地蔵

2021年4月23日 (金)

20210422勝手に近鉄名古屋線ハイキング「長島漫歩」(その1)……光岳寺、花林院、正敬寺から長島城跡へ

Img_9196c_20210422174301  4月22日の“勝手に近鉄名古屋線ハイキング「長島漫歩」”のその1です。天気がよくて、気温が上がるのはこの日までということもあり、出かけようと思っていました。幸か不幸か、朝早く目が覚めて、前日の授業のQ&Aや、仕事のメールを書き終えられるなど、9時頃には、dutyを一通り済ませられたのです。そこで、先日から考えていた「長島漫歩」に行ってきました。水辺のやすらぎパークにある牡丹園を見に行こうというのが、第一の目的。去年まではクルマを使ったのですが、最近、コペンは娘の通勤用になってしまっています。故に長島駅まで電車で行き、あとは歩きました。

Nagashima11  歩いたコースはこちら。近鉄長島駅から南を歩いてきました。光岳寺、花林院、正敬寺と寺を回ったあと、長島城跡である長島中学校、長島中部小学校の前を通り、長島川遊歩道を下って、稲荷阿岐波神社から、水辺のやすらぎパークへ。久我邸や、牡丹園を見て、一休みしてから、長島幼稚園近くの遊歩道の終点まで。そのすぐ近くには、花市場があり、そこに立ち寄って来ました。いつもバードウォッチングに行く河口堰は今日はパス。近鉄長島駅に戻って電車で帰るつもりが、国道1号線の伊勢大橋東詰交差点でこのまま歩いて帰った方が早い、と思い直し、伊勢大橋を徒歩で渡って帰宅。長島駅から自宅までが7.5㎞。自宅から桑名駅までが1.1㎞で、合計8.6㎞の散歩でした。

Img_9203c Img_9210c  桑名駅を9時48分に出る名古屋行き普通に乗車。次の駅が近鉄長島駅。乗車時間はわずかに4分、料金は210円。車両はガラガラ。近鉄、儲かってないと思います。近鉄長島駅前(駅の南)には、伊勢湾台風の水位標があります(右の写真)。当時、このあたりは5mを越える水に浸かったそうです。この写真を撮っていたら、名古屋行きの特急ひのとりが通過して行くのが見えました(右の写真の奥に写っています)。ひのとりが走り始めて1年あまり。一度くらいは乗りたいもの。といいつつ、来年で登場10年になる「しまかぜ」にもまだ乗っていません。同級生K氏と「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣り」を始めましたが、伊勢まで行ったら、帰りはしまかぜに乗って宴会をしながら帰ってこようと話しています(笑)。ウォーキングのスタートは、9時55分。ちなみに、ひのとりは、1本だけ桑名駅にも停車します(こちら)。大阪難波21時発の名古屋行き「ひのとり621列車」。このひのとり、白子、四日市にも止まり、桑名には22時59分。名古屋着は、23時16分。

Img_9228c  近鉄長島駅から南へ下っていきます。長島は、平成16(2004)年に多度町とともに桑名市に合併しています。木曽三川河口部に位置し、町全域が平坦です。かつては堤防に囲まれた複数の輪中によって構成されていました。地名の長島は7つの洲からなる「七島」、あるいは南北に長い土地であることから付けられたとされます。明治時代に行われた木曽三川分流工事に伴って、輪中を分けていた小河川の多くが廃川となるとともに、一部の土地は長良川の新河道となり、現在のような地形となっています。木曽三川改修工事についての簡単な歴史は、こちら

Img_9231c Img_9237c_20210423042501  近鉄長島駅から500mで、天機山伝通院光岳寺。浄土宗のお寺。山門に三つ葉葵の御紋があって驚きました。後述のように、徳川家康の母である伝通院の方の菩提寺だったのです。今回は、事前の予習をほとんどしないで出かけました。思わぬところ、身近なところに歴史ありです。学生諸君にもいつも言っていますが、予習は、やはり必要です(苦笑)。

Img_9240c_20210422172401 Img_9234c  創建は不詳ですが、古くは、下野国(現在の千葉県関宿)にあり、弘経寺と称していました。慶長7(1602)年、徳川家康は母親である伝通院の菩提寺の1つに定め、天機山伝通院光岳寺と改称しました(法名が、伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼によると思われます)。当時の領主で、家康の異父弟である松平康元が光岳寺を庇護し、同家の移封先である加納藩(岐阜県岐阜市)、小諸藩(長野県小諸市)に随行し、慶安2(1649)年、当時の当主松平康尚が長島藩に移封になると、長島城下に移りました。ここに祀られている「沓踏子安延命地蔵菩薩」は、伝教大師最澄が自ら彫り込んだと伝えられるもので、伝通院の念持仏だったといいます。

Img_9255c Img_9355c_20210422172401  近鉄長島駅あたりから、長島幼稚園付近まで、途中、ちょっと途切れてはいますが、長島川遊歩道があります。長島駅の南のポケットパークから光岳寺のところ、長島城跡の近くの城東橋から長島幼稚園あたりまで、です。今日は、ほぼこれに沿って歩いてきました。光岳寺からさらに南に向かいます。長島中学校の東で長城橋を渡って長島川の東へ。お寺が2ヶ所ありますので、そちらに。

Img_9272c Img_9280c  スタートから1㎞のところに、盤龍山花林院(ばんりゅうざんかりんいん)。曹洞宗のお寺。門の脇に「乳授薬師(ちちやくし)」という石碑も建っています。しかし、碑陰には何も説明はありませんし、ネットで調べても情報は出て来ません。最近の経験では、「長島町史」を見れば分かると思うのですが、あいにく手元にはありません。

Img_9284c_20210423045801 Img_9288c_20210423045801  禅寺らしく、山門の脇には、大きな「戒壇石(かいだんせき)」があり、「不許葷酒入山門(=葷酒山門に入るを許さず:クンシュサンモンニイルヲユルサズ)」と刻まれています。山門をくぐった右手(北側)には、地蔵堂が2ヶ所あります。

Img_9291c_20210422172401  ここは、家康の異父同母弟である松平康元が父・久松俊勝の冥福を祈るため、三州西郡(こちらの記述によれば、現在の愛知県蒲郡市に含まれる地域)に一寺を建て父の法号を採って花林院と名づけました。その後、松平氏は下総関宿へ移封。さらに加納、信州小諸へと移封されたので、寺もこれにしたがって移転しています。松平康尚が長島藩主となると、花林院も長島に寺基を移しました。その後、増山氏が長島に入封すると増山氏もまた花林院を代々の位牌所として庇護しています。墓所には増山氏の13基の墓碑があるそうですが、調べて行きませんでしたので、墓所は見てこず(こちら)。また、慶長6(1601)年に長島藩主菅沼家初代となった菅沼定仍(さだより)の室、菅沼定盈(さだみつ)の継室の墓も残っているため、花林院以前にこの地には菅沼氏の女系の菩提寺、祈願所があったと考えられています。

Img_9296c_20210423072001  元の本堂は天保年間の建立だったそうですが、昭和36(1961)年に焼失。その後鉄筋コンクリートで再建されています。

Img_9309c_20210422172401 Img_9319c  花林院のすぐ南、細い道を1本隔てて石城山正敬寺(しょうきょうじ)。真宗大谷派のお寺。お寺にも由緒書きなどはなく、また、ネットで検索してもとくに情報は出て来ませんでした。

Img_9327c_20210422172401  再び長城橋を渡って、元の道に戻ります。そこは、長島中学校の東側。長島中学校には、城の大手門のような立派な門があります。それもそのはず、ここは、長島城の跡なのです。

Img_9331c_20210422172401  長島城の起源は、寛元3(1245)年、藤原(九条)道家が館を築いたことにさかのぼります。文明14(1482)年、北勢四十八家の一人、伊藤重晴によって城が再建されました。元亀元(1570)年、一向宗・願証寺の住職・証意蓮淳蓮如上人の6男)の曽孫)によって伊藤氏一族が追放され、長島一向一揆の拠点となりますが、その後、織田信長によって攻略され、滝川一益の居城となりました。賤ヶ岳の戦い後、織田信雄の居城となるのですが、天正14(1586)年の天正地震で天守が倒壊するなど甚大な被害を受けたため、信雄は清洲城に移りました。江戸時代に入ると、菅沼氏が2万石で封じられ、長島城を改修。元和7(1621)年、菅沼氏が移封されると、長島藩は廃藩となり、長島城も一時廃城となったものの、慶安2(1649)年、久松松平家の松平康尚が那須藩より1万石をもって入り、長島藩が再興されました。元禄15(1702)年には、4代将軍家綱の生母の弟・増山正利の子の正弥(まさみつ)が常陸下館より2万石で移され、以後8代続き明治維新に至っています。この間、城郭は順次拡大されましたが、天守は上げられませんでした。

Img_9341c_20210422190001  現在、城跡は長島中部小学校・長島中学校の敷地となり、遺構の大半は失われていますが、東側に石垣および堀が残るそうです(ただし、まったく気づかず、見ていません)。長島中部小学校内の「大松」は、天然記念物であり、市の指定文化財にもなっています。クロマツの大樹で、樹齢300年以上と推定されており、長島城があった当時は本丸の西南にあったといいます。

 その1はここまで。その2は、稲荷阿岐波神社から。その2で完結のつもり。

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2021年4月 2日 (金)

20210331“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”(その2)……山神社、蓮花寺、白山神社・蓮花寺西城跡、蓮華寺東城跡、宇賀神社、宇賀遺跡

210331nisibessho2 3月31日に行ってきた“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”の本編その2です。その1では、西別所の八幡神社まででした。今回は、蓮花寺地内を巡った話し。地蔵堂のところで、員弁街道は城下橋を渡り、蓮花寺川の南を進みます。私は、そのまま蓮花寺川に沿って西へ。川は北へ向かいますが、直進。三岐鉄道北勢線・蓮花寺駅の北あたりで右折し、山神社、蓮花寺、白山神社(マップのもとにしたキョリ測では、宇賀神社となっていますが、そこは白山神社です)、蓮花寺東城跡を見てから南へ、宇賀公園にある宇賀神社にお参りして、宇賀遺跡があったところへ。  

Img_1249c_20210402065301 Img_1252c_20210331172201  蓮花寺川沿いの景色。向こうに見えているのは、在良小学校。よく晴れて見通しも利き、川沿いで広々としていて、とても気持ちよく歩けました。蓮花寺駅の北あたりで右折しましたが、そこに地蔵堂と、個人の方の慰霊碑。陸軍一等歩兵として従軍され、亡くなられた方のもの。碑陰は確認しませんでしたが、日清戦争か、日露戦争のものかと見ました。

Img_1262c_20210331172201 Img_1274c_20210331172201  スタートから2.9㎞、9時半過ぎに山神社。事前の調べでは、由緒もある神社でしたので、もっと立派なものを予測していました。御祭神は、大山津見神(おおやまつみのかみ、山を司る神)。正親町天皇の天正年間(1573~92年)以前の創始だそうです。蓮花寺村宇賀の城山(あとから訪ねる白山神社あたりか?)に内山源吾が城主として居城し、奉祀したといいます。天正年間、織田勢に滅ぼされたものの、その後も氏子の方々が「山の神」と称し、祭祀してきました。民家のまん中にあり、ブロック塀に囲まれた神社というのも珍しいのですが、氏子の方に祭祀されてきたというのが、よく分かる気がします。次の目的地、蓮花寺は、山神社のすぐ裏なのですが、細い道にクルマが止まっていたりして、結局、回り道。

Img_1286c_20210331172201  回り道をしたお陰で、「珍百景」に遭遇。普通のお宅と思うのですが、庭にスワンボートが置いてある光景。建物の中にも、富士山のような形のものが置いてあるのも見えました。「ナニコレ珍百景」に相当しそうな感じがします。

Img_1294c_20210402175901  このお宅のすぐ先に鳥居があります。この写真を撮った方からくぐるようになっていますので、このあと行くつもりの白山神社のものと思われます。大正9(1920)年の建立。車が通るには不便な気がします。この鳥居をくぐってすぐに右手に入る細い道があり、そこを行くと、蓮花寺でした。

Img_1297c Img_1306c_20210331172201  総仏山蓮花寺。真宗大谷派の寺。ご本尊は、阿弥陀如来。第二次世界大戦までは、総仏堂という説教所でした。在良村郷土誌によれば、蓮花寺先々代の紀伊浩洋は、漢籍で名高い人物であったそうです。堂は、先代が昭和33(1958)年に建て変え、旧村名(蓮花寺村)をとって総仏山蓮花寺と名づけたといいます。寺にある鐘は、戦時中に金属供出として出されたもの(今は、中里ダムの湖底に沈んだ深尾山薬王庵の持ち物)を譲り受けたといいます。かつてこの近くには、地名の語源となった「蓮華寺」がありました(ここ蓮花寺とは別の寺。蓮華寺は、後述の白山神社の西北西あたりにあったといいます)。蓮華寺村も、寺も、鎌倉時代にはかなり繁栄したそうですが、住宅開発に埋もれ、蓮華寺の寺跡は窺い知れません。蓮華寺には、無住国師(むじゅうこくし、あるいは、無住道暁(ムジュウドウギョウ))が住み、正和元(1312)年、87歳で没したといいます(異説あり)。無住国師は、臨済宗の僧で、中世文学の説話として代表的著作「沙石集」、「聖財集」、「雑談(ぞうだん)集」などを著しました。

Img_1313c_20210331195001 Img_1320c_20210331172201  蓮花寺からさらに坂を登っていくと、白山神社に出ますが、その手前に白山会館と小公園があり、そこに見事なソメイヨシノ。ちょうど満開。花見の名所にはほとんど行きませんが、こういうところで思いがけず、見事な桜に出遭うのもまたよし、という感じ。

Img_1328c_20210331172201  白山神社です。私がいつも使う「キョリ測」には、ここに、白山神社と宇賀神社があるとなっていますが、由緒書きによれば、ここに鎮座するのは白山神社。宇賀神社は、ここから南150mほどのところにあると書いてありました。

Img_1332c_20210331172201  白山神社の御祭神は、菊理姫命(くくりひめのみこと、白山比咩神社の主祭神。水を恵み、ものごとの和合・仲介・招福の神)。由緒書きによれば、白山権現菊理姫社と称し、正親町天皇の永禄年間(1558~70年)以前からあったといいます。境内社には、津島神社、火産霊社が、また、別宮には、護国神社があります。ここ、白山神社があるところは、蓮花寺西城(城山城)跡といわれ、内山源吾正則が居城したといいます。織田信長に滅ぼされています。現在、城の遺構はありません。

Img_1397c_20210331172301 Img_1407c  白山神社の北に神田池という大きな灌漑池があります。その南の端あたりが、蓮花寺東城(宇賀城)跡といわれます。蓮華寺東城には、後藤庄左衛門氏篤が居城しましたが、こちらも永禄年間に織田信長に滅ぼされています。城の遺構は、ここもありません。何となくもの足らない気もしますが、やむを得ません。

Img_1419c_20210331172301 Img_1423c  蓮花寺東城跡から白山神社の南にある宇賀神社を目指します。宇賀神社は、宇賀公園の中。このあたりで、スタートから4㎞、10時頃。御祭神は、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ、食物、とくに稲の神霊)。ここも創始は不詳ですが、正親町天皇の御代(1557~86年)以前と伝えられ、蓮花寺西城(城山城)主・後藤庄左衛門の崇敬が厚かったといいます。この公園で小休止。

Img_1441c_20210331172301  宇賀神社の南あたりが宇賀遺跡。公園の南にある住宅地から、コミュニティバスの「マザック前」停留所のあたりにと思われます。縄文時代から中世にかけての複合遺跡です。弥生時代の遺構からは、井堰が見つかっており、稲の穂積みに使う木包丁も出土し、稲作が行われていたと考えられています。

 今回は、短めですが、キリが良いのここまで。その3では、額田神社(本社、増田)、額田神社旧跡と源流寺。

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2021年4月 1日 (木)

