城・城跡

2022年5月11日 (水)

20220507東海道ウォーキング「亀山宿~関宿」(その1)……亀山駅をスタートし、武家屋敷などを見て、京口門跡あたりまで

Kameyama0_20220508045001  4月23日の東海道ウォーキング「井田川~亀山」(2022年4月23日:20220423東海道ウォーク「井田川~亀山」(予告編))に引き続いて、この日は、亀山宿~関宿までを歩いてきました。好天に恵まれ、また気温も上がり、亀山のアメダスでは、最高気温は28℃を超えていました。冒頭の画像が、今日歩いたルートの全体像。亀山城下や、関宿ではもっとたくさんのところを見て、立ち寄って来ていますが、書き切れませんので、主なところだけ示しました。とくに関宿は、ずっと以前から一度訪ねてみたいと思っていたところで、ようやく念願が叶ったという次第。

Img_1298c_20220507193101 Img_1322c_20220507193901  桑名駅を8時14分に出る亀山行き普通に乗車。亀山には、9時ちょうどの到着。¥680。亀山駅は、JR東海とJR西日本の境目の駅。関西線はこの先も続くのですが、亀山駅から西はJR西日本。ゴールに設定している関駅もです。三重県なのに、JR西日本というのもちょっと違和感があります。右の写真は、前回訪れた亀山城跡に残る多門櫓。

Kameyama1  こちらが、詳細なルートマップその1。前回、最後に、西町問屋場跡まで行ってきました。当初は、この西町問屋場跡から東海道に入る予定でしたが、同級生K氏が、亀山宿のパンフレットで見た加藤家屋敷がおもしろそうだというので、そちらから。東海道からは1本北の通り。西之丸庭園、青木門跡、飯沼慾斎生家跡と道標2基、旧舘家住宅、善導寺、西之丸堀跡、京口門跡、梅厳寺、照光寺、旧佐野家住宅、光明寺、慈恩寺から野村の一里塚へと進みます。

Img_1312c_20220510193201  ここは、西町問屋場跡のすぐ東。石碑があるようにこの先、東海道です。ここを上がったところに西町問屋場跡があります。亀山宿は、大きく東町と西町とから構成され、本陣・脇本陣は東町に、問屋場は両町にそれぞれ置かれ、交代で伝馬役を務めたそうです。

Img_1383c_20220507193101 Img_1345c_20220510194301  いきなり寄り道したのは、加藤家屋敷跡。江戸時代後期、亀山藩主・石川家の家老職を務め、亀山城西之丸に居を構えていた加藤家の屋敷跡です。もともとは相当な敷地面積があったようですが、明治以降、ほとんどの建物が他所へ移築されました。現在は屋敷の表門である長屋門とこれに連なる土蔵などが遺されており、白壁や白と黒の対比が美しいなまこ壁が、武家屋敷の威厳と風格を感じさせてくれます。江戸時代後期の建築で、当時の武家建築様式を今日に伝える希少な遺構として、亀山市文化財に指定されています。

Img_1368c_20220510194301 Img_1364c_20220510194301  長屋門は、門の扉口の両側に部屋が連なる形式の門です。江戸時代、城下町の武家屋敷の門として始まったもので、あたかも長屋の中ほどに門があるようにみえるところからこの名があり、各部屋には家臣たちが分宿していました。ここ加藤家でも、門(左の写真で向かって左端)に男部屋、若党部屋、物見、厩(mに義の写真)が連なっています。

Img_1373c_20220510194301  こちらは、男部屋。寝泊まりするだけという感じで、窓も小さくなっています。現代の感覚では、ここで寝泊まりしろといわれたら、かなり躊躇します。

Img_1397c_20220510195601 Img_1394c_20220510195601  加藤家屋敷の西に西之丸庭園。御殿跡だそうです。現在は地区の集会所として利用され、庭園は広く一般に開放されています。

Img_1410c_20220510195701 Img_1413c  その先で青木門跡。西の丸の西南に位置する門で枡形を形成しており、今もそれが残っています。元和元(1615)年、徳川家康が大阪へ出陣のとき、亀山城に宿泊し、搦手門から出立の時、附近に繁茂した青木を見て、「おお青木」と賞賛したことから、門を青木門と呼ぶようになったという話が伝わっています。

Img_1426c_20220507193101  青木門跡から南に行くと、東海道に突き当たります。そこの交差点の南西側に飯沼慾斎生家跡があります。飯沼慾斎(天明3(1783)~慶応1元(1865)年)は、江戸後期の蘭方医、植物学者。伊勢国亀山の商人西村信左衛門の次男。母方の伯父で美濃国大垣の飯沼長顕に入塾し、のち京都に出て漢方、本草学を学んだ後、蘭方に転学し、大垣で開業しています。今回は見ていませんが、亀山城跡の多門櫓の南に「飯沼慾斎生誕之地碑」があります(2019年6月19日:20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(その4)……亀山演武場、明治天皇行在所、いくつかの石碑と姫垣外苑からでころぼ坂を経て亀山駅にゴール(完))。

Img_1423c_20220510200901 Img_1416c_20220510200901  この飯沼慾斎生家跡の前の交差点には、道標が2基あります。左の写真では、向かって左手が飯沼慾斎生家跡、奥が青木門跡。交差点の手前と奥に道標があります。右の写真は、奥にある道標。東面には「右 郡役所 左 東海道」とあります。手前側の道標には、「右 東海道 左 停車場」とあります。関西線の前身である関西鉄道は、名古屋駅~柘植駅間を明治28(1895)年に開通させていますから、この道標はそれ以降のものと思われます。

Img_1438c_20220507193101 Img_1451c_20220510202101  スタートして1㎞の手前に旧舘家住宅。「升屋」という屋号で、幕末から大正にかけて呉服商を営んでいた大店で、現在の主屋は、明治6(1873)年に建てられました。市文化財です。階段が、もともとは仏間のところにあり、隠し階段のような雰囲気。右の写真は、2階の様子。私の印象に残ったのは、この塗り壁でした。ボランティアガイドの方がいらっしゃり、詳しく話をしてくださいました。

Img_1478c_20220510202401 Img_1472c_20220510202401  旧舘家住宅のほぼ隣には終南山光明院善導寺。浄土宗のお寺。山門も新しく、立派。本堂も新しい。しかし、ガイドブックにも、ネットにも、これという情報はありません。

Img_1475c_20220510202401  山門前に「石灯籠寄進 板倉勝澄公」という石碑のある石灯籠。板倉勝澄(享保4(1719)~明和6(1769年))は、江戸時代中期の大名。享保9年、伊勢亀山藩主板倉家第2次2代。延享元(1744)年、備中松山藩主板倉家初代となりました。善導寺の先で東海道は、また、鍵の手となっています。

Img_1484c_20220510203801 Img_1488c_20220510203801  善導寺の先で、西之丸堀跡。亀山城の外堀の一部で、東海道と外堀が並行して接する場所で、城の防御上、また、景観上重要な場所だったといいます。町屋川には番所、した。跡北復元地南には西之丸西櫓があったそうです。深さ1.8m程度の水堀で、推進は60㎝程度であったといいます。

Img_1497c_20220511044101 Img_1526c_20220511044101  京口門跡。亀山宿の西端、西町と野村の境を流れる竜川左岸の崖上に門がありました。亀山藩主板倉重常によって寛文12(1672)年に完成したとされ、翌延宝元(1673)年に東町に築かれた江戸口門とともに亀山城総構の城門として位置づけられました。京口門は、石垣に冠木門・棟門・白壁の番所を構え、通行人の監視にあたっていたといいます。門へ通じる坂道は左右に屈曲し、道の両脇にはカラタチが植えられ、不意の侵入を防いだとされます。大正3(1914)年、京口橋がかけられ、この坂道を登る道筋は途絶えてしまいましたが、往時は坂の下から見上げると門・番所がそびえる姿が壮麗だったといいます。左の写真は、京口門跡から西の方を見たもの。右は京口橋をわたった先から振り返って、東を撮ったもの。この先に京口門、亀山城が見えたということです。

Img_1517c_20220511044801 Img_1510c_20220511044801  京口門跡の案内板があるところに純一山常寿院梅厳寺。浄土宗のお寺。伊勢亀山藩主・石川氏の先祖・石川家成は徳川家康の忠実なる家臣であり、石川昌勝が慶安2(1650)年、伊勢亀山藩主となった時に、石川家成の菩提寺をここに移して、藩主・石川氏の菩提寺にしています。寺名の梅巌は、石川家成の院号だそうです。

Img_1519c_20220511045401  ちょっと余談。京口橋から滝川を見下ろすと(橋の上から北の方角を撮っています)、かなり高いことがわかります。上述のように、本来の東海道は、この下を通り、左右に屈曲した坂道を登って、京口門に至ったということです。

Img_1530c_20220511063501 Img_1534c_20220511063501  京口橋をわたった北側に妙亀山照光寺。日蓮宗のお寺。山門の写真は、京口橋をわたったところから撮っています。見下ろすようになっていますが、それは橋がかかってから。昔の東海道は、おそらく、この山門の高さのところを通っていたと思います。

Img_1539c_20220511063901 Img_1543c_20220511063901  ここには、前回、池の側で見た「石井兄弟敵討碑(東丸町)」に関連して、敵を討たれた赤堀水之助の墓があります。元禄14(1701)年5月9日、石井源蔵・半蔵兄弟は亀山城石坂門外で、父と兄の敵である赤堀水之助を討ち果たしました。この敵討ちについては、こちらに詳しい話が載っています。

Img_1549c  墓所には、もう1基、史跡に指定されているお墓がありました。山木善太の墓です。山木善太(寛政12(1800)~天保8(1837)年)は、幕末の儒者で、亀山藩明倫舎で儒学を教授し、その普及に貢献したそうです。頼山陽、斎藤拙堂と交流があったといいます。

Img_1555c_20220511065101  照光寺から道を挟んだ向かい側に旧佐野家住宅。大地主で、商家で、家主は質店などを経営していました。明治初期に改築されたが、江戸時代の家の様子も引き継ぐといいます。「入り母屋妻入り」の造りで、街道に切り妻の正面を向ける妻入りの町屋は多くないそうです。正面から入った土間が奥に入って広くなり、中庭へ続いていました。

Img_1570c_20220511065501  その先で、旧森家住宅。切妻造桟瓦葺で、西面に切妻棟を敷設しています。現在は、骨董カフェを営んでいるようです。

 まだルートマップその1の途中ですが、長くなりましたので、記事のその1はここまで。

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2022年4月27日 (水)

20220423東海道ウォーク「井田川~亀山」(その3)……亀山城址にて多門櫓、明治天皇行在所旧蹟、亀山演武場などを見て、亀山駅にゴール(完)

220423kameyama2c Kameyamacastlec  4月23日の東海道ウォーク「井田川~亀山」の本編その3です。その2では、能褒野神社二の鳥居・露心庵跡から姫垣外苑まで来ました。ここからは、いよいよ亀山城址に進みます。

Img_9277c_20220425165001 Img_9272c_20220425165001  姫垣外苑通のすぐ西に亀山西小学校があります。門や塀が、いかにも城内にあるという造りでした。

Img_9280c_20220423175501  亀山城跡。スタートからほぼ6㎞。11時50分に到着。丹波国にあった明智光秀の亀山城(亀岡城とも)と区別するために、伊勢亀山城といわれることもあります。文永2(1265)年に関実忠によって若山(現在の三重県亀山市若山町)に築城され(冒頭2枚目のマップで、亀山古城趾としたところ)、その後、現在の位置に移されました。江戸時代は東海道の要衝としてたびたび城主が変わり、石川氏の時代に幕末を迎えています。江戸時代初頭には丹波亀山城の天守を解体するよう命じられた堀尾忠晴の間違いによって、天守を取り壊されたという話が伝わっていますが、真偽のほどは定かではないようです。正保年間(1644~1648年)、本多俊次が城主の時に天守跡に現在の多門櫓が建てられました。

Img_9293c_20220425170001 Img_9296c_20220425170101  その多門櫓、確か休日は内部が公開されているはずで、もう一度是非みたいと思っていました(2019年6月9日:20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(予告編)……雨にも負けず(苦笑))。平屋建、白壁の塗込で屋根は入母屋造り、東西北の三方に破風があり、平時は武器庫として利用されていました。県内に唯一現存する城郭建造物として、昭和28(1953)年に県史跡に指定されています。高石垣の上にそびえる多門櫓は、見事です。

Img_9415c_20220425170601 Img_9396c_20220423175601  その姿は、城跡から出て、池の側の方まで降りていくと眺めることができます。桜の季節であれば、きっと趣があることでしょう。

Img_9321c_20220423175601  多門櫓のところから、石垣を見下ろすと、かなり高いことがよく実感できます。

Img_9329c_20220425171001  多門櫓から降りた、すぐ西には、与助井戸があります。これは、亀山城本丸で使われていたイドといいます。城を築く前にあった与助という鍛冶屋の家の井戸であったと伝えられ、そのため、与助井戸と呼ばれていました。現在は、埋められています。木の枠は、井戸のあった場所を示しています。場外への抜け穴があったという話もありますが、確認はされていないそうです。

Img_9333c Img_9343c_20220425171401  多門櫓の西下には、「史跡明治天皇亀山行在所遺構」があります。明治天皇は、明治13(1880)年、三重県下巡幸の時、7月10日東町藤屋(伊藤市次郎宅)を行在所とされ、10、11日の両日、名古屋・大阪両鎮台対抗演習を統覧されました。これは、この折、玉座とされた奥8畳間など行在所の一部が移築保存されたものです。建物はまず井尻町に移された後、昭和10(1935)年、亀山小学校(現・亀山西小学校)地内に移築され、同14(1939)年三重県史跡に指定されました。同26(1951)年、市文化財となり、32(1957)年、ここ亀山城多門櫓石垣北側に再度移築されたのです。

Img_9356c_20220423175601 Img_9352c_20220425171801  その西には、亀山演武場が復元されており、亀山藩御流儀心形刀流武芸形(おんりゅうしんぎょうとうりゅうぶげいがた)(県文化財)が伝承されています。演武場は、約50坪の道場。心形刀流は、亀山藩武芸指南役山崎雪柳軒(やまざきせつりゅうけん;文政11(1828)~明治15(1882)年)が免許皆伝を得て、元治元(1864)年、亀山に演武場を開設し、柳生新陰流に代わって御流儀となりました。ちなみに、心形刀流は、心の修養を第一義とし、技の錬磨を第二義としているといいます。すなわち、技は形であり、心によって使うものであるとします。心が正しければ技も正しく、心の修養が足らないと技は乱れると考えられています。この技が刀の上に具現されるため、流名に示すように心形刀流となるそうです。こちらに心形刀流のパンフレットがあります。

