城・城跡

2021年2月27日 (土)

20210227勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道再び(川口町~下深谷)」(完)

 朝は風が冷たかったものの、次第に風も弱まり、暖かくなりました。ほぼ1年前に、新型コロナウィルス感染症によって、JRさわやかウォーキングや、近鉄ハイキングが軒並み中止となったため、「勝手に養老鉄道ハイキング」を企画し、桑名の美濃街道を歩きました(20200301勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道を歩く」(川口町~下深谷)(予告編)20200306勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道を歩く」(下深谷~多度)(予告編))。今回、同級生K氏と、昨年と同じルートをもう一度辿ることとし、今日は、川口町から下深谷までを歩いてきました。

Mino  こちらが、今日のコース。昨年3月1日と同じです。美濃街道は、七里の渡しから東海道を南へ160mほど下ったところ、川口町Img_5029c と江戸町の間の三叉路が起点となります。ここから三崎通、参宮通、国道1号線、上之輪、深谷と進みます。今日は、養老鉄道下深谷駅をゴールとし、マップ上6.3㎞の距離。

Img_5035c_20210227155501Img_5032c_20210227155501  これは、お馴染み七里の渡し跡。いつもの散歩コースです。ここから南に向かって東海道が延びています(右の写真)。このあたりもたまに歩くところです。

Img_5041c_20210227155501  上述のように七里の渡し跡から160mほど行ったところに歌行燈本店があります。ここが美濃街道の起点です。9時にスタートしたのですが、次に行く前にいきなりの余談。

Img_5044c_20210227155501 Img_5047c  この三叉路のところに「通り井跡」があります。桑名では地下水に海水が混じるため、寛永3(1626)年に町屋川から水を引いた水道をつくり、町内の主要道路の地下につつを埋め、ところどころの道路中央に正方形のマスを開けて、一般の利用に供しました。これが「通り井」。ここは、昭和37(1962)年、工事のため道路を掘っていて、通り井の跡の一つがみつかったところ。道路面には「井」と書いた石が埋められています。

Cca076f9 Img_5062c_20210227155501 スタートして西に向かい、370mほどのところに、三崎見附跡(今日は写真を撮り忘れましたので、これは去年のもの)。多度や美濃国への出入り口として、番所と三崎門があり、また、寺の開帳や芝居・相撲の開催を告げる立て札が立てられるところでもあったといいます。その先、750mで(スタートから、以下同じ)北桑名神社。我が家の氏神様ですが、天照大御神、建速須佐之男命の他、持統天皇も祀っています。明治41(1908)年、宝殿町にあった佐乃富神社を合祀したのですが、佐乃富神社が、壬申の乱のとき、後の持統天皇が滞在された桑名郡家であると伝わっています(由緒書による)。

8c32c2f3 Dsc00374  北桑名神社のすぐ先で追分に行き当たります。かつてここには、常夜燈と道標がありました(右の写真)。美濃街道は、左の写真で向かって右の細い道(福島縄手といわれました)。左の道は八丁畷といわれ、久松松平家の墓所がある東海山照源寺に続いています。常夜燈は、安政3(1856)年の建立でした。400人ほどが寄進を行い、現在も桑名で営業している店の屋号も刻まれていました。道標(弘化4(1847)年建立)には,「右 みの 多度道」「左 すてん志ょみち」とありました。美濃街道はこの先、スタートから1㎞のところで国道1号線と重なります。

Img_5067c_20210227155501 Img_5070c_20210227155501  美濃街道が国道1号線に重なるところに「参宮国道碑」があります。大正時代まで、木曽・長良・揖斐の三大川は渡船に頼っていました。そこに橋を架ける運動が進むとともに、「東海道国道」が新しくつくられました(現在の国道1号線)。町屋橋から伊勢大橋までの3.87㎞は、昭和6~7(1931~32)年にかけて、当時のお金で55万円でつくられたそうです。その竣工記念として西桑名町(当時)によって建てられたのがこの碑。ここから立代町あたりまで、700mほど、国道1号線を行きます。

Img_5088c_20210227155501 Img_5095c_20210227155501  立代町交差点で1号線から離れ、大山田川に向かいます。スタートから2㎞ほどのところに桑北山西浄寺。もとは、北河原葬所の境内の庵でした。お寺という感じの建物ではありません。右の写真は、六地蔵。元禄3(1690)年のもの。六地蔵は、地蔵菩薩の6分身。生前の行為の善悪によって、人は死後、地獄、畜生、餓鬼、修羅、人、天という六道の境涯を輪廻、転生するとされますが、そのそれぞれに、衆生救済のために配される檀陀、宝印、宝珠、持地、除蓋障、日光の6地蔵をいいます。

Img_5085c  さらに、ここには、釈迦如来立像と六字名号碑があります。写真の向かって左が、釈迦如来立像。去年来たとき、きちんとした写真を撮り忘れたのです。これは、嘉永2(1849)年のもので、美濃街道沿いにあったものを昭和10(1935)年に移動しています。六字名号碑は、天保12(1841)年のもので、これももとは街道沿いに建っていたのですが、昭和4(1929)年に移動したそうです。

B5357cfa Img_5103c_20210227155501  西浄寺の先で大山田川を渡ります。美濃街道のルートには、現在は、人自転車専用橋が架かっています。このあたりは、冬にときどきバードウォッチングに来るところ。カワセミ、ウグイス、メジロ、ホオジロ、オオジュリン、アオジなどがいます。

Img_5109c_20210227155501 Img_5117c_20210227155501  橋を渡ってすぐに上之輪神社(神明社・縣社・多度社)。主祭神は、天照大神。相殿神は、天津日子根命(あまつひこねのみこと)と天穂日命(アマノホヒノミコト)。この上之輪神社あたりに中江城があったとされます。戦国時代の豪族・中江(あるいは森)清十郎が居城しました。長島一向一揆の時には、5大拠点の一つで、最後まで抵抗した砦です。多数の人が立て籠もったところを焼き払われたと伝わっています。現在は、城の遺構は認められません。

Img_5119c  上之輪神社(2.3㎞地点)を過ぎると、深谷までは見るところ、立ち寄るところはありませんので、ひたすら歩くのですが、近鉄、JRの線路が見えるところに出たら、近鉄特急ひのとり(名古屋行き)。どうも予定しないときに遭遇することがよくあります。この先は、東名阪道・桑名東インターに抜ける道で、クルマがたく三通り増す。

Img_5146c_20210227155501Img_5163c_20210227155501  美濃街道は、桑名東インターの下をくぐって、深谷に入ります。スタートから5㎞ほど来たところの東に稲荷社があります。去年も立ち寄りました。あれこれ推測したのですが、同級生K氏の話その他で、もう少し詳しいことが分かりました。個人の方がご自宅の敷地内に勧請した稲荷社でした。この方は、ここのすぐ目の前で商売をしておられたのですが、大変信仰心の篤い方でいらっしゃったようです。ここで、歩き始めて1時間あまり。近くにあった高砂公園で小休止。

Img_5169c_20210227155501 Img_5172c_20210227155401  稲荷社のすぐ先には、真宗大谷派の深江山南楽寺(ふかえざんなんらくじ)が西に見えます。平安時代初期の天長元(824)年に天台宗の僧院として建立されましたが、織田信長の伊勢侵攻の時、兵火で焼失し、再建後、浄土真宗に改宗しています。以前は、深江山阿弥陀寺といい、正保2(1645)年にここに移ってきたそうです。

Img_4668c_20210227175901 Img_4672c_20210227175901  頌徳碑が1基あったのですが、黒ずんでいて判読困難でした。帰宅後、「桑名市史 補編」にある「第7章 主要墓碑集覧」をチェックしたところ、「南楽寺」のところに載っていました(p.456)。調べてみるものです。題額には「頌徳碑」。「宇野智賢頌徳碑 山脇春樹題額 花山大安撰、 江東子 原雪堂書 大正九年八月建立」とあるそうです(ちなみに、この主要簿費集覧は、照源寺に碑があった平岡潤によるもの。2021年2月5日:20210201勝手に養老鉄道ハイキング「桑名駅西歴史散歩」(その3)……円妙寺、照源寺から専明寺まで)。山脇 春樹(やまわき はるき、明治4(1871)~昭和23(1948)年)は、農商務・内務官僚、教育者。官選県知事。大正8(1919)年4月から大正11(1922)年9月まで三重県知事。花山大安(元治元(1864)~昭和11(1936)年)は、花戸山遍崇寺(へんそうじ)(東員町中上)の第10世住職。真宗大谷派。明治21(1888)年住職に就任、明治29(1896)年真宗京都中学校教授となり、同44(1911)年に大谷大学教授となっています(こちら)。肝心の宇野智賢は、今のところ不明。原雪堂も同様。

31eb1ab7 Img_5182c_20210227155401  去年は、この先にある末広屋さんでみたらし団子を買ってくるようにという司令があったのですが、今年はパス。醤油だけの味付けで私好みなのです。末広屋の先で流石川に突き当たり、美濃街道はここで左折し、西に向かうのですが、この曲がり角、流石川の右岸に地元の方が「角の地蔵」と呼ぶ地蔵堂があります。「地蔵」といいながら、祀られているのは、如来様。ただし、「くわな史跡めぐり」には「薬師如来」とあるのに、「みえの歴史街道ウォーキングマップ」には「阿弥陀如来」とあり、詳細は不明。

4c044825  深谷の町を進み、美濃街道は、深江神社や養老鉄道の東のあたりを北上するのですが、街道歩きは、今日はここまで(左の写真の交差点)。去年同様、ここで左折して、深江神社に向かいます。

Img_5185c_20210227155401  深江神社。深江(ふかえ)はこのあたりの古名。勧請年月は不詳ですが、延喜式神名帳に「伊勢国桑名郡深江神社」とありますので、いわゆる「式内社」と考えられます。ここも、織田信長の伊勢侵攻の時、兵火に焼かれました。桑名藩主・松平定勝の子・定実(さだざね)が深く信仰し、元和8(1622)年、社殿を寄進し、現在に至るといいます。主祭神は、天之菩毘能命(アマノホヒノミコト)と、天照大御神。相殿神は、宇迦之御魂神、大山津見神、武三熊之大人(たけみくまのうし;『古事記』では建比良鳥命(たけひらとりのみこと)とされます。

Img_5195c_20210227155401  深江神社のすぐ西には、西林寺。現在は、真宗本願寺派ですが、永正6(1509)年、北廻城主・近藤家教が父の菩提を弔うために創建しました。当時は、禅宗の済林寺。天正2(1574)年、本願寺第9世実如上人(蓮如上人の5男;「御文(おふみ)」を布教の指針としました)により、真宗に改めました。織田信長の伊勢侵攻の時、焼失し、後再建されています。

Img_5198c  この西林寺の裏山あたりが、北廻(きたはざま)城址といわれます。織田信長の侵攻によって滅ぼされましたが、北廻城は堅固な城であり、信長勢(滝川一益)も攻めあぐねて、ついにトンネルを掘って、地下から攻め登ったといいます。籠城したのですが、水がなくなったのを知られないため、馬を洗うのに白米を用いました。遠目には水に見えたからです。これによって「白米城」とも呼ばれました。北廻城主であった近藤氏の子孫が、この西林寺の住職になっています(こちら)。

Img_5227c_20210227155401  西林寺から、桑名北高校の裏手を通って、雨尾山味光院飛鳥(ひちょう)寺。東寺真言宗のお寺。ご本尊は、十一面観世音菩薩。伊勢西国三十三ヵ所観音巡礼の第32番札所。延暦13(794)年、大和国生駒山周辺から黄金の花瓶(けびょう;十一面観音の持物)を喰えた霊鳥が、現在地より2km山中の坊ケ谷に飛んで来て、美声にて仏法を説いたといいます。その噂を聞きつけた弘法大師が来山し、霊鳥が十一面観音に変化したそうで、弘法大師は、早速、感得されたお姿を一刀三礼して等身大の御尊像を刻み草庵に安置し、霊鳥が飛来した寺という事で「飛鳥寺(ひちょうじ)」と名付けたことに始まります。最盛期には、寺域一里半、寺領千石、12の坊舎が並ぶ密・律・禅の名刹となっています。しかし、ここもご多分に漏れず、元亀2(1571)年、織田信長の伊勢長島の一向一揆攻略により全山灰燼に帰し、小堂一宇を残すのみとなりました。その後、寛永12(1635)年、桑名藩主松平定網公が、眼病平癒祈願のため参籠し、その満願の夜に、観世音菩薩の花瓶より滴る霊薬水で洗眼する夢をご覧になられ、忽ちに平癒したといいます。定綱は供料田を寄進し、また、万治3(1660)年には定重から年々の祈願料が寄進されました。元禄年間、桑名藩家臣・南條三太左衛門宗親が、念持仏として地蔵菩薩を得て、それを奉安しています。山号については止雨のみならず、雨壷という古い陶器の壷があり、旱魃の時にこれに水を滴らすと忽ちに降雨したので、「雨尾山(あまおさん)」と呼ばれています。

Img_5230c_20210227155401  明治2(1869)年、参詣に不便ということで本堂及び地蔵堂が現在地に移転。木曽三川を眼下に、名古屋市街、濃尾平野、遠くは木曽御嶽山が、一望できる眺望絶佳の高台にあります。こちらがその眺め。平成29(2017)年末にNHKで放送していたドラマ「マチ工場のオンナ」のロケ地の1つです。ちなみに、去年来たときには、桑名北高校の裏手から、この飛鳥寺の墓地あたりにニホンザルがたくさんいたのですが、今年はまったく見当たりませんでした。

Img_4851c_20210227182801  飛鳥寺にも招魂碑らしきものがあり、去年の段階では調べが付きませんでした。「桑名市史 補編」「第7章 主要墓碑集覧」の「飛鳥寺」のところにありました。(pp.456~457)。これは、「忠魂碑」でした。日清・日露両戦争での戦没者9名のための忠魂碑で、あの立見尚文の篆額幷書の詩があります。

Img_5260c  このあと、下深谷駅の東にある安養寺にも立ち寄るつもりでしたが、下深谷駅まで来たら、12時7分。次の桑名行きは12時12分、その次は12時52分でしたので、今日はここまで。安養寺は、次回のスタートの時にということにしました。スタートからほぼ3時間、コースマップ上は6.3㎞を歩いてきました。

Img_5268c_20210227155401 Img_5264c_20210227155401  12時12分発の桑名行きに乗車。桑名までは¥260。さらに、桑名着は何と12時18分。3時間かけて歩いてきたのに、電車ではたったの6分で到着。笑えます。

Img_5276c 1614397570497c  例によって例の如く、せっかく出て来ましたので、お昼は外食。サンファーレの北や東のエリアを探索して、「とんかつ銀座」へ。トンカツランチ(¥1,000)をチョイス。いつもながら、家ではなかなか食べさせてもらえないもの(苦笑)。前回(2021年2月 6日:20210206桑名の八風街道を行く(能部から志知へ)(予告編))、桑名駅にある伊勢ノ国ダイニングSicili(シチリ)で食べた「とろアジフライランチ(税込み¥980)」はボリュームがあり過ぎましたが、今日は、適量(微笑)。

Img_5291c_20210227155401  ALKOOによる歩数データは、17,545歩。実際に歩いたのは、我が家からスタート地点までと、桑名駅から帰宅までを含めて、9.2㎞でした。

Img_5272c_20210227155401  桑名駅で養老鉄道を降りたところから、元の駅舎があったあたりの写真を撮ってきました。すっかり様変わりしています。

Img_5211c_20210227155401  余談を少しだけ。深谷の町を歩いているとき、我々よりも高齢の男性から、「何かの調査をしているんですか?」と訪ねられました(微苦笑)。自作コースマップを持ち、リュックを背負って歩いていますが、そんな風に見えるのでしょうか。また、あるお寺では、「どちら様ですか?」と不審そうに誰何されました。これからは、「街道歩き」といったゼッケンでもつくってつけて歩いた方がよいか、という気もします(爆)。

 今日の勝手にハイキングは1回完結。詳細は、昨年の記事をご参照ください。

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2021年2月 8日 (月)

