西にもあります。今は、そちらが本社のように思います(後の付記をご覧ください)。尾野神社は、孝昭天皇の子で春日臣の祖・天押帯日子命(あめのおしたらしひこのみこと)と衝立船戸神(ついたてふなとのかみ)を祀っています。衝立船戸神は、杖の神や曲がり角の神で、桑名では川が曲がっているところに祀られていることが多いようです。尾野神社は、舟着明神とも呼ぶ。古くはこの付近が海岸線であったといわれ、その境内に舟繋松と称する松があります。この北之宮については、詳細不明(付記したように、桑名市史の記述によれば、もともと尾野神社は、このあたりに鎮座していたものを、後に船着大明神の社へ奉遷して相殿としたという説があります)。

Img_4582c_20210115165601  岸西山を頂上まで登ると(といっても標高は40m足らず)、魚藍(ぎょらん)観音堂があります。「久波奈名所図会」の泡Img_4585c_20210115165701 州崎之部によると、元禄2(1689)年11月、掛樋通の堀さらへをした時、水底より出現したものといいます(現在、久波奈名所図会を確認中)。唐、元和12年の作とも、また伝教大師の作ともいうが定かではありません。昭和50(1975)年3月、市指定文化財。これと時を同じくして、愛染明王、役行者の脇侍佛とともにここに安置されたといいます。今は、ちょっと手入れが行き届いていない感じがしました。

Img_4588c Img_4591c_20210115165701  観音堂に向かって右手には、「魚藍観音碑」と、水谷孟生の歌碑があります。魚藍観音碑には、ここに魚藍観音が納められた経緯が記されています。魚藍観音は、「元禄2(1689)年、掛樋の御堀さらへの時、水中より出現し、一時は、不破義幹氏の手もとにあった」とあります。不破義幹氏は先々々代の春日神社の宮司さんにして、郷土史家。水谷孟生氏は、和菓子の花乃舎の4代目主人。歌碑には、「ちちと鳴く 間遠の浦の 群千鳥 母ともしたふ むらさきの雲」とあります。この歌は、ここ魚藍観音の山号「紫雲山」に因んだものといいます。

Img_4621c_20210115165701  こちらは、岸西山の頂上あたり。このあたりが岸西山遺跡かと思います。建物の礎石らしきものがありますが、詳細は不明。水谷孟生の歌碑の他、小林雨月庵句碑があると「くわな史跡めぐり」にはあったのですが、しばらく歩き回ったものの、こちらは分からず。ちなみに「箒めの とどかぬもよし 苔の花」という句だそうです。雨月は、本名、慶治郎で志知の人。本統寺にある冬牡丹句碑建立に尽力したといいます。

Img_4605c_20210115165701  岸西山の頂上からはそれなりに眺望が利きました。揖斐・長良川まで見えます。長良川河口堰も見えますし、手前にはエディオンなども。今ほど木々が茂っていなかった頃なら、もっとよく見えたと思います。

Img_4653c_20210115165701  岸西山を下りて、NTNの産業機械技術開発センター近くの水路の方へ。愚息が、この水路にコガモがいるとImg_4685c_20210115195401 いっていましたので、見に行った次第。今日は、メスが2羽のみ。ここからは、養老鉄道播磨駅南あたりへ戻ります。「戻る」というのは、播磨橋のすぐ東に出るからです。

Img_4681c 今までは、播磨橋からは、大山田川右岸を下っていくのですが、養老鉄道Img_4705c_20210115165701 の踏切のすぐ東から通行止め。災害復旧工事のためです。堤防道路の下が崩れたようですが、河床の方も草木を取り除いたりしたようです。鳥見という視点からすると、ちょっとなぁと思いますが、まぁ治水が優先ですね。