Img_9360c_20220425171801  この亀山演武場の門として、「大久保神官家の棟門」が用いられています。大久保家は、江戸時代に南崎権現社の神官を務めていました。大久保家は、寛永9(1632)年に西町権現、東町八幡宮、西町三社権現を、また、13ヶ村42社の神官をかねていたともいいます。この門は、しばらく亀山小学校の裏門として使われた後、昭和30(1955)年に亀山神社境内に再び移築され、現在に至っています。

Img_9366c_20220423175601  亀山神社です。延享元(1744)年、備中松山から石川総慶が亀山城に入城した際、城内に小祠を設けたことに始まり、それ以来、亀山城内の旧館跡に鎮座して真澂(ますみ)神社として崇敬されて来たといいます。明治4(1871)年に城北の若山の地に遷座した後、同9(1876)年に再び本丸跡に遷座しています。明治40(1907)年から41(1908)年にかけて西町鎮座の郷社亀山皇太神社、阿野田村鎮座の式内社真木尾神社などを合祀し、社殿を現在の地である西丸に新築して奉遷し、社号を亀山神社と改めました。主祭神は、源義家源義時石川義純石川家成。亀山神社について、詳しくは、2019年6月17日の記事をご覧ください(20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(その3)……雨の中、亀山古城跡、花しょうぶまつり、亀山城多門櫓から亀山神社へ)。

Img_9373c_20220423175601  このあと、花菖蒲園の方をちょっと覗いて、亀山城をあとにしましたが、その前に、ますみ児童公園に保存されているC58蒸気機関車を見てきました。359号機です。子どもたちが小さい頃、家内の実家に行く途中に立ち寄って見たことがあります。きれいに手入れされています。75年前につくられたもので、昭和45(1970)年まで現役でした。

Img_9401c_20220423175601  亀山城址をあとにして、池の側の畔を歩いて行くと、「石井兄弟敵討遺跡石碑」があります。元禄14(1701)年5月9日早朝に、石井源蔵(33歳)・半蔵(30足)兄弟が、28年目にして父の敵・赤堀水之助を、ここ亀山城石坂門外で討ち取ったことを記念して、昭和7(1932)年に亀山保勝会によって建立されたものです。本懐を遂げた石井兄弟は、旧主の青山忠重に帰参を許されています。当時「元禄曽我兄弟」と称され、歌舞伎、講談、絵本、浮世絵などに取り上げられ、赤穂浪士の討ち入りと並び賞賛されました。

Img_9431c_20220423175601  池の側の向かい側に田中病院があり、その前に「池の側松並木」。亀山石坂門から池の側(外堀)に沿って植えられた松並木で、市天然記念物に指定されています。今は、写真に見える大きな松が1本だけで、その向こうに若木が植えられていました。

Img_9438c_20220423175601 Img_9448c_20220423175601  池の側松並木の南で、東海道に行き当たります。次回は、ここから関宿を目指す予定。小公園になっていて、そこが、西町問屋場跡。右の写真あたりに宿役人若林家の屋敷、問屋場が並んでいたと考えられています。右の写真は、関宿方面を撮ったもの。

Img_9488c_20220423175601 Img_9492c_20220423175601  これで今日の目的地はコンプリート。JR関西線亀山駅に向かい、12時40分に到着。取り敢えずは、7.4㎞を歩いてきました。亀山駅前では、現在、再開発が進んでいます。リニアが通ることを見越してです。マンションも建設されています。

Img_9500c_20220423175601 Dsc_6375c  名古屋行きの電車の時刻を確認して、昼食を摂ろうと思って、駅前を見渡したものの、コンビニもありません(苦笑)。駅前から県道565号線方面に行ったものの、食事ができそうなところは近くには見当たらず。駅前に引き返してきて、よく見たら、和菓子屋である瑞宝軒にカフェとありました。「食事はできますか?」と聞いたら、「大丈夫ですよ」との返答。ランチがあったので、それをチョイス。コーヒー付きで¥1,100。サワラのフライとハンバーグ。ご飯は七分づきのもの。なかなか美味しくいただけました。あとで調べたら、この瑞宝軒さんは、江戸時代後期、東海道沿いに角屋として開業した、歴史のある和菓子屋さんでした。

Img_9507c_20220423201901 Img_9517c_20220423175601  亀山駅に戻って、確か売店があったので、関の銘菓・関の戸を土産にしようと思ったら、売店は閉まっていました。残念。亀山を13時24分に出る名古屋行き快速に乗車。桑名駅には、14時6分着。¥680。けっこうよく歩いた感じでしたが、歩数は、18,459歩でした。自宅から桑名駅往復が、2.4㎞ほどですから、この日のトータルの歩行距離は、10.2㎞。次回は、亀山から関宿まで歩く予定。その先は、東海道と関西線が離れてしまうので、電車で行って歩くのが困難。県境まで東海道を歩くのは、難しそう。

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2022年4月26日 (火)

20220423東海道ウォーク「井田川~亀山」(その2)……能褒野神社二の鳥居・露心庵跡から姫垣外苑まで

220423kameyama2c  4月23日の東海道ウォーク「井田川~亀山」の本編その2です。その1では、JR関西線・井田川駅をスタートして、和田一里塚跡まで来ました。その2では、和田一里塚跡を過ぎてさらに西へ。栄町の交差点から、カメヤマローソクの工場を見て、能褒野神社二の鳥居、露心庵跡へ。このあたりが亀山宿東の入り口。本町広場には巡見道説明板がありますが、ここが巡見道との追分。ここから東町にかけて、昔の亀山の中心部。東町は、江戸町門口跡。福泉寺、法因寺を過ぎて、江ヶ室交番前交差点は、大手門跡・高札場跡。東海道は、ここで左折します。この先にある枡形を見て、江ヶ室交番前交差点に戻り、亀山城跡に向かいます。多門櫓・明治天皇行在所旧蹟・亀山演武場・亀山神社と回って、花菖蒲園を覗いて、亀山駅に向かいます。池の側で、石井兄弟敵討ち遺跡石碑。田中病院前には、天然記念物の池の側松並木。その後、西町問屋場跡を見て、亀山駅にゴール。

Img_9081c  栄町の交差点を過ぎると、左手(南側)にカメヤマローソクの亀山本社工場があります。昭和2(1927)年の操業。現在の社名はカメヤマで、本社も大阪に移転してしまいましたが、私には「亀山ローソク」の方が馴染みがあります。結婚式でのキャンドルサービスを日本で普及させたのは、この会社です。

Img_9092c_20220425065501  スタートから3.7㎞を過ぎたところに、能褒野神社の二の鳥居が道路をまたぐように立っています。能褒野神社は、ここから北東へ直線距離で3㎞。亀山市田村町にあります。日本武尊は、能褒野でなくなり、墓は「延喜式」に「能襃野墓」とあったのですが、後世に所在不明となりました。一帯には日本武尊の陵墓と伝えられる古墳がいくつかあったのですが、明治12(1879)年に「王塚」あるいは「丁字塚」と呼ばれていた前方後円墳(現在の能褒野王塚古墳)が、内務省によって「能褒野墓」に治定されています。その後、地元有志により日本武尊の遺徳をしのぶため能褒野陵周辺での神社の創建が企画され、明治28(1895)年に竣工しました。

Img_9096c_20220423175501  鳥居のすぐ西には、露心庵跡があります。亀山宿東端に位置する寺院跡です。天正12(1584)年に神戸正武が亀山城を襲ったものの、城を守る関万鉄斎はわずか13騎でこれを撃退したと伝わっています。この合戦の戦死者を城下の東端に2つの塚を築いて葬っています。この寺を建立した露心法師は、関氏一門で、もとは桑名城主に仕える武士でしたが、西町善導寺で仏門に入りました。その後、亀山城主であった石川昌勝に願って、古戦場の松林に友松庵を建て戦死者を供養したと伝えられます。この庵は露心の名にちなんで、その後、露心庵と呼ばれるようになりました。明治に廃寺になっています。

Img_9117c_20220423175501 Img_9124c_20220423175501  スタートから4㎞を過ぎ、10時40分頃、本町広場に到着。9時から歩いていますので、ここで一休み。ここの交差点は、東海道と巡見道との追分。巡見道は、江戸時代に幕府の巡見使の通った道のことです。県内の巡見道は、ここ亀山市の東町で東海道から分かれ、現在の国道306号を縫うようにして北上しています。巡見使は、将軍の代替わりごとに諸国の政情、政道の得失・民権の風俗を査察するために派遣される幕府の役人で、県内へは約10回の派遣の記録があります。右の写真が、巡見道。

Img_9111c_20220425152101 Img_9107c_20220425152101  この先、本町の通りを進んで行きますが、あちこちのお宅に昔の屋号を記したものが掲げられていました。「宿場の賑わい復活プロジェクト」として、平成13(2001)年に「きらめき亀山21 町並み保存分科会」がつくったものでした(このあといった枡形のところに掲示がありました)。屋号が掲げられていると、昔のことを早々しながら歩くことができ、楽しさが増します。

Img_9152c_20220425152801  亀山医院の前を過ぎると、東海道は左に曲がり、変則の4叉路に出ます。ここは、江戸門口跡。延宝元(1673)年、亀山城主・板倉重常によって気づかれた城門がありました。東西120メートル、南北70メートルで堀や土塁に囲まれた曲輪があり、その曲輪は3つに区画され、それぞれが枡形になっていたといいます。西側の区画には、番所がおかれ、通行人の監視や警固にあたったそうです。番所というよりも、亀山城惣構の城門という位置づけと考えられています。

Img_9160c_20220425153301  東町交差点。ここからアーケードのある商店街となります。シャッターが閉まっている店もありますが、まだまだ現役でやっている店もたくさん。

Img_9170c_20220423175501 Img_9179c_20220425153701  ふれあい広場の向かいを入っていくと、お寺が2つ並んでいます。まずは、松風山福泉寺。元は、慈覚大師が創設した天台宗のお寺でしたが、15世紀後半に真宗高田派に改宗しています。山門が立派でした。正面軒唐破風付入母屋造で、寛政7(1795)年の築造といいます。

Img_9183c_20220425153701  ここは、亀山愛児園という認定こども園を営んでいます。そのためか、境内には入れないようになっていましたので、山門から覗いて写真だけを撮ってきました。ちなみに、亀山愛児園は、昭和21(1946)年6月、三重県で戦後最初に開園された保育所だそうです。

Img_9222c Img_9189c_20220425154501  福泉寺の西隣にあるのが、真宗大谷派の宝亀山法因寺。創建は不詳ですが、蓮如上人の縁があったと伝えられており、門前に「蓮如上人御旧蹟」と刻まれた石碑が建っています。

Img_9195c Img_9198c_20220425154601  本堂も、庫裏も立派な建物でした。墓所には、江戸時代末期亀山藩の郡代奉行であった黒田孝富(亀山藩の藩政改革を断行し明治元年に暗殺)の墓があったのですが、これは見忘れてしまい、残念。

 Img_9201c_20220425154901 また、推定樹齢約300年の「左巻カヤ」が、墓所にあります(たぶん左の写真のもの)。亀山市指定天然記念物。この「左巻カヤ」は、カヤの変種で、種子が大型で、種子の殻の表面にみられる螺旋状の線が左巻きのカヤだということです。

Img_9227c_20220423175501  東海道に戻って、江ヶ室交番前交差点へ。ここは、亀山城の大手門跡。高札場もここにありました。大手門は、大手門櫓と大手脇櫓からなる枡形門でしたが、明治初頭には石垣に至るまで破却されています。東海道は、ここで左折し、南に向かいます。亀山城にはここを直進するのですが、東海道にある枡形だけを見てくることにしました。が、江ヶ室交番のところにある道路元標を見忘れました(苦笑)。

Img_9245c_20220423175501 Img_9249c_20220425162601  100メートルほど南に行ったところに東海道の枡形が残っています。ちょうど亀山市シルバー人材センターのところ。枡形を確認して、この日は、亀山城跡に向かいます。

Img_9267c_20220423175501  亀山西小学校の東のところに「姫垣外苑」。このあたりには、太鼓櫓があったといいます。小規模な三階の櫓で、最上階に時を告げる太鼓がおかれていました。江戸時代中頃に築造され、嘉永7(1854)年の大地震で倒壊。文久2(1862)年頃には再建されています。ちなみに、亀山城の別名は、「粉堞城(ふんちょうじょう)」といいます。「粉堞」とは、姫垣( 城壁などの上にめぐらした低い垣。また、たけの低い垣根。小さい垣)や、表面に白い胡粉(ごふん: 白色顔料。板甫牡蠣(いたぼがき)の殻を数年、風雨にさらし、粉砕、水簸(すいひ)、乾燥して作った炭酸カルシウムを成分とする粉末)を塗った簡易な塀という意味があります。「姫垣外苑」は、これに由来する名前ということ。

 その2は、私にしてはやや短い記事ですが、キリが良いのでここまで。その3では、いよいよ亀山城址へと入っていきます。

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2022年4月23日 (土)

20220423東海道ウォーク「井田川~亀山」(予告編)

Img_8837c_20220423175801  1ヶ月ほどの間が開きましたが、今日は、「東海道ウォーク」の3回目。前回は、JR関西線・加佐登駅から井田川駅まで歩きました(2022年3月19日:20220319東海道ウォーク「加佐登~井田川」(予告編))。今回は、井田川駅から東海道を歩いて、亀山へ。亀山では、東海道からは少し外れますが、亀山城跡も主なところを回って来ました。亀山の最高気温は、26.3℃。ほぼ曇りで、正午頃からはしばらく晴れていました。歩くのにはちょうどよい気候。今日のところは、予告編です。

Img_8845c_20220423175401Img_8857c_20220423175401  JR関西線・桑名駅を8時14分に出る亀山行き普通に乗車。井田川駅には、8時54分着。¥590。9時ちょうどに井田川駅をスタート。駅から南西に向かいます。すぐに右手(西側)に「旧井田川小学校跡碑」があります。井田川小学校は、大正4(1915)年2月にここに移転して来て、昭和54(1979)年4月にみどり町に移転するまで、ここにありました。

Img_8892c_20220423175401 Img_8896c_20220423175401  このあと、国道1号線を渡って、東海道は左折。右手にお寺が続きます。まずは、真宗高田派の廻向山西信寺(さいしんじ)(左の写真)。その先に浄土宗の三世山浄業院正福寺(右の写真)。どちらも、みえの歴史街道にも、ネットにもこれという情報はありません。

Img_8914c_20220423175401  正福寺の先で1㎞。椋川を渡って、国道1号線の高架をくぐって、1.5㎞地点の手前、西側に「谷口法悦題目塔」。川合と和田の境にあります。元禄年間(1695~98)、谷口法悦が造立。「南無妙法蓮華経」と刻まれています。谷口は、日蓮宗の篤信者で、17世紀末頃、一族とともに各地の寺院、街道筋にこうした題目塔を造立しています。