20210206桑名の八風街道を行く(能部から志知へ)その1……能部神社、平田御薗神明社、浄光寺、島田城跡

Img_4310c_20210206185301  2月6日に行ってきた「桑名の八風街道を行く(能部から志知へ)」への本編、その1です。昨年12月19日に出かけた「2020年12月19日:20201219桑名の八風街道を行く(東金井から能部へ)」の続きで、桑名の八風街道を歩いてきました。もともと先週の土曜日に行こうかと計画していたのですが、その日は午前中は雪模様という予報で、この日に延期。ポカポカ陽気でした。風も弱く、最高気温も14.2℃。ダウンジャケットで歩いていると汗をかくくらいでした。前回も書きましたが、本来の八風街道は、四日市市富田一色を起点として東海道と交差し、大矢知、平津を経て菰野町田光で巡見道と合流、八風峠を越える道です。桑名では、町屋川右岸の街道を八風街道を呼びます(「くわな史跡めぐり」による)。これには、町屋川右岸の道が田光付近で四日市からの八風道と交わるからとも、桑名の道が昔は八風道と呼ばれていたからと、諸説があります。桑名の八風街道は、桑名市東金井から志知まで約7㎞あります。前回は、東金井から能部(のんべ)までを歩き、この日は、能部から志知(しち)までです。

210206happuu0  こちらが歩いたコース全体のルートマップ。桑名西高校行きの八風バスで能部まで行き、能部神社へ。本来の八風道は、能部バス停から西へ行き、赤尾(あこお)交差点へと進みます。しかし、能部神社からそのまま西に進み、正和台の団地を通り抜け、多少ウロウロして、平田御薗神明社、浄興寺を回って、八風道に戻りました。ゼニス羽田(旧羽田ヒューム管)のところで島田城跡を眺め、善教寺、櫛田神社、野村増右衛門の墓(島田共同墓地内)。久米小学校前から平群(へぐり)神社、平群沢ため池公園、連敬寺、景清屋敷跡まで足を伸ばして、ゴールの久米まちづくり拠点施設へ。ここにある平群神社前のバス停から八風バスで、桑名駅前まで戻って来ました。現地で歩いたのは、6.5㎞ほど。

Img_4320c_20210206185301   桑名駅前バスターミナルの8番乗り場から八風バス・桑名西高校行きが出ます。乗車したのは、9時25分発。この1本前は7時Img_4325c_20210206185301 55分ですので、いかにも早い。土曜日で、バスは空いています。ここから、前回ゴールとした能部バス停までは20分、¥340。今日のハイキングは、この能部バス停から、9時45分にスタート。

210206happuu1  こちらは、詳しいルートマップその1。能部バス停から南に少し入って、能部神社。そこから西へ向かい、正和台の団地を通過。県道26号線をそのまま横断できると思ったら、勘違い。大回りして、平田御薗神明社(マップでは、神明社)と浄光寺へ。その後、八風街道に戻ります。

Img_4328c_20210206185301  まずは、八風道を少し戻って南に入り、能部神社へ。創立は不詳。旧・能部村には、明治12(1879)年当時、春日神社、山神社、八幡宮社、白山神社が鎮座していたのですが、明治40(1907)年、字南貝戸の八幡宮境内(現在地)に移し、「能部神社」と単称しています。明治41(1908)年には桑部にある長谷(ながたに)神社(ここは、前回(12月19日)に訪ねています)に合祀となりました。終戦後、氏子の総意により分祀されることになり、ここの旧社地に分祀、鎮座されました。

Img_4331c_20210206185301  主祭神は、建御雷之男神(タケミカヅチノカミ:武甕槌神とも書きます。出雲の国譲り神話で、高天原から経津主(ふつぬし)神とともに派遣され、大国主神に国譲りを交渉し、成立させた神。雷神・剣神・武神とされ、鹿島神宮、春日大社に祀られImg_4334c_20210207071201 ます)。相殿神は、大日孁貴命(おおひるめのむちのみこと:天照大神の別称)、素盞嗚尊(すさのおのみこと:天照大神の弟。多くの乱暴を行ったため、天照大神が怒って天の岩屋にこもり、高天原から追放された。出雲に降り、八岐大蛇を退治し、奇稲田姫を救い、大蛇の尾から得た天叢雲剣を天照大神に献じた)、品陀和気命(ほむたわけのみこと:応神天皇)、大山祇神(おおやまつみのかみ:山をつかさどる神)、菊理姫命(くくりひめのみこと:黄泉国からにげる伊奘諾尊黄泉平坂(よもつひらさか:現世と黄泉(よみ)の国との境にあるとされた坂)で伊奘冉尊と争ったとき、二神の主張を聞きいれ、助言した女神)。お社は小ぶりで、東名阪道の下にひっそりと建っているという印象ですが、もちろん高速道路の方があとからできたもので、神様には迷惑かも知れません。

Img_4343c_20210206185301 Img_4350c_20210207150301  来た道を戻って、八風街道へ行くところですが、桑部神社の前の道をそのまま西に行けば良さそうだと思い込み(結局、これは勘違い)、県道26号線のところで若干ウロウロし(歩きに来たのですし、時間はたっぷりありますから、まぁこれも良し)、赤尾台の団地から平田御薗神明社へ。神社の由緒書きによれば、南北朝時代の中頃にはすでに、神明社あるいは平田神社と呼ばれていました。このあたりは、伊勢神宮の御料地で、伊勢の両神宮へ米を奉納していたといいます。神社は、幾多の変遷を経て、中世の赤尾氏城跡にありました。なお、この「赤尾氏城跡」は、桑名市史本編(p.84)には「赤尾堡 赤尾 赤尾某」とのみ言及があります。桑名市史補遺p.566には、「赤尾城址 久米地区赤尾の西山にあり、赤尾氏が居城したと伝え、先年この地から古刀を掘り出したという」とあります。桑名市の遺跡包蔵地検索サイトには載っていません。大正時代に入り、村の中心地にお社をという赤尾村民の願いで、赤尾東山に社を造営(現在の赤尾台東公園の西側あたり:マップでは「ひがし公園」と思われます)。その後、昭和57(1982)~平成6(1994)年にわたる赤尾台団地の造成によって、現地に遷っています。明治40(1907)年4月、八幡社(品陀和気命)、天満社(菅原道真公)、八坂社(須佐之男命)、日枝神社(大山咋命)、山神社(大山祇命)の5社を久米神社(今の多奈閇(たなべ)神社)(東員町大字中上)へ合祀、昭和27(1952)年12月、当社に分祀されています。

Img_4355c_20210207151501 Img_4373c  主祭神は、天照皇大神。相殿神は、品田和気命(ほむたわけのみこと:応神天皇)、須佐之男命(すさのおのみこと:天照大神の弟。多くの乱暴を行ったため、天照大神が怒って天の岩屋にこもり、高天原から追放された。出雲に降り、八岐大蛇を退治し、奇稲田姫(くしなだひめ:素戔嗚尊に助けられ、その妻となった)を救い、大蛇の尾から得た天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ:のちに、熱田神宮に祭られた。別称、草薙剣)を天照大神に献じた、菅原道真大山咋命(おおやまくいのかみ:大津の日吉神社、京都の松尾神社などの祭神)、大山祇命(山をつかさどる神)。

Img_4376c_20210206185301 Img_4390c_20210207163801  平田御薗神明社のすぐ隣(北西)に西南山浄光寺。真宗本願寺派のお寺。創建は、不明ですが、元は真言宗でした。明応5(1496)年、本願寺第8代・蓮如上人のときに、僧・正西(しょうさい)が中興し、真宗に改宗。元亀4(天正元年、15573)年、長島一向一揆の兵火に遭って中絶したものの、1750~1800年頃に万牛(まんぎゅう)が再興。当時は、員弁郡山田村字野田(寺号標による。現在の東員町に山田という地名があります。東員町役場の東で、員弁川と藤川に囲まれたところ。ここから北西へ直線距離で4㎞ほど)にあったのですが、度重なる水害に遭い、文化2(1805)年、水害を避けて、檀家ともどもここに移ってきました。「檀家ともども」というのがすごいと思います。当時の寺と檀家の結びつきの強さを伺わせます。

Img_4405c_20210206185301 Img_4412c_20210207165701  浄光寺からは北に向かい、ようやく八風街道に戻りました。浄光寺から八風街道に出たところから見た北の方角の様子が、左の写真。正面には大山田団地、少し左には多度の山並みが見えます。北西の方を見ると、右の写真。藤原岳、竜ヶ岳などが見えます。右の写真の道が八風街道。これから向かう先。

210206happuu2  詳しいルートマップはその2になります。赤尾西交差点を過ぎ、ゼニス羽田(旧羽田ヒューム管)の入り口あたりでスタートから2㎞。時刻は、10時40分頃。このゼニス羽田の敷地内に島田城跡があります。その先で八風街道からはそれて、善教寺、櫛田神社、さらには島田共同墓地内にある野村増右衛門の墓へと進んでいきます。

Img_4414c_20210206185301 Img_4421c_20210207172101  ゼニス羽田(旧・羽田ヒューム管)の工場の敷地内に島田城跡が見えます。写真で前方に見える小高い丘がそれ。戦国時代に島田兵庫助が居城したといいます。永禄11(1568)年、織田信長の伊勢侵攻で滅ぼされています。中世の城館跡で、郭、堀、土塁があるといいますが、残念ながら、勝手には入れません。八風街道沿いから見てみたのですが(右の写真)、竹が鬱蒼と茂っており、中の様子はうかがえません。

 ここでキリが良く、また、長くなるといけませんので、その1はここまでとします。その2は、善教寺、櫛田神社から。

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2021年2月 6日 (土)

20210206桑名の八風街道を行く(能部から志知へ)(予告編)

Img_4310c_20210206185301  もともと先週の土曜日に行こうかと計画していたのですが、その日は午前中は雪模様という予報で、今日に延期。ポカポカ陽気でした。風も弱く、最高気温も14.2℃。ダウンジャケットで歩いていると汗をかくくらいでした。昨年12月19日に出かけた「2020年12月19日:20201219桑名の八風街道を行く(東金井から能部へ)」の続きで、桑名の八風街道を歩いてきました。前回も書きましたが、本来の八風街道は、四日市市富田一色を起点として東海道と交差し、大矢知、平津を経て菰野町田光で巡見道と合流、八風峠を越える道です。桑名では、町屋川右岸の街道を八風街道を呼びます(くわな史跡めぐり)。これは、町屋川右岸の道が田光付近で四日市からの八風道と交わるからとも、桑名の道が昔は八風道と呼ばれていたからと、諸説があります。桑名の八風街道は、桑名市東金井から志知まで約7㎞あります。前回は、東金井から能部までを歩きました。今日は、能部から志知までの予告編。

210206happuu0  こちらが今日歩いたルートマップ。桑名西高校行きの八風バスで能部まで行き、能部神社へ。本来の八風道は、能部バス停から西へ行き、赤尾交差点と進みます。しかし、能部神社からそのまま正和台の団地を通り抜け、多少ウロウロして、平田御薗神明社、浄興寺を回って、八風道に戻り、ゼニス羽田のところで島田城跡を眺め、善教寺、櫛田神社、野村増右衛門の墓。久米小学校前から平群神社、平群沢溜池公園、連敬寺、景清屋敷跡まで足を伸ばして、ゴールの久米まちづくり拠点施設へ。ここにある平群神社前のバス停から八風バスで、桑名駅前まで戻って来ました。現地で歩いたのは、6.5㎞ほど。

Img_4320c_20210206185301 Img_4325c_20210206185301  桑名駅前のバスターミナル8番乗り場から八風バス・桑名西高校行きが出ます。乗車したのは、9時25分発。この1本前は7時55分ですので、いかにも早い。ここから、前回ゴールとした能部(のんべ)バス停までは20分、¥340。9時45分に今日のハイキングはスタート。

Img_4328c_20210206185301Img_4331c_20210206185301  能部神社。創立は不詳。明治21(1888)年、春日神社が鎮座していたのですが、明治40(1907)年、八幡宮境内に移し、「能部神社」と単称。明治41(1908)年には桑部にある長谷神社に合祀となりました。終戦後、氏子の総意により分祀されることになり、ここの旧社地に分祀、鎮座されました。主祭神は、建御雷之男神、相殿神は、大日孁貴命、素盞嗚尊、品陀和気命、大山祇神、菊理姫命。このあと、八風道に戻らなくても、正和台を抜けて行けそうでしたので、そのまま西へ。

Img_4343c_20210206185301 Img_4373c  赤尾台(あこおだい)まで来て、まずは、平田御薗神明社。創立年月は不詳ですが、由緒書きによれば、南北朝時代にはあったといいます。御薗神明社の社名の如く、赤尾は伊勢神宮の御料として、米を奉納していたところです。社地は、いろいろと変遷はあったものの、中世の赤尾氏城跡にあったといいます。大正時代には、赤尾東山に移り、さらに昭和から平成の時代、住宅地造成などにより、ここに移転したといいます。主祭神は、天照皇大神。相殿神は、品田和気命、須佐之男命、菅原道真、大山咋命、大山祇命。

Img_4376c_20210206185301  平田御薗神明社のすぐ隣に西南山浄光寺。真宗本願寺派のお寺。元は真言宗でした。名桜5(1496)年、僧・正西(しょうさい)が中興し、真宗に改宗。長島一向一揆の兵火に遭って中絶したものの、1750~1800年頃に再興。文化2(1805)年、員弁郡野田村から水害を避けて、檀家ともどもここに移ってきました。「檀家ともども」というのがすごいと思います。

Img_4414c_20210206185301  八風道に戻って西へ、スタートから2㎞ほどでゼニス羽田(旧・羽田ヒューム管)の工場前へ。この敷地内に島田城跡があります。写真で前方に見える小高い丘がそれ。戦国時代に島田兵庫助が居城したといいます。永禄11(1568)年の信長の伊勢侵攻で滅ぼされています。中世の城館跡で、郭、堀、土塁があるといいますが、ゼニス羽田の敷地内で、残念ながら、勝手には入れません。

Img_4428c_20210206185301  島田城跡を過ぎたところで、八風道から離れ、遍照山善教寺へ。もとは、弘仁3年(812)年、空海が開基した真言宗の寺でしたが、応仁元(1467)年、僧隆教のとき、蓮如上人の巡教により真宗に改宗したといわれます。真宗本願寺派のお寺。長島の願証寺の末寺でしたが、正徳5(1715)年、願証寺が高田派に改修したときにそれにしたがわず、本願寺派に留まっています。ご本尊(阿弥陀如来像)は、この地方出身の野村増右衛門吉正の持念仏(弘法大師作という)であるとされます。

Img_4450c_20210206185401  善教寺から少し登ったところに、櫛田神社。創立年月は不詳。昔は、現在地の南方の丘の下に鎮Img_4457c_20210206185401 座し、蔵王権現、天白天明神であったといいます。寛永12(1635)年の郷村帳には、現在地として明記されているそうです。明治42(1909)年、平群神社に合祀されたものの、昭和27(1952)年に分祀して現在に至っています。

Img_4482c_20210206185401  櫛田神社からさらに南に行った島田地区の共同墓地に、野村増右衛門(正保3(1646)~宝永7(1710)年)の墓があります。増右衛門は、こImg_4475c_20210206185401 こ島田の出身。郡代の手代(8石2人扶持)という低い身分から藩政を左右する地位にまで昇ったものの(元禄13(1700)年には物頭(ものがしら)となり、分限帳によると、宝永2(1705)年の時点で禄高750石で郡代を勤めています)、妬みから宝永7(1710)年に処刑されました。墓は最勝寺にあったものが、善教寺に移された後、さらに、ここに移っています。野村増右衛門の「事件」は、桑名藩にとっても大きな影響を与え、藩主松平定重は越後高田(新潟県上越市)に国替えを命ぜられています。ちなみに、先日訪ねた岸西山遺跡にある大正寺に、増右衛門の供養塔があります(2021年1月15日:大山田川あたりでバードウォッチングとプチ歴史散歩……大正寺と尾野神社について付記、修正しました【1/18】)。

Img_4524c_20210206185401Img_4543c_20210206185401  八風道に戻って、さらに西へ。久米小学校や、久米まちづくり拠点施設を過ぎると、街道沿いに平群(へぐり)神社の一の鳥居が建っています。ここは、ずいぶん前から一度来てみたかった神社で、念願が叶ったという次第。延喜式内社で、志知の氏神様。主祭神は、木菟宿禰(ずくすくね)と、天照大御神。相殿神は、武内宿禰命、大己貴命、須佐之男命、大山津見命、倭建命。木菟宿禰は、平群氏族の祖神です。また、このあたりは、また、倭建命(日本武尊)御駐足の跡と伝えられています。ここは、いかにも神様がいらっしゃるという雰囲気の神社でした。神社の背後の平群山は、古代神奈備(かんなび:上代、神霊の鎮座すると信じられた山や森)の遺跡といわれます。

