名所旧跡

2022年5月14日 (土)

20220507東海道ウォーキング「亀山宿~関宿」(その4)……念願の関宿はおもしろい(完)

Kameyama3  5月7日の東海道ウォーキング「亀山宿~関宿」の本編その4です。その3では念願の関宿に入りましたが、途中の延命寺山門までとなっています。

Img_1985c_20220513160801 Img_1988c_20220513161401  延命寺から東海道に戻り、スタートから8㎞の手前に見どころが集まっています。まずは、関まちなみ資料館。江戸時代末期に建てられた関宿を代表する町屋建築のひとつです(旧別所家)。亀山市関町の文化財・歴史資料の展示・町並み保存事業による、関宿の町並みの移り変わりを写真展示しています。

Img_1996c_20220513160801 Img_2006c  ここで見たもののうち、興味のあるものをいくつか。左の写真は、明治10年代(1877~1886年)につくられた自転車。自転車がステータスシンボルであった頃で、かけそばが1銭8厘のとき、自転車1台が150~250円と高価でした。しかし、このサドルの位置、ちょっと前過ぎるような気がします。右の写真は、長火鉢。時代劇などにもよく出て来ます。中央の丸いところで酒の燗がつけられます。

Img_2018c_20220513162601  階段箪笥と、その奥は薬箪笥。この階段箪笥を登って2階に行きます。薬箪笥は、医者や薬屋が使ったもので、薬剤を入れるための引き出しがたくさんついており、百味箪笥や百目箪笥と呼ばれる場合もあるそうでます。

Img_2014c_20220513160901  2階には、有栖川宮親王が明治初期に関宿に泊まられたときの宿札が保存されていました。この有栖川宮親王は、有栖川宮熾仁親王(天保6(1835)~明治28(1895)年)かと思ったのですが、確認は取れませんでした。

Img_2020c_20220513171301  関まちなみ資料館の向かいに鶴屋。玉屋、会津屋とともに関を代表する旅籠の1つ。「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」という、伊勢参りの旅人などが歌ったとされる歌があるそうです。江戸時代の終わりには、脇本陣も務めた波多野家。脇本陣ですから、本陣に準ずる宿で、主に身分の高い商人たちの宿泊の用を勤めましたが、平素は一般庶民も泊まれました。鶴屋は、西尾吉兵衛を名乗っていましたから、西尾脇本陣ともいったそうです。2階に千鳥破風を載せた独特のデザインになっており、その格式を示しています。

Img_2025c_20220513172201 Img_2030c_20220513172201  中町三番町山車庫。その3で書きましたように、現在は4台の山車が残っていますので、山車庫も4ヶ所あります。また、ここは、問屋場跡でもあります。この西に川北本陣跡があります。現在ここには遺構はありません。その3で見てきた延命寺に、川北本陣の門が移築されているだけです。川北家は、本陣ととともに宿継ぎ問屋を勤めていたそうで、今も450点余りの古文書・古記録が伝えられているといいます(こちら)。

Img_2034c_20220513172201 Img_2048c_20220513172301  その向かいに百六里庭(ひゃくろくりてい)・眺関亭(ちょうかんてい)があります。小公園になっています。関宿が江戸から百六里あまりにあることから名付けられました。通りに面した建物は、眺関亭。

Img_2037c_20220507193101 Img_2044c  眺関亭の2階に上がると、こんな景色が眺められます。まさに「関を眺める」亭。西を見ると(左の写真)、瓦屋根の間に通る東海道とその突き当りにある地蔵院本堂の大屋根、さらには鈴鹿峠の方を、また、東を見ると(右の写真)、軒の並ぶ関宿のまちなみを望むことができます。展望台から西を見た様子は、関宿の成り立ちが現れた関宿の最も特徴的な景観だそうです。

Img_2053c_20220513173901  百六里庭・眺関亭の西には、伊藤本陣跡。川北本陣と並んで関宿の中心的な役割を果たしました。間口11軒あまり、建坪69坪、西隣の表門は唐破風造りの檜皮葺だったそうです。現在残っている街道に面した部分は家族の住居と、大名宿泊時に道具置き場に供した建物です。木造2階建、切妻、桟瓦葺、平入、開口部が格子窓で2階外壁両側には袖壁が設けられ、2階の外壁が前に張り出す「せがい造り」になっています。

Img_2083c_20220507193101  続いて、関宿旅籠玉屋歴史資料館。鶴屋のところに書きましたように、関を代表する旅籠の1つ。江戸時代の貴重な旅籠建築を修復し、旅籠で使われていた道具や歴史資料が展示してあります。宝珠の玉をかたどった虫籠(むしこ)窓が魅力的。この虫籠窓は、屋号にちなんで、宝珠の玉(玉から火焔があがる様)をかたどったものとなっているのだそうです。

Img_2080c_20220513174301  ここの裏手にある土蔵には、本物のというか、実物の歌川広重の浮世絵などが展示されていました。「行書版 東海道五十三次 関宿」などなど。もちろん写真は撮れませんので、土蔵の外観だけ。

Img_2065c_20220513174301 Img_2059c_20220513174301  その他、興味があったものについて。左の写真は、主屋1階の帳場。ちょんまげを結った初老の男性が、帳場に座っています。番頭さんでしょうか。手前の上がり口には、足を濯ぐための水を入れる盥と、草鞋も見えています。右の写真は、資料館の入り口にあった駕籠。一般庶民が乗った駕籠と思われますが、これでエッサエッサエッサホイサッサと揺られたら、乗り心地はよくないというか、結構大変そうです。

Img_2062c_20220513174301  これについては知りませんでしたが、江戸時代の関宿の名物・特産品として火縄がありました。火縄は火奴ともいい、鉄砲に用いたため大名の御用があったほか、道中の旅人が煙草などに使うためにも購入したそうです。新所を中心に数十軒の火縄屋がありました。 火縄は自生する竹を薄くへぐように削り、これを縄を編むように作ったといいます。

Img_2092c_20220507193101 1651900657728c  続いては、深川屋。創業約380年。江戸幕府3代将軍・家光の時代から続くそうですし、「忍びの隠れ蓑」だとも。江戸時代寛永年間より作り続けられている「関の戸」は、忍者の末裔 服部伊予保重により考案されたお餅菓子だそうです。令和元(2019)年、ここ深川屋に残る古文書から当時の忍びの記述が発見されたため、忍びの隠れ蓑の和菓子屋としています。ここで、土産に関の戸を買おうという算段。先日、三重県総合博物館で「第30回企画展 名所発見、再発見!~浮世絵でめぐる三重の魅力~」を見たときにも買ってきました(2022年5月 4日:イソヒヨドリに何度も遭遇……午後からはMieMUで「名所発見、再発見!~浮世絵でめぐる三重の魅力~」を見る)が、ずっと昔から私の好物なのです。赤小豆の漉し餡をぎゅうひ餅で包んであります。伝統的な和三盆をまぶしたものと、石臼でひいた亀山茶をまぶしたもの、6個ずつのセットをお買い上げ。

Img_2100c Img_2104c_20220507193101  土産もゲットし、一安心(微笑)。関郵便局のところへ。郵便局の敷地は、天正20(1592)年、家康が休憩したので、御茶屋御殿屋敷と呼ばれ、幕府代官陣屋、亀山藩役人詰所となっています。高札場もここにありました。亀山藩が管理した高札場跡で、キリシタン禁令などの法規的な内容から隣接宿場までの人馬駄賃の規定、生活に関わる様々な張り出しが行なわれた場所です。明治10(1877)年に撤去されましたが、江戸時代後期、寛政年間から天保年間頃の高札場が復元されています。掲示されている文言は、天保年間(1831〜1845年)の調査と推測される『東海道宿村大概帳』に記された内容を読みやすい楷書に変えたものです。

Img_2096c_20220507193101  ポストが、宿場の雰囲気に合わせてつくられていますし、敷地内に「関町道路元標」があります。標石は一辺27㎝、地上高57㎝で頭は丸みを帯びています。「関町道路元標」と刻字があります。

Img_2158c_20220513193501 Img_2145c_20220513193501  この先で天台真盛宗の福蔵寺。ここは、織田信長の三男織田信孝の菩提寺であり、また、関の小萬の墓があります。さらに、英照皇太后が駐泊されたところ。

Img_2155c_20220513193501  織田信孝は、本能寺の変で亡くなった信長の冥福を祈るため、神戸の住人にして旧臣出会った大塚俄左衛門長政に命じてこの寺の建立にかかったのですが、信孝は秀吉との後継争いに敗れ、天正11(1583)年、尾張国野間において、自害させられました。長政が当山に首を持参し信孝公の菩提寺としました。信孝の墓石は不詳であったので、400年忌を迎えたとき、菩提を弔うために建立されたのが、この写真の墓。

Img_2136c_20220513193501  こちらは、関の小萬の碑と、墓。裏門の横にあります。関の小萬については、その3で触れたとおり、若くして父の敵を討った烈女として伝えられています。15歳から風雪にもめげず、亀山の道場に通って修行に努め、武を練り、天明3(1783)年8月、本懐を遂げました。また、客殿の奥には英照皇太后孝明天皇の后)が宿泊された書院が現存するそうです(非公開)。

Img_2165c_20220514031901  関宿もかなり見て回ってきました。このあと地蔵院へ行くつもりでしたが、その前にもう1ヶ所見なくてはなりません。それは、会津屋です。関宿を代表する旅籠の1つで、もとは、山田屋といいました。関の小萬が育ったのがここです。江戸後期に建てられました。今は、食事処。

Img_2162c_20220507193201 Img_2174c_20220514031901  関宿は西の追分まで続きますが、今回の最終目的地は、九関山宝造寺関地蔵院です。関の地蔵さんと呼ばれます。天平13(741)年、奈良東大寺の僧行基が、諸国に流行した天然痘から人々を救うため、この地に地蔵菩薩を安置したと伝えられています。この地蔵菩薩は、わが国最古のものです。「せきの地蔵さんに振袖きせて奈良の大仏むこに取る」という俗謡があるほど、関に暮らす人々に加え、東海道を旅する人々の信仰も集め、全国の数あるお地蔵様の中でも最も敬愛されているといわれています。本堂、鐘楼、愛染堂の3棟の建物は国の重要文化財に指定されています。聖武天皇の勅願所、明治天皇関行在所でもあります。明治天皇は関町には5回来られ、明治13(1880)年7月10日、12日の2回、地蔵院で食事休憩されました。この明治13(1880)年7月11・12日には、亀山で大阪鎮台名古屋鎮台の合同演習が行われ、それを明治天皇がご覧になっています。ちなみに、7月11日には、亀山の東町にある伊藤市治郎宅に宿泊されました。この時、明治天皇が宿泊された建物は、現在、亀山城多門櫓の隣りに移築され、明治天皇行在所遺構として残っています。ここは、前回の「井田川~亀山ウォーク」で訪ねたところ(2022年4月23日:20220423東海道ウォーク「井田川~亀山」(予告編))。

Img_2178c_20220514033501 Img_2171c_20220514033501  左の写真は鐘楼、右は愛染堂。鐘楼の脇に上右の写真に載せた「明治天皇関行在所」の石柱があります。ここにはまた、一休禅師の逸話も伝わっています。関東行脚の時、関宿を通りかかった一休和尚に修繕をした地蔵の開眼供養をしてほしいと村人たちが、頼んだところ快く引き受けてくれたのですが、一休和尚は「釈迦はすぎ 弥勒はいまだ いでぬ間の かかるうき世に 目あかしめ地蔵」と詠み、立小便をして立ち去ってしまったそうです。怒った村人たちは別の僧に開眼供養をやり直してもらいましたが、その晩、高熱を出したある村人の夢枕に地蔵が立ち、供養を元のようにせよと命じたといいます。あわてて桑名の宿にいた一休和尚に助けを求めると、地蔵の首にかけるようにと古びた下帯を手渡され、言われたとおりにしたところ、高熱は下がったそうです(寛政9(1797)年に発行された『東海道名所図会』にかかれている話)。