Img_8932c_20220423175401 Img_8951c_20220423175501  県道23号線の和田交差点に東海道が接近する手前に道標があります。「従是 神戸 白子 若松道」とあり、白子道を示しています。元禄3(1690)年、度会益保によって建てられたものです。若松村には、亀山藩領の港があり、そこへの重要な道路を示しています。また、この道標は、三重県の東海道に現存する最古のものだそうです。道標の先には、シャングリさんの小祠。川合と和田の境にあって、和田の村に悪霊が入ってこないよう、見張るためのもの。

Img_8989c_20220423175501  和田の公民館の向かい側に「井尻道」の道標があります。これは、田中音吉が建てたもの。Img_8981c田中音吉は、亀山生まれの明治~大正時代の実業家。明治30(1897)年、亀山共同社(のち亀山製糸会社)を設立しています。このあたりの道路の分岐点に道標を建てています。今のところ、61基の存在が確認されています(こちら)。ここを南に入ると、真宗高田の當修山幸福寺がありますが、ご覧のような状況。庫裏も取り壊されているようですし、境内も、工事中というか、工事に取りかかる直前という印象でした。ネットではこれという情報は見つけられませんでした。

Img_8971c_20220423175501  東海度に戻って少し行くと、スタートから2.5㎞を過ぎた右手に(北側)天台真盛宗の福善寺。こちらのお寺も、宗派以外には、ネットなどではとくに情報は出て来ません。

Img_9006c_20220423175501  こちらはその先にあるImg_9002c_20220423175501  石上寺(せきじょうじ)。那智山松寿院という号があります。本尊は子安延命地蔵菩薩。伊勢七福神の一つ。元は、このあたりに勧請された熊野神社の神宮寺で、大伽藍があったといいます。境内には、四国88箇所霊場巡りも再現されていました。

Img_9061c_20220423175501  石上寺からほど近くに、和田一里塚跡。江戸日本橋から104里。慶長9(1604)年、亀山城主であった関一政が築造したもの。昭和59(1984)年、道路の拡幅にともない、それまで残っていた塚の一部がなくなり、跡地の東側のここに模式復元されたものです。

Img_9085c_20220423175501 Img_9096c_20220423175501  栄町交差点を過ぎ、スタートから3.7㎞ほどのところに、能褒野神社の鳥居。この鳥居から北東へ約3㎞のところに能褒野神社があります。能褒野神社は、日本武尊能褒野御墓(やまとたけるのみことのぼのおんぼ)のところにあります。この御墓は、日本武尊が、東征帰路にこのあたりで亡くなられたという記紀の記述に基づき、明治12(1879)年に内務省が「日本武尊能褒野御墓」と定めています。鳥居のすぐ先に露心庵跡。天正12(1584)年に神戸正武が亀山城を襲ったものの、城を守る関万鉄斎はわずか13騎でこれを撃退したと伝わっていますこの合戦の戦死者を城下の東端に2つの塚を築いて葬っています。関氏一門の露心はこのあたりに仏庵を建立し、戦死者を供養したといいます。この仏庵が露心庵です。明治に廃寺になっています。

Img_9117c_20220423175501 Img_9124c_20220423175501  このあと、本町交差点にある本町広場(巡見道説明)で一休み。10時40分頃から11時頃まで。この本町交差点で、東海道と巡見道とが分岐します。右の写真で、奥の方向に続くのが巡見道。

Img_9151c_20220423175501  東町のバス停のところは、江戸門口跡。延宝元(1673)年、亀山城主・板倉重常によって築かれた門があったところ。番所もおかれ、通行人の監視や警護に当たったといいます。

Img_9170c_20220423175501 Img_9222c  東町の商店街に入っていきます。5㎞の手前を北に入ったところに、まずは福泉寺。慈覚大師が創設した天台宗の古刹で、寛正元(1460)年に真宗高田派に改宗したと伝えられます。山門は寛政7(1795)年の建立で、県の文化財に指定されています。福泉寺に向かい合うようにしてあるのが、真宗大谷派の法因寺。蓮如上人御旧蹟であり、また、墓地内に天然記念物である「法因寺の左巻カヤ」があります。果実に白筋があるのですが、その筋が左巻に現れるのが珍しいとされています。

Img_9227c_20220423175501 Img_9245c_20220423175501  江ヶ室交番前の交差点は、亀山城の大手門跡です。大手門があったほか、ここは高札場でもありました。東海道は、ここで左折して南に向かいます。すぐ先に枡形が残っています(右の写真)。このあと、亀山城跡を見に行きたかったので、枡形を確認して、江ヶ室交番前の交差点に戻り、東海道からは外れて、亀山城跡へ。

Img_9280c_20220423175501  亀山城は、別名を粉蝶城(こちょうじょう、ふんちょうじょう)といいます。文永2(1265)年に関実忠によって若山(現在の三重県亀山市若山町)に築城され、その後現在の位置に移されています。江戸時代は東海道の要衝としてたびたび城主が変わり、石川氏の時代に幕末を迎えました。

Img_9396c_20220423175601 Img_9321c_20220423175601  ここで必見なのは、多門櫓。多門櫓は、天守台といわれる本丸高石垣上にあり、寛永9 (1632)年頃に築造されたとみられます。三重県で唯一現存する城郭建造物として県史跡に指定されています。土日祝日は公開されており、今日も内部を見学してきました。

Img_9356c_20220423175601  多門櫓の西にある明治天皇行在所遺構です。Img_9333c明治天皇が明治13(1880)年7月10日、11日に大阪鎮台・名古屋鎮台兵対抗演習天覧のため、亀山の藤屋でニ泊されたときに玉座として使われた建物が、亀山城跡地に移築され残っているのです。右の写真は、そのさらに西にある亀山演武場。元治2(1865)年、十五代亀山藩主石川総脩により武道場の設立が許され、南野村喬松館御殿の東(現在の南野町)に、江戸の伊庭道場の長所を取り入れた約50坪の道場が建設されました。廃藩置県や廃刀令を経て、明治15(1882)年に演武場はここに移設されています。亀山藩に伝わる心形刀流(しんぎょうとうりゅう)を今に伝えています。

Img_9366c_20220423175601  そのさらに西には、亀山神社。延享元(1744)年、備中松山から石川総慶が亀山城に入城した際、城内に小祠を設けたことに始まり、それ以来、亀山城内の旧館跡に鎮座して真澂(ますみ)神社として崇敬されて来たといいます。このあと、花菖蒲園の場所を覗いて、亀山駅に向かいました。

Img_9401c_20220423175601 Img_9431c_20220423175601 城の南に池の側という名前の池があります。その畔に「石井兄弟亀山敵討遺跡」と刻まれた石碑があります。これは、元禄14(1701)年5月9日、石井半蔵・石井源蔵の兄弟が、父の宇右衛門と兄の三之丞の仇である赤堀源五右衛門を伊勢国亀山の城下で討ち取ったことに関する記念碑。この先、田中病院の前には、松の木があります。ここは「池の側 松並木」。亀山城石坂門から池の側(外堀)に沿って植えられた松並木で、市天然記念物です。

Img_9488c_20220423175601 Img_9492c_20220423175601  JR関西線・亀山駅には、12時40分頃到着。亀山駅前では、リニア開通を見越して、駅前の整備とともに、マンションの建設などが行われていました。電車の時刻を確認してから、昼食を食べられる店を探して、若干ウロウロしました。昼食のために歩いたのも含め、亀山駅までで最終的には7.8㎞を歩いています。

Img_9500c_20220423175601 Dsc_6375c  昼食は、結局、駅前にあった「瑞宝軒」という和菓子屋さんがやっているカフェへ。最初は、和菓子屋さんだから昼ご飯はないなと思って、いったん通り過ぎたものの、ほかに飲食店はなく、戻って来て「食事ができますか?」と聞いたら、大丈夫といわれました。ランチもあったので、それをチョイス。コーヒー付きで¥1,100。サワラのフライとハンバーグ。ご飯は七分づきのもの。なかなか美味しくいただけました。

Img_9507c_20220423201901 Img_9517c_20220423175601  亀山駅を13時24分に出る名古屋行き快速に乗車。桑名駅には、14時6分着。¥680。けっこうよく歩いた感じでしたが、歩数は、18,459歩でした。自宅から桑名駅往復が、2.4㎞ほどですから、今日のトータルの歩行距離は、10.2㎞。予告編はここまで。本編はまた明日以降、ボチボチと書いていきます

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2022年4月21日 (木)

鳥は少なかったので、「桑名城探訪」アプリで遊ぶ

Dsc08424c  午後になって雨雲がかかってきました。朝、家事を済ませて、8時20分から散歩をスタート。住吉神社から九華公園へ。とある理由で九華公園内をウロウロ。その後、内堀公園、京町、吉津屋町とツバメの巣を見て、新築公園から常磐町、老松公園、寺町、三崎通、田町、諸戸氏庭園前と回って6.0㎞。10時半過ぎに帰宅。

Dsc08436c Dsc08448c  鳥はほとんどいません(苦笑)。スズメ、ドバト、ハシボソガラスがところどころにいるくらい。九華公園には、8時40分に到着。左の写真は、管理事務所近くのツツジ。公園内某所にあるコゲラの巣、今日はそこに着いたら、ちょうどコゲラが顔を覗かせていました。鳴き声もほかから聞こえたものの、姿は見つけられず。

Dsc08481c Dsc08491c  奥平屋敷跡にある「九華すずめ食堂」。かなり傷んでしまいましたが、まだあります。ドバトがやって来て占領中。スズメは遠巻きに眺めているだけ。二の丸跡で、カワラヒワ。今日は、九華公園でも鳥は少なく、ヒヨドリ、ムクドリも少ない。そして、とうとう、カモの姿が消えました。昨日は、キンクロハジロが7羽くらいいた時間帯もあったそうですが、今日はどこにも見当たりません。

Dsc08510c Dsc08500c  やむなく、梅の実とか、イロハモミジの葉っぱとかを撮ってきました(苦笑)。左の写真は、豊後梅の実。ずいぶん大きく、よく見る梅干しくらいの大きさになっています。右は、モミジ。そろそろ「翼果」が出てくる頃です。

Dsc08549c Dsc08591c  公園内のツツジ、咲き始めはソメイヨシノが散る頃で早かったものの、その後、なかなか開花が進みません。先日書きましたように、剪定の仕方か、肥料を与えていないことの影響のように思われます。その証拠に、鎮国守国神社の鳥居のところ(左の写真)や、立教小学校の裏手(右の写真)では、よく咲いています。

Dsc08632c Dsc08610c  内堀公園には鳥はおらず。新築公園で枯れ草を咥えたスズメ。巣材にするのでしょうか。近くには、オス。求愛行動のポーズを取っていました。ツバメがいたのは、京町の呉服屋さんのみでした。

Dsc08652c Dsc08601c  藤棚も見てきました。左は内堀公園にて、右は老松公園にて。どこも市の公園ですが、手入れが行き届いていないようで、残念。

Screenshot_20220421074922c  ところで、九華公園でウロウロしていたと書きました。昨日から、「桑名城探訪」というスマホアプリの配信が始まりました。昨日は、非常勤のあと、エレベーター・リニューアル工事の完了検査でしたので、試す余裕がありませんでした。今朝、散歩に出る前にインストールして、出かけました。桑名市のWebサイトには、次の引用のように説明されています。左の画像は、アプリを開いたときのスクリーンショト(スクショ)。

かつて存在した桑名城を3DCGで再現し、ありし日の桑名城や城下町をVRやARで見る事ができるスマホアプリ「桑名城探訪」を4月20日より配信します。

このアプリは、桑名城跡付近の指定の場所でスマホをかざす事で、3DCGで再現された桑名城や城下町を360度のVRで見る事が出来たり、スマホのマップに古地図を重ねて表示する事で、まるで昔の桑名を歩いている気分を味わえる、桑名観光にお勧めのアプリです。

Screenshot_20220421075445cScreenshot_20220421092939c  こちらは、「桑名城探訪」を開いた画面のスクショ。「まちあるきスタート」をタップすると、Googleマップが現れ、そこにVRポイントが表示されています。VRポイントに近づくと、サウンドとバイブでそれを知らせてくれます。右の画像は、九華公園の吉之丸堀にかかる橋を渡っているときのスクショ。数字が赤くなっているところは、すでに訪ねて、スタンプをゲットしたところ、青い(紺色)の数字はまだ行っていないところ。

Screenshot_20220421090847c  VRポイントに達すると、スタンプがゲットでき(右の画像)、さらにそのポイントから見えた桑名城や城下町の風景を、3DCGの360度VR画像が見られます。左の「桑名城を仰ぎ見る」というスタンプは、鎮国守国神社の一の鳥居あたりでゲットしたもの(右上のマップでは、#2のポイント)。

Screenshot_20220421091118c Screenshot_20220421091225c  #1のポイントが、「天守閣直上」。ここで見られるVR画像は、右のようになっています。天守閣は、元禄14(1701)年の桑名市街地の過半を焼く大火で焼け落ちてしまい、その後再建はされていません。焼失直前の天守は、4重6階(外観で屋根が4つ重なり、内部は6階建て)という記録が残っています。

Shouhocastle  左の画像は、正保城絵図に書かれた桑名城本丸あたりの様子。右下に天守閣が描かれています。正保城絵図は、正保元(1644)年に幕府が諸藩に命じて作成させた城下町の地図です。

Screenshot_20220421094344c Dsc08594c  九華公園のあちこちでもスタンプをゲットしてきましたが、ほかに、ここは、南大手門のあたり。今の歴史を語る公園のところになります。スタンプをゲットしたところから、同じ方角を見て撮った写真が右のもの。ここの向かって左手(西側)に旧東海道が通っています。右手(東側)が桑名城。右の写真では、民家の一部が堀に向かって出張っていますが、その向こうあたりに南大手橋がかかっていたものと思います。

Dsc08709c Screenshot_20220421104041c  ずっと飛んで、ここは現在の諸戸氏庭園前。煉瓦蔵は、明治の末から大正の頃、諸戸清六氏が立てたものですから、江戸時代にはありません。また、現在の住吉入江は、江戸時代は、桑名城の惣構え堀でした。スクショも、写真も東を向いて撮っています。

Screenshot_20220421144625c  ということで、鳥も散歩友達も少なかったのですが、「桑名城探訪」というアプリで遊んできました(微笑)。スタンプは、左のスクショのように、7箇所でゲット。残りは、鐘の門(これは、九華公園の西の入り口あたり)と三の丸(柿安コミュニティパークの南東)の2箇所。明日、コンプリートして来ることにします。アプリでは、ほかに、Googleマップに古地図を重ねて表示したりもできるようですから、まだまだ楽しめます。「久波奈名所図会」を持って街歩きをしようと、先日も書きましたが、それにも使えると思います。

