名所旧跡

2021年10月24日 (日)

20211016「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第12回「松阪・小津~松阪駅」(その3)……旧小津清左衛門家、本居宣長旧宅跡、旧長谷川治郎兵衛家、三井家発祥の地へ

 Rokken4  10月16日の「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第12回「松阪・小津~松阪駅」の本編その3です。その2では、市場庄の古い町並みの先で地蔵尊、道標などを見て、舟木家長屋門、柳福寺、地蔵尊、山の神と続き、松ヶ崎駅の先で古川水神常夜燈と遙拝所、さらに薬師寺まできました。その3では、いよいよ松阪の市街地に入り、旧小津清左衛門家、本居宣長旧宅跡、旧長谷川治郎兵衛家、三井家発祥の地を見て回り、その後、松阪駅北西にあるお寺を巡ってきました。

Img_1475c Img_1480c  その2で最後に立ち寄った薬師寺の先は、しばらく見るところはありません。しかし、このあたりにも古い家は残っています。左のお宅も、卯建が上がり、幕板があります。川井町3丁目の交差点を過ぎると、いよいよ松阪の市街地に入って行きます。

Img_1500c_20211024045901 Img_1505c_20211024045901  6㎞の手前で阪内川を渡ります。この川は、松坂城の外堀として位置づけられていました。左の写真で、中央に松阪市役所、松阪市民病院が少し見えています。その奥に松坂城跡。

Img_1509c_20211024045901 Img_1565c_20211024050001  大橋を渡ったところに旧小津清左衛門家があります。以前来たときは、松阪商人の館といっていました。江戸で一番の紙問屋、豪商小津清左衛門家の邸宅を公開しています。小津家は、松阪においては数多い江戸店持ちの豪商の中でも筆頭格だったそうです。外観は格子と矢来があり、質素なイメージなのですが、屋敷は意外なほど広く、土蔵も2つ残っています。

Img_1516c_20211024045901  承応2(1653)年に江戸・大伝馬町一丁目に紙店(小津屋)を開業し、明治以降は、銀行・紡績工場などを 設立して多角経営に乗り出しましたものの、関東大震災や金融恐慌などの難局を乗り切るため、本来の紙卸問屋に復し、現在は創業以来の地で小津産業株式会社として紙業と不動産業を継続しています。

Img_1528c_20211024045901 Img_1551c_20211024050001  蔵の一つで「小津家の信仰と年中行事」という秋季企画展が開かれていました。中には、その2で訪ねた慈眼山寿永院柳福寺との関わりを示す史料もあり、興味深く見てきました。いささか余談めきますが、蔵の内部は2階づくり。2階へ上がる階段は、1段の高さがかなりのもの。前期高齢者は、よほど注意して、「ヨイショ」とかけ声をかけないと登れません。いわゆる「階段箪笥」になっているためのようでした。

Img_1534c_20211024045901 Img_1541c_20211024045901  展示品の中には、大正16年(改元されて昭和2(1927)年。大正天皇の崩御が12月25日でしたので、それ以前に作成したのでしょう)1月付けの「大日本資産家一覧鑑」がありました。もちろん、小津家や、このあと訪ねた長谷川家の資料を提示するものですが、よくよく見たら桑名の諸戸家の名前もありました。右の写真で中央あたりに「諸戸清六」「諸戸精太」のお二人のお名前。

Img_1597c_20211024050001  旧小津清左衛門家からは、いったん伊勢街道を離れ、1本西にある魚町の通りへ。松阪肉の牛銀本店の前を通過(笑)。通過しただけで、食べてはおりません。ここは、いつ通っても、人が並んでいます。

Img_1609c_20211016181701 Img_1620c_20211024050001  牛銀本店の少し先、東側に本居宣長旧宅跡があります。本居宣長は、説明するまでもありませんが、江戸中期の有名な国学者、歌人。この宅地は、宣長の曾祖父小津三郎右衛門が承応3(1654)年に本町の家屋敷とともに小津某より購入したものです。本町の家が小津家の本宅であり宣長が生まれた家ですが、現在は何も残っていません。この宅跡とは溝を隔てて地続きで、裏口で通じていたそうです。宣長旧宅が移築されてからも、春庭宅とされている離れと土蔵、一部の樹木は残されて当時の名残を今に留(とど)めている。また礎石なども復元され、傍らには宅跡碑が建つ。旧宅そのものは、明治42(1909)年、松坂城跡に移築され、現在もそこにあります。

Img_1616c_20211024050001  本居宣長旧宅跡の向かいには御目見得医で親友の小泉見庵(こいずみけんあん)宅があります。宣長は商人を継ぐ気が全くなく、母親が見庵に相談したところ、「医者にでもしたらよろしかろう」という返事があったというエピソードが伝わっています。

Img_1679c_20211016181701 Hasegawa  旧長谷川治郎兵衛家。スタートから6.2㎞、時刻は13時25分頃到着。魚町一丁目の「丹波屋」を屋号とする松阪屈指の豪商、長谷川治郎兵衛家の本宅です。長谷川家は、数多い江戸店持ち伊勢商人の中でも、いち早く江戸に進出して成功をおさめました。延宝3(1675)年、3代治郎兵衛政幸を創業の祖とし、後には江戸の大伝馬町一丁目に5軒の出店を構える木綿商となります。広重作の「東都大伝馬街繁栄之図」には、長谷川家の江戸店が描かれており、その繁栄ぶりがうかがえます。右は、松阪市のサイトからお借りした配置図です。この広大な屋敷構えは、長い歴史の中で隣接地の買収と増築を繰り返し形成されたもので、近世から近代にかけて商家建築の変遷をたどることができます。正面の外観は建ちの低い、つし2階建てで、卯建が上がっていますし、幕板もあります。

Img_1636c_20211024050101  内部も一通り拝見してきましたが、母屋には30以上の部屋があります。蔵は5棟。17世紀後半から20世紀初頭にかけて順次建て増しされたもので、現存する古い商家としては、国内でベストテンに入るといわれます。

Img_1647c_20211024050101 Img_1644c_20211024050101  蔵の1つでは、長谷川家に伝わるさまざまなものが展示されていました。大判、小判、千両箱などなどもありましたが、右は、千両箱の模型。千両入ったのと同じ重さになっていました。千両箱はその名の通り、小判1,000両などを収納できます。用材は樫木を用い鉄帯や金具で頑丈につくられています。慶長小判は、1枚が約18gですので、箱の重さを含めると約20㎏。ヒョイとかついで、サッサと逃げるというわけにはいきません。

Img_1667c_20211024050101 Img_1659c_20211024050101  こちらは蔵の背後にある庭の池。中の島もありますが、私の個人的な興味は、あるものに集中。それは、カルガモ。20羽かそれ以上いたように思います。旧長谷川治郎兵衛家を訪ねた記事は、他にもあります(2019年11月4日:20191103近鉄ハイキング「蒲生氏郷を訪ねて 氏郷まつりと松阪城下町散策」へ(完)【付記(11/4)中日新聞の記事を載せました】、2018年7月6日:20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(その4)……松坂城跡の続きから旧長谷川邸まで)。

Img_1686c_20211024050101  旧長谷川治郎兵衛家を楽しんだあとは、再び伊勢街道に戻り、三井家発祥の地。。三井家は、もちろんあの三井財閥の三井家。ここ松阪出身の高利(たかとし;1622~94年)を祖とします。高利は14歳から江戸で修行、28歳で松坂に戻り、家庭を持った後、金融業などで資本を蓄え、52歳で江戸・京に進出。江戸・京都・大坂で呉服店を開き、両替商も営んで幕府・諸藩の為替御用の地位を得て発展しました。高利は、三井家の3代目。ここには白粉町来迎寺から移した初代高安と2代高俊の墓、高利の長兄らの供養碑、発祥の地の記念碑、また、高利の産湯に使ったという伝承のある井戸があります。一般には公開されていません。塀の隙間から覗いてみたら、井戸と石碑が見えました。

Img_1696c_20211024152201 Ea935f76  時刻は、14時。昼食もまだ食べていません(苦笑)。三井家発祥の地の南にある豪商ポケットパークで小休止。水分補給とおやつ(微笑)。四阿は、かつての三井家に存在した建物の2階部分の屋根をイメージした「寄棟」。四阿の前には「来遠像」が鎮座。来遠は、ライオン。三井家と松阪市の歴史と未来をつなぐ象徴として、三越伊勢丹ホールディングスから市に寄贈されたそうです。三越の前にいるライオンさんです(来遠像の写真は、2018年5月26日に撮影:2018年7月7日:20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(その5)……松阪もめん手織りセンター、岡寺山継松寺を経て松阪駅)。

 伊勢街道は、豪商ポケットパークのところから直進して、日野町交差点に向かうのですが、この日は、伊勢街道とJR紀勢線との間に並ぶお寺を巡ることにしました。それはその4にて。

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2021年10月22日 (金)

20211016「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第12回「松阪・小津~松阪駅」(その2)……舟木家長屋門、柳福寺、古川水神から薬師寺へ

Rokken2  10月16日の「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第12回「松阪・小津~松阪駅」の本編その2です。その1では、市場庄の町並みを楽しみました。冒頭の画像は、実際に歩いたルートマップその2。近鉄山田線の高架をくぐるあたりまで市場庄の古い町並みが続きます。その先で地蔵尊、道標などを見て、舟木家長屋門、柳福寺、地蔵尊、山の神と続き、松ヶ崎駅の先で古川水神常夜燈と遙拝所へと進んで行きます。

Img_1139c_20211021074301 Img_1149c_20211021074301  近鉄山田線の高架をくぐるところで、スタートから2.5㎞。時刻は11時15分頃。高架の先、左側(東側)に地蔵尊。この先、松阪市久米町に入りますが、その旧久米村の北の入り口に置かれています。村境にこのようにお地蔵様などをおいて、よくないものが村に入ってこないようにしていたと思います。

Img_1156c_20211021074301 Img_1160c  その先、三叉路のところに庚申堂、行者堂、山の神2基、道標、常夜燈が並んでいます。左の写真で、向かって右が庚申堂、左が行者堂。行者堂に木札があり、「金剛童子蔵王権現不動」とあります。中央は常夜燈。右の写真で、向かって右端は「いおちかんのん」への道標。山の神が2基。

Img_1180c_20211021074301  以前来たとき(2019年10月13日 :20191005近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅9日目~伊勢街道、旅人気分で雲出から城下町松阪へ」(その2)……中原神社、常夜燈2基を経て伊勢街道に入り、市場庄のまち並みを再確認)、みえの歴史街道「伊勢街道」のコースマップには「左さんぐう道」と刻まれた道標があるとなっていたのですが、見当たりませんでした。今回よくよく見たら、たぶんこれがその道標。何ということか、ゴミ捨て禁止などの立て看板が3つほどくくりつけられています。これは、いけません。前回は、まさかこんなことになっているとは思いもしませんでした。これでは、気付かないはず。

Img_1202c_20211021074401 Img_1195c_20211021074401  この三叉路で伊勢街道は左折、すぐに右折。その先に久米公会所。3㎞ほどになりますし、11時40分頃でしたので、ここで小休止。敷地内には、「太田雅城翁頌徳碑」がありました。裏の台座には、「久米區建設 昭和十四年一月十五日」とあります。久米はこのあたりの地名。太田雅城翁、本名は、太田政四郎といい、明治9(1876)年生まれ。温厚篤実、誠実な人柄で、大正元(1912)年、区長に推薦され、公共慈善に尽くしたとありました。これにより、昭和12(1937)年2月、この頌徳碑を建てることにしたとありました。

Img_1206c_20211021074401 Img_1210c_20211021074401  公会堂の敷地内、伊勢街道沿いに石標が1基あります。「北距安濃郡界貳(?)……」。下の方は読めませんでした。碑陰も「距/三重縣……/一志郡……」と同じくはっきりせず。里程標と思われます。安濃郡は、現在の津市。

Img_1226c_20211021074401 Img_1234c_20211016181701  続いて、舟木家長屋門。舟木家は、南北朝時代から続いた名家だそうです。江戸時代には、当時の久米村の惣庄屋を務め、後には紀州藩主からお目見えを許されたと伝えられます。長屋門は、舟木家の格式を示しています。特徴は、門の正面中央より下の部屋に施された海鼠壁(なまこかべ)。この長屋門は、寛政6(1794)年に建築され、天保5(1834)年に改修されました。門に向かって右には、武者窓もあります。

Img_1287c_20211021074401 Img_1274c_20211021074401  舟木家のすぐ南に慈眼山寿永院柳福寺。浄土宗のお寺です。観音堂に十一面観音があります。また、あとで訪ねる松阪の豪商三井家小津家の帰依を受けていました。