Img_2196c_20220514032001  関地蔵院で14時。途中亀山の清福寺で1度、20分くらい休憩して、おやつを食べただけで、ここまで歩き続けてきました。このあと昼食。国道1号線から関駅あたりに行けば、食べるところがあるだろうと思ってそちらへ。地蔵院口の交差点のところに関地蔵堂への道標(関地蔵堂エ 二町)と、「街道 おんな唄」の石碑。鈴鹿馬子唄の一節などが刻まれています。

Img_2202c_20220507193202 Dsc_6434c  JR関西線・関駅の近くに道の駅関宿があります。ここなら何か食べられるだろうということで立ち寄ったら、定食屋みくらという店がありました。冷やし海老おろしうどんをチョイス。¥840。

Img_2214c_20220507193201 Img_2242c_20220507193201  JR関西線・関駅には、14時45分頃にゴールイン。9.3㎞を歩きました。ここは、JR西日本のエリア。亀山までは1駅なのですが、この時間帯には1時間に1本のみ。しかも非電化区間。右の写真のように1両のディーゼルカーが走っています。

Img_2258c_20220507193201 Img_2266c_20220507193301  14時59分発の亀山行きに乗車。亀山には15時5分着。ここでJR東海の関西線に乗り換え。15時26分の名古屋行き快速。ただし、快速になるのは、四日市から。桑名には、16時6分着。料金は、通しで¥770。9.3㎞も歩き、また、暑かったのでそれなりに疲れました。しかし、この日は、念願の関宿を訪ねられましたので、心地よい疲労感でした。歩数は、22,266歩。現地で9.3㎞、自宅から桑名駅往復が2.4㎞で、計11.7㎞。

Img_1567c_20220514041001 Img_2193c_20220514032001  オマケ。マンホールの蓋コレクション。左の写真は、亀山市のもの。右は、旧関町のもの(現在は、亀山市と合併して、亀山市関町になっています)。亀山のものは、多門櫓に花菖蒲の花の絵柄になっています。旧関町のものは、関宿の町並みにお地蔵様が立っているデザイン。

Sekistampc Kameyamastampc  もう1つオマケ。スタンプです。自作コースマップの裏に押してきましたので、それが透けてしまっていますが、ご愛敬。左は、亀山の加藤家屋敷、旧舘家住宅、旧佐野家でゲット。右は、関宿にある3つの資料館(関の山車会館、関まちなみ資料館、関宿旅籠玉屋歴史資料館)のもの。これにて「亀山宿~関宿」の東海道ウォーキングは、「完」。

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2022年5月13日 (金)

20220507東海道ウォーキング「亀山宿~関宿」(その3)……いよいよ念願の関宿へ

Kameyama3  5月7日の東海道ウォーキング「亀山宿~関宿」の本編その3です。その2では、亀山城・京口門跡から西のあたりで寺、野村一里塚などを巡って、太岡寺畷まで行きました。鈴鹿川沿いを歩いて、6㎞を過ぎる頃、小野川を渡り、いよいよ関宿に近づいていきます。亀山市関町小野で国道1号線から逸れて関宿に向かいます。そこに関の小萬の碑ともたれ松。7㎞の手前で関宿東の追分があります。ここは、伊勢別街道との追分。関宿は、見どころ多数。

Img_1825c_20220507193301  国道1号線から関宿に入るところにこの看板。看板に「重要伝統的建造物群保存地区」とあります。令和3年8月2日現在、104市町村で126地区が指定されています。三重県では、ここ関宿のみ。指定されたのは、昭和59(1984)年12月10日。東海道五十三次の47番目の宿場町で、今なお当時の雰囲気が残されています。江戸時代後期から明治時代にかけて建てられた町家が200棟以上現存。

Img_1834c_20220512171701 この看板を過ぎてすぐ左手に「関の小萬の碑」と「もたれ松」があります。関の小萬(せきのこまん)は、鈴鹿馬子唄にも謡われていますが、女性の身で父の仇討ちをした仇討烈女として有名です。小萬の父は、九州久留米有馬氏の家来で、剣道指南役牧藤左衛門でしたが、遺恨により同輩の小林軍太夫に殺されました。身重の妻は、夫の仇を討つため旅に出たものの、鈴鹿峠を越え、関宿についた頃には旅の疲れが重なって、地蔵院前の旅籠山田屋の前まで来たときには行き倒れ同様の有様だったといいます。山田屋の主人も女将も親切な人たちで、この女性を引き取って手厚く看病し、女性はそこで女の子を産みました。これが小萬です。女性はまもなく、子どもの将来を宿の主人山田屋吉右衛門に託して死んでしまいます。

Img_1831c_20220512171701 Img_1828c_20220512171701  小萬は成長して養父母から両親のことを聞き、亡き母の志を継いで亡父の仇討ちをする決心をします。山田屋の主人は、亀山藩家老加毛寛斎に頼んで武術の修行に励むようにしました。天明3(1783)年8月、運良く仇と巡り会うことができた小萬は、馬子姿に変装し、て亀山城大手前の辻で仇のくるのを待ち受け、見事本懐を遂げることができたといいます。これにより、関の小萬の名前は一躍高まったのですが、その後も山田屋にとどまって養父母に仕え、享和3(1803)年正月、36歳で亡くなりました。墓は福蔵寺にあります。ちなみに、この碑があるところには、当時、亀山に通った小萬が若者の戯れを避けるために姿を隠しても持たれたと伝わる松があったところから、「小萬のもたれ松」と呼ばれました。こういう話が好きですので、ついつい長くなりました。さらに余談を重ねると、鈴鹿馬子唄には、次のようにあります(部分を引用しています)。

与作思えば 照る日も曇る 関の小万の エー涙雨
関の小万が 亀山通い 月に雪駄が エー二十五足
関の小万の 米かす音は 一里聞こえて エー二里ひびく
馬は戻(い)んだに お主は見えぬ 関の小万が エーとめたやら
昔恋しい 鈴鹿を越えりゃ 関の小万の エー声がする

Img_1838c_20220512171701 Img_1841  関の小萬の碑を過ぎて、関宿に向かいますが、そこはゆるい登り坂。右の写真のような、昔の琺瑯看板もあって、徐々に時代を遡っているような気がしてきます。

Img_1847c_20220507193101  7㎞の手前で関宿東の追分。ここには、鳥居があります。20年に一度の神宮式年遷宮の際に、内宮宇治橋南詰の鳥居を移したものです。またもや余談ですが、桑名の七里の渡し跡にある、伊勢一の鳥居は、内宮宇治橋北詰の鳥居を移しています。この鳥居の向こうに続く道は、伊勢別街道。伊勢別街道は、「いせみち」「参宮道」「山田道」などと呼ばれ、幾つかの宿場町があり、江戸時代には京都方面からの参宮客で賑わったそうです。ここから津市芸濃町椋本(むくもと)、津市一身田(いっしんでん)を通り、伊勢街道と合流する江戸橋までの総距離およそ四里二六町(約18.5㎞)の街道です。

Img_1866c_20220513110301 Img_1863c_20220513105401  追分からすぐのところに岩間家があります。白木屋という屋号で、往時は、主に東追分で稼ぐ人足や車夫の定宿を営んでいたといいます。この東の追分を過ぎると、徐々に昔の町並みが見えてきます。遠くには、鈴鹿の山並みも見えてきて、桑名からは、遠くまで来たものだという気分になります。

Img_1887c_20220513105501 Img_1898c_20220513110701  郵便ポストも、このように黒く塗られ、しかも「書状集箱」と表示されていて、それらしい雰囲気を醸し出しています。右は、「消火器具収納箱」。これも古い町並みの外観に合わせてつくられています。

Img_1871c_20220513105501 Img_1874c_20220513105501  このその3の初めにも書きましたが、関宿は「重要伝統的建造物群保存地区」で、江戸時代後期から明治時代にかけて建てられた町家が200棟以上現存しています。伝統的建造物には、すべて右のような番号が付されています。私たちのように観光で訪れるものにとっては、古い建物がたくさん残っているのは楽しみなのですが、建物の外観を変更(新築・増改築・改修・模様替え)するときは、市町村に申請して許可を得てから実施しなければなりませんから、お住まいの方にとっては大変であろうと思います。

Img_1880c_20220513111401  長谷屋資料館。「古しえの宿『長谷屋』」として、まちかど博物館に登録しています。旅籠の調度品ほかが展示され、毎日開館していますが、見学には予約が必要でした。

Img_1895c_20220513112201 Img_1892c_20220513112201  その先で、真宗高田派の宝林寺。由緒書きはなく、ネットでもこれという情報は出て来ませんでしたが、昔ながらの井戸があり、懐かしく眺めてきました。

Img_1906c_20220513121201 Img_1907c_20220513121201  こちらは途中で気づいたもの。このお店の前に取り付けられていたのは、「ばったり(揚げ店、店棚)」という、上げ下げができる棚。商品を並べたり、通りを通る人が座ったりしたところ。この建物の窓は、ちなみに私の好きな「虫籠窓(漆喰で塗り籠めた堅格子窓)」。軒下には、「幕板」があります。馬つなぎの「環金具(わかなぐ)」が残るところもあるということでしたが、見つけられませんでした。

Img_1910c_20220513114401  御馳走場跡。珍しい名前ですが、関宿に出入りする大名行列の一行を宿役人が出迎えたり、見送ったりする場所だったそうです。関宿には、4箇所の御馳走場がありました。ここは、享保19(1734)年につくられています。

Img_1919c_20220507193101  御馳走場跡のすぐ先に「関の山車(せきのやま)会館」があります(入館料は、このあと訪ねた関まちなみ資料館、関宿旅籠玉屋歴史資料館の3館共通で¥500)。山車収蔵展示棟を含む4棟からなっています。関宿に伝わる山車(やま)と関宿祇園夏祭りの歴史・文化を後世に伝えるため、関の山車と歴史的な関係資料が展示してあります。関宿祇園夏祭りは、江戸時代の文化年間から続く伝統行事で、4基の山車が出て、互いに華美を競います。新所、中町、木崎地区の旧東海道を中心に昼は一台の神輿が、夜は山車が町内を練り歩きます。7月の末に行われます。

Img_1934c_20220507193101 Img_1936c_20220513115401  こちらが、関の山車会館に展示してある山車の1つ(ガラス越しの撮影)。山車の上の部分は、「舞台まわし」と呼ばれ、回転するのだそうです。ちなみに、「一生懸命やってできる可能な限度。精いっぱい」という意味で用いられる「関の山」ということばは、この「関の山車」が語源です。関宿祇園夏祭りは、最盛期には16基もの山車があり、互いに競い合い、家々の軒先をかすめるよう巡行しました。山車が勢揃いすれば、狭い街道はそれだけで埋まってしまい、身動きもとれないほどであったことから、精いっぱいの意味で用いられるようになったのです。

Img_1964c_20220513120101  いささか余談。百五銀行亀山支店関プラザ出張所。斎宮跡でもこうした古風なつくりになっていました(2019年11月26日 :20191116近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅11日目~伊勢街道、旅人気分で斎宮から宮川の渡し・そして神領域へ」(その1)……竹神社、有明六地蔵、「斎宮旧蹟蛭澤之花園」と「斎王隆子女王之墓従是五丁」道標、安養寺と明星水の井戸)。ATMも「現金自動取扱所」という表示。

Img_1970c_20220513120901 Img_1976c_20220513120901  関神社はパスして、清静山延命寺へ。真宗本願寺派。ここの山門が、川北本陣の門が移築されたものでしたので、それを見に行った次第。明治5(1872)年に移築しています。川北本陣の現存する唯一の遺構。門は薬医門で、17世紀後半の建築と考えられています。川北家の家紋である三蓋松が掘られています。川北本陣は、関宿に2つあった本陣の1つで、慶長年間(1596~1615年)の頃から明治3(1870)年まで本陣を務めています。