Img_4721c_20210115165701  その先、新宮西橋付近は、コガモがたくさんいるところ。橋の上流側に集まっています。その数20羽を越えるくらい。ここ新宮Img_4734c_20210115165701 西橋は、橋の下にイワツバメが営巣します。去年のブログを見ると、今頃すでにイワツバメが来ていたとあります(2020年1月18日:大山田川沿いから福島あたりでバードウォッチング……カワセミ、ケリ、芸達者なアオサギたち、そしてイワツバメが来て白梅が咲いて、春の雰囲気)。今日はまだイワツバメ之姿は見られませんでした。

Img_4755c_20210115165701 Img_4779c  新宮西橋からJR/近鉄の鉄橋までの間で、オオジュリン。左の写真はメス、右の写真はオスと思います。たくさんとはいいませんが、このほかにも数羽いましたし、このあと、沢南橋の上流でも見ました。オオジュリンも、普段の散歩コースでは見られません。

Img_4827c_20210115165801  沢南橋のすぐ上流にある人・自転車専用橋のところで、カワラヒワにツグミ。カワラヒワは、Img_4835c_20210115165801 護岸のスロープにも止まっていたりします。また、このあたりでは、メジロも出て来ました。ウグイスの地鳴きも聞こえていたのですが、さすがに姿は見られませんでした。オオジュリンは、このあたりにもいます。

Img_4823c_20210115165801  人・自転車専用橋のところでは、再びアオジらしき鳥。アオジは、証拠写真もどきばかり(苦笑)。

Img_4872c_20210115165801  沢南橋から下流側を見たら、ダイサギが3羽にアオサギが1羽。ただし、アオサギは葭の陰に隠れています。近くにはオオバンも浮いていましたし、イソシギらしき鳥も逃げていくのが見えました。イソシギは逃げ足は速いのです。このあたり、以前、コガモもいましたし、カワセミをよく見るところですが、今日はどちらもいません。コサギやジョウビタキも見られませんでした。

Img_4883c_20210115165801 Img_4888c_20210115165801  ここから、上之輪神社を経て、上之輪新田へ。ケリがいないか探そうと思ったのです。単眼鏡で2回ほどチェックしたのですが、ケリの姿はありません。

Img_4902c_20210115165801  南側の水田にセキレイたち。セグロセキレイとハクセキレイが1ペアずつ。写真はセグロセImg_4911c キレイ。ここで実は、10時10分を回った頃。ふと「ひのとりが来るかも知れない」という考えが浮かんできました。しかし、セキレイたちの向こうにオスのモズが登場し、そちらに気を取られました。

Img_4934c_20210115165801  これが不覚のもと。気づいたら、ひのとりがすぐ近くまでやって来ていました。左の写真、パッと見にはそれなりに撮れたと思えるかも知れませんが、実は、これは大阪行き。つまり、進行方向は向かって左で、最後尾の写真(苦笑)。

Img_4974c  大山田川が揖斐川に注ぐあたり、大山田水門の先にアオサギが1羽。さらにその南、甚内ポンプ場の排水口のImg_4994c ところにもアオサギがやって来ました。

Img_5032c  伊勢大橋西詰交差点を越えて、揖斐川沿いの堤防。先日も、伊勢大橋架け替え工事で杭打ちが行われていましたが、今日もその準備のようでした(午後から、杭打ちが行われ、音が響いてきていました)。

Img_5065c  福島(ふくじま)の水田でケリ。以前は、上之輪新田や、ここ福島の水田ではよくImg_5072c_20210115165801 ケリを見たのですが、ここ2~3年はあまり見なくなってきています。さらにこのあたりでは、ツグミがけっこういました。

Img_5080c_20210115165801  福島というか、諸戸苑から水路をはさんでその北にちょっとした梅の木畑があります。ここには、白梅と紅Img_5088c_20210115165801 梅とがありますが、毎年早めから咲いています。ここでも紅梅の方が早くから咲いたようです。

