お知らせ

  • データの移行について
    2005年10月26日のブログ開始当初から、2023年8月31日までの記事は、「猫の欠伸研究室(アーカイブ)」に移行しました(http://blog.livedoor.jp/taichimaru151/)。 このココログの「猫の欠伸研究室」には、2018年1月以降の記事を残し、2017年12月以前の記事は削除しました(2018年1月1日から2023年8月31日までの記事は、両方にあります)。

レンズを通した自然観察

  • この「レンズを通した自然観察」ということばは、恩師のお一人が、私の趣味を形容しておっしゃったものです。2023年2月7日のブログに書きましたが、実はときどき思い出していることばです。お世話になった先生方はたくさんいらっしゃいますが、この恩師は、就職のことから学位論文の執筆、審査に至るまで本当にお世話になった先生です。「写真の撮り方を指南してもらいたい」ともおっしゃったのですが、これはお世辞と理解しています。私はほぼ隠居状態となって10年以上になりますが、今、改めてこのことばをかみしめています。この先生には結婚式の際に「理論と臨床をつなぐ仕事をするように」ということばをいただきました。体調を崩してそれには十分に応えられませんでしたので、せめてこの「レンズを通した自然観察」については、極めるとまでは行かないにしても、もう少し精進したいと考えています。

ブログ名の由来

  • ブログ名の「猫の欠伸研究室」は、中日新聞の夕刊に連載されている「紙つぶて」というコラム(平成22(2010)年1月13日)に、元新党さきがけ代表の武村正義さんが書いていらっしゃった「人生は猫の欠伸である」というコラムによります。武村さんは、“チベットで鳥葬を取り仕切る僧侶が、「人の生涯は猫の欠伸のようなもの」と語った”と書いていらっしゃいます。「猫の欠伸のようなもの研究室」としたかったのですが、ちょっと間延びしますので、「猫の欠伸研究室」とした次第です。「研究室」とつけたのは、過去、大学に勤めていたことがあるということやら、知らないこと、分からないことがあると何でも調べずにはいられない性分であること、屁理屈、講釈が大好きであることからであります。しかし、「人生の研究をしている」のではありません。「大所高所」からのご高説を開陳できるほどの力量はないが故、「小所低所」からの戯れ言をつぶやくのが精一杯(苦笑)。身の程に合わせ、勝手なことを書き綴っていますので、御用とお急ぎでない皆様には、今後ともご交誼のほど、お願いいたします。是非ともコメントを頂戴し、少しでも世間を広げたいと熱望しております。

モットー

  • 座右の銘というほど立派なものはありませんが、過去に体調を崩し、療養生活を送った経験から、私なりのモットーをつくっています。その一つは、「淡々と飽きもせず……」です。自分では、「……」と余韻を残しているところが気に入っています。こだわりすぎや、やり過ぎはよくありません。若い頃はムキになってやったこともありますが、今はこのように「淡々と飽きもせず……」が自分に合っていると思っています。もう一つは「晴耕雨読」ならぬ「晴歩雨読」です。マンション暮らし故、耕すところはありません。代わりに歩いています。そして、最近(令和3(2021)年に入った頃から)追加したのが、「散歩生活、ときどき仕事」。NHKのテレビ番組に「晴れ、ときどきファーム!」というものがあります。これのもじり。浅学非才の身ですので、ご交誼の上、いろいろとご教示をお願いします。

城・城跡

2023年8月31日 (木)

20230829赤尾・在良ウォーキング(その2)……坂井橋を渡り、北勢線坂井橋駅跡、貞昭院、額田廃寺跡から額田神社にて「完」

20230829haneda  8月29日の「赤尾・在良ウォーキング」の本編その2です。その1では、八風バス志知線の羽田バス停を9時にスタートし、照順寺、鞆尾神社、御厨神社、圓授寺を周りました。その2では、坂井橋を渡って、坂井橋駅跡、貞昭院、額田廃寺跡碑、額田神社と周り、三岐鉄道北勢線在良駅がゴールなのですが、その前にファミリーキッチン馬車屋さんで昼食。

 
Img_0267c_20230829161501 員弁川にかかる坂井橋を渡ります。この「坂井」も本来は、郡の境で「境」と思います。

Img_0273c_20230829161501 Img_0279c_20230829161501  左の写真は、坂井橋から見た上流方向。員弁方面です。藤原岳には雲がかかっています。右の写真は、下流方向。写真では写っていませんが、ダイサギなどが2~3羽、飛んでいくのが見えました。桑名では、坂井橋から下流の員弁川を町屋川と呼び習わしています。

Img_0291c_20230829161501 Img_0295c_20230829161601  坂井橋を渡って右折、すぐまた左折して、三岐鉄道北勢線の踏切を越えます。この踏切を渡ってすぐ東に旧坂井橋駅がありました。平成17(2005)年3月26日に当駅の500m阿下喜寄りに星川駅が開業したことにより廃駅となっています。写真に向かって右手にホームがありました。

Img_0307c_20230829161501 5dfea1a4  踏切の向こうに貞昭院というお寺。高野山龍泉院説教所という石柱が立っています。龍泉院は、高野山の宿坊の1つ。地域の有力者で、いろいろと尽力なさった水越徳次郎という方のご子孫が建立されたといいます(2020年3月18日:20200315「勝手に三岐鉄道ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』」(三ツ矢橋から三岐鉄道北勢線・星川駅)(補遺編にて完))。水越徳治郎という方については、北側の北勢線の線路際にその顕彰碑(故水越徳次郎翁顕彰)があります(右の写真:2020年3月15日撮影)。水越徳次郎という方については、ネット検索では情報が出て来ませんが、K氏によれば、この地域の有力者で、地元に貢献した人だそうです。

Img_0316c Img_0350c_20230829161601  貞昭院から三岐鉄道北勢線沿いを歩いて有吉台団地に入り、住宅街を上っていきます。キョリ測のデータでは、30数mの高さでした。住宅地の奥に有吉台公園という小さな公園があり、その敷地内に「額田廃寺跡」という石碑が建っています。

Img_0353c_20230829161501 今は有吉台団地になっている額田の丘陵地に額田廃寺があったとされます。町屋川の上流北岸にある標高約30mの狭い台地上に造営された白鳳時代の寺院跡で、東方には伊勢湾、西方には鈴鹿山脈を遠望できる眺望のよい地です。天保年間(1830~1844年)には小型の仏と銅造毘沙門天像が出土しています。『桑名郡志』では、天正2(1574)年の織田勢の北勢進攻によって焼失したという尾崎山浄蓮(じようれん)寺跡に比定し、浄蓮寺跡ともよばれてきました。昭和39(1964)年の発掘調査により、金堂・講堂・塔・門など法隆寺式の伽藍配置が確認されています。額田廃寺は、飛鳥時代(7世紀後半)にできたと思われ、⾦堂、講堂、塔などのある、法隆寺様式と考えられています。山田寺式、川原寺式の瓦が出土しており、三重県下でも、夏見廃寺と同じく、最も古く、かつ大きな寺であったと思われます。残念ながら、遺跡は破壊され、住宅団地になっています。北勢線に近いあたりに塔、金堂、講堂などがあったといわれます。こちらのサイトに詳しい情報があります。

Img_0357c_20230829161501 この有吉台公園の東の山あたりが額田城跡と考えられています。戦国時代、土豪・後藤庄左衛門の家臣が居城し、信長の伊勢侵略で落城したと伝わっています。西別所城の支城であったともいわれます。

Img_0366c_20230829161501  その東に、額田神社。前回の西別所ウォーキング(2023年7月31日:20230731西別所ウォーキング(一回完結))で訪ねた増田にある額田神社と、ある意味でペアをなす神社。

Img_0376c Img_0395c_20230830163701  延喜式内社。御祭神は、意富伊我都命(おおいかつのみこと、おほいかつのみこと:古代、この地方を開発した額田連(ぬかたのむらじ)の祖、天津彦根命の孫)、天照大御神天津彦根命(あまつひこねのみこと)。第19代允恭天皇の頃(440年)、奉斎されたといいます。ちなみに、額田部氏は大和の額田郷から移住してきた一族で、付近には小さな古墳がいくつかあったという伝承があります。境内には、一本松竜王社、火産霊社、猿王社、春日社、座(蔵)王社などの境内社もあります。詳しいことは、以前訪ねたときの記事(2021年4月3日:20210331“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”(その3)……額田神社(増田)、額田神社旧跡、源流寺、額田神社(額田)を経て北勢線在良駅にゴール(完))をご覧ください。

Img_0407c_20230829170401 230829111505937c  以上で、予定したところはすべて回りました。時刻は11時前。昼食は、前回(2023年7月31日:20230731西別所ウォーキング(一回完結))は定休日(月曜日)で行けなかったファミリーキッチン馬車屋さんにこの日こそリベンジしようということで行ってきました。私は、家内の強い勧めにしたがい、ハンバーグ定食(¥1,000)をチョイス。お店はけっこう歴史がある感じでしたが、次々にお客さんが入ってこられます。前回のエンシュウヤさんと同じく、「町洋食」の名店といえます。ちなみにご飯の量が多く、満腹。

Img_0420c_20230829170901 Img_0429c_20230829161601  昼食を終え、三岐鉄道北勢線在良駅には11時45分に到着。と同時に西桑名行きの電車が出てしまい、次の12時15分発に乗車します。ここまで歩いた距離は4.8㎞。西桑名駅には12時26分着、¥210。

Screenshot_20230829124455  この日のGoogle Fitのデータ。7.48㎞、12,986歩となっています。最高気温は、34.1℃でした。熱中症警戒アラートは出ていませんでしたが、けっこう蒸し暑く大変でしたので、夏のウォーキングとしてはこれくらいがいいな、というのが同級生K氏との結論。

2023年8月30日 (水)

20230829赤尾・在良ウォーキング(その1)……羽田バス停から照順寺、鞆尾神社、中河御厨神社、圓授寺へ

20230829haneda  8月29日の「赤尾・在良ウォーキング」の本編その1です。相変わらず厳しい残暑が続く中、この日、桑名市内のウォーキングに行ってきました。名古屋でウォーキングという話もあったのですが、猛暑のときに大都会の町中など歩けたものではないでしょう。まだ、田舎道の方がマシということで、この「赤尾・在良ウォーキング」を計画したのです。出発地点とゴール地点の地名を取って「赤尾・在良ウォーキング」と命名。同級生K氏と二人旅。冒頭の画像は、実際に歩いたルートマップです。このあたりは、クルマで何度も通ってはいるものの、額田神社を除いては、まだ歩いたことはありません。八風バス志知線の羽田(はねだ)バス停から照順寺、鞆尾神社、御厨神社、圓授寺を周り、坂井橋を渡ります。さらに、坂井橋駅跡、貞昭院、額田廃寺跡碑、額田神社と周り、三岐鉄道北勢線在良駅がゴールなのですが、その前にファミリーキッチン馬車屋さんで昼食。

Img_0116c_20230829161401 Img_0120c_20230829161401  桑名駅前を8時25分に出る桑名西高校往きのバスに乗車。すでに桑名西高校は新学期が始まっているようですが、生徒達はスクールバスに乗っていますので、バスは、ほぼわれわれ専用状態でした。スタート地点の羽田バス停には8時56分着、¥400。ここは、以前、桑名のハ風街道歩きで通っています(2021年2月6日:20210206桑名の八風街道を行く(能部から志知へ)(予告編))。

Img_0124c_20230829161401 Img_0130c_20230829161401  バス停の南に、今はベルテクスという会社になりましたが、ヒューム管工場があります。昔は、「羽田ヒューム管」といい、北側のバス停の建物には未だその名前が書かれています(上右の写真)。南西側には、島田城跡が見えます。中世の城館跡で、郭、堀、土塁が残るそうですが、工場の敷地内にあり、勝手には入れません。島田兵庫頭の城でしたが、滝川一益により滅ぼされました(永禄11(1568)年)。ここを9時にスタート。

Img_0147c_20230829161401 Img_0151c_20230829161401  最初の立ち寄り先は、大友山照順寺。真宗本願寺派。一条天皇の寛弘年間(1004~1012年)、照順という僧が開基。当初は天台宗であったそうですが、円融天皇のとき御衣野(多度)の旧庄屋草薙某が御衣野の山麓に寺を建て、のち順善の時代にここに移ったといいます。もともとは、長島願証寺の末寺でしたが、正徳5(1715)年、願証寺が高田派に改宗の際、これにしたがわず、本願寺派に属しています(桑名市史による)。

Img_0159c_20230829161401 Img_0162c_20230829161401  余談になりますが、照順寺の先に福州という中華料理屋さんがあります。最近は行っていませんが、開店した頃には何度か食べに行ったことがあります。メニューは豊富、リーズナブルなお値段でお腹いっぱいになったと記憶しています。右の写真は、このあたりの田園風景。ツバメフーズという会社が写っていますが、即席袋麺(フライ麺)専業のOEMメーカーで、日産21万食の製造が可能だそうです。大手スーパーのPB(プライベートブランド)をここでつくっています。

Img_0165c_20230829161401 Img_0169c_20230829161401  照順寺のすぐ北に鞆尾(ともお)神社。ご祭神は、須佐之男神。創立等は不詳ですが、『桑名市史』には、上代、久米村大字友に鎮座したと伝わっており、『伊勢風土記』に鞆尾森韓神宮三座とあるものがこれだろうといわれているとあります。さらに『桑名市史』には、往時、園神社とともに宮内省(ここでは、律令制のもとにあった宮内省のこと)の祭神で、京都に祀られ、園神社は大物主神、韓神社は韓神(からかみ:朝鮮半島からの渡来人およびその系統の人々によって祭られた神)及び少彦名尊(すくなひこなのみこと:大国主神と協力して国作りをしたという。穀霊、酒造りの神、医薬の神、温泉の神として信仰された)が祀られていたが、今はなくなったとも書かれています。ちなみに、「園韓神社(そののからかみしゃ)」は、現在の上京区主税町に応仁の乱頃まであった神社。「延喜式」神名帳に「宮内省坐神三座並名神大月次新嘗」として「園神(ソノヽカミ)社・韓(カラノ)神(カミノ)社二座」とあるようです。祭神は、園神社は大物主神、韓神社は大己貴命と少彦名命を祀り、これらの神は「素戔嗚尊之子孫、守疫神也」といわれます。これで、ここに須佐之男神が祀られているのは分かりますが、京都に祀られていた神社が、どのような経緯でここに遷ったのでしょう? それについて『桑名市史』には言及はありません。

Img_0172c  Img_0178c_20230829161401 そういえば、拝殿前の、普通は狛犬があるところには、ご覧のような像が左右一対で鎮座していました。韓風の人物、衣装のようにも見えますが、詳細は不明。拝殿の南に境内社がありましたが、これについても不詳。以前はもっと木があったといいますが、かなりサッパリと切られていました。余談ですが、友村は、マラソンの瀬古利彦選手の地元のようで、こちらに「現役を引退した直後の平成元(1989)年4月8日、瀬古は地元友村に鎮座する鞆尾神社に幟ポールを寄贈し、これまでの活躍を記した銘板が取り付けられました」とありましたが、これはあとで調べて分かったこと。

Img_0226c_20230829161501 Img_0202c_20230829161501  坂井に入って、まずは、中河御厨神社。ご祭神は、天照大神。「御厨」は、伊勢神宮の神饌を調達するところですので、このあたりに伊勢神宮の領地があったと思われます。創立年月は不詳ですが、『神社検索(三重)』には、住吉南方の神戸にあった大社で、明応8(1499)年の大洪水で流出し、ここに遷ったとあります。また、洪水前の棟札があり、「奉再建中河御厨神明社-世話人氏子総代中川庄蔵」とある。洪水以前は宏広大な社殿があり、棟札に天平年度(729~749年)再建とある古社であったといいます。ただし、「住吉南方の神戸」がどこであるのかは、よく分かりません。

Img_0217c_20230829161501  境内には、稲荷社もありました。

Img_0260c_20230829161501 Img_0244c_20230829161501  中河御厨神社のすぐ東に郡境山圓授寺。真宗大谷派。慶長10(1605)年、僧・順慶の開基。寺の山号にありますが、江戸時代には、このあたりが桑名郡と員弁郡との境でした。

 その1は、ここまで。その2では坂井橋を渡って行きます。

2023年8月29日 (火)

20230829赤尾・在良ウォーキング(予告編)

20230829haneda  相変わらず厳しい残暑が続いていますが、今日は予定通り、桑名市内のウォーキングに行ってきました。名づけて「赤尾・在良ウォーキング」です。出発地点とゴール地点の地名を取って命名しています。同級生K氏と二人旅。距離は短かったのですが、夏場はこれくらいにしておいた方がよいでしょう。予告編と本編と分けるほどではありませんが、一応、今日の記事は予告編。冒頭の画像は、実際に歩いたルートマップです。八風バス志知線の羽田(はねだ)バス停から照順寺、鞆尾神社、御厨神社、圓授寺を周り、坂井橋を渡ります。坂井橋駅跡、貞昭院、額田廃寺跡碑、額田神社と周り、三岐鉄道北勢線在良駅がゴールなのですが、その前にファミリーキッチン馬車屋さんで昼食。

