地蔵

2021年10月22日 (金)

20211016「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第12回「松阪・小津~松阪駅」(その2)……舟木家長屋門、柳福寺、古川水神から薬師寺へ

Rokken2  10月16日の「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第12回「松阪・小津~松阪駅」の本編その2です。その1では、市場庄の町並みを楽しみました。冒頭の画像は、実際に歩いたルートマップその2。近鉄山田線の高架をくぐるあたりまで市場庄の古い町並みが続きます。その先で地蔵尊、道標などを見て、舟木家長屋門、柳福寺、地蔵尊、山の神と続き、松ヶ崎駅の先で古川水神常夜燈と遙拝所へと進んで行きます。

Img_1139c_20211021074301 Img_1149c_20211021074301  近鉄山田線の高架をくぐるところで、スタートから2.5㎞。時刻は11時15分頃。高架の先、左側(東側)に地蔵尊。この先、松阪市久米町に入りますが、その旧久米村の北の入り口に置かれています。村境にこのようにお地蔵様などをおいて、よくないものが村に入ってこないようにしていたと思います。

Img_1156c_20211021074301 Img_1160c  その先、三叉路のところに庚申堂、行者堂、山の神2基、道標、常夜燈が並んでいます。左の写真で、向かって右が庚申堂、左が行者堂。行者堂に木札があり、「金剛童子蔵王権現不動」とあります。中央は常夜燈。右の写真で、向かって右端は「いおちかんのん」への道標。山の神が2基。

Img_1180c_20211021074301  以前来たとき(2019年10月13日 :20191005近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅9日目~伊勢街道、旅人気分で雲出から城下町松阪へ」(その2)……中原神社、常夜燈2基を経て伊勢街道に入り、市場庄のまち並みを再確認)、みえの歴史街道「伊勢街道」のコースマップには「左さんぐう道」と刻まれた道標があるとなっていたのですが、見当たりませんでした。今回よくよく見たら、たぶんこれがその道標。何ということか、ゴミ捨て禁止などの立て看板が3つほどくくりつけられています。これは、いけません。前回は、まさかこんなことになっているとは思いもしませんでした。これでは、気付かないはず。

Img_1202c_20211021074401 Img_1195c_20211021074401  この三叉路で伊勢街道は左折、すぐに右折。その先に久米公会所。3㎞ほどになりますし、11時40分頃でしたので、ここで小休止。敷地内には、「太田雅城翁頌徳碑」がありました。裏の台座には、「久米區建設 昭和十四年一月十五日」とあります。久米はこのあたりの地名。太田雅城翁、本名は、太田政四郎といい、明治9(1876)年生まれ。温厚篤実、誠実な人柄で、大正元(1912)年、区長に推薦され、公共慈善に尽くしたとありました。これにより、昭和12(1937)年2月、この頌徳碑を建てることにしたとありました。

Img_1206c_20211021074401 Img_1210c_20211021074401  公会堂の敷地内、伊勢街道沿いに石標が1基あります。「北距安濃郡界貳(?)……」。下の方は読めませんでした。碑陰も「距/三重縣……/一志郡……」と同じくはっきりせず。里程標と思われます。安濃郡は、現在の津市。

Img_1226c_20211021074401 Img_1234c_20211016181701  続いて、舟木家長屋門。舟木家は、南北朝時代から続いた名家だそうです。江戸時代には、当時の久米村の惣庄屋を務め、後には紀州藩主からお目見えを許されたと伝えられます。長屋門は、舟木家の格式を示しています。特徴は、門の正面中央より下の部屋に施された海鼠壁(なまこかべ)。この長屋門は、寛政6(1794)年に建築され、天保5(1834)年に改修されました。門に向かって右には、武者窓もあります。

Img_1287c_20211021074401 Img_1274c_20211021074401  舟木家のすぐ南に慈眼山寿永院柳福寺。浄土宗のお寺です。観音堂に十一面観音があります。また、あとで訪ねる松阪の豪商三井家小津家の帰依を受けていました。

Img_1313c_20211021074501 Img_1298c_20211021074501  立福寺から伊勢街道に戻って、街道が左折するところに、庚申堂と山の神2基が、道を挟んで向かい合っています。これで、近鉄山田線の松ヶ崎駅の西まで来ました。

Img_1335c_20211021192301  スタートから3.7㎞、県道756号線の高架の手前に古川水神常夜燈・遙拝所があるのですが、常夜燈が見当たりません。古い写真(たとえば、こちらのブログの平成17年7月の記事)を見ますと、向かって左の石柱(「古川水神常夜燈」とあるもの)が常夜燈でした。常夜燈は、万延2(1861)年の建立。奥には小さな祠と、そのかたわらに「古川水神遙拝所」という石碑。ただし、この「古川水神」そのものは、情報がなく、よく分かりません。敷地内には、山の神も2基あります。

Rokken3  県道756号線を越えると、実測ルートマップはその3へ。4㎞を過ぎて、百々川のところに両宮常夜燈。その向かいに「富士大権現碑」があるというのですが、これはよく分かりませんでした。JR紀勢本線を渡ると、薬師寺。

Img_1364c_20211021193801  両宮常夜燈の手前に鍛冶屋さんがあります。「かじ栄 山田鉄工所」という看板がかかっています。ここでも農機具などをつくっていらっしゃるような感じでした。鉄工、溶接の他、農具、刃物と看板に書かれています。こういう鍛冶屋さんは、昔はけっこうあちこちにあったと思うのですが、最近はほとんど見なくなりました。

Img_1371c_20211021194001 Img_1375c_20211021194001  百々川(どどがわ)を塚本橋で渡ります。渡った東側(左手)に常夜燈があります。正面には、「奉納/常夜燈」と、碑陰には「嘉永五年壬子二月吉祥日」とあります。また、台石には「日本橋/○久/室壱」・「紅林氏」と掘られていました。嘉永5年は1852年。対馬に外国船が現れたり、ロシアの軍艦が下田に来港したりした年です。この常夜燈には、電線が引き込まれていますので、電気で今でも点灯するのかも知れません。この常夜燈の向かい側、百々川の手前を右に入ったところに「富士大権現碑」があるのですが、場所を勘違いして、見てきませんでした。百々川を渡ったところにある小公園にあるものと思い込んでいたのです。不覚をとりました。

Img_1389c_20211021194001 Img_1392c_20211021194001  ちなみにその小公園には、気になるものがありました。石柱なのですが、よく見ると「どゝ」「大正○○」とあります(半分くらいは土中に埋まっています)。塚本橋の古い親柱と思われます。小公園の入り口にもそれらしい石柱がありますが、こちらは、ゴミ収集の案内板が貼られていて、ちょっとなんだかなという気もしました。

Img_1411c_20211021194601  利生山延命院薬師寺。天台宗のお寺。聖武天皇の勅願所で、天平2(730)年、行基の開基と伝えられます。まさに古刹。仁王門(写真)と本堂が残っています。所蔵されている「木造薬師如来坐像」は、貞観年間(859~877年)末期の作といわれ、県の有形文化財。仁王門は、入母屋造、本瓦葺で阿吽の仁王像が安置されています。かなり傷んでしまっていて、仁王像は近くでは見られませんでした。もともとのものは「天正年間(1573~93年)の戦乱で灰燼に帰し、棟札からは、承応2(1653)年に再興された本堂の後に、仁王門も再興されたものと思われる」とありました。

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 本堂は修理中でした。戦国時代、織田氏が北畠氏を攻めた大河内(おかわち)合戦の後、講和の条件として、信長の二男・茶筅丸(信雄)が北畠氏の養子となり、永禄12(1569)年から3年間をここで過ごしたといいます。ちなみに、戦の舞台となった「大河内城跡」は、薬師寺から南西に10㎞ほどのところにあります。

Img_1447c_20211021194701  本堂の前には芭蕉句碑があります。「梅が香にのっと日の出る山路かな」とあります。高さ約2m38cmの細長い角柱の碑です。こういう角柱の句碑も珍しい気がします。句は中央に一行で刻まれ、碑陰には何も刻字がありませんので、この句碑は、いつ頃誰が建てたものか不明です。

Img_1329c_20211016181701 Img_1321c_20211016181701  キリが良いので、その2はここまでとしますが、余談を一つ。これもまた「歴史散歩」かも知れません(微笑)。古川水神常夜燈・遙拝所の手前(北)で、TE27レビン。カローラレビンの初代モデルが止められていました。昭和47(1972)年発売。セリカに積まれていた2T-Gという1.6Lツインカムエンジンを載せたモデル。110馬力という、当時では高性能エンジン。あまりにも懐かしく、しばし勝手に眺めてきました(微苦笑)。ちなみに、私は、AE86トレノ、通称「ハチロク」に乗っていたことがあります。実によく回るエンジンで、あちこちを走った記憶があります。青春時代でした(微笑)。

 その3では、いよいよ松阪の市街地に入ります。旧小津清左衛門家、旧長谷川治郎兵衛家など、松阪の豪商の旧宅めぐりからとなります。

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2021年9月27日 (月)

20210925「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第10回「津・栄町~津・高茶屋」(その2)……津の観音さん、大門商店街から浄安寺、閻魔堂、市杵島姫神社から阿漕町神明神社へ

Tsu2  9月25日の「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」の第10回「津・栄町~津・高茶屋」、その2です。その1では、津駅をスタートし、四天王寺など寺巡りをして(というか、この間、お寺しか見るところがありません)、塔世橋を渡りました。冒頭の画像は、詳しいルートマップのその2です。塔世橋からしばらく国道23号線を歩き、2㎞地点で左折し、東に入ります。津観音寺にお参りし、大門商店街を通り、フェニックス通りを越えて岩田川を観音橋で渡ります。

Img_2778c_20210927040401  いきなり余談から。国道23号線から東に入るところに松阪肉の朝日屋があります。たぶん三重県では有名。東京にも支店があるようですが……。有名というのは、たとえば、大晦日にすき焼きを食べるということはよくあると思いますが、ここは大人気の店で、たくさんのお客さんが買いに来る光景が、ローカルニュースで毎年、取り上げられるのです。

Img_2781c_20210927040401  さて、国道23号線から東に入ったあたりの伊勢街道の様子。国道からいうと、1本裏道ということ。国道沿いとはずいぶん雰囲気も変わってきます。ちなみに、この辺を歩いている頃から、空には雲ばかりになってきます。

Img_2787c_20210927040401  観音寺に行くのですが、西側の門から入るため、2.3㎞地点で左折し、いったん伊勢街道からは離れます。観音寺に行く途中、津大門シネマがあります。平成13(2001)年4月に閉館した津東宝劇場の建物や設備を用いて、平成16(2004)年3月に津大門シネマとして開館。しかし、平成21(2009)年7月に閉館。大門シネマと同じビルに入っている喫茶サンモリッツ(ここも歴史があるようです)は、営業しています。

Img_2834c_20210925185001 Img_2805c_20210925184901  恵日山観音寺。地元では、「津の観音さん」と呼ばれています。真言宗醍醐寺派。本尊は聖観音菩薩。日本三大観音の一つとされます(ちなみに他の2つは、浅草観音、大須観音)。和銅2(709)年の建立とされ、室町時代の永享2(1430)年に、将軍足利義教が勅命を奉じ境内に三重塔や恵音院を建立したり、延徳2年(1490)には天台真盛宗の開祖、真盛上人が山内不動院に滞在し、観音堂に於いて説法され天台真盛宗を広められたといいます。ここは、2度ほど訪ねています。四天王寺の詳しいことは、3年前の「勝手にハイキング」の記事にあります(2018年5月 1日 :20180423勝手に近鉄ハイキング「名古屋線・津新町駅から松菱、お城公園など」(その2)……乱歩の墓のある浄明院、阿漕平治に関わる上宮寺、西来寺、大門商店街から津観音、2018年5月 2日:20180423勝手に近鉄ハイキング「名古屋線・津新町駅から松菱、お城公園など」(その3)……津観音から、蜂蜜まん本舗、千寿で天むすをゲットし、お城公園へ)。

Img_2840c_20210925185001 Img_2862c_20210927040601  津観音から南に出ると、大門商店街。観音寺の先の四つ角に道標があります。「すぐ こうのあみだ 左 げこうみち・右 さんぐうみち 左 こうのあミだ」とあります。碑陰には、「明治廿五年十二月立之□セハ松田傳兵衛/桝田伊蔵」。「こうのあみだ」は、津観音寺を指しています。明治25(1892)年建立。大門商店街は、ご多分に漏れず、往時の賑わいはありません。

Img_2868c_20210927040601  道標から西に入ったところに、平治煎餅本店があります。平治煎餅は、津の銘菓の1つ。よくあるカステラ生地の薄焼き煎餅。桑名でいえば、かぶら煎餅。平治煎餅の由来は、こちら。この由来にある平治のエピソードから「阿漕な」ということばができています。店だけ見てきました。さらにこの近くには、蜂蜜まん本店天むすの千寿などがあります。千寿は、天むす発祥の店。ただし、今日は、どれも食べてはいません(笑)。

Img_2860c_20210925185001 Img_2865c_20210925185001  大門商店街には、津宿の本陣跡と、脇本陣跡があります。ただし、今はまったく別の店になっています。本陣跡は百五銀行、脇本陣跡はニューマツザカヤというブティック。

Img_2868c_20210927040601  もう1店。大門商店街の南の端に「とらや本家」。ここは、いちご大福などが名物というか、いちご大福発祥の店だそうです。そのいちご大福が生まれたのは昭和61(1986)年。とらや本家のご主人とおかみさんが、たまたま休憩のときに、あまった大福餅にいちごをのせて食べたところ、これが意外に美味しかったことから、約1ヶ月の 研究を重ね、その年の2月13日から販売を開始。その後も、お客さんへの店頭での試食やアンケートを重ねて今のスタイルになったということです。他にもさまざまなフルーツ大福があり、近鉄ハイキングで立ち寄ったときに、「なし大福」を食べたことがあります(2019年9月11日:20190907近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅7日目~伊勢街道、旅人気分で津のまちから垂水へ」(その2)……平治煎餅本店、津観音寺、大門商店街、とらや本家、閻魔堂、市杵島姫神社から「まんどさん」)。この日は、「もも大福」という看板が出ていましたが、立ち寄っていません。

Img_2872c_20210925185001  フェニックス通りを渡ります。津市中央と津市なぎさまちとを結んでいます。中央分離帯にフェニックスが植えられていますから、このように呼ばれています。近鉄道路までは、昭和42(1967)年に開通しています。フェニックスは八丈島産で、6m間隔で99本植えられているそうです。

Img_2882c_20210925185001  スタートから3.3㎞で岩田川に行き当たります。本来の予定では、前回、ここまで歩いて、近鉄津新町駅に向かうはずでした(笑)。なので、ここまでは、前回の宿題をしていた感じ。岩田川にかかる観音橋を渡っていきます。この橋について詳しいことは分かりませんが、その名前からして、観音寺の参道というような意味合いがあるのかも知れません。

Img_2884c Img_2894c_20210927040601  観音橋の数10m上流に国道23号線の岩田橋がかかっています。橋の北詰には、松菱百貨店。昭和11(1936)年5月、三重県初の大型百貨店である大門百貨店として開業した老舗。駐車場に車が溢れていましたが、この日は「全国うまいもん博」を開催していたためか? 岩田橋南詰の西側には、百五銀行本店(右の写真の中央のビル)。明治11(1878)年12月、旧津藩(藤堂氏)の武士たちにより、国立銀行条例に基づく第百五国立銀行として設立されています。

