お知らせ

  • データの移行について
    2005年10月26日のブログ開始当初から、2025年3月31日までの記事は、「猫の欠伸研究室(アーカイブ)」に移行しました(http://blog.livedoor.jp/taichimaru151/)。 このココログの「猫の欠伸研究室」には、2020年1月以降の記事を残し、2019年12月以前の記事は削除しました(2020年1月1日から2025年3月31日までの記事は、両方にあります)。

レンズを通した自然観察

  • この「レンズを通した自然観察」ということばは、恩師のお一人が、私の趣味を形容しておっしゃったものです。2023年2月7日のブログに書きましたが、実はときどき思い出していることばです。お世話になった先生方はたくさんいらっしゃいますが、この恩師は、就職のことから学位論文の執筆、審査に至るまで本当にお世話になった先生です。「写真の撮り方を指南してもらいたい」ともおっしゃったのですが、これはお世辞と理解しています。私はほぼ隠居状態となって10年以上になりますが、今、改めてこのことばをかみしめています。この先生には結婚式の際に「理論と臨床をつなぐ仕事をするように」ということばをいただきました。体調を崩してそれには十分に応えられませんでしたので、せめてこの「レンズを通した自然観察」については、極めるとまでは行かないにしても、もう少し精進したいと考えています。

ブログ名の由来

  • ブログ名の「猫の欠伸研究室」は、中日新聞の夕刊に連載されている「紙つぶて」というコラム(平成22(2010)年1月13日)に、元新党さきがけ代表の武村正義さんが書いていらっしゃった「人生は猫の欠伸である」というコラムによります。武村さんは、“チベットで鳥葬を取り仕切る僧侶が、「人の生涯は猫の欠伸のようなもの」と語った”と書いていらっしゃいます。「猫の欠伸のようなもの研究室」としたかったのですが、ちょっと間延びしますので、「猫の欠伸研究室」とした次第です。「研究室」とつけたのは、過去、大学に勤めていたことがあるということやら、知らないこと、分からないことがあると何でも調べずにはいられない性分であること、屁理屈、講釈が大好きであることからであります。しかし、「人生の研究をしている」のではありません。「大所高所」からのご高説を開陳できるほどの力量はないが故、「小所低所」からの戯れ言をつぶやくのが精一杯(苦笑)。身の程に合わせ、勝手なことを書き綴っていますので、御用とお急ぎでない皆様には、今後ともご交誼のほど、お願いいたします。是非ともコメントを頂戴し、少しでも世間を広げたいと熱望しております。

モットー

  • 座右の銘というほど立派なものはありませんが、過去に体調を崩し、療養生活を送った経験から、私なりのモットーをつくっています。その一つは、「淡々と飽きもせず……」です。自分では、「……」と余韻を残しているところが気に入っています。こだわりすぎや、やり過ぎはよくありません。若い頃はムキになってやったこともありますが、今はこのように「淡々と飽きもせず……」が自分に合っていると思っています。もう一つは「晴耕雨読」ならぬ「晴歩雨読」です。マンション暮らし故、耕すところはありません。代わりに歩いています。そして、最近(令和3(2021)年に入った頃から)追加したのが、「散歩生活、ときどき仕事」。NHKのテレビ番組に「晴れ、ときどきファーム!」というものがあります。これのもじり。浅学非才の身ですので、ご交誼の上、いろいろとご教示をお願いします。

城・城跡

2025年2月 6日 (木)

20250206近鉄あみま倶楽部ハイキング「七里の渡・大福田寺コース」へ(一回完結)

Img_9006c_20250206163101  今朝は冷えました。-1.2℃と今シーズン最低。あちこちで氷が張っているのを、この冬、初めて見ました。最高気温は、7.0℃。今日は、「朋あり遠方より来たる」(論語)ではありませんが、名古屋から大学時代の同級生である友人が、「桑名散策に行きたい」ということで来てくれました。近鉄あみま倶楽部のアプリ対応コースに「七里の渡・大福田寺コース」がありますので、このコースを歩くことに。実は、最近、同級生K氏とのウォーキングに行けていませんので、自分であみま倶楽部のハイキングコースでも歩こうかと考えていたところで、まさに「渡りに舟」。

250206kuwanawalkingmap  こちらが、近鉄あみま倶楽部の「七里の渡・大福田寺コース」にならってつくったコースマップ。桑名駅東口から、海蔵寺、本統寺、寺町商店街、六華苑、住吉神社、七里の渡跡、九華公園、春日神社、大福田寺、照源寺を回って、桑名駅西口がゴール。9時過ぎにスタートし、春日神社から大福田寺に行く途中、昼食を食べ、桑名駅西口には14時前にゴール。私にとっては、勝手知ったるところですから、mamekichiバージョンの「ブラ桑名」のようなもの。以下、主な立ち寄り先を簡単に。

Img_8926c Img_8937c  海蔵寺は、曹洞宗のお寺。ここには、いわゆる薩摩義士の墓所があります。宝暦3(1753)年、幕府より薩摩藩は揖斐・長良・木曽三大河川工事を命ぜられました。宝暦5(1755)年、工事は完成しましたが、多くの犠牲者と巨額の経費がかさんだことの責任感から、工事総奉行平田靭負は自刃しました。これら義士の墓所は岐阜・三重県下14ヶ寺に埋葬され、ここには平田靭負他23基の墓石が現存しています。

 本統寺は、真宗大谷派桑名別院。地元では、「御坊さん」と呼ばれ、親しまれています。Img_8949c_20250206153701 Img_8946c_20250206153701徳川家茂や明治天皇が宿泊した由緒あるお寺で、境内には、松尾芭蕉が貞享元(1684)年、野ざらし紀行の初旅の折り、この地で詠んだ句「冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす」の句碑(冬牡丹句碑)が建てられています。

 このあと、寺町商店街、三崎見附跡、諸戸氏庭園前、桑名七里の渡し公園を経て、六華苑へ。Img_8970c国の重要文化財・名勝。洋館とそれに連なる和館、複数の蔵などの建造物と池泉回遊式日本庭園があります。実業家の2代目諸戸清六の新居として、1911年(明治44年)にジョサイア・コンドルの設計で着工し、1913(大正2)年に竣工しました。コンドルが設計した現存建造物の大半は東京に集中しており、地方では桑名市のみに現存しています。

 住吉神社を経て、七里の渡跡へ。Img_8973c_20250206153701熱田・宮の渡しから海上七里を船に乗り、桑名の渡しに着いたことから「七里の渡し」と呼ばれています。当時は、東海道の42番目の宿場町として賑わいました。この鳥居は、これより伊勢路に入ることから「伊勢国一の鳥居」と称され、伊勢神宮の遷宮ごとに建て替えられています。

Img_8981c_20250206153701  本多忠勝像のところから九華公園へ。このあたりは、毎日の散歩コースです。本多忠勝は、桑名藩初代藩主。慶長の町割を実施するともに、桑名城をつくり、現代にもつながる桑名の町のもとをつくったといえます。桑名城址に整備されたのが、九華公園。昭和3(1928)年に松平定信(守国公、楽翁)没後百年祭を記念して、本丸・二之丸一帯が九華公園として整備されたものです。

Img_8995c  続いては、桑名宗社(春日神社)。地元では、「春日さん」と呼ばれています。桑名神社と中臣神社の2つの神社からなっています。石取祭は、ここのご神事。門前には、青銅の鳥居があります。これは、寛文年間(1661~1673年)につくられたもの。

Img_8998c 250206114606420c  春日さんのあたりで11時半前でしたので、どこかでランチをということになり、寺町商店街の南口にある「てらまちダイニングUOSUE」さんへ。1階で魚屋さんを営んでおられ、2階が食事のできるお店になっています。1度来てみたかったのですが、一人では敷居が高かったのです。

250206114555387c  魚屋さんですから、刺身定食をチョイス。カンパチ。定食にしていただくと、これで¥1,375。美味しい上にこの値段は、かなりお得です。

Img_9002c  1時過ぎにウォーキングを再開。桑名駅方面に向かいます。駅西に行くのに、こちらの踏切を渡りました。3種類の幅の線路を一またぎしています。手前から(西側から撮っています)、近鉄名古屋線(広軌)、JR関西線(狭軌)、三岐鉄道北勢線(ナローゲージ)。踏切の名称は、それぞれの鉄道会社で異なっており、近鉄名古屋線は益生第4号踏切、JR東海関西線は桑名駅構内踏切、三岐鉄道北勢線は西桑名第2号踏切。これらを横断し、レールの幅を実際に見て体感できます。

Img_9016c  大福田寺。高野山真言宗のお寺。聖徳太子創建と伝えられます。山門は、江戸時代建立といわれるもの。毎年2月3日には節分祭、4月1日・2日には日本三大聖天の一つ桑名聖天大祭が行われ、2日には伊勢大神楽の奉納が行われます。節分祭では、鬼が市内を練り歩く鬼追い厄払いがあります。今年も、我が家の近くで、螺貝の音が聞こえていましたので、「大福田寺の鬼追い」が来たなと分かります。

 Img_9023c 大福田寺の境内で、白梅がかなり咲いていました。このあたり、昔はときどき散歩をしたのですが、最近はすっかりご無沙汰。いつもの散歩コースでは、常信寺の紅梅がもっとも早く咲くのですが、それよりこの白梅の方が早く咲くと思われます。

Img_9050c_20250206153701  最後の目的地は、照源寺。浄土宗。久松松平家の菩提寺。寛永元(1624)年、桑名藩主松平定勝が死去したため、その子定行が創建しました。定行は伊予松山へ移封しましたが、弟定綱が藩主を継いだので、松平家の菩提寺として存続しました。「松平定綱及び一統之墓所」(県指定文化財)には藩主ら二十八基の墓石があります。境内には定綱が摂津の天台宗金龍寺から分植した金龍桜があります。

Screenshot_20250206143223c  「七里の渡・大福田寺コース」のウォーキングは、このあと桑名駅西口で完了。こちらは、Google Fitのデータ。約6キロのコースですが、自宅~桑名駅往復を含め、なんと12.1㎞も歩いていました。歩数も2万歩を超え、驚き。

Screenshot_20250206140719c Screenshot_20250206140816c  このコースは、初めの方にも書きましたが、あみま倶楽部のアプリ対応コースでしたので、デジタルスタンプも集めてきました。踏破証もこれで5つになったのですが、有効期限内のものは、3つ。これで交換できるのは、オリジナルステッカーです(微苦笑)。

【付記(2/7)】 2月7日の中日新聞朝刊三重版に「六華苑の池で浚渫作業が行われていて、いつもは池の底にある、第2次大戦中に投下された爆弾の痕跡が見られる」という記事が載っていました。そういえば、池の中央あたりに直径数mの跡がありました。それが爆弾であいた穴をふさいだところだったようです。六華苑には「浚渫作業をしています」という掲示はあったと思うのですが、受付などにもこの爆弾の跡が見られるとでも示しておいてくれたら、皆さん、興味を持ってみられたんじゃないかと思います。

2025年1月 6日 (月)

2025年元旦に歴史散歩ならぬ、歴史ドライブへ……伊勢奥津駅、北畠神社、君ヶ野ダム(本編、一回完結)

Img_7830c_20250101162901  元旦の午後からドライブがてら、新年初の歴史散歩に出かけました。といっても、あまり歩いてはいません。強いていうならば、「歴史ドライブ」(笑)。まずは、こちら。「どちら?」と聞かれるでしょうが、JR名松線伊勢奥津(いせおきつ)駅です(津市美杉町奥津)。名松線は、雲出川の渓流沿いを走るローカル線で、当初は、名張と松阪を結ぶ計画でしたから、両市の頭文字をとって名松線と名付けられまし。しかし、名張にまで延伸できず、往時の計画をしのばせる名前となっています。赤字83線として廃止勧告対象となり、特定地方交通線第2次廃止対象線区にも選ばれていましたが、岩泉線とともに代替道路未整備を理由に廃止対象から除外されました。平成26(2014)年に岩泉線が廃止されて以降は、JRが運営する唯一の特定地方交通線元対象線区です。平成21(2009)年、台風18号により甚大な被害を受け、JR東海は部分廃止・バス転換を打ち出したのですが、沿線自治体の支援により平成28(2016)年3月26日に運行が再開されています。

Img_7947c_20250101162901  Img_7962c_20250101163001 というように、名松線は、超ローカル線。伊勢奥津駅は、名松線の終点。松阪駅発の伊勢奥津方面行きは、1日8本。すなわち、2時間に1本。始発は、7時32分の家城(いえき)行き。終電は、21時27分の家城行き。伊勢奥津の始発は5時56分の家城行き。終電は、18時58分発の松阪行きで、こちらも1日8本なのです。時刻表は、こちら

Img_7773c_20250105170301  こんな超ローカル線にいったい何をしに行ったのかというと、左の写真に写っている給水塔を見に行ったのです。昨年末、この給水塔が国の登録有形文化財に指定されましたので(こちら)、一度見たいと思ったのです。蒸気機関車(SL)に水を注ぐために使われていたもので、約90年前に設置された鉄道遺産です。

Img_7987c_20250101163001  名松線を走っているのは、キハ11型。ローカル線用の軽快気動車。撮影したのは、伊勢奥津駅14時33分着。1両のみです。

Img_7802c_20250105171201  伊勢奥津駅についたのは、13時45分頃。時刻表を調べたら、次に来るのは、上記のように伊勢奥津駅着14時33分でした。せっかく来たので、車両も入れて写真を撮ろうと思い、待つことにしました。その間、駅舎や、駅周囲を探訪。駅には、観光交流施設ひだまりや、津市の八幡出張所が併設されています。

Img_7826c Img_7847c  名松線を守る会と、名松線を元気にする会とがあり、いろいろな活動をしておられます。伊勢奥津駅にも、昔の写真が掲示されていたり、自由に書けるノートが置かれていたりします。あちこちで鉄道が、利用者減少にともない、廃線になっていますが、個人的には、鉄道や、学校は廃止すると、その地域の衰退に直結するような気がしています。

Img_7839c_20250105171201  駅舎の向かいには、こんな建物があります。「日通跡」という小さな看板があります。日通は、日本通運。昔は、国鉄だけでなく、私鉄の主な駅の近くには、必ず日通の営業所がありました。私の郷里でもそうでした。○に通の字がマークでしたから、「マルツウ」と呼んでいました。

Img_7835c  駅舎の東には、川上若宮八幡宮への道標が建っています。「是ヨリ五十丁」とあります。1丁(1町)は、109.1mですから、約5.5㎞。川上若宮八幡宮へも行きたかったのですが、この日はパス。