 関宿の途中ではありますが、記事が長くなりましたので、その3はここまで。その4で、関宿の残りを見ることにします。

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2022年5月12日 (木)

20220507東海道ウォーキング「亀山宿~関宿」(その2)……野村から太岡寺畷へ

Kameyama1  5月7日の東海道ウォーキング「亀山宿~関宿」の本編その2です。その1では、亀山駅をスタートし、武家屋敷などを見て、京口門跡あたりまで来ました。歩いているところは、ルートマップその1の中央あたりで、スタートからはまだ2㎞も来ていません。

Img_1579c_20220511072601 Img_1585c_20220511072601  街道の右手に大木が目立つお寺がありました。ノーチェックだったのですが、大木につられて拝観へ。真宗本願寺派の究竟山光明寺。たまたまご住職がいらっしゃり、いろいろな話を伺いました。その1で触れた京口橋は、バスを通すために大正時代にかけられたとか。大木は、イチョウとクスノキ。イチョウは防火になりますので、寺社に多いのは分かりますが、クスノキは燃えやすそうです。

Img_1588c_20220511072601  なかでもヘェ~と思ったのが、こちらの木。予期しないこと、意外なさまを「ひょんなこと」といいますが、それは、このイスノキの葉にできる「虫こぶ」に由来するのだそうです。イスノキは、マンサク科の常緑高木で、庭木として栽培され、その材は柱・机に使われます。この木の葉を虫が食ったあとにできる虫こぶを「ひょんの実」というそうで、子どもの遊びで、この虫こぶの穴を吹くとひょうひょうと鳴るところから木の名も「ひょん」となったという説があるそうです(異説があります)。「ひょんな」は室町時代からあったという話もあります。こちらを参照しました。ちなみに、イスノキに「虫こぶ」をつくるのは、イスノフシアブラムシで、イスノキとアラカシの間を行ったり来たりするアブラムシです。ご住職は、やや耳が遠いらしく、また、いつまで経っても話が終わらないような気がして、ちょっと心配になりましたが、いろいろとおもしろい話を伺えました(苦笑)。

Img_1607c_20220507193101 091c56e2  光明寺の先でスタートから2㎞を過ぎ、亀鶴山(きかくさん)無量院慈恩寺(じおんじ)。浄土宗のお寺。ご本尊は、木造阿弥陀如来立像(国重要文化財。右の写真。これは、2019年6月9日に訪ねたときに撮らせていただきました(2019年6月15日:20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(その2)……布気皇館太神社、野村一里塚、浄恩寺、羽柴))。もとは野村にあった薬師寺(長福寺)の本尊・薬師如来であったといいます。後世の補修の際に、両手首から先を阿弥陀印に下ものと考えられています。慈恩寺の縁起によれば、薬師寺(長福寺)は行基が神亀(じんき)5(728)年に聖武天皇の勅願によって創建し、薬師如来像を彫刻して、安置したと伝わっています。正徳6(1716)年にこのお寺は、慈恩寺と改まっています。行基が開いたときは、忍山神宮の神宮寺であり、七堂伽藍もあったといいますが、度重なる兵火で焼けています。

Img_1597c_20220511193601 Img_1601c_20220511193601  現在は無住となっており、ほかのお寺のご住職が兼務されているそうですが、境内は檀家の皆さんが手入れされていらっしゃるのか、きれいに保たれていました。墓所には、近藤鐸山(文化10(1813)~明治23(1890)年)の墓がありました。鐸山は号で、名は幸殖(さきたね)。伊勢亀山藩士で、嘉永3(1850)年、家老となり、藩の兵制改革などにつくしました。尊攘派の公卿三条実美らと交流したため、禁門の変への関与を幕府にうたがわれ幽閉されたものの、慶応4(1868=明治元年)年、軍事奉行として復帰し、明治2(1869)年には大参事(現在でいえば、副知事)となっています。慈恩寺には、上述のように、令和元(2019)年に訪ねています。詳しくは、上記のリンク先をご覧ください。

Img_1625c_20220507193101    スタートから約2.7㎞、10時50分頃、野村一里塚跡に到着。三重県内12ヵ所の一里塚のなかで唯一、昔ながらの原形を保っています。残っているのは北側の塚で、南側の一里塚は、大正3(1914)年に取り壊されました。江戸日本橋からは106里12町(417.6㎞)、京三条大橋から17里32町(70.2㎞)の距離。樹齢400年のムクの巨木が植えられています。昭和9(1934)年に国の史跡に指定されています。

0ed21c5c  ちょっとだけ余談。冒頭の詳細なルートマップその1で、野村一里塚の南に忍山神社があります。「延喜式」神名帳に登録された式内社です。垂仁天皇の御代に倭姫命(ヤマトヒメノミコト)が御杖代となって天照大御神の鎮座の地を求めて、大和の国から忍山に御遷幸になり、ここに半年御鎮座されたといいます。また、第12代景行天皇の御代には、日本武尊が東征に際し、忍山神社に立ち寄られ、神主・忍山宿禰の長女・弟橘媛(おとたちばなひめ)を妃とされたという由緒ある神社です。ここも2019年にJRさわやかウォーキングで訪ねています(2019年6月13日:20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(その1)……亀山駅前で能褒野神社一の鳥居、松月地蔵を見て、倭姫命が鎮座され弟橘姫が生まれた忍山神社へ)。写真は、このときのもので、今回はパス。

Img_1610c_20220512070701 Img_1638c_20220512070701  余談ついでに、左の写真は亀山市内の東海道。野村一里塚の手前で撮ったもの。こういうカラー舗装になっていて、分かりやすい。右の写真は、野村一里塚を過ぎたあたりから見た南西方向の景色。水田が広がり、青空で気持ちよい。

Kameyama2  このあたりから詳細なルートマップはその2のエリアへ。亀山藩大庄屋打田権四郎昌克旧宅跡、毘沙門天のところで東海道は右折、布気神舘大神社は門前で参拝を済ませ、昼寝観音から清福寺へ。11時20分となり、歩き始めから2時間以上となりましたので、ここの隣の公民館で一休み。陸橋を渡って、太岡寺縄手へと進みます。

Img_1641c_20220512071101  まずは、亀山藩大庄屋打田権四郎昌克旧宅跡。打田家は、江戸時代初め、近江国から野尻村(現在の布気町)に移住し、亀山藩主本多家のもとで代官を勤め、後にいくつもの庄屋をまとめる大庄屋を務めました。この標柱があるところが旧宅跡と思い込んでいたのですが、よくよく読んだら、東海道を挟んだ向かい側にその屋敷があったそうです(苦笑)。打田権四郎昌克は、打田家は、17歳で大庄屋となり、元禄15(1702)年、亀山藩領に関する記録集である「九々五集」を編纂しています。

Img_1654c_20220512071101 Img_1658c_20220512071101  その先、毘沙門天のところまで来たら、お茶の葉っぱの香り。収穫されたばかりのお茶の葉が土間に並べられ、これから蒸す工程に入れておられました。まさに新茶。お話を伺ったら、作業は大変だそうです。

Img_1652c_20220512071101  このお茶屋さんのすぐ先に毘沙門天があります。以前訪ねていますが、由緒などは不明(20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(その2)……布気皇館太神社、野村一里塚、野村一里塚、浄恩寺、羽柴秀吉亀山城攻め本陣跡から、亀山市歴史博物館へ【布気皇館太神社のお社について追記しました(6/17)】)。亀山市歴史博物館のサイトには、「当番の人が毎晩ご飯を備えており、毎年8月には祭りが行われている」と書かれています。

Img_1664c  布気神舘太神社(ふけこうたつだいじんじゃ)です。延喜式神名帳に「布気神社」とあるのが、この神社とされます。拝殿は、東海道側からは長い参道の向こうにあります。主祭神は、天照大御神豊受大神、伊吹戸主神(いぶきどぬしのかみ;払戸大神に同じ)。私は、以前訪ねていますので、鳥居の前から拝んで、今回は失礼しました。詳細は、前のパラグラフのリンク先にあります。

Img_1677c_20220507193101  布気神舘太神社の先で、東海道は坂を下っていきますが、そこに昼寝観音。珍しい名前ですが、亀山市歴史博物館のサイトには、次のようにあります:東大寺の大仏を建て直すお金を全国から集めているとき、伊勢別街道沿いにある石山観音(津市芸濃町)から運ばれたといいます。各地の観音が集まって、西日本の観音めぐり33箇所を決める会議を開いたのですが、この落針(おちばり)の観音は昼寝をしていて会議に行かなかったため33箇所に選ばれなかったとか。この33箇所観音めぐりが、どれなのかは、書かれていませんでした。「西国三十三所巡礼の旅」なのか、「伊勢西国三十三所観音巡礼」なのか。それにしても、昼寝する観音さんとは、何となく親しみが持てます。

Img_1696c_20220512092601 Img_1702c_20220512092601  坂を下ったところに見流山清福寺。真宗高田派のお寺。立派なお寺でしたが、由緒書きは見当たりませんし、ネットで調べてもとくに情報は出て来ません。11時20分を過ぎていましたので、このお寺の南にある公民館で一休み。

Img_1690c_20220512093101 Img_1716c_20220512093101  清福寺の周囲には、常夜燈が2基、別々にあります。どちらも危うく見逃しそうになったくらい、ひっそりと立っています。左の写真のものは、昼寝観音から坂を下りきった、ゴミ集積場の横。右のものは、後でわたる陸橋のところにあったもの。もとは、落針というところの日原にあった「やけ八幡」のもので、安政8(1859)年建立。左の写真のところには、道標(大正紀念道)もあったはずですが、見忘れました。

Img_1709c_20220512093701 Img_1713c_20220512093701  清福寺の先で東海道は、直進するのですが、旧国道1号線、JR関西線がありますので、その上を通っている陸橋を渡ります。

Img_1736c_20220512094101 Img_1749c  陸橋を越えたあたりから、鈴鹿川沿いを進みます。この辺は、太岡寺畷(たいこうじなわて)と呼ばれ、かつては約2kmにおよぶ道の左右に松並木が続き、東海道で最も長い畷道といわれたそうですが、今は桜並木に変わっています。里謡に「わしが思いは太岡寺 ほかにき(気、木)はない まつ(待つ、松)ばかり」と謡われたとか。

Img_1759c_20220512094701 Img_1773c_20220512094701  スタートから5㎞あたりの先で、東海道は、国道25号線・東名阪道の高架をくぐります。いつもは、この上の高速や25号線をクルマで通っています。この先しばらく、鈴鹿川に沿って行き、立ち寄るところはありません。鈴鹿の山並みや、水田の風景を眺めるしかありません。関西線、ここはJR西日本のエリア。右の写真のように、1両のディーゼル車が、1時間に1本通って行きます。その2はここまで。その3では、いよいよ関宿に入って行きます。

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2022年5月11日 (水)

20220507東海道ウォーキング「亀山宿~関宿」(その1)……亀山駅をスタートし、武家屋敷などを見て、京口門跡あたりまで

Kameyama0_20220508045001  4月23日の東海道ウォーキング「井田川~亀山」(2022年4月23日:20220423東海道ウォーク「井田川~亀山」(予告編))に引き続いて、この日は、亀山宿~関宿までを歩いてきました。好天に恵まれ、また気温も上がり、亀山のアメダスでは、最高気温は28℃を超えていました。冒頭の画像が、今日歩いたルートの全体像。亀山城下や、関宿ではもっとたくさんのところを見て、立ち寄って来ていますが、書き切れませんので、主なところだけ示しました。とくに関宿は、ずっと以前から一度訪ねてみたいと思っていたところで、ようやく念願が叶ったという次第。

Img_1298c_20220507193101 Img_1322c_20220507193901  桑名駅を8時14分に出る亀山行き普通に乗車。亀山には、9時ちょうどの到着。¥680。亀山駅は、JR東海とJR西日本の境目の駅。関西線はこの先も続くのですが、亀山駅から西はJR西日本。ゴールに設定している関駅もです。三重県なのに、JR西日本というのもちょっと違和感があります。右の写真は、前回訪れた亀山城跡に残る多門櫓。