Dsc08424c  などと遊んでますが、昨日の講義のQ&Aが途中で止まっています。気分を切り替えて、そちらに取り組まないと(爆)。

Dsc08605c  余談。桑名市博物館の次の企画展。「とりてん」ですが、「鶏天」ではなく、「鳥展」。これは楽しみ。

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2022年3月 5日 (土)

20220305近鉄酒蔵立ち寄りハイキング「銘酒『三重の寒梅』丸彦酒造をたずねて」へ(1回完結)

Img_5728c_20220305170501  桑名では、最高気温が17.4℃にもなりました。午前中から14時頃まではよく晴れていて、まさにハイキング日和。先週に引き続き、近鉄の酒蔵立ち寄りハイキングに行ってきました。今日は、「銘酒『三重の寒梅』丸彦酒造をたずねて」ということで、四日市市川島町にある丸彦酒造さんへ行ってきました。丸彦酒造さんの「三重の寒梅」は、鈴鹿山系の地下水と酒造りに最適な山田錦をつかった美味しいお酒。私は、これまでに2回、近鉄の「酒蔵みてある記」で訪ねましたが(2018年1月30日:酒蔵みてある記“銘酒「三重の寒梅」丸彦酒造をたずねて”へ(その3)……河島神明神社、西福寺そしていよいよ丸彦酒造へ(完)、2019年1月26日:20190126近鉄ハイキング“酒蔵みてある記 銘酒「三重の寒梅」丸彦酒造をたずねて”へ(予告編))、今日は同級生K氏と2人で。

Img_5609c_20220305170501 Img_5606c_20220305170501  先週と同じく、近鉄湯の山線・伊勢松本駅で9時40分~10時40分が受け付けでしたので、桑名駅を9時2分に出る松阪行き急行に乗車。四日市には9時15分着。9時29分発の湯の山温泉行き普通に乗り換え。伊勢松本駅には、9時34分着。¥380。着いたときには、前回よりやや多い人たちが並んでいました。

Img_5613c_20220305170501 220305maruhikomap  左の写真は、今日のコースマップ。近鉄ハイキングのパンフレットでは約6㎞となっていましたが、実際には約5㎞でした。過去2回とはコース設定が異なり、丸彦酒造さんを眺めながら遠回りしていたところがカットされていました。これで、美味しいお酒を目の前に「お預け」をくらった状態にならずに済みそうです。右の画像は、実際に歩いてきたルート。伊勢松本駅から南へ。松井神社を経て(このあと鹿化川沿いに出るまで、境内で寄り道をし、少しコースを外れています)、鹿化川沿いを歩いて、上布田遺跡の説明板、鹿化川千本桜並木を歩いて、丸彦酒造さんへ。その後、コースマップでは伊勢川島駅へ向かうのですが、「もうちょっと歩いても良いな」ということになり、西福寺、伊勢三郎首塚、河島御厨神明神社まで足を伸ばしてきました。ちなみに、もらったコースマップのナンバーは#65。

Img_5619c_20220305170501  スタートしたのは9時40分。左の写真は、松本街道を渡るところ。スタート直後は、けっこう賑わっていますが、このあと、酒蔵に直行する人、コースマップ通りに歩く人、最初の立ち寄り先の松井神社であれこれ見て回る人と、いろいろに分かれます。

Img_5625c_20220305170501 Img_5629c  われわれは、せっかく来たからにはあちこち見て回ろうというタイプ。まずは、松井神社。ここは、Googleマップでは「松本神社」と表示されますが、キョリ測では松井神社と神明松乃神社の2つがあるとされます。神社検索(三重)のサイトにはありませんので、神社庁には登録していないと思われます。四日市市の常磐地区ホームページによれば(こちら)、「神明松乃神社(ご祭神:天照大神豊受毘売之命(卜ヨウケヒメノミコト))と、松井須賀神社(ご祭神:健速須佐之命(タケハヤスサノオノミコト))が一つになり松本神社となった。大正15年(1926)に八阪神社(赤堀)から分祠された」とあります。赤堀の八阪神社は、京都の八坂神社の分社で、御祭神は健速須佐之命。さらに八阪神社は、豊受大神宮(外宮)と縁があり、ご遷宮の際、鳥居を下賜されているといいます(こちら)。

Img_5636c  この神社があるところは、松本城跡。「松本城跡」という石碑は、平成15(2005)年10月に常磐地区社会福祉協議会が建てたもの。碑陰には、“「吾妻鏡」に「……まず進士三郎基度の朝明郡富田之館を襲い挑発数刻にして、基度及び舎弟松本三郎盛光・同四郎・同九郎らを誅した……」とあり、1204年に起きた三日平氏の乱で松本氏が本城を拠点にして戦った”とあります。三重県教育委員会編「三重の中世城館」によれば、「松本の西方丘陵の末端、団地造成のため丘陵も削平され、残る丘陵の上にも遺構はない」そうです。

Img_5659c_20220305170501 Img_5662c  中世の城館跡はたいてい小高い丘の上にあります。松本城跡も30メートルほどの丘の上にありました。神社を出て下っていくと鹿化川(かばけがわ)に行き当たります。ここからほぼ鹿化川に沿って西に向かいます。北側には、青葉台、松が丘、松本台などの住宅団地が広がっています。途中、スタートから1.2㎞ほどのところに「上布田遺跡(じょうふでんいせき)」と書かれた看板が立っていました。このあたりから須恵器、土師器、山茶碗などが出土したそうです。土師器は、古墳時代に属する可能性があるようですが、他は、平安時代後期から鎌倉時代にかけての遺跡と考えられています。「上布田」という名は、松本御厨(松本町付近にあったと推定;伊勢神宮に神饌を貢進する所領)から、神宮に納められた「上分米(じょうぶんまい)」を収穫する水田を意味すると考えられています。

Img_5674c_20220305170501 Img_5670c_20220305170501  鹿化川沿いには、千本桜並木があります。以前来た時にも思いましたが、桜の季節には見事な眺めになるでしょう。右の案内板にありますように、昭和の終わり頃、川島老人会が桜の苗木を植えたものが、ここまで育ったということです。

Img_5689c_20220305170501 Img_5700c_20220305170501  丸彦酒造さんへの途中で、キセキレイとカワセミ。キセキレイは、以前にもここで見かけましたが、カワセミは、もう少し上流に「カワセミがいる川」という看板があったものの、過去2回のハイキングでは見られませんでした。今日は、延べ2回目撃。2回目に見たとき、われわれがいたところから少し下流側の護岸に止まったのです。それが右の証拠写真。

Img_5696c_20220305170501 Img_5719c_20220305170501  カワセミを見たところから振り返ると、今日の目的地である丸彦酒造さんが見えます。以前の2回のハイキングでは、これを見ながら、鹿化川をさらに上流の方に歩いて、歴明寺、伊勢三郎首塚、河島御厨神明神社、西福寺と回ってから丸彦酒造さんに行ったのですが、今日のコースは、この交差点から直行(微笑)。丸彦酒造さんの東にあるお宅で、見事なしだれ梅。これは相当手入れが行き届いているはず。たくさんのハイキング参加者が写真を撮っていました。

Img_5732c_20220305170501 Img_5736c_20220305170501  冒頭の写真のところが、丸彦酒造さんへの入り口。スタートからほぼ3㎞、10時半頃到着。50分しか歩いていません(微苦笑)。以前来た時より、空いています。まずは、抽選会へ。もらったコースマップに付された番号で当選が決まるのですが、残念ながら、今回は見事にハズレ。「2度あることは3度ある」を期待したのですが……。ワンカップは下1桁が「2」、徳利は同じく「8」。二人とも討ち死に(大げさな!)。参加賞のピーナッツをもらってきました。

Img_5746c_20220305170501 Img_5739c_20220305170501  続いては、期待の試飲。丸彦酒造さんでは、毎回、有料。1杯¥100なのですが、さすがに有料だけあって、まずはコップのサイズが大きい。そして、そこになみなみとついでもらえるのです(喜)。こぼさないように細心の注意が必要になります。座るところを探して、参加証でもらったピーナッツをつまみに、何はともあれ乾杯! ここで、同級生K氏が、リュックから取り出したのが、奥様が持たせてくれたというつまみ。ありがたい。たまたま隣に来られた方にもお裾分けして、ひっそりと盛り上がりました。ちなみに、この方御年80代半ばにして、毎日朝夕と20㎞以上も散歩するとか、70代半ばの時に思い立って東海道を歩き通したとかおっしゃり、われわれ2人は脱帽(苦笑)。

1646445216601  話が弾み、「ちょっと足らないな」ということになって、もう¥100ずつ払って、追加の試飲。試飲は、三重の寒梅の「蔵出し原酒」。薦に「肴よし 酒よし 友よし 寿福無量 ここにきわまれり」とあったのですが(上左の写真をご覧ください)、まさにそんな感じ。三重の寒梅、「酒臭さ」があまりありません。今風にいうと、フルーティーでマイルド。透明度も高く、洗練された感じです。私好みの酒です。ちなみに、左の写真では、紙コップが重なっていますが、これが2杯目の証拠(^_^)

Img_5756c_20220305170501 Dsc_0007c  試飲のあとは、これまたお約束の即売会へ。「三重の寒梅 初しぼり」(¥1,400)と、ワンカップ(¥300)を買ってきました。「三重の寒梅 初しぼり」が、試飲したものにもっとも近いそうです。という次第で、結局、丸彦酒造さんには1時間ほど滞在してしまいました。余談ながら、今日の晩酌には、ワンカップをいただきました。普段アルコールを口にしない娘も、「これは飲みやすい」といっています。

Img_5760c_20220305170501 Img_5764c_20220305170501  土産を買って、リュックも重くなったのですが、もう少し歩こうということになり、丸彦酒造さんから西へ。伊勢三郎首塚などを見てくることにしたのです。その前に、真宗大谷派の永角山西福寺へ。創立年代は不明ですが、もとは金剛寺といい、浄土真宗大谷派に改宗して西福寺というようになったそうです。こちらには、「一度焼かれたともいわれるものの、実際のことかどうか分からない」とありました。

Img_5776c_20220305190801  西福寺には、伊勢三郎の墓所があります。ここ三重郡川島村は、江戸時代初期には亀山藩領であり、藩主の石川昌勝の命によって慶安4(1651)年に、ここに伊勢三郎義盛の墓が作られたといいます。中には宝篋印塔(ほうきょういんとう:宝篋印陀羅尼という呪文を収めた塔。のちに供養塔,墓碑塔として建てられた)が納められています。

Img_5816c Img_5812c_20220305191101  西福寺からさらに西に行った、水田のまん中に伊勢三郎首塚があります。伊勢三郎(?~文治2(1186)年)は、源義経の家来で、四天王の一人。出身は伊勢とも上野(こうずけ:群馬県)ともいわれるようですが、ここの案内板には、「平安時代末期に三重郡郡司・俊盛の子として、菰野町福村に生まれた」とあります。三郎は、通称で、名は能盛とも書きます。戦に敗れて自刃した伊勢三郎の首を家臣の川島村の者が生地に持ち帰り首を埋めたとのことです。

Img_5841c_20220305170601 Img_5834c_20220305170601  伊勢三郎首塚のすぐ北に河島御厨神明神社。川島には、ここ河島御厨神明神社と、御園川島神社の2つの神社があります。こちらは、俗に「東の宮さん」と呼ばれているようです。この河島御厨神明神社は、「御厨」とありますように、伊勢神宮の神領でした。御祭神は、天照大御神建速須佐之男命大山祇神大日孁貴(おおひるめのむち:天照大神の異称)です。

Img_5831c_20220305170601 Img_5828c_20220305170601  ここの拝殿には、江戸時代、3つの算額が奉納されていて、市指定の有形文化財になっています。算額は、数学の問題を解いて、神社仏閣に奉納した絵馬の一種です。このあたりの人たちが、和算を学んでいたことを示しています。左の写真で、向かって右は、もっとも古い寛政2(1790)年のもので、三重県最古だそうです(こちら)。この寛政2年の額には3問が取り上げられ、第1問は『闡微算法(せんびさんぽう)』(武田濟美著、寛永3(1750)年)にある問題を解いたものだそうです。第2問は、菱形に3つの縁を内接させた図形に関するもの、第3問は、直角三角形に5つの縁を内接させた図形に関する問題で、いずれも三平方の定理を繰り返し用いて、解答しているといいます。天保15(1844)年の額は「當社産子 柳川安左衛門」の奉納で出題した問題を門人の「清水中治」が文久4(1864)年に回答したことが裏面に記されているそうです。右の写真で、左から2つ目は、文久3(1863)年の額で、清水貞信が出題したものですが、題意は不明ということです。左端にある新しい算額は、四日市大学関孝和数学研究所が、平成29(2017)年に奉納したものです。「小川粋直門人六名」という名前になっています。6名の方が、1問ずつつくったようで、6問が載っていました。ただし、小生には理解困難。

Img_5848c_20220305170601 Img_5859c_20220305170601  河島御厨神明神社で12時を過ぎた頃。さらに西に行くと、歴明寺などがありますが、今日はここまで。ゴールの近鉄湯の山線・伊勢川島駅に向かいます。丸彦酒造さんの方に戻り、さらに三滝台の住宅団地を通って、伊勢川島駅には、12時45分頃に到着。時刻表を見たら、12時51分に四日市行き普通がありましたので、それに乗車。四日市には12時59分に到着。¥230。

Img_5878c Dsc_6343c  昼食を摂ることとし、南改札口の外にあるうどん・そばの「四日市庵」へ。丸彦酒造さんで試飲を2杯のみ、つまみも食べていましたから、軽くという次第。天ぷらきしめん(¥380)をチョイス。駅ナカのうどん、そばの店はたいていハズレがありません。ここも美味しかった。

Img_5910c_20220305170601  近鉄四日市発13時28分の名古屋行き急行に乗車し、桑名駅には13時40分着。¥300。現地で歩いたのは、6.6㎞。我が家から桑名駅往復が2.2㎞ですから、合計8.8㎞。歩数は、16,026歩。

Img_5854c_20220305170601  余談をいくつか。まずは、先週、伊勢松本駅前にあのKINGと書かれた謎のおじさんロゴがあしらわれた自動販売機を見つけましたが(2022年2月27日:20220227近鉄ハイキング「銘酒『神楽』神楽酒造をたずねて」へ(完)……ほぼ2年ぶりの近鉄ハイキングに参加、オマケはKINGの自販機の話)、今日は、伊勢川島駅前でも発見。テイスターという会社のもの。ヒョッとしたら、近鉄湯の山線の各駅に設置されているのか、という気がしてきました。当てずっぽうですから、確認が必要です。

