城・城跡

2021年4月27日 (火)

20210425「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第2回「伊勢朝日駅~近鉄富田駅」(その2)……松寺の小公園、松寺御厨神明社、タカハシ酒造、松寺立場跡、輝子頌徳記念碑、蓮証寺、宝性寺、蒔田御厨神明社、長明寺から鏡ヶ池跡へ

Iseasahi2  4月25日の「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第2回「伊勢朝日駅~近鉄富田駅」の本編その2です。朝明川を越えて四日市へ入ります。松寺の御厨神明社のあと、酒造会社を見つけ、行ったものの直売所は休み(残念)。松寺立場跡・輝子頌徳記念碑、蓮証寺、宝性寺、蒔田の御厨神明社へ。ここで小休止の後、長明寺、鏡ヶ池跡。その2はここまで。このあと、八風街道をちょっと冨田方向に道草して、田村寺に行ったりしましたが、これ以降はその3にて。

Img_0871c_20210425165901 Img_0875c_20210427065801  朝明川を渡ったところにある小公園。ここで2.6㎞。東海道の案内板、力石、ベンチなどが配されています。案内板には、「ここは四日市の東海道北玄関 松寺」とあり、簡単な地図が添えられています。なぜかシーボルトがここを通ったという説明もあります。シーボルトは、文政9(1826)年、オランダ商館長の江戸参府に随行し、同年3月26日夜遅く四日市に着き、翌27日、朝9時頃ここを通ったといいます。

Img_0879c_20210427065801 Img_0885c_20210427071201  こちらは、公園内に保存されている力石。江戸末期から明治初期にこの地で営まれていた茶店「橋南(はしみなみ)のつる」の主・大久保つるが残したものだそうです。石には「二十七メ」と刻まれ、その目方が27貫目(約100㎏)と思われます。北勢地方では、力石は神社仏閣の境内にあることが多いのですが、これは数少ない民家の軒先にあったものです。

Img_0891c_20210425165901 Img_0895c_20210427071901  公園の先で朝明川の河岸段丘を降りて、東海道は緩くカーブし、じきに松寺の御厨神明社があります。御厨という名称ですから、伊勢神宮に関わりのある土地であったことがわかります。主祭神は、豊受姫命(とようけひめのみこと:食物をつかさどる女神、伊勢神宮外宮に祀られている豊受大御神と同じとされる)、相殿神は、大山祇命(おおやまつみのみこと)。創立年代は不詳。静かで、小さな神社。

Img_0898c_20210427071901  境内には、山の神様が1基ありました。この神明社を過ぎると、薬師堂があると「ホントに歩く東海道」の地図にはあったのですが、見逃してしまいました。前回ここを歩いたときも見ていません。細い道の奥に入っていく必要があるのです(苦笑)。

Img_0905c_20210425182901 Img_0911c_20210425165901  次の目的地である蓮証寺に向かって歩いていたら、御厨神明社を出て100mあまりで、東海道の東に醸造所らしき建物。気になりました(微笑)。気づいたところや、気になったところは見てくるというのが、原則(笑)。タカハシ酒造でした。文久2年の創業だそうですから、1862年。江戸末期の激動の頃。直売所があったのですが、あいにく日曜は定休で残念。天遊琳・伊勢・伊勢物語・伊勢の白酒などの酒を造っています。今度見かけたら、買って、試してみることにしましょう。

Img_0933c_20210425165901 Img_0917c_20210427162001  蓮証寺の手前、東側に松寺立場跡という案内板と、輝子頌徳記念碑とがあります。江戸時代、桑名宿と四日市宿との間には、5カ所の立場があり、その一つがここ松寺でした。タカハシ酒造の南側あたりに立場があったと書かれていました。

Img_0921c_20210427162001  立場跡の案内板の奥に「輝子頌徳記念碑」があります。碑には「佐藤輝子碑」とあります。佐藤輝子は、大矢知村字松寺で佐藤庄九郎の娘として、弘化3(1846)年に生まれました。25歳の時に夫が他界した後は、裁縫の教育に携わり、門者は千数百人に及んだと言います(実際には三千人ほどの子弟がいたとも言われます)。輝子は、大正6(1917)年に亡くなったのですが、翌年3月門人によってこの碑が建てられました。女性の頌徳碑というのは、比較的少ないと思います。

Img_0937c_20210425165901Img_0944c  松栄山蓮証寺。真宗本願寺派。400年くらい前、ここにお堂があり、本堂も200年くらい前に建てられたといいます。松栄山蓮証寺という山号・寺号の最初と最後の文字をとると「松寺」となり、何か関係があるかと案内板にありました。

Img_0941c_20210427170801 Img_0948c_20210427171401  この寺で気になったものは、左の写真。手水鉢だと思うのですが、どうでしょう? 右は境内にあった碑。「昭和三十三年 御巡教記念」とあります。碑の左には「勝如上人御手植月桂樹(これまたちょっとアヤシい)」。勝如上人(明治44(1911)~平成14(2002)年)は、真宗本願寺派23世門主。

Img_0952c_20210427171401  また、こういう石碑もあります。「畢竟依」とあります。K氏と「どう読む?」という話になったのですが、「ひっきょうえ」という読みが浮かんできました。真宗の御経にあったような記憶があったものの、この時点では自信がありません。「畢竟(ひっきょう)」は、仏語で、「畢」も「竟」も終わる意味ですから、究極、至極、最終ということになります。などと調べていたら、「畢竟絵を帰命せよ」という文言が浮かんできました。親鸞上人の「浄土和讃」にあることば(最近、勤行をサボっていますので、記憶が朧気になっていました……苦笑。罰が当たるかも)。「畢竟依(ひっきょうえ)」とは、究極の依り所ということです。

5bf441c1 Img_0994c_20210425170001  さらに進み、松寺から蒔田に入りました。スタートから3.7㎞、10時35分、御厨神明社と、蒔田観音 龍王山宝性寺という2つの標柱が建ったところに来ます。中に入ると、鳥居の向こうにお寺の本堂があるという景色。以前に2回ほど来ていますので、私はどういうところか知っていましたが、初めて見ると、お寺と神社の名前が並んでいるので、不思議に思うかも知れません。隣り合ってというか、同じ境内にというか、神社とお寺があるのです(左の写真は、2017年11月10日に撮影したもの:旧・東海道ウォーク(安永~富田)へ(後編))。

Img_0972c_20210425170001Img_0988c_20210427180201  まずは、龍王山宝性寺。本堂の建物は市の文化財。享保4(1719)年の棟札が残り、また、鬼瓦には文化十一年正月吉日の刻銘がありますので、本堂は文化11(1814)年に建立され、棟札はそれ以前にあった堂のものと考えられています。重層になった本堂は、立派です。言い伝えによると、宝性寺は天平12(740)年に聖武天皇の勅願によって創建されました。永禄11(1568)年に織田信長の家臣・滝川一益が、長島一向一揆を攻略した際、戦火に遭い、焼失した後、小堂が建立されたものの、正徳元(1711)年に再び焼失したといいます。境内には、阿弥陀堂もあります(右の写真)。現在は、蒔田第一自治会が管理しています。

Img_0991c_20210427180201  これは、「舟止石」だそうです。高さは約60㎝。変形した穴が通る硅灰岩(珪灰石か?)で、穴に縄を通し、海中に投入して、船の碇にしたと説明されています。この寺のご本尊と近江国石山寺の開基である良弁(ろうべん)僧正の縁により、石山寺から運ばれたものと思われるともありました。

Img_0984c Img_0980c_20210427180201  こちらは、御厨神明社。松寺のものと区別するため、蒔田の御厨神明社ともいわれます。『勢陽五鈴遺響』に「文治建久中(1185~1198年)富田庄六箇村ノ内の一でもある」と伝わっています。主祭神は、豊宇気毘売神(とようけひめのかみ:食物をつかさどる女神、伊勢神宮外宮に祀られている豊受大御神と同じとされる)。相殿神は、大山祇命(おおやまつみのみこと:山の神)、応神天皇天児屋根命(あまのこやねのみこと:天照大神が天の岩屋に隠れたとき、祝詞を奏した神)。境内には、山の神が1基あります。

Img_0999c  宝性寺と御厨神明社を一緒に撮った写真。お寺は、西に向かって拝むように造られています。神社は、南を向いています。伊勢神宮の方を向いているのかという気がしますが、それが本当かどうかは分かりません。

Img_1006c_20210425170001 C1b3df07  宝性寺と御厨神明社のすぐ南に朝明殿長明寺があります。浄土真宗本願寺派。立派な山門があるのと、寺の周りが、素掘りの環濠で囲まれているのが特徴(右の写真。これは、2017年11月10日に撮影したもの:旧・東海道ウォーク(安永~富田)へ(後編))。環濠に囲まれているのは、ここは文治年間(1185~90)に蒔田相模守宗勝が居城した、蒔田城(まいた)跡といわれるからです。

Img_1023c_20210427192001  創立年代、開基などは不明ですが、寺誌によると、もと真言宗潮音寺と称し、近郷の豊田村(川越町豊田)にあったと考えられています。川越町豊田には、字長恩寺という地名があり、そこが旧地と伝わっています。文明4(1485)年、画像本尊を下付されたそうですので、その頃真宗に改宗したと思われます。慶安4(1651)年、領主松平隠岐守(松平定綱公と思います)から現在の寺地を賜り、翌年寺基を移したといいます。本堂は、昭和31(1956)年に再建。鐘楼は、延宝年間(1637~801年)に建立と伝わっています。

Img_1010c_20210427192001 Img_1020c  山門(昭和初年に建立)の前に石柱。何だか分からなかったのですが、山門前にある寺の案内板を読んで、分かりました。ヒントは、右の写真。新しい橋の下に古い、石造の橋があります。これが、案内板にある「部下3(1806)年に築造された参詣橋」と考えられます。左の写真の石柱には、「文化三年 丙寅二月」と刻まれています。ということは、これは橋の親柱なのでしょう。ちなみにこの寺の塀には、4本の筋が入っています。かなり格式の高いお寺と思います。

Img_1026c_20210425170001  長明寺を出てすぐにスタートから4㎞。その先で蒔田交差点。蒔田交差点を渡ってすぐ東(左)に鏡ヶ池跡。ここは、聖武天皇ゆかりの地です。聖武天皇の伊勢行幸の際(天平12(740)年11月23日に朝明郡の頓宮(とんぐう)にお着きになったといいます)、このあたりで天皇の笠が風で飛んで池に落ちたのを洗濯をしていた娘が拾い上げたそうです。翌日、旅立つ天皇と見送る娘の姿が池に映り、それが鏡のようだったとして鏡池と言うようになったとか。馬上豊かな天皇の姿と、天皇を伏し拝む少女の姿が共に池に映って絵に描いたような美しい光景だったと伝わっています。文明年間に東海道のコースが代わり、この池の真ん中を通るようになり、池は分断されました。明治末期まで東海道の両脇にしばらくは池が残っていたそうですが、現在では、この昭和8(1933)年建立の碑だけになっています。

 その2はここまで。マップには、三光寺と田村寺がありますが、それはその3にて。

| | | コメント (0)

2021年4月25日 (日)

20210425「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」……第2回「伊勢朝日駅~近鉄富田駅」(予告編)

 本日・4月25日は、「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」の第2回に行ってきました。前回の終点である近鉄伊勢朝日駅から東海道を歩いて、近鉄富田駅まで。第1回のときは、1回で完結できるだろうと書き始めたものの、予想外に記述が長くなり、急遽2回の記事になりました。反省して(微笑)、今日のところは、予告編。この伊勢詣りツアー、同級生K氏と二人旅。

Iseasahi0  こちらが、今日のコース全体のマップ。伊勢朝日駅をスタートしますが、伊勢朝日駅は東海道に沿ったところにあります。駅の側にポケットパークがあり、そこに樹齢300年以上のエノキ。朝日町内で浄泉坊、西光寺など寺を周り、北勢バイパス側で多賀大社常夜燈。朝明川を越えると、四日市に入ります。そこに小公園。御厨神明社のあと、酒造会社を見つけ、行ったものの直売所は今日は休み(残念)。松寺立場跡、蓮証寺、宝性寺、蒔田御厨神明社、長明寺、鏡ヶ池。さらに八風街道をちょっと冨田方向に道草して、田村寺。三光寺を出たところで、鳥居を見つけ、若宮八幡神社に立ち寄り、冨田一里塚跡碑、八幡神社、行啓道路記念碑と進み、玉吉稲荷神社。ゴールの近鉄富田駅に向かっていたとき、大きな松の木を見つけ、またもや道草。蓮光寺跡でした。現地で歩いたのは、6.9㎞。

Img_0791c_20210425165901 Img_0796c_20210425165901  スタートの近鉄伊勢朝日駅。桑名駅を8時44分に出る四日市行き準急に乗車。8時52分着、¥210。8時55分に伊勢朝日駅をスタート。ホームは対面式で、駅舎も上下線が別にあります。東海道に出てすぐに踏切を渡ります。その先にポケットパークがあり、この公園の南端に樹齢300年以上といわれるエノキ。東海道を往来した旅人たちを見てきたと思います。街道の並木としては、松が一般的で、朝日町内も同様だったのですが、エノキのような「雑木」も混じっていたそうです。

Img_0805c_20210425165901  朝日町役場の北で「橘守部生誕地遺跡」を見たあと(今回は割愛)、浄泉坊。スタートから800mほど。真宗本願寺派。桑名藩にゆかりのあるお寺で、山門などに三ツ葉葵のご紋があります。参勤交代の大名は、ここで駕籠を降りて黙礼したと伝わります。朝日跨線橋東の交差点を過ぎ、JR関西線朝日駅の東に西光寺。真宗大Img_0842c_20210425165901 谷派。安永6(1777)年の銘のある梵鐘があります。ここのお寺には、以前来たときには、立派な松があり、松並木の名残かと思ったのですが(2017年10月5日:朝日町歴史散歩へ……昼は、味噌天丼、2019年3月10日:20190310近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅1日目~東海道、旅人気分で七里の渡しから富田へ」……雨天決行にて「完」)、今日は見当たりませんでした。切られてしまったのでしょうか。

Img_0800c_20210425172501 Img_0846c_20210425165901  朝日町内にも、東海道を案内する標識、看板がたくさんあります。左の写真は、浄泉坊より伊勢朝日駅よりにある小向神社を案内する社号標ですが、その脇に東海道の案内板が見えます。「みえ歴史街道」とありますから、行政が建てたものでしょう。西光寺の先、スタートから1.5㎞ほどのところで東海道は左折します。右の写真は、そこにあるもの。これは手作りですから、どなたかが掲げてくださったものと思います。

