地蔵

2021年5月23日 (日)

20210522「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第4回「四日市~日永の追分」(その1)……近鉄四日市駅をスタート、崇顕寺(丹羽文雄の生家)、東漸寺、大宮神明社へ

210522yokkaichi0  5月22日に行ってきた「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」の第4回「四日市~日永の追分」の本編第1回です。この「伊勢詣りツアー」は、同級生K氏と二人旅。この日は、朝8時過ぎは晴れていましたが、その後は曇り。しかし、最高気温23.9℃で、ウォーキング日和といえます。スタートは近鉄四日市駅。東海道を歩いて、日永の追分まで歩き、ゴールは、四日市あすなろう鉄道追分駅に設定。四日市駅から300mほど東へ行くと東海道に入ります。崇顕寺(作家・丹羽文雄の生家)、東漸寺から赤堀を通り、鹿化川(かばけがわ)を越えて大宮神明社へ。その後、水沢道標を見て、大聖院、延楽寺、興正寺と寺巡り。天白川を渡り、両聖寺、日永神社へ。日永小学校で表忠碑と稲垣末吉翁頌徳碑を見て、実蓮寺、西昌寺と行くと、日永一里塚跡碑がひっそり建っています。名残の一本松を越えるとゴールも近い。東海道日永郷土資料館を見たかったものの、閉館してしまっていました。日永の追分が今日の最終目的地。そこからゴールの四日市あすなろう鉄道追分駅まで6.3㎞。駅近くの洋風食堂モンヴェールで昼食。

Img_8798c_20210522165101 Img_8803c_20210522165101  桑名駅を8時42分に出る松阪行き急行で近鉄四日市まで。8時54分着、¥300。8時58分にスタート。四日市駅から東へ300mほど行くと、中央通りをはさんで、北に前回歩いたスワマエ商店街の入り口が見えます。ここを右折して、東海道に入ります。

Img_8800c Img_8807c  曲がり角の手前に「こにゅうどうくん」の自販機。あとからも触れるつもりですが、四日市は、観光や東海道に力を入れているのがよく分かります。各地区ごとに名所旧跡に案内板が建てられていますし、東海道を示す看板も豊富にあります。右の写真は、近鉄四日市駅から来て、東海道に曲がるところにある石柱。四日市の取り組みに比べると、桑名のそれは、はっきり言って貧弱です。

210522yokkaichi1  こちらは、詳しいコースマップその1です。四日市駅、「あすなろう四日市」となっていますが、ここが近鉄四日市駅。四日市あすなろう鉄道も乗り入れています。南出口から出て、国道1号線方面に向かい、諏訪栄町交差点の手前で右折し、東海道に入ります。阿瀬知川を越えて崇顕寺、東漸寺と回って、赤堀へ。しばらく立ち寄るところはありません。鹿化川(かばけがわ)を渡って、大宮神明社・二柱神社に立ち寄るのですが、その手前にはかつてなが餅の笹井屋がありました。

Img_8810c_20210523185801  阿瀬知川にかかる阿瀬知橋。阿瀬知川は、三滝川から引いた水路で、雨水幹線の1つです。阿瀬知川は戦争直後まではホタルの舞う自然豊かな川だったそうですが、事業所や家庭からの雑排水が流入した結果、汚染が進み、どぶ川になっていました。平成12(2000)年頃から、「阿瀬知川をきれいにする会」の浄化活動が行われ、錦鯉が住めるようになったと言います。市街を貫流し、四日市港に至っています。

Img_8814c_20210522165101 Img_8818c_20210523185801  阿瀬知川を渡ってすぐに、仏法山崇顕寺。真宗高田派のお寺で、作家・丹羽文雄(明治37(1904)~平成17(2005)年)の生家です。昭和7(1932)年「鮎」でみとめられ、風俗小説を多作しましたが、のち仏教への傾斜から「親鸞」、「蓮如」を著しました。日本芸術院会員で、文化勲章を受章しています。田原藤太秀郷(藤原)の末胤である田原忠秀が、文明元(1469)年、浜田城を築き、孫元網の時元正3(1575)年に織田勢の滝川一益に滅ぼされたのですが、この田原家の一族丹羽弥八郎時定が菩提のため、創建したといわれています。もとは天台宗の寺でしたが、文亀2(1502)年に眞慧(しんね)上人に帰依し高田派の寺となっています。天和元(1618)年の火災と、昭和20年四日市大空襲で焼失し、由緒の詳細は不明。

Img_8835c_20210523192901  崇顕寺の先あたりの東海道の様子。道路の広さは、昔と同じくらいのように思えます。東海道を含む五街道は、幅5間(9メートル)と規格が定められていました(こちら)。また、このあたりは古い家がかなり残っていますので、昔の街道の雰囲気を偲ぶことができます。

Img_8838c_20210522165101 Img_8845c_20210522165101  スタートから800mほどで東漸寺。こちらも真宗高田派。建仁元(1201)年創建の古刹です。童話作家・東光敬(あずまこうけい)の生家。東は、丹羽文雄の弟である房雄(文雄に代わって、崇顕寺を継いでいます)と同級生。東については、こちら(四日市文化協会の広報誌)に言及されています。

Img_8849c  この東漸寺で驚いたのは、本堂の入り口。障子に板戸。今は、多くのところがサッシになっていますので、珍しい。

Img_8873c_20210523200501  東漸寺の先、四日市あすなろう鉄道赤堀駅の手前に地蔵堂。かなり年月が経っている印象。建物がコンクリートブロックの上に載せられていて、大切にされているように思えます。ただ、残念ながら、道沿いにあるお地蔵様については、よく分からないことが多いのです。この地蔵尊についても、「ホントに歩く東海道」の第12集「桑名~庄野」のマップに載っているものの、説明はありません。みえの歴史街道にある東海道マップにも「お地蔵さん 連子格子の家の前の小さな祠に祀られている」とあるだけです。

Suzukipharmacy_20210523193601  東漸寺のあとはしばらく立ち寄るところはありません。赤堀にかつて鈴木薬局という四日市でもっとも古い建物(嘉永5(1852)年建築)があったのですが、4年ほど前に解体されてしまいました(こちら)。残念です。鈴木薬局は、200年以上も続いた旧家でした。現在は、跡地に鈴木という表札が出た、大きなお宅があります。この鈴木薬局の写真は、四日市・常磐地区のホームページからお借りしました。

Img_8889c Img_8892c  2㎞を過ぎて鹿化川(かばけがわ)を越えます(左の写真)。鹿化川を越えると日永に入ります。鹿化川の上流には、「鹿化川千本桜」と呼ばれる桜並木があり、名前のとおり約千本のソメイヨシノが 5km にわたり咲いています(2019年1月26日:20190126近鉄ハイキング“酒蔵みてある記 銘酒「三重の寒梅」丸彦酒造をたずねて”へ(予告編))。鹿化川橋を渡ってすぐ左手には、かつてなが餅の笹井屋があったといいます(右の写真のあたり。昭和30年に現在の本店に移転。本店は前回見てきました)。

Img_8947c_20210522165101 Img_8905c_20210523194601  スタートから2.3㎞のところに大宮神明社があります。詳しい由緒は不詳ですが、社伝によれば第11代・垂仁天皇の御代、皇大神宮が伊勢にお遷りになる時に岡山の丘陵地(現在、四日市南高校があるところ)に一時お留りになり、そこに神宮の神領地として皇大神宮を勧請したのが始まりとされています。永禄5(1562)年、それまで舟付け明神といって崇め祀っていたこの岡山の神明社が炎上したので、その頃出来上がりつつあった新道路(東海道)の傍らに遷座されたのが今の大宮神明社です。江戸時代には神戸(かんべ)藩主・本多家の崇敬を受けていました。「永宮さん」とも呼ばれるそうです。

Img_8914c_20210522165101  主祭神は、天照大御神。相殿神は、天手力男命(アマノタヂカラオノミコト;天照大神の隠れた天の岩屋の戸を手で開けた大力の神)、栲幡千千比売命(たくはたちぢひめのみこと;高皇産霊神の子の児火之戸幡姫の子で、天照大神の子の天忍穂耳命と結婚し、天火明命と瓊瓊杵尊を産んだ。織物の神として信仰される他、安産、子宝等の神徳をもつとされる)、市寸杵島姫命(イチキシマヒメノミコト;天照大神と素戔嗚尊との誓約の時に生まれた三女神の一。福岡県の宗像大社の辺津宮の祭神)、田心姫命(タキリビメまたはタギリヒメとも;日本神話に登場する女神で、宗像三女神の一柱。宗像大社では「田心姫神」として、沖ノ島にある沖津宮に祀られている)、多岐津比売命(タギツヒメノミコト;天照大神と素戔嗚尊との誓約のときに、素戔嗚尊の剣から生まれた三女神の一。福岡県の宗像大社の祭神で、中津宮に鎮座するとされる)、品陀和気命(ホンダワケノミコト、応神天皇)、大山津見命(オオヤマツノミコト;山をつかさどる神)、弥都波能売命(ミズハノメノミコト;代表的な水の神(水神))となっています。明治40(1907)年に天白社、八幡社の二社を合祀し、明治41(1908)年には5社を合祀しています。例祭は10月の体育の日。獅子舞があり、八幡獅子が家々を回るそうです。また、6月30日夜には、那護志(なごし)の大祓があり、いわゆる「茅の輪くぐり神事」が盛大に行われます。

Img_8921c_20210522165101 Img_8917c_20210523195601  境内には、摂社として二柱大神があります。ここは江戸時代末より病気平癒の神(センキの神)として信仰されています。少彦名命(すくなびこなのみこと;農業・酒造・医薬・温泉の神)と、大己貴命(おおなむちのみこと;天照大神に対して国津神(土着の神々)の頭領たる位置をあらわす)が祀られていますから、二柱神社。他に、稲荷社、山の神社と靖国社があります。さらに、皇大神宮遙拝所も(右の写真)。皇大神宮は、もちろん伊勢神宮。前にも書きましたが、四日市市内の神社では、こうした伊勢神宮の遙拝所を時々見ます。

Img_8948c  大宮神明社を出たところに紀念碑。田中光治郎という、明治6(1873)年に生まれた方のもの。日清戦争に参戦され、亡くなられました。明治31(1905)年3月の建立。上司であった、第三師団歩兵第六聯隊第二中隊長で、陸軍歩兵大尉である口羽清之の撰。

Img_8952c_20210522165101  大宮神明社のすぐ先に立派な屋敷がありました。見入っていたら、買い物途中と思われる地元の女性が、「ここはね、昔、庄屋さんの家だったんだよ」と教えてくださいました。確かに、そう思えるようなお宅です。屋敷も広く、縦も桃大きく、蔵がありますし、門も立派でした。四日市駅から南あたりの東海道、あちこちで新しい住宅も建っているのですが、そういう中にこうした昔風の建物が残っています。

 その1は若干短めですが、キリが良いのでここまで。その2は、水沢道標や大聖院から。

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2021年5月11日 (火)

20210508「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第3回「富田~四日市」(その3)……金場延命地蔵、道標2基、多度神社、三ツ谷一里塚跡碑、法泉寺、仏性院からなが餅笹井屋本店まで

210508tomida2  5月8日の「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」の第3回「富田~四日市」の本編その3です。その2は、光明寺という真宗本願寺派のお寺まででした。光明寺の先で東海道は、国道1号線と重なります。1号線に出て、金場延命地蔵(これは、八幡地蔵堂の地蔵と兄弟地蔵)、道標。その後、1号線から逸れて、多度神社と三ツ谷一里塚跡を経て、海蔵川を渡り、法泉寺、仏性院と回って行きます。

Img_5351c_20210508170001  光明寺からすぐに東海道は、左折、右折を繰り返し、国道1号線に出ます。海蔵橋の手前までは東海道と国道1号線は同じルート。その途中、国道の東側に金場延命地蔵があります。交通量が多いので、西側の歩道から写真を撮ったのみですが、ここの地蔵は、その2で書きましたように、八幡地蔵堂の地蔵と兄弟地蔵。もとは、羽津の東海道の南端、二重川(ふたえがわ)にかかる堺橋のたもとの堤(今の金場町交差点付近)にあったのですが、昭和48(1973)年、市道拡幅工事で二重川が埋められたのにともない、ここに移転しています。

Img_5355c Img_5359c_20210510192401  金場町の交差点は、5差路になっています。国道1号線と北から来る県道9号との間に道標があります。東海道と新濃州道の分岐点です。大正12(1923)年に建立された道標。南面には「右 四日市/左 大矢知道」、東面には「右 桑名/左 四日市道」とあります。金場延命地蔵と、この道標は、2019年3月24日の近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅2日目~ 東海道、旅人気分で間の宿・富田から四日市宿へ」で見逃したところでした(2019年3月30日:20190324近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅2日目~ 東海道、旅人気分で間の宿・富田から四日市宿へ」(その3)……「国寶元三大師道」道標、多度神社、三ツ谷一里塚跡、法泉寺を回り、嶋小餅店でみたらし団子を食べ、三滝川を渡る)。これでスッキリ(微笑)。

Img_5374c_20210510193601  国道1号線から多度神社の方に逸れて行くところにも道標があります。「国寶元三大師道」の道標です。これは、垂坂山観音寺への道を示すもの。元三大師(がんざんだいし)は、平安時代の天台宗の僧・良源(りょうげん、延喜12(912)~永観3(985)年)。垂坂山観音寺は、御本尊に良源をまつり、「垂坂山のお大師さん」「元三さん」として信仰を集めており、約1,100年の歴史がある天台宗のお寺。この道標から、北西へ直線距離で約3.5㎞のところにあります。この碑は、大正4(1915)年7月に三ツ谷の森太吉という方が建立しています。森太吉は、「 賣藥界の覇者」と言われます。碑の右側には、「垂坂山観音寺是より二十三丁」と記されています。23丁は、約2.5㎞。

Img_5377c_20210508170001 Img_5385c_20210510201801 この道標からすぐに多度神社があります。この神社は、その名の通り、桑名・多度にある多度大社から分祀された神社。それ故、主祭神は、天津彦根命(あまつひこねのみこと)。創立は、明治18(1885)年。明治40(1907)年、海蔵神社へ合祀されましたが、昭和25(1950)年に復興再建され、現在に至っています。

 Img_5389c_20210510201801 境内には、拝殿の東に南に向いて「慰霊」碑がありました。海蔵地区遺族会が建てたもので、戦没者57柱と戦災没者3柱を祀っています。昭和40(1965)年3月の建立。筆は、当時の田中覚・三重県知事。

Img_5399c_20210508170001  多度神社の、これまたすぐ先(100m足らず)、海蔵川の土手を登る途中の左側に三ツ谷一里塚跡の石碑があります。東海道の三ツ谷には、かつて一里塚がありました。しかし、その場所は昭和20年代に海蔵川が拡幅された際に、川の中に取り込まれてしまいました。「東海道分間之図」(元禄3(1690)年)によると、三ツ谷の一里塚は東海道が海蔵川に突き当った辺りに記されています。このため、平成13(2001)年、東海道宿場・伝馬制度制定四百周年を記念して、海蔵地区地域社会づくり推進委員会がこの場所に一里塚跡の石碑を建てて、後世に伝えることにしたのです。三ツ谷一里塚は、日本橋からは99里。

Img_5406c_20210510202601  旧道には橋がありませんので、国道1号線の海蔵橋に迂回します。海蔵川の堤防は、桜の名所です。海蔵川を渡ると、だんだんと四日市の町に入っていきます。

Img_5431c_20210508170001 Img_5417c  海蔵橋から200mあまりのところ、四日市市京町にあるのが、法泉寺。真宗本願寺派のお寺。四日市にあるのですが、ここは桑名の幕末の歴史を語る上では、外せません。明治元(1868)年、鳥羽伏見の戦いで敗れた桑名藩は恭順を決め、1月23日に先代藩主・松平定猷の嫡子・萬之助(後の松平定教)は家老を引き連れて、四日市の新政府軍陣営(真光寺:朝日町にある真光寺か)に出頭したのですが、実際に幽閉されたのは、ここ法泉寺です。萬之助は、法泉寺に100日間謹慎蟄居して恭順の意を表しました。当時の遺品が残り、寺宝となっているそうです。この時、萬之助はまだ12歳でした。法泉寺では人々の出入りが禁じられましたので、檀家も参詣できずに困ったといいます。

