城・城跡

2023年1月 8日 (日)

2022年ウォーキング/ハイキングのまとめ

 2022(令和4)年も新型コロナウィルス感染症はまだ治まらず、JRさわやかウォーキングや近鉄ハイキングの企画は、コロナ禍以前ほどたくさんはありませんでした。そこで、2021年同様、「勝手にハイキング」も行いつつ、JR、近鉄のウォーキング/ハイキングにも参加するということで計17回のウォーキングに出かけました。以下、時系列に沿ってそのまとめをしています。リンクは、「猫の欠伸研究室(アーカイブ)」の記事に貼ってあります。

1.2022年1月10日:高田本山お七夜

2022年1月10日:20220110勝手にハイキング「高田本山専修寺のお七夜」へ(予告編)

2022年1月11日:20220110勝手にハイキング「高田本山専修寺のお七夜」へ(その1)……専修寺でまずはお庭を拝見し、太鼓門、御影堂、如来堂、通天橋へ

2022年1月12日:20220110勝手にハイキング「高田本山専修寺のお七夜」へ(その2)……専修寺で御廟、御廟拝堂、納骨堂、外へ出て窪田の常夜燈、一身田寺内町の館、一御田神社からランチ

2022年1月13日:20220110勝手にハイキング「高田本山専修寺のお七夜」へ(その3)……専修寺を出て、聖俗の結界を抜け、仲之町商店街から橋向通を経て、臼井織布さんを見てゴールの伊勢鉄道・東一身田駅

89e63e82 D4041c75  真宗高田派の本山である専修寺は、私の好きなお寺です。その周囲は一身田寺内町を形成していて、なかなか良い感じの街になっています。さらに、専修寺のお七夜(大谷派でいう報恩講。親鸞上人のご命日の法要)もたびたび出かけるほど気に入っています。一度、庭園を拝観したいと思っていたら、この年のお七夜では、一身田寺内町の館のほっとガイド会の方が雲幽園(うんゆうえん)と茶室である安楽庵を案内してくださるということで、ぜひ見たいと思って出かけたのです。同級生K氏と2人旅。近鉄高田本山駅から高田本山へ。専修寺境内を周り、少し足を伸ばして、窪田の常夜燈、一身田寺内町の館、一御田神社、高田会館にある和彩あかりで昼食、土産を買って、釘貫門から中之町商店街を経て、道標1基を見て、黒門跡から伊勢別街道へ。伊勢木綿の臼井織布の建物を見て、伊勢鉄道・東一身田駅にゴール。歩いたのは9.6㎞。電車賃が計¥1,560、昼食は高田会館和彩あかりで「まぐろとろろ丼」(¥1,300)、土産は「高田山サブレ(定価¥850のところ、賞味期限が近いということで35%ディスカウントで¥595)」と、昔ながらのお七夜土産である「桜おこし」。岡田屋さんで¥800。

2.2022年2月5日:東海道ウォーキング「日永の追分~加佐登(かさど)」

2022年2月5日:20220205東海道ウォーキング(日永の追分~加佐登)(予告編)

2022年2月9日:20220205東海道ウォーキング(日永の追分~加佐登)(その1)……四日市あすなろう鉄道・追分駅から、三寺めぐりを済ませ、内部川へ

2022年2月10日:20220205東海道ウォーキング(日永の追分~加佐登)(その2)……杖衝坂で日本武尊や芭蕉に思いを馳せ、采女一里塚跡から鈴鹿に入り、自由が丘でランチ

2022年2月11日:20220205東海道ウォーキング(日永の追分~加佐登)(その3)……石薬師宿に入り、北町地蔵堂、小澤本陣跡、佐佐木信綱記念館へ

2022年2月12日:20220205東海道ウォーキング(日永の追分~加佐登)(その4)……浄福寺、石薬師寺、蒲冠者範頼之社、蒲桜を見て石薬師一里塚跡からゴールの関西線加佐登駅へ(完)

04b27b42_20230107172201 C2aaf39f  2021年は、同級生K氏と17回に分けて桑名・七里の渡し跡から伊勢神宮・内宮まで歩いて参拝しました(2022年1月5日:2021年「東海道・伊勢街道歩いて伊勢参りツアー」のまとめ)。「今年はどうしようか?」と考えた結果が、まずは、四日市の日永の追分から関宿あたりまで東海道を歩こうということでした。私自身、この区間は、部分的には歩いていますが、通して歩いたことがありませんでした。この東海道ウォーキングも、同級生K氏と二人旅。初回のこのときは、四日市・日永の追分から杖衝坂を上り、石薬師宿を通って、庄野宿の手前の鈴鹿・加佐登まで東海道を歩いて来ました。歩いたのは、12.6㎞。電車賃は計¥1,080、昼食は自由が丘のレストランミヤコで日替わりランチ(¥990)。このあたり、実は、大学院を修了して就職した病院からほど近いところで、懐かしいところ。レストランミヤコのランチも何度も食べました。近くのレストランスオーや、来来憲(とんてきで有名)にも来ていました。いわば、ちょっとしたセンチメンタルジャーニー(微笑)。

3.2022年2月17日:四日市市立博物館「昭和のくらし 昭和のおもちゃ」展

2022年2月17日:20220217勝手にハイキング「四日市博物館で”昭和のくらし 昭和のおもちゃ”展を見て、鵜の森公園」へ

4f9001fc  四日市市立博物館で「昭和のくらし 昭和のおもちゃ」展が開かれていましたので、それを見たついでに鵜の森公園に行ってきました。四日市市立博物館では、毎年、新年に「昭和の暮らし」などを巡る展覧会が開かれますので、私はここ数年、毎年見ています。小学生向けの学習支援展示ですが、昭和生まれの私にとっては懐かしいものが見られるのです。展覧会を見たあと、鵜の森公園へ。ここは浜田城跡で、現在は、泗水庵という茶室と鵜の森神社があります。同級生K氏と出かけてきました。歩いたのは、5.6㎞。電車賃は計600円。昼食は、寒かったので、諏訪の商店街にある東京荻窪ラーメン・えびすや四日市店で、「おぎくぼラーメン」(¥795)。四日市近鉄百貨店に立ち寄って、土産に出張販売に出ていた木村屋の「季節のあんぱん」5種類の詰め合わせ(¥1,182)。

4.2022年2月27日:近鉄酒蔵立ち寄りハイキング「神楽酒造(神楽)」

2022年2月27日:20220227近鉄ハイキング「銘酒『神楽』神楽酒造をたずねて」へ(完)……ほぼ2年ぶりの近鉄ハイキングに参加、オマケはKINGの自販機の話

6d7149c3 C0599c6b  ほぼ2年ぶりに近鉄ハイキングに参加してきました。この前に行ったのは、新型コロナウィルス感染症が蔓延し始めたころ出かけた「酒蔵みてある記」でした(2020年2月9日:20200209近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 早川酒造部『天一』」へ(完))。「酒蔵みてある記」は人気があり、再開希望がたくさん寄せられたようで、2022年、「酒蔵立ち寄りハイキング」として復活しました。神楽酒造は、四日市市室山町にあります。近鉄湯の山線・伊勢松本駅から、春の丘、夏の広場を経て神楽酒造に立ち寄り、四日市あすなろう鉄道・西日野駅がゴール。歩いたのは7.4㎞。電車賃は計¥950。試飲を1杯、土産は「神楽」という特別純米生酒の4合瓶1本(¥1,320)。昼食は、自宅にて。

5.2022年3月5日:近鉄酒蔵立ち寄りハイキング「丸彦酒造(三重の寒梅)」

2022年3月5日:20220305近鉄酒蔵立ち寄りハイキング「銘酒『三重の寒梅』丸彦酒造をたずねて」へ(1回完結)

107c9837 726e5edf  丸彦酒造さんの「三重の寒梅」はなかなかの銘酒と思います。四日市市川島町にある酒蔵です。同級生K氏と2人旅。伊勢松本駅から南へ。松井神社を経て(このあと鹿化川沿いに出るまで、境内で寄り道をし、少しコースを外れています)、鹿化川沿いを歩いて、上布田遺跡の説明板、鹿化川千本桜並木を歩いて、丸彦酒造さんへ。その後、コースマップでは伊勢川島駅へ向かうのですが、「もうちょっと歩いても良いな」ということになり、西福寺、伊勢三郎首塚、河島御厨神明神社まで足を伸ばしてきました。丸彦酒造さんで、1杯¥100の有料試飲を2杯。内緒ですが、小宴会(微笑)。歩いたのは、8.8㎞。電車賃は計¥910。直売所では、「三重の寒梅 初しぼり」(¥1,400)と、ワンカップ(¥300)を購入。昼食は、近鉄四日市駅で途中下車して、駅ナカにあるうどん・そばの「四日市庵」で天ぷらきしめん(¥380)。

5.2022年3月19日:東海道ウォーキング「加佐登~井田川」

2022年3月19日:20220319東海道ウォーク「加佐登~井田川」(予告編)

2022年3月22日:20220319東海道ウォーク「加佐登~井田川」(その1)……加佐登駅から庄野宿へ

2022年3月23日:20220319東海道ウォーク「加佐登~井田川」(その2)……汲川原から西冨田の福萬寺へ

2022年3月24日:20220319東海道ウォーク「加佐登~井田川」(その3)……西富田町から井田川駅にゴール(完)

05ea0822 E916bc31  2月5日の東海道ウォーキングの続きとして、鈴鹿市加佐登町から亀山市井田川町まで。JR関西線・加佐登駅から庄野宿に入ります。善照寺、庄野宿資料館、妙法寺、集会所・本陣跡、常楽寺、川俣神社でスダジイの大木(ちなみに、川俣神社という名前の神社が、このあたりには4社あります)、平野道道標、いぼとり地蔵、真福寺、神戸藩領界石・女人堤防碑、川俣神社・中冨田一里塚跡碑、清光寺、常念寺、福萬寺、道標(ひろせ道)、川俣神社・無上冷水井戸跡、弘法井戸、川俣神社、和泉公民館で地蔵尊、道標(のゝぼり道)、地蔵尊、明治天皇御小休所碑・観音堂跡、地福寺と実にたくさん見て回って、JR関西線・井田川駅がゴール。歩いたのは10.1㎞。電車賃は計¥1,100。昼食は、国道1号線沿いの「すき家1国亀山店」で、「クリーミーオニサラ牛丼」にお新香セットをつけて、計¥700。
 このときは、途中の庄野町集会所にいらした女性から「お茶でもどうですか?」と呼び込まれ、温かい梅昆布茶を頂き、いろいろと話を伺っていたら、「庄野 寄っといで音頭」をつくったといって、生歌を聴かせていただき、さらにそれを収録したCDまで頂戴してきました。炭坑節の替え歌でした。

6.2022年4月23日:東海道ウォーキング「井田川~亀山」

2022年4月23日:20220423東海道ウォーク「井田川~亀山」(予告編)

2022年4月25日:20220423東海道ウォーク「井田川~亀山」(その1)……井田川駅を降りて、和田一里塚跡へ

2022年4月26日:20220423東海道ウォーク「井田川~亀山」(その2)……能褒野神社二の鳥居・露心庵跡から姫垣外苑まで

2022年4月27日:20220423東海道ウォーク「井田川~亀山」(その3)……亀山城址にて多門櫓、明治天皇行在所旧蹟、亀山演武場などを見て、亀山駅にゴール(完)

066e6f35  「東海道ウォーク」の3回目。JR関西線・井田川駅から西信寺、正福寺、谷口法悦供養塔、幸福寺、福禅寺、石上寺、和田一里塚、巡検道との追分、亀山宿の江戸門口跡、福泉寺、法因寺、弘法院、樋口本陣跡、高札場跡、大手門跡、亀山城跡、亀山神社、石井兄弟亀山敵討石碑からJR関西線亀山駅がゴール。亀山駅前では、リニア開通を見越して、駅前の整備とともに、マンションの建設などが行われていました。歩いたのは、10.2㎞。電車賃は計¥1,270。昼食は、亀山駅前で食べるところがなかなか見つからず、ウロウロしましたが、結局、駅前にあった「瑞宝軒」という和菓子屋さんがやっているカフェで。最初は、和菓子屋さんだから昼ご飯はないなと思って、いったん通り過ぎたものの、ほかに飲食店はなく、戻って来て「食事ができますか?」と聞いたら、ランチがありましたので、それをチョイス。コーヒー付きで¥1,100。サワラのフライとハンバーグ。

7.2022年5月7日:東海道ウォーキング「亀山~関」

2022年5月7日:20220507東海道ウォーキング「亀山宿~関宿」(超予告編)

2022年5月11日:20220507東海道ウォーキング「亀山宿~関宿」(その1)……亀山駅をスタートし、武家屋敷などを見て、京口門跡あたりまで

2022年5月12日:20220507東海道ウォーキング「亀山宿~関宿」(その2)……野村から太岡寺畷へ

2022年5月13日:20220507東海道ウォーキング「亀山宿~関宿」(その3)……いよいよ念願の関宿へ

2022年5月14日:20220507東海道ウォーキング「亀山宿~関宿」(その4)……念願の関宿はおもしろい(完)

602d8e55 3de10ec1  関宿は、江戸時代の町並みがよく保存されていますので、ずっと以前から一度は訪ねてみたいと思っていた、念願の地です。JR関西線・亀山駅から、加藤家屋敷、西之丸庭園、青木門跡、飯沼慾斎生家跡と道標2基、旧舘家住宅、善導寺、西之丸堀跡、京口門跡、梅厳寺、照光寺、旧佐野家住宅、光明寺、慈恩寺から野村の一里塚、亀山藩大庄屋打田権四郎昌克旧宅跡、毘沙門天、布気神舘大神社、昼寝観音、清福寺、太岡寺畷と回って、いよいよ関宿へ。関宿では、関の小萬の碑、関宿東の追分(伊勢別街道との追分)、長谷屋資料館、宝林寺、御馳走場跡、関の山車会館、延命寺、関まちなみ資料館、百六里庭(ひゃくろくりてい)・眺関亭(ちょうかんてい)、関宿旅籠玉屋歴史資料館、深川屋(銘菓関の戸を製造販売)、高札場跡、福蔵寺、地蔵院と回って、道の駅・関宿で昼食を摂って、JR関西線・関駅にゴール。歩いたのは、11.7㎞。電車賃は計¥1,450。昼食は、道の駅・関宿にある「定食屋みくら」で「冷やし海老おろしうどん」(¥840)。土産は、深川屋関の戸。和三盆と抹茶の6個ずつの詰め合わせ(¥1,118)。ちなみに、深川屋さんは創業約380年で、「忍びの隠れ蓑」だそうです。「関の戸」は、忍者の末裔・服部伊予保重が考案した餅菓子です。

8.2022年5月22日:JRさわやかウォーキング・近鉄ハイキング合同企画「四日市けいりんバンク特別開放と四日市の鉄道・バスグッズマルシェ」

2022年5月22日:20220522JRさわやかウォーキング・近鉄ハイキング共同企画「四日市けいりんバンク特別開放と四日市の鉄道・バスグッズマルシェ第2弾!!」(完)

2de6d852 41b22aed  この日は、JRさわやかウォーキング・近鉄ハイキングの共同企画である「四日市けいりんバンク特別開放と四日市の鉄道・バスグッズマルシェ第2弾!!」に娘と2人で参加してきました。近鉄富田駅をスタートし、浜園緑地、四日市港ポートビル、霞ヶ浦緑地、四日市競輪場、稲葉翁記念公園、JR貨物四日市駅を経て、JR四日市駅がゴールというコース。四日市競輪場で、バンクが特別開放されたのですが、そのためにこのウォーキングに参加したようなもの(微笑)。バンクは1周400m。直線コースが62.4mと、他の競輪場に比べ長いそうです。ここのバンクの傾斜角度(カント)は、コーナーでは32° 15′ 07″だそうですが、見た目では45°くらい傾いているように見えました。このバンクを歩いて1周。もう1つの楽しみは、JR貨物四日市駅での鉄道・バスマルシェ。ここに松阪の駅弁屋さんである「あら竹商店」さんが出店。あの「モー太郎弁当」を是非とも買いたかったのです。娘はゴールが近づくにつれ、早足になっていました。歩いたのは11.2㎞。電車賃は計¥500。モー太郎弁当は、1個が¥1,500を3個お買い上げ。

9.2022年5月28日:勝手にハイキング「松阪ウォーキング」

2022年5月28日:20220528松阪ウォーキング(予告編)

2022年5月30日:20220528松阪ウォーキング(その1)……縁切り不動、八雲神社、松阪大映、松阪撫子を見て来迎寺へ

2022年5月31日:20220528松阪ウォーキング(その2)……樹敬寺で本居宣長墓・原田二郎墓所、松阪三珍花の発祥地をめぐり、原田二郎旧宅、松阪工業高校の赤壁校舎から御城番屋敷へ