Img_4602c_20210206185401  Img_4623c_20210206185401境内には、氏子などによって建てられた日本武尊の御歌「いのちのまたけむ人はたたみこもへくりの山のくまかしか葉をうすにさせその子」を刻んだ石碑があります。また、境内奥には倭建命の足洗池と伝えられる池があり、「平群池の白サギ」などの伝説も残っています。池の周りは、平群沢溜池公園として整備されています。この平群池も、一度は来たいと思っていたところです。

Img_4639c_20210206185401  平群神社の近くには、平景清(たいらのかげきよ)伝説に関わる遺跡があり、そちらにも行ってみたいところですので、足を延ばしました。そこへ行く途中に景清山連敬寺(かげきよざんれんぎょうじ)。真宗大谷派のお寺。このあたりの小字名が「鎮守堂」で、平景清と深い関係があったと推測されています。連敬寺は、もとは多度・香取の法泉寺の末寺でした。長島一向一揆のとき、一揆方に味方し、信長に焼かれ、江戸時代初期に再興されています。近くの畑には「連敬寺跡」という石碑が建っていました。

Img_4656c  連敬寺から北西へ少し行くと、田畑の中に「景清屋敷跡」があります。景清は、平家物語にも登場する侍大将。代官として桑名に住んだという伝説があるのです。ここは戦前までは森となっていて、周辺は鎌倉時代の陶器などが出土したということで、連敬寺遺跡になっています。中世の城館跡で、山茶碗、大窯製品などが出土。景清屋敷跡を見終えた時点で、12時25分を過ぎました。帰りのバスは、久米まちづくり拠点施設のところにある平群神社前を12時26分発。乗り遅れです(苦笑)。次は1時間後。

Img_4672c_20210206185501  やむなく、久米まちづくり拠点施設のところまで戻って、グラウンドゴルフをする広場のベンチで時間つぶし。12時45分にまちづくり拠点施設に到着。13時26分Img_4675c_20210206185501 発の桑名駅前行きを待って、それに乗車。桑名駅前には13時58分。¥420。

Img_4705c_20210206185501Dsc_0063c  桑名駅にある伊勢ノ国ダイニングSicili(シチリ)で昼ご飯。ここも前から一度入ってみたかった店なのです。「とろアジフライランチ(税込み¥980)」をチョイス。大きくて、部厚いアジフライを堪能。桑名の魚城の卵焼きが付いていました。前期高齢者には、食べ過ぎで(苦笑)、夕食の量を減らしたくらい。

Img_4712c_20210206200301  その後、徒歩にて15時に帰宅。今日の歩数は、ALKOOでは、16,477歩でした。今日は、取り敢えず、行ってきたところの紹介としました。本編は、明日以降書きます。

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20210201勝手に養老鉄道ハイキング「桑名駅西歴史散歩」(その4)……尾野神社を経て、やっと養老鉄道播磨駅にゴールで「完」

210201ekinishi1 2月1日の「勝手に養老鉄道ハイキング『桑名駅西歴史散歩』」の本編です。その3で終わるつもりが長くなり、ついにその4。尾野神社を経て、養老鉄道播磨駅にゴールで、今回で「完」。詳細なルートマップは、その1に戻りました。スタートしてすぐに歩いていたところから少し東のあたりです。

Img_2949c_20210201192801  市立大成小学校の下を通って行きます。「下を通る」というのは、大成小学校は、小高い丘の上にあるからでImg_2952c す。その大成小学校のすぐ北に尾野神社。尾野神社もやや小高い丘にありますが、ここは尾野山城跡でもあります。中世の城館跡で、遺構としては、郭が残っています。尾野神社もこれまでに何回か訪ねています(2006年1月28日:例によって例のごとくなど)。鳥居脇には、「縣社 式内尾野神社 式内立坂神社」という社号標が建っています。

Img_2961c_20210201192801  鳥居をくぐってすぐ右に進むと拝殿があります。お社が2つ連なって建っていますが、向かって左が尾野神社、右の少し小さい方が立坂神社です。尾野神社は平安時代からこの地にあったようです。先日訪れた岸西山遺跡にあった尾野神社北之宮にもともとあったのが、こちらに移ったと考えられます(2021年1月15日:大山田川あたりでバードウォッチングとプチ歴史散歩……大正寺と尾野神社について付記、修正しました【1/18】)。

Img_2981c_20210204074401  こちら、尾野神社。主祭神は、天押帯日子命(あめのおしたるひこのみこと:孝昭天皇の皇子。春日、大宅(おおやけ)、栗田、小野、柿本氏ら中央豪族の祖)。相殿神は、天照大御神春日神(かすがのかみ:春日大社の祭神である以下の四柱の神の総称:武甕槌命(たけみかづちのかみ:経津主神とともに大国主神と談判し、国譲りをさせた神。鹿島神宮の祭神)、経津主命(ふつぬしのかみ:刀剣の神格化された神。武甕槌命とともに国譲りをさせた神)、天児屋根命(あまのこやねのみこと:天照大神が天の岩屋に隠れたとき、祝詞を奏した神)、比売神(ひめがみ:特定の神の名前ではなく、神社の主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神を指すもの))、船戸神(ふなどのかみ:外部から邪霊が侵入するのを防ぐ神)、八幡大神(はちまんおおかみ:応神天皇、武家の守護神)、宇賀神(うがじん:古来、人間に福徳をもたらすと考えられている福の神たちの総称あるいは宇迦御魂(うかのみたま:食物、ことに稲の神霊)の異称)、山神(さんじん:山に鎮座する神。やまのかみ)となっています。神社検索(三重)によれば、創立は不詳。桑名市史には 「(前略)昔は入江村、田宮村、船戸村の三ヶ村の総社であったが、中古、三ケ村が合併して東方村と称し、入江村は尾野入江の辺に居住して尾野神社を祀り、(中略)。一説には尾野山の北の鼻山に鎮座してあったのを、後に船着大明神の社へ奉還して相殿としたという」とあります。尾野神社も、織田信長の伊勢侵攻の際に焼かれ、古文書などは失われたといいます。

Img_2984c_20210204074401  立坂神社です。立坂神社は、もともと市内西方にあったのですが(その2で書きましたように、市立桑陽保育所のところに「立坂神社旧蹟」の石碑があります)、明治41(1908)年、ここ尾野神社に合祀されました。立坂神社は、別名、「草鞋社」といいます。海善寺の僧が修行に出る時、道中安全を祈願して草鞋を供えたといいますし、また、足止め信仰があったため、家出人があった場合には、ここに草鞋を供えて、家出人の足を止めることを祈願したともいいます。市内新矢田にも立坂神社がありますが、そちらは、もともとは矢田八幡社と称していました。桑名藩主本多忠勝の宗敬深く、以後代々の藩主の保護を受けています。明治以後は、この矢田八幡社が、式内立坂神社と称しています。

Img_2987c  これは、ご神木。推定樹齢300年という梛(なぎ)の木がありました。相当の大木です。

Img_2990c_20210204085601 Img_2964c  境内社としては、康髙稲荷大神と祖霊社があります。康髙稲荷大神についての詳細は不明。祖霊社は、昭和55(1980)年7月に創建された新しいものです。由緒書きによれば、尾野神社が鎮座して以来、神社を崇敬守護した氏子すべての祖先の霊を永遠に祀るとともに、数代に渡って、昭和初期に至るまで神主を務めた鬼島家の霊、および戦火に倒れた氏子出身兵士の霊などを祀ったとありました。

Img_3002c_20210204090301  そして、尾野神社と云えば、これが外せません。「船繋ぎ(ふなつなぎ)の松」です。あるいは「船着きのImg_3016c_20210201192801 松」とも呼ばれます。尾野神社は、1,000数百年前には、船着大明神と呼ばれていました。当時、この地は町屋川と大山田川が合流するところで(本多忠勝による慶長の町割によって、両河川は現在のところを流れるよう改修されています)、海陸交通の接点として船の出入りがあったといいます。

Img_3025c_20210201211301  さて、この記事の初めの方にも書きましたが、ここは、尾野山城跡でもあります。写真は、一の鳥居をくぐったあたりの参道から西の様子。広場の向こうに登り口がありました。尾野神社の別当・尾野山正斎坊が築城したのですが、永録天正のころ、織田信長によって滅亡したとも、また永禄中には建部(渡部とも)掃部下介が居城したとも伝わっています。登ってみようとは思ったのですが、登っていくところがあまり手入れされていませんでしたので、やめておきました。これで、この日予定したところはすべて回り終えました。時刻は、11時15分。6㎞近くを歩いてきました。養老鉄道播磨駅に向かいます。

Img_3035c  が、その途中で、これまた以前から気になっていたところがありましたので、ちょっとだけ確認。マップで、尾野山城跡と岸Img_3039c_20210204091801 西山遺跡とある中間あたりに、「最上稲荷山大祥寺」というところがあるのです。一時期、この「大祥寺」と、岸西山遺跡にある「大正寺」とを混同していたこともありました(苦笑)。アヤシげなお寺というか、お稲荷さんというからには神社か? と不思議に思っていたのです。

Img_3042c_20210204091801  こちらが本堂のようで、そこにある看板をよく見ると、「最上稲荷山奥秘修法祈祷桑名教会」と書いてありました。「最上稲荷」を調べたら、岡山市にある「最上稲荷山妙教寺 (さいじょういなりさん みょうきょうじ)」という日蓮宗に属するお寺でした。そのWebサイトには、「伏見・豊川と並ぶ日本三大稲荷の一つ」とあり、1,200年以上の歴史を有するそうでした。今年の初詣の案内も貼ってありましたので、活動はしているようです。これで、ここは何かという疑問は解けましたので、安心してゴールへ。

Img_3059c  ゴールは、養老鉄道播磨駅。11時25分に到着。6.5㎞を歩いてきたのですが、この日歩いたところはかなり高低差があり、いImg_3079c_20210201192801 ささかお疲れ。電車がなければ、家内に迎えに来てもらおうと思ったのですが、幸い、11時35分に桑名行きがありました。「センロク」と呼ばれる1600系電車。元は近鉄名古屋線を走っていたそうです。

Img_3090c_20210201192801  桑名までは1駅、たった3分で、¥210。播磨駅は無人駅ですので、乗車票を取って、桑名駅で精算。11時38分着。

Img_3077c_20210204124301  ちなみに、播磨駅から南西を見ると、こういう景色。踏切のすぐ向こうに見えているのが、岸西山遺跡。さらに「NTN」の青い看板の左手にあるのが、尾野山城跡・尾野神社。

Img_3100c  桑名駅では、ついでに旧駅舎がどうなっているか、覗いてきました。この写真は、東口の少し北からImg_3093c_20210204093301 見たもの。名鉄タクシーの待機場があったあたり。左端に少し見えているのは、桑栄メイトの建物と、東口に上がる階段。駅舎や、通路はすでに取り壊されてしまっていました。右の写真は、名鉄タクシーの待機場跡。こちらも取り壊され、整地作業が行われていました。

Img_3123c  12時前に帰宅。スマホのALKOOでは、歩数は16,091歩でした。現地で6.5㎞、桑名駅から自宅までなどが1.2㎞ですから、合計7.7㎞ほどを歩いてきました。

Img_3138c Img_2861c_20210204093601  こちらは、照源寺で授与していただいてきたお守り。「利剣の名号」という名前。念仏の功徳を煩悩や徐魔を切り裂く鋭利な刀剣の文字で現したものだそうです。

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2021年2月 5日 (金)

20210201勝手に養老鉄道ハイキング「桑名駅西歴史散歩」(その3)……円妙寺、照源寺から専明寺まで

210201ekinishi3  2月1日の「勝手に養老鉄道ハイキング『桑名駅西歴史散歩』」のその3です。スローペースで書いていますが、その2では、大福田寺まで来ました。次の円妙寺は、大福田寺から通りを1本はさんだ東。照源寺は、円妙寺から北へ300mあまり。途中、専明寺に立ち寄って、最後の目的地である尾野神社へ。尾野神社からゴールの養老鉄道播磨駅までは、500mほど。

Img_2793c  円妙寺。日蓮宗のお寺。山号は、光徳山。桑名藩主・松平定良が、病の加治祈祷で日蓮宗を信仰したこともあり、これまでの桑名藩久松松平家歴代藩主の菩提寺である浄土宗照源寺ではなく、新たに日蓮宗の寺を菩提寺として建立することになり、明暦3(1657)年に建てられました。日蓮宗の僧侶で、かつて尾張・大光寺住職であった日隆が定良の病気平癒の祈祷をしていたため、その日隆が開山となっています。真言宗霊応寺があった跡地(現・三重県立桑名高等学校の道を挟んで北側、円妙寺墓地のあたり)に、顕本寺の塔頭寺院を元にして、定良の法号より光徳山円妙寺と号しました。また、塔頭寺院として、定良の殉死者である三名の院号をそのまま号した一安院、法性院、蓮心院も建立され、それぞれの菩提が弔われました。境内は約9,000坪にも及ぶ大寺院であったといいます。

Img_2770c_20210201192701  宝永7年閏8月15日(1710年10月7日)、桑名藩主である久松松平家は越後高田藩へ国替えが行われたのですが、円妙寺はそのまま当地で存続。しかし、宝暦年間(1751~1764年)に火災に遭い境内が全焼したため、当時の旧桑名藩主・久松松平家の領国である陸奥白河藩へ、当寺と塔頭の一安院、法性院、蓮心院が移転しました。文政6(1823)年、白河藩の久松松平家は旧領国である桑名へ再び国替えとなり、当寺も塔頭三院と共に桑名に戻りました。寺がもともとあった場所は焼けたままで、建物もありませんでしたが、ちょうどその時、近隣にあった大福田寺が移転することになり、その大福田寺跡(現・大福田寺所在地)に入りました。この時に、桑名に残っていた養珠庵と仙妙庵は廃庵となります(それまでどこで存続していたのかは不明)。弘化4(1848)年12月、当寺と大福田寺の場所の入れ替わりがあり、円妙寺はそれまで大福田寺があった、日当たりも眺望も優れたすぐ東側の丘の上に移転し、大福田寺は元々あった場所に戻り、現在に至っています。この入れ替わりの理由は不明ですが、一説によれば、大福田寺側に問題があり懲罰的な意味合いで、それまでの条件の良い土地を追われ、元の谷間の窪地に戻されたのではないかといわれます。しかし、墓地の移転は行われず、大福田寺の墓地は丘陵上(現・円妙寺の南側)に残り、円妙寺の墓地も現本堂から少し離れた創建時の場所から移転されることなく現在に至っています。昭和20(1945)年、太平洋戦争の空襲でほとんどの境内の建物や寺宝が焼失したものの、嘉永年間に建てられた山門だけは被害を免れています。現本堂は昭和47(1972)年に再建されたもの。

Img_2778c_20210203144701 Img_2773c_20210203150001  境内には、社が1つ。岩谷社とありますが、由緒その他は不明。本堂前に石碑があり、たぶん「今此三界皆是我有」と刻まれています。あれこれ調べたら、法華経に「今此三界 皆是我有 其中衆生 悉是吾子 而今此処 多諸患難 唯我一人 能為救護」とありました。すなわち、「この世は全て仏の世界であり、そこに住む人は皆、我が子と同じだ。この世は色々な悩み、災難、苦しみがある。それを救えるのは、唯、私(仏)一人である」という意味だそうです(こちら)。

Img_2775c_20210203150401  このような、「百度無盡燈」も本堂の前にありました。「尽」の字は、旧字体(盡)で刻まれています。「無尽燈」には、①油皿の油が減ると自然に補給され、燃え続けるように作られた灯明台、②仏の教えが次々と伝わって尽きないことを、一つの灯火が無数の灯火になることにたとえていう語、③仏前などに昼夜分かたずともすあかり。長明灯という意味があります。なるほどと思います(微苦笑)。以前、「常夜燈」と同じ意味ではないかと思うと書いたことがありますが、訂正しなければなりません。百度は「百度参り」でしょうから、お百度参りに関した燈りということかと思います。