Img_5424c_20210510203001  法泉寺の境内には、太田覚眠師頌徳碑がありました。太田覚眠(慶応2(1866)~昭和19(1944)年)は、四日市出身で、真宗本願寺派の僧。法泉寺16世。明治36(1903)年、年西本願寺の開教師となり、シベリアに渡り、ウラジオストクに駐在。翌明治37(1904)年、日露開戦で強制送還されたが、講和条約締結後再びウラジオストクで布教に当たりました。

Img_5445c_20210508170001 Img_5434c  法泉寺の先に仏性院。浄土宗。ノーマークだったのですが、ふと見たら山門が見えたのです。これは行かねばなりません(微笑)。割と小さなお寺。ネットで調べても、これという情報は得られませんでした。

Img_5441c_20210511072801  境内にはお地蔵様。靖博地蔵尊という説明がありました。昭和19(1944)年1月21日、明野陸軍飛行学校(現在の陸上自衛隊明野駐屯地にある航空学校)北伊勢分教場(三重県鈴鹿郡川崎村(現在の亀山市北東部))を飛び立った複葉機(いわゆる赤とんぼ:日本軍の練習機は目立つように橙色に塗られていたことから別名「赤とんぼ」と呼ばれていました。その代表的な機種は、九三式中間練習機九五式一型練習機)が戦闘訓練中、接触事故を起こし、海蔵川周辺に墜落。林靖博少佐(名古屋市出身、当時27歳)が殉職しました。不憫に思った当地の有力者が発起し、婦人会などの協力を得て浜一色に地蔵尊を建立し、それが令和3(2021)年3月、ここに移転されたとあります。つまり、移転されたばかり。

Img_5454c_20210511110101 Img_5453c_20210511110101  続いて、三滝川を渡ります。橋は、三滝橋。このあたり、道幅は結構広くなっています。この三滝橋、江戸時代は、東海道を往還する人馬でにぎわう土橋でしたが、明治10(1877)年に板橋(長さ42間、幅2.5~3間)に架け替えられ、さらに大正13(1924)年6月には、鉄構橋(長さ約72m、幅6.3m)になっています。橋梁の歩道には、萬古焼陶板で作られた祭の絵や古地図などがあります。

Tokaido43_yokkaichi_20210511110201  ちなみに、歌川広重が「東海道五十三次」で描いた四日市宿は、この三滝橋あたりとされます。絵では、旅人が笠を飛ばされて慌てている光景が描かれています。遠景に船の帆柱らしきが立っていますので、上流側から見ていて、左が桑名宿の方と考えられています。土橋(どばし、つちはし、つちばし)は、一般には丸太を隙間なく並べて橋面を作った木の橋の橋面に土をかけてならした橋だそうです(城における土橋はこれと異なり、堀を横断する通路として設けられる土の堤)。江戸時代まで、日本の川にかかる橋のほとんどは土橋でした。広重の絵は、これとは違ったものになっていますが、実際にはどうだったのでしょう?

210508tomida4  三滝川を渡るあたりから、詳細なマップはその4になります。いよいよ旧四日市宿の中心部へと進みます。第二次大戦の時の空襲で昔の建物は焼失してしまっています。建福寺、四日市陣屋跡、黒川本陣跡、問屋場跡、帯屋脇本陣跡、札の辻、道標と回ります。この道標のあたりから諏訪神社のところまで、短い区間ですが、昔の街道は失われています。諏訪神社からスワマエ商店街を出たところで、今日の東海道のコースは終了。

Img_5461c_20210508170001 Nagamochi  三滝橋を渡った先で旧・東海道は左折します。いささか余談めきますが、三滝橋を渡ったところになが餅の笹井屋本店があります。土蔵造りの建物。天文19(1550)年、戦国時代の頃の創業とされます。初代・彦兵衛が、勢州日永の里に因んでつくったというように、もとは日永に笹井屋はあったようです。あの藤堂高虎も足軽の頃、なが餅のおいしさに感動し「武運のながき餅を食うは幸先よし」と大いに喜んだという話があります。なが餅は、小豆餡を白い搗き餅でくるんで平たく長くのばし、両面を焼香ばしく焼き上げてあります。同様の餅は、東海道や伊勢街道沿いにたくさんあったようですが、現在は、この笹井屋の他、四日市市には太白永餅(金城軒)が、また、桑名には、安永餅(永餅屋老舗と、安永餅本舗柏屋)があります。画像は、永餅屋老舗さんのサイトからお借りしました。小腹が空いたときのおやつに最適です。個人的には、安永餅本舗柏屋さんのものが好みです。

 詳細なマップその4に入って、ちょっと中途半端になりますが、長くなりますから、その3はここまで。その4では、旧四日市宿中心部から諏訪神社、スワマエ商店街へ行きます。

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2021年5月10日 (月)

20210508「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第3回「富田~四日市」(その2)……八幡常夜燈、八幡地蔵堂、八幡神社跡、かわらずの松、志氐神社一の鳥居と妋石、光明寺を経て国道1号線へ

210508tomida2  5月8日の「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」、第3回「富田~四日市」の本編その2です。その1では、近鉄富田駅をスタートし、茂福神社と茂福城跡を見て、県道64号線の高架をくぐるところまで来ました。左の画像は、詳しいマップその2です。八田三丁目西の交差点がそこです。このあとは、八幡常夜燈、八幡地蔵堂と八幡神社跡、かわらずの松、志氐神社社号標・常夜燈・妋石、光明寺と進みます。光明寺の先で東海道は、国道1号線と同じルートになります。

Img_5226c_20210508165901  中部運輸局四日市自動車検査場を過ぎ、米洗川(よないがわ)の手前、西側に常夜燈があります。八幡(やわた)常夜燈です。一昨年の近鉄ハイキングでもここを通ったのですが(2019年3月29日:20190324近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅2日目~ 東海道、旅人気分で間の宿・富田から四日市宿へ」(その2)……八幡常夜灯、八幡地蔵堂、八幡神社跡、かわらずの松、妋石(みよといし;夫婦石)、光明寺を経て国道1号線に合流)、その時には、この常夜燈について詳しいことがよく分かりませんでした。今回、ここから先、羽津地区で立ち寄ったところには、「羽津地区まちづくり推進協議会」が新たに説明板を立ててくださってあり、いろいろと知ることができました。この常夜燈は、明治35(1902)年9月に建てられています。Img_5230c_20210510043201 両側面には「両大神宮」と刻まれ、台座には世話人として羽津村中人100余名の名があります。設置年代からみて、それ以前にあったものを建て替えたと考えられるのですが、以前のものの記録はないそうです。設置当時、茂福から米洗川までは、一軒の家もない「芝原縄手」と呼ばれる、松並木の寂しい道で追いはぎも出たといいます。一方、東海道中が盛んな頃には、このあたりまで四日市宿の飯盛り女や客引きが迎えに来ていたそうです(以上、説明板より)。このあと訪ねる八幡地蔵堂は、もともとこの常夜燈の向かいに建っていました。

Img_5238c_20210510044501 Img_5243c  八幡常夜燈のすぐ先に米洗川。左の写真は、その上流方向です。この先に伊賀留我神社(北伊賀留我神社と南伊賀留我神社があります)や、その近くには、天武天皇迹太川御遙拝所跡があります。天武天皇が壬申の乱で、奈良の吉野を離れて鈴鹿を経て三重県に入り、迹太川(とおがわ)のほとりで天照大神に戦勝祈願したと日本書紀にありますが、迹太川は、現在の米洗川であると考えられています。右の写真は、米洗川を渡った先の東海道の様子。

Img_5246c_20210508165901  八幡常夜燈から300mほど、八田第一集会所の隣に、八幡(やわた)地蔵堂と、伊勢国八幡(はちまん)神社跡があります。お地蔵様は、延命地蔵尊。このあと通った金場町にある金場地蔵尊と同じ一つの石から作られた兄弟地蔵で、こちらの地蔵、もとは羽津村の南北の入口(この地蔵は北の入口)に置かれ、村内に疫病が入り込まないようにするための結界地蔵といわれるものであったといいます。上に書いたように、昔は、米洗川北側の八幡常夜燈の向かい辺りにあったのが、昭和4年(1929年)に、八幡地区の住民によって現在地に移設されたそうです。トリビアですが、このお地蔵様、仏像の知識に乏しい石工が彫ったらしく、螺髪に来迎印という阿弥陀如来の形になっています。地蔵堂の前には「真誉法眼(しんよほうげん)上座」という石碑が建っています。是についても、以前来たときには分からなかったのですが、新しい説明板によれば、堂守の真誉師(しんよし)の遺徳を偲んで建てられたもの。

Img_5257c_20210508165901  八幡神社は、勧請年代は不明ですが、江戸時代の旅行記に、「一国一社にして村名も八幡(やわた)と称し、皇国六十六拝の一つに数えられている古社である」と紹介されています。東西40間、南北55間という広い社地を持つ、著名な神社出遭ったそうです。明治41(1908)年に志氐神社に合祀されて、ここ旧社地には「伊勢国八幡神社碑」と刻まれた石柱が建ち、往時を偲ぶよすがとなっています。八幡神社の遺品は、鳥居が志氐神社東口に、また、石燈籠が東海道沿いにある志氐神社一の鳥居脇に移設されています。

Img_5265c_20210508165901  八幡地蔵堂・八幡神社跡から400mほど、堀切川を渡る直前に、松の木が一本。「かわらずの松」です。戦前まで、このあたりは松並木でした。戦後は、経済発展にともなって、道路の拡幅が行われ、また、松食い虫の被害を受けて、東海道の松並木は姿を消してしまいました。この松は、樹齢200年以上とされ、江戸時代からここを行き交う旅人を見守っていたと思われます。ここは、今は羽津というところですが、その昔は「かわらず(川原須)」と呼ばれていましたので、その地名からこの松は「かわらずの松」と名づけられ、大切にされています。同行のK氏は、「もっと立派な松だと思ったがなぁ」とひと言。

Img_5303c  かわらずの松の先、スタートから4㎞を過ぎたところに志氐(しで)神社の一の鳥居と石柱、常夜灯などがあります。志氐神社は、上記の伊勢国八幡神社を合祀した先。神社は、この一の鳥居から400mほど北西に入ったところ(四日市市大宮町)にあります。いろいろと見るべきものもあるようですから、一度行ってみたいとは思っているのですが、まだ実現していません。往復800mの寄り道はちょっと厳しい。主祭神は、気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ;祓戸の神(ハラエドノカミ)ともいい、祓を行う場所である「祓戸(はらえど)」を守る神)。創祀年代は明かではありませんが、社記では垂仁天皇の頃といいます。

Img_5296c  先に触れたように、八幡神社にあった常夜燈が、ここに移設されています。「天下泰平 八幡宮御神前 国家安全」と正面に刻まれています。

Img_5299c_20210508165901  この志氐神社一の鳥居のところに、東海道の両側に2つの大きな石があります。これらは「妋石(みよといし)(夫婦石)」と呼ばれています。志氐神社には、伊弉諾尊(イザナギノミコト)と伊弉冉尊(イザナミノミコト)も祀られていて、縁結び・夫婦円満のご神徳があるとされます。古書にも「婦女の婚姻を求むる祈願を之になす」と記述があり、古来より、東海道を行き交う多くの旅人は、この夫婦一対妋石をなでて、縁結び・夫婦円満の願いを込めたといいます。石は、鳥居の真下に1つ(上の鳥居が写った写真をよくご覧ください)、道を挟んだところにもう1つ(左の写真)あります。きちんと撫でて来たらよかったかと、思ったりして(苦笑)。

Img_5307c_20210508165901  このすぐ先(100mあまり)には、初野山摂護殿光明寺(はつのざんしょうごでんこうみょうじ)があります。真宗本願寺派のお寺。元は大矢知村青木谷にあったといいます。弘仁年間(810~824年)に空海が諸国を巡回した時に、小堂を建てたのが始まりと伝わっています。寛正元(1460)年に、下野国高田の専修寺第10世眞慧(しんね)上人が諸国巡化の際、最初に近江国坂本の妙林院(浄土真宗寺院。真慧が専修寺の出張所として創建したものの、廃絶。跡地不明)から光明寺に来錫し、約1年間在住して付近を教化した時に、当時の住職が改宗して浄土真宗高田派に転じたといいます。

Img_5321c_20210510065401  享禄年間(1528~1531年)に、羽津城主赤堀左京大夫盛義(宗昌)が出家して光明寺に入り善願と名乗り、現在地に寺を移して初野山青木堂光明寺と称しました。天正年間(1573~1591年)に京都興正寺の勧めにより、高田派から本願寺派に転じたとされます。寛文3(1663)年2月、雷により堂宇、宝物、記録等一切を焼失し、創建の年月、開基の事蹟、中古世代住職名等すべて不明になりました。第5世俊応の妹せつが青蓮院宮に仕えた関係で、皇族所縁の品々を下賜され保管していたのですが、これらは、戦災で焼失しています。

Img_8233c_20210510065501  光明寺の山門前には、「八十宮(やそのみや)御遺跡」の碑が建っています(左の写真は、2019年3月24日に撮影)。八十宮は、霊元上皇の内親王(吉子内親王(よしこないしんのう);正徳4(1714)~宝暦8(1758)年;八十宮は幼名)で、正徳5年、7代将軍徳川家継の婚約者になったのですが、家継は翌年死去。享保11(1726)年内親王となり、同17(1732)年、19歳で仏門に入りました。徳川家継は江戸幕府の第7代将軍(在任:1713~1716年)ですが、宝永6(1709)年)7月3日生まれですから、婚約当時はわずか6歳。八十宮の方は、何と1歳で婚約しています。正徳6(1716)年閏2月18日(4月10日)に納采の儀を行ったのですが、そのわずか2ヶ月後、享保元(1716)年4月30日(6月19日)に家継は亡くなります。八十宮は、1歳7ヵ月で後家となってしまったのです。政治的な思惑が働いたのでしょうが、何ともいえない話。光明寺にこの「八十宮御遺跡」の碑があるのは、その宮付に光明寺第5世俊応の妹つねが召されたとされます(こちら)。碑は、昭和3(1928)年3月に桑名吉津屋町の寺本久治が建てています(寺本についてGoogleで検索すると、昭和22年の官報に名前が出て来ますが、どのような人物かは不明。こちら)。

Img_5334c_20210508165901  境内には、森多三郎紀念碑とその墓碑があります。文久元(1861)年、桑名藩が過酷な年貢米の増徴を命じたのに対し(当時の藩主は、松平定敬)、これを阻止しようと、羽津村組頭村方三役の一つで、名主、庄屋を補佐する役目)であった森多三郎ら17名が先頭に立って藩に抵抗しました。その結果、藩は年貢の増徴を断念することになったのですが、その後、多三郎は桑名藩庁に呼ばれて安永の料理屋に行き、毒酒を飲まされ、帰途、この光明寺までたどり着いたところで絶命したと伝えられています。この碑は、当時の羽津村の肝煎、組頭、小前惣代が藩の譲歩を勝ち取った記念に、多三郎の功績に報いるものですが、桑名藩の追及を畏れ、碑文は紀念碑という文字と、建立年、多三郎を含む百姓の代表名という簡素なもになっています。また、紀念碑の前には、「釋浄諦信士」と刻まれた森多三郎の墓碑が建てられています。

Img_5345c_20210508170001 Img_5281c_20210510070501  光明寺から200m足らずのところで旧・東海道は、左に曲がり、国道1号線に入ります。スタートからは4.6㎞ほどのところ。この先、金場町、三ツ谷と進みます。これもいささか余談ですが、羽津地区のあちこちに右の写真のようなものが置かれていました。「とうかいどう」と透かし彫りになっていて、電源コードがつながっていますから、夜は灯りが入ると思います。なかなか風情があっていい感じ。その2は、ここまで。その3は、国道1号線沿いにある金場延命地蔵や、道標を見て、多度神社へとなります。

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2021年5月 8日 (土)

20210508「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第3回「富田~四日市」(予告編)

