お知らせ

  • データの移行について
    2005年10月26日のブログ開始当初から、2025年11月30日までの記事は、「猫の欠伸研究室(アーカイブ)」に移行しました(http://blog.livedoor.jp/taichimaru151/)。 このココログの「猫の欠伸研究室」には、2020年1月以降の記事を残し、2019年12月以前の記事は削除しました(2020年1月1日から2025年11月30日までの記事は、両方にあります)。

レンズを通した自然観察

  • この「レンズを通した自然観察」ということばは、恩師のお一人が、私の趣味を形容しておっしゃったものです。2023年2月7日のブログに書きましたが、実はときどき思い出していることばです。お世話になった先生方はたくさんいらっしゃいますが、この恩師は、就職のことから学位論文の執筆、審査に至るまで本当にお世話になった先生です。「写真の撮り方を指南してもらいたい」ともおっしゃったのですが、これはお世辞と理解しています。私はほぼ隠居状態となって10年以上になりますが、今、改めてこのことばをかみしめています。この先生には結婚式の際に「理論と臨床をつなぐ仕事をするように」ということばをいただきました。体調を崩してそれには十分に応えられませんでしたので、せめてこの「レンズを通した自然観察」については、極めるとまでは行かないにしても、もう少し精進したいと考えています。

ブログ名の由来

  • ブログ名の「猫の欠伸研究室」は、中日新聞の夕刊に連載されている「紙つぶて」というコラム(平成22(2010)年1月13日)に、元新党さきがけ代表の武村正義さんが書いていらっしゃった「人生は猫の欠伸である」というコラムによります。武村さんは、“チベットで鳥葬を取り仕切る僧侶が、「人の生涯は猫の欠伸のようなもの」と語った”と書いていらっしゃいます。「猫の欠伸のようなもの研究室」としたかったのですが、ちょっと間延びしますので、「猫の欠伸研究室」とした次第です。「研究室」とつけたのは、過去、大学に勤めていたことがあるということやら、知らないこと、分からないことがあると何でも調べずにはいられない性分であること、屁理屈、講釈が大好きであることからであります。しかし、「人生の研究をしている」のではありません。「大所高所」からのご高説を開陳できるほどの力量はないが故、「小所低所」からの戯れ言をつぶやくのが精一杯(苦笑)。身の程に合わせ、勝手なことを書き綴っていますので、御用とお急ぎでない皆様には、今後ともご交誼のほど、お願いいたします。是非ともコメントを頂戴し、少しでも世間を広げたいと熱望しております。

モットー

  • 座右の銘というほど立派なものはありませんが、過去に体調を崩し、療養生活を送った経験から、私なりのモットーをつくっています。その一つは、「淡々と飽きもせず……」です。自分では、「……」と余韻を残しているところが気に入っています。こだわりすぎや、やり過ぎはよくありません。若い頃はムキになってやったこともありますが、今はこのように「淡々と飽きもせず……」が自分に合っていると思っています。もう一つは「晴耕雨読」ならぬ「晴歩雨読」です。マンション暮らし故、耕すところはありません。代わりに歩いています。そして、最近(令和3(2021)年に入った頃から)追加したのが、「散歩生活、ときどき仕事」。NHKのテレビ番組に「晴れ、ときどきファーム!」というものがあります。これのもじり。浅学非才の身ですので、ご交誼の上、いろいろとご教示をお願いします。

地蔵

2025年9月24日 (水)

20250923勝手にハイキング「巡礼道を行く」(その1)……近鉄千里駅から、伊勢街道との追分を経て、汐見橋まで

Rekishikaidohigasichisato  猛暑でハイキング/ウォーキングを控えていましたが、ずいぶん涼しくなりましたので、9月23日(火・祝)に試しに出かけてみました。「巡礼道」という名前の道は、たぶんあちこちにあると思いますが、今日歩いてきたのは、「みえの歴史街道」の「伊勢街道」のルートマップに描かれている古い街道です。冒頭の画像は、その伊勢街道のコースマップの「東千里」の一部。津市河芸町東千里で伊勢街道から分かれ、国道23号線や近鉄名古屋線の東側、海寄りを通る街道です。左の画像では、緑色のラインで描かれています。赤いラインが、伊勢街道。巡礼道は、古伊勢街道、浜街道、下街道などとも呼ばれ、伊勢街道よりも古い道と考えられます。全長7.2㎞ほどの短い街道で、津市栗屋町屋町で伊勢街道に合流します。ネットでブログ記事などを検索しても、通しで歩いたという記事はあまりヒットしません(巡礼道を歩く【栗真町屋町→東千里】(2011年11月27日)伊勢街道(巡礼道-脱線有))。また、この巡礼道についての情報も出て来ません。津市史とか、河芸町史を調べると、何か書いてあるかもしれないと思っています。その意味では、ちょっと珍しいところを歩いてきました。

Junreimichi011  いつものように、最寄りの駅まで電車で出かけ、歩いて、最寄りの駅から電車で帰るというパターンです。今回は、近鉄名古屋線千里駅から伊勢街道を750mほど北に歩いて、巡礼道との追分まで行きます。巡礼道が伊勢街道に合流したところからは、同じく江戸橋駅まで1.4㎞を歩くことにしました。全体のルートは、左の画像の通りです。今日は、本編のその1です。

Img_3627c Img_3632c  近鉄桑名駅を7時32分に発車する松阪行き急行で白子駅まで。白子には8時2分着、8時11分発の津新町行き普通に乗り変え。千里駅に8時17分に到着。¥680。千里駅を9時20分にスタートし、しばらくは伊勢街道を歩きます。

Junreimichi11  詳しいルートマップその1です。甕釜冠地蔵堂のすぐ北東が追分です。信光寺、尾前神社、正法寺と立ち寄っていきます。本福寺は、4年前に立ち寄っていますので、パス(2021年8月22日:20210822「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第7回「鈴鹿・白子~河芸・千里」(予告編))。

 Img_3649c Img_3653c 追分のすぐ手前(南西)に甕釜冠地蔵堂(かめかまかぶりじぞうどう)があります。この堂はもと光明院といって伊勢参宮の旅人の休憩所で、旅の無事安穏を祈願した場所です。宝形造りの仏堂の屋根の上には、露盤宝珠を置くのが普通ですが、この堂は炊事用の釜と水甕が伏せてあります。非常に珍しい形式で、堂の名前の由来となっています。この甕釜冠地蔵堂は、6年前の近鉄ハイキングで初めて見て以来(2019年5月25日:20190525近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅5日目~伊勢街道旅人気分で伊勢湾沿いの白子から河芸へ」(予告編))、妙に気に入っています。

Img_3664c  こちらが、伊勢街道と巡礼道の追分。この写真は、北から南を撮っています。右に向かう道が伊勢街道、左が巡礼道となっています。右端に甕釜冠地蔵堂が見えます。ここが今日の巡礼道歩きのスタート。

Img_3678c Img_3685c  巡礼道、歩き始めてしばらくは、普通の道。普通の道というのは、広さをいっています。真宗高田派の信光寺の南あたりを歩くのですが、右、左と曲がるうちに、道幅は軽自動車1台がやっと通れるくらいになります。民家の間の路地を歩いている感覚で、ここが街道であったとは思えないくらい。

Img_3646c Img_3642c_20250923174401  真宗高田派の信光寺。ネット検索では、これという情報はヒットしませんが、「みえの歴史街道」の「伊勢街道」のマップには、聖徳太子の創建と伝わると書いてあります。

Img_3693c Img_3704c_20250924143701  信光寺から巡礼道に戻りますが、相変わらずこのような細い道が続きます。

Img_3713c_20250923174301  その先を海側に入ったところに尾前(おざき)神社。式内社。垂仁天皇18(BC18)年、勅命によって今の千里ケ丘中尾前の地に神殿が建てられていましたが、鎌倉時代の後期に村人とともに現在地に移ったとみられています。霊験あらたかなとことから、天武天皇より「尾前土宮」の宮号を賜り、一名「土御前」と号しまた。

Img_3734c Img_3723c_20250924143801  主祭神は、速佐須良比咩神(はやさすらひめのかみ)。祓戸四神のうちの一神。相殿神は、塩椎神(しおつちのかみ:)、大山津見神品陀和気神。塩椎神は、山幸彦が兄の海幸彦から借りた釣り針を返せず困っていたときに、海神の宮へ行く道を教え、日向にあった神武天皇には東方に美しい地があることを教えた神ですが、この神様が祀られている神社には、初めてお参りしました。

Img_3730c  四年に一度を舞い年と決めた「獅子舞神楽」が有名です。これは東千里の氏子の中から選ばれた20数人が、1月1日から3日まで家内安全・五穀豊穣の門舞いを行うそうです。保存会の手によって、800年の伝統が受け継がれています(こちら)。宝物となっている獅子頭二口は、高倉天皇の御代に、朝廷から献じられたものと伝えられています。

Img_3742c Img_3738c_20250924143801  境内には、山の神3基と、「神宮・皇居遙拝所」があります(昭和55(1980)年3月建立)。

Img_3707c  神社の鳥居の西に尾前神社の境内を示すと思われる石標があります。中央には「○○尾前神社境内」、向かって右には「従是東境○」、左には「従是北境内」と刻んであるようです。

Img_3749c  巡礼道に戻りますが、道は相変わらず、細い、田舎道です。

 Img_3761c_20250924145601 Img_3770c_20250924145601 河芸マリーナの西に真宗高田派の潮音山正法寺。ここもネットではこれという情報はヒットしませんが、さすがに海の近くだけあって、山号が「潮音山」とは素晴らしい。

Img_3797c Img_3806c  この先で田中川に行き当たります。左の写真は下流側、ここから500mほどで海。右は上流側。近鉄名古屋線、国道23号線となります。

Img_3802c_20250924150101 Img_3818c_20250924150101  左の写真は、田中川に行き当たったところで、歩いてきた道を振り返ったもの。右は、田中川を渡る汐見橋。

Img_3834c  汐見橋を渡ると、巡礼道も普通の道路になります。詳しいルートマップその1は、ここまで。

2025年9月23日 (火)

20250923勝手にハイキング「巡礼道を行く」(予告編)

Img_3632c  猛暑でハイキング/ウォーキングを控えていましたが、ずいぶん涼しくなりましたので、今日は、試しに出かけてみました。「巡礼道」という名前の道は、たぶんあちこちにあると思いますが、今日歩いてきたのは、「みえの歴史街道」の「伊勢街道」のルートマップに描かれている古い街道です。津市河芸町東千里で伊勢街道から分かれ、国道23号線や近鉄名古屋線の東側、海寄りを通る街道です。古伊勢街道、浜街道、下街道などとも呼ばれ、伊勢街道よりも古い道と考えられます。全長7.2㎞ほどの短い街道で、津市栗屋町屋町で伊勢街道に合流します。ネットでブログ記事などを検索しても、通しで歩いたという記事はあまりヒットしません(巡礼道を歩く【栗真町屋町→東千里】(2011年11月27日)伊勢街道(巡礼道-脱線有))。その意味では、ちょっと珍しいところを歩いてきました。写真のチェックに手間取りましたので、今日のところは、超予告編です。冒頭の写真は、津市河芸町あたりの伊勢街道。南から北を見ています。

Img_3627c Junreimichi011 近鉄桑名駅を7時32分に発車する松阪行き急行で白子駅まで。8時2分着で、8時11分発の津新町行き急行に乗り変え。千里駅に8時17分到着。¥680。8時20分にスタート。全体のルートマップは、右の画像の通りです。立ち寄り先の位置は、おおよそのところとご理解ください。まずは、千里駅から伊勢街道と巡礼道の追分まで、北に向かって伊勢街道を750mほど行きます。

Img_3649c  追分のすぐ南に甕釜冠地蔵堂(かめかまかぶりじぞうどう)。この堂はもと光明院といって伊勢参宮の旅人の休憩所で、旅の無事安穏を祈願した場所です。宝形造りの仏堂の屋根の上には、露盤宝珠を置くのが普通ですが、この堂は炊事用の釜と水甕が伏せてあります。非常に珍しい形式で、堂の名前の由来となっています。

Img_3664c  ここのすぐ北に伊勢街道と巡礼道との追分があります。左の写真は、北から南を撮っています。右に向かう道が伊勢街道、左が巡礼道となっています。右端に甕釜冠地蔵堂が見えます。ここが今日の街道歩きのスタート。

Img_3678c Img_3685c  歩き始めてしばらくは、普通の道。普通の道というのは、広さをいっています。真宗高田派の信光寺の南あたりを歩くのですが、右、左と曲がるうちに、道幅は軽自動車1台がやっと通れるくらいになります。民家の間の路地を歩いている感覚で、ここが街道であったとは思えないくらい。

Img_3642c_20250923174401 ちなみに、こちらが真宗高田派の信光寺。聖徳太子創建と伝わるそうです。

 Img_3713c_20250923174301その先を海側に入ったところに尾前(おざき)神社。式内社。別名は、土御前。主祭神は、速佐須良比咩神(はやさすらひめのかみ)。祓戸四神のうちの一神。垂仁天皇18(BC18年)、今の千里ヶ丘中尾前の地に社殿を建て、その後、鎌倉後期に村人とともに現地に移転したとされます。4年に1度獅子舞神楽が奉納されます(こちら)。

Img_3806c  近鉄千里駅の南あたりまで来ると、田中川に行き当たります。汐見橋を渡り、さらに南に進みますが、ここからしばらくは名所旧跡、寺社仏閣はありませんので、ひたすら歩きます。ちなみに、伊勢街道は、この汐見橋の上流、近鉄名古屋線、国道23号線の西を通っています。

Img_3857c  スタートから2㎞半を過ぎたあたりを西に入ると、中別保の八雲神社があります。主祭神は、須佐之男命。天正15(1587)年に尾張から来た野島清次郎が牛頭天王を祀ったのが始まりだそうです。

Img_3908c_20250923174401Img_3921c_20250923185201  その先、松林寺に河芸町保存樹木第1号の松があります。由来は、今のところ調べがついていません。右の写真は、松林寺。真宗大谷派。

Img_3938c_20250923185301  こちらは、丹羽虎太郎顕彰碑。丹羽は、戦前の河芸町漁業組合長。当時、イワシとコウナゴの水揚げが多かったそうですが、無制限にすべて獲ってしまうのではなく、漁獲量の調整を行う方法を模索したといいます。文字を書いたのが、若槻禮次郎とありました。昔の顕彰碑の筆を執った人は、超有名人が多いのに驚きます。

Img_4115c  影重の八雲神社です。津市河芸町には、3社の八雲神社があります。八雲神社ですから、主祭神は、須佐之男命。祇園信仰の神社で、津島神社から勧請されたと伝わります。影重地区には、「主人を救った犬」の伝説が残り、個人家族(犬)とともに参拝を促す神社として知られています。ここからしばらく、またひたすら歩いてきました。

Img_4187c  5㎞を過ぎて、近鉄白塚駅の南あたりに白郷稲荷神社。主祭神は、倉稲魂命。昭和6(1931)年、伏見稲荷大社から許可を得て五社稲荷大神の神号を得たそうです。

 白塚の八雲神社Img_4283c創建は不詳。主祭神は、須佐之男命。主祭神の須佐之男命が退治した八岐大蛇をまねた青竹を束ねてつくった「やぶ」をかついで町中を練り歩き、悪病退散を願う「やぶねり」神事が行われます。

Img_4356c Img_4353c_20250923191201  八雲神社の先に「菓子処前田屋」さん。事前の調べでこの「白塚まんじゅう」が名物というのを知り、ぜひとも買って帰りたいと思ったのです。が、普通であれば、火曜定休。お彼岸だからやっているだろうと勝手に決めて出かけたのです。さつまいものあんこ。1個¥135。8個を土産にお買い上げ。