2022年6月1日:20220528松阪ウォーキング(その3)……本居宣長ノ宮、松阪神社、松坂城跡から不二屋で焼きそばにて「完」

533749d7 Bb254857  2022年は、東海道ウォーキングとして、四日市の日永の追分(東海道と伊勢街道との追分)から関宿まで歩きましたが、この先は、JR関西線と東海道とが離れてしまい、「電車で行って歩き、電車で帰る」というスタイルで行けるのは関まで(三重県にはもう1箇所、坂下宿があり、その先は鈴鹿峠越えになります)。次のウォーキングはと考え、取り敢えず、この日は松阪へ。松阪駅から八雲神社、来迎寺、常教寺、樹敬寺(本居宣長の墓があります)、御城番屋敷、松坂城跡などを巡ってきました。同級生K氏との二人旅。歩いたのは、8.7㎞。電車賃は計¥1,920。昼食には不二屋の焼きそば(¥800)。土産は、いつもの柳屋奉善老伴。6個入りで¥1,140。

10.2022年6月12日:勝手にハイキング「水の都・大垣ウォーキング」

2022年6月12日:20220612水の都・大垣ウォーキング(予告編)

2022年6月17日:20220612水の都・大垣ウォーキング(その1)……大垣城、郷土館、藩校敬教堂跡から八幡神社へ

2022年6月18日:20220612水の都・大垣ウォーキング(その2)……四季の路を通り、円通寺から船町川湊、奥の細道むすびの地へ

2022年6月21日:20220612水の都・大垣ウォーキング(その3)……船町川湊から美濃路を歩いてゴールの大垣駅へ(完)

74eecb4c Beac5431  当初は前日に予定していたものの、天気があまり良くないという予報で、この日に延期しました。大垣は、水の都といわれますが、まさにその通りで、とても良いところでした。養老鉄道大垣駅がスタート&ゴール。大垣城、郷土館、大垣藩校敬教堂跡、八幡神社、円通寺、奥の細道むすびの地、住吉神社、船町港跡・港灯台、船町道標、美濃路大垣宿本陣跡、大手門跡、堀抜井発祥の地、愛宕神社・岐阜町道標などを回ってきました。現地で歩いたのは、6.3㎞ほどでしたが、あちこちで資料館なども見て回り、4時間半も滞在。この日も同級生K氏と二人旅。歩いた合計距離は、8.7㎞。電車賃は、養老鉄道の1日フリー切符を購入し、¥1,500。昼食は、大垣駅ビルのアスティ大垣にある「おらが蕎麦」でちくわ天おろしそば(¥660)。土産に「金蝶園製菓総本家」で、大垣名物水まんじゅう。

11.2022年7月17日:勝手にハイキング「堀川・宮の渡し・熱田神宮ウォーキング」

2022年7月17日:20220717堀川・宮の渡し跡・熱田神宮ウォーキング

2022年7月18日:20220717堀川・宮の渡し跡・熱田神宮ウォーキング(その1)……アオサギを見つけ、松重閘門から堀川沿いを下り、闇之森八幡社、堀川橋梁へ

2022年7月19日:20220717堀川・宮の渡し跡・熱田神宮ウォーキング(その2)……尾頭橋他から断夫山古墳、白鳥古墳へ

2022年7月20日:20220717堀川・宮の渡し跡・熱田神宮ウォーキング(その3)……被爆堤防・空襲跡、宮の渡し跡、円通寺、熱田神宮から神宮前駅でゴール(完)

41cc9858 5551fb0d  同級生K氏と二人で、名鉄名古屋本線山王駅から松重閘門、そこから掘川沿いを歩いて下り、熱田神宮公園で断夫山古墳と、すぐ近くにある白鳥古墳を見て、宮の渡し跡へ。その後、円通寺と熱田神宮にお参りしてきました。歩いたのは合計10.5㎞。電車賃は計¥1,300。昼食は、熱田神宮内にある宮きしめん神宮店で、冷やし宮きしめん(¥800)。ここできしめんを食べたかったのですが、これまでは大賑わいで諦めていました。ようやくリベンジ。土産は、定番のきよめ餅。5個入りで¥750。

12.2022年9月2日:勝手にハイキング「壬申の乱1650年記念大矢知ウォーキング」

2022年9月2日:20220902勝手にハイキング「壬申の乱から1350年記念 霞ヶ浦~大矢知ウォーキング」(予告編)

2022年9月5日:20220902勝手にハイキング「壬申の乱から1350年記念 霞ヶ浦~大矢知ウォーキング」(その1)……霞ヶ浦駅から志氐神社、明円寺そして大膳寺跡へ

2022年9月7日:20220902勝手にハイキング「壬申の乱から1350年記念 霞ヶ浦~大矢知ウォーキング」(その2)……浄恩寺、南北伊賀留我神社、荒木十兵衛頌徳碑から浄恩寺道道標へ

2022年9月8日:20220902勝手にハイキング「壬申の乱から1350年記念 霞ヶ浦~大矢知ウォーキング」(その3)……久留倍官衙遺跡・くるべ古代歴史館、長倉神社、照恩寺、忍藩大矢知陣屋跡から龜屋佐吉でかき氷を食べて大矢知駅にゴール(完)

78c5b717 5b2cfbe1  2022年は、壬申の乱(672年)から1350年ということで、「壬申の乱から1350年記念 霞ヶ浦~大矢知ウォーキング」と銘打って出かけてきました。霞ヶ浦駅をスタートして、志氐(しで)神社、明円寺、大膳寺跡、浄恩寺、南北伊賀留我神社、荒木十兵衛頌徳之碑、天武天皇迹太川遙拝所跡、久留倍官衙遺跡・くるべ古代歴史館、長倉神社、照恩寺、大矢知興譲小学校(忍藩陣屋跡)、亀屋佐吉などを回って、三岐鉄道三岐線大矢知駅まで。歩いたのは、10.2㎞。電車賃は計¥710。暑い時期に大矢知に行くなら、何が何でも立ち寄ってかき氷を食べなくてはと思って、亀屋佐吉で「白玉和三盆金時みるく」(¥870)をいただいてきました。昼食は、桑名駅コンコースにある伊勢ノ国食堂しちりで、「天ぷら中華そば」(¥850)。同級生K氏と二人旅。

13.2022年9月24日:勝手にハイキング「笠寺観音を訪ねて」

2022年9月24日:20220924笠寺ウォーキング(超予告編)

2022年9月26日:20220924笠寺ウォーキング(その1)……名鉄桜駅をスタートし、桜神明社、富部神社、呼続公園の頼朝公旗掛松

2022年9月29日:20220924笠寺ウォーキング(その2)……長楽寺、東海道、笠寺観音へ

2022年9月30日:20220924笠寺ウォーキング(その3)……法性寺、笠寺公園で見晴台考古資料館、住居跡観察舎、笠寺高射砲陣地跡、きんさん桜・ぎんさん桜、笠寺一里塚跡、七所神社を巡る(完)

63d8472e 361873db  同級生K氏と前日に計画していたのですが、台風15号の影響で雨になりましたので、この日に順延。まさに台風一過で、よく晴れました。名鉄名古屋本線桜駅をスタート。桜神明社、富部神社、呼続公園、長楽寺から東海道を少し歩いて笠寺観音へお参り。続いて笠寺公園にある見晴台考古資料館から笠寺一里塚跡と七所神社を経て、名鉄名古屋本線本笠寺駅まで。名鉄線では1駅分でしたが、ぐるぐると回って、歩いた距離は8.5㎞。電車賃は計¥750。昼食は、笠寺駅近くの「珈琲ミハル」へ。創業60年を超えている、まさに昭和風の喫茶店で、和風ハンバーグランチ、コーヒー付きで¥850。

14.2022年10月9日:勝手にハイキング「桑名駅西ウォーキング」

2022年10月9日:20221009桑名駅西ウォーキング(一回完結)

C9f59c3f 0cf02eed  桑名駅集合で、円妙寺、大福田寺、円妙寺墓地、立坂神社𦾔跡、聖衆寺、秋葉三尺坊大権現から竹林を歩いて、式部泉を見て、高塚山古墳の麓へ行くつもりだったのですが、竹林が住宅工事で通れなくなっていて、予定変更。北別所神明社へショートカットし、さらに、旧桑名市民病院跡地を見て、岸西山へ。大正寺、岸西山遺跡、尾野神社北之社、尾野神社・立坂神社・舟着社、専明寺、照源寺と歩いてきました。歩いたのは、8.6㎞。全行程徒歩です。昼食は、目利きの銀次桑名駅前店であじフライ(¥700)。この日も名コンビの同級生K氏と。

15.2022年10月29日:JRさわやかウォーキング「伊勢鉄道線開業35周年記念 歴史と文化に触れる鈴鹿市を再発見!」

2022年10月29日:20221029JRさわやかウォーキング「伊勢鉄道線開業35周年記念 歴史と文化に触れる鈴鹿市を再発見!」(予告編)

2022年10月30日:20221029JRさわやかウォーキング「伊勢鉄道線開業35周年記念 歴史と文化に触れる鈴鹿市を再発見!」(その1)……関西線河曲駅をスタートし、鈴鹿市考古博物館、伊勢国分寺跡、冨士山1号古墳、高岡山中央公園から高岡城跡へ

2022年11月1日:20221029JRさわやかウォーキング「伊勢鉄道線開業35周年記念 歴史と文化に触れる鈴鹿市を再発見!」(その2)……常夜灯2基、神戸の見附跡、観音寺、龍光寺、神戸宗社、神戸城跡を経て伊勢鉄道・鈴鹿駅にゴール(完)

60828a9e 8d8aad39  JR関西線河曲(かわの)駅から鈴鹿市考古博物館、伊勢国分寺跡、冨士山1号古墳、高岡山中央公園、高岡城跡、常夜灯、神戸の見附跡、観音寺、龍光寺、神戸宗社、神戸城跡と回ってきました。長丁場でしたが、3箇所ほど寄り道をしてきました。今回も同級生K氏と二人旅。歩いたのは合計15.2㎞。電車賃は計¥1,060。昼食は、鈴鹿市駅の手前で、京都北白川 ラーメン 魁力屋 鈴鹿矢橋店に立ち寄り、「特製醤油味玉ラーメン(¥869)」。伊勢国分寺跡と、鈴鹿市考古博物館は訪ねてみたかったところです。高岡城跡からの眺めはかなりよいものでした。こういうところに城をつくりたくなるのはよく分かります。

16.2022年12月10日:近鉄ハイキング「青木酒造の銘酒『米宗』を訪ねて(酒蔵みてある記)」

2022年12月10日:20221210近鉄ハイキング「青木酒造の銘酒『米宗』を訪ねて(酒蔵みてある記)」(1回完結)

Ec25e466 F252419a  近鉄ハイキングでは、3年ぶりに「酒蔵みてある記」が復活し、今日がその初回。これはやはり行くしかありません。弥富駅を出て途中、薬師寺、難畑地蔵尊、興善寺地蔵に立ち寄り、東名阪自動車道を越えて、愛西市へ。青木酒造で試飲、抽選会、即売会。その後は、ひたすら弥富駅に戻るコースですが、帰り道に源空寺と聖覚寺にちょっとだけ寄ってきました。今回は1人。ちなみに、4年前に同じコースで青木酒造に行っています(2018年12月9日:20181209近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 青木酒造の銘酒「米宗」をたずねて」へ(予告編)……いよいよ「酒蔵みてある記」の季節到来)。歩いた距離は、11.7㎞。電車賃は計¥520。青木酒造で「純米米宗」の720mmlを1本買ってきました(¥1,600)。昼食は、自宅にて。

17.2022年12月23日:勝手にハイキング「長島ウォーキング」

2022年12月23日:20221223長島ウォーキング(予告編)

2022年12月25日:20221223長島ウォーキング(本編その1)……近鉄長島駅から光岳寺、長島八幡社、小田江神崎神社、大智院、光栄寺、稲荷阿岐波神社、長島城跡へ

2022年12月26日:20221223長島ウォーキング(本編その2)……正敬寺、花林院、善明寺、蓮生寺、明治の東海道道標、又木神明社、願證寺、深行寺から水辺のやすらぎパーク・旧久我屋敷へ

2022年12月27日:20221223長島ウォーキング(本編その3)……長島川遊歩道を歩いて日神神社にお参りしなばなの里へゴールして地ビールで乾杯(完)

31bdc6b8 2953d50f  同級生K氏と二人で桑名市長島町をウォーキング。2022年のウォーキング納めです。近鉄長島駅から南のあたりの歴史散歩という次第。光岳寺、長島八幡社、小田江神崎神社、大智院、光栄寺、稲荷阿岐波神社、長島城跡、正敬寺、花林院、善明寺、蓮生寺、神明社、崇泉寺、願證寺、皇大神社、深行寺、旧久我屋敷・水辺のやすらぎパーク、長島川遊歩道、日神神社と回って、なばなの里がゴール。なばなの里では、今年のウォーキング納めを祝して、ビールで乾杯してきました(微笑)。「長島ビール園」で冬季限定のビールである「ボック」で祝杯を挙げた次第。歩いたのは、合計12.6㎞。電車賃・バス代は合計¥640。

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2022年12月25日 (日)

20221223長島ウォーキング(本編その1)……近鉄長島駅から光岳寺、長島八幡社、小田江神崎神社、大智院、光栄寺、稲荷阿岐波神社、長島城跡へ

Img_5605c_20221223190501  12月23日に行ってきた「長島ウォーキング」の本編その1です。この日から「クリスマス寒波襲来」ということで、西風が強くて寒い日でした。しかし、これで令和4(2022)年のウォーキング納めということで、予定通り出かけたという次第。いつものように、同級生K氏と二人で歩いてきました。冒頭の写真は、この日の朝の藤原岳。

Img_5618c_20221223185901 20221223nagashima0  近鉄桑名駅を8時23分に出る名古屋行き準急に乗車。近鉄長島駅までは1駅で、8時27分に到着。¥210。今日のウォーキングは、昔流行った言葉でいえば「安近短」です。右の画像が、この日歩いたルートマップ。近鉄長島駅から南のあたりの歴史散歩という次第。主な立ち寄りスポットは、光岳寺、長島八幡社、小田江神崎神社、大智院、光栄寺、稲荷阿岐波神社、長島城跡、正敬寺、花林院、善明寺、蓮生寺、神明社、崇泉寺、願證寺、皇大神社、深行寺、旧久我屋敷・水辺のやすらぎパーク、長島川遊歩道、日神神社と回って、なばなの里がゴール。この日が、年内最後のウォーキングということで、「ウォーキング納めだからなばなの里で乾杯しよう」というのが、最大のテーマ(微笑)。

20221223nagashima1  ルートマップその1。この範囲に訪ねたところのほとんどがあります。さほど広くはない範囲をあちこちウロウロしてきました。たくさん立ち寄りたいところがありましたから、なるべく効率的に回ろうと考えた結果です。崇泉寺から先は、願證寺、皇大神社、深行寺と回って、水辺のやすらぎパーク・旧久我屋敷に戻る形でしたので、ルートが往復となって、重複しています。

Img_5624c_20221224084401 Img_5621c_20221224085201  近鉄長島駅を8時半にスタートしましたが、駅前に「伊勢湾台風水位標」があります。伊勢湾台風に襲われたとき、当時の桑名郡長島町内では堤防が15ヶ所も決壊し、1ヶ月間は水没したままであったそうです。この水位標の上の部分にあるのが、伊勢湾台風の時の水位です。輪中の郷にも同様の水位標がありますが、そこでの水位は3.9mだったといいます。 

Img_5628c_20221224085301  最初の目的地である光岳寺に向かう途中、西を見ると鈴鹿の山並みがみえました。長島は、もともと輪中地帯ですから、ほぼ平地で、あちこちで鈴鹿山脈がみえるのです。

Img_5658c_20221223185901 Img_5635c  近鉄長島駅から500m弱で天機山伝通院光岳寺。浄土宗のお寺。屋根瓦や、山門に三つ葉葵の御紋があります。徳川家康の母である伝通院の菩提寺の1つだからです。

Img_5641c_20221223185901  創建は不詳ですが、古くは、下野国(現在の千葉県関宿)にあり、弘経寺と称していました。慶長7(1602)年、徳川家康は母親である伝通院の菩提寺の1つに定め、天機山伝通院光岳寺と改称しました(伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼という法名によると思われます)。当時の領主で、家康の異父弟である松平康元が光岳寺を庇護し、同家の移封先である加納藩(岐阜県岐阜市)、小諸藩(長野県小諸市)に随行し、慶安2(1649)年、当時の当主松平康尚(やすひさ)が長島藩に移封になると、長島城下に移りました。ここに祀られている「沓踏子安延命地蔵菩薩」は、伝教大師最澄が自ら彫り込んだと伝えられるもので、伝通院の念持仏だったといいます。