Img_5123c_20210115165801  このあとは福島のポンプ場のところから六華苑の北を通って、揖斐川の右岸堤防へ。セグロImg_5135c_20210115165801 カモメが飛んで来て、揖斐川に降りたと思ったら、何か魚を捕まえて食べているのが見えました。さらに、最近はあまり触れていませんが、揖斐長良川の中洲にある「アオサギの集合場所」には、今日は、アオサギが4羽やって来ていました。余りにも早い時間にはやって来ないようです。

Img_5153c_20210115165801  住吉神社には、11時10分頃到着。8時半から歩き始めましたから、ここまで2時間40分くらい。ほぼ7㎞ですから、まあよく歩いてきました。住吉神社の前では、久しぶりに散歩友達のTさん。今年初めて出会ったと思います。

【大正寺と尾野神社についての付記(1/18)】 いずれも桑名市史によって付記します。まず、大正寺については、桑名市史(本編pp.469~470)では「岸西庵(一雲寺=大正寺)」という見出しで言及されています。

東方村北岸西山にある。本尊阿弥陀如来、開基は本梁、宝暦9(1759)年松平下総守の家臣奥平宗右衛門の次男宅之丞定盈が美濃国庭田村の浄土宗円満寺の弟子となり、法号を本梁と称し、明和頃当庵を創建した。

境内の観音堂紫雲山一雲寺は、空也上人(元禄3寂70)の開基と伝うる古刹で、もと今一色堤原の南、会下(えんげ、えか)にあったのを安永3年(1774)当所に移した。<中略>明治5年(1873)に廃庵となったが、信徒の来賽多く、愛知県市江の浄円、善戒等により仏道として継がれ、明治末期から妙香尼の代になって信徒益々増え大正14年(1925)大正寺となった。昭和30年(1955)1月9日浮浪人の放火にて全焼、31年4月落成、本尊は照源寺末の廃寺北楠の玄忠寺より迎えた。現住職水谷祐愼、前期の火災にて什物伝記等一切焼失したので詳細は知ること困難である。

 次に尾野神社について。桑名市史(本編pp.51~52)に、「市内大字東方、小野山の北方、字西場様に鎮座し俗に船着大明神と称する」とあります。さらに、以下のように記述が続きます。

この地は往古に尾津浦また小野入江・小野古江・船戸村とも云い、町屋川と西別所川の落ち合った処でここを往来する船の停泊所であったと伝う。西方は走井山の給料に連らなり、東は田野に民居し、その山嶺(尾)に続いた野であったので尾野と称し、転じて小野とも書かれているが、一説には上代の名族、小野氏族民の占拠地であったとも伝えられている。<中略>一説には尾野山の北の鼻山に鎮座してあったのを、後に船着大明神の社へ奉遷して相殿としたという。

この社の祭神については、異説多く、通説素戔嗚尊(午頭天王)とし、また野槌神とし、また衝立船戸神とし、相殿を宇賀御魂神・八幡神・春日神・神明神・山神の五神とし、または小野臣の祖神、天押帯日子命として、相殿に天照大神・宇賀神・春日神・八幡神を祀るとも云う。

社はその西方丘陵に奉祀する高御前に対し、江御前とも称する。郷司家旧記には第53代淳和天皇の天長年中、僧空海が伊勢へ来錫した時、疫病が流行してこの社に参拝したと云い、館家日記には、この社の祭神を素戔嗚尊とするには、織田氏の兵乱にこの社を天王に擬して兵火を免れようとした名残であろう。往古は東富津御厨、内宮若江御厨等あり、今の字に畝若江之内・若之尻等あるは御厨田なるべく、依って天照大神を祀って村名を田宮村と云い、船戸村に船戸神を祀ったとある。

 以上の記述によると、大正寺の南にある尾野神社北之宮は、最初のパラグラフにある「一説には尾野山の北の鼻山に鎮座してあった」社のことかという気がします。

 なお、尾野神社のある大成小学校の北の丘は、尾野山城跡とされますし、この尾野山城跡と、大成小学校を挟んだ南側のところは、白山鼻ヶ城跡とされます(こちら)。

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