Img_4465c Img_4445c  栗真町屋町に入って、千王神社。創建は不詳ですが、持統天皇の伊勢行幸のとき、田を賜ったという伝説があります。主祭神は、神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれひこのみこと=神武天皇)。夏祭りでは、巨大龍が伊勢街道を練り歩く「巨大龍踊り」が披露されます。これで、ゴールまですぐ。

Img_4524c Img_4562c  伊勢街道と巡礼道の追分に到着。11時20分頃です。左の写真は、巡礼道の側から見たところ。右の写真は、南から追分を撮ったもの。向かって右が、今日歩いてきた巡礼道。向かって左が伊勢街道。常夜灯、名残の松、道標などがあります。

Img_4529c_20250923192101  こちらは、道標。南側から撮っています。向かって右面には「右 白塚豊津道」とあります。左面には、「左 上野 白子/神戸 四日市道」とあります。この巡礼道、メインの旧街道ではありませんので、旧街道によくある古い建物や、蔵などはありませんでした。歩き始めのあたりは、細い道で、いかにも古い街道と思わせる雰囲気がありました。途中からは、住宅地によくある道という雰囲気になっていました。

 Img_4598c_20250923192501 Img_4637c このあとは、しばらく街道を歩きます。三重大学の前から国道23号線を経て、江戸橋へ。ここは、昨年度まで非常勤講師に行っていましたし、何度も歩きましたので、勝手知ったるあたり。

Img_4662c Img_4675c  近鉄名古屋線江戸橋駅には、11時45分過ぎに到着。歩き始めから3時間半ほどで到着。12時2分発の名古屋行き急行に乗車し、桑名駅には12時40分に到着。¥830。

250923145013133c  今日のお土産。前田屋菓子店さんの白塚まんじゅう。芋餡で美味しくいただきました。

 Screenshot_20250923125943c今日のGoogle Fitのデータ。歩いたのは、12㎞。歩数は、23,340歩。現地では、巡礼道がマップ上7.2㎞ですが、千里駅から伊勢街道と巡礼道の追分まで750m、栗真町屋町での追分から江戸橋駅までが1.5㎞ほど。あちこち立ち寄りましたので、この距離。この予告編も、明日以降修正する可能性があります。本編は、また明日以降ゆるゆると。

 

 

 

 

2024年2月 4日 (日)

20240126津島神社初詣ウォーキング(その3)……瑞泉寺、六角地蔵、本町筋、坂井町の井戸、津島神社道標、堤下神社を経て「なすがまま」で昼を食べ、津島神社にゴールにて「完」

Tsushima1   1月26日に行ってきた「津島神社初詣ウォーキング」の本編その3です。その2では、大イチョウ(津島神社御旅所跡)から、東鳥居脇の大イチョウ、総本家角政を経て、津島神社に初詣し、天王川公園まで行きました。その3では、瑞泉寺、六角地蔵、ヨネ・ノグチ生家跡、三養荘、坂井町の井戸、津島神社参道を示す道標、堤下神社を経て、「なすがまま」という古民家カフェで昼食。その後、白山社を経て名鉄津島駅にゴール。

Img_6708c_20240126162101  鏡池山瑞泉寺。もとは、天王川西岸の天王島にあり真言宗の瑠璃光寺といったのですが、良王君が逝去し瑞泉寺殿と号したことから菩提寺となり、瑞泉寺に改号したと伝わります。永正14(1517)年、舟戸の地に移転し、浄土宗に改宗。津島四家、七苗字の一つである大橋氏の菩提寺。芭蕉句碑があるというのですが、津島幼稚園を併設していて、境内には入れないようになっていました。このあたりは津島上街道に沿っています。

Img_6684c_20240203150901  この瑞泉寺の東側には、稚児門という門がありました。現在、津島の川祭車を準備するのは、車河戸と呼ばれる津島湊跡ですが、この湊は江戸時代中期までは、ここ瑞泉寺の南隣まで奥行きがあったそうです。そのためこのあたりは舟戸町と名付けられています。稚児門は、川祭の祭礼当日、乗船する稚児が門外の水路から小船で祭礼本船に向かったことから、このように名付けられ、祭を執り行う上で重要な役割を持つもんだったといいます。

 瑞泉寺の南東Img_6677c_20240203151501 Img_6680c_20240203151501 の交差点には、「舟戸小路」というプレートがはめられていました。この名前は、このあたりまで水辺だったという言い伝えがあるそうです。

Img_6704c_20240126162001 Img_6699c_20240203152001   瑞泉寺・津島幼稚園の向かい、東側に六角地蔵(六地蔵尊)。灯篭型の六角で珍しい地蔵堂です。厨子の中に地蔵尊像があり、厨子の外周りには六地蔵が立てられています。境内には延享2(1745)年奉献の石灯篭があります。この六地蔵尊は、人間に姿を変えて深夜の盗賊を追い払ったという逸話が残されています。元は船戸町にありました。

Img_6715c_20240126162001  今回、コース設定にあたって参考にした「津島市散策マップ」には、六角地蔵の先にヨネ・ノグチ生家があると載っているのですが、予習のときにGoogle Street Viewでチェックしたら、それらしい建物はありませんでした。瑞泉寺や六地蔵の先で右折して確認してきましたが、ご覧のような状況。更地というか、駐車場というか、そういうスペースになっていました。リンク先の写真と見比べていただくとよくお分かりになるでしょう。

Img_6729c_20240126162001  ヨネ・ノグチ生家跡から津島街道に戻って、三養荘。三養荘は貞享2(1685)年)の建築とされ、300年以上前の原形を今も留めています。徳川家に縁ある津島の堀田家から豪商服部家に移り、昭和60(1985)年に平山学園清林館高等学校へ引き継がれました。同校所有となり「信仰・勤労・実際」の三つの心を込め「三養荘」と名付けられ、情操教育の場として活用されているそうです。

Img_6737c_20240203152901  三養荘には屋根神が祀られています。屋根神様の内には津島、伊勢、秋葉、熱田神社の神札を納められており、各町内でお供えをしているといいます。この津島上街道にそったあたりは、本町筋と呼ばれ、古い町並みが残っています。鎌倉時代以来の旧津島上街道の一部で、江戸期には津島と名古屋城下を結ぶ道として賑わいました。沿道には、昔ながらの町家が多く、ノスタルジックな雰囲気。道自体が緩やかにカーブしていますが、それは、かつてこの道が天王川の堤防に沿っていたからだといわれています。

Img_6783c_20240126162001 Img_6772c_20240203153501  上述のように津島街道沿いには古い民家がたくさんあります。こちらのお宅には、屋根神さまと卯建が上がっています。「卯建が上がらない」ということばがありますが、それは「地位・生活などがよくならない。ぱっとしない」といった意味。

Img_6818c_20240126162001  Img_6828c 本町2丁目と3丁目の境あたりに「坂井町の井戸」。町角に花崗岩の方形石組みの井戸があります。「大正七年十二月坂口町」と刻まれていますが、明らかに辻井の形態が残っています。昭和10(1935)年頃まで使用されていたと伝わっています。ちょっと覗いてみたのが、右の写真。かなり深く、底には今も水がたまっていました。

Img_6854c_20240126162001 Img_6859c_20240126162001  本町通りから橋詰町に入る北西角に道標。これは津島神社への参道を案内するものです。明治29(1896)年、尾西鉄道が開通した年に、氏子の浅井代次郎氏が寄附したものです。大正3(1914)年、尾西鉄道が名古屋鉄道に買収され、駅を今市場通りに設けてから、この鉄道を多く用いることとなり、参拝者の多くは、今市場通りから本町を経て橋詰で西へ折れ、神社へ出たのですが、天王通の開設とともに駅を移転した結果、こちらは、今日では裏通りとなっています。

Img_6905c_20240126162101 Img_6892c_20240203154301  これで当初予定していたところはほぼ回ってきましたが、天王通に出るところで堤下(とうげ)神社。もとは金燈篭社と称し、天明5(1785)年の天王川築留め以前は、川を隔てて津島神社の遙拝所であったといいます。祭神は須佐之男命奇御魂となっていますが、古くから乳児の夜泣き封じの信仰で広く知られています。

Img_6895c_20240203154301  堤下神社の境内にも井戸がありました。この井戸は、ここが津島神社の遙拝所であった頃、手洗いの井戸として用いられたといいます。

Tsushima1  ルートマップは再びその1。

Img_6926c_20240126162101 240126121907961c  天王通に出て名鉄津島駅に向かっていると、とある民家風の建物の前に女性が立っておられました。あらかじめランチが食べられる店はチェックしていたのですが、ここ「なすがまま」もその1つ。ただし、おっさんが入るような店ではないなと思って、候補に入れていませんでした。しかし、この女性から声をかけられ、いろいろと伺う内にこれも縁かと思って、K氏とここで食事をしていくことに。「古民家カフェ」という位置づけのお店。ここを借りて、直してカフェにしているそうです。魅力的なメニューが並んでいたのですが、ランチをチョイス。今日は、コロッケ。これで¥880(税込み)。昼食がてら、12時過ぎから1時間ほど休憩。ゆったりできるお店でした。

Img_6940c_20240203154601 Img_6933c_20240203154601  なすがままを出て津島駅に向かっていたら、通り沿いに白山社がありました。天王通の南側に一段高く石垣が積まれ、玉垣に囲われた瓦葺の社が見えます。弘和元(1381)年、三輿村(現在の愛西市見越町)に創建、慶長13(1608)年、当地に移転したとあります。隣接する観音寺(こちらにはお参りしていませんが)とともに遷ってきたようですが、詳細は不明。ご祭神は、大国主命

Img_6947c_20240203154601  白山社でおもしろかったのは、こちら。賽銭箱なのですが、石造。石造りの賽銭箱も見たことはありますが、こういうタイプはたぶん初めて。いろいろあるものです。

Img_6951c_20240126162101 Img_6955c_20240126162101  白山社からは、名鉄津島駅は目と鼻の先。13時10分を過ぎた頃にゴール。右の写真は、津島駅のホームから見た西の方角。この中央に見えるのが、今日歩いた天王通。奥に見える山並みは養老山地。かなり近くに見えます。13時24分発の弥富行き普通に乗車し、弥富には14時35分着。弥富からはJRに乗り換えて桑名へ。13時43分発のJR四日市行き普通で、桑名には13時50分着。電車賃は、朝と同じく合計¥500。

Screenshot_20240126142209c  こちらはこの日のGoogle Fitのデータ。歩いたのは、9.5㎞。自宅から桑名駅往復は、2.5㎞ほどと認識しています。それが正しければ、7㎞ほどを現地で歩いてきたはずで、歩数は、15,700歩でした。

240126142250898c  総本家角政で土産に買ってきた「くつわ」「あかだ」のミックス。¥200でした。津島神社の門前で、いくつかの店が製造販売しています。米の粉を熱湯でこね、それを輪切りにし、伸ばしてちぎり、油で揚げたのが「あかだ」。うるち米ともち米に砂糖を混ぜ、同じく熱湯でこねたあとせいろで蒸してから轡(くつわ)の形に仕上げてあぶらであげたのが「くつわ」。どちらも大変固いのですが、これを食べると病気をしないという言い伝えがあります。歯の悪い私は、角政の店員さんの助言にしたがい、口の中に含んでしばらくしゃぶってから食べられました。

2024年1月26日 (金)

20240126津島神社初詣ウォーキング(予告編)

 晴れて気温も上がるという予報でしたので、予定通りに津島へウォーキングに行ってきました。題して「津島神社初詣ウォーキング」。同級生K氏と今年の初ウォーキングです。今回は、例によって予告編。津島には初めて出かけましたが、歴史のある、見どころの多いところでした。桑名では最高気温は、7.3℃。歩き始めは、日も照っていて風もなかったのですが、次第に雲が増え、風も出てきましたが、無事に初ウォーキングを終えられました。

Img_5847c_20240126161801  JR桑名駅を8時38分に出る名古屋行き普通に乗車。弥富駅に8時45分に着いて、名鉄尾西線に乗り変え。8時48分発の普通豊明行きに乗り換えます。津島には8時59分に到着。運賃はJRが¥200、名鉄が¥300。9時5分頃にスタート。

Tsushima0  こちらが今日歩いてきたルートマップ。立ち寄り先については、この予告編で紹介するところが記載してあります。マップ上は、4.4㎞。これは、津島市と津島観光協会の「津島市散策マップ」にあった「ぎょうさんコース」をモデルに自作したもの。現地でルートを変えたところや、歩きながら見つけたところもあり、実際には6㎞半くらいを歩いたと思います。津島駅から西に天王通を進み、途中あちこち立ち寄りながら、主に津島神社、天王川公園を見て回り、本町筋を経て天王通に戻り、津島駅にゴールしました。

Img_5868c_20240126161801  まずは、補陀山常楽寺。曹洞宗のお寺。本尊は如意輪観音坐像。寺は、応永6(1399)年の創建と伝わっています。津島牛頭天王社神主家氷室氏の菩提所です。

Img_5921c_20240126161801  その先に円空千体仏が地蔵堂に納められています(写真で向かって左の御堂)。あの有名な円空(寛永9(1632)~元禄8(1695)年)が彫った小仏千体が納められています。5cm程の六地蔵が裾に付けられた21cmの地蔵坐像を中心に5cm程の小仏、千躰が階段のある岩壁のように造られた光背にぎっしりと並べ付けられており、他の善財童子・護法神・韋駄天の三像と共に厨子に納められているそうです。町内会で管理を行い、町を守る地蔵として奉られています。

Img_5948c  円空千体仏の先で天王通は旧津島街道と交わります。ここを右折し、津島街道沿いに少し行くと津島観光交流センターがあります。昭和4(1929)年に銀行建築として、柱・梁・床・壁・屋根をすべて鉄筋コンクリート造で当地に新築されました。建物の正面は「復興式」と呼ばれる建築様式で、西洋建築におけるルネッサンス様式を基調としながらも意匠や装飾を簡略化したものです。名古屋銀行、東海銀行津島支店をへて津島信用金庫の本店として利用されていました。

Img_5987c_20240126161801 Img_5992c_20240126161801  観光交流センターの北東に久遠山成信坊(くおんざんじょうしんぼう)。真宗大谷派。創建は不詳ですが、明徳2(1391)年、7代慶専のときに天台宗から真宗に改宗。長島一向一揆のとき、住職の祐念は教如上人の身代わりになり、津島御坊の称号を授けられています。石畳の参道は臼でできており、「ひきうす寺」とも呼ばれています。

Img_6069c_20240126161801  市神社(いちがみしゃ)は、津島神社の境外末社の1つ。大市比売命(おおいちひめのみこと)、大歳神(おおとしのかみ)、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)を祀り、古くは名古屋から津島に入る「上街道」に沿って立ち並び、栄えた商家の守り神として崇められました。

Img_6169c_20240126161901  観光交流センターの裏になりますが、清正公社(清正公遺跡)。加藤清正が幼少の頃、寄寓していた叔父の家があったと伝わるところ。ここに清正の徳を偲んで建てられたのが、清正公社です。清正が少年の頃、鬼の面を被って賊を追い払ったという言い伝えがあります。

Img_6222c_20240126161901 Img_6263c_20240126161901  天王通に戻ってさらに西へ。御旅所跡に大イチョウがあります。実に見事です。幹周囲5.41m、樹高30m、推定樹齢400年。大イチョウは、もう1本。東参道の鳥居のところにもあります。こちらは、幹周囲5.30m、樹高25m、推定樹齢600年と。どちらも愛知県の天然記念物に指定されています。

Img_6260c_20240126161901 240126142250898c  ここから津島神社にお参りするのですが、その前に土産を買ってしまいました。東の鳥居の前に店を構える総本家角政さんで「くつわ・あかだ」を購入。くつわは開運招福を祈るお菓子で、あかだは平安時代から続く疫病よけのお菓子。ずっと前から知っていたので、一度食べてみたかったのですが、ずいぶん固いお菓子と聞いて、試しに少しずつ両方が入っているものを買ったのです(¥200)。お店の方に伺ったら、口の中に含んでしゃぶっていたら柔らかくなるということでした。

