城・城跡

2022年8月30日 (火)

雨が止んだので、アオサギさんを見に行ってきました

Img_0260c_20220830145301  未明から朝方まで雨。その後もしばらく空はどんよりしていたのですが、9時頃には少し明るくなってきましたし、道も乾いてきましたので、散歩の虫が抑えられず、9時20分から歩きに行ってきました。住吉神社、九華公園、歴史を語る公園、京町、寺町と4.5㎞。途中、久しぶりにお目にかかった散歩友達のOkさんと話していましたので、帰宅は11時。湿度は高かったのですが、気温は25~26℃くらいで、割と楽に歩けました。今日のところは、アオサギでも見てこようという次第。

Img_0302c_20220830145201  で、九華公園で、九華橋の近くのいつものところにアオサギさんが待機していました(微笑)。色から見て、いつものアオサギさん。実は、シークレット・シーンを見せてくれたのですが、今日持っていたのが超望遠コンデジで、対応できず。

Img_0357c_20220830145201 Img_0391c_20220830145201  二の丸跡で、コゲラの鳴き声。いました。木から木へと移って、エサ探し。昨日見たコゲラのような気もします。さらにシジュウカラの鳴き声も。若者でした。このほか、朝日丸跡では、ヤマガラの鳴き声を聞いて、探したのですが、見つけられませんでした。残念。

Img_0544c_20220830145201 Img_0551c_20220830145201  歴史を語る公園の近くのお宅には、紅白のサルスベリがあります。さらにその近くのお宅で、これはケイトウ(鶏頭)。リンク先によれば、いくつかの系統があるそうです(オヤジギャグではありません)。

Img_0562c_20220830145201 Img_0582c_20220830145101  寺町商店街にベトナム料理の店ができるという話を聞いていたのですが、今日、見てきました(ただし、今日は定休日)。フォー8桑名というお店。8月27日にオープンしたばかり。寺町商店街の東、寺町堀沿いにあります(南魚町)。Googleマップにはすでに載っていますが(検索も可能)、メニュー、値段などは、不明(左の写真にメニューの一部が載っているようです)。家内は、一度行ってみたいといっています。

169772527_o1  余談。先日、中日新聞朝刊に「桑名城をペーパークラフトで完成させよう」という記事が載っていました。桑名ブランド協議会が、ペーパークラフト専門メーカー「ファセット」に商品化を依頼したもの(こちらに商品紹介があります)。春先に「桑名城探訪」というスマホアプリが公開されていますが(2022年4月21日:鳥は少なかったので、「桑名城探訪」アプリで遊ぶ)、そこで桑名市が再現した桑名城のデータを用いたものだそうです。税抜きで¥1,200。面白そうだなと思ったら、昨日、九華公園でお目にかかった前管理人Oさんがすでにゲットしておられました。A4サイズで、部品図が6枚。ただし、切込加工は施されておらず、細かな作業が多いので、つくるのは難しいとおっしゃっていました。メーカーのサイトにも「城によっては細かな作業が多いものもありますのでご自身の技量を考慮の上で挑戦してください」と、また、新聞記事にも「同社の『日本の名城シリーズ』中で制作の難易度は中程度だが、慣れた人でも完成まで6〜8時間ほどかかる」とあります。不器用な私には、手強い感じ(苦笑)。Oさんがつくられたら、その話を伺ってからにしておいた方が無難そう。画像は、ファセットのサイトからお借りしました。

| | | コメント (0)

2022年6月17日 (金)

20220612水の都・大垣ウォーキング(その1)……大垣城、郷土館、藩校敬教堂跡から八幡神社へ

Img_4553c_20220612191101  6月12日に行ってきた「水の都・大垣ウォーキング」の本編その1です。当初は、前日の6月11日に出かける予定でしたが、天気があまり良くないという予報で、この日に延期しました。大垣は水の都といわれますが、まさにその通りで、とても良いところでした。私は、大垣へは、子どもたちが小学校に入る頃、家族で出かけたことがありますが、それはもう20年以上昔の話。金蝶園製菓総本家で水まんじゅうを食べたことと、大垣城のある大垣公園で遊んだ記憶しかありません。この日は、同級生K氏と二人旅。歩いた距離は、6.3㎞ほどでしたが、あちこちで資料館なども見て回り、現地で過ごしたのは、4時間半ほど。

Ogaki0_20220620182901  こちらが、当日歩いたルートマップ。養老鉄道大垣駅がスタート&ゴール。大垣城、郷土館、大垣藩校敬教堂跡、八幡神社、円通寺、奥の細道むすびの地、住吉神社、船町湊跡・港灯台、船町道標、美濃路大垣宿本陣跡、大手門跡、堀抜井発祥の地、愛宕神社・岐阜町道標などを回ってきました。大垣の最高気温は、28.1℃。風がかなりあって、思っていたよりも楽に歩けました。

Img_4520c_20220615062601 Img_4559c_20220612191101  桑名から大垣までは、養老鉄道が通っています。桑名駅を8時9分に出る養老鉄道大垣行きに乗車。9時26分に大垣駅に到着。この日は、冒頭の写真のように、1日フリー切符を購入。桑名~大垣は、通常料金は片道¥830ですが、フリー切符は¥1,500です。往復では、¥160もおトク。9時30分にスタート。

Img_4568c_20220615062901 Img_4575c  初めのところに書きましたが、大垣へは、20年以上前に1回来ただけで、ほとんど記憶はありません。左は駅前から南の方を撮った写真ですが、失礼ながら、「けっこう都会だな」というのが、第一印象。右の写真は、少し進んで、大垣駅方面を振り返った写真。

Img_4572c_20220615063501  駅の少し南に金蝶園製菓総本家がありました。以前来たとき、確かここのお店で、水まんじゅうを食べたのです。同級生K氏は、今朝、奥さんが「金蝶園の水まんじゅうは、美味しいんだ」といっておられたとか。あちこち見て回る前に、二人とも今日の土産は、ここで買うことに決定。ゴールは大垣駅にしてありますので、ゴールしてから購入します。

Img_4578c_20220615064001  何の写真か不鮮明になってしまいましたが、「守屋多々志画伯青雲の碑」。守屋 多々志(もりや ただし、大正元(1912)~平成15(2003)年は、大垣市出身の日本画家で、元愛知県立芸術大学教授。文化功労者。文化勲章受章。歴史画の第一人者だそうです。市内には、守屋多々志美術館もあります。この碑は、大垣共立銀行大垣駅前支店の向かい側にあります。

Img_4587c_20220615064401 Img_4592c_20220615064401  スタートから400mほどで水門川にかかる新大橋まで来ます。水門川は、大垣市街を大垣城に沿うように流れ、揖斐川の支流である牧田川に合流します。寛永12(1635)年、大垣藩主になった戸田氏鉄により大垣城の外堀として築かれたのですが、大垣城の外堀のみならず、揖斐川を介して大垣船町と桑名宿を結ぶ船運の運河の役割を持っていました。

Img_4608c_20220615064901 Img_4632c_20220615064901  新大橋から200mも行かないところ、郭町で右折すると、大垣城が見えます。こんな風だったか? と、以前の記憶は全くありません(苦笑)。大垣城は、天文4(1535)年に美濃守護・土岐一族の宮川吉左衛門尉安定によって創建されたといわれています。創建当初は水門川を外堀に利用した小規模なもので、慶長元(1596)年、伊藤祐盛が城主の時に天守が造営されたといわれます。江戸時代に入り、改修が行われ、4層4階の天守となり、総堀が完成しました。明治維新後も店主などは残り、昭和11(1936)年に天守等が国宝(旧国宝)に指定されましたが、昭和20(1945)年7月29日の大垣空襲により、天守や艮櫓などが焼失しました。左の写真に写っている門は、東門。天守が復興された際に、七口之門の 1つである内柳門がここに移築されています。ちなみに、大垣城は、麋城(びじょう)または巨鹿城(きょろくじょう)とも呼ばれました。

 Img_4719c_20220612191101Img_4713c_20220615065901現在の天守閣は、昭和34(1959)年に、また、乾櫓は、昭和42(1967)年に鉄筋コンクリート造りで、郡上八幡城を参考に外観復元されたものですが、観光用に窓を大きくするなどの改変がなされています。郡上八幡城は、戦前の大垣城をモデルに復元されたものだったのだそうです。天守閣は、資料館として、関ヶ原の戦などに関する展示がされており、ここで1時間近く見て回りました。

Img_4655c_20220615070801 Img_4669c_20220615070901  天守4階からの眺め。左の写真は西の方角。中央奥からやや右手に頂上が覗いているのが伊吹山。関ヶ原は、中央奥のややくぼんだあたり。右の写真は北の方角。中央あたりに大垣駅があります。このほか、南には養老山地が見えました。

Img_4697c_20220616192701 Img_4694c_20220616192701  城内にはいろいろとありましたが、2つだけ。左の写真は、戌亥櫓。戌亥は、北西の方角ですから、北西の方角にある櫓。右の写真は、「おあむの松」。江戸時代前期に、石田三成の家臣・山田去暦(やまだきょれき)の娘であった老尼が、少女時代に体験した関ヶ原の戦いの頃の様子を子供たちに語った話の筆録で「おあむ物語」というものがあります。関ヶ原の戦いに父に従い大垣城に籠城していた一女性が、年老いてから当時の体験を物語ったものです。書名の「おあむ」は御庵で老尼の意味と思われます。落城寸前に城から脱出した際、天守の西側にあった腰曲輪の松の木に縄をかけ、それを伝って内堀に降り、たらいに乗って逃げたといいます。その後継の松がこれです。

Img_4722c_20220616194301 Img_4728c_20220616194301  天守閣の北西に常葉(ときわ)神社があります。藩祖・戸田一西の他、戸田氏の歴代大垣藩藩主を祭神としており、かつては大垣城城内の神社でした。例年10月第2日曜日に行われる十万石まつりは、元々常葉神社の例祭です。嘉永5(1852)年、大垣藩戸田氏9代目藩主である戸田氏正が、戸田一西の250回忌の際に、戸田一西を祭神として大垣城内に創建しました。このとき、伊勢神宮神官より「常葉大神」と名づけられたといいます。明治維新後、いったんは、大垣八幡神社の境内に移転しましたが、濃尾地震で倒壊。明治35(1902)年に現在地へ新築、移転しています。

Img_4738c_20220612191101 Img_4752c_20220612191101  大垣城のある大垣公園のすぐ西に大垣市郷土館。戸田公入城350年記念事業として建設され、昭和60(1985)年10月に開館しました。歴代大垣藩主戸田公の顕彰を中心に、大垣の歴史的風土を築きあげてきた先賢の美術品等が展示されています。ここには、右の写真のように、大垣の城下町のジオラマもありました。

Img_4744c_20220616195401Img_4747c_20220616195401  庭園は、「さつき庭園」という名前が付いていました。赤い花と、白い花とあるようです。門を入ったすぐ右手には、「麋城の井戸」がありました。これは新しく掘った井戸のようで、以前はどこの家にもあった自噴の井戸を偲んでつくったそうです。

Img_4771c_20220616200201 郷土館を出て、北に向かいます。水門川にかかる滝の口橋のところは、大垣城の辰之口門があったところです。大垣城には7つの門があり、「七口之門」と呼ばれていました。ここはその1つ。