 ここはまた、伊勢本街道の奥津宿であったところ。Img_7861c 伊勢奥津駅の南を伊勢本街道が通っています。街道歩きに興味がある私にとっては、魅力的なところ。

Img_8009c_20250101163001 Img_8045c  とあちこちウロウロしているうちに、松坂から来る伊勢奥津行きのディーゼルカーがやってくる時間となりました。給水塔にキハ11型を入れた写真や、キハ11型のズーム写真も撮り、伊勢奥津駅を後にすることにしました。

Img_7939c_20250105185001  ちなみに、待っている間にイソヒヨドリのメスと、ジョウビタキのオスが登場。イソヒヨドリは、最近、内陸に進出しているとはいえ、もっとも近い海辺(松阪港あたり)で、27㎞ほどもある、山の中にいるとは驚き。

Img_8148c_20250101163001  伊勢奥津駅から、北畠神社へ(津市美杉町上多気)。国の史跡「多気北畠氏城館跡」に鎮座し、初代伊勢国司として南朝奉護に尽くした北畠顕能を主祭神とします。建武中興十五社で唯一、近世以来の由緒を持ちます。

Img_8075c_20250101163001  由来書によれば、北畠具房の4代孫鈴木孫兵衛家次が寛永20(1643)年3月、旧縁の地に小祠を設けて北畠八幡宮と称したのが創祀といいます。ただし、当初は八幡神の勧請のみで、顕能を奉祀したのは元禄年間(1688~1704年)に下るとの説もあります。やがて八幡三神に倣い、北畠親房顕家を合祀します。明治14(1881)年11月、村社北畠神社に改称。昭和3(1928)年10月、社殿を新造して主神を遷座し、11月10日、別格官幣社に昇格。別当寺の真善院が現在の庭園の位置にありましたが、天保11(1840)年春に火災に遭い、再興しないまま、明治31(1898)年に廃絶。 神社は、奥一志の多気(たげ)御所として栄華を誇った伊勢国司の北畠顕能を祀っている、「太平記」ゆかりの神社でもあります。

Img_8059c_20250106081901  境内には、北畠氏館跡庭園(国史跡・名勝)という、枯山水と池泉回遊式を組み合わせた室町期の名園があります。また、神社の後方の標高560mの山頂を中心に、霧山城跡(国史跡)があります。南北の曲輪群に分かれ、堀切と土塁の遺構が残っています。築城は顕能が多気の地へ移った14世紀中頃と考えられています。 これらにも行ってみたいと思いますが、霧山城跡は急な勾配のところもあって、簡単には登れなさそうです(こちら)。写真は一の鳥居をくぐったところ。右手が神社と庭園への道、左手は霧山城跡へ登る道。

Img_8083c_20250101163001 Img_8092c_20250106081501  写真は、花将軍とも呼ばれた北畠顕家公の像。境内には、ほかに北畠顕能の歌碑がありました。伊勢国司のときに詠んだもので、新葉和歌集に入っています。

 いかにして伊勢の浜荻ふく風の治まりにきと四方に知らせむ

Img_8152c  いずれにしても、下調べも何もせずに出かけましたので、名松線、北畠神社、北畠氏城館跡庭園、霧山城跡などは、きちんと調べて、出直したいところです。

Img_8157c_20250101163001  最後は、君ヶ野ダムを回ってきました。八手俣川(はてまたがわ)にかかるダムで、水量が増えた場合、流れ込む水をダムに貯え、下流の雲出川の水位上昇を抑制し、下流域を洪水から守る役割を果たしています。ここには、レイクサイド君ヶ野という宿泊施設があり、若い頃に一度泊まったことがあります。

2025年1月 5日 (日)

20250105近鉄ハイキング酒蔵みてある記 伊藤酒造「鈿女」へ(一回完結)

 Img_8502c_20250105151201 朝は、この冬初めての氷点下になりましたが(-0.3℃)、日中は風も弱くて、暖かくなり(10.2℃)、絶好のハイキング日和でした。予定通り、近鉄ハイキングの「酒蔵みてある記 伊藤酒造『鈿女』」へ行って来ました。桑名駅を9時2分に出る松坂行き急行に乗り、四日市駅に9時15分着。ここで湯の山線の湯の山温泉行き(9時29分発)に乗り換え。菰野駅に9時48分に到着。¥560。湯の山線の電車も、菰野駅も大賑わい。今回は、一人旅。記事は、一回完結。

Img_8506c 250105kintetsuhikingkomono  こちらが今日のコースマップ。番号がついていますが(伊藤酒造で抽選会があるのです)、私のものは#199。菰野駅をスタートし、明福寺、菰野城跡、見性寺と回って、伊藤酒造で酒蔵見学。ゴールは、同じ湯の山線の桜駅。マップ上、約6㎞のコース。右は実際に歩いたルートマップですが、今日は、道草は食っておりません。10時過ぎにスタート。

Img_8530c Img_8546c_20250105151301  最初の立ち寄り先は、菰野駅から400m足らずのところにある発起山明福寺(ほっきざんみょうふくじ)。真宗大谷派。開基の法欽は、大和国高市郡越智の出身で、 永正(1504~1521年)の頃に伊勢へと移り住み、菰野に念仏道場を開きました。教如に帰依して、寺号、本尊、親鸞影絵を授与されています。享保(1716~1736年)の頃に山門と鐘楼を建立。本堂は安政元(1854)年の大地震にて倒壊後、再建されました。文化11(1814)年には、測量に訪れた伊能忠敬がこの寺に宿泊したそうです。

Img_8538c Img_8542c  本堂に安置されている薬師如来/阿弥陀如来像は円空による作。一材の両面に二仏が掘られた「両面仏」と呼ばれる珍しいもので、延宝2年(1674年)の作。13世住職であった賢竜の弟・大正が明治初年の廃仏毀釈により、像が伝来していたものの、廃寺となった伊勢の常明寺から譲り受けて、明福寺へと持ち帰ったものです。昭和36(1961)年には、俳人の山口誓子が当寺の住職に招かれて寺を訪れ、円空仏に感銘を受けて句を詠んでいます。句は、「円空仏外に出で来て枯銀杏」。昭和51(1976)年に建てられたその句碑があります。

Img_8573c_20250105151301 Img_8577c_20250105151301  次の立ち寄り先は、菰野城跡。菰野城は、菰野藩一万二千石の大名土方氏の代々の居城でした。現在は菰野小学校の敷地になっており、西側と北側に城壕に一部と築地が遺り、藩邸の庭園の一部が西南の隅に僅かながら名残をとどめ、そこに菰野城跡の碑があります。また、西南を流れる振子川に面して、角櫓跡があり、その東方に石積の遺構の一部があります。ここは、私は何度か訪ねています(2023年11月25日:20231125「菰野ウォーキング」(予告編))。

Img_8587c_20250105153201 Img_8596c  菰野城跡の先、国道306号のところでほぼUターン。湯の山線の踏切がありますが、このあたりが菰野城の隅櫓跡。その先に洗心教団の本部があります。その前に道標。「右 ゆ乃山?」と刻まれています。みえの歴史街道の菰野道の説明によれば、ここは、昔の「湯の山道」と呼ばれる道と思います。

Img_8625c_20250105151301  続いて、真如山見性寺。臨済宗妙心寺派。菰野藩土方家の菩提寺として、寛永21(1644)年に菰野藩第2代藩主・土方雄高(かつたか)が三霊禅師を尾張国より招き、この地に創建したのが始まりといいます。寛文9 (1669)年、火災により庫裡が焼失しましたが、享保11(1726)年、菰野藩5代藩主・土方雄房(かつふさ)が本堂、庫裡、山門を再建立しました。ここも何度も訪ねていますので、今日はパス(2023年11月25日:20231125「菰野ウォーキング」(予告編))。

Img_8651c_20250105151301 Img_8616c  見性寺から伊藤酒造まで、立ち寄るところはなく、ほぼ3㎞の距離をひたすら歩きます。このひたすら歩くというのは、けっこう苦痛(苦笑)。ただ、今日は、コースのあちこちで鈴鹿山脈や、御在所岳(右の写真)が見えていましたので、まだよかった方でしょう。

Img_8681c  伊藤酒造には、11時20分頃に到着。ここも賑わっていました。私は、酒蔵みてある記で何度も訪ねています(たとえば、2020年2月8日:20200208近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 銘酒「鈿女」伊藤酒造と智積養水をたずねて」へ(一回完結))。

Img_8695c_20250105151301 Img_8697c  まずは、試飲(笑)。今日は、「絞りたて鈿女 無濾過 生原酒 特別本醸造」。先月搾った新酒。とはいえ、無料試飲ですから、コップのサイズは右の写真のとおり。一口でした。

Img_8704c_20250105151301  抽選会は、ご覧のとおり、今回も見事にハズレ。最近、当たった試しがありません。

Img_8714c_20250105151301 Img_8753c_20250105151301  新酒即売会では、試飲をした「絞りたて鈿女 無濾過 生原酒 特別本醸造」の720ml詰めを1本購入。¥1,400。

Img_8677c  有料試飲や、燗酒(一合瓶)、つまみの販売もされていて、小宴会ができるようになっていました。ずいぶん迷いましたが、今日は、一人でしたので、一人で飲んでもつまらないと思い、諦めました。

Img_8721c_20250105151301 Img_8758c_20250105151301  そのまま近鉄・桜駅へ。11時35分頃に到着。桜駅を11時45分発の四日市行きに乗車し、近鉄四日市駅には11時59分着。12時11分の名古屋行き急行に乗り変えて、桑名駅には12時23分着。乗り換えの待ち時間にいったん改札を出て、近鉄百貨店四日市店へ。家内から、赤福ぜんざいを買ってくるようにという指令が届いたのです。3つ入りで¥2,300。酒よりいいお値段(笑)。途中下車しましたので、近鉄料金は、桜~四日市が¥320、四日市~桑名が¥360で、合計¥680。

Screenshot-2025_01_05-12_50_34c  今日のGoogle Fitのデータ。歩いた距離は、約8.8㎞。歩数は、14,037でした。

2025年1月 1日 (水)

歴史散歩ならぬ、歴史ドライブへ……伊勢奥津駅、北畠神社、君ヶ野ダムへ(予告編)

Img_7830c_20250101162901 Img_7947c_20250101162901 元旦の今日、午後からドライブがてら、新年初回の歴史散歩へ。といっても、あまり歩いてはいません。強いていうならば、「歴史ドライブ」(笑)。まずは、こちら。どちら? と聞かれそうですが、JR名松線伊勢奥津(いせおきつ)駅です。JR紀勢線の松阪駅から伸びている、超ローカル線。松阪駅発の伊勢奥津方面行きは、1日8本。すなわち、2時間に1本。始発は、7時32分の家城(いえき)行き。終電は、21時27分の家城行き。伊勢奥津の始発は5時56分の家城行き。終電は、18時58分発の松阪行きで、こちらも1日8本という、まさに超ローカル線です。

Img_8009c_20250101163001  こんな超ローカル線にいったい何をしに行ったのかというと、左の写真に写っている給水塔を見に行ったのです。昨年末、この給水塔が国の登録有形文化財に指定されましたので(こちら)、一度見たいと思ったのです。蒸気機関車(SL)に水を注ぐために使われていたもので、約90年前に設置された鉄道遺産です。

Img_7962c_20250101163001 Img_7987c_20250101163001  伊勢奥津駅は、名松線の終着駅。走っているのは、キハ11型。ローカル線用の軽快気動車。撮影したのは、伊勢奥津駅14時33分着。1両のみです。

 Img_8075c_20250101163001 Img_8148c_20250101163001 伊勢奥津駅から、北畠神社へ。主なご祭神は、北畠顕能公・北畠親房公・北畠顕家公。奥一志の多気(たげ)御所として栄華を誇った伊勢国司の北畠顕能を祀っている、「太平記」ゆかりの神社でもあります。

Img_8083c_20250101163001  境内には、北畠氏館跡庭園という、枯山水と池泉回遊式を組み合わせた室町期の名園がありますが、今日はそちらには行っていません。改めて是非とも訪ねたいと思っています。写真は、花将軍とも呼ばれた北畠顕家公の像。

 Img_8157c_20250101163001 最後は、君ヶ野ダムを回ってきました。八手俣川(はてまたがわ)にかかるダムで、水量が増えた場合、流れ込む水をダムに貯え、下流の雲出川の水位上昇を抑制し、下流域を洪水から守る役割を果たしています。ここには、レイクサイド君ヶ野という宿泊施設があり、若い頃に一度泊まったことがあります。

 今日のところは、予告編。下調べも何せずに出かけましたので、改めて、本編を書くつもり。

2024年12月 8日 (日)

20241208近鉄ハイキング・JRさわやかウォーキング「ぶらり東海道桑名宿 歴史と和菓子めぐり」へ(一回完結)

Img_7224c_20241208133101  最低気温6.6℃、最高気温12.1℃、最大風速9.4m/s、朝のうちは小雨模様という天候の中、近鉄ハイキングとJRさわやかウォーキングの合同企画「ぶらり東海道桑名宿 歴史と和菓子めぐり」に行って来ました。桑名駅に向かう途中から小雨が降り始め、「しまった、やめておいた方がよかったか」と思ったくらい(苦笑)。雨は天武天皇社を過ぎたあたりで上がって、青空が出て来ました。

Img_7229c_20241208133101  受付が8時半から12時まで、近鉄名古屋線益生駅にて。桑名駅を8時29分に出る普通・白塚行きに乗車。1区間、¥180、8時31分着。こんな天気ですから、参加者は少ないかと思ったのですが、電車が益生駅に着く直前、窓から見たら、かなりの行列。コースマップを受け取り、8時38分にスタート。コースは、益生駅から、天武天皇社、寺町通り商店街、佛眼院、石取会館、桑名宗社(春日神社)、九華公園、本多忠勝像、七里の渡跡、六華苑、浄土寺を経て、桑名駅がゴール。今日、回るところはすでに何度となく歩き、訪ねたことがありますから、参拝、見学などはしていません。それ故、詳細は割愛。いつもの散歩の代わりに、近鉄ハイキングに行って歩いてきたというのが、真実。

Img_7271c_20241208133101  スタートから1㎞あまり、東海道沿いにあるのが、天武天皇社天武天皇を祀る、全国で唯一の神社だそうです。壬申の乱(672年)に大海人皇子(のちの天武天皇)が桑名郡家に駐泊されたことにちなみ、のちに創建されました。元は新屋敷付近にあったのですが、江戸時代に鍋屋町(現在地)に移りました。

Img_7285c_20241208133101 Img_7325c_20241208134901  天武天皇社から寺町商店街に向かう途中、ほとんど東海道を歩きます。吉津屋見附(よつやみつけ)跡には、桝形道路が残っているのですが、参加者の多くは、それを気にせず、枡形の手前で曲がってしまっていました。市内で唯一残る枡形道路(右の写真)。歴史好きからすると、スルーしてしまうのは、もったいないと思います。