Img_6230c_20240126161901  いよいよ今日の最大の目的地である津島神社へ。古くは津島牛頭天王社といいました。今日も一般に「お天王さま」と呼ばれています。社伝によれば、欽明天皇元(540)年の鎮座ですから。1500年近くの歴史があります。疫病や厄除けの神様として親しまれています。「西の八坂神社、東の津島神社」と並び称され、全国に3000余あるといわれる天王社の総本社です。

Img_6288c_20240126161901 Img_6329c_20240126161901  多くの武将が天下取りを争っていた戦国時代、織田信長や豊臣秀吉など名をあげた武将とのつながりも強く、徳川家康の四男松平忠吉の妻の寄進による本殿(左の写真の向かって左)や、楼門(左の写真で右奥の建物)は国の重要文化財です。ご祭神は、建速須佐之男命。相殿神は、大穴牟遅命(大国主命)。右の写真は、豊臣秀頼が寄進したという楼門。詳しくは、本編にて。

Img_6401c_20240126161901  津島神社の表参道を下って県道68号線に出て左折。東に少し行ったところに堀田家住宅があります。しかし、残念ながら、開館しているのは、土日祝日のみ。堀田家住宅は、江戸時代中期、正徳年間(1711~1716年)に建てられたといわれ、その後修理・増築を重ね、県道拡幅工事のために昭和48(1973)年に約60m西の現在の場所に移されました。数度にわたって手が加えられてはいますが、質も保存状態も良く、屋敷の構えや間取りなどには尾張の地方色がよく現れているといいます。国の重要文化財。機会があれば、ぜひ拝観したいところ。

Img_6425c_20240126161901  堀田家住宅の南に天王川公園Img_6529c_20240126161901木曽川の支流である佐屋川に合流する天王川は、江戸時代まで当時の町の中央を流れていましたが、江戸時代中期の河川改修で佐屋川が廃され、天王川はここに丸池として残りました。天王川公園は大正9(1920)年に完成し、日本歴史公園100選の1つに選ばれています。桜もきれいだそうですが、尾張津島藤まつりは有名ですし、夏には尾張津島天王祭が開かれます。どちらも私は来たことがないのですが、一度は見てみたいと思います。

Img_6457c_20240126161901  その天王川公園の中之島にヨネ・ノグチ銅像があります。といってもご存じない方がほとんどのように思います。かく申す私も、知りませんでした。が、この方、あの彫刻家イサム・ノグチのお父さんなのです。ヨネ・ノグチこと野口米次郎は、明治8(1875)年に津島市で生まれました。愛知一中から慶應義塾を中退してサンフランシスコへひとり旅立ち、北米の大詩人ミラーと出会い、詩作を始めます。明治29(1896)年の詩集「Seen and Unseen」、明治36(1903)年の「From the Eastern Sea」は、優美な情緒にあふれ、欧米で絶賛されましたが、日露戦争を機に日本に帰国。銅像は、佐織の梶浦正之らが発起人になり建立されました。

Img_6583c_20240126161901  公園の東側に入江のようになったところがあります。ここは津島湊跡。津島は尾張から伊勢を結ぶ天王川舟運の川湊として繁栄を極め、全国でも有数の商業地として発展しました。とくに室町時代には、津島湊に商人が集まり、多くの物資の集積場となっています。

Img_6574c_20240126161901  津島湊跡のところに車河戸(くるまこうど)。「車」は天王祭の船のこと。祭船に乗せる屋形が石垣に囲まれた島に1年中置いてあります。これは江戸時代からのしきたりだそうです。宵祭りの提灯付けなどの祭の準備はここで行われるそうです。車河戸の南には、祭船が保管されています。

Img_6708c_20240126162101  続いて鏡池山瑞泉寺。もとは、天王川西岸の天王島にあり真言宗の瑠璃光寺といったのですが、良王君が逝去し瑞泉寺殿と号したことから菩提寺となり、瑞泉寺に改号したと伝わります。永正14(1517)年、舟戸の地に移転し、浄土宗に改宗。津島四家、七苗字の一つである大橋氏の菩提寺。芭蕉句碑がある。というのですが、津島幼稚園を併設していて、境内には入れないようになっていました。

Img_6704c_20240126162001  瑞泉寺・津島幼稚園の向かい、東側に六角地蔵(六地蔵尊)。灯篭型の六角で珍しい地蔵堂。厨子の中に地蔵尊像があり、厨子の外周りには六地蔵が立てられています。境内には延享2(1745)年奉献の石灯篭があります。この六地蔵尊は、人間に姿を変えて深夜の盗賊を追い払ったという逸話が残されています。元は船戸町にありました。

 Img_6715c_20240126162001 今回、コース設定にあたって参考にした「津島市散策マップ」には、六角地蔵の先にヨネ・ノグチ生家があると載っているのですが、予習のときにGoogle Street Viewでチェックしたら、それらしい建物はありませんでした。瑞泉寺や六地蔵の先で右折して確認してきましたが、ご覧のような状況。更地というか、駐車場というか、そういうスペースになっていました。リンク先の写真と見比べていただくとよくお分かりになるでしょう。

Img_6729c_20240126162001  ヨネ・ノグチ生家跡から津島街道に戻って、三養荘。貞享2(1685)年の建築で、その原景を今ものこしています。この津島街道沿いだけでなく、津島にはあちこちに古い建物が残っています。桑名は第2次大戦のとき空襲に遭っていますが、津島は戦災には遭わなかったため、現在のように古い建物がたくさん残っているのでしょう。

Img_6783c_20240126162001  上述のように津島街道沿いには古い民家がたくさんあります。こちらのお宅には、屋根神さまと卯建が上がっています。「卯建が上がらない」ということばがありますが、それは「地位・生活などがよくならない。ぱっとしない」といった意味。

Img_6818c_20240126162001  本町2丁目と3丁目の境あたりに「坂井町の井戸」。町角に花崗岩の方形石組みの井戸があります。「大正七年十二月坂口町」と刻まれていますが、明らかに辻井の形態が残っています。昭和10(1935)年頃まで使用されていたと伝わっています。予告編では触れていませんが、ほかにも今日歩いてきたコースでは、このような井戸がいくつつもありました。

Img_6854c_20240126162001 Img_6859c_20240126162001  本町通りから橋詰町に入る北西角に道標。これは津島神社への参道を案内するものです。明治29(1896)年、尾西鉄道が開通した年に、氏子の浅井代次郎氏が寄附したものです。大正3(1914)年、尾西鉄道が名古屋鉄道に買収され、駅を今市場通りに設けてから、この鉄道を多く用いることとなり、参拝者の多くは、今市場通りから本町を経て橋詰で西へ折れ、神社へ出たのですが、天王通の開設とともに駅を移転した結果、こちらは、今日では裏通りとなっています。

Img_6905c_20240126162101  これで当初予定していたところはほぼ回ってきましたが、天王通に出るところで堤下(とうげ)神社。もとは金燈篭社と称し、天明5(1785)年の天王川築留め以前は、川を隔てて津島神社の遙拝所であったといいます。祭神は須佐之男命奇御魂となっていますが、古くから乳児の夜泣き封じの信仰で広く知られています。

Img_6926c_20240126162101  240126121907961c 天王通に出て名鉄津島駅に向かっていると、とある民家風の建物のところで女性が立っておられました。あらかじめランチが食べられる店はチェックしていたのですが、ここ「なすがまま」もその1つ。ただし、おっさんが入るような店ではないなと思って、候補に入れていませんでした。しかし、この女性から声をかけられ、いろいろと伺う内に、これも縁かと思って、K氏とここで食事をしていくことに。「古民家カフェ」という位置づけのお店。ここを借りて、直してカフェにしているそうです。魅力的なメニューが並んでいたのですが、ランチをチョイス。今日は、コロッケ。これで¥880(税込み)。昼食がてら、12時過ぎから1時間ほど休憩。ゆったりできるお店でした。

Img_6951c_20240126162101 Img_6955c_20240126162101  なすがままからは、名鉄津島駅は目と鼻の先。13時10分を過ぎた頃にゴール。右の写真は、津島駅のホームから見た西の方角。この中央に見えるのが、今日歩いた天王通。奥に見える山並みは養老山地。かなり近くに見えます。13時24分発の弥富行き普通に乗車し、弥富には14時35分着。弥富からはJRに乗り換えて桑名へ。13時43分発のJR四日市行き普通で、桑名には13時50分着。電車賃は、朝と同じく合計¥500。

Screenshot_20240126142209c  こちらは今日のGoogle Fitのデータ。歩いたのは、9.5㎞。自宅から桑名駅往復は、2.5㎞ほどと認識しています。それが正しければ、7㎞ほどを現地で歩いてきたはずで、歩数は、15,700歩でした。予告編は以上。明日以降、またあれこれ調べながら、本編を書いていきます。

 

2023年12月17日 (日)

20231216「大黒屋光太夫ゆかりの地をめぐる」ウォーキング(その1)……伊勢若松駅をスタートし、菩提寺の緑芳寺、観誘寺、台蓮寺、春日稲荷神社、開国曙光碑(3代目)、若松小学校の大黒屋光太夫座像を見る

Img_4057c_20231216185201  この日、アメダスのデータには出ませんでしたが、桑名では朝方まで雨でした。しかし、行き先の鈴鹿では曇りの予報でしたので、予定通り、「大黒屋光太夫ゆかりの地をめぐる」ウォーキングに行ってきました。私が以前、近鉄ハイキングで訪ねた「ロシアを見てきた最初の日本人 鈴鹿の偉人・大黒屋光太夫のふるさとを歩く!」(2018年09月24日:20180924近鉄ハイキング「ロシアを見てきた最初の日本人 鈴鹿の偉人・大黒屋光太夫のふるさとを歩く!」へ(予告編))を多少モディファイしたコース。いつものように同級生K氏と二人旅にして、今年のウォーキング納め。冒頭の写真は、近鉄伊勢若松駅前にある大黒屋光太夫銅像。昭和62(1987)年、若松小学校創立100周年記念として、小学校校庭に建立されたものが、「大黒屋光太夫記念館」完成を機に、光太夫のふるさとの玄関口となる伊勢若松駅前に移設されました。

Img_4217c_20231216185701  大黒屋光太夫(宝暦元(1751)年~文政11(1828)年)は、江戸時代、ロシアに漂流した船頭です。大黒屋は屋号。養子に入り、亀屋兵蔵と称したこともあります。天明2 (1782) 年 12月、伊勢の白子から江戸への航行中、駿河灘で台風にあい、7ヵ月余漂流を続けて翌年夏、アリューシャン列島のアムチトカ島に着き、4年後、カムチャツカ半島に渡ります。のち帰国を願ってシベリアを西行し、1791年、首都ペテルブルグにいたり、女帝エカテリーナ2世 (大帝) に謁見。寛政4 (1792) 年、遣日使節 A.ラクスマンに連れられて帰国し、将軍家斉に謁見しています。吉村昭の小説「大黒屋光太夫」や、井上靖の「おろしや国酔夢譚」のモデル。写真では向かって左が大黒屋光太夫(大黒屋光太夫記念館にて)。

Kodayu1 Kodayu2  この日歩いたコースマップ。伊勢若松駅がスタート&ゴールで、反時計回りにグルッと歩いてきたという次第。マップその1で、伊勢若松駅をスタートして、まずは、緑芳寺、観誘寺、台蓮寺、春日稲荷神社へ。ここからマップその2へ。若松地区市民センターで開国曙光碑(3代目)、若松小学校にある大黒屋光太夫座像を見て、小川神社、心海寺を経て、大黒屋光太夫記念館へ。

Img_4054c_20231216185301  近鉄桑名駅を8時22分に出る伊勢中川行き急行に乗車。伊勢若松駅には8時48分着。¥530。曇天でしたが、次第に空も明るくなり、途中、青空が見えるときもありました。

Img_4091c_20231217070601 Img_4072c_20231216185901  伊勢若松駅の西300mほどのところにあるのが、榮松山緑芳寺。真宗大谷派のお寺。光太夫の菩提寺(生家といわれる亀屋の菩提寺)です。開創は不詳ですが、もともと三州幡豆浅水(現在の愛知県西尾市)で、順正法師により開基、戦乱等から逃れるため、名古屋、伊勢長島を経て、天正3(1575)年、当地に移り、現在に至っているそうです。

5967a461 25ec4d56  ここには、光太夫がエカテリーナ2世から下賜された銀貨や、ロシア語で書かれた箴言(しんげん)が光太夫から寄進されています。前回来たときに(2018年10月1日:20180924近鉄ハイキング「ロシアを見てきた最初の日本人 鈴鹿の偉人・大黒屋光太夫のふるさとを歩く!」へ(その1)……伊勢若松駅をスタートして、緑芳寺、開国曙光碑、大黒屋光太夫記念館へ)、特別にお宝を見せていただけました。左は、エカテリーナ2世から下賜された銀貨。エカテリーナ2世の像が刻まれています。寛政7(1795)年8月に光太夫が寄進したもの。ご住職は、磨くと価値が下がるかも知れないと心配され、磨いていないとおっしゃっていました。右は、ロシア語で書かれた箴言(しんげん)。当然、小生には読めません。これも光太夫ゆかりの品。

Img_4086c_20231217071501  光太夫からは離れますが、緑芳寺には、松尾芭蕉句碑があります。「雁ゆくかたやしろ子若松」と刻まれているそうですが、ほとんど読めません。当時の住職であった櫟玄籍によって嘉永年間(1848~54年)に建てられたという説があります。これは、元禄3(1690)年、越人の『ひさご』の中の花見の部にでています(こちら)。菅沼曲水、珍碩(浜田洒堂(はまだしゃどう)ともいいます。高田本山専修寺にも句碑がありました)らと詠んだうちの付句。付句を刻した碑は全国的に非常に珍しいといいます。

Img_4063c_20231217151501  緑芳寺に曲がるところには道標が1基あります。「左 箕田 長太 四日市道」、「右 白子道」と刻まれていました。これについては、ネットで検索したものの、情報は見つかりません。箕田(みだ)、長太(なご)は若松より北にある地名。白子は、南にあります。

Img_4095c_20231216190201 Img_4111c_20231216190201  緑芳寺の西にお寺が2ヶ所あります。いずれも真宗高田派のお寺で、左の写真は、楽邦山観誘寺。狭い道沿いに本堂だけがあるお寺。

Img_4111c_20231216190201 Img_4108c_20231217152201  その西北に隣接してあるのが、七宝山台蓮寺。参道には立派な松の木が並んでおり、本堂の前には柳の木。これら2箇所のお寺について、ネットではこれという情報はありません。

Img_4125c_20231217152601  2箇所のお寺の西には、春日稲荷神社。住宅街の先に御鎮座。創祀年代等は不詳ですが、往古より地域の産土神として崇敬を受けてきたといいます。明治42(1909)年10月、中若松地内の別の1社と、当社境内社とを合祀して今の社となっています。

Img_4120c_20231216190501  主祭神は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、保食神(うけもちのかみ)、天之児屋根尊(あめのこやねのみこと)、品田別尊(ほんだわけのみこと)。合祀されているのは、山津見命(大山祇神(おおやまつみのかみ)と同じとおもいます。「山津見」とは、山津持(やまつもち)、すなわち山を持ち、つかさどる神のことであるといいます(賀茂真淵(かもまぶち)の説))、彦魂神(不明。ただし、「彦神/比古神」は男の神を意味する)、素盞雄命。拝殿の形式が珍しかったのですが、調べてみると、基本的には春日造(かすがづくり)であろうと思います。