Img_1313c_20211021074501 Img_1298c_20211021074501  立福寺から伊勢街道に戻って、街道が左折するところに、庚申堂と山の神2基が、道を挟んで向かい合っています。これで、近鉄山田線の松ヶ崎駅の西まで来ました。

Img_1335c_20211021192301  スタートから3.7㎞、県道756号線の高架の手前に古川水神常夜燈・遙拝所があるのですが、常夜燈が見当たりません。古い写真(たとえば、こちらのブログの平成17年7月の記事)を見ますと、向かって左の石柱(「古川水神常夜燈」とあるもの)が常夜燈でした。常夜燈は、万延2(1861)年の建立。奥には小さな祠と、そのかたわらに「古川水神遙拝所」という石碑。ただし、この「古川水神」そのものは、情報がなく、よく分かりません。敷地内には、山の神も2基あります。

Rokken3  県道756号線を越えると、実測ルートマップはその3へ。4㎞を過ぎて、百々川のところに両宮常夜燈。その向かいに「富士大権現碑」があるというのですが、これはよく分かりませんでした。JR紀勢本線を渡ると、薬師寺。

Img_1364c_20211021193801  両宮常夜燈の手前に鍛冶屋さんがあります。「かじ栄 山田鉄工所」という看板がかかっています。ここでも農機具などをつくっていらっしゃるような感じでした。鉄工、溶接の他、農具、刃物と看板に書かれています。こういう鍛冶屋さんは、昔はけっこうあちこちにあったと思うのですが、最近はほとんど見なくなりました。

Img_1371c_20211021194001 Img_1375c_20211021194001  百々川(どどがわ)を塚本橋で渡ります。渡った東側(左手)に常夜燈があります。正面には、「奉納/常夜燈」と、碑陰には「嘉永五年壬子二月吉祥日」とあります。また、台石には「日本橋/○久/室壱」・「紅林氏」と掘られていました。嘉永5年は1852年。対馬に外国船が現れたり、ロシアの軍艦が下田に来港したりした年です。この常夜燈には、電線が引き込まれていますので、電気で今でも点灯するのかも知れません。この常夜燈の向かい側、百々川の手前を右に入ったところに「富士大権現碑」があるのですが、場所を勘違いして、見てきませんでした。百々川を渡ったところにある小公園にあるものと思い込んでいたのです。不覚をとりました。

Img_1389c_20211021194001 Img_1392c_20211021194001  ちなみにその小公園には、気になるものがありました。石柱なのですが、よく見ると「どゝ」「大正○○」とあります(半分くらいは土中に埋まっています)。塚本橋の古い親柱と思われます。小公園の入り口にもそれらしい石柱がありますが、こちらは、ゴミ収集の案内板が貼られていて、ちょっとなんだかなという気もしました。

Img_1411c_20211021194601  利生山延命院薬師寺。天台宗のお寺。聖武天皇の勅願所で、天平2(730)年、行基の開基と伝えられます。まさに古刹。仁王門(写真)と本堂が残っています。所蔵されている「木造薬師如来坐像」は、貞観年間(859~877年)末期の作といわれ、県の有形文化財。仁王門は、入母屋造、本瓦葺で阿吽の仁王像が安置されています。かなり傷んでしまっていて、仁王像は近くでは見られませんでした。もともとのものは「天正年間(1573~93年)の戦乱で灰燼に帰し、棟札からは、承応2(1653)年に再興された本堂の後に、仁王門も再興されたものと思われる」とありました。

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 本堂は修理中でした。戦国時代、織田氏が北畠氏を攻めた大河内(おかわち)合戦の後、講和の条件として、信長の二男・茶筅丸(信雄)が北畠氏の養子となり、永禄12(1569)年から3年間をここで過ごしたといいます。ちなみに、戦の舞台となった「大河内城跡」は、薬師寺から南西に10㎞ほどのところにあります。

Img_1447c_20211021194701  本堂の前には芭蕉句碑があります。「梅が香にのっと日の出る山路かな」とあります。高さ約2m38cmの細長い角柱の碑です。こういう角柱の句碑も珍しい気がします。句は中央に一行で刻まれ、碑陰には何も刻字がありませんので、この句碑は、いつ頃誰が建てたものか不明です。

Img_1329c_20211016181701 Img_1321c_20211016181701  キリが良いので、その2はここまでとしますが、余談を一つ。これもまた「歴史散歩」かも知れません(微笑)。古川水神常夜燈・遙拝所の手前(北)で、TE27レビン。カローラレビンの初代モデルが止められていました。昭和47(1972)年発売。セリカに積まれていた2T-Gという1.6Lツインカムエンジンを載せたモデル。110馬力という、当時では高性能エンジン。あまりにも懐かしく、しばし勝手に眺めてきました(微苦笑)。ちなみに、私は、AE86トレノ、通称「ハチロク」に乗っていたことがあります。実によく回るエンジンで、あちこちを走った記憶があります。青春時代でした(微笑)。

 その3では、いよいよ松阪の市街地に入ります。旧小津清左衛門家、旧長谷川治郎兵衛家など、松阪の豪商の旧宅めぐりからとなります。

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2021年10月20日 (水)

20211016「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第12回「松阪・小津~松阪駅」(その1)……JR紀勢線・六軒駅を降りて、市場庄の古い町並みへ

211016isemairiall  「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」も10月16日に行ってきた「松阪・小津~松阪駅」で第12回となりました。今年の4月9日に桑名の七里の渡し跡をスタートし(20210409「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」……第1回「七里の渡し跡~朝日」その1……七里の渡し跡から七曲見附跡)、6ヶ月かかって松阪駅までやって来ました。冒頭の画像は、コースの全体像。東海道と伊勢街道(参宮街道)のみを通って、桑名・七里の渡し跡から伊勢神宮・内宮まで辿ったもの。全行程で約94㎞。七里の渡し跡から松阪駅西の日野町交差点までが68.7㎞ありますから残りは25.3㎞。いよいよ内宮に近づいた気がしてきます。

Rokken0_20211019025901  さて、この日歩いたコースは、こちらです。前回のゴールであったJR紀勢線・六軒駅をスタートし、南へ。三渡川(みわたりがわ)を越えて六軒追分。ここは初瀬街道との追分。市場庄の古い町並みを抜けて、松ヶ崎駅近くの舟木家長屋門と柳福寺に立ち寄り、さらに薬師寺。川井町を過ぎるといよいよ松阪市街地に入ります。旧小津清左衛門家、本居宣長旧宅跡、旧長谷川治郎兵衛家と名家を廻り、松阪駅の西にある岡寺山継承寺などのお寺を巡って、松阪駅にゴール。歩いたのは、8㎞でした。天気予報では、曇りでしたが、実際には晴れて、暑いくらいでした。

Img_0782c_20211016181701 Img_0775c_20211019035501  いつものように、桑名駅を8時42分に出る近鉄の五十鈴川行き急行に乗車。津駅に9時24分着。JR紀勢線に乗り換えます。前回と同じく9時42分の鳥羽行き普通に乗って、JR六軒駅には、10時ちょうどに到着。近鉄が¥700、JRが¥240。JR六軒駅を10時5分にスタート。余談ですが、JR紀勢線の普通列車は、基本的にワンマン運転。運転台の後部に料金表と料金箱とがあります。列車を降りるのも、1両目の最前部の扉から。乗るのは、1両目の最後部の扉からで、整理券をとります。六軒駅は、参宮鉄道の駅として、明治27(1894年)1月に開業しています。参宮鉄道そのものは、明治26(1893)年12月31日に津~相可(現・多気)~宮川間が開通していますが、六軒駅は建設中でした。

Rokken1 Img_0789c_20211019035901  実際に歩いたルートマップのその1。六軒駅の東からが伊勢街道。三渡橋で三渡川を渡ります。渡ったところが初瀬街道との追分で、道標と常夜燈があります。ここから近鉄山田線の高架をくぐるあたりまで、2㎞弱にわたって市場庄の古い町並みが続きます。途中2㎞の手前に神楽寺、市場公会所、道十という屋号の江戸時代は茶道具商だった店、そこから少し東に忘井があります。

Img_0802c_20211019040001 Img_0815c_20211019040001  三渡橋。一昨年、近鉄ハイキングで来たときは、橋の架け替え工事中でした(2019年10月1日:20190922近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅8日目~伊勢街道、旅人気分で垂水から雲出へ」(その4)……三渡川を渡って常夜燈、市場庄のまち並み、忘井を見て斎王に思いをはせ、いよいよゴールの松ヶ崎駅へ)。左の写真は、下流方向(伊勢湾の方角)。右は橋を渡ったところの西側。

Img_0797c_20211019040001 Img_0806c_20211019040001  最初から余談続きで恐縮ですが、三渡橋でバードウォッチング(微笑)。渡り鳥のヒドリガモのペア1組、アオサギの他、カルガモなどがいました。ときどきブログに書いていますが、バードウォッチングは、いつでもどこでも楽しめます。一緒に歩いている同級生K氏も、最近、私の悪影響をモロに受けて、「オイ、あれはアオサギだな」などというようになりました(微苦笑)。三渡川の名は、中世に渡しが3ヶ所あったことに因みます。

 

Img_0818c_20211019040801 三渡川を渡ったところが、初瀬街道(はせかいどう)との追分。京・大和方面と伊勢を結ぶ初瀬街道は、ここ松阪市六軒から青山峠を越え、名張を経て奈良県の初瀬(長谷)へと至ることからその名が付いています(左の写真で、奥の方に続く道が初瀬街道)。古くは「青山越」「阿保越」、参宮表街道、参宮北街道とも呼ばれ、古代には大海人皇子が名張に至った道であり、また斎王が伊勢へと赴いた道でもありました。

Img_0822c Img_0835c  道標には、「い加ごへ追分 六けん茶や/右いせみち六軒茶屋/やまとめぐり加うや道/大和七在所順道」と刻まれています。「い加ごへ追分」のところ、「加」の漢字に濁点がついているという珍しい文字でした。この道標、橋の架け替え工事中は、撤去されていて、その時には探してウロウロした記憶があります(2019年10月1日:20190922近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅8日目~伊勢街道、旅人気分で垂水から雲出へ」(その4)……三渡川を渡って常夜燈、市場庄のまち並み、忘井を見て斎王に思いをはせ、いよいよゴールの松ヶ崎駅へ)。その意味では、2年越しでようやく、これを観るという目標をコンプリートできました。

Img_0839c_20211019042401  道標の東には、常夜燈が1基あります。正面に「両宮/常夜燈」、右に「秋九月造建」、左に「文政元年戊寅」とあります。文政元年は、1818年。伊勢街道には、本当にたくさんの道標や、常夜燈があります。江戸時代は、おかげ参りなど、伊勢神宮にお参りする人が本当に多かったことを伺わせます。

Img_0934c_20211019043201 Img_0860c_20211016181701  ここから市場庄町に入ります。市場庄地区の伊勢街道沿いには、全国的にも珍しいといわれる妻入り(つまいり)と連子格子(れんじこうし)の町並が残り、当時の風情を漂わせています。左の写真は、道十の手前(北)にある合羽屋という屋号のお宅。軒には、雨除け・日除けのための幕板(大垂)もあり、屋号も掲げられています。「ちゃんと歩ける伊勢参宮道 善光寺街道(五街道ウォーク・八木牧夫著、山と渓谷社)」に詳しい紹介があります。また、こちらのサイトにも案内マップ。

Img_0916c_20211019044101 Img_0931c_20211019044201  丸ポストも残る伊勢街道を歩いて行きます。途中、「米銀よねぎん)跡」と書かれた蔵らしい建物。外壁がトタン板張りになっていますが、かなり古そうです。トタンで覆ってあるのはちょっと残念な気もしますが、そのさびたトタンにも味がある感じ。「味噌・醤油の米本銀蔵倉庫」の跡です。蔵の前にコンクリート製の用水桶が3つ。また、入り口の庇のデザインもいい感じ。

Img_0962c_20211016181701 Img_0971c  スタートから1.6㎞ほどのところに道十(どうじゅう)という屋号のお宅。このお宅は、妻入り、幕板、連子格子の典型的な建物で、神楽寺の西の三叉路に面しています。江戸時代には、「道十(どうじゅう」という茶道具商でした。道十の向かいにある蔵のところに道標があります。この道標は、米の庄神社への分岐点であり、「忘井之道」とまれています。宝暦元(1751)年に建てられたもの。「忘井」はこの道標から100mほど東にあります。斎王に関わる旧蹟ですから、これも見逃せません。