Img_2898c_20210927065801 Tsu3  岩田橋のところからが、本来の第10回伊勢詣りツアーのスタート。詳細なルートマップはその3へ。津球場の東あたりは、国道23号線を歩きます。浄安寺に立ち寄ってから、岩田交差点で左折し、東へ。真教寺、市杵島姫神社、教圓寺と進み、阿漕の町へ入ります。阿漕の町には古い家並みが残っています。ここで、阿漕町神明神社にお参り。

Img_2938c_20210927065801 Img_2917c  ノーチェックでしたが、岩田山浄安寺。浄土宗。国道から立派な鐘楼門が見えましたので、立ち寄って来ました。室町時代末期の永禄3(1560)年、玉蓮社瑞誉上人秀等大和尚により創建されました。桶狭間の戦いがあった年です。

Img_2921c_20210927065801  本堂の前に法輪があり、「法輪をまわしましょう」という説明がありました。法輪があるのは、初めて見ました。車の輪が回り続けるように、未来に向かって永遠に広められていく仏の教え、すなわち仏法を象徴しているということです。法輪をまわすと、お釈迦様の御経をすべて読んだことになるそうです。

Img_2927c_20210927065801  また、境内には平子鐸嶺(ひらこたくれい)の墓所があります。平子鐸嶺(明治10(1877)~明治44(1911)年)という方は知りませんでしたが、三重県出身の明治時代の美術史家。東京美術学校を卒業。若くして亡くなっています。内務省古社寺保存会委員で、法隆寺非再建論をとなえました。

Img_2931c_20210927065801  平子鐸嶺墓所のとなりに「聯芳塔(れんぽうとう)」というものがありました。墓のようですが、現地ではよく分かりませんでした。これを書くに当たって、ネットでいろいろ調べてみたら、お寺の歴代住職の墓をこう呼ぶことがあるようです。なるほどと思うと同時に、知らないことは、本当にたくさんあるものだとも思います。

Img_2960c  岩田交差点を左折し、東南へ向かいます。この頃から空模様が一段と怪しくなり、雨が当たってきました(苦笑)。真教寺につく前からやむなく、傘を差して歩き始めるほど。スタートから5㎞を歩いて、阿古木山真教寺(あこぎざんしんきょうじ)。天台宗。通称は、「閻魔堂」。慶長19(1607)年、津藩第2代藩主である藤堂高次公が建立したと伝わっています。ここは、津城下への南の入り口に当たります。悪霊や疫病が津の町に入らないようにという願いが込められているのです。

Img_2952c_20210927165601 Img_2949c_20210927165701  御堂の中には、閻魔王座像や、円空作という十一面観音立像が安置されています。十一面観音立像は、総高236cmで円空仏としては屈指の大きさだそうです。左の写真では、正面が閻魔王座像、向かって左が円空作の十一面観音立像。余談ですが、この目の前に三重交通のバス停があり、その名もまさに「エンマ堂前」。我々が閻魔堂の中を覗いて降りようと思ったら、ちょうどバスが来て、乗車扉が開きました(苦笑)。乗ってしまうと、この日のゴールである高茶屋駅のすぐ近くにあるイオンモール津南まで行けたのですが、いくら何でもそういう訳にはいきません。

Img_2946c_20210927165601  閻魔堂には、その手前に(西に)地蔵堂もあります。中には、お地蔵様が3体いらっしゃいました。

Img_2973c_20210927170801  閻魔堂に並んで、市杵島姫神社(いちきしまひめじんじゃ)があります。この写真で、向かって左が閻魔堂、右が市杵島姫神社

Img_2963c_20210925185001  市杵島姫神社は、通称「弁財(べざい)さん」。それによって、このあたりの地名が、津市下弁財(しもべざい)町。この付近にあった庚申塚の境内に、建武年間(鎌倉時代から室町時代(南北朝時代)にかけての1334~1336年まで、後醍醐天皇の代の元号)、伊勢の国司であった北畠氏が守り本尊としていた市杵島姫大神を祀って町の産土神として崇めたといいます。主祭神は、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)。相殿神は、建速須佐之男命、宇迦之御魂命、大物主神、猿田毘古神、大山津見命、天照皇大御神、徳川家康、事比良神。万物の生命をつかさどる水の神、音楽芸能、子孫繁栄の神様として崇敬されています。この神社には、青銅製の「湯立釜」があります(市指定文化財)。釜屋町(現・北丸之内)の辻氏と並び称された中山村(現・津市栗真中山町)の鋳物師・阿保氏の作(元文5(1740年鋳造)。

Img_2968c  境内には樹齢が、400年とも500年ともいわれる、大きなイチョウの御神木があります。周囲は約4m。昭和20(1945)年の津空襲の時、湯気のようにもうもうとしたものが出て御神殿をつつみこみ焼失を防ぎ、風の向きも変え、火の手を止めたといわれています。

Img_2986c_20210925185001 Img_2984c_20210927165801  市杵島姫神社からすぐのところに一乗山教圓寺。真宗高田派のお寺。落ち着いた良い感じのお寺ですが、由緒などは不明(案内板はなく、ネット検索でも情報は出て来ません)。

Img_2990c_20210927165801  閻魔堂や市杵島姫神社から南の伊勢街道沿いには、古い家がかなりたくさん残っていて、風情を感じます。たとえば、こちらのお宅。大垂があり、連子格子になっています。

Img_3010c_20210925185001  教圓寺から南へ150mほどのところに阿漕町神明神社があります。ここは一風変わった神社で街道脇に鳥居があるのですが、そのすぐ奥が拝殿となっています。鳥居も拝殿も小振り。江戸時代の絵図には「一万度祓(いちまんどはらい)納社」として描かれているそうです。説明板によると、悪病が流行して町中がとても苦しんだ時に、人々が相談して阿漕町の中心部に神社を祭り祈祷したところ、病が治まったことから、町の守護として信仰を集めるようになり、毎年4月8日に大祭が催されるようになったといいます。

56aa99c5 50fe27db  珍しいことに、御祭神(大日孁貴命(オオヒルメノムチノミコト;天照大神の異称)は屋根に作られた天窓の上に祭られています。これら2枚の写真は、2019年5月10日に撮影したもの(20190428近鉄ハイキング「『阿漕』砂浜ハイキングと津グルメ散策」へ(その2)……教圓寺、神明神社、山二造酢を経て結城神社へ)。この近鉄ハイキングの時は、氏子の方がいらっしゃり、許可をいただいて、拝殿前でかがみ込んで見上げて撮ったもの。このように天窓の上に神様がいらっしゃるので、地元では「まんどさん」と呼ばれています。

Img_2996c_20210925185001 Img_3000c_20210927180701  「まんどさん」がどんな風になっているのか疑問だったのですが、以前はこの両側に家が建っていて裏側は覗けませんでした。この日は、向かって右が更地になっていましたので、裏に回れました。ご覧のように、奥(東側)の屋根から出た柱に本殿(といっていいのでしょうが)が固定されていました。この本殿を、上左の写真にあるように、拝殿にある天窓から拝むという仕組み。なぜ、わざわざこのようなスタイルにしたのでしょう? きっと理由はあったと思うのですが、ネットで調べる限りは不明。その2はここまで。その3は、阿漕町神明神社殻150mほど先にある薬師庵跡、松原寺など阿漕を歩いて、国道23号線を西に越え、垂水に入っていきます。

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2021年9月 4日 (土)

20210828「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第8回「津・河芸~津・一身田」(その2)……旧上野宿から高山地蔵尊、松林寺、中瀬八幡神社、痔神社を経て栗真の町へ

210828isemairi82  8月28日に歩いてきた「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」の第8回「津・河芸~津・一身田」の本編その2です。その1では、旧上野宿の満流寺まで来ました。スタートからほぼ2㎞、時刻は、10時20分頃です。スタートしたのが9時半でしたから、まだ1時間も歩いていません。冒頭の画像は、詳細なルートマップのその2。その2では、光勝禅寺にお参りして、朝陽中学校前で河芸郡役所跡、国道23号線を東に渡って、高山地蔵尊、地蔵尊、松林寺、中瀬八幡神社と回って行きます。

Img_2956c_20210829150801 Img_2926c_20210828200101  輝雲山光勝禅寺。伊勢上野城跡から700mほどのところにあります。伊勢街道からは少し西に入っています。臨済宗妙心寺派のお寺。伊勢上野藩主・分部光嘉が嫡男・光勝の菩提を弔うために、慶長6(1601)年に開創しました。光勝(みつかつ)の菩提寺ですから、光勝寺(こうしょうじ)ということ(光勝は29歳で病死)。ご本尊は、宝冠釈迦如来。分部光嘉は文禄3(1594)年、豊臣秀吉の直参となり、伊勢上野城主(河芸町)1万石を領しました。慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いで東軍に加わり、2万石の伊勢上野藩主となったのですが、光勝寺開創後亡くなっています。宝暦元(1751)年、光勝寺は現在地に移転しましたが、明治30(1897)年に焼失。その後再建。

Img_2933c_20210903174801Img_1241c_20210903175101  境内には、観音堂があり、そこに祀られている馬頭観音は初午観音と呼ばれ信仰を集めています。右の写真は、2019年2月 2日の撮影(20190202近鉄ハイキング「名所・旧跡めぐり お江の里と海の幸」へ(予告編))。これで、上野宿を見て回ってきたことになります。

Img_2973c_20210829150901 Img_2979c_20210903180201  津市立朝陽中学校のところまで来ました。ここには、かつて安芸郡河芸町(あげぐんかわげちょう)役場がありました。ほぼ3㎞地点。昭和29(1954)年10月、河芸郡豊津村・上野村・黒田村が合併して河芸郡河芸町が発足。平成の大合併(平成18(2006)年)で津市と合併。役場の庁舎は、それに先だって平成12(2000)年に移転し(現在の津市河芸支所)、旧庁舎は平成13(2001)年3月に解体されました。朝陽中学校の前で国道23号線を地下道でくぐります。

Img_2985c Img_2993c_20210829150901  国道23号線を越えてすぐに、高山地蔵尊。ここは、上野城時代に罪人を処刑する場所であったといわれます。地蔵は処刑された武士の霊を慰め、この地で不慮の災害にあった人の菩提を弔うために建てられたといいます。右は、その先ある別の地蔵尊。こちらの由緒は不明。この2つの地蔵尊は、リソースによって写真and/or説明が入れ替わっていたりして、過去にはちょっと混乱しましたが、この記述で間違いないと思います。それにしても、右の写真の地蔵尊、由緒不明の割に屋根が立派。

Img_2999c_20210904032601 2つの地蔵尊を見て、さらに伊勢街道を進みます。詳細ルートマップその2には書きませんでしたが、松林寺の手前に「常夜燈」と彫られた石柱が建っています。省略してしまいましたが、その1で書いた上野神社の社号標のところにも同じようなものがありました。もちろん、この石柱が常夜燈ではありません。ここに常夜燈があったということなのでしょうか。街道歩きをしていても、あちこちにちょっと考えるとよく分からないもの・ことがあります。

Img_3003c_20210829150901 Img_3007c_20210829150901  玉光山松林寺。4㎞地点の手前で、11時頃。松林寺と中瀬八幡神社とが隣り合っています。松林寺は、天台真盛宗のお寺。詳細については、不明。

Img_3017c_20210829150901 Img_3019c_20210829150901  その隣に中瀬八幡神社。ここは、中瀬金城の守護神。明治41(1908)年、上野神社に合祀されたものの、昭和26(1951)年に分祀されました。ここで11時頃でしたので、休憩したのですが、草ぼうぼうでヤブ蚊がたくさん。蚊に刺されながら、20分ほど滞在(苦笑)。

Img_3023c_20210904034301  座るところがありませんでしたので、失礼して拝殿前に腰を下ろして、ヤブ蚊を追い払いながら水分補給とおやつ。休憩しながら、目の前の景色を見ていたら、何となく、「子どもの頃見た、夏休みの景色」という感じがして写真を撮ったものの、私のイメージからはかなり離れた写真しか撮れず。さほどマジメに写真のトレーニングに励んできた訳ではありませんが、改めて「写真は難しいなぁ」と独り言。

210828isemairi83 Img_3030c  ヤブ蚊から逃げるため、いつもの休憩よりも早く退散。伊勢街道は、国道23号線中瀬交差点で、その23号線と同じルートを辿るのですが、この中瀬交差点の東にあるのが、痔神社。私自身は、2度ほど訪ねています(たとえば、2019年9月 6日:20190901近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅6日目~伊勢街道、旅人気分で河芸から潮風薫る江戸橋へ」(その1)……豊津上野駅をスタート。屋根の上の鍾馗様を見つけ、痔神大明神にお参り、権現山観音寺と常夜燈)。

Img_3043c Img_3039c_20210829164101  痔神社の起源、由来については不明ですが、土地の神である「地神」から「痔神」へと呼び名が変わったという説があります。参詣する方は地元だけでなく、県内や、豊橋、名古屋、大阪からもあるといいます。毎年4月3日が祭礼日。この日にはとくにたくさんの方がお参りされるそうです。ご神体は白蛇であるといわれ、海から渡ってきたと伝わっています。明治40(1907)年頃には、45cm位の小さな須屋(仮小屋)の祠でしたが、大正の末頃に一身田、森の一女人が、痔疾がこの神社の霊験によって治癒したお礼に大きな祠を奉納し、これよって痔神として霊験あらたかであることが知られて、信奉者も増えたといいます。

Img_3035c_20210828200901 Img_3045c_20210904035801  ご神体は、影重の神社へも渡るともいわれているそうです。影重の神社とは、ここから北東へ700mほど行ったところにある八雲神社であろうと思います。国道23号線中瀬交差点に戻るときに気づいたのですが、右の写真のように、「ぢ神参道」という石柱が建っていました。こういう石柱が建っているということは、かなりたくさんお参りする人があったのだろうと思えます。

Img_3065c_20210829150901  中瀬交差点からは1㎞ほど国道23号線を歩きます。日陰もないので、暑いこと。さらに、歩道は車道とは分離されているとはいえ、近くを車がビュンビュン走るのは、あまり気持ちの良いことではありません。スタートから5㎞を過ぎ、栗真小川町に入って、伊勢街道は国道23号線から右(西)に逸れて行きます。

Img_3072c_20210904040601  栗真小川町に入ってしばらく行くと、民家の敷地に地蔵堂。地蔵堂は、あちこちにありますが、由来が分からないものもたくさんあります。地元の方に伺うと分かるのでしょうが、街道マップやネット情報には、よほど有名でないものは出て来ません。ここも由来は不明。

Img_3082c_20210829150901  スタートから6㎞ほどで、栗真山善行寺。真宗高田派。境内に道標があり、「是より尓しい志てん道」と刻まれていると「ちゃんと歩ける伊勢参宮街道・善光寺街道」にも、「みえの歴史街道」のみえの歴史街道」の「伊勢街道」のマップにもあったのですが、見つけられず。境内にあるとか、裏庭にあるとか、情報源によっていろいろ(苦笑)。迷います。

