地蔵

2022年6月18日 (土)

20220612水の都・大垣ウォーキング(その2)……四季の路を通り、円通寺から船町川湊、奥の細道むすびの地へ

Ogaki0_20220620182901   6月12日の「水の都・大垣」ウォーキングの本編その2です。その1では、養老鉄道大垣駅をスタートして、大垣城、郷土館、大垣藩校・敬教堂跡、八幡神社と回ってきました。この先は、水門川に沿って南に歩いて行きます。水門川沿いには、四季の路がもうけられ、花木が植えられ、芭蕉の句碑がいくつも建っています。スタートから2㎞ほどのところには、大垣藩主・戸田家の菩提寺である円通寺、大垣市役所を過ぎると、奥の細道むすびの地に至ります。

Img_4954c_20220612191101Img_4857c_20220617065201  左の写真は、四季の路から眺めた水門川の流れ。右は、四季の路にある芭蕉の句碑の1つ。句碑には、芭蕉が奥の細道で詠んだ俳句が刻まれています。この写真の句碑には、「一家に 遊女も寝たり 萩と月」の句が刻まれています。市振(新潟県糸魚川市)で詠んだものです。

Img_4873c_20220617065701  こちらは、旭光山円通寺。浄土宗のお寺で、大垣藩主戸田氏歴代の菩提寺です。慶長6(1601)年)に膳所藩主であった戸田氏鉄(うじかね)が膳所で建立し、その後、戸田氏鉄が元和2(1616)年、尼崎藩主となると尼崎へと移転しています。さらに寛永12(1635)年に大垣藩へ転封となった際に、大垣城の西側へ移されました。以降、歴代大垣藩主の墓所が設けられました。大垣藩へ転封となった時、尼崎の本寺から伽藍を移したそうです。山門は、その後、雷火のために数回焼失したのですが、天保年間(1830~1844年)に再建されたもの。市指定文化財です。

Img_4894c_20220612191101  Img_4883c_20220612191101 一部の藩主の墓所は蓮光寺にあったのですが、後にここ円通寺に分骨が行われています。また、多くの大垣藩家臣の墓所もあります。右の写真は、初代の戸田氏鉄の墓所。

Img_4936c_20220617193901  四季の路を歩いていると、大垣市役所の西にある清水口橋のところに「神の田(かみのた)地蔵」がありました。その昔、ここは地域の守り神である八幡神社の神田(しんでん)だったそうです。鎌倉期の大井荘(おおいのそう:東大寺領の荘園)の文書に「八幡宮の神楽田(しんがくでん)」とあり、これが今の神田のもとかも知れないと説明板にありました。

Img_4970c_20220617194801 Img_5021c_20220617195901  スタートから2.5㎞ほどのところで、水門川は枡形のように曲がっています。総合福祉会館、秋葉神社、水都公園などに囲まれたエリア。川には大きな鯉がたくさん泳いでいました。虹の橋を渡ったところに四阿があり、そこでしばし休憩。時刻は、12時少し前。

Img_5040c_20220617200101  その四阿からは、伊吹山も遠くに見えていました。桑名からは、伊吹山は多度山の陰になって見えません。伊吹山があちこちから見えるのは、ちょっとうらやましい気がします。

Img_5045c_20220617200201 Img_5049c_20220617200201  奥の細道むすびの地の手前にこんなものがありました。左の写真は、今ひとつで、なんだかよく分かりませんが、右の写真には、「明治16年2月 大垣・桑名間汽船開通 大垣水運の歴史のひとこま ここに記す 大垣水とライオンズクラブ」とあります。左の写真は、桑名・大垣間の蒸気船が開通した頃の、ここの湊の様子と思います。西羽晃先生の「桑名港の『みなと文化』」によれば、「に大垣と桑名間は明治 15 年に小型蒸気船による定期航路が開かれた。22 年には東京-神戸間に東海道鉄道が開通したので、桑名から汽船で大垣へ行き、大垣駅から鉄道を利用すれば、東西への旅が非常に便利になった」とあります。

Img_5054c_20220617201201 Img_5058c_20220617201201  その先に、道標と句碑。道標は「木因俳句道標」で、「南 いせくわなへ十り ざいがうみち」とあります。ただし、この道標はレプリカで、本物はこの西にある「奥の細道むすびの地記念館」に保存されています。手前の句碑には、「い勢にまかりけるを ひとの送りけれは 蛤のふたみに別行秋そ」とあります。この「蛤のふたみに別行秋そ」は、芭蕉がここで詠んだ句。「ハマグリの殻と身とを引き剥がすように、又再び悲しい別れの時が来たことだ。千住出発の折りの歌『行く春や鳥なき魚の目は泪』と対をなす。『ふたみ』は、『双身』とこれから行く『二見ヶ浦』にかけている」ということです。さらにその奥にあるのは、木因の句碑で、そこには「惜ひひげ剃たり窓に夏木立 白桜下木因」とあります。谷木因は、江戸前期の俳人。大垣の船問屋を業とする富裕な商人でした。

Img_5067c_20220612191101 Img_5063c_20220612191201  さらにすぐ南に、「芭蕉翁と木因翁」と題した、芭蕉と木因とが向き合う銅像。ここには、右の写真のように、「史跡 奥の細道 むすびの地」と刻まれた石碑が建っています。ご承知のように、松尾芭蕉は、江戸時代の元禄2(1689)年3月27日に、弟子の曽良とともに江戸を出発し、東北・北陸地方を巡り、8月21日に大垣で「奥の細道」の旅を終えています。このとき、芭蕉46歳。その道のりは、およそ2,400㎞に及び、旅の体験や感想をもとに俳句と紀行文を組み合わせた「奥の細道」という文学作品を書いています。芭蕉が東北・北陸地方をめぐる「奥の細道」の旅を終えた地が大垣です。芭蕉は、2週間ほど大垣の人々と交流してすごしたあと、伊勢神宮の遷宮参拝のため、水門川を舟でくだり桑名へ旅立ちました。そのときに詠んだのが、上掲の「蛤のふたみに別行秋そ」という俳句です。

Img_5088c_20220612191101 Img_5095c_20220618065001  この奥の細道むすびの地に「奥の細道むすびの地記念館」があります。この記念館は、平成24(2012)年4月にオープン。「奥の細道」の解説をはじめ、芭蕉の人となりや旅に生きた人生を紹介する「芭蕉館」、大垣の歴史や文化・芸術を築き上げた幕末の先賢の偉業を紹介する「先賢館」、幕末の大垣藩藩老・小原鉄心(おはらてっしん)の別荘で、市指定文化財である「無何有荘大醒榭」などがあります(右の写真)。

Img_5076c_20220618065401 Img_5104c_20220618071201  このあたりは、「おくのほそ道の風景地 大垣船町川湊」として、国指定の名勝になっています。揖斐川の支流水門川の両岸に川湊の趣の残る風景地です。船町川湊は、大垣藩により慶長年間(1596~1615年)に大垣城下船町に設置されて以降、西濃地域の人・物資・文化の交流拠点として人々の生活を支えてきました。現在川湊としての機能は失われていますが、このあたりは、静かな水面にソメイヨシノの並木が生える桜の名所となっています。

Img_5117c_20220612191201  橋を渡って対岸に行くと、まずは住吉神社があります。 ご祭神は、上筒男命(うわつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)及び底筒男命(そこつつのおのみこと)のいわゆる住吉三神。天保11(1840)年創建。

Img_5129c_20220612191201 Img_5142c_20220618104401  住吉神社の北に船町港灯台。高さは8m、寄棟造りで上部に油紙障子を填め込んであります。もとは、元禄年間(1688〜1704年)に建造された灯台で、現存する灯台は明治20(1887)年の再建。大垣〜桑名間は明治15(1882)年に小型蒸気船による定期航路が開設され、大正8(1919)年に桑名〜大垣間に養老鉄道が開通するまで通船が続いていました。昭和初期には年間1万もの船が行き来していたという記録が残っています。

Img_5150c_20220618104601 Img_5145c_20220618104601  このあたりは、住吉公園となっていました。芭蕉の木が植えられていて、花が咲いていたり、「芭蕉送別の連句塚」があったりします。連句塚には、次の4句が刻まれています:

秋の暮行先々ハ苫屋哉(木因)

萩にねようか荻にねようか(芭蕉)

霧晴ぬ暫ク岸に立給へ(如行

蛤のふたみへ別行秋そ(芭蕉)

 如行は、江戸時代前期~中期大垣の俳人・近藤如行(じょこう)。大垣藩士。

Img_5165c_20220612191201 Img_5170c_20220618105501  この連句塚があるのは、貝殻橋のたもと。ここで行きに立ち寄らなかった桃源山全昌寺へ。曹洞宗のお寺。もとは、戸田氏鉄の室・大誓院がその叔父の戸田甚五郎(法名:徳翁全昌)の菩提を弔うため、摂津尼崎に建立した寺です。この寺は、戸田氏が大垣藩へ移された際に大垣で新たに創建されたものであり、尼崎の全昌寺は本院にあたります。尼崎全昌寺の住職であった照岩文鏡が大垣全昌寺の開山となり、大垣鷹匠町に創建されました。その後、慶安4(1651)年に現在地に移転。元禄元(1688)年、時の大垣藩主戸田氏定より50俵を与えられています。元禄5(1692)年、火災により灰燼に帰したのですが、5世住持の単伝清和の下で中興を果たしたものの、明治24(1891)年の濃尾地震で壊滅的被害を受けました。明治29(1896)年に本堂と庫裏を再建されましたが、昭和20(1945)年の大垣空襲によって再び伽藍が焼失。現在の堂宇はその後再建されたものです。

Img_5173c_20220618105501  ここにお地蔵さんがあったのですが、「みたらし地蔵」と書いてあるのです。面白いと思ったのですが、そのいわれは、ちょっともの悲しい話でした。「歯痛でぽっくりと亡くなった小僧を哀れんでまつった地蔵で、それを知った町の人が、歯痛で食べ物が食べられなくひもじい思いをした小僧を弔ってみたらし団子を供えるようになったそうです。歯痛の子がいる際は、団子の代わりに箸を一本供えると歯痛が治ると信仰されています」ということでした(こちら)。このあと、下調べの時に、この西に江月寺という臨済宗妙心寺派のお寺があると地図にあったので、見に行ったのですが、廃寺になってしまったようで、広い駐車場でした。ということで、その2はここまで。

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2022年5月14日 (土)

20220507東海道ウォーキング「亀山宿~関宿」(その4)……念願の関宿はおもしろい(完)

Kameyama3  5月7日の東海道ウォーキング「亀山宿~関宿」の本編その4です。その3では念願の関宿に入りましたが、途中の延命寺山門までとなっています。

Img_1985c_20220513160801 Img_1988c_20220513161401  延命寺から東海道に戻り、スタートから8㎞の手前に見どころが集まっています。まずは、関まちなみ資料館。江戸時代末期に建てられた関宿を代表する町屋建築のひとつです(旧別所家)。亀山市関町の文化財・歴史資料の展示・町並み保存事業による、関宿の町並みの移り変わりを写真展示しています。

Img_1996c_20220513160801 Img_2006c  ここで見たもののうち、興味のあるものをいくつか。左の写真は、明治10年代(1877~1886年)につくられた自転車。自転車がステータスシンボルであった頃で、かけそばが1銭8厘のとき、自転車1台が150~250円と高価でした。しかし、このサドルの位置、ちょっと前過ぎるような気がします。右の写真は、長火鉢。時代劇などにもよく出て来ます。中央の丸いところで酒の燗がつけられます。

Img_2018c_20220513162601  階段箪笥と、その奥は薬箪笥。この階段箪笥を登って2階に行きます。薬箪笥は、医者や薬屋が使ったもので、薬剤を入れるための引き出しがたくさんついており、百味箪笥や百目箪笥と呼ばれる場合もあるそうでます。

Img_2014c_20220513160901  2階には、有栖川宮親王が明治初期に関宿に泊まられたときの宿札が保存されていました。この有栖川宮親王は、有栖川宮熾仁親王(天保6(1835)~明治28(1895)年)かと思ったのですが、確認は取れませんでした。

Img_2020c_20220513171301  関まちなみ資料館の向かいに鶴屋。玉屋、会津屋とともに関を代表する旅籠の1つ。「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」という、伊勢参りの旅人などが歌ったとされる歌があるそうです。江戸時代の終わりには、脇本陣も務めた波多野家。脇本陣ですから、本陣に準ずる宿で、主に身分の高い商人たちの宿泊の用を勤めましたが、平素は一般庶民も泊まれました。鶴屋は、西尾吉兵衛を名乗っていましたから、西尾脇本陣ともいったそうです。2階に千鳥破風を載せた独特のデザインになっており、その格式を示しています。

Img_2025c_20220513172201 Img_2030c_20220513172201  中町三番町山車庫。その3で書きましたように、現在は4台の山車が残っていますので、山車庫も4ヶ所あります。また、ここは、問屋場跡でもあります。この西に川北本陣跡があります。現在ここには遺構はありません。その3で見てきた延命寺に、川北本陣の門が移築されているだけです。川北家は、本陣ととともに宿継ぎ問屋を勤めていたそうで、今も450点余りの古文書・古記録が伝えられているといいます(こちら)。

Img_2034c_20220513172201 Img_2048c_20220513172301  その向かいに百六里庭(ひゃくろくりてい)・眺関亭(ちょうかんてい)があります。小公園になっています。関宿が江戸から百六里あまりにあることから名付けられました。通りに面した建物は、眺関亭。

Img_2037c_20220507193101 Img_2044c  眺関亭の2階に上がると、こんな景色が眺められます。まさに「関を眺める」亭。西を見ると(左の写真)、瓦屋根の間に通る東海道とその突き当りにある地蔵院本堂の大屋根、さらには鈴鹿峠の方を、また、東を見ると(右の写真)、軒の並ぶ関宿のまちなみを望むことができます。展望台から西を見た様子は、関宿の成り立ちが現れた関宿の最も特徴的な景観だそうです。