Img_0854c Img_0864c_20210425173201  スタートから2.2㎞で、伊勢湾岸自動車道&北勢バイパスの高架に来ます。柿交差点の北西に多賀大社常夜燈。弘化3(1846)に建立され、かつては燈籠番が毎夜火を灯したそうです。この先で、高架をくぐり、朝明川を朝明橋で渡ります。東征中の日本武尊が、このあたりで夜明けを迎え、朝明川の水で口をすすいだことから川の名が付いたという伝承もあります。さらに、余談というか、講釈というか(笑)。朝日町という地名、日本書紀に、天武天皇が壬申の乱のときに、この付近で朝日を拝んだという記述があるためだそうです。

Img_0871c_20210425165901 Img_0891c_20210425165901  四日市に入ってすぐ、川沿いに小公園。「ここは四日市の東海道 北玄関 松寺」と看板にあります。なぜかシーボルトが通ったことが取り上げて書かれています。近くには、力石。100㎏だそうです。2.8㎞地点に御厨神明社。「御厨」は、伊勢神宮の神領をいいます。「神明社」は、天照大神を御祭神とする神社。他の地方のことは承知していませんが、三重県北勢地方ではあちこちに「御厨神明社」があります。ここは松寺の御厨神明社、あとで蒔田の御厨神明社も訪ねています。

Img_0905c_20210425182901 Img_0911c_20210425165901  御厨神明社を出て100mあまりで、東海道の東に醸造所らしき建物。見つけたらからには見に行かないといけません(笑)。タカハシ酒造でした。文久2年の創業だそうですから、1862年。江戸末期の激動の頃。直売所があったのですが、あいにく日曜は定休。残念。

Img_0933c_20210425165901 Img_0937c_20210425165901  その先に松寺立場跡と「輝子頌徳記念碑」。桑名宿から四日市宿までの間に、立場は5つあったといいます。朝日町小向、四日市の富田などです。「輝子頌徳記念碑」は、大矢知村で弘化3(1846)年に生まれた佐藤輝子を検証するもの。若くして夫を亡くしたものの、裁縫などを千数百人以上に教えたといいます。右の写真は、松栄山蓮証寺。真宗本願寺派。400年くらい前、ここに御堂があったといいます。

Img_0972c_20210425170001 Img_0984c  大矢知に入って、まずは、龍王山宝性寺と、蒔田の御厨神明社。隣り合って建っています。宝性寺は、天平12(740)年に聖武天皇の勅願で創建されたのが始まり。現在は、蒔田第一自治会が管理しています。本尊は十一面観音菩薩。本堂は市の文化財。阿弥陀堂もあります。本堂に向かって右手(北)に蒔田の御厨神明社。

Img_1006c_20210425170001  宝性寺と御厨神明社のすぐ南に朝明殿長明寺があります。浄土真宗本願寺派。立派な山門があるのと、寺の周りが、素掘りの環濠で囲まれているのが特徴。環濠に囲まれているのは、ここは文治年間(1185~90)に蒔田相模守宗勝が居城した、蒔田城(まいた)跡といわれるからです。

Img_1026c_20210425170001  蒔田の交差点を渡ったところに鏡ヶ池跡。聖武天皇が朝明頓宮に入る途中、池に差しかかられたとき、突風で天皇の笠が池に吹き落とされたのを村の少女が進み出て笠を拾い上げ、天皇に渡したという話が伝わっています。文明年間に東海道のコースが代わり、この池の真ん中を通るようになり、池は分断されたといいます。明治末期まで東海道の両脇にしばらくは池が残っていたそうです。

Img_1039c_20210425170001  鏡ヶ池の先で、東海道は八風街道に交わります。弘法山田村寺の話をしたら、行ってみようということになり、寄り道。八風街道を200mほど東に行ったところにあります。真言宗醍醐派。ここは、2度ほど訪ねています(たとえば、2017年12月22日:近鉄ハイキング「巨大かぼちゃ『中風封じの田村寺』と垂坂公園を訪ねて!!」へ(その1))。冬至のとき、中風封じが行われ、巨大カボチャで有名。

Img_1043c_20210425170001 Img_1079c_20210425170001  関西本線の踏切を渡り、三岐鉄道三岐線の高架をくぐると、木下山三光寺。真宗本願寺派。平安時代末期、時の後鳥羽院守護職としてこの地を治めた蒔田相模守宗勝の墓碑があります。三光寺の先で東海道は左折するのですが、右を見たら、鳥居が見えました。年寄りの割に好奇心旺盛で、またもや行ってみようとなりました。若宮八幡神社です。元治元(1864)年、「氏子相計り應神天皇を鎮め神として奉祀」だそうです。

Img_1093c_20210425170001 Img_1117c_20210425170001  東海道に戻って、近鉄名古屋線・三岐鉄道三岐線の高架橋をくぐったところ、スタートから5.8㎞ほどのところに冨田一里塚跡碑があります。江戸・日本橋からは98里。JR関西線富田駅の西に八幡神社。康安2(1279)年に勧請されたといいますから、鎌倉時代。境内には、江戸時代から若者たちがトライしてきたという力石(100㎏)があります。

Img_1124c_20210425170001 Img_1140c_20210425190501  富田八幡社の先に、「行啓記念道路碑」。大正天皇が皇太子の時代、ここを通られたことを記念して建てられたもの。大正天皇は、明治43(1910)年11月、第三師団と第十五師団の対抗演習見学のためいらした途中、当時の三重県立第二中学校(旧制富田中学校、現在の四日市高校)に立ち寄られたのです。この碑の先で、東海道は右折。電柱に手作りの案内板が掲げられていて助かります。東海道は、さらに直進するのですが、今日は、次の交差点を右折し、ゴールの近鉄名古屋線・富田駅に向かいます。途中で、吉玉稲荷神社。明治39(1906)年に伏見稲荷大社から勧請してつくられました。

Img_1144c_20210425170101  そのまま富田駅に向かおうとしたら、K氏が「あの大きな松は何だ?」と。私自身、何回か見た記憶はあるのですが、さほど疑問を持たずにいました(苦笑)。やはり一人で行くよりも同行者がある方が、見ているものが違って、よいのです。冨松山(ふしょうざん)蓮光寺跡でした。かつての冨田城主南部家ゆかりの寺があったところ。寺は、平成10(1998)年に茂福に移転しています。現在は、公園。

Img_1151c_20210425170101  そして、スタートから6.9㎞を歩いて、12時15分を過ぎた頃、近鉄富田駅に到着。途中、宝性寺で休憩していますが、歩き始めからは3時間20分。薄曇りで、風はあったものの寒いということはありません。

Img_1163c_20210425170101 1619322033863c  駅の周りを見て回った結果、西口の前にある「達磨や」でお昼を食べることに。「四日市とんてき丼」をチョイス、¥660。とんてきは、四日市名物。リンク先にある「四日市とんてき」の定義からすると、ちょっと外れるところはあったものの、味はまさにとんてきでした。

Img_1189c_20210425192001  昼食を済ませ、近鉄富田駅12時56分発の名古屋行き急行に乗車。桑名駅には、何と13時03分に到着。あっけない(苦笑)。¥260。今日は、最初に書いたように、現地で6.9㎞を歩き、桑名駅~自宅往復が2.2㎞、合計9.1㎞を歩いて、17,100歩でした。明日以降、本編を書きます。

| | | コメント (0)

2021年4月23日 (金)

20210422勝手に近鉄名古屋線ハイキング「長島漫歩」(その1)……光岳寺、花林院、正敬寺から長島城跡へ

Img_9196c_20210422174301  4月22日の“勝手に近鉄名古屋線ハイキング「長島漫歩」”のその1です。天気がよくて、気温が上がるのはこの日までということもあり、出かけようと思っていました。幸か不幸か、朝早く目が覚めて、前日の授業のQ&Aや、仕事のメールを書き終えられるなど、9時頃には、dutyを一通り済ませられたのです。そこで、先日から考えていた「長島漫歩」に行ってきました。水辺のやすらぎパークにある牡丹園を見に行こうというのが、第一の目的。去年まではクルマを使ったのですが、最近、コペンは娘の通勤用になってしまっています。故に長島駅まで電車で行き、あとは歩きました。

Nagashima11  歩いたコースはこちら。近鉄長島駅から南を歩いてきました。光岳寺、花林院、正敬寺と寺を回ったあと、長島城跡である長島中学校、長島中部小学校の前を通り、長島川遊歩道を下って、稲荷阿岐波神社から、水辺のやすらぎパークへ。久我邸や、牡丹園を見て、一休みしてから、長島幼稚園近くの遊歩道の終点まで。そのすぐ近くには、花市場があり、そこに立ち寄って来ました。いつもバードウォッチングに行く河口堰は今日はパス。近鉄長島駅に戻って電車で帰るつもりが、国道1号線の伊勢大橋東詰交差点でこのまま歩いて帰った方が早い、と思い直し、伊勢大橋を徒歩で渡って帰宅。長島駅から自宅までが7.5㎞。自宅から桑名駅までが1.1㎞で、合計8.6㎞の散歩でした。

Img_9203c Img_9210c  桑名駅を9時48分に出る名古屋行き普通に乗車。次の駅が近鉄長島駅。乗車時間はわずかに4分、料金は210円。車両はガラガラ。近鉄、儲かってないと思います。近鉄長島駅前(駅の南)には、伊勢湾台風の水位標があります(右の写真)。当時、このあたりは5mを越える水に浸かったそうです。この写真を撮っていたら、名古屋行きの特急ひのとりが通過して行くのが見えました(右の写真の奥に写っています)。ひのとりが走り始めて1年あまり。一度くらいは乗りたいもの。といいつつ、来年で登場10年になる「しまかぜ」にもまだ乗っていません。同級生K氏と「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣り」を始めましたが、伊勢まで行ったら、帰りはしまかぜに乗って宴会をしながら帰ってこようと話しています(笑)。ウォーキングのスタートは、9時55分。ちなみに、ひのとりは、1本だけ桑名駅にも停車します(こちら)。大阪難波21時発の名古屋行き「ひのとり621列車」。このひのとり、白子、四日市にも止まり、桑名には22時59分。名古屋着は、23時16分。

Img_9228c  近鉄長島駅から南へ下っていきます。長島は、平成16(2004)年に多度町とともに桑名市に合併しています。木曽三川河口部に位置し、町全域が平坦です。かつては堤防に囲まれた複数の輪中によって構成されていました。地名の長島は7つの洲からなる「七島」、あるいは南北に長い土地であることから付けられたとされます。明治時代に行われた木曽三川分流工事に伴って、輪中を分けていた小河川の多くが廃川となるとともに、一部の土地は長良川の新河道となり、現在のような地形となっています。木曽三川改修工事についての簡単な歴史は、こちら

Img_9231c Img_9237c_20210423042501  近鉄長島駅から500mで、天機山伝通院光岳寺。浄土宗のお寺。山門に三つ葉葵の御紋があって驚きました。後述のように、徳川家康の母である伝通院の方の菩提寺だったのです。今回は、事前の予習をほとんどしないで出かけました。思わぬところ、身近なところに歴史ありです。学生諸君にもいつも言っていますが、予習は、やはり必要です(苦笑)。

Img_9240c_20210422172401 Img_9234c  創建は不詳ですが、古くは、下野国(現在の千葉県関宿)にあり、弘経寺と称していました。慶長7(1602)年、徳川家康は母親である伝通院の菩提寺の1つに定め、天機山伝通院光岳寺と改称しました(法名が、伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼によると思われます)。当時の領主で、家康の異父弟である松平康元が光岳寺を庇護し、同家の移封先である加納藩(岐阜県岐阜市)、小諸藩(長野県小諸市)に随行し、慶安2(1649)年、当時の当主松平康尚が長島藩に移封になると、長島城下に移りました。ここに祀られている「沓踏子安延命地蔵菩薩」は、伝教大師最澄が自ら彫り込んだと伝えられるもので、伝通院の念持仏だったといいます。

Img_9255c Img_9355c_20210422172401  近鉄長島駅あたりから、長島幼稚園付近まで、途中、ちょっと途切れてはいますが、長島川遊歩道があります。長島駅の南のポケットパークから光岳寺のところ、長島城跡の近くの城東橋から長島幼稚園あたりまで、です。今日は、ほぼこれに沿って歩いてきました。光岳寺からさらに南に向かいます。長島中学校の東で長城橋を渡って長島川の東へ。お寺が2ヶ所ありますので、そちらに。

Img_9272c Img_9280c  スタートから1㎞のところに、盤龍山花林院(ばんりゅうざんかりんいん)。曹洞宗のお寺。門の脇に「乳授薬師(ちちやくし)」という石碑も建っています。しかし、碑陰には何も説明はありませんし、ネットで調べても情報は出て来ません。最近の経験では、「長島町史」を見れば分かると思うのですが、あいにく手元にはありません。

Img_9284c_20210423045801 Img_9288c_20210423045801  禅寺らしく、山門の脇には、大きな「戒壇石(かいだんせき)」があり、「不許葷酒入山門(=葷酒山門に入るを許さず:クンシュサンモンニイルヲユルサズ)」と刻まれています。山門をくぐった右手(北側)には、地蔵堂が2ヶ所あります。

Img_9291c_20210422172401  ここは、家康の異父同母弟である松平康元が父・久松俊勝の冥福を祈るため、三州西郡(こちらの記述によれば、現在の愛知県蒲郡市に含まれる地域)に一寺を建て父の法号を採って花林院と名づけました。その後、松平氏は下総関宿へ移封。さらに加納、信州小諸へと移封されたので、寺もこれにしたがって移転しています。松平康尚が長島藩主となると、花林院も長島に寺基を移しました。その後、増山氏が長島に入封すると増山氏もまた花林院を代々の位牌所として庇護しています。墓所には増山氏の13基の墓碑があるそうですが、調べて行きませんでしたので、墓所は見てこず(こちら)。また、慶長6(1601)年に長島藩主菅沼家初代となった菅沼定仍(さだより)の室、菅沼定盈(さだみつ)の継室の墓も残っているため、花林院以前にこの地には菅沼氏の女系の菩提寺、祈願所があったと考えられています。

Img_9296c_20210423072001  元の本堂は天保年間の建立だったそうですが、昭和36(1961)年に焼失。その後鉄筋コンクリートで再建されています。

Img_9309c_20210422172401 Img_9319c  花林院のすぐ南、細い道を1本隔てて石城山正敬寺(しょうきょうじ)。真宗大谷派のお寺。お寺にも由緒書きなどはなく、また、ネットで検索してもとくに情報は出て来ませんでした。