Img_4989c_20210508165901  今日は、4月25日に引き続いて(2021年4月25日:20210425「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」……第2回「朝日~富田」(予告編))、「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」の第3回として、近鉄富田駅から近鉄四日市駅までを歩いてきました。桑名のアメダスでは、最高気温22.9℃、晴れあるいは薄曇り で、歩くのにはちょうどよい気候でした。今日のところは、予告編です。桑名駅を8時42分に出る松阪行き急行に乗車。近鉄富田駅には、8時49分着。¥260。8時52分にスタート。

210508tomida0  こちらが、今日のコースマップの全体図。近鉄富田駅をスタートし、南東へ200mあまり行ったところが東海道。ここを右折。明治天皇御駐輦跡碑、善教寺、薬師寺、常照寺、新設用水道碑・力石、証円寺と来たところで東海道は、左折し、すぐ右折。その後、茂福神社と茂福城跡へ寄り道。東海道に戻って、八幡常夜燈、八幡地蔵堂・八幡神社跡、かわらずの松。このあたりは羽津。光明寺、金場延命地蔵を眺めて多度神社で小休止(というには長く50分ほど)。三ツ谷一里塚跡を見て海蔵川を渡り、法泉寺。さらに三滝川を越えて、旧四日市宿の中心部へ。空襲で昔の建物は焼失してしまっています。建福寺、陣屋跡、本陣跡、問屋場跡、札の辻、道標。このあたりから諏訪神社のところまで、短い区間ですが、昔の街道は失われています。諏訪神社からスワマエ商店街を出たところで、今日のコースは終了。昼食を摂って、ゴールの近鉄四日市駅へ。14時30分にようやく到着(笑)。現地で歩いたのは、8.8㎞。

Img_5003c_20210508165901 Img_4993c_20210508165901  東海道に入ってすぐ、市立富田小学校の敷地内に「明治天皇御駐輦(ちゅうれん)跡碑」。「駐輦」とは、天皇がお休みになること。明治天皇は、4度この地で休まれたといいます。富田茶屋町・広瀬五郎兵衛という方のところです。広瀬五郎兵衛宅は、この富田小学校正門から富田地区市民センターあたりにあったそうです。焼き蛤をご賞味になったこともあったと説明板に書かれていました。なお、記念碑は、公爵・近衛文麿の筆です。「その手は桑名の焼き蛤」で有名な桑名の焼き蛤ですが、初回にあるいた朝日町小向(おぶけ)や、ここ富田あたりでも焼いて、売られていました。富田までは、旧桑名藩領でした。

Img_5028c_20210508165901  十四川の手前、東側に成徳山善教寺(じょうとくざんぜんきょうじ)。真宗高田派のお寺。ご本尊は、阿弥陀如来。このご本尊は、国の重要文化財に指定されています。作善日記から仁治2(1241)年正月頃に造られたと考えられています。本堂は大変立派です。真宗高田派の本山である専修寺の如来堂を模していると説明板にありました。

Img_5075c_20210508165901  十四川からほぼ300mのところには、薬師寺。浄土宗のお寺で、ご本尊は、阿弥陀如来。大同年間(806~810)、この地に疫病が流行し、人々が苦しんでいたことを旅の途中で知った弘法大師が、薬師如来を彫って開眼すると、人々の難病はたちまち平癒したので、人々は弘法大師に感謝するとともに、薬師堂を建て薬師如来を祀ったことに始まります。その後、茂福城主であった朝倉下総守盈盛(みつもり)が菩提寺としたそうです。しかし、永禄10(1567)年、瀧川一益の兵火で焼失。ちなみに、ここは尼寺。

Img_5092c_20210508165901  光明山常照寺。浄土真宗本願寺派のお寺。ここは、四日市市茂福町になります。天文7(1538)年、釈法導によって開山され、寛文年間(1661~1673)にそれまでの天台宗から浄土真宗本願寺派に転派しています。本堂は明治42(1909)年に再建され、鐘楼・山門は明治の末に建てられたといいます。平成7(1995)年11月本堂・鐘楼の屋根の修復が行われたようです。鐘楼の鐘は、昭和27(1952)年の四日市大博覧会で「平和の鐘」として展示されたものです。

Img_5112c_20210508165901  東海道は、常照寺の先で鉤型に曲がりますが、そこに新設用水道の碑と力石が2つあります。「新設用水道碑」は、新設・用水道・碑で、新設された用水道を記念する碑。ここから北西に十四川から七丁(760m)の暗渠による水路を通し、各家の敷地内にマンボ(人工の地下水路)を設置して生活用水や防火用水として、明治37(1904)年から昭和中期まで利用したといいます。昭和34(1959)年の伊勢湾台風の水害で使えなくなり、この用水道は消滅しました。力石は2つあります。約32貫(約120㎏)と、約5貫(約19㎏)の2つ。小さい方は、子ども用かと説明があります。

Img_5152c_20210508165901  その先で東海道はすぐに右折。角には、林光山證圓寺。当初は天台宗でしたが、天文年間(1532~55年)、住職が真宗本願寺の第10世證如上人に帰依して改宗したと伝わっています。その後、永禄10(1567)年、茂福掃部輔盈豊(もちぶくかもんのすけみつとよ)は裏切りを疑われ、滝川一益に長島城に呼ばれて謀殺されました。茂福城が落城すると、臣・林玄證(はやしげんしょう)は盈豊の遺児を敵から隠し、鍋坂の村中に逃れて密かに養育し、成人の後、自身の娘と娶せて家督を譲っています。遺児すなわち林三郎左衛門盈景(みつかげ)とその末裔はこの證圓寺の住職になります。

Img_5182c_20210508165901 Img_5189c_20210508165901  スタートから1.7㎞のところに茂福神社(もちぶくじんじゃ)の社号標があります。神社はここから北西にさらに200mほど入ったところにあるのですが、せっかくだから寄り道することに。茂福神社の創祀は永禄10(1567)年以前とされます。明治28(1895)年4月、茂福神社と改称されるまでは天王社と称されていました。明治42(1909)年、鳥出神社に合祀されたものの、昭和25(1950)年、分祀され現在に至っています。主祭神は、建速須佐之男命。茂福城主であった茂福掃部輔盈豊も祭祀に関わっていたそうです。

Img_5195c_20210508165901 340257b9  茂福神社の100mほど西には、茂福城跡。近鉄名古屋線の線路脇に小さな土壇と石碑が建てられています。電車から、右のような看板が見えます(2017年12月23日撮影)。城跡を標示する石柱と最後の城主・茂福盈豊(みつとよ)の碑が建てられています。この碑文によると、貞冬という人物が越前朝倉氏のもとにいましたが、応永年間(1394~1428)の乱を避けて当地に移り、地名に因んで茂福氏を名乗ったとされます。「伊勢軍記」によれば、永禄3(1560)年に茂福氏は羽津城の田原氏と合戦に及び勝利したのですが、その7年後に城主朝倉盈豊は、長嶋で織田信長の家臣である瀧川一益に謀殺されました。その際、斬られた主人の首を家臣の小川宗春が奪い取り、朝明郡保々(朝倉氏の本拠地)に葬ったといわれます。この時の戦いで茂福城は落城したとされます。

Img_5226c_20210508165901  茂福城跡から東海道に戻り、県道64号上海老茂福線の高架橋をくぐり、500mほど行った米洗川(よないがわ;上流に天武天皇迹太川御遙拝所跡があります)の手前に八幡常夜燈があります。旧東海道を往来する人々のためのものですが、現存のものは明治35年に建てられたといいます(こちら)。南側には、「南大神宮」と刻まれています。かなり大きな常夜燈です。このあたりでスタートから3.2㎞。時刻は、10時10分。あちこち見て回っていますので、かなりのスローペース。

Img_5246c_20210508165901 Img_5257c_20210508165901  米洗川を渡った先には、八幡地蔵堂と、伊勢国八幡神社跡。お地蔵様は、延命地蔵尊で、このあと見る金場延命地蔵尊と同じ一つの石から作られた兄弟地蔵で、もとは羽津村の南北の入口(この地蔵は北の入口)に置かれ、村内に疫病が入り込まないようにするための「結界地蔵」といわれるものであったといいます。昔は、米洗川北側の常夜燈(上記の常夜燈と思います)の向かい辺りにあったのが、昭和4年(1929年)に、八幡地区の住民によって現在地に移設されたそうです(こちら)。八幡神社は、明治41(1908)年に志氐神社に合祀されています。石柱には「伊勢国八幡神社碑」と刻まれ、往時を偲ぶよすがとなっています。

Img_5265c_20210508165901  スタートから3.7㎞地点には、かわらずの松。昔の松並木の名残である松の木です。このあたりが「川原須(かわらず)」という地名であったことから、こう名づけられています。樹齢200年を優に超えるようです。松並木は、道路の拡幅と、松食い虫の被害を受けてほとんどなくなってしまい、今残っているのは、この1本だけになっています。

Img_5303c Img_5299c_20210508165901  4㎞を過ぎたところに志氐(しで)神社の一の鳥居。志氐神社は、ここから北西へ400mほど入ったところにあります。主祭神は、気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ;祓戸の神(ハラエドノカミ)ともいい、祓を行う場所の神)。創祀年代は詳らかでありませんが、社記では第11代・垂仁天皇の頃といいます。志氐神社には行きませんでしたが、この鳥居の前に「妋石(みよといし)(夫婦石)」があります。志氐神社には、イザナギ・イザナミも祀られていて、縁結び・夫婦円満のご神徳があるということから、東海道を行き交う多くの旅人は、この夫婦一対みよと石をなでて縁結び・夫婦円満の願いを込めたといいます。石は、鳥居のところに1つ、道を挟んだところにもう1つあります(右の写真は道を挟んだ東側にあるもの)。

Img_5307c_20210508165901  志氐神社社号標からすぐ先(100mあまり)には、初野山摂護殿光明寺(はつのざんしょうごでんこうみょうじ)があります。真宗本願寺派のお寺。元は大矢知村青木谷にあったといいます。弘仁年間(810~824年)に空海が諸国を巡回した時に、小堂を建てたのが始まりと伝わっています。寛正元(1460)年に、下野国高田の専修寺第10世眞慧上人が諸国巡化の際、最初に近江国坂本の妙林院(浄土真宗寺院。真慧が専修寺の出張所として創建したものの、廃絶。跡地不明)から光明寺に来錫し、約1年間在住して付近を教化した時に、当時の住職が改宗して浄土真宗高田派に転じたといいます。享禄年間(1528~1531年)に、羽津城主赤堀左京大夫盛義(宗昌)が出家して光明寺に入り善願と名乗り、現在地に寺を移して初野山青木堂光明寺と称しました。天正年間(1573~1591年)に京都興正寺の勧めにより、高田派から本願寺派に転じたとされます。寛文3(1663)年2月、雷により堂宇、宝物、記録等一切を焼失し、創建の年月、開基の事蹟、中古世代住職名等すべて不明になりました。

Img_5334c_20210508165901  境内には、森多三郎紀念碑とその墓碑があります。文久元(1861)年、桑名藩が過酷な年貢米の増徴を命じたのに対し(当時の藩主は、松平定敬)、これを阻止しようと、羽津村組頭(村方三役の一つで、名主、庄屋を補佐する役目)であった森多三郎ら17名が先頭に立って藩に抵抗しました。その結果、藩は年貢の増徴を断念することになったのですが、その後、多三郎は桑名藩庁に呼ばれて安永の料理屋に行き、毒酒を飲まされ、帰途、この光明寺までたどり着いたところで絶命したと伝えられています。この碑は、当時の羽津村の肝煎、組頭、小前惣代が藩の譲歩を勝ち取った記念に立てたもので、紀念碑の前には、「釋浄諦信士」と刻まれた森多三郎の墓碑が建てられています。

Img_5351c_20210508170001  光明寺からすぐに東海道は、左折、右折を繰り返し、国道1号線に出ます。海蔵橋の手前までは東海道と国道1号線は同じルート。その途中、国道の東側に金場延命地蔵があります。交通量が多いので、西側の歩道から写真を撮ったのみですが、ここの地蔵は、八幡地蔵堂の地蔵と兄弟地蔵。もとは、羽津の東海道の南端、二重川(ふたえがわ)にかかる堺橋のたもとの堤(今の金場町交差点付近)にあったのですが、昭和48(1973)年、市道拡幅工事にともない、ここに移転しています。

Img_5377c_20210508170001  海蔵橋の手前で東海道は、国道1号線から左(東)へ入ります。そこにあるのが、多度神社。この神社は、その名の通り、桑名・多度にある多度大社から分祀された神社。それ故、主祭神は、天津彦根命(あまつひこねのみこと)。創立は、明治18(1885)年。明治40(1907)年、海蔵神社へ合祀されましたが、昭和25(1950)年に復興再建され、現在に至っています。スタートから5.3㎞、時刻は11時10分でしたので、小休止。のつもりが、50分ほどお茶を飲みながら話し込んでしまいました(苦笑)。

Img_5399c_20210508170001  多度神社から海蔵川の堤防に上がったところに三ツ谷一里塚跡碑があります。三ツ谷には一里塚があったのですが、その場所は昭和20年代に海蔵川が拡幅された際に、川の中に取り込まれてしまいました。「東海道分間之図」(元禄3(1690)年)によると、三ツ谷の一里塚は東海道が海蔵川に突き当った辺りに記されています。このため、平成13(2001)年、東海道宿場・伝馬制度制定四百周年を記念して、海蔵地区地域社会づくり推進委員会がこの場所に一里塚跡の石碑を建てて、後世に伝えることにしたのです。三ツ谷一里塚は、日本橋からは99里。東海道は、直進するのですが、今は橋がありませんので、海蔵橋に迂回。海蔵川のこのあたりは、桜の名所。

Img_5431c_20210508170001  海蔵橋から300mほど行ったところ、四日市市京町にあるのが、法泉寺。真宗本願寺派のお寺。明治元(1868)年、鳥羽伏見の戦いで敗れた桑名藩の国元は恭順を決め、1月23日に先代藩主・松平定猷の嫡子・萬之助(後の松平定教)は家老を引き連れて、四日市の新政府軍陣営(真光寺)に出頭したのですが、実際に幽閉されたのは、ここ法泉寺です。萬之助は、法泉寺に100日間謹慎蟄居して恭順の意を表しました。当時の遺品が残り、寺宝となっているそうです。萬之助、当時は12歳でした。

 6.5㎞で三滝川にかかる三滝橋を渡ります。Tokaido43_yokkaichi_20210508182501歌川広重が「東海道五十三次」で描いた四日市宿は、この三滝橋あたりとされます。絵では、旅人が笠を飛ばされて慌てている光景が描かれています。遠景に船の帆柱らしきが立っていますので、上流側から見ていて、左が桑名宿の方と考えられています。ここからが、旧四日市宿の中心部になります。

Img_5501c_20210508170001  市立中部西小学校は、四日市陣屋があった跡に建っています。四日市は天領でしたから代官所が置かれました。慶長5(1600)年、徳川家康が水谷光勝を四日市の代官に任じて天領を管理させ、陣屋は慶長8(1603)年、水谷光勝によって築かれました。時期によって建物には変更があったようですが、案内板にあった絵図には42の部屋が描かれています。享保9(1724)年、和郡山の松平吉里の領地となりますが、享和元(1801)年には再び天領となり、以後は多羅尾氏が代々代官を世襲しました。明治維新後は度会県の支所が置かれ、明治5(1872)年から翌年まで三重県庁となった。明治9(1876)年に勃発した伊勢暴動によって焼打ちされ焼失してしまいました。ここ中部西小学校が代官所跡ですが、学校の正門に案内板があるのみで遺構は残っていません。

Img_5520c_20210508170001 Img_5530c_20210508183301  黒川本陣があったとされるところ、現在は、黒川農薬商会になっています。一番本陣は清水太兵衛家が代々なり、高札場のあった札の辻北角に明治10(1877)年頃まで続きました。黒川本陣は、二番本陣で、文化8(1811)年頃から脇本陣だった黒川彦兵衛がついています。東京遷都の際、明治元(1868)年9月24日を初めとして明治天皇はこの黒川本陣を合計4回行在所として利用されたといいます。右は、問屋場跡。もとは福生医院という耳鼻咽喉科医院でしたが、現在は、東海道四日市宿資料館になっています。現在は、残念ながら新型コロナのため閉館中。