Img_2805c  続いて、東海山照源寺に来ました。ここでほぼ5㎞、時刻は10時50分頃。浄土宗のお寺。寛永元(1624)年、桑名藩主であった松平定勝公(徳川家康公の異父弟)が亡くなったとき、二代将軍徳川秀忠の命によって、定勝の子・松平定行公が建立した寺。定行は伊予松山へ移封しましたが、弟・定綱が藩主を継ぎましたので、松平家の菩提寺として存続しています。ここは私の好きなお寺で、たびたび訪れています。

Img_2855c Img_2858c_20210203171101  当初は、東海山 泥垣院 崇源寺と号しました。それは定勝公の法号「崇源院殿」に因るものです。しかし、寛永3(1626)年に亡くなった秀忠公夫人の法号が、偶然、「崇源院殿」と一致したため、遠慮し寺号を「照源寺」と改めました。山号の頭文字「東」と、寺号の頭文字「照」の二字を合わせて「東照」となる由縁は、東照大権現(徳川家康)を祀ったことによるといいます。このように、桑名藩の菩提寺である照源寺が徳川家康公の供養をすることによって、桑名藩松平家は徳川家に対し末代にわたり忠誠を示したという訳です。現在も、徳川家康公の木像、位牌を安置し、供養しているそうです。

Img_2895c_20210201192801 Img_2902c  いろいろな石碑などがありますが、何といっても「松平定綱及び一統之墓所」(県史跡)。定勝の他、久松松平系の定綱他の一統の墓、26基が並ぶのです(2013年7月1日:照源寺へ、しかし、ハスは空振りで、松平定綱及び一統之墓所へ……昨日の散歩)。この日は、墓所は見ておりませんので、リンク先の記事をご覧ください。

Img_2809c_20210203152101  山門近くに、大きな石碑があります。「佐藤翁頌徳碑」とあります。桑名の豪商で船頭平閘門の建設に尽力した佐藤義一郎を顕彰する碑。佐藤義一郎(天保2(1831)~明治37(1904)年)は、桑名藩士で、幕末~明治時代の武士、社会事業家。戊辰戦争で幕府についた同藩の救済運動に奔走。維新後は桑名病院や英語学校を設立するとともに、船頭平閘門の設立にも尽力しました(明治27(1894)年5月、桑名町の佐藤義一郎らは国会に閘門設立を請願した結果、現在の立田村船頭平地内に設置が決定されました)。篆額は、松平定晴子爵の書。松平定晴子爵は、高須四兄弟末弟・松平定敬公の四男。大正5(1916)年8月に建立。「桑名町建設」とあります。小山正武謹撰、椿蓁一郎謹書。

Img_2818c_20210203153501Img_2824c  山門をくぐって境内に入ると、右手には、稲荷社。由緒その他は、不明。お寺にある稲荷社の由緒などはよく分からないことが多いのです。稲荷社の手前東に石碑らしきものが1つあるのですが(右の写真)、碑文などはまったく読めませんでした。

Img_2830c_20210203153701  稲荷社の西には、「海星学園創立者 佐藤信之助翁像」があります。海星学園は、現在、四日市に学校法人エスコラピオス学園として、幼稚園、中学校、高校を運営しています。昭和20(1945)年、ここ照源寺に素封家・佐藤信之助氏(醤油醸造業)の発意で「桑名英学塾」が創設されたのがその始まり。さらに、翌昭和21(1946)年には、経済、文学専門教育を目的として民生学園を設立しています。昭和22(1947)年には、四日市市六呂見(現所在地)に民生学園を移転し、海星学園に改めています。

Img_2833c_20210203164701  佐藤信之助翁像の西にある石碑。「西村徳右衛門碑」です。西村徳右衛門(1834~1886)は、柳本通徳(みちのり:徳右衛門の兄)ら10名とともに発起人となり、「桑名米商会所」を創立しました。米商会所は、明治11(1878)年3月に営業を開始。資本金は3万円で、その半分は旧藩主松平家の出資。船場町の旧川口番所に設立の予定でしたが、前年12月の伊勢暴動で焼失したため、殿町で始まりました。徳右衛門はまた、桑名銀行(その後百五銀行に合併)の創設にも関わっています。行書で書かれた碑文、私にはところどころしか読めていません(苦笑)。

Img_2844c  西村徳右衛門碑の西、庫裏の近くには、「夫婦松」があります(市天然記念物)。クロマツの大樹が約1.6m間隔で東西に並Img_2851c_20210203171101 び立ち、太い根が互いに癒着して、連理しているのでこの名前が付いています。樹高は東の松が19m、西の松が12m、根元は同じく、4.1mと2.8m。本殿の前には、「茶筅塚」がありました。

72951e31 Photo_20210203172301  山門に戻って、南側にあるもの。まずは、鐘楼堂。この日は写真を撮り忘れましたので、左の写真は、平成26(2014)年7月7日に撮ったもの(2014年7月8日:定例受診は、久しぶりの2時間半コースでお疲れ……オマケに、昨日の照源寺の蓮は咲いていない証拠写真(意味不明))。なお、この鐘楼堂については、「久波奈名所図会」に似たような絵がありますが、その詳しいことは不明。

Img_2873c_20210203171401 F808e658s  金龍桜。松平定綱公が、摂津の天台宗金龍寺(こんりゅうじ)から分植したという桜です。現在の木は、何度か植え継がれたものです。「徳川時代初期以来存在している名木のひこばえとして、今日にその特徴を伝えているものである」として、昭和9年(1934年)に国の天然記念物に指定されましたが、昭和34(1959)年の伊勢湾台風の被害で枯れ、指定は解除されました。右の写真は、昨年(令和2(2020))年4月4日に撮ったもの(2020年4月4日:「ひのとり」、照源寺の金龍桜、道祖神、走井山公園の桜に北勢線の「ゆる鉄写真」……土産は宝来軒本店の花見団子)。碑は、大正15(1926)年4月に建立。

Img_2870c Img_2882c_20210203173001  金龍桜の西には、「平岡潤碑」。平岡潤(明治39(1906)~昭和50(1975)年)という方を私は不勉強にして知らなかったのですが、『桑名市史 本編』『桑名市史 補編』『桑名の伝説・昔話』を編纂されたお一人です(市史も持ってはいるのですが)。郷土史に造詣が深いだけでなく、『茉莉花 詩集』(平岡潤/著、平岡潤、1942)で高い評価を受け、「中原中也賞」を受賞しています。この碑の向かって左側に刻まれているのは、この詩集の表紙(右の写真)。また、詩人であるだけでなく美術にも秀で、自由美術家協会賞(第一回)を受賞し、画家を志すほどでした。終戦後、郷里の桑名に戻ってからは郷土資料の収集、編集、文化財保護に尽力しています。桑名市立図書館に勤務したこともあり、戦後、荒廃していた秋山文庫(桑名藩儒であった、秋山白賁堂(はくひどう)、その長男寒緑(かんりょく)、次男罷斎(ひさい)の三人の蔵書)の救済に立ち上がり、伊勢湾台風の際には浸水した史料の修復に取り組んでいます。その後は、昭和45(1970)年、桑名市立文化美術館(現在の桑名市博物館)が創設されると初代館長に就任しますが、残念ながら、昭和50(1975)年、郷土史の講話のさなかに心筋梗塞の発作で倒れ、亡くなられました(こちらを参照)。ここにも平岡潤氏についての記述があります。地元のことでも知らないこと多々あります。なお、右側の碑文は、次の通り。なお、これは、未刊の自筆稿本『無糖珈琲』第25節に所載されているといいます:

 名誉

 詩人は生まれながらにして傷ついてゐる。傷ついた運命を癒やさんために、彼は詩を創るのではなくして、詩を創ることが、傷ついた運命の主なる症状なのである。不治であるといふことは彼の本来の名誉と心得てよい。

 昭和二十一年七月十日

 平岡潤

Img_2892c  さらにその西、本堂に向かって左手には、こちらの石碑があります。桑名市教育委員会の文化財のサイトによれば、照源寺には、以上の他に、松平定信歌碑、庵宗九(松尾流茶人)歌碑、深川照阿(幕末から明治にかけての連歌師)歌碑があるとされています。これらのいずれかという気もするものの、五七五七七になっていないように思われます。碑陰を見てこなかったので、不明。見て回った範囲で、石碑はこれが最後でしたが、見逃しているということになります。宿題を残しました。

Img_2911c_20210203191301 Img_2908c_20210203191501  照源寺には、最近、御堂てらカフェがつくられました。営業は、毎週 木・金曜日、午前8時~午後3時までとなっています。家内からは、一度行ってきたらと勧められていますが、まだその機会はありません。メニューは、右の写真のとおり。なかなかよさげ。

Img_2914c  最近は、照源寺のように松平家菩提寺という由緒だけでやっていくのは難しいようで、来迎殿(宗旨宗派は問わないとか)という納骨堂の他、この写真のように、ペット供養の合同埋葬や、個別埋葬も行っています。

Img_2921c_20210203192101 Img_2925c  円妙寺、照源寺とも歴史のあるお寺で、長くなりました。10時50分頃に照源寺を出て、北へ。尾野神社に行く途中、真宗大谷派の東光山専明寺がありますので、ちょっとだけ立ち寄ります。ネット検索では、これという情報は出て来ません。

Img_2931c  専明寺の山門をくぐった左手には、「故村長伊藤常七翁之碑」。大正元(1912)年10月の建立。このあたりは、東方村であったと思いますが、明治22(1889)年に市町村制が実施されたとき、桑名村、尾野山、西方村、太夫村、北別所村、播磨村、福島村、上之輪新田、西汰上村、東汰上村、蛎塚新田が合併して大山田村となっています。いずれかの村長を務めた方と思われますが、ネット検索では、情報は何も出て来ません。碑陰を見てこなかったのが、失敗。この失敗、毎回、必ず繰り返しています(苦笑)。なかなか学習しません。

 3回で終わるつもりが長くなりましたので、その3はここまで。その4で完結するはずですが、その4では、尾野神社について。

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2021年2月 1日 (月)

20210201勝手に養老鉄道ハイキング「桑名駅西歴史散歩」(予告編)

Img_2344c_20210201212201  下調べはしていたものの、日程的には、ほぼ思いつきで出かけてきました。「勝手に養老鉄道ハイキング『桑名駅西歴史散歩』」というタイトルにしましたが、「養老鉄道ハイキング」となったのは、結果論。「くわな史跡巡り」という桑名市文化課が、平成28(2016)年3月に刊行した本があります(ミス多発で、すぐに販売停止され、今日に至っていますから、稀覯本といえるかも知れません)。これの122~125ページにある「駅西コース:照源寺コース」を参考にコースを組み立てたのです。あれこれ見て回り、写真も多数になりますので、今日のところは予告編。

210201ekinishi0  こちらが歩いたコース。播磨郵便局あたりから先日行った岸西山の西を通って南下。県道142号線を越えて、北別所神明社、北Img_3123c 別所中世墓、高塚第三公園、高塚山古墳(途中で断念)、式部泉あたり、土佛山聖衆寺、立坂神社𦾔跡、円妙寺墓地、大福田寺、円妙寺、東海山照源寺、専明寺、尾野神社と回って、養老鉄道播磨駅にゴール。播磨駅で10分待つと桑名駅往きの電車がありましたので、ここで初めて「勝手に養老鉄道ハイキング」となった次第。現地で歩いたのは、6.5㎞。桑名駅から自宅が1.2㎞ほど。スマホのALKOOでは、16,091歩(12.3㎞は、電車その他を含んでいると思います)。

Img_2354c_20210201192601  スタートしたのは、故あってこのあたり。播磨郵便局が見えています。ここから坂道を登って、高塚、北別所当たりの住宅街をImg_2383c_20210201194101進んでいきます。県道142号線(国道1号線宮前交差点から大山田方面に通じています)を越え、旧・桑名市民病院(前桑名西医療センター)の南を通って行きます。すでに建物は解体され、更地になっています。早ければ、昨年、有料老人ホームと分譲型の医療モール、介護ショップを併設した調剤薬局など開業するということでしたが(こちら)、まだ建物は見えませんでした。

Img_2395c_20210201192601  旧・市民病院の南、歩き始めて1㎞で北別所神明社。創始は不詳。織田信長の伊勢侵攻の時、桑名ではここに本陣を置いたとImg_2398c_20210201194701 いいます。神社の由緒には、織田信長在陣の時、当神明社を崇敬し、幣帛等を奉納し、また、社内に公の駒繋の松と伝える松があったといいます。

Img_2424c  「くわな史跡巡り」には、北別所神明社から道をはさんだ南に「北別所中世墓」があったとあります。ただし、発掘されずに破壊され、詳細は不明。瀬戸焼の壺が出土し、墓があったといいます。今は、左の写真のように、建物が建っています。たぶんここと思います。

Img_2438c_20210201195301

 北別所神明社からは西へ。坂道を登っていきます。登り切って、高塚の住宅団地の西の端にImg_2445c_20210201192601 高塚第三公園。標高70m弱。スタート地点が12~13mでしたから、かなり登ってきました。この公園の西に高塚山古墳があります。15年前に訪ねています(2006年2月11日:標高88.62メートル)。再度訪問しようと思ったのです。

Img_2450c_20210201192601 Img_2466c_20210201192601  高塚山古墳に登ろうかどうしようか迷っていたら、地元にお住まいの男性が通りかかられたので伺ってみました。「う~ん、行けるけど、今は難しいよ」ということでした。しかし、まあせっかく来たからと登りかけたのですが、途中で右のような状態。この古墳、竹林になっているのですが、最近は人の手が入っていないようで、かなり荒れていました。男性も、「古墳の標識も、今は倒れてしまっている」とおっしゃっていましたので、登るのは結局、断念。

Img_2471c_20210201192601  こちらは、左の写真の先の曲がり角から見た東の方。長良川河口堰、伊勢大橋の向こうには、名古屋駅前のImg_2478c_20210201200401 高層ビル群まで見えました。

Img_2480c  高塚第三公園まで戻って、竹林沿いの道を行きます。この先に式部泉といImg_2498c うのがありました。平安時代の歌人・和泉式部が硯の水にした、あるいは、長嶋一揆の時、江州住人山本式部何某が討れて、その首を洗ったという話しがあります。式部泉がどこにあったかは、今となっては不明。雰囲気というか、イメージというか、京都の嵯峨野を彷彿とさせる静けさがあります。外からの音が、竹に吸い取られているような感じでした。ちなみに、和泉式部にまつわる説話、伝説は、民間信仰と結びついて広く各地に分布しているといいますから、硯の水にしたというのも真偽は不明と思います。

Img_2642c_20210201192701  数分歩くと土佛山聖衆寺(どぶつさんせいしゅうじ)に至ります。桑名では「土佛さん(どぶっつぁん)」と呼ばれます。建仁4(1204)年創建の古刹ですが、信長の伊勢侵攻の時に焼かれ、詳細は不明。江戸時代の中頃、瓦師岡本信行が再興し、焼き物で阿弥陀如来(市文化財)をつくったため、「土佛さん」といわれます。伊勢七福神(恵比寿神)にして、三重四国八十八箇所第2番札所。ここで2㎞。

Img_2595c Img_2632c_20210201202201  土佛さんの奥には、秋葉三尺膨大権現。聖衆寺の奥の院の秋葉堂になります。ここには、秋葉三尺房大権現、恵比須神、天手力雄命、九頭龍大神、地蔵菩薩、聖観世音菩薩、大聖歓喜天などが祀られています。高台で見晴らしがとても良く、往時は景勝地として憩いの場所であったと伝えられています。右の写真は、少しズームアップしていますが、名港トリトンまで見えています(ちなみに、拙宅マンションも写っています)。

Img_2665c_20210201192701  聖衆寺から東へ。市街地の方へ歩いて行きます。3.2㎞ほど、照源寺霊園の西まで来ました。ここには、尾畑城跡があります。左の写真で正面の小高い丘がそれ。ただ、今は私有地になっていますので、入れません。ここには、やはり15年ほど前に来ています(2006年1月9日:尾畑城跡を求めて6.5㎞)。史料には、田辺伊勢丸が居城したとありますが、築城時期など詳細は不明。土塁を巡られた方形の曲輪が残っているといいます。