Img_2053c_20220513173901  百六里庭・眺関亭の西には、伊藤本陣跡。川北本陣と並んで関宿の中心的な役割を果たしました。間口11軒あまり、建坪69坪、西隣の表門は唐破風造りの檜皮葺だったそうです。現在残っている街道に面した部分は家族の住居と、大名宿泊時に道具置き場に供した建物です。木造2階建、切妻、桟瓦葺、平入、開口部が格子窓で2階外壁両側には袖壁が設けられ、2階の外壁が前に張り出す「せがい造り」になっています。

Img_2083c_20220507193101  続いて、関宿旅籠玉屋歴史資料館。鶴屋のところに書きましたように、関を代表する旅籠の1つ。江戸時代の貴重な旅籠建築を修復し、旅籠で使われていた道具や歴史資料が展示してあります。宝珠の玉をかたどった虫籠(むしこ)窓が魅力的。この虫籠窓は、屋号にちなんで、宝珠の玉(玉から火焔があがる様)をかたどったものとなっているのだそうです。

Img_2080c_20220513174301  ここの裏手にある土蔵には、本物のというか、実物の歌川広重の浮世絵などが展示されていました。「行書版 東海道五十三次 関宿」などなど。もちろん写真は撮れませんので、土蔵の外観だけ。

Img_2065c_20220513174301 Img_2059c_20220513174301  その他、興味があったものについて。左の写真は、主屋1階の帳場。ちょんまげを結った初老の男性が、帳場に座っています。番頭さんでしょうか。手前の上がり口には、足を濯ぐための水を入れる盥と、草鞋も見えています。右の写真は、資料館の入り口にあった駕籠。一般庶民が乗った駕籠と思われますが、これでエッサエッサエッサホイサッサと揺られたら、乗り心地はよくないというか、結構大変そうです。

Img_2062c_20220513174301  これについては知りませんでしたが、江戸時代の関宿の名物・特産品として火縄がありました。火縄は火奴ともいい、鉄砲に用いたため大名の御用があったほか、道中の旅人が煙草などに使うためにも購入したそうです。新所を中心に数十軒の火縄屋がありました。 火縄は自生する竹を薄くへぐように削り、これを縄を編むように作ったといいます。

Img_2092c_20220507193101 1651900657728c  続いては、深川屋。創業約380年。江戸幕府3代将軍・家光の時代から続くそうですし、「忍びの隠れ蓑」だとも。江戸時代寛永年間より作り続けられている「関の戸」は、忍者の末裔 服部伊予保重により考案されたお餅菓子だそうです。令和元(2019)年、ここ深川屋に残る古文書から当時の忍びの記述が発見されたため、忍びの隠れ蓑の和菓子屋としています。ここで、土産に関の戸を買おうという算段。先日、三重県総合博物館で「第30回企画展 名所発見、再発見!~浮世絵でめぐる三重の魅力~」を見たときにも買ってきました(2022年5月 4日:イソヒヨドリに何度も遭遇……午後からはMieMUで「名所発見、再発見!~浮世絵でめぐる三重の魅力~」を見る)が、ずっと昔から私の好物なのです。赤小豆の漉し餡をぎゅうひ餅で包んであります。伝統的な和三盆をまぶしたものと、石臼でひいた亀山茶をまぶしたもの、6個ずつのセットをお買い上げ。

Img_2100c Img_2104c_20220507193101  土産もゲットし、一安心(微笑)。関郵便局のところへ。郵便局の敷地は、天正20(1592)年、家康が休憩したので、御茶屋御殿屋敷と呼ばれ、幕府代官陣屋、亀山藩役人詰所となっています。高札場もここにありました。亀山藩が管理した高札場跡で、キリシタン禁令などの法規的な内容から隣接宿場までの人馬駄賃の規定、生活に関わる様々な張り出しが行なわれた場所です。明治10(1877)年に撤去されましたが、江戸時代後期、寛政年間から天保年間頃の高札場が復元されています。掲示されている文言は、天保年間(1831〜1845年)の調査と推測される『東海道宿村大概帳』に記された内容を読みやすい楷書に変えたものです。

Img_2096c_20220507193101  ポストが、宿場の雰囲気に合わせてつくられていますし、敷地内に「関町道路元標」があります。標石は一辺27㎝、地上高57㎝で頭は丸みを帯びています。「関町道路元標」と刻字があります。

Img_2158c_20220513193501 Img_2145c_20220513193501  この先で天台真盛宗の福蔵寺。ここは、織田信長の三男織田信孝の菩提寺であり、また、関の小萬の墓があります。さらに、英照皇太后が駐泊されたところ。

Img_2155c_20220513193501  織田信孝は、本能寺の変で亡くなった信長の冥福を祈るため、神戸の住人にして旧臣出会った大塚俄左衛門長政に命じてこの寺の建立にかかったのですが、信孝は秀吉との後継争いに敗れ、天正11(1583)年、尾張国野間において、自害させられました。長政が当山に首を持参し信孝公の菩提寺としました。信孝の墓石は不詳であったので、400年忌を迎えたとき、菩提を弔うために建立されたのが、この写真の墓。

Img_2136c_20220513193501  こちらは、関の小萬の碑と、墓。裏門の横にあります。関の小萬については、その3で触れたとおり、若くして父の敵を討った烈女として伝えられています。15歳から風雪にもめげず、亀山の道場に通って修行に努め、武を練り、天明3(1783)年8月、本懐を遂げました。また、客殿の奥には英照皇太后孝明天皇の后)が宿泊された書院が現存するそうです(非公開)。

Img_2165c_20220514031901  関宿もかなり見て回ってきました。このあと地蔵院へ行くつもりでしたが、その前にもう1ヶ所見なくてはなりません。それは、会津屋です。関宿を代表する旅籠の1つで、もとは、山田屋といいました。関の小萬が育ったのがここです。江戸後期に建てられました。今は、食事処。

Img_2162c_20220507193201 Img_2174c_20220514031901  関宿は西の追分まで続きますが、今回の最終目的地は、九関山宝造寺関地蔵院です。関の地蔵さんと呼ばれます。天平13(741)年、奈良東大寺の僧行基が、諸国に流行した天然痘から人々を救うため、この地に地蔵菩薩を安置したと伝えられています。この地蔵菩薩は、わが国最古のものです。「せきの地蔵さんに振袖きせて奈良の大仏むこに取る」という俗謡があるほど、関に暮らす人々に加え、東海道を旅する人々の信仰も集め、全国の数あるお地蔵様の中でも最も敬愛されているといわれています。本堂、鐘楼、愛染堂の3棟の建物は国の重要文化財に指定されています。聖武天皇の勅願所、明治天皇関行在所でもあります。明治天皇は関町には5回来られ、明治13(1880)年7月10日、12日の2回、地蔵院で食事休憩されました。この明治13(1880)年7月11・12日には、亀山で大阪鎮台名古屋鎮台の合同演習が行われ、それを明治天皇がご覧になっています。ちなみに、7月11日には、亀山の東町にある伊藤市治郎宅に宿泊されました。この時、明治天皇が宿泊された建物は、現在、亀山城多門櫓の隣りに移築され、明治天皇行在所遺構として残っています。ここは、前回の「井田川~亀山ウォーク」で訪ねたところ(2022年4月23日:20220423東海道ウォーク「井田川~亀山」(予告編))。

Img_2178c_20220514033501 Img_2171c_20220514033501  左の写真は鐘楼、右は愛染堂。鐘楼の脇に上右の写真に載せた「明治天皇関行在所」の石柱があります。ここにはまた、一休禅師の逸話も伝わっています。関東行脚の時、関宿を通りかかった一休和尚に修繕をした地蔵の開眼供養をしてほしいと村人たちが、頼んだところ快く引き受けてくれたのですが、一休和尚は「釈迦はすぎ 弥勒はいまだ いでぬ間の かかるうき世に 目あかしめ地蔵」と詠み、立小便をして立ち去ってしまったそうです。怒った村人たちは別の僧に開眼供養をやり直してもらいましたが、その晩、高熱を出したある村人の夢枕に地蔵が立ち、供養を元のようにせよと命じたといいます。あわてて桑名の宿にいた一休和尚に助けを求めると、地蔵の首にかけるようにと古びた下帯を手渡され、言われたとおりにしたところ、高熱は下がったそうです(寛政9(1797)年に発行された『東海道名所図会』にかかれている話)。

Img_2196c_20220514032001  関地蔵院で14時。途中亀山の清福寺で1度、20分くらい休憩して、おやつを食べただけで、ここまで歩き続けてきました。このあと昼食。国道1号線から関駅あたりに行けば、食べるところがあるだろうと思ってそちらへ。地蔵院口の交差点のところに関地蔵堂への道標(関地蔵堂エ 二町)と、「街道 おんな唄」の石碑。鈴鹿馬子唄の一節などが刻まれています。

Img_2202c_20220507193202 Dsc_6434c  JR関西線・関駅の近くに道の駅関宿があります。ここなら何か食べられるだろうということで立ち寄ったら、定食屋みくらという店がありました。冷やし海老おろしうどんをチョイス。¥840。

Img_2214c_20220507193201 Img_2242c_20220507193201  JR関西線・関駅には、14時45分頃にゴールイン。9.3㎞を歩きました。ここは、JR西日本のエリア。亀山までは1駅なのですが、この時間帯には1時間に1本のみ。しかも非電化区間。右の写真のように1両のディーゼルカーが走っています。

Img_2258c_20220507193201 Img_2266c_20220507193301  14時59分発の亀山行きに乗車。亀山には15時5分着。ここでJR東海の関西線に乗り換え。15時26分の名古屋行き快速。ただし、快速になるのは、四日市から。桑名には、16時6分着。料金は、通しで¥770。9.3㎞も歩き、また、暑かったのでそれなりに疲れました。しかし、この日は、念願の関宿を訪ねられましたので、心地よい疲労感でした。歩数は、22,266歩。現地で9.3㎞、自宅から桑名駅往復が2.4㎞で、計11.7㎞。

Img_1567c_20220514041001 Img_2193c_20220514032001  オマケ。マンホールの蓋コレクション。左の写真は、亀山市のもの。右は、旧関町のもの(現在は、亀山市と合併して、亀山市関町になっています)。亀山のものは、多門櫓に花菖蒲の花の絵柄になっています。旧関町のものは、関宿の町並みにお地蔵様が立っているデザイン。

Sekistampc Kameyamastampc  もう1つオマケ。スタンプです。自作コースマップの裏に押してきましたので、それが透けてしまっていますが、ご愛敬。左は、亀山の加藤家屋敷、旧舘家住宅、旧佐野家でゲット。右は、関宿にある3つの資料館(関の山車会館、関まちなみ資料館、関宿旅籠玉屋歴史資料館)のもの。これにて「亀山宿~関宿」の東海道ウォーキングは、「完」。

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2022年5月 7日 (土)

20220507東海道ウォーキング「亀山宿~関宿」(超予告編)

Kameyama0_20220508045001  4月23日の東海道ウォーキング「井田川~亀山」(2022年4月23日:20220423東海道ウォーク「井田川~亀山」(予告編))に引き続いて、今日は亀山宿~関宿までを歩いてきました。好天に恵まれ、また気温も上がり、亀山のアメダスでは、最高気温は28℃を超えていました。冒頭の画像が、今日歩いたルートの全体像。関宿ではもっとたくさんのところを見て、立ち寄って来ていますが、狭い範囲ですので、主なところだけ示しました。膨大な写真を撮ってしまい、まだすべてを確認していませんので、今日のところは、超予告編。明日以降、この超予告編を予告編にする作業から取りかかります。

Img_1298c_20220507193101 Img_1322c_20220507193901  桑名駅を8時14分に出る亀山行き普通に乗車。亀山には、9時ちょうどの到着。¥680。前回、最後に、西町問屋場跡まで行ってきました。当初は、この西町問屋場跡から東海道に入る予定でしたが、その前に、いきなり寄り道。

Img_1383c_20220507193101 Img_1426c_20220507193101  寄り道したのは、加藤家長屋門。江戸時代後期、亀山城主・石川家の家老職を務め、亀山城西之丸に居を構えていた加藤家の屋敷の長屋門。現在は屋敷の表門である長屋門とこれに連なる土蔵などが遺されています。その先で、飯沼慾斎生家跡。飯沼慾斎は、江戸後期の蘭方医,植物学者。伊勢国亀山の商人西村信左衛門の次男。母方の伯父で美濃国大垣の飯沼長顕に入塾し、のち京都に出て漢方、本草学を学んだ後、蘭方に転学し、大垣で開業しています。

Img_1438c_20220507193101 Img_1526c_20220507193101  旧舘家住宅。明治6(1873)年に商家として建てられました。枡屋という屋号で、幕末から大正にかけて呉服商を営んでいた大店です。土日に無料公開されています。右は、京町口門跡を、その西の京町坂橋の西詰から見た景色。ここは、滝川にかかる橋ですが、もとの東海道は、もっと低いところを通っていました。ちなみに、東海道五十三次を描いた浮世絵の多くは、京町門口跡あたりから亀山城を眺めた景色となっています。

Img_1607c_20220507193101 Img_1625c_20220507193101  左の写真は、浄土宗の慈恩寺。奈良時代に聖武天皇の勅願により行基が開いたと伝わっています。往時には、七堂伽藍があったものの、度重なる兵火で焼失。幕末、亀山藩の家老を務めた近藤幸殖の墓があります。右の写真は、野村一里塚跡。日本橋からは105里。北側の塚だけが現存しています。樹齢400年を超える椋の木が植わっています。一里塚に椋は珍しいそうです。

Img_1677c_20220507193101  途中、端折りますが、亀山市布気町に昼寝観音という観音さんがあります。東大寺の大仏を建て直すお金を全国から集めているとき、石山観音(津市芸濃町)から運ばれたといいます。各地の観音が集まって、西日本の観音めぐり33箇所を決める会議を開いたのですが、この落針(おちばり)の観音は昼寝をしていて会議に行かなかったため33箇所に選ばれなかったとか。

Img_1740c_20220507193301  旧国道1号線(現県道565号線)、JR関西線を越えますと、太岡寺畷(たいこうじなわて)に出ます。ここは、旧東海道の鈴鹿川沿いの道路で、約400mにわたり桜並木が続いています。桜の咲く時期になると、桜のトンネルが見事だろうと思えます。しばらく立ち寄るところはありません。