Kameyama1  こちらが、詳細なルートマップその1。前回、最後に、西町問屋場跡まで行ってきました。当初は、この西町問屋場跡から東海道に入る予定でしたが、同級生K氏が、亀山宿のパンフレットで見た加藤家屋敷がおもしろそうだというので、そちらから。東海道からは1本北の通り。西之丸庭園、青木門跡、飯沼慾斎生家跡と道標2基、旧舘家住宅、善導寺、西之丸堀跡、京口門跡、梅厳寺、照光寺、旧佐野家住宅、光明寺、慈恩寺から野村の一里塚へと進みます。

Img_1312c_20220510193201  ここは、西町問屋場跡のすぐ東。石碑があるようにこの先、東海道です。ここを上がったところに西町問屋場跡があります。亀山宿は、大きく東町と西町とから構成され、本陣・脇本陣は東町に、問屋場は両町にそれぞれ置かれ、交代で伝馬役を務めたそうです。

Img_1383c_20220507193101 Img_1345c_20220510194301  いきなり寄り道したのは、加藤家屋敷跡。江戸時代後期、亀山藩主・石川家の家老職を務め、亀山城西之丸に居を構えていた加藤家の屋敷跡です。もともとは相当な敷地面積があったようですが、明治以降、ほとんどの建物が他所へ移築されました。現在は屋敷の表門である長屋門とこれに連なる土蔵などが遺されており、白壁や白と黒の対比が美しいなまこ壁が、武家屋敷の威厳と風格を感じさせてくれます。江戸時代後期の建築で、当時の武家建築様式を今日に伝える希少な遺構として、亀山市文化財に指定されています。

Img_1368c_20220510194301 Img_1364c_20220510194301  長屋門は、門の扉口の両側に部屋が連なる形式の門です。江戸時代、城下町の武家屋敷の門として始まったもので、あたかも長屋の中ほどに門があるようにみえるところからこの名があり、各部屋には家臣たちが分宿していました。ここ加藤家でも、門(左の写真で向かって左端)に男部屋、若党部屋、物見、厩(mに義の写真)が連なっています。

Img_1373c_20220510194301  こちらは、男部屋。寝泊まりするだけという感じで、窓も小さくなっています。現代の感覚では、ここで寝泊まりしろといわれたら、かなり躊躇します。

Img_1397c_20220510195601 Img_1394c_20220510195601  加藤家屋敷の西に西之丸庭園。御殿跡だそうです。現在は地区の集会所として利用され、庭園は広く一般に開放されています。

Img_1410c_20220510195701 Img_1413c  その先で青木門跡。西の丸の西南に位置する門で枡形を形成しており、今もそれが残っています。元和元(1615)年、徳川家康が大阪へ出陣のとき、亀山城に宿泊し、搦手門から出立の時、附近に繁茂した青木を見て、「おお青木」と賞賛したことから、門を青木門と呼ぶようになったという話が伝わっています。

Img_1426c_20220507193101  青木門跡から南に行くと、東海道に突き当たります。そこの交差点の南西側に飯沼慾斎生家跡があります。飯沼慾斎(天明3(1783)~慶応1元(1865)年)は、江戸後期の蘭方医、植物学者。伊勢国亀山の商人西村信左衛門の次男。母方の伯父で美濃国大垣の飯沼長顕に入塾し、のち京都に出て漢方、本草学を学んだ後、蘭方に転学し、大垣で開業しています。今回は見ていませんが、亀山城跡の多門櫓の南に「飯沼慾斎生誕之地碑」があります(2019年6月19日:20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(その4)……亀山演武場、明治天皇行在所、いくつかの石碑と姫垣外苑からでころぼ坂を経て亀山駅にゴール(完))。

Img_1423c_20220510200901 Img_1416c_20220510200901  この飯沼慾斎生家跡の前の交差点には、道標が2基あります。左の写真では、向かって左手が飯沼慾斎生家跡、奥が青木門跡。交差点の手前と奥に道標があります。右の写真は、奥にある道標。東面には「右 郡役所 左 東海道」とあります。手前側の道標には、「右 東海道 左 停車場」とあります。関西線の前身である関西鉄道は、名古屋駅~柘植駅間を明治28(1895)年に開通させていますから、この道標はそれ以降のものと思われます。

Img_1438c_20220507193101 Img_1451c_20220510202101  スタートして1㎞の手前に旧舘家住宅。「升屋」という屋号で、幕末から大正にかけて呉服商を営んでいた大店で、現在の主屋は、明治6(1873)年に建てられました。市文化財です。階段が、もともとは仏間のところにあり、隠し階段のような雰囲気。右の写真は、2階の様子。私の印象に残ったのは、この塗り壁でした。ボランティアガイドの方がいらっしゃり、詳しく話をしてくださいました。

Img_1478c_20220510202401 Img_1472c_20220510202401  旧舘家住宅のほぼ隣には終南山光明院善導寺。浄土宗のお寺。山門も新しく、立派。本堂も新しい。しかし、ガイドブックにも、ネットにも、これという情報はありません。

Img_1475c_20220510202401  山門前に「石灯籠寄進 板倉勝澄公」という石碑のある石灯籠。板倉勝澄(享保4(1719)~明和6(1769年))は、江戸時代中期の大名。享保9年、伊勢亀山藩主板倉家第2次2代。延享元(1744)年、備中松山藩主板倉家初代となりました。善導寺の先で東海道は、また、鍵の手となっています。

Img_1484c_20220510203801 Img_1488c_20220510203801  善導寺の先で、西之丸堀跡。亀山城の外堀の一部で、東海道と外堀が並行して接する場所で、城の防御上、また、景観上重要な場所だったといいます。町屋川には番所、した。跡北復元地南には西之丸西櫓があったそうです。深さ1.8m程度の水堀で、推進は60㎝程度であったといいます。

Img_1497c_20220511044101 Img_1526c_20220511044101  京口門跡。亀山宿の西端、西町と野村の境を流れる竜川左岸の崖上に門がありました。亀山藩主板倉重常によって寛文12(1672)年に完成したとされ、翌延宝元(1673)年に東町に築かれた江戸口門とともに亀山城総構の城門として位置づけられました。京口門は、石垣に冠木門・棟門・白壁の番所を構え、通行人の監視にあたっていたといいます。門へ通じる坂道は左右に屈曲し、道の両脇にはカラタチが植えられ、不意の侵入を防いだとされます。大正3(1914)年、京口橋がかけられ、この坂道を登る道筋は途絶えてしまいましたが、往時は坂の下から見上げると門・番所がそびえる姿が壮麗だったといいます。左の写真は、京口門跡から西の方を見たもの。右は京口橋をわたった先から振り返って、東を撮ったもの。この先に京口門、亀山城が見えたということです。

Img_1517c_20220511044801 Img_1510c_20220511044801  京口門跡の案内板があるところに純一山常寿院梅厳寺。浄土宗のお寺。伊勢亀山藩主・石川氏の先祖・石川家成は徳川家康の忠実なる家臣であり、石川昌勝が慶安2(1650)年、伊勢亀山藩主となった時に、石川家成の菩提寺をここに移して、藩主・石川氏の菩提寺にしています。寺名の梅巌は、石川家成の院号だそうです。

Img_1519c_20220511045401  ちょっと余談。京口橋から滝川を見下ろすと(橋の上から北の方角を撮っています)、かなり高いことがわかります。上述のように、本来の東海道は、この下を通り、左右に屈曲した坂道を登って、京口門に至ったということです。

Img_1530c_20220511063501 Img_1534c_20220511063501  京口橋をわたった北側に妙亀山照光寺。日蓮宗のお寺。山門の写真は、京口橋をわたったところから撮っています。見下ろすようになっていますが、それは橋がかかってから。昔の東海道は、おそらく、この山門の高さのところを通っていたと思います。

Img_1539c_20220511063901 Img_1543c_20220511063901  ここには、前回、池の側で見た「石井兄弟敵討碑(東丸町)」に関連して、敵を討たれた赤堀水之助の墓があります。元禄14(1701)年5月9日、石井源蔵・半蔵兄弟は亀山城石坂門外で、父と兄の敵である赤堀水之助を討ち果たしました。この敵討ちについては、こちらに詳しい話が載っています。

Img_1549c  墓所には、もう1基、史跡に指定されているお墓がありました。山木善太の墓です。山木善太(寛政12(1800)~天保8(1837)年)は、幕末の儒者で、亀山藩明倫舎で儒学を教授し、その普及に貢献したそうです。頼山陽、斎藤拙堂と交流があったといいます。

Img_1555c_20220511065101  照光寺から道を挟んだ向かい側に旧佐野家住宅。大地主で、商家で、家主は質店などを経営していました。明治初期に改築されたが、江戸時代の家の様子も引き継ぐといいます。「入り母屋妻入り」の造りで、街道に切り妻の正面を向ける妻入りの町屋は多くないそうです。正面から入った土間が奥に入って広くなり、中庭へ続いていました。

Img_1570c_20220511065501  その先で、旧森家住宅。切妻造桟瓦葺で、西面に切妻棟を敷設しています。現在は、骨董カフェを営んでいるようです。

 まだルートマップその1の途中ですが、長くなりましたので、記事のその1はここまで。

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2022年5月 7日 (土)

20220507東海道ウォーキング「亀山宿~関宿」(超予告編)

Kameyama0_20220508045001  4月23日の東海道ウォーキング「井田川~亀山」(2022年4月23日:20220423東海道ウォーク「井田川~亀山」(予告編))に引き続いて、今日は亀山宿~関宿までを歩いてきました。好天に恵まれ、また気温も上がり、亀山のアメダスでは、最高気温は28℃を超えていました。冒頭の画像が、今日歩いたルートの全体像。関宿ではもっとたくさんのところを見て、立ち寄って来ていますが、狭い範囲ですので、主なところだけ示しました。膨大な写真を撮ってしまい、まだすべてを確認していませんので、今日のところは、超予告編。明日以降、この超予告編を予告編にする作業から取りかかります。

Img_1298c_20220507193101 Img_1322c_20220507193901  桑名駅を8時14分に出る亀山行き普通に乗車。亀山には、9時ちょうどの到着。¥680。前回、最後に、西町問屋場跡まで行ってきました。当初は、この西町問屋場跡から東海道に入る予定でしたが、その前に、いきなり寄り道。

Img_1383c_20220507193101 Img_1426c_20220507193101  寄り道したのは、加藤家長屋門。江戸時代後期、亀山城主・石川家の家老職を務め、亀山城西之丸に居を構えていた加藤家の屋敷の長屋門。現在は屋敷の表門である長屋門とこれに連なる土蔵などが遺されています。その先で、飯沼慾斎生家跡。飯沼慾斎は、江戸後期の蘭方医,植物学者。伊勢国亀山の商人西村信左衛門の次男。母方の伯父で美濃国大垣の飯沼長顕に入塾し、のち京都に出て漢方、本草学を学んだ後、蘭方に転学し、大垣で開業しています。

Img_1438c_20220507193101 Img_1526c_20220507193101  旧舘家住宅。明治6(1873)年に商家として建てられました。枡屋という屋号で、幕末から大正にかけて呉服商を営んでいた大店です。土日に無料公開されています。右は、京町口門跡を、その西の京町坂橋の西詰から見た景色。ここは、滝川にかかる橋ですが、もとの東海道は、もっと低いところを通っていました。ちなみに、東海道五十三次を描いた浮世絵の多くは、京町門口跡あたりから亀山城を眺めた景色となっています。

Img_1607c_20220507193101 Img_1625c_20220507193101  左の写真は、浄土宗の慈恩寺。奈良時代に聖武天皇の勅願により行基が開いたと伝わっています。往時には、七堂伽藍があったものの、度重なる兵火で焼失。幕末、亀山藩の家老を務めた近藤幸殖の墓があります。右の写真は、野村一里塚跡。日本橋からは105里。北側の塚だけが現存しています。樹齢400年を超える椋の木が植わっています。一里塚に椋は珍しいそうです。