Img_5526c_20210508170001  ここが札の辻。交差点の南東角から北西方向を撮っています。江戸時代には、高札場があったところで、あちこちに「札の辻」という地名が残っています。また、ここは、「菰野道」のスタート地点。菰野道は、菰野町菰野まで続く11㎞の街道です。この先で、東海道は昔の道が途切れています。

Img_5557c_20210508170001 Img_5576c_20210508170001  諏訪神社前の交差点で国道1号線を渡って、諏訪神社へ。旧・東海道に面しています。鎌倉時代初期の建仁2(1202)年、信州の諏訪大社の御分霊をこの地に勧請し創祀されたと伝わっています。主祭神は、建御名方命(タケミナカタノミコト)と八重事代主命(ヤエコトシロヌシノミコト;事代主神(コトシロヌシノカミ)ともいいます)で、四日市・浜田の総産土神とされます。境内には、稲荷社、山津見社、天神社がありますし、伊勢神宮と明治神宮の遙拝所、さらには明治天皇の御製歌碑もあります。諏訪公園には、誓文御柱(五箇条の御誓文を刻んだ塔)も。

Img_5582c_20210508170001 Img_5588c_20210508170001  諏訪神社の先の東海道は、商店街になっています。その名もスワマエ商店街。諏訪神社の前にある商店街ですし、ここが諏訪神社の表参道の位置づけ。左の写真でアーケードの商店街になっていますが、この道が旧・東海道です。営業していない店もありますが、全体としてはけっこう活気がある商店街です。この商店街で見逃せないのは、大四日市祭りに登場する「大入道」の人形(首が伸び縮みします。見たときも伸び縮みしていました)。この商店街を出たところが、今日の東海道歩きの終点。ここまでで8.3㎞。13時10分を過ぎた頃。

Img_5600c_20210508170001 Img_5598c  近鉄四日市駅方面に向かい、一番街で昼食を食べるところを探しました。いろいろと店があって迷ったのですが、なぜか飲み屋さんへ(笑)。本当はここの2階にある「三重人」がいいかと思ったのですが……。アレやコレ屋というお店。隣のテーブルで美味しそうにビールを飲んでいる方も会ったのですが、ランチのみ。ソースカツ丼、¥968(税込み)。美味しかったものの、前期高齢者には、量がやや多く、カツが固め(苦笑)。1時間ほど滞在。

Img_5610c_20210508170001 Img_5617c_20210508170001  ゴールの近鉄四日市駅には、14時30分に到着。北口。14時51分の名古屋行き急行に乗車。桑名には、15時03分着。3日間かけて歩いたのに、たった12分で戻ってこられます(微苦笑)。¥300。現地で歩いたのが8.8㎞、自宅から桑名駅往復が2.2㎞で、合計11.0㎞。歩数は、スマホのALKOOで20,812歩。よく歩きました。

 本編は、また改めて少しずつ書きますので、予告編はここまで。

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2021年4月23日 (金)

20210422勝手に近鉄名古屋線ハイキング「長島漫歩」(その1)……光岳寺、花林院、正敬寺から長島城跡へ

Img_9196c_20210422174301  4月22日の“勝手に近鉄名古屋線ハイキング「長島漫歩」”のその1です。天気がよくて、気温が上がるのはこの日までということもあり、出かけようと思っていました。幸か不幸か、朝早く目が覚めて、前日の授業のQ&Aや、仕事のメールを書き終えられるなど、9時頃には、dutyを一通り済ませられたのです。そこで、先日から考えていた「長島漫歩」に行ってきました。水辺のやすらぎパークにある牡丹園を見に行こうというのが、第一の目的。去年まではクルマを使ったのですが、最近、コペンは娘の通勤用になってしまっています。故に長島駅まで電車で行き、あとは歩きました。

Nagashima11  歩いたコースはこちら。近鉄長島駅から南を歩いてきました。光岳寺、花林院、正敬寺と寺を回ったあと、長島城跡である長島中学校、長島中部小学校の前を通り、長島川遊歩道を下って、稲荷阿岐波神社から、水辺のやすらぎパークへ。久我邸や、牡丹園を見て、一休みしてから、長島幼稚園近くの遊歩道の終点まで。そのすぐ近くには、花市場があり、そこに立ち寄って来ました。いつもバードウォッチングに行く河口堰は今日はパス。近鉄長島駅に戻って電車で帰るつもりが、国道1号線の伊勢大橋東詰交差点でこのまま歩いて帰った方が早い、と思い直し、伊勢大橋を徒歩で渡って帰宅。長島駅から自宅までが7.5㎞。自宅から桑名駅までが1.1㎞で、合計8.6㎞の散歩でした。

Img_9203c Img_9210c  桑名駅を9時48分に出る名古屋行き普通に乗車。次の駅が近鉄長島駅。乗車時間はわずかに4分、料金は210円。車両はガラガラ。近鉄、儲かってないと思います。近鉄長島駅前(駅の南)には、伊勢湾台風の水位標があります(右の写真)。当時、このあたりは5mを越える水に浸かったそうです。この写真を撮っていたら、名古屋行きの特急ひのとりが通過して行くのが見えました(右の写真の奥に写っています)。ひのとりが走り始めて1年あまり。一度くらいは乗りたいもの。といいつつ、来年で登場10年になる「しまかぜ」にもまだ乗っていません。同級生K氏と「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣り」を始めましたが、伊勢まで行ったら、帰りはしまかぜに乗って宴会をしながら帰ってこようと話しています(笑)。ウォーキングのスタートは、9時55分。ちなみに、ひのとりは、1本だけ桑名駅にも停車します(こちら)。大阪難波21時発の名古屋行き「ひのとり621列車」。このひのとり、白子、四日市にも止まり、桑名には22時59分。名古屋着は、23時16分。

Img_9228c  近鉄長島駅から南へ下っていきます。長島は、平成16(2004)年に多度町とともに桑名市に合併しています。木曽三川河口部に位置し、町全域が平坦です。かつては堤防に囲まれた複数の輪中によって構成されていました。地名の長島は7つの洲からなる「七島」、あるいは南北に長い土地であることから付けられたとされます。明治時代に行われた木曽三川分流工事に伴って、輪中を分けていた小河川の多くが廃川となるとともに、一部の土地は長良川の新河道となり、現在のような地形となっています。木曽三川改修工事についての簡単な歴史は、こちら

Img_9231c Img_9237c_20210423042501  近鉄長島駅から500mで、天機山伝通院光岳寺。浄土宗のお寺。山門に三つ葉葵の御紋があって驚きました。後述のように、徳川家康の母である伝通院の方の菩提寺だったのです。今回は、事前の予習をほとんどしないで出かけました。思わぬところ、身近なところに歴史ありです。学生諸君にもいつも言っていますが、予習は、やはり必要です(苦笑)。

Img_9240c_20210422172401 Img_9234c  創建は不詳ですが、古くは、下野国(現在の千葉県関宿)にあり、弘経寺と称していました。慶長7(1602)年、徳川家康は母親である伝通院の菩提寺の1つに定め、天機山伝通院光岳寺と改称しました(法名が、伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼によると思われます)。当時の領主で、家康の異父弟である松平康元が光岳寺を庇護し、同家の移封先である加納藩(岐阜県岐阜市)、小諸藩(長野県小諸市)に随行し、慶安2(1649)年、当時の当主松平康尚が長島藩に移封になると、長島城下に移りました。ここに祀られている「沓踏子安延命地蔵菩薩」は、伝教大師最澄が自ら彫り込んだと伝えられるもので、伝通院の念持仏だったといいます。

Img_9255c Img_9355c_20210422172401  近鉄長島駅あたりから、長島幼稚園付近まで、途中、ちょっと途切れてはいますが、長島川遊歩道があります。長島駅の南のポケットパークから光岳寺のところ、長島城跡の近くの城東橋から長島幼稚園あたりまで、です。今日は、ほぼこれに沿って歩いてきました。光岳寺からさらに南に向かいます。長島中学校の東で長城橋を渡って長島川の東へ。お寺が2ヶ所ありますので、そちらに。

Img_9272c Img_9280c  スタートから1㎞のところに、盤龍山花林院(ばんりゅうざんかりんいん)。曹洞宗のお寺。門の脇に「乳授薬師(ちちやくし)」という石碑も建っています。しかし、碑陰には何も説明はありませんし、ネットで調べても情報は出て来ません。最近の経験では、「長島町史」を見れば分かると思うのですが、あいにく手元にはありません。

Img_9284c_20210423045801 Img_9288c_20210423045801  禅寺らしく、山門の脇には、大きな「戒壇石(かいだんせき)」があり、「不許葷酒入山門(=葷酒山門に入るを許さず:クンシュサンモンニイルヲユルサズ)」と刻まれています。山門をくぐった右手(北側)には、地蔵堂が2ヶ所あります。

Img_9291c_20210422172401  ここは、家康の異父同母弟である松平康元が父・久松俊勝の冥福を祈るため、三州西郡(こちらの記述によれば、現在の愛知県蒲郡市に含まれる地域)に一寺を建て父の法号を採って花林院と名づけました。その後、松平氏は下総関宿へ移封。さらに加納、信州小諸へと移封されたので、寺もこれにしたがって移転しています。松平康尚が長島藩主となると、花林院も長島に寺基を移しました。その後、増山氏が長島に入封すると増山氏もまた花林院を代々の位牌所として庇護しています。墓所には増山氏の13基の墓碑があるそうですが、調べて行きませんでしたので、墓所は見てこず(こちら)。また、慶長6(1601)年に長島藩主菅沼家初代となった菅沼定仍(さだより)の室、菅沼定盈(さだみつ)の継室の墓も残っているため、花林院以前にこの地には菅沼氏の女系の菩提寺、祈願所があったと考えられています。

Img_9296c_20210423072001  元の本堂は天保年間の建立だったそうですが、昭和36(1961)年に焼失。その後鉄筋コンクリートで再建されています。

Img_9309c_20210422172401 Img_9319c  花林院のすぐ南、細い道を1本隔てて石城山正敬寺(しょうきょうじ)。真宗大谷派のお寺。お寺にも由緒書きなどはなく、また、ネットで検索してもとくに情報は出て来ませんでした。

Img_9327c_20210422172401  再び長城橋を渡って、元の道に戻ります。そこは、長島中学校の東側。長島中学校には、城の大手門のような立派な門があります。それもそのはず、ここは、長島城の跡なのです。

Img_9331c_20210422172401  長島城の起源は、寛元3(1245)年、藤原(九条)道家が館を築いたことにさかのぼります。文明14(1482)年、北勢四十八家の一人、伊藤重晴によって城が再建されました。元亀元(1570)年、一向宗・願証寺の住職・証意蓮淳蓮如上人の6男)の曽孫)によって伊藤氏一族が追放され、長島一向一揆の拠点となりますが、その後、織田信長によって攻略され、滝川一益の居城となりました。賤ヶ岳の戦い後、織田信雄の居城となるのですが、天正14(1586)年の天正地震で天守が倒壊するなど甚大な被害を受けたため、信雄は清洲城に移りました。江戸時代に入ると、菅沼氏が2万石で封じられ、長島城を改修。元和7(1621)年、菅沼氏が移封されると、長島藩は廃藩となり、長島城も一時廃城となったものの、慶安2(1649)年、久松松平家の松平康尚が那須藩より1万石をもって入り、長島藩が再興されました。元禄15(1702)年には、4代将軍家綱の生母の弟・増山正利の子の正弥(まさみつ)が常陸下館より2万石で移され、以後8代続き明治維新に至っています。この間、城郭は順次拡大されましたが、天守は上げられませんでした。

Img_9341c_20210422190001  現在、城跡は長島中部小学校・長島中学校の敷地となり、遺構の大半は失われていますが、東側に石垣および堀が残るそうです(ただし、まったく気づかず、見ていません)。長島中部小学校内の「大松」は、天然記念物であり、市の指定文化財にもなっています。クロマツの大樹で、樹齢300年以上と推定されており、長島城があった当時は本丸の西南にあったといいます。

 その1はここまで。その2は、稲荷阿岐波神社から。その2で完結のつもり。

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2021年4月 2日 (金)

20210331“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”(その2)……山神社、蓮花寺、白山神社・蓮花寺西城跡、蓮華寺東城跡、宇賀神社、宇賀遺跡

210331nisibessho2 3月31日に行ってきた“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”の本編その2です。その1では、西別所の八幡神社まででした。今回は、蓮花寺地内を巡った話し。地蔵堂のところで、員弁街道は城下橋を渡り、蓮花寺川の南を進みます。私は、そのまま蓮花寺川に沿って西へ。川は北へ向かいますが、直進。三岐鉄道北勢線・蓮花寺駅の北あたりで右折し、山神社、蓮花寺、白山神社(マップのもとにしたキョリ測では、宇賀神社となっていますが、そこは白山神社です)、蓮花寺東城跡を見てから南へ、宇賀公園にある宇賀神社にお参りして、宇賀遺跡があったところへ。  

Img_1249c_20210402065301 Img_1252c_20210331172201  蓮花寺川沿いの景色。向こうに見えているのは、在良小学校。よく晴れて見通しも利き、川沿いで広々としていて、とても気持ちよく歩けました。蓮花寺駅の北あたりで右折しましたが、そこに地蔵堂と、個人の方の慰霊碑。陸軍一等歩兵として従軍され、亡くなられた方のもの。碑陰は確認しませんでしたが、日清戦争か、日露戦争のものかと見ました。

Img_1262c_20210331172201 Img_1274c_20210331172201  スタートから2.9㎞、9時半過ぎに山神社。事前の調べでは、由緒もある神社でしたので、もっと立派なものを予測していました。御祭神は、大山津見神(おおやまつみのかみ、山を司る神)。正親町天皇の天正年間(1573~92年)以前の創始だそうです。蓮花寺村宇賀の城山(あとから訪ねる白山神社あたりか?)に内山源吾が城主として居城し、奉祀したといいます。天正年間、織田勢に滅ぼされたものの、その後も氏子の方々が「山の神」と称し、祭祀してきました。民家のまん中にあり、ブロック塀に囲まれた神社というのも珍しいのですが、氏子の方に祭祀されてきたというのが、よく分かる気がします。次の目的地、蓮花寺は、山神社のすぐ裏なのですが、細い道にクルマが止まっていたりして、結局、回り道。

Img_1286c_20210331172201  回り道をしたお陰で、「珍百景」に遭遇。普通のお宅と思うのですが、庭にスワンボートが置いてある光景。建物の中にも、富士山のような形のものが置いてあるのも見えました。「ナニコレ珍百景」に相当しそうな感じがします。

Img_1294c_20210402175901  このお宅のすぐ先に鳥居があります。この写真を撮った方からくぐるようになっていますので、このあと行くつもりの白山神社のものと思われます。大正9(1920)年の建立。車が通るには不便な気がします。この鳥居をくぐってすぐに右手に入る細い道があり、そこを行くと、蓮花寺でした。

Img_1297c Img_1306c_20210331172201  総仏山蓮花寺。真宗大谷派の寺。ご本尊は、阿弥陀如来。第二次世界大戦までは、総仏堂という説教所でした。在良村郷土誌によれば、蓮花寺先々代の紀伊浩洋は、漢籍で名高い人物であったそうです。堂は、先代が昭和33(1958)年に建て変え、旧村名(蓮花寺村)をとって総仏山蓮花寺と名づけたといいます。寺にある鐘は、戦時中に金属供出として出されたもの(今は、中里ダムの湖底に沈んだ深尾山薬王庵の持ち物)を譲り受けたといいます。かつてこの近くには、地名の語源となった「蓮華寺」がありました(ここ蓮花寺とは別の寺。蓮華寺は、後述の白山神社の西北西あたりにあったといいます)。蓮華寺村も、寺も、鎌倉時代にはかなり繁栄したそうですが、住宅開発に埋もれ、蓮華寺の寺跡は窺い知れません。蓮華寺には、無住国師(むじゅうこくし、あるいは、無住道暁(ムジュウドウギョウ))が住み、正和元(1312)年、87歳で没したといいます(異説あり)。無住国師は、臨済宗の僧で、中世文学の説話として代表的著作「沙石集」、「聖財集」、「雑談(ぞうだん)集」などを著しました。