Img_9327c_20210422172401  再び長城橋を渡って、元の道に戻ります。そこは、長島中学校の東側。長島中学校には、城の大手門のような立派な門があります。それもそのはず、ここは、長島城の跡なのです。

Img_9331c_20210422172401  長島城の起源は、寛元3(1245)年、藤原(九条)道家が館を築いたことにさかのぼります。文明14(1482)年、北勢四十八家の一人、伊藤重晴によって城が再建されました。元亀元(1570)年、一向宗・願証寺の住職・証意蓮淳蓮如上人の6男)の曽孫)によって伊藤氏一族が追放され、長島一向一揆の拠点となりますが、その後、織田信長によって攻略され、滝川一益の居城となりました。賤ヶ岳の戦い後、織田信雄の居城となるのですが、天正14(1586)年の天正地震で天守が倒壊するなど甚大な被害を受けたため、信雄は清洲城に移りました。江戸時代に入ると、菅沼氏が2万石で封じられ、長島城を改修。元和7(1621)年、菅沼氏が移封されると、長島藩は廃藩となり、長島城も一時廃城となったものの、慶安2(1649)年、久松松平家の松平康尚が那須藩より1万石をもって入り、長島藩が再興されました。元禄15(1702)年には、4代将軍家綱の生母の弟・増山正利の子の正弥(まさみつ)が常陸下館より2万石で移され、以後8代続き明治維新に至っています。この間、城郭は順次拡大されましたが、天守は上げられませんでした。

Img_9341c_20210422190001  現在、城跡は長島中部小学校・長島中学校の敷地となり、遺構の大半は失われていますが、東側に石垣および堀が残るそうです(ただし、まったく気づかず、見ていません)。長島中部小学校内の「大松」は、天然記念物であり、市の指定文化財にもなっています。クロマツの大樹で、樹齢300年以上と推定されており、長島城があった当時は本丸の西南にあったといいます。

 その1はここまで。その2は、稲荷阿岐波神社から。その2で完結のつもり。

| | | コメント (2)

2021年4月22日 (木)

20210422勝手に近鉄名古屋線ハイキング「長島漫歩」(予告編)……水辺のやすらぎパークでボタンを楽しむ他

Img_9196c_20210422174301  今日もよく晴れ、27℃になりました。朝早く目が覚めたので、昨日の授業のQ&Aや、仕事のメールを書き終え、さらに、ワケあって家事にも勤しみ、「本日のduty」を一通り済ませられました。そこで、先日から考えていた「長島漫歩」に行ってきました。水辺のやすらぎパークにある牡丹園を見に行こうというのが、第一の目的。去年まではクルマを使ったのですが、最近、コペンは娘の通勤用になってしまっています。故に長島駅まで電車で行き、あとは歩きました。

Nagashima11 Img_9946c_20210422172601  今日歩いたコースはこちら。長島駅から南を歩いてきました。光岳寺、花林院、正敬寺と寺を回ったあと、長島城跡である長島中学校、長島中部小学校のところを通り、長島川遊歩道を下って、稲荷阿岐波神社から、水辺のやすらぎパークへ。長島幼稚園のところからなばなの里にある花市場に立ち寄って来ました。河口堰は今日はパス。近鉄長島駅に戻って電車で帰るつもりが、国道1号線の伊勢大橋東詰交差点でこのまま歩いて帰った方が早い、と思い直し、伊勢大橋を渡って帰宅。長島駅から自宅までが7.5㎞。自宅から桑名駅までが1.1㎞で、合計8.6㎞の散歩でした。歩数は、15,273歩。今日は、取り敢えず、予告編。今日は、下調べはコースのみで、立ち寄り先については白紙状態でした。

Img_9203c Img_9210c  桑名駅を9時48分に出る名古屋行き普通に乗車。次の駅が近鉄長島駅。乗車時間はわずかに4分、料金は210円。車両はガラガラ。近鉄、儲かってないと思います。近鉄長島駅前(駅の南)には、伊勢湾台風の水位標があります(右の写真)。この写真を撮っていたら、名古屋行きの特急ひのとりが通過。走り始めて1年あまり。一度くらいは乗りたいもの。といいつつ、「しまかぜ」にもまだ乗っていません。同級生K氏と「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣り」を始めましたが、伊勢まで行ったら、帰りはしまかぜに乗って宴会をしながら帰ってこようと話しています(笑)。ウォーキングのスタートは、9時55分。

Img_9231c Img_9240c_20210422172401  浄土宗天機山伝通院光岳寺。スタートから500m。山門に三つ葉葵の御紋があって驚きました。創建は不詳ですが古くは弘経寺と称し現在の千葉県関宿にありました。慶長7(1602)年、徳川家康は母親である伝通院の菩提寺に定め、光岳寺と改称しました。当時の領主で家康の異父弟である松平康元が光岳寺を庇護し、同家の移封先である加納藩(岐阜県岐阜市)、小諸藩(長野県小諸市)に随行し、慶安2(1649)年、当時の当主松平康尚が長島藩に移封になると長島城下に移りました。ここに祀られている「沓踏子安延命地蔵菩薩」は、伝教大師最澄が自ら彫り込んだと伝えられるもので、伝通院の念持仏だったといいます。

Img_9355c_20210422172401 Img_9583c_20210422172501  近鉄長島駅あたりから、長島幼稚園付近まで、ちょっと途切れてはいますが、長島川遊歩道があります。長島駅の南のポケットパークから光岳寺のところ、長島城跡の近くの城東橋から長島幼稚園あたりまで、です。今日は、ほぼこれに沿って歩いてきました。右の写真は、水辺のやすらぎパークあたりのものですが、なかなかよい感じですし、何よりも空いているのがいい。

Img_9272c Img_9291c_20210422172401  長島中学校の手前で、長島川を渡り、盤龍山花林院(ばんりゅうざんかりんいん)へ。曹洞宗のお寺。門の脇に「乳授薬師(ちちやくし)」という石碑も建っています。長島藩主松平、増山両家の位牌所で、墓所には増山氏の13基の墓碑があるそうですが、調べて行きませんでしたので、墓所は見てこず(こちら)。家康の異父同母弟である松平康元が父俊勝の冥福を祈るため、三州西郡に一寺を建て父の法号を採って花林院と名づけたそうです。

Img_9309c_20210422172401 Img_9319c  花林院のすぐ南には、石城山正敬寺(しょうきょうじ)。真宗大谷派。ここについては、ネット検索ではとくに情報は出て来ません。

Img_9327c_20210422172401 Img_9331c_20210422172401  長島川沿いに戻ります。立派な門がありますが、これは桑名市立長島中学校の門。長島中学校や、長島中部小学校のあたりが、長島城の跡です。寛元3(1245)年、藤原道家が館を築いた後、長島一向一揆の本城、長島藩の居城を経て現在長島中部小学校・中学校地となっています。

Img_9341c_20210422190001  長島中部小学校校内の「大松」は、天然記念物であり、市の指定文化財になっています。クロマツの大樹で、樹齢300年以上と推定されており、長島城があった当時は本丸の西南にありました。現在は長島中部小学校のシンボルとなっています。

Img_9370c_20210422172401 Img_9390c_20210422172401  長島中部小学校の南、大手橋の南たもとのところに稲荷阿岐波神社があります。主祭神は、宇迦之御魂神。初めは、萱町の田村邸の邸内社でしたが、後に中町花林院門側に遷座、それ以後、次第に長島三町の産土神として祀られています。下町・中町・萱町の3町内によって石取祭が行われており、7月第3金・土曜日に町内を回ります。

Img_9411c  稲荷阿岐波神社から大手橋を渡った先に道標が1基あります。正面には、「👈 前ヶ須 浮(? 「津」とも見えます)島/宮 名古屋道」、左右両面には「右 久波奈ミち」「左 くわなみち」とそれぞれ刻まれています。

Img_9468c_20210422172401  スタートから2.2㎞、時刻は、10時35分、長島水辺のやすらぎパークに到着。旧久我邸を改修し、休憩施設として整備したところです。久我家は江戸時代、長島藩の重職にありました。しかし、明治4(1871)年の廃藩置県によって一時は長島県が置かれ、当時の藩主増山氏が知事になりましたが時を経ず、安濃津県に編入され、明治5年(1872年)には三重県と改称されました。この時、久我氏は戸長に任命され、長島・大島・松ヶ島・駒江・出口・又木・小島の各村を治め、明治22年(1889年)市町村制が施行されるまで続きました。去年は、4月28日に来ています(2020年4月28日:河口堰でコアジサシ、コムクドリ、ヒレンジャク、ササゴイ、長島水辺のやすらぎパークで牡丹……プチ遠征を楽しみました

Img_9453c Img_9492c_20210422172501  ここには、牡丹園が整備されています。しかし、今年は花が早かったのか、咲いているところは少ない感じでした。今日は平日ということもあってか、空いていました。去年も書きましたが、「穴場スポット」です。藤棚、屋敷内にはツツジなどもありますが、いずれも盛りを過ぎつつありました。久我邸の裏手には、シャクヤクが育てられていました。係の方によれば、「1週間ほどすると咲くから、また是非見に来て欲しい」ということでした。

Img_9543c_20210422172501  40分ほど歩いてきましたので、四阿で一休み。桑名駅のファミマでゲットしてきた「豆大福」をおやつに(微笑)。朝5時半頃には、朝食を食べますので、10時を過ぎると小腹が空いてくるのです(笑)。水辺のやすらぎパークで20分ほど過ごし、10時55分にウォーキングを再開。長島川遊歩道を歩いて、長島幼稚園方面に向かいます。

Img_9632c_20210422192901 Img_9636c  遊歩道は、長島幼稚園のところが終点。途中、ツグミや、カルガモがいました。長島幼稚園近くで、とある野鳥が来ていないか見てきたのですが、見当たらず。ここまで来ると、なばなの里や、花市場がすぐ近くです。もちろん、初めから承知の上で歩いてきています(笑)。

Img_9639c_20210422172501  花市場の駐車場の一角に日神神社(ひがみじんじゃ)。天照大神を祀っています。由緒書きには、元和3(1617)年頃開墾された駒江新田に延宝6(1678)年、西外面(にしども)の八幡社の摂社として現在地に勧請され、天照大神を祀っています。

Img_9647c 28b5b944  花市場。なばなの里に隣接したファーマーズ・マーケット。ときどき来ます。今日の目当ては、植物や花ではなく、昼の弁当(笑)。ここには私のふるさとのものと同じ「押し寿司」を売っているのです(2012年10月13日:花市場で買い物のついでに、またまた河口堰へ)。今日はあいにく、押し寿司だけのものは売り切れ。やむなく助六と押し寿司のセットを購入(¥420)。ここで時刻は、11時20分。

Img_9674c Img_9666c_20210422194001  時間のこともあって、なばなの里にも、長良川河口堰にも立ち寄りません。なばなの里は、現在、イルミネーション期間中ですから、入場料は、2,300円なのです。なばなの里限定の「さくら安永餅」を今年も売っていますので、それを買いたいと思うものの、2,300円を払ってまで買いに行くのもどうかと思うのです。

Img_9720c  伊勢大橋東詰交差点には、11時35分。スタートからは4.7㎞。当初は、ここから北に向かって、大智院、光栄寺、小田江神崎神社などに立ち寄って近鉄長島駅まで行くつもりでしたが、方針変更。伊勢大橋を歩いて渡って帰宅することにしました。扱ったこともあって、わざわざ大回りすることもないかと考えたのです。

Img_9709c  伊勢大橋を渡る手前で、三重交通のバス停であったところにこんな看板。4月1日から路線の統廃合で、伊勢大橋東詰のバス停が廃止されたのです(こちら)。桑名駅から長島温泉に行くバスは、53系統に統合され、ここは通らなくなったのです。もともと本数も少なかったですし、たぶん利用客も多くはなかったのでしょう。

Img_9742c_20210422172601  伊勢大橋の中程にある、中堤交差点の東で珍しい看板を見つけました。「カワウ駆除のため通行止め」の予告看板。中堤道路で、5月10日~6月30日の間の4日間、朝4時~8時にカワウの駆除をするので、通行止めになるのだそうです。千本松原あたりから治水神社木曽三川公園三川センターのところの間の松林にカワウが巣をつくっています。それを駆除するということだと思われます。

Img_9826c_20210422172601 Img_9830c_20210422172601  伊勢大橋からしばらくは割愛して、六華苑。長屋門の前にある大イチョウも青々としてきました。いつもの住吉神社には、12時17分。スタートからは7㎞ちょうど。無事に歩いてこられましたので、御礼にお参り。この近くで散歩友達・通称Tちゃんに遭遇。屋外で昼ご飯を食べておられました。

Img_9938c_20210422172601  マネをしてではありませんが、外の方が気持ちよさそうでしたので、諸戸氏庭園前の桜並木のところのベンチで、私も昼ご飯にすることに。花市場でゲットしてきた弁当を食べてきました。ということで、長島駅からは7.5㎞、朝、自宅から桑名駅までが1.1㎞、合計8.6㎞を歩いてきました。諸戸氏庭園前に戻って来たのは、12時25分。3時間半で7.5㎞を歩き、あちこち見て回ってきたという次第。もう少し詳しい記事は、またいつものように、明日以降ボチボチと。

| | | コメント (0)

2021年4月 2日 (金)

20210331“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”(その2)……山神社、蓮花寺、白山神社・蓮花寺西城跡、蓮華寺東城跡、宇賀神社、宇賀遺跡

210331nisibessho2 3月31日に行ってきた“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”の本編その2です。その1では、西別所の八幡神社まででした。今回は、蓮花寺地内を巡った話し。地蔵堂のところで、員弁街道は城下橋を渡り、蓮花寺川の南を進みます。私は、そのまま蓮花寺川に沿って西へ。川は北へ向かいますが、直進。三岐鉄道北勢線・蓮花寺駅の北あたりで右折し、山神社、蓮花寺、白山神社(マップのもとにしたキョリ測では、宇賀神社となっていますが、そこは白山神社です)、蓮花寺東城跡を見てから南へ、宇賀公園にある宇賀神社にお参りして、宇賀遺跡があったところへ。  

Img_1249c_20210402065301 Img_1252c_20210331172201  蓮花寺川沿いの景色。向こうに見えているのは、在良小学校。よく晴れて見通しも利き、川沿いで広々としていて、とても気持ちよく歩けました。蓮花寺駅の北あたりで右折しましたが、そこに地蔵堂と、個人の方の慰霊碑。陸軍一等歩兵として従軍され、亡くなられた方のもの。碑陰は確認しませんでしたが、日清戦争か、日露戦争のものかと見ました。