Img_1677c_20220507193101  途中、端折りますが、亀山市布気町に昼寝観音という観音さんがあります。東大寺の大仏を建て直すお金を全国から集めているとき、石山観音(津市芸濃町)から運ばれたといいます。各地の観音が集まって、西日本の観音めぐり33箇所を決める会議を開いたのですが、この落針(おちばり)の観音は昼寝をしていて会議に行かなかったため33箇所に選ばれなかったとか。

Img_1740c_20220507193301  旧国道1号線(現県道565号線)、JR関西線を越えますと、太岡寺畷(たいこうじなわて)に出ます。ここは、旧東海道の鈴鹿川沿いの道路で、約400mにわたり桜並木が続いています。桜の咲く時期になると、桜のトンネルが見事だろうと思えます。しばらく立ち寄るところはありません。

Img_1825c_20220507193301 Img_2037c_20220507193101  スタートから5㎞を超え、ようやく「関宿」の案内板。東海道五十三次の47番目の宿場町として栄え、今なお当時の雰囲気が残されています。ここは、ずっと以前から訪ねてみたかったところで、ようやく長年の念願が叶いました。右の写真は、関宿にある百六里庭・眺関亭の2階から眺めた関宿の西方向。向こうの山は、鈴鹿山脈。

Img_1847c_20220507193101  ここは、関宿東の追分。東海道と伊勢別街道との分岐点です。鳥居の向こうが、伊勢別街道。椋本、専修寺あたりを経て江戸橋で伊勢参宮街道につながっています。総距離およそ四里二六町(約18.5㎞)。江戸時代には京都方面からの参宮客で賑わいました。

Img_1919c_20220507193101 Img_1934c_20220507193101  関宿には見どころが多数。今日もあちこち見て回ってきましたが、ごくかいつまんで。こちらは、関の山車会館。狭い宿内の家並みを山車が巡行する様から、限度いっぱいの意味で使われる「関の山」の語源であるとも言われる「関の山車(せきのやま)」の展示を中心に祭りの付属品や歴史資料が展示されています。関の山車は、高さ4mとかなり大きいのに驚きました。「関の山車」は、元禄年間から伝わる祭礼で、江戸後期には16基もの山車があり、横幕・見送幕・提灯を豪華に飾りつけて華美を競い合ったそうです。山車の台車から上が回転する構造となっており、巡行時の辻々などで勢いよく回転させることが特徴の一つ。現在は木崎町・大裏(北裏)町・中町三番町・中町四番町の4基が保存され、関神社の夏祭りとして例年7月下旬の土・日曜に開催されています。

Img_2083c_20220507193101  こちらは、関宿旅籠玉屋歴史資料館。江戸時代の貴重な旅籠建築を修復し、旅籠で使われていた道具や歴史資料が展示してあります。宝珠の玉をかたどった虫籠(むしこ)窓が魅力的。この虫籠窓は、屋号にちなんで、宝珠の玉(玉から火焔があがる様)をかたどったものとなっているのだそうです。

Img_2092c_20220507193101 1651900657728c  関の戸をつくっている深川屋さん。創業約380年で、「忍びの隠れ蓑」だそうです。江戸時代寛永年間より作り続けられている「関の戸」は、忍者の末裔・服部伊予保重が考案した餅菓子です。2019年にこの深川屋に残っていた古文書から当時の忍びの記述が発見されたといいます。先日、三重県総合博物館でも買ってきたのに、今日もまた、土産は関の戸。和三盆と抹茶の6個ずつの詰め合わせ。¥1,118。

Img_2096c_20220507193101 Img_2104c_20220507193101  関郵便局。郵便局の敷地は、天正20(1592)年、家康が休憩したので、御茶屋御殿屋敷と呼ばれ、幕府代官陣屋、亀山藩役人詰所となっています。高札場もここにありました。ポストが、宿場の雰囲気に合わせてつくられていますし、敷地内に道路元標があります。

Img_2162c_20220507193201  関地蔵院。天平13(741)年、奈良東大寺の僧行基が、諸国に流行した天然痘から人々を救うため、この地に地蔵菩薩を安置したと伝えられています。この地蔵菩薩は、わが国最古のものです。関地蔵院で14時。途中で1度、20分くらい休憩して、おやつを食べただけで、ここまで歩き続けてきました。このあと昼食。

Dsc_6434c Img_2202c_20220507193202  JR関西線・関駅の近くに道の駅関宿があります。ここなら何か食べられるだろうということで立ち寄ったら、定食屋みくらという店がありました。冷やし海老おろしうどんをチョイス。¥840。

Img_2214c_20220507193201  Img_2242c_20220507193201 JR関西線・関駅には、14時45分頃にゴールイン。9.3㎞を歩きました。ここは、JR西日本のエリア。亀山までは1駅なのですが、この時間帯には1時間に1本のみ。しかも非電化区間。右の写真のように1両のディーゼルカーが走っています。

Img_2258c_20220507193201 Img_2266c_20220507193301  14時59分発の亀山行きに乗車。亀山には15時5分着。ここでJR東海の関西線に乗り換え。15時26分の名古屋行き快速。ただし、快速になるのは、四日市から。桑名には、16時6分着。料金は、通しで¥770。9.3㎞も歩き、また、暑かったのでそれなりに疲れました。しかし、今日は、念願の関宿を訪ねられましたので、心地よい疲労感です。歩数は、22,266歩。現地で9.3㎞、自宅から桑名駅往復が2.4㎞で、計11.7㎞。冒頭に書きましたように、今日のところは、以上、超予告編。

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2022年4月27日 (水)

20220423東海道ウォーク「井田川~亀山」(その3)……亀山城址にて多門櫓、明治天皇行在所旧蹟、亀山演武場などを見て、亀山駅にゴール(完)

220423kameyama2c Kameyamacastlec  4月23日の東海道ウォーク「井田川~亀山」の本編その3です。その2では、能褒野神社二の鳥居・露心庵跡から姫垣外苑まで来ました。ここからは、いよいよ亀山城址に進みます。

Img_9277c_20220425165001 Img_9272c_20220425165001  姫垣外苑通のすぐ西に亀山西小学校があります。門や塀が、いかにも城内にあるという造りでした。

Img_9280c_20220423175501  亀山城跡。スタートからほぼ6㎞。11時50分に到着。丹波国にあった明智光秀の亀山城(亀岡城とも)と区別するために、伊勢亀山城といわれることもあります。文永2(1265)年に関実忠によって若山(現在の三重県亀山市若山町)に築城され(冒頭2枚目のマップで、亀山古城趾としたところ)、その後、現在の位置に移されました。江戸時代は東海道の要衝としてたびたび城主が変わり、石川氏の時代に幕末を迎えています。江戸時代初頭には丹波亀山城の天守を解体するよう命じられた堀尾忠晴の間違いによって、天守を取り壊されたという話が伝わっていますが、真偽のほどは定かではないようです。正保年間(1644~1648年)、本多俊次が城主の時に天守跡に現在の多門櫓が建てられました。

Img_9293c_20220425170001 Img_9296c_20220425170101  その多門櫓、確か休日は内部が公開されているはずで、もう一度是非みたいと思っていました(2019年6月9日:20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(予告編)……雨にも負けず(苦笑))。平屋建、白壁の塗込で屋根は入母屋造り、東西北の三方に破風があり、平時は武器庫として利用されていました。県内に唯一現存する城郭建造物として、昭和28(1953)年に県史跡に指定されています。高石垣の上にそびえる多門櫓は、見事です。

Img_9415c_20220425170601 Img_9396c_20220423175601  その姿は、城跡から出て、池の側の方まで降りていくと眺めることができます。桜の季節であれば、きっと趣があることでしょう。

Img_9321c_20220423175601  多門櫓のところから、石垣を見下ろすと、かなり高いことがよく実感できます。

Img_9329c_20220425171001  多門櫓から降りた、すぐ西には、与助井戸があります。これは、亀山城本丸で使われていたイドといいます。城を築く前にあった与助という鍛冶屋の家の井戸であったと伝えられ、そのため、与助井戸と呼ばれていました。現在は、埋められています。木の枠は、井戸のあった場所を示しています。場外への抜け穴があったという話もありますが、確認はされていないそうです。

Img_9333c Img_9343c_20220425171401  多門櫓の西下には、「史跡明治天皇亀山行在所遺構」があります。明治天皇は、明治13(1880)年、三重県下巡幸の時、7月10日東町藤屋(伊藤市次郎宅)を行在所とされ、10、11日の両日、名古屋・大阪両鎮台対抗演習を統覧されました。これは、この折、玉座とされた奥8畳間など行在所の一部が移築保存されたものです。建物はまず井尻町に移された後、昭和10(1935)年、亀山小学校(現・亀山西小学校)地内に移築され、同14(1939)年三重県史跡に指定されました。同26(1951)年、市文化財となり、32(1957)年、ここ亀山城多門櫓石垣北側に再度移築されたのです。

Img_9356c_20220423175601 Img_9352c_20220425171801  その西には、亀山演武場が復元されており、亀山藩御流儀心形刀流武芸形(おんりゅうしんぎょうとうりゅうぶげいがた)(県文化財)が伝承されています。演武場は、約50坪の道場。心形刀流は、亀山藩武芸指南役山崎雪柳軒(やまざきせつりゅうけん;文政11(1828)~明治15(1882)年)が免許皆伝を得て、元治元(1864)年、亀山に演武場を開設し、柳生新陰流に代わって御流儀となりました。ちなみに、心形刀流は、心の修養を第一義とし、技の錬磨を第二義としているといいます。すなわち、技は形であり、心によって使うものであるとします。心が正しければ技も正しく、心の修養が足らないと技は乱れると考えられています。この技が刀の上に具現されるため、流名に示すように心形刀流となるそうです。こちらに心形刀流のパンフレットがあります。

Img_9360c_20220425171801  この亀山演武場の門として、「大久保神官家の棟門」が用いられています。大久保家は、江戸時代に南崎権現社の神官を務めていました。大久保家は、寛永9(1632)年に西町権現、東町八幡宮、西町三社権現を、また、13ヶ村42社の神官をかねていたともいいます。この門は、しばらく亀山小学校の裏門として使われた後、昭和30(1955)年に亀山神社境内に再び移築され、現在に至っています。

Img_9366c_20220423175601  亀山神社です。延享元(1744)年、備中松山から石川総慶が亀山城に入城した際、城内に小祠を設けたことに始まり、それ以来、亀山城内の旧館跡に鎮座して真澂(ますみ)神社として崇敬されて来たといいます。明治4(1871)年に城北の若山の地に遷座した後、同9(1876)年に再び本丸跡に遷座しています。明治40(1907)年から41(1908)年にかけて西町鎮座の郷社亀山皇太神社、阿野田村鎮座の式内社真木尾神社などを合祀し、社殿を現在の地である西丸に新築して奉遷し、社号を亀山神社と改めました。主祭神は、源義家源義時石川義純石川家成。亀山神社について、詳しくは、2019年6月17日の記事をご覧ください(20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(その3)……雨の中、亀山古城跡、花しょうぶまつり、亀山城多門櫓から亀山神社へ)。

Img_9373c_20220423175601  このあと、花菖蒲園の方をちょっと覗いて、亀山城をあとにしましたが、その前に、ますみ児童公園に保存されているC58蒸気機関車を見てきました。359号機です。子どもたちが小さい頃、家内の実家に行く途中に立ち寄って見たことがあります。きれいに手入れされています。75年前につくられたもので、昭和45(1970)年まで現役でした。