Img_7335c_20241208133101  寺町商店街のすぐ東に京町公園。江戸時代には、このあたりは、京町見附跡。「京町門」と「番所」があり、足軽が常勤して警護にあたっていました。門は枡形で、京橋はありませんでしたので、門を出ると堀で行き止まり、コの字形に曲がり吉津屋通りへ出ました。

Img_7339c_20241208133101  寺町商店街。「三八市」で有名。アーケードになっていて、写真は、南側の入口。寺町の名前の通り、桑名御坊(真宗大谷派桑名別院本統寺)など、いくつかのお寺の門前町になっています。ちなみに、今日は、三八市には、行っておりません。

Img_7343c_20241208133101  寺町商店街の東に仏眼院。天台宗の寺院。山号は寳興山(ほうこうざん)。創建については不詳ですが、最澄の創建と伝わり、古くは東方にあったといいます。江戸時代に桑名宗社(春日神社)の神宮寺となっていました。刀工千子村正の菩提寺であったとする説もあります。鐘楼堂の梵鐘は、明治初年まで、桑名の春日神宮寺(仏眼院)にあった北勢地方最古のもの。寛永15(1638)年の銘があります。墓所には、千子宗入禅定門(承応4(1655)年没)の墓や、桑名城の前身・東城の城主であった伊藤武左衛門実房(天正11(1583)年没、桑名東城主初代)・実倫(慶長8(1603)年、同2代)父子の墓があります。また、ここは精義小学校創立の地であり、境内に記念碑が立っています。

Img_7351c_20241208133101  石取会館。国指定重要無形民俗文化財(平成19年)、ユネスコ無形文化遺産(平成28年)である「桑名石取祭の祭車行事」を紹介している施設。もとは四日市銀行桑名支店として大正14(1925)年に建てられたもの。外見は、ギリシャ神殿の柱をまねたもので、当時、銀行建築として流行したスタイル。建物は、平成23(2011)年、国の登録有形文化財になっています。四日市銀行は、旧三重銀行の前身。

Img_7358c_20241208133101  桑名宗社。通称、春日神社。正式には、桑名神社と中臣神社の2社からなっています。式内社。昔から貴族や領主の信仰が篤く、江戸時代には藩主の庇護を受けています。初代藩主・本多忠勝が木造の鳥居を慶長7(1602)年に寄進したのですが、大風で倒れたため、寛文7(1667)年に松平定重が、鋳物師・辻内種次に命じて作らせた青銅の鳥居が立っています。ここの前にあるとらや饅頭が立ち寄り先で、名物とらや饅頭が1個¥180のところ、¥150でしたが、今日は立ち寄らず。春の近鉄ハイキングのときには、みたらし団子を食べています(2024年5月3日:20240503近鉄ハイキング「春の桑名散歩 三八市をたずねて」へ(一回完結))。

Img_7369c_20241208133101  中橋を渡って、九華(きゅうか)公園へ。写真の向かって右にあるのは、分かりにくいのですが、九華公園碑。桑名城の本丸跡と二の丸跡に、昭和3(1928)年、楽翁公一百年記念大祭を期につくられた公園です。楽翁公とは、松平定信のこと。九華公園碑は、陸軍中将・福原銭太郎によります。福原銭太郎は、桑名藩士・福原資英の長男。慶応3(1867)年~昭和13(1938)年。陸軍士官学校卒業、日清、日露戦争に出征。その後、桑名町長、三重県議会議員、長島村長も務めています。昭和3年5月の建立。

Img_7373c_20241208133101  柿安コミュニティパークの入口に立つのが、本多忠勝像。忠勝は徳川四天王の一人に数えられ、慶長6(1601)年、桑名藩主となり、「慶長の町割」といわれる町の大改造を行いました。

Img_7389c_20241208133101 Dsc08926c_20241208145301  その後、柿安料亭本店のところから東海道を少し歩いて、七里の渡跡(県指定史跡)。東海道の江戸からの玄関口。渡し口には、番所、高札場、舟会所があり、付近には本陣、脇本陣、問屋場などが並んでいました。鳥居は、伊勢一の鳥居。ここに初めて鳥居が建てられたのは、江戸時代中頃。伊勢国に入って最初にある伊勢神宮の鳥居であることから、「伊勢一の鳥居」と呼ばれます。近年は、遷宮のたびに伊勢神宮内宮宇治橋北詰(外側)の鳥居が下賜されます。右端に写っているのは、蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)(右の写真、2024年12月6日の撮影)。七里の渡に面して建てられていた蟠龍櫓は、東海道を行き交う人々が必ず目にする桑名のシンボルでした。歌川広重の有名な浮世絵「東海道五十三次」でも、桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いています。「蟠龍(ばんりゅう)」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことです。この「蟠龍」をかたどった瓦が置かれたことから蟠龍櫓と呼ばれ、七里の渡しに入ってくる船の監視などの役割を果たしていました。現在の建物は、平成15(2003)年に水門管理所として建てられ、当時の外観を再現しています。

Img_7394c  Img_7398c_20241208133101 七里の渡跡から揖斐川の右岸堤防にあがったところの景色。北を見ています。奥に多度山。その手前が伊勢大橋。右手には長良川河口堰が見えています。六華苑に行く途中に、住吉神社。マイ神社に認定しています(氏神様は、北桑名神社ですが)。桑名は古くから伊勢湾、木曽三川を利用した広域的な舟運の拠点港として「十楽の津」と呼ばれ、木材や米等の集散する自由活発な商業都市として発達してきました。住吉浦は、廻船の舟溜りで、全国から多数の廻船業者が集まっていました。この人たちによって航海の安全を祈り、住吉神社(現大阪市)から勧請して、この住吉神社が建立されました。神社前の石灯篭2基は、江戸時代の材木商達が寄進したものです。このあたりの眺め、私はたいそう気に入っています。

 六華苑Img_7406c_20241208133101六華苑(旧諸戸清六邸)は、山林王として知られた実業家である二代目諸戸清六の新居として明治44(1911) 年に着工、大正2(1913)年に竣工。揖斐・長良川を望む約18,000 ㎡の敷地に、洋館と和館、蔵などの建造物群と池泉回遊式庭園が配置されています。一部の改修と戦災を受けたものの、創建時の姿をほぼそのままにとどめています。中でも洋館は、鹿鳴館やニコライ堂などを手がけ「日本近代建築の父」とも呼ばれたイギリス人建築家ジョサイア・コンドルが設計しており、注目される存在です。

Img_7420c_20241208133101 59fabda1  六華苑からは、桑名七里の渡し公園を通り抜けて、浄土寺に向かいます。桑名七里の渡し公園は、国営木曽三川公園の一部。六華苑、諸戸氏庭園と隣接しており、我が家から徒歩2分くらい。右の写真は、2024年8月8日の撮影。いい公園で、よく手入れされています。もっと年を取ってヨボヨボになったら、ここを散歩しようと思っているのです(笑)。

Img_7432c_20241208133101 7e79c629  浄土寺。山号は袖野山、院号は西岸院。本多忠勝の墓所があります(右の写真、2020年8月17日に撮影)。NHKの大河ドラマが徳川家康だった年には、本多忠勝ファンの方が多数訪れていました。ここには幽霊飴の伝説があり、8月の地蔵盆のときには今でも幽霊飴が売られます。また、桑名最古の墓の1つと考えられる「贄氏目阿弥の墓」もあります(次のリンク先の記事に言及があります。2022年6月7日:強風の1日……美白スズメ2号を見つけ、イソヒヨドリはごちそうにありつき、浄土寺で昨日の講座の実地見学)。

Img_7441c_20241208151501  さて、これで立ち寄り先はコンプリート。ゴールの桑名駅に向かいます。途中、再び三八市が行われている寺町商店街が見えます。こちらは、寺町交差点側で、北側の入口。

Img_7473c_20241208133201  Img_7456c_20241208133201 桑名駅には、10時10分にゴール。JR桑名駅改札口前にゴール受付があり、ここでJRさわやかウォーキングの参加ポイントをいただきました。

Img_7454c_20241208133201 Img_7462c_20241208133201  さらに、コースマップに付された番号で、抽選会。これがあるために途中で勝手に自宅にゴールすることなく、桑名駅まで来たのです。私の番号は191で、残念ながら、ハズレで、賞品は何もなし(苦笑)。参加賞でティッシュペーパーくらいくれたらいいのに。以前からの経験でも、桑名市観光協会は、案外渋ちんのようです。一気に疲れて、トボトボと帰宅。当選していれば、和菓子がいただけたようでしたが、結局、タイトルにあった「和菓子めぐり」とは縁がなし。

241208kintetsuhikingmasuomap Screenshot_20241208103758c  こちらが今日、実際に歩いたルートマップ。今日のコースのほとんどは、毎日の散歩コースあたりか、ときどき行くところ。Google Fitのデータでは、歩いたのは7.85㎞、歩数は14,186。まぁ、これくらいでしょう。日々の散歩に毛が生えたくらいの距離と歩数。

Screenshot_20241208100900c Screenshot_20241208101645c  近鉄ハイキングとしては、今日は、アプリ連動ハイキングで、3ヶ所でチェックインしました。左のスクリーンショットで、上の3つが今日のデジタルスタンプ。右は、JRさわやかウォーキングの参加ポイント。もっとも上が今日のもの。今年、JRさわやかウォーキングに参加したのは、これで5回目。ということで、寒くて小雨にも見舞われましたが、1時間半ほどで、原地では6.4㎞を歩いてきました。

2024年11月 5日 (火)

20241103近鉄ハイキング「祝!国宝指定!!『宝塚1号墳出土の船形埴輪』と松阪『氏郷まつり』をたずねて」へ(その2)……松阪市文化財センター「はにわ館」から松坂城跡、御城番屋敷、原田二郎旧宅を経て、氏郷まつりを見て、豪商のまち松阪観光交流センターにゴールにて「完」

241103kintetsumatsusaka3  11月3日に行って来た近鉄ハイキング「祝!国宝指定!!『宝塚1号墳出土の船形埴輪』と松阪『氏郷まつり』をたずねて」の本編その2です。その1では、松阪駅北口をスタートし、御厨神社、アニバーサリー、513Bakeryと回って、鈴の森公園に向かうところまででした。

Img_6857c_20241104125101  松阪市立図書館を過ぎると、鈴の森公園への入口があります。その1でも書きましたように、ここはカネボウ綿糸松阪工場跡。大正12(1923)年に建築された煉瓦倉庫も残っていて、市民ギャラリーとして活用されています。

Img_6861c_20241104170601 Img_7007c_20241104170601  公園内から「はにわ館」へ入ります。はにわ館へは、その煉瓦倉庫を活用した市民ギャラリーのところを通って行きます。この建物は、国の登録有形文化財となっています。

Img_6992c_20241104170701 Img_6883c_20241103161101  こちらが、松阪市文化財センター「はにわ館」。これは煉瓦で作ったようになっていますが、煉瓦倉庫を利用した建物ではありません。

Img_6978c_20241104171301  「伊勢の王墓 宝塚古墳の謎」と、「王権と首長墓の埴輪」の2つの展覧会が開かれています。入館料が¥200のところ、近鉄ハイキング割引で、¥160(団体料金)。写真は、「伊勢の王墓 宝塚古墳の謎」の展示室の入口。パネルが斬新で、カッコイイ。この「宝塚古墳の謎」の方は、フラッシュを焚かなければ、写真撮影可でした(「王権と首長墓の埴輪」展は、個人利用の場合のみ撮影可で、SNSへの利用は不可)。

241103104819788c  こちらが国宝に指定された船形埴輪三重県宝塚1号古墳から出土しています。船形埴輪は、ほぼ完全な形で復元されています。船形埴輪は、大阪府や奈良県をはじめとして全国各地でみつかっていますが、宝塚1号墳の船形埴輪は、全長140cm、円筒台を含めた高さ94cm、最大幅36cmと、これまでにみつかっているものの中では最大規模のものだそうです。さらに特筆すべき特徴として、他に類例のない豪華な装飾がほどこされていることがあげられるといいます。しばし見入ってしまい、横から、裏からとしっかり眺めてきました。

Img_6907c_20241105041701 Img_6914c_20241105041701  ほかにも、宝塚1号古墳から出土した埴輪が展示されていました。左の写真で中央からやや左にあるのは、家形埴輪。右の写真に写っているのは、盾形埴輪。

Img_6926c_20241104185501  宝塚1号古墳の様子も模型で展示されています。宝塚古墳は、松阪市宝塚町・光町にある古墳2基(宝塚1号墳・宝塚2号墳)の総称。松阪市街地から南方約3㎞、阪内川右岸の低丘陵地(南北1㎞・東西1.25㎞)上に築造された古墳2基です。国の史跡に指定され、1号墳から出土した埴輪が国宝に指定されています。宝塚1号古墳は、伊勢地域最大の前方後円墳(全長111m)。

Img_7026c_20241105042301 Img_7046c_20241105042301  船形埴輪をしっかり見て、満足しつつ、次に向かいます。鈴の森公園に隣接してあるのが、MOMO café。ここもパスしたのですが、あとで調べたら、鈴の森公園を見ながら食事やお茶がいただけるそうで、なかなかよい感じ。阪内川を越え、殿町中学から松坂城の裏手を通って、自然生料理本居庵。このあたりは何度も来ていますので、この本居庵があるのは知っていました。自然薯料理の専門店です。この近くには、松坂城跡本居宣長記念館本居宣長ノ宮松阪神社御城番屋敷が集まっています。

Img_7062c_20241103161101  ここは、松坂城の搦手門のところ。松坂城跡も何度も訪ねています(2018年6月23日:20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(その3)……本居宣長旧宅、松坂城跡(まだ書きかけです)、2018年7月6日:20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(その4)……松坂城跡の続きから旧長谷川邸まで)。今回は立ち寄っていませんので、詳しいことは、これらリンク先の記事をご覧ください。

Img_7079c_20241103161101  続いて、御城番屋敷のところを通って行きます(2022年5月31日:20220528松阪ウォーキング(その2)……樹敬寺で本居宣長墓・原田二郎墓所、松阪三珍花の発祥地をめぐり、原田二郎旧宅、松阪工業高校の赤壁校舎から御城番屋敷へ)。ここも今回は通り抜けただけです。詳しいことはリンク先の記事をお読みください。御城番屋敷は、松坂城を警護する「松坂御城番」という役職の武士20人とその家族が住んだ武士の組屋敷です。屋敷には、今も子孫の方が住み、維持管理を行っています。この景色、私の気に入ったところです。松坂城二の丸跡からこの御城番屋敷を見下ろした景色も素晴らしいものです。