Img_4778c_20220612191101 Img_4792c_20220616200901  滝の口橋のすぐ北に保健センター。ここは、大垣藩の藩校であった敬教堂がありました。大垣藩第8代藩主・戸田氏庸(うじつね)が、藩士の子弟を教育するため、天保11(1840)年、大垣城籠の口門外(現在地)に学問所を設立し、後に致道館(ちどうかん)、敬教堂(けいきょうどう)、学館(がっかん)と改称されています。第10代藩主・戸田氏彬のとき、孔子像を祀った大成殿を設け、その雷除けとして「剣の木」と俗称されるトネリコを植えたそうです(右の写真)。明治維新後、藩校は文学校と武学校に分かれ、また、このトネリコも道路上に残されたため、ここに移されました。

Img_4803c_20220612191101  藩校跡で西に向かいます。このあたりから、水門川に沿って、遊歩道・四季の路を歩いて行きました。水門川が南に曲がるところに八幡神社。通称、大垣八幡神社。大垣市の総鎮守。建武元(1334)年、東大寺の荘園大井荘であった美濃国安八郡大井(現大垣市)に、東大寺の鎮護神である手向山八幡宮を勧請したのが始まりといいます。天文15(1546)年には、斎藤道三の兵火で焼失しましたが、慶長13(1608)年、幣殿、拝殿、舞殿が建てられ、正保4・慶安元(1648)年、大垣藩初代藩主・戸田氏鉄が再建整備しています。この再建を祝って始まった例祭が大垣祭といいます。

Img_4825c_20220612191101  ご祭神は、応神天皇神功皇后比咩大神(ひめのおおかみ)。比咩大神は、神道の女神です。これは特定の神の名前ではなく、神社の主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神を指すもので、八幡社では比売大神を祀りますが、その正体については、諸説がありますし、地域によっても異なるようです。

Img_4828c_20220617062501 Img_4834c_20220617062501  境内社がいくつかあります。出雲社(左の写真:大国主大神(大黒大神)・美保津姫神・事代主大神(恵比寿大神))、大福稲荷神社(宇迦之御魂神)、大垣天満宮(菅原道真公)、大垣竜神王(霊蛇神)、広瀬神社・龍田神社(右の写真:広瀬神社 和加宇賀之売命(若宇加能売命)、龍田神社 志那都比古神(天御柱神)・志那都比売神(国御柱神))。
所在地

Img_4846c_20220617062601  境内には、平成16(2004)年に整備された新しい自噴水があり、地下125mから水が吹き出る井戸となっています。大垣では、多くの家庭に自噴井戸があり、至る所に水路があり、清水が流れていたといいます。この湧水は、大垣南ライオンズクラブが、結成30周年を記念して掘削したものです。その1は、ここまで。その2では、四季の路から円通寺を通り、奥の細道むすびの地方面へと行きます。

| | | コメント (0)

2022年6月12日 (日)

20220612水の都・大垣ウォーキング(予告編)

Img_4553c_20220612191101  昨日、天気があまり良くないという予報で、今日に延期した「大垣ウォーキング」に行ってきました。大垣は、水の都といわれますが、まさにその通りで、とても良いところでした。歩いた距離は、6.3㎞ほどでしたが、あちこちで資料館なども見て回り、現地で過ごしたのは、4時間半ほど。今日も同級生K氏と二人旅。今回は、いつも通り、予告編。

Ogaki0_20220620182901  こちらが今日歩いたルートマップ。養老鉄道大垣駅がスタート&ゴール。大垣城、郷土館、大垣藩校敬教堂跡、八幡神社、円通寺、奥の細道むすびの地、住吉神社、船町港跡・港灯台、船町道標、美濃路大垣宿本陣跡、大手門跡、堀抜井発祥の地、愛宕神社・岐阜町道標などを回ってきました。大垣の今日の最高気温は、28.1℃。風がかなりあって、思っていたよりも楽に歩けました。

Img_4559c_20220612191101  桑名駅を8時9分に出る養老鉄道大垣行きに乗車。9時26分に大垣駅に到着。今日は、冒頭の写真のように、1日フリー切符を購入。桑名~大垣は、普通に買うと片道¥830ですが、フリー切符は¥1,500です。往復では、¥160もおトク。9時30分にスタート。

Img_4719c_20220612191101  まずは、大垣城へ。美濃守護・土岐一族の宮川吉左衛門尉安定により、天文4(1535)年に創建されたと伝えられています。関ケ原の戦いでは、西軍・石田三成の本拠地となりました。その後、戸田氏が10万石の城主となり明治まで続きました。天守閣は、昭和11(1936)年に国宝に指定されましたが、昭和20(1945)年7月、戦災で焼失。昭和34(1959)年4月、4層4階の天守が再建されました。麋城(びじょう)または巨鹿城(きょろくじょう)とも呼ばれます。天守閣は、現在、資料館になっています。

Img_4738c_20220612191101 Img_4752c_20220612191101  こちらは、郷土館。戸田公入城350年記念事業として建設され、昭和60(1985)年10月に開館しました。
歴代大垣藩主戸田公の顕彰を中心に、大垣の歴史的風土を築きあげてきた先賢の美術品等が展示されています。ここには、右の写真のように、大垣の城下町のジオラマもありました。

Img_4778c_20220612191101  大垣藩校敬教堂跡。現在は、保健センターになっています。大垣藩第8代藩主・戸田氏庸(うじつね)が、藩士の子弟を教育するため、天保11(1840)年、大垣城籠の口門外(現在地)に学問所を設立し、後に致道館、敬教堂、学館と改称されています。このあたりから、水門川に沿って、遊歩道・四季の路を歩いて行きました。

Img_4803c_20220612191101 Img_4825c_20220612191101  その先に八幡神社。通称、大垣八幡神社。大垣市の総鎮守。建武元(1334)年、東大寺の荘園大井荘であった美濃国安八郡大井(現大垣市)に、東大寺の鎮護神である手向山八幡宮を勧請したのが始まりといいます。天文15(1546)年には、斎藤道三の兵火で焼失しましたが、慶長13(1608)年、幣殿、拝殿、舞殿が建てられ、正保4・慶安元(1648)年、大垣藩初代藩主・戸田氏鉄が再建整備しています。この再建を祝って始まった例祭が大垣祭といいます。境内には、平成16(2004)年に整備された新しい自噴水があり、地下125mから水が吹き出る井戸となっています。

Img_4883c_20220612191101 Img_4894c_20220612191101  旭光山円通寺。浄土宗のお寺で、大垣藩主戸田氏歴代の菩提寺です。慶長6(1601)年)に膳所藩主であった戸田氏鉄が膳所で建立し、その後、戸田氏鉄が元和2(1616)年、尼崎藩主となると尼崎へと移転しています。さらに寛永12(1635)年に大垣藩へ転封となった際に、大垣城の西側へ移されました。以降、歴代大垣藩主の墓所が設けられました。一部の藩主の墓所は蓮光寺にあったのですが、後にここ円通寺に分骨が行われています。また、多くの大垣藩家臣の墓所もあります。右の写真は、初代の戸田氏鉄の墓所。

Img_4954c_20220612191101 Img_4912c_20220612194501  四季の路は、水門川に沿った遊歩道で、様々な花木も植えられ、また、ところどころに芭蕉の句碑が建てられています。芭蕉の句は、奥の細道の旅で詠まれたもの。水門川は、寛永12(1635)年、戸田氏鉄により大垣城の外堀として築かれました。大垣城の外堀のみならず、揖斐川を介して大垣船町と桑名宿を結ぶ船運の運河の役割を持っていました。

Img_5063c_20220612191201 Img_5072c_20220612191101  奥の細道むすびの地です。江戸時代の大垣は、東西交通の要所として、また、東西文化の接点として、経済・文化が発展した地でした。元禄2(1689)年の秋には、松尾芭蕉が「蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ」と詠んで、水門川の船町港から桑名へ舟で下り、約5か月間の『奥の細道』の旅を終えています。右の写真で、向かって左が芭蕉、右は大垣の俳人である谷木因(船問屋)。

Img_5088c_20220612191101  ここには、奥の細道むすびの地記念館があります。芭蕉は、元禄2(1689)年3月27日に、弟子の曽良とともに江戸を出発し、東北・北陸地方を巡り、8月21日に大垣で「奥の細道」の旅を終えています。このとき、芭蕉46歳。距離にしておよそ2,400㎞、150日あまりにおよぶ生涯で最大の旅でした。この記念館は、平成24(2012)年4月にオープン。「奥の細道」の解説をはじめ、芭蕉の人となりや旅に生きた人生を紹介する「芭蕉館」、大垣の歴史や文化・芸術を築き上げた幕末の先賢の偉業を紹介する「先賢館」、大垣藩藩老・小原鉄心の別荘で、市指定文化財である「無何有荘大醒榭」などがあります。

Img_5117c_20220612191201 Img_5129c_20220612191201  水門川を挟んだ東側には、住吉神社(左の写真)や、船町港跡・港灯台(右の写真)があります。船町港は、水門川舟運の河港で、大垣城の城下町の物資の集積地として大変賑わった所です。ここに集められた物資は水門川を経由して揖斐川や牧田川で各地に運ばれ、逆に各地の産物が船町港から大消費地である大垣城の城下町にもたらされました。明治時代に入っても大垣と桑名を結ぶ輸送経路として、物資や人の流れが多くたいへん賑やかな港であったといわれ、昭和初期には年間約1万もの船が行き来していたといわれています。

Img_5165c_20220612191201  このあと、先に進む前に、桃源山全昌寺へ。もとは、戸田氏鉄の室・大誓院がその叔父の戸田甚五郎(法名:徳翁全昌)の菩提を弔うため、摂津尼崎に建立した寺です。この寺は、戸田氏が大垣藩へ移された際に大垣で新たに創建されたものであり、尼崎の全昌寺は本院にあたります。尼崎全昌寺の住職であった照岩文鏡が大垣全昌寺の開山となり、大垣鷹匠町に創建されました。その後、慶安4(1651)年に現在地に移転。元禄元(1688)年、時の大垣藩主戸田氏定より50俵を与えられています。元禄5(1692)年、火災により灰燼に帰したのですが、5世住持の単伝清和の下で中興を果たしたものの、明治24(1891)年の濃尾地震で壊滅的被害を受けました。明治29(1896)年に本堂と庫裏を再建されましたが、昭和20(1945)年の大垣空襲によって再び伽藍が焼失。現在の堂宇はその後再建されたものです。

 水門川の東側に戻り、美濃路を歩きます。水都公園の近くに船町道標Img_5179c_20220612191201道標は、高さ約2mの円柱状の石製で、文政年間(1818~1830年)に大垣城下京口御門(西総門)の南、美濃路沿いに建立されました。その標面には「左 江戸道」・「右 京みち」とあり、さらに上部には旅人の道中の安全を願い梵字(種子)が刻まれています。第二次大戦で被害を受け、路傍に横たわっていたのですが、修復されたといいます。

Img_5225c_20220612191201  美濃路の途中に柿羊羹で有名なつちや(槌谷)の俵町本店があります。とても立派なお店ですが、こちらは、宝暦5(1755)年(薩摩義士による宝暦治水工事が完成した翌年)に、園助という人が「柏屋光章」という屋号で店を開いたのが始まりだそうです。柿羊羹は四代目右助という人が天保9(1838)年に、堂上蜂屋柿の濃密な甘味に注目して、これを羊羹の材料として利用して創製したといいます。