Img_1313c_20210331195001 Img_1320c_20210331172201  蓮花寺からさらに坂を登っていくと、白山神社に出ますが、その手前に白山会館と小公園があり、そこに見事なソメイヨシノ。ちょうど満開。花見の名所にはほとんど行きませんが、こういうところで思いがけず、見事な桜に出遭うのもまたよし、という感じ。

Img_1328c_20210331172201  白山神社です。私がいつも使う「キョリ測」には、ここに、白山神社と宇賀神社があるとなっていますが、由緒書きによれば、ここに鎮座するのは白山神社。宇賀神社は、ここから南150mほどのところにあると書いてありました。

Img_1332c_20210331172201  白山神社の御祭神は、菊理姫命(くくりひめのみこと、白山比咩神社の主祭神。水を恵み、ものごとの和合・仲介・招福の神)。由緒書きによれば、白山権現菊理姫社と称し、正親町天皇の永禄年間(1558~70年)以前からあったといいます。境内社には、津島神社、火産霊社が、また、別宮には、護国神社があります。ここ、白山神社があるところは、蓮花寺西城(城山城)跡といわれ、内山源吾正則が居城したといいます。織田信長に滅ぼされています。現在、城の遺構はありません。

Img_1397c_20210331172301 Img_1407c  白山神社の北に神田池という大きな灌漑池があります。その南の端あたりが、蓮花寺東城(宇賀城)跡といわれます。蓮華寺東城には、後藤庄左衛門氏篤が居城しましたが、こちらも永禄年間に織田信長に滅ぼされています。城の遺構は、ここもありません。何となくもの足らない気もしますが、やむを得ません。

Img_1419c_20210331172301 Img_1423c  蓮花寺東城跡から白山神社の南にある宇賀神社を目指します。宇賀神社は、宇賀公園の中。このあたりで、スタートから4㎞、10時頃。御祭神は、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ、食物、とくに稲の神霊)。ここも創始は不詳ですが、正親町天皇の御代(1557~86年)以前と伝えられ、蓮花寺西城(城山城)主・後藤庄左衛門の崇敬が厚かったといいます。この公園で小休止。

Img_1441c_20210331172301  宇賀神社の南あたりが宇賀遺跡。公園の南にある住宅地から、コミュニティバスの「マザック前」停留所のあたりにと思われます。縄文時代から中世にかけての複合遺跡です。弥生時代の遺構からは、井堰が見つかっており、稲の穂積みに使う木包丁も出土し、稲作が行われていたと考えられています。

 今回は、短めですが、キリが良いのここまで。その3では、額田神社(本社、増田)、額田神社旧跡と源流寺。

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2021年4月 1日 (木)

20210331“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”(その1)……西別所駅をスタートして、延寿院、万機庵跡、照林寺、員弁街道から西別所の八幡神社へ

210331nisibessho  3月31日の“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”の本編その1です。この日は、陽気もよく、桜も満開でしたから、このテーマで歩いてきたという次第。今回も、「くわな史跡めぐり」を参考に自分でコースを組み立てています。この本の濃州道のところを見ています。濃州道は、去年、桑名から員弁まで歩き通しましたが、街道から離れたところは訪ねていません。そこでそうした見ていないところへ行こうというのが企画の趣旨。「くわな史跡めぐり」を参照しながら、「キョリ測」でコースを描いていきます。そうしてつくったものが、冒頭にあるマップ。キョリ測は、本来、距離を測定するサイトなのですが、このようにルートマップ作成にも応用できるのです。描いたものをPrint Screenで取り込んで、Paintに貼り付け、Corel Paint Shopでトリミングして、またPaintで距離数や訪ねる場所の説明を書き込んでいます。詳細マップも同様にしてつくり、プリントして持って歩いています。

 この日は、三岐鉄道北勢線で西別所駅まで行き、そこから、延寿院、万機庵跡、照林寺、八幡神社と回ったあとで、西別所城跡を見るつもりが忘れて、蓮花寺に入りました。当初、西別所城跡は見るつもりがなかったのですが、近いことに気づき、あとから思いついて、目的地にくわえたのです。その後、蓮花寺地内で山神社、蓮花寺、白山神社、宇賀公園、宇賀神社。さらに増田に行き、増田の額田神社、源流寺、そして、額田神社の氏子の方に教えていただいて額田神社旧跡を訪ねました(増田集会所)。これで在良駅にゴールするつもりでしたが、氏子の方に額田神社(本社)の話も聞きましたので、そちらまで足を延ばしました。現地で7.6㎞を歩き、自宅から西桑名駅までの往復が2.3㎞で、合計9.9㎞。

Img_1044c_20210331172101 Img_1050c_20210331172101  三岐鉄道北勢線・西桑名駅を8時23分に出る阿下喜行きに乗車。春休み期間ですので、空いていました。1輌に2~3人の客。西別所までは、2駅。¥190。

Img_1062c_20210331172101 Img_1072c_20210331172101  左の写真は、途中、馬道駅から見た走井山公園の桜。ここには桜の木が100本ほどありますが、満開。西別所駅には、8時28分に到着。右の写真が西別所駅ですが、向かって左(南側)には辻内鋳物工業の大きな工場がありました。取り壊されて更地になっています。スタートは、8時半。

210331nisibessho1  こちらが詳細なルートマップその1。まずは、北勢線の踏切を渡って、北側へ行き、さらに国道258号線をくぐり、延寿院へ。続いて、258号線をはさんだ万機庵跡から、濃州道沿いの照林寺、地蔵堂から八幡神社へ、その後、少し東に戻って光陽希望が丘保育園近くにある西別所城跡を見ようと思ったものの、忘れてそのまま西へ向かってしまいました(苦笑)。

Img_1088c_20210331172101 Img_1101c_20210331180001  さて、まずは、国道258号線の下をくぐって、その東にある延寿院を目指します。西別所駅は、町屋川でバードウォッチングをするときに何度か降りたことがあります。また、国道258号線は、クルマで何度となく通っていたのですが、このあたりを歩くのは初めて。左の写真で向かって右に見えている地下道を通っていきます。その先がよく分からなかったので、事前にストリートビューで見たものの、延寿院に入る道は今ひとつ不確か。結局、258号線沿いの小径を進み、どん詰まりにあった、この藪のようなところの奥から入れました。

Img_1104c Img_1109c_20210331172101  その先にあったのが、「北寺駐車場」の看板。この道で間違いはなかったようで、一安心。右手の奥から少し登って、お寺の境内に入っていけました。慈眼院北寺延寿院。高野山真言宗のお寺。ご本尊は、十一面観音菩薩。地元では、集落の北のはずれにあることから「北寺」と呼ばれます。延宝年中(1673~81年)、奥平貞登が観音堂を建てたのに始まります。奥平貞登の一族は、桑名藩5代藩主・松平定綱に使えて家老職を務めました。この地に山荘を建て、かたわらに小堂を建てて観音像を安置したと考えられています。享保21(元文元)(1736)年、大福田寺の住職・實圓がここを隠居寺としてから大福田寺の庵室となり、江戸末期からは尼僧によって住持されていました。しかし、檀家もなく、昭和中期には無住となり荒廃したため、西別所在住の有志によって昭和57(1982)年に本堂が修復され、また、北寺奉賛会が設立され、維持されています。

Img_1119c_20210331172101  境内には、宝暦5(1755)年に入寂した實圓と、安永5(1776)年入寂の實豊の墓碑である五輪塔2基などが残っています。左の写真で中央にある五輪塔が實圓のもの、向かって左が實豊のものです。境内には桜も咲き、ウグイスのさえずりも聞こえていました。時折、国道258号線を走るクルマの音が聞こえては来ますが、静かで落ち着いたお寺です。

Img_1125c_20210401152001  258号線をクルマで走っていただけの時は、まさかここにこのようなお寺があるとは思いもしませんでした。さらにもう一つ、蛇足。お寺のすぐ裏手には、「オレンジアベニュー」というラブホテルがあります。聖と俗、微妙な位置関係でもあります(この写真の背後に見える、白い大きな建物がそれ)。と変な感慨を抱きつつ、お参りはきちんと済ませ、延寿院をあとにします。

Img_1138c_20210331172201  再び、国道258号線をくぐって、その西側へ出ます。地下道を出たところから北を見た写真。前方の森に、万機庵跡があります。万機山蔵鷺庵(ばんきざん ぞうろあん)が正式名称のようですが、地元では万機庵、または、蔵六庵とも呼びます。「桑名市史 本編」には、「蔵鷺庵」として載っています(p.472)。もともとは曹洞宗のお寺でした。ご本尊は、観世音。明暦元(1655)年に、楊柳寺(市内新屋敷)第6世万機和尚が創建し、ここに閑居した庵跡といわれています。万機和尚は、真田幸村(信繁)の3男で、楊柳寺に在住30年。「桑名市史」によれば、桑名藩第3代藩主・松平定重公が、ここに山荘を設け、遊興したといいます。また、天正の頃の城跡で馬場の跡があることや、境内の「一本松は方二三十間にも及ぶ古木であった」ことも触れられています。1間は、約1.8mですから20間では36m、30間なら54mとなります。

Img_1148c_20210331172201 Img_1152c  それはさておき、万機庵跡ですが、上の写真の道を上り、途中から岡の方に入ったものの、岡の中は、これらの写真のような状況。「明治初めに無檀家の理由を以て廃庵となり、現在、跡地は竹林となっている」(こちら)ということは知っていたのですが、実際にかなり荒れていました。跡地には、万機和尚の墓石を含め、15基の墓石があるそうですが、見つけられませんでした。予めネットで検索したところ、最近、「送電線の鉄塔が立っているので、そこへの鉄塔巡視路はあるものの、きびしい藪と地形で、歩き回ることができず、墓石の場所は判らなかった」と書いているブログがありました(こちら。今年2月の初めの記事です)。2月1日に行こうとした高塚山古墳も、荒れていて入れませんでしたが(2021年2月1日:20210201勝手に養老鉄道ハイキング「桑名駅西歴史散歩」(予告編))、竹林は手入れされないとすぐに荒れてしまうようです。ということで、万機庵跡に行くのは、断念。なお、墓石の写真は、このWebサイトにあります。

Img_1155c_20210401153701  ちなみに、万機庵跡を探して歩き回っていたところ、国道258号線が見えるところに出ました。見えている建物は、先ほど触れた「オレンジアベニュー」。写真の右端に森が少し写っていますが、そこが延寿院です。万機庵跡からグランデージ西別所という住宅地の北側を通って1㎞を過ぎて左折し、南下。照林寺へ向かいます。

Img_1167c_20210331172201  照林寺。真宗本願寺派のお寺。ご本尊は、阿弥陀如来。ここは、員弁街道沿いにあり、昨年3月15日にも来ています(2020年3月15日:20200315「勝手に三岐鉄道ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』」(三ツ矢橋から三岐鉄道北勢線・星川駅)(予告編))。当時の西別所には寺がなく、明治44(1911)年、地元の人たちの懇請を受けて、萱町の法盛寺の塔頭を村の念仏道場であったここに移築して設立されました。その際、廃庵となった万機庵の建物の一部を庫裡として移築しています。さらに同庵に安置されていた阿弥陀如来像と十一面観音菩薩像も移安され、別壇に護持されているそうです。もとは、法盛寺の末寺。「桑名市史 本編(p.456)」には、「寛文10(1670)年、第2世靖南のとき、本山より寺号を許された」という記述がありますが、これは上記の念仏道場のことかという気がします。照林寺でスタートから1.3㎞、9時頃。

Img_1171c_20210331172201 Img_1174c_20210331172201  照林寺のところから次の地蔵堂のところまでは、員弁街道を歩きます。左の写真は、これから進む、西の方角。1.5㎞の少し手前、城下(しろした)橋のたもとに子安地蔵堂があります。このお地蔵様は、昔は北の台地上にあった寺(万機庵かという記述が、「歴史の道調査報告書改訂版(三重県教育委員会編集、1985年)にあります)に祀られていた地蔵といいます。廃寺になって放置されていたものが、明治初年頃か、街道安全のため現在地に移したと伝わっています。なお、「くわな史跡めぐり」に載っているこの「子安地蔵堂」の写真は誤りと思われます(他の地蔵堂の写真と間違っていると考えられます)。

Img_1190c_20210331172201 Img_1197c  地蔵堂を過ぎて、1.6㎞ほどのところで、希望が丘にある八幡神社に立ち寄るために員弁街道を離れます。天正元(1573)年、西別所城山、城下橋(子安地蔵尊のあったところ)北の山腹に八幡社があったといいます。元禄14(1702)年、その西別所城山にあった八幡社を現在地に勧請しています。明治44(19119年境内社を合祀しています。右の写真のように、かなり長い階段を登って、標高30数mのところに神社があります。

Img_1203c_20210401191501 Img_1209c_20210401191501  主祭神は、品陀和気命(ほんだわけのみこと、応神天皇)。相殿神は、菊理姫命(くくりひめのみこと、白山比咩神社の主祭神)、大山津見命(おおやまつみのみこと、山の神)、火産霊神(ほむすびのかみ、宇迦御魂神(うかのみたまのかみ、食物、とくに稲の神)。以上は、神社検索三重のサイトにある御祭神。神社の由緒書きには、菅原道真公もありました。

Img_1216c Img_1245c_20210331172201  先に書きましたが、この八幡神社は標高30数mのところにあり、眺望が利きました。この写真は、桑名市稗田から町屋川の向こう、桑部方面が見えています。ここでしばし休憩。八幡神社から再び、蓮花寺川沿いに戻り、蓮花寺方面に行きます。途中、なかなかよさげなソメイヨシノが2本、満開でした。これを過ぎて、川に沿って右に曲がっていきます。光陽希望が丘保育園近くにある西別所城跡に行こうと思っていたものの、この時はすっかり失念していました。西別所城には、北畠氏に従う矢田俊元(西別所城・額田城・蓮花寺城・安永城などを支配してお. り、桑名では有力な地侍でした)の与力、後藤弥五郎基成が居城していましたが、秀吉・信盛・長秀らの大軍の前に成すすべもなく落城したといいます。西別所城跡の遺構はないようです。毎度、「お前のブログの記事は長い」といわれますので、今回はこのあたりにて。その2では、蓮花寺地内を歩きます。

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2021年3月31日 (水)

20210331“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”(予告編)

Img_1040c_20210331172101  3月31日となりました。リタイアしてかなりになりますので、あまり年度替わりは関わりがないのですが、それでも「今年度も終わりか」という気持ちになります。それを記念してということではありませんが、陽気もよく、桜も満開ですから、今日は、“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”というテーマで歩いてきました。今回も、「くわな史跡めぐり」を参考に自分でコースを組み立てています。今日のところは、予告編。

210331nisibessho  こちらが今日歩いたコースマップ。三岐鉄道北勢線で西別所駅まで。そこから、延寿院、万機庵跡、照林寺、八幡神社と回り、西別所城跡を見るつもりが忘れて、蓮花寺に入りました。山神社、蓮花寺、白山神社、宇賀公園、宇賀神社、さらに増田に行き、増田の額田神社、源流寺、そして、額田神社の氏子の方に教えていただいて額田神社旧跡を訪ねました(増田集会所)。これで在良駅にゴールするつもりでしたが、氏子の方に額田神社(本社)の話を聞きましたので、そちらまで足を延ばしました。現地で7.6㎞を歩き、自宅から西桑名駅までの往復が2.3㎞で、合計9.9㎞。最高気温は、21.4℃で、かなり汗をかいて帰宅。

Img_1044c_20210331172101 Img_1072c_20210331172101  三岐鉄道北勢線・西桑名駅を8時23分に出る阿下喜行きに乗車。春休み期間ですので、空いていました。1輌に2~3人の客。西別所までは、2駅。¥190。西別所駅には、8時28分に到着。右の写真が西別所駅ですが、向かって左(南側)には辻内鋳物工業の大きな工場がありました。取り壊されて更地になっています。駅の北にある工場とたぶん本社はそのまま。

Img_1062c_20210331172101  途中、馬道駅のところから走井山公園が見えます。桜は満開。今日は、桜はまぁいいかと思っていたのですが、やはり、桜がこんなに咲いている景色を見ると、いけませんねぇ。心が動かされます(微笑)。