Img_1825c_20220507193301 Img_2037c_20220507193101  スタートから5㎞を超え、ようやく「関宿」の案内板。東海道五十三次の47番目の宿場町として栄え、今なお当時の雰囲気が残されています。ここは、ずっと以前から訪ねてみたかったところで、ようやく長年の念願が叶いました。右の写真は、関宿にある百六里庭・眺関亭の2階から眺めた関宿の西方向。向こうの山は、鈴鹿山脈。

Img_1847c_20220507193101  ここは、関宿東の追分。東海道と伊勢別街道との分岐点です。鳥居の向こうが、伊勢別街道。椋本、専修寺あたりを経て江戸橋で伊勢参宮街道につながっています。総距離およそ四里二六町(約18.5㎞)。江戸時代には京都方面からの参宮客で賑わいました。

Img_1919c_20220507193101 Img_1934c_20220507193101  関宿には見どころが多数。今日もあちこち見て回ってきましたが、ごくかいつまんで。こちらは、関の山車会館。狭い宿内の家並みを山車が巡行する様から、限度いっぱいの意味で使われる「関の山」の語源であるとも言われる「関の山車(せきのやま)」の展示を中心に祭りの付属品や歴史資料が展示されています。関の山車は、高さ4mとかなり大きいのに驚きました。「関の山車」は、元禄年間から伝わる祭礼で、江戸後期には16基もの山車があり、横幕・見送幕・提灯を豪華に飾りつけて華美を競い合ったそうです。山車の台車から上が回転する構造となっており、巡行時の辻々などで勢いよく回転させることが特徴の一つ。現在は木崎町・大裏(北裏)町・中町三番町・中町四番町の4基が保存され、関神社の夏祭りとして例年7月下旬の土・日曜に開催されています。

Img_2083c_20220507193101  こちらは、関宿旅籠玉屋歴史資料館。江戸時代の貴重な旅籠建築を修復し、旅籠で使われていた道具や歴史資料が展示してあります。宝珠の玉をかたどった虫籠(むしこ)窓が魅力的。この虫籠窓は、屋号にちなんで、宝珠の玉(玉から火焔があがる様)をかたどったものとなっているのだそうです。

Img_2092c_20220507193101 1651900657728c  関の戸をつくっている深川屋さん。創業約380年で、「忍びの隠れ蓑」だそうです。江戸時代寛永年間より作り続けられている「関の戸」は、忍者の末裔・服部伊予保重が考案した餅菓子です。2019年にこの深川屋に残っていた古文書から当時の忍びの記述が発見されたといいます。先日、三重県総合博物館でも買ってきたのに、今日もまた、土産は関の戸。和三盆と抹茶の6個ずつの詰め合わせ。¥1,118。

Img_2096c_20220507193101 Img_2104c_20220507193101  関郵便局。郵便局の敷地は、天正20(1592)年、家康が休憩したので、御茶屋御殿屋敷と呼ばれ、幕府代官陣屋、亀山藩役人詰所となっています。高札場もここにありました。ポストが、宿場の雰囲気に合わせてつくられていますし、敷地内に道路元標があります。

Img_2162c_20220507193201  関地蔵院。天平13(741)年、奈良東大寺の僧行基が、諸国に流行した天然痘から人々を救うため、この地に地蔵菩薩を安置したと伝えられています。この地蔵菩薩は、わが国最古のものです。関地蔵院で14時。途中で1度、20分くらい休憩して、おやつを食べただけで、ここまで歩き続けてきました。このあと昼食。

Dsc_6434c Img_2202c_20220507193202  JR関西線・関駅の近くに道の駅関宿があります。ここなら何か食べられるだろうということで立ち寄ったら、定食屋みくらという店がありました。冷やし海老おろしうどんをチョイス。¥840。

Img_2214c_20220507193201  Img_2242c_20220507193201 JR関西線・関駅には、14時45分頃にゴールイン。9.3㎞を歩きました。ここは、JR西日本のエリア。亀山までは1駅なのですが、この時間帯には1時間に1本のみ。しかも非電化区間。右の写真のように1両のディーゼルカーが走っています。

Img_2258c_20220507193201 Img_2266c_20220507193301  14時59分発の亀山行きに乗車。亀山には15時5分着。ここでJR東海の関西線に乗り換え。15時26分の名古屋行き快速。ただし、快速になるのは、四日市から。桑名には、16時6分着。料金は、通しで¥770。9.3㎞も歩き、また、暑かったのでそれなりに疲れました。しかし、今日は、念願の関宿を訪ねられましたので、心地よい疲労感です。歩数は、22,266歩。現地で9.3㎞、自宅から桑名駅往復が2.4㎞で、計11.7㎞。冒頭に書きましたように、今日のところは、以上、超予告編。

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2022年3月24日 (木)

20220319東海道ウォーク「加佐登~井田川」(その3)……西富田町から井田川駅にゴール(完)

220319kasado2c  3月19日に行ってきた”東海道ウォーク「加佐登~井田川」”の本編その3です。その2では、鈴鹿川沿いから安楽川沿いの汲川原、中冨田、西冨田を歩きました。西冨田の福萬寺では、掲示板にあった「煩悩を卒業することはできません 松本梶丸」ということばに悩みました。あらゆる煩悩を欠くことなく具えている私にとっては、戸惑いを残したまま、次へ進むのです(苦笑)。ルートマップその2では、「ひろせ道」道標、西冨田の川俣神社、和泉公民館の地蔵尊、弘法井戸、和泉の川俣神社が残っています。

Img_7148c_20220319175901 Img_7145c_20220323193501  「ひろせ道」道標です。この道標も、田中音吉の寄付により建立された道標です。田中音吉については、その2の記事に詳しく書きました(2022年3月23日:20220319東海道ウォーク「加佐登~井田川」(その2)……汲川原から西冨田の福萬寺へ)。ここから北に1.5㎞ほど行ったところに鈴鹿市広瀬町がありますから、そこへの道を示すものと思います。

Img_7152c_20220323194101  安楽川の手前に西冨田の川俣神社があります。主祭神は、多紀理毘売命(たぎりひめのみこと:素戔嗚尊と天照大神が高天原で誓約(うけい)をした際、天真名井(あめのまない)の水滴の中から生まれた宗像三神の一神。福岡県玄海町の宗像大社の沖津宮に祀られています)。相殿神は、経津主命武甕槌神玉依毘売命品陀和気命息長帯比売命崇徳天皇大穴牟遅命金山毘古神八衢比古神、八衢比売神久那斗神。鳥居の近くには、庚申塔屋、山の神もあります。

Img_7167c_20220323194101  このあたりは、東海道の道筋に面して賑わった地域であり、古くは八王子と称されていました。当社は、この町の南端に鎮座しています。現存している棟札によれば、中世近世を通じ宝殿その他社殿の造営が行われていたようです。明治41(1908)年、中富田町の川俣神社と共に和泉の川俣神社に合祀されましたが、その後、昭和23(1948)年、氏子の総意により分祀され、現在に至っています。ご覧のように、開かれた空間にある神社で、気持ちも解放される感じでした。

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Img_7160c_20220323194101  ここには、無上冷水井戸跡があります。神戸城主であった織田信孝が愛飲したと伝わる井戸の跡です。ここから、神戸城は、東に直線距離で6.7㎞ほどのところにあります。神戸城まで水を運んだと思うのですが、それもけっこう大変でしょう。境内には、また、旧和泉橋の親柱が1基、保存されており、「昭和10年6月竣功」の文字が見えます。

Img_7170c  さらに道標もありました。「右ひろせ 左はたけ」と刻まれています。「ひろせ」は、上掲の「ひろせ道道標」の鈴鹿市広瀬町と思われます。「はたけ」は不明。もともと、どこにあったかも不明。

Img_7198c_20220323200601 Img_7216c_20220319180001  西冨田の川俣神社は、安楽川のすぐそば。和泉橋で安楽川を渡ります。渡った先は、鈴鹿市和泉町。旧東海道は、このあたりに土橋がかかっていましたが、出水時には渡しがあったそうです。和泉公民館の前に「弘法井戸 500m」という看板がありました。これもノーチェックでしたが、寄り道。建屋は新しいのですが、井戸自体は古そうでした。現地に説明板はなく、ネットで検索しても何も出て来ません。

Img_7220c_20220319180001  その弘法井戸の南に鳥居が見えましたので、さらに寄り道。これが、和泉の川俣神社でした。主祭神は、大穴牟遅命(おおあなむちのみこと:「日本書紀」が設定した国の神の首魁(しゅかい)。「古事記」では大国主神の一名とされる)。相殿神は、市杵島比売命久那斗神八衢比古神、八衢比売神道反大神(ちかえしのかみ=道神=道祖神)。

Img_7228c_20220323202401   延喜式内社と比定されています。創始は、不詳。江戸時代の地誌類には八王子社とありますが、和泉町の位置が鈴鹿川の本流と出合うところにあり、川俣神社の名がでたものと考えられています。明治41(1908)年、井田川村各地に鎮座の諸社を合祀しましたが、昭和26(1951)年、各村の氏子の総意により中冨田、西富田の川俣神社等を分祀し、現在に至っています。これで、このあたりの川俣神社4社にお参りしたことになります。

Img_7235c_20220319180001  和泉公民館のところまで戻りました。この公民館は、いかにも昭和の公民館という雰囲気。私の実家近くの公民館もこんな建物だった記憶があり、懐かしい気がしました。この敷地内に地蔵堂。由緒その他は、不明。Img_7246c_20220323202801 地蔵堂は、由緒が明らかでないことも良くありますが、それはちょっと残念な気がします。

Img_7237c_20220323202801 Img_7250c_20220323202801  和泉公民館の敷地内にも、旧和泉橋の親柱が保存されています。さらに、こんな写真を載せて良いのかと若干迷いましたが、公民館のトイレ(右の写真)。公民館本体と同様に、昭和の雰囲気たっぷりのトイレというか、公衆便所といった方が似合います。

220319kasado3c  実際に歩いたルートマップはその3に入ります。和泉公民館の先で6㎞を過ぎます。和泉西のバス停のところで、道標と地蔵堂。地福寺の手前に明治天皇御小休所碑。ここは観音堂跡で、ここにも和泉橋の親柱があります。県道641号線を越えると、東海道は田舎道。関西線井田川踏切を越え、地蔵堂らしきものを見て、いったん井田川駅にゴール。ここまでで7.3㎞、時刻は12時30分。時刻表を確認してから、昼食へ。

Img_7277c Img_7274c_20220324042201  道標は、「のゝぼり道」とある2基が並んでいます。左の写真で手前にある、自然石に彫ったものは江戸時代のもので、奥にある石柱は大正3年のものです。いずれも半分近くが埋まっているのは残念。「のゝぼり」は、「野登」と思います。亀山市の北端、安楽川の上流域、亀山ジャンクションの北西一帯です。

Img_7280c_20220319180001  地蔵堂は、江戸時代からのものだそうですが、由来などは分かりません。江戸時代からここにあるそうです。

Img_7295c_20220319180001  スタートから6.4㎞ほど、東海道の右手の小高くなったところに明治天皇御小休所碑があります。明治13(1880)年7月13日に行われた陸軍大演習にいらっしゃったときのもの。かたわらには、古い和泉橋の親柱が保存されています。

Img_7302c_20220319180001  この場所は、観音堂跡。こちらに「戦国期以前は『小田町道心がいどう』と呼ばれ、七堂伽藍が立ち並ぶ大寺。道心とは『仏道を信奉する心』 1568年信長戦火で焼失。1677年観音堂建立。」とありますから、地福寺の境内にあった観音堂の跡ということかと思われます。鬼瓦が保存されている土台には、「極楽山 観音堂跡 平成9年7月」とあります。極楽山は、地福寺の山号。

Img_7333c_20220324044001 Img_7316c  その極楽山地福寺。浄土宗のお寺。亀山藩主が観音堂の阿弥陀如来に帰依し、また、観音菩薩三十三体も祀られ、東海道の旅人が多く立ち寄ったといいます(こちら)。地福寺は、小高いところにあり、眺めの良いところです。

Img_7340c_20220324045001 Img_7346c_20220319180001  地福寺の先で東海道は、県道641号線(左の写真)を超えます。県道を越えた先の景色が右の写真。急に「田舎道」になります。

Img_7352c_20220319180101 Img_7372c_20220324162901  こういうところを通って、関西線の井田川踏切を越え、すぐに左折したのが右の写真。「本当に東海道か?」と心配になります。踏切を越えた辺りで亀山市に入ります。

Img_7384c_20220324162901 Img_7381c_20220324163101  井田川駅の手前で地蔵堂と思われるもの。説明書きもなく、ネットで検索しても何も情報が出て来ません。「みえの歴史街道 東海道」のウォーキングマップにも「地蔵堂」として写真が載っているだけ。きちんとお世話はされています。

Img_7396c_20220319180101 Img_7399c_20220319180101  JR関西線・井田川駅。12時30分に到着。ここまでで7.3㎞。上りの時刻表を見たら、名古屋行きはちょうど出たところ(12時29分発)。次は、1時間後でしたから、昼食を食べに行くことにしますが、その前に、駅前に日本武尊像があります。日本武尊は、伊吹山で荒神を征伐中、伊勢国の能褒野(のぼの)で崩じたといいます。能褒野は、井田川駅から北へ1㎞ほどのところ。能褒野王塚古墳があり、日本武尊の墓とされていますし、その隣に能褒野神社があります。

Img_7403c_20220324164601 Img_7406c_20220324164601  日本武尊像の脇には、古事記に見える日本武尊の歌「倭は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる倭しうるはし」の歌碑と、弟橘姫(おとたちばなひめ)は日本武尊の妃であることを説明した系図があります。

Img_7418c_20220319180101 Dsc_0028c  昼食は、200メートルほど行った国道1号線井田川駅口交差点近くのうどん屋・甚八か、すき家1国亀山店の2択。事前リサーチの結果、すき家で食べたいものがあり、そちらへ。クリーミーオニサラ牛丼と決めていました(微笑)。並盛りが¥550。お新香セット¥150をつけました。並盛りなのに、けっこうな量があり、満腹。

Img_7456c_20220319180101  再び井田川駅に戻って、結局、歩いたのは7.9㎞。13時29分発の名古屋行き快速に乗車。快速になるのは、四日市駅から。桑名には、14時5分着、¥590。この日の歩数は、19,000歩を越えました。現地で歩いたのが、7.9㎞。自宅から桑名駅往復が、2.2㎞で合計10.1㎞でした。次回は、4月中旬以降。井田川駅から亀山まで歩きます。