Img_0980c_20211016181701 Img_0985c_20211019044901  こちらが「忘井(わすれい)」。「忘井」とは、「忘れて捨てられた井戸」という意味なのですが、ここは、斎王群行(さいおうぐんこう;古代、天皇の即位ごとに伊勢神宮の斎宮へ斎王となる皇女が派遣され、その行列を斎王群行といいました)に同行した官女甲斐(かい)の詠んだ歌で有名です。「わかれ行く都の方の恋しきにいざむすび見んわすれゐの水」(千載和歌集)。官女甲斐は、伝説上の斎王を除き、大来皇女(おおくのこうじょ)から数えて49代目の斎王、あい子内親王(在任期間1108~1123;「あい」の文字は変換不能でした。斎宮歴史博物館の斎王一覧のサイトをご覧ください)にしたがってこの忘井を通った際、望郷の念やみがたく涙とともにこの歌を詠じたといいます。ちなみに、井戸そのものは現在は埋まってしまっています。右の写真で、忘井に向かって右にある石碑には、官女甲斐の和歌が刻まれているように思うのですが、はっきりとは読めませんでした(こちらの記述からすると、たぶん間違いないように思います)。

Img_0994c_20211019045301  忘井の奥には、山の神などがあるのですが、これについては、説明板にも言及はなく、詳細は不明。

Img_1068c_20211019170301 伊勢街道近くまで戻って、 護法山神楽寺(ごほうざん しんらくじ)。曹洞宗のお寺で、ご本尊は釈迦如来。市場庄公会所の東にあります(というよりも、市場庄公会所が、神楽寺の境内を利用して建てられたとされます)。神楽寺は、古くは旧米ノ庄村の熊野権現社の別当寺として権現坊護国院と称しており、その頃は熊野権現社の祭礼に際し、祭供を司り舞楽を演奏する道場であったといわれています。

Img_1016c_20211019170301  慶長16(1611)年3月、越中新川郡布目村(現富山県富山市)大安寺の5世聖山巌祝が曹洞宗に改め、寺号を神楽寺と改称して開山しました。本堂・山門ともに江戸時代中期の建立とされます。山門(左上の写真)は黄檗宗の山門に似ており、切妻造りの中央部分の屋根を切り上げてつくられています。宝暦7(1757)年の銘がある瓦も残されているそうで、本堂・山門の建立時期もそれ以前と考えられています。

Img_1024c_20211019170301  境内には、村の入り口にあったという青面金剛(ショウメンコンゴウ)像と、庚申塔があります。青面金剛は、帝釈天の使者の金剛童子。身体は青色で、六臂(ろっぴ)または二臂、四臂(「臂」は腕。六臂は、腕が六本ということ)、目は赤くて三眼で、怒りの形相をとります。病魔を退散させる威力があり、俗に庚申会(こうしんえ)の本尊で、猿の形相をしているもの。この御堂には、文字庚申も入っています。ちなみに、「庚申」は、もとは道教の守庚申より出た庚申(かのえさる) の年または日の禁忌行事を伴う信仰。庚申の夜には、人の体内にいる三尸(さんし) の虫が、その体内を抜け出して天帝にその人の罪過を告げると信じられ、これを防ぐため道士たちは不眠の行を行いました。これが守庚申で、日本の民間信仰では庚申待、庚申講として伝えられています。

Img_1075c_20211019170301  神楽寺の山門の南には、見事な藤棚があります。

Img_1046c_20211019170301  いささか余談ですが、第11回の歩いて伊勢参りツアーで、円福寺の立派な蘇鉄を見て以来、お寺に行くと蘇鉄が気になるようになりました(2021年10月15日:20211009「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第11回「津・高茶屋~松阪・小津」(その1)……JR高茶屋駅をスタートし、玉造院、明治天皇島貫御小休所跡、円福寺を見て、雲出川を渡って松阪へ)。ここ神楽寺の本堂の前にも立派な蘇鉄がありました。

Img_1061c_20211019170301 Img_1065c_20211019170301  もう一つの余談。「敷居が高い」ということばがあります。「不義理や面目のないことがあって、その人の家へ行きにくい」というのが本来の意味ですが、最近では、「高級すぎたり、上品すぎたりして、入りにくい」と理解している人の方が多くなったそうです。現在、私たちが「敷居」といっているのは、「襖や障子などの建具を立て込むために開口部の下部に取り付ける、溝やレールがついた水平材」ですが、本来「敷居」とは、門の内外を分けるために敷く横木のことです。長々と屁理屈を書いていますが、この神楽寺の山門のところで見つけた、これが、敷居を填めていたところではないかという話になったのです。寺の山門にはこの敷居があるところがありますが、ここのものは、取り外せるようになっていたのだろうと、二人であれこれ思案(微笑)。

Img_1083c_20211019170301  市場庄公会所。大正7(1918)年に建てられ、昭和30(1955)年まで米ノ庄村役場として利用されていました。外壁が下見板張りの寄棟造桟瓦葺平屋建で、正面中央に切妻造起り屋根(むくりやね)の玄関が組み合わされています。建物の門前には、石製の門柱が立てられており、いかにも役場という雰囲気を感じさせます。現在は、公会所として利用されています。

Img_1088c_20211019170301  市場庄公会所の前には、「皇太子殿下御誕生紀念」と刻まれた石柱があります。これを建てたのは、「帝国在郷軍人會 米ノ庄村分會第二斑」でした(石柱の正面、下に刻まれています)。日付などは読めませんでしたが、現在の上皇陛下がお生まれになったときに、記念植樹をしたのでしょう。石柱の周囲にある木がそれではないかと思います。

Img_1109c_20211019175901 Img_1123c_20211019175901  市場庄公会所の先の伊勢街道。蔵が残っているお宅もたくさんあります。右の蔵のあるお宅で、ちょうどこの家の方が出てこられ、蔵などについていろいろと伺うことができました。維持していくのはかなり大変だそうです。お子さんたちは、結婚を機に独立することも多いそうですが、中には、広い敷地を活かして、離れを建てて同居する方もあるそうです。

 その1はここまで。その2では、近鉄山田線の高架をくぐった先から。市場庄のまち並みの案内や、地蔵尊があります。

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2021年10月17日 (日)

20211009「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第11回「津・高茶屋~松阪・小津」(その3)……道標、常夜燈などを見ながらブラブラ歩いてJR六軒駅にゴールにて「完」

Takachaya4  10月9日の「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第11回「津・高茶屋~松阪・小津」の本編その3です。その2では、松浦武四郎誕生地などを見て、奈良街道と交わる月本追分まで来ました。このあたりの伊勢街道は、JR紀勢線と国道23号線の間を進んでいます。月本追分の先には、道標、常夜燈、山の神が点在しています。

Img_8741c Img_8748c_20211016045501  スタートから6.6㎞、三叉路の手前に道標が1基、建っています。かなり小ぶりですが、「右からす道」と彫られています。左面には「一志驛跡」とありますが、これは後に加えられたもの。「一志驛」は、古代律令制の「駅制」で設けられた駅(30里(約16㎞)ごとに一駅が置かれ、官吏や使者に馬・食糧を提供)。実は、この少し東には、「常夜燈(天保3(1832)年建立)」と、「勅使塚(「吾妻鏡」の中に源氏追討祈願のため伊勢神宮に向かった勅使大中臣定隆が、一志驛で急逝したことが記されており、それを元に大正8(1919)年に碑が建てられたもの)」があるのです。しかし、こちらは見に行っていません。いずれにしても、「勅使塚」の説明にあるように、一志驛は律令制の駅で間違いなさそう。

Img_8768c  その先でY字になった三叉路があり、民家のところに道標、燈籠などが並んでいます。どこかよそにあったものをここに集めて並べたような印象があります。これは、みえの歴史街道の伊勢街道のマップには載っていません。向かって右は常夜燈と思います。「太一」と刻まれています。伊勢神宮では、天照大神を「太一」とする解釈がなされることがあり、実際、遷宮の際行われる御木曳の奉曳車には「太一」と記されています。これはおそらく神宮のことを意味しています。中央の道標には、正面に「左さんぐう道」、右に「津みち」とあります。その向かって左にあるものは、山の神と思われます。左端のものは、形を見ると、橋の親柱かという気がします。穴のあいている部分には高欄が通っていたように思います。「山神松」という文字が見えますが、さらに下に文字が隠れている気がします。

Img_8778c_20211016063101 Img_8783c_20211016063201  中道公会所のところには、道標、金毘羅大権現、山の神2基などがあります。伊勢街道は、右の道。石柱が1基と、道標が2基立っています。伊勢街道のマップには、常夜燈もあると書かれていたのですが、それは見当たりません(リンク先のマップは、平成23(2011)年2月現在のもの)。石柱の表には「天白村中道青年團」、裏には「昭和十二年十月建之」とありました。「天白村」は、このあたりにかつてあった村。中道もここの付近の地名ですから、地元青年団が建てたもの。

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Img_8792c  中央にある道標。「右さんぐう道」とあります。この道標、中央に穴があいているという珍しいタイプ。もう一本、向かって右にある道標には、「右からす道」と刻まれていますが、ちょっと不鮮明になっています。「天白村中道青年團」の石柱の東に金毘羅大権現と、山の神が2基あります。由来などは、説明板もなく、不明。

Img_8795c  中道公会所のすぐ先、民家のブロック塀の角に埋まるようにして、もう1基、道標があります。「左からす道」とあります。「からす」は何度も出て来ますが、「香良洲」。平成18(2006)年旧・津市など10市町村で合併するまでは、一志郡香良洲町でした。雲出川古川、雲出川、伊勢湾に挟まれた小さな町。郊外通勤農村といわれます。伊勢神宮の御薗で、塩を奉納していたところ。香良洲神社の参詣者で賑わいましたので、あちこちに道標があると思われます。香良洲神社の御祭神は、天照大御神の妹神とされる稚日女命(わかひるめのみこと、天稚日女命とも)。このため「お伊勢詣りをして加良須に詣らぬは片参宮」とされました。

Takachaya5  詳しいルートマップも、いよいよ最後、その5になります。中道公会所の先には、その昔的屋などがあったところ。国道23号線南濃バイパスをくぐったところに小津一里塚跡。小津公会所の先に道標と常夜燈があり、今回の伊勢街道歩きはここまで。右折して、この日のゴールに設定したJR紀勢線・六軒駅に向かいます。

Img_8802c_20211016064201  国道23号線南勢バイパスをくぐる手前のあたりの様子。この附近は、街道沿いにからくり的、射的、文楽などがあり、土産も売られていたといいます。国道23号線は、このあたりで中勢バイパスから南勢バイパスへと変わります。中勢バイパスは、鈴鹿市 北玉垣町交差点からここ松阪市小津町交差点まで(鈴鹿市内の一部が未開通)。中勢バイパスは、家内の実家に行くときに利用しています。

Img_8808c_20211009192701 Img_8812c_20211009192701  小津一里塚跡は、本当に小さいので、見逃しそうです。国道23号線の高架を潜って200mも行かないところに「小津一里塚跡」の碑があります。これまで見てきた一里塚跡の碑はかなり大きくて、目立つものばかりでしたので、気付かずに通り過ぎそうです。「一里塚龍宮橋より南凡そ95メートル」と刻まれています。昭和54(1979)年に再建されたもの。

Img_8819c_20211009192701 Img_8835c_20211009192701  今日のゴールに予定していた六軒駅の東、スタートからは7.7㎞のところに道標と常夜燈。常夜燈は、明治45(1912)年建立。入母屋型竿長。明治の終わり頃、参宮鉄道が開通しても、白装束の参宮客は六軒駅で降り、ここを曲がって伊勢まで歩いて行ったといいます。道標はかなり読みにくくなっていますが、「右松阪及山田○○」「左津及香良洲○○」とあります。下部が埋まってしまっていて、文字は一部不明。大正3(1914)年の建立。この日の伊勢街道歩きは、ここまで。右は、この常夜燈・道標のところから、歩いてきた道を振り返った写真。道中、ずっと晴天。「日に焼けると疲れる」とか、「それは陽に当たると疲れるのだ」とかいいながら歩いてきました。

Img_8843c_20211009192701Img_8860c_20211016064901  ゴールのJR紀勢線・六軒駅。スタートからは8㎞、時刻は、13時40分。いってはいけませんが、いかにも田舎の駅。味というか、風情があります。建物があるだけで、切符の販売機も、飲料の自販機もありません。

Img_8857c_20211016064901 Img_8872c_20211009192701  JR紀勢本線とはいうものの、普通電車しか止まりません。津方面の亀山行き普通は14時ちょうど。1時間に1本が基本ですので、すぐに電車がなければ、近くの近鉄山田線伊勢中原駅に回ろうかと思っていたのですが、14時の電車に乗ることにします。スタートした高茶屋駅からはたったの1駅。下っていくと、次の駅は松阪駅。いよいよ遠くまでやって来た気がします。

Img_8878c_20211009192701  こちらの写真は、跨線橋から津方面を見た写真。気持ちの良い景色が広がっています。

Img_8893c_20211009192701 Img_8893c_20211009192701  津駅には14時18分に到着。¥240。3回連続になりますが(笑)、津駅の駅ビル・チャムで昼食。今回は、豚そば・ぎんやでつけ麺。¥850。つけだれはちょっと辛かったものの、美味しく食べられました。

Img_8897c_20211009204101 Img_8909c_20211009192701  昼食を済ませ、津からは近鉄。15時16分発名古屋行き急行で、桑名には16時4分着。今日の歩数は、19,444歩。現地で8㎞、自宅~桑名駅往復が2.2㎞で、計10.2㎞。天気もよかったので、いささか日に焼け、ちょっと疲れたかなと思っています。

Img_8887c_20211016065601 Img_8889c_20211016065601  出発前に桑名駅の切符売り場で、同級生K氏がしみじみと路線図を眺めていました。「毎回歩く距離は知れているが、回数を重ねるとずいぶん遠くまで来たんだな」と。その通りです。次回は、いよいよ松阪駅まで。全行程の2/3を越えたはず。年内に伊勢神宮・内宮まで達するでしょうか?