Img_9401c_20220423175601  亀山城址をあとにして、池の側の畔を歩いて行くと、「石井兄弟敵討遺跡石碑」があります。元禄14(1701)年5月9日早朝に、石井源蔵(33歳)・半蔵(30足)兄弟が、28年目にして父の敵・赤堀水之助を、ここ亀山城石坂門外で討ち取ったことを記念して、昭和7(1932)年に亀山保勝会によって建立されたものです。本懐を遂げた石井兄弟は、旧主の青山忠重に帰参を許されています。当時「元禄曽我兄弟」と称され、歌舞伎、講談、絵本、浮世絵などに取り上げられ、赤穂浪士の討ち入りと並び賞賛されました。

Img_9431c_20220423175601  池の側の向かい側に田中病院があり、その前に「池の側松並木」。亀山石坂門から池の側(外堀)に沿って植えられた松並木で、市天然記念物に指定されています。今は、写真に見える大きな松が1本だけで、その向こうに若木が植えられていました。

Img_9438c_20220423175601 Img_9448c_20220423175601  池の側松並木の南で、東海道に行き当たります。次回は、ここから関宿を目指す予定。小公園になっていて、そこが、西町問屋場跡。右の写真あたりに宿役人若林家の屋敷、問屋場が並んでいたと考えられています。右の写真は、関宿方面を撮ったもの。

Img_9488c_20220423175601 Img_9492c_20220423175601  これで今日の目的地はコンプリート。JR関西線亀山駅に向かい、12時40分に到着。取り敢えずは、7.4㎞を歩いてきました。亀山駅前では、現在、再開発が進んでいます。リニアが通ることを見越してです。マンションも建設されています。

Img_9500c_20220423175601 Dsc_6375c  名古屋行きの電車の時刻を確認して、昼食を摂ろうと思って、駅前を見渡したものの、コンビニもありません(苦笑)。駅前から県道565号線方面に行ったものの、食事ができそうなところは近くには見当たらず。駅前に引き返してきて、よく見たら、和菓子屋である瑞宝軒にカフェとありました。「食事はできますか?」と聞いたら、「大丈夫ですよ」との返答。ランチがあったので、それをチョイス。コーヒー付きで¥1,100。サワラのフライとハンバーグ。ご飯は七分づきのもの。なかなか美味しくいただけました。あとで調べたら、この瑞宝軒さんは、江戸時代後期、東海道沿いに角屋として開業した、歴史のある和菓子屋さんでした。

Img_9507c_20220423201901 Img_9517c_20220423175601  亀山駅に戻って、確か売店があったので、関の銘菓・関の戸を土産にしようと思ったら、売店は閉まっていました。残念。亀山を13時24分に出る名古屋行き快速に乗車。桑名駅には、14時6分着。¥680。けっこうよく歩いた感じでしたが、歩数は、18,459歩でした。自宅から桑名駅往復が、2.4㎞ほどですから、この日のトータルの歩行距離は、10.2㎞。次回は、亀山から関宿まで歩く予定。その先は、東海道と関西線が離れてしまうので、電車で行って歩くのが困難。県境まで東海道を歩くのは、難しそう。

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2022年4月26日 (火)

20220423東海道ウォーク「井田川~亀山」(その2)……能褒野神社二の鳥居・露心庵跡から姫垣外苑まで

220423kameyama2c  4月23日の東海道ウォーク「井田川~亀山」の本編その2です。その1では、JR関西線・井田川駅をスタートして、和田一里塚跡まで来ました。その2では、和田一里塚跡を過ぎてさらに西へ。栄町の交差点から、カメヤマローソクの工場を見て、能褒野神社二の鳥居、露心庵跡へ。このあたりが亀山宿東の入り口。本町広場には巡見道説明板がありますが、ここが巡見道との追分。ここから東町にかけて、昔の亀山の中心部。東町は、江戸町門口跡。福泉寺、法因寺を過ぎて、江ヶ室交番前交差点は、大手門跡・高札場跡。東海道は、ここで左折します。この先にある枡形を見て、江ヶ室交番前交差点に戻り、亀山城跡に向かいます。多門櫓・明治天皇行在所旧蹟・亀山演武場・亀山神社と回って、花菖蒲園を覗いて、亀山駅に向かいます。池の側で、石井兄弟敵討ち遺跡石碑。田中病院前には、天然記念物の池の側松並木。その後、西町問屋場跡を見て、亀山駅にゴール。

Img_9081c  栄町の交差点を過ぎると、左手(南側)にカメヤマローソクの亀山本社工場があります。昭和2(1927)年の操業。現在の社名はカメヤマで、本社も大阪に移転してしまいましたが、私には「亀山ローソク」の方が馴染みがあります。結婚式でのキャンドルサービスを日本で普及させたのは、この会社です。

Img_9092c_20220425065501  スタートから3.7㎞を過ぎたところに、能褒野神社の二の鳥居が道路をまたぐように立っています。能褒野神社は、ここから北東へ直線距離で3㎞。亀山市田村町にあります。日本武尊は、能褒野でなくなり、墓は「延喜式」に「能襃野墓」とあったのですが、後世に所在不明となりました。一帯には日本武尊の陵墓と伝えられる古墳がいくつかあったのですが、明治12(1879)年に「王塚」あるいは「丁字塚」と呼ばれていた前方後円墳(現在の能褒野王塚古墳)が、内務省によって「能褒野墓」に治定されています。その後、地元有志により日本武尊の遺徳をしのぶため能褒野陵周辺での神社の創建が企画され、明治28(1895)年に竣工しました。

Img_9096c_20220423175501  鳥居のすぐ西には、露心庵跡があります。亀山宿東端に位置する寺院跡です。天正12(1584)年に神戸正武が亀山城を襲ったものの、城を守る関万鉄斎はわずか13騎でこれを撃退したと伝わっています。この合戦の戦死者を城下の東端に2つの塚を築いて葬っています。この寺を建立した露心法師は、関氏一門で、もとは桑名城主に仕える武士でしたが、西町善導寺で仏門に入りました。その後、亀山城主であった石川昌勝に願って、古戦場の松林に友松庵を建て戦死者を供養したと伝えられます。この庵は露心の名にちなんで、その後、露心庵と呼ばれるようになりました。明治に廃寺になっています。

Img_9117c_20220423175501 Img_9124c_20220423175501  スタートから4㎞を過ぎ、10時40分頃、本町広場に到着。9時から歩いていますので、ここで一休み。ここの交差点は、東海道と巡見道との追分。巡見道は、江戸時代に幕府の巡見使の通った道のことです。県内の巡見道は、ここ亀山市の東町で東海道から分かれ、現在の国道306号を縫うようにして北上しています。巡見使は、将軍の代替わりごとに諸国の政情、政道の得失・民権の風俗を査察するために派遣される幕府の役人で、県内へは約10回の派遣の記録があります。右の写真が、巡見道。

Img_9111c_20220425152101 Img_9107c_20220425152101  この先、本町の通りを進んで行きますが、あちこちのお宅に昔の屋号を記したものが掲げられていました。「宿場の賑わい復活プロジェクト」として、平成13(2001)年に「きらめき亀山21 町並み保存分科会」がつくったものでした(このあといった枡形のところに掲示がありました)。屋号が掲げられていると、昔のことを早々しながら歩くことができ、楽しさが増します。

Img_9152c_20220425152801  亀山医院の前を過ぎると、東海道は左に曲がり、変則の4叉路に出ます。ここは、江戸門口跡。延宝元(1673)年、亀山城主・板倉重常によって気づかれた城門がありました。東西120メートル、南北70メートルで堀や土塁に囲まれた曲輪があり、その曲輪は3つに区画され、それぞれが枡形になっていたといいます。西側の区画には、番所がおかれ、通行人の監視や警固にあたったそうです。番所というよりも、亀山城惣構の城門という位置づけと考えられています。

Img_9160c_20220425153301  東町交差点。ここからアーケードのある商店街となります。シャッターが閉まっている店もありますが、まだまだ現役でやっている店もたくさん。

Img_9170c_20220423175501 Img_9179c_20220425153701  ふれあい広場の向かいを入っていくと、お寺が2つ並んでいます。まずは、松風山福泉寺。元は、慈覚大師が創設した天台宗のお寺でしたが、15世紀後半に真宗高田派に改宗しています。山門が立派でした。正面軒唐破風付入母屋造で、寛政7(1795)年の築造といいます。

Img_9183c_20220425153701  ここは、亀山愛児園という認定こども園を営んでいます。そのためか、境内には入れないようになっていましたので、山門から覗いて写真だけを撮ってきました。ちなみに、亀山愛児園は、昭和21(1946)年6月、三重県で戦後最初に開園された保育所だそうです。

Img_9222c Img_9189c_20220425154501  福泉寺の西隣にあるのが、真宗大谷派の宝亀山法因寺。創建は不詳ですが、蓮如上人の縁があったと伝えられており、門前に「蓮如上人御旧蹟」と刻まれた石碑が建っています。

Img_9195c Img_9198c_20220425154601  本堂も、庫裏も立派な建物でした。墓所には、江戸時代末期亀山藩の郡代奉行であった黒田孝富(亀山藩の藩政改革を断行し明治元年に暗殺)の墓があったのですが、これは見忘れてしまい、残念。

 Img_9201c_20220425154901 また、推定樹齢約300年の「左巻カヤ」が、墓所にあります(たぶん左の写真のもの)。亀山市指定天然記念物。この「左巻カヤ」は、カヤの変種で、種子が大型で、種子の殻の表面にみられる螺旋状の線が左巻きのカヤだということです。

Img_9227c_20220423175501  東海道に戻って、江ヶ室交番前交差点へ。ここは、亀山城の大手門跡。高札場もここにありました。大手門は、大手門櫓と大手脇櫓からなる枡形門でしたが、明治初頭には石垣に至るまで破却されています。東海道は、ここで左折し、南に向かいます。亀山城にはここを直進するのですが、東海道にある枡形だけを見てくることにしました。が、江ヶ室交番のところにある道路元標を見忘れました(苦笑)。

Img_9245c_20220423175501 Img_9249c_20220425162601  100メートルほど南に行ったところに東海道の枡形が残っています。ちょうど亀山市シルバー人材センターのところ。枡形を確認して、この日は、亀山城跡に向かいます。

Img_9267c_20220423175501  亀山西小学校の東のところに「姫垣外苑」。このあたりには、太鼓櫓があったといいます。小規模な三階の櫓で、最上階に時を告げる太鼓がおかれていました。江戸時代中頃に築造され、嘉永7(1854)年の大地震で倒壊。文久2(1862)年頃には再建されています。ちなみに、亀山城の別名は、「粉堞城(ふんちょうじょう)」といいます。「粉堞」とは、姫垣( 城壁などの上にめぐらした低い垣。また、たけの低い垣根。小さい垣)や、表面に白い胡粉(ごふん: 白色顔料。板甫牡蠣(いたぼがき)の殻を数年、風雨にさらし、粉砕、水簸(すいひ)、乾燥して作った炭酸カルシウムを成分とする粉末)を塗った簡易な塀という意味があります。「姫垣外苑」は、これに由来する名前ということ。

 その2は、私にしてはやや短い記事ですが、キリが良いのでここまで。その3では、いよいよ亀山城址へと入っていきます。

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2022年4月25日 (月)

20220423東海道ウォーク「井田川~亀山」(その1)……井田川駅を降りて、和田一里塚跡へ

Img_8837c_20220423175801  4月23日の東海道ウォーク「井田川~亀山」の本編その1です。同級生K氏との日程調整の関係で、1ヶ月ほどの間が開きましたというか、月1回ペースになっています。この日は、3回目の「東海道ウォーク」。昨年、「東海道・伊勢街道歩いて伊勢参りツアー」を完歩した後、今年はまず、三重県内の東海道を歩こうと考え、1回目では四日市の日永の追分~鈴鹿の加佐登を(2022年2月5日:20220205東海道ウォーキング(日永の追分~加佐登)(予告編))、前回は加佐登から亀山の井田川までを歩きました(2022年3月19日:20220319東海道ウォーク「加佐登~井田川」(予告編))。今回は、井田川駅から東海道を歩いて、亀山の町へ。亀山では、東海道からは少し外れますが、亀山城跡も主なところを回って来ました。亀山の最高気温は、26.3℃。ほぼ曇りで、正午頃からはしばらく晴れていました。歩くのにはちょうどよい気候。

