地蔵

2023年1月22日 (日)

20230121美濃街道ウォーキング「多度から石津」(その1)……多度駅をスタートし、空念寺と宇賀神社へ【空念寺について追記(1/29)】

 1月21日に行ってきた美濃街道ウォーキング「多度から石津」の本編その1です。一般に美濃街道とは、尾張の東海道宮宿と美濃の中山道垂井宿をつなぐ脇街道のことをいいますが(こちらは「美濃路」とも呼ばれています)、江戸時代には、桑名から長良川に沿って美濃へと通じる街道を美濃街道と呼んでいました。美濃街道は、すでに桑名から多度までは歩きましたが、その先は未踏(2021年2月27日:20210227勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道再び(川口町~下深谷)」(完)、2021年3月14日:20210314勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道再び(下深谷~多度)」(完))。同級生K氏と話し合い、今年は、美濃街道で養老まで行き、そこから養老街道、美濃路を経て大垣まで歩こうということになり、今日がその第1回。桑名市多度町から海津市石津町までを歩いてきました。今回は、その予告編。なお、美濃街道は、美濃国では伊勢街道あるいは桑名街道と呼ばれたようです。

Tado0  こちらは歩いたコースの全体図。養老鉄道多度駅から石津駅まで、現地で歩いたのは、7.8㎞ほど。多度川にかかるみどり橋まではこれまでに歩きましたから、ここが実際にはスタート地点。空念寺、宇賀神社、柚井遺跡、八幡神社、御鍬神社、願超寺から山除川沿いを北上。子安・延命地蔵尊、天白神社と周り、石津駅の手前で杉生神社に立ち寄ってゴール。

Img_9026c_20230121184601 Img_9015c_20230122062701  桑名駅を8時45分に出る大垣行きに乗車。今日のスタートである養老鉄道多度駅には、8時58分着。¥310。そういえば同級生K氏が最初に近鉄ハイキングに行ったのは、この駅から細川酒造を訪ねるハイキングでした(2020年1月26日:20200126近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 細川酒造の銘酒『上げ馬』と多度大社・追儺祭」へ……祝ご当選!でめでたく「完」)。

Tado1  詳しいコースマップその1。多度駅の来たから小山の尾津神社の前を経てみどり橋へ。もちろん江戸時代には、橋はかかっていません。ここまで前回(2021年3月14日)、来ていますので、ここがこの日の実際のスタート地点。橋を渡って養老鉄道の高架をくぐって空念寺。西に向かい、いったん美濃街道からはずれ、宇賀神社にお参り。街道に戻って北上。NTN多度製作所の先で美濃街道は左折していきます。

Img_9042c_20230121184701 Img_9045c_20230121184701  多度川にかかるみどり橋です。三重県では「みえの歴史街道」というサイトがあり、県内の街道についての詳しい情報があります。多度までは美濃街道の詳しい情報がありますが、多度から先はいろいろと調べたものの、美濃街道についての情報はネットではあまり載っていません。岐阜県に入ってからのルートを特定するのにもかなり苦労しました。また、たとえば「美濃街道(美濃国での伊勢街道)を歩いた」というブログにも行き当たりませんでした。その意味では、美濃街道(伊勢街道)を歩くのは、かなりオリジナリティが高いかも知れません。

Img_9075c_20230122064101 Img_9072c  養老鉄道の高架をくぐって空念寺に向かうところにこのような立派な長屋門のあるお宅がありました。前回の美濃街道ウォーキングで見てきた西田家住宅に似た作りのお屋敷です(2021年3月14日:20210314勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道再び(下深谷~多度)」(完))。西田家は、戸津村の庄屋を代々世襲されたお宅です。こちらもそういうお宅かと思うのですが、詳細は不明。多度町内、あちこちのお宅でロウバイがよく咲いていました。

Img_9096c_20230121184701 Img_9089c_20230121184701  般若山空念寺。真宗大谷派のお寺。元来は天台宗の聖徳山空然寺として多度山中にあったという伝承を持つといいます。山中より当地に下りて後、顕如上人により浄土真宗に改宗して現在に続いています。本堂余間に蓮如上人の木像を奉安しています。また、外陣狭間には中国の二十四孝(24の孝行話)の故事を題材にした装飾彫刻(江戸時代)を掲げるそうです。

Img_9093  空念寺で目を引いたのは、本堂に向かって右手にある建物(書院でしょうか)の2階部分。左の写真で中央に写っています。花頭窓(火灯窓とも)があります。長島の願證寺(真宗本願寺派)でも同じものを見ています(2022年12月26日:20221223長島ウォーキング(本編その2)……正敬寺、花林院、善明寺、蓮生寺、明治の東海道道標、又木神明社、願證寺、深行寺から水辺のやすらぎパーク・旧久我屋敷へ)。

Img_9099  空念寺の先で美濃街道は右折して、北に向かいます。そこに宇賀神社の一の鳥居。ここは、多度山への登山口の一つにもなっています。オレンジ色の看板に「入り口 多度山上公園/自然教室・水郷展望ハイキングコース」と大書されています。一昨年10月、多度山に登ったときも、ここから入って行きました(2020年10月14日:20201014勝手に養老鉄道ハイキング「多度山に登ろう」)。

Img_9131c_20230121184701 一の鳥居から西へ200mほど行くと、宇賀神社があります。美濃街道からは少しはずれますが、立ち寄っていきます。元々は、有力者を祀っていたのが、後に農耕神として宇迦之御魂神を祀るようになったといわれています。正面にはシイの巨木群があります。主祭神は、宇賀御魂神。相殿神は、大山津見神火之迦具土神、火之夜芸速男神、火之炫毘古神(以上の2神は、火之迦具土神に同じ)、表筒男神、中筒男神、底筒男神(以上の3神は、いわゆる住吉大神)、大己貴命少彦名命。住吉大神が祀られているということは、このあたり、昔は舟運で栄えたのかも知れません。

Img_9109c_20230121184701  古くは「天田社」といい、天田はあがたの訛ではないかとされています。「県の神」として農耕神を祀り五穀豊熟を祈つた社ではなかったかと推測されるのです。延喜式内社で明治43(1910)年、境内、区内の神々を合祀し、現在の宇賀神社となっています。大正年間に村社より郷社に昇格したのですが、遠く、仁寿元(851)年すでに神階正六位に叙せられています。農事、山と火の安全、舟便、医薬の神として崇められているといいます。地元では、「椎の宮さん」と呼ばれているそうです。

Img_9109c_20230122072801 Img_9121c_20230122072801  ちなみに、正面にシイの巨木群があります。拝殿の前にも、ご覧のように巨木が立っています。教育委員会による「シイの巨樹からなる宇賀神社の森」という説明板もありました。

Img_9135c_20230121184701 Img_9140c_20230121184701  宇賀神社の近くで、白梅が咲き始めていました。日当たりのよいところです。右の写真は、宇賀神社から美濃街道に戻ったあたり。これからこの北の方角に歩いて行きます。その1は、ここまで。その2は、柚井遺跡から。

【追記(1/29)】空念寺で興味を持った建物(書院?の2階部分)は、形としては、太鼓楼に似ています。真宗系のお寺にはよくあるそうです。

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2023年1月21日 (土)

20230121美濃街道ウォーキング「多度から石津」(予告編)

 気温は8.7℃と低く、風も強かったものの、天候には恵まれましたので、予定通り、美濃街道ウォーキング(多度~石津)に行ってきました。一般に美濃街道とは、尾張の東海道宮宿と美濃の中山道垂井宿をつなぐ脇街道のことをいいますが(こちらは「美濃路」とも呼ばれています)、江戸時代には、桑名から長良川に沿って美濃へと通じる街道を美濃街道と呼んでいました。美濃街道は、すでに桑名から多度までは歩きましたが、その先は未踏。同級生K氏と話し合い、今年は、美濃街道から養老街道、美濃路を経て大垣まで歩こうということになり、今日がその第1回。桑名市多度町から海津市石津町までを歩いてきました。今回は、その予告編。なお、美濃街道は、美濃国では伊勢街道あるいは桑名街道と呼ばれたようです。

Tado0  こちらが今日歩いたコース。養老鉄道多度駅から石津駅まで、現地で歩いたのは、7.8㎞ほど。多度川にかかるみどり橋まではこれまでに歩きましたから、ここが実際にはスタート地点。空念寺、宇賀神社、柚井遺跡、八幡神社、御鍬神社、願超寺から山除川沿いを北上。子安・延命地蔵尊、天白神社と周り、石津駅の手前で杉生神社に立ち寄ってゴール。

Img_9026c_20230121184601  桑名駅を8時45分に出る大垣行きに乗車。今日のスタートである養老鉄道多度駅には、8時58分着。¥310。そういえば同級生K氏が最初に近鉄ハイキングに行ったのは、この駅から細川酒造を訪ねるハイキングでした(2020年1月26日:20200126近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 細川酒造の銘酒『上げ馬』と多度大社・追儺祭」へ……祝ご当選!でめでたく「完」)。

Img_9042c_20230121184701 Img_9045c_20230121184701  多度川にかかるみどり橋です。以前、桑名から多度まで美濃街道を歩いたときのゴールがここでした。三重県では「みえの歴史街道」というサイトがあり、県内の街道についての詳しい情報があります。多度までは美濃街道の詳しい情報がありますが、多度から先はいろいろと調べたものの、美濃街道についての情報はネットではあまり載っていません。「美濃街道(美濃国での伊勢街道)を歩いた」というブログにも行き当たりませんでした。

Img_9089c_20230121184701 Img_9096c_20230121184701  多度川を越えてまずは、般若山空念寺。真宗大谷派のお寺。元来は天台宗の聖徳山空然寺として多度山中にあったという伝承を持つといいます。山中より当地に下りて後、浄土真宗に改宗して現在に続いています。本堂余間に蓮如上人の木像を奉安しています。また、外陣狭間には中国の二十四孝(24の孝行話)の故事を題材にした装飾彫刻(江戸時代)を掲げるそうですが、それは見られません。

Img_9131c_20230121184701 Img_9109c_20230121184701  空念寺の西には宇賀神社。多度山登山口に位置します。2020年に多度山に登ったとき、参拝しています(2020年10月14日:20201014勝手に養老鉄道ハイキング「多度山に登ろう」)。創祀並に由緒については不詳。式内社。濃尾平野を見下ろすあたりにあります。主祭神は、宇賀御魂神。相殿神は、大山津見神、火之迦具土神、火之夜芸速男神、火之炫毘古神(以上の2神は、火之迦具土神に同じ)、表筒男神、中筒男神、底筒男神(以上の3神は、いわゆる住吉大神)、大己貴命、少彦名命。正面にシイの巨木群があります。

Img_9135c_20230121184701 Img_9140c_20230121184701  宇賀神社の東で、白梅が咲いていました。日当たりのよいところ。右の写真は、宇賀神社から美濃街道に戻ったあたり。これからこの方角に歩いて行きます。

Img_9156c_20230121184701  NTNの多度製作所の先に柚井遺跡。昭和3(1928)年耕地整理の際、木簡が出土しています。確か日本で最初に見つかった木簡だったと思います「萬」「福」などの吉祥句を書いた墨書土器も多く、近隣の多度神社及び多度山と関係する祭祀品一括と考えられています。材質は杉材と思われ、上端と下端に切り込みをもつ典型的な付札木簡で、「櫻樹郷守部春□□□籾一斛」の墨書あるそうです。この向こうに伊勢国と美濃国の国境を示す石柱があるそうですが、わかりにくそうなのでパス。

Img_9160c_20230121184701 Img_9164c_20230121184701  この先で道が二股に分かれています。向かって左が美濃街道。グーグルのストリートビューで予習したとき、細い道でけっこう雑草が繁っているのを見たのですが、何とか行けそうでしたのでそちらに進みます。すぐのところには紅梅も咲いていて、気楽に歩いていたのですが……。

Img_9180c_20230121184801 Img_9192c  その先で、とんでもないことに(爆)。勝手に同級生K氏を登場させましたが、「ブッシュ・ウォーキング」でした。200mあまりでしたが、最近はほとんど人が通っていないような印象でした。右はここを通り抜けたあと、振り返ってみた写真。トゲのあるつる性の植物も多くて、まさに難儀しました。

Img_9229c_20230121184801 Img_9246c_20230121184901  柚井遺跡の先で県境を越え、岐阜県に入ります。岐阜に入ってすぐ、八幡神社。ご祭神は、応神天皇。創立は不詳であるものの、300年以上前と考えられています。ここで小休止。

Img_9261c_20230121184901 Img_9264c_20230121184901  八幡神社から坂道を上り、本日の最高地点を過ぎると、御鍬神社に至るのですが、そこから東の眺望が素晴らしい。今日の最高地点で、「キョリ測」によれば、標高約45mほど。木曽御嶽山や、名古屋駅前の高層ビル群がよく見えます。