Img_2671c_20210201192701  続いては、立坂神社があった跡へ。桑陽(そうよう)保育所の敷地当たりにあるはずと思って行ったのですが、なかなか見つImg_2686c_20210201192701 けられず、ちょっと苦労。とうのも、石碑は西向きに建っているのですが、この浦の方から西に向かって歩いていたので、見えず、通り過ぎてウロウロしたという次第。その昔は、田宮村。産土神の高野御前を祀ったといいます。海善寺の僧が修行に出る時、道中安全を祈願して草鞋を供えたので、草鞋社ともいったといいます。ここにあった立坂神社は、尾野神社に合祀されています(新矢田にある立坂神社は、もともと矢田八幡社と称しており、明治以後、式内立坂神社と称しています)。

Img_2697c_20210201192701  県立桑名高校の北を通って、円妙寺墓地へ。桑名藩6代藩主・松平定良(1632~165 7)とその正室養仙院の墓があります。Img_2709c_20210201192701 定良は、明暦3(1657)年7月18日、26歳で病没。日蓮宗を信仰したので、松平家の菩提寺照源寺とは別に、円妙寺が創建され、ここに葬られました。法名光徳院円妙日法大居士。右は、定良の墓。円妙院はもともとこの墓地の東北あたりにあったといいます。

Img_2737c_20210201192701 Img_2753c_20210201192701  神宝山法皇院大福田寺。聖徳太子創建と伝えられる真言宗のお寺。山門は江戸時代建立といわれています。毎年2月3日には節分祭が行われますが、すでに賑わっており、門前には露店も出ていました。奈良の生駒、東京の待乳山と並んで、日本三聖天の一つといわれます。ちなみに、今年の豆まきは中止。賑わっていたので、早々に撤退。ここはまだゆっくりと見て回ったことはありません。

Img_2770c_20210201192701 Img_2793c  大福田寺の東には、円妙寺。日蓮宗のお寺。上述のように、定綱系久松松平家第2代当主で伊勢桑名藩主(第6代)の松平定良の菩提寺として建立されました。宝暦年間(1751~1764年)に火災に遭い、境内が全焼したので、当時の旧桑名藩主・久松松平家の領国である陸奥白河藩へ移転しました(ただし、養珠庵と仙妙庵と墓地はそのまま当地に残っています)。文政6(1823)年、白河藩の久松松平家が、桑名へ再び国替えとなり、当寺も桑名に戻って来ています。山門は、嘉永年間(1848~1855年)に建てられ、戦災に遭わず現在に至っています。

Img_2805c  円妙寺の後は、東海山照源寺へ。浄土宗のお寺。ここでほぼ5㎞。寛永元(1624)年、桑名藩主であった松平定勝公(徳川家Img_2855c 康公の異父弟)が亡くなったとき、二代将軍徳川秀忠の命によって、定勝の子・松平定行公が建立した寺。ここは私の好きなお寺で、たびたび訪れています。

Img_2895c_20210201192801 Img_2902c  いろいろな石碑などがありますが、何といっても「松平定綱及び一統之墓所」があります(県史跡)。定勝の他、久松松平系の定綱他の一統の墓、26基が並ぶのです(2013年7月1日:照源寺へ、しかし、ハスは空振りで、松平定綱及び一統之墓所へ……昨日の散歩)。時刻は10時50分頃。

Img_2949c_20210201192801 Img_2961c_20210201192801  照源寺からは北へ。大成小学校のすぐ北に尾野神社。創立不詳。尾野山の北の鼻山に鎮座していたのを、船着大明神の社へ奉還したといいます。社殿は(右の写真)、尾野神社(向かって左)と、立坂神社(向かって右の小さい社)からなっています。尾野神社の御祭神は、天押帯日子命(あめおしたらしひこのみこと)。

Img_3016c_20210201192801 Img_3025c_20210201211301  境内には、「船繋ぎの松」があります。1,000数百年前、このあたりは海陸交通の接点でした(慶長の町割以前、このあたりで町屋川と大山田川が合流し、船の出入りがあったと伝わっています。また、この尾野神社のあるところは、尾野山城跡といわれます。尾野神社の別当・正斎坊が居城し、信長の伊勢侵攻で滅ぼされました。ここは、小野津臣の始祖を祀るといわれ、前方後円墳の形をとどめているそうですが、登り口がやや不安定で下ので、今日はパス。現在、前方部は現在大成小学校の校庭になっています。

Img_3059c  これで、今日訪ねようと思っていたところはほぼコンプリート。養老鉄道播磨駅に11時25分に到着。時刻表を見たら、11時Img_3090c_20210201192801 35分に桑名行きがありましたので、これで帰ることにしました。桑名駅までは1駅、¥210。桑名駅には11時38分着。徒歩にて、12時前に帰宅。ずいぶん長くなりましたが、以上、取り敢えず予告編。明日以降、暇を見て、本編を書きます。

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2021年1月 6日 (水)

2020JRさわやかウォーキング・近鉄ハイキング・勝手にハイキングの記録

 令和2(2020)年のJRさわやかウォーキング、近鉄ハイキングおよび勝手にハイキングなどの記録です。令和2年は、新型コロナウィルス感染症に翻弄され、JRさわやかウォーキングと近鉄ハイキングは2月下旬から10月まで中止されました。11月から再開されたものの、近鉄ハイキングはあちこちでの企画はなく、常設コースのみの開催(一部でアプリを利用できるようになりましたが)。JRさわやかウォーキングも回数は少なく、遠くに行くのが憚られる感じで、再開後は、11月に1回参加したのみ。この間、市内の旧街道を中心に勝手にハイキングを企画し、一人であるいは友人と歩きました。この記事は、それらの記録です。それぞれのハイキング・ウォーキングの主な立ち寄り箇所、スタート~ゴール時刻、現地で歩いた距離、かかった費用が併記してあります。

    1. 2020/01/11 JRさわやかウォーキング「あいち・なごや生物多様性EXPOと宮の渡し跡から熱田神宮」 名鉄ハイキングとの共催、JR笠寺駅をスタートし、松重閘門、名古屋国際会議場(あいち・なごや生物多様性EXPO)、白鳥庭園、白鳥公園、宮の渡し跡、秋葉山円通寺、熱田神宮を経て、名鉄神宮前駅がゴール。9時33分~13時13分、8.4㎞、¥1,300
    2. 2020/01/12 近鉄ハイキング「高田本山専修寺『お七夜』と寺内町散策へ」 近鉄江戸橋駅をスタートし、勝久寺、魚歳食品(はんぺいの試食あり)、石積神社、窪田の常夜燈、高田本山専修寺(「お七夜」が行われていました)、一身田寺内町の館、おぼろタオル、江戸橋駅がゴール。9時25分~13時15分、11.2㎞、¥1,400、お昼は、専修寺でお非時をいただきました
    3. 2020/01/26 近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 細川酒造の銘酒『上げ馬』と多度大社・追儺祭」 同級生K氏の近鉄ハイキングデビュー(酒蔵みてある記が魅力の様子)。養老鉄道多度駅をスタートし、鯉料理の大黒屋、多度大社、細川酒造へ。試飲ののち、即売会でワンカップと焼き蛤を入手し、小宴会で満足。岩や姫から三重交通の臨時バスで多度駅へ、ゴール。9時50分~13時40分、6.3㎞、養老鉄道が¥620、バスが¥350。細川酒造では、お楽しみ抽選会で「純米酒 上げ馬720ml」が当たりました。ワンカップ、つまみで¥1,000、2時間も滞在(微笑)。岩や姫で軽い昼食(焼きそば、¥350)
    4. 2020/02/01 JRさわやかウォーキング「加納城下町と節分の巨大赤鬼が立ち並ぶ中山道をぶらり散策」 JR岐阜駅南口から清水緑地、加納城跡、玉性院、加納天満宮、芝生広場で丸窓電車を見て、岐阜駅北口にゴール。9時35分~11時25分、5.7㎞、¥1,640。昼食は、岐阜駅ビルのASTY岐阜にある「赤い鳥」という焼き肉店で「鶏(けい)ちゃん炒めランチ」(税別¥800)
    5. 2020/02/02 JRさわやかウォーキング「~新春キャンペーン~令和2年2月2日に、津の真ん中ウォーク 藤堂高虎ゆかりの地と日本三観音『津観音寺』を訪ねて」 チラシに「ツゥ、ツゥ、ツゥの日にツゥの真ん中ウォーク」とありました。JR津駅東口をスタートし、津偕楽公園、比佐豆知(ひさずち)神社、お城公園(津城跡)、高山(こうざん)神社、観音橋、大門商店街、津観音寺、四天王寺を経て津駅がゴール。9時35分~12時40分、9.7㎞、JRさわやかウォーキングなのに、往復とも近鉄利用で¥1,400。昼食は、津駅ビルのChum2階にある「美濃味匠」で「きまぐれ総菜弁当(¥648)」。イートインすると、味噌汁がサービスでつくのがありがたい
    6. 2020/02/08 近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 銘酒『鈿女』伊藤酒造と智積養水をたずねて」 近鉄高角駅をスタート、一生吹山(いっしょうぶきやま:標高109m)を上り、毘沙門天に参拝。大師堂、椿岸神社、智積養水、西勝寺から伊藤酒造へ。ゴールは近鉄桜駅。酒蔵見学、試飲のあと、同級生K氏と現地にて小宴会(熱燗一合(¥300)と、おつまみセット(酒粕入り特製チヂミと枝豆;¥250))。9時55分~12時20分、4.3㎞、¥860
    7. 2020/02/09 近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 早川酒造部『天一』」 連日の酒蔵みてある記(微笑)。近鉄伊勢朝日駅をスタートし、旧東海道を少し歩いて、朝日町歴史博物館、若松園(和菓子屋)、川越町に入り、朝明川沿いを歩いて早川酒造部で酒蔵見学、高松八幡神社、山武食品を経て、近鉄川越富洲原駅がゴール。9時25分~12時15分、8.2㎞、¥470。早川酒造部では、「しぼりたて 本醸造 蔵出し生原酒」と「純米酒 天一」の2種類を試飲。さらに、「純米酒天一」のワンカップ(¥200)と山武食品が出店している店で焼きたて鯛蒲(¥300)で一人宴会。その後、高松八幡社でも御神酒として「天一」をいただきました
    8. 2020/03/01 勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道を歩く(川口町~下深谷)」 新型コロナウィルスで、鉄道会社のハイキング/ウォーキングも軒並み中止となってしまい、「勝手にハイキング」を企画。まずは、美濃街道を多度まで、2回に分けて歩くことに。桑名市川口町の歌行燈本店脇にある東海道と美濃街道の追分をスタート、三崎通、堤原を経て北へ(福島縄手)、上之輪、汰上(ゆりあげ)を通って深谷まで。深谷で南楽寺、角の地蔵、深江神社、雨尾山味光院飛鳥(ひちょう)寺を回り、養老鉄道下深谷駅がゴール。8時35分~11時10分、7.5㎞、¥260
    9. 2020/03/06 勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道を歩く(下深谷~多度)」 播磨駅から養老鉄道に乗り下深谷駅へ。そこから、法光寺、三砂川、森大明神社、明光寺、大淀の松跡、徳蓮寺、延柳寺、野志里(のじり)神社、肱江川を渡り、船着社、尾津神社(戸津)、尾津神社(小山)を経て、養老鉄道多度駅がゴール。多度の町の中で迷い、旧戸津村の庄屋屋敷・長屋門を見られず(美濃街道ウォーキングマップにミスがあったためと判明)。8時55分~11時30分、7.9㎞、¥520
    10. 2020/03/15 勝手に三岐鉄道ハイキング「桑名の員弁街道を歩く(三ツ矢橋から三岐鉄道北勢線・星川駅)」 「勝手にハイキング」企画の第2弾。「桑名の員弁街道を歩く」に出かけてきました。員弁街道(濃州道)は、桑名市の三ツ矢橋町から、東員町鳥取、いなべ市員弁町笠田、いなべ市北勢町阿下喜、いなべ市藤原町川合などを通り、いなべ市藤原町山口で巡見道と合流して濃州(今の岐阜県)へ向かう街道。近鉄益生駅に集合し、有王塚・俊寬塚を見たあと、員弁街道起点の三ツ矢橋交差点へ。馬道辺りで善龍寺、走井山勧学寺、玉三(たまみつ)稲荷神社、いくつかの地蔵堂、額田神社標柱を見て、員弁川の堤防から星川駅にゴール。9時~11時25分。6.6㎞、¥400。昼食は、昨年7月に閉館した桑栄メイトのエベレストでカレーランチ、¥700
    11. 2020/03/29 勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング「桑名の員弁街道を歩く(星川~東員)」 三岐鉄道北勢線星川駅をスタートし、星川城跡、星川神社、安渡寺、森忠名神明神社、天皇八幡神社、クロガネモチの木(市天然記念物)、大日堂と地蔵堂、弁天橋、穴太徳(あのうとく)の碑、延命地蔵堂、そりみ坂の句碑、鳥取塚と珪化木の碑を経て、三岐鉄道北勢線東員駅にゴールするのですが、その直前、カフェレスト・ラフィーネで昼食。オムライス・ランチセット(¥980)。10時55分~13時40分(朝方、雨模様でスタートを遅らせました)、8.4㎞、¥580
    12. 2020/04/03 勝手に養老鉄道ハイキング「専通寺のしだれ桜と羽根谷だんだん公園(養老鉄道・駒野駅)」 散歩友達の勧めで海津市にある専通寺のしだれ桜と、羽根谷だんだん公園の桜などを見てきました。養老鉄道駒野駅がスタート&ゴール(往きは播磨駅から乗車、帰りは桑名駅まで)。駅のすぐそばに市神神社、ナイガイテキスタイルの工場脇から薩摩カイコウズ街道と国道258号線を渡り、専通寺へ。しだれ桜を見たのち、羽根谷だんだん公園。ソメイヨシノの見応えある桜並木を眺め、上流にあるさぼう遊学館方面へ。ヨハネスデレーケが指導してつくったという「巨石積み堰堤(砂防ダム)」を見て駒野駅に戻りました。9時20分~11時35分、5.7㎞+α、¥940
    13. 2020/04/11 勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング「員弁街道を歩く(東員~楚原)」 員弁街道ハイキングの第3弾。三岐鉄道北勢線東員駅をスタートし、チリン坂・律師智傳之碑を見て、員弁街道に入り、大谷神社、大泉駅に併設された「うりぼう(農産物直売所)」、大谷神社(通称長宮)、神明社、石仏墓地(美濃国守護・土岐大膳太夫父子の墓)、ヨシヅヤ員弁店のスガキヤで昼食。「直火焼き塩豚カルビ丼・サラダセット(¥350)」。その後、ねじり橋・めがね橋を見て、楚原駅にゴール。9時10分~13時45分、11.3㎞、¥770
    14. 2020/05/01 「ご近所神社めぐりその1その2」 目先を変えて気分も変えようと、「ご近所神社めぐり」と銘打って歩きました。国道1号線沿い、市役所から南あたりにある立坂神社、神舘神社、八重垣神社、若宮町から大福を回って、旧東海道にある一目連神社、本願寺跡・梅花仏鏡塔、天武天皇社、伝馬公園、金刀比羅社と巡ってきました。8時20分~11時10分、6.9㎞、全コース徒歩のため¥0
    15. 2020/08/17 「村正史跡めぐりスタンプラリー」 桑名宗社の「宝刀村正特別公開」に合わせて、8月13日から31日まで「村正史跡めぐりスタンプラリー」が企画されていました。うちわ型スタンプラリー台紙を持って、市内8か所の村正にゆかりあるチェックポイントを回り、コンプリートしたら村正の鐔(つば)の形をした記念ピンバッジがもらえるのです。桑名宗社に集合し、京町交差点、走井山勧学寺へ。ここで最初のスタンプを押し、ゴールに向かいます。和菓子屋さん・玉川軒、旧東海道を通って天武天皇社、寺町近くの仏眼院、我が家近くの浄土寺、七里の渡し跡と歩き、最終ポイントの柿安コミュニティパーク入り口にある本多忠勝像を経て、桑名宗社にゴール。9時過ぎ~12時、7.9㎞。全コース徒歩にて、¥0。39.2℃という猛暑のもと、玉川軒で葛アイス(¥200)を食べ、あちこちで休憩し、水分補給
    16. 2020/10/03 勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング「員弁街道を歩く(楚原~阿下喜)」 雨で予定が狂ったり、猛暑を避けたりして、前回からずいぶん日にちが経ちましたが、員弁街道ハイキングの第4弾。楚原駅をスタートし、いきなり寄り道(楚原神社、天白神社、真養寺)ののち、1㎞あまり歩いて、員弁街道(濃州道)に戻り、瑞龍院観音堂、寝覚めの橋、文治の墓から大聖不動。山田橋あたりまでは員弁街道を辿っていきましたが、旧・員弁街道はここから現在の員弁街道(県道5号線)の方へ回るため、別ルートへ。久保院・麻績塚古墳・戦没者紀念碑に立ち寄り、麻生田(おうだ)で旧・員弁街道に戻り、いなべ市北勢町阿下喜へ。阿下喜では、大西神社の御旅所、献燈籠を見て、巡見道(枝道)との分岐点まで。昼食を摂るのに、ちょっと歩いて「カドヤ食堂」にてカツ丼(¥700)。その後、阿下喜駅まで下ってゴール。途中、萬笑院にも立ち寄ろうと思ったものの、ちょっと行き過ぎてしまい、断念。9時10分~13時28分、約9㎞、¥940。
    17. 2020/10/07 「桑名城惣構ツアー」 ネットで知り合った方のご依頼で桑名城の惣構を案内。夏に何度か下調べをしました。惣構(そうがまえ)とは、城や砦の外郭、またはその囲まれた内部をいいます。今回は、惣堀を一周。ご一行4名の方とは、柿安コミュニティパークにある本多忠勝銅像で待ち合わせ。九華公園(桑名城址)、中橋から歴史を語る公園あたりの桑名城城壁、春日神社の青銅鳥居、志るべ石、貝塚公園を経てはまぐりプラザへ。ここで昼食(焼きはまぐり定食(¥2,000)をご馳走になりました)、赤須賀漁港のところから、東野神社、桑名税務署北、日進小学校南、伝馬公園、掛樋・一色町・鍛冶町辺りの遊歩道、吉津屋見附跡から東海道を京町見附跡(京町公園)へ。一部、寺町商店街を通って、桑名別院本統寺で芭蕉の句碑を見て、本多忠勝の菩提寺である浄土寺へ。その後、拙宅前の住吉入江まで。ご一行は、このあと六華苑をご覧になって、揖斐川沿いを歩いて、七里の渡し跡、蟠龍櫓から本多忠勝銅像に戻られました。「ブラタモリ」みたいでおもしろいといっていただいたので、素人ツアコンとしては一安心
    18. 2020/10/31 勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング「員弁街道を歩く(山口~阿下喜)」 員弁街道ハイキングの最終回。これまでの続きからすると、三岐鉄道北勢線阿下喜駅から員弁街道の終点(巡見街道との合流点)まで歩くのですが、そうすると、帰りに困ります。それ故、阿下喜駅からいなべ市藤原町山口の巡見街道と員弁街道が合流する辺りまでタクシーで行き、阿下喜駅に戻るコース。合流点近くの常夜燈までタクシー(¥2,990)。本郷社、円琳寺、猪名部神社、徳円寺、川合神社、春日神社、うどん釜田で土曜限定ランチ(天ぷらランチ、¥980)、大西神社と回り、阿下喜駅にゴール。10時35分~15時、8.9㎞、三岐鉄道¥1,020、タクシー割り勘¥1,000
    19. 2020/11/08 JRさわやかウォーキング「蟹江町を散策。寺社・史跡巡り」 JR蟹江駅をスタートし、蟹江城跡、蟹江神明社、甘強酒造(残念ながら試飲軽く1杯のみ)、銭洗尾張弁財天富吉神社、まちなか交流センター「楽人」、尾張温泉かにえ病院のところにある「足湯かにえの郷」、観光交流センター「祭人」、富吉建速神社・八剣社と蟹江山龍照院、ゴールは蟹江駅そばにある「はつらつ公園」。昼食は、蟹蟹フェアでゲットした魚屋バーガーの「蟹コロバーガー(蟹みそ入り、¥600」をはつらつ公園にて。9時30分~11時55分、8.5㎞、¥480
    20. 2020/12/19 「桑名の八風街道を行く(東金井から能部へ)」 JRさわやかウォーキングや近鉄ハイキングの代わりに市内の旧街道を歩こうと考えました。美濃街道、員弁街道に続いて、この八風(はっぷう)街道。本来の八風街道は、四日市市富田一色を起点として東海道と交差し、大矢知、平津(へいづ)を経て菰野町田光(たびか)で巡見道と合流、八風峠を越える道です。桑名では、町屋川右岸の街道を八風街道を呼びます(くわな史跡めぐり)。町屋川右岸の道が田光付近で四日市からの八風道と交わるからとも、桑名の道が、昔は八風道と呼ばれていたからと、諸説があります。桑名の八風街道は、桑名市東金井(ひがしかない)から志知(しち)まで約7㎞、その先は東員町に入ります。志知から先はルートがよく分かりません。この日は、三交バスで桑名駅前から日の出橋行きに乗車、城南口で降りて1㎞ほど歩き、東金井の八風街道起点へ。春日神社、徳元寺廃寺、御講堂、薬師堂、須賀神社を回り、桑部城跡を眺め、桑部の町で教専寺、善徳寺、長谷(ながたに)神社。能部(のんべ)神社にも行く予定が、帰りのバスの時間の都合で、八風バス能部バス停がゴール。9時40分~12時20分、7.0㎞、¥550。昼食は、桑名駅前に戻ってサンファーレ1階にある貝侍で「伊勢津唐揚げ定食(¥780)」