 美濃路大垣宿本陣跡Img_5247c_20220612191201美濃路は、中山道の垂井宿から、東海道の宮宿(名古屋市熱田)までの約57.5kmの街道です。ここ大垣宿の本陣は、永禄年間(1558~1569年)に創建されたとされています。明治11(1878)年には明治天皇が東海・北陸御巡幸の際に宿泊されており、「大垣宿本陣跡附明治天皇行在所跡」として大垣市の史跡に指定されています。この明治天皇の北陸・東海巡幸は、明治11(1878)年8月30日に出発し、東京から前橋・長野・新潟・富山・金沢・福井・京都・岐阜・名古屋・静岡をめぐって11月9日帰京するという、陸路72日間の大旅行だったそうです。

Img_5289c  本町に大垣城大手門跡があります。うっかりすると見逃しそうなところ。現在は、広峰神社が建てられていて、神社の東の水路がかつては、堀でした。

Img_5365c_20220612191201  大垣駅近くまで戻ってきました。平和通りに堀抜井発祥の地。天明年間(1781~1789年)頃まで大垣地方では、生活用水として各町の裏通りを流れる用水を利用していましたが、渇水期になると、大垣の三清水(西外側町、清水町、室町)まで汲みにゆくことになり、非常に不便でした。天明2(1782)年、こんにゃく屋文七が、川端に2m程の穴を掘りそこに5mの材木を打ち込み、その後へ節を抜いた青竹を力いっぱい打ち込んだところ、その竹の先からきれいな水が噴出してきたといいます。これはこれはと大層喜び、「これはの井」と名付けられたそうです。それ以来どこの家でも、自噴の井戸が掘られるようになり「井戸槽(いどぶね)」と呼ばれています。

Img_5379c Img_5382c_20220612191201  大垣駅のすぐ南東に、愛宕神社があり、その境内に岐阜町道標。 愛宕神社のご祭神は、軻遇突智神(かぐつちのかみ)。寛政6(1794)年に創建され、文化9(1826)年、火災に遭い近くにある文珠寺の北へ遷座したのですが、明治4(1871)、創建の旧地へ戻っています。岐阜町道標(ぎふまちみちしるべ)は、重要有形民俗文化財に指定されている道標。高さ3m余の角柱状の常夜燈で、文政5(1822)年、石工の中谷甚平光景が岐阜町から美濃路への南の出口に建立したものです。正面に「右きそ路」「左・京ミち」、左面には「北たにくミ道」とあるほか、道中の安全を願い、梵字(種子)が右面に8文字、左面の上部に1文字深く刻まれています。

Img_5395c_20220612191301 Dsc_6530c  以上で、今日訪れるところは、コンプリート。14時になっていましたので、何はともあれ、昼ご飯。大垣駅ビルのアスティ大垣へ。1階にある「おらが蕎麦」でちくわ天おろしそば(¥660)。調べてみたら、津駅にある津チャムの「信州そば処 そじ坊」と同じ会社(グルメ杵屋レストラン)でした。

Img_5408c_20220612191201 Img_5405c_20220612191201  お腹を満たしたあと、もう1つ重要なミッションがあります。土産を買わなければなりません(微笑)。朝、大垣駅をスタートした直後、狙いをつけておいた「金蝶園製菓総本家」へ。大垣駅の南。ここで、大垣名物水まんじゅうを買うことにしていたのです。大垣の水まんじゅうは、大垣の名水によって明治時代の初めに生まれました。冷たい地下水に漬けて冷やすよう、葛に水に強いわらび粉を混ぜ、柔らかく炊き上げた生地を陶器のお猪口に流して固めたものです。

Img_5455c_20220612191201  こちらが、今日の土産。こし餡のものと、向かって右は、「ミナモ」。岐阜県のキャラクターであるミナモをイメージし、水色(ソーダ餡)と黄色(レモン餡)がストライプ状になっています。

Img_5411c_20220612191301 Img_5414c_20220612191201  養老鉄道大垣駅には、14時40分にゴール。次の桑名行きは、15時6分発。桑名には、16時18分着。行きも帰りも、7700系の電車。東急からやってきたステンレス車両。

Img_5460c_20220612191201  今日の歩数は、19,089歩でした。現地で6.3㎞、自宅から桑名駅往復が2.4㎞ですから、合計8.7㎞。まぁ、よく歩いた感じです。写真が950枚もあり、まだ全部をキチンとは見ていません。写真整理ができ次第、本編を書き始めます。

| | | コメント (0)

2022年6月 1日 (水)

20220528松阪ウォーキング(その3)……本居宣長ノ宮、松阪神社、松坂城跡から不二屋で焼きそばにて「完」

220528matsusaka2 Img_4011c_20220531044101  5月28日に行ってきた松阪ウォーキングの本編その3です。その2では、御城番屋敷までやって来ました。ここまで歩いてきたのは、3.8㎞ほどでしたが、時刻は12時も過ぎていましたので、松坂城裏門跡のところある御城番屋敷が眺められる木陰で小休止。

Img_4028c_20220528200101  その後、まずは、本居宣長ノ宮へ。本居宣長(秋津彦美豆櫻根大人)と平田篤胤(神霊能真柱大人)をご祭神としています。もとは、本居大人奥墓(おくつき)がある旧山室村にあったのですが、大正4(1915)年、この森に遷座しました。本居宣長を神と祀る世論は早くからあったようですが、明治8(1875)年3月、川口常文等が主唱し、旧山室村(現・松阪市山室町高峰)の大人奥墓の傍に社宇を建て、山室山神社と号しました。その後、現・松阪市役所所在地を経て、昭和6(1931)年に現在地に遷座。昭和21(1946)年に社号を本居神社と改称。平成7(1995)年4月、本居宣長ノ宮と称しています。合格祈願・学業成就などの御利益があるとされます。

Img_4035c  本居宣長ノ宮には、本居宣長の歌碑があります。「志きしまの やまとこころを 人とはば あさひににほふ 山さくら花」という宣長61歳(寛政2(1790)年)の時の自画像に添えられたもの。この自画像は、本居宣長記念館のサイトにあるこの画像と思います。

Img_4044c_20220528200101  松阪神社は、平安時代以前の創立とされますが、年代は詳かではありません。天正16(1588)年、蒲生氏郷が、飯高郡矢川庄の宵の森と呼ばれていた丘に築城した時に、城の鎮守社と定めて、宵の森の南の丘に社を新たに御造営されて出来た神社です。御祭神は、主祭神が誉田別命と、宇迦之魂神。合祀されている神様は、33柱。明治に17神社を合祀したために多いと思われます。松阪神社については、次の記事をご参照ください:2018年11月12日:20181103近鉄ハイキング「蒲生氏郷を訪ねて 氏郷まつりと松阪城下町散策」へ(その4)……松阪神社、本居宣長ノ宮

Img_4056c_20220531063901 松阪神社についてもう1つだけ。それは、このご神木。クスノキの大変古い巨木。氏郷が松坂城をつくった頃すでに、この位置に500年を経過した木としてあったといいます。それ故、樹齢900年以上。樹高25m、胸高周囲7mで、木の下には、深さ3mの穴があり、太い根が穴の上にまたがって生えています。

 961b9bed 本居宣長ノ宮・松阪神社と松坂城跡の間には本居宣長記念館がありますが、12時半を過ぎていました。最後に行って昼食を食べようと思っていた不二屋のランチ営業が、14時半までということで、ちょっと急ぎましたから、パス。本居宣長記念館、私は4年前の5月に訪ねています(2018年6月18日:20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(その2)……御城番屋敷、本居宣長記念館)。写真は、このときのもの。

Img_4015c_20220528200101 Img_4024c_20220528200101  松坂城跡へは、裏門跡のところから入りますが、その前に1つ、2つ。裏門跡の西側にある石垣のところに「捨石」の遺構があります。ここは、隠居丸あたりで、江戸時代の修理のあとのようです。表土から約0.2m下。幅0.8~1.0m、長さ19mで、石垣が孕んだ部分だけにあるといいます。

Img_4021c_20220531065901 Img_4018c  捨て石の遺構から裏門跡のところには大きな常夜燈が2基あります。左の写真のものは、「旧櫛田川渡し場常夜灯」。安永9(1780)年のもの。向かって左には、「銚子場組 江戸干鰯問屋」とあります。右の写真のものは、「永代 常夜灯」、文政6(1823)年のもの。こちらの台石には「新玉講」と刻まれています。

Img_4075c_20220528200101  さて、いよいよ松坂城跡へ。まずは、二の丸跡から御城番屋敷を眺めます。ここからの御城番屋敷の眺めもすばらしいものがあります。奥の右手には、松阪工業高校が見えます。

Img_4096c_20220528200101 Img_4122c  天守閣跡まで登ってきましたが、けっこうな高低差で、かなりの運動量でした。しかも、御城の曲輪をつなぐ階段は、どういうわけか段差がかなり高いのです。ちなみに、松坂城は、天正16(1588)年に蒲生氏郷によって築城されました。建造物はなく、豪荘な石垣が残るのみです。

Img_4129c  天正18(1590)年、氏郷は、小田原征伐の軍功により陸奥国会津60万石の大封を得て若松城に移りました。その後、藩主の入れ替わりが何度かあり、元和5(1619)年、紀州藩の藩領となりました。松坂城はこのあたりを統括する城として城代が置かれました。天守は、正保元(1644)年に台風のため倒壊したとされ、以後は天守台のみが残ることとなっています。寛政6(1794)年、二の丸に紀州藩陣屋が建てられ、以後、紀州藩領として明治維新を迎えました。城内には、松阪市歴史民俗資料館があり、2階に小津安二郎松阪記念館が開設されていますが、こちらもこの日はパス。

8db7334f  このあと、鈴の森公園まで足を伸ばして、松阪市埋蔵文化財センター(はにわ館)で船形埴輪などを見ようと思っていたのですが、松坂城跡を見終わった時点で、13時。実は、この日の朝、同級生K氏と駅で待ち合わせたとき、不二屋で焼きそばを食べようということになり、これが今日最大のミッションになっていたのです。不二屋は、昼の営業が14時30分まで。さらに、今朝のメ~テレの「ドデスカ ドようびです。」で不二屋の焼きそばが取り上げられていました。賑わっていて入れない、食べられないのはマズいということで、埴輪はパスして、不二屋へ(笑)。写真は、2018年5月26日の撮影。

Img_4138c_20220528200101 Img_4142c_20220528200101  不二屋は、中町にある松阪肉の和田金や、和菓子で、お土産で有名な老伴をつくっている柳屋奉善の近くにあります。が、これらの店には、目もくれず、不二屋へ。

 

Img_4145c Dsc_6492c  こちらが、その不二屋。13時10分過ぎに到着。店の外まで行列か?と心配したら、杞憂に終わりました(微笑)。待っていたお客さんは1組(ただし、われわれのあとからも続々とお客さんは来ていました)。無事に焼きそばを食べられました(¥800)。麺は揚げてあり、サクサク。タレは和風出汁が効いた少し固めのもの。不二屋さん独自の「かたやきそば」。サッパリとして美味しい焼きそばを堪能できました。ちなみに、テレビで取り上げられるずっと前から、家内の勧めでこの店のことは知っていたのですが、実際に訪れて、食べたのはこの日が初めてでした。

Img_4160c_20220528200101 Img_4172c_20220528200101  昼食を済ませ、松阪駅には、14時5分に戻って来ました。松阪駅を14時15分に出る名古屋行き急行に乗車。桑名駅には、15時22分に到着。¥960。暑かったので少しお疲れ。現地では、6.3㎞ほどを歩きました。自宅から桑名駅往復が、2.4㎞ですので、合計8.7㎞。歩数は、17,332歩。