Img_9287c_20230121184801  御鍬神社です。Img_9284c_20230121184801 元は、松山村下組の氏神だったのですが、ここのすぐ北にある諏訪神社が創立されたときに創立されたといいます。右の写真にあるように、神亀元(724)年、聖武天皇が養老に行幸されたとき、天皇の御後にが安産なさったことに由来するといいます(ただし、聖武天皇が養老に行幸されたのが史実かどうかは、不明)。本編を書くまでにもう少し調べることにします。

Img_9317c_20230121184801 Img_9331c_20230121184801  御鍬神社から東に下ると、松壽山願超寺。真宗大谷派のお寺。ここもいろいろとネットで調べたものの、詳しいことは分かりませんでした。

Img_9320c_20230121184801  願超寺の境内に咲いていたロウバイ。今日歩いたコースのあちこちでロウバイが咲いていました。この寒い時期、花が少ないので、ロウバイの花は目を楽しませてくれます。

Img_9335c_20230121184901 Img_9368c_20230121184901  願超寺からすぐに山除川沿いに進みます。なんと読むのかと思ったら、途中、右のような看板があり、「やまよけがわ」と判明。先ほど触れた諏訪神社に大楠があったのですが、通り過ぎてしまい、戻るとしたら500m。ちょっとなぁということで、断念。

Img_9343c_20230121202701  養老鉄道美濃松山駅の西を通って、地蔵尊。「子安・延命地蔵尊」とあります。傍らに「四国第十九番札所立江寺延命・子安地蔵尊」という石碑が建っています。立江寺は、四国八十八箇所巡りの19番札所。ここから勧請したものなのだろうと思います。

Img_9400c_20230121184901  山除川は、ところどころで護岸が昔のままの土でした。いい感じです。川には、カルガモ、キンクロハジロ、オカヨシガモなどたくさんのカモがあちこちにいましたし、同級生K氏はカワセミが飛んでいたといいます。

Img_9375c_20230121184901 Img_9393c_20230121184901  6㎞を過ぎて、天白神社。ご祭神は、天白神。創立は不詳ですが、社殿にある棟札には「宝永4(1707)年6月22日奉造営天白大明神」とあり、これ以前に創立されたと考えられます。一説には、三重県員弁郡藤原から遷したといいます。

Img_9410c Img_9414c_20230121203701  この先で国道258号線を横断します。太田交差点。その手前に左の標識。桑名からは16㎞、大垣までは23㎞。大垣までも、けっこう近いなというのが、この標識を見たときの印象。

Img_9431c_20230121184901 Img_9453c_20230121184901  石津駅の手前に杉生(すぎお)神社。御祭神は、須佐之男命。創建年月は不詳ですが、この郷は元多芸郡河戸庄太田郷と称し、建久元(1190)年当時上野河戸に居を構えた平家の士河戸七郎が社殿を造営したといいます。

Img_9478c_20230121184901  境内には摂社末社もいくつかありました。こちらは、「柑橘翁伊藤東太夫碑」。明治10(1877)年、みかん苗木200本余りを和歌山より購入し、南濃みかん栽培の基礎を作ったのが、伊藤東太夫で、その業績を讃える石碑。大正9(1920年)地元有志により、杉生神社境内に建立されたものです。

Img_9515c_20230121184901  境内にはケヤキの大木があり、ご神木になっています。岐阜県天然記念物にも指定されています。樹齢800年以上といい、樹高約25m、根元幹周囲約6.2m。余談ですが、杉生神社にお参りするには、養老鉄道の踏切を渡っていかなければなりません。養老鉄道沿線の寺社には、こういうところがたくさんあります。寺社があるところに鉄道を後から通したということです。

Img_9556c_20230121205001 Img_9527c_20230121185001  養老鉄道石津駅には12時半少し前にゴール。多度駅からは2駅。7.8㎞を3時間あまりで歩いた計算(途中、八幡神社で小休止しましたから)。12時34分発の桑名行き普通に乗車。桑名には、12時58分着。¥420。

Img_9578c_20230121185001 Dsc_6985c  今日は途中、食堂も、コンビニも1軒もないルートでした。昼食は、桑名に着いてから。何回か行った目利きの銀次に行こうと思ったら、営業していません。そこで、桑名一番街にあるエンシュウヤで、日替わりランチ。¥750。

Screenshot_20230121141025c  Google Fitによる今日のトータルの歩行距離と歩数。11.9㎞は、過大評価のような気もします。歩数は、18,773歩ですが、「からだメイト」で見ると20,000歩を超えていました。今日のハイライトは、「ブッシュ・ウォーキング」だなぁと同級生K氏と話していました。本編はまたボチボチ書きます。

 

 

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2022年12月10日 (土)

20221210近鉄ハイキング「青木酒造の銘酒『米宗』を訪ねて(酒蔵みてある記)」(1回完結)

Img_5387c_20221210144901  若干迷っていたのですが、結局、今日は、近鉄ハイキング「青木酒造の銘酒『米宗(こめそう)』を訪ねて」に行ってきました。今日は、朝は4.9℃と冷えたものの、風も弱く暖かく、歩いていて汗ばんだくらいでした。桑名での最高気温は、15℃を超えています。近鉄ハイキングでは、3年ぶりに「酒蔵みてある記」が復活し、今日がその初回。これはやはり行くしかありません。

Img_5225c_20221210144801 Img_5221c_20221210144801  受付は、近鉄名古屋線弥富駅で9時30分からでしたので、桑名駅を9時21分に出る名古屋行き普通電車に乗車。弥富には、9時29分に到着。¥260。酒蔵みてある記ではよくあることですが、すでに受付は始まっていました。No.72の番号が附されたコースマップを受け取り、早速スタートします。

221210map  こちらが今日、歩いたルート。弥富駅を出て途中、薬師寺、難畑地蔵尊、興善寺地蔵に立ち寄り、東名阪自動車道を越えて、愛西市へ。青木酒造で試飲、抽選会、即売会。その後は、ひたすら弥富駅に戻るコースですが、帰り道に源空寺と聖覚寺にちょっとだけ寄ってきました。前回(2018年12月9日:20181209近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 青木酒造の銘酒「米宗」をたずねて」へ(予告編)……いよいよ「酒蔵みてある記」の季節到来)、試飲のし過ぎもあってか、コースミスをしでかしましたが、今日は完璧(微苦笑)。

Img_5287c_20221210144801 Img_5280c_20221210144801  最初の立ち寄り先は、鯏浦山薬師寺。スタートから約1.4㎞。ここは、曹洞宗のお寺ですが、かつて織田信長が築いた鯏浦城と呼ばれる砦がありました。このあたりに勢力を持つ一向門徒・服部党(服部友貞が当主)を攻めるためです。信長の弟・信興が城主となったのですが、元亀元(1570)年、小木江城で戦死。怒った信長は大軍を送って、天正2(1574)年、ことごとく焼き尽くしたといいます。鯏浦城には信興の念持仏薬師如来を安置する御堂があり、それがこの薬師寺の前身です。右は、境内にある「鯏浦城跡」の石碑(昭和51(1976)年に建立)。この辺りは、昔は海岸線であり、荷之上集落とともに自然堤防上に立地し、蟹江城と並んで中世期城砦の最南に位置しており、織田が服部党に対峙する拠点だったのでしょう。

Img_5262c_20221210144801 Img_5266c_20221210144801  境内には、また、クスノキの大木があり、「薬師寺の大楠」として親しまれています。この大楠は、樹齢600年以上といわれます。かつてこの付近が海岸線だったことから磯部の楠として有名だったそうです。人々は、この楠の葉を薬として用い病を治したといわれ、 また一説には豊臣秀吉が舟をつないだとも伝えられています。樹下には小祠神明社が祀られ参拝者が跡を絶たなかったようですが、明治時代に弥富神杜に合祀されています。織田信長と一向門徒・服部党との戦いは、後の長島一向一揆にもつながるものです。

Img_5296c_20221210144801 Img_5306c  続いて、難畑地蔵尊。このお地蔵様は、織田信長と服部党・一向門徒との戦場となり多くの犠牲者を供養するために建立されたもので、もとは、この場所ではなく、この東にある東弥生台団地の一角にあったそうです。信長に一面焼き払われた「鯏浦下の割」古戦場は、その後、その後人骨や武具、矢刀などが掘り出され、耕作しようとしても大変難儀に合うことがあり、難畑と呼ばれていました。そのうちに遺骨などを集めて、地蔵尊を祀りました。明治になって、ある時、農家の娘が眼病になり、地蔵尊が「我を中地道の人通りに移してくれたらお前の眼病を治してやる」とその娘の夢枕にたったといいます。村人十数人が、そのとおり、中地道の傍らにお堂を建立し、道行く人にお参りさせたら娘の眼病はたちどころに治ったという言い伝えがあります。これは、前回来た時にボランティアガイドの方に伺った話。

Img_5316c_20221210144901 Img_5324c_20221210144901  西中地の交差点を左折し、東名阪自動車道弥富インターチェンジの方に向かいます。インターの手前に興善寺地蔵。このあたりは、「白頭(しらこうべ)」といい、蓮如上人の孫にあたる実正を養子に迎えたほどの由緒ある寺「荷上山(がじょうざん)興善寺」がありました。寺伝によると、桓武天皇の勅願で延暦14(796)年に創建されたといます。元は天台宗でしたが、永正年間(1504~1521年)に浄土真宗に改めています。信長の時代に長島の願證寺と組んで一揆を起こし、天正2(1574)年に焼き払われたものの、直ちに復興。しかし 寛永4(1627)年の大地震で倒壊し 清州に移転し、さらに名古屋に移りました。廃跡となったその後、白頭池からこの2体の石仏が掘り出され、「興善寺の地蔵」として、服部肇家と斎藤光男家が先代より代々この墓地に安置してきました。昭和51(1976)年に弥富の文化財に指定を受けてからは荷之上区が管理しています。弥富市に残るもっとも古い石仏だそうです。ちなみに、ネットで調べると、名古屋市中区新栄に真宗本願寺派の興善寺という寺があります。

Img_5364c_20221210144901   東名阪自動車道をくぐり、田園地帯に入って、多度山を遠くに見ながら進みます。4年前に同じコースのハイキングに来た日は、寒くて、多度山など養老山脈には雪が積もっていたのですが、今日は、初めにも書きましたように、暖かい。ネックウォーマーは、歩き始めてすぐに外したくらい。ダウンジャケットでなくてもよかったかもしれません。

Img_5380c_20221210144901 Img_5383c_20221210144901  スタートから4.4㎞ほど、10時25分くらいに青木酒造に到着。青木酒造さん、創業は江戸後期である文化2(1805)年。こちらに「蔵元のこだわり」がありますが、濃厚で強い酒、本醸造以上のお酒を製造し、酒母は山廃仕込(山卸廃止仕込み)、生酛仕込(山卸仕込み)をメインとしています。

Img_5392c_20221210152401 Img_5399c_20221210152501  まずは、抽選会場でチェック。勇んでいったものの、敢えなく敗退。前回も外れましたので、これで連敗です(苦笑)。1番違いの71番であれば、近鉄クリアファイルがもらえたのに。

Img_5406c_20221210144901 Img_5402c_20221210144901  続いて、試飲へ。純米初しぼりの「純米米宗」をいただきました。辛口で、トロッとした印象のお酒。美味い! 前回は、このほか、「活性手汲みどぶ 純米酒」や梅酒など、計4杯も試飲しましたが、そのあとコースミスをしましたので、今日は、この1杯だけ。ホントです。

Img_5410c_20221210144901 Img_5413c_20221210153101  即売会では、試飲した「純米米宗」の720mmlを1本買ってきました。4年前は、1本¥1,300でしたが、今回は¥1,600。たまにはちょっと贅沢をしても罰は当たらないでしょう。時節柄、敷地内での飲食は不可ですし、キッチンカーなども来ていませんでしたので、サッサと出て来ました。来年2月4日(土)にも酒蔵開放があるそうです。

Img_5438c_20221210144901  青木酒造から東へ300mほどのところに、稱名山源空寺。浄土宗のお寺。前回も勝手に立ち寄ったのですが、由緒などを記した看板もなく、ネットで検索しても何も出て来ませんでした。クスノキでしょうか、大木が印象的です。源空寺の先、2本目の交差点を曲がるのが正しいルート。前回は、なぜか「ここは違うな」と思い込んで、もう1本先まで行ってしまったのですが、今日は試飲も控え目にし、ストリートビューでも予習してきましたので、バッチリ(微苦笑)。

Img_5455c_20221210144901 Img_5459c_20221210144901  曲がったすぐのところに真宗大谷派の金剛山聖覚寺。ここも詳しいことは分かりませんでしたが、田園地帯にあり、自然環境のよいお寺。山門が、長屋門のような立派な門であるのが印象的でした。