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2021年10月16日 (土)

20211016「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第12回「松阪・小津~松阪駅」(超予告編)【一部加筆修正しました(10/19)】

Rokken0_20211019025901  前回の伊勢参りツアー(2021年10月 9日:20211009「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第11回「津・高茶屋~松阪・小津」(予告編))の記事が終了していないにもかかわらず、今日は、その第12回で「松阪・小津~松阪駅」に行ってしまいました(苦笑)。近場を歩いている間は、半日仕事でしたが、さすがに津以遠まで行って帰ってくるとなると、1日かかります。松阪から桑名まで近鉄急行で戻ってくると1時間以上かかり、帰宅したのが16時半過ぎ。また、今日は、写真を何と1,100枚以上も撮って来てしまい、とても整理がついていません。それ故、今日は、「超」がつく予告編。冒頭の画像は、実際に歩いた今日のコースの全体像。

Img_0782c_20211016181701  いつものように、桑名駅を8時42分に出る近鉄の五十鈴川行き急行に乗車。津駅に9時24分着。JR紀勢線に乗り換えます。前回と同じく9時42分の鳥羽行き普通に乗って、JR六軒駅には、10時ちょうどに到着。近鉄が¥700、JRが¥240。JR六軒駅を10時5分にスタート。

Img_0860c_20211016181701  三度川を渡ったところが、初瀬街道(はせかいどう)との追分。京・大和方面と伊勢を結ぶ初瀬街道は、ここ・松阪市六軒から青山峠を越え、名張を経て奈良県の初瀬(長谷)へと至ることからその名が付いています。古くは「青山越」「阿保越」、参宮表街道、参宮北街道とも呼ばれ、古代には大海人皇子が名張に至った道であり、また斎王が伊勢へと赴いた道でもありました。実際にこのように歩くことで、今まで学んだり、見てきたりした歴史が実際につながっていく気がします。写真は、追分を通り過ぎたところで撮っています。左端に道標が小さく見えます。その左に初瀬街道が続きます。向かって右に見える常夜燈は、両宮常夜燈。文政元(1818)年のもの。伊勢街道には、実にたくさんの道標や、常夜燈があります。江戸時代は、おかげ参りなど、伊勢神宮にお参りする人が本当に多かったことを伺わせます。このあたりからは市場庄のまち並みに入ります。古い家などたくさん残っていますし、松阪市小野江町あたりと同様に、それぞれの家に屋号が表示されています。

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 このお宅は、妻入り、連子格子の典型的な建物。神楽寺の西の三叉路に面しています。「道十(どうじゅう」という屋号で、江戸時代には茶道具商だったところ。こちらのマップにあった説明に、「『六軒茶屋まで送りましょう……』とはお伊勢参りの旅人と、うたかたに親しんだ遊女がその別れを惜しみ伊勢音頭の一節として歌ったもの」だそうです。そんなことをいわれてみたい気になりますが、さもありなんと思わせる、情緒あふれるまち並みが続きます。

Img_0980c_20211016181701  道十のところから東に入ると、忘井があります。ここの「忘井」は、斎王群行(さいおうぐんこう;古代、天皇の即位ごとに伊勢神宮の斎宮へ斎王となる皇女が派遣され、その行列を斎王群行といいました)に同行した官女甲斐(かい)の詠んだ歌で有名です。「わかれ行く都の方の恋しきにいざむすび見んわすれゐの水」(千載和歌集に載っています)。官女甲斐は、伝説上の斎王を除き、大来皇女(おおくのこうじょ)から数えて49代目の斎王、あい子内親王(在任期間1108~1123;「あい」の文字は変換不能でした。斎宮歴史博物館の斎王一覧のサイトをご覧ください)にしたがってこの忘井を通った際、望郷の念やみがたく涙とともにこの歌を詠じたといいます。ちなみに、井戸そのものは現在は埋まってしまっています。

Img_1234c_20211016181701  途中、少し端折って、舟木家長屋門。舟木家は、南北朝時代から続くという名家。津の藤堂家の家老や御殿医を務めた家柄。江戸時代には、当時の久米村の惣庄屋を務め、後には紀州藩主からお目見えを許されたと伝えられます。長屋門は、舟木家の格式を示しています。特徴は、門の正面中央より下の部屋に施された海鼠壁(なまこかべ)。この長屋門は、寛政6(1794)年に建築され、天保5(1834)年に改修されました。

Img_1577c_20211016181701  阪内川を越え、松阪の市街地に入ります。川を越えたすぐのところに旧小津清左衛門家。江戸で一番の紙問屋、豪商小津清左衛門家の邸宅を公開しています。小津家は、松阪においては数多い江戸店持ちの豪商の中でも筆頭格だったそうです。外観は格子と矢来があり、質素なイメージなのですが、屋敷は意外なほど広く、土蔵も2つ残っています。承応2(1653)年に江戸・大伝馬町一丁目に紙店(小津屋)を開業し、明治以降は、銀行・紡績工場などを 設立して多角経営に乗り出しましたものの、関東大震災や金融恐慌などの難局を乗り切るため、本来の紙卸問屋に復し、現在は創業以来の地で小津産業株式会社として紙業と不動産業を継続しています。

Img_1609c_20211016181701  続いては、伊勢街道からはいったんはずれ、1本西の道に入ります。松阪肉で有名な牛銀本店のある通り。旧長谷川治郎兵衛家の斜向かいに、本居宣長旧宅跡があります。宣長の曾祖父・小津三郎右衛門が、承応3(1654)年、本町の家屋敷とともに小津某より購入したものです。本町の家(こことは、溝を距てて地続きで、裏口で通じていたそうです)が、小津家の本宅であり宣長が生まれた家ですが、そちらには、現在は何も残っていません。宣長の息子・春庭宅とされている離れと土蔵、一部の樹木は残されて、当時の名残があります。

Img_1679c_20211016181701  旧長谷川治郎兵衛家。卯建が上がる立派な邸宅。というのも、松阪屈指の豪商、長谷川治郎兵衛家の本宅なのです。長谷川家は、数多い江戸店持ち伊勢商人の中でも、いち早く江戸に進出して成功をおさめています。江戸の大伝馬町一丁目に5軒の出店を構える木綿商となり、広重作の「東都大伝馬街繁栄之図」には、長谷川家の江戸店が描かれており、その繁栄ぶりがうかがえます。

Img_1707c_20211016181701  このあとは、松阪駅の北西にある寺を巡ってきました。予告編の今回は、岡寺山継松寺(おかでらさんけいしょうじ)だけを取り上げます。高野山真言宗のお寺。ご本尊は、如意輪観世音菩薩。通称「岡寺さん」。天平15年(743年)に聖武天皇の勅願により行基菩薩が創建したと伝わっています。東大寺建立の大事業が無事成功することを祈願するために建てられた寺院でした。元来は市内石津町にあったが、江戸時代初期の慶長17(1612年)年、時の松坂藩主古田重治により現在地に移転されました。ここは初午で有名。このあと、近くの寺を巡ってきましたが、今まで知らなかった立派なお寺がたくさんありました。

Img_1880c_20211016181701 Img_1897c_20211016181701  今日のゴールに設定した松阪駅には、14時45分に到着。ここまで休憩はしたものの、昼ご飯は食べておらず。松阪駅にあったヴィ・ド・フランス 松阪店でパンをイートイン。お腹が空いていたので、写真を撮る前に食べてしまいました(苦笑)。

Img_1868c_20211016181701 Img_1931c_20211016181701  ゴールインの前に、重要な使命を果たしてきました(苦笑)。まずは、駅弁のあら竹本店。娘に今日は、松阪駅まで歩くといったら、「モー太郎弁当」が食べたい! とキョーレツな要望。¥1,500もする松阪ブランドの黒毛和牛を使った弁当。私は2年前に食べたのですが、その時、家族は実家に行っていて誰も食べてはいません。我が家では「伝説の駅弁」になっていて、今回、強力な要望があった次第。

Img_1888c_20211016181701 Saraoi  松阪駅にある「まつさか交流物産館」。いつもここでお土産をゲットしています。とはいえ、私の松阪土産は決まっていて、老伴(柳屋奉善)。今日は、6個入り(¥1,080)を1個。同級生K氏も、私が勧めましたので、これの3個入りを購入。

Img_1909c_20211016181701 Img_1923c  松阪駅を15時17分に発車する名古屋行き急行に乗車。桑名駅には、16時22分着。1時間5分も乗ってきました。運賃は、¥960。今日の歩数は、19,479歩。現地で歩いたのは8.0㎞。自宅から桑名駅往復が、2.2㎞。合計10.2㎞を歩いてきました。

Img_1937c_20211016190001  夕食には、モー太郎弁当を美味しくいただきました(微笑)。まだ写真整理にもほとんど手を付けていませんし、実際に歩いたルートマップもつくっていません。明日以降、これらを処理した上で、予告編もバージョンアップしようと思っています。今日のところは、取り急ぎ「超予告編」でお茶を濁しておきます。

Img_1329c_20211016181701 Img_1321c_20211016181701  余談。松阪市内のとあるところで見つけたクルマ。TE27レビン。カローラレビンの初代モデル。昭和47(1972)年発売。セリカに積まれていた2T-Gという1.6Lツインカムエンジンを載せたモデル。110馬力という、当時では高性能エンジン。あまりにも懐かしく、しばし勝手に眺めてきました(微苦笑)。ちなみに、私は、AE86トレノ、通称「ハチロク」に乗っていたことがあります。実によく回るエンジンで、あちこちを走った記憶があります。青春時代でした(微笑)。

【追記(10/19)】 10月18日になってようやく写真整理を終えられました。写真が多すぎたところに、いつも使っているCorel Paintshop Pro2022のアップデートをしたら、メニューバーが変わってしまい、使いにくくなったことも影響。冒頭のルートマップは、実際に歩いたものに更新し、文章も一部、加筆修正しました。

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20211009「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第11回「津・高茶屋~松阪・小津」(その2)……松阪にて松浦武四郎誕生地、常夜燈、金剛寺を経て月本追分へ

Takachaya2  10月9日の「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第11回「津・高茶屋~松阪・小津」の本編その2です。その1では、雲出川を渡って、いよいよ松阪市に入りました。詳細なルートマップでは、まだその2の途中です。まずは、本楽寺に寄って、松浦武四郎誕生地へ。

Img_8547c_20211009192501  その前に興味深いことを1つ。小野江の町の多くのお宅には、写真のように屋号が表示されています。ご承知の通り、家の通称です。写真のお宅は、「タバコ屋」。以前はたばこ屋さんをなさっていたのでしょう。他にも、本家、籠末などなど。いちいち写真を撮るのも大変で、2~3枚撮っただけでしたが、この「本家」というのは、あとで松浦武四郎誕生地で伺ったら、松浦武四郎のお父さんの実家だったそうで、惜しいことをしました(苦笑)。

Img_8558c_20211009192601 Img_8550c_20211009192601  本楽寺。真宗高田派。慶長8(1603)年の創建。本尊は、来迎阿弥陀如来。詳しいことは分かりませんでしたが、境内は広くてきれいに整えられていました。