Img_1262c_20210331172201 Img_1274c_20210331172201  スタートから2.9㎞、9時半過ぎに山神社。事前の調べでは、由緒もある神社でしたので、もっと立派なものを予測していました。御祭神は、大山津見神(おおやまつみのかみ、山を司る神)。正親町天皇の天正年間(1573~92年)以前の創始だそうです。蓮花寺村宇賀の城山(あとから訪ねる白山神社あたりか?)に内山源吾が城主として居城し、奉祀したといいます。天正年間、織田勢に滅ぼされたものの、その後も氏子の方々が「山の神」と称し、祭祀してきました。民家のまん中にあり、ブロック塀に囲まれた神社というのも珍しいのですが、氏子の方に祭祀されてきたというのが、よく分かる気がします。次の目的地、蓮花寺は、山神社のすぐ裏なのですが、細い道にクルマが止まっていたりして、結局、回り道。

Img_1286c_20210331172201  回り道をしたお陰で、「珍百景」に遭遇。普通のお宅と思うのですが、庭にスワンボートが置いてある光景。建物の中にも、富士山のような形のものが置いてあるのも見えました。「ナニコレ珍百景」に相当しそうな感じがします。

Img_1294c_20210402175901  このお宅のすぐ先に鳥居があります。この写真を撮った方からくぐるようになっていますので、このあと行くつもりの白山神社のものと思われます。大正9(1920)年の建立。車が通るには不便な気がします。この鳥居をくぐってすぐに右手に入る細い道があり、そこを行くと、蓮花寺でした。

Img_1297c Img_1306c_20210331172201  総仏山蓮花寺。真宗大谷派の寺。ご本尊は、阿弥陀如来。第二次世界大戦までは、総仏堂という説教所でした。在良村郷土誌によれば、蓮花寺先々代の紀伊浩洋は、漢籍で名高い人物であったそうです。堂は、先代が昭和33(1958)年に建て変え、旧村名(蓮花寺村)をとって総仏山蓮花寺と名づけたといいます。寺にある鐘は、戦時中に金属供出として出されたもの(今は、中里ダムの湖底に沈んだ深尾山薬王庵の持ち物)を譲り受けたといいます。かつてこの近くには、地名の語源となった「蓮華寺」がありました(ここ蓮花寺とは別の寺。蓮華寺は、後述の白山神社の西北西あたりにあったといいます)。蓮華寺村も、寺も、鎌倉時代にはかなり繁栄したそうですが、住宅開発に埋もれ、蓮華寺の寺跡は窺い知れません。蓮華寺には、無住国師(むじゅうこくし、あるいは、無住道暁(ムジュウドウギョウ))が住み、正和元(1312)年、87歳で没したといいます(異説あり)。無住国師は、臨済宗の僧で、中世文学の説話として代表的著作「沙石集」、「聖財集」、「雑談(ぞうだん)集」などを著しました。

Img_1313c_20210331195001 Img_1320c_20210331172201  蓮花寺からさらに坂を登っていくと、白山神社に出ますが、その手前に白山会館と小公園があり、そこに見事なソメイヨシノ。ちょうど満開。花見の名所にはほとんど行きませんが、こういうところで思いがけず、見事な桜に出遭うのもまたよし、という感じ。

Img_1328c_20210331172201  白山神社です。私がいつも使う「キョリ測」には、ここに、白山神社と宇賀神社があるとなっていますが、由緒書きによれば、ここに鎮座するのは白山神社。宇賀神社は、ここから南150mほどのところにあると書いてありました。

Img_1332c_20210331172201  白山神社の御祭神は、菊理姫命(くくりひめのみこと、白山比咩神社の主祭神。水を恵み、ものごとの和合・仲介・招福の神)。由緒書きによれば、白山権現菊理姫社と称し、正親町天皇の永禄年間(1558~70年)以前からあったといいます。境内社には、津島神社、火産霊社が、また、別宮には、護国神社があります。ここ、白山神社があるところは、蓮花寺西城(城山城)跡といわれ、内山源吾正則が居城したといいます。織田信長に滅ぼされています。現在、城の遺構はありません。

Img_1397c_20210331172301 Img_1407c  白山神社の北に神田池という大きな灌漑池があります。その南の端あたりが、蓮花寺東城(宇賀城)跡といわれます。蓮華寺東城には、後藤庄左衛門氏篤が居城しましたが、こちらも永禄年間に織田信長に滅ぼされています。城の遺構は、ここもありません。何となくもの足らない気もしますが、やむを得ません。

Img_1419c_20210331172301 Img_1423c  蓮花寺東城跡から白山神社の南にある宇賀神社を目指します。宇賀神社は、宇賀公園の中。このあたりで、スタートから4㎞、10時頃。御祭神は、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ、食物、とくに稲の神霊)。ここも創始は不詳ですが、正親町天皇の御代(1557~86年)以前と伝えられ、蓮花寺西城(城山城)主・後藤庄左衛門の崇敬が厚かったといいます。この公園で小休止。

Img_1441c_20210331172301  宇賀神社の南あたりが宇賀遺跡。公園の南にある住宅地から、コミュニティバスの「マザック前」停留所のあたりにと思われます。縄文時代から中世にかけての複合遺跡です。弥生時代の遺構からは、井堰が見つかっており、稲の穂積みに使う木包丁も出土し、稲作が行われていたと考えられています。

 今回は、短めですが、キリが良いのここまで。その3では、額田神社(本社、増田)、額田神社旧跡と源流寺。

| | | コメント (0)

2021年4月 1日 (木)

20210331“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”(その1)……西別所駅をスタートして、延寿院、万機庵跡、照林寺、員弁街道から西別所の八幡神社へ

210331nisibessho  3月31日の“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”の本編その1です。この日は、陽気もよく、桜も満開でしたから、このテーマで歩いてきたという次第。今回も、「くわな史跡めぐり」を参考に自分でコースを組み立てています。この本の濃州道のところを見ています。濃州道は、去年、桑名から員弁まで歩き通しましたが、街道から離れたところは訪ねていません。そこでそうした見ていないところへ行こうというのが企画の趣旨。「くわな史跡めぐり」を参照しながら、「キョリ測」でコースを描いていきます。そうしてつくったものが、冒頭にあるマップ。キョリ測は、本来、距離を測定するサイトなのですが、このようにルートマップ作成にも応用できるのです。描いたものをPrint Screenで取り込んで、Paintに貼り付け、Corel Paint Shopでトリミングして、またPaintで距離数や訪ねる場所の説明を書き込んでいます。詳細マップも同様にしてつくり、プリントして持って歩いています。

 この日は、三岐鉄道北勢線で西別所駅まで行き、そこから、延寿院、万機庵跡、照林寺、八幡神社と回ったあとで、西別所城跡を見るつもりが忘れて、蓮花寺に入りました。当初、西別所城跡は見るつもりがなかったのですが、近いことに気づき、あとから思いついて、目的地にくわえたのです。その後、蓮花寺地内で山神社、蓮花寺、白山神社、宇賀公園、宇賀神社。さらに増田に行き、増田の額田神社、源流寺、そして、額田神社の氏子の方に教えていただいて額田神社旧跡を訪ねました(増田集会所)。これで在良駅にゴールするつもりでしたが、氏子の方に額田神社(本社)の話も聞きましたので、そちらまで足を延ばしました。現地で7.6㎞を歩き、自宅から西桑名駅までの往復が2.3㎞で、合計9.9㎞。

Img_1044c_20210331172101 Img_1050c_20210331172101  三岐鉄道北勢線・西桑名駅を8時23分に出る阿下喜行きに乗車。春休み期間ですので、空いていました。1輌に2~3人の客。西別所までは、2駅。¥190。

Img_1062c_20210331172101 Img_1072c_20210331172101  左の写真は、途中、馬道駅から見た走井山公園の桜。ここには桜の木が100本ほどありますが、満開。西別所駅には、8時28分に到着。右の写真が西別所駅ですが、向かって左(南側)には辻内鋳物工業の大きな工場がありました。取り壊されて更地になっています。スタートは、8時半。

210331nisibessho1  こちらが詳細なルートマップその1。まずは、北勢線の踏切を渡って、北側へ行き、さらに国道258号線をくぐり、延寿院へ。続いて、258号線をはさんだ万機庵跡から、濃州道沿いの照林寺、地蔵堂から八幡神社へ、その後、少し東に戻って光陽希望が丘保育園近くにある西別所城跡を見ようと思ったものの、忘れてそのまま西へ向かってしまいました(苦笑)。

Img_1088c_20210331172101 Img_1101c_20210331180001  さて、まずは、国道258号線の下をくぐって、その東にある延寿院を目指します。西別所駅は、町屋川でバードウォッチングをするときに何度か降りたことがあります。また、国道258号線は、クルマで何度となく通っていたのですが、このあたりを歩くのは初めて。左の写真で向かって右に見えている地下道を通っていきます。その先がよく分からなかったので、事前にストリートビューで見たものの、延寿院に入る道は今ひとつ不確か。結局、258号線沿いの小径を進み、どん詰まりにあった、この藪のようなところの奥から入れました。

Img_1104c Img_1109c_20210331172101  その先にあったのが、「北寺駐車場」の看板。この道で間違いはなかったようで、一安心。右手の奥から少し登って、お寺の境内に入っていけました。慈眼院北寺延寿院。高野山真言宗のお寺。ご本尊は、十一面観音菩薩。地元では、集落の北のはずれにあることから「北寺」と呼ばれます。延宝年中(1673~81年)、奥平貞登が観音堂を建てたのに始まります。奥平貞登の一族は、桑名藩5代藩主・松平定綱に使えて家老職を務めました。この地に山荘を建て、かたわらに小堂を建てて観音像を安置したと考えられています。享保21(元文元)(1736)年、大福田寺の住職・實圓がここを隠居寺としてから大福田寺の庵室となり、江戸末期からは尼僧によって住持されていました。しかし、檀家もなく、昭和中期には無住となり荒廃したため、西別所在住の有志によって昭和57(1982)年に本堂が修復され、また、北寺奉賛会が設立され、維持されています。

Img_1119c_20210331172101  境内には、宝暦5(1755)年に入寂した實圓と、安永5(1776)年入寂の實豊の墓碑である五輪塔2基などが残っています。左の写真で中央にある五輪塔が實圓のもの、向かって左が實豊のものです。境内には桜も咲き、ウグイスのさえずりも聞こえていました。時折、国道258号線を走るクルマの音が聞こえては来ますが、静かで落ち着いたお寺です。

Img_1125c_20210401152001  258号線をクルマで走っていただけの時は、まさかここにこのようなお寺があるとは思いもしませんでした。さらにもう一つ、蛇足。お寺のすぐ裏手には、「オレンジアベニュー」というラブホテルがあります。聖と俗、微妙な位置関係でもあります(この写真の背後に見える、白い大きな建物がそれ)。と変な感慨を抱きつつ、お参りはきちんと済ませ、延寿院をあとにします。

Img_1138c_20210331172201  再び、国道258号線をくぐって、その西側へ出ます。地下道を出たところから北を見た写真。前方の森に、万機庵跡があります。万機山蔵鷺庵(ばんきざん ぞうろあん)が正式名称のようですが、地元では万機庵、または、蔵六庵とも呼びます。「桑名市史 本編」には、「蔵鷺庵」として載っています(p.472)。もともとは曹洞宗のお寺でした。ご本尊は、観世音。明暦元(1655)年に、楊柳寺(市内新屋敷)第6世万機和尚が創建し、ここに閑居した庵跡といわれています。万機和尚は、真田幸村(信繁)の3男で、楊柳寺に在住30年。「桑名市史」によれば、桑名藩第3代藩主・松平定重公が、ここに山荘を設け、遊興したといいます。また、天正の頃の城跡で馬場の跡があることや、境内の「一本松は方二三十間にも及ぶ古木であった」ことも触れられています。1間は、約1.8mですから20間では36m、30間なら54mとなります。

Img_1148c_20210331172201 Img_1152c  それはさておき、万機庵跡ですが、上の写真の道を上り、途中から岡の方に入ったものの、岡の中は、これらの写真のような状況。「明治初めに無檀家の理由を以て廃庵となり、現在、跡地は竹林となっている」(こちら)ということは知っていたのですが、実際にかなり荒れていました。跡地には、万機和尚の墓石を含め、15基の墓石があるそうですが、見つけられませんでした。予めネットで検索したところ、最近、「送電線の鉄塔が立っているので、そこへの鉄塔巡視路はあるものの、きびしい藪と地形で、歩き回ることができず、墓石の場所は判らなかった」と書いているブログがありました(こちら。今年2月の初めの記事です)。2月1日に行こうとした高塚山古墳も、荒れていて入れませんでしたが(2021年2月1日:20210201勝手に養老鉄道ハイキング「桑名駅西歴史散歩」(予告編))、竹林は手入れされないとすぐに荒れてしまうようです。ということで、万機庵跡に行くのは、断念。なお、墓石の写真は、このWebサイトにあります。

Img_1155c_20210401153701  ちなみに、万機庵跡を探して歩き回っていたところ、国道258号線が見えるところに出ました。見えている建物は、先ほど触れた「オレンジアベニュー」。写真の右端に森が少し写っていますが、そこが延寿院です。万機庵跡からグランデージ西別所という住宅地の北側を通って1㎞を過ぎて左折し、南下。照林寺へ向かいます。

Img_1167c_20210331172201  照林寺。真宗本願寺派のお寺。ご本尊は、阿弥陀如来。ここは、員弁街道沿いにあり、昨年3月15日にも来ています(2020年3月15日:20200315「勝手に三岐鉄道ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』」(三ツ矢橋から三岐鉄道北勢線・星川駅)(予告編))。当時の西別所には寺がなく、明治44(1911)年、地元の人たちの懇請を受けて、萱町の法盛寺の塔頭を村の念仏道場であったここに移築して設立されました。その際、廃庵となった万機庵の建物の一部を庫裡として移築しています。さらに同庵に安置されていた阿弥陀如来像と十一面観音菩薩像も移安され、別壇に護持されているそうです。もとは、法盛寺の末寺。「桑名市史 本編(p.456)」には、「寛文10(1670)年、第2世靖南のとき、本山より寺号を許された」という記述がありますが、これは上記の念仏道場のことかという気がします。照林寺でスタートから1.3㎞、9時頃。