Img_5513c_20221210145001  このあとは立ち寄るところはありません。途中からは、往きに通ったのと同じ道をたどって、近鉄弥富駅へ。11時20分頃到着。一回りしてきた訳ですが、歩いたのは7.9㎞。時間は2時間弱。ハイ・スピード・ハイキング(笑)。立ち寄り先が少なく、立ち寄ったところでも見て回る事もありませんでした。酒蔵も宴会ができませんでしたから、こんなもの。弥富まで電車で来て、酒蔵へ歩いて酒を買いに行ったという感じ。

Img_5534c_20221210154601 Img_5566c_20221210145001  弥富駅11時24分発の四日市行き準急に乗車。桑名駅には11時32分着。¥260。帰宅は、11時50分。朝、家を出たのが8時55分頃でしたから、全行程含めて、3時間。歩いた距離は、Google Fitのデータではトータルで11.7㎞。ちょっと実際よりも多い気がします。

Img_5508c_20221210145001  余談その1。前回の記事にも書きました。前回来た時「鯏」という漢字が読めませんでした。「ウグイ」です。ウグイは淡水魚ですが、昔このあたりにたくさんいたということかもしれません。

Img_5543c_20221210145001  余談その2。帰りに桑名駅に着いて、自由通路から三岐鉄道北勢線西桑名駅を眺めたら、「ヴィアティン三重」ペインティングの車両が止まっていました。この車両、きちんと撮影したことがありませんでした。急いで行ったのですが、発車直後になってしまい残念。来年3月末日まで運行されますから(こちら)、それまでの間にぜひ、きちんと撮影したいものです。

1670636005718c  こちらは、今日の晩酌にでもいただこうかと思っています(微笑)。

 【付記【12/10夜】 これは美味しい(微笑)。試飲のところで書いたとおり、辛口でトロッとしていて、堪りません。酒蔵のこだわり通り、濃くて強い酒。ついつい飲み過ぎそうです。ここはグッと我慢。明日以降にも残しておきます。

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2022年10月30日 (日)

20221029JRさわやかウォーキング「伊勢鉄道線開業35周年記念 歴史と文化に触れる鈴鹿市を再発見!」(その1)……関西線河曲駅をスタートし、鈴鹿市考古博物館、伊勢国分寺跡、冨士山1号古墳、高岡山中央公園から高岡城跡へ

221029jrwalkingkawanoc  10月29日のJRさわやかウォーキング「伊勢鉄道線開業35周年記念 歴史と文化に触れる鈴鹿市を再発見!」の本編その1です。この日は、よく晴れて、桑名では最高気温は22.0℃。ウォーキング日和でした。「伊勢鉄道線開業35周年記念 歴史と文化に触れる鈴鹿市を再発見!」に行ってきました。JR関西線河曲(かわの)駅から伊勢鉄道鈴鹿駅まで、コースマップ上、9.8㎞。JRさわやかウォーキングは、5月以来(2022年5月22日:20220522JRさわやかウォーキング・近鉄ハイキング共同企画「四日市けいりんバンク特別開放と四日市の鉄道・バスグッズマルシェ第2弾!!」(完))。

Kawano0  この日実際に歩いたルートマップは、こちら。河曲駅から鈴鹿市考古博物館、伊勢国分寺跡、冨士山1号古墳、高岡山中央公園、高岡城跡、常夜灯、神戸の見附跡、観音寺、龍光寺、神戸宗社、神戸城跡と回ってきました。長丁場でしたからなるべく寄り道はしないでおこうと思ったものの、ついつい好奇心から3箇所ほど寄り道をしてきました。そのため、キョリ測で調べると、現地では11.3㎞を歩きました。今回も同級生K氏と二人旅。

Img_3055c_20221029172801 Img_3037c_20221029173701  JR桑名駅を8時14分に出る亀山行き普通電車に乗車。河曲駅には8時46分に到着。¥420。その昔、鈴鹿で働いていましたが、当時は、このあたりには来たことなし。河曲駅に来たのは、2019年4月20日にあったJRさわやかウォーキング以来(20190420JRさわやかウォーキング「旧東海道 石薬師宿と鈴鹿「植木まつり」を訪ねて」へ(予告編))。昭和3(1928)年に木田信号場として開設。昭和24年(1949)年に鈴鹿駅に格上げされたものの、昭和45(1970)年には無人駅になってしまいました。市街地から遠いのが難点。昭和48(1973)年、伊勢鉄道伊勢線の開業のとき、河曲駅に改称しています。ということは、この日は、旧鈴鹿駅から現鈴鹿駅まで歩いたということ(微笑)。2019年のデータでは、1日の乗降者数は322人。この数値からすると、この日は大賑わい。

Kawano1  こちらが、詳しいルートマップその1。河曲駅は、鈴鹿川にほど近いところにあります。ぐるっと回って関西線の踏切を越え、ほぼ北に進みます。鈴鹿市考古博物館、伊勢国分寺跡を回ってから東へ。

Img_3068c_20221030162801 Img_3074c_20221030163101  スタート看板をいつものように撮影したのですが、チェックを怠り、ピンボケ写真でした(涙)。スタートは8時50分。左はスタート直後の西の方の写真。奥に見える山並みは、鈴鹿山脈。その手前にある大きな建物あたりは、今年2月5日の東海道ウォーキング(0220205東海道ウォーキング(日永の追分~加佐登)(予告編))で通った石薬師宿の北側あたり。右の写真は、400mあまり歩いて、木田の町に入ったところにあった看板。笑えました。

Img_3077c_20221030163201 Img_3081c_20221030163301  しばらく左の写真のようなところを歩いて行きます。昔からある町のようで、ゆったりとした気分。ただし、微妙に登り道(苦笑)。お地蔵さんもありましたが、よほど有名なものでなければ、その由緒などは分からないのが、残念。このあと1㎞ほど、上り坂。

Img_3106c_20221029172801  スタートから1.7㎞、ほぼずっと登ってきて、鈴鹿市考古博物館に至ります。国史跡伊勢国分寺跡の南に隣接して建てられた考古学を専門とする博物館です。市内から出土した土器・石器・瓦などを保管・展示しています。

Img_3103c_20221029172801  12月18日まで「秋季特別展『国分寺』」が開催されています。全国の国分寺の発掘調査成果、出土品、整備状況などが、資料の展示や写真パネルで紹介されています。この日は、伊勢国分寺まつりが行われるということで無料開放されていました。

Img_3109c_20221029172801  こちらが伊勢国分寺跡。奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、伊勢国国分僧寺の寺院跡です。三重県北部、鈴鹿川左岸の段丘台地上に位置しており、付近では、古代東海道およびその河曲駅家の存在も推定されています。寺域は大正11(1922)年に国の史跡に指定されました。この日は、伊勢国分寺まつり。10時からということで、まだ準備中でした。

Img_3118c_20221029172801  復元されている建物は、この「南東隅建物」のみでした。2棟の掘立柱建物が、並列して南北に9mの間隔で、伽藍地の南東隅に収まるように建てられていたといいます。身舎(もや)の規模は、東西15m×南北6m。身舎は、物置小屋、離れなどのようです。

Img_3122c_20221029172801  伊勢国分寺跡から西を見ると、御在所岳がよく見えました。標高1,212m。頂上の気象レーダーのドームや、御在所ロープウェイの「6号鉄塔」と呼ばれる白い鉄塔もよく見えます。標高約943m地点に建つ御在所ロープウエイの支柱です。高さは61mあり、いまなお「日本一」の規模を誇っています。

Img_3135c_20221029172801 Img_3142c_20221030170101  伊勢国分寺跡からは東へ進みます。このあたりは初めて来たところで、土地勘はありません。地図と案内標識にしたがってひたすら歩いて行きます。伊勢国分寺跡から東へ1㎞ほど歩いたところ、菅原神社しだれ梅で有名)の南付近で、変わったところを見つけました。気になって近寄ってよく見たら「冨士山1号古墳」とありました。全長54mの墳丘に敷き詰めたふき石や、祭祀が行われた場「造り出し」の一部が出土したそうです。古墳は「大鹿(おおか)の大塚」と呼ばれ、地元は「古事記」「日本書紀」に記された古代豪族、大鹿氏の本拠地との説があるといいます。5世紀終わりごろに築かれたとみられ、前方後円墳の前方部が小さい「帆立て貝式」と分かっています(こちらに中日新聞の記事があります)。「犬も歩けば棒に当たる」ではありませんが、実際に歩いて、見てみないとおもしろいものはみつかりません。

Kawano2  スタートから4㎞で高岡台の住宅団地に入ります。そこに高岡山中央公園Img_3170c_2022102917280110時10分過ぎに高岡山中央公園に到着。ここで10分ほど小休止。ここは、早くも、詳しいルートマップその2の範囲になります。

Img_3177c_20221029172801 Img_3173c_20221029172801   比較的新しい住宅団地の中にある公園。親子連れの方が遊んでいたり、イヌの散歩をしている人がいたり。キョリ測で見ると、標高40mほどの高さにあり、眺望が利きます。伊勢湾から、南は遠く伊勢の山の方まで見えています。

Img_3220c_20221029172901  高岡山中央公園からはいったん下りになります。10m弱下ったところに「Img_3187c_20221030174001 高岡山周遊コース」「西展望台に至る」という案内があり、ここを登って、高岡城跡に行きます。鈴鹿川北岸の丘陵に築かれた城の跡です。築城年代は不明ですが、神戸城主神戸友盛(具盛)の家老山路弾正によって修繕されたとされます。歴代城主は山路弾正、小島兵部。現在は高岡城跡公園となっています。永禄10(1567)年と翌11(1568)年の二度にわたって織田信長の武将、滝川一益の猛攻を受けたが落城しませんでした。しかし、二度にわたる大軍の侵攻という不利な戦況下で山路弾正と主君神戸友盛は最終的に信長の三男織田信孝を神戸家の養子にすることで講和を受け入れます。元亀2(1571)年、神戸友盛は信長によって隠居を命ぜられると、主君の不遇に山路弾正は神戸城討伐の謀叛を企てたが失敗し自刃。その後は、信孝の異母兄弟にあたる小島兵部が高岡城主となりました。1582年本能寺の変の後、小島兵部が神戸城へ移り、高岡城は廃城となっています。

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Img_3208c_20221029172801  城跡は遺構が不明瞭ですが、西側に堀跡が確認できます。右の写真がそれのようで、ここには「空堀」という標識が建てられていました。

Img_3224c_20221029172901 Img_3233c_20221029172901  また、ここは標高50mで、近くには鈴鹿市街地、遠くには伊勢湾から伊勢方面までよく見えます。苦労して登った甲斐がありました。城跡には、右の写真のように休憩所もつくられています。その1は、キリがよいのでここまで。その2は、高岡橋を渡って鈴鹿川を越え、階段付きの常夜灯から。

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2022年6月18日 (土)

20220612水の都・大垣ウォーキング(その2)……四季の路を通り、円通寺から船町川湊、奥の細道むすびの地へ

Ogaki0_20220620182901   6月12日の「水の都・大垣」ウォーキングの本編その2です。その1では、養老鉄道大垣駅をスタートして、大垣城、郷土館、大垣藩校・敬教堂跡、八幡神社と回ってきました。この先は、水門川に沿って南に歩いて行きます。水門川沿いには、四季の路がもうけられ、花木が植えられ、芭蕉の句碑がいくつも建っています。スタートから2㎞ほどのところには、大垣藩主・戸田家の菩提寺である円通寺、大垣市役所を過ぎると、奥の細道むすびの地に至ります。

Img_4954c_20220612191101Img_4857c_20220617065201  左の写真は、四季の路から眺めた水門川の流れ。右は、四季の路にある芭蕉の句碑の1つ。句碑には、芭蕉が奥の細道で詠んだ俳句が刻まれています。この写真の句碑には、「一家に 遊女も寝たり 萩と月」の句が刻まれています。市振(新潟県糸魚川市)で詠んだものです。

Img_4873c_20220617065701  こちらは、旭光山円通寺。浄土宗のお寺で、大垣藩主戸田氏歴代の菩提寺です。慶長6(1601)年)に膳所藩主であった戸田氏鉄(うじかね)が膳所で建立し、その後、戸田氏鉄が元和2(1616)年、尼崎藩主となると尼崎へと移転しています。さらに寛永12(1635)年に大垣藩へ転封となった際に、大垣城の西側へ移されました。以降、歴代大垣藩主の墓所が設けられました。大垣藩へ転封となった時、尼崎の本寺から伽藍を移したそうです。山門は、その後、雷火のために数回焼失したのですが、天保年間(1830~1844年)に再建されたもの。市指定文化財です。