Img_5683c_20221223185901 Img_5676c_20221223185901  光岳寺からは長島八幡神社へ。この神社は、寛元3(1245)年に藤原(九条)道家が勧請したと伝えられている、長島最古の神社です。ご祭神は、応神天皇仲哀(ちゅうあい)天皇神功皇后(じんぐうこうごう)。天正12(1584)年には、小牧長久手の戦いに際して織田信雄が戦勝祈願をなし、その賽謝として鎧・兜一領を奉納したといい、また、歴代長島城主からも武神として崇敬されていました。獅子舞は、元禄12(1699)年に北島村の氏子によって始められた獅子舞神事が今も伝わっています。この獅子舞を一度は見てみたいとずっと思っているのですが、なかなか実現していません。

Img_5673c_20221224180701  ここの境内は、歴史を感じさせる、なかなか良い雰囲気です。一の鳥居をくぐると、池があり、太鼓橋が架かっています。この橋を渡って境内に進むのです。

Img_5700c_20221223190001  八幡神社からは、長島自動車学校、エスペランス桑名の南を通って、予定では大智院に向かうことにしていました。しかし、曲がり角で小田江神崎神社(おだえかんざきじんじゃ)がすぐ近くに見えましたので、寄り道。ご祭神は天照大神、豊受大神。

Img_5696c_20221223190001  社頭にあった由緒書きには、概略次のような説明がありました。天文13(1544)年、小田江崎(於多井川の川元)に勧請奉祀したと伝わります。その後洪水や長島一向一揆の際の小田御崎砦の近くであったため社頭は大破。慶長8(1603)年、再建されています。寛文7(1667)年、藩主・松平良尚公が、社頭近くを往還が通るのを見て、社頭を東表にし南方の藪下に往還を付け替え、社の前後50間の社地を与えています。20年ごとに遷宮を行い、それが今なお受け継がれています。

Img_5693c_20221223190001  この神社は、一説には天文13(1544)年の大水の時、上流から漂着した流れ宮を村民が拾い上げて勧請したともいう。この社の対岸、現在の桑名市蛎塚の揖斐川堤腹に蛇ノ宮という社があり、この社に大蛇が住んで、常にこの両者の間を行き来しているので、この川を船が通行するときには両岸の社に向かって、船頭が拝礼をしないと、川に濁流が渦巻いて、その船の進路をふさぎ、船を襲うといい伝えられているといいます。そのため、当社では、毎年8月7日の祭礼でかがり火をたいて、夜を徹する行事を行うそうです(濁り祭)。

Img_5713c_20221223190001 Img_5710c_20221223190001  長良川左岸の堤防道路に沿って南下すると、大智院があります。真言宗智山派のお寺。ここは、元禄2(1689)年松尾芭蕉が奥の細道の旅を大垣で結んだ後、伊勢神宮の遷宮を参拝に行ったのですが、その最初に立ち寄ったところです。ここで、芭蕉は挨拶句「うき我を さひしからせよ 秋の寺」をしたためたといいます。その直筆の色紙「真蹟懐紙」が残されています。

Img_5707c_20221225164801  芭蕉が来訪した100年後(寛政元(1789)年)に長島藩主・増山正賢(雪斎)公は、近習などを集めて詩文をつくったり、自筆によって記念の石碑を建立しました。それが、この「蕉翁信宿処」の石碑です。時の藩主が自ら筆をとり顕彰碑を建立したのは珍しいことで、歴史、文学的に評価が高いものだそうです。 文人藩主らしい堂々とした風格の書体と評されています。また、三重県内に現存する芭蕉碑(約120基)中11番目に古く大切に保管されてきたそうです。なお、「信宿」は、同じ場所に二泊するという意味だそうです。

Img_5716c_20221225164801  山門の脇にあるこちらの碑は、曽良塚です。右の方には、「伊勢乃国 長島……曽良」とあるようです。調べてみましたら、「行き行きてたふれ伏とも萩の原」という句が刻まれているということです。元禄2年8月の「おくのほそ道」本文に、山中温泉滞在中の出来事として、「曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云所にゆかりあれば、先立ちて行に、「行き行きてたふれ伏とも萩の原」曾良 と書置たり(後略)」とあるそうです。この「ゆかり」が大智院で、第四世住職法印良就が曽良の叔父です。ちなみに、前回訪ねたときも忘れたのですが、今回も、境内にあるはずの芭蕉句碑を見逃しました(苦笑)。前期の句に「伊勢国長島大智院に信宿ス」という前書きがつけられた句碑があるのです(「信宿」は、二泊という意味)。元の句碑は、伊勢湾台風でながされてしまい、後に再建されたそうです。この芭蕉の句「うき我を さひしからせよ 秋の寺」は、後に『嵯峨日記』で推敲されて、「憂きわれを寂しがらせよ閑古鳥」と変えられています。

Img_5734c_20221223190001 Img_5742c_20221223190001  大智院のすぐ南には、長島六坊の1つである銀杏山光栄寺。真宗大谷派。長島六坊は、織田信長の長島攻めに抵抗するため石山本願寺から寺侍として願證寺に送り込まれた僧らによって創建された寺院です。長島一向一揆では門徒衆の旗頭として活躍しました。長島落城後は、一時、それぞれ石山本願寺や北陸方面へ退散したのですが、豊臣秀吉が天下を統一した頃には、これらの僧やその師弟らは長島に帰ってきて再び寺を建てています。長島六坊は、すべて真宗大谷派の寺院で、元禄年間に六坊の公称が認められ、白袈裟着用を許されるなど大谷派の中でも一般末寺とは異なる特別な地位が与えられました。現在、桑名市長島町にはそのうち4つが残っています。光栄寺は、飯田九蔵が慶長4(1599)年に開創しました。宝暦の洪水を受け、現在の西外面(ども)に堂宇を再建しています。

Img_5770c_20221223190001  続いて、稲荷阿岐波神社に向かいます。光栄寺の南で左折し、東へ。ほぼ水田の中を歩いて行きます。旧長島城の大手橋の西にこの神社があります。主祭神は、宇迦之御魂神。相殿神は、大名持之命。変わった名前ですが、これは大国主命の別名。大国主命には、たくさんの別称があるようです(こちら)。

Img_5759c_20221223190001  社伝などによれば、初めは、萱町の田村邸の邸内社でしたが、後に中町の花林院門側に遷座、それ以後、次第に長島三町(下町、中町、萱町と思われます)の産土神として祀られています。また、長島城内未申に位置する二ノ丸櫓東隅に「杉峠稲荷社」が祀られており、歴代長島城主の崇敬をうけ、藩主・松平忠充により貞享3(1686)年、礼殿等の造営がなされていたといいます。その後、天保年間(1830~1843年)に至って、藩主・定政(神社検索(三重)にはこのようにありますが、享和元(1801)~天保13(1842)年の藩主は7代・増山正寧(まさやす)、天保13(1842)~明治2(1869)年は、増山正修(まさなお)が8代藩主。「定政」という名前は、増山家の藩主には見当たりません。こちら)により現鎮座地への遷座が行なわれました。大正3(1914)年、中町の稲荷社を合祀し、稲荷阿岐波神社と単称しています。「阿岐波神社」という割には、秋葉さんを祀っていないのが不思議。

Img_5747c_20221225171101 Img_5750c_20221225171101  下町・中町・萱町の3町内によって石取祭が行われており、7月最終の金・土曜日に町内を回ります。説明板によれば、もともとは稲荷社境内秋葉社の石取神事として行われ、神社の玉垣の敷石を年に一度新しくするために、美しい石を町屋川から拾い採ってきたもので、江戸時代末期ごろからは大祭として行われるようになっています。かつては街道沿いに神社があり、渡祭も行われていたのですが、昭和初期に稲荷社へ合祀となり、現在は、祭車を曳いて鐘や太鼓を鳴らしながら歩く町練りのみが行われています。なお、境内には、日露戦役記念碑が建っています。書は、大山巌。元帥、陸軍大将。日露戦争のときは、満州軍総司令官を務めています。

Img_5781c_20221223190001 Img_5785c_20221226034501  稲荷阿岐波神社からすぐ北に長島城跡があります。現在、城跡は長島中部小学校・長島中学校の敷地となり、遺構の大半は失われていますが、東側に石垣および堀が残るそうです(ネットにある情報では、石垣は大手橋の下にあるそうです)。長島城の起源は、寛元3(1245)年、藤原(九条)道家が館を築いたことにさかのぼります。文明14(1482)年、北勢四十八家の一人、伊藤重晴によって城が再建されました。元亀元(1570)年、一向宗・願証寺の住職・証意蓮淳蓮如上人の6男)の曽孫)によって伊藤氏一族が追放され、長島一向一揆の拠点となりますが、その後、織田信長によって攻略され、滝川一益の居城となりました。賤ヶ岳の戦い後、織田信雄の居城となるのですが、天正14(1586)年の天正地震で天守が倒壊するなど甚大な被害を受けたため、信雄は清洲城に移りました。江戸時代に入ると、菅沼氏が2万石で封じられ、長島城を改修。元和7(1621)年、菅沼氏が移封されると、長島藩は廃藩となり、長島城も一時廃城となったものの、慶安2(1649)年、久松松平家の松平康尚が那須藩より1万石をもって入り、長島藩が再興されました。元禄15(1702)年には、4代将軍家綱の生母の弟・増山正利の子の正弥(まさみつ)が常陸下館より2万石で移され、以後8代続き明治維新に至っています。この間、城郭は順次拡大されましたが、天守は上げられませんでした。

Img_5777c_20221223190001 C56bcffa  長島中部小学校内の「大松」は、天然記念物であり、市の指定文化財にもなっています。これは、クロマツの大樹で、樹齢300年以上と推定されており、長島城があった当時は本丸の西南にあったといいます。また、長島中学校の建物は何となく、お城風に作られています。右の写真は校門(2021年4月22日に撮影)。

 キリがよいので、その1はここまで。その2は、長島川を東に渡って、真宗大谷派の正敬寺から。

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2022年12月10日 (土)

20221210近鉄ハイキング「青木酒造の銘酒『米宗』を訪ねて(酒蔵みてある記)」(1回完結)

Img_5387c_20221210144901  若干迷っていたのですが、結局、今日は、近鉄ハイキング「青木酒造の銘酒『米宗(こめそう)』を訪ねて」に行ってきました。今日は、朝は4.9℃と冷えたものの、風も弱く暖かく、歩いていて汗ばんだくらいでした。桑名での最高気温は、15℃を超えています。近鉄ハイキングでは、3年ぶりに「酒蔵みてある記」が復活し、今日がその初回。これはやはり行くしかありません。

Img_5225c_20221210144801 Img_5221c_20221210144801  受付は、近鉄名古屋線弥富駅で9時30分からでしたので、桑名駅を9時21分に出る名古屋行き普通電車に乗車。弥富には、9時29分に到着。¥260。酒蔵みてある記ではよくあることですが、すでに受付は始まっていました。No.72の番号が附されたコースマップを受け取り、早速スタートします。

221210map  こちらが今日、歩いたルート。弥富駅を出て途中、薬師寺、難畑地蔵尊、興善寺地蔵に立ち寄り、東名阪自動車道を越えて、愛西市へ。青木酒造で試飲、抽選会、即売会。その後は、ひたすら弥富駅に戻るコースですが、帰り道に源空寺と聖覚寺にちょっとだけ寄ってきました。前回(2018年12月9日:20181209近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 青木酒造の銘酒「米宗」をたずねて」へ(予告編)……いよいよ「酒蔵みてある記」の季節到来)、試飲のし過ぎもあってか、コースミスをしでかしましたが、今日は完璧(微苦笑)。

Img_5287c_20221210144801 Img_5280c_20221210144801  最初の立ち寄り先は、鯏浦山薬師寺。スタートから約1.4㎞。ここは、曹洞宗のお寺ですが、かつて織田信長が築いた鯏浦城と呼ばれる砦がありました。このあたりに勢力を持つ一向門徒・服部党(服部友貞が当主)を攻めるためです。信長の弟・信興が城主となったのですが、元亀元(1570)年、小木江城で戦死。怒った信長は大軍を送って、天正2(1574)年、ことごとく焼き尽くしたといいます。鯏浦城には信興の念持仏薬師如来を安置する御堂があり、それがこの薬師寺の前身です。右は、境内にある「鯏浦城跡」の石碑(昭和51(1976)年に建立)。この辺りは、昔は海岸線であり、荷之上集落とともに自然堤防上に立地し、蟹江城と並んで中世期城砦の最南に位置しており、織田が服部党に対峙する拠点だったのでしょう。

Img_5262c_20221210144801 Img_5266c_20221210144801  境内には、また、クスノキの大木があり、「薬師寺の大楠」として親しまれています。この大楠は、樹齢600年以上といわれます。かつてこの付近が海岸線だったことから磯部の楠として有名だったそうです。人々は、この楠の葉を薬として用い病を治したといわれ、 また一説には豊臣秀吉が舟をつないだとも伝えられています。樹下には小祠神明社が祀られ参拝者が跡を絶たなかったようですが、明治時代に弥富神杜に合祀されています。織田信長と一向門徒・服部党との戦いは、後の長島一向一揆にもつながるものです。

Img_5296c_20221210144801 Img_5306c  続いて、難畑地蔵尊。このお地蔵様は、織田信長と服部党・一向門徒との戦場となり多くの犠牲者を供養するために建立されたもので、もとは、この場所ではなく、この東にある東弥生台団地の一角にあったそうです。信長に一面焼き払われた「鯏浦下の割」古戦場は、その後、その後人骨や武具、矢刀などが掘り出され、耕作しようとしても大変難儀に合うことがあり、難畑と呼ばれていました。そのうちに遺骨などを集めて、地蔵尊を祀りました。明治になって、ある時、農家の娘が眼病になり、地蔵尊が「我を中地道の人通りに移してくれたらお前の眼病を治してやる」とその娘の夢枕にたったといいます。村人十数人が、そのとおり、中地道の傍らにお堂を建立し、道行く人にお参りさせたら娘の眼病はたちどころに治ったという言い伝えがあります。これは、前回来た時にボランティアガイドの方に伺った話。

Img_5316c_20221210144901 Img_5324c_20221210144901  西中地の交差点を左折し、東名阪自動車道弥富インターチェンジの方に向かいます。インターの手前に興善寺地蔵。このあたりは、「白頭(しらこうべ)」といい、蓮如上人の孫にあたる実正を養子に迎えたほどの由緒ある寺「荷上山(がじょうざん)興善寺」がありました。寺伝によると、桓武天皇の勅願で延暦14(796)年に創建されたといます。元は天台宗でしたが、永正年間(1504~1521年)に浄土真宗に改めています。信長の時代に長島の願證寺と組んで一揆を起こし、天正2(1574)年に焼き払われたものの、直ちに復興。しかし 寛永4(1627)年の大地震で倒壊し 清州に移転し、さらに名古屋に移りました。廃跡となったその後、白頭池からこの2体の石仏が掘り出され、「興善寺の地蔵」として、服部肇家と斎藤光男家が先代より代々この墓地に安置してきました。昭和51(1976)年に弥富の文化財に指定を受けてからは荷之上区が管理しています。弥富市に残るもっとも古い石仏だそうです。ちなみに、ネットで調べると、名古屋市中区新栄に真宗本願寺派の興善寺という寺があります。

Img_5364c_20221210144901   東名阪自動車道をくぐり、田園地帯に入って、多度山を遠くに見ながら進みます。4年前に同じコースのハイキングに来た日は、寒くて、多度山など養老山脈には雪が積もっていたのですが、今日は、初めにも書きましたように、暖かい。ネックウォーマーは、歩き始めてすぐに外したくらい。ダウンジャケットでなくてもよかったかもしれません。

Img_5380c_20221210144901 Img_5383c_20221210144901  スタートから4.4㎞ほど、10時25分くらいに青木酒造に到着。青木酒造さん、創業は江戸後期である文化2(1805)年。こちらに「蔵元のこだわり」がありますが、濃厚で強い酒、本醸造以上のお酒を製造し、酒母は山廃仕込(山卸廃止仕込み)、生酛仕込(山卸仕込み)をメインとしています。

Img_5392c_20221210152401 Img_5399c_20221210152501  まずは、抽選会場でチェック。勇んでいったものの、敢えなく敗退。前回も外れましたので、これで連敗です(苦笑)。1番違いの71番であれば、近鉄クリアファイルがもらえたのに。