Img_1171c_20210331172201 Img_1174c_20210331172201  照林寺のところから次の地蔵堂のところまでは、員弁街道を歩きます。左の写真は、これから進む、西の方角。1.5㎞の少し手前、城下(しろした)橋のたもとに子安地蔵堂があります。このお地蔵様は、昔は北の台地上にあった寺(万機庵かという記述が、「歴史の道調査報告書改訂版(三重県教育委員会編集、1985年)にあります)に祀られていた地蔵といいます。廃寺になって放置されていたものが、明治初年頃か、街道安全のため現在地に移したと伝わっています。なお、「くわな史跡めぐり」に載っているこの「子安地蔵堂」の写真は誤りと思われます(他の地蔵堂の写真と間違っていると考えられます)。

Img_1190c_20210331172201 Img_1197c  地蔵堂を過ぎて、1.6㎞ほどのところで、希望が丘にある八幡神社に立ち寄るために員弁街道を離れます。天正元(1573)年、西別所城山、城下橋(子安地蔵尊のあったところ)北の山腹に八幡社があったといいます。元禄14(1702)年、その西別所城山にあった八幡社を現在地に勧請しています。明治44(19119年境内社を合祀しています。右の写真のように、かなり長い階段を登って、標高30数mのところに神社があります。

Img_1203c_20210401191501 Img_1209c_20210401191501  主祭神は、品陀和気命(ほんだわけのみこと、応神天皇)。相殿神は、菊理姫命(くくりひめのみこと、白山比咩神社の主祭神)、大山津見命(おおやまつみのみこと、山の神)、火産霊神(ほむすびのかみ、宇迦御魂神(うかのみたまのかみ、食物、とくに稲の神)。以上は、神社検索三重のサイトにある御祭神。神社の由緒書きには、菅原道真公もありました。

Img_1216c Img_1245c_20210331172201  先に書きましたが、この八幡神社は標高30数mのところにあり、眺望が利きました。この写真は、桑名市稗田から町屋川の向こう、桑部方面が見えています。ここでしばし休憩。八幡神社から再び、蓮花寺川沿いに戻り、蓮花寺方面に行きます。途中、なかなかよさげなソメイヨシノが2本、満開でした。これを過ぎて、川に沿って右に曲がっていきます。光陽希望が丘保育園近くにある西別所城跡に行こうと思っていたものの、この時はすっかり失念していました。西別所城には、北畠氏に従う矢田俊元(西別所城・額田城・蓮花寺城・安永城などを支配してお. り、桑名では有力な地侍でした)の与力、後藤弥五郎基成が居城していましたが、秀吉・信盛・長秀らの大軍の前に成すすべもなく落城したといいます。西別所城跡の遺構はないようです。毎度、「お前のブログの記事は長い」といわれますので、今回はこのあたりにて。その2では、蓮花寺地内を歩きます。

| | | コメント (0)

2021年3月31日 (水)

20210331“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”(予告編)

Img_1040c_20210331172101  3月31日となりました。リタイアしてかなりになりますので、あまり年度替わりは関わりがないのですが、それでも「今年度も終わりか」という気持ちになります。それを記念してということではありませんが、陽気もよく、桜も満開ですから、今日は、“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”というテーマで歩いてきました。今回も、「くわな史跡めぐり」を参考に自分でコースを組み立てています。今日のところは、予告編。

210331nisibessho  こちらが今日歩いたコースマップ。三岐鉄道北勢線で西別所駅まで。そこから、延寿院、万機庵跡、照林寺、八幡神社と回り、西別所城跡を見るつもりが忘れて、蓮花寺に入りました。山神社、蓮花寺、白山神社、宇賀公園、宇賀神社、さらに増田に行き、増田の額田神社、源流寺、そして、額田神社の氏子の方に教えていただいて額田神社旧跡を訪ねました(増田集会所)。これで在良駅にゴールするつもりでしたが、氏子の方に額田神社(本社)の話を聞きましたので、そちらまで足を延ばしました。現地で7.6㎞を歩き、自宅から西桑名駅までの往復が2.3㎞で、合計9.9㎞。最高気温は、21.4℃で、かなり汗をかいて帰宅。

Img_1044c_20210331172101 Img_1072c_20210331172101  三岐鉄道北勢線・西桑名駅を8時23分に出る阿下喜行きに乗車。春休み期間ですので、空いていました。1輌に2~3人の客。西別所までは、2駅。¥190。西別所駅には、8時28分に到着。右の写真が西別所駅ですが、向かって左(南側)には辻内鋳物工業の大きな工場がありました。取り壊されて更地になっています。駅の北にある工場とたぶん本社はそのまま。

Img_1062c_20210331172101  途中、馬道駅のところから走井山公園が見えます。桜は満開。今日は、桜はまぁいいかと思っていたのですが、やはり、桜がこんなに咲いている景色を見ると、いけませんねぇ。心が動かされます(微笑)。

Img_1088c_20210331172101 Img_1101c_20210331180001  さて、まずは、国道258号線の下をくぐって、その東にある延寿院を目指します。西別所駅は、町屋川でバードウォッチングをするときに何度か降りたことがあります。また、国道258号線は何度となく通っていたのですが、このあたりを歩くのは初めて。事前にストリートビューで見たものの、延寿院に入る道が今ひとつ不確か。結局、この藪のようなところの奥から入れました。

Img_1109c_20210331172101  慈眼院北寺延寿院。高野山真言宗のお寺。ご本尊は、十一面観音菩薩。地元では、集落の北のはずれにあることから「北寺」Img_1119c_20210331172101 と呼ばれます。延宝年中(1673~81年)、奥平貞登が観音堂を建てたのに始まります。奥平貞登の一族は、桑名藩5代藩主・松平定綱に使えて家老職を務めました。この地に山荘を建て、かたわらに小堂を建てて観音像を安置したと考えられています。享保21(1736)年、大福田寺の住職・實圓がここを隠居寺としてから大福田寺の庵室となり、江戸末期からは尼僧によって住持されていました。しかし、檀家もなく、昭和中期には無住となり荒廃したため、西別所在住の有志によって昭和57(1982)年に本堂が修復され、また、北寺奉賛会が設立され、維持されています。境内には、宝暦5(1755)年に入寂した實圓と、安永5(1776)年入寂の實豊の墓碑である五輪塔2基などが残っています。

Img_1138c_20210331172201  再び、国道258号線をくぐり、西側に戻ります。左の写真で、こんもりした岡と森が見えますが、ここに万機庵跡があります。万機山蔵鷺庵(ばんきざん ぞうろあん)が正式名称のようですが、地元では万機庵、または、蔵六庵とも呼びます。もともとは曹洞宗のお寺でした。楊柳寺(市内新屋敷)第6世万機和尚が建てた庵跡といわれています。万機和尚は、真田幸村(信繁)の3男だそうです。

Img_1148c_20210331172201 Img_1152c  上の写真の道を上り、途中から岡の方に入ったものの、岡の中は、これらの写真のような状況。「明治初めに無檀家の理由を以て廃庵となり、現在、跡地は竹林となっている」ということは知っていたのですが、かなり荒れていました。跡地には、万機和尚の墓石を含め、15基の墓石があるそうですが、見つけられませんでした。予めネットで検索したところ、最近、「送電線の鉄塔が立っているので、そこへの鉄塔巡視路はあるものの、きびしい藪と地形で、歩き回ることができず、墓石の場所は判らなかった」と書いているブログがありました(こちら)。2月1日に行こうとした高塚山古墳も、荒れていては入れませんでしたが(2021年2月1日:20210201勝手に養老鉄道ハイキング「桑名駅西歴史散歩」(予告編))、竹林は手入れされないとすぐに荒れてしまうようです。ということで、万機庵跡に行くのは、断念。

Img_1167c_20210331172201  続いて、照林寺へ。住宅地の北から西を周り、照林寺は濃州街道沿いにあります。真宗本願寺派のお寺。ご本尊は、阿弥陀如来。当時の西別所には寺がなく、明治44(1911)年、地元の人たちの懇請を受けて、萱町の法盛寺の塔頭を村の念仏道場であったここに移築して設立されました。その際、廃庵となった万機庵の建物の一部を庫裡として移築しています。さらに同庵に安置されていた阿弥陀如来像と十一面観音菩薩像も移安され、別壇に護持されているそうです。照林寺は、去年3月、濃州街道ハイキングでも来ています(2020年3月15日:20200315「勝手に三岐鉄道ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』」(三ツ矢橋から三岐鉄道北勢線・星川駅)(予告編))。

Img_1171c_20210331172201 Img_1174c_20210331172201  照林寺の前は、濃州街道。しばらく、濃州街道を歩きます。去年3月15日のハイキングの時に、話しに夢中になって見逃した地蔵堂がありますので、今日は、忘れずに見なくてはなりません。「子安地蔵堂」とあります。城下橋の北畔にあります。元は、北部の台地の上にある寺に祀られていたそうです。明治初年に現在地に移しました。堂は、昭和48(1973)年に改築されています。なお、「くわな史跡めぐり」に載っている写真は誤りと思われます(他の地蔵堂の写真と間違っていると考えられます)。

Img_1190c_20210331172201 Img_1203c_20210331172201  西別所第3公園の南を過ぎて、濃州街道から離れ、北へ。希望が丘にある八幡神社に向かいます。元禄14(1702)年、西別所城山にあった八幡社を現在地に勧請しています。主祭神は、品陀和気命(ほんだわけのみこと、応神天皇)。相殿神は、菊理姫命(くくりひめのみこと、白山比咩神社の主祭神)、大山津見命(おおやまつみのみこと、山の神)、火産霊神(ほむすびのかみ、、宇迦御魂神(うかのみたまのかみ、食物、とくに稲の神)。階段を登って、標高30数mのところに神社があり、眺望が利きました。

Img_1245c_20210331172201 Img_1252c_20210331172201  再び蓮花寺川沿いに戻って、川に沿って蓮花寺へ。途中、なかなかよさげなソメイヨシノが2本、満開でした。これを過ぎて、川に沿って右に曲がっていきます。行き当たったところに、地蔵堂と個人の方の忠魂碑。

Img_1262c_20210331172201 Img_1274c_20210331172201  突き当たりを右折してすぐに山神社。もっと立派な神社を想像していたので、危うく見逃すところでした。しかし、けっこう由緒のある神社。正親町天皇の天正年間(1573年~)以前の創始だそうです。蓮花寺村宇賀の城山に内山源吾、後藤庄左衛門が城主として居城し、奉祀したといいます。天正年間、織田勢に滅ぼされたものの、その後も氏子の方々が「山の神」と称し、祭祀してきました。

Img_1286c_20210331172201  次の目的地、蓮花寺に向かう途中のお宅に、なぜかスワン・ボートが置いてありました。お宅の中にも富士山のようなものがありますし、「ナニコレ珍百景」になりそうな印象。

Img_1297c Img_1306c_20210331172201  総仏山蓮花寺。真宗大谷派の寺。ご本尊は、阿弥陀如来。第二次世界大戦までは、総仏堂という説教所でした。かつては、地名の語源となった「蓮華寺」があったところです。鎌倉時代にはかなり繁栄したそうですが、住宅開発に埋もれ、蓮華寺の寺跡は窺い知れません。蓮華寺には、無住国師(無住道暁、ムジュウドウギョウ)が住み、正和元(1312)年、87歳で没したといいます。

Img_1328c_20210331172201 Img_1332c_20210331172201  蓮花寺のすぐ北西には白山神社があります。私がいつも使う「キョリ測」には、ここに、白山神社と宇賀神社があるとなっていますが、由緒書きによれば、ここに鎮座するのは白山神社。宇賀神社は、ここから南150mほどのところにあると書いてありました。御祭神は、菊理姫命(くくりひめのみこと、白山比咩神社の主祭神)。境内社には、津島神社、火産霊社が、また、別宮には、護国神社があります。白山神社があるところは、蓮花寺西城跡といわれます。ここには、内山源吾正則が居城したといいます。

Img_1313c_20210331195001  Img_1320c_20210331172201  白山神社の東には白山会館と、ちょっとした公園がありますが、そこのソメイヨシノも見事でした。いわゆる「桜の名所」はもちろんよいのですが、こういうあまり知られていないところにも、見事な桜があるものです。

Img_1407c Img_1397c_20210331172301  続いて、白山神社から少し北へ。神田池の南西あたりが、蓮花寺東城跡になります。ここは、後藤庄左衛門の居城した天正元(1573)年に、織田信長勢により落城。蓮花寺西城跡もここも、発掘がされていないそうで、詳しいことは分かりません。

Img_1419c_20210331172301 Img_1423c  白山神社の南、150mほどのところに宇賀公園があり、その敷地内に宇賀神社があります。当初は、立ち寄る予定はなかったのですが、白山神社の由緒書きに、ここに宇賀神社があるとあったので、行ってきました。創祀は不詳ですが、正親町天皇の御代(1557~1586年)以前と伝えられ、蓮花寺城山城主・後藤庄左衛門の崇敬が厚かったといいます。御祭神は、宇迦之御魂神

 宇賀公園の南、コミュニティバスの「マザック前」停留所のあたりには、宇賀遺跡があったといわれます。Img_1441c_20210331172301縄文時代から中世にかけての複合遺跡です。弥生時代の遺構からは、井堰が見つかっており、稲の穂積みに使う木包丁も出土し、稲作が行われていたと考えられています。

Img_1478c_20210331172301 Img_1487c  さらに南に向かい、北勢線、濃州街道を越えて、増田に入ります。増田の額田神社です。もともと、桑名郡額田村と増田村は、一つの村で増田神社を鎮守として祭祀したのですが、洪水によく遭ったということで、神社を額田村宮山へ遷しました。その後、増田村から参詣するのに不便だということで、額田にある本社からこの増田の額田神社を文政8(1825)年に分祀奉遷したそうです。ここで、神社の世話をしておられる氏子の男性の方に出会い、この経緯や、あとで訪ねる旧社地のことなどを教えていただきました。こういう出会いはありがたいことですし、ハイキングの醍醐味の一つです。

Img_1518c_20210331172301 Img_1531c_20210331172301  その男性に教えていただき、旧社地へ行ってみました。旧社地は、旧増田村の中央に位置し、現在は、増田集会所が建っています。その集会所の建物の裏手に、「額田神社御旧跡」という石碑がありました。これは、教えていただかないと分かりませんでした。

Img_1554c Img_1565c_20210331172301  この旧跡から西へ向かうと、額田山源流寺。真宗大谷派の寺。ご本尊は、阿弥陀如来。このお寺の詳細については、調べた範囲ではよく分かりませんでした。