 以上、20回が令和2(2020)年のハイキングのすべて。前半の方が良く出かけていました。去年は、短大の非常勤の授業が、新型コロナウィルス感染症のため、開講が6月24日と遅れ、また、すべて遠隔授業となりました。その方針が定まった6月初旬からはその準備、後処理などに追われていました。また、去年の夏も猛暑でした。今年もまだまだ新型コロナウィルス感染症の収束は難しいでしょう。JRさわやかウォーキング、近鉄ハイキングなどどうなるでしょうか。

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2020年12月19日 (土)

20201219桑名の八風街道を行く(東金井から能部へ)

Kuwanahappu  今日は、タイトルのように、桑名の八風街道を歩いてきました。本来の八風街道は、四日市市富田一色を起点として東海道と交差し、大矢知、平津を経て菰野町田光で巡見道と合流、八風峠を越える道です。桑名では、町屋川右岸の街道を八風街道を呼びます(くわな史跡めぐり)。これは、町屋川右岸の道が田光付近で四日市からの八風道と交わるからとも、桑名の道が昔は八風道と呼ばれていたからと、諸説があります。桑名の八風街道は、桑名市東金井から志知まで約7㎞あります。その先は東員町に入るのですが、東員町から先はルートがよく分かりません(調べがついていないということ)。コロナであちこちで歩くのも憚られますし、JRさわやかウォーキングや近鉄ハイキングも一時期中止されましたので、「桑名の街道を歩く」一環として桑名市内の八風街道を歩こうと考えた次第。このマップは、桑名市内の八風街道の全体。

1219happu  これを2回に分けて歩くこととしました。今日は、東金井(ひがしかない)から能部(のんべ)まで。町屋川の右岸(南側)です。東金井、西金井、桑部、能部と歩いてきましたが、桑名の八風海道の始点は、町屋橋をわたった先、朝日町との境目あたり、春日台公園の近く(「くわな史跡めぐり」による)。東海道が通っているところからやや北からという、ちょっと中途半端なところ。なぜここが始点かは、不明。

Img_5406c  スタート地点まで行くのにもっとも便利なルートは、三交バスで桑名駅前から、日の出橋行きに乗車して、城南口で降りて1㎞Img_5408c_20201219193701 ほど歩くもの。日の出橋行きのバスは、町屋川へバードウォッチングに行くときに利用するバス。桑名駅前のバスターミナル・3番乗り場から9時30分発の日の出橋行きのバスに乗車。城南口には9時39分着。¥210。町屋橋を渡って、東海道を横切って行きます。

1219happu1  こちらが詳しいルートマップその1。春日台公園あたりから北西へ。JR関西線、近鉄名古屋線を越えて行きます。東金井公民館の近くで、春日神社と徳元寺。西金井バス停のところで、御講堂、薬師堂、須賀神社と立ち寄りながら、八風街道を進んでいきます。

Img_5482c  東金井の公民館。公民館というからにはもう少し立派な建物を想像していました。けっこう古くて、小さいImg_5476c (失礼)。古い看板や、町内案内板が壁一杯にあります。何となく懐かしい光景。公民館の手前には、地蔵堂と「蓮如上人御𦾔跡」の石碑。この石碑、中央のやや下で二つに折れたようです。コンクリートで石碑を覆ってあり、いつ頃のものかなどは分かりません。

Img_5436c_20201219193701  ここで左折して春日神社へ。東金井に鎮座していた春日社、その境内摂社神明社、境内神社火霊社、山神社の3社が、明治41(1908)年、長谷神社(あとで訪ねます)に合祀になりました。戦後、氏子の総意により旧社地に分祀鎮座となっています。

Img_5438c_20201219193701  主祭神は、天児屋根命(あまのこやねのみこと:天照大神が天の岩屋に隠れたとき、祝詞を奏した神)。相殿神は、天照大御神大山津見命(おおやまつみのみこと:山を司る神)、火産霊神(ほむすびのかみ:火の神)。ちなみに、この春日神社の南側には金井城跡があります。松岡彦之進家勝が築城し、織田信長によって滅ぼされています。遺構は郭、土塁、堀、遺物は五輪塔。城跡に山家氏や戦没者の墓塚が見られるのですが、下調べ不十分にて見てこず。なお、松岡氏は、北勢四十八家のひとつ。

Img_5470c_20201219193701  春日神社の東に徳元寺(廃寺)。浄土真宗本願寺派の寺でした。徳元寺は東金井城主・松岡彦之進の被官・山家氏一族の祐Img_5465c_20201219193701 西坊により明応年間(1492~1501)に開基され、長島一向一揆の際に、信長勢に攻められて廃寺になりましたが、慶長5(1600)年に再興し、本堂は文化2(1805)年に建立されました。なのですが、平成に入って、廃寺。その後も、鐘楼堂のみ残っていたのですが、今はそれもありません。

Img_5449c_20201219193701  鐘楼堂の梵鐘は、明治初年まで、桑名の春日神宮寺(仏眼院)にあった北勢地方最古のものでした。寛永15(1638)年の銘があります。廃仏毀釈の際に徳元寺に買い取られましたが、さらにその後、平成29(2017)F3f5c514 年になって仏眼院が買い戻しています。仏眼院は何度も訪ねています(たとえば、2020年8月15日:寺町寺めぐりの続き)。右の写真は、仏眼院にあるその梵鐘。寛永15(1638)年、京都の冶工・近藤丹波、藤久の作で鐘銘は桑名藩三宅正堅の撰文だそうです。「くわな史跡めぐり」には、徳元寺の鐘楼の写真が載っていましたので、まだそれがあるものと思って訪ねたのですが、諸行無常。ちょっと残念でした。

Img_5488c_20201219193701  八風街道に戻って、西金井のバス停(コミュニティバス)から南西へ。まずは、御講堂。御講堂の前には、Img_5485c_20201219193701 地蔵堂がありますが、どちらも詳細は不明。御講堂は、お寺とはいえないようですが、内部には仏像も安置されているようです。宗旨宗派は分かりませんでした。

Img_5501c_20201219193801  御講堂の南西、社会福祉法人憩の裏手には、薬師堂があります。小高くなったところに立っていて、なかなかよい感じ。古墳か?という気もしましたが、定かではありません。由緒がありそうですが、これまた、詳細不明で、残念。ネット検索では限界があります。

Img_5510c_20201219193801  続いて、須賀神社。桑部にある長谷神社の分霊を祀る神社として、ここ西Img_5519c 金井に鎮座しています。由緒などは不明。須賀神社の本殿は、土蔵造りです。これは、昭和3(1928)年に桑部小学校の奉安殿としてつくられた建物を戦後、移築したものです。奉安殿は、天皇皇后両陛下のご真影と教育勅語を納めていた建物。余談ですが、私が通った小学校にも奉安殿が残っていた記憶があります。

1219happu2  詳しいルートマップはその2へ。桑部橋の南を通ります。桑部橋南の交差点の南には、桑部城跡があるのですが、信長の伊勢侵攻で滅ぼされ、現在は減失してしまっています。桑部の町に入って、教専寺、善徳寺、長谷神社を訪れていきます。

Img_5525c_20201219193801  桑部橋の手前あたりからは、藤原岳などがよく見えました。藤原岳には、一昨日の雪がまだそのまま残ってImg_5531c_20201219193801 いました。開けていて、このあたりでは風が強く、寒いこと(苦笑)。

Img_5535c_20201219193801  桑部橋南の交差点。写真の奥が桑部橋。左下方向へ進み、丘に上がったあたりに桑部城跡。今は減失してしまっています。リンク先に、桑部城跡の説明と発掘調査結果の概要があります。桑部城は、室町時代末期に築かれました。北城と南城とがあったと伝わります。北城の城主は毛利次郎左衛門、南城が大儀須若狭守で、両城とも織田信長の伊勢侵攻(1567年)により滅ぼされました。その後、小牧長久手の戦いのとき(1584)年、豊臣秀吉が改修を命じた古文書があるそうです。ちなみに、ここから先、今日歩いたところは、2019年2月9日に近鉄ハイキングで来ています(20190209近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 『北勢線応援酒』を発売する桑名の酒蔵・後藤酒造場をたずねて」(予告編))。

Img_5543c_20201219193801  桑部橋南の交差点の先から八風街道をそれて、桑部の町を歩くことにしました。途中、「町屋川珈琲」という洒落たカフェ。上記の近鉄ハイキングで来たときはありませんでした(昨年5月1日にオープンですから)。就労継続支援・生活介護などを行っている「風の子 ビレッジ」が営んでいます。

Img_5551c_20201219193801  町屋川珈琲のすぐ先に藤花山教専寺。その先に古城山善徳寺。いずれも真宗本願寺派の寺です。この2つのおImg_5561c_20201219193801 寺、由緒その他は、不明。

Img_5565c_20201219193801  さらに、長谷(ながたに)神社。「延喜式」にある「桑名郡長谷神社」と考えられています。村社。奈良時代、称徳天皇の神護景雲元(767)年、常陸国鹿島神宮の御祭神を勧請し、桑部村の地、谷の奥にあたる長谷に鎮座したといいます。常陸国から大和国への遷座の際、当地に立ち寄った使者が、藤原氏の興隆にあやかりたいと、当地の有力者の懇願による勧請だったと伝わっています。

Img_5581c_20201219193801 御祭神は、建御雷之男神(たけみかづちのかみ)、斎主神天児屋根命(あまのこやねのみこと)、姫大神品陀和気命(ほんだわけのみこと;応神天皇)、大山祇命(おおやつみのかみ;山の神)、天目一箇命(あまのまひとつのかみ;金工の神)、須佐之男命(すさのおのみこと;天照大神の弟。乱暴を行ったため、天照大神が怒って高天原から追放された。出雲に降り、八岐大蛇を退治し、奇稲田姫(くしなだひめ)を救い、大蛇の尾から得た天叢雲剣を天照大神に献じた)。 明治41(1908)年、能部神社、須賀神社、、春日神社を合祀していますが、昭和56(1981)年に春日神社(東金井字西谷)、昭和57(1982)年に能部神社を分祀しました。ちなみに、明治初年に至るまで、桑名春日神社(現桑名宗社)の神事において桑部の人たちが招聘され、当社の協力を得て行われたといいます。

Img_5591c_20201219193801  境内には、八天宮社がありました。八天宮は、火伏の神。桑名・員弁地方ではたくさん祀られているそうです(こちらに言及あり。八天宮は秋葉神社と同じとも書かれています)。それは、江戸時代・文政7(1824)年、桑名藩主の命で各村に八天宮を祭るようにされたからだといいます。