Img_0120c_20230829161401 Img_0124c_20230829161401  桑名駅前を8時25分に出る桑名西高校往きのバスに乗車。スタート地点の羽田バス停には8時56分着、¥400。ここは、以前、桑名のハ風街道歩きで通っています(2021年2月6日:20210206桑名の八風街道を行く(能部から志知へ)(予告編))。この南に、今はベルテクスという会社になりましたが、ヒューム管工場があります。昔は、「羽田ヒューム管」といい、北側のバス停の建物には未だその名前が書かれています。ここを9時にスタート。

Img_0151c_20230829161401 Img_0169c_20230829161401  最初の立ち寄り先は、大友山照順寺。真宗本願寺派。一条天皇の寛弘年間(1004~1012年)、照順という僧が開基。当初は天台宗であったそうですが、円融天皇のとき御衣野(多度)の旧庄屋草薙某が御衣野の山麓に寺を建て、のち順善の時代にここに移ったといいます。照順寺のすぐ北に鞆尾(ともお)神社。ご祭神は、須佐之男神。創立等は不詳ですが、『桑名市史』には、上代、久米村友に鎮座したと伝わっているとあります。以前はもっと木があったといいますが、かなりサッパリと切られていました。

Img_0202c_20230829161501 Img_0260c_20230829161501  坂井に入って、まずは、御厨神社。中河御厨神社ともいいます。ご祭神は、天照大神。創立年月は不詳ですが、住吉南方の神戸にあった大社で、明応8(1499)年の大洪水で流出し、ここに遷ったといいます。御厨神社の東に郡境山圓授寺。真宗大谷派。慶長10(1605)年、僧・順慶の開基。寺の山号にありますが、江戸時代には、このあたりが桑名郡と員弁郡との境でした。

Img_0267c_20230829161501 Img_0291c_20230829161501  坂井橋を渡ります。この「坂井」も本来は、郡の境で「境」と思います。坂井橋を渡って右折、すぐまた左折して、三岐鉄道北勢線の踏切を越えます。

Img_0295c_20230829161601 Img_0307c_20230829161501  この踏切のすぐ東に旧坂井橋駅がありました。平成17(2005)年3月26日に当駅の500m阿下喜寄りに星川駅が開業したことにより廃駅となっています。写真に向かって右手にホームがありました。踏切の向こうに貞昭院というお寺。高野山龍泉院説教所という石柱が立っています。地域の有力者で、いろいろと尽力なさった水越徳次郎という方のご子孫が建立されたといいます(2020年3月18日:20200315「勝手に三岐鉄道ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』」(三ツ矢橋から三岐鉄道北勢線・星川駅)(補遺編にて完))。

Img_0350c_20230829161601 Img_0353c_20230829161501  ここから有吉台団地の住宅街を上っていきます。キョリ測のデータでは、30数mの高さでした。住宅地の奥に有吉台公園という小さな公園があり、その敷地内に「額田廃寺跡」という石碑が建っています。詳しいことは、本編で書きますが、大化の改新以前、法隆寺式伽藍配置を持つ古代寺院があったと考えられています。これが額田廃寺。昭和39(1964)年の調査で塔、金堂、行動、僧坊、中門跡などが発掘されましたが、遺跡は破壊され、住宅団地になっています。北勢線に近いあたりに塔、金堂、講堂などがあったといわれます。

Img_0357c_20230829161501 Img_0376c  この有吉台公園の東の山あたりが額田城跡と考えられています。戦国時代、土豪・後藤庄左衛門の家臣が居城したといいますが、信長の伊勢侵略で落城したと伝わっています。その東に、額田神社。前回の西別所ウォーキング(2023年7月31日:20230731西別所ウォーキング(一回完結))で訪ねた増田にある額田神社と、ある意味でペアをなす神社。御祭神は、意富伊我都命(おおいがつのみこと、または、おほいかつのみこと:古代、この地方を開発した額田連(ぬかたのむらじ)の祖)。詳しいことは、また、本編で書きますが、以前訪ねたときの記事(2021年4月3日:20210331“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”(その3)……額田神社(増田)、額田神社旧跡、源流寺、額田神社(額田)を経て北勢線在良駅にゴール(完))もご覧ください。

Img_0407c_20230829170401 230829111505937c  以上で、予定したところはすべて回りました。時刻は11時前。前回(2023年7月31日:20230731西別所ウォーキング(一回完結))は定休日(月曜日)で行けなかったファミリーキッチン馬車屋さん、今日こそリベンジしようということで行ってきました。私は、家内の強い勧めにしたがい、ハンバーグ定食(¥1,000)をチョイス。お店はけっこう歴史がある感じでしたが、次々にお客さんが入ってこられます。前回のエンシュウヤさんと同じく、「町洋食」の名店といえます。ちなみにご飯の量が多く、満腹。

Img_0420c_20230829170901 Img_0429c_20230829161601  昼食を終え、三岐鉄道北勢線在良駅には11時45分に到着。と同時に西桑名行きの電車が出てしまい、次の12時15分発に乗車します。ここまで歩いた距離は4.8㎞。西桑名駅には12時26分着、¥210。

Screenshot_20230829124455  本日のGoogle Fitのデータ。7.48㎞、12,986歩となっています。今日は、最高気温が、34.1℃でした。熱中症警戒アラートは出ていませんでしたが、けっこう蒸し暑く大変でしたので、夏のウォーキングとしてはこれくらいがいいな、というのが同級生K氏との結論。明日以降、もう少し詳しい本編を書きます。

 

2023年7月31日 (月)

20230731西別所ウォーキング(一回完結)

Img_8999c Img_8995c_20230731152101  熱中症警戒アラートは発令されませんでしたので、予定通り、西別所ウォーキングに行ってきました。三岐鉄道北勢線西別所駅から在良駅まで、2駅、実際に歩いたのは5.4㎞でした。夏場ですので、短めの距離にしたのです。いつものように、同級生K氏と二人。私は、西桑名駅を8時5分に出る東員行きの電車に乗って、西別所駅には8時12分着。そこでK氏と待ち合わせ。¥190。往きの電車は、今時珍しく、エアコンなしで扇風機が回っているレアもの(苦笑)。

Nishibessho  こちらが今日歩いてきたルートマップ。このコースは、2021年3月31日に私一人で歩いたウォーキングのときとほぼ同じです(2021年3月31日:20210331“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”(予告編))。このときに見忘れた西別所城跡を加え、濃州街道歩きで見た照林寺(2020年3月15日:20200315「勝手に三岐鉄道ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』」(三ツ矢橋から三岐鉄道北勢線・星川駅)(予告編))は割愛しています。今回の記事は、一回完結です。

Img_9010c_20230731152101  まずは、国道258号線の下をくぐって、その東にある慈眼院北寺延寿院。高野山真言宗。ご本尊は、十一面観音菩薩。地元では、集落の北のはずれにあることから「北寺」と呼ばれます。延宝年中(1673~81年)、奥平貞登が観音堂を建てたのに始まります。奥平貞登の一族は、桑名藩5代藩主・松平定綱に使えて家老職を務めました。この地に山荘を建て、かたわらに小堂を建てて観音像を安置したと考えられています。享保21(元文元)(1736)年、大福田寺の住職・實圓がここを隠居寺としてから大福田寺の庵室となり、江戸末期からは尼僧によって住持されていました。しかし、檀家もなく、昭和中期には無住となり荒廃したため、西別所在住の有志によって昭和57(1982)年に本堂が修復され、また、北寺奉賛会が設立され、維持されています。

Img_9014c_20230731152101  境内には、宝暦5(1755)年に入寂した實圓と、安永5(1776)年入寂の實豊の墓碑である五輪塔2基などが残っています。左の写真で中央にある五輪塔が實圓のもの、向かって左が實豊のものです。国道258号線を走るクルマの音が聞こえては来ますが、静かで落ち着いたお寺です。ちなみに、かつては延寿院の北に白山神社があり(8年ほど前に八幡神社に合祀されたようです:こちら)、そのあたりが白山城跡だといいます。

 国道258号線の西側に戻ると、Img_9032c_20230731152101前方の森に、万機庵跡があります。万機山蔵鷺庵(ばんきざん ぞうろあん)が正式名称ですが、万機庵、または、蔵六庵と呼びます。もとは曹洞宗のお寺で、ご本尊は、観世音。明暦元(1655)年に、楊柳寺(市内新屋敷)第6世万機和尚が創建し、ここに閑居した庵跡といわれています。万機和尚は、真田幸村(信繁)の3男で、楊柳寺に在住30年。「桑名市史」によれば、桑名藩第3代藩主・松平定重が、ここに山荘を設け、遊興したといいます。万機庵は「明治初めに無檀家の理由を以て廃庵となり、現在、跡地は竹林となって」(こちら)います。前回来た時には荒れていて入っていけませんでした(送電線の鉄塔巡視路が通っているのです)。跡地には、万機和尚の墓石を含め、15基の墓石があるそうです。こちらのブログには、「送電線の鉄塔が立っているので、そこへの鉄塔巡視路はあるものの、きびしい藪と地形で、歩き回ることができず、墓石の場所は判らなかった」とありました。今回も万機庵跡に行くのは断念。なお、墓石の写真は、このWebサイトにあります。

Img_9051c_20230731152101  住宅地の間を通って、希望ヶ丘第1南公園の先、光陽希望ヶ丘保育園の裏手が、西別所城跡。室町時代の城館跡で、北畠氏に従う矢田俊元の与力・後藤弥五郎基成が居城していましたが、羽柴秀吉・織田信盛・丹羽長秀らの大軍の前になすすべもなく落城したといいます(こちら)。

Img_9055c_20230731152101  八幡神社。天正元(1573)年、西別所城山、城下橋(員弁街道の方。橋のたもとに子安地蔵尊があります)北の山腹に八幡社があったといいます。元禄14(1702)年、その西別所城山にあった八幡社を現在地に勧請しました。明治44(1911)年、境内社を合祀しています。

Img_9058c_20230731152101 Img_9069c_20230731162201  主祭神は、品陀和気命(ほんだわけのみこと、応神天皇)。相殿神は、菊理姫命(くくりひめのみこと、白山比咩神社の主祭神)、大山津見命(おおやまつみのみこと、山の神)、火産霊神(ほむすびのかみ、宇迦御魂神(うかのみたまのかみ、食物、とくに稲の神)。以上は、神社検索三重のサイトにある御祭神。神社の由緒書きには、菅原道真公もありました。この八幡神社は標高30数mのところにあり、眺望が利きました。右の写真は、桑名市稗田から町屋川の向こう、桑部方面が見えています。ここでしばし休憩。

Img_9110c_20230731152101 Img_9102c_20230731152101  蓮花寺川沿いに西に向かい、山神社へ。御祭神は、大山津見神(おおやまつみのかみ、山を司る神)。正親町天皇の天正年間(1573~92年)以前の創始だそうです。蓮花寺村宇賀の城山(あとから訪ねる白山神社あたりか?)に内山源吾が城主として居城し、奉祀したといいます。天正年間、織田勢に滅ぼされたものの、その後も氏子の方々が「山の神」と称し、祭祀してきました。民家のまん中にあり、ブロック塀に囲まれた神社というのも珍しいのですが、氏子の方に祭祀されてきたというのが、よく分かる気がします。

Img_9117c_20230731152101  蓮花寺へ行く前に珍百景。前回来たときにもこのお宅にスワンボートがありました(2021年4月2日:20210331“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”(その2)……山神社、蓮花寺、白山神社・蓮花寺西城跡、蓮華寺東城跡、宇賀神社、宇賀遺跡)。前回は、カーポートの中ではありませんでしたが……。カーポートに入れているということは、よほど大事にしていらっしゃるのでしょう。

Img_9127c_20230731152201 Img_9131c_20230731163101  総仏山蓮花寺。真宗大谷派。ご本尊は、阿弥陀如来。第二次世界大戦までは、総仏堂という説教所でした。『在良村郷土誌』によれば、蓮花寺先々代の紀伊浩洋は、漢籍で名高い人物であったそうです。堂は、先代が昭和33(1958)年に建て変え、旧村名(蓮花寺村)をとって総仏山蓮花寺と名づけたといいます。寺にある鐘は、戦時中に金属供出として出されたもの(今は、中里ダムの湖底に沈んだ深尾山薬王庵の持ち物)を譲り受けたといいます。かつてこの近くには、地名の語源となった「蓮華寺」がありました(ここ蓮花寺とは別の寺。蓮華寺は、後述の白山神社の西北西あたりにあったといいます)。蓮華寺村も、寺も、鎌倉時代にはかなり繁栄したそうですが、住宅開発に埋もれ、蓮華寺の寺跡は窺い知れません。

Img_9138c_20230731152201  蓮花寺の西に白山神社。「キョリ測」では、倍率にもよりますが、「宇賀神社」と表示されることがあります。しかし、ここにあるのは白山神社で、宇賀神社は、この南150mほどのところにあります。白山神社の御祭神は、菊理姫命(くくりひめのみこと、白山比咩神社の主祭神。水を恵み、ものごとの和合・仲介・招福の神)。由緒書きによれば、白山権現菊理姫社と称し、正親町天皇の永禄年間(1558~70年)以前からあったといいます。境内社には、津島神社、火産霊社が、また、別宮には、護国神社があります。ここ、白山神社があるところは、蓮花寺西城(城山城)跡で、内山源吾正則が居城したといいます。織田信長に滅ぼされています。

Img_9157c_20230731152201  白山神社の北に神田池という大きな灌漑池があります。その南の端あたりが、蓮花寺東城(宇賀城)跡といわれます。蓮花寺東城には、後藤庄左衛門氏篤が居城しましたが、こちらも永禄年間(1558~1570年)に織田信長に滅ぼされています。城の遺構は、ここもありません。何となくもの足らない気もしますが、やむを得ません。今は大規模住宅団地の一角になっています。

Img_9171c_20230731152201  白山神社、蓮花寺東城跡から大きく回って、宇賀神社。白山神社の南150mほどの宇賀公園の中にあります。御祭神は、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ、食物、とくに稲の神霊)。ここも創始は不詳ですが、正親町天皇の御代(1557~86年)以前と伝えられ、蓮花寺西城(城山城)主・後藤庄左衛門の崇敬が厚かったといいます。この南あたりに宇賀遺跡があります。公園の南にある住宅地から、コミュニティバスの「マザック前」停留所のあたりがそれ。縄文時代から中世にかけての複合遺跡で、弥生時代の遺構からは、井堰が見つかっており、稲の穂積みに使う木包丁も出土し、稲作が行われていたと考えられています。

Img_9188c_20230731152201 Img_9184c_20230731152201  蓮花寺駅の西で三岐鉄道北勢線、県道63号線を越え増田へ。扶桑工機の工場南に増田集会所があります。集会所の建物の裏手にひっそりと「額田神社旧跡」という石碑が建っています。前回このあたりを歩いたとき(2021年4月3日:20210331“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”(その3)……額田神社(増田)、額田神社旧跡、源流寺、額田神社(額田)を経て北勢線在良駅にゴール(完))、増田の額田神社で氏子の方に教えていただいたところ。ここが、旧増田村の中心ということで、神社があったものと思われます。なお、集会所の敷地内には地蔵堂もありましたが、詳細は分かりません。

Img_9218c Img_9214c_20230731152201  集会所から西に向かうと、額田山源流寺。真宗大谷派の寺。ご本尊は、阿弥陀如来。このお寺の詳細については、調べた範囲ではよく分かりませんでしたし、『桑名市史 本編』にも出て来ません。

Img_9221c_20230731152201  源流寺のすぐ南に増田の額田神社があります。この神社には、いろいろと由来があります。前回お目にかかった氏子の方の話と『桑名市史 本編(pp.53~54)』によれば、次の通り。もともと、この神社は、桑名郡額田村・増田村両村の鎮守として祭祀し、初めは、増田村にあったものを額田村の宮山に移遷しました(額田の増田神社)。移遷の理由は、旧地が町屋川のすぐ側にあり、洪水によく遭ったということです。その後、増田村から宮山まで参詣するのに不便だということで、額田にある本社からこの増田の額田神社を文政8(1825)年に分祀奉遷したそうです。ただし、『桑名市史 本編』には、古社は本来宮山にあり、一時の事情によって増田に移遷したのを、再びその故地に復遷したという説があるとも書かれています。御祭神は、意富伊我都命(おおいがつのみこと、または、おほいかつのみこと:古代、この地方を開発した額田連(ぬかたのむらじ)の祖)。相殿神は、天照皇大御神天津彦根命(あまつひこねのみこと:)。この額田神社の詳しいことは、2021年4月3日の記事「20210331“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”(その3)……額田神社(増田)、額田神社旧跡、源流寺、額田神社(額田)を経て北勢線在良駅にゴール(完)」をご覧ください。氏子の方のお許しをいただいて本殿を参拝したことや、境内にある鬼瓦についても書いています。

Img_9241c_20230731152201  これで今日の目的地はコンプリート。額田神社で休憩したあと、北勢線在良駅に11時にゴール。ここまで歩いたのは5.4㎞。11時15分発の西桑名行きに乗車。西桑名には11時26分着、¥210。帰りの電車は、エアコンが効いて快適でした(微笑)。