Img_5406c_20221210144901 Img_5402c_20221210144901  続いて、試飲へ。純米初しぼりの「純米米宗」をいただきました。辛口で、トロッとした印象のお酒。美味い! 前回は、このほか、「活性手汲みどぶ 純米酒」や梅酒など、計4杯も試飲しましたが、そのあとコースミスをしましたので、今日は、この1杯だけ。ホントです。

Img_5410c_20221210144901 Img_5413c_20221210153101  即売会では、試飲した「純米米宗」の720mmlを1本買ってきました。4年前は、1本¥1,300でしたが、今回は¥1,600。たまにはちょっと贅沢をしても罰は当たらないでしょう。時節柄、敷地内での飲食は不可ですし、キッチンカーなども来ていませんでしたので、サッサと出て来ました。来年2月4日(土)にも酒蔵開放があるそうです。

Img_5438c_20221210144901  青木酒造から東へ300mほどのところに、稱名山源空寺。浄土宗のお寺。前回も勝手に立ち寄ったのですが、由緒などを記した看板もなく、ネットで検索しても何も出て来ませんでした。クスノキでしょうか、大木が印象的です。源空寺の先、2本目の交差点を曲がるのが正しいルート。前回は、なぜか「ここは違うな」と思い込んで、もう1本先まで行ってしまったのですが、今日は試飲も控え目にし、ストリートビューでも予習してきましたので、バッチリ(微苦笑)。

Img_5455c_20221210144901 Img_5459c_20221210144901  曲がったすぐのところに真宗大谷派の金剛山聖覚寺。ここも詳しいことは分かりませんでしたが、田園地帯にあり、自然環境のよいお寺。山門が、長屋門のような立派な門であるのが印象的でした。

Img_5513c_20221210145001  このあとは立ち寄るところはありません。途中からは、往きに通ったのと同じ道をたどって、近鉄弥富駅へ。11時20分頃到着。一回りしてきた訳ですが、歩いたのは7.9㎞。時間は2時間弱。ハイ・スピード・ハイキング(笑)。立ち寄り先が少なく、立ち寄ったところでも見て回る事もありませんでした。酒蔵も宴会ができませんでしたから、こんなもの。弥富まで電車で来て、酒蔵へ歩いて酒を買いに行ったという感じ。

Img_5534c_20221210154601 Img_5566c_20221210145001  弥富駅11時24分発の四日市行き準急に乗車。桑名駅には11時32分着。¥260。帰宅は、11時50分。朝、家を出たのが8時55分頃でしたから、全行程含めて、3時間。歩いた距離は、Google Fitのデータではトータルで11.7㎞。ちょっと実際よりも多い気がします。

Img_5508c_20221210145001  余談その1。前回の記事にも書きました。前回来た時「鯏」という漢字が読めませんでした。「ウグイ」です。ウグイは淡水魚ですが、昔このあたりにたくさんいたということかもしれません。

Img_5543c_20221210145001  余談その2。帰りに桑名駅に着いて、自由通路から三岐鉄道北勢線西桑名駅を眺めたら、「ヴィアティン三重」ペインティングの車両が止まっていました。この車両、きちんと撮影したことがありませんでした。急いで行ったのですが、発車直後になってしまい残念。来年3月末日まで運行されますから(こちら)、それまでの間にぜひ、きちんと撮影したいものです。

1670636005718c  こちらは、今日の晩酌にでもいただこうかと思っています(微笑)。

 【付記【12/10夜】 これは美味しい(微笑)。試飲のところで書いたとおり、辛口でトロッとしていて、堪りません。酒蔵のこだわり通り、濃くて強い酒。ついつい飲み過ぎそうです。ここはグッと我慢。明日以降にも残しておきます。

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2022年12月 3日 (土)

20221203桑名駅西&諸戸水道ウォーキング(1回完結)【カワセミについて付記(12/17)】

Img_4582c_20221203154501  今朝は、2.2℃まで冷えました。わが家の玄関先から見える藤原岳も初冠雪していました。道理で冷えたわけです。木曽御嶽山にも雪が積もっているのも見えました。

1203kuwanawest  今日は、予定通り、「桑名駅西&諸戸水道ウォーキング」に出かけてきました。ルートマップは、桑名駅スタートと書きましたが、実際には、桑名神明社で同級生K氏と待ち合わせ。そこから、諸戸水道水源井、養泉寺、諸戸水道貯水池遺構、長善寺、諸戸徳成邸跡、徳成第一公園、走井山公園、勧学寺、上野御膳水、上野神社、十念寺墓地、冷水庵、南大山田神社、太夫の大楠、増田神社、西桑名神社、西方城跡、西方寺、西方廃寺跡、海善寺と回ってきました。桑名駅スタート&ゴールでカウントしますと、6.8㎞のコース。アップダウンがかなりあり、最高地点は海抜70mくらいでした。かなりの運動量。昨年3月20日に同じところを回っていますので(2021年3月20日:20210320勝手にハイキング「諸戸水道・駅西を行く」(予告編))、今日の記事は簡略版で1回完結。

Img_4586c_20221203155401  桑名駅東口。写真を撮っただけで、今日は通過。今年もイルミをしていますが、まだ見ていません。夜はほとんど出歩かないのです。形式上、ここがスタート地点。

Img_4593c_20221203154501 Img_4602c_20221203154501  桑名駅の南300mほどのところに、東から西へ順に、三岐鉄道北勢線のナローゲージ、JR関西線の狭軌、近鉄名古屋線の標準軌と、3種類の線路幅を渡る踏切があります。この3種類の幅の線路を渡る踏切は、全国でここだけだそうです。右の写真では、ちょうどJR関西線の列車(手前)と近鉄名古屋線の電車が通過していくところ。

Img_4635c_20221203154501 Img_4639c_20221203161801  こちらが、今日の集合場所である桑名神明社。由緒書きによれば、創始は応永年間(1394~1427年)で、伊勢神宮の分社とし天照大神を遷座し、村の氏神として祀ったといいます。天正年間(1573~1591年)、兵火のため類焼に逢い、社誌古帳等すべて灰となって、詳細は分からないといいます。明治3(1870)年に社殿を改築し、その時、地域の神社を合祀しており、境内には、八天宮、山の神社、一二三社(稲田の神)の他、稲荷社が。

Img_4646c_20221203154501  桑名神明社の東にある信号を渡って、シェルメール桑名東方というマンションのすぐ東にある細い道を南に入って行くと、諸戸水道水源井があります。諸戸水道は、初代諸戸清六が、独力で上水道敷設を計画し、東方丘陵地の地下水を集めた貯水池を築き、桑名市内に上水道を普及させたもの。この井戸は、その水源でした。諸戸水道は、近代的な上水道としては、全国で7番目に完成しました。明治37(1904)年に竣工し、昭和4(1929)年まで使用されています。この水源井のすぐ西に貯水池遺構もありますが、ルートの関係で、先にもう1箇所を訪ねます。ちなみに、この水源井の近くでは、常に地下水が染み出ているところがあります。それだけ水が豊富に出たところだった証しでしょう。

Img_4664c_20221203154501 Img_4671c_20221203154501  続いて、蓮華山養泉寺。真宗大谷派のお寺。桑名願証寺内にあったのですが、願証寺が高田派に改宗したときにしたがわず、独立しました。長島一向一揆の総指揮者で戦死した下間豊前の子・舎人が出家し、伝馬町に再建された願証寺内で創始したお寺です。移転を繰り返したのですが、昭和4(1929)年にここに来ています。多度、長島を含め桑名市内には、長嶋一向一揆に関わりのあるお寺がたくさんあります。

Img_4704c_20221203154501 Img_4699c_20221203154501  養泉寺のすぐ北には、諸戸水道貯水池遺構があります。初代諸戸清六は、ここに東方丘陵地の地下水を集めた貯水池(東西約13.4m・南北約23.2m、深さ約3.6m)を築き、延長14㎞にも及ぶ給水管で桑名町周辺(給水区域:旧桑名町・旧赤須賀村・旧益生村、旧大山田村の一部)に共用栓55ヶ所、消火栓24ヶ所を設置し、市民に無償提供したのです。貯水池の側壁と底面はコンクリート造、内壁は全て煉瓦積です。上屋は失われてしまっています。

Img_4717c_20221203154501 Img_4721c_20221203154501  この遺構の南には、万年山長禅寺。曹洞宗のお寺。かつては長島にあったのですが、明治の木曽三川改修工事のため、現在地に移転しています。「桑名市史 本編」によれば、天正の頃、美濃高須城主・徳永左馬助正重が田地を寄附して一宇を建立したとあります。薩摩義士・和田善助の墓があります。ただ、このお寺、至る所に「用のない方は入らないように」という掲示があり、敷居が高い(苦笑)。お寺は、もっとオープンでいて欲しいと思います。

Img_4749c_20221203154501 Img_4755c_20221203154501  次へ行く前に、諸戸徳成邸があったところを見てきました。以前にも立ち寄ったのですが(2020年8月17日:39.2℃のもと村正史跡めぐりスタンプラリーへ……3時間で7.9㎞を歩き村正の鍔の形のピンバッジをゲット)、すっかり高級住宅街に再開発されています。ただし、諸戸家墓所はそのまま残っています(右の写真)。諸戸徳成邸は、2017年に最後の公開を見に行っています(2017年4月29日:「諸戸徳成邸」特別公開へ……「見納め」になるということで)。

Img_4768c_20221203154501  続いて徳成第一公園。徳成農園跡です。ここは、東洋紡績の前身である三重紡績を創立した一人、伊藤傳七(第10代)(嘉永7(1852)~大正13(1924)、明治~大正時代の実業家、貴族院議員)が果樹栽培などの研究のため、明治43(1910)年に園芸場を設けた跡地です。

Img_4771c_20221203154501  走井山公園。桜の名所でもあります。戦国時代に矢田城がありました。北畠氏の家臣である矢田半右衛門俊元の居城でしたが、織田信長の伊勢侵攻の際に滝川一益によって攻められ落城すると、その後は一益に与えられ、長島一向一揆を攻略する最前線基地として使われました。

Img_4795c_20221203154601  走井山勧学寺の本堂。聖武天皇の御代(724~749年)、行基菩薩の草創によるものと伝えられています。室町の頃(1390~1570年)までは走井山北麓にありました。同地内(現在の桑名高校付近)の海善寺が廃寺となり、本尊の千手観音立像が当寺へ移されてきています。桑名藩主・松平定重公(1657~1710年)の時、現在地の矢田城跡に再建されました。明治の初め(1870~1880年頃)、いったん廃寺の憂き目に遭ったものの、近在の信者有志の尽力により再興されました。本堂は、松平定重公寄進のもので、市内に現存する寺社建築としては最も古いとされます。

Img_4858c_20221203154601  走井山公園から南、三岐鉄道北勢線馬道駅の方に降りてきたところから振り返った写真。何度か取り上げていますが、この写真に三猿(見ざる・聞かざる・言わざる)があります。この三猿は私のお気に入り。ここで見上げたら、背後にイチョウの大木があって、なかなか良い景色でした。

Img_4888c_20221203154601  こちらは上野御膳水(ごぜんみず)。背後の上野の丘から湧き出た水で、江戸時代、桑名藩主の飲料水として、毎日、桑名城まで運ばれたのが、ここ上野の湧水なのです。そのため、「御膳水」と呼ばれます。以前は、筧から水が流れ出ていたそうです。今は、飲用には適しません。

Img_4912c_20221203154601 上野御膳水の西に上野神社。上野神社のご祭神は、建御雷之男神(タケミカヅチノカミ:鹿島神宮の神)、齋主神(いわひぬしのかみ:経津主神(ふつぬしのかみ)ともいう、香取神宮の神)、天児屋根神(アマノコヤネノミコト:天照大神が天の岩屋に隠れたとき、祝詞を奏した神)など7柱。上野村の氏神様。

 Img_4917c_20221203154601 石取祭で有名な春日神社(桑名宗社)は、桑名神社と中臣神社の2社からなっていますが、中臣神社はもともと上野に鎮座していたといいます。神護景雲2(768)年、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮から奈良市の春日大社に建御雷之男神を勧請した際、ここ上野に一時鎮座し、翌神護景雲3(769)年にその鎮座地に創建されたのが、その中臣神社であると伝わっています。この中臣神社は、正応2(1289)年8月、桑名神社境内に遷座され、上野を離れました。永仁4(1296)年8月、中臣神社に春日大社から建御雷之男神、斉主神、天児屋根神、姫大神の4柱が勧請されたのですが、その際には上野村(現在の桑名市太夫)の若太夫と一太夫が遣わされたとされます。その後、中臣神社の旧鎮座地に春日大社の4柱を祭神とする四之宮神社が祀られました。明治41(1908)年、上野村内にあった山神社(祭神は 大山津見神)と富士浅間社(祭神は木花咲耶比売命)、繁松新田の一目連神社(祭神は天目一箇命)とともに立坂神社へ合祀されたのですが、戦後、四之宮神社を旧地に戻そうという動きがあり、昭和23(1948)年4月に、現在地へ分祀。この時、四之宮神社とともに合祀されていた旧村内3社の祭神もあわせて祀り、社号は上野神社と改められています。

Img_4935c_20221203154601 Img_4938c_20221203154601  上野神社から竹林の中を少し登っていきます。最初に来た時はずいぶん不安を抱きながら登っていった記憶があります。ここに上野墓地があります。「十念寺山」とも呼ばれます。慶長の町割のとき(慶長6(1601)年)、十念寺は桑名城付近から現在地の伝馬町に移転したのですが、しかし、面積が不足したため、この一帯を藩主に賜ったといいます。十念寺の歴代住職の墓などがあります。見つけた中でもっとも古いお墓は、「寛永五年(1628年)」とあり、驚きました。花が手向けられている墓もたくさんありました。

Img_4969c_20221203154601 Img_4966c_20221203154601  上の墓地からさらに登って、井坂山冷水庵(いさかさんれいすいあん)。曹洞宗。明暦2(1656)年に茂右衛門が境内地を寄進し、建立したといいます。位牌によれば、海蔵寺3世の剣嶺(けんれい)大和尚が開山し、その弟子である愚白(ぐはく)禅師が開基。海蔵寺の末寺。弘法大師の作という虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ:智慧と功徳が広大無辺である菩薩)を本尊とします。現在の本堂は、棟札によれば文化 13(1816)年4月に建てられたもの。境内に阿波国出身で桑名藩校進脩館(しんゆうかん)の副教(副校長)をつとめた佐父理希亮(安永3(1774)~文政3(1820)年:さぶりまれすけ)の墓で、亀に乗った「亀跌(きく)」があります。妻の柔は夫が異郷の地で亡くなり、将来は夫の業績がだれにも知られなくなることを嘆いて、自分の装身具を売り払い、ここに墓を建てたのです。

Img_4976c_20221203154601  南大山田神社。元は太夫村八幡社でした。この八幡社は、明治41(1908)年10月に西桑名神社に合祀され、合祀した新しい神社を南大山田神社といいました。その後、第二次大戦後に分祀されたのではないかと思います。境内には、「八天宮」と刻まれた石柱と「両宮遙拝所」とがあります。「八天宮」は、火伏せの神。江戸時代の文政7(1824)年、桑名藩主の命で各村に八天宮を祭るようにされ、桑名員弁地方で特に信仰が多いそうです。両宮遙拝所は、もちろん伊勢神宮の外宮・内宮。伊勢神宮の遙拝所は、桑名あたりではあまり見かけません。ここで、小休止。

769fa848 Img_4983c_20221203154601  太夫の大楠(たゆうのおおくす)。元々、六本楠という名称の楠(楠群)があり、楠が6本あったといいます。 天正年間(1573~92)、三河の武士が、この六本楠に隠れて追手から逃れることができ、 一命を取り留めたそうです。後年、その楠が枯れた時に、その母親がお礼に植えたという話が伝わっています。幹が2つありますが、環境省巨樹巨木林データベースによれば、幹周6.80m、樹高20m、地上60cmの所で測ると、幹周は10.08mとあります。このあたり、八幡社(南大山田神社)の境内地であったと思われ、ご神木だったといいます。全体像の写真を撮り忘れましたので、左の写真は去年3月20日に撮ったもの。

Img_5009c_20221203154601 大楠から北へ、すぐのところに、増田神社。ここは、伊勢太神楽で有名。伊勢太神楽は、伊勢神宮に参拝できない人の代わりに神楽を奉納する神事で、桑名市内の伊勢太神楽講社の人々によって受け継がれているもの。普段は各地を回っていますが、12月24日には増田神社境内で全曲が奉納されます。豪壮な獅子舞に加え、皿回しや軽業といった曲芸などもあります。 伊勢太神楽は、国の重要無形民俗文化財。