Img_4894c_20220612191101  Img_4883c_20220612191101 一部の藩主の墓所は蓮光寺にあったのですが、後にここ円通寺に分骨が行われています。また、多くの大垣藩家臣の墓所もあります。右の写真は、初代の戸田氏鉄の墓所。

Img_4936c_20220617193901  四季の路を歩いていると、大垣市役所の西にある清水口橋のところに「神の田(かみのた)地蔵」がありました。その昔、ここは地域の守り神である八幡神社の神田(しんでん)だったそうです。鎌倉期の大井荘(おおいのそう:東大寺領の荘園)の文書に「八幡宮の神楽田(しんがくでん)」とあり、これが今の神田のもとかも知れないと説明板にありました。

Img_4970c_20220617194801 Img_5021c_20220617195901  スタートから2.5㎞ほどのところで、水門川は枡形のように曲がっています。総合福祉会館、秋葉神社、水都公園などに囲まれたエリア。川には大きな鯉がたくさん泳いでいました。虹の橋を渡ったところに四阿があり、そこでしばし休憩。時刻は、12時少し前。

Img_5040c_20220617200101  その四阿からは、伊吹山も遠くに見えていました。桑名からは、伊吹山は多度山の陰になって見えません。伊吹山があちこちから見えるのは、ちょっとうらやましい気がします。

Img_5045c_20220617200201 Img_5049c_20220617200201  奥の細道むすびの地の手前にこんなものがありました。左の写真は、今ひとつで、なんだかよく分かりませんが、右の写真には、「明治16年2月 大垣・桑名間汽船開通 大垣水運の歴史のひとこま ここに記す 大垣水とライオンズクラブ」とあります。左の写真は、桑名・大垣間の蒸気船が開通した頃の、ここの湊の様子と思います。西羽晃先生の「桑名港の『みなと文化』」によれば、「に大垣と桑名間は明治 15 年に小型蒸気船による定期航路が開かれた。22 年には東京-神戸間に東海道鉄道が開通したので、桑名から汽船で大垣へ行き、大垣駅から鉄道を利用すれば、東西への旅が非常に便利になった」とあります。

Img_5054c_20220617201201 Img_5058c_20220617201201  その先に、道標と句碑。道標は「木因俳句道標」で、「南 いせくわなへ十り ざいがうみち」とあります。ただし、この道標はレプリカで、本物はこの西にある「奥の細道むすびの地記念館」に保存されています。手前の句碑には、「い勢にまかりけるを ひとの送りけれは 蛤のふたみに別行秋そ」とあります。この「蛤のふたみに別行秋そ」は、芭蕉がここで詠んだ句。「ハマグリの殻と身とを引き剥がすように、又再び悲しい別れの時が来たことだ。千住出発の折りの歌『行く春や鳥なき魚の目は泪』と対をなす。『ふたみ』は、『双身』とこれから行く『二見ヶ浦』にかけている」ということです。さらにその奥にあるのは、木因の句碑で、そこには「惜ひひげ剃たり窓に夏木立 白桜下木因」とあります。谷木因は、江戸前期の俳人。大垣の船問屋を業とする富裕な商人でした。

Img_5067c_20220612191101 Img_5063c_20220612191201  さらにすぐ南に、「芭蕉翁と木因翁」と題した、芭蕉と木因とが向き合う銅像。ここには、右の写真のように、「史跡 奥の細道 むすびの地」と刻まれた石碑が建っています。ご承知のように、松尾芭蕉は、江戸時代の元禄2(1689)年3月27日に、弟子の曽良とともに江戸を出発し、東北・北陸地方を巡り、8月21日に大垣で「奥の細道」の旅を終えています。このとき、芭蕉46歳。その道のりは、およそ2,400㎞に及び、旅の体験や感想をもとに俳句と紀行文を組み合わせた「奥の細道」という文学作品を書いています。芭蕉が東北・北陸地方をめぐる「奥の細道」の旅を終えた地が大垣です。芭蕉は、2週間ほど大垣の人々と交流してすごしたあと、伊勢神宮の遷宮参拝のため、水門川を舟でくだり桑名へ旅立ちました。そのときに詠んだのが、上掲の「蛤のふたみに別行秋そ」という俳句です。

Img_5088c_20220612191101 Img_5095c_20220618065001  この奥の細道むすびの地に「奥の細道むすびの地記念館」があります。この記念館は、平成24(2012)年4月にオープン。「奥の細道」の解説をはじめ、芭蕉の人となりや旅に生きた人生を紹介する「芭蕉館」、大垣の歴史や文化・芸術を築き上げた幕末の先賢の偉業を紹介する「先賢館」、幕末の大垣藩藩老・小原鉄心(おはらてっしん)の別荘で、市指定文化財である「無何有荘大醒榭」などがあります(右の写真)。

Img_5076c_20220618065401 Img_5104c_20220618071201  このあたりは、「おくのほそ道の風景地 大垣船町川湊」として、国指定の名勝になっています。揖斐川の支流水門川の両岸に川湊の趣の残る風景地です。船町川湊は、大垣藩により慶長年間(1596~1615年)に大垣城下船町に設置されて以降、西濃地域の人・物資・文化の交流拠点として人々の生活を支えてきました。現在川湊としての機能は失われていますが、このあたりは、静かな水面にソメイヨシノの並木が生える桜の名所となっています。

Img_5117c_20220612191201  橋を渡って対岸に行くと、まずは住吉神社があります。 ご祭神は、上筒男命(うわつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)及び底筒男命(そこつつのおのみこと)のいわゆる住吉三神。天保11(1840)年創建。

Img_5129c_20220612191201 Img_5142c_20220618104401  住吉神社の北に船町港灯台。高さは8m、寄棟造りで上部に油紙障子を填め込んであります。もとは、元禄年間(1688〜1704年)に建造された灯台で、現存する灯台は明治20(1887)年の再建。大垣〜桑名間は明治15(1882)年に小型蒸気船による定期航路が開設され、大正8(1919)年に桑名〜大垣間に養老鉄道が開通するまで通船が続いていました。昭和初期には年間1万もの船が行き来していたという記録が残っています。

Img_5150c_20220618104601 Img_5145c_20220618104601  このあたりは、住吉公園となっていました。芭蕉の木が植えられていて、花が咲いていたり、「芭蕉送別の連句塚」があったりします。連句塚には、次の4句が刻まれています:

秋の暮行先々ハ苫屋哉(木因)

萩にねようか荻にねようか(芭蕉)

霧晴ぬ暫ク岸に立給へ(如行

蛤のふたみへ別行秋そ(芭蕉)

 如行は、江戸時代前期~中期大垣の俳人・近藤如行(じょこう)。大垣藩士。

Img_5165c_20220612191201 Img_5170c_20220618105501  この連句塚があるのは、貝殻橋のたもと。ここで行きに立ち寄らなかった桃源山全昌寺へ。曹洞宗のお寺。もとは、戸田氏鉄の室・大誓院がその叔父の戸田甚五郎(法名:徳翁全昌)の菩提を弔うため、摂津尼崎に建立した寺です。この寺は、戸田氏が大垣藩へ移された際に大垣で新たに創建されたものであり、尼崎の全昌寺は本院にあたります。尼崎全昌寺の住職であった照岩文鏡が大垣全昌寺の開山となり、大垣鷹匠町に創建されました。その後、慶安4(1651)年に現在地に移転。元禄元(1688)年、時の大垣藩主戸田氏定より50俵を与えられています。元禄5(1692)年、火災により灰燼に帰したのですが、5世住持の単伝清和の下で中興を果たしたものの、明治24(1891)年の濃尾地震で壊滅的被害を受けました。明治29(1896)年に本堂と庫裏を再建されましたが、昭和20(1945)年の大垣空襲によって再び伽藍が焼失。現在の堂宇はその後再建されたものです。

Img_5173c_20220618105501  ここにお地蔵さんがあったのですが、「みたらし地蔵」と書いてあるのです。面白いと思ったのですが、そのいわれは、ちょっともの悲しい話でした。「歯痛でぽっくりと亡くなった小僧を哀れんでまつった地蔵で、それを知った町の人が、歯痛で食べ物が食べられなくひもじい思いをした小僧を弔ってみたらし団子を供えるようになったそうです。歯痛の子がいる際は、団子の代わりに箸を一本供えると歯痛が治ると信仰されています」ということでした(こちら)。このあと、下調べの時に、この西に江月寺という臨済宗妙心寺派のお寺があると地図にあったので、見に行ったのですが、廃寺になってしまったようで、広い駐車場でした。ということで、その2はここまで。

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2022年5月14日 (土)

20220507東海道ウォーキング「亀山宿~関宿」(その4)……念願の関宿はおもしろい(完)

Kameyama3  5月7日の東海道ウォーキング「亀山宿~関宿」の本編その4です。その3では念願の関宿に入りましたが、途中の延命寺山門までとなっています。

Img_1985c_20220513160801 Img_1988c_20220513161401  延命寺から東海道に戻り、スタートから8㎞の手前に見どころが集まっています。まずは、関まちなみ資料館。江戸時代末期に建てられた関宿を代表する町屋建築のひとつです(旧別所家)。亀山市関町の文化財・歴史資料の展示・町並み保存事業による、関宿の町並みの移り変わりを写真展示しています。

Img_1996c_20220513160801 Img_2006c  ここで見たもののうち、興味のあるものをいくつか。左の写真は、明治10年代(1877~1886年)につくられた自転車。自転車がステータスシンボルであった頃で、かけそばが1銭8厘のとき、自転車1台が150~250円と高価でした。しかし、このサドルの位置、ちょっと前過ぎるような気がします。右の写真は、長火鉢。時代劇などにもよく出て来ます。中央の丸いところで酒の燗がつけられます。

Img_2018c_20220513162601  階段箪笥と、その奥は薬箪笥。この階段箪笥を登って2階に行きます。薬箪笥は、医者や薬屋が使ったもので、薬剤を入れるための引き出しがたくさんついており、百味箪笥や百目箪笥と呼ばれる場合もあるそうでます。

Img_2014c_20220513160901  2階には、有栖川宮親王が明治初期に関宿に泊まられたときの宿札が保存されていました。この有栖川宮親王は、有栖川宮熾仁親王(天保6(1835)~明治28(1895)年)かと思ったのですが、確認は取れませんでした。

Img_2020c_20220513171301  関まちなみ資料館の向かいに鶴屋。玉屋、会津屋とともに関を代表する旅籠の1つ。「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」という、伊勢参りの旅人などが歌ったとされる歌があるそうです。江戸時代の終わりには、脇本陣も務めた波多野家。脇本陣ですから、本陣に準ずる宿で、主に身分の高い商人たちの宿泊の用を勤めましたが、平素は一般庶民も泊まれました。鶴屋は、西尾吉兵衛を名乗っていましたから、西尾脇本陣ともいったそうです。2階に千鳥破風を載せた独特のデザインになっており、その格式を示しています。

Img_2025c_20220513172201 Img_2030c_20220513172201  中町三番町山車庫。その3で書きましたように、現在は4台の山車が残っていますので、山車庫も4ヶ所あります。また、ここは、問屋場跡でもあります。この西に川北本陣跡があります。現在ここには遺構はありません。その3で見てきた延命寺に、川北本陣の門が移築されているだけです。川北家は、本陣ととともに宿継ぎ問屋を勤めていたそうで、今も450点余りの古文書・古記録が伝えられているといいます(こちら)。

Img_2034c_20220513172201 Img_2048c_20220513172301  その向かいに百六里庭(ひゃくろくりてい)・眺関亭(ちょうかんてい)があります。小公園になっています。関宿が江戸から百六里あまりにあることから名付けられました。通りに面した建物は、眺関亭。

Img_2037c_20220507193101 Img_2044c  眺関亭の2階に上がると、こんな景色が眺められます。まさに「関を眺める」亭。西を見ると(左の写真)、瓦屋根の間に通る東海道とその突き当りにある地蔵院本堂の大屋根、さらには鈴鹿峠の方を、また、東を見ると(右の写真)、軒の並ぶ関宿のまちなみを望むことができます。展望台から西を見た様子は、関宿の成り立ちが現れた関宿の最も特徴的な景観だそうです。

Img_2053c_20220513173901  百六里庭・眺関亭の西には、伊藤本陣跡。川北本陣と並んで関宿の中心的な役割を果たしました。間口11軒あまり、建坪69坪、西隣の表門は唐破風造りの檜皮葺だったそうです。現在残っている街道に面した部分は家族の住居と、大名宿泊時に道具置き場に供した建物です。木造2階建、切妻、桟瓦葺、平入、開口部が格子窓で2階外壁両側には袖壁が設けられ、2階の外壁が前に張り出す「せがい造り」になっています。