Img_5572c_20201219193801  また、一の鳥居をくぐった右側(西側)には、忠魂碑、日露戦役祈念碑、五箇条の御誓文を刻んだ石碑、まImg_5575c た、忠魂義胆郷党軍人記念之碑がありました。忠魂碑は、「桑名の戦争遺跡」によれば、昭和15(1940)年1月の建立。建立者は、石原末松。支那事変と太平洋戦争の戦没者83名の名が刻まれています。日露戦役祈念碑は、同書によれば、明治40(1907)年4月に山本鐵太郎他19名により建立され、日露戦争での戦没者7名と、従軍者36名の名前があります。この五箇条の御誓文碑は、桑部小学校にあったものを戦後、現在地へ移したそうです(こちらに記述があります)。忠魂義胆郷党軍人記念之碑は、明治28(1895)年2月、桑部村大字桑部壮年会が建てています。

Img_5584c_20201219193801  拝殿前の狛犬がちょっとユニーク。何と形容してよいかよく分かりませんが、髪の毛がベタッとなっている感じで、ユーモラス。狛犬は、いろいろあっておもしろいというか、退屈しないというか(微笑)。ここ長谷神社で一休み。作業に来ていらした氏子の方から、「何のハイキング?」と聞かれ、「勝手にハイキングをしている」と答えたら、大ウケ(爆)。今日の立ち寄り先は、ここまで。長谷神社を出たら、時雨れてきて、向かいにある桑部まちづくり拠点施設でしばし、雨宿り。今日のゴールは、能部のバス停(八風バス)に設定してありましたので、そこに向かいます。12時を過ぎていたので、立ち寄ろうと思っていた能部神社は、次回に回します。

Img_5597c  能部バス停。城南口からは、7㎞を歩いてきました。12時20分少し過ぎに到着。ここを12時39分に出る桑和駅前行きのバス1219happu3 がありましたので、それに乗ろうと思ってきたのです。この路線、昼間は1時間に1本しか走っていません。無事に予定のバスに乗って、桑名駅前まで。バスは桑部橋南から左折して、桑部橋を渡り、県道63号線へ。益生駅前などを通って、桑名駅前には12時58分着。¥340。

Img_5608c  サンファーレにある貝侍で昼食。伊勢うどんのタレでつけ込んだという唐揚げを試してみたくて、「伊勢津唐揚げ定食」をチョイス。¥780。なかなかの美味。量が多いというか、唐揚げ一つ一つがビッグサイズで、満腹。「普段、家で食べさせてもらえないものを食べるんだろう」と思われた方、大正解です(苦笑)。

Img_5614c  今日のALKOOのデータ。家に帰ってすぐに撮影するのを忘れましたので、若干増えていますが、16,773歩でした。自宅から桑名駅前のバスターミナルまでが、往復2.4㎞。今日歩いたのは、合計9.4㎞でした。次回は、1月中旬の予定。桑名の八風街道、後半を歩きます。

 

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2020年12月11日 (金)

20201211勝手にJRさわやかウォーキング三重・朝日町へ……朝日町歴史博物館の「古文書から歴史をよみとく-江戸時代の朝日-」を見て、井後神社、善照寺、移田神社、井後神社旧址へ

Img_2215c_20201211154401  晴れて、風もなく、穏やかな日になるという予報でしたので、「勝手にJRさわやかウォーキング」というか、「マイGO TO トラベル」というか、出かけてきました。「GO TO トラベル」とはいえ、私の場合は、「安・近・短」プラス「疎」です(微苦笑)。出かけた先は、お隣の三重県朝日町。桑名からはJR関西線で1駅。朝日町歴史博物館で開催中の「古文書から歴史をよみとく-江戸時代の朝日-」でも見て、その近くを歩いてこようという次第。

201211asahiwalking  桑名駅を8時51分に出る四日市行き普通電車に乗車、朝日駅には8時56分着(ただし、今日は3分遅れ)。¥190。朝日町歴史博Img_2227c_20201211154401 物館をまず訪れ、展覧会を見たのち、井後(いじり)神社、善照寺、移田(うつしだ)神社を回り、もう1箇所、井後神社旧址を確認してくる計画です。左は、今日、歩いてきたコースマップ。朝日町内には、旧東海道が通っていますが、これはすでに歩いています。また、何度か来ていて、名所旧跡、寺社仏閣のかなりのところは尋ねています。今日の2社1寺などだけが、未踏となっているので、それを埋めてしまおうということです。こちらに朝日町の観光マップがあります。

Img_2239c_20201211154401  朝日町歴史博物館は、JR関西線朝日駅からは400mほど。途中、南側の住宅団地のところに柿城跡が見えます(ここには、2度行っています:2016年10月13日:アオサギのお尻写真、モズ……午後からは朝日町歴史博物館へ、ついでにカワセミも見られました、2017年10月5日:朝日町歴史散歩へ……昼は、味噌天丼)。室町時代に沢木宗政によって築かれ、弘治3(1557)年、近江国の六角氏家臣・小倉三河守が伊勢に侵攻したときに滅ぼされたといいます。現在、城跡は公園として整備されていますが、残っているのは本丸部分だけで、わずかに土塁跡が確認できます。

Img_2250c  朝日町歴史博物館。教育文化施設の一角にあります。もう何度もお邪魔しています。企画展がなかなかおもしろいのです(たとえば、2018年11月9日:萬古焼の展覧会巡り……「再考!萬古焼」と「萬古焼の粋」へ、2017年11月3日:九華公園にヒドリガモ、ホシハジロ登場……午後からは、朝日町歴史博物館で「朝日のいにしえ-縄生廃寺-」展を見る、など)。今日は、「古文書から歴史をよみとく-江戸時代の朝日-」という展覧会(12月13日まで、入館無料)。秀吉や家康などの書状、橘の守部の書状など他、江戸時代初期から幕末にかけ、現在の朝日町内の様子などが記録された古文書が出展されています。個人的には、祭のために借金をした証文や、家に盗賊が入った村人が大声で叫ぶと皆が駆けつけ、盗賊が逃げ出したというエピソードが書かれた文書などの方がおもしろく思いました。じっくり見て回って、約30分、貸し切りで拝観してこられました(微笑)。

Img_2263c_20201211154401  朝日駅の西に戻り、南下し、井後神社を目指します。朝日駅の西口では、ポケットパークの工事中。近鉄伊勢朝日駅のとこImg_2266c_20201211154401 ろ、東海道沿いにもポケットパークがあります。駅の西から少しだけ坂を登っていきます。右の写真で前方の森が、井後神社。スタートの朝日駅からは約1.2㎞。

Img_2272c  裏参道から入ってしまいましたが、まあ勘弁していただきましょう。井後神社は、「いじり Img_2275c_20201211154401 じんじゃ」と読みます。創祀は不詳ですが、元は柿村大字井戸尻の田間に鎮座し、貴船大明神とも称したようです。延喜式内社とされています。明治41(1908)年、柿神社及び山神社を合祀したのですが、狭く、低地で洪水等の恐れがあり、かつ人家より離れていたため、明治44(1911)年、移田神社を合祀するにあたり、現在地すなわち旧柿神社に移転しています。

Img_2284c_20201211154401  主祭神は、高龗神(たかおかみのかみ:水を司る神)。相殿神は、建速須佐之男命(たけはやのすさのおのみこと:八岐大蛇を退治し、奇稲田姫(くしなだひめ)を救い、大蛇の尾から得た天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を天照大神に献じた神)、大山祇神(オオヤマツミノカミ:山を司る神)の2柱。上述のように、江戸時Img_2278c_20201211154401 代までは貴船大明神と称して高龗神を祀っていたといいます。京都の貴船神社は玉依姫命が水神を祀ったのが始まりとされる古い神社で、現在の祭神は高龗神。ちなみに、九華公園にある鎮国守国神社にも、高龗神を祀る小さな社があります。しかし、なぜ、水の神である高龗神を祀ったのでしょう。元あったところが低地で洪水の恐れがあったから、それを鎮めたいということでしょうか。

Img_2291c_20201211154501  境内には、拝殿に向かって左(南)にもう1つお社があります。このお社の脇にある由緒書きには、「多賀大社」も祀っているとあります。伊邪那岐神、伊邪那美神が御祭神。「明治の合祀ののち、護国の神霊もあわせて奉祀し奉る多賀大社祭神伊邪那岐神、伊邪那美神も井後神社境内に摂社として奉祀した」とあります。

Img_2311c Img_2328c  裏参道から入ってしまいましたので、気づくのが後になったのですが、表参道から登って来る途中に「山城門」という随身門(ずいじんもん)があります。随身門は、神社を守護する門守神(かどもりのかみ)を安置した神門。桑名宗社(春日神社)にもあります。

Img_2340c_20201211154501  門守神は、俗に左大臣、右大臣と呼ばれています。右、左は神様から見てですから、左の写Img_2330c_20201211154501 真が右大臣、右の写真が左大臣となります。左大臣が翁、右大臣は若者になっていると記憶しています。

Img_2348c_20201211154501  随身門の南東脇には、「力石」。四日市周辺では、寺社の境内、街道脇などにこういう「力石」が置かれているところがあります。

Img_2363c_20201211154501  この井後神社は、標高20mほどの小高い丘の上にあります。周囲を見ると、古墳か、城館でもあったところかと思ったのですが、帰宅後、調べてみたら、神社の西に「城ノ広遺跡」という前方後円墳があったようです。 

Img_2387c_20201211170301  この写真は、神社の南西にある井後神社交差点のところですが、向かって右が神社、左の奥に写っている、やや高くなった住宅地の辺りに古墳があったようです。井後神社を参拝し終えてちょうど10時。地名でいうと、柿(かき)から埋縄(うずなわ)へ向かいます。南東に進み、伊勢湾岸道のみえ朝日インターチェンジの近くまで。

Img_2394c  途中は、省略しますが、住宅地と水田の境あたりの道を歩いて行きます。左の写真には伊勢湾岸道や、その向こうにある中部Img_2405c_20201211154501 電力川越火力発電所の煙突が見えています。風はほとんどなく、暖かくて、散歩日和という感じ。2㎞ほど来て、曲がるところにこれから訪れる善照寺の案内標識と、移田神社の社号標、案内の石柱が立っていました。案内の石柱には、「延喜式内移田神社 是ヨリ二丁」とあります。一丁は60間、 すなわち約109mですから、218m。

Img_2422c_20201211154501  実は、いったんちょっと行き過ぎて、埋縄公民館まで行ってしまいました(苦笑)。光雲山善照寺です。真宗本願寺派のおImg_2442c_20201211154501 寺。寛永18(1641)年の創建で、本尊は阿弥陀如来立像を祀っています。説明書きによれば天正年間(1573~91年)に埋縄城主・疋田左京の菩提を家臣・西脇善照が弔ったのですが、その息子である善明が出家して、祐乗を名乗り、浄土真宗に帰依し、創建しました。疋田左京の菩提を弔った草庵は、字植松にあり、奥寺跡とされています。ご本尊の阿弥陀如来像は、「寛永十八辛巳年 八月十六日 釋良如 願主善照寺祐乗」とあるそうです。本堂は、入母屋造瓦葺きで、天保7(1836)年の建立。

Img_2455c_20201211154501  移田(うつしだ)神社は、善照寺の西にありますが、これまた丘の上。坂道というか、階段というかを登って行かねばなりまImg_2463c_20201211154501 せんでした。登り切ると、西の方に鳥居などが見えます。登り切ったところからは、朝日の町並みがよく見えて、気持ちの良いところです。歩いて行く右手には、みかん畑。

Img_2467c_20201211154501  鳥居の手前に地蔵堂。中にはお地蔵様が2体。「大本山信貴山王蔵院/ ?(梵字か?) 大僧正秀明和尚 不生?/ 蓮谷秀?/ 阿波密秀」という表示がありましたが、よく分からず。仏像の写真が2枚飾られていました。よく分からなかったのですが、移田神社の由緒書きに「大正10年頃跡地敷地内に大和信貴山から毘沙門天王を招いて祀り近年まで祀っていたが、後継者がなく、平成11(1999)年11月を以て信貴山にお返しをした」とありました。後述のように、移田神社は、明治41(1908)年にいったん、井後神社に合祀されていますので、その跡地に毘沙門天を勧請したということでしょう。上記の「大本山信貴山王蔵院……」はそれに関わるもの、また、仏像の写真は勧請した毘沙門天王かも知れません。

Img_2484c_20201211154501  移田神社。延喜式内社。朝日町には、農業に因んだと思われる名前の神社が他にもあります。苗代神社がそれです。井後神社もそうかも知れません。明治40(1907)年、神明社の境内一社と字北谷にある八幡社、字入ケ谷の山の神社を合祀しています。さらに、明治41(1908)年、井後神社に合祀されましたが、昭和27(1952)年、移田神社は分祀し、旧地に復帰しました。神殿、拝殿は、毘沙門天の跡に平成15(2003)年、新たに造営されています。

Img_2505c_20201211154501  主祭神は、埴安姫神(はにやすひめ:土をつかさどる神)、応神天皇大山祇命の3柱と神社検索三重のサイトではなっていImg_2522c_20201211190801 ます。しかし、由緒書きには、建速須佐之男命、天照大神、応神天皇、大山祇神となっています。その由緒書きには、「移田神社の祭神は神社に奉納されていた古い神名札に稲霊埴安神とあったといわれ、埴安姫神であったものをのちに天王といい、建速須佐之男命と呼ぶようになったと伝えられる」とあります。その後の経緯は、前のパラグラフの記述の通り。

Img_2513c_20201211154501  この神社の拝殿前の狛犬、ちょっとモダンな雰囲気というか、エジプトにあるスフィンクスのような感じ。狛犬にも実にいろImg_2509c_20201211154501 いろ、さまざまあります。

Img_2549c_20201211154601  拝殿の南側には、自然石でできた「山の神」と刻まれたと思われる石碑が一つ。そのそばにImg_2534c_20201211154501 は、狛犬。狛犬は本殿をはさんで反対側にも、対のものがありました。さらに、境内にはもう1つの社がありました。神明社か、八幡社か? 由緒書きにはありません。

Img_2556c  帰り際、拝殿前の鳥居脇・北の方に、これも狛犬でしょうか。ただし、1基しかなく、対にはなっていません。よく分からないこと、多々あります(苦笑)。ネットで調べても、これに関する情報は出て来ません。

Img_2571c_20201211154601  このあとは、来た道を戻り、井後神社の南へ。墓地の近くのお宅の屋根に、鍾馗様。その先に、井後神社のImg_2583c_20201211154601社号標がありました。こちらが表参道。本来であれば、こちらからお参りすべきでしたが、コース設定の都合上、裏参道からになったという次第。右の写真で奥に見える小高い森が、井後神社。

Img_2598c_20201211154601  JR関西線の踏切を渡ります。朝日駅の南西。「桑名道踏切」という名称。JRの踏切には、すべてこのように設置された場所に因んだ名前がついています。しかし、なぜ「桑名道」なのかは不明(昔から、桑名道と呼ばれたのでしょうが……)。この先は東海道に行き当たることが関係しているのかも知れません。

Img_2612c_20201211154601  その東海道に出て北東へ。100mほど東海道を歩いて、右折(南東へ)。この道は、JR朝日駅東口からまっImg_2619c_20201211192301 すぐ来た道。200mほど進み、左折(北東へ)。

Img_2656c_20201211154601  井後神社旧址は、地図でおおよそ見当はつけて来たものの、ちょっと探しました。「コーポラス貴船」の駐車場の一角にあるはず。左折して100mほどのところにコーポラス貴船がありました。その北東角、駐車場の一角に「井後神社旧址」の石柱。碑陰の文字は、薄くなっていて読めませんでした。周囲は、水田地帯だったところに住宅やアパートが建ってきたという印象。神社があったと思われる痕跡はありません。井後神社の説明のところに「江戸時代は、貴船大明神とも称したようだ」と書きましたが、ここに立つアパートが、「コーポラス貴船」というのは、それを知ってか知らずにか、興味あるところ。

Asahitown  これで、今日の目的地はコンプリート。左は、朝日町のサイトからお借りした観光案内図。今日のウォーキングでこのマップに載っている名所旧跡、寺社仏閣などはすべて訪ねました。

Img_2688c_20201211154601  JR朝日駅に戻ります。11時過ぎに到着。4.7㎞ほどを歩いてきました。ホームは、対面式。駅舎はありませImg_2712c_20201211154601 ん。階段を登ったところ、ホームの入り口にICカードをタッチする改札機が置いてあるだけ。11時21分に名古屋行き普通があり、それに乗車。桑名駅には、11時26分。¥190。電車は、往きも帰りに、1両に乗っていたのは4~5名。訪れた先でも、他の人はほとんどいません。歩いていたのは田舎道ですれ違う人もあまりなし。ということで、今日の「勝手にJRさわやかウォーキング」または「マイGO TOトラベル」は、無事終了。JR料金は片道¥190という「安」、桑名駅から1駅という「近」、8時半に家を出て12時前には十分帰宅という「短」にして、「疎」でした。