Img_1740c_20210331172401 Img_1612c_20210331172301  以上で、当初の目的地はコンプリートしたのですが、増田の額田神社でお目にかかった氏子の方から、額田神社(本社)についても話を伺い、興味が湧いてきました。別の機会に行こうと思っていたのですが、この時点でまだ10時40分。額田神社までは、さほど遠くはありませんでしたので、お参りすることにしました。左の写真は、濃州街道沿いに建つ額田神社の社号標。右面には、「従是三丁五間」とあります(336mあまり)。右は、北勢線を越えたところにある額田神社の常夜燈。

Img_1720c_20210331172401 Img_1658c_20210331172401  額田神社。延喜式内社。御祭神は、意富伊我都命(おおいかつのみこと, おほいかつのみこと:古代、この地方を開発した額田連(ぬかたのむらじ)の祖)、天照大御神天津彦根命(あまつひこねのみこと)。第19代允恭天皇の頃(440年)、奉斎されたといいます。ちなみに、額田部氏は大和の額田郷から移住してきた一族で、付近には小さな古墳がいくつかあったという伝承があります。額田神社には、竜王社、火産霊社、猿王社、春日社、座(蔵)王社などの境内社がありました。額田神社にお参りを終えて、11時5分頃。急げば、11時15分在良駅発の西桑名行き電車に乗れます。濃州街道に出て、上に載せた社号標を見て、在良駅へ。

Img_1756c_20210331172401  三岐鉄道北勢線在良駅には、11時10分を少し過ぎた頃到着。東名阪道の高架の下に駅があります。無事に11時15分発の電車に乗れました。西桑名駅までは、4駅、¥210。11時26分に西桑名駅に到着。

Img_1803c_20210331172401  本日のALKOOによる歩数のデータ。17,884歩。冒頭に書きましたように、合計9.9㎞を歩いた結果。ということで、本日は、「西別所・蓮花寺を行く」という「勝手に北勢線ハイキング」の予告編。いつものように、明日以降、本編を書きます。

Img_1213c_20210331172201 【余談】 本日から、ウォーキング・シューズを新調。これまでのものは、底がすり減り、穴もあいてしまいました。毎日、平均6㎞かそれ以上を歩きますので、靴の消耗は、はなはだしいのです。今までのものをいつから使っていたか記憶にありませんが(調べるとブログに書いてあるかも知れません)、1年はとても保ちません。

| | | コメント (0)

2021年3月25日 (木)

20210323勝手にハイキング「浪漫の明治村へ」(補遺編)

Img_7187c_20210325152701  3月23日に行ってきた明治村への勝手にハイキングの補遺編です。当日の記事に書きましたが、招待券をいただいていましたので、いつ行こうかと考えているうちに期限ギリギリになった次第。9時過ぎに出て、クルマで東名阪、名二環、名古屋高速経由で小牧北ICへ。そこから41号線に降りたのですが、かなり込んでいて、明治村に着いたのは10時半頃。明治村駐車場に近い北門から入村。今回は、印象に残った、あるいは、興味深かったものごとについて、まったく主観的に選んで書いています。こちらに明治村の地図があります。ちなみに調べて見たら、前回、明治村に出かけたのは15年前の11月でした(2006年11月4日:昨日の散歩は,special)。

Img_7177c Img_6260c_20210325153101  北門を入ると、SL東京駅があります。15年前、子どもたちを連れて来たときに乗ったことがありますが、この日は、火曜日で運休(3月は火、水がメンテナンスのため運休でした)。密かに、できれば乗ってみたいと思って来たのですが、残念。

Img_6308c_20210325153701  こちらは、内閣文庫とその東にある皇居正門石橋飾電灯。明治44(1911)年の建物。内閣文庫は、明治6(1873)年に赤坂離宮内に太政官文庫という名で開設された明治政府の中央図書館です。明治23(1890)年、内閣制度の制定とともに内閣文庫と改称されました。こういう明治の建物の前に飾電灯がある景色は、なかなかいい感じです。

Img_6312c  川崎銀行本店。昭和2(1927)年完成。ルネッサンス様式を基調とした、当時の銀行・会社の本店建築の中でも本格的銀行建築だそうです。鉄筋コンクリート(一部鉄骨)造、外壁は御影石積で地上3階、地下1階建、間口約38m、高さ約20m。関東大震災以前の大正10(1921)年に起工され、6年間を費やして昭和2(1927)年に竣工しました。日本橋のシンボルとして永く人々に親しまれてきたそうですが、昭和61(1986)年、ビル立て替えのため取り壊され、正面左側角の外壁部分が明治村へ移築されました。「展望タワー」と書いてあったのですが、入ってはいません。登って見ればよかったと、ちょっと心残り。

Img_6343c_20210325154801  帝国ホテルの中央玄関の前に池があり、その東、少し下ったところに、こんな撮影スポットが設けられていました。ハートマークの向こうにベンチ、こちらにはカメラを置く台。さて、私たちは、ここで撮影したでしょうか??

Img_6356c_20210325155101  金沢監獄正門。金沢監獄が造られたのは明治40(1907)年でした。南北250m、東西190mの敷地はレンガ造の高い塀で囲われ、唯一西面に開けられていたのがこの門だったそうです。レンガ造に石の帯状装飾を入れるのは当時の洋風建築の流行です。監獄とか、その正門とか、なぜか興味があります。一昨年の5月、近鉄ハイキングで津へ行ったときにも、三重刑務所で保存されている「安濃津監獄」の正門に見入っていましたし(2019年5月7日:20190428近鉄ハイキング「『阿漕』砂浜ハイキングと津グルメ散策」へ(その1)……津新町駅をスタートし、三重刑務所、真教寺・閻魔堂と市杵島姫神社へ)、名古屋市政資料館にある留置場も何度も見に行っています(2018年3月11日:ウィルあいちで支援員養成講座の講師……終わって市政資料館で留置場を見て、名古屋ウィメンズマラソンにも遭遇)。

Img_7135c_20210325160001 Img_7155c_20210325160001  監獄続きで、左は、前橋監獄雑居房。明治21(1888)年に前橋監獄につくられたもの。十字放射型配置の舎房がつくられたのですが、和洋折衷の構造で、洋小屋に越屋根を載せているものの、房廻りの構造は江戸時代以来の日本の牢屋の形式をそのまま伝えています。右は、金沢監獄中央看守所・監房。明治40(1907)年のもの。八角形の中央看守所を中心に、左右及び正面奥と左右斜め奥に五つの舎房が放射状に配されています。移築されているのは、中央看守所、第五舎房の一部。

Img_6401c_20210325160501  呉服座(くれはざ)の裏手にカタクリの群生地があったことはすでに書きましたが(2021年3月23日:20210323勝手にハイキング「浪漫の明治村へ」)、そこにはショウジョウバカマも混じっていました。

Img_6436c_20210325160501 Img_6562c_20210325160901  工部省品川硝子製造所(登録有形文化財)。明治10(1877)年頃の建物。品川興業社硝子製造所を明治9(1876)年工部省が買い上げ、官営とし、その後この建物等が建てられました。壁体はレンガ造イギリス積、屋根には瓦を葺いています。ここには品川硝子ショップデンキブラン汐留バーがあります。デンキブラン、昔来たときにも土産に買いました。ちょっと一杯引っかけるのもよいのですが、あいにく、クルマで来ています(デンキブランは、帰りに土産に買いました)。

Img_6445c_20210325174001 Img_6450c_20210325174001  こちらは、工部省品川硝子製造所近くに置いてあった「水道管」。明治44(1911)年生のもので、名古屋市守山区の庄内川の川底に埋設されていたものです。直管は、明治13(1880)年創業の「官営釜石製鉄所」で製造されたもので、仕切弁は、スコットランド製。こういうヘンなものに興味があるのです(苦笑)。

Img_6651c_20210325161501  第四高等学校物理化学教室。明治23(1890)年。明治19(1886)年に「中学校令」が公布され、東京大学予備門が第一高等中学校に、大阪の大学分校が第三高等中学校に改組され、引き続き、翌年には仙台に第二、金沢に第四、熊本に第五高等中学校が設置されました。明治27(1894)年の「高等学校令」により、いずれも高等学校に改称・改組された。この物理化学教室は高等中学校時代の明治23(1890)年に建てられ、以後、第四高等学校、金沢大学へと引き継がれてきた建物。

Img_6658c_20210325161501 Img_6661c  内部は、このように階段教室になっています。こうした階段教室が、物理、化学それぞれ1つ、用意室が付属しています。実験を含めた自然科学教育を充実させるための設備となっています。

Img_6668c_20210325161501  校舎内の廊下には、「八高生青年像」があります。八高は、旧制第八高等学校。新制名古屋大学の前身校の一つで教養部の構成母体となりました。この像は、旧制八高創立80周年を記念して制作されたものです。旧制八高は、現在の名古屋市立大学の山の畑キャンパスにありました。関連した記事がこのブログに2編あります(2006年2月3日:剣ヶ森と八高生の像、2006年1月13日:八高古墳)。山の畑キャンパスには、この像のもとになっているであろう(私の推測)銅像(八高生の像)があります(2006年2月3日の記事をご覧ください)。

Img_6700c  三重県庁(重要文化財)。明治12(1879)年のもの。間口が54mに及ぶ大きな建物で、玄関を軸に左右対称になっていて、正面側には二層のベランダが廻らされています。このスタイルは、当時の官庁建築の典型的なもので、明治9(1876)年、東京大手町に建てられた内務省庁舎にならったものです。ここも道路をはさんだ向かいに皇居二重橋飾電灯があり、これを入れるとよい景色。

Img_6813c_20210325164901 Img_6770c_20210325164701  聖ヨハネ教会堂(重要文化財)。明治40(1907)年、京都の河原町通りに建てられたプロテスタントの一派日本聖公会の京都五條教会で、二階が会堂に、一階は日曜学校や幼稚園に使われていました。

Img_6785c_20210325164701  2階の会堂には、ステンドグラスがあったのですが、室内は大変明るく、聖ザビエル天守堂で見られたような、ステンドグラスから漏れた光が光景を織りなすということはなかったと思います。

Img_6508c_20210325165401 Img_6512c_20210325165401  名古屋衛戍(えいじゅ)病院(愛知県有形文化財)。全国の鎮台(明治の臨時軍政機関、鎮台府)配置に合わせて、陸軍衛戍病院が明治6(1873)年の東京を皮切りに順次整備されていったのですが、明治11(1878)年に建てられました。木造平家建桟瓦葺で、周囲に吹き放ちのベランダを廻らせた姿は大変開放的で明るく、清潔感にあふれた印象です。名古屋衛戍病院は、現在の国立病院機構名古屋医療センター。

Img_6550c_20210325171101  歩兵第六聯隊(れんたい)兵舎Img_6531c_20210325170001明治6(1873)年建築。明治4(1871)年、東北から九州まで四分割された各区域にそれぞれに鎮台が置かれ、同6(1873)年には広島、名古屋にも鎮台が設けられました。各鎮台のもとには歩兵聯隊が置かれたのですが、名古屋鎮台の管内では名古屋と金沢に組織され、名古屋に置かれたものが歩兵第六聯隊です。この兵舎の建物には、親しみというか、興味があるのです。というのも、私の母校の研究室がスタートしたのが、この歩兵第六聯隊兵舎だったからです。名古屋城の一角にあり、実験室は馬小屋の跡に建てられたという話を「研究室小史」(初代主任教授の先生の退官記念につくられた冊子)で読んだ記憶があります。研究室小史には「蒼古として老朽化した兵舎そのままの文学部1号館の2階と2号館の1階の一隅にわび住まいをさせられていた」という記述があります。

Img_7112c_20210323164801 Img_6947c_20210325172801  聖ザビエル天主堂。本編にも書きましたが、ステンドグラスを通した光がつくる色模様がとてもおもしろく感じました。写真はたくさん撮ってきたのですが、なかなかこれはというものはありません。一つには技量の問題があると思っています。機会があれば、再チャレンジしなくては。

Img_6932c_20210325172801 Img_7065c_20210325172801  こちらも、聖ザビエル天主堂にて撮ったもの。私の他にもカメラを持って、アングルを工夫して撮っておられる方もいらっしゃいましたし、スマホで写真を撮っている方も多数。

F929b963 Aed1e2ddf12305e3aa6d011d663175f7520x350  土産のデンキブラン。写真は、前回行った時に買ったもの。今もまったく同じです。40度。ストレートで味わっています。ブランデーと香草の芳醇な匂いがします。一口飲むと強めの刺激がまず来たあとから、ジンやワインなどの他の配合してあるお酒の後味がじわっと感じられます。アマゾンなどでも買えるようです。他には、犬山名物の「げんこつ飴」を1袋(高田屋製菓)。犬山といえば、やはり、げんこつ飴です(個人の意見です……笑)。

 本編よりも補遺編の方がはるかに長くなりましたが、私の場合、よくあること。ご笑覧くだされば、幸い。

| | | コメント (0)

2021年3月23日 (火)

20210320勝手にハイキング「諸戸水道・駅西を行く」……その3(南大山田神社から海善寺を経て桑名駅西口にゴールで「完」)

210320ekinishi2  3月20日の勝手にハイキング「諸戸水道・駅西を行く」の本編その3です。いつもながら、長々と書いていて、恐縮です。その2では、詳細マップその2の一部が残ってしまいました。冷水庵にて、桑名藩校進脩館の副教をつとめた佐父理希亮(1774~1820)の墓で、亀に乗った「亀跌(きく)」を見たところまででした。今回は、南大山田神社から。南大山田神社には、9時20分頃到着。スタートから3.6㎞ほどです。

Img_5308c Img_5322c_20210320174701  南大山田神社。元は太夫村八幡社でした。「桑名市史 本編」にも、「八幡社 太夫村」として記述されています。この八幡社は、明治41(1908)年10月に西桑名神社に合祀され、合祀した新しい神社を南大山田神社といいました(このあと訪ねた西桑名神社の由緒書きによる)。その後、第二次大戦後に分祀されたのではないかと思いますが、ネット検索では情報が出て来ませんし、神社検索(三重)にもリストアップされていません。鳥居にある扁額には「八幡社」とありますが、鳥居脇の社号標の正面には「村社 八幡社」、右面には「南大山田神社」とあります。詳細は不明。由緒書きもありません。右の写真がお社。秋葉神社などによくあるようなタイプ。八幡社ですから、御祭神は、誉田別命(ほんだわけのみこと)、すなわち応神天皇です。なお、「桑名市史 本編」の説明では、「口碑(こうひ:昔からの言い伝え)に本社の神霊は附近岩ヶ谷に八字形を印した石で夜光を放ったのを祀ると云う」とあります。

Img_5336c_20210322123401  拝殿の北東側には、「八天宮」と刻まれた石柱があります。かなり古びていますし、傾いていました。「八天宮」は、火伏せの神。江戸時代の文政7(1824)年、桑名藩主の命で各村に八天宮を祭るようにされ、桑名員弁地方で特に信仰が多いそうです。それにしても、この石柱だけというのは、どういうことでしょう? お社があった名残か何かでしょうか?