Img_1088c_20210331172101 Img_1101c_20210331180001  さて、まずは、国道258号線の下をくぐって、その東にある延寿院を目指します。西別所駅は、町屋川でバードウォッチングをするときに何度か降りたことがあります。また、国道258号線は何度となく通っていたのですが、このあたりを歩くのは初めて。事前にストリートビューで見たものの、延寿院に入る道が今ひとつ不確か。結局、この藪のようなところの奥から入れました。

Img_1109c_20210331172101  慈眼院北寺延寿院。高野山真言宗のお寺。ご本尊は、十一面観音菩薩。地元では、集落の北のはずれにあることから「北寺」Img_1119c_20210331172101 と呼ばれます。延宝年中(1673~81年)、奥平貞登が観音堂を建てたのに始まります。奥平貞登の一族は、桑名藩5代藩主・松平定綱に使えて家老職を務めました。この地に山荘を建て、かたわらに小堂を建てて観音像を安置したと考えられています。享保21(1736)年、大福田寺の住職・實圓がここを隠居寺としてから大福田寺の庵室となり、江戸末期からは尼僧によって住持されていました。しかし、檀家もなく、昭和中期には無住となり荒廃したため、西別所在住の有志によって昭和57(1982)年に本堂が修復され、また、北寺奉賛会が設立され、維持されています。境内には、宝暦5(1755)年に入寂した實圓と、安永5(1776)年入寂の實豊の墓碑である五輪塔2基などが残っています。

Img_1138c_20210331172201  再び、国道258号線をくぐり、西側に戻ります。左の写真で、こんもりした岡と森が見えますが、ここに万機庵跡があります。万機山蔵鷺庵(ばんきざん ぞうろあん)が正式名称のようですが、地元では万機庵、または、蔵六庵とも呼びます。もともとは曹洞宗のお寺でした。楊柳寺(市内新屋敷)第6世万機和尚が建てた庵跡といわれています。万機和尚は、真田幸村(信繁)の3男だそうです。

Img_1148c_20210331172201 Img_1152c  上の写真の道を上り、途中から岡の方に入ったものの、岡の中は、これらの写真のような状況。「明治初めに無檀家の理由を以て廃庵となり、現在、跡地は竹林となっている」ということは知っていたのですが、かなり荒れていました。跡地には、万機和尚の墓石を含め、15基の墓石があるそうですが、見つけられませんでした。予めネットで検索したところ、最近、「送電線の鉄塔が立っているので、そこへの鉄塔巡視路はあるものの、きびしい藪と地形で、歩き回ることができず、墓石の場所は判らなかった」と書いているブログがありました(こちら)。2月1日に行こうとした高塚山古墳も、荒れていては入れませんでしたが(2021年2月1日:20210201勝手に養老鉄道ハイキング「桑名駅西歴史散歩」(予告編))、竹林は手入れされないとすぐに荒れてしまうようです。ということで、万機庵跡に行くのは、断念。

Img_1167c_20210331172201  続いて、照林寺へ。住宅地の北から西を周り、照林寺は濃州街道沿いにあります。真宗本願寺派のお寺。ご本尊は、阿弥陀如来。当時の西別所には寺がなく、明治44(1911)年、地元の人たちの懇請を受けて、萱町の法盛寺の塔頭を村の念仏道場であったここに移築して設立されました。その際、廃庵となった万機庵の建物の一部を庫裡として移築しています。さらに同庵に安置されていた阿弥陀如来像と十一面観音菩薩像も移安され、別壇に護持されているそうです。照林寺は、去年3月、濃州街道ハイキングでも来ています(2020年3月15日:20200315「勝手に三岐鉄道ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』」(三ツ矢橋から三岐鉄道北勢線・星川駅)(予告編))。

Img_1171c_20210331172201 Img_1174c_20210331172201  照林寺の前は、濃州街道。しばらく、濃州街道を歩きます。去年3月15日のハイキングの時に、話しに夢中になって見逃した地蔵堂がありますので、今日は、忘れずに見なくてはなりません。「子安地蔵堂」とあります。城下橋の北畔にあります。元は、北部の台地の上にある寺に祀られていたそうです。明治初年に現在地に移しました。堂は、昭和48(1973)年に改築されています。なお、「くわな史跡めぐり」に載っている写真は誤りと思われます(他の地蔵堂の写真と間違っていると考えられます)。

Img_1190c_20210331172201 Img_1203c_20210331172201  西別所第3公園の南を過ぎて、濃州街道から離れ、北へ。希望が丘にある八幡神社に向かいます。元禄14(1702)年、西別所城山にあった八幡社を現在地に勧請しています。主祭神は、品陀和気命(ほんだわけのみこと、応神天皇)。相殿神は、菊理姫命(くくりひめのみこと、白山比咩神社の主祭神)、大山津見命(おおやまつみのみこと、山の神)、火産霊神(ほむすびのかみ、、宇迦御魂神(うかのみたまのかみ、食物、とくに稲の神)。階段を登って、標高30数mのところに神社があり、眺望が利きました。

Img_1245c_20210331172201 Img_1252c_20210331172201  再び蓮花寺川沿いに戻って、川に沿って蓮花寺へ。途中、なかなかよさげなソメイヨシノが2本、満開でした。これを過ぎて、川に沿って右に曲がっていきます。行き当たったところに、地蔵堂と個人の方の忠魂碑。

Img_1262c_20210331172201 Img_1274c_20210331172201  突き当たりを右折してすぐに山神社。もっと立派な神社を想像していたので、危うく見逃すところでした。しかし、けっこう由緒のある神社。正親町天皇の天正年間(1573年~)以前の創始だそうです。蓮花寺村宇賀の城山に内山源吾、後藤庄左衛門が城主として居城し、奉祀したといいます。天正年間、織田勢に滅ぼされたものの、その後も氏子の方々が「山の神」と称し、祭祀してきました。

Img_1286c_20210331172201  次の目的地、蓮花寺に向かう途中のお宅に、なぜかスワン・ボートが置いてありました。お宅の中にも富士山のようなものがありますし、「ナニコレ珍百景」になりそうな印象。

Img_1297c Img_1306c_20210331172201  総仏山蓮花寺。真宗大谷派の寺。ご本尊は、阿弥陀如来。第二次世界大戦までは、総仏堂という説教所でした。かつては、地名の語源となった「蓮華寺」があったところです。鎌倉時代にはかなり繁栄したそうですが、住宅開発に埋もれ、蓮華寺の寺跡は窺い知れません。蓮華寺には、無住国師(無住道暁、ムジュウドウギョウ)が住み、正和元(1312)年、87歳で没したといいます。

Img_1328c_20210331172201 Img_1332c_20210331172201  蓮花寺のすぐ北西には白山神社があります。私がいつも使う「キョリ測」には、ここに、白山神社と宇賀神社があるとなっていますが、由緒書きによれば、ここに鎮座するのは白山神社。宇賀神社は、ここから南150mほどのところにあると書いてありました。御祭神は、菊理姫命(くくりひめのみこと、白山比咩神社の主祭神)。境内社には、津島神社、火産霊社が、また、別宮には、護国神社があります。白山神社があるところは、蓮花寺西城跡といわれます。ここには、内山源吾正則が居城したといいます。

Img_1313c_20210331195001  Img_1320c_20210331172201  白山神社の東には白山会館と、ちょっとした公園がありますが、そこのソメイヨシノも見事でした。いわゆる「桜の名所」はもちろんよいのですが、こういうあまり知られていないところにも、見事な桜があるものです。

Img_1407c Img_1397c_20210331172301  続いて、白山神社から少し北へ。神田池の南西あたりが、蓮花寺東城跡になります。ここは、後藤庄左衛門の居城した天正元(1573)年に、織田信長勢により落城。蓮花寺西城跡もここも、発掘がされていないそうで、詳しいことは分かりません。

Img_1419c_20210331172301 Img_1423c  白山神社の南、150mほどのところに宇賀公園があり、その敷地内に宇賀神社があります。当初は、立ち寄る予定はなかったのですが、白山神社の由緒書きに、ここに宇賀神社があるとあったので、行ってきました。創祀は不詳ですが、正親町天皇の御代(1557~1586年)以前と伝えられ、蓮花寺城山城主・後藤庄左衛門の崇敬が厚かったといいます。御祭神は、宇迦之御魂神

 宇賀公園の南、コミュニティバスの「マザック前」停留所のあたりには、宇賀遺跡があったといわれます。Img_1441c_20210331172301縄文時代から中世にかけての複合遺跡です。弥生時代の遺構からは、井堰が見つかっており、稲の穂積みに使う木包丁も出土し、稲作が行われていたと考えられています。

Img_1478c_20210331172301 Img_1487c  さらに南に向かい、北勢線、濃州街道を越えて、増田に入ります。増田の額田神社です。もともと、桑名郡額田村と増田村は、一つの村で増田神社を鎮守として祭祀したのですが、洪水によく遭ったということで、神社を額田村宮山へ遷しました。その後、増田村から参詣するのに不便だということで、額田にある本社からこの増田の額田神社を文政8(1825)年に分祀奉遷したそうです。ここで、神社の世話をしておられる氏子の男性の方に出会い、この経緯や、あとで訪ねる旧社地のことなどを教えていただきました。こういう出会いはありがたいことですし、ハイキングの醍醐味の一つです。

Img_1518c_20210331172301 Img_1531c_20210331172301  その男性に教えていただき、旧社地へ行ってみました。旧社地は、旧増田村の中央に位置し、現在は、増田集会所が建っています。その集会所の建物の裏手に、「額田神社御旧跡」という石碑がありました。これは、教えていただかないと分かりませんでした。

Img_1554c Img_1565c_20210331172301  この旧跡から西へ向かうと、額田山源流寺。真宗大谷派の寺。ご本尊は、阿弥陀如来。このお寺の詳細については、調べた範囲ではよく分かりませんでした。

Img_1740c_20210331172401 Img_1612c_20210331172301  以上で、当初の目的地はコンプリートしたのですが、増田の額田神社でお目にかかった氏子の方から、額田神社(本社)についても話を伺い、興味が湧いてきました。別の機会に行こうと思っていたのですが、この時点でまだ10時40分。額田神社までは、さほど遠くはありませんでしたので、お参りすることにしました。左の写真は、濃州街道沿いに建つ額田神社の社号標。右面には、「従是三丁五間」とあります(336mあまり)。右は、北勢線を越えたところにある額田神社の常夜燈。

Img_1720c_20210331172401 Img_1658c_20210331172401  額田神社。延喜式内社。御祭神は、意富伊我都命(おおいかつのみこと, おほいかつのみこと:古代、この地方を開発した額田連(ぬかたのむらじ)の祖)、天照大御神天津彦根命(あまつひこねのみこと)。第19代允恭天皇の頃(440年)、奉斎されたといいます。ちなみに、額田部氏は大和の額田郷から移住してきた一族で、付近には小さな古墳がいくつかあったという伝承があります。額田神社には、竜王社、火産霊社、猿王社、春日社、座(蔵)王社などの境内社がありました。額田神社にお参りを終えて、11時5分頃。急げば、11時15分在良駅発の西桑名行き電車に乗れます。濃州街道に出て、上に載せた社号標を見て、在良駅へ。

Img_1756c_20210331172401  三岐鉄道北勢線在良駅には、11時10分を少し過ぎた頃到着。東名阪道の高架の下に駅があります。無事に11時15分発の電車に乗れました。西桑名駅までは、4駅、¥210。11時26分に西桑名駅に到着。

Img_1803c_20210331172401  本日のALKOOによる歩数のデータ。17,884歩。冒頭に書きましたように、合計9.9㎞を歩いた結果。ということで、本日は、「西別所・蓮花寺を行く」という「勝手に北勢線ハイキング」の予告編。いつものように、明日以降、本編を書きます。

Img_1213c_20210331172201 【余談】 本日から、ウォーキング・シューズを新調。これまでのものは、底がすり減り、穴もあいてしまいました。毎日、平均6㎞かそれ以上を歩きますので、靴の消耗は、はなはだしいのです。今までのものをいつから使っていたか記憶にありませんが(調べるとブログに書いてあるかも知れません)、1年はとても保ちません。

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2021年3月22日 (月)

20210320勝手にハイキング「諸戸水道・駅西を行く」……その2(走井山公園、勧学寺から冷水庵へ)【上野神社について追記しました(3/29)】

210320ekinishi2  3月20日の“勝手にハイキング「諸戸水道・駅西を行く」”のその2です。その1では、桑名駅東口をスタートし、徳成農園跡まで行きました。今回は、徳成農園跡から南へ200mほど、走井山公園からです。走井山公園に隣接して勧学寺があります。馬道駅の方へ下る途中に伝村正屋敷跡、私の好きな三猿石像、北勢線沿いに西に行くと上野御膳水。少し北に行って、上野神社、上野墓地、冷水庵。さらに南大山田神社、そのすぐそばに太夫の大楠、そして、伊勢太神楽の本拠である増田神社と歩いて行きます。

Img_4952c_20210320174801 Img_4964c_20210320174801  走井山公園は、桜の名所でもあります。戦国時代に矢田城があった場所に造られた公園。北畠氏の家臣である矢田半右衛門俊元の居城でしたが、織田信長の伊勢侵攻の際に滝川一益によって攻められ落城すると、その後は一益に与えられ、長島一向一揆を攻略する最前線基地として使われました。園内には100本ほどの桜があります。丘陵地で起伏に富んだところに桜があり、見応えがあります。しかし、この日はまだ、一部で咲き始めたところ。去年は4月4日にここの桜を見に来ています(2020年4月4日:「ひのとり」、照源寺の金龍桜、道祖神、走井山公園の桜に北勢線の「ゆる鉄写真」……土産は宝来軒本店の花見団子)。

Img_4955c_20210321195101 Img_4967c_20210320174801  いろいろと見どころはありますが、この日は、戦没者慰霊碑である「殉国碑」(左の写真)と、「愛宕山庚申塔群」を見てきました。

Img_4983c_20210320174801  こちらは、走井山勧学寺の本堂。聖武天皇の御代(724~749年)、行基菩薩の草創によるものと伝えられています。室町の頃(1390~1570年)までは走井山北麓にありました。同地内(現在の桑名高校付近)の海善寺が廃寺となり、本尊の千手観音立像が当寺へ移されてきています。走井山矢田城主の矢田市郎左右衛門は、この観音様を深く信仰していたといわれます。その後の経緯はよく分かりませんが、桑名藩主・松平定重公(1657~1710年)の時、現在地の矢田城跡に再建されました。明治の初め(1870~1880年頃)、いったん廃寺の憂き目に遭ったものの、近在の信者有志の尽力により再興されました。本堂は、松平定重公寄進のもので、市内に現存する寺社建築としては最も古いと推測されています。ちなみに、勧学寺は、伊勢四国三十三箇所巡礼の第31番札所。

Img_4986c Img_4978c_20210321200301  境内には、太子堂や仏足石などの他、地蔵堂などもいくつかあります。太子堂は、もともと江戸時代の明和年間(1764〜1772年)に、桑名惣大工中によって建立されたもの。平成2(1990)年に不審火で全焼しましたが、桑名建築組合によって再建されています。仏足石は、仏像が出現する以前、インドの伝説によってお釈迦様を礼拝の対象としてつくられたもの。これは、江戸時代末期のもので、「勧学寺様式」といわれるそうです。福輪相図(足裏の絵)が精妙に刻まれているのが特徴。

Img_5004c  境内の鐘楼堂に上がって東を見ると、三岐鉄道北勢線が見えます。踏切の警報器が鳴り始めましたので、鐘楼堂に上がって、俄撮り鉄。桜が咲いていると、サクラの花の間から北勢線の電車が見えるのですが、残念ながらまだ早い。なお、走井山公園と勧学寺について、詳しいことは、2018年7月7日の記事(20180609近鉄ハイキング「桑名九華公園花菖蒲まつりと文化・歴史を知る」(その1)……走井山勧学寺)をご覧ください。