Img_3115c_20210829151001 336da59c 善行寺のすぐ南に観音寺が見えています。宗派や、詳細については不明。熊野勧進十界曼荼羅図(津市文化財)が一幅収められています。これは、江戸時代初めのもので、縦132.2cm、横126.2cmの地獄・極楽の絵。熊野信仰の布教と関わって描かれたもので、熊野比丘尼が折りたたんで携行し、勧進や布教の道具として使用したといいます。熊野勧進十界曼荼羅図は三重県に数多く残っているそうです。

Img_3109c_20210829151001Img_3100c_20210829150901  境内には、いろいろのものがありました。まずは、馬頭観音の石碑。馬頭観音は、観世音菩薩の化身で、六観音の一つ。人身で、頭が馬のものと、馬の頭飾りを戴くものとがあり、馬頭は諸悪魔を下す力を象徴し、煩悩を断つ功徳があるとされます。しかし、一般には馬の無病息災の守り神として信仰されています。馬頭観音の石碑の脇に小さい石碑。「子」という文字が見えますので、「子安観音」かという気がします。この他、彰功碑、地蔵堂があります。彰功碑は、小菅宣弘を顕彰する碑です。小菅氏は、この観音寺を再建するに当たってとくに功績があったと刻まれています。再建3周年を記念して、昭和45(1970)年3月に建立されています。

Img_3119c_20210829151001 観音寺の門前(南側)には、常夜燈があります。竿石の正面には「太神宮」、右側に「権現」、碑陰に「文化三丙寅年六月」、左側には「金比羅大権現」とあります。文化3年は、1806年。「太神宮」はもちろん、伊勢神宮のこと。この常夜燈の西側には石柱が建っています。が、かなり風化が進み読めません。「七月三日」という文字は分かりましたが、他は残念ながら不明。碑陰も読めませんでした。常夜燈は、火袋が失われています。伊勢街道沿いにあったのかも知れません。

 その2は、ここまで。その3では、逆川神社を訪ね、昼食を摂ってから、近鉄高田本山駅へゴールの予定。

 

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2021年8月29日 (日)

20210828「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第8回「津・河芸~津・一身田」(予告編)

210828isemairi80  8月28日に行ってきた「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第8回「津・河芸~津・一身田」の予告編です。三重県も新型コロナの感染者数が急増し、緊急事態宣言が発令されています。しかし、この猛暑の時期に旧街道歩きをしている人はめったにいません。電車も換気が行われていますし、かなり空いています。3密回避、マスク着用など感染予防には十分注意した上で出かけてきました。この日は、津市河芸町から津市一身田平野までの8.4㎞。コースは、冒頭の画像の通り、近鉄名古屋線千里駅をスタート。田中地蔵堂、最勝寺、弘法井戸、光勝禅寺、高山地蔵尊、松林寺・中瀬八幡神社、痔神社、善行寺、観音寺から逆川神社を経て、近鉄高田本山駅まで。ルートは、ほぼ国道23号線にそっています。ゴール前に、餃子の王将三重大前店でランチ。桑名での最高気温は、36.5℃。コースは、割と海に近いので、風が多少はあったものの、やはり暑くて疲れました。

Img_2737c_20210829150701  近鉄桑名駅を8時42分に出る五十鈴川行き急行に乗車。白子駅に9時12分に到着し、9時14分発の津新町行き普通に乗り換え。千里駅には9時21分に到着。¥570。9時半にスタート。ちなみに、千里駅で下車したのは、我々2人だけ。千里駅から近鉄名古屋線の踏切、国道23号線の千里駅交差点を越えて、西に向かいます。

Img_2750c_20210829150701 Img_2767c_20210829150701  300mほどで田中地蔵堂。民家の間に建っていますが、由緒などは不明。地蔵堂の名前は、近くを流れる田中川に由来するかと思います。このすぐ先、大蔵橋で田中川を渡ります。渡ったところが、上野宿の北の入り口。橋を渡ったところに「田中川河川改修竣功記念碑(昭和59年の建立)」。昭和49年の水害からの復旧工事が終わったことを記念するものですが、その脇に小さな説明板があります。2年前の5月にここを歩いたときには気づかず。その説明板には、「常夜燈があり、向かい側には接待所・光明院もあった」と書かれていました。常夜燈は今はありません。「接待所・光明院」は、前回見た「甕釜冠地蔵」のところが光明院であったと「ちゃんと歩ける伊勢参宮街道・善光寺街道」にも、こちらのサイトにも書かれています。「みえの歴史街道」の「伊勢街道」のマップには、甕釜冠地蔵は「茶を供した休憩所」としかありませんが……。後で触れる高山地蔵尊の説明も、リソースによって違っていたりします。

Img_2789c  スタートから1.1㎞ほどのところに上野公民館。伊勢街道・上野宿の説明が詳しく書かれていて、参考になります。上野宿は、上野藩主・分部光嘉(わけべみつよし)が城下町として整備した約2㎞の町並みです。元和5(1619)年に分部氏が、近江国大溝(現在の滋賀県高島市)へ転封になり、上野城は廃城となりますが、その後も伊勢街道の宿場として発展したといいます。家数300余軒、本陣・脇本陣・問屋・御七里(七里飛脚か?)があり、宿も27軒を超え、妓楼も7~8軒ありました。宿内の街道は防衛のためヶ所で屈折しており、道幅は9尺だったそうです。さらに、ここは、「秋田家住居址で、明治天皇御小休所(二回)」という案内板もありました。明治天皇の三重県行幸は、明治13(1880)年7月などに行われ、また、伊勢神宮参拝は、明治2(1869)年3月12日(新暦では4月23日)、明治5(1872)年、明治13(1880)年、明治38(1905)年の4回行われています。このいずれかの時、ここにあった秋田家でお休みになったということでしょう。

Img_2796c_20210829150701  公民館のすぐ先に上野神社の社号標。上野神社は、この先、坂を200mほど登ったところにあります。またその近くには、圓光禅寺もあります。圓光禅寺は、紅葉の名所。いずれも2019年2月2日の近鉄ハイキングで訪ねましたので(20190202近鉄ハイキング「名所・旧跡めぐり お江の里と海の幸」へ(その1)……千里駅をスタートし、上野神社、円光寺へ)、パス。この写真で奥に写っている最勝寺へ入ったことがありませんでしたので、そこへ。

Img_2806c_20210829150701 Img_2810c_20210829150701  金光山最勝寺。真宗高田派のお寺。明応4(1493)年の創建とされます。境内には、伊勢上野城にあった地蔵を延命地蔵として安置しています(と書きつつ、見ては来たものの、写真は撮り忘れ)。ここは近鉄電車からもよく見えます。ということはお寺からの眺めは良好のはず。それが右の写真。伊勢湾までよく見えました。

Img_2832c_20210829150801 Img_2839c  最勝寺から伊勢街道に戻り、スタートから1.5㎞ほどのところに、虫籠窓と連子格子、土蔵のある旧家。この他、旧上野宿あたりの伊勢街道沿いには、古い家がたくさん残っていて、情緒があります。

Img_2863c_20210829150801 Img_2849c_20210829150801  弘法井戸。上野神社社号標から300mほどのところ、東側に弘法井戸。石造の弘法大師を祭る御堂の前に井戸家形があり、中は深さ2mほどの貯水槽になっていて、清水を湛えています。昔、上野村を通りかかった旅の高僧(弘法大師)が一軒の農家に立ち寄り、水を所望しました。その家の人が、このあたりは赤水しかでないので、きれいな水を遠くまで汲みに行き、差し上げたところ、大師は大変喜ばれ、「さぞ日々の飲み水に困っている事でしょう。ここを掘ってみなさい」と錫杖でお指しになったところを掘ると、清水があふれ出たというのです。弘法大師のお告げにより井戸を掘ったという伝説は全国各地にありますが、弘法大師の時代にはまだ伊勢街道はありませんでした。大師伝説とこの清水を結び付けて弘法井戸と名付けたと思われます。付近の家々で井戸講を組織し、清掃管理や法要を営んでいます。伊勢街道が出来て、多くの人が通るようになり井戸の水が旅人に利用されるようになり、この大師堂も出来たものと思われます。伊勢街道を旅する人々も立ち寄り、この水で疲れを癒やしたといいます。昭和35(1960)年、町営上水道が開設されるまでは生活用水として重要な役割を果たしてきたそうです。

Img_2866c_20210829150801 Img_2872c  弘法井戸のすぐ先に、枡形と「道路改修記念碑」があります。伊勢上野城跡へ上る細い道の手前。この伊勢街道・上野宿には戦国時代、戦術上3ヶ所の枡形がありました。道幅が狭く、直角に曲がっているため、時々人馬が衝突したので、有志が北角の家を購入し、道路を拡幅したときの記念碑だそうです。確かにここはクランクではなく、カーブが緩やかになっていました。記念碑は風化してしまい、読めません。

Img_2879c  伊勢上野城跡への登り口。民家の前の細い道を上っていきます。標高40mほどのところに伊勢上野城跡があり、今は、本城山青少年公園となっています。伊勢上野城は、織田信長の弟、信包(のぶかね)が、津城の仮城として元亀元(1570)年、分部光嘉に命じて改修築城したもの。天正8(1580)年、津城の完成により、信包が居城を移したため、分部光嘉が城代となります。文禄3(1594)年、信包は豊臣秀吉によって改易されますが、光嘉は豊臣家の直参となり、伊勢上野城1万石を領し、光嘉が城主に任ぜられて独立した城となりました。元和5(1619)年、光嘉の養嗣子・光信は近江国大溝藩(現在の高島市周辺)へ移封となったため、廃城となりました。その後、津藩主・藤堂高虎により取り壊され、現在は城郭の跡のみ残っています。ちなみに、浅井長政お市の夫、三姉妹(茶々、初、江)の父;天文14(1545)~天正元(1573)年)が自害した後、信長の計らいにより、お市と三姉妹が移り住んだのが、この伊勢上野城とされていますが、近年の研究では、お市の方と三姉妹を保護したのは信包ではなく、信長、信包、お市達の叔父である織田信次であることが明らかとなっており、上野城に滞在していたとされるのは誤りで、守山城(尾張国)で過ごしていたのが正しいとする説もあります(こちら)。私は、これまでに2回登っています(たとえば、2019年2月11日:20190202近鉄ハイキング「名所・旧跡めぐり お江の里と海の幸」へ(その2)……伊勢上野城跡、光勝寺から八雲神社でお祓いを受ける)。この日は、暑さもあってパス。

Img_2886c_20210829150801  スタートから2㎞の手前に「道路元標跡」。上野村の道路元標があったところ。ここの道路元標は木製で、現物は損傷が激しいので、河芸中央公民館に保管されています。本体は木製の四角柱、頂上部は銅板製だそうです(こちらにその写真があります)。

Img_2956c_20210829150801 Img_2926c_20210828200101  続いて、輝雲山光勝禅寺臨済宗妙心寺派のお寺。伊勢上野藩主・分部光嘉が嫡男・光勝の菩提を弔うために、慶長6(1601)年に開創しました。光勝(みつかつ)の菩提寺ですから、光勝寺(こうしょうじ)ということ(光勝は29歳で病死)。ご本尊は、宝冠釈迦如来。分部光嘉は、文禄3(1594)年、豊臣秀吉の直参となり、伊勢上野城主(河芸町)1万石を領しました。慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いで東軍に加わり、2万石の伊勢上野藩主となったのですが、光勝寺開創後亡くなっています。宝暦元(1751)年、7代の寂現和尚により光勝寺は現在地に移転しましたが、明治30(1897)年に焼失。その後再建。

Img_2973c_20210829150901  津市立朝陽中学校の前までやって来ました。ほぼ3㎞地点。ここにはかつて旧・河芸町役場がありました。昭和29(1954)年10月、河芸郡豊津村・上野村・黒田村が合併して河芸郡河芸町が発足。平成の大合併(平成18(2006)年、津市と合併)。役場の庁舎は平成12(2000)年に移転し、旧庁舎は平成13(2001)年3月に解体されました。朝陽中学校の前で国道23号線を地下道でくぐります。

Img_2985c Img_2993c_20210829150901  高山地蔵尊。ここは、上野城時代に罪人を処刑する場所であったといわれます。地蔵は処刑された武士の霊を慰め、この地で不慮の災害にあった人の菩提を弔うために建てられたといいます。伊勢上野城は、元亀元(1570)年、織田信包が津城(安濃津城)の仮城として分部光嘉に築城させた城です。右は、その先にある地蔵堂。こちらの由緒は不明。近鉄ハイキングの伊勢詣りのときは、資料によって説明が違って、混乱しましたが、今回の写真、説明が正しいと思われます(2019年9月 6日:20190901近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅6日目~伊勢街道、旅人気分で河芸から潮風薫る江戸橋へ」(その1)……豊津上野駅をスタート。屋根の上の鍾馗様を見つけ、痔神大明神にお参り、権現山観音寺と常夜燈)。

Img_3007c_20210829150901 Img_3019c_20210829150901  4㎞地点の手前で、11時頃。松林寺と中瀬八幡神社とが隣り合ってあります。まずは、玉光山松林寺。天台真盛宗のお寺。詳細については、不明。中瀬八幡神社は、中瀬金城の守護神。明治41(1908)年、上野神社に合祀されたものの、昭和26(1951)年に分祀されました。中瀬八幡神社で休憩したのですが、草ぼうぼうでヤブ蚊がたくさん。蚊に刺されながら、30分弱の休憩(苦笑)。

Img_3030c Img_3039c_20210829164101  国道23号線中瀬交差点で、東に立ち寄り。あの痔神社です。私自身は、2度ほど訪ねています(たとえば、2019年9月 6日:20190901近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅6日目~伊勢街道、旅人気分で河芸から潮風薫る江戸橋へ」(その1)……豊津上野駅をスタート。屋根の上の鍾馗様を見つけ、痔神大明神にお参り、権現山観音寺と常夜燈)。起源、由来については不明。参詣する方は地元だけでなく、県内や、豊橋、名古屋、大阪からもあるといいます。毎年4月3日が祭礼日。この日にはとくにたくさんの方がお参りされるそうです。ご神体は白蛇であるといわれ、海から渡ってきたと伝わっています。明治40(1907)年頃には、45cm位の小さな須屋(仮小屋)の祠でしたが、大正の末頃に一身田、森の一女人が、痔疾がこの神社の霊験によって治癒したお礼に大きな祠を奉納し、これよって痔神として霊験あらたかであることが知られて、信奉者も増えたといいます。

Img_3065c_20210829150901  国道23号線に戻り、1㎞ほど国道を歩きます。日陰もないので、暑いこと。さらに、歩道は車道とは分離されているとはいえ、近くを車がビュンビュン走るのは、あまり気持ちの良いことではありません。栗真小川町に入って、伊勢街道は国道23号線から右(西)に逸れて行きます。

Img_3082c_20210829150901  スタートから約6㎞のところに栗真山善行寺。真宗高田派。境内に道標があり、「是より尓しい志てん道」と刻まれていると「ちゃんと歩ける伊勢参宮街道・善光寺街道」にも、「みえの歴史街道」のみえの歴史街道」の「伊勢街道のマップにもあったのですが、見つけられず。