Dsc_6502c  この日は、とくに土産は買ってこなくてよいということでしたが、観光物産センターを覗いたら、柳屋奉善の老伴(おいのとも)に新しいバージョン、レモン味がありましたので、それを試しに買ってきました。こちらは、1個¥230。昔ながらのものは、1個¥180。

| | | コメント (0)

2022年5月28日 (土)

20220528松阪ウォーキング(予告編)

220528matsusaka0   27.4℃とやや暑くなったものの、よい天気でした。5月7日に、東海道ウォーキングとして、亀山宿から関宿まで歩きました(2022年5月 7日:20220507東海道ウォーキング「亀山宿~関宿」(超予告編))。県内の東海道を歩いていたのですが、この先は、JR関西線と東海道とが離れてしまい、「電車で行って、歩いて電車で帰る」というスタイルで行けるのは関まで(三重県にはもう1箇所、坂下宿があり、その先は鈴鹿峠越えになります)。次のウォーキングはと考え、取り敢えず、今回は松阪へ。松阪駅から八雲神社、来迎寺、常教寺、樹敬寺(本居宣長の墓があります)、御城番屋敷、松坂城跡などを巡ってきました。同級生K氏との二人旅。

Img_3622c_20220528195501  桑名駅を8時22分に出る伊勢中川行き急行に乗車。伊勢中川には9時22分着。名張から来る松阪行き急行(9時25分発)に乗り換えて、松阪駅には9時31分着。松阪は、去年10月の「東海道・伊勢街道歩いて伊勢参りツアー」以来(2021年10月16日:20211016「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第12回「松阪・小津~松阪駅」(超予告編)【一部加筆修正しました(10/19)】、2021年10月30日:20211030「東海道・伊勢街道歩いて伊勢参りツアー」第13回「松阪駅~櫛田」(予告編))。9時40分に松阪駅をスタート。

Img_3640c  まずは八雲神社へというつもりでしたが、その手前で金生山弥勒院善福寺。真言宗のお寺。「縁切り不動」という看板もあり、興味が湧いたので、立ち寄り。もとは松ヶ島の弥勒屋敷にあったといわれ、かつては隣接する八雲神社の別当寺でした。行基の草創、宝亀4(773)年、勤操(ごんぞう)僧都の再興と伝え、もとは松ヶ島(現・松阪市松ヶ島町)の弥勒屋敷(天王屋敷)にあったといわれます。天正16(1588)年、蒲生氏郷が松阪城を開き城下町を整備した時、現在の地に移りました。境内には、水掛不動もありました。

Img_3695c_20220528195601  お隣に、その八雲神社。貞観12(870)年、諸国に疫病が流行した際、伊勢国代官・森田政直が悪疫退散を祈願して、上に書いた弥勒院善福寺に京都衹園社(現・八坂神社)から勧請されました。その後、松坂城築城のとき、松ヶ島から現在の場所に移っています。松阪の総産土神として祟敬されています。長く「牛頭(ごづ)天王社」「松阪天王社」「衹園社」などと呼ばれていたのですが、明治時代になって八雲神社と改めています。

Img_3710c_20220528195601  八雲神社の先で、まだ営業しているのか確かめたかったところがありましたので、立ち寄って来ました。それは、松阪大映という映画館。3年前、氏郷まつりに来た時に見つけたのです(2019年11月4日:20191103近鉄ハイキング「蒲生氏郷を訪ねて 氏郷まつりと松阪城下町散策」へ(完)【付記(11/4)中日新聞の記事を載せました】)。昭和15(1940)年頃、アサヒ館として開館、昭和35(1960)年前後に現館名に改称しています。その当時は大映の封切館でしたが、昭和45(1970)年前後に独立し、成人映画館に業態を変えています。松阪市内最後の映画館であったようです。われわれが子どもの頃、通った映画館がそのまま残っている印象です。

Img_3720c_20220528195601  湊町の交差点からまた、立ち寄り。1週間前の土曜日に、「第16回松阪撫子どんな花?祭り」が開かれ、平生町なでしこ館(夢休庵)のところには、5月31日まで「松阪撫子をめぐる街なか散歩」ということで、松阪撫子が展示されていましたので、見に行ったという次第。松阪撫子は、花弁が長く垂れ下がっているのが特徴で、江戸時代に松阪の紀州藩士だった継松栄二が、育てていたナデシコの中から花弁が細長いものを見つけ、改良して作り出したとされます。

Img_3784c_20220528195701 Img_3730c_20220528195601  続いて、教主山無量寿院来迎寺(らいごうじ)。天台真盛宗の寺院。永正年間(1504~1521年)、北畠材親(きたばたけきちか)により松ヶ島城下に創建されましたが、蒲生氏郷の松阪城築城にともなって現在地に移転しています。 享保元(1716)年の松阪大火で表門(現在の裏門)を除いて焼失しましたが、豪商三井家などの尽力により8700両の費用をかけて再興されたといいます。現在の裏門(右の写真)は、松坂城の中門を移築したそうです。

Img_3750c_20220528195601  来迎寺でこちらを見つけました。たぶんコウホネ(川骨)と思います。初めて見ました。実は、2年前、散歩友達のご夫婦に四日市の保々駅近くの川にコウホネがあると聞いて探しに行ったのですが、見つけられなかったのです(2020年6月5日:コウホネは見つけられず……東員町・中部公園のアジサイもまだ早く、三岐鉄道保々駅で俄撮り鉄(苦笑))。

Img_3797c_20220528195701  来迎寺の近くで、常教寺という真宗高田派のお寺。観光案内にも、ネットにもこれという情報はありませんでしたが、けっこう立派なお寺でした。実は、ここはパスしようと思ったのですが、来迎寺を出たところで、道に迷いかけたお陰で立ち寄って来たのです(苦笑)。

Img_3842c_20220528200001  法幢山樹敬寺(じゅきょうじ)。浄土宗、知恩院末寺。鎌倉時代初期の建久6(1195)年、俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)上人が、東大寺大仏殿復興大勧進のために、細頸に不断念仏道場を建て、南北朝時代の正長元(1428)年には戦火で廃墟となりました。文亀元(1501)年、敬誉(きょうよ)上人が、伊勢神宮参拝の際に不断念仏院を訪れて復興を志し、28年間にわたって浄財集めを行っています。敬誉上人は「樹敬上人」と呼ばれて親しまれていたことが寺号の由来だといいます。

Img_3823c_20220528200001 Img_3812c_20220528195701  ここに来たのは、墓地に本居宣長と長男の春庭、原田二郎などのお墓があるからです。左の写真は、宣長夫妻の墓と春庭夫妻の墓が背中合わせに立っているところ。宣長・春庭墓は国指定史跡に指定されています。右の写真は、原田二郎の墓所。

 Img_3835c_20220528200001 墓地は、土塀で囲まれていますが、これは、松阪市内では見かけないめずらしいものです。

Img_3868c_20220528200001 Img_3875c_20220528200001  これから、原田二郎旧宅に向かいますが、途中で、松阪三珍花の発祥の地を見てきました。まずは、松阪菊発祥の地。新町の郵便局の向かい。江戸時代後期、菊愛好家の木下藤八が嵯峨菊からつくり出したそうです。続いて、殿町にある松阪撫子発祥の地。

Img_3891c_20220528200001  その近くに、松阪花菖蒲発祥の地。江戸時代後期、この地に住んだ紀州藩士・吉井定五郎が、野花菖蒲を改良して、現在の松阪花菖蒲を作り出したといいます。江戸系や肥後系のものに比べ、女性的で優雅な花だそうです。

Img_3903c_20220528200001  原田二郎旧宅。ここは、松阪の旧紀州藩同心の居住した武家屋敷の遺構です。原田二郎は、紀州藩松坂領の町奉行所の同心の家に生まれました。原田は、21歳のとき京都に上がり、さらに23歳のとき、東京に出て英語と医術を学んだ後、大蔵省に勤め、31歳で横浜の第74国立銀行(現在の横浜銀行の前身)の頭取となり手腕を発揮。34歳のとき松阪に戻ります。54歳の時、井上肇の依頼で大阪の鴻池銀行の整理、再建にあたりました。71歳で再建に成功した後、退職。そのときに得た莫大な退職金、全財産をすべてつぎこみ、社会公益事業に対する助成団体、原田積善会を設立しました(大正9(1920)7月)。原田積善会は、現在も公益財団法人として、社会事業分野と学芸事業分野の2つを柱に継続して幅広く行っています。

Img_3928c_20220528200001  原田二郎旧宅は、松坂城の内堀に面していたようで、屋敷内西側の庭に「松坂城堀跡」の表示がありました。この表示板の向こう側に掘、さらにその奥に土塁があったそうです。

Img_3976c_20220528200101 Img_3997c_20220528200101  さて、いよいよ御城番屋敷へ。江戸末期に紀州藩士が松坂城警護のため移り住んだ武家屋敷です。このような組屋敷は全国でも大変珍しい上に、今も多くの人々がここで暮しているのです。西棟北端の一軒は内部を公開しています。この御城番屋敷の並ぶとおりは、何度眺めても良い景色です。ここは御城番であった紀州藩士の子孫の方々が、苗秀社という会社を作って維持し、借家として貸し出しています。

Img_4015c_20220528200101  松坂城の搦手門跡のところで小休止。ここまでに4㎞弱を歩いて、時刻は、12時20分になっていました。あちこちウロウロしていますので、普通に歩くよりも相当時間がかかるのです。

Img_4028c_20220528200101 Img_4044c_20220528200101  御城に行く前に、本居宣長ノ宮(左の写真)と、松阪神社へ。本居宣長ノ宮は、本居宣長平田篤胤を主祭神としています。もとは、本居大人奥墓がある旧山室村にあったのですが、大正4(1915)年、この森に遷座しました。松阪神社は、平安時代以前の創立とされますが、年代は詳かではありません。天正16(1588)年、蒲生氏郷が、飯高郡矢川庄の宵の森と呼ばれていた丘に築城した時に、城の鎮守社と定めて、宵の森の南の丘に社を新たに御造営されて出来た神社です。

Img_4096c_20220528200101 Img_4129c  本居宣長記念館にも行くつもりでしたが、あとのことも考えて、今日はパス。松坂城跡へ。天正16(1588)年に蒲生氏郷によって築城された平山城。現在も野づら積などの豪壮な石垣が残っています。本丸を中心に渦巻き状に曲輪を巡らせた配置は、渦郭式(かかくしき)と呼ばれます。天守閣跡まで上ったのですが、けっこうな運動量(苦笑)。

Img_4075c_20220528200101  二の丸跡からは、御城番屋敷がよく見え、ここは私の気に入った場所。今日は、水彩画の写生をする方たちのグループがいらっしゃいました。このあと、鈴の森公園まで足を伸ばして、松阪市埋蔵文化財センター(はにわ館)船形埴輪などを見ようと思っていたのですが、松坂城跡を見終わった時点で、13時。実は、今朝、同級生K氏と駅で待ち合わせたとき、不二屋で焼きそばを食べようと言うことになり、これが今日最大のミッションになっていたのです。不二屋は、昼の営業が14時30分まで。さらに、今朝のメ~テレの「ドデスカ ドようびです。」で不二屋の焼きそばが取り上げられていました。賑わっていて入れない、食べられないのはマズいということで、埴輪はパスして、不二屋へ。

Img_4138c_20220528200101 Img_4142c_20220528200101  不二屋は、中町にある松阪肉の和田金や、和菓子で、お土産で有名な老伴をつくっている柳屋奉善の近くにあります。