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2022年3月23日 (水)

20220319東海道ウォーク「加佐登~井田川」(その2)……汲川原から西冨田の福萬寺へ

Img_6810c_20220322192301220319kasado2c  3月19日に行ってきた”東海道ウォーク「加佐登~井田川」”の本編その2です。その1では、JR関西線・加佐登駅から庄野宿を一通り見て回りました。庄野宿を抜けたあたりでスタートから2㎞。県道643号線の高架をくぐります。このあたりの東海道は、国道1号線などによって失われています。鈴鹿市内では、こういうところについては、左の写真のように、案内図が掲げられていて、分かりやすくなっています。その2では、鈴鹿川沿いから安楽川沿いを歩きます。平野道道標、いぼとり地蔵、真福寺、神戸藩領界石と女人堤防碑、中冨田の川俣神社、清光寺、常念寺、福万寺から西富田の川俣神社を過ぎて、安楽川を和泉橋で渡ります。このあたりはまだ鈴鹿市。

Img_6837c_20220319175901 Img_6862c_20220323150501  スタートから2.5㎞ほど、民家の脇に平野道道標があります。平野は、鈴鹿川の対岸にある町のことと思われます。この道標の向かい側に高札場があったといいます(みえ歴史街道ウォーキングマップ 東海道)。この道標は、田中音吉(弘化5(1848)~大正5(1916)年)が寄附したもの(右の写真)。田中音吉は、実業家で、米穀・製茶業を営んでいたのですが、前橋や八王子の蚕糸業を視察し、明治20(1887)年、郷里の三重県鈴鹿郡亀山で製糸業を始めました。明治30(1897)年には、亀山共同社(のちの亀山製糸会社)を設立しています。裏には「大正三年 寄附者 田中音吉」と刻まれています(こちら)。さらに道標の脇に「平野道」を示す標識には、「いぼとり地蔵 この奥50m」とあります。気づいたからには行ってみないといけません(微笑)。

Img_6858c_20220319175901 Img_6845c_20220323133901  50m進むと、鈴鹿川の堤防の下に地蔵堂があります。このお地蔵様がいつ頃、どのようにして祀られるようになったかは不明ですが、ここ平野道で、道標のお地蔵さんとして露天に建っていたものを、この地に移し、地蔵堂がつくられたと伝わっています。昔から、いぼと眼病に効くといわれ、地元の方だけでなく、遠方からお毬に来る方もあるそうです。8月には地蔵盆が行われます。地蔵堂に向かって右手には、昭和7(1932)年に建てられた「地蔵尊石碑」があります。甫元という医者がこの地蔵をつくり奉ったと書かれています。

Img_6873c_20220323151201  いささか余談ですが、平野道道標の先にある掲示板に「庄野 寄っといで音頭」のチラシが貼ってありました。というか、実は、庄野宿にもあちこちにこれやにたチラシが掲げられていたのです。

Img_6876c_20220323151601 Img_6880c_20220319175901  真宗本願寺派の真福寺。ここのお寺も、現地でも、ネット検索でもこれという情報は得られませんでした。

Img_6922c_20220319175901  真福寺の先、スタートから3㎞のところに女人堤防碑があります。この辺りは、冒頭のルートマップからもお分かりのように、安楽川と鈴鹿川の落ち合うところで、たびたび水害がありました。人々は水害に悩まされていたため、築堤を神戸藩に申し出たものの、許可が折りませんでした。そこで、文政12(1829)年頃、お菊を先頭に女性たちが、「女であれば許可がなくても罪が軽くなるだろう」と禁を犯し、打ち首を覚悟で堤防を補強したのです。彼女たちは、いったん捕らえられたものの、処刑の直前に許され、その後、労をねぎらわれたといいます(こちらに碑文の全文があります)。

Img_6949c_20220319175901 Img_6945c_20220323153001  現地にあった説明板の図によれば、女人堤防碑の西側にその堤防があるということで、これらの写真がそうだと思われます。左の写真で、画面外になりますがこの左手に女人堤防碑があり、向こう(南)に続く道が堤防と思われます。右の写真は、東海道を挟んで北に続く堤防。

Img_6909c_20220323153301 Img_6926c_20220323153401  女人堤防碑の横と、東海道を挟んだ反対側とには、神戸藩領界石が1対で建っています。いずれにも、「従是東神戸領」と刻まれており、ここから東が神戸藩の領地であることを示しています。左の写真が北側、右が南側(女人堤防碑の横)にあるもの。ただし、もとは、中冨田の亀山藩領地との境界にあったものを移設しています。

Img_6904c_20220319175901  さらに北側の神戸藩領界石の脇には、山の神が祀られています。手水石は、文化10(1813)年のもの。

Img_6971c_20220323154301 Img_6963c_20220323154401  これら女人堤防碑の東側には広い空き地が広がっています。マップに「廃寺跡?」と書いたところですが、地蔵堂と墓石群があったので、そう書きました。地蔵堂には、かつて真福寺にあった薬王院のものと思われる位牌が並んでいます。

Img_7073c_20220323154901  女人堤防碑を過ぎると間もなく、中冨田に入ります。スタートから3.5㎞、10時45分頃に、中冨田の川俣神社に到着。主祭神は、大毘古命(おおひこのみこと)。記紀によれば、孝元天皇の皇子で、崇神天皇 10年、四道将軍の一人として北陸に出征、戦功を立て、垂仁天皇の代に大夫になったといいます。相殿神は、天照大神中臣神天児屋命(あめのこやねのみこと)か? 天児屋命は、天岩戸神話のなかに登場する神で、中臣氏の祖神)、須佐之男命猿田毘古大神玉依比売命

Img_7040c_20220319175901  創祀については明らかではありませんが、古くは八王子社と称したようです。明治41(1908)年に和泉村の川俣神社に合祀されましたが、その後、昭和23(1948)年に分祀、再興されています。左上の写真からも分かるように、境内には大木、古木がたくさんあり、いかにも神社という雰囲気になっています。周囲には、古墳・遺跡も多く、国衙(律令制度下での政庁)が置かれるなど、早い時期に開発された地だったそうです。川俣神社は延喜式内社ですが、いくつかあるうち、ここが元々の川俣神社であった可能性が高いともいわれます(こちら)。ちなみに、川に社を向けたためか、本殿の背後に鳥居があるという配置になっています。

Img_7048c_20220323160801 Img_7052c_20220323160901  また、山の神と、地蔵堂のような御堂があります。この御堂、写真をよく見ていただくと分かりますが、白い布がかけられていて、祀られているものが直接見えないようになっています。

Img_7016c_20220319175901  ここ川俣神社には、中冨田一里塚跡があります。江戸・日本橋から100番目の一里塚で、ここ川俣神社の東隣に街道を挟んで一里塚があったといいます。榎の大木があった、大規模な塚だったそうです。享和3(1803)年の「東海道亀山宿分間絵図」によれば、一里塚の近くに「御馳走場」と書かれた家があり、当時、東海道を往来する大名行列などの一行を接待する場所であったと考えられます。また、現在も、「東百里や(ともりや)」という屋号で呼ばれる家があるそうです。

Img_7023c_20220323162101  中冨田村は、また、亀山藩領の東端で、中冨田一里塚跡碑と並んで、亀山藩領界石が建っています。「従是西亀山藩領」と刻まれています。先ほどの「神戸藩領界石」も、もとはこの近くにあったもの。

Img_7077c_20220319175901  川俣神社のすぐ先に真宗高田派の清光寺という、小さなお寺。現地でも、ネット検索でも、これという情報は出て来ませんでした。

Img_7081c_20220319175901 Img_7097c_20220319175901  こちらは、天台真盛宗の富光山城念寺。お寺の説明板によれば、承応年間(1652~54年)、智詮和尚の開基とされ、ご本尊は阿弥陀如来。当時は、別のところにあったのですが、安政元(嘉永7(1854)年11月の大地震(11月4日の安政東海地震と、翌日11月5日の安政南海地震)で倒壊したため、同じ村内にあって、倒壊を免れた平建寺を買収して、現在地へ移転したといいます。平建寺は、山号を白浪山と号し、高野山真言宗の寺でした。本尊は、延命地蔵尊で中冨田の氏仏をして進行され、現在は、地蔵堂に祀られています。

Img_7100c_20220323163801 Img_7094c_20220323163801  こちらが、白浪山平建寺のご本尊であった延命地蔵を祀る地蔵堂。境内には、右の写真のように、「白浪山平建寺」と刻まれた石柱も残っています。

Img_7110c_20220323163801  また、現在の境内は、麻生はつの遺志により、隣地の屋敷跡の寄進を受けて拡大されたそうで、その功績を後世に残すために境内に「麻生はつ屋敷跡」の碑が立てられています。しかし、地震で倒壊し、倒壊を免れたお寺を買収して、ここに移転したというようなことがあるものなんだとと感心しました。

Img_7138c_20220319175901 Img_7126c_20220323171601  4㎞を過ぎてしばらく行くと、真宗高田派の金光山福萬寺。文永11(1274)年の開創。当初は、天台宗で、常照寺と称していましたが、寛文元(1661)年、専修寺第14世堯秀上人の御化道によって高田派に転向しています。明和8(1771)年7月の大洪水により、その時安置されていた書物・什器・寺宝などすべて流失。御本尊は中冨田にかかり、住職家族2人とも洪水のため死亡。弟子僧の一人が辛うじて難をまぬがれ、翌年、寺名を福萬寺と改め再興を計ったものの、再建には十数年を費やし、文化4(1807)年にようやく川崎村西願寺の下御堂を買請け、上棟式をしました。

Img_7142c_20220319175901  このお寺の掲示板にあったことば。「煩悩を卒業することはできません 松本梶丸」とあります。松本梶丸(昭和13(1938)~平成20(2008)年)は、真宗大谷派本誓寺の住職でした。石川県松任市生まれ、昭和36(1961)年、大谷大学仏教学科卒業。真宗大谷派宗務所出版部、研修部勤務を経て、本誓寺住職。親鸞聖人は、「煩悩成就のわれら」とおっしゃったそうです。「煩悩成就」ということは、あらゆる煩悩を欠くことなく具えていることだそうです。あらゆる煩悩を欠くことなく備えているとすれば、煩悩を卒業することはできないでしょうね。う~ん、何だか分かったような、分からないような……。

 長くなりましたし、煩悩に悩まされてしまいましたので、ルートマップその2の途中ですが、記事その2はこのあたりで、お後がよろしいようで。その3は、ひろせ道道標、西冨田の川俣神社から。

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2022年3月19日 (土)

20220319東海道ウォーク「加佐登~井田川」(予告編)

Img_6555c_20220319175601 雨は夜中に上がり、朝からほぼ晴れ。北風がやや強いものの、15℃を超え、ウォーキング日和。予定通り、東海道ウォークに行ってきました。今日は、2月5日の東海道ウォーク「日永の追分~加佐登」(2022年2月5日:20220205東海道ウォーキング(日永の追分~加佐登)(予告編))に続いて、加佐登から井田川まで歩いてきました。当初は、加佐登から庄野宿を経て、亀山まで10㎞あまりを歩こうかと考えていたのですが、立ち寄るところが多かったため、途中のJR関西線・井田川駅までとしたのです。冒頭の写真は、ウォークとは関係ありませんが、出がけに玄関先から見えた木曽御嶽山。はっきりと見えていました。

220319kasado0c こちらが、今日、実際に歩いてきたルートマップ。JR関西線・加佐登(かさど)駅から500mほどで庄野宿の入り口に行きます。善照寺、庄野宿資料館、妙法寺、集会所・本陣跡、常楽寺、川俣神社でスダジイの大木(ちなみに、川俣神社という名前の神社が、このあたりには4社あります)、平野道道標、いぼとり地蔵、真福寺、神戸藩領界石・女人堤防碑、川俣神社・中冨田一里塚跡碑、清光寺、常念寺、福萬寺、道標(ひろせ道)、川俣神社・無上冷水井戸跡、弘法井戸、川俣神社、和泉公民館で地蔵尊、道標(のゝぼり道)、地蔵尊、明治天皇御小休所碑・観音堂跡、地福寺と実にたくさん見て回って、いったんJR関西線・井田川駅へ。ここまでで7.3㎞。電車の時刻を確認しておいて、国道1号線の方にあるすき家で昼食。井田川駅に戻って、結局、7.9㎞を歩きました。どこにも寄らなければ5㎞ほどのコース設定でしたが、今日は寄り道が多かったのです。

Img_6594c Img_6577c_20220319175801  今日は、JR関西線を利用。桑名駅を8時14分に出る亀山行き普通電車に乗車。加佐登駅には、8時49分着。¥510。前回からほぼ1ヶ月半ぶり。8時55分にスタート。駅から西に向かい、踏切を越えて庄野宿の入り口へ(右の写真)。庄野宿の案内板や、石柱があります。石柱は、旧庄野小学校の門柱を利用したもの。ここまで500m弱。

Img_6629c_20220319175801  まずは、真宗高田派の 筧口山善照寺(けんこうざんぜんしょうじ)。創建は、長禄年間(1457年頃)。このお寺には、庄野大念仏踊りが伝わっています。いつ頃から始まったかはっきりしませんが、およそ240年前のようです(天明2(1783)年頃と推察されています)。天明2(1783)年には、浅間山の大噴火と、それにともなう天明の大飢饉(1782〜1788年)のあった頃。地域の治安の悪化改善と地域住民の結束、死者の鎮魂を目的とする盆踊りとして始まったのではないかと考えられています(こちら)。

 善照寺の先に庄野宿資料館Img_6642c があります。ここには、旧小林家。油問屋を営んでいたといいます。庄野宿は東海道五十三次の45番目の宿で、歌川広重の「東海道五十三次」の版画の「庄野の白雨」でもよく知られています。館内には、庄野宿の本陣・脇本陣文書、宿駅関係資料をはじめ、高札場に掲げられていた本物の高札が保存されています(2018年12月6日:20181202近鉄ハイキング「鈴鹿の隠れた紅葉の名所「荒神山の喧嘩」で有名な荒神山観音寺を訪ねて」へ(その2)……庄野宿からJR関西線加佐登駅へ)。