 Img_9266c_20230731152201 230731114300035c 桑名駅あたりで昼食をということになったのですが、飲み屋さんはたくさんあるものの、ランチ営業をしている店は非常に限られています。二人とも気に入っているエンシュウヤさんへ。ちょうど11時半開店なのです。町の洋食屋さんという感じのお店。「町中華」ということばがありますが、それに倣えば「町洋食」といえます。「今日のランチ」は、おろしソースのハンバーグ(¥750)。開店を待っていたお客さんが、我々を含め4組ほど。30分もしないうちに満席になるという人気店。オッサンだけでなく、若い人(女性も含め)もけっこういます。

1690772548630c  ほぼ食べ終えたら、おばちゃんが、「小さいけど、デザート」といってスイカを一切れ。今年初めてスイカを食べました。家内がうらやましがること。

Img_9234c_20230731152201  余談その1。在良駅の南にある自動車整備工場にトゥクトゥクが1台置いてありました。これ、一度くらい、自分で運転して乗ってみたい気がします。排気量は660ccのものが多いようですが、車両区分は「側車付自動二輪車」。つまり、バイクに側車をつけたサイドカーという解釈だそうで、運転するための免許は、自動二輪車ではなく、普通自動車運転免許ということ。

Img_9077c_20230731152101  余談その2。今日あちこちで見たのが、ハグロトンボ。細長く、黒っぽい翅を持った、ヒラヒラと飛ぶトンボです。オスの胴体は金緑色に輝き、メスは全身が黒いのが特徴。

Img_9256c_20230731152201 Img_9260c  余談その3。北勢線は、今年が三岐鉄道に移管されて20周年です。軽便鉄道、近鉄を経て、平成15(2003)年4月1日から10年間の地元自治体の支援を条件として三岐鉄道が運営を継承しています。その後は3年ごとに更新。電車の先頭にはそれを記念したマークが掲出されています。また、スタンプラリーなども行われています(こちら)。

Screenshot-2023_07_31-12_31_24c  ということで、今日も35.0℃となり、結局は猛暑日になったのですが、トータルで7.5㎞、14,000歩あまりを歩いてきました。猛暑の中ですから、これくらいが適当でしょう。次もまた市内ウォーキングの予定ですが、それは、旧のお盆が終わってから。

2023年5月24日 (水)

20230522美濃街道ウォーキング「美濃津屋~養老」(その1)……美濃津屋駅をスタートし、白山神社、津屋城跡の本慶寺、清水池ハリヨ生息地、慈眼寺から諏訪神社へ

Img_4748c_20230522173601 Minotsuya0  5月22日に行ってきた美濃街道ウォーキング(美濃津屋~養老)の本編その1です。珍しく平日に街道ウォーキングに出かけました。とくにこれという理由はありませんが、同級生K氏との相談で今日ということになったのです。ほぼ1ヶ月ぶりとなりましたが、4月16日の美濃街道ウォーキング「駒野~美濃津屋」の続きです(2023年4月16日:20230416美濃街道ウォーキング「駒野~美濃津屋」(予告編))。当初は、駒野から養老まで通して歩こうと思っていたのですが、コースマップ上で9㎞以上あり、しかも立ち寄りポイントもたくさんでしたので、2回に分けたものです。養老鉄道美濃津屋駅から養老駅までを歩いたのですが、桑名のアメダスでは30.4℃と真夏日となりました。歩いているときも暑く、いささかへばりました。年を取って体力も低下してきたのかも知れません(笑)。冒頭の写真は、美濃津屋駅で、乗ってきた電車を見送った写真。

Img_4738c_20230523043801  いきなりの余談ですが、養老鉄道に乗るために桑名駅に行ったところ、自由通路が大混雑していました。この日の朝6時前に近鉄名古屋線で人身事故があり、近鉄は相当遅れていたようで、JRで振替輸送が行われていたからです。新しくなってから、桑名駅がこれほど混雑しているのは見たことがありませんでした。

Img_4757c Img_4765c  桑名駅を8時9分に出る養老鉄道大垣行きの普通電車に乗車。平日でしたので、通学の高校生がたくさん乗っています。美濃津屋には8時55分着。¥530。ほぼ1ヶ月ぶりの街道ウォーキングですが、この日は養老の山並みがかなり近くに見えました。9時にスタートします。右の写真は、美濃津屋駅から美濃街道(岐阜では伊勢街道とか、桑名街道と呼ぶようです)に出たところ。北を向いて撮ったもので、この向きに歩いて行きます)。

Minotsuya1  この日歩いたルートの詳しいマップその1。養老鉄道の路線に沿って北上しました。白山神社、津屋川龍神、本慶寺、清水池ハリヨ生息地、慈眼寺、諏訪神社と訪ね、諏訪神社の先で海津市から養老町に入ります。今回は、寺社仏閣、名所旧跡を訪ねるだけでなく、自然観察も含まれるのです。なお、キョリ測のマップでは、白山神社が「白口神社」となっていましたので、ここに示したマップでは訂正してあります。

Img_4754c_20230523155801  初めの方から余談を重ねるのもどうかと思いますが、気になる看板がありましたので。美濃津屋駅の大垣方面のホームに「氷砂糖資料館(中日本氷糖株式会社)」という看板があったのです。そういえば氷砂糖をどうやってつくるか知りません。中日本氷糖株式会社南濃工場がここから1㎞ほどのところにあり、そこにこの資料館があります。予約制で大人一人¥300。創業100周年記念で平成7(1995)に開館しています。ちなみにリンク先に氷砂糖の作り方が載っていました。原料のグラニュー糖を溶かして、精製、ろ過したものを加熱して氷砂糖の結晶を作るそうです。 氷砂糖は、砂糖の中でも最も純度が高く、ショ糖分100%の高級品だとか。こちらにその製造過程があります。

Img_4767c Img_4777c_20230523160601  さて、話を進めます。美濃津屋駅からすぐに大神宮常夜灯があります。明治12(1879)年に建てられたもの。ここを入って行くと、白山神社があります。Googleのストリート・ビューで見たときは、どこから入るのかよく分かりませんが、案ずるより産むが易し。現地に行って実際に歩いたら、すぐ分かりました。やはり現地現物は重要。

Img_4771c_20230522173601 Img_4774c_20230523160801  創建は不詳ですが、寛文8(1668)年に再興したという棟札があるそうですから、かなり古い神社です。ご祭神は、伊弉冉尊(いざなみのみこと)。うっそうとした木々に囲まれています。そういえば、今回は多度から美濃街道を歩き始めたのですが、ここまでの道中たくさんの神社を訪ねてきましたが、どこもご神木も含め、大木がたくさんありました。町中の神社ではなかなかこういう景色は見られません。大木があると歴史を感じさせますし、いかにも神社らしい雰囲気を醸し出しています。

Img_4782c_20230522173601  白山神社を出たところで東の方、すぐのところに川というか、堤防が見えましたので、行ってみることにしました。グラウンドゴルフ場のところに津屋川龍神という石碑が建っています。由緒などは分かりませんが、龍神は雨・水力をつかさどる龍を神力を有する神様ですから、洪水などがないように願ったものかと思います。

Img_4786c_20230523161501  こちらは、津屋川龍神の先のあたり。北側。なかなかよい景色ですし、水もきれい。湧き水もありました。キショウブ(黄菖蒲)があちこちに咲いています。しっかりと意識していなかったのですが、ここが津屋川。川幅が、地図で見るともっと広い感じだったのですが、よく見れば地図の通りの形でした(微苦笑)。津屋川といえばヒガンバナの群生が有名ですが、撮影スポットはもう少し南のようです。

Img_4807c_20230522173601 Img_4815c_20230523162501  美濃街道に戻る前で歩き始めて1㎞。街道に戻ってすぐのところに獅子吼山本慶寺。真宗大谷派のお寺なのですが、ここは津屋城跡。津屋城には関ヶ原の合戦まで高木八郎左衛門正家が居城していたのですが、西軍にしたがったため没落し、廃城となっています。境内にある説明板によれば、八郎左衛門正家は、高須城主高木十郎左衛門の縁者で、十郎左衛門は『高須旧記』によると、文禄元(1592)~慶長5(1600)年まで高須城主で、豊臣秀吉の麾下と伝わります。城跡は、現在は、慶長8(1603)年に当時の領主徳永法印寿昌之許しを得て移された本慶寺となっています。

Img_4824c_20230523162501 Img_4827c_20230522173701  寺を中心とした一帯が城跡で、主郭部は境内にありますが、付近は道路が通じた住宅が建ち、全容は明らかにされていないといいます。境内には、本堂・庫裏の敷地が二の曲輪と考えられ、その南に三の曲輪があり、大手門があったと考えられています。津屋城跡は、北勢四十八家の城と城地条件や縄張り形式が相似しており、歴史的連携が窺われるそうです。右の写真は、本堂東のあたり。

Img_4821c_20230523162501 Img_4833c_20230524041001  山門は、長屋門のような形式で、城門を移築したという話も伝わっているそうです(こちら)。いささか余談ですが、本堂に向かって左に大きな太鼓がつるされています。喚鐘は、別につるされていましたが、この太鼓は何に使ったのでしょう。喚鐘と同じように、法会の始まりなどを知らせたのでしょうか。

Img_4849c_20230523164101  最初にコースマップをつくったときには見落としていたのですが、改めてコースの予習をしたら、本慶寺の近くにハリヨの生息地があることに気づきました。清水池ハリヨ生息地といいます。本慶寺から100mほどですから、これは見なくてはなりません。

Img_4902c_20230523164101 Img_4905c_20230522173701  本慶寺から100mほど東、津屋川の手前にこの生息地があります。ちょうど小学生たちが先生に引率されて校外学習に来ていました。一緒に混じって、ハリヨを見てきました。

Img_4873c_20230523164301 Img_4882c_20230522173701  こちらがハリヨ(たぶん)。かなりたくさんいるのが見えました。全長6cmで背ビレに独立した棘を3本、腹ビレに1対の長い棘をもっています。岐阜県と滋賀県に分布するそうで、岐阜県では大垣周辺にいるといいます。ということで歴史散歩でありながら、自然観察も。

Img_4914c_20230522173701 Img_4925c_20230523164601  美濃街道に戻って下多度小学校をすぎたところに福聚山慈眼寺。浄土宗。元は藤内寺と称していましたが、その後円通寺と改称。その後、慶長10(1605)年に天台宗より浄土宗へ改宗した折に、慈眼寺と名を改めまています。往時は、船路の街道であった津屋湊からも善男善女が慈眼寺に参拝したといいます。また、多芸七坊のうちの一寺でもありました。門は、長屋門のようなものでした。境内は、右の写真のように、木々や雑草が生い茂っていて、草刈りなどをしようにも、どこから手をつけたら良いか途方に暮れそうなくらいでした。

Img_4922c_20230524041501  鐘楼に行くところも、このように雑草が繁りすぎていて、とても鐘をつきには行けそうもありませんでした。歴史のあるお寺なのに、ちょっと残念。これを書いているときに思ったのですが、「津屋」という地名自体が、河川の要港で貨物の保管、販売を行い、口銭をとった倉庫業者を意味しますから、美濃津屋のあたりには川湊があったということでしょう。などと愚考してから、よく調べたらこれについて考察したサイトがありました(笑)。それによれば、「地名の由来は、古くは当地が伊勢湾に臨む港であったことによるという。『三河国猿投神社古図』にも海浜に津屋の名を記す。津屋川沿いの水田地帯はしばしば冠水による被害を受けた」とあります。津屋川龍神の謎も解けた気がします。

Img_4929c_20230522173701 Img_4940c_20230523170001  慈眼寺のすぐ先、2㎞を過ぎたところを東に入ると諏訪神社。創建は不詳です。ご祭神は、南方刀美神(みなかたとみのかみ:大国主命の子で諏訪大社のご祭神である建御名方神(たけみなかたのかみ)に同じ)、八坂刀売神(やさかとめのかみ:諏訪大社のご祭神で南方刀美神の妃神)、天照大神豊受姫神

Img_4939c_20230523170401  この境内も大木があります。拝殿の脇には、イチョウの大木。かなりの樹齢と思われますが、境内には説明などはありませんし、ネットにも出て来ませんでした。

Img_4968c_20230523041301  諏訪神社の先、スタートから2.4㎞あまりのところで美濃街道は津屋川を渡りますが、ここが海津市南濃町と養老町との境目。キリがよいので、その1はここまで。その2は、養老町に入って、西林寺、大神宮常夜灯、福勝寺などへ進みます。

2023年5月22日 (月)

20230522美濃街道ウォーキング「美濃津屋~養老」(予告編)

Img_4748c_20230522173601  珍しく平日に街道ウォーキングに出かけました。とくにこれという理由はありませんが、同級生K氏との相談で今日ということになったのです。美濃街道ウォーキングの続きで(2023年4月16日:20230416美濃街道ウォーキング「駒野~美濃津屋」(予告編))、養老鉄道美濃津屋駅から養老駅までを歩いてきました。桑名のアメダスでは30.4℃で、今日は真夏日となりました。歩いているときも暑く、いささかへばりました。年を取ってきたのかも知れません(笑)。今日のところは、とりあえず予告編。

Img_4757c  桑名駅を8時9分に出る養老鉄道大垣行きの普通電車に乗車。通学の高校生がたくさん乗っています。美濃津屋には8時55分着。¥530。ほぼ1ヶ月ぶりの街道ウォーキングです。9時にスタートします。

Minotsuya0  こちらが今日実際に歩いたルートマップ。養老鉄道の線路沿いに北上します。寄り道を考慮しなければ4㎞あまりのコースなのですが、あちこちウロウロした結果、現地では8.5㎞を歩いてきました。今日は、寺社仏閣、名所旧跡を訪ねるだけでなく、自然観察も含まれます。

Img_4767c Img_4771c_20230522173601  美濃津屋駅から美濃街道に出てすぐのところに大神宮常夜灯があります。ここを右折して東に入って行くと、白山神社。創建は不詳ですが、寛文8(1668)年に再興したという棟札があるそうですから、かなり古い神社です。ご祭神は、伊弉冉尊(いざなみのみこと)。

Img_4782c_20230522173601  予定にはなかったのですが、白山神社から東へ。津屋川の方です。グラウンドゴルフ場のところに津屋川龍神がありました。由緒などは分かりませんが、龍神は雨・水力をつかさどる龍を神力を有する神様ですから、洪水などがないように願ったものかと思います。

Img_4807c_20230522173601  美濃街道に戻ってすぐに獅子吼山本慶寺。真宗大谷派のお寺なのですが、ここは津屋城跡。津屋城には関ヶ原の合戦まで高木八郎左衛門が居城していたのですが、西軍にしたがったため没落し、廃城となっています。現在、本慶寺境内に主郭の土塁、堀などが残っています。

Img_4852c Img_4905c_20230522173701  最初にコースマップをつくったときには見落としていたのですが、改めてコースの予習をしたら、本慶寺の近くにハリヨの生息地があることに気づきました。清水池ハリヨ生息地といいます。本慶寺から100mほど。これは見なくてはなりません。ちょうど小学生たちが校外学習に来ていました。

Img_4882c_20230522173701  これがたぶんハリヨ。かなりたくさんいるのが見えました。全長6cmで背ビレに独立した棘を3本、腹ビレに1対の長い棘をもっています。岐阜県と滋賀県に分布するそうで、岐阜県では大垣周辺にいるといいます。

Img_4914c_20230522173701 Img_4929c_20230522173701  下多度小学校のすぐ先に福聚山慈眼寺。浄土宗。門は、長屋門のようなものでした。境内は、木々や雑草が生い茂っていて、ちょっと残念。本編で境内の写真を載せますが、草刈りなどをしようにも、どこから手をつけたら良いか途方に暮れそうなくらいでした。慈眼寺のすぐ先を東に入ると、諏訪神社。創建は不詳です。ご祭神は、南方刀美神(みなかたとみのかみ:大国主命の子で諏訪大社のご祭神である建御名方神(たけみなかたのかみ)に同じ)、八坂刀売神(やさかとめのかみ:諏訪大社のご祭神で南方刀美神の妃神)、天照大神豊受姫神

Img_4968c_20230523041301  諏訪神社の先、スタートから2.4㎞あまりのところで津屋川を渡りますが、ここが海津市と養老町の境。同級生K氏と美濃街道を歩き始めたのは、2021年2月27日でした(20210227勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道再び(川口町~下深谷)」(完))。その後、2021年3月14日に多度まで歩いています(20210314勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道再び(下深谷~多度)」(完))。三重県内の美濃街道は、「みえの歴史街道」にコースマップがありますが、岐阜県内についてはまとまった資料の入手が難しく、ようやく今年になって、1月21日に多度から石津というコースで、再開しました(20230121美濃街道ウォーキング「多度から石津」(予告編))。「ようやく養老まで来たか」という感慨もいささかあります。