241103kintetsumatsusaka4_20241105062501  ここからルートマップは、その4へ。原田二郎旧宅から、氏郷まつりの会場へ。コースマップでは、駅弁のあら竹に寄ってからゴールの豪商のまち松阪観光交流センターに向かうのですが、私は、先にゴールへ。観光交流センターの近くにある三井家発祥の地が、11月の土日は特定公開されていますので、それを見て松阪駅に。氏郷まつりの会場は賑わっていましたので、1本東のお寺が集まっているところを通って、駅弁のあら竹商店を見て、松阪駅南口へ。

Img_7102c_20241103161101  原田二郎旧宅。ここも何度も来ていますので(2022年5月31日:20220528松阪ウォーキング(その2)……樹敬寺で本居宣長墓・原田二郎墓所、松阪三珍花の発祥地をめぐり、原田二郎旧宅、松阪工業高校の赤壁校舎から御城番屋敷へ)、今日はパス。詳しくは、リンク先の記事をご覧ください。

Img_7123c_20241103161101 Img_7132c_20241103164701  氏郷まつりのメイン会場は、日野町交差点。ステージも設けられ、大賑わい。商都松阪の礎を築いた蒲生氏郷公を偲んで開催する氏郷まつりは、今年で63回だそうです。翌日の中日新聞によれば、18万人もの人出だったそうです。観光交流センターに向かう県道60号線も露店やら人出やらで混雑。松阪肉で有名な和田金もこの通りにあります。その和田金の手前を入ると、不二屋というお店があります。以前ここで食べた焼きそばが美味しかったので(2022年6月1日:20220528松阪ウォーキング(その3)……本居宣長ノ宮、松阪神社、松坂城跡から不二屋で焼きそばにて「完」)、もう一度食べようかと思ったのですが、店外まで大行列で断念。

Img_7145c_20241103161101 Img_7139c  こちらがゴールの豪商のまち松阪観光交流センター。今日は、近鉄ハイキングのゴール受付があり、コースマップに印字された番号で、抽選会。

Img_7144c_20241103161101 241104062822246c  私がいただいたマップの番号は、#120。「下1桁が、0、5」はクッキー1枚ということで、プレーン・クッキーをいただいてきました。よくみたら、立ち寄り先の1つであるアニバーサリーの品物でした。

Img_7155c_20241103161101  三井家発祥の地が、11月の土日は特定公開という情報を見ましたので、立ち寄ってきました(こちらに読売新聞オンラインの記事があります)。残念ながら、内部は撮影禁止ということで、外観というか、入口だけ。ここは、三井高利の兄である俊次、弘重の屋敷のいずれかにあたるといわれています。

Img_7159c_20241105064101  大正7(1918)年、 先祖顕彰と事業の安寧を祈念して三井家同族会により、発祥地の整備が開始され、 昭和7(1932)年、 総領家第10代当主で男爵の三井高棟は、 遠祖高俊300年祭の際に発祥地へ記念碑を建立し、保存されてきました。その後、戦後の荒廃と地元有志による維持を経て、昭和31(1956)年、霊廟として整備され、松阪市指定史跡となりました。昭和58(1983)年には、三井家同族会と三井グループ各社が、霊廟・墓所の整備、植樹を実施し、以後、今日まで折節の改修を経て護持されています。現在、ここには高利の祖父高安と父高俊の墓碑、高利の長兄俊次らの供養碑とともに、高利の産湯に使ったという伝承の井戸があります。

 Img_7163c_20241103161101 ここから松阪駅に戻るのですが、メインストリートは大賑わいでしたので、1本東の道へ。岡寺山継松寺(左の写真)など、お寺が集まっている通りです。継松寺ほか、このあたりにあるお寺については、すでに訪ねましたので(2021年10月25日:20211016「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第12回「松阪・小津~松阪駅」(その4)……松阪駅手前で寺めぐりで「完」)、この日は行っていません。詳しくは、リンク先の記事をご覧ください。

Img_7169c_20241103161101 Img_7174c_20241103161101  いったん祭会場のベルタウン前に出て、駅弁のあら竹商店前を通って、松阪駅南口へ。あら竹商店さんの駅弁は買いたかったのですが、それなりのお値段ですので、今日は諦めました。松阪駅南口には、12時10分頃到着。

 1730603479894c 241104062716421c 駅前のまつさか物産交流館で土産に「老伴(おいのとも)」を購入。これ、大好物なのです。6個入りが、税込み¥1,300。実は、これをつくっている柳屋奉善の店の前も通ったのですが、わらび餅などの出店があり、大賑わいでしたので、こちらでゲット。

Img_7188c_20241103161101  昼ご飯を食べ損ねましたので、やむなく駅ナカ・ファミマで弁当を購入。次の名古屋行き急行は、12時33分でしたので、ホームのベンチでランチタイム(笑)。年を取って、恥ずかしげもなく、こういうことができるようになりました。これも進歩でしょうか?? 今日は、「助六おかずセット(税込み¥498)」。12時33分の名古屋行き急行に乗り、桑名には13時40分着。¥1,140。桑名から松阪は結構遠いな、と思うようになりました。

Screenshot_20241103095153c  今日は、松阪駅で、エキタグのデジタルスタンプをゲットしてきました。これで9個目。なかなか増えませんが、地道に集めましょう。

Screenshot_20241103140130c  歩いた距離は、Google Fitのデータでは、9.3㎞。原地では、6.5㎞ほどですから、これくらいでしょう。歩数は、15,655。普段の散歩より5割増しくらいの歩数でした。この日は、高低差はあまりありませんでしたので、筋肉痛にはなっていません。

2024年11月 3日 (日)

20241103近鉄ハイキング「祝!国宝指定!!『宝塚1号墳出土の船形埴輪』と松阪『氏郷まつり』をたずねて」へ(予告編)

Img_6730c_20241103161001  昨日とは打って変わって好天に恵まれました。北西の風がやや強かったものの、桑名では最高気温は24.5℃となり、ハイキング日和。予定通りに、近鉄ハイキング「祝!国宝指定!!『宝塚1号墳出土の船形埴輪』と松阪『氏郷まつり』をたずねて」に行って来ました。桑名駅を8時42分に出る五十鈴川行き急行に乗車。松阪には、9時48分着。¥1,140。

Img_6726c_20241103161001 241103kintetsumatsusaka0  こちらが本日のコースマップ。松阪にはもう何度も来ていますが、駅から北の方、川井町あたりには行ったことがありません。主な立ち寄り先は、松阪駅北口をスタートし、御厨神社、アニバーサリー、513 BAKERY 三重松阪川井町店、松阪市文化財センター「はにわ館」、MOMO café、自然生料理 本居庵、原田二郎旧宅、氏郷まつり会場、駅弁のあら竹と回って、豪商のまち松阪 観光交流センターがゴール。ここから松阪駅南口までは徒歩約10分。右が実際に歩いたルートマップ。指定されたコースを若干、勝手に変え、また、ほかにも立ち寄ってきたところがあります。9時55分にスタート。

Img_6757c_20241103161001  最初の立ち寄り先は、御厨神社。大化2(646)年頃、神宮の御厨所として 飯高郡下ツ牧(現、平生)に創建されたと伝えられています。天正12(1584)年、 蒲生氏郷が四五百(よいほの)森に松坂城を開府する際、当社の尊厳を考え城郭の大手先に奉遷しましたが、元和6(1620)年、紀州藩主徳川頼宣の家臣・長野九左衛門が城の鬼門の鎮守として現在地に遷宮されています。主祭神は、建速須佐之男命、神明神。このあと、アニバーサリー、513 BAKERY 三重松阪川井町店に行くことになっていますが、私は例によって通過。写真だけ撮っていますが、予告編では割愛します。

Img_6883c_20241103161101 Img_6992c_20241103161101  松阪市文化財センター「はにわ館」には、10時40分過ぎに到着。私としては、ここが今日のハイキングの主たる目的地。国宝に指定された船形埴輪が見られるのです。現在、特別展「王権と首長墓の埴輪」が開催されていて、入館料は¥200のところ、近鉄ハイキング割引で¥160。

241103104819788c  こちらがその船形埴輪。三重県宝塚1号古墳から出土しています。船形埴輪は、ほぼ完全な形で復元されています。船形埴輪は、大阪府や奈良県をはじめとして全国各地でみつかっていますが、宝塚1号墳の船形埴輪は、全長140cm、円筒台を含めた高さ94cm、最大幅36cmと、これまでにみつかっているものの中では最大規模のものだそうです。さらに特筆すべき特徴として、他に類例のない豪華な装飾がほどこされていることがあげられるといいます。しばし見入ってしまい、横から、裏からとしっかり眺めてきました。このあと、MOMO café、自然生料理 本居庵は、通過。

Img_7062c_20241103161101 Img_7079c_20241103161101  松坂城跡の前を通って(2018年6月23日:20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(その3)……本居宣長旧宅、松坂城跡(まだ書きかけです)、2018年7月6日:20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(その4)……松坂城跡の続きから旧長谷川邸まで)、御城番屋敷のところを歩いて(2022年5月31日:20220528松阪ウォーキング(その2)……樹敬寺で本居宣長墓・原田二郎墓所、松阪三珍花の発祥地をめぐり、原田二郎旧宅、松阪工業高校の赤壁校舎から御城番屋敷へ)、原田二郎旧宅に向かいます。このあたりは、私のお気に入りのところです。

Img_7102c_20241103161101  こちらが原田二郎旧宅。何度も来ていますので(2022年5月31日:20220528松阪ウォーキング(その2)……樹敬寺で本居宣長墓・原田二郎墓所、松阪三珍花の発祥地をめぐり、原田二郎旧宅、松阪工業高校の赤壁校舎から御城番屋敷へ)、今日はパス。

Img_7123c_20241103161101 Img_7132c_20241103164701  氏郷まつりの会場は、日野町交差点(左の写真)を中心に東西南北の道路が、歩行者天国になり、またステージも設けられています。大賑わいです。右は、あの和田金の前を通って、ゴールの豪商のまち松阪観光交流センターに向かう途中。和田金の手前を入ると、不二屋というお店があります。以前ここで食べた焼きそばが美味しかったので(2022年6月1日:20220528松阪ウォーキング(その3)……本居宣長ノ宮、松阪神社、松坂城跡から不二屋で焼きそばにて「完」)、もう一度食べようかと思ったのですが、店外まで大行列で断念。

Img_7145c_20241103161101 Img_7139c  こちらがゴールの豪商のまち松阪観光交流センター。今日は、近鉄ハイキングのゴール受付があり、コースマップに印字された番号で、抽選会。

Img_7144c_20241103161101  私がいただいたマップの番号は、#120。「下1桁が、0、5」はクッキー1枚ということで、プレーン・クッキーをいただいてきました。よくみたら、立ち寄り先の1つであるアニバーサリーの品物でした。

Img_7155c_20241103161101  三井家発祥の地が、11月の土日は特定公開という情報を見ましたので、立ち寄ってきました(こちらに読売新聞オンラインの記事があります)。残念ながら、内部は撮影禁止ということで、外観というか、入口だけ。

Img_7163c_20241103161101  ここから松阪駅に戻るのですが、メインストリートは大賑わいでしたので、1本東の道へ。岡寺山継松寺(左の写真)など、お寺が集まっている通りです。

Img_7169c_20241103161101 Img_7174c_20241103161101  いったん祭会場のベルタウン前に出て、駅弁のあら竹商店前を通って、松阪駅南口へ。あら竹商店さんの駅弁は買いたかったのですが、それなりのお値段ですので、今日は諦めました。松阪駅南口には、12時10分頃到着。

1730603479894c Img_7135c_20241103170001  駅前のまつさか物産交流館で土産に「老伴」を購入。6個入りが、税込み¥1,300。実は、柳屋奉善の店の前も通ったのですが、わらび餅などの出店があり、大賑わいでした。

Img_7188c_20241103161101  昼ご飯を食べ損ねましたので、やむなく駅ナカ・ファミマで弁当をゲット。次の名古屋行き急行は、12時33分でしたので、ホームのベンチでランチタイム(笑)。年を取って、恥ずかしげもなく、こういうことができるようになりました。これも進歩でしょうか?? 今日は、「助六おかずセット(税込み¥498)」。12時33分の名古屋行き急行に乗り、桑名には13時40分着。¥1,140。

Screenshot_20241103095153c  今日は、松阪駅で、エキタグのデジタルスタンプをゲットしてきました。これで9個目。

Screenshot_20241103140130c  歩いた距離は、Google Fitのデータでは、9.3㎞。原地では、6.5㎞ほどですから、これくらいでしょう。歩数は、15,655。普段の散歩より5割増しくらいの歩数でした。今日は、高低差はあまりありませんでしたので、筋肉痛になるようなことはないと思います。記事の本編は、また明日以降に。

2024年10月28日 (月)

20241026JRさわやかウォーキング「亀山の広大な茶畑を歩く」へ(その2)……亀山公園、ますみ児童公園、多聞櫓、石井兄弟敵討遺跡石碑、伊勢亀山 備中松山藩主交替之碑から亀山駅にゴールにて「完」

20241026jrwalkingkameyama2  10月26日(土)に行ってきたJRさわやかウォーキング「亀山の広大な茶畑を歩く」の本編その2です。その1では、JR関西線井田川駅をスタートし、能褒野神社、中の山パイロットまで来ました。中の山パイロットを通り抜けて、アイリス町、亀田町、羽若町と進み、亀山公園に行きます。このあたりもアップダウンがあり、この日、歩くのは大変でした。

Img_6546c_20241027145001 Img_6542c_20241027145001  亀田町に法蔵寺という浄土宗のお寺がありましたので、覗いてみました。由緒書きもありませんし、ネットでもほとんど情報は出て来ません。あるブログには、子育て観音があり、安産祈願もできるとありました。

Img_6569c_20241027145001  この先は、亀山市立医療センターの近くで左折し、南下。羽若町の町中を通って、亀山公園に向かうのですが、狭い町中の道をあちこちぐねぐねと歩きます。途中で2箇所ほど、こういうものがあるのに気づきました。津島神社の御札を祀った祠があるのです。調べてみたら、亀山市歴史博物館こちらのサイトにある天王信仰の風習と関連していると思われます。リンク先の記事の中に、「亀山地区の羽若町の辻天王さんは、疫病が流行った時に子供を守るためにまつった神様だといわれている」とあります。

Img_6582c  くどいのですが、羽若町から亀山公園にいたるあたりも、相当のアップダウンがありました。ヘトヘトになりながら、スタートから9.7㎞ほどで亀山公園の公園池までやって来ました。亀山公園へは、5年前に花しょうぶまつりを見に来ています(2019年6月9日:20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(予告編)……雨にも負けず(苦笑))。このときは、ブログ記事のタイトルにもありますように、雨に降られて大変でした。写真で、右手にある赤い橋の奥が、花菖蒲園になっています。