Img_4145c Dsc_6492c  こちらが、その不二屋。13時10分過ぎに到着。店の外まで行列か?と心配したら、杞憂に終わりました(微笑)。待っていたお客さんは1組(ただし、われわれのあとからも続々とお客さんは来ていました)。無事に焼きそばを食べられました(¥800)。麺は揚げてあり、サクサク。タレは和風出汁が効いた少し固めのもの。不二屋さん独自の「かたやきそば」。サッパリとして美味しい焼きそばを堪能できました。

Img_4160c_20220528200101 Dsc_6502c  昼食を済ませ、松阪駅には、14時5分に戻って来ました。土産は、柳屋奉善の老伴(おいのとも)。昔ながらのものに加え、レモン味がありましたので、それも試しに買ってきました。こちらは、1個¥230。

Img_4172c_20220528200101  松阪駅を14時15分に出る名古屋行き急行に乗車。桑名駅には、15時22分に到着。¥960。暑かったので少しお疲れ。現地では、6.3㎞ほどを歩きました。自宅から桑名駅往復が、2.4㎞ですので、合計8.7㎞。歩数は、17,332歩。本編は、また追々書いていきます。次ぎは、大垣へ行く予定。

| | | コメント (2)

2022年5月11日 (水)

20220507東海道ウォーキング「亀山宿~関宿」(その1)……亀山駅をスタートし、武家屋敷などを見て、京口門跡あたりまで

Kameyama0_20220508045001  4月23日の東海道ウォーキング「井田川~亀山」(2022年4月23日:20220423東海道ウォーク「井田川~亀山」(予告編))に引き続いて、この日は、亀山宿~関宿までを歩いてきました。好天に恵まれ、また気温も上がり、亀山のアメダスでは、最高気温は28℃を超えていました。冒頭の画像が、今日歩いたルートの全体像。亀山城下や、関宿ではもっとたくさんのところを見て、立ち寄って来ていますが、書き切れませんので、主なところだけ示しました。とくに関宿は、ずっと以前から一度訪ねてみたいと思っていたところで、ようやく念願が叶ったという次第。

Img_1298c_20220507193101 Img_1322c_20220507193901  桑名駅を8時14分に出る亀山行き普通に乗車。亀山には、9時ちょうどの到着。¥680。亀山駅は、JR東海とJR西日本の境目の駅。関西線はこの先も続くのですが、亀山駅から西はJR西日本。ゴールに設定している関駅もです。三重県なのに、JR西日本というのもちょっと違和感があります。右の写真は、前回訪れた亀山城跡に残る多門櫓。

Kameyama1  こちらが、詳細なルートマップその1。前回、最後に、西町問屋場跡まで行ってきました。当初は、この西町問屋場跡から東海道に入る予定でしたが、同級生K氏が、亀山宿のパンフレットで見た加藤家屋敷がおもしろそうだというので、そちらから。東海道からは1本北の通り。西之丸庭園、青木門跡、飯沼慾斎生家跡と道標2基、旧舘家住宅、善導寺、西之丸堀跡、京口門跡、梅厳寺、照光寺、旧佐野家住宅、光明寺、慈恩寺から野村の一里塚へと進みます。

Img_1312c_20220510193201  ここは、西町問屋場跡のすぐ東。石碑があるようにこの先、東海道です。ここを上がったところに西町問屋場跡があります。亀山宿は、大きく東町と西町とから構成され、本陣・脇本陣は東町に、問屋場は両町にそれぞれ置かれ、交代で伝馬役を務めたそうです。

Img_1383c_20220507193101 Img_1345c_20220510194301  いきなり寄り道したのは、加藤家屋敷跡。江戸時代後期、亀山藩主・石川家の家老職を務め、亀山城西之丸に居を構えていた加藤家の屋敷跡です。もともとは相当な敷地面積があったようですが、明治以降、ほとんどの建物が他所へ移築されました。現在は屋敷の表門である長屋門とこれに連なる土蔵などが遺されており、白壁や白と黒の対比が美しいなまこ壁が、武家屋敷の威厳と風格を感じさせてくれます。江戸時代後期の建築で、当時の武家建築様式を今日に伝える希少な遺構として、亀山市文化財に指定されています。

Img_1368c_20220510194301 Img_1364c_20220510194301  長屋門は、門の扉口の両側に部屋が連なる形式の門です。江戸時代、城下町の武家屋敷の門として始まったもので、あたかも長屋の中ほどに門があるようにみえるところからこの名があり、各部屋には家臣たちが分宿していました。ここ加藤家でも、門(左の写真で向かって左端)に男部屋、若党部屋、物見、厩(mに義の写真)が連なっています。

Img_1373c_20220510194301  こちらは、男部屋。寝泊まりするだけという感じで、窓も小さくなっています。現代の感覚では、ここで寝泊まりしろといわれたら、かなり躊躇します。

Img_1397c_20220510195601 Img_1394c_20220510195601  加藤家屋敷の西に西之丸庭園。御殿跡だそうです。現在は地区の集会所として利用され、庭園は広く一般に開放されています。

Img_1410c_20220510195701 Img_1413c  その先で青木門跡。西の丸の西南に位置する門で枡形を形成しており、今もそれが残っています。元和元(1615)年、徳川家康が大阪へ出陣のとき、亀山城に宿泊し、搦手門から出立の時、附近に繁茂した青木を見て、「おお青木」と賞賛したことから、門を青木門と呼ぶようになったという話が伝わっています。

Img_1426c_20220507193101  青木門跡から南に行くと、東海道に突き当たります。そこの交差点の南西側に飯沼慾斎生家跡があります。飯沼慾斎(天明3(1783)~慶応1元(1865)年)は、江戸後期の蘭方医、植物学者。伊勢国亀山の商人西村信左衛門の次男。母方の伯父で美濃国大垣の飯沼長顕に入塾し、のち京都に出て漢方、本草学を学んだ後、蘭方に転学し、大垣で開業しています。今回は見ていませんが、亀山城跡の多門櫓の南に「飯沼慾斎生誕之地碑」があります(2019年6月19日:20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(その4)……亀山演武場、明治天皇行在所、いくつかの石碑と姫垣外苑からでころぼ坂を経て亀山駅にゴール(完))。

Img_1423c_20220510200901 Img_1416c_20220510200901  この飯沼慾斎生家跡の前の交差点には、道標が2基あります。左の写真では、向かって左手が飯沼慾斎生家跡、奥が青木門跡。交差点の手前と奥に道標があります。右の写真は、奥にある道標。東面には「右 郡役所 左 東海道」とあります。手前側の道標には、「右 東海道 左 停車場」とあります。関西線の前身である関西鉄道は、名古屋駅~柘植駅間を明治28(1895)年に開通させていますから、この道標はそれ以降のものと思われます。

Img_1438c_20220507193101 Img_1451c_20220510202101  スタートして1㎞の手前に旧舘家住宅。「升屋」という屋号で、幕末から大正にかけて呉服商を営んでいた大店で、現在の主屋は、明治6(1873)年に建てられました。市文化財です。階段が、もともとは仏間のところにあり、隠し階段のような雰囲気。右の写真は、2階の様子。私の印象に残ったのは、この塗り壁でした。ボランティアガイドの方がいらっしゃり、詳しく話をしてくださいました。

Img_1478c_20220510202401 Img_1472c_20220510202401  旧舘家住宅のほぼ隣には終南山光明院善導寺。浄土宗のお寺。山門も新しく、立派。本堂も新しい。しかし、ガイドブックにも、ネットにも、これという情報はありません。

Img_1475c_20220510202401  山門前に「石灯籠寄進 板倉勝澄公」という石碑のある石灯籠。板倉勝澄(享保4(1719)~明和6(1769年))は、江戸時代中期の大名。享保9年、伊勢亀山藩主板倉家第2次2代。延享元(1744)年、備中松山藩主板倉家初代となりました。善導寺の先で東海道は、また、鍵の手となっています。

Img_1484c_20220510203801 Img_1488c_20220510203801  善導寺の先で、西之丸堀跡。亀山城の外堀の一部で、東海道と外堀が並行して接する場所で、城の防御上、また、景観上重要な場所だったといいます。町屋川には番所、した。跡北復元地南には西之丸西櫓があったそうです。深さ1.8m程度の水堀で、推進は60㎝程度であったといいます。

Img_1497c_20220511044101 Img_1526c_20220511044101  京口門跡。亀山宿の西端、西町と野村の境を流れる竜川左岸の崖上に門がありました。亀山藩主板倉重常によって寛文12(1672)年に完成したとされ、翌延宝元(1673)年に東町に築かれた江戸口門とともに亀山城総構の城門として位置づけられました。京口門は、石垣に冠木門・棟門・白壁の番所を構え、通行人の監視にあたっていたといいます。門へ通じる坂道は左右に屈曲し、道の両脇にはカラタチが植えられ、不意の侵入を防いだとされます。大正3(1914)年、京口橋がかけられ、この坂道を登る道筋は途絶えてしまいましたが、往時は坂の下から見上げると門・番所がそびえる姿が壮麗だったといいます。左の写真は、京口門跡から西の方を見たもの。右は京口橋をわたった先から振り返って、東を撮ったもの。この先に京口門、亀山城が見えたということです。

Img_1517c_20220511044801 Img_1510c_20220511044801  京口門跡の案内板があるところに純一山常寿院梅厳寺。浄土宗のお寺。伊勢亀山藩主・石川氏の先祖・石川家成は徳川家康の忠実なる家臣であり、石川昌勝が慶安2(1650)年、伊勢亀山藩主となった時に、石川家成の菩提寺をここに移して、藩主・石川氏の菩提寺にしています。寺名の梅巌は、石川家成の院号だそうです。

Img_1519c_20220511045401  ちょっと余談。京口橋から滝川を見下ろすと(橋の上から北の方角を撮っています)、かなり高いことがわかります。上述のように、本来の東海道は、この下を通り、左右に屈曲した坂道を登って、京口門に至ったということです。

Img_1530c_20220511063501 Img_1534c_20220511063501  京口橋をわたった北側に妙亀山照光寺。日蓮宗のお寺。山門の写真は、京口橋をわたったところから撮っています。見下ろすようになっていますが、それは橋がかかってから。昔の東海道は、おそらく、この山門の高さのところを通っていたと思います。

Img_1539c_20220511063901 Img_1543c_20220511063901  ここには、前回、池の側で見た「石井兄弟敵討碑(東丸町)」に関連して、敵を討たれた赤堀水之助の墓があります。元禄14(1701)年5月9日、石井源蔵・半蔵兄弟は亀山城石坂門外で、父と兄の敵である赤堀水之助を討ち果たしました。この敵討ちについては、こちらに詳しい話が載っています。

Img_1549c  墓所には、もう1基、史跡に指定されているお墓がありました。山木善太の墓です。山木善太(寛政12(1800)~天保8(1837)年)は、幕末の儒者で、亀山藩明倫舎で儒学を教授し、その普及に貢献したそうです。頼山陽、斎藤拙堂と交流があったといいます。

Img_1555c_20220511065101  照光寺から道を挟んだ向かい側に旧佐野家住宅。大地主で、商家で、家主は質店などを経営していました。明治初期に改築されたが、江戸時代の家の様子も引き継ぐといいます。「入り母屋妻入り」の造りで、街道に切り妻の正面を向ける妻入りの町屋は多くないそうです。正面から入った土間が奥に入って広くなり、中庭へ続いていました。

Img_1570c_20220511065501  その先で、旧森家住宅。切妻造桟瓦葺で、西面に切妻棟を敷設しています。現在は、骨董カフェを営んでいるようです。

 まだルートマップその1の途中ですが、長くなりましたので、記事のその1はここまで。

| | | コメント (0)