Img_4981c_20230522173701 Img_4991c_20230522173701  3㎞の手前で西林寺。真宗大谷派。もとは南濃町津屋の山脇というところにあり、西林坊といいました。山門は多良の水行奉行(木曽三川などの河道の維持がその役割)高木家の搦手(からめて)門(城の裏門)を移したものであるという記録が残っています。どこかのサイトに檀家が6軒しかかないと書かれていましたが、ご覧のように手入れが十分ではありませんでした。

Img_5012c_20230522173701 Img_5029c_20230522173701  3㎞を過ぎて街道の西側、ここにも大神宮常夜灯。今日は「大神宮常夜灯」と刻まれた常夜灯がたくさんあります。その先で三峰山観音寺。臨済宗妙心寺派。

Img_5071c_20230522173701 Img_5051c_20230522173701  観音寺のすぐ先、街道の東に小倉山福勝寺。真宗大谷派のお寺なのですが、これという情報が得られませんでした。福勝寺の東に常夜灯があったので気になって見てきました。「大神宮」と刻まれています。大神宮の文字が東に向かって刻まれています。東には津屋川。その昔は、湊でもあってそこから美濃街道に向かう目印だったのかというのは、勝手な想像。

Img_5121c_20230522173801  福勝寺のあたりで4㎞を過ぎました。小倉谷隧道の手前で右折し、八幡神社へ。創建は不詳ですが、延宝2(1673)年の棟札があるそうです。ご祭神は、応神天皇。ちなみに、小倉谷隧道は、岐阜県道56号線(南濃関ヶ原線)の旧道が、養老町の天井川である小倉谷川を潜るために建設されたものです。養老鉄道の線路も、この西で小倉谷川の下をくぐっていきます。

Img_5151c_20230522173801 Img_5166c_20230522173801  上多度小学校のあたりでスタートから5㎞。少しいくと、高札場跡があります。養老町の史跡なのですが、あまり目立ちませんから見逃しそうでした。6㎞を過ぎたあたりの小さなY字路のところに「十三代横綱鬼面山谷五郎生誕之地」という石柱が立っています。鬼面山谷五郎(文政9(1826)~明治4(1871)年)は、養老町鷲巣の出身で、明治になって初めての、また、岐阜県出身でただ一人の横綱でした。身長186㎝、体重140㎏もあったといいます。

Img_5203c_20230522173801  鬼面山谷五郎の生誕の地をすぎると、もう養老駅は近くになります。駅の手前で街道を東の方に外れ、まずは、勢至山専明寺。真宗大谷派。創建などについては不明ですが、古くは勢至村に境内を構え、勢至山光堂寺と号する天台宗の寺院だったといいます。寛正5(1464)年に真宗に改めています。往時は多芸七坊の一翼を担っていましたが、その後衰退し、江戸時代初期の寛永年間(1624~1645年)に現在地に遷っています。

Img_5235c_20230522173801Img_5223c_20230522173801  専明寺から北に神社が見えます。白山神社です。ご祭神は、伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉冉命(いざなみのみとこ)、そして菊理姫命(くくりひめのみこと:黄泉国からにげる伊奘諾尊が黄泉平坂(よもつひらさか)で伊奘冉尊と争ったとき、二神の主張を聞きいれ、助言した。石川県白山比咩(しらやまひめ)神社の主祭神)。右の写真で、拝殿の手前に並んでいる両側の常夜灯は、鬼面山谷五郎が奉納したもの。ルートマップを描くのに使った「キョリ測」では、ここに光明寺があると書いてあったのですが、何もありません。Googleマップで見ると、白山神社の境内に薬師如来堂があると書かれています。それは神社の社務所の南の位置なのですが、今日は、何もありませんでした。廃されたと思われます。

Img_5324c_20230522173801  養老鉄道養老駅には、12時15分に着きました。3時間15分ほどで8㎞ほどを歩いてきたことになります。養老駅は、なかなかハイカラなのですが、建てられたのは大正2(1913)年7月31日に初代の養老鉄道(後の近鉄養老線)が養老駅から池野駅までの間、開通したとき駅ができ、開業しています。

Img_5332c_20230522173901  電車の時刻を確認しておいて、昼食のため、県道56号線方面へ。そば屋さんと喫茶店があり、両者とも営業しているはずでした。養老駅から「こどもの国」前の信号交差点まで登り坂でしたし、ここを横断するには地下道を使うしかありません。という次第で、昼食にありつくために最後の力を振り絞ったのですが、そば屋さんは20~26日は臨時休業、喫茶店は今日に限って、12時で営業終了。無駄足を踏みましたが、これはまぁ結果論ですからやむを得ません。あまりにショックで店舗前で写真を撮るのを忘れました。

Img_5339c Dsc_7122c  養老駅に戻って、まずは土産を入手するために駅前の「きび羊羹本家」へ。調べたら「不定休」となっていましたので、心配したのですが、今日は営業しておられました。毎朝、手作りしているといいます。一棹が¥850。「きいきび」と「寒天」と「はくざら(砂糖)」の3つの原料だけでつくり、添加物は一切使われていません。自然食品で身体にやさしくおいしい羊羹だそうです。

Img_5372c  昼ご飯は、桑名駅まで戻って摂ることとし、養老駅12時51分発の桑名行きに乗車。桑名駅には13時38分着、¥580。帰りの電車は、空き空きで申し訳ないくらいでした。

Img_5389c_20230522173901 Dsc_7119c  桑名駅自由通路に「伊勢ノ国食堂しちり」があります。しばらく行っていませんでしたので、ここで「鶏天おろしうどん」。¥960(税込み)。14時前になってようやく昼ご飯にありつけました(微笑)。

Screenshot_20230522143511c Kibiyokan  帰宅してGoogle Fitを確認したら、歩いた距離は9.6㎞、歩数は21,111歩となっていました。暑い中、これだけ歩いたら、疲れます(苦笑)。きび羊羹は、家内が待ち構えていて、早速今日のおやつに。柔らかめで、伺ったとおり、やさしくて美味しい羊羹でした。最近、若い方は冷凍にしておいてシャーベットのようにして食べるのだそうです(きび羊羹本家で聞いてきました)。これも試してみることにしましょう。右のきび羊羹の写真は、きび羊羹本家さんのサイトからお借りしました。

 本編はまた改めて少しずつ書いていきます。

2023年5月 8日 (月)

202305015JRさわやかウォーキング「参宮線130周年記念 大和と伊勢神宮を結ぶ最古の道・伊勢本街道を歩いて」(その3)……田丸城跡でゴールし、田丸駅から参宮線で帰宅へ(完)

230505jrwalking2  5月5日に行ってきたJRさわやかウォーキング「参宮線130周年記念 大和と伊勢神宮を結ぶ最古の道・伊勢本街道を歩いて」の本編その3です。その2では、正念僧・即身仏供養碑塚、上田辺羽根遙拝場、玉城まちかど博物館伊勢美夜之窯、田丸神社と訪ねました。この日は、次に訪れた田丸城跡がゴール。

Img_4099c_20230507112101 Img_4121c_20230507112701  田丸城は、戦国時代に多くの武将たちが居城した、南伊勢随一の名城といわれます。JRさわやかウォーキングでも田丸城跡を訪ねる企画は、毎年1回は必ずあり、ずっと以前から一度は行ってみたいところでした。しかし、玉城町というと桑名からはかなり遠いイメージがあり、二の足を踏んでいました。今回は、先延ばしにしているといつまでも行けないと重い腰を上げたのです。

Img_4367c_20230507141401 Img_4400c_20230507141601  田丸城は、北畠親房顕信父子が延元元(1336)年、玉丸山に城塞を築き、南朝の拠点としたと伝えられます。天正3(1575)年、織田信長の次男・信雄により平山城の田丸城が築かれます。信雄は田丸城を石垣や、三層の天守をもつ城へと大改築したのですが、天正8(1580)年、炎上し、信雄は松ヶ島城へと移りました。本能寺の変(天正10(1582)年)以降、田丸直息(のちの直昌)らは信雄に叛いて羽柴秀吉に味方し、蒲生氏郷とともに松ヶ島城を攻略します。天正12(1584)年、氏郷は伊勢の領主となって松ヶ島城へ移り、直昌は田丸城主に返り咲きました。天正18(1590)年、直昌は秀吉の命を受け、氏郷とともに東北地方へ移り、その後の田丸城は稲葉重通が城代となり、慶長5(1600)年の関ヶ原合戦の戦功により岩出城主・稲葉道通(みちとお)が城主となります。このとき岩出城を廃し、城郭の主要な建造物や石塁等を田丸に遷し、大改築をしたと伝わっています。元和3年(1617年)津城主藤堂高虎が、徳川氏より伊勢田丸城の地を加増され田丸領を支配します。元和5年(1619年)には紀州徳川家領となり、家老の久野宗成が田丸城主となり、明治まで続いています。明治2(1869)年に廃城。野面積みの石垣が美しい南北朝時代の城址で、平成29(2017)年、「続日本100名城」に選出されました。左の写真は、玉城町役場と田丸保育所の間の入り口、右の写真は旧大手橋。

Tamarucastleruin  こちらは現在の地図。この日のウォーキングでは城跡の北にある田丸神社の方から入り、お城広場のところを右折して、玉城中学校の西側から玉城城跡に登っていきました。城跡を見て、帰りはお城広場のところまで戻り、奥書院の西から玉城町役場の北にある大手橋を渡り、田丸保育所の東で左折して田丸駅に向かいました。

Img_4118c_20230507144701  お城広場から右折した先に富士見門(長屋門)があります。廃城当時(明治4(1871)年)、城内の建物は入札によりすべて取り払われることになり、現在の玉城中学校校庭付近にあった富士見門は、宮古の乙部氏邸に移されたものを昭和59(1984)年に町が譲り受け、ここに移築復元しています。もとは長屋門でしたが、乙部氏邸に移築した際、向かって右の部分は取り除かれ、左の侍溜は納屋として使われたそうです。江戸時代中期のもの。

Img_4129c_20230505174001  ちょっと余談気味ですが、玉城中学校駐車場では「しろあとマルシェ」が開かれていました。食べるものも売られていたのですが、残念ながら、私の好みのものではありませんでした。

Img_4134c_20230507145501Img_4138c_20230507145501 マルシェをちょっと覗いていたら、校庭の方に大木と看板が見えました。「田丸城跡・三の丸(井戸水源) 金明水 銀明水」とあります。かつて田丸城内には、「金明水」「銀明水」と呼ばれた井戸があり、豊富な湧き水があり、それを飲用水としていました。

Img_4154c_20230507150001 Img_4185c_20230505174001  玉城中学校の西から城跡に登っていきます。城跡を訪ねるといつも思うのですが、こうして石垣が残っている城跡はやはりいいなと。桑名城跡の九華公園には、石垣はほとんど残っていないのです。右の写真は、本丸への虎口のところ。虎口は、郭への入り口ですが、このように道を折り曲げて敵の侵入を防ぐ働きをします。

Img_4194c_20230507150401 Img_4198c_20230505174001  登り切ったところが本丸跡。田丸城跡もそうですが、平山城の本丸に達するにはけっこう登っていかなければなりません。キョリ測で見ますと、標高は45mほど。田丸神社前の道路で20mくらいでしたから25mほど高低差があります。天守台跡が右奥に見えますが、この日のJRさわやかウォーキングはここがゴールになっていましたので、何はともあれ、ゴール受付へ。

Img_4202c Img_4205c_20230505174001  最近、JRさわやかウォーキングの会員証はスマホのアプリ。自分のスマホでアプリを起動すると、QRコードが表示され、受け付けでそれをかざすと自動的に参加ポイントが付与されます。右は、恒例のゴール看板を撮影したもの。スタート看板とゴール看板を撮影しないと、JRさわやかウォーキングに参加した気にならないのです。ここまでで10㎞を歩き(Google Fitのデータ)、ゴールしたのは11時45分頃でしたから、2時間半で10㎞を歩くというかなりのハイペースでした(笑)。

Img_4562c_20230505174101 Img_4208c_20230505174001  今日のウォーキングではゴールするとプレゼントがいただけました。「参宮線130周年記念さわやかウォーキング参加証」と、「神領 玉城水」(500mlペットボトル)をいただきました。この参加証、写真ではわかりにくいのですが、昔の硬券の切符のようになっています。「神領 玉城水」は、清流宮川の近郊地下30mほどの深井戸で汲み上げ、玉城町山岡水源浄水場で浄水処理した水道水が使われています(こちら)。

Img_4292c_20230505174001  田丸駅から伊勢市駅に行く列車は、12時33分発でしたので、田丸城の本丸跡で昼食。今日は「しろあとマルシェ」が行われているのは知っていましたが、一応、コンビニ弁当(助六寿司)を手に入れていました。「しろあとマルシェ」もチラッと見たのですが、私にはこれというものはなく、まずは助六で昼食。そのあと本丸跡を見て回ることにしました。

Img_4213c_20230505174001 Img_4253c_20230507153801  こちらは天守台跡。野面積みの石垣がきれいです。さほど広くはありません。織田信雄が築いたのは、三層の天守だったそうです。天守台跡にも登れますので、登ってみました。

Img_4249c_20230507154501 Img_4246c_20230507154501  天守台跡から西の方の眺めです。遠くは、吉野や熊野の方角になりますが、400mから1,000mくらいの山並みが見えます。手前には水田地帯。これは、夕景がよさそうな感じ。

Img_4269c_20230507154501 Img_4281c_20230507154501  本丸跡には石碑が2基あります。左の写真のものは、玉城町(当時の田丸町)出身で、朝日新聞社を創設した村山龍平翁の自筆歌碑。「田丸町の久しく望める城山の 町有となりし時 幾千とせかはらぬことを祈るなり この城山はこのさとの神」とあります。もう1基は、歌人の岡野弘彦による「玉城町制十周年記念歌碑」。「田丸城の桜」と題し、「城山の桜すがしく匂ふなり ここに学びしわかき日の父」「伊勢熊野むすぶ道ベの城山に 父がまなべる世をおもふなり」とあります。岡野は、津市美杉町(当時の一志郡美杉村)出身で、令和3年に文化勲章を授与されています。

Img_4296c_20230507155301 Img_4300c_20230507155301  こちらは二の丸跡。藤棚があり、人だかりがしていますが、これはこの日から始まった「玉城町まちあるき謎解きゲーム 織田信雄からの挑戦状」(こちら)に参加している皆さん。このゲームでは謎解きをするのですが、指定された現地に行かないと解けない問題が出ているそうです。二の丸跡にあった説明板によれば、条件がよいと冨士山が見えるとありました。

Img_4311c_20230505174001 Img_4326c_20230507155801  これで田丸城跡も一通り回りましたので、田丸駅に向かいます。左の写真は、この「玉城町まちあるき謎解きゲーム 織田信雄からの挑戦状」のPRのためのもの。田丸城跡から田丸駅まではほぼ1㎞、約10分という表示。

Img_4332c_20230507160001 Img_4339c  もう見るところはないかと思っていたのですが、さにあらず。お城広場のところには「代官所跡」という看板が立っていましたし、その一角には蒸気機関車のC58が保存されていました。C58414です。昭和21~22(1946~47)年にかけて製造された45両のうちの1両。昭和48(1973)年4月まで北海道で運行されていたそうです。この年は、参宮線田丸駅ができて80周年だったといいます。

Img_4419c_20230507160601 Img_4412c_20230507160701  さらに玉城町役場と、村山龍平記念館の間を通って、大手橋を渡ります。左の写真は町役場。写真奥が大手橋。大手橋を渡った交差点の南東角に「田丸勘定所跡」という看板が立っています。勢州久野領の事務一切を取扱処理した役所で、家老・用人・手代の役人たちが詰めていたところ。

Img_4435c Img_4431c_20230507161201  田丸保育所のところを左折して、県道530号線との交差点に「熊野街道 伊勢街道」「熊野街道 熊野古道伊勢路」という看板があります。ここは、左の写真でいうと、左右に熊野脇道が通っているところ。伊勢本街道と熊野街道が通るのは、大手橋から東に直進したところです。玉城まで来ると、「熊野古道」も近いのだなと実感。

Img_4455c_20230507161501 Img_4451c_20230507161501  さらに田丸駅に向かう途中のお宅の前に「御鳥見役屋敷跡」という石柱があります。紀州藩主は蔓を毎年将軍に献上するため、飼い慣らした鷹に鶴を捕らえさせるという鷹狩りを行っており、国東山一帯は鷹狩り場として鳥獣の雁ヶ禁止されていました。御鳥見役は、この鷹狩り場の取締と、鷹の餌差しなどの世話をする役人です。寛永年間(1624~1644年)、鷹場(御鳥見役屋敷)が城内から場外のこの地に移されたといいます。

Img_4463c_20230507162001  12時25分頃、田丸駅に到着したのですが、駅前にこういう石碑やモニュメントがあります。石碑には「熊野古道伊勢路出立の地」とあり、「をちこちに神を祀りてあたたかし」と書かれた句碑が並んでいます。この句碑は、俳人の黛まどか氏が詠んだもので、平成27(2015)年に玉城町町制施行60周年を記念して設置されています。もう一つは、昔の旅人の陶像です。背中には「西国三十三所」と書かれています。説明によれば、田丸は初瀬街道と熊野街道が合流し、伊勢本街道として伊勢神宮に通じる交通の要所でしたから、伊勢参りをしてから熊野詣や西国三十三所巡礼に向う旅人が多かったので、それを表しているのでしょう。