 Img_6609c_20241026161101 Img_6624c_20241026161101 上の写真の赤い橋を渡って、さらに上った先にますみ児童公園があります。ここには、C58-359という蒸気機関車が保存されています。第二次大戦中の昭和19(1944)年につくられた客貨両用のもんで、昭和45(1970)年に廃車になっています。主に関西線で活躍した蒸気機関車です。

Img_6621c_20241026161101  ますみ児童公園でで11時半頃でしたので、お昼を食べることにしました。亀山駅のすぐ近くには、食事をするところがほとんどありませんので、あらかじめ桑名でコンビニ弁当を仕入れてきたのです。さらに、ここで昼ご飯にするとちょうどよいとも見込んでいました。ファミマの「おむすび&焼きそばセット(税込み¥420)」。最近は、これくらいの量でちょうどよくなりました(苦笑)。

Img_6638c_20241026161201 Img_6645c_20241026161201  11時45分に再出発。旧亀山城のところを通って亀山駅に向かいます。ここには多聞櫓があります。この多聞櫓は、天守台と呼ばれる本丸高石垣上にあり、寛永 9(1632)年頃に築造されたと考えられています。三重県で唯一現存する城郭建造物で、県史跡。何度か内部を見学していますので(2019年6月9日:20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(予告編)……雨にも負けず(苦笑))、今日はパス。多門櫓近くには、亀山神社、亀山演武場、明治天皇行在所旧蹟などがありますが、今回は訪ねていません。以前のブログ記事をご覧ください(2019年6月17日:20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(その3)……雨の中、亀山古城跡、花しょうぶまつり、亀山城多門櫓から亀山神社へ、2019年6月19日:20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(その4)……亀山演武場、明治天皇行在所、いくつかの石碑と姫垣外苑からでころぼ坂を経て亀山駅にゴール(完)

Img_6648c_20241027152201  亀山城址をあとにして、池の側の畔を歩いて行くと、「石井兄弟敵討遺跡石碑」があります。元禄14(1701)年5月9日早朝に、石井源蔵(33歳)・半蔵(30歳)兄弟が、28年目にして父の敵・赤堀水之助を、ここ亀山城石坂門外で討ち取ったことを記念して、昭和7(1932)年に亀山保勝会によって建立されたものです。本懐を遂げた石井兄弟は、旧主の青山忠重に帰参を許されています。当時「元禄曽我兄弟」と称され、歌舞伎、講談、絵本、浮世絵などに取り上げられ、赤穂浪士の討ち入りと並び賞賛されました。

Img_6659c_20241026161201  亀山駅に行く途中、これまで見落としていたものに気づきました。田中病院の前あたりに「伊勢亀山 備中松山藩主交替之碑」というものがあったのです。亀山ライオンズクラブと高梁ライオンズクラブが、平成元(1989)年に建てています。亀山藩主であった板倉勝澄(かつずみ)が、延享元(1744)年、備中松山に移り、石川総慶(ふさよし)が、備中松山から亀山に替わったのです。石川市は、慶安4(1651)年から寛文9(1669)年まで亀山に在城しましたので、75年ぶりに旧領に戻ったことになります。板倉氏とは、2度目の交替だそうです。

Img_6666c_20241026161201  この石碑からもう少し下ったところからも、旧亀山城多聞櫓がよく見えます。この眺めもなかなかのものです。

Img_6674c_20241026161201 Img_6678c_20241026161201  JR関西線亀山駅には、12時頃到着。ゴール受付で、参加ポイントをいただき、12時24分の関西線名古屋行き快速に乗車。四日市から快速になります。桑名駅には、13時8分着、¥680。亀山駅で何か、土産を売っていないかと思ったのですが、今日は何も店は出ておらず(キオスクは、数年前に廃止されています)。3月に来たときには、臨時の販売ブースが出ていて、関宿の銘菓である「志ら玉」を買っています(2024年3月3日:20240303JRさわやかウォーキング「本能寺の変、家康公も通ったと言い伝えのある隠れ古道を歩こう」へ(予告編))。

Screenshot_20241026133016c Screenshot_20241026133025c  左の画像は、スマホアプリの「からだメイト」の記録。右は、同じくGoogle Fitのデータ。歩数は、ほぼ一緒で、22,000歩前後でしたが、歩いた距離は、16.3㎞と、13.7㎞。現地で歩いたのは、10.8㎞+αです。自宅から桑名駅往復は、2㎞あまりですから、やはりGoogle Fitの方が実際に歩いた距離に近いかも知れません。

2024年10月26日 (土)

20241026JRさわやかウォーキング「亀山の広大な茶畑を歩く」へ(予告編)

Img_6267c  ほぼ曇りの1日です。気温も、18.4~23.3℃とあまり上がっていません。予定通り、JRさわやかウォーキング「亀山の広大な茶畑を歩く」に行って来ました。桑名駅を8時14分に発車するJR関西線亀山行き普通に乗車。スタートの井田川駅には8時54分着。¥590。案外たくさんの人が下車して、さわやかウォーキングに参加していました。今日のところは、予告編。

Img_6272c_20241026161001 20241026jrjwalkingkameyama  コースマップを受け取り、9時5分にスタート。右の画像は、実際に歩いてきたルート。10.8㎞ほど。井田川駅をスタートして、みどり町という住宅団地を通って行きます。かなりアップダウンがあり、結構きついコースです。このあとも同様で、キョリ測で見ると、標高60~80mのアップダウンが4箇所ありました。安楽川を越えて能褒野神社へ。少し戻って田園地帯を3㎞ほど歩いて、中の山パイロットという茶畑へ。ここで茶畑を通り抜けるのに約30分。実に広い茶畑でした。亀山公園、旧亀山城多聞櫓を経て、亀山駅には12時少し前に到着。

Img_6301c_20241026161001  こちらは、亀山市みどり町あたり。井田川駅から国道1号線を越えて、このような上り坂が続いています。歩き始めて早々から、こういう坂道は結構キツいものがあります。

Img_6331c_20241026161001 Img_6390c_20241026161101  スタートから約2.6㎞、9時35分頃に能褒野神社に到着。ここは、ぜひとも来てみたかったところ。主祭神は、日本武尊。相殿神は、建貝児王(たけかいこのみこ:日本武尊の妃である穴戸武媛(あなとのたけひめ)が産んだ日本武尊の子という)と、弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと:日本武尊の妃)。このあたり一帯には日本武尊の陵墓と伝えられる古墳がいくつかありましたが、明治12(1879)年に「王塚」あるいは「丁字塚」と呼ばれていた前方後円墳(現在の能褒野王塚古墳)が、内務省によって「能褒野墓」に治定されました。その後、地元の有志により日本武尊の遺徳をしのぶため能褒野陵周辺での神社の創建が企画され、明治28(1895)年に社殿が竣工し、神宮祭主・賀陽宮邦憲王より御霊代を拝戴して鎮座祭がとりおこなわれました。

Img_6416c_20241026161101  こちらが、「能褒野墓(のぼののはか)」。宮内庁によって、第12代景行天皇皇子の日本武尊の墓に治定されています。実際の被葬者は明らかでありません。

Img_6470c_20241026163401  能褒野神社からは、少し戻って、安楽川を渡り、田園地帯を3㎞ほど進みます。

Img_6492c_20241026161101 Img_6496c_20241026161101  亀山茶畑/中の山パイロットの入り口についたのが、10時25分頃。今日は、第26回亀山青空お茶まつりが開催されていました。大きな給水タンクがあるところが、その会場。茶摘み体験、手もみ実演、亀山茶カフェ、電子レンジによるお茶づくり、フォトコンテスト表彰式、農産物販売などが行われていましたが、立ち寄っては来ませんでした。

Img_6504c_20241026161101 Img_6516c_20241026161101  ここは、本当に広大な茶畑。若い頃、隣の鈴鹿で働いていましたので、「中の山パイロット」という名前はわずかに記憶があったのですが、これほど広い茶畑とは思ってもみませんでした。初めに書きましたが、この茶畑を通り抜けるのに、約30分を要しました。ルートマップで「中の山パイロット」と書いたあたり一帯が、茶畑なのです。5.5㎞あたりから約2㎞にわたって続いていました。

Img_6582c  国道1号線を越えて羽若町の街中を過ぎると、亀山公園に入ります。亀山公園には、5年前に花しょうぶまつりを見に来ています(2019年6月9日:20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(予告編)……雨にも負けず(苦笑))。写真で、右手にある赤い橋の奥が、花菖蒲園になっています。

Img_6609c_20241026161101 Img_6624c_20241026161101  こちらは、ますみ児童公園にあるC58-359。第二次大戦中の昭和19(1944)年につくられ、昭和45(1970)年に廃車になっています。主に関西線で活躍した蒸気機関車です。

Img_6621c_20241026161101  ますみ児童公園で11時半頃でしたので、お昼を食べることにしました。亀山駅のすぐ近くには、食事をするところがほとんどありませんので、あらかじめ桑名でコンビニ弁当を仕入れてきたのです。さらに、ここで昼ご飯にするとちょうどよいとも見込んでいました。ファミマの「おむすび&焼きそばセット(税込み¥420)」。最近は、これくらいの量でちょうどよくなりました。

Img_6645c_20241026161201 Img_6638c_20241026161201  11時45分に再出発。旧亀山城のところを通って亀山駅に向かいます。ここには多聞櫓があります。多聞櫓は、天守台と呼ばれる本丸高石垣上にあり、寛永 9(1632)年頃に築造されたと考えられています。三重県で唯一現存する城郭建造物で、県史跡。何度か内部を見学していますので(2019年6月9日:20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(予告編)……雨にも負けず(苦笑))、今日はパス。

Img_6659c_20241026161201  亀山駅に行く途中、これまで見落としていたものに気づきました。田中病院の前あたりに「伊勢亀山 備中松山藩主交替之碑」というものがあったのです。亀山ライオンズクラブと高梁ライオンズクラブが、平成元(1989)年に建てています。亀山藩主であった板倉勝澄が、延享元(1744)年、備中松山に移り、石川総慶が、備中松山から亀山に替わったのです。石川市は、慶安4(1651)年から寛文9(1669)年まで亀山に在城しましたので、75年ぶりに旧領に戻ったことになります。板倉氏とは、2度目の交替だそうです。

Img_6674c_20241026161201 Img_6678c_20241026161201  JR関西線亀山駅には、12時頃到着。ゴール受付で、参加ポイントをいただき、12時24分の関西線名古屋行き快速に乗車。四日市から快速になります。桑名駅には、13時8分着、¥680。亀山駅で何か、土産を売っていないかと思ったのですが、今日は何も店は出ておらず(キオスクは、数年前に廃止されています)。

Screenshot_20241026133016c Screenshot_20241026133025c  左の画像は、スマホアプリの「からだメイト」の記録。右は、同じくGoogle Fitのデータ。歩数は、ほぼ一緒で、22,000歩前後でしたが、歩いた距離は、16.3㎞と、13.7㎞。現地で歩いたのは、10.8㎞+αです。自宅から桑名駅往復は、2㎞あまりですから、やはりGoogle Fitの方が実際に歩いた距離に近いかも知れません。

 

2024年9月15日 (日)

20240911近鉄あみま俱楽部ハイキング「久居散策」へ(その2)……高通児童公園、賢明寺、本念寺、川併神社、奈良道、妙華寺、玉セン寺を経て久居駅にゴールにて「完」

 9月11日に行って来た、近鉄のあみま俱楽部のハイキングコース「久居(ひさい)散策」の本編その2です。その1では、久居駅をスタートし、寺町あたりで寺社を巡ってから、子午の鐘・木槿塚までやってきました。このその2では、誠之小学校、久居農林高校、久居中学校と文教地区を通り抜けて、高通児童公園、伊勢自動車道をくぐって戸木地区を回ってから、賢明寺、本念寺などへと続きます。

Img_4374c_20240915133101  子午の鐘・木槿塚を西に出たところに、「幸町(さやまち)御門跡」という案内がありました。初代藩主・藤堂高通は、藩主御殿と武家屋敷の周りを堤や土構で囲み、城外の、万町、幸町、旅篭町、本町、ニノ町(奈良街道筋)には町人を住まわせています。ここは、武家屋敷と町屋を結ぶ御門があったところ。

Hisai2  こちらは、実際に歩いてきたルートマップその2。誠之小学校、久居農林高校、久居中学校と文教地区を通り抜けます。江戸時代には、武家屋敷があったところです。久居中学の西に隣接して、高通(たかみち)児童公園があります。その後は、伊勢自動車道を潜り、戸木(へき)地区を廻り、再び伊勢自動車道を越えます。

Img_4421c_20240911165401  高津藩主藤堂高虎の孫高通が、宗家から分かれて久居藩を立てたのですが、その藩主御殿跡がこの高通児童公園になっています。隣にある久居中学校の敷地までが久居陣屋だったそうです。津2代藩主・藤堂高次が隠居するとき(寛文9(1669)年)、津藩領32万3950石のうち、5万石を弟の高通に分けて、久居藩がつくられています。翌年から陣屋や城下町を建設し、寛文11(1671)年に高通が入府しました。「永久に鎮居する」という意味で、「久居」と名づけています。陣屋の遺構はありませんが、陣屋御殿跡と開府の碑などがあります。こちらに久居350年の歴史についての説明があります。左の写真は、「御殿山記念碑」。久居藩初代藩主高通公の久居入府250年を記念して大正10(1921)年に建てられた「御殿山の記念碑」があります。石碑は、本体だけで高さ4mを超える大きなもので、歴代の久居藩主の功績をたたえる碑文が彫られています。高通の入府250年を記念して、大正10(1921)年に建てられています。

Img_4425c_20240915134401  御殿山記念碑に向かって左手には、「高通公生誕三百五十年記念句碑」が立っています。平成6(1994)年の建立。高通は、文教藩学をすすめ、俳人としても秀れていて、任口(にんこう)と号しています。句碑には、「躬(み)やことし高野にからば花の春 任口」と彫られています。また、説明板には、「町生まる世も斯く湧けり雲の峰 及道」「伊勢路より伊賀路に入りて句碑のどか 芳泉」の句が添えられていました。

Img_4438c_20240915135101  こちらは、昭和3(1928)年に建てられた「玉井丈次郎先生彰徳碑」。玉井丈次郎(たまいじょうじろう)は、明治41(1908)年、津~久居間の軽便鉄道の開通に重要な役割を果たし、また陸軍第三師団が三重県に部隊を置く際には、連隊の誘致に乗り出し、歩兵第51連隊の招致を成功させるなど、久居の町の発展に著しく貢献をした人物で、碑文には、その功績が記されています。