Img_8611c_20211009192601  スタートから4㎞、11時30分過ぎに松浦武四郎誕生地に到着。松浦武四郎(文化15(1818)~明治21(1888)年)は、 探検家。幕末に蝦夷地(現北海道)を6回にわたって歩き、「蝦夷日誌」と呼ばれる調査記録をまとめています。アイヌ民族とも交流を深め、北海道開拓の基礎を築いた人。画家、書道家、歌人、登山家としての顔も持っています。ここは、その松浦の生家です。入館料は、¥110。客は、われわれ二人のみ。係の方に丁寧に案内や、説明をしていただけ、ラッキー。建物は天保3(1832)年の建築で、本家の家督を譲った武四郎の父・圭介が購入し、移住したといわれています。後に増改築された箇所があるものの、ほぼ当時の様子を残しているそうです。このあと、近くにある松浦武四郎記念館も訪ねようと思ったのですが、あいにく改装工事ということでした。来春完成予定とか。

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 武四郎が13歳のとき、大きな出来事があったといいます。文政のおかげ参りです。日本の人口が約3,200万人と推定される時代に、1年間に約400万人が伊勢へ参宮したのです。ここ松浦家の前の伊勢街道も多くの旅人が行き交ったのです。武四郎は、参宮客から名所図会に出てくるような土地や道中の話を聞いて、見知らぬ土地への憧れ、旅への思いを募らせたと考えられています。16歳のとき、家出して江戸に行ったといいます(山本命著、松浦武四郎入門、月兎舎)。

Img_8600c Img_8589c  松浦武四郎の実家は、庄屋だったそうで、屋敷の奥に蔵の他、納屋が残っていました。昔の農機具もおかれています。脱穀機の他、興味深かったのは、「肥たご」(苦笑)。子どもの頃、当然、水洗トイレではなくくみ取り式。オヤジにいわれて、この肥たごをかつがされ、近くの畑へ運んだことがあります。重いのやら、田舎の香水がきついのやら、さらには揺れてチャプチャプとこぼれそうになるのやら、大変な思いをしました。

Img_8570c_20211015071801 Img_8566c_20211015071801  庭も当時のまま。写真は、離れ屋(武四郎の父の隠居所)の庭。右の燈籠は、武四郎が、明治2年に「開拓判官」に任じられ、「従五位」を授与された記念につくったもの(のちに開拓判官辞任、官位は返上しています)。

Img_8606c_20211015071801 屋根に珍しいものがあります。鬼瓦の所に布袋様。「屋根の上の鍾馗様」は、知っていて、桑名でも時々見かけますが、布袋様はここでしか見たことがありません。ネットで検索すると、布袋様や大黒様などの屋根飾りがあるようです(たとえばこちら)。布袋様は、七福神のお一人。もとは、中国、唐末頃のお坊さん。常に杖と布袋とを持歩き、人の吉凶や晴雨を予知し、尊崇されましたから、福の神として祀られているのかという気がします。

Takachaya3  詳細なルートマップは、その3へ。金剛寺のところには常夜燈もあります。その先で5㎞を過ぎますが、しばらくは見るところはありません。香良洲道との追分があり、そこに道標。

Img_0932c_20190922201601_20211015175601 Img_0939c_20211015175601  上述のように、残念ながら松浦武四郎記念館は改装工事中ということで、先に進みますが、参考までに前回訪れた時の写真を載せておきます。写真は、2019年9月22日に近鉄ハイキングで訪ねたときのもの(20190922近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅8日目~伊勢街道、旅人気分で垂水から雲出へ」(その2)……玉造院、明治天皇島貫御小休所跡碑、島貫の常夜燈、松浦武四郎誕生地、松浦武四郎記念館を経て、金剛寺近くにある胎蔵界大日如来にお参り)。松浦武四郎は、身長148cmとかなり小柄でしたが、まさに小さな巨人。

Img_8640c_20211015185101  次の金剛寺までの途中、この「市川庄次郎君之碑」があったのですが、詳細は不明。碑陰の撰文を見ると、明治33(1900)年生まれで、小野江村在郷軍人分会長を務めるなど、地方自治に功労のあった方のようです。碑は、昭和34(1959)年7月に建之。撰文は三雲村長・宇野誠一、碑表は当時の三重県知事・田中覚によるものでした。

Img_8651c_20211009192601  スタートして4.7㎞のところ、金剛寺の向かいに常夜燈。正面には「両宮 常夜燈」、裏には「文政七年甲申三月吉日」とあります。常夜燈の下部には、「江戸/乾物問屋中」とあり、江戸の乾物問屋の集まりが、文政7(1824)年に建てたと考えられます。

Img_8680c_20211009192601 Img_8656c_20211009192701  常夜燈の東に王殿山瑠璃光院金剛寺。真宗高田派。ご本尊は、来迎阿弥陀如来立像。このお寺、ご覧のように生け垣が山門風にしつらえられていました。槙かと思います。こういうのは、2018年12月23日の近鉄ハイキングのとき久居の宝窟山栄松寺でみました(20181223近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 酒蔵めぐり油正『初日』と桃園三地蔵」へ……予告編、年内のウォーキング/ハイキング納め)。

Img_8663c  金剛寺の少し東には、胎蔵界大日如来があります。お地蔵様に見えます。大日如来は、真言密教の教主にして、宇宙の実相を仏格化した根本仏。一切の現実経験世界の現象はこの如来そのものであるといわれ、諸仏諸菩薩はすべて大日如来から出生したと説かれます。さらに、大日如来には、智徳の面を現示した金剛界大日如来と,理徳の面を現示した胎蔵界大日如来とがあります。こちらの仏様は、その後者。母胎中に男女の諸子を守り育てる意義を有しており、仏の大悲が衆生を守護して育てることを意味しているそうです。

Img_8683c_20211015185701 Img_8686c  金剛寺で12時20分を回った頃。歩き始めて2時間半近くですので、小休止をとることに。肥留公会所の軒先を借りました。このあたりの地名は、「肥留」。初めて来たのは、近鉄ハイキングの伊勢詣りツアーの時。何と読むのか分かりませんでした。「こえとめ」?などとあらぬ事を考えたりした記憶があります(苦笑)。右の写真は、このあたりの伊勢街道。北の方(来た方)を見ています。高茶屋あたりまでは、生活道路になっていて車がよく通ったのですが、そこから南は、車も人もほとんど通らなくなり、歩きやすい道になりました。

Img_8689c_20211009192701  5.7㎞のところで香良洲道との追分。道標は、「香良洲道道標」。文政4(1821)年の建立。正面には「霊汗阿弥陀如来 仏心」とありますが、よく分かりません。他には、「旅神社 小舟江是より三丁 右からすみち」と刻まれています。

Takachaya4  この先、詳しいルートマップはその4。まずは、月本追分へ。その先には、道標や山の神、燈籠があちこちにあります。

Img_8731c_20211009192701  月本追分(つきもとおいわけ)。スタートからは6.2㎞。13時頃到着。奈良街道との追分です。ここには旅人や籠かきなどの休憩所であった立場が置かれていました。県指定史跡文化財で、常夜燈と道標があります。奈良街道は、ここ月本から久居を経て、津市美里町五百野まで。「伊賀ならみち」ともいいました。左の写真は、南から撮ったもので、向かって左が奈良街道。奥から手前が伊勢街道。月本という地名は、古くから月読社(つきよみしゃ;月読命(ツクヨミ、ツキヨミ;月の神。夜の食国(おすくに)の支配を命じられた)を祭神とする神社)が勧進されており、月読社の本の集落という意味から生まれたといわれています。

Img_8716c_20211009192701  「両宮常夜燈」と刻まれた常夜燈。この追分の東北の角に立っています。花崗岩製の宮立型。この常夜燈は、江戸の三人が天保年間(1830~43年)に発起し、角屋精兵衛、綿屋萬助、村田屋新兵衛によって建立されています(角屋、村田屋、錦屋などは、ここにあった立場茶屋や煮売屋のようです)。再発起は、当国有信中により、明治3(1872)年11月に建立されています。

Img_8705c_20211009192701  追分の西南側には道標と変形宮立型燈籠(道標も兼ねています)があります。向かって左の道標は、高さ3.1mで伊勢街道では最大のものです。江戸時代後期に建てられたもので、東面に「月本おひわけ」、西面に「右さんぐうみち」、北面に「右いかご江なら道」、南面に「左やまと七在所順道」と刻まれています。実に立派な道標です。筆者は小津村の中村正雅、石工は市場庄村甚兵衛(石甚)。世話人は、当所の角屋精兵衛ほかならまでの道中旅籠屋4人で、天保13(1842)年に建立。

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 変形宮立型燈籠は、明治16(1883)年に再建されたもの。正面に「永代常夜燈」と、向かって右側、左側ともに「右大和七在所道/ならはせ/いがこゑ本道 かうや道」と刻まれています。「ならはせ」は初瀬街道、「いがこゑ本道」は伊賀本街道、「かうや道」は和歌山街道かと思います。「大和七在所道」は、今ひとつよく分かりませんが、「『七在所巡道しるべ』(宝暦11年:国会図蔵)序文に、『伊勢参宮して大和の神社を巡高野へ行、住吉天王寺岩清水へ詣、宇治伏見を見て京へ上り、三井寺石山を巡終として帰る。是を七在所巡といふ予住所の辺にて昔よりかくいへども何所をかぞゆるやらん不知昔より巡たるあとを巡也』とある。」という記述を見つけました(こちらのレファレンス共同データベース)。

 詳しいルートマップのその4の途中ですが、キリが良いので、本編の記事その2はここまで。

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2021年10月15日 (金)

20211009「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第11回「津・高茶屋~松阪・小津」(その1)……JR高茶屋駅をスタートし、玉造院、明治天皇島貫御小休所跡、円福寺を見て、雲出川を渡って松阪へ

Takachaya0  10月9日に行ってきた「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第11回「津・高茶屋~松阪・小津」の本編その1です。仕事があったりして、書き始めるのが遅くなりました。この日は、絶好のウォーキング日和でした。前回、前々回と雨に祟られていましたが、やはりウォーキングは天気の良い日でなくてはなりません。前回ゴールしたJR紀勢線・高茶屋駅から、雲出川を越え、いよいよ松阪市に入り、JR紀勢線・六軒駅まで。桑名のアメダスでは、最高気温は29.2℃。現地では、暑いくらいでかなり汗を掻きました。高茶屋駅からほぼまっすぐ南下。旧三雲町(広域合併で、松阪市になっています)へ。今日も同級生K氏と。

Img_8216c_20211009192401 Img_8211c_20211009192401  桑名から津まで近鉄。桑名駅を8時42分に出る五十鈴川行き急行に乗車。津駅には、9時24分着。¥700。ここでJR紀勢本線に乗り換え。9時42分の鳥羽行き普通で、高茶屋駅まで。高茶屋には、9時52分着。¥200。10時にスタート。右の写真は、高茶屋駅の跨線橋から見た津方面。

Img_8204c_20211013071401  列車は、ジーゼルの2両編成。ワンマン運転ですので、降車は、1両目の前の扉から。普通なら、ランプのついた緑のボタンを押して、ドアを開けるのですが、幸い、係員の方が添乗していて、その必要はありません。ワンマンの電車の乗り方にもずいぶん慣れました(微笑)。

Takachaya1 Img_8227c_20211013071501  こちらは、歩いたコースの詳しいルートマップその1。高茶屋駅を出て左折したところからが伊勢街道。国道165号線の高架をくぐり、JR紀勢本線の踏切を渡って南へ。玉造院、社跡と回って、その後しばらくは立ち寄るところはありません。右の写真は、伊勢街道に入ったところ。南向きで撮っています。

Img_3236c_20211013071701  Img_8234c_20211013071501 ちなみに(いきなり余談)、JRの駅名は、「たかちゃや」なのですが、地名は「たかじゃや」。左の写真は、前回撮ったもの(2021年9月25日:20210925「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第10回「津・栄町~津・高茶屋」(予告編)……今日も雨に降られる始末)。右は、町名表示板。“Takajaya”とあります。

Img_8296c_20211009192401 Img_8255c_20211009192401  最初の立ち寄り先は、スタートから700mほどのところにある龍護山玉造院(りゅうごさんぎょくぞういん)〔池田大師〕があります。高野山真言宗のお寺。みえの歴史街道のマップや、ネット検索ではこれという情報は出て来ません。

Img_8259c_20211013072401 Img_8274c_20211013072401  境内には四国八十八所霊場巡りの石仏が並んでいます。これについての説明はありませんでしたが、石仏を納めた小堂には、寄進者の名前が刻まれていました。信者の方々の寄進によってつくられたものと思われます。

Img_8304c_20211013072701 Img_8311c_20211013072701  玉造院からすぐ南、伊勢街道から西に入ったところには、社跡があります。ここも詳しいことは分かりませんが、集落の南北の入り口にあったという山の神が4基、移設されていました。