Img_3109c_20210829151001 Img_3119c_20210829151001  善行寺のすぐ南に権現山観音寺。宗派や、詳細については不明。熊野勧進十界曼荼羅図(津市文化財)が一幅収められています。馬頭観音の石碑、彰功碑、地蔵堂があります。寺の南に「太神宮」と刻まれた常夜燈があるのですが、火袋が失われています。伊勢街道沿いに合ったのかも知れません。

Img_3137c_20210829151001 Img_3150c_20210829151001  逆川(さかがわ)神社。主祭神は、伊邪那美命。後一条天皇の頃(11世紀前半)の創建と伝わっています。この神社は、しもやけの宮として知られ、境内にある弁天池や逆川の水を、土用の丑の日にくみ取り手足につけるとひびやしもやけ、下の病に効くといわれ、昭和の初期ごろまでは、はるばる東京・大阪・京都からもこの水を取りに来る人がいたといいます。社殿の裏手には弁天池があります。かつては立派な松林があったそうです。

Img_3160c_20210829151001 Img_3180c_20210829151001  こちらが、社殿の背後にある弁天池。今はきれいではありません。珍しい名称の神社ですが、その由来は、この神社の南側に逆川が流れていることから。この川は東から西へ流れているので、逆川と名付けられました。このあたり、ほとんどの川は、西から東へ流れ、伊勢湾に注ぐのですが、流れが逆向きということです。写真は、神社の南で撮ったもの。ただし、以前に来たときと同様、水がよどんでいて、流れてはおらず、西に流れているのかどうかは確認できませんでした。これで、この日の立ち寄り先はコンプリート。

Img_3187c_20210829151001  逆川神社の南あたりの伊勢街道。津の地酒である「寒紅梅酒造」の看板があって気になりますが、酒蔵巡りではありませ(苦笑)。安政元(1854)年創業で、現在で7代続いているそうです。「寒紅梅」というお酒は、飲んだことがありません。酒屋さんで見つけたら試してみましょう。

Img_3199c_20210829151001 1630122847678c  ゴールの前に、昼食。国道23号線栗真中山町交差点近くにあった餃子の王将三重大前店へ。スタートからは7.8㎞、12時40分頃。この日は、ことのほか暑かったので、「餃子でビールを1杯やったら堪らないだろなぁ」といいつつ、餃子と焼きそばに留めました(苦笑)。¥682。もっと若かったら、ビールを飲んだと思いますが、前期高齢者がこの状況で飲んだら、しばらく動かなくなりそうです。13時15分頃昼食を済ませ、近鉄高田本山駅へ。

Img_3208c_20210829151001  駅の手前で志登茂川を渡ります。この下流で、非常勤先の近くを流れています。また、江戸橋もかかっています。その江戸橋は、伊勢街道。次回、江戸橋を渡ります。

Img_3228c Img_3238c_20210828200001  ゴールの高田本山駅には、13時25分頃到着。駅の手前の踏切で、ちょうど「ひのとり」が通過。何度見てもカッコイイ電車です。ちなみに、真宗高田派本山の専修寺は、ここから西へ1.4㎞ほど。13時34分発四日市行き普通に乗車。白子駅に13時49分に到着。13時51分発の名古屋行き急行に乗り換え、桑名駅には、14時22分着。¥700。

Img_3278c_20210828200101  この日現地で歩いたのは、8.4㎞。歩数は、19,331歩。これには、自宅から桑名駅往復の2.2㎞も含みますので、この日のトータルの歩行距離は、10.6㎞。さすがに疲れ、帰宅後は、午睡(というか、爆睡していました)。予告編なのに、かなりの長編になってしまいました。本編は、また明日以降、ボチボチと。

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2021年8月24日 (火)

20210822「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第7回「鈴鹿・白子~河芸・千里」(その1)……近鉄白子駅をスタート、伊勢型紙資料館、龍源寺、高札場跡、久留真神社、道標、鈴鹿市伝統産業会館、西方寺から子安観音寺へ

210822shiroko0  8月22日に行ってきた「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」の第6回です。今回は、本編その1。三重県も新型コロナの感染者数が急増してはいますが、この時期、旧街道歩きをしている人はめったにいません。電車も換気が行われていますし、昼食は時間がずれていて、店は空いており、しかも黙食。感染予防には十分注意した上で、この日は、鈴鹿の白子から津・河芸の千里まで、7.3㎞。コースは、左の画像の通り。近鉄白子駅から伊勢型紙資料館、龍源寺を経て、伊勢街道に出ます。高札場跡・旧河芸郡役所跡、久留真神社、唯信寺、道標、鈴鹿市伝統産業会館、西方寺、子安観音寺、道標2つ、楳荘翁碑、村社八幡神社、津市河芸町に入って、甕釜冠地蔵、八葉山本福寺、丹羽君碑を見て、近鉄千里駅にゴール。千里駅の前が、今日の伊勢街道の終点。駅近くの創作中華料理・昇龍でランチ。桑名では最高気温30.9℃。雨には降られずに済みましたが、湿度が高く、蒸し暑く、けっこう疲れました。

Shiroko11  詳細なマップその1。Img_0948c_20210822172901 桑名駅を8時42分に出る五十鈴川行き急行で白子駅に9時12分に到着。¥500。駅の東口を9時20分にスタートします。日曜日でしたが、電車は空いていました。駅も閑散としています。

Img_0951c_20210822172901  伊勢街道に出るまでに、伊勢型紙資料館と龍源寺に立ち寄ります。写真は、伊勢型紙資料館。残念ながら、開館は10時で入れず。ここは、江戸時代末期の建物で白子屈指の型紙問屋であった「寺尾斎兵衛家」の住宅を修復して、平成9(1997)年に開館しています。寺尾家は江戸時代から、伊勢型紙の生産から販売までを行い、東北地方から関東一円に行商をしていたそうです。寺尾家住宅は、型紙関係の商家として、また町家建築の代表例として、市史跡に指定されています。

Img_0963c_20210822172901 Img_0975c_20210822172901  伊勢型紙資料館の東100mほどのところに瑞雲山龍源寺臨済宗妙心寺派のお寺。ご本尊は、拈華釈迦如来像(ねんげしゃかにょらいぞう)。開創は平安時代と伝わっているものの、由緒は不詳。しかし、境内には平家ゆかりの「青葉の笛(平敦盛秘蔵の笛)」に関わる旧跡「青葉の竹林」が伝承されています。また、鎌倉時代の「涅槃図」「地蔵菩薩半跏像」なども所蔵しているそうですから、800年の歴史があると思われます。こちらに寺の由緒があります。

Img_0969c_20210824182201 Img_0979c_20210824185701  江戸中期には、臨済宗中興の祖・白隠禅師(はくいんぜんじ:貞享2(1686)~明和5(1769)年)と、その高弟・東嶺禅師(とうれいぜんじ)が滞在して禅を説いたといいます。枯山水のお庭もあります。

Img_0992c  龍源寺の先で伊勢街道に出ます。四日市方向に少しだけ戻って、白子東町公園にある旧河芸郡役所跡。明治になり県政が敷かれ、明治26(1893)年4月ここに河芸郡役所が置かれたそうです(大正12(1923)年まで)。

Img_0997c_20210822172901 Img_1001c_20210822172901  その東北に高札場跡があります。江戸時代、白子代官所が高札を掲示したところでした。高札場跡のあるところは、伊勢街道は枡形になっています。白子は、天領であったこともありますし、徳川御三家の一つ、紀州藩領であったこともあります。そのためか、あちこちに枡形が残っています。

Img_1011c_20210824190301  伊勢街道を下っていきます。九河芸郡役所跡の先に「語らい館よこた」。町角博物館の1つ。ここも10時から開館でしたので、開いていません。明治18(1885)年に造られた町屋づくりの家を、間取りを変えずにリフォームし、天井が低い、レトロなミニギャラリーになっています。「横田材木店」という看板が出ています。

Img_1013c_20210824190301 Img_1016c_20210824190301  この語らい館よこたの前に古いものが置いてあります。その1つは、水車。水田に水を入れるのに使ったのかという気がします。この水車は、右の写真のように、「自転車サイドカー(正式名称が分かりません。運搬車というかも知れません)」に載せられています。この「自転車サイドカー」は、子どもの頃に見た記憶があります。リアカーとは違って、自転車の横に荷物を積むところがあるのです。

Img_1071c_20210824191201  語らい館よこたの先で、1㎞を過ぎ、伊勢街道は、白子漁港につながる小さい川を渡りますが、そこの道も枡形のようになっています。スタートから約1.3㎞で久留真神社。主祭神は、大己貴尊(オオアナムチノカミ)、大国主命(オオクニヌシノミコト)の別称だそうです。往昔は大已貴尊と須世理姫尊(スセリビメノミコト、大国主命の妻)の2柱の神さまを通称伊勢の森(現在の白子・御殿町一帯)という神奈備(神域)にお祀りして福徳さんと称え奉ったそうです。

Img_1029c_20210822172901 元は福徳天皇社と称し、現在の白子小学校の東付近にあったのですが、寛永(1634)年、その地が白子代官所となったため現在地に移転しています。江戸期に和田の勝手明神との間に式内の本社を争う訴訟があり、文政4(1821)年に「福徳の宮久留真神社」と改称しました。淡路島に別宮(伊勢久留麻神社)がありますし、境内社が多数あり(稲荷社、護国神社、石上神社、四柱神社)、なかなか興味深い神社でした。

Img_1061c_20210824191701 Img_1065c_20210824191701  境内にあるご神木。現在は、三代目ですが、「福徳の松」と呼ばれています。上記のように現在地に移ったとき、紀州候の名により、二代目福徳の松を植樹賜ったといいます。右は、手水。「変わっているな、石造りか?」と思ったのですが、ご多分に漏れず、感染予防のため、普通の手水鉢に樹脂製の蓋を被せ、手前の3つの口から水が出るようにしてありました。ちょうど氏子総代の方がいらっしゃり、実演してもらえました。

Img_1075c_20210822173001 Img_1079c_20210824192501  久留真神社の先に山中山唯信寺。真宗高田派のお寺。ここは、ガイドマップや、みえの歴史街道にも情報は出て来ません。本堂はコンクリート造りで、鐘楼堂や、梵鐘も新しい。唯信寺のところも枡形。

Img_1089c_20210822173001  唯信寺の北に道標があります。「さんぐう道」「神戸(かんべ:鈴鹿市神戸(かんべ)四日市道」と刻まれ、指のかたちの矢印が描かれています。このあたりは曲がり角が多いため、参宮客などが迷わないようにということで、道標を和田さんという方が建てたのだそうです。何度も倒され、立て直しを繰り返した結果、現在は(昭和30年代以降)、高さ2mあまりとなったそうです(説明板による)。

Img_1101c_20210824193301 Img_1107c_20210824193301  その先、スタートから1.7㎞ほどのところに同心屋敷跡と、目付役所跡があります。同心屋敷は、伊勢街道をはさんで東西両側に5軒ずつ建っていたといいます。目付は、政事や家臣の非遺糾察(ひいきゅうさつ:非違は違法行為、糾察は吟味、尋問)、秩序維持を目的とする観察。代官以下庄屋に至るまでの人の素行、品行、身持ちを監視する役人。俸禄200~250石、2年ほどで交代しました。敷地の規模は5反(4,559平方メートル)ほど。役所の建物の他、馬部屋などもあったそうです。

Img_1114c_20210822173001 Img_1117c_20210822173001  釜屋川を渡って、鈴鹿市伝統産業会館へ立ち寄り。同級生K氏が、「伊勢型紙についてちゃんと知りたい」ということで、鈴鹿市伝統産業会館へ立ち寄りました。ここは、鈴鹿市が誇る「鈴鹿墨」と「伊勢形紙」の伝統工芸を紹介して、優れた技術を後世に伝えるために、昭和58(1983)年に開設。鈴鹿墨や、小紋・友禅などの図柄を着物の生地に染めるために用いる伊勢形紙の作品・製造道具などが展示紹介されています。ちょうど、伊勢型紙を彫る伝統技能士の方がデモンストレーションをしておられ、いろいろと伺うことができました。伊勢型紙のビデオを見たりして、30分ほど滞在。小休止しようと思ったら、目の前に「飲食禁止」の貼り紙(爆)。10時半から30分ほど滞在。

Img_1152c_20210822173001 Img_1141c  伊勢街道に戻ります。釜屋川の先で、伊勢街道は、新旧2つのルートに分かれます。直進するのが、新しい伊勢街道。この日は、子安観音寺へ立ち寄るため、右折して、古い伊勢街道を辿ります。西方寺に行く前に、以前通ったときには昭和湯という銭湯を営んでいたところがあったのですが(2019年5月27日:20190525近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅5日目~伊勢街道旅人気分で伊勢湾沿いの白子から河芸へ」(その1)……伊勢型紙資料館、大徳屋長久さんで早くも土産を買い、久留真神社、道標、目付役所跡、鈴鹿市伝統産業会館、西方寺で山口誓子句碑を見て、子安観音寺へ)、建物はなくなっていました。西方寺は真宗高田派のお寺。

Img_1125c_20210824194801 Img_1129c_20210822173001  境内に山口誓子の代表作「海に出て 木枯帰る ところなし」の句碑があります(昭和53(1988)年建立)。この句にちなんで誓子が命名した書院「木枯亭」が本堂に隣接してあります(右の写真)。内部の写真は、こちらにあります。誓子は、ここで俳句教室を開いたり、句会に通ったりしていたそうです。武家造りで江戸中期に建てられたものを明治の初めに移築しています。ちなみに、誓子は肋膜炎の療養の為に昭和16(1941)年から28(1953)年まで、12年間、三重県の四日市市富田、天ヶ須賀海岸、そして鈴鹿市白子の鼓ヶ浦に居住していました。ここ鼓ヶ浦には、昭和23(1948)~28(1953)年の5年間いました。

Img_1163c_20210822173001  スタートから2.9㎞、11時15分、子安観音寺に到着。地元では、「白子の子安観音」で親しまれています。その名の通り、安産祈願で有名。高野山真言宗聖武天皇の命令で藤原不比等が建立したと伝えられ(道證上人の開山によります)、1250年以上の歴史があります。本尊は、「白衣観世音菩薩」。縁起によれば、「この浦(鼓ヶ浦)に鼓の音あり、怪しみて網を下ろしけるに、鼓に乗り、観世音の尊像上がらせ給う、帝これを聞こしめし、伽藍建立ありて勅願寺となりぬ。妊婦安産の霊験あり」と記されているそうです。異説には、鼓ヶ浦の海の中から赤ん坊に背負われてご本尊が現れたという話もあります。既に歩き始めて2時間近くなので、30分ほど小休止。

Img_1167c_20210824195801  「仁王門」は、三重県指定文化財(昭和47(1972)年に指定)。仁王門は、元禄16(1703)年に建立されたもので、正面両脇に鎌倉様式の金剛力士が配されています。江戸時代の楼門の典型とされる、堂々とした構えです。高さは12.37m、桁行は7.42m、本瓦葺の立派なものです。

Img_1193c Img_1205c_20210824195901  こちらが本堂。中央に写っているのは、マスコットキャラクターでしょうか。中に入ると、「子安」と大書された大きな提灯が頭上に下がっています正面の上には、「白子山 観音寺大聖院 ご本尊 白衣観音」などと描かれた額が掲げられていました。