Img_4128c_20231217154301 Img_4132c_20231216191001  春日稲荷神社から水田地帯や近鉄名古屋線の線路沿いを歩いて、若松地区市民センターへ。ここからマップは、その2の範囲です。この敷地内に「開国曙光碑(3代目)」があります。この碑は光太夫の功績を称えた顕彰碑。碑に刻まれた「開国曙光」の文字は、江戸幕府崩壊後、徳川宗家を相続した徳川家達(いえさと)公爵の筆であり、「開国へ向けて差し込んだ明け方の光」という意味。碑の本文は、広辞苑の編者で知られる新村出(しんむらいづる)博士によります。ここに建つ碑は、3代目。もともと、大正7(1918)年、若松尋常小学校長の伊藤六三郎氏や若松村長の内山治右衛門氏などが発起人になって寄付を募り、若松小学校校門前に建設されました。しかし、碑は昭和9(1934)年の室戸台風で倒壊。千代崎海岸に2代目が再建されたものの、これも昭和34(1959)年の伊勢湾台風で上部が欠けてしまいます。3代目のこの碑は、昭和51(1976)年に建てられたもの。

Img_4139c_20231217155601  若松地区市民センターの敷地には、この「南無阿弥陀仏」と刻まれた碑も建っています。開国曙光碑のすぐ北隣にあります。若松地区遺族会が建てた忠霊塔で、英霊189柱を祀る碑ということです。碑陰には何も由来などは刻まれていません。

Img_4149c_20231216191601 A126cb0a  市民センターの向かい側が、鈴鹿市立若松小学校。ここの校舎前には、二宮金次郎像ではなく、大黒屋光太夫座像があります。前回来たとき、大黒屋光太夫記念館の前から何気なく見たら、「変わったものがある」と気づいたのです。台座には「大黒屋光太夫之像」と刻まれています。敷地内に勝手に入れませんので、学校のサイトを見ると「台座には「皇紀二千六百年記念」 「昭和15(1940)年2月11日」「寄贈者 若松村女子青年団」とあり台座の上の跡からおそらく石像の金次郎像があったと思われる。その後、何かの理由で金次郎像がなくなり、あとに光太夫像が昭和42(1967)年に設置されたようだ」とありました。寄付者は、「中條信男」他3名の連名だそうです。上記のリンク先に詳しい情報があります。光太夫座像に向かって左には、道標がありますが、これはもとは塩浜街道沿いの何処かにあったと思われるということです。「右 四日市道 すぐ船場」、「弘化四丁未春 施主 西城吉次郎」、「左 白子みち」とあるそうです。右の写真は、2018年9月24日に撮影。

 長くなりましたので、その1はここまで。その2は、小川神社、心海寺、大黒屋光太夫記念館から。

2023年12月 6日 (水)

20231125「菰野ウォーキング」(その2)……札の辻、廣幡神社庄部御旅所、五郎兵衛地蔵から湧水池でカワセミを見る

Komono1  11月25日に行ってきた「菰野ウォーキング」の本編その2です。その1(2023年11月29日:20231125「菰野ウォーキング」(その1)……西覚寺、見性寺、廣幡神社、旧横山家住宅、菰野城隅櫓跡から菰野城跡へ)からずいぶん間が空いてしまいましたが、忘れていたわけではありません。暇ではあるものの、いろいろあったりするのです。その1では菰野駅をスタートし、西覚寺、見性寺、廣幡神社、旧横山家住宅、菰野城跡と見て回りました。その2では、札の辻・高札場跡から湧水池を1つ見て、廣幡神社御旅所、五郎兵衛地蔵、もう1つの湧水池と回って、智積養水の水源池である蟹池を目指します。

Img_3603c_20231125165401 Img_3607c_20231205105901  スタートから2㎞を過ぎると、札の辻に至ります。現在は、歯科医院などが建っている交差点がそれです。ここは、菰野道巡見街道との交差点でした。ここには、代官所、問屋のほか、高札場もありました。ちなみに、ここから東には東町商店街があります。閉店しているところもありますが、書店、菓子屋さん、衣料品店などが頑張っています。昔は繁華街だったのでしょう。旅館をしていたところなどもあります。

Img_3615c_20231205110601 Img_3638c  東町商店街の一角にある長松山瑞龍寺臨済宗妙心寺派ですが、もとは天台宗のお寺。ご本尊は薬師如来。菰野藩士たちの菩提寺でした。永禄11(168)年、信長の兵火により焼失し、正保年間(1644~47年)に宗貞和尚によって臨済宗のお寺として再建されています。元文5(1740)年に鐘楼が建立され、安永2(1773)年に本堂が新築されました。

Img_3622c_20231205110601  こちらは、延命殿。お地蔵様がいらっしゃいます(2018年10月26日:20181012近鉄ハイキング「こもガク&大日本市菰野博覧会を楽しもう!」へ(その2)……道の駅・菰野で「早春」を購入、大日本市博覧会を見て、庄部御旅所から東町商店街を経て無事菰野駅)。地蔵は延命除災の功徳があるとあつい信仰を受け、菰野の町に昔から大きな火事が起きたことがないことも、この地蔵さんの加護があるからと信じられているそうです。8月24日には、地蔵盆が盛大に行われます。延命殿にいらっしゃるお地蔵様は、元は本堂に祀られていたご本尊だったそうです。それが、慶安年間(1648~52)に、川原町の河合松兵衛家からお薬師さんがこの寺へ移されご本尊に代わったため、地蔵さんは延命殿に収まったといいます。

Img_3629c_20231205110601 Img_3625c_20231205110601  この延命殿には、鏝絵がありました。前回来たときにもあったはずですが、まったく気づきませんでした。黄綬褒章を受章された、現代の名工である河合英喜氏作のものだそうです。

Img_3618c_20231205110601  さらに瑞龍寺で目立ったのは、このイチョウの木。ネットで調べてみましたが、高さなどのデータは見つけられませんでした。しかし、大きくて立派。

Img_3657c_20231205112301 Img_3665c_20231205112301  瑞龍寺から巡見街道に戻って北へ。巡見街道は、江戸時代に幕府の巡見使の通った道のことです。県内の巡見道は、亀山市の東町で東海道から分かれ、現在の国道306号を縫うようにして北上しています。廣幡神社の庄部御旅所への途中に、右の写真のような湧水池があります。この日歩いたコース沿いには、何カ所もこのようなきれいな水が湧いている池がありました。

Img_3672c_20231125165401 Img_3678c_20231205113701  廣幡神社の庄部御旅所(庄部は、地名)。ここは、もとは菰野神社でしたが、明治40(1907)年に廣幡神社に合祀されています。前回来たときには、御旅所の拝殿(といっていいのか、分かりませんが)には、絵馬がたくさん奉納されていたのですが(こちらを参照)、この日は見当たりませんでした。この庄部御旅所はかなり広く、境内に相撲場や、大きな常夜灯があります。常夜灯は、天保12(1841)年、安政5(1858)年という年号が刻まれていました。

Img_3701c_20231205113901 Img_3697c_20231205113901  廣幡神社の庄部御旅所からは東に向かいます。菰野中学校、菰野高校の南側を東に進みますが、菰野高校のところにちょっとしたイチョウ並木があり、きれいでした。菰野高校は、野球の強豪校。この日も生徒たちが練習していました。 野球部からは多数のプロ野球選手が出ており、現役では中日ドラゴンズの岡林勇希選手が有名。

Img_3717c_20231125165401 Img_3719c  菰野高校の南にある南部公民館のところに五郎兵衛地蔵があります。昔、五郎兵衛という男がおり、お地蔵様の前の石がみんなの邪魔になると思って動かしたところ、その後、五郎兵衛が困難に直面したとき、お地蔵さまは五郎兵衛を助けてくれたということです。これに因んでお地蔵様は、「五郎兵衛地蔵」と呼ばれ、大事にされてきていま。お地蔵様は、堤防にあったものを明治10(1877)年2月、ここにお堂を建てたそうです。

Img_3728c_20231205114401  お地蔵様に向かって右手前に布がかけられた石があります。前回来たとき「重軽石がある」という掲示がありましたが、確かめてきませんでした。この日は、失礼して布を持ち上げたら、このような石が置かれていました。

Img_3711c_20231205120701  五郎兵衛地蔵の南に「地蔵池」があります。正式には「上池(かみいけ)」だそうですが、五郎兵衛地蔵の近くにあることから、地蔵池と呼ばれています。常に池底から水が湧いているのが見えます。コイ、カワムツ、アブラハヤがいるといいます。

Img_3735c_20231205121001 Img_3738c_20231205121201  ここ五郎兵衛地蔵までは、以前、近鉄ハイキングで訪ねたところばかりでしたが、この先は私にとって未知の領域(大げさな!)。田園地帯に民家が点在するところを歩いていきます。水の流れは豊富にあり 退屈しません。

Img_3745c_20231205121301 Img_3779c_20231205121301  4㎞地点にも湧水池があります。それぞれの湧水池には、名前があるのかも知れませんが、地図には表示されてはいません。この湧水池は、かなり広く、ベンチも置かれています。

Img_3757c_20231126031301  この湧水池の手前で、カワセミを見つけました。思わぬご褒美という感じ。 その2は、ここまで。その3ではさらに田園をあるいて智積養水の水源池である蟹池を目指します。

2023年7月 7日 (金)

20230702美濃街道(養老街道)ウォーキング「美濃青柳~大垣」(その1)……美濃青柳駅をスタートし、六社神社、正円寺他を周り美濃路との追分の塩田橋まで

Img_7293c_20230702190601  7月2日の美濃街道(養老街道)ウォーキング「美濃青柳~大垣」の本編その1です。この日は、梅雨の晴れ間で好天。桑名では最高気温が33.9℃という蒸し暑い日でした。養老鉄道美濃青柳駅から大垣駅までを歩き、美濃街道(養老街道)ウォーキングもいよいよ最終回。美濃街道(養老街道)ウォーキングは、2021年2月27日に桑名市川口町の東海道との追分から歩き始めました(20210227勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道再び(川口町~下深谷)」(完))。以来、間が空いたりしましたが、この日までに合計9回。いよいよ大垣まで到達。三重県でいう「美濃街道」(岐阜では伊勢街道、桑名街道と呼ぶようです)は、関ヶ原で中山道に至るのですが、美濃高田近くからは、美濃街道は鉄道の駅からは離れ「電車で行って電車で帰る」スタイルで歩くのは困難となります。そこで、美濃高田あたりから養老街道に入り、大垣を目指すことにしたのです。今回も同級生K氏と二人旅。

Minoyanagi0  こちらがこの日歩いたルートマップ。美濃青柳駅から、前回、養老街道を離れた綾野まで、杭瀬川を越えて1㎞あまり。そこから杭瀬川沿いに北上。3㎞ほどで杭瀬川を渡る塩田橋に行き当たります。ここが養老街道と美濃路との追分。ここからは美濃路をたどって大垣の市街地へ。8㎞地点が大垣城東口惣門。美濃路はここで東に向かいますので、ここまでが街道歩き。ゴールに設定した大垣駅に向かいます。現地で歩いたのは8.7㎞でした。

Img_7271c_20230702185801 Img_7246c_20230702185801  桑名駅を8時9分に出る大垣行き普通に乗車。美濃青柳駅には9時20分に到着。この日は普通に乗車券を買うと、合計¥1,530となり(桑名~美濃青柳が¥700、大垣~桑名が¥830)、1日フリー切符(¥1,500)の方が、わずかながら安いので(¥30)そちらを利用。

 Img_7294c_20230705061501 Img_7319c 美濃青柳駅を9時20分過ぎにスタート。杭瀬川を渡り、前回、養老街道から離れた綾野を目指します。冒頭の写真は、杭瀬川を渡っているときに通過した東海道新幹線を撮ったもの。左の写真は青柳橋、右の写真は綾野の県道96号線から養老街道が右に逸れるところ。

Minoyanagi1  くわしいルートマップその1。美濃青柳駅をスタートし、杭瀬川を青柳橋で渡ります。綾野の町にある浄徳寺、真照寺、報恩寺の3つのお寺は前回立ち寄りました。東海道新幹線の線路をくぐって杭瀬川に沿って北上します。2㎞を過ぎたところにある六社神社にまずは向かいます。

Img_7322c_20230705064101 Img_7338c_20230705064101  東海道新幹線の高架を潜り、杭瀬川沿いを北上します。写真で分かるように、上天気。堤防の上の道を歩いていますので、暑いこと。

Img_7368c_20230705064901  Img_7352c_20230702185801 スタートから2㎞あまりで六社神社。ご祭神は素戔男命大己貴命(大国主命)、少彦名命の3柱に、地主神の出早雄神(いずはやおのみこと:長野県内の民間信仰の神で、諏訪地方では建御名方神(諏訪大社の祭神)の御子神とされています)、塩野神、和世田神の6柱。文明2(1470)年、旧塩田村開発のときに、開拓者であった塩田一族が、発祥地である信濃国塩田邑の産土神である塩野神社(長野県上田市にある塩野神社と思われる)の御霊を勧請したといいます。その塩野神社は、白鳳元(673)年4月 出雲大社から分霊を勧請して、塩田地方の産子神としたと伝わっています。

Img_7372c_20230705064901 境内の南方に山神跡があり、そこは往古より、”おしゃもり”さんと俗称され神厳で、信濃諏訪大社信仰による『御左口神』で、国津神である健御名方命を祀ったものと推察できるそうです。この御左口神(みさこじしん)は、現在は、本殿の北に遷座しています。この神は、中部地方を中心に関東・近畿地方の一部に広がる民間信仰(ミシャグジ信仰)で祀られる神(精霊)といいます。長野県にある諏訪地域はその震源地とされており、実際には諏訪大社の信仰(諏訪信仰)に関わっていると考えられています。全国各地にある霊石を神体として祀る石神信仰や、塞の神・道祖神信仰と関連があるとも考えられているそうです。

 六社神社から再び杭瀬川の堤防道路に戻り、北に向かいます。Minoyanagi2   くわしいルートマップはその2へ。静里の町に入って、正円寺、法永寺、長源寺の3つの寺を訪ねた後、塩田橋へ。ここが美濃路と養老街道との追分。常夜灯、道標、旧盬田橋親柱があります。ここからは美濃路をたどり、徳円寺、求浄庵、久瀬川神社に向かいます。

Img_7431c_20230702185801 Img_7441c  まずは、真宗大谷派の七峰山正円寺。お寺の創建など詳しいことは分かりませんが、古くは七峯山宗暁寺といったようです。

Img_7445c Img_7449c_20230706170501  本堂の南に「正円寺経塚(県史跡)」があります。経塚の敷地は約4㎡で、周囲は柵で囲まれ、その中に碑が建っています。高さ70cm、台石の幅50cm。文治5(1189)年の築造と推定されています。近郷の僧俗多数の方の協力があったそうです。

Img_7464c_20230702192101 Img_7468c_20230706170601  続いて、曹洞宗の法永寺。ネットでは詳細な情報はありませんでしたが、ここの住職を務められた小沢道雄師(大正9(1920)~昭和53(1978)年)が、第2次大戦後のシベリア抑留で両足を失ったにも関わらず、たくましく生き抜く生涯を描いた自伝小説「本日ただいま誕生-苦しむのは比べるからだ-」を書いておられるそうです。この小説は昭和54(1979)年に映画化もされ、植木等さんが主人公を演じています(こちら)。

Img_7484c_20230702192101 Img_7495c_20230706171601  真宗大谷派の長源寺。ここもネットでは詳細な情報はありません。

Img_7492c_20230706171601 Img_7488c_20230706171601  ここ長源寺の山門前に「蒼立 空海師 卅保院(?) 徧照山功徳光院長源教寺」というやや古い石柱が建っています。これもネットで調べたものの、特に情報は出て来ませんでした。もとは空海が創立したということなのでしょうか?? 山門に向かって左には、右の写真のように「大谷派由緒地長源教寺」と刻まれた石柱も建っていますが、これもまたよく分かりません。分からないことばかりです(苦笑)。