Img_5585c Img_5592c_20220305170501  余談その2。これは、JR桑名駅の切符売り場の前にありました。国鉄時代に製造されたJR東海の車両が今月、全て姿を消すそうですが、その最後の車両が在来線の211系0代です。昭和から令和(1986~2022年)まで走り抜いたことになります。この車両は、この地方では東海道線、中央線、関西線を走っていて、私も、何度も利用したことがあります。この「惜別」のパネル、亀山駅にも色違いのバージョンがあるそうです。

Img_5596c  次回のウォーキング/ハイキングは、3月中旬に、県内の東海道歩きの続きを予定しています。庄野宿から亀山宿までは見るべきところも多く、ちょっと大変ですので、途中のJR関西線・井田川駅までの見込み。写真は、往きに近鉄桑名駅で見た「かぎろひ」。クラブツーリズムの貸し切り専用列車。近鉄では、引退してしまった特急車12200系を団体専用列車15400系に改造したものです。

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2022年1月 8日 (土)

2021勝手にハイキング記録

 令和3(2021)年も、新型コロナウィルス感染症の蔓延で、近鉄ハイキングやJRさわやかウォーキングはなかなか開催されませんでした。「歩きの虫」と「歴史散歩の虫」がウズウズして堪りませんでしたので、「勝手にハイキング」を8回開催しました。開催というと大げさですが、何ごともそれなりの名前をつけた方がそれらしくなるのです。この記事は、2021年の「勝手にハイキング」のまとめです。実際には、「勝手にハイキング」は4月までとなりましたが、4月9日からは、「東海道・伊勢街道歩いて伊勢参りツアー」を始めたのがその理由。すなわち、「東海道・伊勢街道歩いて伊勢参りツアー」は、「勝手にハイキング」の発展バージョンなのです。

1.2021年2月1日:駅西散歩

2021年2月1日:20210201勝手に養老鉄道ハイキング「桑名駅西歴史散歩」(予告編)

2021年2月3日:20210201勝手に養老鉄道ハイキング「桑名駅西歴史散歩」(その1)……播磨を出発して北別所神明社、高塚山古墳に登るつもりがリタイア、式部泉を通って土佛山聖衆寺へ

2021年2月4日:20210201勝手に養老鉄道ハイキング「桑名駅西歴史散歩」(その2)……秋葉三尺膨大権現、尾畑山城跡、立坂神社旧蹟から円妙寺墓地で松平定良公墓所へ

2021年2月5日:20210201勝手に養老鉄道ハイキング「桑名駅西歴史散歩」(その3)……円妙寺、照源寺から専明寺まで

2021年2月6日:20210201勝手に養老鉄道ハイキング「桑名駅西歴史散歩」(その4)……尾野神社を経て、やっと養老鉄道播磨駅にゴールで「完」

39514a4c 50e82f1c  下調べはしていたものの、日程的には、ほぼ思いつきで出かけてきました。「養老鉄道ハイキング」となったのは、結果論。「くわな史跡巡り」の122~125ページにある「駅西コース:照源寺コース」を参考に、次のようなコースで、現地では6.5㎞を歩きました。播磨郵便局あたりから岸西山の西を通って南下。県道142号線を越えて、北別所神明社、北別所中世墓、高塚第三公園、高塚山古墳(途中で断念)、式部泉あたり、土佛山聖衆寺(右の写真)、立坂神社𦾔跡、円妙寺墓地、大福田寺、円妙寺、東海山照源寺、専明寺、尾野神社と回って、養老鉄道播磨駅にゴール。播磨駅で10分待つと桑名駅行きの電車がありましたので、ここで初めて「勝手に養老鉄道ハイキング」となった次第。桑名駅から自宅が1.2㎞で、合計7.7㎞。歩数は、16,091歩。電車賃は、1駅で¥160。

2.2021年2月6日:桑名の八風街道を行く(能部から志知へ)

2021年2月6日:20210206桑名の八風街道を行く(能部から志知へ)(予告編)

2021年2月8日:20210206桑名の八風街道を行く(能部から志知へ)その1……能部神社、平田御薗神明社、浄光寺、島田城跡

2021年2月9日:20210206桑名の八風街道を行く(能部から志知へ)その2……善教寺、櫛田神社、野村増右衛門の墓から平群神社へ

2021年2月10日:20210206桑名の八風街道を行く(能部から志知へ)その3……揚げ雲雀の鳴き声を聞きながら連敬寺、景清屋敷跡、久米まちづくり拠点施設で「完」

567e5bde 3ed98974  令和2(2020)年12月19日に出かけた「2020年12月19日:20201219桑名の八風街道を行く(東金井から能部へ)」の続きで、桑名の八風街道を、東金井から能部まで歩きました。本来の八風街道は、四日市市富田一色を起点として東海道と交差し、大矢知、平津を経て菰野町田光で巡見道と合流、八風峠を越える道です。桑名では、町屋川右岸の街道を八風街道を呼びます(くわな史跡めぐり)。これは、町屋川右岸の道が田光付近で四日市からの八風道と交わるからとも、桑名の道が昔は八風道と呼ばれていたからと、諸説があります。桑名の八風街道は、桑名市東金井から志知まで約7㎞あります。この日は、桑名西高校行きの八風バスで能部まで行き、能部神社へ。本来の八風道は、能部バス停から西へ行き、赤尾交差点と進みますが、能部神社からそのまま正和台の団地を通り抜け、平田御薗神明社、浄興寺を回って、八風道に戻り、ゼニス羽田のところで島田城跡を眺め、善教寺、櫛田神社、野村増右衛門の墓、久米小学校前から平群神社(右の写真)、平群沢溜池公園、連敬寺、景清屋敷跡まで足を伸ばして、ゴールは久米まちづくり拠点施設。ここにある平群神社前のバス停から八風バスで、桑名駅前まで戻って来ました。現地で歩いたのは、6.5㎞ほど。バス代は、往復で¥760。同級生K氏と二人旅。昼食は、桑名駅コンコースにある伊勢ノ国ダイニングSicili(シチリ)で「とろアジフライランチ(税込み¥980)」。

3.2021年2月27日:美濃街道再び(川口町~下深谷)

2021年2月27日:20210227勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道再び(川口町~下深谷)」(完)

1f7f86ca B331f5af  新型コロナウィルス感染症によって、JRさわやかウォーキングや、近鉄ハイキングが軒並み中止となったため、「勝手に養老鉄道ハイキング」を企画し、桑名の美濃街道を歩きました(20200301勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道を歩く」(川口町~下深谷)(予告編)20200306勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道を歩く」(下深谷~多度)(予告編))。今回、同級生K氏と、昨年と同じルートをもう一度辿ることとし、この日は、川口町から下深谷までを歩いてきました。美濃街道は、七里の渡しから東海道を南へ160mほど下ったところ、川口町と江戸町の間の三叉路が起点となります。ここを9時にスタートし、三崎見附跡、北桑名神社、八丁畷と福島縄手の追分、参宮通、西浄寺、上之輪神社(中江城跡)から、深谷に入って南楽寺、角の地蔵、深江神社、西林寺(北廻城跡)、飛鳥寺と進み、養老鉄道下深谷駅に12時過ぎにゴール。下深谷駅から桑名駅まで養老鉄道で2駅、¥260。昼食は、桑名駅近くの「とんかつ銀座」で「トンカツランチ(¥1,000)」。右の写真は、飛鳥寺からの眺め。

4.2021年3月14日:美濃街道再び(下深谷~多度)

2021年2月27日:2021年3月14日:20210314勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道再び(下深谷~多度)」(完)

9e765b38 Ca665e0a  今回も同級生K氏と二人旅。養老鉄道下深谷駅を9時頃にスタートし、安養寺、法光寺、森大明神社、明光寺、大淀松跡、徳蓮寺(秋篠宮殿下もいらっしゃったお寺)、野志里神社(右の写真)、舟着社、西田家住宅(ここは、前回、コースミスをして見逃したところ)、尾津神社(戸津)、尾津神社(小山)と回って、養老鉄道多度駅に12時45分頃ゴール。現地で歩いたのは、7.9㎞。養老鉄道の電車賃は、往復で¥570。昼食は、桑名駅に戻ってからでしたが、ランチ営業をしているところが少なく、危うくランチ難民になりそうでした。結局、サンファーレにある「なないろ珈琲」で「牛すじカレーランチ」。サラダ、ドリンク付きで¥980。歩数は、20,970歩。

5.2021年3月20日:諸戸水道・駅西を行く

2021年3月20日:20210320勝手にハイキング「諸戸水道・駅西を行く」(予告編)

2021年3月21日:20210320勝手にハイキング「諸戸水道・駅西を行く」……その1(桑名駅東口から徳成農園跡へ)

2021年3月22日:20210320勝手にハイキング「諸戸水道・駅西を行く」……その2(走井山公園、勧学寺から冷水庵へ)【上野神社について追記しました(3/29)】

2021年3月23日:20210320勝手にハイキング「諸戸水道・駅西を行く」……その3(南大山田神社から海善寺を経て桑名駅西口にゴールで「完」)

53ef2622 E2deaea0  「くわな史跡巡り」にあった「諸戸水道・駅西コース」を参考に、“勝手にハイキング「諸戸水道・駅西を行く」”として歩いてきました。スタート&ゴールは桑名駅に設定。桑名駅東口を7時35分に歩き始め、桑名神明社、諸戸水道水源井、養泉寺、諸戸水道貯水池遺構(右の写真)、長禅寺、徳成農園跡、走井山公園・勧学寺、上野御膳水、上野神社、上野墓地、冷水庵、南大山田神社、太夫の大楠、増田神社、西桑名神社、西方城址、西方寺、西方廃寺跡、海善寺と回り、桑名駅西口には10時半に到着。その後、アピタの新光堂によって文庫本を2冊購入して帰宅。現地で歩いたのは、7.2㎞。自宅から桑名駅往復が、3.1㎞でしたので、今日歩いたのは、10.3㎞。歩数は、18,877歩。

6.2021年3月23日:浪漫の明治村

2021年3月23日:20210323勝手にハイキング「浪漫の明治村へ」

1fa50462 B75e0a99  博物館明治村へ行ってきました。天気もよく、風もほとんどなく、絶好のハイキング日和。新型コロナウィルス感染症が蔓延しており、そんなところへ行って大丈夫かという気もしましたが、クルマで往復。明治村は、屋外施設がほとんど。しかも、空いており、3密はほとんどなしという状況でした。実は、令和2年10月7日に「桑名城惣構ツアー」をご案内したとき(「桑名城惣構ツアー」とバードウォッチング少々……キンクロハジロ飛来、サメビタキ(?)も)、その御礼として、明治村の招待券(2021年3月末まで有効)をいただいており、行くチャンスを窺っていたのです。左の写真は、明治村正門。旧制八高の正門を移したもの(旧制八高は、私の母校の前身なので、親しみがあるのです)。右の写真は、聖ザビエル天主堂

848afbb2 F288250b  ちなみに、この日の昼ご飯は、カレーパン。家内が予め調べて、これに決めていたのです。それ故、他に選択の余地は与えられませんでした(微苦笑)。「食道楽のカレーぱん」というもの。1個¥300なり。明治時代にベストセラーになった小説「食道楽(しょくどうらく/くいどうらく)」(村井弦斎による)で紹介している材料・調理法をもとに再現・アレンジしたカレーの入ったカレーぱんだそうです。この日は、明治154年3月23日だそうでした。明治村で歩いた距離は、測定不能。歩数は、13,900歩でした。たぶん7~8㎞を歩いたと思います。

7.2021年3月31日:西別所・蓮華寺を行く

2021年3月31日:20210331“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”(予告編)

2021年4月1日:20210331“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”(その1)……西別所駅をスタートして、延寿院、万機庵跡、照林寺、員弁街道から西別所の八幡神社へ

2021年4月2日:20210331“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”(その2)……山神社、蓮花寺、白山神社・蓮花寺西城跡、蓮華寺東城跡、宇賀神社、宇賀遺跡

2021年4月3日:20210331“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”(その3)……額田神社(増田)、額田神社旧跡、源流寺、額田神社(額田)を経て北勢線在良駅にゴール(完)

89d643c5  陽気もよく、桜も満開のもと、この日は、“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”というテーマで歩いてきました。「くわな史跡めぐり」を参考に自分でコースを組み立てました。三岐鉄道北勢線で西別所駅まで行き、8時半から歩き始め、延寿院、万機庵跡、照林寺、八幡神社と回り、西別所城跡を見るつもりが忘れて、蓮花寺に入りました。山神社、蓮花寺、白山神社、宇賀公園、宇賀神社、さらに増田に行き、増田の額田神社、源流寺、そして、額田神社の氏子の方に教えていただいて額田神社旧跡を訪ねました(増田集会所)。これで在良駅にゴールするつもりでしたが、氏子の方に額田神社(本社)の話も聞きましたので、そちらまで足を延ばし、北勢線在良駅には11時10分ころ到着。ました。現地で7.6㎞を歩き、自宅から西桑名駅までの往復が2.3㎞で、合計9.9㎞。電車賃は往復で¥400。

8.2021年4月22日:長島漫歩

2021年4月22日:20210422勝手に近鉄名古屋線ハイキング「長島漫歩」(予告編)……水辺のやすらぎパークでボタンを楽しむ他

2021年4月23日:20210422勝手に近鉄名古屋線ハイキング「長島漫歩」(その1)……光岳寺、花林院、正敬寺から長島城跡へ

2021年4月24日:20210422勝手に近鉄名古屋線ハイキング「長島漫歩」(その2)……稲荷阿岐波神社、道標、長島水辺のやすらぎパークから花市場に立ち寄り、そのまま歩いて伊勢大橋を渡り「完」

72b0e018  水辺のやすらぎパークにある牡丹園を見に行こうというのが、第一の目的で「長島漫歩」に行ってきました。近鉄で長島駅まで行き、9時55分から歩き始め、光岳寺、花林院、正敬寺と寺を回ったあと、長島城跡である長島中学校、長島中部小学校のところを通り、長島川遊歩道を下って、稲荷阿岐波神社から、水辺のやすらぎパークへ。長島幼稚園のところからなばなの里にある花市場に立ち寄って来ました。河口堰はパス。近鉄長島駅に戻って電車で帰るつもりが、国道1号線の伊勢大橋東詰交差点でこのまま歩いて帰った方が早い、と思い直し、伊勢大橋を渡って帰宅。長島駅から自宅までが7.5㎞。自宅から桑名駅までが1.1㎞で、合計8.6㎞の散歩でした。歩数は、15,273歩。桑名駅から近鉄長島駅まで、普通電車で乗車時間はわずかに4分、料金は210円。

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2021年7月19日 (月)

20210717「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第5回「日永の追分~鈴鹿・神戸」(その2)……鈴鹿市に入り、階段付常夜燈や神戸見附跡を訪ねる