20210331“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”(その1)……西別所駅をスタートして、延寿院、万機庵跡、照林寺、員弁街道から西別所の八幡神社へ

210331nisibessho  3月31日の“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”の本編その1です。この日は、陽気もよく、桜も満開でしたから、このテーマで歩いてきたという次第。今回も、「くわな史跡めぐり」を参考に自分でコースを組み立てています。この本の濃州道のところを見ています。濃州道は、去年、桑名から員弁まで歩き通しましたが、街道から離れたところは訪ねていません。そこでそうした見ていないところへ行こうというのが企画の趣旨。「くわな史跡めぐり」を参照しながら、「キョリ測」でコースを描いていきます。そうしてつくったものが、冒頭にあるマップ。キョリ測は、本来、距離を測定するサイトなのですが、このようにルートマップ作成にも応用できるのです。描いたものをPrint Screenで取り込んで、Paintに貼り付け、Corel Paint Shopでトリミングして、またPaintで距離数や訪ねる場所の説明を書き込んでいます。詳細マップも同様にしてつくり、プリントして持って歩いています。

 この日は、三岐鉄道北勢線で西別所駅まで行き、そこから、延寿院、万機庵跡、照林寺、八幡神社と回ったあとで、西別所城跡を見るつもりが忘れて、蓮花寺に入りました。当初、西別所城跡は見るつもりがなかったのですが、近いことに気づき、あとから思いついて、目的地にくわえたのです。その後、蓮花寺地内で山神社、蓮花寺、白山神社、宇賀公園、宇賀神社。さらに増田に行き、増田の額田神社、源流寺、そして、額田神社の氏子の方に教えていただいて額田神社旧跡を訪ねました(増田集会所)。これで在良駅にゴールするつもりでしたが、氏子の方に額田神社(本社)の話も聞きましたので、そちらまで足を延ばしました。現地で7.6㎞を歩き、自宅から西桑名駅までの往復が2.3㎞で、合計9.9㎞。

Img_1044c_20210331172101 Img_1050c_20210331172101  三岐鉄道北勢線・西桑名駅を8時23分に出る阿下喜行きに乗車。春休み期間ですので、空いていました。1輌に2~3人の客。西別所までは、2駅。¥190。

Img_1062c_20210331172101 Img_1072c_20210331172101  左の写真は、途中、馬道駅から見た走井山公園の桜。ここには桜の木が100本ほどありますが、満開。西別所駅には、8時28分に到着。右の写真が西別所駅ですが、向かって左(南側)には辻内鋳物工業の大きな工場がありました。取り壊されて更地になっています。スタートは、8時半。

210331nisibessho1  こちらが詳細なルートマップその1。まずは、北勢線の踏切を渡って、北側へ行き、さらに国道258号線をくぐり、延寿院へ。続いて、258号線をはさんだ万機庵跡から、濃州道沿いの照林寺、地蔵堂から八幡神社へ、その後、少し東に戻って光陽希望が丘保育園近くにある西別所城跡を見ようと思ったものの、忘れてそのまま西へ向かってしまいました(苦笑)。

Img_1088c_20210331172101 Img_1101c_20210331180001  さて、まずは、国道258号線の下をくぐって、その東にある延寿院を目指します。西別所駅は、町屋川でバードウォッチングをするときに何度か降りたことがあります。また、国道258号線は、クルマで何度となく通っていたのですが、このあたりを歩くのは初めて。左の写真で向かって右に見えている地下道を通っていきます。その先がよく分からなかったので、事前にストリートビューで見たものの、延寿院に入る道は今ひとつ不確か。結局、258号線沿いの小径を進み、どん詰まりにあった、この藪のようなところの奥から入れました。

Img_1104c Img_1109c_20210331172101  その先にあったのが、「北寺駐車場」の看板。この道で間違いはなかったようで、一安心。右手の奥から少し登って、お寺の境内に入っていけました。慈眼院北寺延寿院。高野山真言宗のお寺。ご本尊は、十一面観音菩薩。地元では、集落の北のはずれにあることから「北寺」と呼ばれます。延宝年中(1673~81年)、奥平貞登が観音堂を建てたのに始まります。奥平貞登の一族は、桑名藩5代藩主・松平定綱に使えて家老職を務めました。この地に山荘を建て、かたわらに小堂を建てて観音像を安置したと考えられています。享保21(元文元)(1736)年、大福田寺の住職・實圓がここを隠居寺としてから大福田寺の庵室となり、江戸末期からは尼僧によって住持されていました。しかし、檀家もなく、昭和中期には無住となり荒廃したため、西別所在住の有志によって昭和57(1982)年に本堂が修復され、また、北寺奉賛会が設立され、維持されています。

Img_1119c_20210331172101  境内には、宝暦5(1755)年に入寂した實圓と、安永5(1776)年入寂の實豊の墓碑である五輪塔2基などが残っています。左の写真で中央にある五輪塔が實圓のもの、向かって左が實豊のものです。境内には桜も咲き、ウグイスのさえずりも聞こえていました。時折、国道258号線を走るクルマの音が聞こえては来ますが、静かで落ち着いたお寺です。

Img_1125c_20210401152001  258号線をクルマで走っていただけの時は、まさかここにこのようなお寺があるとは思いもしませんでした。さらにもう一つ、蛇足。お寺のすぐ裏手には、「オレンジアベニュー」というラブホテルがあります。聖と俗、微妙な位置関係でもあります(この写真の背後に見える、白い大きな建物がそれ)。と変な感慨を抱きつつ、お参りはきちんと済ませ、延寿院をあとにします。

Img_1138c_20210331172201  再び、国道258号線をくぐって、その西側へ出ます。地下道を出たところから北を見た写真。前方の森に、万機庵跡があります。万機山蔵鷺庵(ばんきざん ぞうろあん)が正式名称のようですが、地元では万機庵、または、蔵六庵とも呼びます。「桑名市史 本編」には、「蔵鷺庵」として載っています(p.472)。もともとは曹洞宗のお寺でした。ご本尊は、観世音。明暦元(1655)年に、楊柳寺(市内新屋敷)第6世万機和尚が創建し、ここに閑居した庵跡といわれています。万機和尚は、真田幸村(信繁)の3男で、楊柳寺に在住30年。「桑名市史」によれば、桑名藩第3代藩主・松平定重公が、ここに山荘を設け、遊興したといいます。また、天正の頃の城跡で馬場の跡があることや、境内の「一本松は方二三十間にも及ぶ古木であった」ことも触れられています。1間は、約1.8mですから20間では36m、30間なら54mとなります。

Img_1148c_20210331172201 Img_1152c  それはさておき、万機庵跡ですが、上の写真の道を上り、途中から岡の方に入ったものの、岡の中は、これらの写真のような状況。「明治初めに無檀家の理由を以て廃庵となり、現在、跡地は竹林となっている」(こちら)ということは知っていたのですが、実際にかなり荒れていました。跡地には、万機和尚の墓石を含め、15基の墓石があるそうですが、見つけられませんでした。予めネットで検索したところ、最近、「送電線の鉄塔が立っているので、そこへの鉄塔巡視路はあるものの、きびしい藪と地形で、歩き回ることができず、墓石の場所は判らなかった」と書いているブログがありました(こちら。今年2月の初めの記事です)。2月1日に行こうとした高塚山古墳も、荒れていて入れませんでしたが(2021年2月1日:20210201勝手に養老鉄道ハイキング「桑名駅西歴史散歩」(予告編))、竹林は手入れされないとすぐに荒れてしまうようです。ということで、万機庵跡に行くのは、断念。なお、墓石の写真は、このWebサイトにあります。

Img_1155c_20210401153701  ちなみに、万機庵跡を探して歩き回っていたところ、国道258号線が見えるところに出ました。見えている建物は、先ほど触れた「オレンジアベニュー」。写真の右端に森が少し写っていますが、そこが延寿院です。万機庵跡からグランデージ西別所という住宅地の北側を通って1㎞を過ぎて左折し、南下。照林寺へ向かいます。

Img_1167c_20210331172201  照林寺。真宗本願寺派のお寺。ご本尊は、阿弥陀如来。ここは、員弁街道沿いにあり、昨年3月15日にも来ています(2020年3月15日:20200315「勝手に三岐鉄道ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』」(三ツ矢橋から三岐鉄道北勢線・星川駅)(予告編))。当時の西別所には寺がなく、明治44(1911)年、地元の人たちの懇請を受けて、萱町の法盛寺の塔頭を村の念仏道場であったここに移築して設立されました。その際、廃庵となった万機庵の建物の一部を庫裡として移築しています。さらに同庵に安置されていた阿弥陀如来像と十一面観音菩薩像も移安され、別壇に護持されているそうです。もとは、法盛寺の末寺。「桑名市史 本編(p.456)」には、「寛文10(1670)年、第2世靖南のとき、本山より寺号を許された」という記述がありますが、これは上記の念仏道場のことかという気がします。照林寺でスタートから1.3㎞、9時頃。

Img_1171c_20210331172201 Img_1174c_20210331172201  照林寺のところから次の地蔵堂のところまでは、員弁街道を歩きます。左の写真は、これから進む、西の方角。1.5㎞の少し手前、城下(しろした)橋のたもとに子安地蔵堂があります。このお地蔵様は、昔は北の台地上にあった寺(万機庵かという記述が、「歴史の道調査報告書改訂版(三重県教育委員会編集、1985年)にあります)に祀られていた地蔵といいます。廃寺になって放置されていたものが、明治初年頃か、街道安全のため現在地に移したと伝わっています。なお、「くわな史跡めぐり」に載っているこの「子安地蔵堂」の写真は誤りと思われます(他の地蔵堂の写真と間違っていると考えられます)。

Img_1190c_20210331172201 Img_1197c  地蔵堂を過ぎて、1.6㎞ほどのところで、希望が丘にある八幡神社に立ち寄るために員弁街道を離れます。天正元(1573)年、西別所城山、城下橋(子安地蔵尊のあったところ)北の山腹に八幡社があったといいます。元禄14(1702)年、その西別所城山にあった八幡社を現在地に勧請しています。明治44(19119年境内社を合祀しています。右の写真のように、かなり長い階段を登って、標高30数mのところに神社があります。

Img_1203c_20210401191501 Img_1209c_20210401191501  主祭神は、品陀和気命(ほんだわけのみこと、応神天皇)。相殿神は、菊理姫命(くくりひめのみこと、白山比咩神社の主祭神)、大山津見命(おおやまつみのみこと、山の神)、火産霊神(ほむすびのかみ、宇迦御魂神(うかのみたまのかみ、食物、とくに稲の神)。以上は、神社検索三重のサイトにある御祭神。神社の由緒書きには、菅原道真公もありました。

Img_1216c Img_1245c_20210331172201  先に書きましたが、この八幡神社は標高30数mのところにあり、眺望が利きました。この写真は、桑名市稗田から町屋川の向こう、桑部方面が見えています。ここでしばし休憩。八幡神社から再び、蓮花寺川沿いに戻り、蓮花寺方面に行きます。途中、なかなかよさげなソメイヨシノが2本、満開でした。これを過ぎて、川に沿って右に曲がっていきます。光陽希望が丘保育園近くにある西別所城跡に行こうと思っていたものの、この時はすっかり失念していました。西別所城には、北畠氏に従う矢田俊元(西別所城・額田城・蓮花寺城・安永城などを支配してお. り、桑名では有力な地侍でした)の与力、後藤弥五郎基成が居城していましたが、秀吉・信盛・長秀らの大軍の前に成すすべもなく落城したといいます。西別所城跡の遺構はないようです。毎度、「お前のブログの記事は長い」といわれますので、今回はこのあたりにて。その2では、蓮花寺地内を歩きます。

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2021年3月31日 (水)

20210331“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”(予告編)

Img_1040c_20210331172101  3月31日となりました。リタイアしてかなりになりますので、あまり年度替わりは関わりがないのですが、それでも「今年度も終わりか」という気持ちになります。それを記念してということではありませんが、陽気もよく、桜も満開ですから、今日は、“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”というテーマで歩いてきました。今回も、「くわな史跡めぐり」を参考に自分でコースを組み立てています。今日のところは、予告編。

210331nisibessho  こちらが今日歩いたコースマップ。三岐鉄道北勢線で西別所駅まで。そこから、延寿院、万機庵跡、照林寺、八幡神社と回り、西別所城跡を見るつもりが忘れて、蓮花寺に入りました。山神社、蓮花寺、白山神社、宇賀公園、宇賀神社、さらに増田に行き、増田の額田神社、源流寺、そして、額田神社の氏子の方に教えていただいて額田神社旧跡を訪ねました(増田集会所)。これで在良駅にゴールするつもりでしたが、氏子の方に額田神社(本社)の話を聞きましたので、そちらまで足を延ばしました。現地で7.6㎞を歩き、自宅から西桑名駅までの往復が2.3㎞で、合計9.9㎞。最高気温は、21.4℃で、かなり汗をかいて帰宅。

Img_1044c_20210331172101 Img_1072c_20210331172101  三岐鉄道北勢線・西桑名駅を8時23分に出る阿下喜行きに乗車。春休み期間ですので、空いていました。1輌に2~3人の客。西別所までは、2駅。¥190。西別所駅には、8時28分に到着。右の写真が西別所駅ですが、向かって左(南側)には辻内鋳物工業の大きな工場がありました。取り壊されて更地になっています。駅の北にある工場とたぶん本社はそのまま。

Img_1062c_20210331172101  途中、馬道駅のところから走井山公園が見えます。桜は満開。今日は、桜はまぁいいかと思っていたのですが、やはり、桜がこんなに咲いている景色を見ると、いけませんねぇ。心が動かされます(微笑)。

Img_1088c_20210331172101 Img_1101c_20210331180001  さて、まずは、国道258号線の下をくぐって、その東にある延寿院を目指します。西別所駅は、町屋川でバードウォッチングをするときに何度か降りたことがあります。また、国道258号線は何度となく通っていたのですが、このあたりを歩くのは初めて。事前にストリートビューで見たものの、延寿院に入る道が今ひとつ不確か。結局、この藪のようなところの奥から入れました。

Img_1109c_20210331172101  慈眼院北寺延寿院。高野山真言宗のお寺。ご本尊は、十一面観音菩薩。地元では、集落の北のはずれにあることから「北寺」Img_1119c_20210331172101 と呼ばれます。延宝年中(1673~81年)、奥平貞登が観音堂を建てたのに始まります。奥平貞登の一族は、桑名藩5代藩主・松平定綱に使えて家老職を務めました。この地に山荘を建て、かたわらに小堂を建てて観音像を安置したと考えられています。享保21(1736)年、大福田寺の住職・實圓がここを隠居寺としてから大福田寺の庵室となり、江戸末期からは尼僧によって住持されていました。しかし、檀家もなく、昭和中期には無住となり荒廃したため、西別所在住の有志によって昭和57(1982)年に本堂が修復され、また、北寺奉賛会が設立され、維持されています。境内には、宝暦5(1755)年に入寂した實圓と、安永5(1776)年入寂の實豊の墓碑である五輪塔2基などが残っています。

Img_1138c_20210331172201  再び、国道258号線をくぐり、西側に戻ります。左の写真で、こんもりした岡と森が見えますが、ここに万機庵跡があります。万機山蔵鷺庵(ばんきざん ぞうろあん)が正式名称のようですが、地元では万機庵、または、蔵六庵とも呼びます。もともとは曹洞宗のお寺でした。楊柳寺(市内新屋敷)第6世万機和尚が建てた庵跡といわれています。万機和尚は、真田幸村(信繁)の3男だそうです。