Img_1190c_20210824200001  境内の中央にあるのが、三重県指定有形文化財の「銅燈籠」。寛文6(1666)年、辻越後守玄種の作です。辻越後は、藤堂高虎の頃、近江から津の釜屋町に来た鋳物師。高田本山専修寺には、その三代目である辻越後守陳種が作った銅燈籠がありますし、初代・家種の作になる梵鐘が津観音にあります。

Img_1210c_20210824200101  境内には、不断桜があり、天然記念物に指定されています(大正12(1923)年3月指定)。樹齢については諸説あるようですが、江戸時代にはすでに「一年中葉や花が途絶えない不思議な桜」として著名な木だったといいます。すずかし観光ガイドによれば、真夏以外は梢のあちらこちらにちらほらと花をつけ、四季を通じて桜の花が咲くことから不断桜と名付けられたそうです。3月~4月には薄桃色の花が一面満開となります。この不断桜の葉の虫食い跡をみて伊勢型紙を思いついたというエピソードも残っています。子安観音は、2018年3月19日の記事に詳しくあります(近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(その1)……子安観音寺【加筆修正しました(3/19)】)。句碑などについても言及しています。

Img_1224c_20210822173001 Img_1243c  子安観音寺からは古い伊勢街道を辿りますが、今は住宅街の中を通っています。ここで、道標2基。左のものは、弘化4(1847)年建立。「左くわんおん道」「右さんくう道」とあり、子安観音寺と伊勢街道とを示すもの。右は、民家の手前にある小さな道標。「左いせみち」と刻まれています。頂上部分と北面はすり減ったくぼみがありますが、これは伊勢型紙彫りに使う砥石をならした跡といわれているそうです。

 いつものことながら、長くなりました。その1はここまで。その2は、新しい伊勢街道と合流し、その近くにある楳荘翁碑から。

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2021年8月22日 (日)

20210822「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第7回「鈴鹿・白子~河芸・千里」(予告編)

210822shiroko0  曇りで、午後3時過ぎから雨という予報でした。昨日から順延した「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」の第6回に行ってきました。三重県も新型コロナの感染者数が急増し、まん延防止等重点措置が発令されてはいますが、旧街道歩きをしている人はめったにいません。とくにこの暑い時期は、街道歩きの人はほぼゼロ。電車も換気が行われていますし、昼食は時間がずれていて、店は空いており、しかも黙食。感染予防には十分注意した上で、今日は、鈴鹿の白子から津・河芸の千里まで、7.3㎞。コースは、左の画像の通り。近鉄白子駅を9時20分にスタート。伊勢型紙資料館、龍源寺を経て、伊勢街道に出ます。高札場跡・旧河芸郡役所跡、久留真神社、唯信寺、道標、鈴鹿市伝統産業会館、西方寺、子安観音寺、道標2つ、楳荘翁碑、村社八幡神社、津市河芸町に入って、甕釜冠地蔵、八葉山本福寺、丹羽君碑を見て、近鉄千里駅にゴール。千里駅の前が、今日の伊勢街道の終点。駅近くの創作中華料理・昇龍でランチ。桑名では最高気温30.9℃。雨には降られずに済みましたが、湿度が高く、蒸し暑く、けっこう疲れました。

Img_0948c_20210822172901  桑名駅を8時42分に出る五十鈴川行き急行で白子駅に9時12分に到着。¥500。駅の東口を9時20分にスタートします。閑散としていました。

Img_0951c_20210822172901  まずは、伊勢型紙資料館を目指したものの、残念ながら、開館は10時。ここは、江戸時代末期の建物で白子屈指の型紙問屋であった「寺尾斎兵衛家」の住宅を修復して、平成9(1997)年に開館しています。寺尾家は江戸時代から、伊勢型紙の生産から販売までを行い、東北地方から関東一円に行商をしていたそうです。

Img_0963c_20210822172901 Img_0975c_20210822172901  伊勢型紙資料館の東100mほどのところに瑞雲山龍源寺臨済宗妙心寺派のお寺。開創は平安時代と伝わっているものの、由緒は不詳。しかし、境内には平家ゆかりの「青葉の笛(平敦盛秘蔵の笛)」に関わる旧跡「青葉の竹林」が伝承されています。また、鎌倉時代の「涅槃図」「地蔵菩薩半跏像」なども所蔵しているそうですから、800年の歴史があると思われます。こちらに寺の由緒があります。白隠禅師(貞享2(1686)~明和5(1769)年)、臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧)がこのお寺に来たことがあったといいます。

Img_0992c 龍源寺の先で伊勢街道に出ます。ちょっと戻って、白子東町公園にある旧河芸郡役所跡。明治になり県政が敷かれ、明治26(1893)年4月ここに河芸郡役所が置かれたそうです。

Img_0997c_20210822172901 Img_1001c_20210822172901  その東に高札場跡があります。江戸時代、白子代官所が高札を掲示したところでした。高札場跡のあるところは、伊勢街道は枡形になっています。白子は、天領であったこともありますし、徳川御三家の一つ、紀州藩領であったこともあります。そのためか、あちこちに枡形が残っています。

Img_1071c_20210822172901 Img_1029c_20210822172901  こちらは、久留真神社。主祭神は、大己貴尊(オオアナムチノカミ)。大国主命(オオクニヌシノミコト)の別称。往昔は、已貴尊と須世理姫尊(スセリビメノミコト、大国主命の妻)の2柱の神さまを通称伊勢の森(現在の白子・御殿町一帯)という神奈備(神域)にお祀りして福徳さんと称え奉ったそうです。久留真神社で9時50分過ぎ、スタートから1.3㎞ほど。

Img_1075c_20210822173001 Img_1089c_20210822173001  久留真神社の西には、山中山唯信寺。真宗高田派のお寺。ここは、ガイドマップや、みえの歴史街道にも情報は出て来ません。本堂はコンクリート造りで、鐘楼堂や、梵鐘も新しい。唯信寺のところも枡形。寺の西には、道標。「さんぐう道」「神戸(かんべ:鈴鹿市神戸(かんべ)四日市道」と刻まれ、指のかたちの矢印が描かれています。このあたりは曲がり角が多いため、参宮客などが迷わないようにということで、道標を和田さんという方が建てたのだそうです。何度も倒され、立て直しを繰り返した結果、現在は(昭和30年代以降)、高さ2mあまりとなったそうです(説明板による)。

Img_1114c_20210822173001 Img_1117c_20210822173001  このあと、同級生K氏が、「伊勢型紙についてちゃんと知りたい」ということで、鈴鹿市伝統産業会館へ立ち寄りました。ここは、鈴鹿市が誇る「鈴鹿墨」と「伊勢形紙」の伝統工芸を紹介して、優れた技術を後世に伝えるために、昭和58(1983)年に開設されました。鈴鹿墨や、小紋・友禅などの図柄を着物の生地に染めるために用いる伊勢形紙の作品・製造道具などが展示紹介されています。ちょうど、伊勢型紙を彫る伝統技能士の方がデモンストレーションをしておられ、いろいろと伺うことができました。伊勢型紙のビデオを見たりして、30分ほど滞在。小休止しようと思ったら、目の前に「飲食禁止」の貼り紙(爆)。

Img_1152c_20210822173001 Img_1129c_20210822173001  伝統産業会館は、伊勢街道からちょっと外れます。戻って、子安観音寺に向かいますが、ここで、伊勢街道は2つに分かれます。というか、新旧2つのルートがあります。子安観音に向かうのは、古い道。その途中で、西方寺に立ち寄ります。真宗高田派のお寺。境内に山口誓子の代表作「海に出て 木枯帰る ところなし」の句碑があります(昭和53(1988)年建立)。この句にちなんで誓子が命名した書院「木枯亭」が本堂に隣接してあります(右の写真)。内部の写真は、こちらにあります。誓子は、ここで俳句教室を開いたり、句会に通ったりしていたそうです。武家造りで江戸中期に建てられたものを明治の初めに移築しています。

Img_1163c_20210822173001 Img_1185c_20210822173001  西方寺の西に子安観音寺。地元では、「白子の子安観音」で親しまれています。その名の通り、安産祈願で有名。高野山真言宗。聖武天皇の命令で藤原不比等が建立したと伝えられ(道證上人の開山によります)、1250年以上の歴史があります。本尊は、「白衣観世音菩薩」。縁起によれば、「この浦(鼓ヶ浦)に鼓の音あり、怪しみて網を下ろしけるに、鼓に乗り、観世音の尊像上がらせ給う、帝これを聞こしめし、伽藍建立ありて勅願寺となりぬ。妊婦安産の霊験あり」と記されているそうです。異説には、鼓ヶ浦の海の中から赤ん坊に背負われてご本尊が現れたという話もあります。境内には山口誓子の句碑、不断桜など見どころがいくつもあります。子安観音寺でほぼ3㎞、ここに着いたのは11時15分。既に歩き始めて2時間近くなので、30分ほど小休止。

Img_1243c Img_1224c_20210822173001  子安観音寺の先で、道標2基。左のものは、弘化4(1847)年建立。「左くわんおん道」「右さんくう道」とあり、子安観音寺と伊勢街道とを示すもの。右は、民家の手前にある小さな道標。「左いせみち」と刻まれています。頂上部分と北面はすり減ったくぼみがありますが、これは伊勢型紙彫りに使う砥石をならした跡といわれているそうです。

Img_1253c_20210822173001  堀切川の手前で新しい方の伊勢街道と合流します。そのすぐ東に楳荘翁碑。「楳荘翁」とは、儒者・別府梅荘翁の碑です。別府梅荘は、文政10(1827)年、河芸郡上野村(現在の津市河芸町上野)に生まれました。ここ寺家(鈴鹿市寺家)の住人で若い頃から絵をよくし、生け花や煎茶にも優れたそうです。明治28(1895)年、京都で没。門人らが明治29(1896)年12月、この碑を建てています。碑の撰は、富岡鉄斎の筆によります。このあと、近鉄名古屋線、国道23号線を越えて、鈴鹿市磯山地区に進みます。しばらくは立ち寄るところもありません。

Img_1306c_20210822173001 Img_1296c_20210822173001  スタートから5.2㎞で、磯山にある村社八幡神社。主祭神は、誉田別尊、金山毘古尊、素戔之男命、菅原道真、大山祇之命。太田忠左衛門という人の先祖が、御神体を字六人彫りの堀切川下流から背おって来て、安置したと伝わります。その時、獅子も一緒だったそうですが、忠左衛門の枕元に現れ「別保へ連れてって」というので、隣村の神社へ連れていったためこの神社には獅子がいないといいます。当社の創祀は不詳ですが、社伝によれば正安元(1299)年に社が創建されたとされているそうです。確かに狛犬というか、獅子はありませんでした。

Img_1320c_20210822173001  八幡神社の先、伊勢街道沿いの旧家。先日(江戸橋での仕事の最終日)、ゲットした伊勢参宮街道のガイドマップに、「幕板の旧家がある。軒先の庇の下にさらに庇を追加した建築様式で、板暖簾、大垂(おおだれ)ともいう。雨除け、日除けの役割を果たす」とあったのが、たぶんここ。磯山の先で国道23号線に出て、中ノ川を渡って、津市河芸町に入ります。

Img_1360c_20210822173101 Img_1365c_20210822173101  東千里交差点から東にそれ、近鉄名古屋線の踏切を渡ったところに、甕釜冠(かめかまかぶり)地蔵があります。ここは、近鉄ハイキングに来たときにもとても印象深かったところ。この堂はもと光明院といって伊勢参宮の旅人の休憩所で、旅の無事安穏を祈願した場所でした。宝形造りの仏堂の屋根の上には、露盤宝珠を置くのが普通ですが、この堂は炊事用の釜と水甕が伏せてあり、これが堂の名前の由来となっています。なぜこのような変わった建築をしたのか理由について諸説があり、確かなことはわかりません。ちなみに、この甕釜冠地蔵の手前で、伊勢街道と巡礼道との追分があります。巡礼道は、下街道あるいは浜街道とも呼ばれ、伊勢古街道です。

Img_1383c_20210822173101 Img_1386c_20210822173101  伊勢街道と巡礼道の間に寺がいくつかあるのですが、今回は、蒸し暑くて疲れていたこともあってパス。真宗大谷派の八葉山本福寺だけ立ち寄って来ました。というのも、ここには、「親鸞上人御𦾔跡」という石碑があるのです。碑陰には、「文化○○」とあるのですが、読めませんでした。文化年間(1804~1817年)に建てられたということかと思います。ネットでは情報は得られませんでした。ここ本福寺は、親鸞の弟子だった西念房が創建したといいます。西念房は、生涯聖人を思いながら念仏をひろめたといいます(こちらを参照しました)。

Img_1406c_20210822173101  スタートから7㎞ほどのところに「丹羽君碑」。この辺りには、江戸時代に紀州藩白子の大庄屋だった丹羽家があり、円応寺組十五か村の大庄屋を務め、また、兄弟で廻船問屋を営み、五十人同心として港を差配していたといいます。この碑は丹羽家何代目かの主を顕彰したもののようですが、碑文も風化して読めず、不明です。 

Img_1436c_20210822173101  7.3㎞で近鉄千里駅。ここが今日のゴール。伊勢街道は、このさき近鉄名古屋線と、国道23号線を越えて行きますが、それはまた次回。ゴールしたのは、13時10分頃。

Img_1432c_20210822173101 Dsc_6216c  ゴールした後は、昼食。事前のリサーチで、国道23号線沿いに飲み屋さん1件と、創作中華料理の店が1軒あることが分かっていたのですが、中華料理の昇龍へ。台湾料理がメインのようでした。暑かったので、今日も冷やし中華をチョイス。税込み¥858。ちょっと辛かったものの、美味しい。

Img_1447c  千里駅からは14時15分発の名古屋行き普通に乗車。14時22分に白子駅に到着。14時28分発の名古屋行き急行に乗り換えて、桑名駅には15時2分着。蒸し暑くて、疲れましたが、雨に降られることなく歩くことができてラッキーでした。というのも、帰宅後16時過ぎには大雨と雷。今日の歩数は、ご覧のように19,378歩。現地で7.3㎞、昇龍へ往復が0.6㎞、自宅から桑名駅往復が2.2㎞、合計10.1㎞を歩きました。電車で40分かかり、桑名からそれなりに離れると、旅気分も増してきます。本編は、また明日以降、書いていきます。

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2021年8月 5日 (木)

20210731「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第6回「鈴鹿・神戸~鈴鹿・白子」(その3)……菅原社、老農水原政次翁称功碑、北の端の地蔵堂、役行者神変大菩薩から江島若宮八幡神社にお参りし、久住屋菓舗で「おはらぎ」をゲット、青龍寺、勝速日神社を回って白子駅にゴールで「完」

210731suzukashi4  7月31日の「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第6回「鈴鹿・神戸~鈴鹿・白子」の本編その3です。その2では、弥都加伎(みずがき)神社で休憩し、12時過ぎから再び歩き始めました。その後、道標、山の神を見て、岸岡町に入ります。フジクラ鈴鹿事業所のところで菅原社。このあたりを歩いているとき、北の空には入道雲がモクモク。雷鳴も聞こえていましたが、ほとんど降られず、ラッキー。老農水原政次翁称功碑を見て、近鉄名古屋線を越えたところで、北の端の地蔵堂と役行者神変大菩薩へ。