Img_6674c_20220319175801  続いて、臨済宗東福寺派の妙法寺。ここは事前のチェックからは外れていました。禅寺で、境内もきれいに整えられていて、気持ちの良いお寺でした。

Img_6704c_20220319175801 Img_6724c_20220319175801  その先に、庄野町集会所。ここは、沢田兵左衛門本陣跡であり、集会所の前には里程標があります。「距津市元標九里拾九町(約37.4㎞)」と刻まれています。ここにいらした女性から「お茶でもどうですか?」と呼び込まれました。温かい梅昆布茶を頂き、いろいろと話を伺っていたら、「庄野 寄っといで音頭」をつくったといって、生歌を聴かせていただき、さらにそれを収録したCDまで頂戴してきました。炭坑節の替え歌で、令和2年7月につくられたそうです。いらっしゃったのは、作詞者で唄を歌っておられるSさんでした。この集会所の周辺には、問屋場跡、高札場跡、郷会所跡などが並んでいます。

Img_6755c_20220319175801  真宗仏光寺派の常楽寺。ここは、ネット検索では情報はあまり出て来ません。現地でも、説明板などはありません。仏光寺派は、越後流罪に遭われた親鸞聖人が、赦免された翌年の建暦2(1212)年、京都に帰って、山科の地に草庵を結んだことに始まるそうです。末寺は約390といいます。

Img_6781c_20220319175901 Img_6802c_20220319175901  川俣神社とスダジイの大木。鈴鹿川の流域には、同じ名称の神社が6社あるといわれ、庄野にはそのうち3社があります。いずれも川の合流・分流点ですから、氾濫に悩まされた住民たちが治水を祈って建立したと思われます。由緒は、不詳ですが、江戸時代には貴船神社と称し、元禄16(1703)年に川東の門田より川西古屋敷(現在の字田中)に移つたといいます。「川俣神社のスダジイ(県天然記念物)」は、樹齢300年以上で、樹高約15m、幹周り約5m以上の巨木。川俣神社の先で、庄野宿の西の入り口を通ります。

Img_6858c_20220319175901 Img_6837c_20220319175901  汲川原町交差点で、県道643号の下をくぐります。このあたりで2㎞過ぎ。平野道道標が2.5㎞ほどのところにあります。平野は、鈴鹿川を挟んで対岸(南)の地名。この道標は、田中音吉が設けたもの。田中音吉は、実業家で、米穀・製茶業を営んでいたのですが、前橋や八王子の蚕糸業を視察し、明治20(1887)年、郷里の三重県鈴鹿郡亀山で製糸業を始めました。明治30(1897)年には、亀山共同社(のちの亀山製糸会社)を設立しています。さらに、ここを入ったところに「いぼとり地蔵」があるというので、これは見に行かねばなりません。いぼとり地蔵は、いぼと眼病に霊験あらたかという話です。いつ、どのようにして祀られるようになったかはふめいだそうですが、今も毎年8月には地蔵盆が行われています。

Img_6880c_20220319175901 Img_6904c_20220319175901  真宗本願寺派の富田山真福寺。ここについては、ネットで調べてもとくに情報は出て来ません。真福寺を過ぎると、神戸藩領界石があります。領界石は、東海道を挟んで両側にあります。北側には、山の神などもまつれているところがあります。

Img_6922c_20220319175901 Img_6949c_20220319175901  その向かいに女人堤防碑。汲川原(くみがわら)町の西端には、女性たちが死罪覚悟で築いたという伝説が語り継がれる女人(にょにん)堤防があります。ここは、鈴鹿川と安楽川の合流するあたりで、しばしば川の氾濫が起き人命が失われました。村人たちは堤防を築くことを神戸藩に願い出たものの許可されませんでした。そこで人々は、処罰覚悟で工事に踏み切ったのですが、村人の菊という女性が「工事にかかわった男たちは打ち首になり村は全滅する。私たち女だけで堤防をつくろう」と200人余の女性だけによって工事が行われたといいます。

Img_7040c_20220319175901Img_7016c_20220319175901  2つ目の川俣神社には、中冨田一里塚跡碑があります。ここ中冨田一里塚は、江戸・日本橋から100番目の一里塚です。榎の大木があったと伝わっています。中冨田村は、亀山藩領の東端。川俣神社の創始は不明。主祭神は、大毘古命

Img_7077c_20220319175901 Img_7097c_20220319175901  川俣神社の先にお寺が2つ。真宗高田派の清光寺。ここについて、詳しいことは分かりませんでした。小さなお寺でしたが、ちょうど法事か何かが行われていました。右の写真は、天台真盛宗の富光山常念寺。承応年間(1652~1654年)の開基と伝わり、当初は別の地にあったものの、安政の大地震で倒壊し、同じ村内にあって倒壊を免れた平建寺を買収して、現在地に移転したといいます。このあたりでスタートから3㎞、11時前。

Img_7138c_20220319175901 Img_7142c_20220319175901  少し歩いて、真宗高田派の福萬寺。文永11(1274)年の開創。天台宗に属していましたが、寛文元(1661)年、高田本山専修寺・第14世堯秀上人の化導により高田派に転向し、福萬寺と改めています。福萬寺の掲示板には、右のようなことばが書かれていました。なるほど「煩悩には、終わりがありませ」。

Img_7148c_20220319175901  福萬寺の先で道標「ひろせ道」。

Img_7173c_20220319180001  鈴鹿川の手前まで行ったところにも、Img_7163c_20220319175901 川俣神社。ここには、「無上冷水井跡」があります。織田信孝が神戸城主であった際、ここの水を好んだといいます。ここで11時20分頃、小休止。

Img_7216c_20220319180001  鈴鹿川を和泉橋でわたります。このあたり、旧東海道には土橋がかけられていたといいます。和泉公民館近くに弘法井戸があるという看板がありましたので、見てきました。建屋は新しいのですが、井戸自体は古そうでした。

Img_7220c_20220319180001 Img_7235c_20220319180001  弘法井戸の南には、またもや川俣神社。これで4社目。いずれも鈴鹿川と接していますから、水害などから守ってもらいたいという気持ちの表れでしょう。右は、和泉町公民館。われわれが馴染んだ昭和風そのものの公民館。この敷地には、地蔵尊があります。このあたりでスタートから約4.0㎞

Img_7277c Img_7280c_20220319180001  和泉西バス停の手前に道標2基。いずれにも「のゝぼり道」とありますが、両者とも半分以上埋まってしまっています。バス停の所に地蔵堂。

Img_7295c_20220319180001 Img_7302c_20220319180001  その先、地福寺の手前に明治天皇御小休所碑。明治13(1880)年7月13日に行われた陸軍大演習にいらっしゃったときのもの。かたわらには、古い和泉橋の親柱が保存されています。同じ敷地には、観音堂跡。

Img_7316c  こちらは地福寺。浄土宗のお寺。かつては七堂伽藍の大きな寺だったそうですが、信長の兵火で焼失し、延宝5(677)年に再建されています。

Img_7337c Img_7346c_20220319180001  県道641号線を越えて行くのですが、東海道は、この先で田舎道になります。昔ながらの街道なのですが、こんな風だったのかとか、ここを大名行列も通ったのかなどとも思います。

Img_7352c_20220319180101 Img_7396c_20220319180101  こんなところも通って、JR関西線の井田川踏切を越えると、今日のゴールにしていた井田川駅に至ります(右の写真)。取り敢えず、ここまでで7.3㎞。あちこち寄り道しましたので、案外たくさん歩いていました。12時30分に到着。名古屋行きの普通が出たばかりで、次は、13時29分発でしたから、昼食を食べに行くことに。

Img_7418c_20220319180101 Dsc_0028c  事前リサーチでは、井田川駅近くでは、国道1号線沿いのうどん屋さんか、すき家1国亀山店しかありませんでしたので、すき家へ。昨日あれこれ調べていて、クリーミーオニサラ牛丼と決めていました(微笑)。並盛りが¥550。お新香セット¥150をつけました。並盛りなのに、けっこうな量があり、満腹。

Img_7399c_20220319180101  再び井田川駅に戻って、歩いたのは7.9㎞。13時29分発の名古屋行き快速に乗車。快速になるのは、四日市駅から。桑名には、14時5分着、¥590。写真は、井田川駅前にある日本武尊像。日本武尊の墓とされる能褒野王塚古墳(のぼのおうつかこふん)がここから北へ約2㎞行ったところにあるのです。

Img_7456c_20220319180101  今日の歩数。19,000歩を越えました。現地で歩いたのが、7.9㎞。自宅から桑名駅往復が、2.2㎞で合計10.1㎞でした。本編は、また明日以降ボチボチを書きます。次回は、4月中旬以降。井田川駅から亀山まで歩きます。

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2022年2月11日 (金)

20220205東海道ウォーキング(日永の追分~加佐登)(その3)……石薬師宿に入り、北町地蔵堂、小澤本陣跡、佐佐木信綱記念館へ

220205toukaidouhinaga3  2月5日に行ってきた「東海道ウォーキング(日永の追分~加佐登)」の本編その3です。その2では、杖衝坂を登り、采女一里塚跡を見て、鈴鹿市に入り、自由が丘で懐かしい店で昼食を済ませました。その3では、いよいよ石薬師宿に入っていきます。北町地蔵堂、大木神社鳥居、小澤本陣跡、天野記念館とまずは進んで行きます。

Img_9269c_20220210102701Img_9277c  自由ヶ丘の先で国道1号線は南へ。旧東海道は、右(西)へ逸れて行きます。東海道が国道1号線から分かれたすぐ先には、「東海道 石薬師宿」の標柱や、東海道の案内板などがあります。また、ここ石薬師は、歌人・国文学者である佐佐木信綱の故郷。記念館もありますし、和歌で町おこしもされています。右の写真にあるように、「石薬師 信綱かるた道」が整備されています。1.8㎞の間に佐佐木信綱の短歌50首が掲示されています。

Img_9286c_20220205190201  そのすぐ先に北町地蔵堂。延命地蔵が祀られています。交通安全と家内安全を祈願すると霊験あらたかと書いてありました。石薬師宿の北の入り口に、旅の安全を願って立てられたと思われます。現在も、この附近の16軒の方々が地蔵講を結成していて、掃除、供花の奉仕をしているそうです。毎年8月24日には、地蔵盆も開かれています。

Img_9304c_20220205190201  6.6㎞地点に大木神社の鳥居があります。大木神社は、ここから西へ200mほど行ったところにあります。以前来た時もパスしてしまったのですが(2019年5月3日:20190420JRさわやかウォーキング「旧東海道 石薬師宿と鈴鹿「植木まつり」を訪ねて」へ(その1)……河曲駅をスタートし、田園地帯を抜け、石薬師宿へ、大木神社の鳥居、小澤本陣跡、天野記念館から佐佐木信綱記念館へ、土産とおやつをゲット)、今回もパス(苦笑)。神社のシイの森は、市の天然記念物で、一度は見たいと思いつつ、です。延喜式内社ですが、勧請の年代などは不詳。石薬師宿の鎮守の位置づけ。主祭神は、天照大神

Img_9312c_20220210111101 Img_9308c_20220210111101  大木神社を過ぎた東側におもしろいものを見つけました。民家の庭先に写真のようなものが飾られていたのです。「東海道 石薬師宿」とありますが、これ何と焼き物でできています。向かって左手の大きなものは、広重の描いた東海道五十三次「石薬師宿 石薬師寺」(保栄堂版)を焼き物で再現したもの。これには驚きました。中央にある小さなものは、同じく「四日市宿 三重川」。

Img_9320c_20220210111101 Img_9316c_20220210111601  反対の南側には、石薬師宿の旅籠などの場所を描いた「軒並図」が、やはり焼き物でつくられていました。ブルーの三角形があるところがたぶんこのお宅。見ると、「旅籠 富野屋新兵衛」とあります。ということは、ここのお宅は江戸時代は、旅籠を営んでおられたということ。

Img_9331c_20220205190201  駐在所を過ぎると右手(西側)に小澤本陣跡があります。現在は、町角博物館ともなっています。石薬師宿は、東海道五十三次の44番目の宿場ですが、宿場となったのは比較的新しく、元和2(1616)年です。幕命によって設立され、宿の名前は当時有名であった石薬師寺からとられています。小沢家が本陣を勤めたのですが、屋敷は現在よりも広かったようです。大名の名前が書かれた関札や、宿帳もたくさん残っているそうで、元禄の宿帳には、赤穂藩主・浅野内匠頭の名もあるそうですし、大岡越前守の名もあるといいます。徳川家光や、姫路城に行く千姫(家康の孫)も宿泊したとか。石薬師宿は、小高い台地にあり、小澤本陣の周りには高い松の木があったため、別名「松本陣」ともいわれたようです。

Img_9354c_20220210170801 Img_9362c_20220210170801  小澤本陣跡のすぐ先に天野記念館があります。ここは、本町集会所になっています。タイムレコーダーで名高いアマノ株式会社の創業者・天野修一(明治23(1890)~昭和51(1976)年)翁が、昭和39(1964)年に故郷である石薬師町本町のために建てたものです。 天野修一翁は鈴鹿市に奨学資金を寄贈して若人の育英に偉大な功績をあげています。前庭にある記念碑の「天野記念館」の文字は天野修一翁の揮毫によるもの。

220205toukaidouhinaga4  ここで詳しいコースマップはその4になります。石薬師小学校の南に佐佐木信綱記念館があります。石薬師小学校南の交差点を過ぎると、佐佐木家の菩提寺である浄福寺、その先の小さい交差点に道標と南町橋の親柱。さらに南に下り、国道1号線を越えると石薬師寺。古刹です。蒲冠者範頼之社、蒲桜を見て、石薬師一里塚跡へ。これで、この日見るべきところはコンプリート。