Img_5059c_20210320174801 Img_5056c_20210321201101  馬道駅の方に降りる途中に、伝村正屋敷跡という案内板があります。このすぐ東にあるマンションのあたりに村正の屋敷があったといいます。村正は、このブログにも何度も登場していますが、伊勢国桑名の刀工で、室町時代中期以後、代々活躍しています。「勢桑見聞略史」によれば、「村正トテ(中略)其旧宅ノ地矢田走井山観音堂ノ下道ノ左、今庄屋ノ家是其旧地也」とあるそうです。

Img_5047c_20210321201501  北勢線馬道駅の方に下っていきます。左の写真には、ここで出遭った近くにお住まいの女性。足が痛くて、最近は走井山には登っていなかったのだそうですが、この日は10年ぶりにいらっしゃったとか。あれこれ、教えてくださいました。散歩やハイキングでいろいろな人と出会えるのも大きな楽しみです。

Img_5078c_20210320174801 Img_5071c_20210321201801  北勢線の踏切の所に三猿石像があります。これも、ブログに何度も書いていますが、私の好きな三猿石像。台座には、「此の心 我れができぬは 人とよせよとハそれハむり志や 志てくだされハ ありがたし」と刻まれています(一部、読みがアヤシい)。

Img_5081c Img_5074c_20210321203101  上左の写真にも写っていますが、踏切の脇に常夜燈があります。「弘化3(1846)年」の文字が見ます。踏切を渡ってすぐ右折。北勢線沿いに西に向かいます。この道は、初めて歩きます。右の写真は、馬道駅。

Img_5108c_20210321203201 Img_5105c  上野地区を歩いて行き、スタートから2.6㎞で上野御膳水うえのごぜんみず)に到着。背後の上野の丘から湧き出た水で、江戸時代、桑名藩主の飲料水として、毎日、桑名城まで運ばれたのが、ここ上野の湧水なのです。そのため、「御膳水」と呼ばれます。以前は、筧から水が流れ出ていたそうです。今は、飲用には適しません。ここも、ずいぶん以前から是非訪ねたかったところ。

Img_5156c Img_5160c_20210322042901  上野御膳水から西へ300mほど、住宅街の入り組んだ細い道を行きます。上野集会所の先に上野神社。集会所の先を少し登ったところに社殿があります。一の鳥居をくぐったところに地蔵堂がありました。詳細は分かりませんが、中には、観世音菩薩と地蔵菩薩がそれぞれ祀られていました。

Img_5173c_20210320174801  上野神社のご祭神は、建御雷之男神(タケミカヅチノカミ:鹿島神宮の神)、齋主神(いわひぬしのかみ:経津主神(ふつぬしのかみ)ともいう、香取神宮の神)、天児屋根神(アマノコヤネノミコト:天照大神が天の岩屋に隠れたとき、祝詞を奏した神)、姫大神(ひめおおかみ:神社の主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神を指すもの)、大山津見神(おおやまつみのかみ:山を司る神)、木花咲耶比売命(コノハナノサクヤビメ:大山津見神の娘。富士山の神とされ、浅間神社に祭られる)、天目一箇命(あまのまひとつのみこと:天津彦根命の子で、桑名首の祖とされる。多度大社別宮一目連(いちもくれん)神社に祀られる)。ここもたくさんの神様がいらっしゃいます。創始等が分かりませんが、いくつかの神社を合祀したかも知れません。

 ちなみに、「桑名市史 本編」によれば、上野については、「丘陵が東西に横たわり、高知はその南北にある。岡南に員弁街道が通じ、人家はその左右にある。西丘上に一老松樹があって、松平定綱の手植えで俗に御手植松と称し、その下に小社を建て、富士浅間神を祀った。附近は往時眺望絶佳、士庶の遊賞地であったが、数十年前松樹は枯死した。又麓の一冷泉は俗に御膳水と称し、旧藩侯の飲料に供し、混々湧出して水質冷淡、郡中の名所として世に知られ、小径を太夫へ辿って上ったところに庵室冷水庵があり、更に進めば老楠の巨樹亭々として部落を掩うかにみえる、古へ六本楠と呼んで畏怖した古木の名残で今も尚柵内に入ることを忌み畏れる風が伝えられている」と書かれています。という次第で、この記述のあたりを歩いていることになります。

Img_5188c_20210322045201 Img_5184c_20210322045201  上野神社の境内に「留芳碑」というものがありましたが、いったい何でしょう? 「芳」には、①かおり。におい。 ②かんばしい。よい香りがする。③評判がよい。ほまれ。 ④他人の物事に冠する敬称といった意味ですから、どなたかの評判、誉れを讃える碑のように思います。ここで2.9㎞、時刻は8時50分くらいでしたので、一休み。目の前を北勢線が通って行き、なかなかよい景色。北勢線の電車、ノンビリというか、ゆったりというか、そういう感じになります。

Img_5203c_20210320174701 Img_5210c_20210320174701  上野御膳水の方に少し戻り、竹林へ進んで行きます。ここからけっこう登り道。正直、「大丈夫か?」という気もしました。この道でよいのかというのと、竹林は最近、手入れがされていないことが多く、道が通れるのかという2つの意味で、です。上野神社から300mほど、竹林をクネクネと登ったところに、次の目的地である上野墓地があり、ちょっとホッとしました。

Img_5216c_20210320174701 Img_5225c_20210320174701  上野墓地は、「十念寺山」とも呼ばれます。慶長の町割のとき、十念寺は、桑名城付近から伝馬町に移転しました。しかし、面積が不足したため、この一帯を藩主に賜ったといいます。十念寺の歴代住職の墓などがあります。右の写真は、住職の墓。向かってもっとも左のお墓には、「安永八年(1779年)」とありました。

Img_5231c_20210320174701  他にも古い墓がたくさんあり、たとえば、この写真で向かってもっとも右のお墓には、「寛永五年(1628年)」とあり、驚きました。花が手向けられている墓もたくさんありました。墓地というと、気味が悪いと思われる方も多いかも知れませんが、最近の私は平気です。自分のところは、墓はないのですが、どこに誰の墓があるとか、いつ頃の墓か、何が刻まれているかなど興味が尽きないのです。

Img_5239c_20210322065601 Img_5256c_20210322065901  上野墓地からさらに竹林の中の坂道を進んで行きます。竹林は、手入れがされていると、気持ちも良いのでしょうが、このあたりはあまり人の手は入っていないようでした。このあたりで標高は40m前後。アップダウンがかなりあり、息も切れます。スタートから3.3㎞を過ぎたところに冷水庵というお寺が見えてきます。上野のもっとも北の端で、神楽町や太夫との境目あたりになります。

Img_5262c  井坂山冷水庵(いさかさんれいすいあん)があります。曹洞宗。教育委員会の説明板によれば、明暦2(1656)年に茂右衛門が境内地を寄進し、冷水庵を建立したといいます。位牌によれば、海蔵寺3世の剣嶺(けんれい)大和尚が開山し、その弟子である愚白(ぐはく)禅師が開基。海蔵寺の末寺。弘法大師の作という虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ:智慧と功徳が広大無辺である菩薩)を本尊とします。現在の本堂は棟札によれば文化 13(1816)年4月に建てられたもの。

Img_5274c  境内に阿波国出身で桑名藩校進脩館(しんゆうかん)の副教(副校長)をつとめた佐父理希亮(安永3(1774)~文政3(1820)年:さぶりまれすけ)の墓で、亀に乗った「亀跌(きく)」があります。妻の柔は夫が異郷の土地で亡くなり、将来は夫の業績がだれにも知られなくなることを嘆いて、自分の装身具を売り払い、ここに墓を建てたのです。墓石正面には「阿波処士佐父理君之墓」と、また、他の面には希亮の履歴が刻まれています。処士は民間人のことで、彼は正式な藩士に取り立てられなかったと思われます。亀趺は、日本では珍しいのですが、韓国や中国では高貴な人の墓に見られます。傍らには、妻・柔の墓もあります(妻の墓は、写真に向かって左手の奥にあるもの)。正面には「佐父理君妻正木氏墓」とあり、側面には「いもとせの魂のありかはこことしれ、亀のしるしは万代のため  柔女」と記してあります。この話と亀跌という形式の墓のことを知って以来、ここも訪ねたかったところです。

D4fcc24c-1  なお、こうした亀跌については、津市にある結城神社でも見ました(2019年5月10日:20190428近鉄ハイキング「『阿漕』砂浜ハイキングと津グルメ散策」へ(その2)……教圓寺、神明神社、山二造酢を経て結城神社へ)。結城宗広公(ゆうきむねひろ;?~延元3=暦応1(1338))の御墓がそれです(左の写真。平成31(2019)年4月28日、結城神社にて撮影)。

 またもや長くなりました。詳細マップその2をすべて書こうと思いましたが、その2はここまで。その2は、南大山田神社からとします。

【上野神社についての追記(3/29)】 他のことを調べていて、「第17回 北勢線の魅力を探る報告書 再発見!魅力ある北勢線沿線 西桑名駅~星川駅」に上野神社についての説明があるのを見つけました。これによって、私の記事の足らないところを補足します。

 上野神社があるところは、古くは「霞岡」と呼ばれた見晴らしのよい丘陵地。上野村の氏神様。石取祭で有名な春日神社(桑名宗社)は、桑名神社と中臣神社の2社からなっていますが、中臣神社はもともと上野に鎮座していたといいます。神護景雲2(768)年、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮から奈良市の春日大社に建御雷之男神を勧請した際、ここ上野に一時鎮座し、翌神護景雲3(769)年にその鎮座地に創建されたのが中臣神社であると伝わっています。この中臣神社は、正応2(1289)年8月、桑名神社境内に遷座され、上野を離れました。永仁4(1296)年、8月、中臣神社に春日大社から建御雷之男神、斉主神、天児屋根神、姫大神の4柱が勧請されましたのですが、その際には上上野村(現在の桑名市太夫)の若太夫と一太夫が遣わされたとされます。

 その後、中臣神社の旧鎮座地に春日大社の4柱を祭神とする四之宮神社が祀られました。社号は4柱の祭神を祀ることに由来。四之宮神社は 明治に至って村社となっています。明治41(1908)年、合祀令によって上野村内にあった山神社(祭神は 大山津見神)と富士浅間社(祭神は木花咲耶比売命)、繁松新田の一目連神社(祭神は天目一箇命)とともに立坂神社へ合祀されました。戦後、四之宮神社を旧地に戻そうという動きがあり、昭和23(1948)年4月に、現在地へ分祀されています。この時、四之宮神社とともに合祀されていた旧村内3社の祭神もあわせて祀り、社号は上野神社と改められました。

 この年、前年(昭和22(1947)年)に宝殿町で新造した祭車を購入して石取祭を開始しました。しかし、立坂神社での試楽までの参加であったため、青年会を中心に本楽への参加が議論され、平成12(2000)年8あつに春日神社への渡祭が実現しています。

 最近は、自治会が管理しています。

 境内東側の高いところにあった「留芳碑」について。これは、上野村から出征した者を顕彰するも碑で、戦死された方々だけを祀る忠魂碑とは位置づけが異なります。建立されたのは、明治39(1906)年3月。したがって、日清戦争出征者を顕彰することから始まっています。昭和31(1956)3月に太平洋戦争関係の戦死者を刻み加えて現在地に移されました。裏面には日清戦争出征者7名、日露戦争出征者16名(戦死者は2名)、太平洋戦争戦死者16名の名が刻まれています。日露戦争で亡くなられたうちのお一人、山口新次郎は明治38(1905)年2月22日に「黒溝台附近で戦死」しています。同年1月の黒溝台会戦で立見尚文と共に戦ったかも知れません。

 留芳碑の下には特異な形をした大きな岩があり、昭和60年代には、「天狗岩」と呼ばれていたそうです。上野神社の急斜面ではみがき砂を削り取っており、その際に落ちてきたものだそうです。上野神社周辺の丘陵には古くから天狗が住むという言い伝えもあるそうですから、それに因んだものと思われます。丘陵上には 天狗大神2基(ともに昭和56(1981)年12月建立)と山の神、龍神大神の祠が祀られているといいます。

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2021年3月14日 (日)

20210314勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道再び(下深谷~多度)」(完)

Img_1583c_20210314164401  2月27日に、“勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道再び」と題して、桑名市川口町から下深谷まで美濃街道を歩きました(2021年2月27日:20210227勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道再び(川口町~下深谷)」(完))。このルートは、去年3月1日に歩いたところ(20200301勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道を歩く」(川口町~下深谷)(予告編))をもう一度という企画でした。今日は、その続きということで、下深谷から多度までを歩いてきました。同じところを去年も3月6日に歩いています(20200306勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道を歩く」(下深谷~多度)(予告編))。新型コロナウィルス感染症が流行し始め、鉄道会社のハイキング/ウォーキングが軒並み中止となりましたので、「勝手にハイキング」シリーズとして考えたものでした。今回も同級生K氏と二人旅。冒頭の写真は、拙宅玄関先からのいつもの写真。奥に見えている多度山の麓まで行ってきたという次第。今日は風は強かったものの、よく晴れて暖かく、ハイキング日和でした。

7fd3c9a0  こちらが今回のルート。去年3月6日と同じですが、今年2月27日に見残した下深谷の安養寺と、昨年、道を間違えて見られなかった多度・戸津の西田家住宅を見てきた点が異なります。養老鉄道下深谷駅をスタートし、美濃街道をひたすら北上。途中、寺社仏閣、名所旧跡などを見ながら歩いて、7.9㎞。今回の記事は、1回完結の予定。詳細につきましては、上記の昨年の予告編の他、2020年3月8日の「20200306勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道を歩く」(下深谷~多度)(その1)……下深谷駅をスタートし、深谷の町を進む」、3月10日の「20200306勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道を歩く」(下深谷~多度)(その2)……いくつかの地蔵堂、ナマズの徳蓮寺、倭姫命ゆかりの野志里神社を経て、船着社へ」、3月11日の「20200306勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道を歩く」(下深谷~多度)(その3)……戸津の町を歩き、戸津と小山の尾津神社2社にお参りし、多度駅にゴールにて「完」」をご覧ください。

Img_1591c_20210314164401 Img_1600c  養老鉄道桑名駅を8時45分に発車する大垣行きに乗車します。乗車した車両は、右の写真のように「センロク1600系」。元は近鉄名古屋線を走っていたそうです。下深谷までは2駅。¥260。

Img_1607c_20210314164401  下深谷駅には、8時51分着。前回は、ここがゴールでした。ゴールする前に、駅の東にある安養寺にお参りする予定でしたが、下深谷駅のところまで来たら、桑名行きの発車間際でしたので、そのまま電車に乗ってしまったのです。

Img_1628c Img_1612c_20210314164401  大寂堂安養寺は、真宗本願寺派のお寺。下深谷部にあった柳ヶ島(やながしま)城主・安藤左京亮季友が、長島一向一揆で戦死したのですが、その末の息子は近江に落ち延び、その後桑名に戻り、出家して了善となり、安土桃山時代(1580年代)に明寂庵を創建。4代目住職のとき、安養寺に改称しています。境内にあった「鬼瓦由来記」によれば、本堂は、江戸時代後期の1800年頃の建物(第6代住職安藤執網(しゅうこう)のとき)。写真をよく見ていただくと、太い金属棒で支えられているのが分かります。

Img_1649c  安養寺からいったん下深谷駅の方に戻り、駅の北の細い道を線路に沿って進むと、前回、美濃街道から離れた交差点に出ます。左の写真で中央に交差点が見えています。前回は、右手から来て、直進し、養老鉄道の踏切を渡って、深江神社、西林寺、飛鳥寺に向かったところ。今日は、ここを直進(北に向かう)。奥に、わずかに多度山が見えています。

Img_1650c_20210314164301  深谷小学校の手前、JA近くの東側に「和弘(わこう)地蔵堂」。昭和52(1977)年に、幼児の交通事故供養のためにつくられたものだそうです。

Img_1656c_20210314164301 Img_1659c_20210314164301  深谷小学校の北、スタートから800mあまりのところに、高野山真言宗のお寺、御砂山法光寺。由緒、詳細は不明。境内には、稲荷社が、本堂に接続するように建っています。法光寺の背後の丘には、室町時代に三砂城という城館がありました(玉井四郎左衛門)。