Img_1148c_20210331172201 Img_1152c  上の写真の道を上り、途中から岡の方に入ったものの、岡の中は、これらの写真のような状況。「明治初めに無檀家の理由を以て廃庵となり、現在、跡地は竹林となっている」ということは知っていたのですが、かなり荒れていました。跡地には、万機和尚の墓石を含め、15基の墓石があるそうですが、見つけられませんでした。予めネットで検索したところ、最近、「送電線の鉄塔が立っているので、そこへの鉄塔巡視路はあるものの、きびしい藪と地形で、歩き回ることができず、墓石の場所は判らなかった」と書いているブログがありました(こちら)。2月1日に行こうとした高塚山古墳も、荒れていては入れませんでしたが(2021年2月1日:20210201勝手に養老鉄道ハイキング「桑名駅西歴史散歩」(予告編))、竹林は手入れされないとすぐに荒れてしまうようです。ということで、万機庵跡に行くのは、断念。

Img_1167c_20210331172201  続いて、照林寺へ。住宅地の北から西を周り、照林寺は濃州街道沿いにあります。真宗本願寺派のお寺。ご本尊は、阿弥陀如来。当時の西別所には寺がなく、明治44(1911)年、地元の人たちの懇請を受けて、萱町の法盛寺の塔頭を村の念仏道場であったここに移築して設立されました。その際、廃庵となった万機庵の建物の一部を庫裡として移築しています。さらに同庵に安置されていた阿弥陀如来像と十一面観音菩薩像も移安され、別壇に護持されているそうです。照林寺は、去年3月、濃州街道ハイキングでも来ています(2020年3月15日:20200315「勝手に三岐鉄道ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』」(三ツ矢橋から三岐鉄道北勢線・星川駅)(予告編))。

Img_1171c_20210331172201 Img_1174c_20210331172201  照林寺の前は、濃州街道。しばらく、濃州街道を歩きます。去年3月15日のハイキングの時に、話しに夢中になって見逃した地蔵堂がありますので、今日は、忘れずに見なくてはなりません。「子安地蔵堂」とあります。城下橋の北畔にあります。元は、北部の台地の上にある寺に祀られていたそうです。明治初年に現在地に移しました。堂は、昭和48(1973)年に改築されています。なお、「くわな史跡めぐり」に載っている写真は誤りと思われます(他の地蔵堂の写真と間違っていると考えられます)。

Img_1190c_20210331172201 Img_1203c_20210331172201  西別所第3公園の南を過ぎて、濃州街道から離れ、北へ。希望が丘にある八幡神社に向かいます。元禄14(1702)年、西別所城山にあった八幡社を現在地に勧請しています。主祭神は、品陀和気命(ほんだわけのみこと、応神天皇)。相殿神は、菊理姫命(くくりひめのみこと、白山比咩神社の主祭神)、大山津見命(おおやまつみのみこと、山の神)、火産霊神(ほむすびのかみ、、宇迦御魂神(うかのみたまのかみ、食物、とくに稲の神)。階段を登って、標高30数mのところに神社があり、眺望が利きました。

Img_1245c_20210331172201 Img_1252c_20210331172201  再び蓮花寺川沿いに戻って、川に沿って蓮花寺へ。途中、なかなかよさげなソメイヨシノが2本、満開でした。これを過ぎて、川に沿って右に曲がっていきます。行き当たったところに、地蔵堂と個人の方の忠魂碑。

Img_1262c_20210331172201 Img_1274c_20210331172201  突き当たりを右折してすぐに山神社。もっと立派な神社を想像していたので、危うく見逃すところでした。しかし、けっこう由緒のある神社。正親町天皇の天正年間(1573年~)以前の創始だそうです。蓮花寺村宇賀の城山に内山源吾、後藤庄左衛門が城主として居城し、奉祀したといいます。天正年間、織田勢に滅ぼされたものの、その後も氏子の方々が「山の神」と称し、祭祀してきました。

Img_1286c_20210331172201  次の目的地、蓮花寺に向かう途中のお宅に、なぜかスワン・ボートが置いてありました。お宅の中にも富士山のようなものがありますし、「ナニコレ珍百景」になりそうな印象。

Img_1297c Img_1306c_20210331172201  総仏山蓮花寺。真宗大谷派の寺。ご本尊は、阿弥陀如来。第二次世界大戦までは、総仏堂という説教所でした。かつては、地名の語源となった「蓮華寺」があったところです。鎌倉時代にはかなり繁栄したそうですが、住宅開発に埋もれ、蓮華寺の寺跡は窺い知れません。蓮華寺には、無住国師(無住道暁、ムジュウドウギョウ)が住み、正和元(1312)年、87歳で没したといいます。

Img_1328c_20210331172201 Img_1332c_20210331172201  蓮花寺のすぐ北西には白山神社があります。私がいつも使う「キョリ測」には、ここに、白山神社と宇賀神社があるとなっていますが、由緒書きによれば、ここに鎮座するのは白山神社。宇賀神社は、ここから南150mほどのところにあると書いてありました。御祭神は、菊理姫命(くくりひめのみこと、白山比咩神社の主祭神)。境内社には、津島神社、火産霊社が、また、別宮には、護国神社があります。白山神社があるところは、蓮花寺西城跡といわれます。ここには、内山源吾正則が居城したといいます。

Img_1313c_20210331195001  Img_1320c_20210331172201  白山神社の東には白山会館と、ちょっとした公園がありますが、そこのソメイヨシノも見事でした。いわゆる「桜の名所」はもちろんよいのですが、こういうあまり知られていないところにも、見事な桜があるものです。

Img_1407c Img_1397c_20210331172301  続いて、白山神社から少し北へ。神田池の南西あたりが、蓮花寺東城跡になります。ここは、後藤庄左衛門の居城した天正元(1573)年に、織田信長勢により落城。蓮花寺西城跡もここも、発掘がされていないそうで、詳しいことは分かりません。

Img_1419c_20210331172301 Img_1423c  白山神社の南、150mほどのところに宇賀公園があり、その敷地内に宇賀神社があります。当初は、立ち寄る予定はなかったのですが、白山神社の由緒書きに、ここに宇賀神社があるとあったので、行ってきました。創祀は不詳ですが、正親町天皇の御代(1557~1586年)以前と伝えられ、蓮花寺城山城主・後藤庄左衛門の崇敬が厚かったといいます。御祭神は、宇迦之御魂神

 宇賀公園の南、コミュニティバスの「マザック前」停留所のあたりには、宇賀遺跡があったといわれます。Img_1441c_20210331172301縄文時代から中世にかけての複合遺跡です。弥生時代の遺構からは、井堰が見つかっており、稲の穂積みに使う木包丁も出土し、稲作が行われていたと考えられています。

Img_1478c_20210331172301 Img_1487c  さらに南に向かい、北勢線、濃州街道を越えて、増田に入ります。増田の額田神社です。もともと、桑名郡額田村と増田村は、一つの村で増田神社を鎮守として祭祀したのですが、洪水によく遭ったということで、神社を額田村宮山へ遷しました。その後、増田村から参詣するのに不便だということで、額田にある本社からこの増田の額田神社を文政8(1825)年に分祀奉遷したそうです。ここで、神社の世話をしておられる氏子の男性の方に出会い、この経緯や、あとで訪ねる旧社地のことなどを教えていただきました。こういう出会いはありがたいことですし、ハイキングの醍醐味の一つです。

Img_1518c_20210331172301 Img_1531c_20210331172301  その男性に教えていただき、旧社地へ行ってみました。旧社地は、旧増田村の中央に位置し、現在は、増田集会所が建っています。その集会所の建物の裏手に、「額田神社御旧跡」という石碑がありました。これは、教えていただかないと分かりませんでした。

Img_1554c Img_1565c_20210331172301  この旧跡から西へ向かうと、額田山源流寺。真宗大谷派の寺。ご本尊は、阿弥陀如来。このお寺の詳細については、調べた範囲ではよく分かりませんでした。

Img_1740c_20210331172401 Img_1612c_20210331172301  以上で、当初の目的地はコンプリートしたのですが、増田の額田神社でお目にかかった氏子の方から、額田神社(本社)についても話を伺い、興味が湧いてきました。別の機会に行こうと思っていたのですが、この時点でまだ10時40分。額田神社までは、さほど遠くはありませんでしたので、お参りすることにしました。左の写真は、濃州街道沿いに建つ額田神社の社号標。右面には、「従是三丁五間」とあります(336mあまり)。右は、北勢線を越えたところにある額田神社の常夜燈。

Img_1720c_20210331172401 Img_1658c_20210331172401  額田神社。延喜式内社。御祭神は、意富伊我都命(おおいかつのみこと, おほいかつのみこと:古代、この地方を開発した額田連(ぬかたのむらじ)の祖)、天照大御神天津彦根命(あまつひこねのみこと)。第19代允恭天皇の頃(440年)、奉斎されたといいます。ちなみに、額田部氏は大和の額田郷から移住してきた一族で、付近には小さな古墳がいくつかあったという伝承があります。額田神社には、竜王社、火産霊社、猿王社、春日社、座(蔵)王社などの境内社がありました。額田神社にお参りを終えて、11時5分頃。急げば、11時15分在良駅発の西桑名行き電車に乗れます。濃州街道に出て、上に載せた社号標を見て、在良駅へ。

Img_1756c_20210331172401  三岐鉄道北勢線在良駅には、11時10分を少し過ぎた頃到着。東名阪道の高架の下に駅があります。無事に11時15分発の電車に乗れました。西桑名駅までは、4駅、¥210。11時26分に西桑名駅に到着。

Img_1803c_20210331172401  本日のALKOOによる歩数のデータ。17,884歩。冒頭に書きましたように、合計9.9㎞を歩いた結果。ということで、本日は、「西別所・蓮花寺を行く」という「勝手に北勢線ハイキング」の予告編。いつものように、明日以降、本編を書きます。

Img_1213c_20210331172201 【余談】 本日から、ウォーキング・シューズを新調。これまでのものは、底がすり減り、穴もあいてしまいました。毎日、平均6㎞かそれ以上を歩きますので、靴の消耗は、はなはだしいのです。今までのものをいつから使っていたか記憶にありませんが(調べるとブログに書いてあるかも知れません)、1年はとても保ちません。

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2021年3月22日 (月)

20210320勝手にハイキング「諸戸水道・駅西を行く」……その2(走井山公園、勧学寺から冷水庵へ)【上野神社について追記しました(3/29)】

210320ekinishi2  3月20日の“勝手にハイキング「諸戸水道・駅西を行く」”のその2です。その1では、桑名駅東口をスタートし、徳成農園跡まで行きました。今回は、徳成農園跡から南へ200mほど、走井山公園からです。走井山公園に隣接して勧学寺があります。馬道駅の方へ下る途中に伝村正屋敷跡、私の好きな三猿石像、北勢線沿いに西に行くと上野御膳水。少し北に行って、上野神社、上野墓地、冷水庵。さらに南大山田神社、そのすぐそばに太夫の大楠、そして、伊勢太神楽の本拠である増田神社と歩いて行きます。

Img_4952c_20210320174801 Img_4964c_20210320174801  走井山公園は、桜の名所でもあります。戦国時代に矢田城があった場所に造られた公園。北畠氏の家臣である矢田半右衛門俊元の居城でしたが、織田信長の伊勢侵攻の際に滝川一益によって攻められ落城すると、その後は一益に与えられ、長島一向一揆を攻略する最前線基地として使われました。園内には100本ほどの桜があります。丘陵地で起伏に富んだところに桜があり、見応えがあります。しかし、この日はまだ、一部で咲き始めたところ。去年は4月4日にここの桜を見に来ています(2020年4月4日:「ひのとり」、照源寺の金龍桜、道祖神、走井山公園の桜に北勢線の「ゆる鉄写真」……土産は宝来軒本店の花見団子)。

Img_4955c_20210321195101 Img_4967c_20210320174801  いろいろと見どころはありますが、この日は、戦没者慰霊碑である「殉国碑」(左の写真)と、「愛宕山庚申塔群」を見てきました。

Img_4983c_20210320174801  こちらは、走井山勧学寺の本堂。聖武天皇の御代(724~749年)、行基菩薩の草創によるものと伝えられています。室町の頃(1390~1570年)までは走井山北麓にありました。同地内(現在の桑名高校付近)の海善寺が廃寺となり、本尊の千手観音立像が当寺へ移されてきています。走井山矢田城主の矢田市郎左右衛門は、この観音様を深く信仰していたといわれます。その後の経緯はよく分かりませんが、桑名藩主・松平定重公(1657~1710年)の時、現在地の矢田城跡に再建されました。明治の初め(1870~1880年頃)、いったん廃寺の憂き目に遭ったものの、近在の信者有志の尽力により再興されました。本堂は、松平定重公寄進のもので、市内に現存する寺社建築としては最も古いと推測されています。ちなみに、勧学寺は、伊勢四国三十三箇所巡礼の第31番札所。

Img_4986c Img_4978c_20210321200301  境内には、太子堂や仏足石などの他、地蔵堂などもいくつかあります。太子堂は、もともと江戸時代の明和年間(1764〜1772年)に、桑名惣大工中によって建立されたもの。平成2(1990)年に不審火で全焼しましたが、桑名建築組合によって再建されています。仏足石は、仏像が出現する以前、インドの伝説によってお釈迦様を礼拝の対象としてつくられたもの。これは、江戸時代末期のもので、「勧学寺様式」といわれるそうです。福輪相図(足裏の絵)が精妙に刻まれているのが特徴。

Img_5004c  境内の鐘楼堂に上がって東を見ると、三岐鉄道北勢線が見えます。踏切の警報器が鳴り始めましたので、鐘楼堂に上がって、俄撮り鉄。桜が咲いていると、サクラの花の間から北勢線の電車が見えるのですが、残念ながらまだ早い。なお、走井山公園と勧学寺について、詳しいことは、2018年7月7日の記事(20180609近鉄ハイキング「桑名九華公園花菖蒲まつりと文化・歴史を知る」(その1)……走井山勧学寺)をご覧ください。

Img_5059c_20210320174801 Img_5056c_20210321201101  馬道駅の方に降りる途中に、伝村正屋敷跡という案内板があります。このすぐ東にあるマンションのあたりに村正の屋敷があったといいます。村正は、このブログにも何度も登場していますが、伊勢国桑名の刀工で、室町時代中期以後、代々活躍しています。「勢桑見聞略史」によれば、「村正トテ(中略)其旧宅ノ地矢田走井山観音堂ノ下道ノ左、今庄屋ノ家是其旧地也」とあるそうです。

Img_5047c_20210321201501  北勢線馬道駅の方に下っていきます。左の写真には、ここで出遭った近くにお住まいの女性。足が痛くて、最近は走井山には登っていなかったのだそうですが、この日は10年ぶりにいらっしゃったとか。あれこれ、教えてくださいました。散歩やハイキングでいろいろな人と出会えるのも大きな楽しみです。

Img_5078c_20210320174801 Img_5071c_20210321201801  北勢線の踏切の所に三猿石像があります。これも、ブログに何度も書いていますが、私の好きな三猿石像。台座には、「此の心 我れができぬは 人とよせよとハそれハむり志や 志てくだされハ ありがたし」と刻まれています(一部、読みがアヤシい)。

Img_5081c Img_5074c_20210321203101  上左の写真にも写っていますが、踏切の脇に常夜燈があります。「弘化3(1846)年」の文字が見ます。踏切を渡ってすぐ右折。北勢線沿いに西に向かいます。この道は、初めて歩きます。右の写真は、馬道駅。

Img_5108c_20210321203201 Img_5105c  上野地区を歩いて行き、スタートから2.6㎞で上野御膳水うえのごぜんみず)に到着。背後の上野の丘から湧き出た水で、江戸時代、桑名藩主の飲料水として、毎日、桑名城まで運ばれたのが、ここ上野の湧水なのです。そのため、「御膳水」と呼ばれます。以前は、筧から水が流れ出ていたそうです。今は、飲用には適しません。ここも、ずいぶん以前から是非訪ねたかったところ。

Img_5156c Img_5160c_20210322042901  上野御膳水から西へ300mほど、住宅街の入り組んだ細い道を行きます。上野集会所の先に上野神社。集会所の先を少し登ったところに社殿があります。一の鳥居をくぐったところに地蔵堂がありました。詳細は分かりませんが、中には、観世音菩薩と地蔵菩薩がそれぞれ祀られていました。