Img_9439c_20220205190201  「佐佐木信綱記念館」があります。ここには3年ほど前にも訪れています(2019年5月3日:20190420JRさわやかウォーキング「旧東海道 石薬師宿と鈴鹿「植木まつり」を訪ねて」へ(その1)……河曲駅をスタートし、田園地帯を抜け、石薬師宿へ、大木神社の鳥居、小澤本陣跡、天野記念館から佐佐木信綱記念館へ、土産とおやつをゲット)。佐佐木信綱資料館、佐佐木信綱生家、石薬師文庫、土蔵の4つを一体として、佐佐木信綱記念館となっています。左の写真は、資料館。ここは、佐佐木信綱博士の業績を顕彰するとともに、市民文化の向上と広く文学の研究に寄与するために設置されたもの。昭和61(1986)年に開館しました。佐々木家を始め、ゆかりのある方から寄贈、寄託を受けた品々の他、生家に保管されていた資料が収納、展示されています。遺愛品、御下賜品、書簡、原稿、書籍など多数があります。記念館は、佐佐木信綱顕彰会が鈴鹿市から委託されて運営しています。

 佐佐木信綱は、歌人・国文学者として業績を残していますが、明治5(1872)年 6月、現在の鈴鹿市石薬師町で生まれました。佐々木家は、代々医者・学者であったそうですが、祖父・徳綱は書家で武術にも秀で「東海道人物誌」に紹介されるほどであったといいます。また、父・佐々木弘綱は、本居宣長の流れを汲む伊勢の国学者・足代弘訓に学び、江戸から明治にかけて歌人・国学者として全国的に活躍し、門弟は1,600名に及んだともいわれています。信綱は、父の指導の下、満4歳の時万葉集、古今集、山家集の名歌を暗誦、5歳には孝経の素読をしたそうで、5歳のときにはすでに短歌を詠んでいます。

障子からのぞいてみればちらちらと雪のふる日に鶯がなく

 明治10(1877)年12月、父・弘綱が鈴屋社中から招請され、一家は松阪へ移住し(信綱は5歳)、信綱は翌年湊町小学校に入学しました。さらに、明治15(1882)、一家は上京。明治17(1884)年東京大学文学部古典科に12歳で入学し、同21(1888)年、16歳で卒業しています。卒業後は、宮仕えはしないという父の考えを継ぎ、生涯文筆生活でした。昭和38(1963)年12月、熱海市西山の凌寒荘にて没。享年91。石薬師には、もっと長く住んだと思い込んでいましたので、5歳で松坂に移ったというのは意外でした。

Img_9370c_20220210172601 Img_9393c_20220210172601  こちらは、石薬師文庫。昭和7(1932)年、信綱が還暦に当たって旧・石薬師村に寄附したもの。以前からあった土蔵(現存します)を文庫とし、写真に写っている建物が閲覧所として建設されました。伊勢国学に関する多くの版本や写本などを含む貴重な書籍が贈られました。現在は地域の図書館として、ボランティアによって運営されています。石薬師文庫の前には、佐佐木信綱・幸綱父子の歌碑と、里程標があります。歌碑には、信綱の「ふるさとの 鈴鹿の嶺呂の 秋の雲 あふぎつつ思ふ 父とありし日を」、また、孫の幸綱の「傾けて バイクを駆れる 群が行く 鈴鹿の山は 父祖のふるさと」という歌が刻まれています。里程標は、大正時代のもの。東面に「距 津市元標へ九里四町拾七間」とありました。南面にも「三重郡日永村大字泊へ壱里貳拾一町……」などと刻まれていましたが、敷地内で入れず、十分確認できませんでした。

Img_9382c_20220210173201  石薬師文庫のさらに右手には、「佐々木弘綱翁𦾔居之碑 右文庫 左井」という石碑がありました(「𦾔」は、私が詠んだもので間違っているかも知れません)。Img_9378c_20220210173601 閲覧所になっている建物の右手にも歌碑があります。信綱が石薬師文庫を寄贈するに当たって詠んだ歌が、刻まれています。「これのふぐら 良き文庫(ふぐら)たれ 故郷の 人のために 若人のために」とありました。歌碑は、没後二年祭(昭和40(1965)年)を期して郷人によって建てられました。

Img_9401c_20220205190201 Img_9414c_20220210172401  こちらは、佐佐木信綱の生家。資料館の北隣です。生家はここに昭和45(1970)年に移築されたといいます。庭には、信綱が使った産湯の井戸もありますし、石薬師文庫の書庫に使われている土蔵も残っていました。

D9abbc2c  私にとって佐佐木信綱は、歌人、国文学者というよりも、唱歌「夏は来ぬ」の作詞者としてのイメージが強くあります。「卯の花の 匂う垣根に 時鳥(ほととぎす) 早も来鳴きて 忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ」が浮かんでくるのです。「卯の花」は、ウツギ。記念館の敷地だけでなく、石薬師の町中には至る所に、この卯の花が植えられています。前回尋ねた時は、4月20日でしたが、記念館の玄関脇の日当たりのよいところでは、もう咲き始めていました。卯の花の季節にもう一度訪れてみたい気がします。写真は、2019年4月20日に佐佐木信綱記念館で撮影した卯の花(ウツギ)。

 思わず長くなりましたので、詳しいコースマップその4の途中ですが、その3はここまで。その4は、佐佐木家の菩提寺である浄福寺から。

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2022年2月10日 (木)

20220205東海道ウォーキング(日永の追分~加佐登)(その2)……杖衝坂で日本武尊や芭蕉に思いを馳せ、采女一里塚跡から鈴鹿に入り、自由が丘でランチ

220205toukaidouhinaga2  2月5日に行ってきた「東海道ウォーキング(日永の追分~加佐登)」の本編その2です。その1では、四日市あすなろう鉄道・追分駅をスタートし、寺めぐりをして内部川を越えました。采女の町を南に歩いて、金刀比羅宮に道中安全を祈願し、うつべ町かど博物館からいよいよ、この日のハイライトである「采女の杖衝坂」を登ります。ほぼ登り切るところに血塚社。その先は平坦な道になり、采女一里塚跡を過ぎ、坂上近くで国道1号線へ。ここが旧東海道になります。采女一里塚跡石碑を眺め、豊富稲荷神社へ。

Img_8993c_20220209195501  金刀比羅宮です。香川県 琴平町の象頭山にある金刀比羅宮から勧請されたものと思われますが、ネットで調べても、ガイドブックを見ても、とくに情報はありませんでした。金刀比羅宮の御祭神は、大物主神(大国主命の別名、実際は三輪氏の祖神です。蛇神、雷神でもあり、農耕神でもあります。三輪山の山の神で、大神(おおみわ)神社の祭神)と崇徳天皇(第75代の天皇 、在位は1123~41年)です。古来から農業・殖産・医薬・海上守護の神として信仰されていました。難所として知られる杖衝坂を登る前に、道中安全を祈願してきました。

Img_9001c_20220205190101  金刀比羅宮で左折するとすぐにうつべ町かど博物館があります。残念ながら、この日は閉館日。内部地区の歴史と文化をテーマに、四日市市が所蔵する貴重な埋蔵文化財(一時借用)と地域の皆さんから提供いただいた建物施設や資料を基につくり上げた手づくり博物館です。私は、令和2(2019)年3月2日に近鉄ハイキングで訪ねました(2019年3月9日:20190302近鉄ハイキング「ふるさとの味と春風を感じて悲劇の千奈美姫に想いを馳せる 四日市うつべのヤマトタケル・芭蕉の足跡を体感!」へ(その3)……普賢菩薩、采女八幡社、内部地区市民センター、うつべ町かど博物館から杖衝坂、芭蕉句碑、血塚社を経て内部駅へゴール(完)【スタンプを追加(3/9)】)。

Img_9018c_20220209062501  さぁ、これからいよいよ「杖衝坂」を登っていきます。金刀比羅宮の手前で標高は19m(キョリ測によるデータ)。このあと参拝する血塚社のところで同じく41mになります。高低差は20mあまり、勾配は21度あるとか(こちら)。坂の上までの距離約100mで、東海道の道筋の中でも急坂となっているとか(こちら)。大正末期、この坂を自動車が登り切れないので、坂の下の民家の牛の力を借りて登ったというエピソードが残されているとか。ここは、日本武尊伝説地の一つにして、三重県では地名由来の説話として関係しています。日本武尊が、東国平定の帰途、伊吹山で荒ぶる神の祟りを受け、病にとりつかれてしまいます。大和に帰るため、伊勢国に入り、三重郡采女村あたりまで来たとき、急坂を杖をついてようやく登れたので、その坂を「杖衝坂」と言ったというのです。さらに、少し進んだとき、「吾か足三重の勾なして、いたく疲れたり」と言い、その地を「三重」と言うようになったとも伝えられています。これが、三重郡の由来。そして、亀山の能褒野にたどり着いたところで亡くなったので御陵をつくると、日本武尊は、大きな白鳥と化して、大和をめざして飛び去っていったというお話です。同級生K氏ともども、気合いを入れて行きます。

Img_9021c Img_9037c_20220209202501  坂を少し登ったところに「史蹟 杖衝坂」の石碑、芭蕉の句碑、井戸2つと永代常夜灯があります。杖衝坂の石碑は昭和4(1929)年3月に建てられています。松尾芭蕉は、貞享4(1687)年に江戸から伊賀に帰る途中、ここを馬に乗って超えようとしたものの、落馬したとか。そこで一句、「歩行(かち)ならば 杖つき坂を 落馬かな」。季語のない有名な句です。句碑は、宝暦6(1756)年、村田鵤州が杖衝坂の中ほどにこの句碑を建てています。明治の初期、坂ノ下の屋敷の庭園に移されたのですが、その後、所有者の厚志により再びもとの地に移設されています。ちなみに、「芳野紀行」には「荷鞍うちかへて馬より落ちぬ」とあり、苦笑して即吟一句を成したといいます。

Img_9062c_20220209203201  永代常夜灯は、文化8(1811)年の建立。この常夜灯の脇(向かって左。左の写真にわずかに写っています)と、右にある芭蕉句碑の脇に井戸があります。坂の上手にあるのが「弘法の井戸」、下手(常夜灯の脇)のものを「大日の井戸」といいます。前者は、水に困っていた村人に弘法大師が杖で指し示したところを掘ったところ清水が湧き出したと伝わっています。後者は、坂の中腹にあった大日堂に備える閼伽水(あかみず;仏に供える水)を汲んだ井戸といいます。

Img_9073c_20220205190101 Img_9077c_20220209204001  さらに坂を登らねばなりません(苦笑)。杖衝坂を登り切ったところの東側に「血塚社(ちづかしゃ)」があるのです。鳥居の奥にある血塚の祠は日本武尊の血で染まった石を集めて葬ったとも、日本武尊が出血した足を洗い流したところとも伝えられています。承応年間(1652~54)の創建。

Img_9086c_20220209204101 Img_9103c_20220205190101  余談ですが、江戸時代には、この血塚社の前に、名物の饅頭屋があったといいます。坂を登って来たら、ここで一息つきたくなります。その気持ちはよく分かります。血塚社の先は、標高40~50mほどで日当たりがよいためか、あちこちで梅がよく咲いていました。

Img_9107c  スタートから3.5㎞の手前、西側に更地の広場があり、そこに「東海道一〇一番目の采女一里塚跡」という説明板がありました。「采女一里塚跡石碑」は、この先、国道1号線の西にあるガソリンスタンドのところにあるはず、不思議だなと思って説明を読んで納得。采女の一里塚は、本来、このあたりにあったのです。戦後しばらく土盛した上に木柱が建っていたのですが、昭和30~40年代にかけて行われた国道1号線の拡張工事で姿を消しています。その後、昭和62(1987)年、郷土の文化遺産を残そうという地元・釆女町の取り組みに、地元企業が敷地と費用を提供して、国道1号線を挟んだ反対側、約100mのところに石碑を建てたそうです。つまりこの説明板がある辺りが、本来の采女一里塚跡です。

Img_9132c_20220205190201 Img_9124c_20220210092501  この説明板の先で、東海道は国道1号線と合流します。その西側にガソリンスタンドがあり、敷地の西の端にその「采女一里塚跡石碑」があります。ちなみに、四日市市内には、右の写真のような、分かりやすい「東海道案内板」が掲げられています。右の写真では、四日市宿、日永、小古曽、采女の地名や、主な名所、距離、現在地が表示されています。桑名でもこういう分かりやすい標識を立てて欲しいと、いつも思っています。

Img_9139c_20220205190201 Img_9146c_20220205190201  4㎞あたりに豊富稲荷神社。神社検索(三重)のサイトによれば、万延2(1861)年、伏見稲荷神社(京都)のから宇迦之御魂神の分霊を請い、創祀されています。旧釆女村杖突坂の上に鎮座したところから、旧号を杖突稲荷大明神とも称し、後に豊富稲荷神社と改称しています。別に文筆の守神として、乗馬天満宮(菅公)、ならびに目の神として平景清公を祭っています。菅原道真といえば、牛なのですが、Wikipediaを見ると「乗馬を好み、通勤は馬でおこない、讃岐での遠出や右近の馬場での桜狩りなど、趣味でも馬を走らせていたという。のちに、天神乗りという騎乗法が伝わり、馬術の師として祀られることになる」とありました。そのための「乗馬天満宮」なのでしょう。はよく分かりません。また、平景清は、各地で眼病の神として祀られているようです(たとえば、こちら)。また、眼病を患っていたとき目を清めたという井戸があったり、戦がもとで負傷した目が悪化し、旅の途中で目を清めるための名水を求め、ある井戸の水で目を洗ったところ、体中の疲れが取れ爽快な気分になり、さらに洗うと痛みも治まったりしたという話があるようです(こちら)。余談。豊富稲荷神社の近くには、参勤交代の大名を旅人が迎えた「土下座場」があったそうだと「ホントに歩く東海道」に書かれていました。

Img_9178c_20220205190201 220205toukaidouhinaga3  このあと、国道1号線&東海道は、四日市と鈴鹿の境目を歩いて行きますが、国分町交差点のところで、鈴鹿市に入ります。詳細なコースマップは、この辺からその3になります。鈴鹿市に入る頃、11時。延命地蔵尊を拝んで、ちょっと早いのですが、ゴールのJR関西線加佐登駅あたりに昼食を摂るところがありませんので、この道を下りきった自由が丘で昼食を摂り、石薬師宿に入っていきます。宿場の入り口に北町地蔵堂があり、その先で大木神社鳥居、小澤本陣跡、天野記念館と続きます。