Img_8317c_20211009192401 Img_8324c_20211013073001  この先、しばらく立ち寄るところはありません。田園地帯をひたすら歩いて行きます。稲刈りが済んでいないところもけっこうありました。東の方には、JFEエンジニアリング津製作所が見えます。われわれの世代には、日本鋼管といった方が馴染みがあります。住所は、今でも津市雲出鋼管町というくらいです。かつては造船所でした。西の空を見ると、まるで夏のような青空と白い雲。

Takachaya2  詳細なルートマップは、その2になります。雲出市民館を通り過ぎ、雲出島貫町の中心へ。明治天皇島貫御小休所跡碑・雲出宿柏本陣跡、円福寺、毘沙門堂跡・島貫の松、島貫の常夜燈と見て回り、いよいよ雲出川を渡ります。ここで津市から松阪市に入り、小野古江渡り跡、常夜燈を経て、本楽寺から松浦武四郎誕生地へ。

Img_8336c_20211013073801 Img_8357c_20211013172401  雲出市民館の先に津市殿木地区圃場整備事業記念碑と紀念碑。圃場整備事業紀念碑は、津市長岡村初博の揮毫。岡村市長は、昭和49(1974)~平成6(1994)年に市長在職。紀念碑は、風化していてよく読めません。碑陰には「殿木區民建設之」、さらに「第二次移住者」として4名の方の名前が刻まれていました。明治33(1900)年の建立。新しく開発し、移住して農業を始めたということかと思われます。紀念碑は、現在地の北200mの所から平成8(1996)年に移設。2つの碑の間には、よく見ると山の神が2基。どういうわけか、向かい合って建てられています。想像するに、集落の南北の入り口にあったものを、そのままの向きでここへ移設したのか? という気がします(当てずっぽうです)。

Img_8363c_20211009192401  旧雲出宿に入っていきます。スタートから2㎞を過ぎたところに、明治天皇島貫御小休所跡碑があります。ここは、伊勢街道・雲出宿本陣柏屋の跡。明治天皇は明治2(1869)年3月10日、明治13(1880)年7月7日、9日の3回、本陣柏屋で休憩されました。伊勢街道で明治天皇がお休みになられたところは、津八幡町に続いて2ヶ所目(2021年9月25日:20210925「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第10回「津・栄町~津・高茶屋」(予告編)……今日も雨に降られる始末)。今は、かつて宿場であったことを伺わせるものはないように思えます。

Img_8375c_20211009192501 Img_8379c_20211014071501  この奥に槙の木の大木と、山の神が2基あります。正式に「マキ」と呼ばれる木はなく、複数の酒類をまとめて呼ぶ名称だそうです。多くの場合は、イヌマキを「マキ」と呼ぶことが多いそうです。マキで大木をあまり見たことはないと思ったのですが、イヌマキは、高さ20mほどになるそうです。

Img_8396c_20211009192501 Img_8410c_20211009192501  いったん伊勢街道に戻って少し先を入ったところに寿光山円福寺。真宗高田派の寺。境内に、立派な蘇鉄があります。ここの蘇鉄は、10数本の株が伸びており、最も太い幹は2m近くあるといいます。県下でももっとも古い蘇鉄で、樹齢400年以上になると推定されています。津市天然記念物。

Img_8384c_20211009194801  円福寺に入っていく伊勢街道のかたわらに道標が1基あります。「神明道」と刻まれています。上部が少し欠けており、また、文字もやや不鮮明になっています。神明道は、雲出長常村の神明社へ至る道を示しています。雲出長常村の神明社というのは、現在の雲出神社(津市雲出本郷町)かと思います。

Img_8434c Img_8439c_20211014072101  この先で伊勢街道は、雲出川に行き当たります。堤防に上がる前に、1ヶ所寄り道。すぐに毘沙門堂跡。「開運毘沙門天霊場 三十三ヶ所観世音分身安置 北畠大納言の守護尊」と石碑に刻まれています。北畠大納言は、北畠顕泰(きたばたけあきやす)。南北朝時代から室町時代前期にかけての公卿・武将。右大臣北畠顕能の二男。父から伊勢国司を継ぎ、南朝方として多気を拠点に活躍したのですが、南北朝合一後は室町幕府に帰順しています。ここに毘沙門堂があり、その境内に33の観音堂があったということ。観音堂は、今は、この石碑の北側に並んでいました。

Img_8444c_20211009192501 Img_8448c_20211015043401  また、ここには、「島貫の松」の碑があります。毘沙門堂の境内にあったもので、伊勢湾台風で枯れるまで、立派な松の木があったそうです。今の松の木は、その代わりに植えられたものと思われます。

Img_8463c_20211015043701  雲出川。奈良県境にある三峰山から伊勢湾まで55㎞を流れています。川の名前の由来は、河口部一帯にある塩田の塩釜から立ち上る煙の様子が雲のように見えたことという説と、上流山地部に雲が多く、渦を巻く様子が下流部からよく見えたからという説と2つあるそうです。津市と松阪市の境。

Img_8475c_20211009192501  3㎞を過ぎて、雲出川にかかる雲出橋。北のたもとには、島貫の常夜燈。天保5(1834)年建立。宮立型。元は、ここから200mほど戻った、渡しの北岸にあったものを雲出橋の架け替えの時移設。天保元(1830)年にはお蔭参りが流行しましたが、旅人の安全を祈願して建てられています。上でも少し触れましたが、島貫は伊勢街道の宿場で栄えたところでした。昭和の初めまでは旅籠も何軒か残っていたのですが、参宮鉄道が敷設された頃から寂れてしまいました。この常夜燈は、かつては渡し場口にあったもので、高さは4.6mという立派なもの。

Img_8500c Img_8498c  雲出橋を渡って、いよいよ松阪市に入ります。この日の朝、同級生K氏が駅の路線図をマジマジと見て、「だいぶ歩いたな」といっていましたが、本当にそうです。今回で、全体の行程の2/3を越えるはず。

Img_8507c_20211009192601  雲出橋を渡った西側には、小野古江渡(おののふるえわたり)跡。雲出川は、櫛田川・宮川と並ぶ三大河川の1つで、南北朝時代には南朝方と北朝方との境界であり、軍事上の問題から橋は架けられませんでした。そのため渡し場が設けられ、その1つがこの小野古江渡です。慶長19(1614)年頃までは川越場から人馬によって川越をしていたといいます。江戸時代のおかげ参りでは、全国から多いときには500万人もの人が往来したそうです。明治13(1880)年に雲出橋が架けられました(現在の橋は、平成12(2000)年のもの)。

Img_8511c_20211009192501  小野古江渡跡の向かいにも常夜燈があります。寛政12(1800)年に雲出川の川端に建てられたもので、元はここから200mほど下流にあった伊勢街道の渡し場にありました。平成12(2000)年に雲出橋が新しくなるとき、ここに移設されています。幾度かの大地震で倒れたものの、そのたびに建て直されています。近年では昭和19(1944)年の東南海大地震で倒壊し、火袋が補修されました。宮立型という形で、高さは4.7m、花崗岩製。この常夜燈の西面には「常夜燈」、東面には「寛政十二龍集庚申晩春穀旦」、北面に「京都○講大坂屋藤七(○の部分は、○に漢数字の一)」、さらに南面には「腰山市左衛門 藤忠三」と刻まれています。常夜燈を見て、雲出川を下流方向に少し歩いて、堤防から降り、右折し小野江の町に入って行きますが、長くなりましたので、その1はここまで。その2は小野江の町や、松浦武四郎誕生地から。

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2021年10月 9日 (土)

20211009「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第11回「津・高茶屋~松阪・小津」(予告編)

Takachaya0  絶好のウォーキング日和でした。今日は、「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」の第11回。「津・高茶屋~松阪・小津」に行ってきました。前回、前々回と雨に祟られていましたが、やはりウォーキングは天気の良い日でなくてはなりません。前回ゴールしたJR紀勢線・高茶屋駅から、雲出川を越え、いよいよ松阪市に入り、JR紀勢線・六軒駅まで、8㎞を歩いてきました。桑名のアメダスでは、最高気温は29.2℃。現地では、暑いくらいでかなり汗を掻きました。冒頭の画像は、コースの全体マップ。高茶屋駅からほぼまっすぐ南下。旧三雲町(広域合併で、松阪市になっています)へ。今日も同級生K氏と。まずは、予告編。

Img_8216c_20211009192401 Img_8211c_20211009192401  桑名から津まで近鉄。桑名駅を8時42分に出る五十鈴川行き急行に乗車。津駅には、9時24分着。¥700。ここでJR紀勢本線に乗り換え。9時42分の鳥羽行き普通で、高茶屋駅まで。高茶屋には、9時52分着。¥200。10時にスタート。

Img_8231c_20211009192401  高茶屋駅のすぐ西で左折して、伊勢街道に入ります(左の写真)。国道165号線の高架をくぐり、紀勢本線の踏切を越えて行きます。地名は、雲出島貫町。

Img_8296c_20211009192401 Img_8255c_20211009192401  スタートから700mほどで龍護山玉造院(りゅうごさんぎょくぞういん)〔池田大師〕があります。高野山真言宗のお寺。境内には四国八十八所霊場巡りの石仏が並んでいます。

Img_8300c  玉造院から南へ100mあまりの所、西側に少し入って「社跡」を見てきました。集落の両側の入口から移設した山ノ神が4基ありました。今日、このあとにもたくさんの山の神を見てきましたが、昔はあちこちに山の神様が祀られていたのだということがよく分かります。

Img_8317c_20211009192401  このあたりは田園地帯。稲刈りが済んでいないところもけっこうありました。東の方には、JFEエンジニアリング津製作所が見えます。われわれの世代には、日本鋼管といった方が馴染みがあります。住所は、今でも津市雲出鋼管町というくらいです。かつては造船所でした。

Img_8363c_20211009192401  円福寺というお寺の近くに「明治天皇島貫御小休所跡碑」があります。ここは、伊勢街道・雲出宿本陣柏屋の跡。明治天皇は明治2(1869)年3月10日、明治13(1880)年7月7日、9日の3回、本陣柏屋で休憩されました。伊勢街道で明治天皇がお休みになられたところは、津八幡町に続いて2ヶ所目(2021年9月25日:20210925「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第10回「津・栄町~津・高茶屋」(予告編)……今日も雨に降られる始末)。

Img_8384c_20211009194801  明治天皇の御小休所跡のすぐ先、円福寺の参道入り口に道標。「神明道」と刻まれています。上部が少し欠けており、また、文字もやや不鮮明になっています。神明道は、雲出長常村の神明社へ至る道を示しています。雲出長常村の神明社というのは、現在の雲出神社(津市雲出本郷町)かと思います。

Img_8396c_20211009192501 Img_8410c_20211009192501  寿光山円福寺。真宗高田派の寺。ここの境内には、立派な蘇鉄があります。ここの蘇鉄は、10数本の株が伸びており、最も太い幹は2m近くあるといいます。県下でももっとも古い蘇鉄で、樹齢400年以上になると推定されています。津市天然記念物。

Img_8431c Img_8444c_20211009192501  円福寺の先で雲出川に行き当たり、伊勢街道は右折。右折してすぐに毘沙門堂跡。「開運毘沙門天霊場 三十三ヶ所観世音分身安置 北畠大納言の守護尊」と石碑に刻まれていて、その北に、33の観音堂が並んでいました。また、ここには、「島貫の松」の碑があります。伊勢湾台風で枯れるまで、立派な松の木があったそうです。

Img_8475c_20211009192501 Img_8500c  3㎞を過ぎて、雲出川にかかる雲出橋。北のたもとには、島貫の常夜燈。天保5(1834)年建立。宮立型。元は、ここから200mほど戻った、渡しの北岸にあったものを雲出橋の架け替えの時移設。天保元(1830)年にはお蔭参りが流行しましたが、旅人の安全を祈願して建てられています。雲出橋は、450mほどもある長い橋。川には、コイかフナかと思われる、けっこう大きな魚が悠然と泳いでいました。また、アオサギ、コサギが群れになって飛び立ってきていました。

Img_8507c_20211009192601 Img_8511c_20211009192501  雲出橋を渡った、南のたもと、西側には「小野古江渡跡(おののふるえのわたりあと)」があります。雲出川は、櫛田川・宮川と並ぶ三大河川の1つで、南北朝時代には南朝方と北朝方との境界であり、軍事上の問題から橋は架けられませんでした。そのため渡し場が設けられ、その1つがこの小野古江渡です。その向かいにも、常夜燈。こちらは、寛政12(1800)年に建てられたもの。元は、ここから200mほど下流の渡し場にありました。昭和19(1944)年の東南海大地震で崩壊し、再建。宮立型花崗岩製。

Img_8547c_20211009192501  雲出橋を渡って左折し、堤防から降りて南へ。次回歩く予定の市場庄あたりにもあったと思いますが、この小野江町の街道沿いのお宅には、かつての「屋号」が表示してあり、眺めていくといろいろと想像も膨らみ、楽しいものがあります。