Img_5173c_20210320174801  上野神社のご祭神は、建御雷之男神(タケミカヅチノカミ:鹿島神宮の神)、齋主神(いわひぬしのかみ:経津主神(ふつぬしのかみ)ともいう、香取神宮の神)、天児屋根神(アマノコヤネノミコト:天照大神が天の岩屋に隠れたとき、祝詞を奏した神)、姫大神(ひめおおかみ:神社の主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神を指すもの)、大山津見神(おおやまつみのかみ:山を司る神)、木花咲耶比売命(コノハナノサクヤビメ:大山津見神の娘。富士山の神とされ、浅間神社に祭られる)、天目一箇命(あまのまひとつのみこと:天津彦根命の子で、桑名首の祖とされる。多度大社別宮一目連(いちもくれん)神社に祀られる)。ここもたくさんの神様がいらっしゃいます。創始等が分かりませんが、いくつかの神社を合祀したかも知れません。

 ちなみに、「桑名市史 本編」によれば、上野については、「丘陵が東西に横たわり、高知はその南北にある。岡南に員弁街道が通じ、人家はその左右にある。西丘上に一老松樹があって、松平定綱の手植えで俗に御手植松と称し、その下に小社を建て、富士浅間神を祀った。附近は往時眺望絶佳、士庶の遊賞地であったが、数十年前松樹は枯死した。又麓の一冷泉は俗に御膳水と称し、旧藩侯の飲料に供し、混々湧出して水質冷淡、郡中の名所として世に知られ、小径を太夫へ辿って上ったところに庵室冷水庵があり、更に進めば老楠の巨樹亭々として部落を掩うかにみえる、古へ六本楠と呼んで畏怖した古木の名残で今も尚柵内に入ることを忌み畏れる風が伝えられている」と書かれています。という次第で、この記述のあたりを歩いていることになります。

Img_5188c_20210322045201 Img_5184c_20210322045201  上野神社の境内に「留芳碑」というものがありましたが、いったい何でしょう? 「芳」には、①かおり。におい。 ②かんばしい。よい香りがする。③評判がよい。ほまれ。 ④他人の物事に冠する敬称といった意味ですから、どなたかの評判、誉れを讃える碑のように思います。ここで2.9㎞、時刻は8時50分くらいでしたので、一休み。目の前を北勢線が通って行き、なかなかよい景色。北勢線の電車、ノンビリというか、ゆったりというか、そういう感じになります。

Img_5203c_20210320174701 Img_5210c_20210320174701  上野御膳水の方に少し戻り、竹林へ進んで行きます。ここからけっこう登り道。正直、「大丈夫か?」という気もしました。この道でよいのかというのと、竹林は最近、手入れがされていないことが多く、道が通れるのかという2つの意味で、です。上野神社から300mほど、竹林をクネクネと登ったところに、次の目的地である上野墓地があり、ちょっとホッとしました。

Img_5216c_20210320174701 Img_5225c_20210320174701  上野墓地は、「十念寺山」とも呼ばれます。慶長の町割のとき、十念寺は、桑名城付近から伝馬町に移転しました。しかし、面積が不足したため、この一帯を藩主に賜ったといいます。十念寺の歴代住職の墓などがあります。右の写真は、住職の墓。向かってもっとも左のお墓には、「安永八年(1779年)」とありました。

Img_5231c_20210320174701  他にも古い墓がたくさんあり、たとえば、この写真で向かってもっとも右のお墓には、「寛永五年(1628年)」とあり、驚きました。花が手向けられている墓もたくさんありました。墓地というと、気味が悪いと思われる方も多いかも知れませんが、最近の私は平気です。自分のところは、墓はないのですが、どこに誰の墓があるとか、いつ頃の墓か、何が刻まれているかなど興味が尽きないのです。

Img_5239c_20210322065601 Img_5256c_20210322065901  上野墓地からさらに竹林の中の坂道を進んで行きます。竹林は、手入れがされていると、気持ちも良いのでしょうが、このあたりはあまり人の手は入っていないようでした。このあたりで標高は40m前後。アップダウンがかなりあり、息も切れます。スタートから3.3㎞を過ぎたところに冷水庵というお寺が見えてきます。上野のもっとも北の端で、神楽町や太夫との境目あたりになります。

Img_5262c  井坂山冷水庵(いさかさんれいすいあん)があります。曹洞宗。教育委員会の説明板によれば、明暦2(1656)年に茂右衛門が境内地を寄進し、冷水庵を建立したといいます。位牌によれば、海蔵寺3世の剣嶺(けんれい)大和尚が開山し、その弟子である愚白(ぐはく)禅師が開基。海蔵寺の末寺。弘法大師の作という虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ:智慧と功徳が広大無辺である菩薩)を本尊とします。現在の本堂は棟札によれば文化 13(1816)年4月に建てられたもの。

Img_5274c  境内に阿波国出身で桑名藩校進脩館(しんゆうかん)の副教(副校長)をつとめた佐父理希亮(安永3(1774)~文政3(1820)年:さぶりまれすけ)の墓で、亀に乗った「亀跌(きく)」があります。妻の柔は夫が異郷の土地で亡くなり、将来は夫の業績がだれにも知られなくなることを嘆いて、自分の装身具を売り払い、ここに墓を建てたのです。墓石正面には「阿波処士佐父理君之墓」と、また、他の面には希亮の履歴が刻まれています。処士は民間人のことで、彼は正式な藩士に取り立てられなかったと思われます。亀趺は、日本では珍しいのですが、韓国や中国では高貴な人の墓に見られます。傍らには、妻・柔の墓もあります(妻の墓は、写真に向かって左手の奥にあるもの)。正面には「佐父理君妻正木氏墓」とあり、側面には「いもとせの魂のありかはこことしれ、亀のしるしは万代のため  柔女」と記してあります。この話と亀跌という形式の墓のことを知って以来、ここも訪ねたかったところです。

D4fcc24c-1  なお、こうした亀跌については、津市にある結城神社でも見ました(2019年5月10日:20190428近鉄ハイキング「『阿漕』砂浜ハイキングと津グルメ散策」へ(その2)……教圓寺、神明神社、山二造酢を経て結城神社へ)。結城宗広公(ゆうきむねひろ;?~延元3=暦応1(1338))の御墓がそれです(左の写真。平成31(2019)年4月28日、結城神社にて撮影)。

 またもや長くなりました。詳細マップその2をすべて書こうと思いましたが、その2はここまで。その2は、南大山田神社からとします。

【上野神社についての追記(3/29)】 他のことを調べていて、「第17回 北勢線の魅力を探る報告書 再発見!魅力ある北勢線沿線 西桑名駅~星川駅」に上野神社についての説明があるのを見つけました。これによって、私の記事の足らないところを補足します。

 上野神社があるところは、古くは「霞岡」と呼ばれた見晴らしのよい丘陵地。上野村の氏神様。石取祭で有名な春日神社(桑名宗社)は、桑名神社と中臣神社の2社からなっていますが、中臣神社はもともと上野に鎮座していたといいます。神護景雲2(768)年、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮から奈良市の春日大社に建御雷之男神を勧請した際、ここ上野に一時鎮座し、翌神護景雲3(769)年にその鎮座地に創建されたのが中臣神社であると伝わっています。この中臣神社は、正応2(1289)年8月、桑名神社境内に遷座され、上野を離れました。永仁4(1296)年、8月、中臣神社に春日大社から建御雷之男神、斉主神、天児屋根神、姫大神の4柱が勧請されましたのですが、その際には上上野村(現在の桑名市太夫)の若太夫と一太夫が遣わされたとされます。

 その後、中臣神社の旧鎮座地に春日大社の4柱を祭神とする四之宮神社が祀られました。社号は4柱の祭神を祀ることに由来。四之宮神社は 明治に至って村社となっています。明治41(1908)年、合祀令によって上野村内にあった山神社(祭神は 大山津見神)と富士浅間社(祭神は木花咲耶比売命)、繁松新田の一目連神社(祭神は天目一箇命)とともに立坂神社へ合祀されました。戦後、四之宮神社を旧地に戻そうという動きがあり、昭和23(1948)年4月に、現在地へ分祀されています。この時、四之宮神社とともに合祀されていた旧村内3社の祭神もあわせて祀り、社号は上野神社と改められました。

 この年、前年(昭和22(1947)年)に宝殿町で新造した祭車を購入して石取祭を開始しました。しかし、立坂神社での試楽までの参加であったため、青年会を中心に本楽への参加が議論され、平成12(2000)年8あつに春日神社への渡祭が実現しています。

 最近は、自治会が管理しています。

 境内東側の高いところにあった「留芳碑」について。これは、上野村から出征した者を顕彰するも碑で、戦死された方々だけを祀る忠魂碑とは位置づけが異なります。建立されたのは、明治39(1906)年3月。したがって、日清戦争出征者を顕彰することから始まっています。昭和31(1956)3月に太平洋戦争関係の戦死者を刻み加えて現在地に移されました。裏面には日清戦争出征者7名、日露戦争出征者16名(戦死者は2名)、太平洋戦争戦死者16名の名が刻まれています。日露戦争で亡くなられたうちのお一人、山口新次郎は明治38(1905)年2月22日に「黒溝台附近で戦死」しています。同年1月の黒溝台会戦で立見尚文と共に戦ったかも知れません。

 留芳碑の下には特異な形をした大きな岩があり、昭和60年代には、「天狗岩」と呼ばれていたそうです。上野神社の急斜面ではみがき砂を削り取っており、その際に落ちてきたものだそうです。上野神社周辺の丘陵には古くから天狗が住むという言い伝えもあるそうですから、それに因んだものと思われます。丘陵上には 天狗大神2基(ともに昭和56(1981)年12月建立)と山の神、龍神大神の祠が祀られているといいます。

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2021年3月14日 (日)

20210314勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道再び(下深谷~多度)」(完)

Img_1583c_20210314164401  2月27日に、“勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道再び」と題して、桑名市川口町から下深谷まで美濃街道を歩きました(2021年2月27日:20210227勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道再び(川口町~下深谷)」(完))。このルートは、去年3月1日に歩いたところ(20200301勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道を歩く」(川口町~下深谷)(予告編))をもう一度という企画でした。今日は、その続きということで、下深谷から多度までを歩いてきました。同じところを去年も3月6日に歩いています(20200306勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道を歩く」(下深谷~多度)(予告編))。新型コロナウィルス感染症が流行し始め、鉄道会社のハイキング/ウォーキングが軒並み中止となりましたので、「勝手にハイキング」シリーズとして考えたものでした。今回も同級生K氏と二人旅。冒頭の写真は、拙宅玄関先からのいつもの写真。奥に見えている多度山の麓まで行ってきたという次第。今日は風は強かったものの、よく晴れて暖かく、ハイキング日和でした。

7fd3c9a0  こちらが今回のルート。去年3月6日と同じですが、今年2月27日に見残した下深谷の安養寺と、昨年、道を間違えて見られなかった多度・戸津の西田家住宅を見てきた点が異なります。養老鉄道下深谷駅をスタートし、美濃街道をひたすら北上。途中、寺社仏閣、名所旧跡などを見ながら歩いて、7.9㎞。今回の記事は、1回完結の予定。詳細につきましては、上記の昨年の予告編の他、2020年3月8日の「20200306勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道を歩く」(下深谷~多度)(その1)……下深谷駅をスタートし、深谷の町を進む」、3月10日の「20200306勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道を歩く」(下深谷~多度)(その2)……いくつかの地蔵堂、ナマズの徳蓮寺、倭姫命ゆかりの野志里神社を経て、船着社へ」、3月11日の「20200306勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道を歩く」(下深谷~多度)(その3)……戸津の町を歩き、戸津と小山の尾津神社2社にお参りし、多度駅にゴールにて「完」」をご覧ください。

Img_1591c_20210314164401 Img_1600c  養老鉄道桑名駅を8時45分に発車する大垣行きに乗車します。乗車した車両は、右の写真のように「センロク1600系」。元は近鉄名古屋線を走っていたそうです。下深谷までは2駅。¥260。

Img_1607c_20210314164401  下深谷駅には、8時51分着。前回は、ここがゴールでした。ゴールする前に、駅の東にある安養寺にお参りする予定でしたが、下深谷駅のところまで来たら、桑名行きの発車間際でしたので、そのまま電車に乗ってしまったのです。

Img_1628c Img_1612c_20210314164401  大寂堂安養寺は、真宗本願寺派のお寺。下深谷部にあった柳ヶ島(やながしま)城主・安藤左京亮季友が、長島一向一揆で戦死したのですが、その末の息子は近江に落ち延び、その後桑名に戻り、出家して了善となり、安土桃山時代(1580年代)に明寂庵を創建。4代目住職のとき、安養寺に改称しています。境内にあった「鬼瓦由来記」によれば、本堂は、江戸時代後期の1800年頃の建物(第6代住職安藤執網(しゅうこう)のとき)。写真をよく見ていただくと、太い金属棒で支えられているのが分かります。

Img_1649c  安養寺からいったん下深谷駅の方に戻り、駅の北の細い道を線路に沿って進むと、前回、美濃街道から離れた交差点に出ます。左の写真で中央に交差点が見えています。前回は、右手から来て、直進し、養老鉄道の踏切を渡って、深江神社、西林寺、飛鳥寺に向かったところ。今日は、ここを直進(北に向かう)。奥に、わずかに多度山が見えています。

Img_1650c_20210314164301  深谷小学校の手前、JA近くの東側に「和弘(わこう)地蔵堂」。昭和52(1977)年に、幼児の交通事故供養のためにつくられたものだそうです。

Img_1656c_20210314164301 Img_1659c_20210314164301  深谷小学校の北、スタートから800mあまりのところに、高野山真言宗のお寺、御砂山法光寺。由緒、詳細は不明。境内には、稲荷社が、本堂に接続するように建っています。法光寺の背後の丘には、室町時代に三砂城という城館がありました(玉井四郎左衛門)。

Img_1684c_20210314164301 Img_1690c_20210314164301  スタートから1.1㎞を超えたところで、小さな川を渡ります。これが三砂川。日本武尊が東国征伐に行く途中、御衣野(みぞの;桑名市多度町にある地名。草薙神社という日本武尊を祀る神社があります)で休憩したとき、その庭にこの里の五色の砂を奉ったといいます。この三砂川を越えた西側に地蔵堂。もう少し北にあったものが、明治初期にここに移ったといいます。お地蔵様は3体、薬師如来も祀られています。

Img_1714c_20210314164301 Img_1719c_20210314164301  森大明神社(もりだいみょうじんじゃ)。スタートから1.5㎞ほどのところ。勧請年月は不詳。主祭神は、天日方奇日方命(あめのひがたくしびがたのみこと:事代主神(ことしろぬしのかみ)の子)。相殿神は、宇迦之御魂命品田和気命大山津見神天照大神。ここは、かつて堺城があった丘陵の中腹で、北伊勢小島大森大明神といったといいます。ここも、室町時代に城館がありました(片岡掃部頭または深谷監物)。長島願証寺の配下にあり、天正元(1573)年に落城しています。

Img_1728c_20210314164301 Img_1731c_20210314172601  養老鉄道の踏切を越えたすぐのところに2基一対の常夜燈があります。この神社にお参りするには、養老鉄道の踏切を越えていかねばなりません。このあとの明光寺、徳蓮寺も同様。それぞれ専用踏切ともいうべき踏切があるのです。右の写真は、明光寺前の踏切。

Img_1735c_20210314164301 Img_1740c_20210314164301  その明光寺は、真宗大谷派のお寺。北畠氏が奥州の国司の時、北畠顕家が討たれ、その孫・顕道が奥州海老原に妙光寺を建立。北畠氏が伊勢に移ったとき、寺もここに移転し、寺号も改称しています。しかし、それ以上の詳細は分かりませんでした。山号も不明。