Img_6937c_20210731191801  フジクラ鈴鹿事業所。昔は、藤倉電線といいました。今は、エネルギー、情報通信、エレクトロニクスなども手がけているようです。

Img_6945c_20210803103501 Img_6948c_20210731191801  そのフジクラ鈴鹿事業所の隣に菅原社。主祭神は、菅原道真、相殿神は宇迦之御魂神。神社検索三重のサイトによれば、創祀の事情やその年代は不詳です。集落の産土神として古くから信仰を集めており、地区民の心のより処となってきたといいます。境内には忠魂碑があります。第2次世界大戦に、打越地区から出征され、戦死なさった8名の方の慰霊のためのもの。ここでスタートから6㎞。

Img_6965c_20210731191801  その先に「老農水原政次(まさし)翁称功碑」があります。ここは、近鉄ハイキングで来たとき、見逃してしまっていたのです。こんな大きなものを見逃すとは、ウッカリも良いところなのですが、話に夢中になっていて通り過ぎてしまったのが真実。水原政次翁は、弘化4(1847)年、現在の市内木田町に生まれ、青年時代農業を営み、上京して農学社に学び、32才から30余年、三重県農事試験場や県農会に勤め、農事に関する知識の普及や農事改良につくし、県下初の農事試験場長になっています。退職後、64才の時、現在の東旭が丘地域に水原新田を開拓し、近郷や県下の農業者に新しい米策栽培などを啓発指導したそうです。晩年には失明したものの、「昼まだに くらきめしひも嬉しきは 物にまよはぬこころなりけり」と農事にかけた心意気を詠っています。碑は、農学博士・横井時敬(ときたか)の筆により、水原翁の功績を称え、大正13(1924)年に建てられています。これで、2年越しの宿題をやった気分。

Img_6975c_20210731191801 Img_6983c_20210731191801  近鉄名古屋線の踏切を渡るあたりから、東江島町に入ります。踏切を渡ってすぐのところに、北の端の地蔵堂。約800年前、鎌倉時代のものだそうです。石像本体周囲に六體の菩薩が刻まれています。「六體」とは、五翼の優世に六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)に迷う衆生を救う六分身を表しています。この地蔵は、江戸時代から北の端の地蔵と呼び、お守り寺である悟真寺(ごしんじ;浄土宗のお寺、白子本町にあります(白子駅の北東))の古記録にも「霊験あらたかで願うこと叶わざるなし、遠近の信者多く毎年8月24日の縁日は善男善女の参詣が列を作る」などとされているといいます。江戸時代、寺家、白子などから江戸方面に伊勢型紙等の行商に出る人らはこのお地蔵さんで道中の無事を祈りました。

Img_6995c_20210731191801  北の端の地蔵堂から道を1本はさんですぐ東には、役行者神変大菩薩役行者(えんのぎょうじゃ)は、役小角(えんのおづぬ)ともいわれ、奈良時代の山岳呪術者。寛政 11(1799) 年に修験道の開祖と仰がれ、朝廷から「神変大菩薩」の諡号(しごう)を受けましたた。ここの社は、この修験道の開祖である「役行者神変大菩薩」が祀られています。役小角(舒明天皇6(634)年伝~ 大宝元年6月7日(701年7月16日)伝)は、修験道の開祖とされています。 実在の人物だそうですが、伝えられる人物像は後世の伝説によるところが大きいといいます。天河大弁財天社や大峯山龍泉寺など多くの修験道の霊場に、役行者を開祖としていたり、修行の地としたという伝承があります。鬼神を使役できるほどの法力を持っていたという言い伝えもあり、なかなか面白い。しかし、なぜここにこういう役行者神変大菩薩が祀られているのでしょう?

210731suzukashi5  さて、詳細なルートマップも、いよいよその5、最後になります。伊勢街道からは少し外れますが、江島若宮八幡神社に立ち寄ります。参拝し、常夜燈を見て、伊勢街道に戻ります。江島本町で、小笠原侯屯所跡、江島陣屋跡、安濃津治安裁判所・登記所・法務局跡を見て回り、久住屋菓舗で土産。青龍寺、勝速日神社に行って、この日の目的地はコンプリート。

Img_7017c_20210731191901  江島若宮八幡神社。鈴鹿市内で2番目に広い境内を持つ神社(最も広いのは、椿大神社です)。主祭神は、大鷦鷯命(オオササキノミコト、仁徳天皇)、品陀和気命(ホンダワケノミコト、応神天皇)、息長帯比売命(オキナガタラシヒメノミコト、神功皇后)。これらを始め、17柱の神様が祀られています。平安時代初期、禁中に奉祀せられていた若宮八幡宮(京都石清水八幡宮の分霊)を醍醐天皇が、神意に問いて伊勢宗廟(皇大神宮)の戌亥の方なる当地に奉遷せられたことに始まります。明治42(1909)年5月には、大宝天社、湊守社、稲荷社、風の宮、愛宕社が合祀されました。なお、すべての御祭神は、こちらにあります(2018年3月22日:近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(その4)……芙蓉館から江島若宮八幡神社へ(まだ続きます))。

Aa97b202 B4fd9963  実は、拝殿その他の写真を撮り忘れました(苦笑)。これらの写真は、2019年5月4日に撮ったもの(20190504近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅4日目~伊勢街道、旅人気分で伊勢平野の鈴鹿から海運で栄えた白子へ」(その3))。また、この日(7月31日)は、この神社では夏越しの大祓でしたが、茅の輪の写真も撮り忘れ(爆)。

88026e5b  この日は、閉まっていて見られなかったのですが、江島若宮八幡神社には、奉納された絵馬がたくさん保存されています。白子の町は、湊として繁栄した歴史があり、回船業で賑わいました。あの大黒屋光太夫も、白子湊から出航しています。航海の安全を祈願するなどのため、多数の絵馬が奉納されており、そのうち、江戸時代の71面は三重県指定有形民俗文化財です。弁財天、武者絵、町絵図、帆前船などの図柄のものがあります(写真は、2019年3月23日に撮影したもの(20190323近鉄ハイキング「早春の海風を感じて おひなさまめぐりと海の幸」へ(完)))。

Img_7006c_20210803111301 Img_7013c_20210803111301  境内にある稲荷社の拝殿は、ちょっとした見物。眷属の狐はもちろん、拝殿まですべて石造りなのです。さらに、拝殿脇の狐さんは、右の写真のように、他では見ない、カワイイもの。

Img_7024c_20210731191901  江島若宮八幡神社の南にある常夜燈。この常夜燈は、文政3(1820)年初秋、白子から江戸に出帆する廻船問屋の船、また江戸から白子に来る船の航海安全を祈願して、江戸にあった大伝馬町組と白子組の船荷取扱い関係者(江戸橋)が寄進したものです。その頃、この常夜燈の東南は、港の入江の「小浜」と呼ぶ波打ち際で、灯台の役目を果たしていたといいます。

Img_7030c_20210803111901 Img_7034c_20210803112101  常夜燈を見て、伊勢街道に戻ります。伊勢街道に出るところに、江島神社という社号標。大正15(1926)年10月に建てられています。江島本町に入っています。右は、伊勢街道沿いの民家。このあたりにも何となく、昔風の建物が残っています。

Img_7044c_20210731202401  江島本町の中心あたり、ランバーハウジングという会社の前に「江島陣屋跡」という案内板があります。江島村は、江戸時代初期(正保年間、1644~1648年)までは天領。その後紀州藩の旗本の領地となり、享保年間(1716~1736年)には小笠原肥前守の知行地になり、この地に陣屋が建てられたのです。明治2(1869)年3月14日には、明治天皇が伊勢神宮参拝の帰路、ここで小休止されたといいます。

Img_7040c_20210803113201  江島陣屋跡の手前、西側の路地の入り口に「小笠原侯屯所跡」という案内板があります。この江島村は、上記のように、享保年間には小笠原肥前守の知行地でしたが、紀州・亀山両藩の領地にはさまれていました。この両藩を含む、領地の住民らの治安維持を目的として、ここに屯所が設けられたのです。両藩の同心、御用聞き、目明かしらが詰めていたそうです。

 Img_7050c さらにその先、現在の白子コミュニティセンターの敷地は、安濃津治安裁判所・登記所・法務局跡でした。明治時代になって私有財産権が認められ、住民の土地田畑の所有権を公に登記する必要な行政機関として、国内各地にその役所が置かれました。それが、治安裁判所で、白子地区には明治21(1888)年10月に設置されました。その後、明治25(1892)年には役所が新設され、名称も登記所に変更。さらに、その後、法務局になっています。

D2903db4 Oharagi  久住屋菓舗さん。大はら木(おはらぎ)(右の写真:久住屋菓舗さんのサイトからお借りしました)とかりんとまん(かりんとう饅頭)をゲット。このあたり、久住屋菓舗さんの他、大徳屋長久さん、田中観月堂さんで銘菓「おはらぎ」が売られています。伊勢街道を通ったら、どこかで「おはらぎ」を買って帰ります。また、かりんとう饅頭は娘の大好物で、白子へ行くというと買ってくるよう指令が出るのです。これで重大な任務も果たせました(微苦笑)。ちなみに、3店舗の「おはらぎ」は、すべて食べたことがありますが、甲乙付け難し。好みによると思います。

Img_7060c_20210731191901 Img_7064c  ゴールの白子駅を目指すのですが、その前に2箇所、さらに立ち寄ります。まずは、體用山(たいゆうざん)青龍寺。真宗高田派。天長7(830)年、弘法大師によって開創。寛正元(1460)年、真慧上人に帰依し、真宗高田派に改宗しています。このお寺には、徳川吉宗作の「紅梅白梅図(掛け軸)」、「弘法大師の手形」、第11次朝鮮通信使(延享3(1746)年)の通訳官・朴徳源の肉筆による「體用山」の額があります。徳川吉宗作の「紅梅白梅図(掛け軸)」は、白子が紀州藩領だったこともあり、徳川吉宗とも縁があったと思われます。「弘法大師の手形」は、弘法大師(空海)が護摩(ごま)の修行で出た灰を固めて作ったとされます。朴徳源の肉筆による「體用山(たいゆうざん)」の額は、平成15(2003)年に、本物であることが確認されているそうで、朝鮮通信使が書いた扁額は、全国的にも少ないので、貴重な文化財です。ただ、鈴鹿は朝鮮通信使のルートからは外れているのに、何故ここにこれがあるのかは不明。

Img_7088c_20210731191901  最終目的地は、勝速日(かつはやひ)神社。神社の由緒書きによれば、文明年間(1469~1486年、室町時代)の創建。主祭神は、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト。この神様は、天之忍穂耳命と同じで、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の父)。相殿神は、天御蔭命(アマノミカゲノミコト:天目一箇神(あめのまひとつのかみ)と同じであり、日本神話に登場する製鉄・鍛冶の神)、素盞嗚命(スサノオノミコト:出雲神話の祖神。伊弉諾(いざなぎ)尊・伊弉冉(いざなみ)尊の子。天照大神の弟)、稲田姫命(クシナダヒメノミコト:八岐大蛇のいけにえとなるところを、素戔嗚尊によって助けられ、その妻となった)、武甕槌命 (タケミカヅチノカミ:伊弉諾尊が火神を切り殺したとき、剣に付着した血から化生(けしょう)した神。鹿島神宮の祭神)、経津主命(フツヌシノカミ:磐筒男神(イワツツノオノカミ)と磐筒女神の子。香取神宮の祭神。天孫降臨に先立って、出雲に行き、大己貴命(おおなむちのみこと)を説いて国土を献上させた)、天児屋根命(アマノコヤネノミコト:天照大神が天の岩屋に隠れたとき、祝詞を奏した神)、天美津玉照比売命(アメノミツタマテルヒメノミコト:天児屋命の妻)。

Img_7084c_20210731191901 Img_7080c_20210803120101  鈴鹿サーキットでF1グランプリが行われますが、レース関係者がこの神社の名前と、御祭神に注目して、必勝祈願に訪れるそうです。正勝吾勝勝速日天忍穂耳命は、稲穂の神、農業神として信仰されることが多いようですが、「正勝吾勝(マサカツアカツ)」は「正しく勝った、私が勝った」の意、「勝速日(カチハヤヒ)」は「勝つこと日の昇るが如く速い」または「素早い勝利の神霊」の意で、誓約の勝ち名乗りと考えられています」(Wikipediaから)。これで、この日の目的地は、コンプリート。

Img_7092c_20210731191901  ゴールに設定した近鉄名古屋線白子駅には、13時40分に到着。スタートからここまで8.9㎞を歩いてきました。途中、フジクラ鈴鹿事業所の辺りでは、北の空でゴロゴロと音がしていましたが、雨には降られず。猛暑の中をよく歩いてきたと思います。

1627707106964c Img_7097c_20210731191901  昼食は、白子駅の自由通路を渡って、駅西の商店街へ。私が鈴鹿で働いていた頃は、かなり賑やかな商店街だったのですが、今はご多分に漏れず、シャッター商店街化してきています。探したら、ラーメン屋さんがあり、冷麺がメニューに載っていましたので、ここ「ラーメンだいどんでん」へ。「冷やし塩レモン」をチョイス。¥980。イタリアンみたいな不思議なラーメン。とても美味しい。絶品といえるかもしれません。

Img_7112c_20210731191901  白子駅を14時28分に出る名古屋行き急行に乗車。桑名には15時2分着。¥500。15時半前に帰宅。今日の歩数は、22,426歩。現地で、昼食を含め9.3㎞を歩き、自宅から桑名駅往復が2.4㎞、合計11.7㎞。

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2021年5月23日 (日)

20210522「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第4回「四日市~日永の追分」(その1)……近鉄四日市駅をスタート、崇顕寺(丹羽文雄の生家)、東漸寺、大宮神明社へ

210522yokkaichi0  5月22日に行ってきた「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」の第4回「四日市~日永の追分」の本編第1回です。この「伊勢詣りツアー」は、同級生K氏と二人旅。この日は、朝8時過ぎは晴れていましたが、その後は曇り。しかし、最高気温23.9℃で、ウォーキング日和といえます。スタートは近鉄四日市駅。東海道を歩いて、日永の追分まで歩き、ゴールは、四日市あすなろう鉄道追分駅に設定。四日市駅から300mほど東へ行くと東海道に入ります。崇顕寺(作家・丹羽文雄の生家)、東漸寺から赤堀を通り、鹿化川(かばけがわ)を越えて大宮神明社へ。その後、水沢道標を見て、大聖院、延楽寺、興正寺と寺巡り。天白川を渡り、両聖寺、日永神社へ。日永小学校で表忠碑と稲垣末吉翁頌徳碑を見て、実蓮寺、西昌寺と行くと、日永一里塚跡碑がひっそり建っています。名残の一本松を越えるとゴールも近い。東海道日永郷土資料館を見たかったものの、閉館してしまっていました。日永の追分が今日の最終目的地。そこからゴールの四日市あすなろう鉄道追分駅まで6.3㎞。駅近くの洋風食堂モンヴェールで昼食。

Img_8798c_20210522165101 Img_8803c_20210522165101  桑名駅を8時42分に出る松阪行き急行で近鉄四日市まで。8時54分着、¥300。8時58分にスタート。四日市駅から東へ300mほど行くと、中央通りをはさんで、北に前回歩いたスワマエ商店街の入り口が見えます。ここを右折して、東海道に入ります。