Img_8611c_20211009192601  スタートから4㎞、11時半を過ぎた頃に松浦武四郎誕生地松浦武四郎(文化15(1818)~明治21(1888)年)は、 探検家。幕末に蝦夷地(現北海道)を6回にわたって歩き、「蝦夷日誌」と呼ばれる調査記録をまとめています。アイヌ民族とも交流を深め、北海道開拓の基礎を築いた人。画家、書道家、歌人、登山家としての顔も持っています。ここは、その松浦の生家。入館料¥110を払い、内部も拝見してきました。客は、われわれ二人のみ。係の方に丁寧に案内や、説明をしていただけ、ラッキー。建物は天保3(1832)年の建築で、本家の家督を譲った武四郎の父・圭介が購入し、移住したといわれています。後に増改築された箇所があるものの、ほぼ当時の様子を残しているそうです。このあと、近くにある松浦武四郎記念館も訪ねようと思ったのですが、あいにく改装工事ということでした。来春完成予定とか。

Img_8651c_20211009192601  金剛寺の向かいに常夜燈。正面には「両宮 常夜燈」、裏には「文政七年甲申三月吉日」とあります。常夜燈の下部には、「江戸/乾物問屋中」とあり、江戸の乾物問屋の集まりが、文政7(1824)年に建てたと考えられます。

Img_8656c_20211009192701 Img_8680c_20211009192601  常夜燈の東に王殿山瑠璃光院金剛寺。真宗高田派。ご本尊は、来迎阿弥陀如来立像。このお寺、ご覧のように生け垣が山門風にしつらえられていました。槙かと思います。こういうのは、2018年12月23日の近鉄ハイキングのとき久居の宝窟山栄松寺でみました(20181223近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 酒蔵めぐり油正『初日』と桃園三地蔵」へ……予告編、年内のウォーキング/ハイキング納め)。

Img_8663c  金剛寺の少し東には、胎蔵界大日如来があります。お地蔵様に見えます。大日如来は、真言密教の教主にして、宇宙の実相を仏格化した根本仏。一切の現実経験世界の現象はこの如来そのものであるといわれ、諸仏諸菩薩はすべて大日如来から出生したと説かれます。さらに、大日如来には、智徳の面を現示した金剛界大日如来と,理徳の面を現示した胎蔵界大日如来とがあります。こちらの仏様は、その後者。母胎中に男女の諸子を守り育てる意義を有しており、仏の大悲が衆生を守護して育てることを意味しているそうです。

Img_8731c_20211009192701  少し飛ばして、月本追分(つきもとおいわけ)。スタートからは6㎞を過ぎています。奈良街道との追分です。左の写真(南から北を向いて撮っています)で、奥から来るのが伊勢街道、左手が奈良街道。ここには旅人や籠かきなどの休憩所であった立場が置かれていました。県指定史跡文化財で、常夜燈と道標があります。月本という地名は、古くから月読社(つきよみしゃ;月読命(ツクヨミ、ツキヨミ;月の神。夜の食国(おすくに)の支配を命じられた)を祭神とする神社)が勧進されており、月読社の本の集落という意味から生まれたといわれています。

Img_8716c_20211009192701 Img_8705c_20211009192701  「両宮常夜燈」と刻まれた常夜燈。この追分の東北の角に立っています。花崗岩製の宮立型。この常夜燈は、天保年間(1830~43年)に角屋精兵衛、綿屋萬助、村田屋新兵衛によって建立されています(角屋、村田屋、錦屋などは、ここにあった立場茶屋や煮売屋のようです)。再発起は、当国有信中により、明治3(1872)年11月に建立されています。追分の西南側には道標と変形宮立型燈籠(道標も兼ねています)があります。向かって左の道標は、高さ3.1mで伊勢街道では最大のものです。江戸時代後期に建てられたもので、東面に「月本おひわけ」、西面に「右さんぐうみち」、北面に「右いかご江なら道」、南面に「左やまと七在所順道」と刻まれています。実に立派な道標です。変形宮立型燈籠は、明治16(1883)年に再建されたもの。正面に「永代常夜燈」と、向かって右側、左側ともに「右大和七在所道/ならはせ/いがこゑ本道 かうや道」と刻まれています。「ならはせ」は奈良街道、「いがこゑ本道」は伊賀本街道。「かうや道」は和歌山街道かと思います。「大和七在所道」は、今ひとつよく分かりませんが、「『七在所巡道しるべ』(宝暦11年:国会図蔵)序文に、『伊勢参宮して大和の神社を巡高野へ行、住吉天王寺岩清水へ詣、宇治伏見を見て京へ上り、三井寺石山を巡終として帰る。是を七在所巡といふ予住所の辺にて昔よりかくいへども何所をかぞゆるやらん不知昔より巡たるあとを巡也』とある。」という記述がありました。

Img_8745c_20211009192701  月本追分を出て、さらに南へ。5.5㎞を過ぎたところに道標が1基。かなり小ぶりですが、「右からす道」と彫られています。左面には「一志驛跡」とありますが、これは後に加えられたもの。「一志驛」は、古代律令制の「駅制」で設けられた駅(30里(約16㎞)ごとに一駅が置かれ、官吏や使者に馬・食糧を提供)。実は、この少し東には、「常夜燈(天保3(1832)年建立)」と、「勅使塚(「吾妻鏡」の中に源氏追討祈願のため伊勢神宮に向かった勅使大中臣定隆が、一志驛で急逝したことが記されており、それを元に大正8(1919)年に碑が建てられたもの)」があるのです。

Img_8768c  6.8㎞のところに三叉路。伊勢街道は、左手に向かうのですが、そこに道標、常夜燈、他1基があります。これは、伊勢街道のマップにはありません。他にあったものをここに集めたような気がします。向かって右は常夜燈で、「太一」と刻まれています。伊勢神宮では、天照大神を「太一」とする解釈がなされることがあり、実際、遷宮の際行われる御木曳の奉曳車には「太一」と記されています。これはおそらく神宮のことを意味しています。中央の道標には、正面に「左さんぐう道」、右に「津みち」とあります。向かって左にあるものは、形を見ると、橋の親柱かという気がします。穴のあいている部分には高欄が通っていたように思います。「山神松」という文字が見えますが、さらに下に文字が隠れている気がします。

Img_8775c_20211009192701  さらにすぐに中道公会所があり、石柱が1基と、道標が2基立っています。伊勢街道のマップには、常夜燈もあると書かれているのですが、それはありません(リンク先のマップは、平成23(2011)年2月現在のもの)。石柱の表には「天白村中道青年團」、裏には「昭和十二年十月建之」とありました。「天白村」は、このあたりにかつてあった村。中道もここの付近の地名ですから、地元青年団が建てたもの。中央にある道標には「右さんぐう道」とあります。この道標、中央に穴があいているという珍しいタイプ。もう一本、向かって右にある道標には、「右からす道」と刻まれていますが、ちょっと不鮮明。「天白村中道青年團」の石柱の東に金毘羅大権現と、山の神が2基ありました。

Img_8795c  中道公会所のすぐ南の民家のブロック塀の角に道標。「左からす道」とあります。「からす」は何度も出て来ますが、「香良洲」。平成18(2006)年、旧・津市など10市町村で合併するまでは、一志郡香良洲町でした。雲出川古川、雲出川、伊勢湾に挟まれた小さな町。伊勢神宮の御薗で、塩を奉納していたところ。香良洲神社の参詣者で賑わいましたので、あちこちに道標があると思われます。香良洲神社の御祭神は、天照大御神の妹神とされる稚日女命(わかひるめのみこと、天稚日女命とも)。このため「お伊勢詣りをして加良須に詣らぬは片参宮」とされました。

Img_8808c_20211009192701 Img_8812c_20211009192701  国道23号線の高架を潜って200mも行かないところに「小津一里塚跡」の碑があります。これまで見てきた一里塚跡の碑はかなり大きくて、目立つものばかりでしたので、危うく見逃すくらい小さい。引いて撮ると左のような景色。「一里塚龍宮橋より南凡そ95メートル」と刻まれています。昭和54(1979)年に再建されたもの。

Img_8819c_20211009192701  今日のゴールに予定していた六軒駅の東、スタートからは7.7㎞のところに道標と常夜燈。常夜燈は、明治45(1912)年建立。入母屋型竿長。明治の終わり頃、参宮鉄道が開通しても、白装束の参宮客は六軒駅で降り、ここを曲がって伊勢まで歩いて行ったといいます。道標はかなり読みにくくなっていますが、「右松阪及山田○○」「左津及香良洲○○」とあります。下部が埋まってしまっていて、文字は一部不明。大正3(1914)年の建立。

Img_8835c_20211009192701  今日の伊勢街道歩きは、ここまで。この常夜燈・道標のところから、歩いてきた道を振り返った写真。道中、ずっと晴天。「日に焼けると疲れる」とか、「それは陽に当たると疲れるのだ」とかいいながら歩いてきました。

Img_8843c_20211009192701 Img_8878c_20211009192701  ゴールのJR紀勢線・六軒駅。スタートからは8㎞、時刻は、13時40分。いってはいけませんが、いかにも田舎の駅。味というか、風情があります。建物があるだけで、切符の販売機も、飲料の自販機もありません。右の写真は、跨線橋から津方面を見た写真。気持ちの良い景色が広がっています。

Img_8872c_20211009192701  津方面の亀山行き普通は14時ちょうど。1時間に1本が基本ですので、すぐに電車がなければ、近くの近鉄山田線伊勢中原駅に回ろうかと思っていたのですが、14時の電車に乗ることにします。スタートした高茶屋駅からはたったの1駅。下っていくと、次の駅は松阪駅。いよいよ遠くまでやって来た気がします。津駅には14時18分に到着。¥240。

Img_8893c_20211009192701 Dsc_6246c  3回連続になりますが、津駅の駅ビル・チャムで昼食。今回は、豚そば・ぎんやでつけ麺。¥850。つけだれはちょっと辛かったものの、美味しく食べられました。

Img_8897c_20211009204101 Img_8909c_20211009192701  昼食を済ませ、津からは近鉄。15時16分発名古屋行き急行で、桑名には16時4分着。今日の歩数は、19,444歩。現地で8㎞、自宅~桑名駅往復が2.2㎞で、計10.2㎞。天気もよかったので、いささか日に焼け、ちょっと疲れたかなと思っています。本編は、いつも通り、また明日以降ユルユルと書いていきます。

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2021年10月 3日 (日)

午前中は名古屋で特別支援教育支援員養成講座の講師……伊勢茶安永餅の感想も

Dscn4509c Dscn4511c  今日も好天ですが、今日午前中は、名古屋で特別支援教育支援員養成講座。10時~12時の2時間、ウィルあいちで「心理検査でわかること 検査の支援への活かし方」についてお話ししてきました。受講者の方は、コロナ以前に比べると若干少なめでしたが、皆さん、熱心に聞いてください、質問もかなりたくさん出していただき、いつもながら気持ちよくお話をしてきました。

Dscn4489c  ウィルあいちには早めについてしまいましたので、向かいにある名古屋市市政資料館で一休み。ここは、私の好きなところの1つ。ここで散歩したり、中を見学したりするほどの時間はありませんでしたので、建物正面のベンチでボンヤリ(微笑)。大正11(1922)年に名古屋控訴院・地方裁判所・区裁判所庁舎として建設された建物。もう何度も来ていますが、飽きません(たとえば、2018年3月11日:ウィルあいちで支援員養成講座の講師……終わって市政資料館で留置場を見て、名古屋ウィメンズマラソンにも遭遇)。

Dscn4499c Dscn4501c  玄関ホールから少しだけ中に入って、ステンドグラスだけ見てきました。ここは、赤い煉瓦と白の花崗岩が組み合わせられた、荘重で華やかなネオ・バロック様式の外観も素晴らしいのですが、内部には、昔の法廷が再現されていますし、1階の奥まったところにある「留置場」もおもしろい。喫茶室もあります(2019年2月24日:今日は、支援員養成講座で名古屋へ)。

Dscn4516c Dscn4522c  研修講座修了後は、直帰(笑)。ゆっくりしていますが、今日のおやつは、昨日、なばなの里でゲットしてきた「伊勢茶安永餅」。「お茶が入っている」という感じはあまりしなかったのですが、お茶の香りがします。食べてみると、後味がサッパリしていました。普通の安永餅ですと、食べたあと、口の中に餡子の甘さが残ります。それがないのです。これはなかなか良いと思います。