Img_8845c_20220423175401 Img_8851c_20220424151701  JR関西線・桑名駅を8時14分に出る亀山行き普通に乗車。井田川駅には、8時54分着。¥590。9時ちょうどに井田川駅をスタート。駅から南西に向かいます。右の写真は、これから歩く東海道。都会を通っている東海道に比べると、のんびりした感じ。

220423kameyama1c  こちらが、実際に歩いたルートマップのその1。井田川駅から南西に進み、川合町で国道1号線を越え、西信寺、正福寺を周り、椋川を越えると和田に入ります。谷口法悦題目、道標1基、シャングリさんの小祠と訪ねて、東海道は西に向きを変え、幸福寺、道標1基、福禅寺、石上寺(せきじょうじ)を経て、和田一里塚跡に至ります。

Img_8857c_20220423175401  井田川駅からすぐの右手(西側)に「旧井田川小学校跡碑」があります。亀山市立井田川小学校は、歴史を遡ると、明治8(1875)年3月に田村、長明寺、海善寺の3ヶ村が共同で田村に設けた「田村学校」に始まります。その後、明治24(1891)年4月に鈴鹿分位だが羽尋常小学校となり、大正4(1915)年2月にここに移転。さらに、昭和54(1979)年4月に亀山市みどり町に移転するまで、ここにありました。

Img_8873c_20220424153501 Img_8876c  このあと、国道1号線を渡って、東海道は左折します。朝日町や、四日市市、鈴鹿市もそうでしたが、亀山市も、東海道の案内標識が充実しています。桑名にも東海道の案内はあるのですが、石柱になっています。格好は良いのかも知れませんが、気づきにくいのが難点。名所旧跡の案内も、似たような状況。

Img_8892c_20220423175401 Img_8882c_20220424153801  この先で右手にお寺が続きます。まずは、真宗高田派の廻向山西信寺(さいしんじ)。詳細は不明。

Img_8905c_20220424153801 Img_8896c_20220423175401  その先に浄土宗の三世山浄業院正福寺。こちらも、みえの歴史街道にも、ネットにもこれという情報はありません。

Img_8914c_20220423175401  国道1号線の高架橋をくぐり、和田町に入ると、スタートから1.5㎞地点の手前、西側に「谷口法悦題目塔」。川合と和田の境にあります。元禄年間(1695~98)のもの。題目塔(だいもくとう)は、南無妙法蓮華経と刻まれた、鎮魂を目的とする供養塔です。谷口法悦(生年不詳)は京都の商人で、一族とともに、全国の街道筋に100基以上の驚異的な数の題目塔や仏涅槃図、板曼荼羅などを寄進しています。刑死者供養に刑場跡や街道筋に題目塔を建立したとも伝わっています。ここの題目塔は、川合と和田の境にあり、昔から「川合のやけ地蔵さん」「法界塔さん」と呼ばれています。高さは2.59メートルで、塔の正面に「南無妙法蓮華経」、右側に「後五百歳中廣宣流布」、左側に「天長地久國土安穏」、背面に「施主谷口法悦」と刻まれています。

Img_8939c_20220424164601 Img_8942c_20220424164601  東海道が県道23号線の和田交差点に接近する手前に和田の道標があります。「従是 神戸 白子 若松道」と刻まれ、白子道を示しています。元禄3(1690)年、度会益保によって建てられたものです。裏には、「元禄三庚午年正月吉辰 施主度会益保」とあります。神戸城下町へ3里半、白子町へ3里、若松村へは3里14丁。若松村には、亀山藩領の港があり、そこへの重要な道路を示しているのです。また、この道標は、三重県の東海道に現存する最古のものだそうです。

Img_8951c_20220423175501  道標の先には、シャングリさんの小祠。川合と和田の境にあって、和田の村に悪霊が入ってこないよう、見張るためのもの。シャングリさんの小祠を過ぎると、東海道は西向きになります。

Img_8981c  和田の公民館の向かい側に「井尻道」の道標があります。これは、田中音吉が建てたもの。田中音吉は、亀山生まれの明治~大正時代の実業家。明治30(1897)年、亀山共同社(のち亀山製絲会社)を設立しています。亀山あたりの道路の分岐点に多数の道標を建てています。今のところ、61基の存在が確認されています(こちら)。ちなみに、井尻は、ここから南に、県道23号を超えた鈴鹿川沿いにある町。

Img_8989c_20220423175501  井尻道の道標のところの小路を入ると、真宗高田の當修山幸福寺がありますが、ご覧のような状況。本堂はありますが、庫裏は見当たりません。境内も、工事中というか、工事に取りかかる直前という印象でした。ネットではこれという情報は見つけられず、詳細は分かりません。

Img_8971c_20220423175501  東海道に戻り、井尻道の道標の先、右手に(北側)天台真盛宗の福善寺。こちらのお寺も、宗派以外には、ネットなどではとくに情報は出て来ませんし、説明板もありません。

Img_9002c_20220423175501  スタートから2.5㎞ほどのところに那智山松寿院石上寺(なちさんしょうじゅいんせきじょうじ)。高野山真言宗。本尊は子安延命地蔵菩薩。伊勢七福神の一つ。延暦15(796)年、大和国布留郷(ふるのさと)の住人「紀真龍」(きのまたつ)が、石上神宮の神告により、この地へ那智山熊野権現を勧請し、新熊野三社として祀ったのが、新熊野権現社の起源で、同年8月弘法大師が真龍の元を訪れ、地蔵菩薩を刻み一宇を建立して、那智山石上寺と名付けたのが、当山の始まりとされています。

Img_9006c_20220423175501 Img_9013c_20220424171601  朱雀天皇(在位931~947年)の勅願寺や、建久6(1195)年に鎌倉将軍家の祈願所となるなど、名刹で壮大な神廟寺院も、永禄年中(1567~1569年)、織田信長の伊勢進攻の兵火により焼失したものの、権現社と地蔵堂は難を免れたといいます。その後、正保元(1644)年に再興、正徳2(1712)年に僧是幼が中興して今日に至っています。伊勢七福神としては、布袋尊を祀っています。

Img_9045c_20220424171701 Img_9049c_20220424171801  境内は広く、西側の高くなったところに鐘楼と熊野権現社があります。元は、このあたりに勧請された熊野神社の神宮寺で、大伽藍があったといいます。境内には、四国88箇所霊場巡りも再現されていました。

Img_9061c_20220423175501  石上寺から300メートルほど西に、和田一里塚跡。江戸日本橋から104里。慶長9(1604)年、亀山城主であった関一政が築造したもの。当初は街道の両側に塚が設けられ、頂上部には榎が植えられていましたが、道路の拡幅工事により片側が消滅。僅かに残されたもう一方の塚の一部も、昭和59(1984)年、道路の拡幅にともないなくなりました。現在のものは、跡地の東側の近接した場所に模式復元されたものです。

 その1は、ここまで。その2では、いよいよ亀山宿へと進んで行きます。

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2022年4月23日 (土)

20220423東海道ウォーク「井田川~亀山」(予告編)

Img_8837c_20220423175801  1ヶ月ほどの間が開きましたが、今日は、「東海道ウォーク」の3回目。前回は、JR関西線・加佐登駅から井田川駅まで歩きました(2022年3月19日:20220319東海道ウォーク「加佐登~井田川」(予告編))。今回は、井田川駅から東海道を歩いて、亀山へ。亀山では、東海道からは少し外れますが、亀山城跡も主なところを回って来ました。亀山の最高気温は、26.3℃。ほぼ曇りで、正午頃からはしばらく晴れていました。歩くのにはちょうどよい気候。今日のところは、予告編です。

Img_8845c_20220423175401Img_8857c_20220423175401  JR関西線・桑名駅を8時14分に出る亀山行き普通に乗車。井田川駅には、8時54分着。¥590。9時ちょうどに井田川駅をスタート。駅から南西に向かいます。すぐに右手(西側)に「旧井田川小学校跡碑」があります。井田川小学校は、大正4(1915)年2月にここに移転して来て、昭和54(1979)年4月にみどり町に移転するまで、ここにありました。

Img_8892c_20220423175401 Img_8896c_20220423175401  このあと、国道1号線を渡って、東海道は左折。右手にお寺が続きます。まずは、真宗高田派の廻向山西信寺(さいしんじ)(左の写真)。その先に浄土宗の三世山浄業院正福寺(右の写真)。どちらも、みえの歴史街道にも、ネットにもこれという情報はありません。

Img_8914c_20220423175401  正福寺の先で1㎞。椋川を渡って、国道1号線の高架をくぐって、1.5㎞地点の手前、西側に「谷口法悦題目塔」。川合と和田の境にあります。元禄年間(1695~98)、谷口法悦が造立。「南無妙法蓮華経」と刻まれています。谷口は、日蓮宗の篤信者で、17世紀末頃、一族とともに各地の寺院、街道筋にこうした題目塔を造立しています。

Img_8932c_20220423175401 Img_8951c_20220423175501  県道23号線の和田交差点に東海道が接近する手前に道標があります。「従是 神戸 白子 若松道」とあり、白子道を示しています。元禄3(1690)年、度会益保によって建てられたものです。若松村には、亀山藩領の港があり、そこへの重要な道路を示しています。また、この道標は、三重県の東海道に現存する最古のものだそうです。道標の先には、シャングリさんの小祠。川合と和田の境にあって、和田の村に悪霊が入ってこないよう、見張るためのもの。

Img_8989c_20220423175501  和田の公民館の向かい側に「井尻道」の道標があります。これは、田中音吉が建てたもの。Img_8981c田中音吉は、亀山生まれの明治~大正時代の実業家。明治30(1897)年、亀山共同社(のち亀山製糸会社)を設立しています。このあたりの道路の分岐点に道標を建てています。今のところ、61基の存在が確認されています(こちら)。ここを南に入ると、真宗高田の當修山幸福寺がありますが、ご覧のような状況。庫裏も取り壊されているようですし、境内も、工事中というか、工事に取りかかる直前という印象でした。ネットではこれという情報は見つけられませんでした。

Img_8971c_20220423175501  東海度に戻って少し行くと、スタートから2.5㎞を過ぎた右手に(北側)天台真盛宗の福善寺。こちらのお寺も、宗派以外には、ネットなどではとくに情報は出て来ません。

Img_9006c_20220423175501  こちらはその先にあるImg_9002c_20220423175501  石上寺(せきじょうじ)。那智山松寿院という号があります。本尊は子安延命地蔵菩薩。伊勢七福神の一つ。元は、このあたりに勧請された熊野神社の神宮寺で、大伽藍があったといいます。境内には、四国88箇所霊場巡りも再現されていました。

Img_9061c_20220423175501  石上寺からほど近くに、和田一里塚跡。江戸日本橋から104里。慶長9(1604)年、亀山城主であった関一政が築造したもの。昭和59(1984)年、道路の拡幅にともない、それまで残っていた塚の一部がなくなり、跡地の東側のここに模式復元されたものです。

Img_9085c_20220423175501 Img_9096c_20220423175501  栄町交差点を過ぎ、スタートから3.7㎞ほどのところに、能褒野神社の鳥居。この鳥居から北東へ約3㎞のところに能褒野神社があります。能褒野神社は、日本武尊能褒野御墓(やまとたけるのみことのぼのおんぼ)のところにあります。この御墓は、日本武尊が、東征帰路にこのあたりで亡くなられたという記紀の記述に基づき、明治12(1879)年に内務省が「日本武尊能褒野御墓」と定めています。鳥居のすぐ先に露心庵跡。天正12(1584)年に神戸正武が亀山城を襲ったものの、城を守る関万鉄斎はわずか13騎でこれを撃退したと伝わっていますこの合戦の戦死者を城下の東端に2つの塚を築いて葬っています。関氏一門の露心はこのあたりに仏庵を建立し、戦死者を供養したといいます。この仏庵が露心庵です。明治に廃寺になっています。