Img_4410c_20240915135501  また、昭和8(1933)年に建てられた久居町と本村の合併記念碑も公園内に立っています。明治22(1889)年、市制・町村制の施行により、久居は町制を施行しています。そのとき、東鷹跡町に役場を置きました。一方、本村(もとむら)は、小戸木村(こへきむら)と合併し、本村(もとむら)と称しています。久井町と本村は、人家が続いて市街を形成していて、近隣同士で生活を助けあう関係にあったといいます。また、陸軍用地が両町村にまたがっていたこともあり、経済的にも密接なつながりがありました。このようなことから、昭和6(1931)年に無条件で合併したのです。

Img_4450c_20240915140101 Img_4542c  このあとは伊勢自動車道の下をくぐって戸木地区へ。戸木小学校のところを通り、遠くに青山高原などを眺めながら、暑い中、ひたすら2㎞以上を歩きます。

Img_4535c_20240911174101 Img_4505c_20240915140401  このような水田地帯が続きます。春や秋でしたら、さぞ気持ちがよいのでしょうが、この日は最高気温32.3℃とかなり暑く、結構大変でした。

Hisai3  この先、ルートマップはその3へ。賢明寺、本念寺、川併神社へと進みます。

Img_4599c_20240911165501 Img_4611c_20240915140701  再び伊勢自動車道をくぐって、青龍山千手院賢明寺(けんみょうじ)へ。天台宗。「ひさいの観音さん」と親しまれているそうです。比叡山延暦寺の末寺に属し、創建は奈良時代の天平年間(730年ごろ)で、聖武天皇の勅願により、行基によって開かれたと伝えられています。南北朝時代に兵火を被りましたが、北畠氏が再建し、以来北畠氏代々の祈願所となっています。その後、織田信長の軍勢により焼失したものの、江戸期に入り寛永年間(1630年ごろ)に再興されました。仁王門(市文化財)は、貞享元(1684)年のもので、大変立派でした。

Img_4608c_20240915140701 Img_4655c_20240911165501  久居藩初代藩主高通公も深く本尊に帰依し、貞享2(1685)年に銅灯籠を寄進しています(市文化財)。また、このお寺には、鎌倉時代(弘安8(1285)年)の石造板五輪塔(県文化財)があります。鎌倉中期の代表的な五輪塔で、石を組み合わせたものではなく、花崗岩の板状の一石を五輪塔に刻んだものです。この石造板五輪塔は、東大寺大仏殿を再建した重源上人(ちょうげんしょうにん)の母の三十三回忌供養のために建立されたものと伝えられています。三重県下最古のもので、三重県の指定文化財にもなっています。

Img_4670c_20240911165501 Img_4674c_20240915141401  賢明寺の近くに受福山本念寺。真宗高田派。天正年間(1573~1592年)の創建。もとは真言宗でした。

Img_4736c_20240915141901 Img_4697c_20240911165501  本念寺から東に川併(かわい)神社式内社。ご祭神は、天忍穂耳命ほか9座(詳細は、上野リンク先をご覧ください)。創始は明らかではありませんが、平安時代以前と考えられ地升。戦国時代、荒廃していましたが、久居藩が建てられる前は、地名にちなんで「野辺惣社」と称し、村域の氏神でした。寛永2(1625)年、本殿が造立され、同7(1632)年には山城国宇治郡木幡神社より八王子を勧請して配祀されています。元禄4(1691)年に社殿が造立され、久居藩主参列のもと盛大な完成式典が斎行されたといいます。

Img_4707cc  神社の説明板によれば、本殿は、この地方には稀な、古風な「一間社春日造(いっけんやしろかすがづくり)」の様式を伝えているそうです。「一間」というのは、井桁の土台の上に4本の丸柱を立てた平面が、方一間であるからです。「方」は正方形の一辺の長さを意味します。要するに、正方形の井桁の形に、四つの柱を立てたものの上に床や屋根を乗せています。「春日造」は、春日神社本殿の形式であるということ。塀の隙間から写真を撮ってきました。なお、久居にある神社については、「久居浄化案内人の会」がこちらにまとめておられます。

Img_4716c_20240915141901  ほかに境内には、神宮遙拝所もあります。

Img_4754c_20240911165501 Img_4401c_20240915143901  川併神社から北東に向かいます。途中、このような古い町屋も残っています。この家は、奈良道に沿ったところに建っていました。奈良道とは、月本追分で伊勢街道から分かれ、雲出川を遡り、久居の町から戸木、羽野、塩見阪、稲葉をへて五百野(津市美里町五百野)で伊賀街道と合流します。「伊賀越えならみち」「奈良道」と呼ばれ、古くから開けたルートでしたが、藤堂高虎が津へ入城すると、津と上野間の往来が激しくなり、明治10(1877)年には津から上野までが「伊賀街道」となり、奈良道の名称は月本~久居~五百野の間だけ残ることになっています。「奈良道」は、2018年12月23日の近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 酒蔵めぐり油正『初日』と桃園三地蔵」で、別のところを少しだけ歩いています(2018年12月26日:20181223近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 酒蔵めぐり油正『初日』と桃園三地蔵」へ(その2)……宝樹寺から奈良道を通って、八柱神社に立ち寄り、栄松寺へ)。そういえば、街のあちこちに、奈良道などを案内する石柱が立てられていました。

Img_4761c_20240915145401 Img_4779c_20240911170301  さて、久居駅にほど近いところに寂陽山法苑院妙華寺。真宗高田派。天和元(1681)年の創建。藤堂家の姻戚寺院だそうです。本堂は、国の有形登録文化財。

Img_4804c Img_4826c_20240915145801  妙華寺の東に霊雲山玉セン寺。天台真誠宗。山門は武家の屋敷門の形式。久居藩の菩提所として初代藩主高通公から境内地が与えられ、延宝7(1679)年に創建されました。文政4(1821)年の「久居焼け」といわれる大火により焼失しましたが翌年に再建、また明治36(1903)年に再び焼失し、現在の本堂は大正3(1914)年に再建されたものです。今も鐘堂に大火の跡が残されています。本堂には市の文化財である藩主の木像(初代藩主高通公の像、2代藩主高堅公の像)が納められているそうです。

Img_4830c_20240911170401  久居藩主2代高堅(たかかた)、3代高陣(たかのぶ)の墓所があり、それぞれの大五輪塔があります。この写真がそれと思います。 

Img_4823c_20240911175801  当初は、玉泉寺といったのですが、2代藩主高堅のときに高虎の官名「和泉守」に差し障るという理由で改名しています。正しい文字は、左の写真のとおりです(パソコンでは変換できませんでした。ATOKの手書き入力でも不可能)。これで目的地はコンプリート。なお、久居にあるお寺については、「久居城下案内人の会」が解説をWebにあげておられます(こちら)。

Hisai4 Img_4840c_20240911170401  ゴールは、スタートした久居駅。11時10分に戻ってきました。2時間40分かかっています。蒸し暑かったため、全身汗びっしょり。歩いた距離は、Google Fitでは8.1㎞(実家に戻った時点で)。スマホの「からだメイト」では、11.8㎞になっていましたが、これは過大評価でしょう。11時16分に実家方面へ行くバスがあり、それに乗って12時前には実家に帰宅。

Screenshot_20240911112503c Screenshot_20240911112512c  今日歩いたコースは、初めに書きましたように近鉄あみま俱楽部のハイキングコース。アプリ対応コースでしたので、 左の画像のように、久居駅、子午の鐘、高通児童公園、賢明寺、玉セン寺でデジタルスタンプをゲット。また、右の画像(左上)のように踏破賞ももらいました。

より以前の記事一覧

2025年4月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ

マイブックス

  • 日本放送協会,NHK出版: NHK 3か月でマスターする 江戸時代 2025年 1月~3月 [雑誌] (NHKテキスト)

    日本放送協会,NHK出版: NHK 3か月でマスターする 江戸時代 2025年 1月~3月 [雑誌] (NHKテキスト)
    NHKのEテレで放送された、同名の番組のテキストです。今年の大河ドラマ「べらぼう」の関連番組ともいえます。放送を見なくとも、このテキストを通読することによって、江戸時代の概要をおさらいし、さらに、学生時代に学んだ知識をアップデートすることができます。とくに私のように、学生時代から50年近く過ぎたものにとって、昔、教科書で学んだことが、今やまったく書き替えられていることもよくあります。図表、写真も多用されていて、とても分かりやすいものです。 (★★★★)

  • 田中 優子: 蔦屋重三郎 江戸を編集した男 (文春新書)

    田中 優子: 蔦屋重三郎 江戸を編集した男 (文春新書)
    今年の大河ドラマの主人公である蔦屋重三郎について書かれた本ですが、読み終えるのに難儀しました(苦笑)。蔦屋重三郎は、数多くの洒落本、黄表紙、狂歌を世に出し、歌麿、写楽を売り出した人物です。江戸最大のプロデューサーというか、編集者というか。大河ドラマの主人公になるくらいなら読んでみるかと思って、気楽に手に取ったものの、専門書ではないかと思えるような内容、記述で読むのに苦労しました。著者の田中優子さんは、法政大学総長も務めた日本近世文学、江戸文化の大家。 (★★★)

  • 岩波 明: 高学歴発達障害 エリートたちの転落と再生 (文春新書)

    岩波 明: 高学歴発達障害 エリートたちの転落と再生 (文春新書)
    高学歴、高機能の発達障害の方たちの人生は、かなり激しいアップダウンを示すことがよくあります。ダウンした、長いつらい時期を過ごさざるを得ない人達であっても、そこから這い上がり、復活して、成功をつかむことが可能な人達も多くいます。その一方で、長きにわたって低迷した状態から抜け出せない人や、失敗、挫折を何度もくり返してしまう人もいます。高学歴、高機能の人達は、理解がよく、必要な情報に容易にアクセスする能力を持っているのですが、この点がマイナスに作用することもあります。知識量が多くて混乱したり、自分の考えに固執して医師と対立関係になったりすることがあるからです。私自身は、発達障害のある人には、自覚と工夫が必要と考えていますが、この本を読み終えた現在も、その考えに大きな間違いはないと思っています。さらに、発達障害の特性があったとしても、広い意味での環境要因を整えることはとても重要です。専門家による専門的な援助はもちろん、学校、職場の環境調整、家族の適切なサポートなどがそれです。「工夫」をする際には、とくに力量のある専門家からの援助は不可欠です。ASDについては、中核的症状に対する、有効な薬剤がない現状では、心理教育や、認知行動療法、SSTが有用です。ADHDの諸症状には、有効な薬剤が複数ありますし、心理教育や、認知行動療法のアプローチも有用でしょう。苦手なことについてがんばろうとしないことや、自分の得意な事が上手く発揮できたり、活かせたりすることを考えることもとても大切です。この本は、当事者の方やご家族、関わりを持つ教師などの皆さんにとても参考になるでしょう。 (★★★★)

  • 外山滋比古: 人生の整理学 読まれる自分史を書く (イースト新書Q)

    外山滋比古: 人生の整理学 読まれる自分史を書く (イースト新書Q)
    著者は、私の出身高校が旧制中学であった時代の大先輩。『思考の整理学』ほか、多数のベストセラーを書いておられます。この本は、ほかの本を探しに書店に行ったときに見つけて、即買い。自分史を書こうとは思っていませんが、これまでの人生を振り返るのに、何か参考になるかも知れないと思って、買ってきました。「サクセスストーリーのほとんどが退屈」「言いたくてむずむずするところは抑える」「『私』をおさえて『間接話法」で書いてみる」「お手本の文章をみつけて、軟度も読む」「内田百閒『戦後日記』のようにさらっと書いてみる」などなど、首肯するところ多々ありました。 (★★★★)

  • 小松 正: なぜヒトは心を病むようになったのか? (文春新書)

    小松 正: なぜヒトは心を病むようになったのか? (文春新書)
    進化心理学とは、ヒトの心のはたらきを「自然淘汰による進化」という考え方によって統一的に説明しようとする分野です。私が現役の頃から発展してきた、新しい心理学の分野です。この本は、ヒトが陥る自己否定的な状態、他人に対する攻撃性、人間同士の対立や分断など、ネガティブな性質がなぜ進化の過程で残ったのかを考察しています。一言でいうと、それは生存や繁殖と深い関係があるというのです。進化心理学から捉えることで、これら、心のダークサイドがよりよく見えてきます。 (★★★★)

  • 林 望: 節約を楽しむ あえて今、現金主義の理由 (朝日新書)

    林 望: 節約を楽しむ あえて今、現金主義の理由 (朝日新書)
    林望こと、リンボウ先生の本は、昔々、よく読みました。「イギリスはおいしい」などのエッセイは楽しみました。この本のタイトルをネットで見たとき、まさかあのリンボウ先生だとは思ってもみませんでした。リンボウ先生と節約というのが結びつかなかったのです。しかし、読んでみると、まがいもなくあのリンボウ先生の文章でした。ただの節約術の本ではなく、高齢になったときのライフスタイル、生き方について、リンボウ先生の考え方が展開されていました。筋金入りのへそ曲がりにして、頑固者のリンボウ先生らしい生き方です。キーワードを拾っただけでも、その一端が分かります。「銀行は信用してはいけません」「(お金を)知らない人に預ける危険性を考える」「高齢者は見栄を張らない」「冠婚葬祭は義理を欠く」「自然の調整機能に任せる」などなど。私はリンボウ先生ほど変人でも頑固でもないと思っていますが(多少は変人で、融通が利かないという自覚はあります)、なるほどと思ったことは参考にして行きます。 (★★★★)

  • 関裕二: アマテラスの正体(新潮新書)

    関裕二: アマテラスの正体(新潮新書)
    著者の前著『スサノヲの正体』も、興味深く読みました。斬新な着眼点と発想で、思いもかけない結論に至っています。読み物としてはとてもおもしろいという点で、☆を5つとしました。ネタバレになりますから、詳しいことを書くのは控えておきますが、著者は、伊勢神宮に祀られているのは、いわゆる「天照大神」ではなく、別の霊威の強い(祟る)、二柱の神だとしています。祟るが故に、伊勢に放逐されたのだと主張するのです。ただ、著者の肩書きは、歴史作家にして、武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェローであり、仏教美術に関心をもち、奈良に通ううち、独学で日本古代史を研究したということですから、現在の歴史学や考古学が明らかにした内容と整合性がとれている主張なのかどうかは、私には判断はできかねます。それ故、「読み物としてはおもしろい」と評価しています。 (★★★★★)

  • 小塩真司: 「性格が悪い」とはどういうことか ――ダークサイドの心理学 (ちくま新書)