Img_2083c_20220507193101  続いて、関宿旅籠玉屋歴史資料館。鶴屋のところに書きましたように、関を代表する旅籠の1つ。江戸時代の貴重な旅籠建築を修復し、旅籠で使われていた道具や歴史資料が展示してあります。宝珠の玉をかたどった虫籠(むしこ)窓が魅力的。この虫籠窓は、屋号にちなんで、宝珠の玉(玉から火焔があがる様)をかたどったものとなっているのだそうです。

Img_2080c_20220513174301  ここの裏手にある土蔵には、本物のというか、実物の歌川広重の浮世絵などが展示されていました。「行書版 東海道五十三次 関宿」などなど。もちろん写真は撮れませんので、土蔵の外観だけ。

Img_2065c_20220513174301 Img_2059c_20220513174301  その他、興味があったものについて。左の写真は、主屋1階の帳場。ちょんまげを結った初老の男性が、帳場に座っています。番頭さんでしょうか。手前の上がり口には、足を濯ぐための水を入れる盥と、草鞋も見えています。右の写真は、資料館の入り口にあった駕籠。一般庶民が乗った駕籠と思われますが、これでエッサエッサエッサホイサッサと揺られたら、乗り心地はよくないというか、結構大変そうです。

Img_2062c_20220513174301  これについては知りませんでしたが、江戸時代の関宿の名物・特産品として火縄がありました。火縄は火奴ともいい、鉄砲に用いたため大名の御用があったほか、道中の旅人が煙草などに使うためにも購入したそうです。新所を中心に数十軒の火縄屋がありました。 火縄は自生する竹を薄くへぐように削り、これを縄を編むように作ったといいます。

Img_2092c_20220507193101 1651900657728c  続いては、深川屋。創業約380年。江戸幕府3代将軍・家光の時代から続くそうですし、「忍びの隠れ蓑」だとも。江戸時代寛永年間より作り続けられている「関の戸」は、忍者の末裔 服部伊予保重により考案されたお餅菓子だそうです。令和元(2019)年、ここ深川屋に残る古文書から当時の忍びの記述が発見されたため、忍びの隠れ蓑の和菓子屋としています。ここで、土産に関の戸を買おうという算段。先日、三重県総合博物館で「第30回企画展 名所発見、再発見!~浮世絵でめぐる三重の魅力~」を見たときにも買ってきました(2022年5月 4日:イソヒヨドリに何度も遭遇……午後からはMieMUで「名所発見、再発見!~浮世絵でめぐる三重の魅力~」を見る)が、ずっと昔から私の好物なのです。赤小豆の漉し餡をぎゅうひ餅で包んであります。伝統的な和三盆をまぶしたものと、石臼でひいた亀山茶をまぶしたもの、6個ずつのセットをお買い上げ。

Img_2100c Img_2104c_20220507193101  土産もゲットし、一安心(微笑)。関郵便局のところへ。郵便局の敷地は、天正20(1592)年、家康が休憩したので、御茶屋御殿屋敷と呼ばれ、幕府代官陣屋、亀山藩役人詰所となっています。高札場もここにありました。亀山藩が管理した高札場跡で、キリシタン禁令などの法規的な内容から隣接宿場までの人馬駄賃の規定、生活に関わる様々な張り出しが行なわれた場所です。明治10(1877)年に撤去されましたが、江戸時代後期、寛政年間から天保年間頃の高札場が復元されています。掲示されている文言は、天保年間(1831〜1845年)の調査と推測される『東海道宿村大概帳』に記された内容を読みやすい楷書に変えたものです。

Img_2096c_20220507193101  ポストが、宿場の雰囲気に合わせてつくられていますし、敷地内に「関町道路元標」があります。標石は一辺27㎝、地上高57㎝で頭は丸みを帯びています。「関町道路元標」と刻字があります。

Img_2158c_20220513193501 Img_2145c_20220513193501  この先で天台真盛宗の福蔵寺。ここは、織田信長の三男織田信孝の菩提寺であり、また、関の小萬の墓があります。さらに、英照皇太后が駐泊されたところ。

Img_2155c_20220513193501  織田信孝は、本能寺の変で亡くなった信長の冥福を祈るため、神戸の住人にして旧臣出会った大塚俄左衛門長政に命じてこの寺の建立にかかったのですが、信孝は秀吉との後継争いに敗れ、天正11(1583)年、尾張国野間において、自害させられました。長政が当山に首を持参し信孝公の菩提寺としました。信孝の墓石は不詳であったので、400年忌を迎えたとき、菩提を弔うために建立されたのが、この写真の墓。

Img_2136c_20220513193501  こちらは、関の小萬の碑と、墓。裏門の横にあります。関の小萬については、その3で触れたとおり、若くして父の敵を討った烈女として伝えられています。15歳から風雪にもめげず、亀山の道場に通って修行に努め、武を練り、天明3(1783)年8月、本懐を遂げました。また、客殿の奥には英照皇太后孝明天皇の后)が宿泊された書院が現存するそうです(非公開)。

Img_2165c_20220514031901  関宿もかなり見て回ってきました。このあと地蔵院へ行くつもりでしたが、その前にもう1ヶ所見なくてはなりません。それは、会津屋です。関宿を代表する旅籠の1つで、もとは、山田屋といいました。関の小萬が育ったのがここです。江戸後期に建てられました。今は、食事処。

Img_2162c_20220507193201 Img_2174c_20220514031901  関宿は西の追分まで続きますが、今回の最終目的地は、九関山宝造寺関地蔵院です。関の地蔵さんと呼ばれます。天平13(741)年、奈良東大寺の僧行基が、諸国に流行した天然痘から人々を救うため、この地に地蔵菩薩を安置したと伝えられています。この地蔵菩薩は、わが国最古のものです。「せきの地蔵さんに振袖きせて奈良の大仏むこに取る」という俗謡があるほど、関に暮らす人々に加え、東海道を旅する人々の信仰も集め、全国の数あるお地蔵様の中でも最も敬愛されているといわれています。本堂、鐘楼、愛染堂の3棟の建物は国の重要文化財に指定されています。聖武天皇の勅願所、明治天皇関行在所でもあります。明治天皇は関町には5回来られ、明治13(1880)年7月10日、12日の2回、地蔵院で食事休憩されました。この明治13(1880)年7月11・12日には、亀山で大阪鎮台名古屋鎮台の合同演習が行われ、それを明治天皇がご覧になっています。ちなみに、7月11日には、亀山の東町にある伊藤市治郎宅に宿泊されました。この時、明治天皇が宿泊された建物は、現在、亀山城多門櫓の隣りに移築され、明治天皇行在所遺構として残っています。ここは、前回の「井田川~亀山ウォーク」で訪ねたところ(2022年4月23日:20220423東海道ウォーク「井田川~亀山」(予告編))。

Img_2178c_20220514033501 Img_2171c_20220514033501  左の写真は鐘楼、右は愛染堂。鐘楼の脇に上右の写真に載せた「明治天皇関行在所」の石柱があります。ここにはまた、一休禅師の逸話も伝わっています。関東行脚の時、関宿を通りかかった一休和尚に修繕をした地蔵の開眼供養をしてほしいと村人たちが、頼んだところ快く引き受けてくれたのですが、一休和尚は「釈迦はすぎ 弥勒はいまだ いでぬ間の かかるうき世に 目あかしめ地蔵」と詠み、立小便をして立ち去ってしまったそうです。怒った村人たちは別の僧に開眼供養をやり直してもらいましたが、その晩、高熱を出したある村人の夢枕に地蔵が立ち、供養を元のようにせよと命じたといいます。あわてて桑名の宿にいた一休和尚に助けを求めると、地蔵の首にかけるようにと古びた下帯を手渡され、言われたとおりにしたところ、高熱は下がったそうです(寛政9(1797)年に発行された『東海道名所図会』にかかれている話)。

Img_2196c_20220514032001  関地蔵院で14時。途中亀山の清福寺で1度、20分くらい休憩して、おやつを食べただけで、ここまで歩き続けてきました。このあと昼食。国道1号線から関駅あたりに行けば、食べるところがあるだろうと思ってそちらへ。地蔵院口の交差点のところに関地蔵堂への道標(関地蔵堂エ 二町)と、「街道 おんな唄」の石碑。鈴鹿馬子唄の一節などが刻まれています。

Img_2202c_20220507193202 Dsc_6434c  JR関西線・関駅の近くに道の駅関宿があります。ここなら何か食べられるだろうということで立ち寄ったら、定食屋みくらという店がありました。冷やし海老おろしうどんをチョイス。¥840。

Img_2214c_20220507193201 Img_2242c_20220507193201  JR関西線・関駅には、14時45分頃にゴールイン。9.3㎞を歩きました。ここは、JR西日本のエリア。亀山までは1駅なのですが、この時間帯には1時間に1本のみ。しかも非電化区間。右の写真のように1両のディーゼルカーが走っています。

Img_2258c_20220507193201 Img_2266c_20220507193301  14時59分発の亀山行きに乗車。亀山には15時5分着。ここでJR東海の関西線に乗り換え。15時26分の名古屋行き快速。ただし、快速になるのは、四日市から。桑名には、16時6分着。料金は、通しで¥770。9.3㎞も歩き、また、暑かったのでそれなりに疲れました。しかし、この日は、念願の関宿を訪ねられましたので、心地よい疲労感でした。歩数は、22,266歩。現地で9.3㎞、自宅から桑名駅往復が2.4㎞で、計11.7㎞。

Img_1567c_20220514041001 Img_2193c_20220514032001  オマケ。マンホールの蓋コレクション。左の写真は、亀山市のもの。右は、旧関町のもの(現在は、亀山市と合併して、亀山市関町になっています)。亀山のものは、多門櫓に花菖蒲の花の絵柄になっています。旧関町のものは、関宿の町並みにお地蔵様が立っているデザイン。

Sekistampc Kameyamastampc  もう1つオマケ。スタンプです。自作コースマップの裏に押してきましたので、それが透けてしまっていますが、ご愛敬。左は、亀山の加藤家屋敷、旧舘家住宅、旧佐野家でゲット。右は、関宿にある3つの資料館(関の山車会館、関まちなみ資料館、関宿旅籠玉屋歴史資料館)のもの。これにて「亀山宿~関宿」の東海道ウォーキングは、「完」。

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2022年5月 7日 (土)

20220507東海道ウォーキング「亀山宿~関宿」(超予告編)

Kameyama0_20220508045001  4月23日の東海道ウォーキング「井田川~亀山」(2022年4月23日:20220423東海道ウォーク「井田川~亀山」(予告編))に引き続いて、今日は亀山宿~関宿までを歩いてきました。好天に恵まれ、また気温も上がり、亀山のアメダスでは、最高気温は28℃を超えていました。冒頭の画像が、今日歩いたルートの全体像。関宿ではもっとたくさんのところを見て、立ち寄って来ていますが、狭い範囲ですので、主なところだけ示しました。膨大な写真を撮ってしまい、まだすべてを確認していませんので、今日のところは、超予告編。明日以降、この超予告編を予告編にする作業から取りかかります。

Img_1298c_20220507193101 Img_1322c_20220507193901  桑名駅を8時14分に出る亀山行き普通に乗車。亀山には、9時ちょうどの到着。¥680。前回、最後に、西町問屋場跡まで行ってきました。当初は、この西町問屋場跡から東海道に入る予定でしたが、その前に、いきなり寄り道。

Img_1383c_20220507193101 Img_1426c_20220507193101  寄り道したのは、加藤家長屋門。江戸時代後期、亀山城主・石川家の家老職を務め、亀山城西之丸に居を構えていた加藤家の屋敷の長屋門。現在は屋敷の表門である長屋門とこれに連なる土蔵などが遺されています。その先で、飯沼慾斎生家跡。飯沼慾斎は、江戸後期の蘭方医,植物学者。伊勢国亀山の商人西村信左衛門の次男。母方の伯父で美濃国大垣の飯沼長顕に入塾し、のち京都に出て漢方、本草学を学んだ後、蘭方に転学し、大垣で開業しています。

Img_1438c_20220507193101 Img_1526c_20220507193101  旧舘家住宅。明治6(1873)年に商家として建てられました。枡屋という屋号で、幕末から大正にかけて呉服商を営んでいた大店です。土日に無料公開されています。右は、京町口門跡を、その西の京町坂橋の西詰から見た景色。ここは、滝川にかかる橋ですが、もとの東海道は、もっと低いところを通っていました。ちなみに、東海道五十三次を描いた浮世絵の多くは、京町門口跡あたりから亀山城を眺めた景色となっています。

Img_1607c_20220507193101 Img_1625c_20220507193101  左の写真は、浄土宗の慈恩寺。奈良時代に聖武天皇の勅願により行基が開いたと伝わっています。往時には、七堂伽藍があったものの、度重なる兵火で焼失。幕末、亀山藩の家老を務めた近藤幸殖の墓があります。右の写真は、野村一里塚跡。日本橋からは105里。北側の塚だけが現存しています。樹齢400年を超える椋の木が植わっています。一里塚に椋は珍しいそうです。