Img_9117c_20220423175501 Img_9124c_20220423175501  このあと、本町交差点にある本町広場(巡見道説明)で一休み。10時40分頃から11時頃まで。この本町交差点で、東海道と巡見道とが分岐します。右の写真で、奥の方向に続くのが巡見道。

Img_9151c_20220423175501  東町のバス停のところは、江戸門口跡。延宝元(1673)年、亀山城主・板倉重常によって築かれた門があったところ。番所もおかれ、通行人の監視や警護に当たったといいます。

Img_9170c_20220423175501 Img_9222c  東町の商店街に入っていきます。5㎞の手前を北に入ったところに、まずは福泉寺。慈覚大師が創設した天台宗の古刹で、寛正元(1460)年に真宗高田派に改宗したと伝えられます。山門は寛政7(1795)年の建立で、県の文化財に指定されています。福泉寺に向かい合うようにしてあるのが、真宗大谷派の法因寺。蓮如上人御旧蹟であり、また、墓地内に天然記念物である「法因寺の左巻カヤ」があります。果実に白筋があるのですが、その筋が左巻に現れるのが珍しいとされています。

Img_9227c_20220423175501 Img_9245c_20220423175501  江ヶ室交番前の交差点は、亀山城の大手門跡です。大手門があったほか、ここは高札場でもありました。東海道は、ここで左折して南に向かいます。すぐ先に枡形が残っています(右の写真)。このあと、亀山城跡を見に行きたかったので、枡形を確認して、江ヶ室交番前の交差点に戻り、東海道からは外れて、亀山城跡へ。

Img_9280c_20220423175501  亀山城は、別名を粉蝶城(こちょうじょう、ふんちょうじょう)といいます。文永2(1265)年に関実忠によって若山(現在の三重県亀山市若山町)に築城され、その後現在の位置に移されています。江戸時代は東海道の要衝としてたびたび城主が変わり、石川氏の時代に幕末を迎えました。

Img_9396c_20220423175601 Img_9321c_20220423175601  ここで必見なのは、多門櫓。多門櫓は、天守台といわれる本丸高石垣上にあり、寛永9 (1632)年頃に築造されたとみられます。三重県で唯一現存する城郭建造物として県史跡に指定されています。土日祝日は公開されており、今日も内部を見学してきました。

Img_9356c_20220423175601  多門櫓の西にある明治天皇行在所遺構です。Img_9333c明治天皇が明治13(1880)年7月10日、11日に大阪鎮台・名古屋鎮台兵対抗演習天覧のため、亀山の藤屋でニ泊されたときに玉座として使われた建物が、亀山城跡地に移築され残っているのです。右の写真は、そのさらに西にある亀山演武場。元治2(1865)年、十五代亀山藩主石川総脩により武道場の設立が許され、南野村喬松館御殿の東(現在の南野町)に、江戸の伊庭道場の長所を取り入れた約50坪の道場が建設されました。廃藩置県や廃刀令を経て、明治15(1882)年に演武場はここに移設されています。亀山藩に伝わる心形刀流(しんぎょうとうりゅう)を今に伝えています。

Img_9366c_20220423175601  そのさらに西には、亀山神社。延享元(1744)年、備中松山から石川総慶が亀山城に入城した際、城内に小祠を設けたことに始まり、それ以来、亀山城内の旧館跡に鎮座して真澂(ますみ)神社として崇敬されて来たといいます。このあと、花菖蒲園の場所を覗いて、亀山駅に向かいました。

Img_9401c_20220423175601 Img_9431c_20220423175601 城の南に池の側という名前の池があります。その畔に「石井兄弟亀山敵討遺跡」と刻まれた石碑があります。これは、元禄14(1701)年5月9日、石井半蔵・石井源蔵の兄弟が、父の宇右衛門と兄の三之丞の仇である赤堀源五右衛門を伊勢国亀山の城下で討ち取ったことに関する記念碑。この先、田中病院の前には、松の木があります。ここは「池の側 松並木」。亀山城石坂門から池の側(外堀)に沿って植えられた松並木で、市天然記念物です。

Img_9488c_20220423175601 Img_9492c_20220423175601  JR関西線・亀山駅には、12時40分頃到着。亀山駅前では、リニア開通を見越して、駅前の整備とともに、マンションの建設などが行われていました。電車の時刻を確認してから、昼食を食べられる店を探して、若干ウロウロしました。昼食のために歩いたのも含め、亀山駅までで最終的には7.8㎞を歩いています。

Img_9500c_20220423175601 Dsc_6375c  昼食は、結局、駅前にあった「瑞宝軒」という和菓子屋さんがやっているカフェへ。最初は、和菓子屋さんだから昼ご飯はないなと思って、いったん通り過ぎたものの、ほかに飲食店はなく、戻って来て「食事ができますか?」と聞いたら、大丈夫といわれました。ランチもあったので、それをチョイス。コーヒー付きで¥1,100。サワラのフライとハンバーグ。ご飯は七分づきのもの。なかなか美味しくいただけました。

Img_9507c_20220423201901 Img_9517c_20220423175601  亀山駅を13時24分に出る名古屋行き快速に乗車。桑名駅には、14時6分着。¥680。けっこうよく歩いた感じでしたが、歩数は、18,459歩でした。自宅から桑名駅往復が、2.4㎞ほどですから、今日のトータルの歩行距離は、10.2㎞。予告編はここまで。本編はまた明日以降、ボチボチと書いていきます

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2022年4月22日 (金)

貝塚公園でセンダイムシクイ……「桑名城探訪」アプリの「まちあるき」をコンプリート

Dsc09070c  朝のうちは、曇り空でしたが、昼前からは上天気。夏日になって、暑いくらいです。非常勤先のQ&Aは、昨日のうちに書き終え、今朝早く確認して、いつものようにメールで送って、印刷などをお願いしました。いつも通り、7時半から散歩を開始。住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀南公園、外堀、内堀、京町、吉津屋町から本町、田町、三崎通と6.1㎞。「桑名城探訪」の「まちあるき」をコンプリートしようと思ったのと、ツバメの巣チェックのため、後半、いつもとは少し違うコース。

Dsc08924c Dsc08950c  今日もまた、鳥はおりません。「見事に」といってもよいくらいでしたが、例外がありました。それは、貝塚公園でのこと。センダイムシクイが1羽、いました。東屋あたりで、頭上のどこかからか、「チョッチョルギーッ」というような鳴き声が聞こえてきて、探しまくったのです(微笑)。センダイムシクイの鳴き声は、「ツルチヨギミー!(鶴千代君ー!)」とか、「焼酎1杯グイ」などと聞こえるといいます。右の写真では、頭央線らしきものも見えますので、間違いないでしょう。散歩コースでは、ときどきムシクイの仲間を見ますが、判別に困ることが多いのです。

Dsc08767c Dsc08823c  さて、家を出てから九華公園に着くまでの間に見たのは、スズメ、ドバト、ムクドリくらい。スズメはいつもよりやや多いかなと思えましたが、それ以外はいません。九華公園内某所にあるコゲラの巣では、着いてすぐに親の交代がありました。その後、30分くらいでまた交代。奥平屋敷跡では、スズメがもっともたくさんいました。といってもせいぜい10羽くらい。ツバメが上空を行き交ったり、ハシボソガラスガスに出入りしたりするくらいで、他の鳥は来ません。帰り際、カワラヒワが降りて来たものの、花菖蒲園の雑草の中に入ってしまい、よく見えず。

Dsc08861c  ほかには、本丸跡で、ハクセキレイ。オスも、メスも1羽ずつ確認。ツグミは、今日はどこにもいません。アカハラも、昨日から見なくなっています。カモも、今日もいませんでした。ということで、スズメやカワラヒワのヒナが登場するまで、こんなふうなのでしょう。

Dsc08912c Dsc08916c  九華公園のツツジは、咲いているところはこれらの写真のように、よく咲いているものの、花芽が見当たらないところが多かったり、つぼみが出て来ていてもなかなか咲かないところもあったりで、今年はきれいに咲きそろわないような気がしてきました。散歩友達の間では、去年の剪定の仕方が荒っぽかったのがよくなかったという見方で一致しています。

Dsc08747c  剪定といえば、柿安コミュニティパークにあるクチナシ。今日になって気づいたのですが、比較的最近、こんな風に剪定されてしまっていました。今頃剪定してしまっては、今年は花がほとんど見られないでしょう。「伸びていて、みっともない」というクレームが市役所に寄せられたためのようです。少しは考えて対応して欲しいと思うのですが、花芽があるということもご存じないのではないかと疑っています。

Dsc08834c Dsc08843c  もう一つついでに書いてしまいますが、九華公園の二の丸跡で石垣が崩れています。気づいたのは、確か昨年の秋か冬になりかけの頃。管理人さんに連絡したものの、いっこうに修理される気配はありません。それどころか、だんだんひどくなっています。最近では、カメが甲羅干しに来ています。堀めぐりの業者さんが市役所に連絡したら、どうやら情報がしっかり伝わっていなかったか、担当部署内で共有されていなかった模様。花や、景色を楽しめる憩いの場なのですから、公園の管理はきちんとしていただきたいと思います。

Dsc08976c  内堀南公園ではムクドリだけ。京町の呉服屋さんの巣では、今日も親ツバメが座っていました。ツバメの抱卵日数は13~17日といいます。この巣に親ツバメが就き始めたのは、4月9日ころ(2022年4月 9日:ジョウビタキがまだいました……ツバメは巣に就き、フジも咲きそうで、ツツジも花芽が膨らみました)でしたから、そろそろヒナが孵るかも知れません。

Dsc09003c Dsc09043c  三崎通のお宅の巣でも、今日は、親ツバメがいました。やっと卵を産んだようです。ゴールデンウィークが明ける頃にヒナが孵るくらいのペースでしょう。

Screenshot_20220422075338cDsc08742c  ところで、初めの方にも書きましたが、昨日の続きで、「桑名城探訪」の「まちあるき」。柿安コミュニティパークの南東あたりに「三の丸」のポイントがありました。3DCGでは、遠くに天守閣らしき建物が見えています。現在、この方向を見ると、柿安本社ビルが視野に入ります。

Screenshot_20220422080026c Dsc08752c  続いて、九華公園の西の入り口に当たる扇橋のところ。「鐘の門」のスタンプをゲット。ここに「鐘門」があったのです。現在、左の3DCG画像の方向を見ると、右の写真のようになっています。鐘門は、記録によれば2層。

Screenshot_20220422102235c Dsc08997c_20220422155501  「まちあるき」の最後のポイントは、桑名宗社(春日さん)の青銅の鳥居あたり。3DCGで右側奥に続くのが東海道で、その先が七里の渡し。右の写真が、現在の様子。右側で奥に向かっているのが東海道。七里の渡し跡は、この先。

Screenshot_20220422102157c Screenshot_20220422102053c  ここで、スタンプをコンプリート。左の画像にあるように、昨日と今日とで13箇所を巡って来たという次第。コンプリートすると、右の画像のように、祝っていただけます(微笑)。描かれている武将は、槍を持っていますし、この兜の飾りの形から、間違いなく本多忠勝公ですね。

Screenshot_20220422102122c  さらに、コンプリートすると、クーポンがもらえるのです。七里の渡し跡近くに「宿場の茶屋 ハジメ」という店がありますが、そこでテイクアウトのどら焼きが、10%オフ。10%オフというのは、ちょっと微妙という気もしますが……。あんこのどら焼きは、1個¥180のようです。さらに「桑名城クリアファイル夕焼けバージョン」ももらえます。ただし、ハジメの営業時間は、11時~18時。11時には、たいてい散歩から帰って来ています。

Dsc08989c  明日は、同級生K氏と東海道ウォークの3回目の予定。JR関西線・井田川駅から東海道を歩いて亀山までの予定。明日も見どころはたくさんありますし、亀山城跡も是非見てこようと思っています。写真は、東海道をモチーフにした「歴史を語る公園」。

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