Img_5013c_20221203154601  増田神社の御祭神は、天照皇大神など7柱。由緒書きによれば、白鳳元(672)年、壬申の乱の際に大海人皇子が、吉野から桑名に逃れ、桑名郡家に泊まられたという伝えがあります。そのときに神宮を遙拝された地に、この増田神社を奉祭されたとありました。

58a7b945  ここで一度、伊勢太神楽を見たいと思うのですが、未だ実現せず。大賑わいになるからです(人が大勢いるところは好まなくなりました)。伊勢太神楽、私は、春日神社の左大臣・右大臣奉納奉告祭で見ました(2016年8月21日:春日さんの左大臣・右大臣奉納奉告祭……伊勢大神楽の奉納も【動画をYouTubeにアップしました】)。

Img_5042c_20221203154601  余談ながら、増田神社から県道を越えて、西桑名神社に向かいますが、県道交差点のところにある三和シヤッター販売店には、鉄人28号とスパイダーマンがいます。この光景は、地元ではたぶんかなり有名。

Img_5066c_20221203154601  その先に、西桑名神社。主祭神は、品陀和氣命(ほんだわけのみこと:応神天皇)。勧請年月は明らかでないようですが、現在の西方配水場のあるところに、滝川一益が永禄年間(1558~1570年)に西方城を築かせた加藤勘助の祈願所であったといいます。また、この西桑名神社にも、大海人皇子(天武天皇)が白鳳年間(白鳳は、私年号)に桑名に立ち寄られたときに、ここから神宮を遙拝されたという伝説もあると由緒書きにはあります。

 Img_5049c_20221203154601 西桑名神社は、明治41(1908)年10月に太夫村の八幡社(南大山田神社)を合祀し、南大山田神社と称しています。昭和9(1934)年9月、西桑名神社に改称。天正年中(1573~1591年)滝川氏の頃、既に城廓があったので、それ以前からの社であるとされています。

Img_5070c_20221203154701  西方城跡は、今日は、場所を確認しただけで通過。かなり上り下りしてきましたので、これ以上の登りは勘弁して欲しいということ(苦笑)。西方城は、滝川一益の家臣加藤勘助が築いたとされます。矢田城を中心とする西別所3城(西方城、白山城、西別所城)の1つ。天正11(1583)年、滝川一益が転封の後、廃城となりました。現在は配水場、竹林、畑に変わっており、竹林内に土塁らしきものが残ります。前回の記事をご覧ください(2021年3月23日:20210320勝手にハイキング「諸戸水道・駅西を行く」……その3(南大山田神社から海善寺を経て桑名駅西口にゴールで「完」)。

Img_5073c_20221203154601 Img_5082c  西方状の北に西方寺(さいほうじ)。入り口に「真宗大谷派阿弥陀堂」と刻まれた門柱が立っています。天文16(1547)年、道覚が開基し、ご本尊も同年のものが伝わっています。かつては道場で、「旧道場」「総仏堂」「阿弥陀寺」と呼ばれました。昭和17(1942)年には「西方教会」と改称し、昭和27(1952)年に現在のように、西方寺となりました。

Img_5103c_20221203154601  ここは今日歩いた中でたぶん最も高いところで、キョリ測で見ると、海抜約70m。眺めも良く、名古屋駅前の高層ビル群もよく見えたくらい。紅葉は、まだこれからという感じでした。

Img_5117c_20221203154701  西方寺から下って、マリアモンテッソーリ幼稚園(右の写真)Img_5111c_20221203154601 の南側を通って、西方廃寺跡。西桑名神社の北東にある笹山溜池公園がそれです(以前は、標識が建っていたようですが、今はありません)。西方廃寺は、奈良時代の寺院と考えられています。というのも、志摩国分寺や縄生廃寺(朝日町)と同系の瓦が出土しているためです(こちらを参照)。この近くには、西方窯跡があり、西方廃寺に瓦を供給するために創業した窯跡でした。4基の窯があったといいます。西方窯跡は、現在は、マリア・モンテッソーリ幼稚園の敷地内のようで、立ち入りはできません(こちらを参照)。

Img_5143c_20221203154701 Img_5136c  最後の目的地は、東明山海善寺。元木観音とも呼ばれています。前回来た時には、かなり荒れていたのですが、少しずつ修復されているようでした。江戸時代には、境内に大きな松があり、「元木の笠松」と呼ばれていました。また、付近は松林となっており、サギが生息していたので「鷺山」といわれていたといいます。古代からの寺院・海善寺の跡地とされます(くわな史跡めぐり)。千手観音が安置されています。前回は厨子の中で拝観できなかったのですが、今日は、しっかりと見られました。これで今日の目的地はコンプリート。時刻は11時45分。昼食を摂るために桑名駅方面に向かいますが、ここから先は、下り坂のみ。BSプレミアムの「日本縦断こころ旅」で火野正平さんが、自転車で坂を下る時の決め台詞に「人生、下り坂最高!」というのがありますが、似たような気分。

Img_5154c_20221203154701  余談。桑名駅では、自由通路を通って東側へ。自由通路には、ベンチがいくつか設置されていました。今週水曜の非常勤に行った時には気づきませんでしたので、それ以降に置かれたかと思います。ベンチの足が、桑名の鋳物でつくられたものもありました。ベンチ本体は、多度山の間伐材を使っているのかなという気がします。

Img_5162c Dsc_6871c  桑名駅の周囲は、ランチが取れるところ店は多くありません。今日もウロウロしてしまい、結局、最近も行った「桑名ホルモン&目利きの銀次」へ。12時半になっていました。「サバかつ定食(¥880)」で昼食。1時半過ぎまでしゃべって解散。

 Img_5181c_20221203154701 今日歩いた距離。Google Fitで約10㎞。ここまでの歩数は、17,767歩でした。よく歩きましたし、アップダウンがかなりありましたから、けっこうな運動量。年内にもう1回、長島の方へウォーキングに行きたいと思っています。

Img_4905c_20221217044201 【カワセミについて付記(12/17)】 12月16日に鳥見の知人から、上野御膳水の南にある農業用のため池に最近、カワセミがペアで登場しているという情報を得ました。コースマップでは上野御膳水のすぐ南西にある池がそれです。オスのカワセミが以前からいたところにメスも来るようになったというお話しでした。

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2022年11月 1日 (火)

20221029JRさわやかウォーキング「伊勢鉄道線開業35周年記念 歴史と文化に触れる鈴鹿市を再発見!」(その2)……常夜灯2基、神戸の見附跡、観音寺、龍光寺、神戸宗社、神戸城跡を経て伊勢鉄道・鈴鹿駅にゴール(完) ……

Kawano2  10月29日のJRさわやかウォーキング「伊勢鉄道線開業35周年記念 歴史と文化に触れる鈴鹿市を再発見!」の本編その2です。その1では、河曲駅を出発して、高岡城跡まで来ました。ルートマップは、その2の途中です。高岡城跡を西に回って下り、関西線を超えて、鈴鹿川を高岡橋で渡ります。渡ったところに階段付きの常夜灯。

Img_3265c_20221029183301 Img_3268c_20221029172901  高岡橋を渡っている途中で見た、鈴鹿川の上流方向。良い天気で気持ちが良い景色が広がっています。橋の途中で振り返ると、先ほど訪ねた高岡城跡にある休憩所が高岡山の中腹に見えています。

Img_3283c_20221029172901  橋を渡り終え、鈴鹿川に沿って少し上流方向に戻ると、階段付きの常夜灯があります。この常夜燈には、点火用の階段がついているのです。「太神宮常夜燈」「国土安穏」などと刻まれています。文化4(1807)年の建立。よほど高い常夜灯でないと、点火用の階段は付いていません。階段部分は傷んでしまったようで、平成11(1999)年に修復されています。「平成十一年十月吉日修復 大泉源之」とありました。

Img_3286c_20221029172901  この先は高岡町内の旧伊勢街道を進んでいきます。水田地帯。「みえの歴史街道」の伊勢街道のマップの説明には、このあたりは「古代条里制の面影が残り、一直線に進んでいる」という説明があります。条里制とは、7~8世紀頃、全国的に平野部を区画した地割のこと。幅六町(約654メートル)の直交する条と里(り)によって、大区画を作り、これで囲まれた正方形の各辺を六等分した幅一町の線で面積を36等分します。この一辺一町の小区画が面積一町で、これをさらに長地形、半折形に10等分して一段になります。

Kawano3  この辺から実際に歩いたルートマップは、その3へ。7㎞を過ぎると、十宮(とみや)の常夜灯、さらにその先に神戸の見附跡。近鉄鈴鹿線を終えて行きます。

Img_3302c_20221029172901  こちらが、十宮の常夜灯。文化14(1817)年に建立されたもの。大正9(1920)年に再建されています。十宮村三軒屋の入り口にあります。去年の「歩いて伊勢参りウォーキング」のとき、ここで、同行のK氏が、「常夜燈の内側はどうなっているんだろう?」と尋ねてきたのを覚えています(2021年7月19日:20210717「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第5回「日永の追分~鈴鹿・神戸」(その2)……鈴鹿市に入り、階段付常夜燈や神戸見附跡を訪ねる)。このときは、暑い中を歩いていましたっけ。

Img_3309c Img_3318c_20221031172101  続いて、神戸の見附跡。草ボウボウで、ちょっと興ざめ。去年は、ここで小休止していました。伊勢街道の両側に土塁と石垣を築いたものが残っています。ここが神戸宿の入り口。町の治安を守るために番人がいて、夜間遅くには木戸を閉じて通行を禁じたといわれています。街道の両側の石垣には木戸の柵を支えた溝が今も残っています。右の写真にある神社の社号標は、阿自賀神社(あじか)のもの。ここから東へ300mほどのところにあります。

Img_3337c  神戸の町には、まだ古い建物が残っており、城下町、宿場町の雰囲気が味わえます。卯建が上がった家もたくさん残っています。神戸見附跡のすぐ先に、創業250年以上の旅館加美(かみ)亭があるのですが、今回は気づかずに通過してしまいました。

Kawano4  ルートマップは、早くもその4へ。鈴鹿市駅の西で近鉄鈴鹿線を越え、神戸小学校のところで六郷川を渡ります。札の辻を経て、観音寺に寄り道をしてから、龍光寺へ。龍光寺の隣に神戸宗社がありましたので、ここにも立ち寄り、神戸城跡へ。神戸城跡が、この日の最終目的地。昼食を摂ってから、ゴールの伊勢鉄道・鈴鹿駅に向かいます。このあたりは、以前に来ていますので、それらの記事もご覧ください(2019年5月13日:20190504近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅4日目~伊勢街道、旅人気分で伊勢平野の鈴鹿から海運で栄えた白子へ」(その1)……近鉄鈴鹿市駅をスタート、2019年5月14日:20190504近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅4日目~伊勢街道、旅人気分で伊勢平野の鈴鹿から海運で栄えた白子へ」(その2)……ようやく神戸城跡にたど、2021年7月20日:20210717「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第5回「日永の追分~鈴鹿・神戸」(その3)……神戸の町を歩いて、鈴鹿市駅へゴール(完)

Img_3358c_20221029172901  六郷川にかかる大橋。このあたりは、かつては神戸藩士の水練場であったといいます。今では、こんなところで泳げたのか、という気がするくらいの流れです。

Img_3362c Img_3366c_20221031173401  大橋の先に札の辻。油伊(あぶい)旅館のところ。神戸藩の高札場がありました。油伊旅館の前には、里程標と道路元標があります。右の写真で背の高い石碑が里程標で、その根元にある小さいものが道路元標。どちらも大正3(1914)年の建立です。

Img_3402c_20221031180201 Img_3396c_20221029172901  次の目的地である龍光寺の手前に補陀落山長徳院観音寺があり、ちょっと気になりましたので、立ち寄り。浄土宗。開創は鎌倉時代で、真言宗でした(開創年は不明)。元亀元(1570)年、三蓮社休波観愚老和尚により浄土宗に改宗。神戸城主・本多候が神戸に就封以来、その菩提寺となり、本多氏歴代の位牌が納められています。境内には立派な松の木が2本。向かって左も、以前は大きな松の木だったようで、根元に写真が展示してありました。

Img_3389c_20221031180201 Img_3383c_20221031180201  境内には、本多家2代藩主・忠永公の徳をたたえた「思徳(しとく)の碑」があります。忠永公は、兵法と文学に長けた半面、情けの深い武士で領民の信頼を一身にあつめたといい、領民が慕い頼る様子を見た5代目忠升公が、文化14(1811)年、ここに建てたもの。右の写真は、境内にある位牌堂。

Img_3412c_20221029172901 Img_3427c_20221029172901  続いて、天澤山龍光寺(りょうこうじ)。臨済宗東福寺派別格地という寺格を持っています。ここは、「神戸の寝釈迦」で有名です。京都東福寺の画僧、吉山明兆(きっさんみんちょう)が描いたといわれる日本三幅の一つの大涅槃図(16畳敷きもあるそうです)が開帳されます。一度は拝観したいと思っているのですが、まだかなっていません。龍光寺を初めて尋ねたのは、近鉄ハイキングの「御伊勢さん参りハイキング」の時でしたが、そのときは、たまたまコースミスをしでかして、立ち寄ってしまったのです(2019年5月13日:20190504近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅4日目~伊勢街道、旅人気分で伊勢平野の鈴鹿から海運で栄えた白子へ」(その1)……近鉄鈴鹿市駅をスタート)。詳細は割愛しますので、詳しくはこのリンク先をご覧ください。

Img_3457c Img_3439c_20221029172901  龍光寺の隣に神社がありました。その名は知っていたのですが、ここにあるとは思わず。神戸宗社でした。正式には、神館飯野高市本多神社(こうたついいのたかいちほんだじんじゃ)。ご祭神は、天照皇大御神。相殿神は、豊受皇大御神、高御産巣毘神大御神、本多忠統公など21柱(リンク先をご覧ください)。「鈴鹿市史」によれば、神館、飯野、高市の3社を合祀し、神館飯野高市神社と称し、俗に神戸宗社と呼んでいるといいます。垂仁天皇の御代、倭姫命が巡行された折、この地にしばらく滞在された宮所と伝わっています。そのため「神舘」という名前になっていると思われます。飯野神社、高市神社、本多神社を合祀していますので、ご祭神が多数いらっしゃるということでしょう。神戸宗社でも、石取祭が行われます。

Img_3452c_20221031191601 Img_3462c_20221031192001  神戸宗社で目立ったのは、ご神木。2本のムクノキ。樹齢は不詳ですが、かなり高くそびえています。令和2年に樹木保護事業の助成を受けて、樹勢回復事業が実施されたそうです。神戸宗社も興味があるところでしたので、尋ねられて良かった(微笑)。

Img_3511c_20221029173001 Img_3482c_20221031192701  さて、最終目的地は、神戸城跡。江戸時代には神戸藩の藩庁が置かれていました。神戸氏4代の神戸具盛が天文年間(1532~1555年)に築城したのが始まりです。永禄11(1566)年の滝川一益の侵攻に和睦し、養子にうけいれた織田信長の三男神戸信孝により、より強固に修築されます。その後、城主は度々代わり、関ヶ原の戦い以降は一柳氏(ひとつやなぎうじ)が5万石で入りました。天領となった時期もありましたが、慶安3(1650)年には石川総長(いしかわふさなが)が1万石で当地に封じられ、さらに、享保17(1732)年には本多忠統(ほんだただむね)が2万石で封じられ、城を修築し入城し、これ以降明治維新まで、本多氏7代が居城として用いました。現在城の中心部は神戸公園となり、二の丸跡には、三重県立神戸高等学校が建てられています(詳細については、20190504近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅4日目~伊勢街道、旅人気分で伊勢平野の鈴鹿から海運で栄えた白子へ」(その2)……ようやく神戸城跡にたどをお読みください)。

Img_3486c_20221031192701  本丸には自然石をそのまま積み上げた野面積みの天守台があり、ここに神戸信孝により5重6階の天守が築かれました。北東に小天守と南西に付櫓がある複合連結式の天守であったといいます。しかし、天守は、文禄4(1595)年に解体され、桑名城に三重櫓として移築され、「神戸櫓」と呼ばれました。その後、江戸時代を通して、天守閣は造られませんでした。これでこの日の目的地は、コンプリート。ゴールの伊勢鉄道・鈴鹿駅に向かいます。

Dsc_0399c Img_3523c_20221029173001  ちょうど12時を過ぎた頃。どこかで昼食をということですが、最初に行こうと思ったラーメン屋さんは、店の外まで行列。「並んでいるというのは美味しいのだろうけど、並んでまで食べるのはどうも」と思い、京都北白川 ラーメン 魁力屋 鈴鹿矢橋店へ。特製醤油味玉ラーメン、¥869也。京都背脂醤油を使っているということで、脂っこいかと思ったら、案外サッパリしていて、美味しくいただきました。