210717oiwake3 Img_3146c  7月17日に行ってきた「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」の第5回その2です。その1では、四日市あすなろう鉄道追分駅をスタートし、内部川を渡って、河原田の町を歩きました。光明山常超院の先で、鈴鹿市に入ります。常超院は県道103号線沿い。そのまま県道を進み善誓寺に立ち寄ったあと、伊勢街道に戻ります。鈴鹿市高岡町を進んでいます。高岡城址にある高岡神社と大福田寺にも行こうと思ったものの、かなり長い階段が見えて、断念。関西線沿いの常夜燈、鈴鹿川を高岡橋で渡って階段付常夜灯へというのが、詳細なコースマップその3。

Img_3150c_20210717171201 Img_3154c_20210717171201  鈴鹿に入って最初の立ち寄り先は、善誓寺。臨済宗妙心寺派のお寺。近鉄ハイキングの時にも立ち寄ったのですが、記事では言及していません(2019年4月11日:20190411近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅3日目~東海道、旅人気分で四日市宿から伊勢路へ」(予告編))。平成30(2018)年の台風21号で大きな被害を受けたようで、山門、本堂、鐘楼とも立ち入らないようにという注意書きがありました。由緒のあるお寺と思うのですが、荒れているのはとても残念。ネット検索では詳しい情報は出て来ません。

Img_3162c_20210717171201  善誓寺の先では、JR関西線沿いを歩きます。この北にJR河原田駅があります。この駅で、関西線と伊勢鉄道線が別れ、伊勢街道は2つの路線の間を進んでいます。ちょうど、伊勢鉄道線を名古屋行きの快速みえが走っていきました。伊勢鉄道は河原田から津までの路線。関西線の名古屋方面と紀勢本線の津以南を短絡するため、昭和48(1973)年9月に国鉄伊勢線として開業したのですが、昭和62(1987)年3月から第三セクター「伊勢鉄道」に継承されています。特急「南紀」や快速「みえ」がここを通っています。

Img_3164c_20210718194501  関西線沿いに右手に「大泉源之助翁彰功碑」があります。これについてネットで検索すると、「大泉式稲作法(大泉源之助著、大正8(1919年、神戸町(三重県)」という本が出て来ました(こちら)。この著者の顕彰碑かと思うものの、確証はありません。

Img_3171c_20210718194901 Img_3178  県道103号線をくぐったところに高岡神社の社号標。その西、JR関西線の踏切の手間に、高岡神社の一の鳥居。大福田寺(臨済宗東福寺派)、高岡神社に立ち寄ろうと思ったものの、河原田神社と同じく、かなり階段を登っていかないといけないことが判明。断念しました(苦笑)。ここは、高岡城址。高岡城は神戸城の北の支城として築かれた城で、神戸城主・神戸友盛の家老、山路弾正種常が城主をつとめ、永禄10(1567)年と翌年の2度にわたって北伊勢に侵攻してきた織田信長の軍勢に攻められたものの、落城しませんでした。その後、三男・織田信孝の養子を条件に両者は和睦しました。その後、謀反の企てなどがあったのですが、失敗に終わり、信孝の異母兄弟にあたる小島兵部が城主となっています。本能寺の変後に、信孝が岐阜城主になると兵部は神戸城へ移り、廃城となり、現在は、城址の一部が「高岡城跡公園」として整備されており、わずかに土塁や空掘が残っているといいます。

Img_3181c_20210718195301  その先、JR関西線沿いに常夜燈が見えます。これは、寛政11(1799)年に建立されたもの。このあと渡る高岡橋の北詰にあったもののようで、江戸から寄進されたと伝わっています。

Img_3192c_20210717171201 Img_3199c_20210718195501  高岡橋で鈴鹿川を渡ります。江戸時代には、この高岡橋あたりは、嘉永6(1853)年に無銭渡しの木橋がかけられるまでは、橋はなく、大変不便であったといいます。橋は、現在の高岡橋よりも少し西(上流側)にあったようです。ほとんど余談ですが、高岡神社の一の鳥居当たりから、この高岡橋を渡ったところまでは、ウグイスがたくさんいて、あちこちで鳴いていました。右の写真は、高岡橋の下流側。

Img_3213c_20210717171201 Img_3202c_20210717171201  高岡橋を渡って、スタートから5.5㎞ほどのところに常夜燈。この常夜燈には、点火用の階段がついています。「太神宮常夜燈」「国土安穏」などと刻まれています。文化4(1807)年の建立。点火用の階段がついた常夜燈は、ここでしか見た記憶がありません。階段部分は傷んでしまったようで、平成11(1999)年に修復されています。「平成十一年十月吉日修復 大泉源之」とありました。平成の世の中になっても、こういうものを修復してくださる奇特な方がいたんだと感激しました。

Img_1390c  これを書いていて、思いついたのですが、先の顕彰碑は「大泉源之助」さんのもの。同じ名字ということは、修復した「大泉源之」さんは、「大泉源之助」の子孫なのでしょうか?(勝手な推測で、たまたま同じ名字の他人かも知れません)。この写真は、平成31(2019)年4月11日の撮影。

Img_3219c_20210717171201 Img_3231c_20210717171301  常夜燈のところから下って、高岡の町に入っていきます。「みえの歴史街道」の伊勢街道のマップの説明には、このあたりは「古代条里制の面影が残り、一直線に進んでいる」という説明があります。条里制とは、7~8世紀頃、全国的に平野部を区画した地割のこと。幅六町(約654メートル)の直交する条と里(り)によって、大区画を作り、これで囲まれた正方形の各辺を六等分した幅一町の線で面積を36等分します。この一辺一町の小区画が面積一町で、これをさらに長地形、半折形に10等分して一段になります。

210717oiwake4  詳細なコースマップはその4。十宮に入ると常夜燈があり、7㎞を過ぎたところには、神戸見附跡。その東に阿自賀神社社号標、すぐのところに旅館加美亭があります。

Img_3237c  スタートから6.6㎞、十宮(とみや)に入ったところに常夜燈。文化14(1817)年に建立されたもの。大正9(1920)年に再建されています。十宮村三軒屋の入り口にあります。ここで、同行のK氏が、「常夜燈の内側はどうなっているんだろう?」といいます。確かに、疑問。この記事を書くに当たって、ネットでいろいろと調べて見たら、台座のところは、外側は石が並べられていますが、もともとは砂が詰められているようでした(たとえば、常夜燈の据付直し工事 | 山本石材の近状報告ブログ)。現代、修理するときは、台座の内部はコンクリートで埋め、石の継ぎ目はボンドで貼り付け、目地はモルタル仕上げになるようです。

Img_3242c_20210717171301 Img_3245c_20210718202101  神戸(かんべ)見附跡。伊勢街道の両側に土塁と石垣を築いたものが残っています。ここが神戸宿の入り口。町の治安を守るために番人がいて、夜間遅くには木戸を閉じて通行を禁じたといわれています。

F5d81910 Img_3254c  明治2(1869)年の絵図にこの見付の様子が描かれています。絵図では、上が神戸の町。石垣が両側にあり、両開きの木戸が描かれています。街道の両側の石垣には木戸の柵を支えた溝が今も残っています(右の写真)。

Img_3269c_20210718204301  東側の土塁・石垣の傍らには、阿自賀神社社号標があります。「式内阿自賀神社 距此凡三町」とありました。明治2(1869)年建立。阿自賀(あじか)神社は、鈴鹿市須賀一丁目に現在もあります。距離がありましたので、行ってはいませんが、主祭神は品陀和気命、創建は建暦2(1212)年3月以前と考えられています。

Img_3273c_20210717171301  神戸見附跡で12時15分。ここまで休憩を取ってきませんでしたので、小休止。見附跡の西側は小公園になっていて、桜並木があり、ちょうど日陰になっていて、座れます。見附跡の西側の土塁が目の前にあり、またもやK氏から「土塁はどうやって作ってあるんだろう?」と。土塁は、もちろん「土を盛り上げて築いたとりで」。敵などの侵入を防ぐために築かれた、主に盛土による堤防状の防壁です。「城のつくり方図典(三浦正幸著)」によれば、平地に土塁を築く場合には、当然、よそから土を運んでこなければなりません。この神戸見附跡の場合、どのようにしたかは分かりませんが、城に土塁を作る場合、ほとんどの場合、土塁の横に堀を掘りますから、堀を掘った拝土を盛ったそうです。土塁の法面を保護するためには、草を植えるか、叩き固めるかの2つの方法があります。臨戦態勢では、叩きの方が堅固ですが、ひと雨降るごとに修復が必要になるので、やむを得ず草を植えたといいます。叩き土塁を築くには、厚さ数センチずつ層状に土砂を盛り上げ、各層ごとに叩き固める「版築(はんちく)」という工法が用いられました。この工法でつくって、乾燥すると大変強固な地盤となるそうです。土塁に植えられた草は、芝・小笹・麦門冬(ばくもんどう:ジャノヒゲまたはリュウノヒゲ)などが多かったといいます。余談が過ぎましたが、ここで30分ほど休憩。風がよく通って、暑かったものの、気持ちよいところでした。

Img_3279c_20210717171301  神戸見附跡のすぐ先、西側に、旅館加美(かみ)亭。創業250年以上のようです。主屋は明治13年に建てられたものですが、内部は、その後何度も改装されたそうです。今も営業しており、1泊4,000円。神戸は、十日市町(現神戸2丁目)が中心で、本陣や問屋もそこに集中していました。幕末には旅籠は19軒あり、常磐町(現神戸8丁目)に14軒もあったといいます。賀美亭は、当時は「紙屋」という屋号だったといいます。こちらに実際に泊まった方のブログ記事があります。

 ゴールは近いのですが、キリも良いので、その2はここまで。その3では神戸の町を歩きます。

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2021年5月 9日 (日)

20210508「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第3回「富田~四日市」(その1)……近鉄富田駅をスタート、明治天皇御駐輦跡碑、善教寺、薬師寺、常照寺、新設用水道碑・力石、證圓寺から茂福神社と茂福城跡に立ち寄り

 5月8日の「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」、第3回「富田~四日市」の本編その1です。桑名のアメダスでは、最高気温22.9℃、晴れあるいは薄曇りで、歩くのにはちょうどよい気候でした。近鉄富田駅をスタートし、東海道を歩いて近鉄四日市駅まで。この日で3回目でしたが、七里の渡し跡から伊勢神宮内宮までは、東海道・伊勢街道だけでも約94㎞あります。まだまだ15㎞地点。先は長いのですが、急ぐ旅ではありませんから、ユルユルと参ります。

210508tomida0  こちらがコースの全体マップ。立ち寄り箇所は割愛したところもあります。近鉄富田駅を8時50分にスタートし、東海道に入ってすぐに明治天皇御駐輦跡碑、善教寺、薬師寺、常照寺、新設用水道碑・力石、證円寺と回ります。その後、茂福神社と茂福城跡へ寄り道。東海道に戻って、八幡常夜燈、八幡地蔵堂・八幡神社跡、かわらずの松。光明寺、金場延命地蔵を眺めて多度神社で小休止(というには長く50分ほど)。三ツ谷一里塚跡を見て海蔵川を渡り、法泉寺。さらに三滝川を越えて、旧四日市宿の中心部へ。空襲で昔の建物は焼失してしまっています。建福寺、陣屋跡、本陣跡、問屋場跡、札の辻、道標。このあたりから諏訪神社のところまで、短い区間ですが、昔の街道は失われています。諏訪神社からスワマエ商店街を出たところで、今日のコースは終了。昼食を摂って(1時間)、ゴールの近鉄四日市駅へ。14時30分にようやく到着(笑)。現地で歩いたのは、8.8㎞。

210508tomida1  詳しいマップその1。近鉄富田駅東口から南東へ200mで東海道に入ります。富田地区市民センターに道標、続いて富田小学校の敷地内に明治天皇御駐輦跡碑。十四川の畔に善教寺、その先に常夜燈、薬師寺、常照寺と寺が続き、東海道が鉤型に曲がるところに新設用水道碑・力石があります。その裏手が證円寺。證円寺を出たところに服部泰次郎の道標。街道沿いに茂福神社の社五俵があり、寄り道することに。いったん東海道を離れ、茂福神社と茂福城跡に立ち寄って来ました。

Img_4996c_20210509200201  富田地区市民センターの敷地に道標が1基。「左 富田一色 東洋紡績 川越村 道」とあります。大正6(1917)年10月に建立されたもの。富田一色(現四日市市富田一色町)や川越村(現三重郡川越町)のほかに東洋紡績という当時全国一の生産量を誇る紡績会社の名が刻まれています。三重紡績(明治19(1886)年6月創設)と大阪紡績(明治15年(1882)5月創設)とが、大正3(1914)年に対等合併して東洋紡績株式会社になっています(現在の東洋紡)。東洋紡績富田工場は、東洋紡績の最大規模の工場でしたが、現在は、イオンモール四日市北店や、住宅地、四日市松原郵便局などになっています。

Img_4993c_20210509074201 259463ca_20210509074501  富田地区市民センターには「富田の焼き蛤」という説明板があります。焼き蛤といえば、桑名というイメージですが、実は、東海道の小向(おぶけ:初回に歩いた朝日町にあります)や、ここ富田で売られていました。小向、富田は江戸時代、桑名藩領でしたので、「桑名の焼き蛤」として有名になったと書かれています。四日市市立博物館の時空街道には、焼蛤屋が再現されています(右の写真)。当時は、松葉や松かさであぶっていました。

Img_5003c_20210508165901 Img_5007c_20210509200301  市民センターの隣、市立富田小学校の敷地内には、明治天皇御駐輦跡碑があります。「駐輦(ちゅうれん)」とは、天皇が行幸の途中で車を止め、お休みになること。つまり、このあたりで明治天皇がお休みになったことを示すのがこの碑。明治天皇は、富田茶屋町・広瀬五郎兵衛という方のところで4度休まれました。明治元(1868)年9月、東京に向かわれたとき、同年12月京都に戻られるとき、明治2(1869)年3月、神器を奉じて東京に遷都されるときなどの4回です。広瀬五郎兵衛宅は、この富田小学校正門から富田地区市民センターあたりにあったそうです。最初の時には、焼き蛤をご賞味になったこともあったと説明板に書かれていました。なお、記念碑は、公爵・近衛文麿の筆です。

Img_5054c_20210509200601  少し行くと、十四川に行きあたります。富田の町を西から東に流れています。ここは、桜の名所。桜並木が川の両岸に約1.2㎞にわたって続き、800本のソメイヨシノが植えられています。大正12(1923)年、地元で製網業を営んでいた伊藤勘作他の有志が植樹したのが始まりだそうです。