Img_8800c Img_8807c  曲がり角の手前に「こにゅうどうくん」の自販機。あとからも触れるつもりですが、四日市は、観光や東海道に力を入れているのがよく分かります。各地区ごとに名所旧跡に案内板が建てられていますし、東海道を示す看板も豊富にあります。右の写真は、近鉄四日市駅から来て、東海道に曲がるところにある石柱。四日市の取り組みに比べると、桑名のそれは、はっきり言って貧弱です。

210522yokkaichi1  こちらは、詳しいコースマップその1です。四日市駅、「あすなろう四日市」となっていますが、ここが近鉄四日市駅。四日市あすなろう鉄道も乗り入れています。南出口から出て、国道1号線方面に向かい、諏訪栄町交差点の手前で右折し、東海道に入ります。阿瀬知川を越えて崇顕寺、東漸寺と回って、赤堀へ。しばらく立ち寄るところはありません。鹿化川(かばけがわ)を渡って、大宮神明社・二柱神社に立ち寄るのですが、その手前にはかつてなが餅の笹井屋がありました。

Img_8810c_20210523185801  阿瀬知川にかかる阿瀬知橋。阿瀬知川は、三滝川から引いた水路で、雨水幹線の1つです。阿瀬知川は戦争直後まではホタルの舞う自然豊かな川だったそうですが、事業所や家庭からの雑排水が流入した結果、汚染が進み、どぶ川になっていました。平成12(2000)年頃から、「阿瀬知川をきれいにする会」の浄化活動が行われ、錦鯉が住めるようになったと言います。市街を貫流し、四日市港に至っています。

Img_8814c_20210522165101 Img_8818c_20210523185801  阿瀬知川を渡ってすぐに、仏法山崇顕寺。真宗高田派のお寺で、作家・丹羽文雄(明治37(1904)~平成17(2005)年)の生家です。昭和7(1932)年「鮎」でみとめられ、風俗小説を多作しましたが、のち仏教への傾斜から「親鸞」、「蓮如」を著しました。日本芸術院会員で、文化勲章を受章しています。田原藤太秀郷(藤原)の末胤である田原忠秀が、文明元(1469)年、浜田城を築き、孫元網の時元正3(1575)年に織田勢の滝川一益に滅ぼされたのですが、この田原家の一族丹羽弥八郎時定が菩提のため、創建したといわれています。もとは天台宗の寺でしたが、文亀2(1502)年に眞慧(しんね)上人に帰依し高田派の寺となっています。天和元(1618)年の火災と、昭和20年四日市大空襲で焼失し、由緒の詳細は不明。

Img_8835c_20210523192901  崇顕寺の先あたりの東海道の様子。道路の広さは、昔と同じくらいのように思えます。東海道を含む五街道は、幅5間(9メートル)と規格が定められていました(こちら)。また、このあたりは古い家がかなり残っていますので、昔の街道の雰囲気を偲ぶことができます。

Img_8838c_20210522165101 Img_8845c_20210522165101  スタートから800mほどで東漸寺。こちらも真宗高田派。建仁元(1201)年創建の古刹です。童話作家・東光敬(あずまこうけい)の生家。東は、丹羽文雄の弟である房雄(文雄に代わって、崇顕寺を継いでいます)と同級生。東については、こちら(四日市文化協会の広報誌)に言及されています。

Img_8849c  この東漸寺で驚いたのは、本堂の入り口。障子に板戸。今は、多くのところがサッシになっていますので、珍しい。

Img_8873c_20210523200501  東漸寺の先、四日市あすなろう鉄道赤堀駅の手前に地蔵堂。かなり年月が経っている印象。建物がコンクリートブロックの上に載せられていて、大切にされているように思えます。ただ、残念ながら、道沿いにあるお地蔵様については、よく分からないことが多いのです。この地蔵尊についても、「ホントに歩く東海道」の第12集「桑名~庄野」のマップに載っているものの、説明はありません。みえの歴史街道にある東海道マップにも「お地蔵さん 連子格子の家の前の小さな祠に祀られている」とあるだけです。

Suzukipharmacy_20210523193601  東漸寺のあとはしばらく立ち寄るところはありません。赤堀にかつて鈴木薬局という四日市でもっとも古い建物(嘉永5(1852)年建築)があったのですが、4年ほど前に解体されてしまいました(こちら)。残念です。鈴木薬局は、200年以上も続いた旧家でした。現在は、跡地に鈴木という表札が出た、大きなお宅があります。この鈴木薬局の写真は、四日市・常磐地区のホームページからお借りしました。

Img_8889c Img_8892c  2㎞を過ぎて鹿化川(かばけがわ)を越えます(左の写真)。鹿化川を越えると日永に入ります。鹿化川の上流には、「鹿化川千本桜」と呼ばれる桜並木があり、名前のとおり約千本のソメイヨシノが 5km にわたり咲いています(2019年1月26日:20190126近鉄ハイキング“酒蔵みてある記 銘酒「三重の寒梅」丸彦酒造をたずねて”へ(予告編))。鹿化川橋を渡ってすぐ左手には、かつてなが餅の笹井屋があったといいます(右の写真のあたり。昭和30年に現在の本店に移転。本店は前回見てきました)。

Img_8947c_20210522165101 Img_8905c_20210523194601  スタートから2.3㎞のところに大宮神明社があります。詳しい由緒は不詳ですが、社伝によれば第11代・垂仁天皇の御代、皇大神宮が伊勢にお遷りになる時に岡山の丘陵地(現在、四日市南高校があるところ)に一時お留りになり、そこに神宮の神領地として皇大神宮を勧請したのが始まりとされています。永禄5(1562)年、それまで舟付け明神といって崇め祀っていたこの岡山の神明社が炎上したので、その頃出来上がりつつあった新道路(東海道)の傍らに遷座されたのが今の大宮神明社です。江戸時代には神戸(かんべ)藩主・本多家の崇敬を受けていました。「永宮さん」とも呼ばれるそうです。

Img_8914c_20210522165101  主祭神は、天照大御神。相殿神は、天手力男命(アマノタヂカラオノミコト;天照大神の隠れた天の岩屋の戸を手で開けた大力の神)、栲幡千千比売命(たくはたちぢひめのみこと;高皇産霊神の子の児火之戸幡姫の子で、天照大神の子の天忍穂耳命と結婚し、天火明命と瓊瓊杵尊を産んだ。織物の神として信仰される他、安産、子宝等の神徳をもつとされる)、市寸杵島姫命(イチキシマヒメノミコト;天照大神と素戔嗚尊との誓約の時に生まれた三女神の一。福岡県の宗像大社の辺津宮の祭神)、田心姫命(タキリビメまたはタギリヒメとも;日本神話に登場する女神で、宗像三女神の一柱。宗像大社では「田心姫神」として、沖ノ島にある沖津宮に祀られている)、多岐津比売命(タギツヒメノミコト;天照大神と素戔嗚尊との誓約のときに、素戔嗚尊の剣から生まれた三女神の一。福岡県の宗像大社の祭神で、中津宮に鎮座するとされる)、品陀和気命(ホンダワケノミコト、応神天皇)、大山津見命(オオヤマツノミコト;山をつかさどる神)、弥都波能売命(ミズハノメノミコト;代表的な水の神(水神))となっています。明治40(1907)年に天白社、八幡社の二社を合祀し、明治41(1908)年には5社を合祀しています。例祭は10月の体育の日。獅子舞があり、八幡獅子が家々を回るそうです。また、6月30日夜には、那護志(なごし)の大祓があり、いわゆる「茅の輪くぐり神事」が盛大に行われます。

Img_8921c_20210522165101 Img_8917c_20210523195601  境内には、摂社として二柱大神があります。ここは江戸時代末より病気平癒の神(センキの神)として信仰されています。少彦名命(すくなびこなのみこと;農業・酒造・医薬・温泉の神)と、大己貴命(おおなむちのみこと;天照大神に対して国津神(土着の神々)の頭領たる位置をあらわす)が祀られていますから、二柱神社。他に、稲荷社、山の神社と靖国社があります。さらに、皇大神宮遙拝所も(右の写真)。皇大神宮は、もちろん伊勢神宮。前にも書きましたが、四日市市内の神社では、こうした伊勢神宮の遙拝所を時々見ます。

Img_8948c  大宮神明社を出たところに紀念碑。田中光治郎という、明治6(1873)年に生まれた方のもの。日清戦争に参戦され、亡くなられました。明治31(1905)年3月の建立。上司であった、第三師団歩兵第六聯隊第二中隊長で、陸軍歩兵大尉である口羽清之の撰。

Img_8952c_20210522165101  大宮神明社のすぐ先に立派な屋敷がありました。見入っていたら、買い物途中と思われる地元の女性が、「ここはね、昔、庄屋さんの家だったんだよ」と教えてくださいました。確かに、そう思えるようなお宅です。屋敷も広く、縦も桃大きく、蔵がありますし、門も立派でした。四日市駅から南あたりの東海道、あちこちで新しい住宅も建っているのですが、そういう中にこうした昔風の建物が残っています。

 その1は若干短めですが、キリが良いのでここまで。その2は、水沢道標や大聖院から。

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2021年5月11日 (火)

20210508「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第3回「富田~四日市」(その3)……金場延命地蔵、道標2基、多度神社、三ツ谷一里塚跡碑、法泉寺、仏性院からなが餅笹井屋本店まで

210508tomida2  5月8日の「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」の第3回「富田~四日市」の本編その3です。その2は、光明寺という真宗本願寺派のお寺まででした。光明寺の先で東海道は、国道1号線と重なります。1号線に出て、金場延命地蔵(これは、八幡地蔵堂の地蔵と兄弟地蔵)、道標。その後、1号線から逸れて、多度神社と三ツ谷一里塚跡を経て、海蔵川を渡り、法泉寺、仏性院と回って行きます。

Img_5351c_20210508170001  光明寺からすぐに東海道は、左折、右折を繰り返し、国道1号線に出ます。海蔵橋の手前までは東海道と国道1号線は同じルート。その途中、国道の東側に金場延命地蔵があります。交通量が多いので、西側の歩道から写真を撮ったのみですが、ここの地蔵は、その2で書きましたように、八幡地蔵堂の地蔵と兄弟地蔵。もとは、羽津の東海道の南端、二重川(ふたえがわ)にかかる堺橋のたもとの堤(今の金場町交差点付近)にあったのですが、昭和48(1973)年、市道拡幅工事で二重川が埋められたのにともない、ここに移転しています。

Img_5355c Img_5359c_20210510192401  金場町の交差点は、5差路になっています。国道1号線と北から来る県道9号との間に道標があります。東海道と新濃州道の分岐点です。大正12(1923)年に建立された道標。南面には「右 四日市/左 大矢知道」、東面には「右 桑名/左 四日市道」とあります。金場延命地蔵と、この道標は、2019年3月24日の近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅2日目~ 東海道、旅人気分で間の宿・富田から四日市宿へ」で見逃したところでした(2019年3月30日:20190324近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅2日目~ 東海道、旅人気分で間の宿・富田から四日市宿へ」(その3)……「国寶元三大師道」道標、多度神社、三ツ谷一里塚跡、法泉寺を回り、嶋小餅店でみたらし団子を食べ、三滝川を渡る)。これでスッキリ(微笑)。

Img_5374c_20210510193601  国道1号線から多度神社の方に逸れて行くところにも道標があります。「国寶元三大師道」の道標です。これは、垂坂山観音寺への道を示すもの。元三大師(がんざんだいし)は、平安時代の天台宗の僧・良源(りょうげん、延喜12(912)~永観3(985)年)。垂坂山観音寺は、御本尊に良源をまつり、「垂坂山のお大師さん」「元三さん」として信仰を集めており、約1,100年の歴史がある天台宗のお寺。この道標から、北西へ直線距離で約3.5㎞のところにあります。この碑は、大正4(1915)年7月に三ツ谷の森太吉という方が建立しています。森太吉は、「 賣藥界の覇者」と言われます。碑の右側には、「垂坂山観音寺是より二十三丁」と記されています。23丁は、約2.5㎞。

Img_5377c_20210508170001 Img_5385c_20210510201801 この道標からすぐに多度神社があります。この神社は、その名の通り、桑名・多度にある多度大社から分祀された神社。それ故、主祭神は、天津彦根命(あまつひこねのみこと)。創立は、明治18(1885)年。明治40(1907)年、海蔵神社へ合祀されましたが、昭和25(1950)年に復興再建され、現在に至っています。

 Img_5389c_20210510201801 境内には、拝殿の東に南に向いて「慰霊」碑がありました。海蔵地区遺族会が建てたもので、戦没者57柱と戦災没者3柱を祀っています。昭和40(1965)年3月の建立。筆は、当時の田中覚・三重県知事。

Img_5399c_20210508170001  多度神社の、これまたすぐ先(100m足らず)、海蔵川の土手を登る途中の左側に三ツ谷一里塚跡の石碑があります。東海道の三ツ谷には、かつて一里塚がありました。しかし、その場所は昭和20年代に海蔵川が拡幅された際に、川の中に取り込まれてしまいました。「東海道分間之図」(元禄3(1690)年)によると、三ツ谷の一里塚は東海道が海蔵川に突き当った辺りに記されています。このため、平成13(2001)年、東海道宿場・伝馬制度制定四百周年を記念して、海蔵地区地域社会づくり推進委員会がこの場所に一里塚跡の石碑を建てて、後世に伝えることにしたのです。三ツ谷一里塚は、日本橋からは99里。

Img_5406c_20210510202601  旧道には橋がありませんので、国道1号線の海蔵橋に迂回します。海蔵川の堤防は、桜の名所です。海蔵川を渡ると、だんだんと四日市の町に入っていきます。

Img_5431c_20210508170001 Img_5417c  海蔵橋から200mあまりのところ、四日市市京町にあるのが、法泉寺。真宗本願寺派のお寺。四日市にあるのですが、ここは桑名の幕末の歴史を語る上では、外せません。明治元(1868)年、鳥羽伏見の戦いで敗れた桑名藩は恭順を決め、1月23日に先代藩主・松平定猷の嫡子・萬之助(後の松平定教)は家老を引き連れて、四日市の新政府軍陣営(真光寺:朝日町にある真光寺か)に出頭したのですが、実際に幽閉されたのは、ここ法泉寺です。萬之助は、法泉寺に100日間謹慎蟄居して恭順の意を表しました。当時の遺品が残り、寺宝となっているそうです。この時、萬之助はまだ12歳でした。法泉寺では人々の出入りが禁じられましたので、檀家も参詣できずに困ったといいます。

Img_5424c_20210510203001  法泉寺の境内には、太田覚眠師頌徳碑がありました。太田覚眠(慶応2(1866)~昭和19(1944)年)は、四日市出身で、真宗本願寺派の僧。法泉寺16世。明治36(1903)年、年西本願寺の開教師となり、シベリアに渡り、ウラジオストクに駐在。翌明治37(1904)年、日露開戦で強制送還されたが、講和条約締結後再びウラジオストクで布教に当たりました。

Img_5445c_20210508170001 Img_5434c  法泉寺の先に仏性院。浄土宗。ノーマークだったのですが、ふと見たら山門が見えたのです。これは行かねばなりません(微笑)。割と小さなお寺。ネットで調べても、これという情報は得られませんでした。

Img_5441c_20210511072801  境内にはお地蔵様。靖博地蔵尊という説明がありました。昭和19(1944)年1月21日、明野陸軍飛行学校(現在の陸上自衛隊明野駐屯地にある航空学校)北伊勢分教場(三重県鈴鹿郡川崎村(現在の亀山市北東部))を飛び立った複葉機(いわゆる赤とんぼ:日本軍の練習機は目立つように橙色に塗られていたことから別名「赤とんぼ」と呼ばれていました。その代表的な機種は、九三式中間練習機九五式一型練習機)が戦闘訓練中、接触事故を起こし、海蔵川周辺に墜落。林靖博少佐(名古屋市出身、当時27歳)が殉職しました。不憫に思った当地の有力者が発起し、婦人会などの協力を得て浜一色に地蔵尊を建立し、それが令和3(2021)年3月、ここに移転されたとあります。つまり、移転されたばかり。

Img_5454c_20210511110101 Img_5453c_20210511110101  続いて、三滝川を渡ります。橋は、三滝橋。このあたり、道幅は結構広くなっています。この三滝橋、江戸時代は、東海道を往還する人馬でにぎわう土橋でしたが、明治10(1877)年に板橋(長さ42間、幅2.5~3間)に架け替えられ、さらに大正13(1924)年6月には、鉄構橋(長さ約72m、幅6.3m)になっています。橋梁の歩道には、萬古焼陶板で作られた祭の絵や古地図などがあります。

Tokaido43_yokkaichi_20210511110201  ちなみに、歌川広重が「東海道五十三次」で描いた四日市宿は、この三滝橋あたりとされます。絵では、旅人が笠を飛ばされて慌てている光景が描かれています。遠景に船の帆柱らしきが立っていますので、上流側から見ていて、左が桑名宿の方と考えられています。土橋(どばし、つちはし、つちばし)は、一般には丸太を隙間なく並べて橋面を作った木の橋の橋面に土をかけてならした橋だそうです(城における土橋はこれと異なり、堀を横断する通路として設けられる土の堤)。江戸時代まで、日本の川にかかる橋のほとんどは土橋でした。広重の絵は、これとは違ったものになっていますが、実際にはどうだったのでしょう?