Img_3531c_20221029173001 Img_3539c_20221031193401  ゴールの伊勢鉄道・鈴鹿駅には13時過ぎに到着。ここまで、現地では11.3㎞を歩いてきました。JRさわやかウォーキングのスタンプカードを持っていたのですが、その期限が実は、2020年11月29日。コロナ禍で延長されたものの、この10月末で期限切れ(こちら)。スタンプは、今回を含め8つになったのですが、賞品をもらえる10個には至らず。やむなくWebアプリの会員申し込みをもらってきました。帰宅して、早速、新規登録を済ませました。次回からは、Webアプリで参加します。

Img_3577c  ゴール受付で伊勢鉄道の「鉄カード」をいただきました。”JR東海さわやかウォーキング「伊勢鉄道線開業35周年記念 歴史と文化に触れる鈴鹿市を再発見!」のゴールとなる伊勢鉄道鈴鹿駅にて、同ウォーキングを踏破された方先着500名様に、伊勢鉄道開業35周年を記念した「鉄カード」を配布します”というレア・アイテムです。

Img_3545c_20221029195101 Img_3534c_20221029173001  鈴鹿駅発13時6分の四日市行き普通に乗車。窓口でJR桑名駅までの切符を買ったら、これが硬券でした(右の写真)。四日市駅に13時19分着。13時26分発の快速みえに乗り換えて、桑名駅には13時37分着。¥640。

Img_3566c_20221029195601 Img_3569c_20221029195601  14時に帰宅。この日の歩数は、左の写真のように、23,450歩。歩いた距離は、Google Fitによれば、15.16㎞ですが(右の写真)、キョリ測で計ると、現地では11.3㎞、自宅から桑名駅往復が2.2㎞ですから、13.5㎞。

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2022年10月30日 (日)

20221029JRさわやかウォーキング「伊勢鉄道線開業35周年記念 歴史と文化に触れる鈴鹿市を再発見!」(その1)……関西線河曲駅をスタートし、鈴鹿市考古博物館、伊勢国分寺跡、冨士山1号古墳、高岡山中央公園から高岡城跡へ

221029jrwalkingkawanoc  10月29日のJRさわやかウォーキング「伊勢鉄道線開業35周年記念 歴史と文化に触れる鈴鹿市を再発見!」の本編その1です。この日は、よく晴れて、桑名では最高気温は22.0℃。ウォーキング日和でした。「伊勢鉄道線開業35周年記念 歴史と文化に触れる鈴鹿市を再発見!」に行ってきました。JR関西線河曲(かわの)駅から伊勢鉄道鈴鹿駅まで、コースマップ上、9.8㎞。JRさわやかウォーキングは、5月以来(2022年5月22日:20220522JRさわやかウォーキング・近鉄ハイキング共同企画「四日市けいりんバンク特別開放と四日市の鉄道・バスグッズマルシェ第2弾!!」(完))。

Kawano0  この日実際に歩いたルートマップは、こちら。河曲駅から鈴鹿市考古博物館、伊勢国分寺跡、冨士山1号古墳、高岡山中央公園、高岡城跡、常夜灯、神戸の見附跡、観音寺、龍光寺、神戸宗社、神戸城跡と回ってきました。長丁場でしたからなるべく寄り道はしないでおこうと思ったものの、ついつい好奇心から3箇所ほど寄り道をしてきました。そのため、キョリ測で調べると、現地では11.3㎞を歩きました。今回も同級生K氏と二人旅。

Img_3055c_20221029172801 Img_3037c_20221029173701  JR桑名駅を8時14分に出る亀山行き普通電車に乗車。河曲駅には8時46分に到着。¥420。その昔、鈴鹿で働いていましたが、当時は、このあたりには来たことなし。河曲駅に来たのは、2019年4月20日にあったJRさわやかウォーキング以来(20190420JRさわやかウォーキング「旧東海道 石薬師宿と鈴鹿「植木まつり」を訪ねて」へ(予告編))。昭和3(1928)年に木田信号場として開設。昭和24年(1949)年に鈴鹿駅に格上げされたものの、昭和45(1970)年には無人駅になってしまいました。市街地から遠いのが難点。昭和48(1973)年、伊勢鉄道伊勢線の開業のとき、河曲駅に改称しています。ということは、この日は、旧鈴鹿駅から現鈴鹿駅まで歩いたということ(微笑)。2019年のデータでは、1日の乗降者数は322人。この数値からすると、この日は大賑わい。

Kawano1  こちらが、詳しいルートマップその1。河曲駅は、鈴鹿川にほど近いところにあります。ぐるっと回って関西線の踏切を越え、ほぼ北に進みます。鈴鹿市考古博物館、伊勢国分寺跡を回ってから東へ。

Img_3068c_20221030162801 Img_3074c_20221030163101  スタート看板をいつものように撮影したのですが、チェックを怠り、ピンボケ写真でした(涙)。スタートは8時50分。左はスタート直後の西の方の写真。奥に見える山並みは、鈴鹿山脈。その手前にある大きな建物あたりは、今年2月5日の東海道ウォーキング(0220205東海道ウォーキング(日永の追分~加佐登)(予告編))で通った石薬師宿の北側あたり。右の写真は、400mあまり歩いて、木田の町に入ったところにあった看板。笑えました。

Img_3077c_20221030163201 Img_3081c_20221030163301  しばらく左の写真のようなところを歩いて行きます。昔からある町のようで、ゆったりとした気分。ただし、微妙に登り道(苦笑)。お地蔵さんもありましたが、よほど有名なものでなければ、その由緒などは分からないのが、残念。このあと1㎞ほど、上り坂。

Img_3106c_20221029172801  スタートから1.7㎞、ほぼずっと登ってきて、鈴鹿市考古博物館に至ります。国史跡伊勢国分寺跡の南に隣接して建てられた考古学を専門とする博物館です。市内から出土した土器・石器・瓦などを保管・展示しています。

Img_3103c_20221029172801  12月18日まで「秋季特別展『国分寺』」が開催されています。全国の国分寺の発掘調査成果、出土品、整備状況などが、資料の展示や写真パネルで紹介されています。この日は、伊勢国分寺まつりが行われるということで無料開放されていました。

Img_3109c_20221029172801  こちらが伊勢国分寺跡。奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、伊勢国国分僧寺の寺院跡です。三重県北部、鈴鹿川左岸の段丘台地上に位置しており、付近では、古代東海道およびその河曲駅家の存在も推定されています。寺域は大正11(1922)年に国の史跡に指定されました。この日は、伊勢国分寺まつり。10時からということで、まだ準備中でした。

Img_3118c_20221029172801  復元されている建物は、この「南東隅建物」のみでした。2棟の掘立柱建物が、並列して南北に9mの間隔で、伽藍地の南東隅に収まるように建てられていたといいます。身舎(もや)の規模は、東西15m×南北6m。身舎は、物置小屋、離れなどのようです。

Img_3122c_20221029172801  伊勢国分寺跡から西を見ると、御在所岳がよく見えました。標高1,212m。頂上の気象レーダーのドームや、御在所ロープウェイの「6号鉄塔」と呼ばれる白い鉄塔もよく見えます。標高約943m地点に建つ御在所ロープウエイの支柱です。高さは61mあり、いまなお「日本一」の規模を誇っています。

Img_3135c_20221029172801 Img_3142c_20221030170101  伊勢国分寺跡からは東へ進みます。このあたりは初めて来たところで、土地勘はありません。地図と案内標識にしたがってひたすら歩いて行きます。伊勢国分寺跡から東へ1㎞ほど歩いたところ、菅原神社しだれ梅で有名)の南付近で、変わったところを見つけました。気になって近寄ってよく見たら「冨士山1号古墳」とありました。全長54mの墳丘に敷き詰めたふき石や、祭祀が行われた場「造り出し」の一部が出土したそうです。古墳は「大鹿(おおか)の大塚」と呼ばれ、地元は「古事記」「日本書紀」に記された古代豪族、大鹿氏の本拠地との説があるといいます。5世紀終わりごろに築かれたとみられ、前方後円墳の前方部が小さい「帆立て貝式」と分かっています(こちらに中日新聞の記事があります)。「犬も歩けば棒に当たる」ではありませんが、実際に歩いて、見てみないとおもしろいものはみつかりません。

Kawano2  スタートから4㎞で高岡台の住宅団地に入ります。そこに高岡山中央公園Img_3170c_2022102917280110時10分過ぎに高岡山中央公園に到着。ここで10分ほど小休止。ここは、早くも、詳しいルートマップその2の範囲になります。

Img_3177c_20221029172801 Img_3173c_20221029172801   比較的新しい住宅団地の中にある公園。親子連れの方が遊んでいたり、イヌの散歩をしている人がいたり。キョリ測で見ると、標高40mほどの高さにあり、眺望が利きます。伊勢湾から、南は遠く伊勢の山の方まで見えています。

Img_3220c_20221029172901  高岡山中央公園からはいったん下りになります。10m弱下ったところに「Img_3187c_20221030174001 高岡山周遊コース」「西展望台に至る」という案内があり、ここを登って、高岡城跡に行きます。鈴鹿川北岸の丘陵に築かれた城の跡です。築城年代は不明ですが、神戸城主神戸友盛(具盛)の家老山路弾正によって修繕されたとされます。歴代城主は山路弾正、小島兵部。現在は高岡城跡公園となっています。永禄10(1567)年と翌11(1568)年の二度にわたって織田信長の武将、滝川一益の猛攻を受けたが落城しませんでした。しかし、二度にわたる大軍の侵攻という不利な戦況下で山路弾正と主君神戸友盛は最終的に信長の三男織田信孝を神戸家の養子にすることで講和を受け入れます。元亀2(1571)年、神戸友盛は信長によって隠居を命ぜられると、主君の不遇に山路弾正は神戸城討伐の謀叛を企てたが失敗し自刃。その後は、信孝の異母兄弟にあたる小島兵部が高岡城主となりました。1582年本能寺の変の後、小島兵部が神戸城へ移り、高岡城は廃城となっています。

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Img_3208c_20221029172801  城跡は遺構が不明瞭ですが、西側に堀跡が確認できます。右の写真がそれのようで、ここには「空堀」という標識が建てられていました。

Img_3224c_20221029172901 Img_3233c_20221029172901  また、ここは標高50mで、近くには鈴鹿市街地、遠くには伊勢湾から伊勢方面までよく見えます。苦労して登った甲斐がありました。城跡には、右の写真のように休憩所もつくられています。その1は、キリがよいのでここまで。その2は、高岡橋を渡って鈴鹿川を越え、階段付きの常夜灯から。

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2022年10月29日 (土)

20221029JRさわやかウォーキング「伊勢鉄道線開業35周年記念 歴史と文化に触れる鈴鹿市を再発見!」(予告編)

Kawano0  よく晴れて、桑名では最高気温は22.0℃。ウォーキング日和です。予定通り、「伊勢鉄道線開業35周年記念 歴史と文化に触れる鈴鹿市を再発見!」に行ってきました。今日のところは、予告編。JR関西線河曲(かわの)駅から伊勢鉄道鈴鹿駅まで、コースマップ上、9.8㎞。河曲駅から鈴鹿市考古博物館、伊勢国分寺跡、冨士山1号古墳、高岡山中央公園、高岡城跡、常夜灯、神戸の見附跡、観音寺、龍光寺、神戸宗社、神戸城跡と回ってきました。長丁場でしたが、3箇所ほど寄り道をしてきました。今回も同級生K氏と二人旅。

Img_3055c_20221029172801 Img_3037c_20221029173701  JR桑名駅を8時14分に出る亀山行き普通電車に乗車。河曲駅には8時46分に到着。¥420。その昔、鈴鹿で働いていましたが、河曲駅で降りたのは、2019年4月20日にあったJRさわやかウォーキング以来(20190420JRさわやかウォーキング「旧東海道 石薬師宿と鈴鹿「植木まつり」を訪ねて」へ(予告編))。駅からは、石薬師宿近くの自由が丘にある大きなマンションが見えます。そのあたりは、今年2月5日の東海道ウォーキング(0220205東海道ウォーキング(日永の追分~加佐登)(予告編))でランチを食べた店のあるところ。

Img_3106c_20221029172801 Img_3103c_20221029172801  河曲駅を8時50分にスタート。まずは、鈴鹿市考古博物館に向かいました。国史跡伊勢国分寺跡の南に隣接して建てられた考古学を専門とする博物館です。市内から出土した土器・石器・瓦などを保管・展示しています。12月18日まで「秋季特別展『国分寺』」が開催されています。伊勢国分寺まつりが行われる日で、この展覧会は無料開放されていました。

Img_3109c_20221029172801 Img_3118c_20221029172801  こちらが伊勢国分寺跡。奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、伊勢国国分僧寺の寺院跡です。三重県北部、鈴鹿川左岸の段丘台地上に位置しており、付近では、古代東海道およびその河曲駅家の存在も推定されています。寺域は大正11(1922)年に国の史跡に指定されました。今日は、伊勢国分寺まつり。10時からということで、まだ準備中でした。

Img_3135c_20221029172801  このあたりは初めて来たところで、土地勘はありません。地図と案内標識にしたがってひたすら歩いて行きます。伊勢国分寺跡から東へ1㎞ほど歩いたところ、菅原神社の南付近で、変わったところを見つけました。気になって近寄ってよくみたら「冨士山1号古墳」とありました。全長54mの墳丘に敷き詰めたふき石や、祭祀が行われた場「造り出し」の一部が出土したそうです。古墳は「大鹿(おおか)の大塚」と呼ばれ、地元は「古事記」「日本書紀」に記された古代豪族、大鹿氏の本拠地との説があるといいます。5世紀終わりごろに築かれたとみられ、前方後円墳の前方部が小さい「帆立て貝式」と分かっています(こちらに中日新聞の記事があります)。

Img_3170c_20221029172801 Img_3177c_20221029172801  スタートから4㎞、10時10分過ぎに高岡山中央公園に到着。ここで小休止。比較的新しい住宅団地の中にある公園。親子連れの方が遊んでいたり、イヌの散歩をしている人がいたり。

Img_3173c_20221029172801  キョリ測で見ると、標高40mほどの高さにあり、眺望が利きます。伊勢湾から、南は遠く伊勢の山の方まで見えています。

Img_3237c_20221029172901 Img_3220c_20221029172901  公園から東へ少しいったところに高岡城跡があります。鈴鹿川北岸の丘陵に築かれています。築城年代は不明ですが、神戸城主神戸友盛の家老山路弾正によって修繕されたとされます。歴代城主は山路弾正、小島兵部。現在は高岡城跡公園となっています。永禄10(1567)年と翌11(1568)年の二度にわたって織田信長の武将、滝川一益の猛攻を受けたが落城しませんでした。しかし、二度にわたる大軍の侵攻という不利な戦況下で山路弾正と主君神戸友盛は最終的に信長の三男織田信孝を神戸家の養子にすることで講和を受け入れます。元亀2(1571)年、神戸友盛は信長によって隠居を命ぜられると、主君の不遇に山路弾正は神戸城討伐の謀叛を企てたが失敗し自刃。その後は、信孝の異母兄弟にあたる小島兵部が高岡城主となりました。1582年本能寺の変の後、小島兵部が神戸城へ移り、高岡城は廃城となっています。

Img_3208c_20221029172801 Img_3224c_20221029172901  城跡は遺構が不明瞭ですが、西側に堀跡が確認できます(左の写真)。また、ここは標高50mで、近くには鈴鹿市街地、遠くには伊勢湾から伊勢方面までよく見えます。苦労して登った甲斐がありました。

Img_3265c_20221029183301 Img_3268c_20221029172901  高岡城跡から下って、鈴鹿川にかかる高岡橋を渡ります。ここからは、去年7月17日の「東海道・伊勢街道歩いて伊勢参り」のときにも通ったコース(20210717「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第5回「日永の追分~鈴鹿・神戸」(予告編))。橋の途中で振り返ったら、高岡城跡にあった休憩所の屋根が見えていました。

Img_3283c_20221029172901  鈴鹿川に沿って少し下流側に行くと、階段付きの常夜灯。この常夜燈には、点火用の階段がついているのです。「太神宮常夜燈」「国土安穏」などと刻まれています。文化4(1807)年の建立。

Img_3286c_20221029172901 Img_3302c_20221029172901  このあとは、水田地帯の中を歩いて、鈴鹿の神戸の町に向かいます。稲はすべて刈られています。枝豆にするのだと思いますが、大豆の栽培があちこちで行われています。十宮(とみや)に入ったところに常夜燈があります(右の写真)。文化14(1817)年に建立されたものが、大正9(1920)年に再建されています。