Img_7499c_20230706171601  さらに境内には、「大日本国 仏暦開祖 普門律師の碑」と刻まれた石碑が建っています。普門律師(建暦2(1212)~正応4(1291)年)は、鎌倉中期の臨済宗の僧と思われます。南禅寺派の祖で、長野の人。40歳のときに入宋、帰国後再び円爾弁円に随侍しています。弘安4(1281)年東福寺第三世。正応4(1291)年亀山上皇の帰依を受けて南禅寺開山となりました。この石碑は、天保10(1839)年の建立。「推歩傳持」という名前が右面にあります。「推歩」は、辞書的には、「たどるようにして歩くこと」ですが、名前か雅号かも知れません。「伝持」は、 仏教で、法をうけ伝えて維持することです。

Img_7510c_20230706185601  3ヶ寺からすぐ近くに塩田橋があります。ここにはかつて塩田湊がありました。明治の頃、桑名湊と赤坂湊との間は舟運が盛んで、塩田湊はその中継箇所として常時20~30艘の船が停泊し、船頭相手の銭湯、米屋、雑貨屋等の店が軒を並べ大変賑わったそうです。明治12(1880)年8月に杭瀬川を往来する船の安全祈願と航路標識、伊勢両宮への献灯として湊の西側に塩田湊常夜灯が建立されました。ただ、この常夜灯は、残念なことに平成30(2018)年9月4日の台風21号によって被害を受けてしまっています。

Img_7531c_20230702194101 この常夜灯のところに旧盬田橋の親柱と、養老街道の道標もあります。旧盬田橋の親柱には、木製と鉄の欄干との接続に鉄板が使われたため、くびれがあり、その跡がはっきりと残っています。道標は明治13(1880)年に建てられたもので、碑表には「從是 養老公園道」、また、右面には「養老へ三里 高田へ弐里」とあります。東面には「明治十三年十月 大垣本町 久保田鐵蔵 建立」とあります。

Img_7556c_20230702193301  塩田橋を渡ってさらに進みますが、長くなりますからその1はここまでとします。その2は、この先の徳円寺から。この塩田橋からは、美濃路をたどっていきます。

2023年4月12日 (水)

20230409美濃街道ウォーキング「石津~駒野」(その2)……卜全塚に寄り道のあと、存徳寺、八幡神社へ

Ishidu2  4月9日の美濃街道ウォーキング「石津~駒野」の本編その2です。その1では石津駅をスタートし、1㎞あまり進んだ清浄寺まで。途中で養老鉄道が般若谷川という天井川の下をくぐる般若川隧道を見てきました。その2では、美濃街道からはずれていきなり寄り道。卜全塚。美濃街道に戻りますがしばらくは、国道258号線を歩いた後、西に逸れ、存徳寺、八幡神社を訪れます。コースマップその2で、国道258号線から卜全塚へは、同じ道を往復しています。

Img_2176c_20230409174101  その卜全塚がこちら。国道258号線から東の養老鉄道沿いにあります。当時、西美濃三人衆といわれた実力者の一人で、大垣城主だった氏家卜全(うじいえぼくぜん:?~元亀2(1571)年)の墓。織田信長に仕えており、元亀元(1570)年9月、長島一向一揆が起こりますが、その翌年5月、第2次戦闘の際、長島攻略のため出陣した信長につかえ、卜全は柴田勝家らと共に布陣したのですが、長島門徒の反撃が激しく、全軍退却のとき殿(しんがり)を務めます。しかしそのとき、氏家勢は敗退し、卜全は5月22日、石津郡太田郷安江村七屋敷で戦死しました。卜全を葬ったとされるのがここです。くわな市民大学で確か長島一向一揆の話を聞いたとき、氏家卜全の話題も出て、それ以来ここに来てみたかったのです。

Img_2198c_20230411191201 Img_2202c_20230411191201  さくらヶ丘あたりで美濃街道は国道258号線から西に逸れます。ここから先、緩やかな登り道。キョリ測で見ると、20mほどの高低差がありました。右の写真は、かなり登ったところから振り返って撮ったのですが、下り坂には見えません。たぶん「錯視」の一種。

Img_2205c_20230411191201 Img_2209c_20230411191201  登り道の途中、山崎南谷川のほとりに地蔵堂がありました。お地蔵さんの名前もありませんが、この日歩いたコースの川沿いには、お地蔵さんが祀られているところがたくさんありました。このあたりの川は、普段はかれているようですが、大雨が降ったときには鉄砲水や土石流が起きるようです。お地蔵さんは、釈迦牟尼が没し、弥勒菩薩が出世成道するまでの無仏の五濁悪世にあって、六道(ろくどう)に苦しむ衆生を教化救済する菩薩様ですから、鉄砲水や土石流から守ってほしいという願いがあるのかと感じました。

Img_2218c_20230409183401  美濃山崎駅の西に柏尾山存徳寺(ぞんとくじ)。スタートからは4㎞の手前。標高は20mあまりのところ。美濃街道沿い、参道入り口に「恵燈大師御𦾔跡」という石碑が建っていました。「恵燈大師」は、「慧燈大師(えとうだいし)」と表現されることが多いようですが、蓮如上人の諡号。境内には蓮如上人の名前が出てくる報徳碑がありました。

Img_2222c_20230409174101 Img_2228c_20230409184401  存徳寺は、柏尾寺が天平年中(757~765年)に創建された後、信長の軍勢により焼失したため、1500年代にこの地に建てられました。当初は天台宗であったが、元禄2(1689)に浄土真宗へ改宗しています。改宗後も寺号は変わっていません。本堂は420~430年前に建てられ、近年修復されたといい、元禄2年から火災に見舞われることもなく、地盤が固いためか震災の被害もなかったそうです。「柏尾(かしわお)山」と山号に地名が付いていますが、存徳寺住職の名字は同じ漢字を「はくび」と読むそうです。柏尾廃寺跡の遺物、文書数点が存徳寺にあるといいます。

Img_2235c_20230411193101  こちらが蓮如上人に関わる報徳碑。明治31(1898)年3月の建立。撰文は、竹幹一如居士とあります。蓮如上人が康正2(1456)年、教化のためこの寺にいらっしゃり、自画壽像と六字名号を付与されたこと、また、それは現在もあることなどが書かれていました。

Img_2238c_20230409174101  いささか余談。存徳寺で歩き始めてからほぼ1時間半でしたので、境内をお借りして小休止。K氏からもらったお菓子がこれ。生せんべい。昔、子どもの頃だったかよく食べた記憶があります。知多の銘菓。もっと大きく、重なっているものを剥がしながら食べたと思います。このとき、ご住職かと思われる方がいらっしゃり、「どちらからいらっしゃったのですか?」と聞かれました。桑名から来て、この日は石津駅から駒野駅まで歩くつもりであること、また、そもそも桑名から大垣まで何回かに分けて歩き通す計画だとお話ししたら、驚かれました(呆れられたのかも知れませんが……)。

Img_2288c_20230409192401 Img_2254c_20230409174101  4㎞を過ぎて、国道258号線を渡る手前に八幡神社。ご祭神は、応神天皇。創始は不詳。このあたりは南条畑という地名だそうですが、慶応3(1867)年、北畑からここに遷っています。樹齢約800年という大イチョウがあります。樹高は約25m、根元幹での周囲は、約6.1m。すごい大木でした。もちろんご神木で、海津市の天然記念物。

Img_2285c_20230411195801  境内には、忠魂碑があります。日陰には、上段に横書きで「昭和二十八年四月建之」とある下に「戰没者」(横書)と、さらに2段にわたって28名の方のお名前が刻まれていました。そのうち、お二人の方にはお名前の上に「日露」と小さく刻まれていました。

Img_2297c Img_2304c_20230411200101  山崎交差点で国道258号線を渡ります。右の写真は、交差点を渡ったところから見た揖斐川、濃尾平野方面。歩いたあたりは、少し高いところなのですが、眼前には本当に平らなところが広がっていました。

Img_2308c_20230411200101 Img_2090c_20230411200401  もう1つ、この日歩いた美濃街道沿いによくあったもの。それはこちら、防火用水。数え切れないくらいありました。故郷でも、私が子どもの頃は見かけましたが、最近はたぶんほとんどなくなっています。さらに、消火栓もあちこちにあったのですが、右の写真のようなタイプばかりでした。

 短いのですが、その2はここまで。コースマップその2の区切りでもありますから。その3は、再び、養老鉄道が天井川の下をくぐる話から。

2023年4月 9日 (日)

20230409美濃街道ウォーキング「石津~駒野」(予告編)

Img_2173c_20230409174101  今日は好天に恵まれ、気温19.3℃で風が少しあり、暑く寒くもなく、絶好のウォーキング日和でした。予定通り、美濃街道ウォーキング「石津~駒野」に出かけてきました。いつもと同じく、同級生K氏と2人旅。美濃街道ウォーキングは、前回が、1月21日でしたからずいぶん間が空きました(2023年1月21日:20230121美濃街道ウォーキング「多度から石津」(予告編))。酒蔵みてある記などに行っていたからです。冒頭の写真は、卜全塚あたりから見た養老の山並み。気持ちよく晴れ、緑が一段ときれいでした。今日歩いたコース沿いには、花木がたくさんあり、もう少し早い時期に歩けば春の花が楽しめたと思います。今日の記事は、予告編です。

230409ishidu0  こちらが今日歩いたルートマップ。養老鉄道石津駅をスタートし、ほぼ養老鉄道や揖斐川に沿って北上。いわゆる美濃街道ですが、岐阜県では伊勢街道と呼ばれるようです。養老鉄道でいえば、2駅分。ゴールの駒野駅は3年前に専通寺のしだれ桜と羽根谷だんだん公園の桜を見に行きましたが(2020年4月3日:20200403「勝手に養老鉄道ハイキング『専通寺のしだれ桜と羽根谷だんだん公園』(駒野)」(完))、それ以外は初めて訪ねました。東には濃尾平野、西には養老の山並みがよく見え、生活に便利であれば、このあたりに住んでもよいかと思えるよいところでした。

Img_1994c_20230409174001  桑名駅を8時45分に出る養老鉄道・大垣行きの普通電車に乗り、石津駅には9時6分着。¥420。日曜日ということもあってか、空いていました。サイクルトレインで、途中、自転車を押した女性の方が乗ってこられました。美濃街道を歩いているときも、あちこちでサイクリストに出会いました。今日歩いたところは、ウォーキングにもサイクリングにも好適のところです。石津駅を9時10分にスタート。

Img_2012c_20230409174001 Img_2019c_20230409174001  スタートしてすぐに瑞祥山円成寺。曹洞宗のお寺。ここは、「円成寺の大提灯」で有名だそうです。高さ4m、直径1.95m。外箱には安政3(1856)年の墨書きがあるもの。8月の地蔵盆に掲げられます。大提灯というと、西三河出身のわれわれには「一色の大提灯」がなじみ。われわれ二人とも、子どもの頃に見に行ったことがあります。また、このお寺には、宝暦治水の薩摩義士13名の墓があります。13名の方々はいずれも割腹されたそうです。すべてのお墓には今日も花が供えられていました。

Img_2056c  円成寺の北に金毘羅大権現。天満大自在天神と、豊川稲荷大明神もあわせて祀られています。由緒などは不詳。岐阜県神社庁のサイトにも載っていません。

Img_2096c_20230409174001  こちらは、般若山願海寺。真宗大谷派。今日歩いたあたりには、真宗大谷派のお寺がたくさんありました。長島に願證寺があったことが関連していると思われます。この願海寺は、織田信秀に仕えた太田宗清(太田一吉に言及があります)が信秀の命で築城した太田城跡ともいわれ、廃城後、宗清の子孫・太田晶右衛門が願海寺を創建したといいます。

Img_2114c_20230409174001 Img_2106c_20230409180701  願海寺からすぐに県道1号線の安江交差点。ここは、揖斐川にかかる貝津橋の西詰。交差点あたりからは揖斐川がよく見えます。交差点近くに「海津名物 海津橋饅頭」という看板を上げた海津橋饅頭本舗という和菓子屋さんもありました。ネットで見ると営業はしているようですが、営業時間不定、不定休となっています。

Img_2127c_20230409174001 Img_2145c_20230409174001  安江交差点からすぐに般若川を渡ります。天井川というか、河床がかなり高くなっています。ほとんど涸れているのですが、たぶん大雨が降ると鉄砲水や土石流が起きると思います。再予習をしていて思いだしたのですが、この般若川の下を養老鉄道がくぐっています(般若川隧道)。右の写真は、隧道の北側の踏切(大垣方向)から撮っています。

Img_2161c_20230409174101 Img_2154c_20230409174101  養老鉄道の踏切の先で般若山清浄寺。真宗大谷派。先ほどの願海寺と同じ山号。ここには由緒書きもなく、ネットでもこれという情報は出て来ませんでしたが、境内や墓地はきれいに整備されていました。墓地には割と新しいベンチも置かれていました。ここでいったん国道258号線に出ます。国道の向こうに津島神社があったのですが、国道を渡るところがまったくなく、道を挟んで「遙拝」(微苦笑)。尾張の津島神社から勧請したようですが、由緒などは不詳。祭神は素戔嗚尊

Img_2176c_20230409174101  国道258号線からちょっと寄り道。東の養老鉄道沿いに卜全塚があるのです。当時西美濃三人衆といわれた実力者の一人で、大垣城主だった氏家卜全の墓。織田信長に仕えていました。元亀元(1570)年、長島一向一揆が起こりますが、その翌年5月、信長は長島攻略のため出陣しています。このとき、卜全は柴田勝家らと共に布陣したのですが、長島門徒の反撃が激しく、退却のとき、卜全が殿(しんがり)を務めたのですが、氏家勢は敗退し、卜全は5月22日、石津郡太田郷安江村七屋敷で戦死しました。卜全を葬ったとされるのがここです。市民大学で確か長島一向一揆の話を聞いたとき、氏家卜全の話題も出て、それ以来ここに来てみたかったのです。

Img_2218c_20230409183401 Img_2228c_20230409184401  さくらヶ丘あたりで美濃街道は国道258号線から西に逸れます。美濃山崎駅の西に存徳寺(ぞんとくじ)。当初は天台宗でしたが、元禄2(1689)年に浄土真宗へ改宗しています。美濃街道沿いに「恵燈大師御𦾔跡」という石碑が建っています。「恵燈大師」は、「慧燈大師」と表現されることが多いようですが、蓮如上人の諡号。また本編で載せるつもりですが、境内には蓮如上人の名前が出てくる報徳碑がありました。もちろん漢文で書いてありますので、「解読」が必要ですが……(笑)。

Img_2238c_20230409174101   存徳寺で歩き始めてからほぼ1時間半でしたので、小休止。K氏からもらったお菓子がこれ。生せんべい。昔、子どもの頃だったかよく食べた記憶があります。知多の銘菓。もっと大きく、重なっているものを剥がしながら食べたと思います。

Img_2254c_20230409174101 Img_2288c_20230409192401  存徳寺の先、国道258号線を渡る直前に八幡神社。創始は不詳ですが、慶応3(1867)年、北畑からここに遷っています。樹齢約800年という大イチョウがあります。樹高は約25m、根元幹での周囲は、約6.1m。すごい大木でした。もちろんご神木で、天然記念物。

Img_2340c_20230409174201 Img_2317c_20230409174201  国道258号線を渡って山崎北谷へ。ここにも養老鉄道が天井川というか、扇状地の下をくぐるところがあります。タイミングよく、桑名行きの電車がやって来ました。ラッキー! ジイ様二人で大興奮(爆)。ちなみに、右の写真は、このポイントの上流方向。今日見た中でもなかなかの景色と思いました。木も自然のまま育つとよい形になるようです。

Img_2382c_20230409174201 Img_2375c  その先で竜華山西浄寺。真宗大谷派。禅林により天正元(1573)年、海津市南濃町上野河戸に開かれました。江戸中期に火事により本堂が焼失し再建され現在に至るのですが、真宗大谷派では岐阜県で一番古い本堂だそうです。明治初期までは本堂裏に温泉が湧き、賑わったと伝えられています。本堂裏を見に行ったのですが、それらしいものはありませんでした。前のご住職が亡くなられたあとしばらく、廃寺のようになっていたのを現在のご住職がお継ぎになったそうです。