Img_1750c_20210314164301  このお寺の山門脇に「天牌奉安地」と刻まれた石碑があります。碑陰には、明治45(1912)年11月に建立されたと記されていました。昨年の記事にも書きましたが、「天牌(てんぱい)」は仏語で、「天子の宝祚ならびに聖寿無窮を奉祷するため、仏本尊前に安置する位牌」。「天子」は、一国の帝王、日本では天皇。「宝祚(ほうそ)」は天皇の位。「聖寿(せいじゅ)」は天子の寿命で、「無窮(むきゅう)」は果てしないこと。明治45年は、7月に明治天皇が崩御されました。大正天皇が即位なさったのですが、わざわざ「明治45年11月」とあるのは、明治天皇に捧げたものなのでしょう。建立者や、位牌を安置したのが誰かなどは書かれていませんでした。境内には、他に、「南無阿弥陀佛」の六字を刻んだ石碑も建っていました。

Img_1759c  明光寺を出てさらに進みます。街道の東西には遺跡もありますが、整備はされていないようですから、立ち寄らず。上深谷部と多度町下野代の境あたりに地蔵堂があります。地蔵堂ですが、阿弥陀立像が祀られています。江戸時代のもの(御堂は、昭和61(1986)年に建立)。阿弥陀立像は、上品下生(じょうぼんげしょう)の印を結び、舟形光背をもった石仏です。仏教における九等級の品位を表すことばに「九品(くほん)」があります。上品下生は、その一つ。

Img_1769c_20210314164301  下野代駅の近く、スタートから2.7㎞ほどのところにも地蔵堂があります。この地蔵堂は、明治4(1871)年に建てられたもの。お地蔵様は、僧形で左手には宝珠、右手には錫杖を持っておられます。蓮台の下の基台には「三界萬霊」と刻まれています。三界萬霊とは、「三つの世界(無色界(むしきかい:心だけが生きている世界)、色界(しきかい:形質だけの世界)、欲界(よくかい:物質欲の世界))、すべての精霊に対して供養することの大切さを示す」こと。

Img_1778c_20210314164301  この地蔵堂に向かって左手に小径があり、それを辿っていくと、養老鉄道線を越えたところに岩井戸、大淀の松株跡を示す石柱、石仏、弘法大師の石像があります。この岩井戸のあたりから扇状地帯の地形、地質の特徴が現れ始め、岐阜県に入ると、壮大な扇状地形を示すことになるのだそうです。石仏は、左の写真で向かって左にあります。板碑(いたび)型に薄肉彫りの石仏。その隣が、弘法大師の石像。向かって右(北側)に建っているのが、「大淀の松株跡」の石柱。岩井戸のそばに巨大な松があったという伝説が消えるのを惜しんだ村人によって明治31(1898)年に建てられたもの。詳細は、昨年の記事をご覧ください。

Img_1784c_20210314164301 Img_1834c_20210314164301  このすぐ北に、無畏野山徳蓮寺真言宗東寺派のお寺。先にも書きましたが、このあたりのお寺、神社は、美濃街道からは養老鉄道の踏切を渡らないと行けないところがたくさんあります。さらに、丘陵の中腹やその上に建っていることも多いのです。徳蓮寺も、右のような階段を登っていかねばなりません。

F106e207  ここは、弘仁11(820)年、弘法大師によって建立されました。ご本尊は弘法大師がつくった虚空蔵菩薩像で、これは7年に一度開帳されます。ちなみに虚空蔵菩薩は、知恵を授けて下さいます。このImg_1805c_20210314164301 寺には、200枚を超えるナマズなどの珍しい絵馬も奉納されています。これは、この寺が明応7(1499)年と、天正13(1586)年の2回の地震で破壊されたのですが、行方不明になったご本尊が、土中からナマズとウナギに守られた状態で見つかったことに由来します。ナマズつながりで、秋篠宮殿下も平成17(2005)年にここを訪ねていらっしゃいます。このお寺は、地元自治会の方が管理していらっしゃいます。今日はたまたま、自治会長さんともうお一方が作業をしていらっしゃったので、ご親切にも本堂を開けて、拝観させていただけました。私は、近鉄ハイキングで訪ねたとき見ています(2018年5月21日:20180428近鉄ハイキング「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」(その4)……徳蓮寺他のお寺を回って、雨尾山飛鳥寺を経て、下深谷駅へゴール(完))。詳細はリンク先をご覧ください。同級生K氏は、大変感激していました(微笑)。

Img_1827c_20210314184601  徳蓮寺では珍しいものを見つけました。墓地に女性が着物を着た座像があったのです。過去2回行ったときには、気づきませんでした。いったい何なのかは、不明。調べる手がかりがあるのかどうかも、よく分かりませんが、記録の意味で載せておきます。もし、何かお分かりの方がいらっしゃれば、是非ともご教示をお願いしたいと思います。

Img_1843c_20210314164301 Img_1839c_20210314164301  野志里神社の手前で踏切から回って、無量山延柳寺。真宗本願寺派のお寺です。天正2(1574)年、比叡山から阿弥陀仏を本尊として授与されましたが、後に真宗に改宗しています。昔は、野志里神社の東にあったのですが、江戸時代に現在地に移転しています。ちなみに、延柳寺近くには、頌徳碑、道標がありますが、今日の記事では割愛します。

Img_1858c_20210314164301 Img_1852c_20210314164301  続いて、野志里(のじり)神社。式内社。垂仁天皇の御代の創祀といわれます。倭姫命が天照大神を奉じて、ここ桑名郡野代 宮にお着きになり、4年間この地で宮居を造られたと伝わるところです。倭姫命は、その後伊勢に遷幸され、その野代宮の跡に本社が創祀されたといいます。主祭神は、天照大神。相殿神は、建御雷神天児屋根命経津主神ほか。境内には、「千人塚」や、「伊勢神宮御旧蹟野代之宮」という石碑などがあります。千人塚は、長島一向一揆の時、法泉寺の空明が、農民たちと力を合わせて織田信長の軍と肱江川を挟んで戦っています。生き残った空明が戦死者の首を集めて篤く葬ったのが、この千人塚です。その後、関ヶ原の戦に負けた西軍の兵士の霊も慰めたといいます。さらに、一説によると、関ヶ原の戦いの時に、薩摩藩兵が多数、ここ美濃街道を通ったため、境内が東西に二分されたそうです(当時、美濃街道は、神社の東側を通っていたといわれます)。

Img_1862c_20210314185501  Img_1874c_20210314164201 スタートから4.3㎞あたりで肱江川に行き当たり、肱江橋を渡ります。多度町肱江を通り、戸津へと進んでいきます。このあたりまで来ると、多度山が間近になります。肱江橋を渡ると、肱江川の堤防から階段で降りて、水田の中を通ります。美濃街道は、一部途切れてしまっていて、迂回。本来の美濃街道に戻る手前に菜の花の群生。去年はもっと見事でした。

Img_1896c_20210314164201 Img_1899c_20210314164201  5.3㎞地点のすぐ西に船着社があります。多度神社別宮の一目連大神が、度会郡山田郷よりの帰りに舟で当社附近に着かれたので舟着社と云うと伝えられています(こちら)。主祭神は、表筒男神、中筒男神、底筒男神(以上は、いわゆる住吉三神)、大山津見神火之迦具土神。相殿神は、天津日子根命気吹戸主命(いぶきどぬしのみこと;祓戸大神(はらえどのおおかみ)の一神。払戸大神とは、神道において祓を司どる神で、祓戸(祓所、祓殿)とは祓を行う場所のことで、そこに祀られる神)。。また、この近辺は尾津浜、尾津崎等の小字のとおり、木曽三川の川岸であったため附近の人々が氏神として舟着社の社名で海神を奉斎したとも伝えられているそうです。今は、揖斐川まで2.5㎞ほどあります。

Img_1920c_20210314164201 Img_1929c  船着社の先でスタートから6㎞ほど。県道26号線の下をくぐって桑名市多度町戸津に入ります。去年の勝手にハイキングでは、この戸津に入ってから、道を間違えました。「街道」というと、東海道、伊勢街道などを思い浮かべ、もっと道幅が広いイメージがあったのがよくなかったのでしょう。戸津あたりの街道は、これらの写真のような感じで、とても街道とは思えない細い道があります。

Img_1935c_20210314164201  西田家住宅。戸津村の庄屋を代々世襲されたお宅です。長屋門と塀を見るのは、去年からの念願でしたが、2年越しに実現。明治生まれの第11代当主・喜兵衛は、宝暦治水(宝暦4~5(1734~35)年の顕彰に生涯を捧げ、「宝暦治水之碑」建立に尽力しました。宝暦治水の当時の西田家当主は、桑名藩松平家の領分桑名郡北部地方の代官職であったことから、工事に深い関心を寄せ、自ら進んで住居を薩摩藩士の宿所に提供するなど、治水工事にも参与し、助言していたそうです(こちらを参照)。

Img_1959c_20210314164201 Img_1965c_20210314164201  西田家住宅を見てからは、まずは多度川まで。美濃街道はさらに続き、岐阜県境までは、1㎞あまり。岐阜県(美濃国)に入ると、伊勢街道と呼ばれていたようです。多度町内の美濃街道は調べが付いていますが、その先が確認中。K氏とは、美濃国に入って、大垣まで行くと、道中さらにいろいろあるなという話をしています。

Img_1970c_20210314164201 多度川から戻って東へ。尾津神社に向かいます。尾津神社は、実は、3社あります。戸津、小山、御衣野の3箇所です。これは、戸津の尾津神社。尾津というところは、倭建命が東国遠征の時、尾津崎に立ち寄り、松の木の下で食事をされ、松の木に太刀をかけて置き忘れて立ち去られたといいます。東国遠征を終えての帰途、ここに立ち寄ったところ、松の木にかけた剣が、そのままであったのを見て、感激のあまり歌を詠んだと伝わっています。その和歌は、古事記にある「尾張に直に向える 尾津前なる一つ松吾兄を 一つ松人に在りせば 太刀佩けましを衣着せましを 一つ松吾兄を」です。なお、尾津崎で休んだとき、もう一振の太刀を持って居られ、それが伊勢神宮で伯母倭比売命から与えられた剣である草薙剣(現在、名古屋の熱田神宮に祀られています)。

Img_1989c_20210314164201 Img_1992c_20210314164201  延喜式内社。戸津区の氏神様。御祭神は倭建命稚武彦命(わかたけひこのみこと:第7代孝霊天皇皇子で、吉備臣(吉備氏)の遠祖)、足鏡別命(アシカガミワケノミコト:倭建命の子)、品陀和気之命(応神天皇)宇賀魂神天照大神。倭建命の歌碑があるというのですが、去年は見忘れ。稲荷社に行く途中にある石碑2基のうち、向かって右(右の写真)のものではないかと思います。向かって左は頌徳碑でした。文字ははっきり読み取れませんが、境内をあちこち見て回った結果、こういう結論。他にも句碑などがありますが、それらについては去年の記事をご覧ください。

Img_2011c Img_2014c  こちらは、小山の尾津神社。戸津の尾津神社から300mほど西に行ったところにあります。主祭神は、倭建命と足鏡別命。相殿神は、大山津見神のほかに、不詳のご祭神。こちらも延喜式内社と称し、戸津の尾津神社と同様に、倭建命の伝説の地とされています。小山の尾津神社の境内には、西南戦争で亡くなった方を顕彰する石碑があります。「紀念碑」と題され、小山に在住の小林源三郎という方が、徴兵され、明治以降、旧多度村で最初の戦没者となったことが記されています。これについても、去年の記事をご覧ください。これで、今日の目的地は、コンプリート。養老鉄道多度駅に向かいます。

Img_2037c_20210314164201  養老鉄道多度駅には、12時45分頃到着。下深谷駅を出て、7.9㎞。小山の尾津神社を出て多度駅に向かっている途中、桑名行きの電車が通って行くのが見えました。これは12時42分発。逆立ちしても乗れません(苦笑)。次は、13時22分発。まぁ、急ぐわけではありませんので、待合室で待機。

Img_2048c_20210314164201 Img_2041c_20210314164201  13時22分発を待って、乗車。D21編成というそうです(こちらを参照)。平成4年に、当時の近鉄養老線に導入された車両で、養老線初の冷房電車だったようです。桑名までは¥310、13時38分着。今日は、途中、徳蓮寺で30分ほど休憩したのですが、下深谷駅からは3時間50分をかけて歩いてきたのに、桑名まで16分で着いてしまうとは(爆)。

Img_2059c_20210314164201  いつものように、桑名駅近辺で食事をして帰ろうということにしたのですが、危うく、昼食難民になりそうでした(苦笑)。駅前、飲み屋さんは多いのですが、ランチ営業をしているところは少なく、営業していても、ランチは14時まで、13時半にオーダーストップというところが多いのです。マンションが林立しているのですが、商業ビルを誘致して欲しかったと思います。その意味で、桑栄メイトは貴重でした。結局、サンファーレにあるなないろ珈琲へ。ごくたまにやって来ます。といっても一人ではなく、友人来訪、来客、面談などのとき。

1615698442240c Dsc_0069c  チョイスは、牛すじカレーランチ。サラダ、ドリンク付きで¥980。ここは、珈琲はもちろん、紅茶も美味しいお店。食べ物は、カレー、サンドイッチなどがあります。以前、カレーを食べて美味しかったので、今日もカレー。牛すじを煮込んであり、絶品。これが¥980とは、値打ち。ちなみに、このお店で初体験がありました。それは、右の写真。透明アクリル板製のパーティション(というのでしょうか?)。GoToEatに参加する飲食店では、守るべき感染症対策の1つになっているようです。

Img_2068c_20210314164201  本日の歩数は、こちら。いつものスマホのアプリ「ALKOO」で、20,970歩。現地で歩いたのが7.9㎞、桑名駅往復が2.5㎞(ランチを求めて歩き回りましたので、若干多い)、合計10.3㎞。よく歩きました。ということで、今日の勝手にハイキングは、去年も歩いたコースですので、1回完結。長くなりましたが、ご容赦あれ m(_ _)m

Img_2031c_20210315064101 【書き忘れたことを付記(3/15)】 下深谷あたりでは、美濃街道の西の丘の藪から、何ヶ所かでウグイスのさえずりが聞かれました。今シーズン初めてでした。ただし、まだまだ練習が必要な鳴き方です。また、街道沿いではあちこちでさまざまな花が楽しめました。梅、サンシュユ、菜の花、ハクモクレン、シモクレン、などなど。写真は、その一つ、レンギョウと思います。

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2021年2月27日 (土)

20210227勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道再び(川口町~下深谷)」(完)【飛鳥寺廃寺跡について付記しました(3/1)】

 朝は風が冷たかったものの、次第に風も弱まり、暖かくなりました。ほぼ1年前に、新型コロナウィルス感染症によって、JRさわやかウォーキングや、近鉄ハイキングが軒並み中止となったため、「勝手に養老鉄道ハイキング」を企画し、桑名の美濃街道を歩きました(20200301勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道を歩く」(川口町~下深谷)(予告編)20200306勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道を歩く」(下深谷~多度)(予告編))。今回、同級生K氏と、昨年と同じルートをもう一度辿ることとし、今日は、川口町から下深谷までを歩いてきました。

Mino  こちらが、今日のコース。昨年3月1日と同じです。美濃街道は、七里の渡しから東海道を南へ160mほど下ったところ、川口町Img_5029c と江戸町の間の三叉路が起点となります。ここから三崎通、参宮通、国道1号線、上之輪、深谷と進みます。今日は、養老鉄道下深谷駅をゴールとし、マップ上6.3㎞の距離。

Img_5035c_20210227155501Img_5032c_20210227155501  これは、お馴染み七里の渡し跡。いつもの散歩コースです。ここから南に向かって東海道が延びています(右の写真)。このあたりもたまに歩くところです。

Img_5041c_20210227155501  上述のように七里の渡し跡から160mほど行ったところに歌行燈本店があります。ここが美濃街道の起点です。9時にスタートしたのですが、次に行く前にいきなりの余談。