210508tomida4  三滝川を渡るあたりから、詳細なマップはその4になります。いよいよ旧四日市宿の中心部へと進みます。第二次大戦の時の空襲で昔の建物は焼失してしまっています。建福寺、四日市陣屋跡、黒川本陣跡、問屋場跡、帯屋脇本陣跡、札の辻、道標と回ります。この道標のあたりから諏訪神社のところまで、短い区間ですが、昔の街道は失われています。諏訪神社からスワマエ商店街を出たところで、今日の東海道のコースは終了。

Img_5461c_20210508170001 Nagamochi  三滝橋を渡った先で旧・東海道は左折します。いささか余談めきますが、三滝橋を渡ったところになが餅の笹井屋本店があります。土蔵造りの建物。天文19(1550)年、戦国時代の頃の創業とされます。初代・彦兵衛が、勢州日永の里に因んでつくったというように、もとは日永に笹井屋はあったようです。あの藤堂高虎も足軽の頃、なが餅のおいしさに感動し「武運のながき餅を食うは幸先よし」と大いに喜んだという話があります。なが餅は、小豆餡を白い搗き餅でくるんで平たく長くのばし、両面を焼香ばしく焼き上げてあります。同様の餅は、東海道や伊勢街道沿いにたくさんあったようですが、現在は、この笹井屋の他、四日市市には太白永餅(金城軒)が、また、桑名には、安永餅(永餅屋老舗と、安永餅本舗柏屋)があります。画像は、永餅屋老舗さんのサイトからお借りしました。小腹が空いたときのおやつに最適です。個人的には、安永餅本舗柏屋さんのものが好みです。

 詳細なマップその4に入って、ちょっと中途半端になりますが、長くなりますから、その3はここまで。その4では、旧四日市宿中心部から諏訪神社、スワマエ商店街へ行きます。

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2021年5月10日 (月)

20210508「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第3回「富田~四日市」(その2)……八幡常夜燈、八幡地蔵堂、八幡神社跡、かわらずの松、志氐神社一の鳥居と妋石、光明寺を経て国道1号線へ

210508tomida2  5月8日の「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」、第3回「富田~四日市」の本編その2です。その1では、近鉄富田駅をスタートし、茂福神社と茂福城跡を見て、県道64号線の高架をくぐるところまで来ました。左の画像は、詳しいマップその2です。八田三丁目西の交差点がそこです。このあとは、八幡常夜燈、八幡地蔵堂と八幡神社跡、かわらずの松、志氐神社社号標・常夜燈・妋石、光明寺と進みます。光明寺の先で東海道は、国道1号線と同じルートになります。

Img_5226c_20210508165901  中部運輸局四日市自動車検査場を過ぎ、米洗川(よないがわ)の手前、西側に常夜燈があります。八幡(やわた)常夜燈です。一昨年の近鉄ハイキングでもここを通ったのですが(2019年3月29日:20190324近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅2日目~ 東海道、旅人気分で間の宿・富田から四日市宿へ」(その2)……八幡常夜灯、八幡地蔵堂、八幡神社跡、かわらずの松、妋石(みよといし;夫婦石)、光明寺を経て国道1号線に合流)、その時には、この常夜燈について詳しいことがよく分かりませんでした。今回、ここから先、羽津地区で立ち寄ったところには、「羽津地区まちづくり推進協議会」が新たに説明板を立ててくださってあり、いろいろと知ることができました。この常夜燈は、明治35(1902)年9月に建てられています。Img_5230c_20210510043201 両側面には「両大神宮」と刻まれ、台座には世話人として羽津村中人100余名の名があります。設置年代からみて、それ以前にあったものを建て替えたと考えられるのですが、以前のものの記録はないそうです。設置当時、茂福から米洗川までは、一軒の家もない「芝原縄手」と呼ばれる、松並木の寂しい道で追いはぎも出たといいます。一方、東海道中が盛んな頃には、このあたりまで四日市宿の飯盛り女や客引きが迎えに来ていたそうです(以上、説明板より)。このあと訪ねる八幡地蔵堂は、もともとこの常夜燈の向かいに建っていました。

Img_5238c_20210510044501 Img_5243c  八幡常夜燈のすぐ先に米洗川。左の写真は、その上流方向です。この先に伊賀留我神社(北伊賀留我神社と南伊賀留我神社があります)や、その近くには、天武天皇迹太川御遙拝所跡があります。天武天皇が壬申の乱で、奈良の吉野を離れて鈴鹿を経て三重県に入り、迹太川(とおがわ)のほとりで天照大神に戦勝祈願したと日本書紀にありますが、迹太川は、現在の米洗川であると考えられています。右の写真は、米洗川を渡った先の東海道の様子。

Img_5246c_20210508165901  八幡常夜燈から300mほど、八田第一集会所の隣に、八幡(やわた)地蔵堂と、伊勢国八幡(はちまん)神社跡があります。お地蔵様は、延命地蔵尊。このあと通った金場町にある金場地蔵尊と同じ一つの石から作られた兄弟地蔵で、こちらの地蔵、もとは羽津村の南北の入口(この地蔵は北の入口)に置かれ、村内に疫病が入り込まないようにするための結界地蔵といわれるものであったといいます。上に書いたように、昔は、米洗川北側の八幡常夜燈の向かい辺りにあったのが、昭和4年(1929年)に、八幡地区の住民によって現在地に移設されたそうです。トリビアですが、このお地蔵様、仏像の知識に乏しい石工が彫ったらしく、螺髪に来迎印という阿弥陀如来の形になっています。地蔵堂の前には「真誉法眼(しんよほうげん)上座」という石碑が建っています。是についても、以前来たときには分からなかったのですが、新しい説明板によれば、堂守の真誉師(しんよし)の遺徳を偲んで建てられたもの。

Img_5257c_20210508165901  八幡神社は、勧請年代は不明ですが、江戸時代の旅行記に、「一国一社にして村名も八幡(やわた)と称し、皇国六十六拝の一つに数えられている古社である」と紹介されています。東西40間、南北55間という広い社地を持つ、著名な神社出遭ったそうです。明治41(1908)年に志氐神社に合祀されて、ここ旧社地には「伊勢国八幡神社碑」と刻まれた石柱が建ち、往時を偲ぶよすがとなっています。八幡神社の遺品は、鳥居が志氐神社東口に、また、石燈籠が東海道沿いにある志氐神社一の鳥居脇に移設されています。

Img_5265c_20210508165901  八幡地蔵堂・八幡神社跡から400mほど、堀切川を渡る直前に、松の木が一本。「かわらずの松」です。戦前まで、このあたりは松並木でした。戦後は、経済発展にともなって、道路の拡幅が行われ、また、松食い虫の被害を受けて、東海道の松並木は姿を消してしまいました。この松は、樹齢200年以上とされ、江戸時代からここを行き交う旅人を見守っていたと思われます。ここは、今は羽津というところですが、その昔は「かわらず(川原須)」と呼ばれていましたので、その地名からこの松は「かわらずの松」と名づけられ、大切にされています。同行のK氏は、「もっと立派な松だと思ったがなぁ」とひと言。

Img_5303c  かわらずの松の先、スタートから4㎞を過ぎたところに志氐(しで)神社の一の鳥居と石柱、常夜灯などがあります。志氐神社は、上記の伊勢国八幡神社を合祀した先。神社は、この一の鳥居から400mほど北西に入ったところ(四日市市大宮町)にあります。いろいろと見るべきものもあるようですから、一度行ってみたいとは思っているのですが、まだ実現していません。往復800mの寄り道はちょっと厳しい。主祭神は、気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ;祓戸の神(ハラエドノカミ)ともいい、祓を行う場所である「祓戸(はらえど)」を守る神)。創祀年代は明かではありませんが、社記では垂仁天皇の頃といいます。

Img_5296c  先に触れたように、八幡神社にあった常夜燈が、ここに移設されています。「天下泰平 八幡宮御神前 国家安全」と正面に刻まれています。

Img_5299c_20210508165901  この志氐神社一の鳥居のところに、東海道の両側に2つの大きな石があります。これらは「妋石(みよといし)(夫婦石)」と呼ばれています。志氐神社には、伊弉諾尊(イザナギノミコト)と伊弉冉尊(イザナミノミコト)も祀られていて、縁結び・夫婦円満のご神徳があるとされます。古書にも「婦女の婚姻を求むる祈願を之になす」と記述があり、古来より、東海道を行き交う多くの旅人は、この夫婦一対妋石をなでて、縁結び・夫婦円満の願いを込めたといいます。石は、鳥居の真下に1つ(上の鳥居が写った写真をよくご覧ください)、道を挟んだところにもう1つ(左の写真)あります。きちんと撫でて来たらよかったかと、思ったりして(苦笑)。

Img_5307c_20210508165901  このすぐ先(100mあまり)には、初野山摂護殿光明寺(はつのざんしょうごでんこうみょうじ)があります。真宗本願寺派のお寺。元は大矢知村青木谷にあったといいます。弘仁年間(810~824年)に空海が諸国を巡回した時に、小堂を建てたのが始まりと伝わっています。寛正元(1460)年に、下野国高田の専修寺第10世眞慧(しんね)上人が諸国巡化の際、最初に近江国坂本の妙林院(浄土真宗寺院。真慧が専修寺の出張所として創建したものの、廃絶。跡地不明)から光明寺に来錫し、約1年間在住して付近を教化した時に、当時の住職が改宗して浄土真宗高田派に転じたといいます。

Img_5321c_20210510065401  享禄年間(1528~1531年)に、羽津城主赤堀左京大夫盛義(宗昌)が出家して光明寺に入り善願と名乗り、現在地に寺を移して初野山青木堂光明寺と称しました。天正年間(1573~1591年)に京都興正寺の勧めにより、高田派から本願寺派に転じたとされます。寛文3(1663)年2月、雷により堂宇、宝物、記録等一切を焼失し、創建の年月、開基の事蹟、中古世代住職名等すべて不明になりました。第5世俊応の妹せつが青蓮院宮に仕えた関係で、皇族所縁の品々を下賜され保管していたのですが、これらは、戦災で焼失しています。

Img_8233c_20210510065501  光明寺の山門前には、「八十宮(やそのみや)御遺跡」の碑が建っています(左の写真は、2019年3月24日に撮影)。八十宮は、霊元上皇の内親王(吉子内親王(よしこないしんのう);正徳4(1714)~宝暦8(1758)年;八十宮は幼名)で、正徳5年、7代将軍徳川家継の婚約者になったのですが、家継は翌年死去。享保11(1726)年内親王となり、同17(1732)年、19歳で仏門に入りました。徳川家継は江戸幕府の第7代将軍(在任:1713~1716年)ですが、宝永6(1709)年)7月3日生まれですから、婚約当時はわずか6歳。八十宮の方は、何と1歳で婚約しています。正徳6(1716)年閏2月18日(4月10日)に納采の儀を行ったのですが、そのわずか2ヶ月後、享保元(1716)年4月30日(6月19日)に家継は亡くなります。八十宮は、1歳7ヵ月で後家となってしまったのです。政治的な思惑が働いたのでしょうが、何ともいえない話。光明寺にこの「八十宮御遺跡」の碑があるのは、その宮付に光明寺第5世俊応の妹つねが召されたとされます(こちら)。碑は、昭和3(1928)年3月に桑名吉津屋町の寺本久治が建てています(寺本についてGoogleで検索すると、昭和22年の官報に名前が出て来ますが、どのような人物かは不明。こちら)。

Img_5334c_20210508165901  境内には、森多三郎紀念碑とその墓碑があります。文久元(1861)年、桑名藩が過酷な年貢米の増徴を命じたのに対し(当時の藩主は、松平定敬)、これを阻止しようと、羽津村組頭村方三役の一つで、名主、庄屋を補佐する役目)であった森多三郎ら17名が先頭に立って藩に抵抗しました。その結果、藩は年貢の増徴を断念することになったのですが、その後、多三郎は桑名藩庁に呼ばれて安永の料理屋に行き、毒酒を飲まされ、帰途、この光明寺までたどり着いたところで絶命したと伝えられています。この碑は、当時の羽津村の肝煎、組頭、小前惣代が藩の譲歩を勝ち取った記念に、多三郎の功績に報いるものですが、桑名藩の追及を畏れ、碑文は紀念碑という文字と、建立年、多三郎を含む百姓の代表名という簡素なもになっています。また、紀念碑の前には、「釋浄諦信士」と刻まれた森多三郎の墓碑が建てられています。

Img_5345c_20210508170001 Img_5281c_20210510070501  光明寺から200m足らずのところで旧・東海道は、左に曲がり、国道1号線に入ります。スタートからは4.6㎞ほどのところ。この先、金場町、三ツ谷と進みます。これもいささか余談ですが、羽津地区のあちこちに右の写真のようなものが置かれていました。「とうかいどう」と透かし彫りになっていて、電源コードがつながっていますから、夜は灯りが入ると思います。なかなか風情があっていい感じ。その2は、ここまで。その3は、国道1号線沿いにある金場延命地蔵や、道標を見て、多度神社へとなります。

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