Img_2396c_20230409174201 Img_2418c_20230409174301  スタートから6㎞の手前で菩提山寒窓寺臨済宗妙心寺派美濃高須藩主小笠原氏ゆかりの寺。行基が開いたという伝説がある臥竜山菩提寺が中世に廃絶したものを高須藩主・小笠原貞信が承応3(1654)年に没した娘(寒窓寺殿霜山月清大姉)を追善するために再興したといいます。ここは禅寺ですが、境内の雰囲気は、今日訪ねたお寺の中ではもっともよい感じでした。紅葉シーズンに訪ねると、その魅力はもっと実感できそうです。

Img_2445c_20230409174301 Img_2455c_20230409174301  寒窓寺からすぐ近くに白鬚神社。創建等は不詳ですが、祭神は猿田彦命。イチョウの大木が本殿の両側にあります。この先で海津市南濃町羽沢に入ります。

Img_2502c_20230409174301Img_2523c_20230409174301  真宗大谷派の梅木山大専寺。ここはネットではこれという情報は出てこなかったのですが、訪ねてよかったと思いました。というのも、境内に「親鸞上人実割梅」という梅の木があったのです。漢文で書かれた碑文をざっと読みますと、親鸞上人がお訪ねになったとき、朝食に出された梅干しの種を割り、その種が実生したものといった記述があります(ざっと読んだだけですから、もう一度よく読みます)。

Img_2560c_20230409174301 Img_2557c_20230409174301  大専寺の先に春日神社。創建等は不詳。祭神は、武甕槌神(たけみかづちのかみ)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、姫神(ひめがみ)、 経津主神(ふつぬしのかみ)。

Img_2579c_20230409174301  さらにその先に羽沢貝塚。美濃街道からは西へ、養老鉄道を越えたところにあります。この遺跡の形成は縄文中期後半に始まり、貝層形成期は縄文晩期後半(約2,500年前)で、東西約20mと南北約25mの範囲内にあります。貝類は、ほとんどがヤマトシジミ。ほかにウナギ・コイなどの淡水魚、マイワシ・スズキなどの海水魚の骨も出土しており、縄文人はけっこうグルメだったかも知れません。人骨のほかにも、シカ・イノシシなどの動物の骨や、狩猟用と思われるイヌ2匹が埋葬されていたといいます。

Img_2608c_20230409174401 Img_2604c_20230409174401  羽根谷だんだん公園の下流にある第二羽根谷橋を渡って、駒野に入ります。立ち寄り先はもう1ヶ所、真宗大谷派の駒野山南明寺。ここも詳しいことは分かりませんでした。

Img_2629c_20230409174401 Img_2633c_20230409174401  駒野の町を歩いて、12時40分に養老鉄道駒野駅にゴール。電車の時刻を確認してから、昼食へ。桑名行きは、13時3分と43分。

Img_2648c_20230409174401  昼食はあらかじめ調べておいたカフェレスト千代乃さんへ。駒野駅から200m弱。駅近では、ここしか選択肢はありません。昔ながらの洋食屋さんというか、定食屋さんというか。高齢のご夫婦が営んでいらっしゃるのですが、案外(というと失礼ですが)テキパキとしていました。テーブルが4つというこじんまりとしたお店。着いたときは満席で少し待たせてもらいました。

Dsc_7049c Img_2652c_20230409174401  メニューはいろいろあったのですが、オムライス(¥600)をチョイス。昔風というか、昔ながらのオムライスで、懐かしい味でした。また、漬物が絶品。キュウリなどの浅漬け。満足。代金を支払ったら、おばちゃんが「これ、持って行き」とハッサクを1つくださいました。なんだか恐縮。ちなみに常連さんと思われる方には、漬物がたくさんあるからと小さいパックにいれて配っておられました。

Img_2675c_20230409174401 Screenshot_20230409143916c  駒野駅を13時43分に出る桑名行きに乗車。桑名駅には14時18分着。¥470。帰宅までに今日歩いた距離は、Google Fitのデータでは10.7㎞。ルートマップでは8.3㎞でしたが、立ち寄り先でいろいろと見て回ったのと、朝、桑名駅に行く前に県議選の投票に行ってきたからです。美濃街道ウォーキング、しばらくサボりましたが、これから先はもう少し真面目に、かつテキトーに歩くことにしましょう(微笑)。本編はまた明日以降、ボチボチとというつもり。

2023年1月22日 (日)

20230121美濃街道ウォーキング「多度から石津」(その1)……多度駅をスタートし、空念寺と宇賀神社へ【空念寺について追記(1/29)】

 1月21日に行ってきた美濃街道ウォーキング「多度から石津」の本編その1です。一般に美濃街道とは、尾張の東海道宮宿と美濃の中山道垂井宿をつなぐ脇街道のことをいいますが(こちらは「美濃路」とも呼ばれています)、江戸時代には、桑名から長良川に沿って美濃へと通じる街道を美濃街道と呼んでいました。美濃街道は、すでに桑名から多度までは歩きましたが、その先は未踏(2021年2月27日:20210227勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道再び(川口町~下深谷)」(完)、2021年3月14日:20210314勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道再び(下深谷~多度)」(完))。同級生K氏と話し合い、今年は、美濃街道で養老まで行き、そこから養老街道、美濃路を経て大垣まで歩こうということになり、今日がその第1回。桑名市多度町から海津市石津町までを歩いてきました。今回は、その予告編。なお、美濃街道は、美濃国では伊勢街道あるいは桑名街道と呼ばれたようです。

Tado0  こちらは歩いたコースの全体図。養老鉄道多度駅から石津駅まで、現地で歩いたのは、7.8㎞ほど。多度川にかかるみどり橋まではこれまでに歩きましたから、ここが実際にはスタート地点。空念寺、宇賀神社、柚井遺跡、八幡神社、御鍬神社、願超寺から山除川沿いを北上。子安・延命地蔵尊、天白神社と周り、石津駅の手前で杉生神社に立ち寄ってゴール。

Img_9026c_20230121184601 Img_9015c_20230122062701  桑名駅を8時45分に出る大垣行きに乗車。今日のスタートである養老鉄道多度駅には、8時58分着。¥310。そういえば同級生K氏が最初に近鉄ハイキングに行ったのは、この駅から細川酒造を訪ねるハイキングでした(2020年1月26日:20200126近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 細川酒造の銘酒『上げ馬』と多度大社・追儺祭」へ……祝ご当選!でめでたく「完」)。

Tado1  詳しいコースマップその1。多度駅の来たから小山の尾津神社の前を経てみどり橋へ。もちろん江戸時代には、橋はかかっていません。ここまで前回(2021年3月14日)、来ていますので、ここがこの日の実際のスタート地点。橋を渡って養老鉄道の高架をくぐって空念寺。西に向かい、いったん美濃街道からはずれ、宇賀神社にお参り。街道に戻って北上。NTN多度製作所の先で美濃街道は左折していきます。

Img_9042c_20230121184701 Img_9045c_20230121184701  多度川にかかるみどり橋です。三重県では「みえの歴史街道」というサイトがあり、県内の街道についての詳しい情報があります。多度までは美濃街道の詳しい情報がありますが、多度から先はいろいろと調べたものの、美濃街道についての情報はネットではあまり載っていません。岐阜県に入ってからのルートを特定するのにもかなり苦労しました。また、たとえば「美濃街道(美濃国での伊勢街道)を歩いた」というブログにも行き当たりませんでした。その意味では、美濃街道(伊勢街道)を歩くのは、かなりオリジナリティが高いかも知れません。

Img_9075c_20230122064101 Img_9072c  養老鉄道の高架をくぐって空念寺に向かうところにこのような立派な長屋門のあるお宅がありました。前回の美濃街道ウォーキングで見てきた西田家住宅に似た作りのお屋敷です(2021年3月14日:20210314勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道再び(下深谷~多度)」(完))。西田家は、戸津村の庄屋を代々世襲されたお宅です。こちらもそういうお宅かと思うのですが、詳細は不明。多度町内、あちこちのお宅でロウバイがよく咲いていました。

Img_9096c_20230121184701 Img_9089c_20230121184701  般若山空念寺。真宗大谷派のお寺。元来は天台宗の聖徳山空然寺として多度山中にあったという伝承を持つといいます。山中より当地に下りて後、顕如上人により浄土真宗に改宗して現在に続いています。本堂余間に蓮如上人の木像を奉安しています。また、外陣狭間には中国の二十四孝(24の孝行話)の故事を題材にした装飾彫刻(江戸時代)を掲げるそうです。

Img_9093  空念寺で目を引いたのは、本堂に向かって右手にある建物(書院でしょうか)の2階部分。左の写真で中央に写っています。花頭窓(火灯窓とも)があります。長島の願證寺(真宗本願寺派)でも同じものを見ています(2022年12月26日:20221223長島ウォーキング(本編その2)……正敬寺、花林院、善明寺、蓮生寺、明治の東海道道標、又木神明社、願證寺、深行寺から水辺のやすらぎパーク・旧久我屋敷へ)。

Img_9099  空念寺の先で美濃街道は右折して、北に向かいます。そこに宇賀神社の一の鳥居。ここは、多度山への登山口の一つにもなっています。オレンジ色の看板に「入り口 多度山上公園/自然教室・水郷展望ハイキングコース」と大書されています。一昨年10月、多度山に登ったときも、ここから入って行きました(2020年10月14日:20201014勝手に養老鉄道ハイキング「多度山に登ろう」)。

Img_9131c_20230121184701 一の鳥居から西へ200mほど行くと、宇賀神社があります。美濃街道からは少しはずれますが、立ち寄っていきます。元々は、有力者を祀っていたのが、後に農耕神として宇迦之御魂神を祀るようになったといわれています。正面にはシイの巨木群があります。主祭神は、宇賀御魂神。相殿神は、大山津見神火之迦具土神、火之夜芸速男神、火之炫毘古神(以上の2神は、火之迦具土神に同じ)、表筒男神、中筒男神、底筒男神(以上の3神は、いわゆる住吉大神)、大己貴命少彦名命。住吉大神が祀られているということは、このあたり、昔は舟運で栄えたのかも知れません。

Img_9109c_20230121184701  古くは「天田社」といい、天田はあがたの訛ではないかとされています。「県の神」として農耕神を祀り五穀豊熟を祈つた社ではなかったかと推測されるのです。延喜式内社で明治43(1910)年、境内、区内の神々を合祀し、現在の宇賀神社となっています。大正年間に村社より郷社に昇格したのですが、遠く、仁寿元(851)年すでに神階正六位に叙せられています。農事、山と火の安全、舟便、医薬の神として崇められているといいます。地元では、「椎の宮さん」と呼ばれているそうです。

Img_9109c_20230122072801 Img_9121c_20230122072801  ちなみに、正面にシイの巨木群があります。拝殿の前にも、ご覧のように巨木が立っています。教育委員会による「シイの巨樹からなる宇賀神社の森」という説明板もありました。

Img_9135c_20230121184701 Img_9140c_20230121184701  宇賀神社の近くで、白梅が咲き始めていました。日当たりのよいところです。右の写真は、宇賀神社から美濃街道に戻ったあたり。これからこの北の方角に歩いて行きます。その1は、ここまで。その2は、柚井遺跡から。

【追記(1/29)】空念寺で興味を持った建物(書院?の2階部分)は、形としては、太鼓楼に似ています。真宗系のお寺にはよくあるそうです。

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  • 平凡社: 街道アトラス

    平凡社: 街道アトラス
    旧街道に興味があります。ただし、あまりあちこちの街道を歩いたわけではありません。この本では、東海道と中山道は各宿場も紹介されるなど、詳しく載っていますが、その他の街道はダイジェスト。いわば、旧街道のカタログ本といったところ。現代の道と比べたり、旧街道がどのようにつながっていたかを知るにはよい本です。ただし、この本だけを頼りに旧街道を歩くことは、ほぼ不可能でしょう。 (★★★)

  • 保阪正康: なぜ日本人は間違えたのか―真説・昭和100年と戦後80年―(新潮新書)

    保阪正康: なぜ日本人は間違えたのか―真説・昭和100年と戦後80年―(新潮新書)
    今年は、昭和100年であり、戦後80年でもあるということで、新聞などでも特集記事が掲載されています。太平洋戦争は、日本という国を滅亡の一歩手前まで追い込みました。昭和という時代もそれが終わってから35年以上経ちますから、これからは歴史として語られるようになっていくはずです。この本は、二・二六事件、東京裁判、高度成長、田中角栄、昭和天皇など、時代を大きく変えた8つの事象を取り上げ、当事者たちの感情や思惑排して見つめ直すことを通して、これまでの通説、定説とは異なるそれらの真相を浮かび上がらせようとしています。読後感としては、私なども、何となくそうなのかと思っていたことがひっくり返されたような感じを抱いています。目的と手段を取り違えている、事実や科学的知見から目をそらしている、希望的観測を事実と思い込む、妙な精神論に陥るなど、今も続く認知、思考は、太平洋戦争のときの軍指導者から始まっているのかも知れません。いろいろな意味で「戦後」という概念については、根本的に再検討が必要ですし、日清戦争から太平洋戦争に至る数十年の戦争の時代は、何に由来し、そこから何を学ぶか、よくよく考えてみる必要があると思いました。 (★★★★★)

  • 保阪 正康: 保阪正康と昭和史を学ぼう (文春新書)

    保阪 正康: 保阪正康と昭和史を学ぼう (文春新書)
    保阪正康さんは、一貫して近現代史を検証し続け、5,000人もの歴史の証人を取材してきています。この本は、月刊『文藝春秋』に掲載されたものから15編を選んでまとめられています。読み応えがあるのに、分かりやすい内容で、昭和史の証人として瀬島龍三、後藤田正晴などインタビューが、また、昭和の戦争7つの謎として無謀な開戦を決意した理由などが載せられています。その後、あの戦争と昭和史を語ろうということで、半藤一利さんなどとの対談が載っています。最後に、歴史をどう引き継ぐかということで、講演録があります。この講演では、江戸時代まで遡らなければ日本人は理解できない、江戸時代の260年を通じて、戦争をしなかったという事実から教訓、知恵を学ぶ必要があるなど、江戸時代に築かれた財産をもう一度取り戻すことの重要性が語られています。明治維新という、薩長の下級武士の暴力革命を経て、帝国主義国家が作られていく過程で、江戸自在の財産は放棄されたと著者はいいます。知識、技術は学び、取り入れたのに、哲学までには思いが至らなかったため、そうなっています。また、もう一つ、著者が強調するのは、天皇制の捉え方、論じ方です。天皇制は、本質的に戦争を嫌う制度だと著者はとらえています。これは、私には目から鱗の見方でした。さらに、天皇は何らかの形で京都にお住まいになって、政治の中心は東京にあってという江戸時代の知恵をもう一度取り戻すのもよいという提案は、真摯に検討する価値があると思います。 (★★★★★)

  • 芝村 裕吏: 関数電卓がすごい (ハヤカワ新書)

    芝村 裕吏: 関数電卓がすごい (ハヤカワ新書)
    関数電卓は持っていますし、その昔は、プログラム電卓で平均値、標準偏差などの計算をする簡単なプログラムを組んで使っていたこともあります。タイトルに惹かれて買ったのですが、ウ~ン、期待はずれでした。計算例が平方根以外にはほとんどありませんでした。関数電卓を片手に、その使い方や、どのような応用ができるかを知りたいと思ったのですが、そういう内容はあまりなくて残念でした。ただこの本を読んでよかったのは、数学の力と計算力とは別物であることが分かったこと。また、計算については、関数電卓などを駆使すればよいということでした。私自身、数学には自信がないのですが、「エェ!?、そうだったっけ?」と思う内容もありました(つまり、間違っているんじゃないの、と思える内容)。 (★)