Img_4483c_20230505174001 Img_4488c_20230505174001  JR参宮線田丸駅です。明治26(1893)年12月31日、参宮鉄道が津~相可(現・多気)~宮川間で開業した際に設置されました。この駅舎は、大正元(1912)年頃に完成した木造平屋のもの。老朽化が進み、駅舎を改修した上で保存することも検討されたのですが、耐震診断の結果、保存は困難であることが分かり、2023年4月以降の取り壊しが決まったそうです。駅舎は、日本映画の巨匠・小津安二郎監督の映画「浮草」(1959年)のラストシーンの撮影でも使われたことがあります。

Img_4493c_20230505174001 Img_4495c_20230505174001  予定通り12時33分発鳥羽行きの普通に乗って、伊勢市駅へ向かいます。参宮線に乗るのは、今年3月のJRさわやかウォーキング以来、2回目(2023年3月4日:20230304JRさわやかウォーキング「早春の開運&良縁祈願で運気up! 海辺の海獣・ひな祭とふれあい神宮参り前の『禊』へ」(予告編))。伊勢市駅までは、宮川、山田上口の2駅を経て、¥210。

Img_4538c_20230505174001 Img_4541c_20230505174001  12時44分着。伊勢市駅には何度も来ています。ここからまた近鉄で帰ろうという算段。名古屋行き急行は、13時18分までありません。特急に乗るのはもったいないですし、伊勢中川まで普通に行って乗り換えるのも面倒ですので、いったん駅の外へ。伊勢市駅前の信号を渡って、外宮の方向に少し行ったところにへんば屋さんの支店があります。駅からは2~3分。

Img_4593c_20230505174101  へんば餅を土産に買ってきました。5個入り¥450をお買い上げ。実は、へんば餅は私の大好物なのです。伊勢街道は、別名「餅街道」といわれるほど、各地に餅菓子がありますが、個人的には赤福よりも、このへんば餅や、伊勢の二軒茶屋餅、桑名の安永餅(永餅屋老舗安永餅本舗柏屋の2軒)の方が好きです。ただ、伊勢街道沿いにある餅菓子でまだ食べたことのないものもあります。

Img_4534c_20230507165101 Screenshot_20230505150254c  伊勢市駅発13時18分の名古屋行き急行に乗ったものの、途中から電車が遅れ始めました。名古屋線の伏屋駅構内で14時過ぎに線路安全確認が発生し、名古屋~富吉間の下り線で運転を見合わせ、塩浜~名古屋間の上り線でも大幅な遅れが生じているという事態に巻き込まれてしまいました。本来であれば、桑名には14時40分着。この間、緊急地震速報まで鳴って、大変でした。石川県能登地方での震度6強の地震(こちら)。ちなみに翌日の中日新聞朝刊によれば、近鉄のトラブルの原因は運転士さんの誤操作によるとか。

Img_4569c_20230505174101 Img_4583c_20230505174101  15時頃運転再開ということでしたが、益生駅に止まったまま20数分が経ちました。近鉄桑名駅の上り方向には7・8番線があるのですが、これも塞がってしまったということです。しばらくすると(15時過ぎ)、車掌さんが回ってきて、「益生駅で下車できる」ということになり、「エイヤッ」と降りることに。先頭車両の運転席のドアから下ろしてもらいました。このように、運転席のドアから乗り降りしたのは、初めて。家内にクルマで迎えに来てもらうようLINEしました。

Img_4580c_20230505174101  余談であります。江戸橋方面への通勤に使っている「オフピークチケット」が、有効期限内に1回分余ってしまうので、帰りに伊勢市駅で乗車するとき、これを使って乗車。回数券カードで乗っても乗り越し精算ができるのをあらかじめ確認したのです。値上げ前に買いましたので、700円のころの回数券。現在は、830円区間に仕えます。精算額は¥620。桑名まで乗っても同じ料金でした。

Screenshot_20230505152342c  という次第で、ウォーキングそのものはしっかりと楽しめ、最後には、電車が遅れ、急行が止まらない益生駅で運転席ドアから降ろしてもらうという珍体験までさせてもらい、忘れられないJRさわやかウォーキングとなりました。帰宅して確認したら、Google Fitでは15.5㎞も歩いたことになっています。歩数は、23,012歩。15㎞も歩いたのは、久しぶりではないかと思います。

Img_4504c_20230507165101 Img_4533c_20230507165101  ちなみに、参宮線(さんぐうせん)は、三重県多気郡多気町の多気駅から鳥羽市の鳥羽駅に至るJR東海の路線です。その名のように、伊勢神宮への参詣路線として、明治26(1893)年から明治44(1911)年にかけて開業しました。現在は、紀勢本線の多気駅から分岐していますが、もともと亀山駅~鳥羽駅間が参宮線とされ、紀勢本線が全通した昭和34(1959)年に、参宮線は多気駅~鳥羽駅間に変更されています。伊勢神宮参詣の重要路線として幹線並の扱いを受け、首都圏や西日本各地からの直通列車も運転されていたのですが、昭和34(1959)年、近鉄名古屋線と山田線の軌間統一による直通運転の開始や、さらに昭和45(1970)年の近鉄鳥羽線の開業によって乗客は激減し、一時は存廃問題にまで発展しました。収支は現在でも厳しく、2008年度の営業係数として推定された値は、JR東海の路線中でワースト2位の422.1(100円の収入を得るために422.1円の費用がかかる)とされています(ワースト1は同じ三重県内の名松線で、534.4)。

 以上、その3が想定より長くなりましたが、これにて5月5日のJRさわやかウォーキング「参宮線130周年記念 大和と伊勢神宮を結ぶ最古の道・伊勢本街道を歩いて」は完。

2023年5月 7日 (日)

202305015JRさわやかウォーキング「参宮線130周年記念 大和と伊勢神宮を結ぶ最古の道・伊勢本街道を歩いて」(その2)……正念僧・即身仏供養碑塚、上田辺羽根遙拝場、田丸神社へ

230505jrwalking2  5月5日、こどもの日に出かけたJRさわやかウォーキング「参宮線130周年記念 大和と伊勢神宮を結ぶ最古の道・伊勢本街道を歩いて」の本編その2です。その1では、多気駅をスタートし、坂倉遺跡、しあわせの宮、七度狐の森、伏拝坂の切り通しと進んできました。坂倉遺跡を過ぎ、JR参宮線の池辺踏切から伊勢本街道を歩いています。その2では、正念僧・即身仏供養碑塚、上田辺羽根遙拝場、玉城まちかど博物館伊勢美夜之窯、田丸神社と回って、田丸城跡がゴールになります。中央公民館をすぎて、田丸小学校の西あたりまでが伊勢本街道。その後、JR参宮線田丸駅まで行って帰途に就きます。

Img_3908c_20230507064901  今回のさわやかウォーキングでは、立ち寄るところは多くありません。伊勢本街道を歩いて、昔の旅人気分を味わいます(微苦笑)。とはいえ、その1 にも書きましたが、アップダウンもけっこうあって、楽な道ではありません。大和から伊勢への最短コースにあたるのですが、けわしい山道が多く、旅人に恐れられたそうです。本居宣長の紀行『菅笠日記』には、宣長が大和の旅を終えた帰路、榛原で一行に本街道越えを指示した際の様子が描かれていますが、一行はこの道を通るなど考えただけでも恐ろしい、とふるえあがったといいます。

Img_3916c_20230507065401  Img_3920c_20230507065401 私の印象では、今回歩いた街道沿いには古い建物などはあまり残っていませんでした。それでもところどころで蔵のある大きな尾屋敷を見ることができました。名所旧跡や寺社仏閣を訪ねるだけでなく、古い建物を見るのも、街道歩きの楽しみです。

Img_3954c_20230505174001 Img_3958c  七度狐の森から1㎞半以上を歩いて、正念僧・即身仏供養碑塚に至ります。今から200数十年前、この地で重い病にかかり、街道を往来する旅人の安全を祈って人柱に立ったといわれる僧・正念の供養のために建てられたと伝えられます。正念は、六部(ろくぶ)です。六部とは、法華経を書き写し66ヵ所のお寺に奉納する修業僧のことで紺木綿で包んだ鉢形の笠をかぶり、厨子入りの仏像を背負い鉦を鳴らして各地を歩いていました。

Img_3941c_20230505174001  正念がこの街道の上田辺(かみたぬい)の茶屋(ちゃや:地名)にさしかかった時、長旅の疲れが出て倒れてしまいました。村人の家で休ませてもらい元気を回復した正念は、村人の親切にお礼をするため街道を往き来する旅人たちの安全を祈って、人柱に立つことを決心したそうです。それからの伊勢本街道は、正念の信念が通じたかのように、軽い足取りで旅をする風景がみられるようになったといいます。玉城町の「正念塚-茶屋-」にこの詳しい話が載っています。

Img_3962c_20230507070201 Img_3966c_20230505174001  伊勢本街道もこのあたりまで来ますと、平坦な道がしばらく続きます。7㎞を過ぎたところに上田辺羽根遙拝場があります。鳥居と常夜灯1基があります。鳥居は東向きに建っており、当然、伊勢神宮を遙拝するところと思われますが、ネット検索でも、みえの歴史街道マップにも詳しいことは載っていません。

Img_3985c_20230505174001  次の立ち寄り先には、玉城まちかど博物館伊勢美夜之窯(いせみやのがま)が指定されています。ここは、瀬戸にある美夜之窯で修行なさった方が開いた陶房。江戸時代中期に瀬戸で使われていた様式の二連の登り窯があり、展示室に作品があり即売もしているそうですが、スルーさせていただきました。

Img_3996c_20230507071401 Img_4002c_20230507071901  玉城の町にかなり近づいてきました。多気駅から8㎞ほどで、玉城町の中央公民館にやって来ました。このあたりまでが伊勢本街道です。このあと、田丸小学校の方に向かうのですが、そこまでは伊勢本街道を歩いたり、微妙にはずれたりしています。玉城町では、この日は「しろあとマルシェ」が行われるとともに、この日から6月6日まで「玉城町まちあるき謎解きゲーム 織田信雄からの挑戦状」が開催されています。

Img_4027c_20230507072401 Img_4021c_20230507072401  このあとコースマップでは田丸小学校の方へ回って、Uターンするようになっていました。これも意図がよく分からなかったのですが、創立150周年記念の行事が行われていました。

Img_4044c_20230505174001  田丸小学校から田丸神社へ。ここは田丸城跡の北にあたります。元禄15(1702)年2月、京都北野天満宮より菅原道真公の分霊を勧請し、天神社として祀ったのが創始とされます。それ以前は、大榎の大木を御神体とする天神様に降雨止雨を祈願する農耕神的性格を有していたと伝わっています。宝永6(1709)年以降、18世紀には田丸はほぼ20年ごとに大火があったため、天神社に祈願を行い、八心思兼神、忌部神を合祀して以来、大火がないと伝えられます。明治41(1908)年1月、近隣の神社を合祀し、大字下田辺天神山天神社へ合祀し田丸神社と単称。

Img_4066c_20230505174001 Img_4054c_20230507081001  菅原道真公を主祭神とし、19柱を祀っています:菅原道真公、事代主神素戔嗚尊神火之加具土神活津彦根命天穂日命市杵嶋姫命忌部神大物主神味耜高彦根命(あじすきたかひこねのかみ:大国主命の子)、譽田別尊熊野橡日命(くまのくすひのみこと:須佐之男命が天照大御神の持ち物である八尺瓊勾玉を譲り受けて化生させた五柱の神の一柱で、天照大御神の物実から生まれたので天照大御神の子であるとされた)、天津彦根神大山祇命八心思兼神(やごころおもいかねのかみ:高御産巣日神の子であり、天忍穂耳命の妻である万幡豊秋津師比売命の兄。もっとも有名な話では、岩戸隠れの際に、天の安原に集まった八百万の神に天照大御神を岩戸の外に出すための知恵を授けたされている)、倉稲魂神木花咲耶姫命天忍穂耳命湍津姫命(たぎつひめのみこと:宗像大社中津宮の祭神。天照大神と素戔嗚尊の誓約で、アマテラスがスサノオの剣を噛んで噴き出した霧により、田霧姫命(田心姫命)に次いで出現した女神)、田心姫命(たごりひめのみこと:天照大神と素戔嗚尊とが誓約して生んだ五男三女神のうちの一神。市杵島姫命、湍津姫命とともに、宗像神社の祭神)。本殿前には、ヒノキの大木の御神木があります。

Img_4081c_20230507081201  境内にあった「たまる石 払石」。神社で行われる祭儀は払えの行事から始まります。払えは重ねるほどよいとされ、払石(向かって右)はなでることにより悪しきためごとを祓い、向かって左のたまる石は、罪穢れを払った後、串に願いを託しこの石に捧げると福がたまるとされるそうです。

Img_4089c_20230507081201  さらに彰功碑も1基ありました。碑表の碑文をざっと読んでみますと、旧田丸町の町長を務めた?司守氏の功績をたたえるものでした(?の文字は、判読できていません)。大正3(1914)年3月の建立。山本雲樵の撰書。

 ルートマップその2の途中ですが、このあと訪ねた田丸城跡について書きますと、長くなりそうですから、その2はここまで。その3は田丸城跡から田丸駅まで。

 

2023年5月 5日 (金)

202305015JRさわやかウォーキング「参宮線130周年記念 大和と伊勢神宮を結ぶ最古の道・伊勢本街道を歩いて」(予告編)

230505jrwalkingtakic  薄曇りで、桑名では最高気温24.3℃でした。予定通りにJRさわやかウォーキング「参宮線130周年記念 大和と伊勢神宮を結ぶ最古の道・伊勢本街道を歩いて」に行ってきました。JR紀勢線多気駅から参宮線田丸駅まで、コースマップ上約9.6㎞。私には、伊勢本街道を歩けるということと、田丸城跡を訪ねられるというのが魅力。田丸城跡には以前から一度は訪ねてみたいと思っていたのです。今日のところは、いつものように予告編。

Img_3624c_20230505173901 Img_3612c_20230505173901  JRさわやかウォーキングですが、今日もまた松阪までは近鉄を利用。7時32分発松阪行き急行に乗車。ところがこの電車、伊勢中川駅で9分間も停車し、発車するのは8時38分。その間、大阪線から五十鈴川行き急行が来て、これが8時30分発というので乗り換え。松阪駅には8時37分着。いったん改札を出てJRの切符を購入。9時1分発の快速みえ51号に乗車。多気駅には9時8分に到着。ちなみに多気まで来たのは2回目(2019年11月10日:20191110JRさわやかウォーキング「晩秋の田園風景と伊勢本街道を訪ね、『おいないまつり』で多気の文化と食を楽しもう!」へ(予告編))。

230505jrwalking0  9時15分頃にスタートします。これが今日実際に歩いたルートマップ。現地では、11㎞以上を歩いてきました。立ち寄り先は、しあわせの宮、七度狐の森、伏拝坂の切り通しと石燈籠、正念僧・即身仏供養碑塚、上田辺羽根遙拝場、玉城まちかど博物館伊勢美夜之窯、田丸神社、田丸城跡。田丸城跡がゴール。さらにJR参宮線田丸駅まで約10分を歩いたという次第。

Img_3673c_20230505173901  スタートして1㎞ほどのところにJR紀勢線の第四東池上踏切のところで撮り鉄の方が数人、待機しておられました。これはひょっとして特急南紀が来るなと思ったら、大当たり。現在は、キハ85系ワイドビュー車両で運行されていますが、今年7月1日から新型車両HC85系に置き換えられます(こちら)。故に俄撮り鉄。たぶん本当は、車両の全景を入れた方がよいのでしょうが、とっさのことでこんな写真。

Img_3720c_20230505173901 Img_3744c_20230505173901  今日歩いた伊勢本街道は、上のルートマップに付記しましたが、JR参宮線の池辺踏切のところから、玉城町立玉城小学校あたりまででした(このあたりはイベントの関係で伊勢本街道から微妙にはズレたりしています)。歩いたコースのあちこちに「伊勢本街道」というサインが掲げられていました。右の写真のように、いかにも江戸時代の街道を歩いているという気分がしっかりと味わえます。

 スタートから3.5㎞ほどでしあわせの宮Img_3755c_20230505173901主祭神は地母神。ご神体は、付近のマイラ遺跡で昭和37(1962)年12月に出土した縄文時代中期の石棒。長さ29cm、幅14cmという、大きくずんぐりとした有頭石棒といいます。この石棒は男根を象ったものとされ、「マイラ」という遺跡名(地名)も男根を意味する「マラ」に由来するそうです。このほか天鈿女命猿田彦命などを祀り、長寿、金運、出世、縁結びという4つ合わせの霊験ありと謳っています。昭和38(1963)年4月1日に創祀しています。社名は往時の流行歌『しあわせの歌』から僧の小林慈海が、広く人々をお守りするようにとの願いを込めて命名しました。ここで水分補給。歩いているとけっこう暑かったのです。