Img_9185c_20220210095801 Img_9190c_20220205190201  国分町交差点で旧東海道は左に入っていきます。すぐに5㎞地点となり、そこに延命地蔵尊があります。旧道に入ってすぐ、左の写真のようにきれいに整えられた木々が見え、その向こうに延命地蔵尊と、単直庵という庵が並んでいます。右の写真で、向かって右が延命地蔵尊。左の小堂には、『単直庵』の扁額がかかって、阿弥陀仏が祀られています。由緒その他は、不明。

Img_9199c_20220210095801  単直庵の堂脇に天保12(184Img_9212c_20220210100601 1)年に建立された「南無阿弥陀仏名号碑」が建っています。これもそれ以外の由緒は不明。その先の東海道は、人も車も少なく、静かで長閑な道が続いています。

Img_9215c_20220210100601 Img_9226c_20220210100601  昔のホーロー看板がそのままたくさん残っている古い家があったり、ロウバイが見事に咲いているお宅があったりして、退屈はしません。

Img_9237c_20220210100601 Img_9245c_20220210100901  再び国道1号線に出るのですが、国道1号線を地下通路で横断して西側へ。鈴鹿市内も、左の写真のように、旧東海道の案内板は、充実しています。西側は、自由が丘という地名。古くから(私が、国立療養所S病院で働いていた、今から40数年前にはありました)住宅団地。

Img_9253c_20220210101201 Img_9261c_20220210101201  このあたりで11時15分。予定通り、昼食にしました。このあたりには、食事処が何店かあり、その昔、けっこう頻繁に通ったり、出前を取ったりしていて、私にとってはちょっとしたセンチメンタル・ジャーニー(微笑)。レストランミヤコ(左の写真)、レストランスオーとんてきの来来憲(右の写真、奥)など馴染みの店が今も健在で、嬉しいやら、懐かしいやら。

Img_9249c_20220205190201 Dsc_6310c  今回は、レストランミヤコで、日替わりランチ、¥990。魚のフライ、ミートボール、牛肉の煮物と、昔ながらの幕の内弁当。

 詳しいコースマップその3の途中ですが、昼ご飯も食べ、お腹も満たされましたので、その2はここまで。その3では、石薬師宿、佐佐木信綱記念館などを巡ります。

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2022年2月 5日 (土)

20220205東海道ウォーキング(日永の追分~加佐登)(予告編)

Img_8756c  一部では、今日は雪が降って、東海道ウォーキングには行けなかったのではないかと期待されたかも知れませんが(?)、それには反して、四日市・日永の追分から杖衝坂を上り、石薬師宿を通って、庄野宿の手前の鈴鹿・加佐登まで東海道を歩いてこられました。桑名のアメダスデータでは、最低気温は0.5℃、最高気温は7.0℃。時おりかなり雪が降っていたようですが、現地では、雪が北西の風によってたまに流れてきたくらいで、おおむね好天でした。昨年は、同級生K氏と、17回に分けて桑名・七里の渡し跡から伊勢神宮・内宮まで歩いて参拝しました(2022年1月5日:2021年「東海道・伊勢街道歩いて伊勢参りツアー」のまとめ)。「今年はどうしようか?」と考えた結果が、まずは、四日市の日永の追分から関宿あたりまで東海道を歩こうということでした。私自身、この区間は通して歩いたことがありません(部分的には歩いていますが)。この東海道ウォーキングも、同級生K氏と二人旅。

220205toukaidouhinaga  今日は、その東海道ウォーキングの第1回。このマップのように四日市あすなろう鉄道・追分駅から、JR関西線・加佐登駅まで、10.4㎞を歩いてきました。

Img_8787c_20220205190101 Img_8783c_20220205190101  桑名駅を8時22分に出る伊勢中川行き急行に乗車。近鉄四日市駅で下車。¥300。四日市あすなろう鉄道の8時59分に出る普通・内部行きに乗り替え(冒頭の写真の電車)。追分駅には、9時12分に到着。¥270。写真が、追分駅。前にも載せましたが、だまし絵が書かれていて、こにゅうどうくんが飛び出して見えます。

Img_8800c_20220205190101 Img_8791c_20220205190101  9時15分過ぎにスタート。こちらの写真は、追分駅を出て、旧東海道に入っていくあたり。電車は空いていましたし、今日は街道歩きをするような酔狂な方には出会わず(苦笑)。右の写真は、最初の立ち寄り先である大蓮寺。当町南面に土岐代康氏が居城し、その跡に八幡宮を勧請し、祈願所を米田山珠寳法鎮寺と号しました。当初は真言宗でしたが、寛正元(1460)年真宗高田派に改めています。慶作の本尊阿弥陀如来立像を安置しています。

Img_8821c_20220205190101  Img_8874c_20220205190101 そのすぐ先に観音寺。珍しく黄檗宗のお寺。ご本尊は、千手観音です。山門は、四脚門形式となっていて、その上には「マカラ」が乗っています。マカラは、鯱状の煉瓦。観音寺のすぐ南に路地があり、そこには小許曽(おごそ)神社の一の鳥居があり、参道が西に向かって続いていますが、今日は、参拝はパス。以前、近鉄ハイキングで訪ねています(2019年3月2日:20190302近鉄ハイキング「ふるさとの味と春風を感じて悲劇の千奈美姫に想いを馳せる 四日市うつべのヤマトタケル・芭蕉の足跡を体感!」へ(予告編)……歩きも歩いたり、15.6㎞)。

Img_8912c_20220205190101  小許曽神社の一の鳥居の先で東海道は右折、左折を繰り返し、願誓寺の前に出ます。真宗高田派真言宗であったのが、真宗高田派に改修しています。ご本尊である阿弥陀仏は、寺伝では、聖徳太子作といいます。この寺の前に服部泰次郎による小さい道標が2基あるというのですが、見つかりませんでした。道路の改修が行われていましたので、そのためかもかも知れません。

Img_8930c_20220205190101 Img_8967c_20220205200601  内部川に出ます。この川は、伊勢参りツアーのときも、伊勢街道の方で渡っています。橋を渡って、国道1号線から逸れ、左に入っていって、旧東海道に進みます。右の写真で前方に見える小高い丘を登っていくはず。

Img_9018c_20220205190101 Img_9001c_20220205190101  杖衝坂の手前に「うつべ町かど博物館」があるのですが、あいにく今日は休館日でした。右の写真が、うつべ町かど博物館の前から見た杖衝坂。日本武尊(やまとたけるのみこと)が伊吹山の荒神を討伐しての帰途、疲れて杖をついて歩いたと伝えられる所。古事記には、『吾足如三重勾而甚疲』(わがあしは みえのまがりのごとくして はなはだつかれたり= 私の足が三重に折れ曲がってしまったように、ひどく疲れた)といいます。

Img_9021c Img_9073c_20220205190101  坂を途中まで登ったところに、「杖衝坂」の石柱や、芭蕉句碑があります。芭蕉は、ここで落馬していて、「歩行(かち)ならば 杖つき坂を 落馬かな」と詠んでいます。坂をほぼ登り切ったところの東側に血塚社。日本武尊が流した血に染まった石を集め、社を祀ったと云います。

Img_9094c_20220205190101 Img_9103c_20220205190101  このあたりからは標高50mほど。日当たり良好で、あちこちで梅がかなり咲いていました。写真は割愛しますが、ロウバイも見事な花が咲いているところがありました。

Img_9107c Img_9132c_20220205190201  国道1号線でいうと、「坂の下」あたりに「采女一里塚跡」の説明がありました。戦後しばらくは土盛した上に木柱が立っていたのですが、昭和30~40年代の国道1号線の拡幅工事にともない、姿を消しています。その後、国道1号線沿いに石碑が建てられました(右の写真)。江戸からは、101里。

Img_9146c_20220205190201 Img_9139c_20220205190201  豊富稲荷神社。創建は、寛治2(1088)年。万延2(1861)年、京都の伏見稲荷から稲荷社を勧請しています。

Img_9178c_20220205190201 Img_9190c_20220205190201  豊富稲荷神社を出てしばらく行くと、鈴鹿市に入ります。このあたり、旧東海道は、ほぼ国道1号線に沿っています。国分町交差点に延命地蔵尊があります。隣(向かって左)には、単直庵。

Img_9249c_20220205190201 Dsc_6310c  今日のゴールとしたJR関西線・加佐登駅あたりは昼食を食べられるところがありませんので、鈴鹿市自由ヶ丘あたりで昼食にしました。11時15分過ぎにレストランミヤコへ。ここ、実は私が、最初の勤務先である国立療養所S病院にいた頃、何度も昼食などを食べに来た店。この近くにあるレストランスオーや、来来憲(とんてきで有名)にも来ていました。いわば、ちょっとしたセンチメンタルジャーニー(微笑)。今日は、日替わりランチ、¥990。

Img_9286c_20220205190201 Img_9304c_20220205190201  12時頃再スタート。左の写真は、石薬師宿の入り口にある北町地蔵堂。しばらく進むと、大木神社の鳥居。ここから西に大木神社があります。大木神社は、式内社で宿場の鎮守という神社。

Img_9331c_20220205190201  その先に小澤本陣跡。石薬師宿は、さほど大きな宿場ではありませんでしたが、かなりの有名人がここ小澤本陣には泊まっています。忠臣蔵で有名な浅野内匠頭、大岡裁きの大岡越前守、江戸幕府の基礎を築いた徳川家光などの名前が、保存されている宿帳にあるそうです。千姫(家康の孫)が姫路城に行く際に宿泊したこともあります。

Img_9439c_20220205190201 Img_9401c_20220205190201  石薬師小学校のところには、佐佐木信綱記念館とその生家が移築されています。佐佐木信綱は、石薬師に生まれた歌人であり、国文学者として有名です。この記念館は、第1回の文化勲章をはじめ、信綱の著作や遺品を展示する資料館となっています。となりにある生家は、昭和45(1970)年に移築され記念館として開館したところ。現在の記念館は、昭和61(1986)年に完成しています。佐佐木信綱といえば、私には万葉学者の他、「夏は来ぬ」の作詞者というイメージがあります。記念館の内外には、この歌に出てくる卯の花(ウツギ)が、たくさん植えられています。

Img_9470c_20220205190201  佐佐木信綱記念館から石薬師小学校交差点を挟んだところに真宗高田派の浄福寺があります。ここは、佐佐木家の菩提寺。山門の前の石の築山の上に信綱の父・弘綱の記念碑と、信綱の孫・幸綱の歌碑が建っています。開基は、室町時代の永正年間(1504~1520年)と伝わっています。

Img_9595c_20220205190301 Img_9539c_20220205190201  東海道をさらに進み、国道1号線を瑠璃光橋で超えると、高富山(たかとみざん)石薬師寺があります。石薬師寺は、真言宗東寺派のお寺。ご本尊は、弘法大師自らが、一夜にして爪で刻んだとされている薬師如来像。秘仏になっていて毎年12月20日のおすす取りに合わせて、開扉されます。寺伝によれば、神亀3(726)年、泰澄(奈良時代の山岳修験者。加賀国白山を開創したと伝えられる)が、当地で巨石の出現を見、薬師如来の示現と悟り、草庵を設け供養したことが開創とされています。その後、弘仁3(812)年、空海(弘法大師)が、巨石に薬師如来を刻み開眼法要を行い、人々の信仰を集めたことにより、嵯峨天皇(在位809~823年)は勅願寺とし、荘厳な寺院を建立し、名を高富山西福寺瑠璃光院と称していたといいます。

Img_9629c_20220205190301  石薬師寺の東には、「蒲冠者範頼之社(かばのかんじゃのりよりのやしろ)」があります。範頼は、源範頼(みなもとののりより)で、義朝の第6子、頼朝の弟。遠江国蒲御厨(がまのみくりや)で成長したので蒲冠者と称したといいます。頼朝の命令で、弟・義経とともに西国への遠征隊の総指揮官となりました。学問武芸に秀で、願望成就の神として信仰されています。ここは、御曹子社(おんぞうししゃ)ともいうようで、大木神社の境外末社です。なお、左の写真で鳥居に向かって右に写っているのは、スダジイの大木。地上1.5m程で大きく2幹に分かれており、幹周を実測すると7.15mあったそうです(ここを参照)。鳥居の脇に「蒲桜」への案内があります。

Img_9652c_20220205190301 Img_9658c_20220205190301  こちらが、蒲桜(かばざくら)。三重県指定天然記念物。寿永年間(1182~84年)の頃、蒲冠者源範頼が平家追討のため、西へ向かう途中、石薬師寺に詣でて武運を祈願し、戦運を占うため鞭にしていた桜の枝を地面に逆さに挿して、「我が願い叶いなば、汝地に生きよ」と言って去ったのち、生長したのがこの蒲桜であるという言い伝えがあります。このため、「逆桜」ともいうようです。ヤマザクラの変種の一つ。蒲桜の近くでは、菜の花が満開でした。黄色が目に鮮やか。

Img_9679c_20220205190301  石薬師寺の山門前に戻って、東海道を下って300mほど行くと、蒲川に差し掛かります。ここは石薬師の集落が終わるあたり。蒲川橋の向こうに榎の大木が見えてきますが、ここが石薬師一里塚跡。江戸・日本橋からは102里(約399㎞)。かつては東海道の両側に榎が植えられていたのですが、榎は伊勢湾台風で折れたといいます。その後、昭和52(1977)年に、南側に榎の若木を植え、「史跡石薬師の一里塚跡」の碑が建てられました。

Img_9723c_20220205190301 Img_9767c_20220205190301  東海道は、この石薬師一里塚跡から左へ(西へ)折れ、JR関西線の下をくぐって、庄野宿へ向かいます。写真は、関西線の下をくぐったところ。これが東海道とは、ちょっと考えにくいような景色です。この先では、国道1号線をくぐり椎山川の橋を渡る等して、再び国道1号線に出ます。今日の東海道ウォーキングは、国道加佐登のバス停の先にある加佐登町交差点まで。

Img_9797c_20220205190301  加佐登町交差点で1号線を離れ、鈴鹿市加佐登の町に向かいます。14時頃、今日のゴールであるJR関西線加佐登駅に到着。このあたりは、私が青春時代を過ごしたところ。ここは、上述のように最初の勤務先である国立療養所S病院の最寄り駅なのです。今を去ること43年ほど前、御師T先生とともにこの駅に降りて、初めてS病院に向かったのです。あの頃は、「とんでもない田舎に来てしまった」と思った記憶があります。加佐登駅を14時34分に出る快速名古屋行きに乗車。桑名には、15時6分着。¥510。快速列車ですが、四日市までは各駅停車。四日市を出ると快速で、桑名に止まると次が名古屋。