  • 今尾 恵介: 地名散歩 地図に隠された歴史をたどる (角川新書)

    今尾 恵介: 地名散歩 地図に隠された歴史をたどる (角川新書)
    地名の由来については興味がありますから、この本を手に取ったのですが、読み始めたものの、すぐに「放置」していました。テーマごとに、それに関連する地名が列挙され、その由来について多少の説明(蘊蓄?)が書かれているのですが、列挙されている(例示されている)地名が煩雑で、読むのが面倒になってしまったのです。「地名マニア」の方であれば、これくらい何のそので読み進めたのでしょうが、私にはちょっと難行でした。2年くらい経って、気を取り直して、少々無理矢理に読み進めました。が、「不思議な名称には物語がある」という、帯の謳い文句には、いささか無理があるかなという気がします。物語というのであれば、個々の地名についてもうすこし物語って欲しい気がするのです。ただし、以上は、極めて個人的な感想です。 (★★)

  • piro piro piccolo: 意外と知らない鳥の生活 (コミックエッセイ)

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    本の帯に「あなたが毎日スルーしている鳥たちの素顔」「カラスも本当は人が怖い」とあります。ほとんど知っている内容でしたが、このように改めて、まとめてあると、いっそうよく分かりました。野鳥観察を始めたばかりの方、野鳥に興味を持ち始めた方には、最適な参考書の1つと思います。身近にいる鳥ばかりが取り上げられていますが、それだけに身近な鳥の行動や、特徴がよく分かって、野鳥がもっと好きになること請け合いです。タイトル通り、まさに「意外と知らない」です。自分では知っているつもりでも、意外と知らないことは多々ありそうです。 (★★★★★)

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    高容姫という女性を知る人は多くはないかも知れませんが、本のサブタイトルにあるように、金正恩の母となった在日コリアンの女性です。北朝鮮では、日本から帰国した人間の社会的地位は低いため、その存在は公的には明らかにされていませんし、「国母」として崇拝されることもありません。これは、金正恩の弱点でもあり、コンプレックスにもなっているかも知れません。大阪の鶴橋で生まれ育った少女の数奇な運命をたどった、力作です。よくぞここまで取材したものだと思います。高容姫の人生をたどることで、北朝鮮の体制、社会、歴史にまで理解が及びます。ほとんど一気読みをしてしまいました。ちなみに、現在も大阪には、金正恩の伯父を始め、親戚が50名以上も暮らしているといいます。このことは、日朝関係の改善や、拉致問題の解決の手がかりになるのではないかという気がします。 (★★★★★)

  • 本郷 和人: 東大生に教える日本史 (文春新書)

    本郷 和人: 東大生に教える日本史 (文春新書)
    別に「東大生に教える」でなくてもよいのですが、この本の元になったのが、東京大学教養学部の学生たちに「暗記不要、歴史を考えるおもしろさを伝えたい」ということで行った連続講義ですから、そういうタイトルになっています。歴史、とくに高校時代に学んだ歴史は、やはり暗記科目でした。あれから50年以上経った今でも、そこから抜けきっていない気がします。そういう意味では暗記ではなく、時代を動かす原動力は何か、誰が時代を変えていくのかという視点から歴史を見て、考えるのは、新鮮です。史実は変わりませんが、それを材料に、自分の視点から、自分の見方で論理を組み立て、自分なりの歴史像を造ってみることを愉しめばよいという著者の考え方をしっかりと身につけられたらよいなというのが、読後感です。 (★★★★★)

  • 木村幹: 国立大学教授のお仕事 ――とある部局長のホンネ (ちくま新書)

    木村幹: 国立大学教授のお仕事 ――とある部局長のホンネ (ちくま新書)
    未だにこういう本を手にするということは、過去の仕事に未練があるのか、と思われそうです。確かに、健康問題がためとはいえ、定年のはるか前にリタイアせざるを得ませんでしたので、未練がまったくないとはいえません。部局長になったことはありませんでしたが、副学部長に相当する立場や、大学の評議員、セクハラマニュアル作成や、セクハラ実態調査を実施する責任者にはなりました。故に、1つの部局内だけではなく、全学的な立場での仕事も経験しました。ごく小さな研究会の会長をしたこともありますし、いくつかの学会で査読委員も依頼されたこともあります。自慢を書いているのではなく、この本の著者の経験と似たような経験もしてきたということです。世間でもたれている大学の教員のイメージは、著者が書いておられるように、実態に即したものというより、先入観がかなり先行したものと思います。現実には、多岐にわたり、大量の仕事、それも本来の業務である教育研究以外の仕事が占める比率が、年々高まっています。われわれが学生だった頃は、まさに古き良き時代でした。独法化されて以降は、教員受難時代といえるかも知れません。日本人は、大学に限らず、小中校ともに、教員に過剰に期待し、酷使していると私は考えています。専門性を尊重し、それが発揮できるような環境条件を整えてこそ、国も民も栄えるような気がします。大学の教員がどのような人達で、どのように働いているかを理解するには、好著と思います。 (★★★★)

  • デジタルカメラマガジン編集部: デジタルカメラマガジン 2025年5月号[雑誌]

    デジタルカメラマガジン編集部: デジタルカメラマガジン 2025年5月号[雑誌]
    ブロ友さんから教えていただきました。昔は、書店でよく立ち読みしていた雑誌です。2025年5月号の特集は、「野鳥撮影超入門ガイド」。内容はもちろん参考になることがたくさんありますが、載っている野鳥の写真がどれもきれいで、驚くくらい。これを眺めているだけでも楽しめるかも知れません。これで¥1,200なら、安い買い物といえるでしょう。 (★★★★★)

  • 日本放送協会,NHK出版: NHK 3か月でマスターする 江戸時代 2025年 1月~3月 [雑誌] (NHKテキスト)

    日本放送協会,NHK出版: NHK 3か月でマスターする 江戸時代 2025年 1月~3月 [雑誌] (NHKテキスト)
    NHKのEテレで放送された、同名の番組のテキストです。今年の大河ドラマ「べらぼう」の関連番組ともいえます。放送を見なくとも、このテキストを通読することによって、江戸時代の概要をおさらいし、さらに、学生時代に学んだ知識をアップデートすることができます。とくに私のように、学生時代から50年近く過ぎたものにとって、昔、教科書で学んだことが、今やまったく書き替えられていることもよくあります。図表、写真も多用されていて、とても分かりやすいものです。 (★★★★)

  • 田中 優子: 蔦屋重三郎 江戸を編集した男 (文春新書)

    田中 優子: 蔦屋重三郎 江戸を編集した男 (文春新書)
    今年の大河ドラマの主人公である蔦屋重三郎について書かれた本ですが、読み終えるのに難儀しました(苦笑)。蔦屋重三郎は、数多くの洒落本、黄表紙、狂歌を世に出し、歌麿、写楽を売り出した人物です。江戸最大のプロデューサーというか、編集者というか。大河ドラマの主人公になるくらいなら読んでみるかと思って、気楽に手に取ったものの、専門書ではないかと思えるような内容、記述で読むのに苦労しました。著者の田中優子さんは、法政大学総長も務めた日本近世文学、江戸文化の大家。 (★★★)

  • 岩波 明: 高学歴発達障害 エリートたちの転落と再生 (文春新書)

    岩波 明: 高学歴発達障害 エリートたちの転落と再生 (文春新書)
    高学歴、高機能の発達障害の方たちの人生は、かなり激しいアップダウンを示すことがよくあります。ダウンした、長いつらい時期を過ごさざるを得ない人達であっても、そこから這い上がり、復活して、成功をつかむことが可能な人達も多くいます。その一方で、長きにわたって低迷した状態から抜け出せない人や、失敗、挫折を何度もくり返してしまう人もいます。高学歴、高機能の人達は、理解がよく、必要な情報に容易にアクセスする能力を持っているのですが、この点がマイナスに作用することもあります。知識量が多くて混乱したり、自分の考えに固執して医師と対立関係になったりすることがあるからです。私自身は、発達障害のある人には、自覚と工夫が必要と考えていますが、この本を読み終えた現在も、その考えに大きな間違いはないと思っています。さらに、発達障害の特性があったとしても、広い意味での環境要因を整えることはとても重要です。専門家による専門的な援助はもちろん、学校、職場の環境調整、家族の適切なサポートなどがそれです。「工夫」をする際には、とくに力量のある専門家からの援助は不可欠です。ASDについては、中核的症状に対する、有効な薬剤がない現状では、心理教育や、認知行動療法、SSTが有用です。ADHDの諸症状には、有効な薬剤が複数ありますし、心理教育や、認知行動療法のアプローチも有用でしょう。苦手なことについてがんばろうとしないことや、自分の得意な事が上手く発揮できたり、活かせたりすることを考えることもとても大切です。この本は、当事者の方やご家族、関わりを持つ教師などの皆さんにとても参考になるでしょう。 (★★★★)

  • 外山滋比古: 人生の整理学 読まれる自分史を書く (イースト新書Q)

    外山滋比古: 人生の整理学 読まれる自分史を書く (イースト新書Q)
    著者は、私の出身高校が旧制中学であった時代の大先輩。『思考の整理学』ほか、多数のベストセラーを書いておられます。この本は、ほかの本を探しに書店に行ったときに見つけて、即買い。自分史を書こうとは思っていませんが、これまでの人生を振り返るのに、何か参考になるかも知れないと思って、買ってきました。「サクセスストーリーのほとんどが退屈」「言いたくてむずむずするところは抑える」「『私』をおさえて『間接話法」で書いてみる」「お手本の文章をみつけて、軟度も読む」「内田百閒『戦後日記』のようにさらっと書いてみる」などなど、首肯するところ多々ありました。 (★★★★)

  • 小松 正: なぜヒトは心を病むようになったのか? (文春新書)

    小松 正: なぜヒトは心を病むようになったのか? (文春新書)
    進化心理学とは、ヒトの心のはたらきを「自然淘汰による進化」という考え方によって統一的に説明しようとする分野です。私が現役の頃から発展してきた、新しい心理学の分野です。この本は、ヒトが陥る自己否定的な状態、他人に対する攻撃性、人間同士の対立や分断など、ネガティブな性質がなぜ進化の過程で残ったのかを考察しています。一言でいうと、それは生存や繁殖と深い関係があるというのです。進化心理学から捉えることで、これら、心のダークサイドがよりよく見えてきます。 (★★★★)

  • 林 望: 節約を楽しむ あえて今、現金主義の理由 (朝日新書)

    林 望: 節約を楽しむ あえて今、現金主義の理由 (朝日新書)
    林望こと、リンボウ先生の本は、昔々、よく読みました。「イギリスはおいしい」などのエッセイは楽しみました。この本のタイトルをネットで見たとき、まさかあのリンボウ先生だとは思ってもみませんでした。リンボウ先生と節約というのが結びつかなかったのです。しかし、読んでみると、まがいもなくあのリンボウ先生の文章でした。ただの節約術の本ではなく、高齢になったときのライフスタイル、生き方について、リンボウ先生の考え方が展開されていました。筋金入りのへそ曲がりにして、頑固者のリンボウ先生らしい生き方です。キーワードを拾っただけでも、その一端が分かります。「銀行は信用してはいけません」「(お金を)知らない人に預ける危険性を考える」「高齢者は見栄を張らない」「冠婚葬祭は義理を欠く」「自然の調整機能に任せる」などなど。私はリンボウ先生ほど変人でも頑固でもないと思っていますが(多少は変人で、融通が利かないという自覚はあります)、なるほどと思ったことは参考にして行きます。 (★★★★)

  • 関裕二: アマテラスの正体(新潮新書)

    関裕二: アマテラスの正体(新潮新書)
    著者の前著『スサノヲの正体』も、興味深く読みました。斬新な着眼点と発想で、思いもかけない結論に至っています。読み物としてはとてもおもしろいという点で、☆を5つとしました。ネタバレになりますから、詳しいことを書くのは控えておきますが、著者は、伊勢神宮に祀られているのは、いわゆる「天照大神」ではなく、別の霊威の強い(祟る)、二柱の神だとしています。祟るが故に、伊勢に放逐されたのだと主張するのです。ただ、著者の肩書きは、歴史作家にして、武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェローであり、仏教美術に関心をもち、奈良に通ううち、独学で日本古代史を研究したということですから、現在の歴史学や考古学が明らかにした内容と整合性がとれている主張なのかどうかは、私には判断はできかねます。それ故、「読み物としてはおもしろい」と評価しています。 (★★★★★)

  • 小塩真司: 「性格が悪い」とはどういうことか ――ダークサイドの心理学 (ちくま新書)

    小塩真司: 「性格が悪い」とはどういうことか ――ダークサイドの心理学 (ちくま新書)
    タイトルに惹かれて読みました。ただし、初めにお断りしておきますが、図表こそないものの、心理学の専門書といっても良いくらいの、分厚い記述になっていますので、馴染みのない方にとっては読みやすいものではありません。「性格が悪い」ことについて、最近研究が進んできた「ダークな性格」を中心にまとめられています。ダークな性格とは、マキャベリアニズム、サイコパシー、ナルシシズム、サディズムの4つの特性です。これらの特性とリーダーシップ、社会的成功との関連、身近な人間関係中でのダークな性格、ダークな人物の内面、ダークな性格の遺伝、ダークさとは何かについて、文献を引用しつつ論じられています。その上で、性格の良し悪しは、その内容ではなく、どのような結果に結びつくかで判断されるというのが、著者の結論でした。 (★★★★)

  • 和田 秀樹: 老いるが勝ち! (文春新書)

    和田 秀樹: 老いるが勝ち! (文春新書)
    和田秀樹さんは、もともと高齢者専門の精神科医です。浴風会病院というところで35年間勤務され、6,000人以上の高齢者の方を診てこられました。その臨床経験から、高齢者については、理屈通りに行かないと思うことがたくさんあるといっておられます。タバコをたくさん吸っていても100歳まで生きる人もいれば、検査データはすべて正常なのにガンで亡くなる人もいるのだそうです。医者にいわれて血圧その他に注意していたのに、脳卒中を起こす人もいます。和田さんはこの本で80歳を過ぎたら我慢せず、好きな物を食べ、行きたいように生きることを勧めています。また、医療に関わらない方が長生きできる共書いています。不摂生を勧めておられるわけではありませんが、常識にとらわれず、自由に生きた方が楽しみも見つかってよいのではないかと思います。養老孟司先生流にいえば「なるようになる」のですから。 (★★★★★)

  • 彬子女王: 赤と青のガウン オックスフォード留学記 (PHP文庫)

    彬子女王: 赤と青のガウン オックスフォード留学記 (PHP文庫)
    彬子女王殿下の英国留学記です。彬子女王は、ヒゲの寛仁親王のご長女。殿下は、女性皇族として初めての博士号をオックスフォード大学で取得されました。この留学記は、ネットで話題になっていましたので、ぜひとも読んでみたいと思っていました。今上天皇の「テムズとともに」も読んだことがありますが、皇族の皆様は、どなたも誠実で朗らかで、それでいてユーモア溢れるお人柄をお持ちのようですが、殿下も同様でいらっしゃり、それがよく感じられる文章で楽しく拝読し、爽やかな読後感を持ちました。 (★★★★★)