 
Img_5331c_20210320200801  境内には、もう一つ興味深いものが。それは、「両宮遙拝所」と刻まれた、古びた石碑。この向きからして(南南東くらい)、両宮は、間違いなく伊勢の内宮と外宮。碑陰には、「文政九年丙戌正月十五日 加藤源太夫至(?)吉」とあるように読めます。文政9年は、1826年。「加藤源太夫」というのは、伊勢大神楽の社家の一つで、平成に廃業したところと同じ名前。何か、関連がありそうな気がします。リンク先のWikipediaの説明に出て来ます(廃業した社家のところ)。謎は解明できませんが、なかなか面白い神社。サンシュユの木がたくさんあり、ちょうど満開でした。

Img_5375c_20210320174701  南大山田神社からすぐ西に太夫の大楠(たゆうのおおくす)があります。元々、六本楠という名称の楠(楠群)があり、楠が6本あったといいます。 天正年間(1573~92)、三河の武士が、この六本楠に隠れて追手から逃れることができ、 一命を取り留めたそうです。後年、その楠が枯れた時に、その母親がお礼に植えたという話が伝わっています。幹が2つあり、測定が難しいといいますが、環境省巨樹巨木林データベースによれば、幹周6.80m、樹高20m。説明板では、地上60cmの所で測ると、幹周は10.08mとあります。
Img_5358c_20210320174701  説明板によれば、昔は境内地であって、ご神木だったといいます。大楠の東に八幡社(南大山田神社)がありますから、その境内だったということかも知れません。昭和34(1959)年の伊勢湾台風で、枝張りが変わって少なくなったが、勢いはあります。ちなみに、鈴鹿にある長太の大楠(なごのおおくす)は、幹周:8.8m、樹高:23mだそうですから、いい勝負(笑)。

Img_5389c_20210320174601 太夫の大楠から北へ200mほど歩くと、増田神社があります。ここは、伊勢太神楽で有名。伊勢神宮に参拝できない人の代わりに神楽を奉納する神事で、桑名市内の伊勢太神楽講社の人々によって受け継がれているもの。普段は各地を回っていますが、12月24日には増田神社境内で全曲が奉納されます。豪壮な獅子舞に加え、皿回しや軽業といった曲芸などもあります。 伊勢太神楽は、国の重要無形民俗文化財。

A004e5b0

 伊勢太神楽、私は、春日神社の左大臣・右大臣奉納奉告祭で見ました(2016年8月21日;春日さんの左大臣・右大臣奉納奉告祭……伊勢大神楽の奉納も【動画をYouTubeにアップしました】)。これは、その時の写真。

Img_5413c_20210320174601 B24489e3  増田神社の御祭神は、天照皇大神建御雷神(たけみかずちのかみ)、経津主神(ふつぬしのかみ)、保食神(うけもちのかみ)、猿田彦大神天鈿売女神(あめのうずめのかみ)、天木綿筒神(あめのゆうづつのかみ:大海人皇子はいったん吉野に身を隠したのち、三重県北部の桑名で宿泊をした。その際、皇子の夢枕に立った神が「天木綿筒命」を名乗り、猛獣の姿に姿を変え皇子の戦勝を約束した)。由緒書きによれば、白鳳元(672)年、壬申の乱の際に大海人皇子が、吉野から桑名に逃れ、桑名郡家に泊まられたという伝えがあります。そのときに神宮を遙拝された地に、この増田神社を奉祭されたとあります。境内には、確かに、右の写真のように“神宮遙拝所”の石碑が建てられています。皇子は、その後、美濃から近江に進まれ、戦勝のあと、帰途にも桑名へ寄られたということです。ここまでで、詳細マップその2の範囲が終了。

210320ekinishi3 Img_5420c_20210322171501  こちらは、詳細マップその3。増田神社から市道を越えて北へ。この市道は、桑名神明社のところから続いています。このその3のマップでは、西桑名神社、西方城跡、西方寺、西方廃寺を回って、海善寺がこの日の最後の目的地となります。右の写真は、余談。増田神社の北、市道の信号交差点の北西角にあるシャッター屋さんの店頭風景。昔から、鉄人28号とスパイダーマンが鎮座しています。

Img_5430c_20210320174601  9時半、スタートから4.5㎞歩いて、西桑名神社まで来ました。主祭神は、品陀和氣命(ほんだわけのみこと:応神天皇)。合祀神は、宇迦之御霊神(うがのみたまのかみ)、火産霊神(ほむすびのかみ)、大山祇神(おおやまずみのかみ)、天照皇大神です。勧請年月は明らかでないようですが、現在の西方配水場のあるところに、滝川一益が永禄年間(1558~1570年)に,西方城を築かせた加藤勘助の祈願所であったといいます。また、この西桑名神社にも、大海人皇子(天武天皇)が白鳳年間(白鳳は、私年号)に桑名に立ち寄られたときに、ここから神宮を遙拝されたという伝説もあると由緒書きにはあります。

Img_5439c_20210320174601 Img_5461c_20210320174601  西桑名神社は、明治41(1908)年10月に太夫村の八幡社(南大山田神社)を合祀し、南大山田神社と称しています。昭和9(1934)年9月、西桑名神社に改称。由緒書きの補足。天正年中(1573~1591年)滝川氏の頃、既に城廓があったので、それ以前からの社であるとされています。阿部家の伝えるところによれば、海善寺はもと八幡社の別当神社でしたが、天正年中、織田氏のために兵火にかかり、堂宇旧記等すべて灰燼に帰したといいます。その後、中興の祖権大僧都繁昌院が寺を再興し、再び八幡社に奉仕したと伝わっています。海善寺は、先にも述べましたが、このあとで訪ねます。

Img_5445c_20210322180001 Img_5423c_20210322180501  境内には、両宮常夜燈がありました。両宮は、伊勢神宮の内宮と外宮。この常夜燈には、「寛政三亥歳霜月吉日」(1791年11月)とあります。これと対になった常夜燈は、形が異なっていたのですが、そちらには「文政」の文字が刻まれていました(写真はありません)。文政年間は、1818~1830年。一の鳥居の外側にあった常夜燈にも、「文政七申歳」(1824年)とありました(右の写真)。

Img_5475c_20210320174601  西桑名神社でも一休みした後、さらに西に向かいます。西桑名神社あたりで標高は約50mでしたが、ここからさらに登っていったのです(苦笑)。この日の最高点。約90m。直線距離にして250mほどで、一気に40m登ったのは、さすがにしんどい。西方排水場のところ。このあたりが西方城跡になっています。

Img_5481c_20210320174601  西桑名神社のところにも書きましたが、西方城は、滝川一益の家臣加藤勘助が築いたとされます。矢田城を中心とする西別所3城(西方城、白山城、西別所城)の1つ。天正11(1583)年、滝川一益が転封の後、廃城となりました。現在は配水場、竹林、畑に変わっており、竹林内に土塁らしきものが残るといいますが、そこまでは入って行きませんでした。

Img_5489c Img_5496c  西方城跡・西方排水場から下って、西方寺に向かいます。城跡からは北東になるのですが、グルッと回って行きます。入り口に「真宗大谷派阿弥陀堂」と刻まれた門柱が立っています。天文16(1547)年、道覚が開基し、ご本尊も同年のものが伝わっています。かつては道場で、「旧道場」「総仏堂」「阿弥陀寺」と呼ばれました。昭和17(1942)年には「西方教会」と改称し、昭和27(1952)年に現在のように、西方寺となりました。「桑名市史 本編」には「西方道場(西方寺)」として記載されています。

Img_5507c  西方寺の北西側には南之広溜池があり、なかなかよい景色になっています。寺の参道には、シロバナジンチョウゲ、ユキヤナギ、レンギョウなどが咲いていて、目を楽しませてくれます。また、東から南にかけては、眺望が開けており、ナガシマリゾートまで見えました。

Img_5535c_20210320174601  このあとは、西方廃寺、海善寺に向かいます。そのためには笹山溜池やマリア・モンテッソーリ幼稚園の南側を通らねばならないのですが、新しい住宅団地のところで、いささかウロウロ。幼稚園の北側に出そうになりました。詳細マップその3には描いていませんが、コースミスを少ししでかしました(苦笑)。気づいて戻って迷子になるという事態は避けられました。

Img_5540c_20210320174601 Img_5554c_20210320174601  西桑名神社の北東側に、道を1本はさんで、笹山溜池公園があります。ここがおそらく西方廃寺の跡(以前は、標識が建っていたようですが、今はありません)。西方廃寺は、奈良時代の寺院と考えられています。というのも、志摩国分寺や縄生廃寺(朝日町)と同系の瓦が出土しているためです(こちらを参照)。この近くには、西方窯跡があり、西方廃寺に瓦を供給するために創業した窯跡でした。4基の窯があったといいます。西方窯跡は、現在は、マリア・モンテッソーリ幼稚園の敷地内のようで、立ち入りはできません(こちらを参照)。

Img_5561c_20210320174601  この笹山溜池公園には、加藤久米四郎の顕彰碑がありました。加藤久米四郎は、明治17(1884)年ここ西方に生まれ、明治33(1900)年、大志を抱いて16歳で上京。明治40(1907)年、日本法律学校(現在の日本大学)を卒業し、大正6(1917)年、政界入り。大正9(1920)年に衆院議員に初当選以来、7期連続務めています。先日の美濃街道ハイキングで見てきた「参宮国道碑」は、この加藤久米四郎の書によります(2021年2月27日:20210227勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道再び(川口町~下深谷)」(完))。顕彰碑は、西方連合自治会により、平成19(2007)年6月に建てられました。この年が、生誕125周年でそれを記念してです。

Img_5576c_20210320174601 Img_5579c_20210322200401  西方廃寺を見て、西桑名神社の一の鳥居まで戻って、約5.8㎞。そこから、東明山海善寺までは100mあまり。元木観音とも呼ばれているようですが、かなり荒れています。江戸時代には、境内に大きな松があり、「元木の笠松」と呼ばれていました。また、付近は松林となっており、サギが生息していたので「鷺山」といわれていたといいます。古代からの寺院・海善寺の跡地とされます。千手観音を安置しているといいますが、覗いたら厨子の中。ここは、古代からの寺院・海善寺の跡地といわれます(くわな史跡めぐり)。

Img_5582c_20210322200401  海善寺の境内には、「安永四乙未太夫村 庚申 十二月十七日上講中」と刻まれた庚申塔がありました。安永4年は、1775年。時の将軍は、徳川家治。安永4(1775)年に建てた庚申塔なのでしょう。上部は欠けています。庚申(こうしん)は、もとは道教の守庚申より出た庚申(かのえさる)の年または日の禁忌行事を伴う信仰。庚申の夜には、人の体内にいる三尸(さんし)の虫が、その体内を抜け出して天帝にその人の罪過を告げると信じられ、これを防ぐため道士たちは不眠の行を行なったそうです。これが守庚申で、日本の民間信仰では庚申待、庚申講となっています。子どもの頃、オヤジから「昔は、庚申さんがあった」と聞いた記憶があります。庚申講の行事だったのでしょう。

Img_5591c_20210320174601210320ekinishi0  これで、この日の目的地はすべて回りました。海善寺で、10時15分を過ぎた頃、スタートして6㎞の直前。このあとは、梅園通を下って、桑名駅西口を目指します。

Img_5603c Img_5606c_20210320174601  桑名高校の東、円妙寺墓地、大福田寺、円妙寺のあたりを通って行きます。このあたりは、今年2月1日の“勝手に養老鉄道ハイキング「桑名駅西歴史散歩(2021年2月1日:20210201勝手に養老鉄道ハイキング「桑名駅西歴史散歩」(予告編))」で訪ねたところ。

Img_5624c_20210320174501  ゴールに設定した桑名駅西口には、10時半過ぎに到着。ハイキングで歩いたのは、7.2㎞。7時35分にスタートしましたので、ほぼ3時間。ここで、トリビアを1つ。桑名駅西口の表示、左から、近鉄、養老鉄道、JR東海となっています。これ、東口では、JR東海、近鉄、養老鉄道となっているのです。

Img_5618c_20210322202101 Img_5621c_20210322202101  東口もそうですが、西口もまだ整備途中。将来イメージの絵が2種類、掲げられていました。左側の写真が、全体像を示した鳥瞰図。変更する場合があると但し書きがありますが、なかなかよさげな雰囲気です。向かって右にあるのは、何ができるのでしょう。駅西地区は、再開発途中。道路を広げるために、桑名三重信用金庫の支店が取り壊されたりしています。これまでは駅西にはさほど用事はありませんでしたが、再開発されると、変わってくるかも知れません。

 これにて3月20日の勝手にハイキング「諸戸水道・駅西を行く」は完。このあと、市内の史跡・歴史巡りは、西別所から蓮花寺あたり、あるいは、多度の御衣野、柚井附近を考えています。

| | | コメント (0)

2021年3月22日 (月)

20210320勝手にハイキング「諸戸水道・駅西を行く」……その2(走井山公園、勧学寺から冷水庵へ)【上野神社について追記しました(3/29)】

210320ekinishi2  3月20日の“勝手にハイキング「諸戸水道・駅西を行く」”のその2です。その1では、桑名駅東口をスタートし、徳成農園跡まで行きました。今回は、徳成農園跡から南へ200mほど、走井山公園からです。走井山公園に隣接して勧学寺があります。馬道駅の方へ下る途中に伝村正屋敷跡、私の好きな三猿石像、北勢線沿いに西に行くと上野御膳水。少し北に行って、上野神社、上野墓地、冷水庵。さらに南大山田神社、そのすぐそばに太夫の大楠、そして、伊勢太神楽の本拠である増田神社と歩いて行きます。

Img_4952c_20210320174801 Img_4964c_20210320174801  走井山公園は、桜の名所でもあります。戦国時代に矢田城があった場所に造られた公園。北畠氏の家臣である矢田半右衛門俊元の居城でしたが、織田信長の伊勢侵攻の際に滝川一益によって攻められ落城すると、その後は一益に与えられ、長島一向一揆を攻略する最前線基地として使われました。園内には100本ほどの桜があります。丘陵地で起伏に富んだところに桜があり、見応えがあります。しかし、この日はまだ、一部で咲き始めたところ。去年は4月4日にここの桜を見に来ています(2020年4月4日:「ひのとり」、照源寺の金龍桜、道祖神、走井山公園の桜に北勢線の「ゆる鉄写真」……土産は宝来軒本店の花見団子)。