Img_1684c_20210314164301 Img_1690c_20210314164301  スタートから1.1㎞を超えたところで、小さな川を渡ります。これが三砂川。日本武尊が東国征伐に行く途中、御衣野(みぞの;桑名市多度町にある地名。草薙神社という日本武尊を祀る神社があります)で休憩したとき、その庭にこの里の五色の砂を奉ったといいます。この三砂川を越えた西側に地蔵堂。もう少し北にあったものが、明治初期にここに移ったといいます。お地蔵様は3体、薬師如来も祀られています。

Img_1714c_20210314164301 Img_1719c_20210314164301  森大明神社(もりだいみょうじんじゃ)。スタートから1.5㎞ほどのところ。勧請年月は不詳。主祭神は、天日方奇日方命(あめのひがたくしびがたのみこと:事代主神(ことしろぬしのかみ)の子)。相殿神は、宇迦之御魂命品田和気命大山津見神天照大神。ここは、かつて堺城があった丘陵の中腹で、北伊勢小島大森大明神といったといいます。ここも、室町時代に城館がありました(片岡掃部頭または深谷監物)。長島願証寺の配下にあり、天正元(1573)年に落城しています。

Img_1728c_20210314164301 Img_1731c_20210314172601  養老鉄道の踏切を越えたすぐのところに2基一対の常夜燈があります。この神社にお参りするには、養老鉄道の踏切を越えていかねばなりません。このあとの明光寺、徳蓮寺も同様。それぞれ専用踏切ともいうべき踏切があるのです。右の写真は、明光寺前の踏切。

Img_1735c_20210314164301 Img_1740c_20210314164301  その明光寺は、真宗大谷派のお寺。北畠氏が奥州の国司の時、北畠顕家が討たれ、その孫・顕道が奥州海老原に妙光寺を建立。北畠氏が伊勢に移ったとき、寺もここに移転し、寺号も改称しています。しかし、それ以上の詳細は分かりませんでした。山号も不明。

Img_1750c_20210314164301  このお寺の山門脇に「天牌奉安地」と刻まれた石碑があります。碑陰には、明治45(1912)年11月に建立されたと記されていました。昨年の記事にも書きましたが、「天牌(てんぱい)」は仏語で、「天子の宝祚ならびに聖寿無窮を奉祷するため、仏本尊前に安置する位牌」。「天子」は、一国の帝王、日本では天皇。「宝祚(ほうそ)」は天皇の位。「聖寿(せいじゅ)」は天子の寿命で、「無窮(むきゅう)」は果てしないこと。明治45年は、7月に明治天皇が崩御されました。大正天皇が即位なさったのですが、わざわざ「明治45年11月」とあるのは、明治天皇に捧げたものなのでしょう。建立者や、位牌を安置したのが誰かなどは書かれていませんでした。境内には、他に、「南無阿弥陀佛」の六字を刻んだ石碑も建っていました。

Img_1759c  明光寺を出てさらに進みます。街道の東西には遺跡もありますが、整備はされていないようですから、立ち寄らず。上深谷部と多度町下野代の境あたりに地蔵堂があります。地蔵堂ですが、阿弥陀立像が祀られています。江戸時代のもの(御堂は、昭和61(1986)年に建立)。阿弥陀立像は、上品下生(じょうぼんげしょう)の印を結び、舟形光背をもった石仏です。仏教における九等級の品位を表すことばに「九品(くほん)」があります。上品下生は、その一つ。

Img_1769c_20210314164301  下野代駅の近く、スタートから2.7㎞ほどのところにも地蔵堂があります。この地蔵堂は、明治4(1871)年に建てられたもの。お地蔵様は、僧形で左手には宝珠、右手には錫杖を持っておられます。蓮台の下の基台には「三界萬霊」と刻まれています。三界萬霊とは、「三つの世界(無色界(むしきかい:心だけが生きている世界)、色界(しきかい:形質だけの世界)、欲界(よくかい:物質欲の世界))、すべての精霊に対して供養することの大切さを示す」こと。

Img_1778c_20210314164301  この地蔵堂に向かって左手に小径があり、それを辿っていくと、養老鉄道線を越えたところに岩井戸、大淀の松株跡を示す石柱、石仏、弘法大師の石像があります。この岩井戸のあたりから扇状地帯の地形、地質の特徴が現れ始め、岐阜県に入ると、壮大な扇状地形を示すことになるのだそうです。石仏は、左の写真で向かって左にあります。板碑(いたび)型に薄肉彫りの石仏。その隣が、弘法大師の石像。向かって右(北側)に建っているのが、「大淀の松株跡」の石柱。岩井戸のそばに巨大な松があったという伝説が消えるのを惜しんだ村人によって明治31(1898)年に建てられたもの。詳細は、昨年の記事をご覧ください。

Img_1784c_20210314164301 Img_1834c_20210314164301  このすぐ北に、無畏野山徳蓮寺真言宗東寺派のお寺。先にも書きましたが、このあたりのお寺、神社は、美濃街道からは養老鉄道の踏切を渡らないと行けないところがたくさんあります。さらに、丘陵の中腹やその上に建っていることも多いのです。徳蓮寺も、右のような階段を登っていかねばなりません。

F106e207  ここは、弘仁11(820)年、弘法大師によって建立されました。ご本尊は弘法大師がつくった虚空蔵菩薩像で、これは7年に一度開帳されます。ちなみに虚空蔵菩薩は、知恵を授けて下さいます。このImg_1805c_20210314164301 寺には、200枚を超えるナマズなどの珍しい絵馬も奉納されています。これは、この寺が明応7(1499)年と、天正13(1586)年の2回の地震で破壊されたのですが、行方不明になったご本尊が、土中からナマズとウナギに守られた状態で見つかったことに由来します。ナマズつながりで、秋篠宮殿下も平成17(2005)年にここを訪ねていらっしゃいます。このお寺は、地元自治会の方が管理していらっしゃいます。今日はたまたま、自治会長さんともうお一方が作業をしていらっしゃったので、ご親切にも本堂を開けて、拝観させていただけました。私は、近鉄ハイキングで訪ねたとき見ています(2018年5月21日:20180428近鉄ハイキング「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」(その4)……徳蓮寺他のお寺を回って、雨尾山飛鳥寺を経て、下深谷駅へゴール(完))。詳細はリンク先をご覧ください。同級生K氏は、大変感激していました(微笑)。

Img_1827c_20210314184601  徳蓮寺では珍しいものを見つけました。墓地に女性が着物を着た座像があったのです。過去2回行ったときには、気づきませんでした。いったい何なのかは、不明。調べる手がかりがあるのかどうかも、よく分かりませんが、記録の意味で載せておきます。もし、何かお分かりの方がいらっしゃれば、是非ともご教示をお願いしたいと思います。

Img_1843c_20210314164301 Img_1839c_20210314164301  野志里神社の手前で踏切から回って、無量山延柳寺。真宗本願寺派のお寺です。天正2(1574)年、比叡山から阿弥陀仏を本尊として授与されましたが、後に真宗に改宗しています。昔は、野志里神社の東にあったのですが、江戸時代に現在地に移転しています。ちなみに、延柳寺近くには、頌徳碑、道標がありますが、今日の記事では割愛します。

Img_1858c_20210314164301 Img_1852c_20210314164301  続いて、野志里(のじり)神社。式内社。垂仁天皇の御代の創祀といわれます。倭姫命が天照大神を奉じて、ここ桑名郡野代 宮にお着きになり、4年間この地で宮居を造られたと伝わるところです。倭姫命は、その後伊勢に遷幸され、その野代宮の跡に本社が創祀されたといいます。主祭神は、天照大神。相殿神は、建御雷神天児屋根命経津主神ほか。境内には、「千人塚」や、「伊勢神宮御旧蹟野代之宮」という石碑などがあります。千人塚は、長島一向一揆の時、法泉寺の空明が、農民たちと力を合わせて織田信長の軍と肱江川を挟んで戦っています。生き残った空明が戦死者の首を集めて篤く葬ったのが、この千人塚です。その後、関ヶ原の戦に負けた西軍の兵士の霊も慰めたといいます。さらに、一説によると、関ヶ原の戦いの時に、薩摩藩兵が多数、ここ美濃街道を通ったため、境内が東西に二分されたそうです(当時、美濃街道は、神社の東側を通っていたといわれます)。

Img_1862c_20210314185501  Img_1874c_20210314164201 スタートから4.3㎞あたりで肱江川に行き当たり、肱江橋を渡ります。多度町肱江を通り、戸津へと進んでいきます。このあたりまで来ると、多度山が間近になります。肱江橋を渡ると、肱江川の堤防から階段で降りて、水田の中を通ります。美濃街道は、一部途切れてしまっていて、迂回。本来の美濃街道に戻る手前に菜の花の群生。去年はもっと見事でした。

Img_1896c_20210314164201 Img_1899c_20210314164201  5.3㎞地点のすぐ西に船着社があります。多度神社別宮の一目連大神が、度会郡山田郷よりの帰りに舟で当社附近に着かれたので舟着社と云うと伝えられています(こちら)。主祭神は、表筒男神、中筒男神、底筒男神(以上は、いわゆる住吉三神)、大山津見神火之迦具土神。相殿神は、天津日子根命気吹戸主命(いぶきどぬしのみこと;祓戸大神(はらえどのおおかみ)の一神。払戸大神とは、神道において祓を司どる神で、祓戸(祓所、祓殿)とは祓を行う場所のことで、そこに祀られる神)。。また、この近辺は尾津浜、尾津崎等の小字のとおり、木曽三川の川岸であったため附近の人々が氏神として舟着社の社名で海神を奉斎したとも伝えられているそうです。今は、揖斐川まで2.5㎞ほどあります。

Img_1920c_20210314164201 Img_1929c  船着社の先でスタートから6㎞ほど。県道26号線の下をくぐって桑名市多度町戸津に入ります。去年の勝手にハイキングでは、この戸津に入ってから、道を間違えました。「街道」というと、東海道、伊勢街道などを思い浮かべ、もっと道幅が広いイメージがあったのがよくなかったのでしょう。戸津あたりの街道は、これらの写真のような感じで、とても街道とは思えない細い道があります。

Img_1935c_20210314164201  西田家住宅。戸津村の庄屋を代々世襲されたお宅です。長屋門と塀を見るのは、去年からの念願でしたが、2年越しに実現。明治生まれの第11代当主・喜兵衛は、宝暦治水(宝暦4~5(1734~35)年の顕彰に生涯を捧げ、「宝暦治水之碑」建立に尽力しました。宝暦治水の当時の西田家当主は、桑名藩松平家の領分桑名郡北部地方の代官職であったことから、工事に深い関心を寄せ、自ら進んで住居を薩摩藩士の宿所に提供するなど、治水工事にも参与し、助言していたそうです(こちらを参照)。

Img_1959c_20210314164201 Img_1965c_20210314164201  西田家住宅を見てからは、まずは多度川まで。美濃街道はさらに続き、岐阜県境までは、1㎞あまり。岐阜県(美濃国)に入ると、伊勢街道と呼ばれていたようです。多度町内の美濃街道は調べが付いていますが、その先が確認中。K氏とは、美濃国に入って、大垣まで行くと、道中さらにいろいろあるなという話をしています。

Img_1970c_20210314164201 多度川から戻って東へ。尾津神社に向かいます。尾津神社は、実は、3社あります。戸津、小山、御衣野の3箇所です。これは、戸津の尾津神社。尾津というところは、倭建命が東国遠征の時、尾津崎に立ち寄り、松の木の下で食事をされ、松の木に太刀をかけて置き忘れて立ち去られたといいます。東国遠征を終えての帰途、ここに立ち寄ったところ、松の木にかけた剣が、そのままであったのを見て、感激のあまり歌を詠んだと伝わっています。その和歌は、古事記にある「尾張に直に向える 尾津前なる一つ松吾兄を 一つ松人に在りせば 太刀佩けましを衣着せましを 一つ松吾兄を」です。なお、尾津崎で休んだとき、もう一振の太刀を持って居られ、それが伊勢神宮で伯母倭比売命から与えられた剣である草薙剣(現在、名古屋の熱田神宮に祀られています)。

Img_1989c_20210314164201 Img_1992c_20210314164201  延喜式内社。戸津区の氏神様。御祭神は倭建命稚武彦命(わかたけひこのみこと:第7代孝霊天皇皇子で、吉備臣(吉備氏)の遠祖)、足鏡別命(アシカガミワケノミコト:倭建命の子)、品陀和気之命(応神天皇)宇賀魂神天照大神。倭建命の歌碑があるというのですが、去年は見忘れ。稲荷社に行く途中にある石碑2基のうち、向かって右(右の写真)のものではないかと思います。向かって左は頌徳碑でした。文字ははっきり読み取れませんが、境内をあちこち見て回った結果、こういう結論。他にも句碑などがありますが、それらについては去年の記事をご覧ください。

Img_2011c Img_2014c  こちらは、小山の尾津神社。戸津の尾津神社から300mほど西に行ったところにあります。主祭神は、倭建命と足鏡別命。相殿神は、大山津見神のほかに、不詳のご祭神。こちらも延喜式内社と称し、戸津の尾津神社と同様に、倭建命の伝説の地とされています。小山の尾津神社の境内には、西南戦争で亡くなった方を顕彰する石碑があります。「紀念碑」と題され、小山に在住の小林源三郎という方が、徴兵され、明治以降、旧多度村で最初の戦没者となったことが記されています。これについても、去年の記事をご覧ください。これで、今日の目的地は、コンプリート。養老鉄道多度駅に向かいます。

Img_2037c_20210314164201  養老鉄道多度駅には、12時45分頃到着。下深谷駅を出て、7.9㎞。小山の尾津神社を出て多度駅に向かっている途中、桑名行きの電車が通って行くのが見えました。これは12時42分発。逆立ちしても乗れません(苦笑)。次は、13時22分発。まぁ、急ぐわけではありませんので、待合室で待機。

Img_2048c_20210314164201 Img_2041c_20210314164201  13時22分発を待って、乗車。D21編成というそうです(こちらを参照)。平成4年に、当時の近鉄養老線に導入された車両で、養老線初の冷房電車だったようです。桑名までは¥310、13時38分着。今日は、途中、徳蓮寺で30分ほど休憩したのですが、下深谷駅からは3時間50分をかけて歩いてきたのに、桑名まで16分で着いてしまうとは(爆)。

Img_2059c_20210314164201  いつものように、桑名駅近辺で食事をして帰ろうということにしたのですが、危うく、昼食難民になりそうでした(苦笑)。駅前、飲み屋さんは多いのですが、ランチ営業をしているところは少なく、営業していても、ランチは14時まで、13時半にオーダーストップというところが多いのです。マンションが林立しているのですが、商業ビルを誘致して欲しかったと思います。その意味で、桑栄メイトは貴重でした。結局、サンファーレにあるなないろ珈琲へ。ごくたまにやって来ます。といっても一人ではなく、友人来訪、来客、面談などのとき。

1615698442240c Dsc_0069c  チョイスは、牛すじカレーランチ。サラダ、ドリンク付きで¥980。ここは、珈琲はもちろん、紅茶も美味しいお店。食べ物は、カレー、サンドイッチなどがあります。以前、カレーを食べて美味しかったので、今日もカレー。牛すじを煮込んであり、絶品。これが¥980とは、値打ち。ちなみに、このお店で初体験がありました。それは、右の写真。透明アクリル板製のパーティション(というのでしょうか?)。GoToEatに参加する飲食店では、守るべき感染症対策の1つになっているようです。

Img_2068c_20210314164201  本日の歩数は、こちら。いつものスマホのアプリ「ALKOO」で、20,970歩。現地で歩いたのが7.9㎞、桑名駅往復が2.5㎞(ランチを求めて歩き回りましたので、若干多い)、合計10.3㎞。よく歩きました。ということで、今日の勝手にハイキングは、去年も歩いたコースですので、1回完結。長くなりましたが、ご容赦あれ m(_ _)m

Img_2031c_20210315064101 【書き忘れたことを付記(3/15)】 下深谷あたりでは、美濃街道の西の丘の藪から、何ヶ所かでウグイスのさえずりが聞かれました。今シーズン初めてでした。ただし、まだまだ練習が必要な鳴き方です。また、街道沿いではあちこちでさまざまな花が楽しめました。梅、サンシュユ、菜の花、ハクモクレン、シモクレン、などなど。写真は、その一つ、レンギョウと思います。

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