2022年4月27日 (水)

20220423東海道ウォーク「井田川~亀山」(その3)……亀山城址にて多門櫓、明治天皇行在所旧蹟、亀山演武場などを見て、亀山駅にゴール(完)

220423kameyama2c Kameyamacastlec  4月23日の東海道ウォーク「井田川~亀山」の本編その3です。その2では、能褒野神社二の鳥居・露心庵跡から姫垣外苑まで来ました。ここからは、いよいよ亀山城址に進みます。

Img_9277c_20220425165001 Img_9272c_20220425165001  姫垣外苑通のすぐ西に亀山西小学校があります。門や塀が、いかにも城内にあるという造りでした。

Img_9280c_20220423175501  亀山城跡。スタートからほぼ6㎞。11時50分に到着。丹波国にあった明智光秀の亀山城(亀岡城とも)と区別するために、伊勢亀山城といわれることもあります。文永2(1265)年に関実忠によって若山(現在の三重県亀山市若山町)に築城され(冒頭2枚目のマップで、亀山古城趾としたところ)、その後、現在の位置に移されました。江戸時代は東海道の要衝としてたびたび城主が変わり、石川氏の時代に幕末を迎えています。江戸時代初頭には丹波亀山城の天守を解体するよう命じられた堀尾忠晴の間違いによって、天守を取り壊されたという話が伝わっていますが、真偽のほどは定かではないようです。正保年間(1644~1648年)、本多俊次が城主の時に天守跡に現在の多門櫓が建てられました。

Img_9293c_20220425170001 Img_9296c_20220425170101  その多門櫓、確か休日は内部が公開されているはずで、もう一度是非みたいと思っていました(2019年6月9日:20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(予告編)……雨にも負けず(苦笑))。平屋建、白壁の塗込で屋根は入母屋造り、東西北の三方に破風があり、平時は武器庫として利用されていました。県内に唯一現存する城郭建造物として、昭和28(1953)年に県史跡に指定されています。高石垣の上にそびえる多門櫓は、見事です。

Img_9415c_20220425170601 Img_9396c_20220423175601  その姿は、城跡から出て、池の側の方まで降りていくと眺めることができます。桜の季節であれば、きっと趣があることでしょう。

Img_9321c_20220423175601  多門櫓のところから、石垣を見下ろすと、かなり高いことがよく実感できます。

Img_9329c_20220425171001  多門櫓から降りた、すぐ西には、与助井戸があります。これは、亀山城本丸で使われていたイドといいます。城を築く前にあった与助という鍛冶屋の家の井戸であったと伝えられ、そのため、与助井戸と呼ばれていました。現在は、埋められています。木の枠は、井戸のあった場所を示しています。場外への抜け穴があったという話もありますが、確認はされていないそうです。

Img_9333c Img_9343c_20220425171401  多門櫓の西下には、「史跡明治天皇亀山行在所遺構」があります。明治天皇は、明治13(1880)年、三重県下巡幸の時、7月10日東町藤屋(伊藤市次郎宅)を行在所とされ、10、11日の両日、名古屋・大阪両鎮台対抗演習を統覧されました。これは、この折、玉座とされた奥8畳間など行在所の一部が移築保存されたものです。建物はまず井尻町に移された後、昭和10(1935)年、亀山小学校(現・亀山西小学校)地内に移築され、同14(1939)年三重県史跡に指定されました。同26(1951)年、市文化財となり、32(1957)年、ここ亀山城多門櫓石垣北側に再度移築されたのです。

Img_9356c_20220423175601 Img_9352c_20220425171801  その西には、亀山演武場が復元されており、亀山藩御流儀心形刀流武芸形(おんりゅうしんぎょうとうりゅうぶげいがた)(県文化財)が伝承されています。演武場は、約50坪の道場。心形刀流は、亀山藩武芸指南役山崎雪柳軒(やまざきせつりゅうけん;文政11(1828)~明治15(1882)年)が免許皆伝を得て、元治元(1864)年、亀山に演武場を開設し、柳生新陰流に代わって御流儀となりました。ちなみに、心形刀流は、心の修養を第一義とし、技の錬磨を第二義としているといいます。すなわち、技は形であり、心によって使うものであるとします。心が正しければ技も正しく、心の修養が足らないと技は乱れると考えられています。この技が刀の上に具現されるため、流名に示すように心形刀流となるそうです。こちらに心形刀流のパンフレットがあります。

Img_9360c_20220425171801  この亀山演武場の門として、「大久保神官家の棟門」が用いられています。大久保家は、江戸時代に南崎権現社の神官を務めていました。大久保家は、寛永9(1632)年に西町権現、東町八幡宮、西町三社権現を、また、13ヶ村42社の神官をかねていたともいいます。この門は、しばらく亀山小学校の裏門として使われた後、昭和30(1955)年に亀山神社境内に再び移築され、現在に至っています。

Img_9366c_20220423175601  亀山神社です。延享元(1744)年、備中松山から石川総慶が亀山城に入城した際、城内に小祠を設けたことに始まり、それ以来、亀山城内の旧館跡に鎮座して真澂(ますみ)神社として崇敬されて来たといいます。明治4(1871)年に城北の若山の地に遷座した後、同9(1876)年に再び本丸跡に遷座しています。明治40(1907)年から41(1908)年にかけて西町鎮座の郷社亀山皇太神社、阿野田村鎮座の式内社真木尾神社などを合祀し、社殿を現在の地である西丸に新築して奉遷し、社号を亀山神社と改めました。主祭神は、源義家源義時石川義純石川家成。亀山神社について、詳しくは、2019年6月17日の記事をご覧ください(20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(その3)……雨の中、亀山古城跡、花しょうぶまつり、亀山城多門櫓から亀山神社へ)。

Img_9373c_20220423175601  このあと、花菖蒲園の方をちょっと覗いて、亀山城をあとにしましたが、その前に、ますみ児童公園に保存されているC58蒸気機関車を見てきました。359号機です。子どもたちが小さい頃、家内の実家に行く途中に立ち寄って見たことがあります。きれいに手入れされています。75年前につくられたもので、昭和45(1970)年まで現役でした。

Img_9401c_20220423175601  亀山城址をあとにして、池の側の畔を歩いて行くと、「石井兄弟敵討遺跡石碑」があります。元禄14(1701)年5月9日早朝に、石井源蔵(33歳)・半蔵(30足)兄弟が、28年目にして父の敵・赤堀水之助を、ここ亀山城石坂門外で討ち取ったことを記念して、昭和7(1932)年に亀山保勝会によって建立されたものです。本懐を遂げた石井兄弟は、旧主の青山忠重に帰参を許されています。当時「元禄曽我兄弟」と称され、歌舞伎、講談、絵本、浮世絵などに取り上げられ、赤穂浪士の討ち入りと並び賞賛されました。

Img_9431c_20220423175601  池の側の向かい側に田中病院があり、その前に「池の側松並木」。亀山石坂門から池の側(外堀)に沿って植えられた松並木で、市天然記念物に指定されています。今は、写真に見える大きな松が1本だけで、その向こうに若木が植えられていました。

Img_9438c_20220423175601 Img_9448c_20220423175601  池の側松並木の南で、東海道に行き当たります。次回は、ここから関宿を目指す予定。小公園になっていて、そこが、西町問屋場跡。右の写真あたりに宿役人若林家の屋敷、問屋場が並んでいたと考えられています。右の写真は、関宿方面を撮ったもの。

Img_9488c_20220423175601 Img_9492c_20220423175601  これで今日の目的地はコンプリート。JR関西線亀山駅に向かい、12時40分に到着。取り敢えずは、7.4㎞を歩いてきました。亀山駅前では、現在、再開発が進んでいます。リニアが通ることを見越してです。マンションも建設されています。

Img_9500c_20220423175601 Dsc_6375c  名古屋行きの電車の時刻を確認して、昼食を摂ろうと思って、駅前を見渡したものの、コンビニもありません(苦笑)。駅前から県道565号線方面に行ったものの、食事ができそうなところは近くには見当たらず。駅前に引き返してきて、よく見たら、和菓子屋である瑞宝軒にカフェとありました。「食事はできますか?」と聞いたら、「大丈夫ですよ」との返答。ランチがあったので、それをチョイス。コーヒー付きで¥1,100。サワラのフライとハンバーグ。ご飯は七分づきのもの。なかなか美味しくいただけました。あとで調べたら、この瑞宝軒さんは、江戸時代後期、東海道沿いに角屋として開業した、歴史のある和菓子屋さんでした。

Img_9507c_20220423201901 Img_9517c_20220423175601  亀山駅に戻って、確か売店があったので、関の銘菓・関の戸を土産にしようと思ったら、売店は閉まっていました。残念。亀山を13時24分に出る名古屋行き快速に乗車。桑名駅には、14時6分着。¥680。けっこうよく歩いた感じでしたが、歩数は、18,459歩でした。自宅から桑名駅往復が、2.4㎞ほどですから、この日のトータルの歩行距離は、10.2㎞。次回は、亀山から関宿まで歩く予定。その先は、東海道と関西線が離れてしまうので、電車で行って歩くのが困難。県境まで東海道を歩くのは、難しそう。

| | | コメント (0)

2022年4月26日 (火)

20220423東海道ウォーク「井田川~亀山」(その2)……能褒野神社二の鳥居・露心庵跡から姫垣外苑まで

220423kameyama2c  4月23日の東海道ウォーク「井田川~亀山」の本編その2です。その1では、JR関西線・井田川駅をスタートして、和田一里塚跡まで来ました。その2では、和田一里塚跡を過ぎてさらに西へ。栄町の交差点から、カメヤマローソクの工場を見て、能褒野神社二の鳥居、露心庵跡へ。このあたりが亀山宿東の入り口。本町広場には巡見道説明板がありますが、ここが巡見道との追分。ここから東町にかけて、昔の亀山の中心部。東町は、江戸町門口跡。福泉寺、法因寺を過ぎて、江ヶ室交番前交差点は、大手門跡・高札場跡。東海道は、ここで左折します。この先にある枡形を見て、江ヶ室交番前交差点に戻り、亀山城跡に向かいます。多門櫓・明治天皇行在所旧蹟・亀山演武場・亀山神社と回って、花菖蒲園を覗いて、亀山駅に向かいます。池の側で、石井兄弟敵討ち遺跡石碑。田中病院前には、天然記念物の池の側松並木。その後、西町問屋場跡を見て、亀山駅にゴール。

Img_9081c  栄町の交差点を過ぎると、左手(南側)にカメヤマローソクの亀山本社工場があります。昭和2(1927)年の操業。現在の社名はカメヤマで、本社も大阪に移転してしまいましたが、私には「亀山ローソク」の方が馴染みがあります。結婚式でのキャンドルサービスを日本で普及させたのは、この会社です。

Img_9092c_20220425065501  スタートから3.7㎞を過ぎたところに、能褒野神社の二の鳥居が道路をまたぐように立っています。能褒野神社は、ここから北東へ直線距離で3㎞。亀山市田村町にあります。日本武尊は、能褒野でなくなり、墓は「延喜式」に「能襃野墓」とあったのですが、後世に所在不明となりました。一帯には日本武尊の陵墓と伝えられる古墳がいくつかあったのですが、明治12(1879)年に「王塚」あるいは「丁字塚」と呼ばれていた前方後円墳(現在の能褒野王塚古墳)が、内務省によって「能褒野墓」に治定されています。その後、地元有志により日本武尊の遺徳をしのぶため能褒野陵周辺での神社の創建が企画され、明治28(1895)年に竣工しました。