Img_5044c_20210227155501 Img_5047c  この三叉路のところに「通り井跡」があります。桑名では地下水に海水が混じるため、寛永3(1626)年に町屋川から水を引いた水道をつくり、町内の主要道路の地下につつを埋め、ところどころの道路中央に正方形のマスを開けて、一般の利用に供しました。これが「通り井」。ここは、昭和37(1962)年、工事のため道路を掘っていて、通り井の跡の一つがみつかったところ。道路面には「井」と書いた石が埋められています。

Cca076f9 Img_5062c_20210227155501 スタートして西に向かい、370mほどのところに、三崎見附跡(今日は写真を撮り忘れましたので、これは去年のもの。他にも過去の写真を用いたものがあります)。多度や美濃国への出入り口として、番所と三崎門があり、また、寺の開帳や芝居・相撲の開催を告げる立て札が立てられるところでもあったといいます。その先、750mで(スタートから、以下同じ)北桑名神社。我が家の氏神様ですが、天照大御神建速須佐之男命の他、持統天皇も祀っています。明治41(1908)年、宝殿町にあった佐乃富神社を合祀したのですが、佐乃富神社が、壬申の乱のとき、後の持統天皇が滞在された桑名郡家であると伝わっています(由緒書による)。

8c32c2f3 Dsc00374  北桑名神社のすぐ先で追分に行き当たります。かつてここには、常夜燈と道標がありました(右の写真)。美濃街道は、左の写真で向かって右の細い道(福島縄手といわれました)。左の道は八丁畷といわれ、久松松平家の墓所がある東海山照源寺に続いています。常夜燈は、安政3(1856)年の建立。400人ほどが寄進を行い、現在も桑名で営業している店の屋号も刻まれていました。道標(弘化4(1847)年建立)には、「右 みの 多度道」「左 すてん志ょみち」とありました。美濃街道はこの先、スタートから1㎞のところで国道1号線と重なります。

Img_5067c_20210227155501 Img_5070c_20210227155501  美濃街道が国道1号線に重なるところに「参宮国道碑」があります。大正時代まで、木曽・長良・揖斐の三大川は渡船に頼っていました。そこに橋を架ける運動が進むとともに、「東海道国道」が新しくつくられました(現在の国道1号線)。町屋橋から伊勢大橋までの3.87㎞は、昭和6~7(1931~32)年にかけて、当時のお金で55万円でつくられたそうです。その竣工記念として西桑名町(当時)によって建てられたのがこの碑。ここから立代町あたりまで、700mほど、国道1号線を行きます。

Img_5088c_20210227155501 Img_5095c_20210227155501  立代町交差点で1号線から離れ、大山田川に向かいます。スタートから2㎞ほどのところに桑北山西浄寺。もとは、北河原葬所の境内の庵でした。お寺という感じの建物ではありません。右の写真は、六地蔵。元禄3(1690)年のもの。六地蔵は、地蔵菩薩の6分身。生前の行為の善悪によって、人は死後、地獄、畜生、餓鬼、修羅、人、天という六道の境涯を輪廻、転生するとされますが、そのそれぞれに、衆生救済のために配される檀陀、宝印、宝珠、持地、除蓋障、日光の6地蔵をいいます。

Img_5085c  さらに、ここには、釈迦如来立像と六字名号碑があります。写真の向かって左が、釈迦如来立像。去年来たときは、この釈迦如来立像のきちんとした写真を撮り忘れたのです。これは、嘉永2(1849)年のもので、美濃街道沿いにあったものを昭和10(1935)年に移動しています。六字名号碑は、天保12(1841)年のもので、これももとは街道沿いに建っていたのですが、昭和4(1929)年にここに移動したそうです。

B5357cfa Img_5103c_20210227155501  西浄寺の先で大山田川を渡ります。美濃街道のルートには、現在は、人自転車専用橋が架かっています。このあたりは、冬にときどきバードウォッチングに来るところ。カワセミ、ウグイス、メジロ、ホオジロ、オオジュリン、アオジなどがいます。

Img_5109c_20210227155501 Img_5117c_20210227155501  橋を渡ってすぐに上之輪神社(神明社・縣社・多度社)。主祭神は、天照大神。相殿神は、天津日子根命(あまつひこねのみこと)と天穂日命(アマノホヒノミコト)。この上之輪神社あたりに中江城があったとされます。戦国時代の豪族・中江(あるいは森)清十郎が居城しました。長島一向一揆の時には、5大拠点の一つで、最後まで抵抗した砦です。多数の人が立て籠もったところを焼き払われたと伝わっています。現在は、城の遺構は認められません。

Img_5119c  上之輪神社(2.3㎞地点)を過ぎると、深谷までは見るところ、立ち寄るところはありませんので、ひたすら歩くのですが、近鉄、JRの線路が見えるところに出たら、近鉄特急ひのとり(名古屋行き)。どうも予定しないときに遭遇することがよくあります。この先は、東名阪道・桑名東インターに抜ける道で、クルマがたくさん通ります。

Img_5146c_20210227155501Img_5163c_20210227155501  美濃街道は、桑名東インターの下をくぐって、深谷に入ります。スタートから5㎞ほど来たところの東に稲荷社があります。去年も立ち寄りました。あれこれ推測したのですが、同級生K氏の話その他で、もう少し詳しいことが分かりました。個人の方がご自宅の敷地内に勧請した稲荷社でした。この方は、ここのすぐ目の前で商売をしておられたのですが、大変信仰心の篤い方でいらっしゃったようです。ここで、歩き始めて1時間あまり。近くにあった高砂公園(右の写真)で小休止。

Img_5169c_20210227155501 Img_5172c_20210227155401  稲荷社のすぐ先には、真宗大谷派の深江山南楽寺(ふかえざんなんらくじ)が西に見えます。平安時代初期の天長元(824)年に天台宗の僧院として建立されましたが、織田信長の伊勢侵攻の時、兵火で焼失し、再建後、浄土真宗に改宗しています。以前は、深江山阿弥陀寺といい、正保2(1645)年にここに移ってきたそうです。

Img_4668c_20210227175901 Img_4672c_20210227175901  南楽寺には、頌徳碑が1基あったのですが、黒ずんでいて判読困難でした。帰宅後、「桑名市史 補編」にある「第7章 主要墓碑集覧」をチェックしたところ、「南楽寺」のところに載っていました(p.456)。調べてみるものです。題額には「頌徳碑」。「宇野智賢頌徳碑 山脇春樹題額 花山大安撰、 江東子 原雪堂書 大正九年八月建立」とあるそうです(ちなみに、この主要簿費集覧は、照源寺に碑があった平岡潤によるもの。2021年2月5日:20210201勝手に養老鉄道ハイキング「桑名駅西歴史散歩」(その3)……円妙寺、照源寺から専明寺まで)。山脇 春樹(やまわき はるき、明治4(1871)~昭和23(1948)年)は、農商務・内務官僚、教育者。官選県知事。大正8(1919)年4月から大正11(1922)年9月まで三重県知事。花山大安(元治元(1864)~昭和11(1936)年)は、花戸山遍崇寺(へんそうじ)(東員町中上)の第10世住職。真宗大谷派。明治21(1888)年住職に就任、明治29(1896)年真宗京都中学校教授となり、同44(1911)年に大谷大学教授となっています(こちら)。肝心の宇野智賢は、今のところ不明。原雪堂も同様。

31eb1ab7 Img_5182c_20210227155401  去年は、この先にある末広屋さんでみたらし団子を買ってくるようにという司令があったのですが、今年はパス。醤油だけの味付けで私好みなのです。末広屋の先で流石川に突き当たり、美濃街道はここで左折し、西に向かうのですが、この曲がり角、流石川の右岸に地元の方が「角の地蔵」と呼ぶ地蔵堂があります。「地蔵」といいながら、祀られているのは、如来様。ただし、「くわな史跡めぐり」には「薬師如来」とあるのに、「みえの歴史街道ウォーキングマップ」には「阿弥陀如来」とあり、詳細は不明。

4c044825  深谷の町を進み、美濃街道は、深江神社や養老鉄道の東のあたりを北上するのですが、街道歩きは、今日はここまで(左の写真の交差点)。去年同様、ここで左折して(写真で左手に向かう道へ)、深江神社に向かいます。

Img_5185c_20210227155401  深江神社。深江(ふかえ)はこのあたりの古名。勧請年月は不詳ですが、延喜式神名帳に「伊勢国桑名郡深江神社」とありますので、いわゆる「式内社」と考えられます。ここも、織田信長の伊勢侵攻の時、兵火に焼かれました。桑名藩主・松平定勝の子・定実(さだざね)が深く信仰し、元和8(1622)年、社殿を寄進し、現在に至るといいます。主祭神は、天之菩毘能命(アマノホヒノミコト)と、天照大御神。相殿神は、宇迦之御魂神大山津見神武三熊之大人(たけみくまのうし;『古事記』では建比良鳥命(たけひらとりのみこと)とされます。

Img_5195c_20210227155401  深江神社のすぐ西には、西林寺。現在は、真宗本願寺派ですが、永正6(1509)年、北廻城主・近藤家教が父の菩提を弔うために創建しました。当時は、禅宗の済林寺。天正2(1574)年、本願寺第9世実如上人(蓮如上人の5男;「御文(おふみ)」を布教の指針としました)により、真宗に改めました。織田信長の伊勢侵攻の時、焼失し、後再建されています。

Img_5198c  この西林寺の裏山あたりが、北廻(きたはざま)城址といわれます。織田信長の侵攻によって滅ぼされましたが、北廻城は堅固な城であり、信長勢(滝川一益)も攻めあぐねて、ついにトンネルを掘って、地下から攻め登ったといいます。籠城したのですが、水がなくなったのを知られないため、馬を洗うのに白米を用いました。遠目には水に見えたからです。これによって「白米城」とも呼ばれました。北廻城主であった近藤氏の子孫が、この西林寺の住職になっています(こちら)。

Img_5227c_20210227155401  西林寺から、桑名北高校の裏手を通って、雨尾山味光院飛鳥(ひちょう)寺。東寺真言宗のお寺。ご本尊は、十一面観世音菩薩。伊勢西国三十三ヵ所観音巡礼の第32番札所。延暦13(794)年、大和国生駒山周辺から黄金の花瓶(けびょう;十一面観音の持物;華瓶とも書く)をくわえた霊鳥が、現在地より2km山中の坊ケ谷に飛んで来て、美声にて仏法を説いたといいます。その噂を聞きつけた弘法大師が来山し、霊鳥が十一面観音に変化したそうで、弘法大師は、早速、感得されたお姿を一刀三礼して等身大の御尊像を刻み草庵に安置し、霊鳥が飛来した寺という事で「飛鳥寺(ひちょうじ)」と名付けたことに始まります。最盛期には、寺域一里半、寺領千石、12の坊舎が並ぶ密・律・禅の名刹となっています。しかし、ここもご多分に漏れず、元亀2(1571)年、織田信長の伊勢長島の一向一揆攻略により全山灰燼に帰し、小堂一宇を残すのみとなりました。その後、寛永12(1635)年、桑名藩主松平定網公が、眼病平癒祈願のため参籠し、その満願の夜に、観世音菩薩の花瓶より滴る霊薬水で洗眼する夢をご覧になられ、忽ちに平癒したといいます。定綱は供料田を寄進し、また、万治3(1660)年には定重から年々の祈願料が寄進されました。元禄年間、桑名藩家臣・南條三太左衛門宗親が、念持仏として地蔵菩薩を得て、それを奉安しています。山号については止雨のみならず、雨壷という古い陶器の壷があり、旱魃の時にこれに水を滴らすと忽ちに降雨したので、「雨尾山(あまおさん)」と呼ばれています。

Img_5230c_20210227155401  明治2(1869)年、参詣に不便ということで本堂及び地蔵堂が現在地に移転。木曽三川を眼下に、名古屋市街、濃尾平野、遠くは木曽御嶽山が、一望できる眺望絶佳の高台にあります。こちらがその眺め。平成29(2017)年末にNHKで放送していたドラマ「マチ工場のオンナ」のロケ地の1つです。ちなみに、去年来たときには、桑名北高校の裏手から、この飛鳥寺の墓地あたりにニホンザルがたくさんいたのですが、今年はまったく見当たりませんでした。

Img_4851c_20210227182801  飛鳥寺にも招魂碑らしきものがあり、去年の段階では調べが付きませんでした。「桑名市史 補編」「第7章 主要墓碑集覧」の「飛鳥寺」のところにありました。(pp.456~457)。これは、「忠魂碑」でした。日清・日露両戦争での戦没者9名のための忠魂碑で、あの立見尚文の篆額幷書の詩があります。「鮮海之浜満州之岡 山裂海湧虎吼龍驤 破清砕露我武燿揚 維忠維義万古流芳」。

Img_5260c  このあと、下深谷駅の東にある安養寺にも立ち寄るつもりでしたが、下深谷駅まで来たら、12時7分。次の桑名行きは12時12分、その次は12時52分でしたので、今日はここまで。安養寺は、次回のスタートの時にということにしました。スタートからほぼ3時間、コースマップ上は6.3㎞を歩いてきました。

Img_5268c_20210227155401 Img_5264c_20210227155401  12時12分発の桑名行きに乗車。桑名までは¥260。さらに、桑名着は何と12時18分。3時間かけて歩いてきたのに、電車ではたったの6分で到着。笑えます。

Img_5276c 1614397570497c  例によって例の如く、せっかく出て来ましたので、お昼は外食。サンファーレの北や東のエリアを探索して、「とんかつ銀座」へ。トンカツランチ(¥1,000)をチョイス。いつもながら、家ではなかなか食べさせてもらえないもの(苦笑)。前回(2021年2月 6日:20210206桑名の八風街道を行く(能部から志知へ)(予告編))、桑名駅にある伊勢ノ国ダイニングSicili(シチリ)で食べた「とろアジフライランチ(税込み¥980)」はボリュームがあり過ぎましたが、今日は、適量(微笑)。

Img_5291c_20210227155401  ALKOOによる歩数データは、17,545歩。実際に歩いたのは、我が家からスタート地点までと、桑名駅から帰宅までを含めて、9.2㎞でした。

Img_5272c_20210227155401  桑名駅で養老鉄道のホームから、元の駅舎があったあたりの写真を撮ってきました。すっかり様変わりしています。

Img_5211c_20210227155401  余談を少しだけ。深谷の町を歩いているとき、我々よりも高齢の男性から、「何かの調査をしているんですか?」と訪ねられました(微苦笑)。自作コースマップを持ち、リュックを背負って歩いていますが、そんな風に見えるのでしょうか。また、あるお寺では、「どちら様ですか?」と不審そうに誰何されました。これからは、「街道歩き」といったゼッケンでもつくってつけて歩いた方がよいか、という気もします(爆)。

 今日の「勝手にハイキング」はこれにて完結。立ち寄り先の詳細については、昨年の記事をご参照ください。

Img_5693c 【付記(2/28)】 「通り井」についての付記。三崎見附跡と寺町交差点の間に写真のような案内板があります。もとは、「久波奈名所図会」に載っていた絵。「通り井」の様子を示したものです。

Iseki 【付記(3/1)】 飛鳥寺の元の位置について、桑名市教育委員会の文化財のサイトにありましたので、追加します。現在地よりも約2㎞西にある「坊ヶ谷」というところです。

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2021年2月 4日 (木)

20210201勝手に養老鉄道ハイキング「桑名駅西歴史散歩」(その2)……秋葉三尺膨大権現、尾畑山城跡、立坂神社旧蹟から円妙寺墓地で松平定良公墓所へ

210201ekinishi2  2月1日の「勝手に養老鉄道ハイキング『桑名駅西歴史散歩』」のその2です。その1では、播磨を出発して、北別所神明社、北別所中世墓を経て、高塚第三公園から高塚山古墳に登ろうとして、途中で断念。竹林にある式部泉のあたりを通って、土佛山聖衆寺まできました。その2は、この聖衆寺の奥の院でもある、秋葉三尺膨大権現からです。