Img_5048c_20210509200601 Img_5028c_20210508165901  十四川を渡る手前、東側に成徳山善教寺(じょうとくざんぜんきょうじ)。真宗高田派のお寺。ご本尊は、阿弥陀如来。このご本尊は、国の重要文化財に指定されています。作善日記から仁治2(1241)年正月頃に造られたと考えられています。本堂は大変立派です。真宗高田派の本山である専修寺の如来堂を模していると説明板にありました。その昔、このあたりまで海岸線が来ていたことから「海戸尻(かいとじり)」と呼ばれていたといいます。ここに「海戸尻道場」があり、これが善教寺の前身であったそうです。

Img_5044c_20210509200601  こちらが善教寺の宝物殿。重要文化財に指定された木造阿弥陀如来立像と、その像内納入文書が収められています。阿弥陀様は、高さ79㎝の桧材寄木造りで、玉眼と漆箔が施されているそうです。像内納入文書は、修復のときに発見され、阿弥陀経などの御経の他、作善願文、作善日記など。

Img_5058c_20210509201501 Img_5064c_20210509201701  十四川を渡ったところに常夜燈。「氏子中」とはありますが、神社のものではなく、街道の常夜灯という説明があります。桑名の七里の渡しから伊勢まで、伊勢神宮へ導く光であったと書かれていました。天保10(1839)年の建立。常夜灯は近くにもう1基あったとそうですが、それは鳥出神社(四日市市富田2丁目)に移されています。街道沿いには、連子格子のある民家があちこちにあります。

Img_5069c_20210509201801 Img_5075c_20210508165901  スタートから1㎞の手前に薬師寺。浄土宗のお寺で、ご本尊は、阿弥陀如来。大同年間(806~810年)、この地に疫病が流行し、人々が苦しんでいたことを旅の途中で知った弘法大師が、薬師如来を彫って開眼すると、人々の難病はたちまち平癒したので、人々は弘法大師に感謝するとともに、薬師堂を建て薬師如来を祀ったことに始まるといいます。その後、茂福城主であった朝倉下総守盈盛(みつもり)が菩提寺としたそうです。しかし、永禄10(1567)年、瀧川一益の兵火で焼失しています。ちなみに、ここは尼寺。

Img_5065c_20210509201801  薬師寺の門前には、忠魂碑や慰霊塔が4基建っています。中央右にある忠魂碑は、帝国在郷軍人会富田町分会によって大正4(1915)年11月に建立されています(こちらのブログ)。中央左の慰霊塔の方は、大東亜戦争殉国士慰霊塔で、富田地区遺族会が建てたもの。4基ともの説明は、「いのりむし文庫」さんのブログ記事にありました。こちらをご参照ください。

Img_5089c_20210509202701 Img_5092c_20210508165901  薬師寺からほど近いところに光明山常照寺。浄土真宗本願寺派。四日市市茂福(もちぶく)町になります。天文7(1538)年、釈法導によって開山され、寛文年間(1661~1673年)にそれまでの天台宗から浄土真宗本願寺派に転派しています。詳細は、調べたものの分かりませんでしたが、本堂は明治42(1909)年に再建され、鐘楼・山門は明治の末に建てられたといいます。平成7(1995)年11月本堂・鐘楼の屋根の修復が行われたようです。

Img_5104c Img_5107c_20210509202701  鐘楼の鐘は、昭和27(1952)年の四日市大博覧会で「平和の鐘」として展示されたものです。ちなみに、「四日市大博覧会」は、2回開かれており、昭和27(1952)年のものは、「講和記念全日本農機具新日本産業大博覧会」です。この博覧会については、三重県のサイト「歴史の情報蔵」のこちらのページに言及があります。ちなみに、もう一つの「四日市大博覧会」は、「国産振興四日市大博覧会」で、昭和11(1936)年3月25日から同年5月13日までの50日間開かれました。この鐘の池の間(いけのま:梵鐘の部分の名。鐘身の中央部で、乳の間(ちのま)と中帯(なかおび)の間にあり、銘などが刻まれています)には、常口(じょうこう)の歌「一筋に世界の平和祈りつつつくやこの鐘永久に(とわに)ひびけと」が刻まれています(「常口は、調べたものの不明)。

Img_5100c  いささか余談ですが、この寺の山門から本堂に行くところにおもしろいものがありました。写真のように、石臼と思われるものが一列にはめ込まれているのです。それぞれに摺石の模様が異なっていて、楽しめます。

Img_5137c_20210509203801 Img_5112c_20210508165901  東海道は、常照寺のところで鉤型に曲がりますが、そこに新設用水道の碑と力石が2つあります。右の写真が「新設用水道碑」と力石。「新設用水道碑」は、新設された用水道を記念する碑。ここから北西に十四川から七丁(760m)の暗渠による水路を通し、各家の敷地内にマンボ(人工の地下水路、一般名はカナート。東海地方での呼称のようです。三重県北勢地方でもよくあります。「間風」、「間歩」、「万堀」などと表現)を設置して生活用水や防火用水として、明治37(1904)年から昭和中期まで利用したといいます。昭和34(1959)年の伊勢湾台風の水害で使えなくなり、この用水道は消滅しました。碑の右には、「水源地是ヨリ七町」とあります。

Img_5120c  力石(ちからいし)は2つあります。約32貫(約120㎏)と、約5貫(約19㎏)の2つ。明治の半ば、このあたりの2つの寺のお堂を再建する際に土台石として奉納されたもの。お堂の地築(地固め)に近郷在住の人々が奉仕に集まったのですが、土台石からこれを選んで、休憩時間に力比べに使ったといいます。大正の終わりごろまでこの石で力比べをして競ったといいます。肩越しまで担ぎ上げた人は幾人もなかったそうです。大きい方には、「三十三メ」と刻まれています。小さい方は、子ども用かと説明されています。

Img_5149c_20210509204201 Img_5152c_20210508165901  新設用水道碑と力石の裏手(山門は、旧・東海道を曲がったところ)にあるのが、林光山證圓寺(りんこうざんしょうえんじ)。当初は天台宗でしたが、天文年間(1532~55年)、住職が真宗本願寺の第10世證如上人に帰依して改宗したと伝わっています。その後、永禄10(1567)年、茂福掃部輔盈豊(もちぶくかもんのすけみつとよ)は裏切りを疑われ、滝川一益に長島城に呼ばれて謀殺されました。茂福城が落城すると、臣・林玄證(はやしげんしょう)は盈豊の遺児を敵から隠し、鍋坂の村中に逃れて密かに養育し、成人の後、自身の娘と娶せて家督を譲っています。遺児すなわち林三郎左衛門盈景(みつかげ)とその末裔はこの證圓寺の住職になります。

Img_5164c  境内には「第二十三代御門主御巡教記念樹」と刻まれた石柱があります。真宗本願寺派第23代門主は、大谷光照(おおたに こうしょう:明治44(1911)~平成14(2002)年)。

Img_5170c  證圓寺を出たところの角に小さな道標がありました。東海道に面した側には「左 四日市 服部泰……」、向かって右には「右 いかるが」とあります。これは、服部泰次郎による道標。「いかるが」は「伊賀留我」で、ここから北西に1.5㎞あまり行ったあたり。北伊賀留我神社や、南伊賀留我神社、さらにその近くには、天武天皇迹太川御遙拝所跡もあります。服部泰次郎は、安政元(1854)年に小杉村で生まれ、10代半ばから小間物や雑貨を天秤棒で担いで行商に歩きました。29歳の頃には米穀商となり、近郊で買い集めた米を四日市港から横浜に船で送り伊勢米の販路を拡大しています。日清・日露戦争の際には軍用米の取扱業者となるなど、県下屈指の米穀商となりました。大正8(1919)年3月、行商をしていた頃に道がわからなくて苦労した経験から、予ねて念願の道標建立を三重郡役所に申し出て、北勢地方に多数の道標を建てています。服部の道標は、集落の辻に立てられ、その行き先の多くは隣の集落への道筋を示し、ほとんどが地名を刻んでいます。集落に住む人々が日常通っている間道を、遠来の人に教えることを目的としたものといわれています。明治、大正の頃に成功した人たちは、服部泰次郎のように、皆を助けるという貢献をしています。共助というのでしょうか、いつの間にか忘れられているような気がします。

Img_5182c_20210508165901 Img_5192c  證圓寺から200m弱のところに茂福(もちぶく)神社の石柱があります。神社はここから北西にさらに200mほど入ったところにあります。ちょっと迷ったものの、せっかくだからと茂福神社に立ち寄ることにしました。東海道からはいったん離れます。創祀は永禄10(1567)年以前とされます。明治28(1895)年4月茂福神社と改称されるまでは天王社と称されていました。明治42(1909)年、鳥出神社に合祀されたものの、昭和25(1950)年、分祀され現在に至っています。主祭神は、建速須佐之男命。相殿神は、天照大御神、保食神、猿田彦命、大山祇命、大宮能売命、上筒男命、中筒男命、底筒男命。茂福城主であった茂福掃部輔盈豊も祭祀に関わっていたそうです。

Img_5195c_20210508165901 340257b9  茂福神社の100mほど西には、茂福城跡。近鉄名古屋線の線路脇に小さな土壇と石碑が建てられています。電車から、右のような看板が見えます(2017年12月23日撮影)。城跡を標示する石柱と最後の城主・茂福盈豊(みつとよ)の碑が建てられています。この碑文によると、貞冬という人物が越前朝倉氏のもとにいましたが、応永年間(1394~1428)の乱を避けて当地に移り、地名に因んで茂福氏を名乗ったとされます。「伊勢軍記」によれば、永禄3(1560)年に茂福氏は羽津城の田原氏と合戦に及び勝利したのですが、その7年後に城主朝倉盈豊は、長嶋で織田信長の家臣である瀧川一益に謀殺されました。その際、斬られた主人の首を家臣の小川宗春が奪い取り、朝明郡保々(朝倉氏の本拠地)に葬ったといわれます。この時の戦いで茂福城は落城したとされます。

Img_5225c_20210509210501  東海道に戻って、茂福神社の社号標の少し先で、県道64号上海老茂福線の高架橋をくぐります。ここで約2.8㎞。この道路は、以前は、富田山城有料道路(とみだやまじょうゆうりょうどうろ)といい、東名阪自動車道の四日市東ICと国道1号線を結んでいましたが、平成8(1996)年に無料化されています。ここまでが、実測ルートマップその1の範囲で、切りがよいので、その1はここまで。

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2021年5月 8日 (土)

20210508「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第3回「富田~四日市」(予告編)

Img_4989c_20210508165901  今日は、4月25日に引き続いて(2021年4月25日:20210425「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」……第2回「朝日~富田」(予告編))、「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」の第3回として、近鉄富田駅から近鉄四日市駅までを歩いてきました。桑名のアメダスでは、最高気温22.9℃、晴れあるいは薄曇り で、歩くのにはちょうどよい気候でした。今日のところは、予告編です。桑名駅を8時42分に出る松阪行き急行に乗車。近鉄富田駅には、8時49分着。¥260。8時52分にスタート。

210508tomida0  こちらが、今日のコースマップの全体図。近鉄富田駅をスタートし、南東へ200mあまり行ったところが東海道。ここを右折。明治天皇御駐輦跡碑、善教寺、薬師寺、常照寺、新設用水道碑・力石、証円寺と来たところで東海道は、左折し、すぐ右折。その後、茂福神社と茂福城跡へ寄り道。東海道に戻って、八幡常夜燈、八幡地蔵堂・八幡神社跡、かわらずの松。このあたりは羽津。光明寺、金場延命地蔵を眺めて多度神社で小休止(というには長く50分ほど)。三ツ谷一里塚跡を見て海蔵川を渡り、法泉寺。さらに三滝川を越えて、旧四日市宿の中心部へ。空襲で昔の建物は焼失してしまっています。建福寺、陣屋跡、本陣跡、問屋場跡、札の辻、道標。このあたりから諏訪神社のところまで、短い区間ですが、昔の街道は失われています。諏訪神社からスワマエ商店街を出たところで、今日のコースは終了。昼食を摂って、ゴールの近鉄四日市駅へ。14時30分にようやく到着(笑)。現地で歩いたのは、8.8㎞。

Img_5003c_20210508165901 Img_4993c_20210508165901  東海道に入ってすぐ、市立富田小学校の敷地内に「明治天皇御駐輦(ちゅうれん)跡碑」。「駐輦」とは、天皇がお休みになること。明治天皇は、4度この地で休まれたといいます。富田茶屋町・広瀬五郎兵衛という方のところです。広瀬五郎兵衛宅は、この富田小学校正門から富田地区市民センターあたりにあったそうです。焼き蛤をご賞味になったこともあったと説明板に書かれていました。なお、記念碑は、公爵・近衛文麿の筆です。「その手は桑名の焼き蛤」で有名な桑名の焼き蛤ですが、初回にあるいた朝日町小向(おぶけ)や、ここ富田あたりでも焼いて、売られていました。富田までは、旧桑名藩領でした。

Img_5028c_20210508165901  十四川の手前、東側に成徳山善教寺(じょうとくざんぜんきょうじ)。真宗高田派のお寺。ご本尊は、阿弥陀如来。このご本尊は、国の重要文化財に指定されています。作善日記から仁治2(1241)年正月頃に造られたと考えられています。本堂は大変立派です。真宗高田派の本山である専修寺の如来堂を模していると説明板にありました。

Img_5075c_20210508165901  十四川からほぼ300mのところには、薬師寺。浄土宗のお寺で、ご本尊は、阿弥陀如来。大同年間(806~810)、この地に疫病が流行し、人々が苦しんでいたことを旅の途中で知った弘法大師が、薬師如来を彫って開眼すると、人々の難病はたちまち平癒したので、人々は弘法大師に感謝するとともに、薬師堂を建て薬師如来を祀ったことに始まります。その後、茂福城主であった朝倉下総守盈盛(みつもり)が菩提寺としたそうです。しかし、永禄10(1567)年、瀧川一益の兵火で焼失。ちなみに、ここは尼寺。

Img_5092c_20210508165901  光明山常照寺。浄土真宗本願寺派のお寺。ここは、四日市市茂福町になります。天文7(1538)年、釈法導によって開山され、寛文年間(1661~1673)にそれまでの天台宗から浄土真宗本願寺派に転派しています。本堂は明治42(1909)年に再建され、鐘楼・山門は明治の末に建てられたといいます。平成7(1995)年11月本堂・鐘楼の屋根の修復が行われたようです。鐘楼の鐘は、昭和27(1952)年の四日市大博覧会で「平和の鐘」として展示されたものです。