Img_9096c_20220423175501  鳥居のすぐ西には、露心庵跡があります。亀山宿東端に位置する寺院跡です。天正12(1584)年に神戸正武が亀山城を襲ったものの、城を守る関万鉄斎はわずか13騎でこれを撃退したと伝わっています。この合戦の戦死者を城下の東端に2つの塚を築いて葬っています。この寺を建立した露心法師は、関氏一門で、もとは桑名城主に仕える武士でしたが、西町善導寺で仏門に入りました。その後、亀山城主であった石川昌勝に願って、古戦場の松林に友松庵を建て戦死者を供養したと伝えられます。この庵は露心の名にちなんで、その後、露心庵と呼ばれるようになりました。明治に廃寺になっています。

Img_9117c_20220423175501 Img_9124c_20220423175501  スタートから4㎞を過ぎ、10時40分頃、本町広場に到着。9時から歩いていますので、ここで一休み。ここの交差点は、東海道と巡見道との追分。巡見道は、江戸時代に幕府の巡見使の通った道のことです。県内の巡見道は、ここ亀山市の東町で東海道から分かれ、現在の国道306号を縫うようにして北上しています。巡見使は、将軍の代替わりごとに諸国の政情、政道の得失・民権の風俗を査察するために派遣される幕府の役人で、県内へは約10回の派遣の記録があります。右の写真が、巡見道。

Img_9111c_20220425152101 Img_9107c_20220425152101  この先、本町の通りを進んで行きますが、あちこちのお宅に昔の屋号を記したものが掲げられていました。「宿場の賑わい復活プロジェクト」として、平成13(2001)年に「きらめき亀山21 町並み保存分科会」がつくったものでした(このあといった枡形のところに掲示がありました)。屋号が掲げられていると、昔のことを早々しながら歩くことができ、楽しさが増します。

Img_9152c_20220425152801  亀山医院の前を過ぎると、東海道は左に曲がり、変則の4叉路に出ます。ここは、江戸門口跡。延宝元(1673)年、亀山城主・板倉重常によって気づかれた城門がありました。東西120メートル、南北70メートルで堀や土塁に囲まれた曲輪があり、その曲輪は3つに区画され、それぞれが枡形になっていたといいます。西側の区画には、番所がおかれ、通行人の監視や警固にあたったそうです。番所というよりも、亀山城惣構の城門という位置づけと考えられています。

Img_9160c_20220425153301  東町交差点。ここからアーケードのある商店街となります。シャッターが閉まっている店もありますが、まだまだ現役でやっている店もたくさん。

Img_9170c_20220423175501 Img_9179c_20220425153701  ふれあい広場の向かいを入っていくと、お寺が2つ並んでいます。まずは、松風山福泉寺。元は、慈覚大師が創設した天台宗のお寺でしたが、15世紀後半に真宗高田派に改宗しています。山門が立派でした。正面軒唐破風付入母屋造で、寛政7(1795)年の築造といいます。

Img_9183c_20220425153701  ここは、亀山愛児園という認定こども園を営んでいます。そのためか、境内には入れないようになっていましたので、山門から覗いて写真だけを撮ってきました。ちなみに、亀山愛児園は、昭和21(1946)年6月、三重県で戦後最初に開園された保育所だそうです。

Img_9222c Img_9189c_20220425154501  福泉寺の西隣にあるのが、真宗大谷派の宝亀山法因寺。創建は不詳ですが、蓮如上人の縁があったと伝えられており、門前に「蓮如上人御旧蹟」と刻まれた石碑が建っています。

Img_9195c Img_9198c_20220425154601  本堂も、庫裏も立派な建物でした。墓所には、江戸時代末期亀山藩の郡代奉行であった黒田孝富(亀山藩の藩政改革を断行し明治元年に暗殺)の墓があったのですが、これは見忘れてしまい、残念。

 Img_9201c_20220425154901 また、推定樹齢約300年の「左巻カヤ」が、墓所にあります(たぶん左の写真のもの)。亀山市指定天然記念物。この「左巻カヤ」は、カヤの変種で、種子が大型で、種子の殻の表面にみられる螺旋状の線が左巻きのカヤだということです。

Img_9227c_20220423175501  東海道に戻って、江ヶ室交番前交差点へ。ここは、亀山城の大手門跡。高札場もここにありました。大手門は、大手門櫓と大手脇櫓からなる枡形門でしたが、明治初頭には石垣に至るまで破却されています。東海道は、ここで左折し、南に向かいます。亀山城にはここを直進するのですが、東海道にある枡形だけを見てくることにしました。が、江ヶ室交番のところにある道路元標を見忘れました(苦笑)。

Img_9245c_20220423175501 Img_9249c_20220425162601  100メートルほど南に行ったところに東海道の枡形が残っています。ちょうど亀山市シルバー人材センターのところ。枡形を確認して、この日は、亀山城跡に向かいます。

Img_9267c_20220423175501  亀山西小学校の東のところに「姫垣外苑」。このあたりには、太鼓櫓があったといいます。小規模な三階の櫓で、最上階に時を告げる太鼓がおかれていました。江戸時代中頃に築造され、嘉永7(1854)年の大地震で倒壊。文久2(1862)年頃には再建されています。ちなみに、亀山城の別名は、「粉堞城(ふんちょうじょう)」といいます。「粉堞」とは、姫垣( 城壁などの上にめぐらした低い垣。また、たけの低い垣根。小さい垣)や、表面に白い胡粉(ごふん: 白色顔料。板甫牡蠣(いたぼがき)の殻を数年、風雨にさらし、粉砕、水簸(すいひ)、乾燥して作った炭酸カルシウムを成分とする粉末)を塗った簡易な塀という意味があります。「姫垣外苑」は、これに由来する名前ということ。

 その2は、私にしてはやや短い記事ですが、キリが良いのでここまで。その3では、いよいよ亀山城址へと入っていきます。

| | | コメント (0)

2022年4月23日 (土)

20220423東海道ウォーク「井田川~亀山」(予告編)

Img_8837c_20220423175801  1ヶ月ほどの間が開きましたが、今日は、「東海道ウォーク」の3回目。前回は、JR関西線・加佐登駅から井田川駅まで歩きました(2022年3月19日:20220319東海道ウォーク「加佐登~井田川」(予告編))。今回は、井田川駅から東海道を歩いて、亀山へ。亀山では、東海道からは少し外れますが、亀山城跡も主なところを回って来ました。亀山の最高気温は、26.3℃。ほぼ曇りで、正午頃からはしばらく晴れていました。歩くのにはちょうどよい気候。今日のところは、予告編です。

Img_8845c_20220423175401Img_8857c_20220423175401  JR関西線・桑名駅を8時14分に出る亀山行き普通に乗車。井田川駅には、8時54分着。¥590。9時ちょうどに井田川駅をスタート。駅から南西に向かいます。すぐに右手(西側)に「旧井田川小学校跡碑」があります。井田川小学校は、大正4(1915)年2月にここに移転して来て、昭和54(1979)年4月にみどり町に移転するまで、ここにありました。

Img_8892c_20220423175401 Img_8896c_20220423175401  このあと、国道1号線を渡って、東海道は左折。右手にお寺が続きます。まずは、真宗高田派の廻向山西信寺(さいしんじ)(左の写真)。その先に浄土宗の三世山浄業院正福寺(右の写真)。どちらも、みえの歴史街道にも、ネットにもこれという情報はありません。

Img_8914c_20220423175401  正福寺の先で1㎞。椋川を渡って、国道1号線の高架をくぐって、1.5㎞地点の手前、西側に「谷口法悦題目塔」。川合と和田の境にあります。元禄年間(1695~98)、谷口法悦が造立。「南無妙法蓮華経」と刻まれています。谷口は、日蓮宗の篤信者で、17世紀末頃、一族とともに各地の寺院、街道筋にこうした題目塔を造立しています。

Img_8932c_20220423175401 Img_8951c_20220423175501  県道23号線の和田交差点に東海道が接近する手前に道標があります。「従是 神戸 白子 若松道」とあり、白子道を示しています。元禄3(1690)年、度会益保によって建てられたものです。若松村には、亀山藩領の港があり、そこへの重要な道路を示しています。また、この道標は、三重県の東海道に現存する最古のものだそうです。道標の先には、シャングリさんの小祠。川合と和田の境にあって、和田の村に悪霊が入ってこないよう、見張るためのもの。

Img_8989c_20220423175501  和田の公民館の向かい側に「井尻道」の道標があります。これは、田中音吉が建てたもの。Img_8981c田中音吉は、亀山生まれの明治~大正時代の実業家。明治30(1897)年、亀山共同社(のち亀山製糸会社)を設立しています。このあたりの道路の分岐点に道標を建てています。今のところ、61基の存在が確認されています(こちら)。ここを南に入ると、真宗高田の當修山幸福寺がありますが、ご覧のような状況。庫裏も取り壊されているようですし、境内も、工事中というか、工事に取りかかる直前という印象でした。ネットではこれという情報は見つけられませんでした。

Img_8971c_20220423175501  東海度に戻って少し行くと、スタートから2.5㎞を過ぎた右手に(北側)天台真盛宗の福善寺。こちらのお寺も、宗派以外には、ネットなどではとくに情報は出て来ません。

Img_9006c_20220423175501  こちらはその先にあるImg_9002c_20220423175501  石上寺(せきじょうじ)。那智山松寿院という号があります。本尊は子安延命地蔵菩薩。伊勢七福神の一つ。元は、このあたりに勧請された熊野神社の神宮寺で、大伽藍があったといいます。境内には、四国88箇所霊場巡りも再現されていました。

Img_9061c_20220423175501  石上寺からほど近くに、和田一里塚跡。江戸日本橋から104里。慶長9(1604)年、亀山城主であった関一政が築造したもの。昭和59(1984)年、道路の拡幅にともない、それまで残っていた塚の一部がなくなり、跡地の東側のここに模式復元されたものです。

Img_9085c_20220423175501 Img_9096c_20220423175501  栄町交差点を過ぎ、スタートから3.7㎞ほどのところに、能褒野神社の鳥居。この鳥居から北東へ約3㎞のところに能褒野神社があります。能褒野神社は、日本武尊能褒野御墓(やまとたけるのみことのぼのおんぼ)のところにあります。この御墓は、日本武尊が、東征帰路にこのあたりで亡くなられたという記紀の記述に基づき、明治12(1879)年に内務省が「日本武尊能褒野御墓」と定めています。鳥居のすぐ先に露心庵跡。天正12(1584)年に神戸正武が亀山城を襲ったものの、城を守る関万鉄斎はわずか13騎でこれを撃退したと伝わっていますこの合戦の戦死者を城下の東端に2つの塚を築いて葬っています。関氏一門の露心はこのあたりに仏庵を建立し、戦死者を供養したといいます。この仏庵が露心庵です。明治に廃寺になっています。

Img_9117c_20220423175501 Img_9124c_20220423175501  このあと、本町交差点にある本町広場(巡見道説明)で一休み。10時40分頃から11時頃まで。この本町交差点で、東海道と巡見道とが分岐します。右の写真で、奥の方向に続くのが巡見道。

Img_9151c_20220423175501  東町のバス停のところは、江戸門口跡。延宝元(1673)年、亀山城主・板倉重常によって築かれた門があったところ。番所もおかれ、通行人の監視や警護に当たったといいます。