Img_3309c Img_3337c  神戸見附跡です。伊勢街道神戸宿の入り口にあたり、両側に土塁と石垣を築いたものです。町の治安を守るために番人がいて、夜間遅くには木戸を閉じて通行を禁じたといわれています。明治2(1869)年の絵図にこの見付の様子が描かれています。街道の両側の石垣には木戸の柵を支えた溝が今も残っています。右の写真は、この先の神戸の町並み。卯建が上がっている家も多く残り、昔の風情があります。

Img_3358c_20221029172901 Img_3362c  近鉄鈴鹿線の線路を越えると、市立神戸小学校の手前にその先に大橋。六郷川という小さい川を渡る橋です。このあたりは、かつては神戸藩士の水練場であったといいます。今では、こんなところで泳げたのか、という気がします。その先に札の辻。江戸時代には、高札場があったところ。油伊(あぶい)旅館がありますが、その手前に里程標と道路元標があります。

Img_3402c_20221029172901 Img_3396c_20221029172901  次の目的地は、龍光寺なのですが、その前に寄り道。長徳院補堕落山観音寺。浄土宗。開創は鎌倉時代で、真言宗でした(開創年は不明)。元亀元(1570)年、三蓮社休波観愚老和尚により浄土宗に改宗。神戸城主・本多候が当神戸に就封以来、その菩提寺となる。境内には、本多家2代藩主・忠永公の徳をたたえた「思徳の碑」があります。

Img_3412c_20221029172901 Img_3427c_20221029172901  天澤山龍光寺。臨済宗東福寺派。「かんべの寝釈迦(ねじゃか)まつり」で有名なお寺。2019年5月4日の近鉄のお伊勢参りハイキングの時に、道を間違えて勝手に立ち寄ったことがありました(20190504近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅4日目~伊勢街道、旅人気分で伊勢平野の鈴鹿から海運で栄えた白子へ」(予告編))。詳細は、リンク先の記事をご覧ください。

Img_3457c  ここでも Img_3439c_20221029172901 寄り道。龍光寺の北隣に神社がありましたので、見に行ったのです。これが神戸宗社でした。正式には、神館飯野高市本多神社。神戸宗社でも、石取祭が行われます。ご祭神は、天照皇大御神、豊受皇大御神、高御産巣毘神大御神、本多忠統公。垂仁天皇の御代、倭姫命が巡行された折、この地にしばらく滞在された宮所と伝わっています。それが、「神舘」という名前になっていると思われます。

Img_3511c_20221029173001  いよいよ、今日の最終目的地、神戸城跡。神戸氏4代の神戸具盛が天文年間(1532~1555年)に築城しました。滝川一益の侵攻に和睦し、養子に受け入れた織田信長の3男神戸信孝によってより強固に修築されました。城主は度々代わり、関ヶ原の戦い以降は一柳氏が5万石で入っています。その後、天領となった時期もありましたが、慶安3(1650)年、石川総長が1万石で当地に封じられ、さらに、享保17(1732)年には本多忠統が2万石で封じられ、明治維新まで本多氏7代が続きました。

Img_3482c_20221029173001  本丸には野面積みの天守台があり、かつては神戸信孝が築いた5重6階の天守があったのですが、その天守は文禄4(1595)年に解体、桑名城に三重櫓として移築され神戸櫓と呼ばれました。現在、城の中心部は神戸公園となり、二の丸跡には三重県立神戸高等学校が建てられています。

Img_3523c_20221029173001 Dsc_0399c  これで目的地は、コンプリート。ゴールの伊勢鉄道・鈴鹿駅に向かいますが、ちょうど12時を過ぎた頃。どこかで昼食をということですが、最初に行こうと思ったラーメン屋さんは、店の外まで行列。「並んでいるというのは美味しいのだろうけど、並んでまで食べるのはどうも」と思い、京都北白川 ラーメン 魁力屋 鈴鹿矢橋店へ。特製醤油味玉ラーメン、¥869也。京都背脂醤油を使っているということで、脂っこいかと思ったら、案外サッパリしていて、美味しくいただきました。

Img_3531c_20221029173001 Img_3526c_20221029173001  ゴールの伊勢鉄道・鈴鹿駅には13時過ぎに到着。ここまで、現地では11.3㎞を歩いてきました。JRさわやかウォーキングのスタンプカードを持っていたのですが、その期限が実は、2020年11月29日。コロナ禍で延長されたものの、10月末で期限切れ(こちら)。スタンプは、今回を含め8つになったのですが、賞品をもらえる10個には至らず。やむなくWebアプリの会員申し込みをもらってきました。帰宅して、早速、新規登録を済ませました。次回からは、Webアプリで参加します。

Img_3577c  ゴール受付で伊勢鉄道の「鉄カード」をいただきました。”JR東海さわやかウォーキング「伊勢鉄道線開業35周年記念 歴史と文化に触れる鈴鹿市を再発見!」のゴールとなる伊勢鉄道鈴鹿駅にて、同ウォーキングを踏破された方先着500名様に、伊勢鉄道開業35周年を記念した「鉄カード」を配布します”というレア・アイテムです。

Img_3545c_20221029195101 Img_3534c_20221029173001  鈴鹿駅発13時6分の四日市行き普通に乗車。窓口でJR桑名駅までの切符を買ったら、これが硬券でした(右の写真)。四日市駅に13時19分着。13時26分発の快速みえに乗り換えて、桑名駅には13時37分着。¥640。

Img_3566c_20221029195601 Img_3569c_20221029195601  14時に帰宅。今日の歩数は、左の写真のように、23,450歩。歩いた距離は、Google Fitによれば、15.16㎞ですが、キョリ測で計ると、現地では11.3㎞、自宅から桑名駅往復が2.2㎞ですから、13.5㎞。キョリ測では、細部の測定が難しいので、Google Fitの値くらい歩いたかも知れません。本編は、また、いつものように明日以降、ボチボチと。

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2022年10月 9日 (日)

20221009桑名駅西ウォーキング(一回完結)

Ekinishi  曇りのち、15時ころから雨という予報でした。午前中は、雨は大丈夫だろうということで、予定通り「桑名駅西ウォーキング」に行ってきました。勝手にハイキングのシリーズの1つです。実際に歩いたルートマップは、左のもの。当初の予定では、聖衆寺、秋葉三尺坊大権現から竹林を歩いて、式部泉を見て、高塚山古墳の麓へ行くつもりだったのですが、通れなくなっていて、予定変更。北別所神明社へショートカットし、さらに、旧桑名市民病院跡地を見て、岸西山へ。それ以降は予定通り。6.6㎞

Img_2505c_20221009172601 Img_2494c_20221010034401  スタートは、桑名駅西口。ここで同級生K氏と待ち合わせ。8時20分にスタート。桑名駅は、2年前の8月に新しくなり、駅前も再開発されるはずですが、実際の整備はまだまだこれから。

Img_2525c_20221009172601 Img_2518c_20221009172601  最初の目的地は、光徳山円妙寺。日蓮宗。久松松平家第2代当主で桑名藩主(第6代)の松平定良の菩提寺として建立されました。宝暦年間(1751~1764年)に火災に遭い、境内が全焼したので、当時の旧桑名藩主・久松松平家の領国である陸奥白河藩へ移転。文政6(1823)年、白河藩の久松松平家が、桑名へ再び国替えとなり、当寺も桑名に戻って来ています。山門は、嘉永年間(1848~1855年)に建てられ、戦災に遭わず現在に至っています。

 続いて、Img_2599c_20221009172601 Img_2582c_20221009172601神宝山法皇院大福田寺。聖徳太子創建と伝えられる真言宗のお寺。ただし、実際には、鎌倉時代末の創建と考えられます(これは、今年9月の市民大学郷土史学科の講義で聞いた話)。山門は江戸時代建立といわれています。右は、本堂。

Img_2566c_20221009172601  こちらは、大福田寺にある聖天堂歓喜聖天が祀られています。歓喜天は、頭は象、身体は人間の姿をした仏法守護神です。もとインド神話の魔王で、のち仏教にとり入れられました。単身像と双身像とあり、双身像は、男神と女神とが抱擁する姿をとることが多く、夫婦和合・子宝の神として信仰されるといいます。

Img_2606c_20221009172601 Img_2616c_20221009172701  円妙寺墓地。円妙寺とは離れてしまっていますが、当所、円妙寺が建立されたころには、寺はこの墓地の東北辺りにあったといいます。桑名藩6代藩主・松平定良(1632~1657年)とその正室養仙院の墓があります。定良は、明暦3(1657)年7月18日、26歳で病没。日蓮宗を信仰したので、松平家の菩提寺照源寺とは別に、円妙寺が創建され、ここに葬られました。法名光徳院円妙日法大居士。右は、定良の墓。

Img_2638c_20221009172701  桑名駅からずっと緩い坂を登ってきて、市立桑陽保育所の敷地内に「立坂神社𦾔跡」があります。このあたりは、以前は東方立坂町といい、立坂神社があったとされます。ただし、立坂神社の由緒には、いろいろとあり、一筋縄ではいきません。今月の市民大学郷土史学科では式内社がテーマでしたが、立坂神社に関しては、諸々あるという話でした。ここには、もともとは、産土神の高野御前を祀ったといいます。この西にある海善寺の僧が修行に出る時、道中安全を祈願して草鞋を供えたので、草鞋社ともいったといいます。ここにあった立坂神社は、尾野神社に合祀されています(新矢田にある立坂神社は、もともと矢田八幡社と称しており、江戸末期以後、式内立坂神社と称しています)。まさに諸説ありの世界ですが、ここでは詳細は割愛。

Img_2657c_20221009172701 Img_2662c_20221009172701  ここから照源寺の西へ。左の写真は、尾畑城跡(おばたじょうせき)。今は私有地になっていますので、入れません。史料には、田辺伊勢丸が居城したとありますが、築城時期など詳細は不明。中世の城館跡で、土塁を巡られた方形の曲輪が残っているといいます。右は、ここの交差点にある道標。「右 土佛山 左 西方(にしかた)」とあります(西方は、ここから西へ1㎞あまりのところの地名(イオン桑名があるあたり)。石碑には、「東京 多賀源」とも刻まれています。

Img_2736c_20221009172801 Img_2671c_20221009172901  土佛山大正院聖衆寺に登っていくところまでやって来ました。左の写真で、階段を上がったところが聖衆寺。左手に道があり、そこを進むと竹林の中を歩いて行け、式部泉があるはずのところ。私は、これまで式部泉を確認できていませんでしたので、今日こそと思ってきたのですが、「通行止 この先宅地造成工事のため通り抜け不可となります」とあります。宅地造成工事が行われるとは、この先は民有地だったのでしょうか? このあと聖衆寺に上がって見下ろしても、竹が沢山切られ、重機が入って整地している様子が見えました。残念至極。

Img_2678c_20221009172701  聖衆寺の本堂。真言宗醍醐寺派。桑名では「土佛さん(どぶっつぁん)」と呼ばれます。鎌倉初期の建仁4(1204)年に、北伊勢地方鎮護のため定舜法師が建立したといわれる古刹。信長の伊勢侵攻の時に焼かれ、現在の堂宇のみが残りました。江戸時代の中頃、瓦師岡本信行が、桑名藩主松平定重に寺運再興を言上して再興し、瓦製阿弥陀如来(市文化財)をつくったため、「土佛さん」といわれます。本堂は大正12(1923)年の建立。周りには、良い感じでモミジの木があります。これは、紅葉シーズンにもう一度来なくてはなりません。

Img_2691c_20221009172701 Img_2722c_20221009172701  聖衆寺の奥には、秋葉三尺坊大権現。火伏せの神として、秋葉三尺坊が祀られています。秋葉堂には、天手力雄命(アマノタヂカラオノミコト:天照大神の隠れた天の岩屋の戸を手で開けた大力の神)他の神様も祀られていますが、それらは以前訪ねたときの記事をご覧ください(2021年2月4日:20210201勝手に養老鉄道ハイキング「桑名駅西歴史散歩」(その2)……秋葉三尺膨大権現、尾畑山城跡、立坂神社旧蹟から円妙寺墓地で松平定良公墓所へ)。ここは、聖衆寺の奥の院で、高台で見晴らし良く、往時は景勝地として憩いの場所であったと伝えられています。東を見ますと、右の写真のような眺望が広がっています。

Img_2771c_20221009172901 Img_2755c_20221009172901  上述のように、式部泉には行けないようでしたので、聖衆寺から来た道を戻って、ショートカットして北別所神明社へ。創始は不詳。織田信長の伊勢侵攻の時、桑名ではここに本陣を置いたといいます。また、神社の由緒には、織田信長在陣の時、当神明社を崇敬し、幣帛等を奉納し、また、社内に信長の駒繋の松と伝える松があったといいます。ご祭神は、天照大御神。この北別所神明社の向かいあたりには、北別所中世墓跡があったといいますが、説明板などはありません。中世の墓の跡で、故瀬戸、常滑などの焼き物が出土したそうです。

Img_2786c_20221009172901 Img_2790c_20221009172901  ここから岸西山に向かう予定でしたが、「市民病院跡地を見ていこう」ということになり、寄り道。建物は、去年来たときに既に解体され、更地になっていました(2021年2月3日:20210201勝手に養老鉄道ハイキング「桑名駅西歴史散歩」(その1)……播磨を出発して北別所神明社、高塚山古墳に登るつもりがリタイア、式部泉を通って土佛山聖衆寺へ)。早ければ、一昨年、有料老人ホームと分譲型の医療モール、介護ショップを併設した調剤薬局など開業するということでしたが(こちら)、来月開業予定の医院と調剤薬局が建っていただけ(左の写真)。サービス付き高齢者住宅を建設するという看板がありましたが、未着工。

Img_2806c_20221009172901 Img_2812c_20221009172901  県道142号線を越えて、岸西山へ。ここには、岸西山遺跡があるというのですが、詳細は不明。まずは、岸西山大正寺へ。浄土宗。江戸時代中期の開基といいます(桑名市史によれば、明和(1764~1772年)の頃)。お寺は、岸西山の東北側の斜面に建っており、山門から境内へは下っていきます。ここには、野村増右衛門の供養塔があります(右の写真)。野村は、桑名藩島田代官所(桑名藩領の員弁郡嶋田村、現桑名市島田)の手代(8石2人扶持という記録があります)という軽輩の身から藩を左右する実力者にのしあがった人物。藩への貢献は大きかったのですが、宝永7(1710)年、突然公金横領等の嫌疑で捉えられ、弁明もむなしく処刑されています。

Img_2822c_20221009172901  大正寺から岸西山の頂上に行く途中に、尾野神社北之宮。尾野神社は、この南西にもあります。今は、そちらが本社のように思いますが、桑名市史には、「一説には尾野山の北の鼻山に鎮座してあったのを、後に船着大明神の社へ奉遷して相殿とした」と書かれています。岸西山の頂上には、魚藍(ぎょらん)観音堂があります。「久波奈名所図会」によると、元禄2(1689)年11月、掛樋通の堀さらへをした時、水底より出現したものといいます。昭和50(1975)年3月、市指定文化財。これと時を同じくして、愛染明王、役行者の脇侍佛とともにここに安置されたといいます。

Img_2905c_20221009172901 Img_2898c_20221009172901  岸西山を下りて、養老鉄道に近いところで右折し、南下。尾野神社へ。尾野神社もやや小高い丘にありますが、ここは尾野山城跡でもあります(右の写真)。中世の城館跡で、遺構としては、郭が残っています。尾野山城跡も見てみたいのですが、右の写真中央にあるように、登り道がちょっと荒れていますので、未だ登ったことはありません。

 Img_2851c_20221009172901 Img_2860c_20221009172901 鳥居をくぐってすぐ右に進むと拝殿があります。お社が2つ連なって建っていますが、向かって左が尾野神社、右の少し小さい方が立坂神社です。尾野神社は平安時代からこの地にあったようです。尾野神社。主祭神は、天押帯日子命(あめのおしたるひこのみこと:孝昭天皇の皇子。春日、大宅(おおやけ)、栗田、小野、柿本氏ら中央豪族の祖)。

Img_2895c_20221009172901  尾野神社には、「船繋ぎの松」があります。「船着きの松」とも呼ばれます。尾野神社は、1,000数百年前には、船着大明神と呼ばれていました。当時、この地は町屋川と大山田川が合流するところで(本多忠勝による慶長の町割によって、両河川は現在のところを流れるよう改修されています)、海陸交通の接点として船の出入りがあったといいます。

Img_2918c_20221009172901 Img_2924c  真宗大谷派の東光山専明寺。とくにこれという情報が出てこないお寺ですが、なかなか立派で雰囲気も良いお寺でした。