Img_3824c_20230505173901 Img_3838c_20230505173901  しあわせの宮から1㎞あまり歩くと、七度狐の森。七度狐は、上方落語の演目の一つである『七度狐』(しちどぎつね/ななたびきつね)または『七度狐庵寺潰し』(しちどぎつねあんでらつぶし)に由来します。その原話は、寛政10(1798)年に出版された笑話本・「無事志有意」の一遍である『野狐』。道中噺『東の旅』(本題『伊勢参宮神乃賑』)の一編。喜六と清八のコンビが、伊勢参りの途中でとある煮売屋(昔の簡易食堂)に立ち寄ったところ、変な酒を飲まされ、頭にきた二人は手近にあった「イカの木の芽和え」を失敬し茶店を逃げ出しました。このイカの木の芽和えは売り物ではなく、村の寄合いから注文を受けた品でした。それが入っていたすり鉢を向こうの草むらへ放ったところ、そこで寝ていた狐の頭に当たったのですが、この狐、二つ名を『七度狐』といい、一度ひどい目に合わされたら、その相手を七度続けて化かすという執念深い狐だったという話。くわばらくわばら。2代目桂枝雀、3代目笑福亭仁鶴桂文珍などが演じているそうです。

 さらに0.6㎞ほど行ったあたりが、伏拝坂の切り通しImg_3870c_20230505173901伊勢本街道は東池上から土羽茶屋を経て、当時の面影を残す切通しの古道を伊勢へ向かうのですが、その左手の丘に「両宮遥拝所 伏拝み」の石柱が建っています。昔、伊勢まいりの旅人がここまできて、村人に神宮までの道のりを尋ねたところ、「三里山道 五里畷(なわて)」と聞き、まだ八里もあるかと驚いて、ここから神宮を伏し拝んで残念そうに帰っていったというのです。近くには、両宮遙拝所献灯があるそうです。

Img_3882c_20230505174001 Img_3888c_20230505174001  「両宮遙拝所 伏拝み」の石碑は、切り通しの上にあります。ネットで調べていたら、ここを登って石碑を間際でご覧に行かれた方もあるようですが、さすがにこれは登れません。写真を撮っただけ。

Img_3954c_20230505174001 Img_3941c_20230505174001  続いて正念僧・即身仏供養碑塚。今から200数十年前、この地で重い病にかかり、街道を往来する旅人の安全を祈って人柱に立ったといわれる僧・正念の供養のために建てられたと伝えられます。正念がこの街道の上田辺(かみたぬい)の茶屋(ちゃや:地名)にさしかかった時、長旅の疲れが出て倒れてしまいました。村人の家で休ませてもらい元気を回復した正念は、村人の親切にお礼をするため街道を往き来する旅人たちの安全を祈って、人柱に立つことを決心したそうです。それからの伊勢本街道は、正念の信念が通じたかのように、軽い足取りで旅をする風景がみられるようになったといいます。

Img_3966c_20230505174001  こちらは上田辺羽根遙拝場。もちろん伊勢神宮を遙拝するところでしょうが、ネット検索でも、「みえの歴史街道」にも詳しいことは載っていません。鳥居と常夜灯があります。普通の遙拝所では、石碑が建っているだけということが多いので、鳥居と常夜灯があるのはなぜなのか、気になります。

Img_3985c_20230505174001 Img_3999c_20230505174001  玉城まちかど博物館伊勢美夜之窯も立ち寄り先になっていましたが、スルーさせていただきました。その先にある玉城町中央公民館の敷地を通過して、次に進みます。玉城町では、今日は「しろあとマルシェ」が行われるとともに、今日から「玉城町まちあるき謎解きゲーム 織田信雄からの挑戦状」が始まりました(こちら)。

Img_4044c_20230505174001 Img_4066c_20230505174001  ゲームには参加せず、田丸神社へ。元禄15(1702)年2月、京都北野天満宮より勧請し、天神社として祀ったのが創始とされます。それ以前は、大榎の大木を御神体とする天神様に「降雨止雨」を祈願する農耕神的性格を有していたと伝わっています。宝永6(1709)年以降、18世紀には田丸はほぼ20年ごとに大火があったため、天神社に祈願を行い、八心思兼神、忌部神を合祀して以来、大火がないといわれています。明治41(1908)年1月、近隣の神社を合祀し、大字下田辺天神山天神社へ合祀し田丸神社と単称。菅原道真公を主祭神として19柱を祀っています。

Img_4185c_20230505174001 Img_4198c_20230505174001  そして、いよいよ田丸城跡へ。北畠親房顕信父子が延元元(1336)年、玉丸山に城塞を築き、南朝の拠点としたといいます。天正3(1575)年、織田信長の次男・信雄により平山城の田丸城が築かれ、その後稲葉氏、藤堂氏、久野氏と城主が変わり、明治2(1869)年に廃城。春には桜、夏には大賀蓮、秋には紅葉、冬にはライトアップと、一年を通じて、景観が楽しめます。野面積みの石垣が美しい南北朝時代の城址で、南伊勢随一の名城といわれます。平成29(2017)年、「続日本100名城」に選出されました。

Img_4202c Img_4205c_20230505174001  今日は、この田丸城跡がさわやかウォーキングのゴール。ここまででルートマップ上、10㎞を歩いてきました。ゴールしたのは、11時45分頃でしたから、2時間半で10㎞を歩くというかなりのハイペースでした(笑)。

Img_4208c_20230505174001 Img_4562c_20230505174101  ゴールではさわやかウォーキングのポイントをいただいたほか、「神領 玉城水」(500mlペットボトル)と、「参宮線130周年記念さわやかウォーキング参加証」をいただきました。この参加証、写真ではわかりにくいのですが、昔の硬券の切符のようになっています。

Img_4292c_20230505174001  田丸駅から伊勢市駅に行く列車は、12時33分発でしたので、田丸城の本丸跡で昼食。上述のように、今日は「しろあとマルシェ」が行われているのは知っていましたが、一応、コンビニ弁当(助六寿司)を手に入れていました。

Img_4483c_20230505174001 Img_4488c_20230505174001  昼食を食べ、12時10分過ぎにJR参宮線田丸駅へ向かいました。明治26(1893)年12月31日、参宮鉄道が津~相可(現・多気)~宮川間で開業した際に設置されました。この駅舎は、大正元(1912)年頃に完成した木造平屋のもの。老朽化が進み、駅舎を改修した上で保存することも検討されたのですが、耐震診断の結果、保存は困難であることが分かり、2023年4月以降の取り壊しが決まったそうです。駅舎は、日本映画の巨匠・小津安二郎監督の映画「浮草」(1959年)のラストシーンの撮影でも使われたことがあります。

Img_4495c_20230505174001 Img_4538c_20230505174001  12時33分発鳥羽行きの普通に乗って、伊勢市駅へ。12時44分着。伊勢市駅には何度も来ています。ここからまた近鉄で帰ろうという算段。名古屋行き急行は、13時18分までありません。特急に乗るのはもったいないですし、伊勢中川まで普通に行って乗り換えるのもどうかということで、いったん駅の外へ。

Img_4541c_20230505174001 Img_4593c_20230505174101  こちらへ行って、へんば餅を土産に買ってきました。伊勢市駅前の信号を渡って、外宮の方向に少し行ったところにへんば屋さんの店があるのです。5個入り¥450をお買い上げ。

Screenshot_20230505150254c  伊勢市駅発13時18分の名古屋行き急行に乗ったものの、途中から電車が遅れ始めました。名古屋線の伏屋駅構内で14時過ぎに線路安全確認が発生し、名古屋~富吉間の下り線で運転を見合わせ、塩浜~名古屋間の上り線でも大幅な遅れが生じているという事態に巻き込まれてしまいました。本来であれば、桑名には14時40分着。この間、緊急地震速報まで鳴って、大変でした。石川県能登地方での震度6強の地震(こちら)。ちなみに今朝の中日新聞によれば、近鉄のトラブルは運転士さんの誤操作によるとか。

Img_4569c_20230505174101 Img_4583c_20230505174101  15時頃運転再開ということでしたが、益生駅に止まったまま20数分が経ちました。近鉄桑名駅の上り方向には7・8番線があるのですが、これも塞がってしまったということです。しばらくすると(15時5分頃)、益生駅で下車できるということになり、「エイヤッ」と降りることに。先頭車両の運転席のドアから下ろしてもらいました。このように、運転席のドアから乗り降りしたのは、初めて。家内にクルマで迎えに来てもらうようLINEしました。

Img_4580c_20230505174101  余談であります。江戸橋方面への通勤に使っている「オフピークチケット」が、有効期限内に1回分余ってしまうので、帰りに伊勢市駅で乗車するとき、これを使って乗車。回数券カードで乗っても乗り越し精算ができるのをあらかじめ確認したのです。値上げ前に買いましたので、700円の頃の回数券。現在は、830円区間に仕えます。精算額は¥620。

Screenshot_20230505152342c  という次第で、ウォーキングそのものはしっかりと楽しめ、最後には、電車が遅れ、急行が止まらない益生駅で運転席ドアから降ろしてもらうという珍体験までさせてもらい、忘れられないJRさわやかウォーキングとなりました。帰宅して確認したら、Google Fitでは15.5㎞も歩いたことになっています。歩数は、23,012歩。15㎞も歩いたのは、久しぶりではないかと思います。本編の記事は、また明日以降、ゆらゆらと書いていきます。

 

2023年4月17日 (月)

20230416美濃街道ウォーキング「駒野~美濃津屋」(その1)……駒野駅をスタート、市神神社、徳永寺、八幡宮から駒野城跡へ

Img_2791c_20230417163501  4月16日に行ってきた美濃街道ウォーキング「駒野~美濃津屋」の本編その1です。この日は、養老鉄道の駒野駅から美濃津屋駅まで、1駅分でしたが、現地で歩いたのは、8.9㎞。当初は、駒野から養老まで歩くつもりでしたが、結構長いため、2回に分けたのですが、それが幸い。というか、1日で駒野から養老まで歩くのは、立ち寄るところも多くて、困難でした。前日の雨は上がり、朝のうちは雲も出ていましたが、歩き始める頃には 良く晴れて来ました。風はあったものの、寒くはなく、最高気温も桑名では21℃を超えました。今回も同級生K氏と2人旅。

Komano0  こちらがこの日歩いたコースの全体像。前回までは揖斐川に沿っていたのですが、この日は津屋川&養老鉄道線に沿って北西に向かいました。立ち寄り先が多いので、列挙することは控えます。地図では分かりませんが、高低差がかなりありました。「キョリ測」で見ますと、標高は6~37mにわたっていました。

Img_2804c_20230416194801 Img_2800c  桑名駅を8時9分に出る養老鉄道の大垣行きに乗車。駒野駅には8時49分着。¥470。この電車にはウォーキングに行くらしい方が多数乗車。まずは多度駅でかなりの方が下車。おそらく多度山に登る方々でしょう。駒野駅でわれわれも含め、ウォーキング客は全て下車。「養老鉄道を守る会“かいづ”」主催で「八重桜ウォーキング」が開催されていました。ウォーキングマップと「水晶の湯」入湯券の引換券をいただきましたが、残念ながら、歩く方角が違います。われわれは、予定通り美濃街道を歩いてきました。

Komano11  詳しいコースマップその1。駒野駅を出てすぐに市神神社。ここには私は3年前に来ています(2020年4月3日:20200403「勝手に養老鉄道ハイキング『専通寺のしだれ桜と羽根谷だんだん公園』(駒野)」(完))。さらに徳永寺、八幡宮と進み、養老鉄道の踏切、国道258号線を越えて城山小学校。ここは、駒野城跡です。

Img_2812c_20230416195001 Img_2815c_20230417164701  駒野駅をスタートしたのは9時。すぐに市神神社があります。猿田彦命(さるたひこのみこと)を祀っています。創立年月日は不詳ですが、古来より崇敬が厚く、明治3(1872)年11月に再建したといいます。

Img_2822c_20230417164701 Img_2825c_20230417164701  境内には駒野招魂社と、紀念碑。明治33(1900)年4月に建てられています。こちらのブログによれば、「岐阜縣海津郡長正八位古田兼彌篆額  伊藤宗男撰」に始まり、11行にわたって日清戦役に出征して奮闘し、名声を轟かした郷土の軍人の偉業を讃え、戦死者・殉難者の霊を忘れず慰めるために建碑した旨の撰文。左端に建立年月、また、℃台医師には「發起人」として「駒野 在郷軍人 青年會」と刻まれています。このあたりは、前回訪ねた時と同様に、草木が生い茂っていて、ちょっと残念。

Img_2858c_20230417165801 Img_2844c_20230416194801  美濃街道に戻ってすぐに右折。龍暁山徳永寺。真宗大谷派。由緒書きもありませんし、ネット検索でもとくに情報は出て来ませんでしたが、Googleマップの口コミに「本堂大規模修復工事が終わり (令和4(2022)年)12月3日に落慶法要があった」とありました。

Img_2860c_20230417165801  美濃街道に戻りさらに進みます。今は営業していない商店も多く、静かな町になっています。駒野駅の南にナイガイテキスタイルという「新内外綿」の関連会社があります。この会社は、元は明治20(1887)年の創業。昭和24(1949)年に駒野工場が創業しています(その後、昭和53(1978)年に駒野工場はナイガイテキスタイルとして分離独立)。養老鉄道もかつては貨物の取り扱いがあり、駒野駅から工場への引き込み線もあったそうです(こちら)。新内外綿が盛んだった頃には、もっと賑やかな町だったのではないかと思われます。

Img_2879c_20230417171201 Img_2890c_20230417171301  養老鉄道の踏切の手前を右折して少し行くと、八幡宮があります。永正2(1502)年に勧請されたといいます。ご祭神は応神天皇。美濃街道沿いにある神社の多くでは、境内にうっそうとした木々が茂っていたり、大木があったりして、なかなか良い感じのところとなっています。本社は小ぶりで、そのそばに摂社か、末社が一柱祀られていますが、そちらについては不詳。

Img_2896c_20230417172001  国道258号線を藤沢交差点で渡ります。国道258号線は、通称「大桑道路」。大垣市から、揖斐川と並走するように南下し、海津市を経由し、桑名市に至る路線です。大垣市で名神高速道路と、桑名市で東名阪自動車道を連絡する重要な路線に位置づけられています。総延長は41.7㎞。若くて、あちこち出かけた頃にはよく通りました。今は、道の駅月見の里南濃が有名ですが、昔は何といっても南濃ドライブインでした(今は営業していないかも知れません)。

Img_2903c_20230417172901 Img_2905c_20230417172901  余談が続きますが、藤沢交差点をすぎて、城山小学校に行くまでのところに「たまご自販機」。気になったので、覗いてきました。大橋農園が営業しています。「奥美濃古地鶏」の卵だそうです。この鳥は、美濃地鶏を育種改良したものだそうです。卵のお値段は、いろいろでしたが、20個入り¥700というものがもっとも値が張るようでした。

Img_2933c_20230416195001 Img_2918c_20230416195001  スタートから1㎞半ほどで海津市立城山小学校があります。その名の通りといってよいと思いますが、ここが駒野城跡。中世末期、美濃の守護職土岐氏により城が築かれ、その後西濃一帯を支配していた高木一族の居城となりましたが、関ヶ原の戦いの西軍敗北により廃城となっています。本丸曲輪とそれをとりまく土塁、二の曲輪の一部などが残っているそうですが、小学校の敷地内ですので、確認できませんでした。と書きつつ、こそっと校舎の裏手まで見に行ってしまいました。裏手には体育館やプールがあり、たぶんその向こうに遺構があると思われました。

Img_2927c_20230417175901  南門近くには、「しろやまこみち」と書かれた看板がありました。散策できるようになっていましたが、このあたり空堀とかがあったのかも知れません。小学校になっていますからやむを得ないのですが、城跡に行って遺構が確認できないのは残念です。

 以前はハイキング/ウォーキングの記事はとてつもなく長かったのですが、少しだけ反省して短めにします。それ故、その1はここまで。その2は、庭田貝塚、哲学と彫刻の広場から。

より以前の記事一覧

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  • 石田 光史, 樋口 広芳(ナツメ社): ぱっと見わけ観察を楽しむ 野鳥図鑑

    石田 光史, 樋口 広芳(ナツメ社): ぱっと見わけ観察を楽しむ 野鳥図鑑
    野鳥図鑑はすでに何冊も持っていますが、この野鳥図鑑は、2015年の刊行で、なぜ今までこの存在に気づかなかったと反省するほど便利そうなもの。掲載されているのは324種ですが、それぞれの特徴や、見わけのポイントがパッとわかるようになっています。その鳥の生活型や生息地、食性や羽色、形態などのほか、雌雄、夏羽冬羽、幼鳥などで特徴が異なる場合は、それらについても説明されています。観察したい行動から、おもしろい生態、探し方までもが載っていますし、鳥の鳴き声が聴けるQRコードも付いています。私自身、野鳥の特定がけっこうアヤシいので、しっかり活用しましょう。 (★★★★★)

  • 千枝大志(風媒社): 街道今昔 三重の街道をゆく (爽BOOKS)