Img_9170c_20220423175501 Img_9222c  東町の商店街に入っていきます。5㎞の手前を北に入ったところに、まずは福泉寺。慈覚大師が創設した天台宗の古刹で、寛正元(1460)年に真宗高田派に改宗したと伝えられます。山門は寛政7(1795)年の建立で、県の文化財に指定されています。福泉寺に向かい合うようにしてあるのが、真宗大谷派の法因寺。蓮如上人御旧蹟であり、また、墓地内に天然記念物である「法因寺の左巻カヤ」があります。果実に白筋があるのですが、その筋が左巻に現れるのが珍しいとされています。

Img_9227c_20220423175501 Img_9245c_20220423175501  江ヶ室交番前の交差点は、亀山城の大手門跡です。大手門があったほか、ここは高札場でもありました。東海道は、ここで左折して南に向かいます。すぐ先に枡形が残っています(右の写真)。このあと、亀山城跡を見に行きたかったので、枡形を確認して、江ヶ室交番前の交差点に戻り、東海道からは外れて、亀山城跡へ。

Img_9280c_20220423175501  亀山城は、別名を粉蝶城(こちょうじょう、ふんちょうじょう)といいます。文永2(1265)年に関実忠によって若山(現在の三重県亀山市若山町)に築城され、その後現在の位置に移されています。江戸時代は東海道の要衝としてたびたび城主が変わり、石川氏の時代に幕末を迎えました。

Img_9396c_20220423175601 Img_9321c_20220423175601  ここで必見なのは、多門櫓。多門櫓は、天守台といわれる本丸高石垣上にあり、寛永9 (1632)年頃に築造されたとみられます。三重県で唯一現存する城郭建造物として県史跡に指定されています。土日祝日は公開されており、今日も内部を見学してきました。

Img_9356c_20220423175601  多門櫓の西にある明治天皇行在所遺構です。Img_9333c明治天皇が明治13(1880)年7月10日、11日に大阪鎮台・名古屋鎮台兵対抗演習天覧のため、亀山の藤屋でニ泊されたときに玉座として使われた建物が、亀山城跡地に移築され残っているのです。右の写真は、そのさらに西にある亀山演武場。元治2(1865)年、十五代亀山藩主石川総脩により武道場の設立が許され、南野村喬松館御殿の東(現在の南野町)に、江戸の伊庭道場の長所を取り入れた約50坪の道場が建設されました。廃藩置県や廃刀令を経て、明治15(1882)年に演武場はここに移設されています。亀山藩に伝わる心形刀流(しんぎょうとうりゅう)を今に伝えています。

Img_9366c_20220423175601  そのさらに西には、亀山神社。延享元(1744)年、備中松山から石川総慶が亀山城に入城した際、城内に小祠を設けたことに始まり、それ以来、亀山城内の旧館跡に鎮座して真澂(ますみ)神社として崇敬されて来たといいます。このあと、花菖蒲園の場所を覗いて、亀山駅に向かいました。

Img_9401c_20220423175601 Img_9431c_20220423175601 城の南に池の側という名前の池があります。その畔に「石井兄弟亀山敵討遺跡」と刻まれた石碑があります。これは、元禄14(1701)年5月9日、石井半蔵・石井源蔵の兄弟が、父の宇右衛門と兄の三之丞の仇である赤堀源五右衛門を伊勢国亀山の城下で討ち取ったことに関する記念碑。この先、田中病院の前には、松の木があります。ここは「池の側 松並木」。亀山城石坂門から池の側(外堀)に沿って植えられた松並木で、市天然記念物です。

Img_9488c_20220423175601 Img_9492c_20220423175601  JR関西線・亀山駅には、12時40分頃到着。亀山駅前では、リニア開通を見越して、駅前の整備とともに、マンションの建設などが行われていました。電車の時刻を確認してから、昼食を食べられる店を探して、若干ウロウロしました。昼食のために歩いたのも含め、亀山駅までで最終的には7.8㎞を歩いています。

Img_9500c_20220423175601 Dsc_6375c  昼食は、結局、駅前にあった「瑞宝軒」という和菓子屋さんがやっているカフェへ。最初は、和菓子屋さんだから昼ご飯はないなと思って、いったん通り過ぎたものの、ほかに飲食店はなく、戻って来て「食事ができますか?」と聞いたら、大丈夫といわれました。ランチもあったので、それをチョイス。コーヒー付きで¥1,100。サワラのフライとハンバーグ。ご飯は七分づきのもの。なかなか美味しくいただけました。

Img_9507c_20220423201901 Img_9517c_20220423175601  亀山駅を13時24分に出る名古屋行き快速に乗車。桑名駅には、14時6分着。¥680。けっこうよく歩いた感じでしたが、歩数は、18,459歩でした。自宅から桑名駅往復が、2.4㎞ほどですから、今日のトータルの歩行距離は、10.2㎞。予告編はここまで。本編はまた明日以降、ボチボチと書いていきます

| | | コメント (4)

2022年4月21日 (木)

鳥は少なかったので、「桑名城探訪」アプリで遊ぶ

Dsc08424c  午後になって雨雲がかかってきました。朝、家事を済ませて、8時20分から散歩をスタート。住吉神社から九華公園へ。とある理由で九華公園内をウロウロ。その後、内堀公園、京町、吉津屋町とツバメの巣を見て、新築公園から常磐町、老松公園、寺町、三崎通、田町、諸戸氏庭園前と回って6.0㎞。10時半過ぎに帰宅。

Dsc08436c Dsc08448c  鳥はほとんどいません(苦笑)。スズメ、ドバト、ハシボソガラスがところどころにいるくらい。九華公園には、8時40分に到着。左の写真は、管理事務所近くのツツジ。公園内某所にあるコゲラの巣、今日はそこに着いたら、ちょうどコゲラが顔を覗かせていました。鳴き声もほかから聞こえたものの、姿は見つけられず。

Dsc08481c Dsc08491c  奥平屋敷跡にある「九華すずめ食堂」。かなり傷んでしまいましたが、まだあります。ドバトがやって来て占領中。スズメは遠巻きに眺めているだけ。二の丸跡で、カワラヒワ。今日は、九華公園でも鳥は少なく、ヒヨドリ、ムクドリも少ない。そして、とうとう、カモの姿が消えました。昨日は、キンクロハジロが7羽くらいいた時間帯もあったそうですが、今日はどこにも見当たりません。

Dsc08510c Dsc08500c  やむなく、梅の実とか、イロハモミジの葉っぱとかを撮ってきました(苦笑)。左の写真は、豊後梅の実。ずいぶん大きく、よく見る梅干しくらいの大きさになっています。右は、モミジ。そろそろ「翼果」が出てくる頃です。

Dsc08549c Dsc08591c  公園内のツツジ、咲き始めはソメイヨシノが散る頃で早かったものの、その後、なかなか開花が進みません。先日書きましたように、剪定の仕方か、肥料を与えていないことの影響のように思われます。その証拠に、鎮国守国神社の鳥居のところ(左の写真)や、立教小学校の裏手(右の写真)では、よく咲いています。

Dsc08632c Dsc08610c  内堀公園には鳥はおらず。新築公園で枯れ草を咥えたスズメ。巣材にするのでしょうか。近くには、オス。求愛行動のポーズを取っていました。ツバメがいたのは、京町の呉服屋さんのみでした。

Dsc08652c Dsc08601c  藤棚も見てきました。左は内堀公園にて、右は老松公園にて。どこも市の公園ですが、手入れが行き届いていないようで、残念。

Screenshot_20220421074922c  ところで、九華公園でウロウロしていたと書きました。昨日から、「桑名城探訪」というスマホアプリの配信が始まりました。昨日は、非常勤のあと、エレベーター・リニューアル工事の完了検査でしたので、試す余裕がありませんでした。今朝、散歩に出る前にインストールして、出かけました。桑名市のWebサイトには、次の引用のように説明されています。左の画像は、アプリを開いたときのスクリーンショト(スクショ)。

かつて存在した桑名城を3DCGで再現し、ありし日の桑名城や城下町をVRやARで見る事ができるスマホアプリ「桑名城探訪」を4月20日より配信します。

このアプリは、桑名城跡付近の指定の場所でスマホをかざす事で、3DCGで再現された桑名城や城下町を360度のVRで見る事が出来たり、スマホのマップに古地図を重ねて表示する事で、まるで昔の桑名を歩いている気分を味わえる、桑名観光にお勧めのアプリです。

Screenshot_20220421075445cScreenshot_20220421092939c  こちらは、「桑名城探訪」を開いた画面のスクショ。「まちあるきスタート」をタップすると、Googleマップが現れ、そこにVRポイントが表示されています。VRポイントに近づくと、サウンドとバイブでそれを知らせてくれます。右の画像は、九華公園の吉之丸堀にかかる橋を渡っているときのスクショ。数字が赤くなっているところは、すでに訪ねて、スタンプをゲットしたところ、青い(紺色)の数字はまだ行っていないところ。

Screenshot_20220421090847c  VRポイントに達すると、スタンプがゲットでき(右の画像)、さらにそのポイントから見えた桑名城や城下町の風景を、3DCGの360度VR画像が見られます。左の「桑名城を仰ぎ見る」というスタンプは、鎮国守国神社の一の鳥居あたりでゲットしたもの(右上のマップでは、#2のポイント)。

Screenshot_20220421091118c Screenshot_20220421091225c  #1のポイントが、「天守閣直上」。ここで見られるVR画像は、右のようになっています。天守閣は、元禄14(1701)年の桑名市街地の過半を焼く大火で焼け落ちてしまい、その後再建はされていません。焼失直前の天守は、4重6階(外観で屋根が4つ重なり、内部は6階建て)という記録が残っています。

Shouhocastle  左の画像は、正保城絵図に書かれた桑名城本丸あたりの様子。右下に天守閣が描かれています。正保城絵図は、正保元(1644)年に幕府が諸藩に命じて作成させた城下町の地図です。

Screenshot_20220421094344c Dsc08594c  九華公園のあちこちでもスタンプをゲットしてきましたが、ほかに、ここは、南大手門のあたり。今の歴史を語る公園のところになります。スタンプをゲットしたところから、同じ方角を見て撮った写真が右のもの。ここの向かって左手(西側)に旧東海道が通っています。右手(東側)が桑名城。右の写真では、民家の一部が堀に向かって出張っていますが、その向こうあたりに南大手橋がかかっていたものと思います。

Dsc08709c Screenshot_20220421104041c  ずっと飛んで、ここは現在の諸戸氏庭園前。煉瓦蔵は、明治の末から大正の頃、諸戸清六氏が立てたものですから、江戸時代にはありません。また、現在の住吉入江は、江戸時代は、桑名城の惣構え堀でした。スクショも、写真も東を向いて撮っています。

Screenshot_20220421144625c  ということで、鳥も散歩友達も少なかったのですが、「桑名城探訪」というアプリで遊んできました(微笑)。スタンプは、左のスクショのように、7箇所でゲット。残りは、鐘の門(これは、九華公園の西の入り口あたり)と三の丸(柿安コミュニティパークの南東)の2箇所。明日、コンプリートして来ることにします。アプリでは、ほかに、Googleマップに古地図を重ねて表示したりもできるようですから、まだまだ楽しめます。「久波奈名所図会」を持って街歩きをしようと、先日も書きましたが、それにも使えると思います。

Dsc08424c  などと遊んでますが、昨日の講義のQ&Aが途中で止まっています。気分を切り替えて、そちらに取り組まないと(爆)。

Dsc08605c  余談。桑名市博物館の次の企画展。「とりてん」ですが、「鶏天」ではなく、「鳥展」。これは楽しみ。

| | | コメント (4)

より以前の記事一覧