    小塩真司: 「性格が悪い」とはどういうことか ――ダークサイドの心理学 (ちくま新書)
    タイトルに惹かれて読みました。ただし、初めにお断りしておきますが、図表こそないものの、心理学の専門書といっても良いくらいの、分厚い記述になっていますので、馴染みのない方にとっては読みやすいものではありません。「性格が悪い」ことについて、最近研究が進んできた「ダークな性格」を中心にまとめられています。ダークな性格とは、マキャベリアニズム、サイコパシー、ナルシシズム、サディズムの4つの特性です。これらの特性とリーダーシップ、社会的成功との関連、身近な人間関係中でのダークな性格、ダークな人物の内面、ダークな性格の遺伝、ダークさとは何かについて、文献を引用しつつ論じられています。その上で、性格の良し悪しは、その内容ではなく、どのような結果に結びつくかで判断されるというのが、著者の結論でした。 (★★★★)

  • 和田 秀樹: 老いるが勝ち! (文春新書)

    和田 秀樹: 老いるが勝ち! (文春新書)
    和田秀樹さんは、もともと高齢者専門の精神科医です。浴風会病院というところで35年間勤務され、6,000人以上の高齢者の方を診てこられました。その臨床経験から、高齢者については、理屈通りに行かないと思うことがたくさんあるといっておられます。タバコをたくさん吸っていても100歳まで生きる人もいれば、検査データはすべて正常なのにガンで亡くなる人もいるのだそうです。医者にいわれて血圧その他に注意していたのに、脳卒中を起こす人もいます。和田さんはこの本で80歳を過ぎたら我慢せず、好きな物を食べ、行きたいように生きることを勧めています。また、医療に関わらない方が長生きできる共書いています。不摂生を勧めておられるわけではありませんが、常識にとらわれず、自由に生きた方が楽しみも見つかってよいのではないかと思います。養老孟司先生流にいえば「なるようになる」のですから。 (★★★★★)

  • 彬子女王: 赤と青のガウン オックスフォード留学記 (PHP文庫)

    彬子女王: 赤と青のガウン オックスフォード留学記 (PHP文庫)
    彬子女王殿下の英国留学記です。彬子女王は、ヒゲの寛仁親王のご長女。殿下は、女性皇族として初めての博士号をオックスフォード大学で取得されました。この留学記は、ネットで話題になっていましたので、ぜひとも読んでみたいと思っていました。今上天皇の「テムズとともに」も読んだことがありますが、皇族の皆様は、どなたも誠実で朗らかで、それでいてユーモア溢れるお人柄をお持ちのようですが、殿下も同様でいらっしゃり、それがよく感じられる文章で楽しく拝読し、爽やかな読後感を持ちました。 (★★★★★)

  • 石井光太: ルポ スマホ育児が子どもを壊す

    石井光太: ルポ スマホ育児が子どもを壊す
    タイトルに惹かれて買ったのですが、帯にあるように「衝撃の現場報告」でした。この本に書かれているエピソードのうち、いくつかはこれまでにもマスコミ報道などで接していましたが、これだけのことがらが一度に示されると圧倒されます。現代の子どもたちは、まさに私たちが知っている(知っていた)子どもではなくなっているといえるようです。たとえば、「2歳児のネット利用率は58.8%」「子守歌はアプリで聞く赤ちゃん」「ヘッドガードの制服化」「教室の『アツ』に怯える小学生」「褒められ中毒はエスカレートする」などなど。スマホが登場して16年でその影響は大ですが、子どもたちの特徴に影響しているのはスマホだけではなく、現代社会や、大人達のありようも大きく影響しているといえます。「『将来の夢は交通整理のバイト』と言う女子高生」などはその例でしょう。私が教えている学生も、「『アツ』がすごい」ということがあり、いったい何だ?と思っていましたが、よく分かりました。すでに若い先生方は、デジタル・ネイティブ世代になっていますし、この本に登場する若者達が社会に出て、その中核を担うのも遠い将来のことではありません。これらの若者は、高い情報処理能力を持ち、周囲に適応する力もあり、コンプライアンス能力も高いのですが、それらを認めた上で、彼らが自立した大人になるために何が必要か見極め、それを提供することが必要とされるのでしょう。その意味では、大人の世代にも彼らを適切に理解し、必要な支援を提供する責任があります。 (★★★★)

  • 養老 孟司, 中川 恵一: 養老先生、再び病院へ行く

    養老 孟司, 中川 恵一: 養老先生、再び病院へ行く
    『養老先生、病院へ行く』の続編です。医療とは距離をとっておられる養老先生が、再診のため1年3ヶ月ぶりに東大病院に行かれました。大病から復活された今だからこそ語ることができる老い、医療、健康、死との付き合い方について、養老先生ご自身と、教え子にして主治医の中川恵一先生がお書きになっています。養老先生のスタイルをそのまままねすることは、凡人には不可能であり、よろしくはありません。しかし、健康についての考え方や、死についてのとらえ方などはとても参考になります。私が啓蒙されたことがらは、「健康法は人の数だけ存在する」「養老先生は抜け道の天才」「不連続な体調の変化に気をつける」「具合が悪いときは一週間様子を見ると医者に行くべきかどうか分かる」「お酒はもはや百薬の長ではないが飲む飲まないは自分で決めてよい」などでした。 (★★★★★)

  • 宮口幸治: 歪んだ幸せを求める人たち―ケーキの切れない非行少年たち3―(新潮新書)

    宮口幸治: 歪んだ幸せを求める人たち―ケーキの切れない非行少年たち3―(新潮新書)
    「ケーキの切れない非行少年たち」シリーズの3冊目です。本の帯には「『幸せを求めて不幸を招く人』の戦慄ロジック」とあります。「みんな幸せになりたい」という動機は万人がもつものでしょう。しかし、幸せの形は人それぞれですし、幸せになりたいと強く願うものの、かえって生きづらさや苦悩を抱える人たちもたくさんいます。著者は、人は幸せになりたいが故に、結果的に他人が不幸になることでもやってしまうといいます。さらに、幸せになりたいのだけれど、そのやり方がよくない」と考える、結果的に他人を不幸にする人たちを理解できるともいいます。著者が長年関わってきた非行少年達にもそれは共通するそうです。歪んだ幸せを求める人たちの背景にある要因として、著者は、怒りの歪み、嫉妬の歪み、自己愛の歪み、所有欲の歪み、判断の歪みの5つの歪みを取り上げ、事例も含めて考察しています。これを読むと、こうした5つの歪みは、ごく普通の人びとも多少とももっているものといえます。最終章では、自分と他者の「ストーリー」という概念を用いて、歪んだ幸せを求める事についてどう向き合えばよいか、提案されています。 (★★★★)

  • 森永 卓郎: 書いてはいけない

    森永 卓郎: 書いてはいけない
    他の本を買いに行った時、書店で平積みになっていましたので、思わず買ってしまいました。メディアのタブーに触れつつ、現在の日本が凋落している要因を3つ指摘しています。サブタイトルは、「日本経済墜落の真相」となっています。3つは、ジャニーズの性加害、財務省のカルト的財政緊縮主義、日本航空123便の墜落事件。この3つについては、関係者は皆知っているものの、触れてはいけない、本当のことをいってはいけないタブーになっているといいます。メディアで触れたら、瞬時にメディアには2度と出られなくなるそうです。ジャニーズ問題は、BBCの報道のためにオープンになってしまいましたが、著者の森永さんは、ご自身が病を得られたこともあって、現状を打破するためにこの本を書かれました。財務省による必要以上の財政緊縮政策と、日航123便の事故のお陰で日本がアメリカに対してどんどん主権を失っていったことが、日本経済の衰退の主たる要因と主張しています。たぶんそれは本当だろうなというのが、私の読後感。 (★★★★)

  • 立木 康介: フロイト『夢判断』 2024年4月 (NHKテキスト)

    立木 康介: フロイト『夢判断』 2024年4月 (NHKテキスト)
    何を今さら勉強しているのか? と思われるかも知れませんが、ちょっと前に流行った言葉でいえば、リスキリングに相当するかも知れません。学生時代に読みましたが、しっかり理解したかといえば、アヤシいのです。学生時代からは50年近い月日が経っていますので、その後の研究成果も含め、新しいことがあるだろうと思ったのです。100分de名著というNHK Eテレの番組のテキストです。講師の立木先生は、パリ第8大学で精神分析の博士号を取得され、京大人文科学研究所の教授。精神分析は「昨日までとは違う自分を手に入れるために行う」とおっしゃっていました。この番組でもっとも印象に残ったのは、あの有名な「エディプス・コンプレックス」よりも、今日、重要なフロイトが提案した概念は、「両性性」であるということでした。これは、いかなる個人も与えられた解剖学的性にしばられないセクシュアリティの自由を持つことをうたうものです。この視点に立てば、同性愛も、トランスジェンダーもいわば当たり前の存在であるということになります。これらを踏まえると120年間に書かれた「夢判断」の内容は、きわめて今日的な意義を持ってくると再認識する必要があります。 (★★★★★)

  • 諸富 祥彦: NHK「100分de名著」ブックス フランクル 夜と霧

    諸富 祥彦: NHK「100分de名著」ブックス フランクル 夜と霧
    フランクルのこの本は、改めて紹介するまでもないほど、有名な本です。私も学生時代、霜山徳爾先生の翻訳で読みましたが、ことばでは書き尽くせないほどの衝撃を受けたことを、いまでもよく覚えています。第二次世界大戦中にナチスの強制収容所に収監された経験をもとに、精神医学者・フランクルが、人生の目的を明確にし、その実現に向けて没頭する心理療法を紹介する本です。原題を直訳すると「それでも人生に然りと言う:ある心理学者、強制収容所を体験する」となります。実存心理学の名著であり、極限の環境におかれたとしても、何かが、あるいは、誰かがあなたを待っているということを主張しています。絶望して終わるのではなく、人生が何をわれわれに期待しているのかが問題であり、私たちはそれを学ぶことが重要だとしています。何度か読み直すことによって、人生への理解が深まる気がします。 (★★★★★)

  • 松田 忠徳, 増田 晋作: 枕草子の日本三名泉 榊原温泉

    松田 忠徳, 増田 晋作: 枕草子の日本三名泉 榊原温泉
    榊原温泉は、全国的に有名とはいえないかも知れませんが、名湯です。それは、枕草子に「湯は七栗の湯 有馬の湯 玉造の湯」にある、七栗の湯が榊原温泉と考えられるからです。最近、日本三名泉といえば、有馬温泉/兵庫県、草津温泉/群馬県、下呂温泉/岐阜県とされますが、枕草子に取り上げられたのはそれよりも古く、「元祖日本三名泉」といえます。榊原温泉の湯は、肌がきれいになる「美人の湯」というだけでなく、抗酸化作用もある健康の湯でもあります。この本は、日本一の温泉教授・松田先生と、地元を知り尽くした増田さんの共著で、「何もない」といわれていた榊原温泉の魅力を語り尽くしています。ちなみに、私にとっては家内の実家を知る上で格好のガイドブックです。 (★★★★)

  • 文藝春秋: 定年後に読む不滅の名著200選 (文春新書)

    文藝春秋: 定年後に読む不滅の名著200選 (文春新書)
    この本の帯には「これが定年後の知の道しるべ!」とありますが、私自身はさほど大上段に構えたつもりで読んではいません。どのような本が選ばれているかにももちろん興味はあったのですが、それらがどのように紹介されているかといった方面に興味があって読みました。本を紹介している方々はいろいろな分野で功なり、名を挙げた方ばかり。それらの方がどんな本を読み、どのように唱歌していらっしゃるかが知りたかったのです。ちょっと邪道な読み方ではありましたが、しっかりと楽しめました。 (★★★★)

  • 石田泰弘(編著): 街道今昔 佐屋路をゆく (東海の街道2) (爽BOOKS 東海の街道 2)

    石田泰弘(編著): 街道今昔 佐屋路をゆく (東海の街道2) (爽BOOKS 東海の街道 2)
    さほど本格的に取り組んでいるわけではありませんが、昔の街道を歩くのは好きです。この本のテーマである佐屋路(佐屋街道)も歩きたいと思って調べています。佐屋路は、東海道佐屋廻りとも呼ばれたように、東海道の迂回路でした。江戸時代に東海道宮宿と桑名宿の間を、陸路万場宿、佐屋宿の陸路を経て、佐屋から桑名宿への水路三里の渡しによって結んでいた街道です。実際に歩いて書かれたと考えられますが、旅人目線で書かれたウォーキングガイドです。津島街道、高須道も取り上げられています。部分的には歩いたところがありますが、佐屋路はいずれ、歩いてみたいと思い、計画中ですので、とても参考になりました。実際に歩かなくとも、歴史読み物としても楽しめます。 (★★★★★)

  • 柳瀬博一: カワセミ都市トーキョー 【電子限定カラー版】 (平凡社新書1049)

    柳瀬博一: カワセミ都市トーキョー 【電子限定カラー版】 (平凡社新書1049)
    東京都心にたくさんのカワセミが棲んでいるというのは、最近割とよく知られるようになっています。清流の鳥というイメージがあるかも知れませんが、東京の「野生」環境をうまく利用して繁殖もしています。そのカワセミが暮らす街は東京屈指の高級住宅街ばかりだそうです。すなわちカワセミも、人間も好む環境は同じというのです。カワセミが暮らす街は、人間にとってもよい街ということです。カワセミの存在に気付いたことから、「小流域源流」をキーワードに「新しい野生」と「古い野生」の繋がりを論じています。カワセミの生態も詳しく観察されていますので、私も今までよく知らなかったことが多々書かれていて、興味深く読みました。 (★★★★)

  • 内田 樹: コモンの再生 (文春文庫)

    内田 樹: コモンの再生 (文春文庫)
    私は、内田樹先生の評論が好きで割とよく読みます。「コモン(common)」とは、形容詞としては「共通の、共同の、公共の、ふつうの、ありふれた」という意味ですし、名詞としては「町や村の共有地、公有地、囲いのない草地や荒れ地」を意味します。昔は、ヨーロッパでも日本でも村落共同体はそういう「共有地」を持っていました。コモンを管理するには「みんなが、いつでも、いつまでも使えるように」という気配りが必要になるのですが、近代になって怒った「囲い込み」によって「コモンの私有化」が起こり、村落共同体が消え、集団的に維持されていた儀礼、祭祀、伝統芸能、生活文化が消えてしまったのです。著者は、このコモンを再生することが市民の原子化、砂粒化、血縁、地域共同体の瓦解、相互扶助システムの不在という索漠たる現状を何とかするために必要と考えています。ちなみに、マルクスとエンゲルスによるコミュニズムは、著者によれば「共同体主義」と訳した方がよく、彼らは「コモンの再生」が必要と提言したといいます。「共産主義」と訳されてしまったがため、なんだかよく分からないことになっているのです。「共有主義」あるいは「共同体主義」と意訳してくれていたら、もろもろが変わっていたかも知れないという話には、膝を打ちました。 (★★★★★)