Img_2734c_20201211154601  我が家からJR関西線桑名駅までは往復2.1㎞ほど。トータルで6.8㎞、13,269歩を歩いてきました。歩数は、普段の散歩でちょっとよく歩いたなというくらい。天気もよく、暖かく散歩日和でした。

 

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2020年11月 8日 (日)

20201108JRさわやかウォーキング「蟹江町を散策。寺社・史跡巡り」へ(完)

1108kanie

 新型コロナウィルス感染症のため、2月からJRさわやかウォーキングも、近鉄ハイキングも中止になっていましたが、11月に入ってどちらも再開。ただし、近鉄ハイキングはイベントタイプのものはまだ行われず、常設コースに近い形。JRさわやかウォーキングは、感染症対策を施して、3密にならないよう配慮された、イベントタイプで行われるようになりました。ほぼ9ヶ月ぶりに参加(微笑)(近鉄ハイキングは、2月9日以来:20200209近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 早川酒造部『天一』」へ(完);JRさわやかウォーキングは、2月2日以来:20200202JRさわやかウォーキング「~新春キャンペーン~令和2年2月2日に、津の真ん中ウォーク 藤堂高虎ゆかりの地と日本三観音『津観音寺』を訪ねて」へ(予告編))。

Img_9465c_20201108162201  今日のJRさわやかウォーキングは、JR関西線蟹江駅がスタート&ゴール。受付は、8時半~12時。桑名駅を9時2分に出る名古屋行き普通に乗車。蟹江駅には9時21分着のところ、3~4分遅れ。¥240。蟹江のウォーキングは、去年11月3日にも開催され、参加しています(2019年11月3日:20191102JRさわやかウォーキング「老舗酒造『甘強酒造』の蔵開きと蟹江うまいもの巡り」(予告編))。

Img_9473c_20201108162201  駅前でコースマップ(冒頭の画像)と、「第3回蟹蟹フェア」のチラシを受け取ります。そして、久しぶりに「JRさわやかウォKanikani3 ーキング スタート」の看板を見られました。蟹江町のキャラクター「かに丸くん」がポーズを取ってくれます。受付開始から1時間経っていますが、参加者はコロナ以前よりも少ない印象があります。

20201108jrwalkingkanie  こちらは、今日歩いたルートの全体マップ。コースマップ上、7.8㎞となっていましたが、実際に歩いたのは、8.5㎞(実は途中で少しだけショートカットしているのですが)。蟹江でのJRさわやかウォーキングに参加するのは、上述の去年11月の他、2018年3月4日にも来ています(今日は、JRさわやかウォーキング「老舗造り酒屋できき酒と蟹江のまちを散策」へ(予告編))。それ故、3回目でかなり馴染みがあります。ほとんど訪ねたことがあるところですので、今回は1回完結の記事。

20201108jrwalkingkanie1  こちらは、コース前半部分の詳しいルートマップ。JR蟹江駅から南へ。蟹江城跡、蟹江神明社から、お楽しみの甘強酒造、銭洗尾張弁財天富吉神社にお参り。蟹江川を越えて、まちなか交流センター「楽人」、尾張温泉かにえ病院のところにある「足湯かにえの郷」と周り、JR関西線を越えます。

Img_9486c_20201108162201  蟹江駅前通に神社があったのですが、社号標も説明板もありません。ネットの地図にも載っておらず、不Img_9489c 明。三重県の神社については、「神社検索(三重)」というサイトがあって便利なのですが、これの愛知県バージョンはなさそう。右の写真は、駅前公民館の東あたりの様子。

Img_9499c_20201108162201  最初の立ち寄り先は、蟹江城跡。蟹江城は永享年間(1429年頃)、北条時Img_9505c_20201108162201 任(ときとう)が城塞を築いたのが初めといわれます。戦国時代には、本丸、二の丸、三の丸の三郭(さんかく)がありましたが、天正12(1584)年に起きた蟹江合戦と翌年の大地震(天正大地震)で壊滅しています。城跡の西、30mのところにで蟹江城本丸井戸跡。細い路地の、民家の軒先にあります。江戸時代の蟹江本町村絵図にも、ここに「古井」と記されています。この井戸跡が、蟹江城がここにあった証拠と考えられています。

Img_9507c_20201108162201  蟹江城本丸井戸跡のすぐ西には、秋葉社があり、氏子の方々が清掃奉仕をしていらっしゃいました。この秋葉社も、ネットの地図にも載っていませんし、ネット検索しても情報は出て来ません。しかし、地域の方が大事に守っていらっしゃる神社と思いました。以前のハイキングでも感じたことですが、蟹江のあたりには、秋葉社がたくさんあります。江戸時代に、火災予防のために祀ったのかも知れません。

Img_9532c_20201108162301  蟹江川沿いを歩いて、蟹江神明社へ。永享年間(1429~1441年)、北条時任が蟹江城築城の際、城の本丸Img_9518c_20201108162301 南の守護神として清洲から御薗神明社を迎えて祀ったのが始まり。天正12(1584)年、蟹江合戦で兵火に遭い、すべてが焼失し、元和5(1619)年に社殿を再興しました。御祭神は、天照大神。

Img_9535c_20201108162301  蟹江神明社の東隣には、「東照山」と山号のあるお堂と、地蔵堂がありますが、これもよく分かりません。「分からないのに何故書くのか?」と思われるでしょうが、その昔、研究者の端くれでした。研究をする上では、何が分かって、何が分からないかを区別しておくことが大切ですし、必要なのです。ひょっとしてご存じの方もいらっしゃるかも知れませんし、教えていただける可能性もゼロではないからなのです。

Img_9543c_20201108162301  続いて、私にとって、今日の最大の目的地・甘強(かんきょう)酒造。左の写真にある旧本社事務所の建物は、昭和12(1937)年建築で、登録有形文化財。味醂、清酒などをつくっておられます。去年11月にも来ています。

Img_9556c_20201108162301 Img_9558c_20201108162301  試飲を楽しみに来たのですが、去年同様、ミニカップでした(微苦笑)。名古屋正宗(本醸造)、いっこく(純米吟醸)(甘強酒造の日本酒のリストはここ)、里香梅 紅麹梅酒、味醂などから選べました。いっこくをいただいてきました。お願いすれば、他も試飲できそうでしたが、時節柄、自粛(苦笑)。

Img_9566c_20201108162301  直売も行われていましたが、今年はセット販売のみ。いっこく、名古屋正宗、あまさけの3本セット(いずれも350ml)を¥1,000でお買い上げ。¥3,000以上買うと、記念品(アルコール カンキョウ77:消毒用エタノールの代用品として、手指消毒に使用可能なもの。飲めませんし、火気厳禁だそうです。左の写真で右端に写っているのがそれ)がいただけ、抽選もできたのですが、さすがに荷物になりますからパス。

Img_9580c_20201108162301  甘強酒造さんの構内にも「蟹蟹フェア」の会場が設けられていました。かにかまの天ぷら、かにかま寿司もあったのですが、Img_9577c_20201108162301 気になったのは魚屋バーガーの蟹コロバーガー(蟹みそ入り)、¥600。「限定50食」とあって、並んでいる人もあり気になります(微苦笑)。元来、行列は大嫌いなのですが、さほど並んではいなかったので、少しだけ我慢。今日の昼ご飯にしようという算段(微笑)。これで、土産も買い、昼ご飯も用意しましたので、安心して歩けます。

Img_9598c_20201108162301  次に立ち寄るのは、銭洗尾張弁財天富吉神社。ここも、たぶん3回目の訪問。尾張で唯一の銭洗弁財天です。Img_9596c_20201108162301 室町時代、永享年間、北条平八郎時満が蟹江城を築くにあたり神のご加護を頂くため、鎌倉より銭洗弁天を勧請し、黄金の井戸銭洗いを造り、その浄水で軍資金を洗い、この福銭をもって蟹江城を築城したと伝えられています。さすがにお札を洗うのは、憚られましたし、大金はありませんので、持っているだけの小銭を洗ってきました。

Img_9621c_20201108162401  蟹江川を渡り、蟹江町役場、蟹江町体育館の前を通って、スタートから2.7㎞ほどで、まちなか交流センター「楽人」。カワラケツメイ茶のサービスがあるということでしたが、よく分からず、通過。カワラケツメイ茶は、健康茶として飲まれているようです。あとで訪ねた蟹江山龍照院でも、提供されていました。

Img_9630c_20201108162401  尾張温泉かにえ病院に行くまでの道路の歩道に写真のようなものがあるのを見つけました。「大相撲ストリート」といって、ここ尾張温泉通りに、二子山部屋・高砂部屋の力士16名の足型が路上に設置されていましImg_9634c_20201108162401 た。貴乃花、若乃花、朝青龍などの足型もありました。

Img_9637c Img_9646c_20201108162401  尾張温泉かにえ病院のところには、「足湯かにえの郷」。源泉掛け流しの足湯で、無料で利用できます。ウォーキング参加者でも足を浸している方もありましたが、今日は、21℃を超え、この時期にしては少し暑いくらい。なので、パス。

Img_9649c Img_9656c_20201108162401  蟹江のハイキング・ウォーキングは3回目と思いますが、西の方に来たのは初めて。帰ってから地図を見て、ホントに尾張温泉近くまで行ったんだと実感。しかし、温泉には立ち寄りません。北上してJR関西線を越えます。右の写真は、JR関西線を越えたあたりの公園のそば。マップで「今西3」とあるあたり。この先に八幡神社や、地図にはありませんが、松秀寺があり、立ち寄ってみたいとは思いつつ、先を急ぎました。

20201108jrwalkingkanie2  詳しいルートマップは、その2へ。スタートから6㎞ほど、須西小学校のところで、再び蟹江川沿いを歩きます。この先に観光交流センター「祭人」。そのすぐ北東に富吉建速神社・八剣社と、蟹江山龍照院。ここが最後の立ち寄りスポット。龍照院を出てからは、1.3㎞ほど歩いてゴールのはつらつ公園へ。コロナの関係で、ゴール受付はあるものの、参加証へのスタンプ押印はなし。はつらつ公園から蟹江駅までは約300m。

Img_9678c_20201108162401  途中、割愛して、観光交流センター「祭人」。ここは大賑わい。ユネスコ無形文化遺産「須成祭」の展示もありますが、それImg_9681c_20201108162401 は以前見たのでパス。去年も買ったのですが、蟹江の味彩もへのさんが出展していたので、「蟹タクちらし」(¥300)をゲット。去年11月のJRさわやかウォーキングのとき、「小腹が空いていませんか?」と売り込まれ、思わず買っしまったのが、とても美味しかったのです。ただし、これ、今日は土産にするつもり。

Img_9687c_20201108162401

 「祭人」では蟹タクちらしを買っただけで、富吉建速神社・八剣社、蟹江山龍照院へ。本来設定されたコースでは、御葭橋まで戻って、蟹江川を東に渡って行くようになっていたのですが、ショートカット(苦笑)。割とマジメだと自認しているのですが、そこまで堅くはありません(微笑)。

Img_9694c  まずは、富吉建速(とみよしたけはや)神社・八剣(はっけん)社にお参り。両社とも、天平5(733)年に創建、木曽義仲が再建、織田信長が社殿を造営したといわれます。須成祭は、この両社の祭礼とImg_9699c_20201108162401 して行われる川祭です。津島神社の天王祭りと似たお祭です。

Img_9705c_20201108162401 Img_9708c_20201108162401  両社の北に蟹江山常楽寺龍照院真言宗智山派のお寺。天平5年に行基菩薩によって、本尊に十一面観世音菩薩を奉安し創建されたといわれています。御本尊十一面観世音菩薩像は、寿永元(1182年)年、仏師僧教円によって造立されたといい、国の重要文化財となっています。今日は、特別にご開帳があり、拝観してきました。

Img_9735c_20201108185501  境内には、大日如来堂があり、木曾義仲の菩提を弔うために巴御前が安置したといわれる大日如来坐像があります。巴御前は、木曾義仲とともに幼少のころから生涯をともにし、木曾義仲が平家追討の兵を上げたとき、義仲に従って上洛した女性です。義仲の妾(しょう)とされ、元暦元(1184)年1月、近江粟津の戦では敵の首をねじ捨てるなどの活躍をしたのですが、死を覚悟した義仲の命令で戦場を離脱しています。巴御前は、故郷の信濃に向かう途中義仲が建てた寺があることを知り、出家、剃髪し義仲を弔ったという話があり、それがここ常楽寺龍照院だといいます。

Img_9722c  龍照院にお参りしたら、お下がりだということで、飴とポケットティッシュをいただいてしまいました。実Img_9719c は、銭洗尾張弁財天富吉神社で洗った小銭しかなかったので、お賽銭を上げず、拝んだだけなので、気が引けました(苦笑)。

Img_9725c  旧・須成村は、新撰組隊士・佐野七五三之助(さのしめのすけ)の出身地だそうで、境内にはその展示パネルがあり、「かにえボランティア夢案内人」の方が出て、説明をしておられました。佐野七五三之助は、天保5(1834)年、尾張国海部郡須成村の神職、寺西伊予守家班(いよのかみいえのり)の嫡子として誕生。嘉永3(1850)年、父が死去したImg_9728c 後、尊王攘夷を志し、名前を佐野七五三之助と改め、江戸へ向かい、北辰一刀流を学び、元治元(18649年、30歳のとき、新選組の隊士となり京へ行きました。慶応3(1867)年、新選組総員の幕臣取立に抗議し、新選組からの離脱を企てたものの挫折。京都守護職邸で仲間3人とともに自刃。ほぼ即死状態だったといわれる状況で、遺体を運ぼうとした新選組隊士に自分ののどに刺さっていた小刀で斬りかかったといいます。驚いたほかの隊士によりわき腹にとどめを刺されたのですが、屯所に運ばれる途中にも、息絶えたはずの佐野が、縛られていた縄を噛んだといい、隊士たちを仰天させたという壮絶な最後が伝わっています。京都・光縁寺に埋葬されています。享年34。明治2(1869)年、故郷須成村に伝えられ、神葬祭が営まれ、須成天王橋西に墓があります。佐野七五三之助の甥(妹の子)が、第24代内閣・総理大臣加藤高明

Img_9770c_20201108162501  これですべて回りましたので、ゴールのはつらつ公園に向かいます。龍照院からは1.3㎞ほど。11時42分に到着。ゴールにImg_9778c_20201108162501 は、いつものJRさわやかウォーキングのゴールパネル。これを観たのも9ヶ月ぶり。

Img_9784c  はつらつ公園では、甘強酒造さんでゲットしてきた蟹コロバーガーを食べることに。昼食という次第。美味しかったのですが、味が淡泊で、ちょっともの足らない気もしました。蟹みそも入っているということでしたが、よく分からず。バンズは、「全粒粉入りオーガニック」ですから、健康志向のバーガー。味が薄いのもやむを得ないか?

Img_9801c_20201108162501  ゴールのはつらつ公園から蟹江駅までは約5分。11時55分に到着。蟹江駅までが、8.5㎞。割とよく歩いていました。12時ちょうどに四日市行き普通電車があり、それに乗って桑名まで。12時16分着。

Img_9823c_20201108162501  今日のALKOOのデータ。17,066歩。JRさわやかウォーキングで歩いたImg_9824c_20201108162501 のが、8.5㎞。桑名駅往復が2.2㎞。合計10.7㎞を歩きました。JRさわやかウォーキングは、コロナで中断していましたので、スタンプの有効期間は、1年延長されます。スタンプ、今日で6個目。延長のお陰で有効期間はまだ1年以上ありますから、10個はクリアできそう。

Img_9817c_20201108162501  蟹タクちらしは、晩ご飯の時に家族でシェア。甘強酒造で買ってきた土産から、「名古屋正宗」を晩酌に(微笑)。酒蔵に行ったのも、2月9日に早川酒造部に行って以来(20200209近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 早川酒造部『天一』」へ(完))。次は、11月21日(土)に開催予定の「戦国武将ゆかりの地を眺めながら、岐阜公園を訪ねて」に行きたいのですが、この日は相談会を調整中。

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