Img_5112c_20210508165901  東海道は、常照寺の先で鉤型に曲がりますが、そこに新設用水道の碑と力石が2つあります。「新設用水道碑」は、新設・用水道・碑で、新設された用水道を記念する碑。ここから北西に十四川から七丁(760m)の暗渠による水路を通し、各家の敷地内にマンボ(人工の地下水路)を設置して生活用水や防火用水として、明治37(1904)年から昭和中期まで利用したといいます。昭和34(1959)年の伊勢湾台風の水害で使えなくなり、この用水道は消滅しました。力石は2つあります。約32貫(約120㎏)と、約5貫(約19㎏)の2つ。小さい方は、子ども用かと説明があります。

Img_5152c_20210508165901  その先で東海道はすぐに右折。角には、林光山證圓寺。当初は天台宗でしたが、天文年間(1532~55年)、住職が真宗本願寺の第10世證如上人に帰依して改宗したと伝わっています。その後、永禄10(1567)年、茂福掃部輔盈豊(もちぶくかもんのすけみつとよ)は裏切りを疑われ、滝川一益に長島城に呼ばれて謀殺されました。茂福城が落城すると、臣・林玄證(はやしげんしょう)は盈豊の遺児を敵から隠し、鍋坂の村中に逃れて密かに養育し、成人の後、自身の娘と娶せて家督を譲っています。遺児すなわち林三郎左衛門盈景(みつかげ)とその末裔はこの證圓寺の住職になります。

Img_5182c_20210508165901 Img_5189c_20210508165901  スタートから1.7㎞のところに茂福神社(もちぶくじんじゃ)の社号標があります。神社はここから北西にさらに200mほど入ったところにあるのですが、せっかくだから寄り道することに。茂福神社の創祀は永禄10(1567)年以前とされます。明治28(1895)年4月、茂福神社と改称されるまでは天王社と称されていました。明治42(1909)年、鳥出神社に合祀されたものの、昭和25(1950)年、分祀され現在に至っています。主祭神は、建速須佐之男命。茂福城主であった茂福掃部輔盈豊も祭祀に関わっていたそうです。

Img_5195c_20210508165901 340257b9  茂福神社の100mほど西には、茂福城跡。近鉄名古屋線の線路脇に小さな土壇と石碑が建てられています。電車から、右のような看板が見えます(2017年12月23日撮影)。城跡を標示する石柱と最後の城主・茂福盈豊(みつとよ)の碑が建てられています。この碑文によると、貞冬という人物が越前朝倉氏のもとにいましたが、応永年間(1394~1428)の乱を避けて当地に移り、地名に因んで茂福氏を名乗ったとされます。「伊勢軍記」によれば、永禄3(1560)年に茂福氏は羽津城の田原氏と合戦に及び勝利したのですが、その7年後に城主朝倉盈豊は、長嶋で織田信長の家臣である瀧川一益に謀殺されました。その際、斬られた主人の首を家臣の小川宗春が奪い取り、朝明郡保々(朝倉氏の本拠地)に葬ったといわれます。この時の戦いで茂福城は落城したとされます。

Img_5226c_20210508165901  茂福城跡から東海道に戻り、県道64号上海老茂福線の高架橋をくぐり、500mほど行った米洗川(よないがわ;上流に天武天皇迹太川御遙拝所跡があります)の手前に八幡常夜燈があります。旧東海道を往来する人々のためのものですが、現存のものは明治35年に建てられたといいます(こちら)。南側には、「南大神宮」と刻まれています。かなり大きな常夜燈です。このあたりでスタートから3.2㎞。時刻は、10時10分。あちこち見て回っていますので、かなりのスローペース。

Img_5246c_20210508165901 Img_5257c_20210508165901  米洗川を渡った先には、八幡地蔵堂と、伊勢国八幡神社跡。お地蔵様は、延命地蔵尊で、このあと見る金場延命地蔵尊と同じ一つの石から作られた兄弟地蔵で、もとは羽津村の南北の入口(この地蔵は北の入口)に置かれ、村内に疫病が入り込まないようにするための「結界地蔵」といわれるものであったといいます。昔は、米洗川北側の常夜燈(上記の常夜燈と思います)の向かい辺りにあったのが、昭和4年(1929年)に、八幡地区の住民によって現在地に移設されたそうです(こちら)。八幡神社は、明治41(1908)年に志氐神社に合祀されています。石柱には「伊勢国八幡神社碑」と刻まれ、往時を偲ぶよすがとなっています。

Img_5265c_20210508165901  スタートから3.7㎞地点には、かわらずの松。昔の松並木の名残である松の木です。このあたりが「川原須(かわらず)」という地名であったことから、こう名づけられています。樹齢200年を優に超えるようです。松並木は、道路の拡幅と、松食い虫の被害を受けてほとんどなくなってしまい、今残っているのは、この1本だけになっています。

Img_5303c Img_5299c_20210508165901  4㎞を過ぎたところに志氐(しで)神社の一の鳥居。志氐神社は、ここから北西へ400mほど入ったところにあります。主祭神は、気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ;祓戸の神(ハラエドノカミ)ともいい、祓を行う場所の神)。創祀年代は詳らかでありませんが、社記では第11代・垂仁天皇の頃といいます。志氐神社には行きませんでしたが、この鳥居の前に「妋石(みよといし)(夫婦石)」があります。志氐神社には、イザナギ・イザナミも祀られていて、縁結び・夫婦円満のご神徳があるということから、東海道を行き交う多くの旅人は、この夫婦一対みよと石をなでて縁結び・夫婦円満の願いを込めたといいます。石は、鳥居のところに1つ、道を挟んだところにもう1つあります(右の写真は道を挟んだ東側にあるもの)。

Img_5307c_20210508165901  志氐神社社号標からすぐ先(100mあまり)には、初野山摂護殿光明寺(はつのざんしょうごでんこうみょうじ)があります。真宗本願寺派のお寺。元は大矢知村青木谷にあったといいます。弘仁年間(810~824年)に空海が諸国を巡回した時に、小堂を建てたのが始まりと伝わっています。寛正元(1460)年に、下野国高田の専修寺第10世眞慧上人が諸国巡化の際、最初に近江国坂本の妙林院(浄土真宗寺院。真慧が専修寺の出張所として創建したものの、廃絶。跡地不明)から光明寺に来錫し、約1年間在住して付近を教化した時に、当時の住職が改宗して浄土真宗高田派に転じたといいます。享禄年間(1528~1531年)に、羽津城主赤堀左京大夫盛義(宗昌)が出家して光明寺に入り善願と名乗り、現在地に寺を移して初野山青木堂光明寺と称しました。天正年間(1573~1591年)に京都興正寺の勧めにより、高田派から本願寺派に転じたとされます。寛文3(1663)年2月、雷により堂宇、宝物、記録等一切を焼失し、創建の年月、開基の事蹟、中古世代住職名等すべて不明になりました。

Img_5334c_20210508165901  境内には、森多三郎紀念碑とその墓碑があります。文久元(1861)年、桑名藩が過酷な年貢米の増徴を命じたのに対し(当時の藩主は、松平定敬)、これを阻止しようと、羽津村組頭(村方三役の一つで、名主、庄屋を補佐する役目)であった森多三郎ら17名が先頭に立って藩に抵抗しました。その結果、藩は年貢の増徴を断念することになったのですが、その後、多三郎は桑名藩庁に呼ばれて安永の料理屋に行き、毒酒を飲まされ、帰途、この光明寺までたどり着いたところで絶命したと伝えられています。この碑は、当時の羽津村の肝煎、組頭、小前惣代が藩の譲歩を勝ち取った記念に立てたもので、紀念碑の前には、「釋浄諦信士」と刻まれた森多三郎の墓碑が建てられています。

Img_5351c_20210508170001  光明寺からすぐに東海道は、左折、右折を繰り返し、国道1号線に出ます。海蔵橋の手前までは東海道と国道1号線は同じルート。その途中、国道の東側に金場延命地蔵があります。交通量が多いので、西側の歩道から写真を撮ったのみですが、ここの地蔵は、八幡地蔵堂の地蔵と兄弟地蔵。もとは、羽津の東海道の南端、二重川(ふたえがわ)にかかる堺橋のたもとの堤(今の金場町交差点付近)にあったのですが、昭和48(1973)年、市道拡幅工事にともない、ここに移転しています。

Img_5377c_20210508170001  海蔵橋の手前で東海道は、国道1号線から左(東)へ入ります。そこにあるのが、多度神社。この神社は、その名の通り、桑名・多度にある多度大社から分祀された神社。それ故、主祭神は、天津彦根命(あまつひこねのみこと)。創立は、明治18(1885)年。明治40(1907)年、海蔵神社へ合祀されましたが、昭和25(1950)年に復興再建され、現在に至っています。スタートから5.3㎞、時刻は11時10分でしたので、小休止。のつもりが、50分ほどお茶を飲みながら話し込んでしまいました(苦笑)。

Img_5399c_20210508170001  多度神社から海蔵川の堤防に上がったところに三ツ谷一里塚跡碑があります。三ツ谷には一里塚があったのですが、その場所は昭和20年代に海蔵川が拡幅された際に、川の中に取り込まれてしまいました。「東海道分間之図」(元禄3(1690)年)によると、三ツ谷の一里塚は東海道が海蔵川に突き当った辺りに記されています。このため、平成13(2001)年、東海道宿場・伝馬制度制定四百周年を記念して、海蔵地区地域社会づくり推進委員会がこの場所に一里塚跡の石碑を建てて、後世に伝えることにしたのです。三ツ谷一里塚は、日本橋からは99里。東海道は、直進するのですが、今は橋がありませんので、海蔵橋に迂回。海蔵川のこのあたりは、桜の名所。

Img_5431c_20210508170001  海蔵橋から300mほど行ったところ、四日市市京町にあるのが、法泉寺。真宗本願寺派のお寺。明治元(1868)年、鳥羽伏見の戦いで敗れた桑名藩の国元は恭順を決め、1月23日に先代藩主・松平定猷の嫡子・萬之助(後の松平定教)は家老を引き連れて、四日市の新政府軍陣営(真光寺)に出頭したのですが、実際に幽閉されたのは、ここ法泉寺です。萬之助は、法泉寺に100日間謹慎蟄居して恭順の意を表しました。当時の遺品が残り、寺宝となっているそうです。萬之助、当時は12歳でした。

 6.5㎞で三滝川にかかる三滝橋を渡ります。Tokaido43_yokkaichi_20210508182501歌川広重が「東海道五十三次」で描いた四日市宿は、この三滝橋あたりとされます。絵では、旅人が笠を飛ばされて慌てている光景が描かれています。遠景に船の帆柱らしきが立っていますので、上流側から見ていて、左が桑名宿の方と考えられています。ここからが、旧四日市宿の中心部になります。

Img_5501c_20210508170001  市立中部西小学校は、四日市陣屋があった跡に建っています。四日市は天領でしたから代官所が置かれました。慶長5(1600)年、徳川家康が水谷光勝を四日市の代官に任じて天領を管理させ、陣屋は慶長8(1603)年、水谷光勝によって築かれました。時期によって建物には変更があったようですが、案内板にあった絵図には42の部屋が描かれています。享保9(1724)年、和郡山の松平吉里の領地となりますが、享和元(1801)年には再び天領となり、以後は多羅尾氏が代々代官を世襲しました。明治維新後は度会県の支所が置かれ、明治5(1872)年から翌年まで三重県庁となった。明治9(1876)年に勃発した伊勢暴動によって焼打ちされ焼失してしまいました。ここ中部西小学校が代官所跡ですが、学校の正門に案内板があるのみで遺構は残っていません。

Img_5520c_20210508170001 Img_5530c_20210508183301  黒川本陣があったとされるところ、現在は、黒川農薬商会になっています。一番本陣は清水太兵衛家が代々なり、高札場のあった札の辻北角に明治10(1877)年頃まで続きました。黒川本陣は、二番本陣で、文化8(1811)年頃から脇本陣だった黒川彦兵衛がついています。東京遷都の際、明治元(1868)年9月24日を初めとして明治天皇はこの黒川本陣を合計4回行在所として利用されたといいます。右は、問屋場跡。もとは福生医院という耳鼻咽喉科医院でしたが、現在は、東海道四日市宿資料館になっています。現在は、残念ながら新型コロナのため閉館中。

Img_5526c_20210508170001  ここが札の辻。交差点の南東角から北西方向を撮っています。江戸時代には、高札場があったところで、あちこちに「札の辻」という地名が残っています。また、ここは、「菰野道」のスタート地点。菰野道は、菰野町菰野まで続く11㎞の街道です。この先で、東海道は昔の道が途切れています。

Img_5557c_20210508170001 Img_5576c_20210508170001  諏訪神社前の交差点で国道1号線を渡って、諏訪神社へ。旧・東海道に面しています。鎌倉時代初期の建仁2(1202)年、信州の諏訪大社の御分霊をこの地に勧請し創祀されたと伝わっています。主祭神は、建御名方命(タケミナカタノミコト)と八重事代主命(ヤエコトシロヌシノミコト;事代主神(コトシロヌシノカミ)ともいいます)で、四日市・浜田の総産土神とされます。境内には、稲荷社、山津見社、天神社がありますし、伊勢神宮と明治神宮の遙拝所、さらには明治天皇の御製歌碑もあります。諏訪公園には、誓文御柱(五箇条の御誓文を刻んだ塔)も。

Img_5582c_20210508170001 Img_5588c_20210508170001  諏訪神社の先の東海道は、商店街になっています。その名もスワマエ商店街。諏訪神社の前にある商店街ですし、ここが諏訪神社の表参道の位置づけ。左の写真でアーケードの商店街になっていますが、この道が旧・東海道です。営業していない店もありますが、全体としてはけっこう活気がある商店街です。この商店街で見逃せないのは、大四日市祭りに登場する「大入道」の人形(首が伸び縮みします。見たときも伸び縮みしていました)。この商店街を出たところが、今日の東海道歩きの終点。ここまでで8.3㎞。13時10分を過ぎた頃。

Img_5600c_20210508170001 Img_5598c  近鉄四日市駅方面に向かい、一番街で昼食を食べるところを探しました。いろいろと店があって迷ったのですが、なぜか飲み屋さんへ(笑)。本当はここの2階にある「三重人」がいいかと思ったのですが……。アレやコレ屋というお店。隣のテーブルで美味しそうにビールを飲んでいる方も会ったのですが、ランチのみ。ソースカツ丼、¥968(税込み)。美味しかったものの、前期高齢者には、量がやや多く、カツが固め(苦笑)。1時間ほど滞在。

Img_5610c_20210508170001 Img_5617c_20210508170001  ゴールの近鉄四日市駅には、14時30分に到着。北口。14時51分の名古屋行き急行に乗車。桑名には、15時03分着。3日間かけて歩いたのに、たった12分で戻ってこられます(微苦笑)。¥300。現地で歩いたのが8.8㎞、自宅から桑名駅往復が2.2㎞で、合計11.0㎞。歩数は、スマホのALKOOで20,812歩。よく歩きました。

 本編は、また改めて少しずつ書きますので、予告編はここまで。

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