Img_9835c  今日は、現地で10.4㎞、拙宅から桑名駅往復が2.2㎞を歩き、合計12.6㎞とかなり歩いてきました。歩数は、ご覧のように、23,218歩。久しぶりに2万歩を超えました。今日のところは予告編ですので、また、追々本編を書いていきます。

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2022年1月 8日 (土)

2021勝手にハイキング記録

 令和3(2021)年も、新型コロナウィルス感染症の蔓延で、近鉄ハイキングやJRさわやかウォーキングはなかなか開催されませんでした。「歩きの虫」と「歴史散歩の虫」がウズウズして堪りませんでしたので、「勝手にハイキング」を8回開催しました。開催というと大げさですが、何ごともそれなりの名前をつけた方がそれらしくなるのです。この記事は、2021年の「勝手にハイキング」のまとめです。実際には、「勝手にハイキング」は4月までとなりましたが、4月9日からは、「東海道・伊勢街道歩いて伊勢参りツアー」を始めたのがその理由。すなわち、「東海道・伊勢街道歩いて伊勢参りツアー」は、「勝手にハイキング」の発展バージョンなのです。

1.2021年2月1日:駅西散歩

2021年2月1日:20210201勝手に養老鉄道ハイキング「桑名駅西歴史散歩」(予告編)

2021年2月3日:20210201勝手に養老鉄道ハイキング「桑名駅西歴史散歩」(その1)……播磨を出発して北別所神明社、高塚山古墳に登るつもりがリタイア、式部泉を通って土佛山聖衆寺へ

2021年2月4日:20210201勝手に養老鉄道ハイキング「桑名駅西歴史散歩」(その2)……秋葉三尺膨大権現、尾畑山城跡、立坂神社旧蹟から円妙寺墓地で松平定良公墓所へ

2021年2月5日:20210201勝手に養老鉄道ハイキング「桑名駅西歴史散歩」(その3)……円妙寺、照源寺から専明寺まで

2021年2月6日:20210201勝手に養老鉄道ハイキング「桑名駅西歴史散歩」(その4)……尾野神社を経て、やっと養老鉄道播磨駅にゴールで「完」

39514a4c 50e82f1c  下調べはしていたものの、日程的には、ほぼ思いつきで出かけてきました。「養老鉄道ハイキング」となったのは、結果論。「くわな史跡巡り」の122~125ページにある「駅西コース:照源寺コース」を参考に、次のようなコースで、現地では6.5㎞を歩きました。播磨郵便局あたりから岸西山の西を通って南下。県道142号線を越えて、北別所神明社、北別所中世墓、高塚第三公園、高塚山古墳(途中で断念)、式部泉あたり、土佛山聖衆寺(右の写真)、立坂神社𦾔跡、円妙寺墓地、大福田寺、円妙寺、東海山照源寺、専明寺、尾野神社と回って、養老鉄道播磨駅にゴール。播磨駅で10分待つと桑名駅行きの電車がありましたので、ここで初めて「勝手に養老鉄道ハイキング」となった次第。桑名駅から自宅が1.2㎞で、合計7.7㎞。歩数は、16,091歩。電車賃は、1駅で¥160。

2.2021年2月6日:桑名の八風街道を行く(能部から志知へ)

2021年2月6日:20210206桑名の八風街道を行く(能部から志知へ)(予告編)

2021年2月8日:20210206桑名の八風街道を行く(能部から志知へ)その1……能部神社、平田御薗神明社、浄光寺、島田城跡

2021年2月9日:20210206桑名の八風街道を行く(能部から志知へ)その2……善教寺、櫛田神社、野村増右衛門の墓から平群神社へ

2021年2月10日:20210206桑名の八風街道を行く(能部から志知へ)その3……揚げ雲雀の鳴き声を聞きながら連敬寺、景清屋敷跡、久米まちづくり拠点施設で「完」

567e5bde 3ed98974  令和2(2020)年12月19日に出かけた「2020年12月19日:20201219桑名の八風街道を行く(東金井から能部へ)」の続きで、桑名の八風街道を、東金井から能部まで歩きました。本来の八風街道は、四日市市富田一色を起点として東海道と交差し、大矢知、平津を経て菰野町田光で巡見道と合流、八風峠を越える道です。桑名では、町屋川右岸の街道を八風街道を呼びます(くわな史跡めぐり)。これは、町屋川右岸の道が田光付近で四日市からの八風道と交わるからとも、桑名の道が昔は八風道と呼ばれていたからと、諸説があります。桑名の八風街道は、桑名市東金井から志知まで約7㎞あります。この日は、桑名西高校行きの八風バスで能部まで行き、能部神社へ。本来の八風道は、能部バス停から西へ行き、赤尾交差点と進みますが、能部神社からそのまま正和台の団地を通り抜け、平田御薗神明社、浄興寺を回って、八風道に戻り、ゼニス羽田のところで島田城跡を眺め、善教寺、櫛田神社、野村増右衛門の墓、久米小学校前から平群神社(右の写真)、平群沢溜池公園、連敬寺、景清屋敷跡まで足を伸ばして、ゴールは久米まちづくり拠点施設。ここにある平群神社前のバス停から八風バスで、桑名駅前まで戻って来ました。現地で歩いたのは、6.5㎞ほど。バス代は、往復で¥760。同級生K氏と二人旅。昼食は、桑名駅コンコースにある伊勢ノ国ダイニングSicili(シチリ)で「とろアジフライランチ(税込み¥980)」。

3.2021年2月27日:美濃街道再び(川口町~下深谷)

2021年2月27日:20210227勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道再び(川口町~下深谷)」(完)

1f7f86ca B331f5af  新型コロナウィルス感染症によって、JRさわやかウォーキングや、近鉄ハイキングが軒並み中止となったため、「勝手に養老鉄道ハイキング」を企画し、桑名の美濃街道を歩きました(20200301勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道を歩く」(川口町~下深谷)(予告編)20200306勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道を歩く」(下深谷~多度)(予告編))。今回、同級生K氏と、昨年と同じルートをもう一度辿ることとし、この日は、川口町から下深谷までを歩いてきました。美濃街道は、七里の渡しから東海道を南へ160mほど下ったところ、川口町と江戸町の間の三叉路が起点となります。ここを9時にスタートし、三崎見附跡、北桑名神社、八丁畷と福島縄手の追分、参宮通、西浄寺、上之輪神社(中江城跡)から、深谷に入って南楽寺、角の地蔵、深江神社、西林寺(北廻城跡)、飛鳥寺と進み、養老鉄道下深谷駅に12時過ぎにゴール。下深谷駅から桑名駅まで養老鉄道で2駅、¥260。昼食は、桑名駅近くの「とんかつ銀座」で「トンカツランチ(¥1,000)」。右の写真は、飛鳥寺からの眺め。

4.2021年3月14日:美濃街道再び(下深谷~多度)

2021年2月27日:2021年3月14日:20210314勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道再び(下深谷~多度)」(完)

9e765b38 Ca665e0a  今回も同級生K氏と二人旅。養老鉄道下深谷駅を9時頃にスタートし、安養寺、法光寺、森大明神社、明光寺、大淀松跡、徳蓮寺(秋篠宮殿下もいらっしゃったお寺)、野志里神社(右の写真)、舟着社、西田家住宅(ここは、前回、コースミスをして見逃したところ)、尾津神社(戸津)、尾津神社(小山)と回って、養老鉄道多度駅に12時45分頃ゴール。現地で歩いたのは、7.9㎞。養老鉄道の電車賃は、往復で¥570。昼食は、桑名駅に戻ってからでしたが、ランチ営業をしているところが少なく、危うくランチ難民になりそうでした。結局、サンファーレにある「なないろ珈琲」で「牛すじカレーランチ」。サラダ、ドリンク付きで¥980。歩数は、20,970歩。

5.2021年3月20日:諸戸水道・駅西を行く

2021年3月20日:20210320勝手にハイキング「諸戸水道・駅西を行く」(予告編)

2021年3月21日:20210320勝手にハイキング「諸戸水道・駅西を行く」……その1(桑名駅東口から徳成農園跡へ)

2021年3月22日:20210320勝手にハイキング「諸戸水道・駅西を行く」……その2(走井山公園、勧学寺から冷水庵へ)【上野神社について追記しました(3/29)】

2021年3月23日:20210320勝手にハイキング「諸戸水道・駅西を行く」……その3(南大山田神社から海善寺を経て桑名駅西口にゴールで「完」)

53ef2622 E2deaea0  「くわな史跡巡り」にあった「諸戸水道・駅西コース」を参考に、“勝手にハイキング「諸戸水道・駅西を行く」”として歩いてきました。スタート&ゴールは桑名駅に設定。桑名駅東口を7時35分に歩き始め、桑名神明社、諸戸水道水源井、養泉寺、諸戸水道貯水池遺構(右の写真)、長禅寺、徳成農園跡、走井山公園・勧学寺、上野御膳水、上野神社、上野墓地、冷水庵、南大山田神社、太夫の大楠、増田神社、西桑名神社、西方城址、西方寺、西方廃寺跡、海善寺と回り、桑名駅西口には10時半に到着。その後、アピタの新光堂によって文庫本を2冊購入して帰宅。現地で歩いたのは、7.2㎞。自宅から桑名駅往復が、3.1㎞でしたので、今日歩いたのは、10.3㎞。歩数は、18,877歩。

6.2021年3月23日:浪漫の明治村

2021年3月23日:20210323勝手にハイキング「浪漫の明治村へ」

1fa50462 B75e0a99  博物館明治村へ行ってきました。天気もよく、風もほとんどなく、絶好のハイキング日和。新型コロナウィルス感染症が蔓延しており、そんなところへ行って大丈夫かという気もしましたが、クルマで往復。明治村は、屋外施設がほとんど。しかも、空いており、3密はほとんどなしという状況でした。実は、令和2年10月7日に「桑名城惣構ツアー」をご案内したとき(「桑名城惣構ツアー」とバードウォッチング少々……キンクロハジロ飛来、サメビタキ(?)も)、その御礼として、明治村の招待券(2021年3月末まで有効)をいただいており、行くチャンスを窺っていたのです。左の写真は、明治村正門。旧制八高の正門を移したもの(旧制八高は、私の母校の前身なので、親しみがあるのです)。右の写真は、聖ザビエル天主堂

848afbb2 F288250b  ちなみに、この日の昼ご飯は、カレーパン。家内が予め調べて、これに決めていたのです。それ故、他に選択の余地は与えられませんでした(微苦笑)。「食道楽のカレーぱん」というもの。1個¥300なり。明治時代にベストセラーになった小説「食道楽(しょくどうらく/くいどうらく)」(村井弦斎による)で紹介している材料・調理法をもとに再現・アレンジしたカレーの入ったカレーぱんだそうです。この日は、明治154年3月23日だそうでした。明治村で歩いた距離は、測定不能。歩数は、13,900歩でした。たぶん7~8㎞を歩いたと思います。

7.2021年3月31日:西別所・蓮華寺を行く

2021年3月31日:20210331“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”(予告編)

2021年4月1日:20210331“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”(その1)……西別所駅をスタートして、延寿院、万機庵跡、照林寺、員弁街道から西別所の八幡神社へ

2021年4月2日:20210331“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”(その2)……山神社、蓮花寺、白山神社・蓮花寺西城跡、蓮華寺東城跡、宇賀神社、宇賀遺跡

2021年4月3日:20210331“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”(その3)……額田神社(増田)、額田神社旧跡、源流寺、額田神社(額田)を経て北勢線在良駅にゴール(完)

89d643c5  陽気もよく、桜も満開のもと、この日は、“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”というテーマで歩いてきました。「くわな史跡めぐり」を参考に自分でコースを組み立てました。三岐鉄道北勢線で西別所駅まで行き、8時半から歩き始め、延寿院、万機庵跡、照林寺、八幡神社と回り、西別所城跡を見るつもりが忘れて、蓮花寺に入りました。山神社、蓮花寺、白山神社、宇賀公園、宇賀神社、さらに増田に行き、増田の額田神社、源流寺、そして、額田神社の氏子の方に教えていただいて額田神社旧跡を訪ねました(増田集会所)。これで在良駅にゴールするつもりでしたが、氏子の方に額田神社(本社)の話も聞きましたので、そちらまで足を延ばし、北勢線在良駅には11時10分ころ到着。ました。現地で7.6㎞を歩き、自宅から西桑名駅までの往復が2.3㎞で、合計9.9㎞。電車賃は往復で¥400。

8.2021年4月22日:長島漫歩

2021年4月22日:20210422勝手に近鉄名古屋線ハイキング「長島漫歩」(予告編)……水辺のやすらぎパークでボタンを楽しむ他

2021年4月23日:20210422勝手に近鉄名古屋線ハイキング「長島漫歩」(その1)……光岳寺、花林院、正敬寺から長島城跡へ

2021年4月24日:20210422勝手に近鉄名古屋線ハイキング「長島漫歩」(その2)……稲荷阿岐波神社、道標、長島水辺のやすらぎパークから花市場に立ち寄り、そのまま歩いて伊勢大橋を渡り「完」

72b0e018  水辺のやすらぎパークにある牡丹園を見に行こうというのが、第一の目的で「長島漫歩」に行ってきました。近鉄で長島駅まで行き、9時55分から歩き始め、光岳寺、花林院、正敬寺と寺を回ったあと、長島城跡である長島中学校、長島中部小学校のところを通り、長島川遊歩道を下って、稲荷阿岐波神社から、水辺のやすらぎパークへ。長島幼稚園のところからなばなの里にある花市場に立ち寄って来ました。河口堰はパス。近鉄長島駅に戻って電車で帰るつもりが、国道1号線の伊勢大橋東詰交差点でこのまま歩いて帰った方が早い、と思い直し、伊勢大橋を渡って帰宅。長島駅から自宅までが7.5㎞。自宅から桑名駅までが1.1㎞で、合計8.6㎞の散歩でした。歩数は、15,273歩。桑名駅から近鉄長島駅まで、普通電車で乗車時間はわずかに4分、料金は210円。

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