    千枝大志(風媒社): 街道今昔 三重の街道をゆく (爽BOOKS)
    「東海の街道」シリーズの第4巻です。「街道歩きのお供に最適の1冊」といううたい文句。内容は、三重の主な街道、近世三重の城郭図・城下図を読み解く、お伊勢参り小咄、伊勢をめぐる〈参詣〉をデジタル化するの4章構成で、まさに三重の街道歩きの参考書としてよいと思います。私自身も県内の東海道、伊勢街道、美濃街道、濃州街道はほとんど歩き、ほかの街道も部分的に歩いていますし、城もここに載っているところはかなり訪ねています。デジタル化も、ブログに写真・記事を載せていますから、出来不出来はともかく、私も取り組んでいます。県内の街道はさらに歩こうと思っていますし、デジタル化にももっと取り組みたいと考えていますので、十分活用できるでしょう。 (★★★★★)

  • 唐沢孝一: 都会の鳥の生態学 カラス、ツバメ、スズメ、水鳥、猛禽の栄枯盛衰 (中公新書)

    唐沢孝一: 都会の鳥の生態学 カラス、ツバメ、スズメ、水鳥、猛禽の栄枯盛衰 (中公新書)
    都市にもたくさんの野鳥がいることを知る人は少ないかも知れません。私がいつも散歩している地方都市の公園では、これまで10年あまりで70種類近くの野鳥を観察しています。都会は自然の少ない人工的な環境にあふれていますが、野鳥たちはもともとの生態を活かしつつこれらにしたたかに適応してい生きています。この本では、カラス、ツバメ、スズメ、水鳥、猛禽を取り上げ、その都会における生態や、活動の変化、人間と鳥との関係とその変化などについて多くの実例や、調査結果をもとに、豊富な写真を使って楽しく読めるようにまとめられています。 (★★★★★)

  • 堤未果: 堤未果のショック・ドクトリン 政府のやりたい放題から身を守る方法 (幻冬舎新書)

    堤未果: 堤未果のショック・ドクトリン 政府のやりたい放題から身を守る方法 (幻冬舎新書)
    「ショックドクトリン」とは、テロや大災害など、恐怖でこくみんが思考停止している最中に、為政者や巨大資本がどさくさ紛れに過激な政策を推し進める悪魔の手法のことです。アメリカでの3.11以来、日本でも大地震やコロナ禍の裏で知らない間に個人情報や資産が奪われようとしているというのがこの本のテーマ。パンデミックで製薬企業は空前の利益を得、マイナンバーカード普及の先には政府のよからぬ思惑があるなどよくよく注意し、自分の生命・財産を守らないといけないというのが著者の主張。「今だけ、自分だけ、お金だけ」という強欲資本主義に負けないようにするには、ちょっとした違和感を大事にし、お金の流れがその裏にないか、また、それで大もうけして回転ドアをくぐって逃げる輩がいないかをチェックすることです。また、政府が何か、大急ぎで導入しようとしたり、既存の制度を急拡大しようとするときは、要注意だそうです。 (★★★★)

  •  奥山景布子: 葵の残葉 (文春文庫)

    奥山景布子: 葵の残葉 (文春文庫)
    いわゆる「高須四兄弟」である徳川慶勝、松平容保、松平定敬、徳川茂栄は、幕末維新の激動期に、結局のところ官軍と幕府とに分かれて戦う運命になったのですが、この四兄弟を取り上げて埋もれた歴史を活写した小説。私自身は、桑名藩主であった松平定敬が取り上げられているので興味を持って手に取った次第。幕末維新は、次々に色々な出来事が起きて、さまざまな人たちの思惑も複雑に入り組んでいるので、小説にするのは難しいと思っていたのですが、隠れた主人公ともいえる高須四兄弟の視点からとても躍動感のある読み物になっています。また、この時期の歴史をより一層深く理解できたという感想も持っています。 (★★★★)

  • 國分功一郎: 暇と退屈の倫理学(新潮文庫)

    國分功一郎: 暇と退屈の倫理学(新潮文庫)
    ほぼ隠居状態ですから、暇と退屈には困りません(微笑)。それ故にこの本を手に取ったといっても、誤りではありません。著者がいうには、「暇」とは何か、人間はいつから「退屈」しているのだろうかといったなかなか答えにたどりつけない問いに立ち向かうとき、哲学が役に立つというのが著者のスタンス。哲学書なのに、読みやすいのです。スピノザ、ルソー、ニーチェ、ハイデッガーなど、その昔学生時代に取り組んで挫折した哲学者たちの論考を参照しつつ、現代の消費社会における気晴らしと退屈について鋭い指摘がされ、まさに蒙を啓かれます。 (★★★★)

  • 逸見功: 統計ソフト「R」超入門〈最新版〉 統計学とデータ処理の基礎が一度に身につく! (ブルーバックス)

    逸見功: 統計ソフト「R」超入門〈最新版〉 統計学とデータ処理の基礎が一度に身につく! (ブルーバックス)
    今さら、なぜこういう統計ソフトの本を読むのか? と訝られると思うのですが、その昔、現役の頃には統計パッケージソフトIBM SPSSを使ってデータを分析して論文を書いていました。ただ、SPSSを始め、統計パッケージソフトは、値段がバカ高いのです。退職する前からこのRというフリーの統計処理ソフトが出て来て、ずっと興味を持っていました。先日、文庫本を買おうと思って本屋に行ったらこの本を見つけてしまいました(微笑)。今さらこれを使ってバリバリやる訳ではありません。むしろボケ防止かも知れませんが、昔のデータはそのままパソコンにありますから、これを使って、昔はやらなかった分析をしてみようと思っています。何か成果が出るかどうかは極めてアヤシいのですが、まぁゆるりといろいろやってみることにします。 (★★★★)

  • 林(高木)朗子, 加藤忠史, 林(高木)朗子, 加藤忠史: 「心の病」の脳科学 なぜ生じるのか、どうすれば治るのか (ブルーバックス)

    林(高木)朗子, 加藤忠史, 林(高木)朗子, 加藤忠史: 「心の病」の脳科学 なぜ生じるのか、どうすれば治るのか (ブルーバックス)
    たまにはこういう本も読まないと、認知機能が退化するかもしれないと思って(微苦笑)。というよりも、もともと神経心理学に興味がありましたので、本屋の店頭で見つけ、これは面白そうだと思って購入しました。うつ、自閉スペクトラム障害、ADHD、統合失調症、双極性障害など、現代人を悩ませる心の病について、脳にどのような変化が起きているか、最新の知見がまとめられています。最前線の研究者たちがわかりやすく説明しているのですが、知識ゼロで読むのはかなりキツいかも知れません。私は現役をリタイアして10年以上になりますが、その間にこれほど研究が進んだのかというのが正直な感想。心の病の原因は、1つとは限りません。心の病は「症候群」と見た方がよいと考えます。私自身が関わる自閉スペクトラム障害、ADHDなどの発達障害でもそうです。脳機能と心の病との関連について最新の知見を知りたい方にはおすすめ。 (★★★★)

  • 磯田 道史: 徳川家康 弱者の戦略 (文春新書)

    磯田 道史: 徳川家康 弱者の戦略 (文春新書)
    本の帯に「大河より面白い!」とありますが、本当にそうでした。午前中の散歩のついでに買ってきて、夕食までに一気に読み終えてしまいました。もったいない気がするくらい。松平元康がいかにして徳川家康になったか、さらに徳川将軍家がいかに続くよう礎を築いたかが、よく分かりますし、戦国時代から徳川幕府創世記までの歴史を見る目が養われる本です。それというのも、著者の磯田さんが古文書の権威で、一次史料を読みこなすだけでなく、場合によっては価値が怪しい資料まで傍証に用いて(怪しい資料でも使い道があるというのも良く分かりました)、ご自身の頭で考えた結果を実に分かりやすく解いてくれてあります。徳川家康の弱者の戦略のキーワードは、「武威」と「信頼」ということです。また、情報の取得、解読にも意を尽くしたことがよく分かります。混迷を深める世界情勢を読み解いて、我が国が進む方向を考える上でも役に立つ一冊。 (★★★★★)

  • 井手 正和: 発達障害の人には世界がどう見えるのか (SB新書)

    井手 正和: 発達障害の人には世界がどう見えるのか (SB新書)
    発達障害、とくに自閉スペクトラム症(ASD)の方では、感覚過敏や感覚鈍磨をよく伴います。「照明で目がチカチカする」「皆が話している教室では。音が鳴り響き絶えられない」「ケガをしてるのに、痛みを感じない」などさまざまな状況を呈します。著者は実験心理学や、認知神経科学を専門とし、ASDの方に見られる感覚過敏、感覚鈍磨は、脳機能の特性から来ていることを明らかにしてきています。ASDなど発達障害のあるご本人はもちろん、親御さん、教師など関わりを持つ方々は、このことをよく理解して支援にあたることがとても重要です。ASDを始めとして発達障害について、「わがまま」「自分勝手」「やる気がない」などと捉えてしまうと、支援どころか、理解もできなくなります。脳の働きによってさまざまなことが生じてきているという視点が必要不可欠です。この本は、感覚過敏・感覚鈍磨を手がかりにそういう視点について理解を深められます。 (★★★★)

  • 日本放送協会,NHK出版: NHK 100分 de 名著 中井久夫スペシャル 2022年 12月 [雑誌] (NHKテキスト)

    日本放送協会,NHK出版: NHK 100分 de 名著 中井久夫スペシャル 2022年 12月 [雑誌] (NHKテキスト)
    2022年12月のNHKのEテレ「100分de名著 中井久夫スペシャル」のテキストです。今頃(2023年2月)これをリストアップしているのはどうかという気もしますが、録っておいたビデオをみたのが最近なのです。中井久夫さんは、2022年8月にお亡くりになりましたが、日本を代表する精神科医のお一人であり、翻訳家、文筆家としても一流でした。現役の頃、中井さんの本はたくさん読みました。臨床心理学の分野でも「風景構成法」を導入した方として知られています。Eテレの講師である齋藤環さんは、中井さんを評して「義と歓待と箴言知の人」と書いておられますが、まさにそういう気がします。『最終講義』『分裂病と人類』『治療文化論』『「昭和」を送る』『戦争と平和 ある観察』が紹介されています。現在もウクライナで戦争が続いていますが、中井は「戦争は過程、平和は状態」とし、戦争は物語として語りやすく、とにかくかっこよくて美しい、それが問題だといいます。一方、平和は分かりにくく、見えにくいため、心に訴える力が弱いとします。「状態を維持する努力はみえにくい」のですが、戦争と平和に限りません。普段通りの日常生活を維持していくのも同じような気がします。戦争を経験していない人間が指導者層の多くを占めるようになると戦争に対する心理的抵抗が低くなるともいいます。「戦争には自己収束性がない」とも中井さんはいっています。われわれはやっかいな時代に生きていると痛感します。中井さんの本を多くの方が読むと、時代も変わるかも知れません。 (★★★★★)

  • 桑名三郎: 七里の渡しを渡った人達(久波奈工房)
    桑名と名古屋の宮を結んだ東海道唯一の海路「七里の渡し」をテーマにした歴史本です。船頭が旅人を案内しながら、七里の渡しを渡った歴史上の24人を紹介する内容。やさしい話し言葉で紹介されており、読みやすい本です。徳川家光、松尾芭蕉、明治天皇などが取り上げられています。著者は、桑名で歴史案内人をしながら、街の歴史を研究している、街道好きの方です。本は、桑名市内の書店とメルカリで¥1,200で販売。 (★★★★)
  • 磯田 道史: 日本史を暴く-戦国の怪物から幕末の闇まで (中公新書 2729)

    磯田 道史: 日本史を暴く-戦国の怪物から幕末の闇まで (中公新書 2729)
    磯田さんの本は面白い。というのも、話のもとには古文書があるからだと思う。その古文書も磯田さん自身が、古書店などで発掘してきたものがほとんどで、それ故、内容もオリジナリティが高くなる。この本は、戦国時代から幕末あたりを中心にさまざまな古文書の内容をもとに、例えば忍者の悲惨な死に方、江戸でカブトムシが不人気だった背景、赤穂浪士が吉良の首で行った奇妙な儀式などなど、興味深いエピソードを浮かび上がらせている。面白いので一気読みしてしまった。 (★★★★★)

  •  佐藤信(編): 新版 図説歴史散歩事典(山川出版社)

    佐藤信(編): 新版 図説歴史散歩事典(山川出版社)
    史跡や、寺社、町並み、城、美術工芸品等の見方がやさしく解説されている本です。「事典」となっていますが、いわゆる辞書とは違って、普通の本のスタイルです。索引が充実していますので、事典としても十分に使えます。最初の版をもっていますが、40年ぶりに改訂され、写真、図版も多く、歴史散歩の最強の味方です。 (★★★★★)

  • 日下部理絵: 60歳からのマンション学 (講談社+α新書)

    日下部理絵: 60歳からのマンション学 (講談社+α新書)
    今年1年、何の因果か(などと書くとお叱りを受けること必至ですが)、住んでいるマンションの管理組合の理事長を仰せつかっています。今年は、エレベーターリニューアル工事が最大のイベントで、それは無事に済んだのですが、前理事長から8年後に迫った第3回大規模修繕に向けて、修繕積立金が不足する見込みと申し送られました。確かにかなりの金額が不足しそうで、頭を悩ませていました。マンションに住みながら、そもそも基本的な知識が不足しており、管理会社のフロントマンの方の協力を得ながらシミュレーションなどをしていました。ネットであれこれ調べてはいたものの、それで得られる知識は体系的なものではありませんでした。この本は、事例を元にマンション管理について必要な知識が得られるように書かれており、まだすべて読み終えてはいないものの、とても役に立っています。任期残り2ヶ月半となって付け焼き刃ではあるものの、次の理事会に具体的に課題を申し送ることができるよう勉強中(笑)。 (★★★★)

  • 宮口 幸治: ドキュメント小説 ケーキの切れない非行少年たちのカルテ (新潮新書)

    宮口 幸治: ドキュメント小説 ケーキの切れない非行少年たちのカルテ (新潮新書)
    「ケーキの切れない非行少年たち」や「どうしても頑張れない人たち」の著者である宮口幸治さんの新刊です。前2著の内容をよりよく理解できるよう、「ドキュメント小説」として書かれたものです。主人公は、精神科医の六麦克彦。医局から派遣されて要鹿乃原少年院に勤務して5年。彼がそこで目にしたのは、少年院に堕ちてきた加害者ながら、あらゆる意味で恵まれず、本来ならば保護されてしかるべき「被害者」と言わざるを得ない少年たちでした。この内容は、前の2冊のように普通の新書では書き尽くせるものではなく、物語の形を借りざるを得なかったのでしょう。ただし、普通の小説として読むのには少し苦労するかも知れません。特別支援教育が普及して、知的障害や、発達障害のある子どもへの教育や支援は、以前に比べれば改善されてはいますが、最近は、家族の養護能力が十分でなかったり、親など家族自身に支援が必要なケースもたくさんあります。こうした中には、この本で取り上げられたような結末に至ることがあっても不思議ではないという気がします。極端な事例が集められていると思われるかも知れませんが、社会全体として真剣に取り組むべき課題が突きつけられています。 (★★★★)

  • 本田秀夫: 学校の中の発達障害 「多数派」「標準」「友達」に合わせられない子どもたち (SB新書)

    本田秀夫: 学校の中の発達障害 「多数派」「標準」「友達」に合わせられない子どもたち (SB新書)
    本田秀夫先生によるこのSB新書の4冊目のシリーズ。今回は、発達障害のあるお子さんの学校選び、学級選び、友達関係、学習や学力の悩み、不登校など、発達障害のあるお子さんの学校生活全般にわたって、どのような考え方に基づいてサポートしたら良いかについてまとめられています。それぞれ、親と先生とが、どのように取り組むことが基本となるか、解説されています。対策よりも予防的な工夫をコミュニケーション(要求ではなく)に基づいて行う、「学校の標準」を緩める、登校や成績を気にしすぎず、社会に出るための土台作りを考える、発達の特性には寛容になる、学びを大切にするが学力にこだわりすぎない、親と先生とが気づきを伝え合い相談、調整する、子どものモチベーションを重視するなど、具体的に書かれていて、分かりやすくなっています。発達障害のあるお子さんが小中学校で充実した学習が進められるための基本的な考え方やヒントが詰まっていますので、親御さんにも、先生方にもお勧めできます。 (★★★★★)

  • 佐々木秀斗: 小学生博士の神社図鑑 ぼくの近くにはどんな神さまがいるの?