Img_2534c_20210202203501Img_2550c_20210201192701 聖衆寺の本堂に向かって右手に秋葉三尺坊大権現へ上がっていく階段があります。かなり急な階段。左の写真の上にさらに階段があるのです。私より年配の男性が、手すりにしがみつくようにして降りてこられます。笑えません。「明日は我が身」という気がします。

Img_2595c  こちらが秋葉三尺坊大権現の本殿。伝承によると、三尺坊という信濃出身で、越後の栃尾蔵王堂所属の修験者がいました。秋葉山(浜松市天竜区の天竜川中流左岸にある山。別称「あきばさん」。標高885m。頂上には古くから火伏せの神をまつる秋葉神社があります)に一千日参籠し火生三昧(かしようざんまい:身から火炎を出す三昧で、身から火炎を出し、その火でいっさいの悪魔、煩悩を焼き尽くすというもの)の法を修し、神通不思議の験力を得、飛行昇天したので、秋葉山に合祀し、秋葉三尺坊というようになったとも、秋葉山に大火が発生した際に三尺坊が現れ、火生三昧を修して猛火を止めたことにより火防鎮守としてまつられたとも伝わっています。ここに祀られた経緯については調べが付きませんでしたが、毎年4月17日に行なわれる秋葉大祭火渡り神事は、明治元(1868)年より続いています。

Img_2559c_20210203041401  この秋葉堂には、天手力雄命(アマノタヂカラオノミコト:天照大神の隠れた天の岩屋の戸を手で開けた大力の神)、天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと:天照大神に天岩戸から出てもらうことを考え、成功させた神(ちなみに、思兼神(おもいかねのかみ)とは、多くの思慮を兼ね備えた神、深く思慮する神)、妙音楽天女(みょうおんがくてんにょ:弁才天(べんざいてん:インド神話で、河川の女神。音楽・弁舌・財福・智慧の徳があり、吉祥天とともに信仰されました。仏教・ヒンズー教に取り入れられ、ふつう琵琶を弾く天女の姿で表されます。日本では財福の神として弁財天と書かれるようになり、七福神の一として信仰されています)の異称。美しい音楽を奏するところからこの名前)、天表治命(あめのうわはるのみこと:天八意思兼命の子)、九頭竜大神(くずりゅうのImg_2565c おおかみ:戸隠山の地主神)、地蔵大菩薩、秋葉三尺房大権現、聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ:七観音(千手・馬頭・十一面・聖・如意輪・准胝・不空羂索)または、六観音(七観音のうち不空羂索を除く)の一つ。普通、観音といった場合は、聖観世音菩薩をさします。左の手に蓮華(れんげ)を持ち、右手を開いた形をし、衆生を救済するために種々の身を現ずる大慈大悲の菩薩)、恵比須神(えびすがみ:七福神の一つ。蛭子神(ひるこのかみ)とも、事代主命(ことしろぬしのみこと)ともいわれます。風折り烏帽子に狩衣(かりぎぬ)、指貫(さしぬき)を着け、釣りざおで鯛を釣りあげている姿をしており、商家の福の神として祭られることが多くあります)、大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん:頭は象、身体は人間の姿をした仏法守護神。もとインド神話の魔王で、のち仏教にとり入れられたもの。単身像と双身像とあり、双身像は、男神と女神とが抱擁する姿をとることが多い。夫婦和合・子宝の神として信仰されます)、大日大聖不動明王(だいにちだいしょうふどうみょうおう:仏教守護の明王。無動尊・無動使者・不動尊とも呼ばれます。明王中の最高とされ、忿怒(ふんぬ)の姿で火焔の中にあり、右手に剣、左手に索縄を持ち、心の内外の悪魔を祓います)、大黒天(だいこくてん:もとインドで破壊を意味する暗黒の神。密教では、大自在天の眷(けん)族として三宝を守護し、飲食をつかさどる神となり、忿怒(ふんぬ)相を示す。寺の厨房などに祭られました。日本の民間信仰では、大国主命(おおくにぬしのみこと)と同一視されて広く信仰され、恵比須とともに福徳の神とされます。七福神の一で、米俵の上に乗り、頭巾をかぶり、打ち出の小槌を持ち、大きな袋を肩に担ぐ像で知られています)および毘沙門天(びしゃもんてん:四天王の一神で、北方の世界を守護します。一般に右手に宝棒、左手に宝塔をもつ姿で表され、財宝を施す神として施財天ともいわれます。七福神の一。常に仏法の道場を守り、日夜、法を聞くので多聞天(たもんてん)ともいう)が祀られています。いつも通り、神様などを調べたのですが、たくさんいらっしゃり、大変でした(苦笑)。これだけたくさん祀られているには、理由があると思うのですが、私にはとても理解が及びません。

Img_2574c_20210203050101 Img_2580c_20210203050101  境内には他にもいろいろとあります。まずは、正一位福寿稲荷大明神。「正一位」は、お稲荷さんには必ずといってよいほど書かれていますが、最高位の位階。京都の伏見稲荷大社が正一位を授与されたことから、各地の稲荷もそのように称しているという話を読んだことがあります。他のお稲荷さんも、由緒が分からないことが多いのですが、この福寿稲荷大明神も同じ。

Img_2618c_20210203050601 Img_2598c_20210203050601  拝殿に向かって左手前には、小さなお社とお地蔵様。どちらもその名前などは掲げられていません。同じく拝殿に向かって右側には、「秋葉権現堂由来記」があります。伊藤文助翁という桑名南魚町の人(大正6(1917)年12月、77才で亡くなる)が勧請した旨のことが書かれていました。勧請年月については、記されていません。碑は昭和19(1944)年4月に建立。

Img_2625c_20210203075601  奥の院は高台で見晴らし良く、往時は景勝地として憩いの場所であったと伝えられていまImg_2628c_20210203075801 す。実際、聖衆寺からここまでの階段を登り切ったところから東を見ますと、左の写真のような眺望が広がっています。今ほど木々が生い茂っていなければ、揖斐・長良川から伊勢湾まで見えるでしょう。ズームアップすると、右の写真のように、長良川河口堰や、名古屋駅前の高層ビル群まで望めます。

Img_2632c_20210201202201  また、もう少し右に視線を向けると、この写真のように、桑名市街地のマンションの奥には、名港トリトンまでよく見えます。蟠龍櫓も見えていますので、今はマンションの陰になってしまっていますが、桑名城なども見えたと思われます。景勝地であったであろうことがよく分かります。

Img_2656c_20210203081401  聖衆寺に降りて来て、次の目的地に向かいますが、ここ聖衆寺に来たのは2回目(2006年2月11日:標高88.62メートル)。まだ、その山号の由来となった土佛を拝観したことはありません。是非その機会を得たいもの。

Img_2661c_20210203081801  スタートから3.2㎞ほど、照源寺霊園の西まで来ました。コミュニティバスの北別所バス停のところに道標が1基建っていました。「右Img_2665c_20210201192701  土佛山 左 西方(にしかた)」とあります(西方は、ここから西へ1㎞あまりのところの地名(イオン桑名があるあたりですが、現在は、新西方となっています。また、これから行く大福田寺、円妙寺、照源寺などは「東方」)。石碑には、「東京 多賀源」とも刻まれています。この向かい側(東北側)に小高い丘というか、山というかがあります。ここは、尾畑城跡(おばたじょうせき)。ただし、今は私有地になっていますので、入れません。ここには、やはり15年ほど前に来ています(2006年1月9日:尾畑城跡を求めて6.5㎞)。史料には、田辺伊勢丸が居城したとありますが、築城時期など詳細は不明。中世の城館跡で、土塁を巡られた方形の曲輪が残っているといいます。

210201ekinishi3  その先、照源寺墓地の角を右折し、南へ。県立桑名高校の方へ進みます。さらに、桑陽(そうよう)保育所に向かいます。ここの敷地内に立坂神社旧蹟があるのです。このあとは、円妙寺墓地、大福田寺、円妙寺と回り、北に向かって、照源寺を目指します。照源寺は、私が好きなお寺で何度も訪ねています。

Img_2671c_20210201192701 Img_2686c_20210201192701  市立桑陽保育所の敷地内にある立坂神社旧蹟。元はこのあたりを田宮村といい、その産土神である「高野御前」を祀ったそうです。海善寺の僧が修行に出る時、道中安全を祈願して草鞋を供えたので、草鞋(わらじ)社とも呼ばれました。ここにあった立坂神社は、尾野神社に合祀されています(新矢田にある立坂神社は、もともと矢田八幡社と称しており、明治以後、式内立坂神社と称しています)。実は、この立坂神社旧蹟、桑陽保育所の敷地内にあるはずと思って行ったのですが、なかなか見つけられず、ちょっと苦労(右の写真が桑陽保育所。立坂神社旧蹟は、写真の右端にあります)。というのも、石碑は西向きに建っているのですが、この裏手から西に向かって歩いていたので、木陰になっていて見えず、通り過ぎてウロウロしたという次第。

Img_2697c_20210201192701  続いて、県立桑名高校の北を通って、円妙寺(えんみょうじ)墓地へ。桑名藩6代藩主・松平定良(1632~1657)とその正室養仙院の墓があります。

Img_2709c_20210201192701Img_2713c_20210203090101  定良公は明暦2(1656)年に病となり、有馬温泉で治療しましたが、翌明暦3(1657)年7月18日、桑名への帰路、京都で26歳の若さで客死しています。日蓮宗を信仰したので、松平家の菩提寺照源寺とは別に、円妙寺が創建され、ここに葬られました。法名は、光徳院円妙日法大居士。霊廟は墓地の奥(北隅)に東面し、石廟造りで、正面4mの光徳院殿が松平定良公、その後方右から一安院は殉死堀田一可、法性院は殉死多賀道次、蓮心院は殉死長瀬政直で計4基。霊廟は、荒廃して石垣が崩れ、樹木雑草に蔽われているのは、残念。円妙寺はもともとこの墓地の東北あたりにあったといいます。

Img_2727c_20210203090101  こちらは、正室養仙院の墓。墓地よりやや斜面を下がった東側に独立しています。養仙院(~1683年)は7代定重の母、京極高広の女、法名は、養仙院了栄妙護日立。

Img_2737c_20210201192701  円妙寺からすぐ南東に大福田寺があります。このあたりでほぼ4㎞、時刻は10時20分。大福田寺は、高野山真言宗の寺。山号は神宝山。院号は法皇院。本尊は阿弥陀如来。ほかに聖天(歓喜天ともいう:仏教を守護する天部の善神。多く象頭人身で表されます。仏教に取り入れられてからは富貴・子孫・消厄の得の神とされ、双身で男女抱合像として祀られることもあります)を祀り、日本三大聖天(三大聖天には、東京都台東区の待乳山聖天(本龍院)と、奈良県生駒市の生駒聖天(宝山寺)の2つは必ず入っていますが、他はいろいろ)の一つに数えられています。毎年2月3日に節分祭が、また、4月1日・2日に桑名聖天大祭が行われます。

Img_2740c_20210203124001

 この寺の創建年代については正確ではありませんが、用明天皇の時、聖徳太子が度会郡山田に開いたと伝えられます。鎌倉時代中期、後宇多天皇の建治年間に神宮詞人大和守・額田部実澄(ぬかたべのさねずみ)・忍性(にんしょう)によって、市内江場大福地内に再興されましたが、度重なる兵火や風水害によって、寛文2(1662)年、現在地に移築されています。当初は、福田村にあったため福田寺と称したのですが、足利尊氏から「大」の字を賜り、大福田寺と改められたという話が伝わっています。左の写真は、本堂。

Img_2753c_20210201192701 Img_2744c  こちらが聖天堂。歓喜天(聖天)は松平定信の寄進によるものとされるそうです。この日は2月1日でしたが、すでに節分祭が始まっていたようで、人も多く、露店も複数出ていました(ただし、今年は豆まきは中止)。境内には、稲荷社もあります。ちなみに、ここ大福田寺の節分行事は、地元では有名。境内では豆まきや福餅投げが行なわれ、大賑わいになります。また、鬼が市内を練り歩く「鬼追い厄払い」もあり、大福田寺にお願いすると、施設だけでなく、個人宅でも赤鬼・青鬼が揃ってやって来てくれます。

 その2も長くなりましたので、ここまで。その3では、円妙寺、照源寺、円妙寺、尾野神社からゴールまでを取り上げます。

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2021年1月 6日 (水)

2020JRさわやかウォーキング・近鉄ハイキング・勝手にハイキングの記録

 令和2(2020)年のJRさわやかウォーキング、近鉄ハイキングおよび勝手にハイキングなどの記録です。令和2年は、新型コロナウィルス感染症に翻弄され、JRさわやかウォーキングと近鉄ハイキングは2月下旬から10月まで中止されました。11月から再開されたものの、近鉄ハイキングはあちこちでの企画はなく、常設コースのみの開催(一部でアプリを利用できるようになりましたが)。JRさわやかウォーキングも回数は少なく、遠くに行くのが憚られる感じで、再開後は、11月に1回参加したのみ。この間、市内の旧街道を中心に勝手にハイキングを企画し、一人であるいは友人と歩きました。この記事は、それらの記録です。それぞれのハイキング・ウォーキングの主な立ち寄り箇所、スタート~ゴール時刻、現地で歩いた距離、かかった費用が併記してあります。