Img_1677c_20220507193101  途中、端折りますが、亀山市布気町に昼寝観音という観音さんがあります。東大寺の大仏を建て直すお金を全国から集めているとき、石山観音(津市芸濃町)から運ばれたといいます。各地の観音が集まって、西日本の観音めぐり33箇所を決める会議を開いたのですが、この落針(おちばり)の観音は昼寝をしていて会議に行かなかったため33箇所に選ばれなかったとか。

Img_1740c_20220507193301  旧国道1号線(現県道565号線)、JR関西線を越えますと、太岡寺畷(たいこうじなわて)に出ます。ここは、旧東海道の鈴鹿川沿いの道路で、約400mにわたり桜並木が続いています。桜の咲く時期になると、桜のトンネルが見事だろうと思えます。しばらく立ち寄るところはありません。

Img_1825c_20220507193301 Img_2037c_20220507193101  スタートから5㎞を超え、ようやく「関宿」の案内板。東海道五十三次の47番目の宿場町として栄え、今なお当時の雰囲気が残されています。ここは、ずっと以前から訪ねてみたかったところで、ようやく長年の念願が叶いました。右の写真は、関宿にある百六里庭・眺関亭の2階から眺めた関宿の西方向。向こうの山は、鈴鹿山脈。

Img_1847c_20220507193101  ここは、関宿東の追分。東海道と伊勢別街道との分岐点です。鳥居の向こうが、伊勢別街道。椋本、専修寺あたりを経て江戸橋で伊勢参宮街道につながっています。総距離およそ四里二六町(約18.5㎞)。江戸時代には京都方面からの参宮客で賑わいました。

Img_1919c_20220507193101 Img_1934c_20220507193101  関宿には見どころが多数。今日もあちこち見て回ってきましたが、ごくかいつまんで。こちらは、関の山車会館。狭い宿内の家並みを山車が巡行する様から、限度いっぱいの意味で使われる「関の山」の語源であるとも言われる「関の山車(せきのやま)」の展示を中心に祭りの付属品や歴史資料が展示されています。関の山車は、高さ4mとかなり大きいのに驚きました。「関の山車」は、元禄年間から伝わる祭礼で、江戸後期には16基もの山車があり、横幕・見送幕・提灯を豪華に飾りつけて華美を競い合ったそうです。山車の台車から上が回転する構造となっており、巡行時の辻々などで勢いよく回転させることが特徴の一つ。現在は木崎町・大裏(北裏)町・中町三番町・中町四番町の4基が保存され、関神社の夏祭りとして例年7月下旬の土・日曜に開催されています。

Img_2083c_20220507193101  こちらは、関宿旅籠玉屋歴史資料館。江戸時代の貴重な旅籠建築を修復し、旅籠で使われていた道具や歴史資料が展示してあります。宝珠の玉をかたどった虫籠(むしこ)窓が魅力的。この虫籠窓は、屋号にちなんで、宝珠の玉(玉から火焔があがる様)をかたどったものとなっているのだそうです。

Img_2092c_20220507193101 1651900657728c  関の戸をつくっている深川屋さん。創業約380年で、「忍びの隠れ蓑」だそうです。江戸時代寛永年間より作り続けられている「関の戸」は、忍者の末裔・服部伊予保重が考案した餅菓子です。2019年にこの深川屋に残っていた古文書から当時の忍びの記述が発見されたといいます。先日、三重県総合博物館でも買ってきたのに、今日もまた、土産は関の戸。和三盆と抹茶の6個ずつの詰め合わせ。¥1,118。

Img_2096c_20220507193101 Img_2104c_20220507193101  関郵便局。郵便局の敷地は、天正20(1592)年、家康が休憩したので、御茶屋御殿屋敷と呼ばれ、幕府代官陣屋、亀山藩役人詰所となっています。高札場もここにありました。ポストが、宿場の雰囲気に合わせてつくられていますし、敷地内に道路元標があります。

Img_2162c_20220507193201  関地蔵院。天平13(741)年、奈良東大寺の僧行基が、諸国に流行した天然痘から人々を救うため、この地に地蔵菩薩を安置したと伝えられています。この地蔵菩薩は、わが国最古のものです。関地蔵院で14時。途中で1度、20分くらい休憩して、おやつを食べただけで、ここまで歩き続けてきました。このあと昼食。

Dsc_6434c Img_2202c_20220507193202  JR関西線・関駅の近くに道の駅関宿があります。ここなら何か食べられるだろうということで立ち寄ったら、定食屋みくらという店がありました。冷やし海老おろしうどんをチョイス。¥840。

Img_2214c_20220507193201  Img_2242c_20220507193201 JR関西線・関駅には、14時45分頃にゴールイン。9.3㎞を歩きました。ここは、JR西日本のエリア。亀山までは1駅なのですが、この時間帯には1時間に1本のみ。しかも非電化区間。右の写真のように1両のディーゼルカーが走っています。

Img_2258c_20220507193201 Img_2266c_20220507193301  14時59分発の亀山行きに乗車。亀山には15時5分着。ここでJR東海の関西線に乗り換え。15時26分の名古屋行き快速。ただし、快速になるのは、四日市から。桑名には、16時6分着。料金は、通しで¥770。9.3㎞も歩き、また、暑かったのでそれなりに疲れました。しかし、今日は、念願の関宿を訪ねられましたので、心地よい疲労感です。歩数は、22,266歩。現地で9.3㎞、自宅から桑名駅往復が2.4㎞で、計11.7㎞。冒頭に書きましたように、今日のところは、以上、超予告編。

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2022年3月24日 (木)

20220319東海道ウォーク「加佐登~井田川」(その3)……西富田町から井田川駅にゴール(完)

220319kasado2c  3月19日に行ってきた”東海道ウォーク「加佐登~井田川」”の本編その3です。その2では、鈴鹿川沿いから安楽川沿いの汲川原、中冨田、西冨田を歩きました。西冨田の福萬寺では、掲示板にあった「煩悩を卒業することはできません 松本梶丸」ということばに悩みました。あらゆる煩悩を欠くことなく具えている私にとっては、戸惑いを残したまま、次へ進むのです(苦笑)。ルートマップその2では、「ひろせ道」道標、西冨田の川俣神社、和泉公民館の地蔵尊、弘法井戸、和泉の川俣神社が残っています。

Img_7148c_20220319175901 Img_7145c_20220323193501  「ひろせ道」道標です。この道標も、田中音吉の寄付により建立された道標です。田中音吉については、その2の記事に詳しく書きました(2022年3月23日:20220319東海道ウォーク「加佐登~井田川」(その2)……汲川原から西冨田の福萬寺へ)。ここから北に1.5㎞ほど行ったところに鈴鹿市広瀬町がありますから、そこへの道を示すものと思います。

Img_7152c_20220323194101  安楽川の手前に西冨田の川俣神社があります。主祭神は、多紀理毘売命(たぎりひめのみこと:素戔嗚尊と天照大神が高天原で誓約(うけい)をした際、天真名井(あめのまない)の水滴の中から生まれた宗像三神の一神。福岡県玄海町の宗像大社の沖津宮に祀られています)。相殿神は、経津主命武甕槌神玉依毘売命品陀和気命息長帯比売命崇徳天皇大穴牟遅命金山毘古神八衢比古神、八衢比売神久那斗神。鳥居の近くには、庚申塔屋、山の神もあります。

Img_7167c_20220323194101  このあたりは、東海道の道筋に面して賑わった地域であり、古くは八王子と称されていました。当社は、この町の南端に鎮座しています。現存している棟札によれば、中世近世を通じ宝殿その他社殿の造営が行われていたようです。明治41(1908)年、中富田町の川俣神社と共に和泉の川俣神社に合祀されましたが、その後、昭和23(1948)年、氏子の総意により分祀され、現在に至っています。ご覧のように、開かれた空間にある神社で、気持ちも解放される感じでした。

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Img_7160c_20220323194101  ここには、無上冷水井戸跡があります。神戸城主であった織田信孝が愛飲したと伝わる井戸の跡です。ここから、神戸城は、東に直線距離で6.7㎞ほどのところにあります。神戸城まで水を運んだと思うのですが、それもけっこう大変でしょう。境内には、また、旧和泉橋の親柱が1基、保存されており、「昭和10年6月竣功」の文字が見えます。

Img_7170c  さらに道標もありました。「右ひろせ 左はたけ」と刻まれています。「ひろせ」は、上掲の「ひろせ道道標」の鈴鹿市広瀬町と思われます。「はたけ」は不明。もともと、どこにあったかも不明。

Img_7198c_20220323200601 Img_7216c_20220319180001  西冨田の川俣神社は、安楽川のすぐそば。和泉橋で安楽川を渡ります。渡った先は、鈴鹿市和泉町。旧東海道は、このあたりに土橋がかかっていましたが、出水時には渡しがあったそうです。和泉公民館の前に「弘法井戸 500m」という看板がありました。これもノーチェックでしたが、寄り道。建屋は新しいのですが、井戸自体は古そうでした。現地に説明板はなく、ネットで検索しても何も出て来ません。

Img_7220c_20220319180001  その弘法井戸の南に鳥居が見えましたので、さらに寄り道。これが、和泉の川俣神社でした。主祭神は、大穴牟遅命(おおあなむちのみこと:「日本書紀」が設定した国の神の首魁(しゅかい)。「古事記」では大国主神の一名とされる)。相殿神は、市杵島比売命久那斗神八衢比古神、八衢比売神道反大神(ちかえしのかみ=道神=道祖神)。

Img_7228c_20220323202401   延喜式内社と比定されています。創始は、不詳。江戸時代の地誌類には八王子社とありますが、和泉町の位置が鈴鹿川の本流と出合うところにあり、川俣神社の名がでたものと考えられています。明治41(1908)年、井田川村各地に鎮座の諸社を合祀しましたが、昭和26(1951)年、各村の氏子の総意により中冨田、西富田の川俣神社等を分祀し、現在に至っています。これで、このあたりの川俣神社4社にお参りしたことになります。

Img_7235c_20220319180001  和泉公民館のところまで戻りました。この公民館は、いかにも昭和の公民館という雰囲気。私の実家近くの公民館もこんな建物だった記憶があり、懐かしい気がしました。この敷地内に地蔵堂。由緒その他は、不明。Img_7246c_20220323202801 地蔵堂は、由緒が明らかでないことも良くありますが、それはちょっと残念な気がします。

Img_7237c_20220323202801 Img_7250c_20220323202801  和泉公民館の敷地内にも、旧和泉橋の親柱が保存されています。さらに、こんな写真を載せて良いのかと若干迷いましたが、公民館のトイレ(右の写真)。公民館本体と同様に、昭和の雰囲気たっぷりのトイレというか、公衆便所といった方が似合います。

220319kasado3c  実際に歩いたルートマップはその3に入ります。和泉公民館の先で6㎞を過ぎます。和泉西のバス停のところで、道標と地蔵堂。地福寺の手前に明治天皇御小休所碑。ここは観音堂跡で、ここにも和泉橋の親柱があります。県道641号線を越えると、東海道は田舎道。関西線井田川踏切を越え、地蔵堂らしきものを見て、いったん井田川駅にゴール。ここまでで7.3㎞、時刻は12時30分。時刻表を確認してから、昼食へ。

Img_7277c Img_7274c_20220324042201  道標は、「のゝぼり道」とある2基が並んでいます。左の写真で手前にある、自然石に彫ったものは江戸時代のもので、奥にある石柱は大正3年のものです。いずれも半分近くが埋まっているのは残念。「のゝぼり」は、「野登」と思います。亀山市の北端、安楽川の上流域、亀山ジャンクションの北西一帯です。

Img_7280c_20220319180001  地蔵堂は、江戸時代からのものだそうですが、由来などは分かりません。江戸時代からここにあるそうです。

Img_7295c_20220319180001  スタートから6.4㎞ほど、東海道の右手の小高くなったところに明治天皇御小休所碑があります。明治13(1880)年7月13日に行われた陸軍大演習にいらっしゃったときのもの。かたわらには、古い和泉橋の親柱が保存されています。

Img_7302c_20220319180001  この場所は、観音堂跡。こちらに「戦国期以前は『小田町道心がいどう』と呼ばれ、七堂伽藍が立ち並ぶ大寺。道心とは『仏道を信奉する心』 1568年信長戦火で焼失。1677年観音堂建立。」とありますから、地福寺の境内にあった観音堂の跡ということかと思われます。鬼瓦が保存されている土台には、「極楽山 観音堂跡 平成9年7月」とあります。極楽山は、地福寺の山号。