  • 本田 秀夫: 知的障害と発達障害の子どもたち (SB新書)

    本田 秀夫: 知的障害と発達障害の子どもたち (SB新書)
    児童精神科医の本田先生の最新刊です。今回は知的障害が取り上げられています。これまでの本田先生の御著書では、発達障害が主に取り上げられてきたのですが、実は知的障害を持つ子どもたちも一定数存在していますし、発達障害と知的障害を合わせ持つ子どもたちもいます。その意味で、発達に困難のある子どもたちのことをきちんと理解して、適切な支援をする上では、両者を視野に入れることが重要です。著者は、知的障害の支援では、「早く」と「ゆっくり」がキーワードになると書いておられます。これは私もそうだと思います。可能な限り早期から支援を受けた方がよく、一方で、発達のスピードに合わせて「ゆっくり」としたペースで支援をすることが大切になります。発達障害の子どもたちにも「本児のペースに遭わせた支援が必要」とおっしゃる方がありますが、発達障害の子どもたちの理解/支援の上でのキーワードは「アンバランス」です。この本は、発達が気になるお子さんをお持ちの保護者の方、特別支援教育に携わる教員の方々にとって、基本的なテキストといえます。 (★★★★★)

  • BIRDER編集部: お手本でわかる!野鳥撮影術 (BIRDER SPECIAL)

    BIRDER編集部: お手本でわかる!野鳥撮影術 (BIRDER SPECIAL)
    バードウォッチングや野鳥撮影を趣味にしています。とはいえ珍鳥を追うのではなく、主に自宅近くを散歩しながら、いわば「定点観測」のように野鳥を見ています。自分の写真の撮り方を振り返ると、図鑑的に撮ることがほとんどです。なぜそうなのかを考えてみると、研究者の端くれであったことが関わっている気がします。つまり、写真を撮ることを、観察した記録やデータと見ているからではないかということに思い当たりました。野鳥撮影の「幅を広げたい」と思っていたら、この本が出版されました。ざっと目を通したところ、「色とりどりの花と鳥」「木の実レストラン」「やわらかい表情を追う」などさまざまなテーマで鳥とその周辺を撮る方法が載っています。これを参考に、自分の野鳥写真の世界を広げられたらいいなと思える本です。 (★★★★★)

  • 磯田 道史: 磯田道史と日本史を語ろう (文春新書)

    磯田 道史: 磯田道史と日本史を語ろう (文春新書)
    磯田道史さんが、さまざまな分野の達人と歴史についての論賛をしたのをまとめた本です。論纂とは、①人の徳行や業績などを論じたたえること、②史伝の終わりに著者が書き記した史実に対する論評のこと。異分野の専門家同士が議論をすることによって生まれるものは、別次元となり、大変興味深いものとなります。この本がその論より証拠。養老孟司さんとの論賛からは「脳化社会は江戸時代から始まった」という話が出て来ています。忠、孝、身分などは、シンボリズムであり、それらは見たり、触れたりできません。また、関東大震災に遭遇したことは、被害に対する鈍感さをもたらし、それが太平洋戦争につながったという指摘には、なるほどそういう面も確かにありそうだと思わされました。その他、歴史や人間について、実にさまざまな、新しい見方が示され、大変おもしろく読み終えました。 (★★★★★)

  • 保阪 正康: 近代日本の地下水脈 I 哲学なき軍事国家の悲劇 (文春新書 1440)

    保阪 正康: 近代日本の地下水脈 I 哲学なき軍事国家の悲劇 (文春新書 1440)
    本の帯に「『水脈史観』で日本の失敗を読み解く」とあります。「水脈史観」という概念には初めて接しましたが、「攘夷のエネルギーは、いまも日本社会の根底に流れている」という見方です。明治維新後、日本がとりえた国家像は、欧米型帝国主義国家、道義的帝国主義国家、自由民権国家、米国型連邦制国家、攘夷を貫く小日本国家の5つであったが、哲学なきまま欧米型帝国主義国家の道を突き進み、軍事中心の国家作りを推し進めたことが、戦前の日本の失敗の原因であったというのが著者の主張です。それは確かにそうだと思いますが、私には、ほんのサブタイトルにある「哲学なき国家」ということが、現代日本の様々な問題の背景にあるような気がしてなりません。 (★★★★)

  • 佐伯 泰英: 陰流苗木(かげりゅうなえき)~芋洗河岸(1)~ (光文社文庫)

    佐伯 泰英: 陰流苗木(かげりゅうなえき)~芋洗河岸(1)~ (光文社文庫)
    今回も特別に時代小説を取り上げます。この2つ前の本に佐伯泰英さんの「恋か隠居か 新・酔いどれ小籐次(二十六)」を取り上げ、これは佐伯さんの300冊目の「文庫書き下ろし小説」だと書きました。今回のこの本は、301冊目です。しかも、80歳を越えて、さらに新しいシリーズを始められたのです。美濃を食い詰めた浪人・小此木善治郎が、職なし、金なし、住むあてなしながら、剣の達人にしてとぼけた侍であるものの、なんとも頼りになる存在で、親切な住人や大家によって受け入れられた長屋の秘密と謎の渦に巻き込まれるという設定。これまたおもしろそうなシリーズです。毎月刊行で、全3巻の予定とか。第2巻が待ち遠しい内容です。 (★★★★★)

  • 養老孟司, 鵜飼哲夫: なるようになる。 僕はこんなふうに生きてきた(中央公論新社)

    養老孟司, 鵜飼哲夫: なるようになる。 僕はこんなふうに生きてきた(中央公論新社)
    養老先生の新刊が出たというので早速入手し、ほぼ一気に読み終えました。「はじめての自伝!」といううたい文句で、帯には「虫と猫と、バカの壁。考え続けた86年」ともあります。養老先生は、かなりしつこい性格でいらっしゃるようで、疑問に思ったことは「まぁいいか」などと思わず、考え続けてこられたそうです。その結果が、これまでのユニークな著作に結実しています。それはさておき、考え続けた結果、「なるようになる。」というのが、養老先生の現時点での結論だそうです。「なるようにしかならない」ではなく、「なるようになる。」のです。物事は、はっきりとした目的意識があって進むのではないので、「なるようになる。」なのです。忘れてしまったような些事がその後の人生を動かしてきたかもしれないともあります。なるほどと、この本を読み、養老先生の来し方をいささか知ると、納得できます。というか、納得した気になっているだけかも知れませんが…… (★★★★★)

  • 佐伯 泰英: 恋か隠居か 新・酔いどれ小籐次(二十六) (文春文庫)

    佐伯 泰英: 恋か隠居か 新・酔いどれ小籐次(二十六) (文春文庫)
    佐伯泰英さんは、この本で「文庫書き下ろし小説」というジャンルで300冊刊行を達成されました。佐伯さんの時代小説はすべて読んでいます。まさにストーリー・テラーといえる作家で、実に読み応えのある時代小説をたくさん書いておられます。このシリーズは、いったん完結となったかと思ったのですが、この「恋か隠居か」で復活しました(と理解しています)。隠居を考える小籐次ですが、小籐次親子に挑戦状が届くところから始まる物語。今回も楽しめました。 (★★★★★)

  • 安藤優一郎: 15の街道からよむ日本史 (日経ビジネス人文庫)

    安藤優一郎: 15の街道からよむ日本史 (日経ビジネス人文庫)
    街道歩きを少ししています。三重県内では、東海道のほとんど、伊勢参宮街道、美濃街道・養老街道などを歩きました。もっとあちこちの街道を歩きたいと思っていますが、そのときにこの本が出版されましたので、早速入手して読みました。芭蕉の奥州街道、伊勢参宮街道のお伊勢参り、武士の旅日記などの章をとくに興味深く読みました。主要な街道を取り上げることで読みやすい歴史物語となっています。 (★★★★)

  • 大芦治: 心理学をつくった実験30 (ちくま新書)

    大芦治: 心理学をつくった実験30 (ちくま新書)
    「誰もが一度は耳にしたことがある有名実験の背景・内容・影響を紹介、新たな心理学像を呈示する」と帯にあります。心理学全般に関心を持つ社会人を読者に想定しているといいますが、私には心理学史のテキストとして、あるいは、入門段階の心理学を学んだ方がさらに学習を深める際に読む本としてもよいかも知れません。 私自身も、心理学の教科書を執筆したことが何度かありますが、そこに引用する理論や実験については、いわゆる「孫引き」をしてしまったこともよくありました。この本の著者は、可能な限り原典にあたって執筆していらっしゃり、その意味では参考になったところが多々あります。 ところで、著者は心理学の未来にあまり明るい展望を持てないようです。臨床心理士、公認心理師の資格が人気を集め、心理学部などもたくさん設けられました。私自身の勝手な個人的意見を書けば、資格ができると、レベルは下がると思っています。根拠はありません。個人的な印象によるものです。私は実験心理学でトレーニングを受け、臨床心理の分野に進みました。心理学の基本は実験心理学と個人差測定心理学にあると思っています。学部段階からいきなり臨床心理学プロパーに進むのは、相当よろしくないと思います。臨床実践にあたってはその基礎となる確かな、科学的な学問(知見、理論なども含む)が必要です。また、仮説演繹法などのものの見方もきちんと身に付ける必要があります。これらは実験心理学と個人差測定心理学から養われると思っています。 この本は、基礎的知識がない方がいきなり読むのは難しいでしょうが、科学的心理学を学びたいと思う方にはよい参考書となります。 (★★★★)

  • 磯田 道史: 家康の誤算 「神君の仕組み」の創造と崩壊 (PHP新書)

    磯田 道史: 家康の誤算 「神君の仕組み」の創造と崩壊 (PHP新書)
    磯田先生の書く本はどれもとても面白く読めます。といっても、私が読むのは研究書ではなく、新書だからなのかも知れません。この本は、家康がなぜ幕藩体制を創ることができたのか、江戸時代、誰が神君の仕組みを崩わしたのか、幕末、かくして神君の仕組みは崩壊した、神君の仕組みを破壊した人々が創った近代日本とは、家康から考える日本人というものという5つの章からなっています。家康は天下を取ったあとこの国を支配するのに巧妙な仕掛けをつくり、平和な時代が続いたのですが、誤算が生じて、徳川政権が変質し、崩壊に至ったと著者は考え、そのプロセスを俯瞰しています。いろいろな時点で「神君の仕組み」を骨抜きにする人物や政策が表れたといいます。組織が弱体化する姿を見ておくと、自分たちの劣化を防ぐ力が養われると磯田先生は述べています。徳川時代が現在にあたえている影響も多く、その分析も興味深く読めます。 (★★★★★)

  • 多井 学: 大学教授こそこそ日記

    多井 学: 大学教授こそこそ日記
    文庫本を買いに本屋に行ったら、平積みしてあるのを見つけて思わず買ってしまいました。私もその昔、ご同業だったことがあったからです。帯に「いくらでも手抜きのできる仕事」とありますが、私の経験でもそういう人もそれなりにいました。ちなみに私自身は、こき使われたと思っています。さらに「現役教授が打ち明けるちっとも優雅じゃない生活」とも書かれていますが、これはまさに私の体験と同じ。本に書かれていることがらも、ことごとく納得できます。私は、「そうそう!」といいながら読み終えました。大学教授で儲けている人はごく一部などなど。まぁ大学教授の仕事や生活に興味をお持ちの方は、さほど多くはいらっしゃらないとは思いますが、お暇な方にはどうぞ。 (★★★★)

  • 宮口 幸治: 境界知能の子どもたち 「IQ70以上85未満」の生きづらさ (SB新書)

    宮口 幸治: 境界知能の子どもたち 「IQ70以上85未満」の生きづらさ (SB新書)
    「境界知能」という言葉は、専門家はよく知っていると思いますが、一般のご父兄や、小中学校の先生方にはあまりなじみがないかも知れません。IQという指標でいえば、多くの場合70以上85未満の子どもたちがこれに該当する可能性があります。一見したところでは普通の子どもたちと変わりはなく、なかなか気づかれません。しかし、理論的には約14%の子どもたちが含まれますから、本の帯にあるように「日本人の7人に1人」となります。平均と知的障害のはざまにあり、気づかれにくいものの、授業について行けなかったり、友だちと上手くつきあえなかったり、感情のコントロールが苦手であったりして、当事者の子どもたちは苦戦し、辛い思いをしています。発達障害はよく知られるようになりましたが、境界知能の子どもたちにもしっかり目を向け、必要な支援を提供することは喫緊の課題といえます。この本では、境界知能とはどのような状態なのか、教科学習の前に認知機能を向上することの重要性、子どもの可能性をいかに伸ばしたら良いかについて具体的に、分かりやすく解説されています。 (★★★★)

  • 関裕二: スサノヲの正体(新潮新書)

    関裕二: スサノヲの正体(新潮新書)
    タイトルに惹かれて手に入れたものの、序章の記述が私にとっては退屈でしばらく放っておいたり、読み直そうと思ってくじけたりしていました。しかし、そこを乗り越えるとこの本はとても面白くなり、ほとんど一気読みしました。スサノヲ(素戔嗚尊)の正体を探るプロセスでアマテラス(天照大神)の謎も明らかにされて行き、それもとても興味深いものがあるのです。アマテラスは皇祖神とされますが、実在の初代王と言われる崇神天皇はアマテラスを伊勢に追いやっています。また、伊勢神宮を整備した持統天皇だけは伊勢に参ったものの、それ以降明治になるまで、1,000年以上も歴代天皇は伊勢神宮を訪れていません。明治天皇が東京に遷御したあと武蔵国の鎮守勅祭の社に定めたのは、スサノヲの祀られる氷川神社(現さいたま市)です。明治天皇は氷川神社を訪れた翌年に、伊勢神宮を訪れています。そもそも伊勢にいる神はアマテラスなのかという疑問にも立ち向かっている、古代史や神に関心がある方にはお勧め。 (★★★★★)

  • 安藤 優一郎: 大名屋敷「謎」の生活 (PHP文庫)

    安藤 優一郎: 大名屋敷「謎」の生活 (PHP文庫)
    時代小説をよく読みます。捕物帖、市井の人たちの生活、侍の物語、大名の話などいろいろとあります。庶民の生活については、これまでもいろいろな本でかなり知っていますが、大名の生活については分からないところの方が多いと思っていました。タイトルに惹かれて買ったのですが、大名やその家族の生活が詳しく書かれているのではなく、勤番侍の生活、大名屋敷の庭園、御用達商人や豪農、幕末の動乱と大名屋敷などの話が中心でした。それはそれで知らなかったことが多々あり、興味深く読みました。 (★★★)