Img_2986c_20221009173001 Img_2977c_20221009173001  そして、最後の目的地は、東海山照源寺。浄土宗。寛永元(1624)年、桑名藩主であった松平定勝公(徳川家康公の異父弟)が亡くなったとき、二代将軍徳川秀忠の命によって、定勝の子・松平定行公が建立した寺。定行は伊予松山へ移封しましたが、弟・定綱が藩主を継ぎましたので、松平家の菩提寺として存続しています。ここは私の好きなお寺で、たびたび訪れています。左の写真は、山門の南から見た光景。まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような感じがします。

Img_2935x  当初は、東海山泥垣院崇源寺と号しました。それは定勝公の法号「崇源院殿」に因るものです。しかし、寛永3(1626)年に亡くなった秀忠公夫人の法号が、偶然、「崇源院殿」と一致したため、遠慮し寺号を「照源寺」と改めました。山号の頭文字「東」と、寺号の頭文字「照」の二字を合わせて「東照」となる由縁は、東照大権現(徳川家康)を祀ったことによるといいます。このように、桑名藩の菩提寺である照源寺が徳川家康公の供養をすることによって、桑名藩松平家は徳川家に対し末代にわたり忠誠を示したという訳です。現在も、徳川家康公の木像、位牌を安置し、供養しているそうです。

Img_2948c_20221009172901 Img_2956c_20221009173001  ここには、「松平定綱及び一統之墓所」(県史跡)があります。定勝の他、久松松平系の定綱他の一統の墓、26基が並んでいます。右は、その定勝公の墓。これにて、今日の目的地は、式部泉などを除いて、コンプリート。

Img_2990c_20221009173001  いささか余談ですが、照源寺からは東へほぼ直線の道路が通じています。参宮町にある美濃街道との追分まで。八丁畷(はっちょうなわて)と呼ばれます。この八丁畷は、照源寺ができたときに参詣のための道としてつくられています。「八丁」は距離を表していると思いますが、約873m。美濃街道の追分から照源寺の三問あたりまでが約800mです。

Img_3010c_20221009173001 Dsc_0351c  桑名駅西口側には、食事をするところはほとんどありませんので、東口の方へ回って、ちょっと探して、目利きの銀次桑名駅前店へ。夜は居酒屋になりますが、海鮮料理、魚介料理の店。迷ったものの、ランチがありましたので、あじフライのランチをチョイス。自宅では、あじフライなどほとんど出て来ません。それにあじフライは、子どもの頃はけっこうごちそうだった記憶があります(苦笑)。そのため、あじフライがメニューにあるとついつい釣られます(微苦笑)。これで¥700。

Img_3023c_20221009173001  食事を終えて出て来たら、小雨が降っていました。しかし、ここまで降られずに済んでラッキー。今日のゴールは、ここ目利きの銀次とし、12時30分過ぎに到着。食事を終えて出て来たのが、13時15分ころ。ここまで6.6㎞。自宅往復が2㎞で、今日は合計8.6㎞を歩きました。歩数は、16,830歩。今回の記事は、1回で完結。よほどのことがあれば、補遺編を書きますが、今のところそれは未定。

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2022年8月30日 (火)

雨が止んだので、アオサギさんを見に行ってきました

Img_0260c_20220830145301  未明から朝方まで雨。その後もしばらく空はどんよりしていたのですが、9時頃には少し明るくなってきましたし、道も乾いてきましたので、散歩の虫が抑えられず、9時20分から歩きに行ってきました。住吉神社、九華公園、歴史を語る公園、京町、寺町と4.5㎞。途中、久しぶりにお目にかかった散歩友達のOkさんと話していましたので、帰宅は11時。湿度は高かったのですが、気温は25~26℃くらいで、割と楽に歩けました。今日のところは、アオサギでも見てこようという次第。

Img_0302c_20220830145201  で、九華公園で、九華橋の近くのいつものところにアオサギさんが待機していました(微笑)。色から見て、いつものアオサギさん。実は、シークレット・シーンを見せてくれたのですが、今日持っていたのが超望遠コンデジで、対応できず。

Img_0357c_20220830145201 Img_0391c_20220830145201  二の丸跡で、コゲラの鳴き声。いました。木から木へと移って、エサ探し。昨日見たコゲラのような気もします。さらにシジュウカラの鳴き声も。若者でした。このほか、朝日丸跡では、ヤマガラの鳴き声を聞いて、探したのですが、見つけられませんでした。残念。

Img_0544c_20220830145201 Img_0551c_20220830145201  歴史を語る公園の近くのお宅には、紅白のサルスベリがあります。さらにその近くのお宅で、これはケイトウ(鶏頭)。リンク先によれば、いくつかの系統があるそうです(オヤジギャグではありません)。

Img_0562c_20220830145201 Img_0582c_20220830145101  寺町商店街にベトナム料理の店ができるという話を聞いていたのですが、今日、見てきました(ただし、今日は定休日)。フォー8桑名というお店。8月27日にオープンしたばかり。寺町商店街の東、寺町堀沿いにあります(南魚町)。Googleマップにはすでに載っていますが(検索も可能)、メニュー、値段などは、不明(左の写真にメニューの一部が載っているようです)。家内は、一度行ってみたいといっています。

169772527_o1  余談。先日、中日新聞朝刊に「桑名城をペーパークラフトで完成させよう」という記事が載っていました。桑名ブランド協議会が、ペーパークラフト専門メーカー「ファセット」に商品化を依頼したもの(こちらに商品紹介があります)。春先に「桑名城探訪」というスマホアプリが公開されていますが(2022年4月21日:鳥は少なかったので、「桑名城探訪」アプリで遊ぶ)、そこで桑名市が再現した桑名城のデータを用いたものだそうです。税抜きで¥1,200。面白そうだなと思ったら、昨日、九華公園でお目にかかった前管理人Oさんがすでにゲットしておられました。A4サイズで、部品図が6枚。ただし、切込加工は施されておらず、細かな作業が多いので、つくるのは難しいとおっしゃっていました。メーカーのサイトにも「城によっては細かな作業が多いものもありますのでご自身の技量を考慮の上で挑戦してください」と、また、新聞記事にも「同社の『日本の名城シリーズ』中で制作の難易度は中程度だが、慣れた人でも完成まで6〜8時間ほどかかる」とあります。不器用な私には、手強い感じ(苦笑)。Oさんがつくられたら、その話を伺ってからにしておいた方が無難そう。画像は、ファセットのサイトからお借りしました。

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2022年6月17日 (金)

20220612水の都・大垣ウォーキング(その1)……大垣城、郷土館、藩校敬教堂跡から八幡神社へ

Img_4553c_20220612191101  6月12日に行ってきた「水の都・大垣ウォーキング」の本編その1です。当初は、前日の6月11日に出かける予定でしたが、天気があまり良くないという予報で、この日に延期しました。大垣は水の都といわれますが、まさにその通りで、とても良いところでした。私は、大垣へは、子どもたちが小学校に入る頃、家族で出かけたことがありますが、それはもう20年以上昔の話。金蝶園製菓総本家で水まんじゅうを食べたことと、大垣城のある大垣公園で遊んだ記憶しかありません。この日は、同級生K氏と二人旅。歩いた距離は、6.3㎞ほどでしたが、あちこちで資料館なども見て回り、現地で過ごしたのは、4時間半ほど。

Ogaki0_20220620182901  こちらが、当日歩いたルートマップ。養老鉄道大垣駅がスタート&ゴール。大垣城、郷土館、大垣藩校敬教堂跡、八幡神社、円通寺、奥の細道むすびの地、住吉神社、船町湊跡・港灯台、船町道標、美濃路大垣宿本陣跡、大手門跡、堀抜井発祥の地、愛宕神社・岐阜町道標などを回ってきました。大垣の最高気温は、28.1℃。風がかなりあって、思っていたよりも楽に歩けました。

Img_4520c_20220615062601 Img_4559c_20220612191101  桑名から大垣までは、養老鉄道が通っています。桑名駅を8時9分に出る養老鉄道大垣行きに乗車。9時26分に大垣駅に到着。この日は、冒頭の写真のように、1日フリー切符を購入。桑名~大垣は、通常料金は片道¥830ですが、フリー切符は¥1,500です。往復では、¥160もおトク。9時30分にスタート。

Img_4568c_20220615062901 Img_4575c  初めのところに書きましたが、大垣へは、20年以上前に1回来ただけで、ほとんど記憶はありません。左は駅前から南の方を撮った写真ですが、失礼ながら、「けっこう都会だな」というのが、第一印象。右の写真は、少し進んで、大垣駅方面を振り返った写真。

Img_4572c_20220615063501  駅の少し南に金蝶園製菓総本家がありました。以前来たとき、確かここのお店で、水まんじゅうを食べたのです。同級生K氏は、今朝、奥さんが「金蝶園の水まんじゅうは、美味しいんだ」といっておられたとか。あちこち見て回る前に、二人とも今日の土産は、ここで買うことに決定。ゴールは大垣駅にしてありますので、ゴールしてから購入します。

Img_4578c_20220615064001  何の写真か不鮮明になってしまいましたが、「守屋多々志画伯青雲の碑」。守屋 多々志(もりや ただし、大正元(1912)~平成15(2003)年は、大垣市出身の日本画家で、元愛知県立芸術大学教授。文化功労者。文化勲章受章。歴史画の第一人者だそうです。市内には、守屋多々志美術館もあります。この碑は、大垣共立銀行大垣駅前支店の向かい側にあります。

Img_4587c_20220615064401 Img_4592c_20220615064401  スタートから400mほどで水門川にかかる新大橋まで来ます。水門川は、大垣市街を大垣城に沿うように流れ、揖斐川の支流である牧田川に合流します。寛永12(1635)年、大垣藩主になった戸田氏鉄により大垣城の外堀として築かれたのですが、大垣城の外堀のみならず、揖斐川を介して大垣船町と桑名宿を結ぶ船運の運河の役割を持っていました。

Img_4608c_20220615064901 Img_4632c_20220615064901  新大橋から200mも行かないところ、郭町で右折すると、大垣城が見えます。こんな風だったか? と、以前の記憶は全くありません(苦笑)。大垣城は、天文4(1535)年に美濃守護・土岐一族の宮川吉左衛門尉安定によって創建されたといわれています。創建当初は水門川を外堀に利用した小規模なもので、慶長元(1596)年、伊藤祐盛が城主の時に天守が造営されたといわれます。江戸時代に入り、改修が行われ、4層4階の天守となり、総堀が完成しました。明治維新後も店主などは残り、昭和11(1936)年に天守等が国宝(旧国宝)に指定されましたが、昭和20(1945)年7月29日の大垣空襲により、天守や艮櫓などが焼失しました。左の写真に写っている門は、東門。天守が復興された際に、七口之門の 1つである内柳門がここに移築されています。ちなみに、大垣城は、麋城(びじょう)または巨鹿城(きょろくじょう)とも呼ばれました。

 Img_4719c_20220612191101Img_4713c_20220615065901現在の天守閣は、昭和34(1959)年に、また、乾櫓は、昭和42(1967)年に鉄筋コンクリート造りで、郡上八幡城を参考に外観復元されたものですが、観光用に窓を大きくするなどの改変がなされています。郡上八幡城は、戦前の大垣城をモデルに復元されたものだったのだそうです。天守閣は、資料館として、関ヶ原の戦などに関する展示がされており、ここで1時間近く見て回りました。

Img_4655c_20220615070801 Img_4669c_20220615070901  天守4階からの眺め。左の写真は西の方角。中央奥からやや右手に頂上が覗いているのが伊吹山。関ヶ原は、中央奥のややくぼんだあたり。右の写真は北の方角。中央あたりに大垣駅があります。このほか、南には養老山地が見えました。

Img_4697c_20220616192701 Img_4694c_20220616192701  城内にはいろいろとありましたが、2つだけ。左の写真は、戌亥櫓。戌亥は、北西の方角ですから、北西の方角にある櫓。右の写真は、「おあむの松」。江戸時代前期に、石田三成の家臣・山田去暦(やまだきょれき)の娘であった老尼が、少女時代に体験した関ヶ原の戦いの頃の様子を子供たちに語った話の筆録で「おあむ物語」というものがあります。関ヶ原の戦いに父に従い大垣城に籠城していた一女性が、年老いてから当時の体験を物語ったものです。書名の「おあむ」は御庵で老尼の意味と思われます。落城寸前に城から脱出した際、天守の西側にあった腰曲輪の松の木に縄をかけ、それを伝って内堀に降り、たらいに乗って逃げたといいます。その後継の松がこれです。

Img_4722c_20220616194301 Img_4728c_20220616194301  天守閣の北西に常葉(ときわ)神社があります。藩祖・戸田一西の他、戸田氏の歴代大垣藩藩主を祭神としており、かつては大垣城城内の神社でした。例年10月第2日曜日に行われる十万石まつりは、元々常葉神社の例祭です。嘉永5(1852)年、大垣藩戸田氏9代目藩主である戸田氏正が、戸田一西の250回忌の際に、戸田一西を祭神として大垣城内に創建しました。このとき、伊勢神宮神官より「常葉大神」と名づけられたといいます。明治維新後、いったんは、大垣八幡神社の境内に移転しましたが、濃尾地震で倒壊。明治35(1902)年に現在地へ新築、移転しています。

Img_4738c_20220612191101 Img_4752c_20220612191101  大垣城のある大垣公園のすぐ西に大垣市郷土館。戸田公入城350年記念事業として建設され、昭和60(1985)年10月に開館しました。歴代大垣藩主戸田公の顕彰を中心に、大垣の歴史的風土を築きあげてきた先賢の美術品等が展示されています。ここには、右の写真のように、大垣の城下町のジオラマもありました。

Img_4744c_20220616195401Img_4747c_20220616195401  庭園は、「さつき庭園」という名前が付いていました。赤い花と、白い花とあるようです。門を入ったすぐ右手には、「麋城の井戸」がありました。これは新しく掘った井戸のようで、以前はどこの家にもあった自噴の井戸を偲んでつくったそうです。

Img_4771c_20220616200201 郷土館を出て、北に向かいます。水門川にかかる滝の口橋のところは、大垣城の辰之口門があったところです。大垣城には7つの門があり、「七口之門」と呼ばれていました。ここはその1つ。

Img_4778c_20220612191101 Img_4792c_20220616200901  滝の口橋のすぐ北に保健センター。ここは、大垣藩の藩校であった敬教堂がありました。大垣藩第8代藩主・戸田氏庸(うじつね)が、藩士の子弟を教育するため、天保11(1840)年、大垣城籠の口門外(現在地)に学問所を設立し、後に致道館(ちどうかん)、敬教堂(けいきょうどう)、学館(がっかん)と改称されています。第10代藩主・戸田氏彬のとき、孔子像を祀った大成殿を設け、その雷除けとして「剣の木」と俗称されるトネリコを植えたそうです(右の写真)。明治維新後、藩校は文学校と武学校に分かれ、また、このトネリコも道路上に残されたため、ここに移されました。

Img_4803c_20220612191101  藩校跡で西に向かいます。このあたりから、水門川に沿って、遊歩道・四季の路を歩いて行きました。水門川が南に曲がるところに八幡神社。通称、大垣八幡神社。大垣市の総鎮守。建武元(1334)年、東大寺の荘園大井荘であった美濃国安八郡大井(現大垣市)に、東大寺の鎮護神である手向山八幡宮を勧請したのが始まりといいます。天文15(1546)年には、斎藤道三の兵火で焼失しましたが、慶長13(1608)年、幣殿、拝殿、舞殿が建てられ、正保4・慶安元(1648)年、大垣藩初代藩主・戸田氏鉄が再建整備しています。この再建を祝って始まった例祭が大垣祭といいます。

Img_4825c_20220612191101  ご祭神は、応神天皇神功皇后比咩大神(ひめのおおかみ)。比咩大神は、神道の女神です。これは特定の神の名前ではなく、神社の主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神を指すもので、八幡社では比売大神を祀りますが、その正体については、諸説がありますし、地域によっても異なるようです。

Img_4828c_20220617062501 Img_4834c_20220617062501  境内社がいくつかあります。出雲社(左の写真:大国主大神(大黒大神)・美保津姫神・事代主大神(恵比寿大神))、大福稲荷神社(宇迦之御魂神)、大垣天満宮(菅原道真公)、大垣竜神王(霊蛇神)、広瀬神社・龍田神社(右の写真:広瀬神社 和加宇賀之売命(若宇加能売命)、龍田神社 志那都比古神(天御柱神)・志那都比売神(国御柱神))。
所在地

Img_4846c_20220617062601  境内には、平成16(2004)年に整備された新しい自噴水があり、地下125mから水が吹き出る井戸となっています。大垣では、多くの家庭に自噴井戸があり、至る所に水路があり、清水が流れていたといいます。この湧水は、大垣南ライオンズクラブが、結成30周年を記念して掘削したものです。その1は、ここまで。その2では、四季の路から円通寺を通り、奥の細道むすびの地方面へと行きます。

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