    佐々木秀斗: 小学生博士の神社図鑑 ぼくの近くにはどんな神さまがいるの?
    サンドウィッチマン&芦田愛菜ちゃんMCの「博士ちゃん」に「三国志博士ちゃん」、「日本の神様博士ちゃん」として2回出演した佐々木秀斗君の自由研究を本にしたもの。何故これをここに取り上げたかというと、私のブログに載せた立坂神社の緑色の鳥居について、写真を提供して欲しという依頼が出版社からあったのです。私が提供した写真は、本書の162ページに「提供:猫の欠伸研究室」として載っています。ざっと読みましたが、大人でも、古事記や神社についてよく知らない方が、最初に手に取って基本的なことがらを知るには、わかりやすくて良い本だと思います。 (★★★★★)

  • 森 博嗣: 読書の価値 (NHK出版新書)

    森 博嗣: 読書の価値 (NHK出版新書)
    ネットで見つけ、新刊かと思って購入したのですが、4年前の本でした(微苦笑)。 若い頃に森博嗣さんの小説をすべて読んでいました。いつの頃からか、小説は読まず、森さんのエッセイだけを読むようになっています。「読書の極意を教える」と帯にはあります。もちろんそれについて書かれているのですが、私にはある種の知的生産の技術について著者の方法を開示していると読めます。「何でも検索できる時代にも、本を読む意味がある」というのは、よく首肯できます。また、「教養とは保留できる能力をいう」というのも確かにそうだと思います。自分の問題として抱続けられ、また、考え続けられるのは、容易ではありませんから。 (★★★★★)

  • 井川香四郎: 別子太平記 : 愛媛新居浜別子銅山物語 (文芸書)

    井川香四郎: 別子太平記 : 愛媛新居浜別子銅山物語 (文芸書)
    愛媛県新居浜市にあった別子銅山は、元禄3(1690)年、伝説の切上り長兵衛によって発見されてから、昭和48(1973)年の閉山まで、283年間にわたり、累計65万トンの銅を産出しました。これは、世界の銅の産出量の1/6にも達するといいます。巨大財閥住友の礎となっただけでなく、日本の貿易や近代化にも大きく貢献したのがこの別子銅山です。江戸時代には貨幣改鋳にも深く関わった世界屈指の鉱山を舞台に、そこに関わった人達を鮮やかに描いた、本当の意味での大河小説です。徳間時代小説文庫で読みました。  (★★★★)

  • 養老孟司, 池田清彦: 年寄りは本気だ―はみ出し日本論―(新潮選書)

    養老孟司, 池田清彦: 年寄りは本気だ―はみ出し日本論―(新潮選書)
    養老孟司先生と池田清彦先生の対談であれば、外れはありません。サブタイトルのように、「はみ出し日本論」ではありません。ど真ん中の日本論といってもよい本で、楽しみながら読めます。しかし、それは、自分のアタマできちんと考えているからこそ論じられる内容だと思います。常識や、マスコミで報道されることがらだけをフォローしていては、こういう風に考えることはできません。きちんとした理論、知識、データに基づかなければなりません。さらには、物事を捉える大きな枠組み、私の世代にとっては「パラダイム」といえるものが必要。それも、確固たるパラダイムが必要です。私にとってそれはある種の理想なのですが、なかなか難しい。しかし、まぁ、年寄りになったからこそ見えるものや、年寄りなりの知恵も働くようになるということもありますから、養老・池田の「怖いものなし」コンビを1つの目安として、言うべきこともいえるようになりたいものです。 (★★★★★)

  • 土井 善晴: 一汁一菜でよいと至るまで (新潮新書)

    土井 善晴: 一汁一菜でよいと至るまで (新潮新書)
    先に同じく土井善晴さんの「一汁一菜でよいという提案」を挙げましたが、入手したのはこちらが先。「一汁一菜でよい」というスタイルに至るまでの土井さんの修行、出会い、発見、迷いなどなどが書かれています。「家庭料理に失敗なんて、ない」、「すべては人を幸せにする料理に繋がる」というのが基本。具だくさんの味噌汁はおかずの1つになる。余裕があれば、食べたいものや、食べさせたいものをその都度調べてつくればよい。一汁一菜を入り口にして、一つ一つおかずをつくってみて、10種類ほどでもできるようになれば、それで幸せに一生やっていける。といった話があり、へぇーと感心させられました。これだけで健康に健やかに自足できるとも述べられています。一汁一菜なら、私にもできる、でしょうか?? (★★★★★)

  • 土井善晴: 一汁一菜でよいという提案(新潮文庫)

    土井善晴: 一汁一菜でよいという提案(新潮文庫)
    著者の土井善晴先生は、私と同世代。そして、私の世代にとってはあの土井勝さんの息子というイメージが強くあります。テレビなどにもよく出ておられ、なかなか面白い視点でものを見る人だなと思っていました。この本は,出版された当時(2016年秋)から知っていたのですが、手に取ったのはごく最近。文庫本を探していたのですがなかなか遭遇しなかったのです。「一汁一菜でよい」というのは、ご飯と具だくさんの味噌汁があればよいということです。家庭料理についての提案なのですが、実は、この本はもっと奥深いことを述べています。一言で言えば、日本文化や日本人の哲学について述べる中で、食や生活、生き方などについても論じられています。解説を書いておられる養老孟司先生は、それを「自足の思想」と表現していらっしゃいます。優しい、わかりやすい本ですが、実は奥が深い。著者の端正さもよく表れています (★★★★★)

  • 奥山 景布子: 流転の中将

    奥山 景布子: 流転の中将
    幕末の桑名藩主・松平定敬を描いた歴史小説。定敬は、実の兄で会津藩主である容保とともに徳川家のために尽くそうとしたものの、最後の将軍・徳川慶喜に振り回され、裏切られてしまいます。定敬は、それでも抗おうとしたのですが、国元の家臣たちはいち早く恭順を決め、藩主の座も追われてしまいます。朝敵といわれ、越後、箱館から上海まで流浪した定敬の波乱に満ちた人生と、秘めたる思いが生き生きと書かれています。定敬については、歴史講座で学んだり、本で読んだりしてきましたが、小説家の手にかかるとこのように立体的に、活き活きと動き出すものなのだと実感します。 (★★★★★)

  • サトウタツヤ: 臨床心理学小史 (ちくま新書)

    サトウタツヤ: 臨床心理学小史 (ちくま新書)
    たまには専門のアカデミックな本も取り上げます(微笑)。本屋でみつけ、購入。この本は、同じ著者が東大出版会から昨年刊行した「臨床心理学史」で果たせなかったことを果たそうと構想されたもの。果たせなかったのは、日本の臨床心理学史に触れることと、コンパクトな歴史記述だそうです。東大出版会の本は、読んでみたい気もしますが、¥7,000もしますし、内容もハードそうです。こうして臨床心理学の歴史を俯瞰してみますと、やはり実験心理学を抜きにしては臨床心理学も語れないといえます。私個人の考えでも、臨床心理学を学び、実践するには、実験心理学を学び、実験・調査などの方法で研究をした経験が必須です。臨床心理士、公認心理師の資格に関わり、心理学を志す人は多く、また、大学でも臨床心理学部や臨床心理学科もあります。しかし、私は、自分自身の経験からもやはり、実験心理学などの基礎心理学を抜きにして、臨床心理学は成り立たないと考えますし、学生も実験心理学を含めた基礎心理学を、少なくとも学部段階ではきちんと修得した方がよいと思います。本書を読んで、その考えはいっそう強くなりました。 (★★★★★)

  • 昭文社 旅行ガイドブック 編集部: 三重のトリセツ

    昭文社 旅行ガイドブック 編集部: 三重のトリセツ
    本屋に別の本を買いに行って見つけ、即買い(微苦笑)。私の好むタイプの本です。三重県の地形や地質、歴史、文化、産業などを、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント本。地図も歴史も文化も好きなのです。地図で読み解く三重の大地、三重を駆ける充実の交通網、三重の歴史を深読み!の3部構成。2017年11月にたまたまみつけたJRさわやかウォーキング「~四日市市制120周年記念~ 家族みんなで楽しめる四日市旧港街歩き」に行って以来、JRさわやか、近鉄ハイキング、勝手にハイキングで県内や近郊のあちこちに電車で行って電車で帰るハイキング/ウォーキングをしています。それによって訪ねたあちこちのことが改めてまとめられていて、とても楽しめます。各県のバージョンが出ているようです (★★★★★)

  • 磯田道史: 歴史とは靴である (講談社文庫)

    磯田道史: 歴史とは靴である (講談社文庫)
    歴史家・磯田道史さんが、鎌倉女学院高校で行った特別授業の記録と、ビリギャルの小林さやかさんなどとの対談を収めてあります。基本的には、「歴史の見方」についての本なのですが、それに留まりません。ものの見方、考え方を説いた内容です。むしろ、ものの見方、考え方を学びたい方にお勧めしたいと思うくらいです。ちなみに、タイトルは、「歴史は好きか嫌いかの嗜好品ではなく、安全に世の中を歩くためのむしろ実用品である」という意味です。これは、歴史の見方について、あまりよく理解されていないポイントと思います。講義録ですから、読みやすく、しかも大変おもしろい本です。 (★★★★★)

  • 久住 祐一郎: 江戸藩邸へようこそ 三河吉田藩「江戸日記」 (インターナショナル新書)

    久住 祐一郎: 江戸藩邸へようこそ 三河吉田藩「江戸日記」 (インターナショナル新書)
    この著者の前著「三河吉田藩・お国入り道中記」で読んだ、三河吉田藩(豊橋)の参勤交代の話も大変おもしろく読めましたし、江戸時代の藩邸の様子、殿様や家臣の仕事、暮らしなどに興味があったので、読んでみました。三河吉田藩に残る「江戸日記」などの古文書から、江戸の大名屋敷がどのようなところであったか、江戸で働く武士の状況、江戸の藩邸で起きた事件のいろいろ、藩邸の奥向きの様子、さらには、明治維新後の藩邸から子爵邸への変化について、リアルな武士の暮らしのもろもろがまとまっていて、とても興味深く読めました。三河吉田藩は、現在の愛知県豊橋市にあり、松平伊豆守家が長く藩主を務めています。松平伊豆守家は、「知恵伊豆」の異名を持つ松平伊豆守信綱を初代とし、忍藩、川越藩、古河藩、吉田藩、浜松藩と国替えを繰り返した後、寛延2(1749)年から明治維新まで三河吉田を治めています。 (★★★★)

  • 安藤 優一郎: 江戸の旅行の裏事情 大名・将軍・庶民 それぞれのお楽しみ (朝日新書)

    安藤 優一郎: 江戸の旅行の裏事情 大名・将軍・庶民 それぞれのお楽しみ (朝日新書)
    サブタイトルに「大名・将軍・庶民 それぞれのお楽しみ」とあり、さらに、オビには「300年前は えっ!? 今よりもっと愉快な旅行天国」ともあります。ただし、旅行を心から楽しめたのは、庶民に限られていたようです。参詣者を増やしたい各地の寺社、温泉、宿泊業者が積極的に営業したからです。一方、武士や大名は、トラブルメーカーだったといいます。公用で旅行したり、参勤交代したりなのですが、宿泊料のダンピング、備品の破壊などなどトラブルをまき散らしながらの旅であったり、権威を笠に着たりで、あまり歓迎されなかったようです。江戸時代の旅のエピソード満載で、楽しめる本です。 (★★★★)

  • 藤田 和弘, 熊谷 恵子, 熊上 崇, 星井 純子, 熊上 藤子: 心理検査のフィードバック

    藤田 和弘, 熊谷 恵子, 熊上 崇, 星井 純子, 熊上 藤子: 心理検査のフィードバック
    この本は、WISC-ⅣやKABC-Ⅱなどの知能検査の結果(アセスメント情報)を「子どもの自立と社会参加」により役立つものにしていくには、どのように伝えたらよいか(フィードバック)についてまとめられています。過去には、保護者、学校の担任、子どもたち自身に知能検査の結果を伝えることはされていませんでした。しかし、現在では、苦戦している子どもたちが、自分のことを理解し、自分なりにも工夫して、学習や生活スキルを向上させ、将来の自立と社会参加につなげるために、知能検査の結果(アセスメント情報)を子どもたち自身にも伝えるようになってきています。私も、相談では、お子さんに直接、フィードバックを行い、子どもたち自身が自己理解を深め、意欲的、積極的に取り組めるようにしています。この本は、子どもと支援をつなぐ、支援者をつなぐという視点から、心理検査のフィードバックについて基礎から応用、事例を含んでその全体像を把握できる、優れたものとなっています。 (★★★★★)

  • 新潮文庫: 文豪ナビ 藤沢周平 (新潮文庫)

    新潮文庫: 文豪ナビ 藤沢周平 (新潮文庫)
    藤沢周平の作品案内、小説に見られる名言集、映像化された作品の出演者や、関係者による評伝などによって藤沢周平の作品についてすべてとはいいませんが、かなりが分かります。私は、藤沢周平の小説が好きで、たぶんほとんど読んだと思います。ただそれは、15~6年以上前のことで、リストアップもしていませんから、すべて読んだかどうかについては、不確か。こういう本を読むと、もう一度読もうかという気になります。この本では、娘の遠藤展子さんの「父にとっての家族」がもっとも興味深く読めました。また、藤沢周平の言葉で私が気に入っているのは、「普通が一番」です。ほかにも、「挨拶は基本」「いつも謙虚に、感謝の気持ちを忘れない」「謝るときは素直に非を認めて潔く謝る」「派手なことは嫌い、目立つことはしない」「自慢はしない」という言葉が、遠藤さんが父から言われて心に深く残っていることばだそうです。 (★★★★)

  • 千正康裕: 官邸は今日も間違える(新潮新書)

    千正康裕: 官邸は今日も間違える(新潮新書)
    新型コロナのまん延にともなって、政治的な判断や、もろもろの政策は、迷走したといってもよいと思います。突然の全国一斉休校要請、いわゆるアベノマスクの配布や、閣議決定をやり直した一律給付金など、なぜああいうドタバタになるのか、国民の信頼が得られなかったというか、失ったというのか、ずっと疑問を抱いていました。著者は、元厚生官僚で、社会保障・労働分野で仕事をし、現在はコンサルティング会社を経営。この本では、最近のコロナ禍での出来事の背景を記述する中から、官僚主導から官邸主導への変化に、政治の仕組みの変化がついて行けていないからだとしています。これに関して、政治家、官僚ともに仕事のやり方を変えることが必要であるとともに、国民の側にも良い政策をつくるためには望まれることがあるといいます。 (★★★★)

  • 嶋田 哲郎, 森本 元: 知って楽しいカモ学講座 : カモ、ガン、ハクチョウのせかい

    嶋田 哲郎, 森本 元: 知って楽しいカモ学講座 : カモ、ガン、ハクチョウのせかい
    「観察するのが面白くなる! ガンカモ類のひみつ」というキャッチコピーです。私がほぼ毎日散歩に行く九華公園の堀には、秋が深まるとカモたちがやってきます。キンクロハジロが最も多く、次いでハシビロガモ。他にはヒドリガモやホシハジロも数少ないものの来ています。カルガモ、カイツブリ、オオバンなども来ることがあります。これらカモやその仲間、近縁種についてもっとよく知り、観察のポイントを増やしたいと思って、この本を読んだ次第。著者は、宮城県の伊豆沼・内沼をフィールドとする専門の研究者。形態的な特徴と行動との関連性、渡り、繁殖地での暮らし、越冬地での生活など、ガン・カモ類について、ちょっと専門的な部分も多いものの、一通りの知識を得られ、また、行動観察などの方法についても知ることができました。 (★★★★)

  • 田中優子: 遊廓と日本人 (講談社現代新書)

    田中優子: 遊廓と日本人 (講談社現代新書)
    「江戸学の第一人者による「遊郭入門」の決定版!」と帯に書かれていて、ついつい手に取ってしまいました。遊郭にはとても興味があります。などと書くと「好色な人物か」と思われるかも知れません(苦笑)。遊郭や遊女は、今日の人権やジェンダーの観点からすると、許されない存在です。これは間違いのないことですが、一方で、たとえば、江戸時代の吉原遊郭の花魁と呼ばれたようなハイクラスの遊女は、高い教養を持ち、芸事や生け花、茶道にも通じていました。ある意味で日本文化の守り手でもあったという面も持っているのです。こうした観点から著者は、「遊郭は二度とこの世に出現すべきではなく、造ることができない場所であり制度である」と述べています。ちなみに、「好色」ということばの意味は、平安時代以来、和歌や琴、舞などの風流、風雅を好む人を「色好み」と呼んでいたことによります。「色」には恋愛や性愛という意味もありますが、もともとは恋愛と文化的美意識が組み合わさったものだそうです。 (★★★★)

  • 養老孟司: ヒトの壁(新潮新書) 「壁」シリーズ

    養老孟司: ヒトの壁(新潮新書) 「壁」シリーズ
    養老先生が、コロナ禍の2年間でお考えになったことの集大成です。新型コロナウイルス感染症が蔓延し始めた頃、NHKのBSの番組「まいにち 養老先生、ときどき まる」だったかで、「老人は、もともと不要不急の存在だ」とおっしゃった気がしますが、この本は「人生は不要不急か」という章から始まっています。これがたぶんコロナ禍や、養老先生ご自身のご病気(心筋梗塞)を経験し、お考えになった結論の1つ。さらに、不要不急の人生ではあるものの、それでも生きる価値はどこにあるか様々な視点から考察されています。「人生とはそんなもの」と思いつつ、自分に居心地の良い場所をつくりながら、万事テキトーに終わるのが良さそうです。 (★★★★★)