Img_5973c_20211002170001  ところで、今週は、明日午後は市民大学郷土史学科。先月は、コロナで休講でしたので、何だか忘れそうな気がして怖い(苦笑)。水曜は後期の非常勤の授業がスタート。金曜午後は歯科治療、土曜は伊勢参りツアー、日曜日は訪問面談と忙しい。いつも書くように、「怠け者の節句働き」。皆様方が休んでいらっしゃるという意味ではなく、「普段、怠けている者に限って……」というところに重点を置いております。

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2021年9月29日 (水)

20210925「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第10回「津・栄町~津・高茶屋」(その4)……金剛寺、南昌寺、加良比乃神社の石柱、称念寺から高茶屋神社を経て、高茶屋駅にゴール(完)

Tsu5  9月25日の「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」の第10回「津・栄町~津・高茶屋」の本編その4です。その3では、「4分間待つ信号」から成就寺まで来ました。その4では、成就寺の塔頭であった金剛寺、南昌寺と進みますが、雨がけっこう降ってきて、立ち寄りポイントは眺めただけとか、スルーとかしてしまって、先を急ぎました。マップで三角印を付したところは、立ち寄ろうと思ったものの、この日は断念したところです。

Img_3118c_20210925195701 1e5ac82d  交差点すぐのところに金剛寺。真宗高田派のお寺。もとは、成就寺の金剛坊でした。ここは、ちょっと奥まっていましたので、この日は、この写真を撮っただけ。境内には、念仏塚があります(右の写真。2019年9月22日に撮影)。「寛政六年甲寅季秋中旬勢州一志郡垂水邨法林山金剛教寺」と彫られています。成就寺は真言宗醍醐寺派であるのに、ここと次の南昌寺は、成就寺の塔頭であったにもかかわらず真宗高田派になっているのには疑問がありますが、理由は不明。

Img_3122c_20210925195701 Img_3124c_20210928041801  こちらが金剛寺の南にある南昌寺。真宗高田派。こちらはとくに由緒あるものはないようでした。

Img_3131c_20210925195701  南昌寺から南へ150mほどのところに須賀神社があります。事前の調べでは、「垂水の産土神」ということでした。前回の近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング」の時もパスしてしまったのですが、この日も雨でしたので、この写真だけ撮って、通過してしまいました。主祭神は、建速須佐之男命。他に12柱の神様が合祀されています。由緒は不明ですが、明治時代に加良比乃神社に合祀されていたものを昭和26(1951)年に分祀。これを書くのに再び調べたら、境内に「首切られ地蔵」があるということでした(こちら)。織田信長が北畠家を攻略する際、身代わりになって切られたお地蔵様だそうです。

Img_3134c_20210925195701  スタートから7.8㎞の手前に石柱と、青銅製の常夜燈があります。ここは加良比乃神社(からびのじんじゃ)への参道の入り口。石柱には、「式内加良比乃神社」とあります。常夜燈は、明和元(1764)年の建立。加良比乃神社は、ここから西へ150mほど入ったところにあります。加良比乃神社は、垂仁天皇の御代、皇女倭姫命が天照大神を奉戴し、神殿を建築して鎮座したところとされます(すなわち、いわゆる「元伊勢」の1つ)。そのとき、この地は水が不便な地であり、この神社のある場所の片側が急な斜面になっているため、樋を用いて泉の水を引いたことから「片桶宮」と称しました。4年を経て、御神記によって他所に遷座されたのですが、この宮跡に御倉板擧神、伊豆能売神を祀り「加良比乃神社」となり、土地の人々が産土神として崇敬してきました。ちなみに、「加良比」は「片樋」のなまったものといわれています。2019年9月22日に訪ねていますので、詳しくはその時の記事をご覧ください(2019年9月25日:20190922近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅8日目~伊勢街道、旅人気分で垂水から雲出へ」(その1)……南が丘駅をスタート、成就寺、金剛寺、南昌寺から元伊勢の一つである加良比乃神社、称念寺、高茶屋神社へ)。加良比乃神社の参道の途中、南側に円光寺がありますが、ここもパスしています。

Img_3151c  城山特別支援学校の東を歩いているはずですが、学校は森の向こうで見えません。伊勢街道の東側に紀念碑がありました。「髙郷井用排水路改修竣工紀念 三重縣知事 田中 覚書」と読めます。「髙郷井」は、江戸時代初期、雲出川に堰を設け、戸木村(現・津市戸木町)から雲出地域まで水路を通し、高茶屋で三分(髙郷井、八寸、揚溝)して水田を潤した水路の一つ。この工事は、津藩2代藩主・藤堂高次公が、西島八兵衛(慶長元(1596)~延宝8(1680)年:藤堂高虎の近習として禄高150石で仕えて以来、高虎の信頼を得て津藩を水利・灌漑の面から支えた人物)に命じて行わせたもの(こちらを参照)。その高郷水を排水する水路を改修したということなのでしょうが、碑陰を見られず、また、ネットでも情報は出てこず、この改修工事そのものについては分かりませんでした。ちなみに、田中 覚(たなか さとる、明治42(1909)~平成14(2002)年)が三重県知事であったのは、昭和30(1955)~昭和47(1972)年)でした。

Tsu6  詳細なルートマップは、いよいよ最後、その6に入ります。残る立ち寄り先は、称念寺と高茶屋神社の2ヶ所。雨は相変わらず降り続いています。この先で伊勢街道から離れ、JR紀勢本線・高茶屋駅へゴール。

Img_3161c  天神橋を渡ると、すぐ右手に(西側に)、寳福山雙樹院称念寺。浄土宗。みえの歴史街道(伊勢街道)の資料には、「円光大師二五霊場」とあります。円光大師二十五霊場のリストにはありません。こちらのWeb版浄土宗大辞典によれば、これ以外に、正式なものを模倣して作った「うつし霊場」がいくつかあるそうです。円光大師は、法然上人の勅諡号。寺の前に常夜燈1基と、六阿弥陀堂があると、伊勢街道の資料にあるのですが、常夜燈はどこを見てもありません。

Img_3168c_20210928064801  こちらは、六阿弥陀堂。六阿弥陀堂の前にある石碑などのうち、向かって左のものには「薬師堂記念碑 六阿弥陀堂 昭和五十年五月建?」とあります。ちなみに、六阿弥陀(ろくあみだ)は、もともと阿弥陀仏を安置する六つの寺を巡拝すること。元禄年間(1688~1704年)のころから行基作と伝える阿弥陀像を祀る六か寺を春秋の彼岸に参詣して歩くことが盛んに行われたことに始まります(詳細はリンク先をご覧ください)。その後、各地に「○○六阿弥陀」ができたそうです。

Img_3171c_20210928065201  称念寺の先に「耕地整理記念碑」がありました。高茶屋村の東部地区の耕地整理は村を一変する大事業として、大正9(1920)年、時の村長服部米次郎の陣頭指揮の下に実現しました。この記念碑は、昭和16(1941)年に建立されていますが、長年の夢が叶って今までの湿田が美田になり、村の明るい将来が約束された喜びが歌われています(碑文は、こちらの7~8ページにあります)。

Img_3194c  高茶屋神社(たかぢゃやじんじゃ)。高茶屋(たかぢゃや)は、高台にあり周辺に茶屋が多かったことが名前の由来です。高茶屋神社は、通称、粟嶋さんと呼ばれています。主祭神は、玉柱屋姫命です。志摩郡伊雑村の神である、伊佐波登美命の奥方です。倭姫命を出迎えた神様で、豊受社の神様だそうです。玉は星とすると、屋は夜という意味なので、「星の柱の夜の姫」という意味になります。つまり、天の川のお姫様。

Img_3186c_20210925201101  第53代淳和天皇の時代の824年、一志狭山枚男という人が伊雑村の祭神をこの地に祀り、栗嶋神社と称したとされます。粟嶋神というのは、1,500年前、粟で作られた船で航海の折、紀州灘佐之郡という所に漂着し、この神、粟嶋大明神を祀ったところ、人々の病を治したというので、病を治してくれる神様、または薬の神様として伝わっています。昔、高茶屋神社は、玉柱屋姫命の祭神のほかに九ヶ所に祠が奉られその祭神をあわせて、十社宮と呼ばれていました。後に、十社杜、粟嶋神社などを明治41(1908)年に合祀し、高茶屋神社となりました。ちなみに、鎌倉時代、津市には神宮領である御厨・御園が20近くありました。高茶屋神社は、4ヵ月に一度神に塩を献上する神社として指定をうけていたといいます。また、十社の森と呼ばれ、街道の勅使休泊所として使われたそうです。雨でしたので、拝殿まで上がる余裕がありませんでしたので、詳しくは近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング」の記事をご覧ください(2019年9月25日:20190922近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅8日目~伊勢街道、旅人気分で垂水から雲出へ」(その1)……南が丘駅をスタート、成就寺、金剛寺、南昌寺から元伊勢の一つである加良比乃神社、称念寺、高茶屋神社へ

Img_3182c  余談。伊勢街道から最初の鳥居のところにこんなものが。御幣のところに、これは恵比寿様のお顔でしょうか。ウ~ン、いったい何のため??

Img_3197c_20210928112601  このあとは、ゴールの高茶屋駅に向かいます。写真は、高茶屋駅に向かって左折するとき、振り返って見た伊勢街道。路面はしっかり雨に濡れています。

Img_3206c_20210925201601 Img_3211c_20210928112701  雨の中、JR紀勢本線・高茶屋駅には、13時15分に到着。ところが、津方面に向かう亀山行き普通は、13時13分に出たばかり。ここには普通しか止まりません。紀勢本線と呼ぶにもかかわらず、基本的に1時間に1本しか走っていない(爆)。「次は?」と時刻表を見たら、何と14時8分。やむを得ません。待合室で、おやつを食べながら、話をして待つことに。

Img_3214c_20210925201601 Img_3236c_20210928112801  駅は、明治26(1893)年に参宮鉄道が、津~相可(現・多気)~宮川間で開業した際に設置されたという歴史のある駅。ご覧のように、昭和30~40年代にでもワープしたかのようなレトロ感たっぷりの駅です。同じ紀勢線の駅では、一身田駅に似ています。ちなみに、JRの駅の名前としては、「たかちゃや」。町名は「たかぢゃや」。

Img_3253c_20210925201601 Img_3249c_20210925201601  高茶屋駅には、切符の販売機もありませんし、トイカなどカードで乗車できる機械もありません。同行のK氏は、「おい、どうやって乗るんだ?!」 駅に掲示があります。1両目の後ろのドアから乗車し、そこにある整理券を取り、降りるときは1両目の前のドアから。整理券と運賃を入れるという、ワンマンバスと同じスタイル。ちなみに、ドアは、ランプのついているボタンを押して開けなければなりません。などなど、心配し、予習した上で、14時8分の亀山行き普通に乗車。ところが、本来は、ワンマン運転なのですが、乗った電車には係員の方が乗車しており、整理券は取る必要がなく、車内で精算してもらえました(微笑)。津駅までは200円。14時18分着。ということは、今日、雨も降る中、3時間45分もかけて歩いてきたのに、10分で戻ってしまうことになります(苦笑)。

Img_3259c_20210925201601 Dsc_6237c  今日もまた、津駅ビル2階のチャムで昼食。今日は、信州そば処「そじ坊」。雨にも濡れてしまいましたので、温かいそばをということで、にしんそば。税込み¥950。時分時をはずれ、客は我々二人のみ。

Img_3256c  食事を済ませ、近鉄で帰ります(左の写真は、JR津駅の駅名表示板)。14時56分発名古屋行き急行に乗車。桑名駅には15時40分に到着。¥700。帰宅は、16時頃。後半、雨に降られてしまい、パスしたところも何ヶ所かあり、ちょっと残念な気もしますが、天気ばかりはやむを得ません。

Img_3269c_20210925201601  この日の歩数は、ご覧のように、22,540歩。現地で9.9㎞+α、自宅から桑名駅往復が2.5㎞ですから、合計12.4㎞+αを歩いてきました。これだけ歩くと、さすがにしっかり歩いたなという気がします。

Isemairiallc Isemairi8c  ところで、今回で「東海道・伊勢街道歩いて伊勢参りツアー」も第10回でした。今年4月9日に桑名の七里の渡し跡をスタートし、東海道を歩いて、四日市の日永の追分から伊勢街道に入りました。七里の渡し跡から、目的地の伊勢神宮・内宮まで、どこにも立ち寄らず、ひたすら東海道と伊勢街道とを歩くと、約94㎞あります。どのあたりまで来たかというと、これらの2枚のマップのようになります。左のマップは、コースの全体像。半分は優に超え、2/3に迫るところまで来ています。右は、拡大図。JR高茶屋駅の西で、約56.5㎞です。1回のウォーキングで、コースマップ上(立ち寄り先は含まないで)、6~7㎞を歩いていますが、毎回の積み重ねは大きいといえます。

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