Img_7333c_20220324044001 Img_7316c  その極楽山地福寺。浄土宗のお寺。亀山藩主が観音堂の阿弥陀如来に帰依し、また、観音菩薩三十三体も祀られ、東海道の旅人が多く立ち寄ったといいます(こちら)。地福寺は、小高いところにあり、眺めの良いところです。

Img_7340c_20220324045001 Img_7346c_20220319180001  地福寺の先で東海道は、県道641号線(左の写真)を超えます。県道を越えた先の景色が右の写真。急に「田舎道」になります。

Img_7352c_20220319180101 Img_7372c_20220324162901  こういうところを通って、関西線の井田川踏切を越え、すぐに左折したのが右の写真。「本当に東海道か?」と心配になります。踏切を越えた辺りで亀山市に入ります。

Img_7384c_20220324162901 Img_7381c_20220324163101  井田川駅の手前で地蔵堂と思われるもの。説明書きもなく、ネットで検索しても何も情報が出て来ません。「みえの歴史街道 東海道」のウォーキングマップにも「地蔵堂」として写真が載っているだけ。きちんとお世話はされています。

Img_7396c_20220319180101 Img_7399c_20220319180101  JR関西線・井田川駅。12時30分に到着。ここまでで7.3㎞。上りの時刻表を見たら、名古屋行きはちょうど出たところ(12時29分発)。次は、1時間後でしたから、昼食を食べに行くことにしますが、その前に、駅前に日本武尊像があります。日本武尊は、伊吹山で荒神を征伐中、伊勢国の能褒野(のぼの)で崩じたといいます。能褒野は、井田川駅から北へ1㎞ほどのところ。能褒野王塚古墳があり、日本武尊の墓とされていますし、その隣に能褒野神社があります。

Img_7403c_20220324164601 Img_7406c_20220324164601  日本武尊像の脇には、古事記に見える日本武尊の歌「倭は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる倭しうるはし」の歌碑と、弟橘姫(おとたちばなひめ)は日本武尊の妃であることを説明した系図があります。

Img_7418c_20220319180101 Dsc_0028c  昼食は、200メートルほど行った国道1号線井田川駅口交差点近くのうどん屋・甚八か、すき家1国亀山店の2択。事前リサーチの結果、すき家で食べたいものがあり、そちらへ。クリーミーオニサラ牛丼と決めていました(微笑)。並盛りが¥550。お新香セット¥150をつけました。並盛りなのに、けっこうな量があり、満腹。

Img_7456c_20220319180101  再び井田川駅に戻って、結局、歩いたのは7.9㎞。13時29分発の名古屋行き快速に乗車。快速になるのは、四日市駅から。桑名には、14時5分着、¥590。この日の歩数は、19,000歩を越えました。現地で歩いたのが、7.9㎞。自宅から桑名駅往復が、2.2㎞で合計10.1㎞でした。次回は、4月中旬以降。井田川駅から亀山まで歩きます。

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2022年3月23日 (水)

20220319東海道ウォーク「加佐登~井田川」(その2)……汲川原から西冨田の福萬寺へ

Img_6810c_20220322192301220319kasado2c  3月19日に行ってきた”東海道ウォーク「加佐登~井田川」”の本編その2です。その1では、JR関西線・加佐登駅から庄野宿を一通り見て回りました。庄野宿を抜けたあたりでスタートから2㎞。県道643号線の高架をくぐります。このあたりの東海道は、国道1号線などによって失われています。鈴鹿市内では、こういうところについては、左の写真のように、案内図が掲げられていて、分かりやすくなっています。その2では、鈴鹿川沿いから安楽川沿いを歩きます。平野道道標、いぼとり地蔵、真福寺、神戸藩領界石と女人堤防碑、中冨田の川俣神社、清光寺、常念寺、福万寺から西富田の川俣神社を過ぎて、安楽川を和泉橋で渡ります。このあたりはまだ鈴鹿市。

Img_6837c_20220319175901 Img_6862c_20220323150501  スタートから2.5㎞ほど、民家の脇に平野道道標があります。平野は、鈴鹿川の対岸にある町のことと思われます。この道標の向かい側に高札場があったといいます(みえ歴史街道ウォーキングマップ 東海道)。この道標は、田中音吉(弘化5(1848)~大正5(1916)年)が寄附したもの(右の写真)。田中音吉は、実業家で、米穀・製茶業を営んでいたのですが、前橋や八王子の蚕糸業を視察し、明治20(1887)年、郷里の三重県鈴鹿郡亀山で製糸業を始めました。明治30(1897)年には、亀山共同社(のちの亀山製糸会社)を設立しています。裏には「大正三年 寄附者 田中音吉」と刻まれています(こちら)。さらに道標の脇に「平野道」を示す標識には、「いぼとり地蔵 この奥50m」とあります。気づいたからには行ってみないといけません(微笑)。

Img_6858c_20220319175901 Img_6845c_20220323133901  50m進むと、鈴鹿川の堤防の下に地蔵堂があります。このお地蔵様がいつ頃、どのようにして祀られるようになったかは不明ですが、ここ平野道で、道標のお地蔵さんとして露天に建っていたものを、この地に移し、地蔵堂がつくられたと伝わっています。昔から、いぼと眼病に効くといわれ、地元の方だけでなく、遠方からお毬に来る方もあるそうです。8月には地蔵盆が行われます。地蔵堂に向かって右手には、昭和7(1932)年に建てられた「地蔵尊石碑」があります。甫元という医者がこの地蔵をつくり奉ったと書かれています。

Img_6873c_20220323151201  いささか余談ですが、平野道道標の先にある掲示板に「庄野 寄っといで音頭」のチラシが貼ってありました。というか、実は、庄野宿にもあちこちにこれやにたチラシが掲げられていたのです。

Img_6876c_20220323151601 Img_6880c_20220319175901  真宗本願寺派の真福寺。ここのお寺も、現地でも、ネット検索でもこれという情報は得られませんでした。

Img_6922c_20220319175901  真福寺の先、スタートから3㎞のところに女人堤防碑があります。この辺りは、冒頭のルートマップからもお分かりのように、安楽川と鈴鹿川の落ち合うところで、たびたび水害がありました。人々は水害に悩まされていたため、築堤を神戸藩に申し出たものの、許可が折りませんでした。そこで、文政12(1829)年頃、お菊を先頭に女性たちが、「女であれば許可がなくても罪が軽くなるだろう」と禁を犯し、打ち首を覚悟で堤防を補強したのです。彼女たちは、いったん捕らえられたものの、処刑の直前に許され、その後、労をねぎらわれたといいます(こちらに碑文の全文があります)。

Img_6949c_20220319175901 Img_6945c_20220323153001  現地にあった説明板の図によれば、女人堤防碑の西側にその堤防があるということで、これらの写真がそうだと思われます。左の写真で、画面外になりますがこの左手に女人堤防碑があり、向こう(南)に続く道が堤防と思われます。右の写真は、東海道を挟んで北に続く堤防。

Img_6909c_20220323153301 Img_6926c_20220323153401  女人堤防碑の横と、東海道を挟んだ反対側とには、神戸藩領界石が1対で建っています。いずれにも、「従是東神戸領」と刻まれており、ここから東が神戸藩の領地であることを示しています。左の写真が北側、右が南側(女人堤防碑の横)にあるもの。ただし、もとは、中冨田の亀山藩領地との境界にあったものを移設しています。

Img_6904c_20220319175901  さらに北側の神戸藩領界石の脇には、山の神が祀られています。手水石は、文化10(1813)年のもの。

Img_6971c_20220323154301 Img_6963c_20220323154401  これら女人堤防碑の東側には広い空き地が広がっています。マップに「廃寺跡?」と書いたところですが、地蔵堂と墓石群があったので、そう書きました。地蔵堂には、かつて真福寺にあった薬王院のものと思われる位牌が並んでいます。

Img_7073c_20220323154901  女人堤防碑を過ぎると間もなく、中冨田に入ります。スタートから3.5㎞、10時45分頃に、中冨田の川俣神社に到着。主祭神は、大毘古命(おおひこのみこと)。記紀によれば、孝元天皇の皇子で、崇神天皇 10年、四道将軍の一人として北陸に出征、戦功を立て、垂仁天皇の代に大夫になったといいます。相殿神は、天照大神中臣神天児屋命(あめのこやねのみこと)か? 天児屋命は、天岩戸神話のなかに登場する神で、中臣氏の祖神)、須佐之男命猿田毘古大神玉依比売命

Img_7040c_20220319175901  創祀については明らかではありませんが、古くは八王子社と称したようです。明治41(1908)年に和泉村の川俣神社に合祀されましたが、その後、昭和23(1948)年に分祀、再興されています。左上の写真からも分かるように、境内には大木、古木がたくさんあり、いかにも神社という雰囲気になっています。周囲には、古墳・遺跡も多く、国衙(律令制度下での政庁)が置かれるなど、早い時期に開発された地だったそうです。川俣神社は延喜式内社ですが、いくつかあるうち、ここが元々の川俣神社であった可能性が高いともいわれます(こちら)。ちなみに、川に社を向けたためか、本殿の背後に鳥居があるという配置になっています。

Img_7048c_20220323160801 Img_7052c_20220323160901  また、山の神と、地蔵堂のような御堂があります。この御堂、写真をよく見ていただくと分かりますが、白い布がかけられていて、祀られているものが直接見えないようになっています。

Img_7016c_20220319175901  ここ川俣神社には、中冨田一里塚跡があります。江戸・日本橋から100番目の一里塚で、ここ川俣神社の東隣に街道を挟んで一里塚があったといいます。榎の大木があった、大規模な塚だったそうです。享和3(1803)年の「東海道亀山宿分間絵図」によれば、一里塚の近くに「御馳走場」と書かれた家があり、当時、東海道を往来する大名行列などの一行を接待する場所であったと考えられます。また、現在も、「東百里や(ともりや)」という屋号で呼ばれる家があるそうです。

Img_7023c_20220323162101  中冨田村は、また、亀山藩領の東端で、中冨田一里塚跡碑と並んで、亀山藩領界石が建っています。「従是西亀山藩領」と刻まれています。先ほどの「神戸藩領界石」も、もとはこの近くにあったもの。

Img_7077c_20220319175901  川俣神社のすぐ先に真宗高田派の清光寺という、小さなお寺。現地でも、ネット検索でも、これという情報は出て来ませんでした。

Img_7081c_20220319175901 Img_7097c_20220319175901  こちらは、天台真盛宗の富光山城念寺。お寺の説明板によれば、承応年間(1652~54年)、智詮和尚の開基とされ、ご本尊は阿弥陀如来。当時は、別のところにあったのですが、安政元(嘉永7(1854)年11月の大地震(11月4日の安政東海地震と、翌日11月5日の安政南海地震)で倒壊したため、同じ村内にあって、倒壊を免れた平建寺を買収して、現在地へ移転したといいます。平建寺は、山号を白浪山と号し、高野山真言宗の寺でした。本尊は、延命地蔵尊で中冨田の氏仏をして進行され、現在は、地蔵堂に祀られています。

Img_7100c_20220323163801 Img_7094c_20220323163801  こちらが、白浪山平建寺のご本尊であった延命地蔵を祀る地蔵堂。境内には、右の写真のように、「白浪山平建寺」と刻まれた石柱も残っています。

Img_7110c_20220323163801  また、現在の境内は、麻生はつの遺志により、隣地の屋敷跡の寄進を受けて拡大されたそうで、その功績を後世に残すために境内に「麻生はつ屋敷跡」の碑が立てられています。しかし、地震で倒壊し、倒壊を免れたお寺を買収して、ここに移転したというようなことがあるものなんだとと感心しました。

Img_7138c_20220319175901 Img_7126c_20220323171601  4㎞を過ぎてしばらく行くと、真宗高田派の金光山福萬寺。文永11(1274)年の開創。当初は、天台宗で、常照寺と称していましたが、寛文元(1661)年、専修寺第14世堯秀上人の御化道によって高田派に転向しています。明和8(1771)年7月の大洪水により、その時安置されていた書物・什器・寺宝などすべて流失。御本尊は中冨田にかかり、住職家族2人とも洪水のため死亡。弟子僧の一人が辛うじて難をまぬがれ、翌年、寺名を福萬寺と改め再興を計ったものの、再建には十数年を費やし、文化4(1807)年にようやく川崎村西願寺の下御堂を買請け、上棟式をしました。

Img_7142c_20220319175901  このお寺の掲示板にあったことば。「煩悩を卒業することはできません 松本梶丸」とあります。松本梶丸(昭和13(1938)~平成20(2008)年)は、真宗大谷派本誓寺の住職でした。石川県松任市生まれ、昭和36(1961)年、大谷大学仏教学科卒業。真宗大谷派宗務所出版部、研修部勤務を経て、本誓寺住職。親鸞聖人は、「煩悩成就のわれら」とおっしゃったそうです。「煩悩成就」ということは、あらゆる煩悩を欠くことなく具えていることだそうです。あらゆる煩悩を欠くことなく備えているとすれば、煩悩を卒業することはできないでしょうね。う~ん、何だか分かったような、分からないような……。