Img_4955c_20210321195101 Img_4967c_20210320174801  いろいろと見どころはありますが、この日は、戦没者慰霊碑である「殉国碑」(左の写真)と、「愛宕山庚申塔群」を見てきました。

Img_4983c_20210320174801  こちらは、走井山勧学寺の本堂。聖武天皇の御代(724~749年)、行基菩薩の草創によるものと伝えられています。室町の頃(1390~1570年)までは走井山北麓にありました。同地内(現在の桑名高校付近)の海善寺が廃寺となり、本尊の千手観音立像が当寺へ移されてきています。走井山矢田城主の矢田市郎左右衛門は、この観音様を深く信仰していたといわれます。その後の経緯はよく分かりませんが、桑名藩主・松平定重公(1657~1710年)の時、現在地の矢田城跡に再建されました。明治の初め(1870~1880年頃)、いったん廃寺の憂き目に遭ったものの、近在の信者有志の尽力により再興されました。本堂は、松平定重公寄進のもので、市内に現存する寺社建築としては最も古いと推測されています。ちなみに、勧学寺は、伊勢四国三十三箇所巡礼の第31番札所。

Img_4986c Img_4978c_20210321200301  境内には、太子堂や仏足石などの他、地蔵堂などもいくつかあります。太子堂は、もともと江戸時代の明和年間(1764〜1772年)に、桑名惣大工中によって建立されたもの。平成2(1990)年に不審火で全焼しましたが、桑名建築組合によって再建されています。仏足石は、仏像が出現する以前、インドの伝説によってお釈迦様を礼拝の対象としてつくられたもの。これは、江戸時代末期のもので、「勧学寺様式」といわれるそうです。福輪相図(足裏の絵)が精妙に刻まれているのが特徴。

Img_5004c  境内の鐘楼堂に上がって東を見ると、三岐鉄道北勢線が見えます。踏切の警報器が鳴り始めましたので、鐘楼堂に上がって、俄撮り鉄。桜が咲いていると、サクラの花の間から北勢線の電車が見えるのですが、残念ながらまだ早い。なお、走井山公園と勧学寺について、詳しいことは、2018年7月7日の記事(20180609近鉄ハイキング「桑名九華公園花菖蒲まつりと文化・歴史を知る」(その1)……走井山勧学寺)をご覧ください。

Img_5059c_20210320174801 Img_5056c_20210321201101  馬道駅の方に降りる途中に、伝村正屋敷跡という案内板があります。このすぐ東にあるマンションのあたりに村正の屋敷があったといいます。村正は、このブログにも何度も登場していますが、伊勢国桑名の刀工で、室町時代中期以後、代々活躍しています。「勢桑見聞略史」によれば、「村正トテ(中略)其旧宅ノ地矢田走井山観音堂ノ下道ノ左、今庄屋ノ家是其旧地也」とあるそうです。

Img_5047c_20210321201501  北勢線馬道駅の方に下っていきます。左の写真には、ここで出遭った近くにお住まいの女性。足が痛くて、最近は走井山には登っていなかったのだそうですが、この日は10年ぶりにいらっしゃったとか。あれこれ、教えてくださいました。散歩やハイキングでいろいろな人と出会えるのも大きな楽しみです。

Img_5078c_20210320174801 Img_5071c_20210321201801  北勢線の踏切の所に三猿石像があります。これも、ブログに何度も書いていますが、私の好きな三猿石像。台座には、「此の心 我れができぬは 人とよせよとハそれハむり志や 志てくだされハ ありがたし」と刻まれています(一部、読みがアヤシい)。

Img_5081c Img_5074c_20210321203101  上左の写真にも写っていますが、踏切の脇に常夜燈があります。「弘化3(1846)年」の文字が見ます。踏切を渡ってすぐ右折。北勢線沿いに西に向かいます。この道は、初めて歩きます。右の写真は、馬道駅。

Img_5108c_20210321203201 Img_5105c  上野地区を歩いて行き、スタートから2.6㎞で上野御膳水うえのごぜんみず)に到着。背後の上野の丘から湧き出た水で、江戸時代、桑名藩主の飲料水として、毎日、桑名城まで運ばれたのが、ここ上野の湧水なのです。そのため、「御膳水」と呼ばれます。以前は、筧から水が流れ出ていたそうです。今は、飲用には適しません。ここも、ずいぶん以前から是非訪ねたかったところ。

Img_5156c Img_5160c_20210322042901  上野御膳水から西へ300mほど、住宅街の入り組んだ細い道を行きます。上野集会所の先に上野神社。集会所の先を少し登ったところに社殿があります。一の鳥居をくぐったところに地蔵堂がありました。詳細は分かりませんが、中には、観世音菩薩と地蔵菩薩がそれぞれ祀られていました。

Img_5173c_20210320174801  上野神社のご祭神は、建御雷之男神(タケミカヅチノカミ:鹿島神宮の神)、齋主神(いわひぬしのかみ:経津主神(ふつぬしのかみ)ともいう、香取神宮の神)、天児屋根神(アマノコヤネノミコト:天照大神が天の岩屋に隠れたとき、祝詞を奏した神)、姫大神(ひめおおかみ:神社の主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神を指すもの)、大山津見神(おおやまつみのかみ:山を司る神)、木花咲耶比売命(コノハナノサクヤビメ:大山津見神の娘。富士山の神とされ、浅間神社に祭られる)、天目一箇命(あまのまひとつのみこと:天津彦根命の子で、桑名首の祖とされる。多度大社別宮一目連(いちもくれん)神社に祀られる)。ここもたくさんの神様がいらっしゃいます。創始等が分かりませんが、いくつかの神社を合祀したかも知れません。

 ちなみに、「桑名市史 本編」によれば、上野については、「丘陵が東西に横たわり、高知はその南北にある。岡南に員弁街道が通じ、人家はその左右にある。西丘上に一老松樹があって、松平定綱の手植えで俗に御手植松と称し、その下に小社を建て、富士浅間神を祀った。附近は往時眺望絶佳、士庶の遊賞地であったが、数十年前松樹は枯死した。又麓の一冷泉は俗に御膳水と称し、旧藩侯の飲料に供し、混々湧出して水質冷淡、郡中の名所として世に知られ、小径を太夫へ辿って上ったところに庵室冷水庵があり、更に進めば老楠の巨樹亭々として部落を掩うかにみえる、古へ六本楠と呼んで畏怖した古木の名残で今も尚柵内に入ることを忌み畏れる風が伝えられている」と書かれています。という次第で、この記述のあたりを歩いていることになります。

Img_5188c_20210322045201 Img_5184c_20210322045201  上野神社の境内に「留芳碑」というものがありましたが、いったい何でしょう? 「芳」には、①かおり。におい。 ②かんばしい。よい香りがする。③評判がよい。ほまれ。 ④他人の物事に冠する敬称といった意味ですから、どなたかの評判、誉れを讃える碑のように思います。ここで2.9㎞、時刻は8時50分くらいでしたので、一休み。目の前を北勢線が通って行き、なかなかよい景色。北勢線の電車、ノンビリというか、ゆったりというか、そういう感じになります。

Img_5203c_20210320174701 Img_5210c_20210320174701  上野御膳水の方に少し戻り、竹林へ進んで行きます。ここからけっこう登り道。正直、「大丈夫か?」という気もしました。この道でよいのかというのと、竹林は最近、手入れがされていないことが多く、道が通れるのかという2つの意味で、です。上野神社から300mほど、竹林をクネクネと登ったところに、次の目的地である上野墓地があり、ちょっとホッとしました。

Img_5216c_20210320174701 Img_5225c_20210320174701  上野墓地は、「十念寺山」とも呼ばれます。慶長の町割のとき、十念寺は、桑名城付近から伝馬町に移転しました。しかし、面積が不足したため、この一帯を藩主に賜ったといいます。十念寺の歴代住職の墓などがあります。右の写真は、住職の墓。向かってもっとも左のお墓には、「安永八年(1779年)」とありました。

Img_5231c_20210320174701  他にも古い墓がたくさんあり、たとえば、この写真で向かってもっとも右のお墓には、「寛永五年(1628年)」とあり、驚きました。花が手向けられている墓もたくさんありました。墓地というと、気味が悪いと思われる方も多いかも知れませんが、最近の私は平気です。自分のところは、墓はないのですが、どこに誰の墓があるとか、いつ頃の墓か、何が刻まれているかなど興味が尽きないのです。

Img_5239c_20210322065601 Img_5256c_20210322065901  上野墓地からさらに竹林の中の坂道を進んで行きます。竹林は、手入れがされていると、気持ちも良いのでしょうが、このあたりはあまり人の手は入っていないようでした。このあたりで標高は40m前後。アップダウンがかなりあり、息も切れます。スタートから3.3㎞を過ぎたところに冷水庵というお寺が見えてきます。上野のもっとも北の端で、神楽町や太夫との境目あたりになります。

Img_5262c  井坂山冷水庵(いさかさんれいすいあん)があります。曹洞宗。教育委員会の説明板によれば、明暦2(1656)年に茂右衛門が境内地を寄進し、冷水庵を建立したといいます。位牌によれば、海蔵寺3世の剣嶺(けんれい)大和尚が開山し、その弟子である愚白(ぐはく)禅師が開基。海蔵寺の末寺。弘法大師の作という虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ:智慧と功徳が広大無辺である菩薩)を本尊とします。現在の本堂は棟札によれば文化 13(1816)年4月に建てられたもの。

Img_5274c  境内に阿波国出身で桑名藩校進脩館(しんゆうかん)の副教(副校長)をつとめた佐父理希亮(安永3(1774)~文政3(1820)年:さぶりまれすけ)の墓で、亀に乗った「亀跌(きく)」があります。妻の柔は夫が異郷の土地で亡くなり、将来は夫の業績がだれにも知られなくなることを嘆いて、自分の装身具を売り払い、ここに墓を建てたのです。墓石正面には「阿波処士佐父理君之墓」と、また、他の面には希亮の履歴が刻まれています。処士は民間人のことで、彼は正式な藩士に取り立てられなかったと思われます。亀趺は、日本では珍しいのですが、韓国や中国では高貴な人の墓に見られます。傍らには、妻・柔の墓もあります(妻の墓は、写真に向かって左手の奥にあるもの)。正面には「佐父理君妻正木氏墓」とあり、側面には「いもとせの魂のありかはこことしれ、亀のしるしは万代のため  柔女」と記してあります。この話と亀跌という形式の墓のことを知って以来、ここも訪ねたかったところです。

D4fcc24c-1  なお、こうした亀跌については、津市にある結城神社でも見ました(2019年5月10日:20190428近鉄ハイキング「『阿漕』砂浜ハイキングと津グルメ散策」へ(その2)……教圓寺、神明神社、山二造酢を経て結城神社へ)。結城宗広公(ゆうきむねひろ;?~延元3=暦応1(1338))の御墓がそれです(左の写真。平成31(2019)年4月28日、結城神社にて撮影)。

 またもや長くなりました。詳細マップその2をすべて書こうと思いましたが、その2はここまで。その2は、南大山田神社からとします。

【上野神社についての追記(3/29)】 他のことを調べていて、「第17回 北勢線の魅力を探る報告書 再発見!魅力ある北勢線沿線 西桑名駅~星川駅」に上野神社についての説明があるのを見つけました。これによって、私の記事の足らないところを補足します。

 上野神社があるところは、古くは「霞岡」と呼ばれた見晴らしのよい丘陵地。上野村の氏神様。石取祭で有名な春日神社(桑名宗社)は、桑名神社と中臣神社の2社からなっていますが、中臣神社はもともと上野に鎮座していたといいます。神護景雲2(768)年、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮から奈良市の春日大社に建御雷之男神を勧請した際、ここ上野に一時鎮座し、翌神護景雲3(769)年にその鎮座地に創建されたのが中臣神社であると伝わっています。この中臣神社は、正応2(1289)年8月、桑名神社境内に遷座され、上野を離れました。永仁4(1296)年、8月、中臣神社に春日大社から建御雷之男神、斉主神、天児屋根神、姫大神の4柱が勧請されましたのですが、その際には上上野村(現在の桑名市太夫)の若太夫と一太夫が遣わされたとされます。

 その後、中臣神社の旧鎮座地に春日大社の4柱を祭神とする四之宮神社が祀られました。社号は4柱の祭神を祀ることに由来。四之宮神社は 明治に至って村社となっています。明治41(1908)年、合祀令によって上野村内にあった山神社(祭神は 大山津見神)と富士浅間社(祭神は木花咲耶比売命)、繁松新田の一目連神社(祭神は天目一箇命)とともに立坂神社へ合祀されました。戦後、四之宮神社を旧地に戻そうという動きがあり、昭和23(1948)年4月に、現在地へ分祀されています。この時、四之宮神社とともに合祀されていた旧村内3社の祭神もあわせて祀り、社号は上野神社と改められました。

 この年、前年(昭和22(1947)年)に宝殿町で新造した祭車を購入して石取祭を開始しました。しかし、立坂神社での試楽までの参加であったため、青年会を中心に本楽への参加が議論され、平成12(2000)年8あつに春日神社への渡祭が実現しています。

 最近は、自治会が管理しています。

 境内東側の高いところにあった「留芳碑」について。これは、上野村から出征した者を顕彰するも碑で、戦死された方々だけを祀る忠魂碑とは位置づけが異なります。建立されたのは、明治39(1906)年3月。したがって、日清戦争出征者を顕彰することから始まっています。昭和31(1956)3月に太平洋戦争関係の戦死者を刻み加えて現在地に移されました。裏面には日清戦争出征者7名、日露戦争出征者16名(戦死者は2名)、太平洋戦争戦死者16名の名が刻まれています。日露戦争で亡くなられたうちのお一人、山口新次郎は明治38(1905)年2月22日に「黒溝台附近で戦死」しています。同年1月の黒溝台会戦で立見尚文と共に戦ったかも知れません。

 留芳碑の下には特異な形をした大きな岩があり、昭和60年代には、「天狗岩」と呼ばれていたそうです。上野神社の急斜面ではみがき砂を削り取っており、その際に落ちてきたものだそうです。上野神社周辺の丘陵には古くから天狗が住むという言い伝えもあるそうですから、それに因んだものと思われます。丘陵上には 天狗大神2基(ともに昭和56(1981)年12月建立)と山の神、龍神大神の祠が祀られているといいます。

| | | コメント (0)

より以前の記事一覧