  • 石井光太: ルポ スマホ育児が子どもを壊す

    石井光太: ルポ スマホ育児が子どもを壊す
    タイトルに惹かれて買ったのですが、帯にあるように「衝撃の現場報告」でした。この本に書かれているエピソードのうち、いくつかはこれまでにもマスコミ報道などで接していましたが、これだけのことがらが一度に示されると圧倒されます。現代の子どもたちは、まさに私たちが知っている(知っていた)子どもではなくなっているといえるようです。たとえば、「2歳児のネット利用率は58.8%」「子守歌はアプリで聞く赤ちゃん」「ヘッドガードの制服化」「教室の『アツ』に怯える小学生」「褒められ中毒はエスカレートする」などなど。スマホが登場して16年でその影響は大ですが、子どもたちの特徴に影響しているのはスマホだけではなく、現代社会や、大人達のありようも大きく影響しているといえます。「『将来の夢は交通整理のバイト』と言う女子高生」などはその例でしょう。私が教えている学生も、「『アツ』がすごい」ということがあり、いったい何だ?と思っていましたが、よく分かりました。すでに若い先生方は、デジタル・ネイティブ世代になっていますし、この本に登場する若者達が社会に出て、その中核を担うのも遠い将来のことではありません。これらの若者は、高い情報処理能力を持ち、周囲に適応する力もあり、コンプライアンス能力も高いのですが、それらを認めた上で、彼らが自立した大人になるために何が必要か見極め、それを提供することが必要とされるのでしょう。その意味では、大人の世代にも彼らを適切に理解し、必要な支援を提供する責任があります。 (★★★★)

  • 養老 孟司, 中川 恵一: 養老先生、再び病院へ行く

    養老 孟司, 中川 恵一: 養老先生、再び病院へ行く
    『養老先生、病院へ行く』の続編です。医療とは距離をとっておられる養老先生が、再診のため1年3ヶ月ぶりに東大病院に行かれました。大病から復活された今だからこそ語ることができる老い、医療、健康、死との付き合い方について、養老先生ご自身と、教え子にして主治医の中川恵一先生がお書きになっています。養老先生のスタイルをそのまままねすることは、凡人には不可能であり、よろしくはありません。しかし、健康についての考え方や、死についてのとらえ方などはとても参考になります。私が啓蒙されたことがらは、「健康法は人の数だけ存在する」「養老先生は抜け道の天才」「不連続な体調の変化に気をつける」「具合が悪いときは一週間様子を見ると医者に行くべきかどうか分かる」「お酒はもはや百薬の長ではないが飲む飲まないは自分で決めてよい」などでした。 (★★★★★)

  • 宮口幸治: 歪んだ幸せを求める人たち―ケーキの切れない非行少年たち3―(新潮新書)

    宮口幸治: 歪んだ幸せを求める人たち―ケーキの切れない非行少年たち3―(新潮新書)
    「ケーキの切れない非行少年たち」シリーズの3冊目です。本の帯には「『幸せを求めて不幸を招く人』の戦慄ロジック」とあります。「みんな幸せになりたい」という動機は万人がもつものでしょう。しかし、幸せの形は人それぞれですし、幸せになりたいと強く願うものの、かえって生きづらさや苦悩を抱える人たちもたくさんいます。著者は、人は幸せになりたいが故に、結果的に他人が不幸になることでもやってしまうといいます。さらに、幸せになりたいのだけれど、そのやり方がよくない」と考える、結果的に他人を不幸にする人たちを理解できるともいいます。著者が長年関わってきた非行少年達にもそれは共通するそうです。歪んだ幸せを求める人たちの背景にある要因として、著者は、怒りの歪み、嫉妬の歪み、自己愛の歪み、所有欲の歪み、判断の歪みの5つの歪みを取り上げ、事例も含めて考察しています。これを読むと、こうした5つの歪みは、ごく普通の人びとも多少とももっているものといえます。最終章では、自分と他者の「ストーリー」という概念を用いて、歪んだ幸せを求める事についてどう向き合えばよいか、提案されています。 (★★★★)

  • 森永 卓郎: 書いてはいけない

    森永 卓郎: 書いてはいけない
    他の本を買いに行った時、書店で平積みになっていましたので、思わず買ってしまいました。メディアのタブーに触れつつ、現在の日本が凋落している要因を3つ指摘しています。サブタイトルは、「日本経済墜落の真相」となっています。3つは、ジャニーズの性加害、財務省のカルト的財政緊縮主義、日本航空123便の墜落事件。この3つについては、関係者は皆知っているものの、触れてはいけない、本当のことをいってはいけないタブーになっているといいます。メディアで触れたら、瞬時にメディアには2度と出られなくなるそうです。ジャニーズ問題は、BBCの報道のためにオープンになってしまいましたが、著者の森永さんは、ご自身が病を得られたこともあって、現状を打破するためにこの本を書かれました。財務省による必要以上の財政緊縮政策と、日航123便の事故のお陰で日本がアメリカに対してどんどん主権を失っていったことが、日本経済の衰退の主たる要因と主張しています。たぶんそれは本当だろうなというのが、私の読後感。 (★★★★)

  • 立木 康介: フロイト『夢判断』 2024年4月 (NHKテキスト)

    立木 康介: フロイト『夢判断』 2024年4月 (NHKテキスト)
    何を今さら勉強しているのか? と思われるかも知れませんが、ちょっと前に流行った言葉でいえば、リスキリングに相当するかも知れません。学生時代に読みましたが、しっかり理解したかといえば、アヤシいのです。学生時代からは50年近い月日が経っていますので、その後の研究成果も含め、新しいことがあるだろうと思ったのです。100分de名著というNHK Eテレの番組のテキストです。講師の立木先生は、パリ第8大学で精神分析の博士号を取得され、京大人文科学研究所の教授。精神分析は「昨日までとは違う自分を手に入れるために行う」とおっしゃっていました。この番組でもっとも印象に残ったのは、あの有名な「エディプス・コンプレックス」よりも、今日、重要なフロイトが提案した概念は、「両性性」であるということでした。これは、いかなる個人も与えられた解剖学的性にしばられないセクシュアリティの自由を持つことをうたうものです。この視点に立てば、同性愛も、トランスジェンダーもいわば当たり前の存在であるということになります。これらを踏まえると120年間に書かれた「夢判断」の内容は、きわめて今日的な意義を持ってくると再認識する必要があります。 (★★★★★)

  • 諸富 祥彦: NHK「100分de名著」ブックス フランクル 夜と霧

    諸富 祥彦: NHK「100分de名著」ブックス フランクル 夜と霧
    フランクルのこの本は、改めて紹介するまでもないほど、有名な本です。私も学生時代、霜山徳爾先生の翻訳で読みましたが、ことばでは書き尽くせないほどの衝撃を受けたことを、いまでもよく覚えています。第二次世界大戦中にナチスの強制収容所に収監された経験をもとに、精神医学者・フランクルが、人生の目的を明確にし、その実現に向けて没頭する心理療法を紹介する本です。原題を直訳すると「それでも人生に然りと言う:ある心理学者、強制収容所を体験する」となります。実存心理学の名著であり、極限の環境におかれたとしても、何かが、あるいは、誰かがあなたを待っているということを主張しています。絶望して終わるのではなく、人生が何をわれわれに期待しているのかが問題であり、私たちはそれを学ぶことが重要だとしています。何度か読み直すことによって、人生への理解が深まる気がします。 (★★★★★)

  • 松田 忠徳, 増田 晋作: 枕草子の日本三名泉 榊原温泉

    松田 忠徳, 増田 晋作: 枕草子の日本三名泉 榊原温泉
    榊原温泉は、全国的に有名とはいえないかも知れませんが、名湯です。それは、枕草子に「湯は七栗の湯 有馬の湯 玉造の湯」にある、七栗の湯が榊原温泉と考えられるからです。最近、日本三名泉といえば、有馬温泉/兵庫県、草津温泉/群馬県、下呂温泉/岐阜県とされますが、枕草子に取り上げられたのはそれよりも古く、「元祖日本三名泉」といえます。榊原温泉の湯は、肌がきれいになる「美人の湯」というだけでなく、抗酸化作用もある健康の湯でもあります。この本は、日本一の温泉教授・松田先生と、地元を知り尽くした増田さんの共著で、「何もない」といわれていた榊原温泉の魅力を語り尽くしています。ちなみに、私にとっては家内の実家を知る上で格好のガイドブックです。 (★★★★)

  • 文藝春秋: 定年後に読む不滅の名著200選 (文春新書)

    文藝春秋: 定年後に読む不滅の名著200選 (文春新書)
    この本の帯には「これが定年後の知の道しるべ!」とありますが、私自身はさほど大上段に構えたつもりで読んではいません。どのような本が選ばれているかにももちろん興味はあったのですが、それらがどのように紹介されているかといった方面に興味があって読みました。本を紹介している方々はいろいろな分野で功なり、名を挙げた方ばかり。それらの方がどんな本を読み、どのように唱歌していらっしゃるかが知りたかったのです。ちょっと邪道な読み方ではありましたが、しっかりと楽しめました。 (★★★★)

  • 石田泰弘(編著): 街道今昔 佐屋路をゆく (東海の街道2) (爽BOOKS 東海の街道 2)

    石田泰弘(編著): 街道今昔 佐屋路をゆく (東海の街道2) (爽BOOKS 東海の街道 2)
    さほど本格的に取り組んでいるわけではありませんが、昔の街道を歩くのは好きです。この本のテーマである佐屋路(佐屋街道)も歩きたいと思って調べています。佐屋路は、東海道佐屋廻りとも呼ばれたように、東海道の迂回路でした。江戸時代に東海道宮宿と桑名宿の間を、陸路万場宿、佐屋宿の陸路を経て、佐屋から桑名宿への水路三里の渡しによって結んでいた街道です。実際に歩いて書かれたと考えられますが、旅人目線で書かれたウォーキングガイドです。津島街道、高須道も取り上げられています。部分的には歩いたところがありますが、佐屋路はいずれ、歩いてみたいと思い、計画中ですので、とても参考になりました。実際に歩かなくとも、歴史読み物としても楽しめます。 (★★★★★)

  • 柳瀬博一: カワセミ都市トーキョー 【電子限定カラー版】 (平凡社新書1049)

    柳瀬博一: カワセミ都市トーキョー 【電子限定カラー版】 (平凡社新書1049)
    東京都心にたくさんのカワセミが棲んでいるというのは、最近割とよく知られるようになっています。清流の鳥というイメージがあるかも知れませんが、東京の「野生」環境をうまく利用して繁殖もしています。そのカワセミが暮らす街は東京屈指の高級住宅街ばかりだそうです。すなわちカワセミも、人間も好む環境は同じというのです。カワセミが暮らす街は、人間にとってもよい街ということです。カワセミの存在に気付いたことから、「小流域源流」をキーワードに「新しい野生」と「古い野生」の繋がりを論じています。カワセミの生態も詳しく観察されていますので、私も今までよく知らなかったことが多々書かれていて、興味深く読みました。 (★★★★)

  • 内田 樹: コモンの再生 (文春文庫)

    内田 樹: コモンの再生 (文春文庫)
    私は、内田樹先生の評論が好きで割とよく読みます。「コモン(common)」とは、形容詞としては「共通の、共同の、公共の、ふつうの、ありふれた」という意味ですし、名詞としては「町や村の共有地、公有地、囲いのない草地や荒れ地」を意味します。昔は、ヨーロッパでも日本でも村落共同体はそういう「共有地」を持っていました。コモンを管理するには「みんなが、いつでも、いつまでも使えるように」という気配りが必要になるのですが、近代になって怒った「囲い込み」によって「コモンの私有化」が起こり、村落共同体が消え、集団的に維持されていた儀礼、祭祀、伝統芸能、生活文化が消えてしまったのです。著者は、このコモンを再生することが市民の原子化、砂粒化、血縁、地域共同体の瓦解、相互扶助システムの不在という索漠たる現状を何とかするために必要と考えています。ちなみに、マルクスとエンゲルスによるコミュニズムは、著者によれば「共同体主義」と訳した方がよく、彼らは「コモンの再生」が必要と提言したといいます。「共産主義」と訳されてしまったがため、なんだかよく分からないことになっているのです。「共有主義」あるいは「共同体主義」と意訳してくれていたら、もろもろが変わっていたかも知れないという話には、膝を打ちました。 (★★★★★)

  • 本田 秀夫: 知的障害と発達障害の子どもたち (SB新書)

    本田 秀夫: 知的障害と発達障害の子どもたち (SB新書)
    児童精神科医の本田先生の最新刊です。今回は知的障害が取り上げられています。これまでの本田先生の御著書では、発達障害が主に取り上げられてきたのですが、実は知的障害を持つ子どもたちも一定数存在していますし、発達障害と知的障害を合わせ持つ子どもたちもいます。その意味で、発達に困難のある子どもたちのことをきちんと理解して、適切な支援をする上では、両者を視野に入れることが重要です。著者は、知的障害の支援では、「早く」と「ゆっくり」がキーワードになると書いておられます。これは私もそうだと思います。可能な限り早期から支援を受けた方がよく、一方で、発達のスピードに合わせて「ゆっくり」としたペースで支援をすることが大切になります。発達障害の子どもたちにも「本児のペースに遭わせた支援が必要」とおっしゃる方がありますが、発達障害の子どもたちの理解/支援の上でのキーワードは「アンバランス」です。この本は、発達が気になるお子さんをお持ちの保護者の方、特別支援教育に携わる教員の方々にとって、基本的なテキストといえます。 (★★★★★)

  • BIRDER編集部: お手本でわかる!野鳥撮影術 (BIRDER SPECIAL)

    BIRDER編集部: お手本でわかる!野鳥撮影術 (BIRDER SPECIAL)
    バードウォッチングや野鳥撮影を趣味にしています。とはいえ珍鳥を追うのではなく、主に自宅近くを散歩しながら、いわば「定点観測」のように野鳥を見ています。自分の写真の撮り方を振り返ると、図鑑的に撮ることがほとんどです。なぜそうなのかを考えてみると、研究者の端くれであったことが関わっている気がします。つまり、写真を撮ることを、観察した記録やデータと見ているからではないかということに思い当たりました。野鳥撮影の「幅を広げたい」と思っていたら、この本が出版されました。ざっと目を通したところ、「色とりどりの花と鳥」「木の実レストラン」「やわらかい表情を追う」などさまざまなテーマで鳥とその周辺を撮る方法が載っています。これを参考に、自分の野鳥写真の世界を広げられたらいいなと思える本です。 (★★★★★)

  • 磯田 道史: 磯田道史と日本史を語ろう (文春新書)

    磯田 道史: 磯田道史と日本史を語ろう (文春新書)
    磯田道史さんが、さまざまな分野の達人と歴史についての論賛をしたのをまとめた本です。論纂とは、①人の徳行や業績などを論じたたえること、②史伝の終わりに著者が書き記した史実に対する論評のこと。異分野の専門家同士が議論をすることによって生まれるものは、別次元となり、大変興味深いものとなります。この本がその論より証拠。養老孟司さんとの論賛からは「脳化社会は江戸時代から始まった」という話が出て来ています。忠、孝、身分などは、シンボリズムであり、それらは見たり、触れたりできません。また、関東大震災に遭遇したことは、被害に対する鈍感さをもたらし、それが太平洋戦争につながったという指摘には、なるほどそういう面も確かにありそうだと思わされました。その他、歴史や人間について、実にさまざまな、新しい見方が示され、大変おもしろく読み終えました。 (★★★★★)

  • 保阪 正康: 近代日本の地下水脈 I 哲学なき軍事国家の悲劇 (文春新書 1440)

    保阪 正康: 近代日本の地下水脈 I 哲学なき軍事国家の悲劇 (文春新書 1440)
    本の帯に「『水脈史観』で日本の失敗を読み解く」とあります。「水脈史観」という概念には初めて接しましたが、「攘夷のエネルギーは、いまも日本社会の根底に流れている」という見方です。明治維新後、日本がとりえた国家像は、欧米型帝国主義国家、道義的帝国主義国家、自由民権国家、米国型連邦制国家、攘夷を貫く小日本国家の5つであったが、哲学なきまま欧米型帝国主義国家の道を突き進み、軍事中心の国家作りを推し進めたことが、戦前の日本の失敗の原因であったというのが著者の主張です。それは確かにそうだと思いますが、私には、ほんのサブタイトルにある「哲学なき国家」ということが、現代日本の様々な問題の背景にあるような気がしてなりません。 (★★★★)