 長くなりましたし、煩悩に悩まされてしまいましたので、ルートマップその2の途中ですが、記事その2はこのあたりで、お後がよろしいようで。その3は、ひろせ道道標、西冨田の川俣神社から。

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2022年3月19日 (土)

20220319東海道ウォーク「加佐登~井田川」(予告編)

Img_6555c_20220319175601 雨は夜中に上がり、朝からほぼ晴れ。北風がやや強いものの、15℃を超え、ウォーキング日和。予定通り、東海道ウォークに行ってきました。今日は、2月5日の東海道ウォーク「日永の追分~加佐登」(2022年2月5日:20220205東海道ウォーキング(日永の追分~加佐登)(予告編))に続いて、加佐登から井田川まで歩いてきました。当初は、加佐登から庄野宿を経て、亀山まで10㎞あまりを歩こうかと考えていたのですが、立ち寄るところが多かったため、途中のJR関西線・井田川駅までとしたのです。冒頭の写真は、ウォークとは関係ありませんが、出がけに玄関先から見えた木曽御嶽山。はっきりと見えていました。

220319kasado0c こちらが、今日、実際に歩いてきたルートマップ。JR関西線・加佐登(かさど)駅から500mほどで庄野宿の入り口に行きます。善照寺、庄野宿資料館、妙法寺、集会所・本陣跡、常楽寺、川俣神社でスダジイの大木(ちなみに、川俣神社という名前の神社が、このあたりには4社あります)、平野道道標、いぼとり地蔵、真福寺、神戸藩領界石・女人堤防碑、川俣神社・中冨田一里塚跡碑、清光寺、常念寺、福萬寺、道標(ひろせ道)、川俣神社・無上冷水井戸跡、弘法井戸、川俣神社、和泉公民館で地蔵尊、道標(のゝぼり道)、地蔵尊、明治天皇御小休所碑・観音堂跡、地福寺と実にたくさん見て回って、いったんJR関西線・井田川駅へ。ここまでで7.3㎞。電車の時刻を確認しておいて、国道1号線の方にあるすき家で昼食。井田川駅に戻って、結局、7.9㎞を歩きました。どこにも寄らなければ5㎞ほどのコース設定でしたが、今日は寄り道が多かったのです。

Img_6594c Img_6577c_20220319175801  今日は、JR関西線を利用。桑名駅を8時14分に出る亀山行き普通電車に乗車。加佐登駅には、8時49分着。¥510。前回からほぼ1ヶ月半ぶり。8時55分にスタート。駅から西に向かい、踏切を越えて庄野宿の入り口へ(右の写真)。庄野宿の案内板や、石柱があります。石柱は、旧庄野小学校の門柱を利用したもの。ここまで500m弱。

Img_6629c_20220319175801  まずは、真宗高田派の 筧口山善照寺(けんこうざんぜんしょうじ)。創建は、長禄年間(1457年頃)。このお寺には、庄野大念仏踊りが伝わっています。いつ頃から始まったかはっきりしませんが、およそ240年前のようです(天明2(1783)年頃と推察されています)。天明2(1783)年には、浅間山の大噴火と、それにともなう天明の大飢饉(1782〜1788年)のあった頃。地域の治安の悪化改善と地域住民の結束、死者の鎮魂を目的とする盆踊りとして始まったのではないかと考えられています(こちら)。

 善照寺の先に庄野宿資料館Img_6642c があります。ここには、旧小林家。油問屋を営んでいたといいます。庄野宿は東海道五十三次の45番目の宿で、歌川広重の「東海道五十三次」の版画の「庄野の白雨」でもよく知られています。館内には、庄野宿の本陣・脇本陣文書、宿駅関係資料をはじめ、高札場に掲げられていた本物の高札が保存されています(2018年12月6日:20181202近鉄ハイキング「鈴鹿の隠れた紅葉の名所「荒神山の喧嘩」で有名な荒神山観音寺を訪ねて」へ(その2)……庄野宿からJR関西線加佐登駅へ)。

Img_6674c_20220319175801  続いて、臨済宗東福寺派の妙法寺。ここは事前のチェックからは外れていました。禅寺で、境内もきれいに整えられていて、気持ちの良いお寺でした。

Img_6704c_20220319175801 Img_6724c_20220319175801  その先に、庄野町集会所。ここは、沢田兵左衛門本陣跡であり、集会所の前には里程標があります。「距津市元標九里拾九町(約37.4㎞)」と刻まれています。ここにいらした女性から「お茶でもどうですか?」と呼び込まれました。温かい梅昆布茶を頂き、いろいろと話を伺っていたら、「庄野 寄っといで音頭」をつくったといって、生歌を聴かせていただき、さらにそれを収録したCDまで頂戴してきました。炭坑節の替え歌で、令和2年7月につくられたそうです。いらっしゃったのは、作詞者で唄を歌っておられるSさんでした。この集会所の周辺には、問屋場跡、高札場跡、郷会所跡などが並んでいます。

Img_6755c_20220319175801  真宗仏光寺派の常楽寺。ここは、ネット検索では情報はあまり出て来ません。現地でも、説明板などはありません。仏光寺派は、越後流罪に遭われた親鸞聖人が、赦免された翌年の建暦2(1212)年、京都に帰って、山科の地に草庵を結んだことに始まるそうです。末寺は約390といいます。

Img_6781c_20220319175901 Img_6802c_20220319175901  川俣神社とスダジイの大木。鈴鹿川の流域には、同じ名称の神社が6社あるといわれ、庄野にはそのうち3社があります。いずれも川の合流・分流点ですから、氾濫に悩まされた住民たちが治水を祈って建立したと思われます。由緒は、不詳ですが、江戸時代には貴船神社と称し、元禄16(1703)年に川東の門田より川西古屋敷(現在の字田中)に移つたといいます。「川俣神社のスダジイ(県天然記念物)」は、樹齢300年以上で、樹高約15m、幹周り約5m以上の巨木。川俣神社の先で、庄野宿の西の入り口を通ります。

Img_6858c_20220319175901 Img_6837c_20220319175901  汲川原町交差点で、県道643号の下をくぐります。このあたりで2㎞過ぎ。平野道道標が2.5㎞ほどのところにあります。平野は、鈴鹿川を挟んで対岸(南)の地名。この道標は、田中音吉が設けたもの。田中音吉は、実業家で、米穀・製茶業を営んでいたのですが、前橋や八王子の蚕糸業を視察し、明治20(1887)年、郷里の三重県鈴鹿郡亀山で製糸業を始めました。明治30(1897)年には、亀山共同社(のちの亀山製糸会社)を設立しています。さらに、ここを入ったところに「いぼとり地蔵」があるというので、これは見に行かねばなりません。いぼとり地蔵は、いぼと眼病に霊験あらたかという話です。いつ、どのようにして祀られるようになったかはふめいだそうですが、今も毎年8月には地蔵盆が行われています。

Img_6880c_20220319175901 Img_6904c_20220319175901  真宗本願寺派の富田山真福寺。ここについては、ネットで調べてもとくに情報は出て来ません。真福寺を過ぎると、神戸藩領界石があります。領界石は、東海道を挟んで両側にあります。北側には、山の神などもまつれているところがあります。

Img_6922c_20220319175901 Img_6949c_20220319175901  その向かいに女人堤防碑。汲川原(くみがわら)町の西端には、女性たちが死罪覚悟で築いたという伝説が語り継がれる女人(にょにん)堤防があります。ここは、鈴鹿川と安楽川の合流するあたりで、しばしば川の氾濫が起き人命が失われました。村人たちは堤防を築くことを神戸藩に願い出たものの許可されませんでした。そこで人々は、処罰覚悟で工事に踏み切ったのですが、村人の菊という女性が「工事にかかわった男たちは打ち首になり村は全滅する。私たち女だけで堤防をつくろう」と200人余の女性だけによって工事が行われたといいます。

Img_7040c_20220319175901Img_7016c_20220319175901  2つ目の川俣神社には、中冨田一里塚跡碑があります。ここ中冨田一里塚は、江戸・日本橋から100番目の一里塚です。榎の大木があったと伝わっています。中冨田村は、亀山藩領の東端。川俣神社の創始は不明。主祭神は、大毘古命

Img_7077c_20220319175901 Img_7097c_20220319175901  川俣神社の先にお寺が2つ。真宗高田派の清光寺。ここについて、詳しいことは分かりませんでした。小さなお寺でしたが、ちょうど法事か何かが行われていました。右の写真は、天台真盛宗の富光山常念寺。承応年間(1652~1654年)の開基と伝わり、当初は別の地にあったものの、安政の大地震で倒壊し、同じ村内にあって倒壊を免れた平建寺を買収して、現在地に移転したといいます。このあたりでスタートから3㎞、11時前。

Img_7138c_20220319175901 Img_7142c_20220319175901  少し歩いて、真宗高田派の福萬寺。文永11(1274)年の開創。天台宗に属していましたが、寛文元(1661)年、高田本山専修寺・第14世堯秀上人の化導により高田派に転向し、福萬寺と改めています。福萬寺の掲示板には、右のようなことばが書かれていました。なるほど「煩悩には、終わりがありませ」。

Img_7148c_20220319175901  福萬寺の先で道標「ひろせ道」。

Img_7173c_20220319180001  鈴鹿川の手前まで行ったところにも、Img_7163c_20220319175901 川俣神社。ここには、「無上冷水井跡」があります。織田信孝が神戸城主であった際、ここの水を好んだといいます。ここで11時20分頃、小休止。

Img_7216c_20220319180001  鈴鹿川を和泉橋でわたります。このあたり、旧東海道には土橋がかけられていたといいます。和泉公民館近くに弘法井戸があるという看板がありましたので、見てきました。建屋は新しいのですが、井戸自体は古そうでした。

Img_7220c_20220319180001 Img_7235c_20220319180001  弘法井戸の南には、またもや川俣神社。これで4社目。いずれも鈴鹿川と接していますから、水害などから守ってもらいたいという気持ちの表れでしょう。右は、和泉町公民館。われわれが馴染んだ昭和風そのものの公民館。この敷地には、地蔵尊があります。このあたりでスタートから約4.0㎞

Img_7277c Img_7280c_20220319180001  和泉西バス停の手前に道標2基。いずれにも「のゝぼり道」とありますが、両者とも半分以上埋まってしまっています。バス停の所に地蔵堂。

Img_7295c_20220319180001 Img_7302c_20220319180001  その先、地福寺の手前に明治天皇御小休所碑。明治13(1880)年7月13日に行われた陸軍大演習にいらっしゃったときのもの。かたわらには、古い和泉橋の親柱が保存されています。同じ敷地には、観音堂跡。

Img_7316c  こちらは地福寺。浄土宗のお寺。かつては七堂伽藍の大きな寺だったそうですが、信長の兵火で焼失し、延宝5(677)年に再建されています。

Img_7337c Img_7346c_20220319180001  県道641号線を越えて行くのですが、東海道は、この先で田舎道になります。昔ながらの街道なのですが、こんな風だったのかとか、ここを大名行列も通ったのかなどとも思います。

Img_7352c_20220319180101 Img_7396c_20220319180101  こんなところも通って、JR関西線の井田川踏切を越えると、今日のゴールにしていた井田川駅に至ります(右の写真)。取り敢えず、ここまでで7.3㎞。あちこち寄り道しましたので、案外たくさん歩いていました。12時30分に到着。名古屋行きの普通が出たばかりで、次は、13時29分発でしたから、昼食を食べに行くことに。

Img_7418c_20220319180101 Dsc_0028c  事前リサーチでは、井田川駅近くでは、国道1号線沿いのうどん屋さんか、すき家1国亀山店しかありませんでしたので、すき家へ。昨日あれこれ調べていて、クリーミーオニサラ牛丼と決めていました(微笑)。並盛りが¥550。お新香セット¥150をつけました。並盛りなのに、けっこうな量があり、満腹。

Img_7399c_20220319180101  再び井田川駅に戻って、歩いたのは7.9㎞。13時29分発の名古屋行き快速に乗車。快速になるのは、四日市駅から。桑名には、14時5分着、¥590。写真は、井田川駅前にある日本武尊像。日本武尊の墓とされる能褒野王塚古墳(のぼのおうつかこふん)がここから北へ約2㎞行ったところにあるのです。

Img_7456c_20220319180101  今日の歩数。19,000歩を越えました。現地で歩いたのが、7.9㎞。自宅から桑名駅往復が、2.2㎞で合計10.1㎞でした。本編は、また明日以降ボチボチを書きます。次回は、4月中旬以降。井田川駅から亀山まで歩きます。

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