    1. 2020/01/11 JRさわやかウォーキング「あいち・なごや生物多様性EXPOと宮の渡し跡から熱田神宮」 名鉄ハイキングとの共催、JR笠寺駅をスタートし、松重閘門、名古屋国際会議場(あいち・なごや生物多様性EXPO)、白鳥庭園、白鳥公園、宮の渡し跡、秋葉山円通寺、熱田神宮を経て、名鉄神宮前駅がゴール。9時33分~13時13分、8.4㎞、¥1,300
    2. 2020/01/12 近鉄ハイキング「高田本山専修寺『お七夜』と寺内町散策へ」 近鉄江戸橋駅をスタートし、勝久寺、魚歳食品(はんぺいの試食あり)、石積神社、窪田の常夜燈、高田本山専修寺(「お七夜」が行われていました)、一身田寺内町の館、おぼろタオル、江戸橋駅がゴール。9時25分~13時15分、11.2㎞、¥1,400、お昼は、専修寺でお非時をいただきました
    3. 2020/01/26 近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 細川酒造の銘酒『上げ馬』と多度大社・追儺祭」 同級生K氏の近鉄ハイキングデビュー(酒蔵みてある記が魅力の様子)。養老鉄道多度駅をスタートし、鯉料理の大黒屋、多度大社、細川酒造へ。試飲ののち、即売会でワンカップと焼き蛤を入手し、小宴会で満足。岩や姫から三重交通の臨時バスで多度駅へ、ゴール。9時50分~13時40分、6.3㎞、養老鉄道が¥620、バスが¥350。細川酒造では、お楽しみ抽選会で「純米酒 上げ馬720ml」が当たりました。ワンカップ、つまみで¥1,000、2時間も滞在(微笑)。岩や姫で軽い昼食(焼きそば、¥350)
    4. 2020/02/01 JRさわやかウォーキング「加納城下町と節分の巨大赤鬼が立ち並ぶ中山道をぶらり散策」 JR岐阜駅南口から清水緑地、加納城跡、玉性院、加納天満宮、芝生広場で丸窓電車を見て、岐阜駅北口にゴール。9時35分~11時25分、5.7㎞、¥1,640。昼食は、岐阜駅ビルのASTY岐阜にある「赤い鳥」という焼き肉店で「鶏(けい)ちゃん炒めランチ」(税別¥800)
    5. 2020/02/02 JRさわやかウォーキング「~新春キャンペーン~令和2年2月2日に、津の真ん中ウォーク 藤堂高虎ゆかりの地と日本三観音『津観音寺』を訪ねて」 チラシに「ツゥ、ツゥ、ツゥの日にツゥの真ん中ウォーク」とありました。JR津駅東口をスタートし、津偕楽公園、比佐豆知(ひさずち)神社、お城公園(津城跡)、高山(こうざん)神社、観音橋、大門商店街、津観音寺、四天王寺を経て津駅がゴール。9時35分~12時40分、9.7㎞、JRさわやかウォーキングなのに、往復とも近鉄利用で¥1,400。昼食は、津駅ビルのChum2階にある「美濃味匠」で「きまぐれ総菜弁当(¥648)」。イートインすると、味噌汁がサービスでつくのがありがたい
    6. 2020/02/08 近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 銘酒『鈿女』伊藤酒造と智積養水をたずねて」 近鉄高角駅をスタート、一生吹山(いっしょうぶきやま:標高109m)を上り、毘沙門天に参拝。大師堂、椿岸神社、智積養水、西勝寺から伊藤酒造へ。ゴールは近鉄桜駅。酒蔵見学、試飲のあと、同級生K氏と現地にて小宴会(熱燗一合(¥300)と、おつまみセット(酒粕入り特製チヂミと枝豆;¥250))。9時55分~12時20分、4.3㎞、¥860
    7. 2020/02/09 近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 早川酒造部『天一』」 連日の酒蔵みてある記(微笑)。近鉄伊勢朝日駅をスタートし、旧東海道を少し歩いて、朝日町歴史博物館、若松園(和菓子屋)、川越町に入り、朝明川沿いを歩いて早川酒造部で酒蔵見学、高松八幡神社、山武食品を経て、近鉄川越富洲原駅がゴール。9時25分~12時15分、8.2㎞、¥470。早川酒造部では、「しぼりたて 本醸造 蔵出し生原酒」と「純米酒 天一」の2種類を試飲。さらに、「純米酒天一」のワンカップ(¥200)と山武食品が出店している店で焼きたて鯛蒲(¥300)で一人宴会。その後、高松八幡社でも御神酒として「天一」をいただきました
    8. 2020/03/01 勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道を歩く(川口町~下深谷)」 新型コロナウィルスで、鉄道会社のハイキング/ウォーキングも軒並み中止となってしまい、「勝手にハイキング」を企画。まずは、美濃街道を多度まで、2回に分けて歩くことに。桑名市川口町の歌行燈本店脇にある東海道と美濃街道の追分をスタート、三崎通、堤原を経て北へ(福島縄手)、上之輪、汰上(ゆりあげ)を通って深谷まで。深谷で南楽寺、角の地蔵、深江神社、雨尾山味光院飛鳥(ひちょう)寺を回り、養老鉄道下深谷駅がゴール。8時35分~11時10分、7.5㎞、¥260
    9. 2020/03/06 勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道を歩く(下深谷~多度)」 播磨駅から養老鉄道に乗り下深谷駅へ。そこから、法光寺、三砂川、森大明神社、明光寺、大淀の松跡、徳蓮寺、延柳寺、野志里(のじり)神社、肱江川を渡り、船着社、尾津神社(戸津)、尾津神社(小山)を経て、養老鉄道多度駅がゴール。多度の町の中で迷い、旧戸津村の庄屋屋敷・長屋門を見られず(美濃街道ウォーキングマップにミスがあったためと判明)。8時55分~11時30分、7.9㎞、¥520
    10. 2020/03/15 勝手に三岐鉄道ハイキング「桑名の員弁街道を歩く(三ツ矢橋から三岐鉄道北勢線・星川駅)」 「勝手にハイキング」企画の第2弾。「桑名の員弁街道を歩く」に出かけてきました。員弁街道(濃州道)は、桑名市の三ツ矢橋町から、東員町鳥取、いなべ市員弁町笠田、いなべ市北勢町阿下喜、いなべ市藤原町川合などを通り、いなべ市藤原町山口で巡見道と合流して濃州(今の岐阜県)へ向かう街道。近鉄益生駅に集合し、有王塚・俊寬塚を見たあと、員弁街道起点の三ツ矢橋交差点へ。馬道辺りで善龍寺、走井山勧学寺、玉三(たまみつ)稲荷神社、いくつかの地蔵堂、額田神社標柱を見て、員弁川の堤防から星川駅にゴール。9時~11時25分。6.6㎞、¥400。昼食は、昨年7月に閉館した桑栄メイトのエベレストでカレーランチ、¥700
    11. 2020/03/29 勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング「桑名の員弁街道を歩く(星川~東員)」 三岐鉄道北勢線星川駅をスタートし、星川城跡、星川神社、安渡寺、森忠名神明神社、天皇八幡神社、クロガネモチの木(市天然記念物)、大日堂と地蔵堂、弁天橋、穴太徳(あのうとく)の碑、延命地蔵堂、そりみ坂の句碑、鳥取塚と珪化木の碑を経て、三岐鉄道北勢線東員駅にゴールするのですが、その直前、カフェレスト・ラフィーネで昼食。オムライス・ランチセット(¥980)。10時55分~13時40分(朝方、雨模様でスタートを遅らせました)、8.4㎞、¥580
    12. 2020/04/03 勝手に養老鉄道ハイキング「専通寺のしだれ桜と羽根谷だんだん公園(養老鉄道・駒野駅)」 散歩友達の勧めで海津市にある専通寺のしだれ桜と、羽根谷だんだん公園の桜などを見てきました。養老鉄道駒野駅がスタート&ゴール(往きは播磨駅から乗車、帰りは桑名駅まで)。駅のすぐそばに市神神社、ナイガイテキスタイルの工場脇から薩摩カイコウズ街道と国道258号線を渡り、専通寺へ。しだれ桜を見たのち、羽根谷だんだん公園。ソメイヨシノの見応えある桜並木を眺め、上流にあるさぼう遊学館方面へ。ヨハネスデレーケが指導してつくったという「巨石積み堰堤(砂防ダム)」を見て駒野駅に戻りました。9時20分~11時35分、5.7㎞+α、¥940
    13. 2020/04/11 勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング「員弁街道を歩く(東員~楚原)」 員弁街道ハイキングの第3弾。三岐鉄道北勢線東員駅をスタートし、チリン坂・律師智傳之碑を見て、員弁街道に入り、大谷神社、大泉駅に併設された「うりぼう(農産物直売所)」、大谷神社(通称長宮)、神明社、石仏墓地(美濃国守護・土岐大膳太夫父子の墓)、ヨシヅヤ員弁店のスガキヤで昼食。「直火焼き塩豚カルビ丼・サラダセット(¥350)」。その後、ねじり橋・めがね橋を見て、楚原駅にゴール。9時10分~13時45分、11.3㎞、¥770
    14. 2020/05/01 「ご近所神社めぐりその1その2」 目先を変えて気分も変えようと、「ご近所神社めぐり」と銘打って歩きました。国道1号線沿い、市役所から南あたりにある立坂神社、神舘神社、八重垣神社、若宮町から大福を回って、旧東海道にある一目連神社、本願寺跡・梅花仏鏡塔、天武天皇社、伝馬公園、金刀比羅社と巡ってきました。8時20分~11時10分、6.9㎞、全コース徒歩のため¥0
    15. 2020/08/17 「村正史跡めぐりスタンプラリー」 桑名宗社の「宝刀村正特別公開」に合わせて、8月13日から31日まで「村正史跡めぐりスタンプラリー」が企画されていました。うちわ型スタンプラリー台紙を持って、市内8か所の村正にゆかりあるチェックポイントを回り、コンプリートしたら村正の鐔(つば)の形をした記念ピンバッジがもらえるのです。桑名宗社に集合し、京町交差点、走井山勧学寺へ。ここで最初のスタンプを押し、ゴールに向かいます。和菓子屋さん・玉川軒、旧東海道を通って天武天皇社、寺町近くの仏眼院、我が家近くの浄土寺、七里の渡し跡と歩き、最終ポイントの柿安コミュニティパーク入り口にある本多忠勝像を経て、桑名宗社にゴール。9時過ぎ~12時、7.9㎞。全コース徒歩にて、¥0。39.2℃という猛暑のもと、玉川軒で葛アイス(¥200)を食べ、あちこちで休憩し、水分補給
    16. 2020/10/03 勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング「員弁街道を歩く(楚原~阿下喜)」 雨で予定が狂ったり、猛暑を避けたりして、前回からずいぶん日にちが経ちましたが、員弁街道ハイキングの第4弾。楚原駅をスタートし、いきなり寄り道(楚原神社、天白神社、真養寺)ののち、1㎞あまり歩いて、員弁街道(濃州道)に戻り、瑞龍院観音堂、寝覚めの橋、文治の墓から大聖不動。山田橋あたりまでは員弁街道を辿っていきましたが、旧・員弁街道はここから現在の員弁街道(県道5号線)の方へ回るため、別ルートへ。久保院・麻績塚古墳・戦没者紀念碑に立ち寄り、麻生田(おうだ)で旧・員弁街道に戻り、いなべ市北勢町阿下喜へ。阿下喜では、大西神社の御旅所、献燈籠を見て、巡見道(枝道)との分岐点まで。昼食を摂るのに、ちょっと歩いて「カドヤ食堂」にてカツ丼(¥700)。その後、阿下喜駅まで下ってゴール。途中、萬笑院にも立ち寄ろうと思ったものの、ちょっと行き過ぎてしまい、断念。9時10分~13時28分、約9㎞、¥940。
    17. 2020/10/07 「桑名城惣構ツアー」 ネットで知り合った方のご依頼で桑名城の惣構を案内。夏に何度か下調べをしました。惣構(そうがまえ)とは、城や砦の外郭、またはその囲まれた内部をいいます。今回は、惣堀を一周。ご一行4名の方とは、柿安コミュニティパークにある本多忠勝銅像で待ち合わせ。九華公園(桑名城址)、中橋から歴史を語る公園あたりの桑名城城壁、春日神社の青銅鳥居、志るべ石、貝塚公園を経てはまぐりプラザへ。ここで昼食(焼きはまぐり定食(¥2,000)をご馳走になりました)、赤須賀漁港のところから、東野神社、桑名税務署北、日進小学校南、伝馬公園、掛樋・一色町・鍛冶町辺りの遊歩道、吉津屋見附跡から東海道を京町見附跡(京町公園)へ。一部、寺町商店街を通って、桑名別院本統寺で芭蕉の句碑を見て、本多忠勝の菩提寺である浄土寺へ。その後、拙宅前の住吉入江まで。ご一行は、このあと六華苑をご覧になって、揖斐川沿いを歩いて、七里の渡し跡、蟠龍櫓から本多忠勝銅像に戻られました。「ブラタモリ」みたいでおもしろいといっていただいたので、素人ツアコンとしては一安心
    18. 2020/10/31 勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング「員弁街道を歩く(山口~阿下喜)」 員弁街道ハイキングの最終回。これまでの続きからすると、三岐鉄道北勢線阿下喜駅から員弁街道の終点(巡見街道との合流点)まで歩くのですが、そうすると、帰りに困ります。それ故、阿下喜駅からいなべ市藤原町山口の巡見街道と員弁街道が合流する辺りまでタクシーで行き、阿下喜駅に戻るコース。合流点近くの常夜燈までタクシー(¥2,990)。本郷社、円琳寺、猪名部神社、徳円寺、川合神社、春日神社、うどん釜田で土曜限定ランチ(天ぷらランチ、¥980)、大西神社と回り、阿下喜駅にゴール。10時35分~15時、8.9㎞、三岐鉄道¥1,020、タクシー割り勘¥1,000
    19. 2020/11/08 JRさわやかウォーキング「蟹江町を散策。寺社・史跡巡り」 JR蟹江駅をスタートし、蟹江城跡、蟹江神明社、甘強酒造(残念ながら試飲軽く1杯のみ)、銭洗尾張弁財天富吉神社、まちなか交流センター「楽人」、尾張温泉かにえ病院のところにある「足湯かにえの郷」、観光交流センター「祭人」、富吉建速神社・八剣社と蟹江山龍照院、ゴールは蟹江駅そばにある「はつらつ公園」。昼食は、蟹蟹フェアでゲットした魚屋バーガーの「蟹コロバーガー(蟹みそ入り、¥600」をはつらつ公園にて。9時30分~11時55分、8.5㎞、¥480
    20. 2020/12/19 「桑名の八風街道を行く(東金井から能部へ)」 JRさわやかウォーキングや近鉄ハイキングの代わりに市内の旧街道を歩こうと考えました。美濃街道、員弁街道に続いて、この八風(はっぷう)街道。本来の八風街道は、四日市市富田一色を起点として東海道と交差し、大矢知、平津(へいづ)を経て菰野町田光(たびか)で巡見道と合流、八風峠を越える道です。桑名では、町屋川右岸の街道を八風街道を呼びます(くわな史跡めぐり)。町屋川右岸の道が田光付近で四日市からの八風道と交わるからとも、桑名の道が、昔は八風道と呼ばれていたからと、諸説があります。桑名の八風街道は、桑名市東金井(ひがしかない)から志知(しち)まで約7㎞、その先は東員町に入ります。志知から先はルートがよく分かりません。この日は、三交バスで桑名駅前から日の出橋行きに乗車、城南口で降りて1㎞ほど歩き、東金井の八風街道起点へ。春日神社、徳元寺廃寺、御講堂、薬師堂、須賀神社を回り、桑部城跡を眺め、桑部の町で教専寺、善徳寺、長谷(ながたに)神社。能部(のんべ)神社にも行く予定が、帰りのバスの時間の都合で、八風バス能部バス停がゴール。9時40分~12時20分、7.0㎞、¥550。昼食は、桑名駅前に戻ってサンファーレ1階にある貝侍で「伊勢津唐揚げ定食(¥780)」

 以上、20回が令和2(2020)年のハイキングのすべて。前半の方が良く出かけていました。去年は、短大の非常勤の授業が、新型コロナウィルス感染症のため、開講が6月24日と遅れ、また、すべて遠隔授業となりました。その方針が定まった6月初旬からはその準備、後処理などに追われていました。また、去年の夏も猛暑でした。今年もまだまだ新型コロナウィルス感染症の収束は難しいでしょう。JRさわやかウォーキング、近鉄ハイキングなどどうなるでしょうか。

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2021年1月 4日 (月)

2020~2021年末年始実家de散歩

Img_8937c_20210103172001  年末12月30日から1月2日まで、家内の実家で年越しをしてきました。12月29日の記事に「たぶん散歩納め」とは書いたものImg_8895c の、実家へ行っても、午前中は歩いていました。Wi-Fi環境がありませんので、散歩、読書、ラジオが暇つぶしの主たる手段なのです。辰水神社のジャンボ干支は、1月3日の記事(吉例正月光景2021)に載せましたが、実はこれ、12月30日に実家へ行く途中、立ち寄って見て来たもの。実際には、右の写真のように、「潜り門」になっています。これを潜って、辰水神社に向かう階段へとなります(神社は、小高い丘の上。2020年1月4日:津市・辰水神社のジャンボ干支……金色のネズミ)。

Img_8910c_20210104172001  辰水神社では、ジャンボ干支の丑に向かって左手には、アマビエの像もありました。今年こそ「病魔退散」となりたいものです。

Img_8985c_20210104172001  実家には10時過ぎに到着。少し休んでから昼ご飯まで、町内一周。西に向かって歩いて行きますと、榊原川にかかる湯香里橋のところに貝石山があります。かつてここが海であったことを示す多種多様な貝の化石が見つかっています。標高は162m。今から2,000万年ほど前の地層から形成されているそうで、江戸時代から、ここで多くの貝の化石が産出したといいます。実は、ここ、私にとっては、珍鳥遭遇スポット。2018年にはオシドリを見ています(2018年5月5日:オシドリ発見、歴史散歩と高田本山専修寺へも……家内の実家へ(5/4、5))。今回も、1月2日にカワガラスに遭遇しました(後述)。

Img_8998c_20210104172901  氏神様は、射山(いやま)神社。これまで何度もお参りしています。主なご祭神は、大己貴命少彦名命・天照大神。式内社の一つで、大己貴命と少彦名命の二座を温泉大明神として古くから祀られてきました。神社の北にある射山(貝石山)を御神体とし、今も山腹八合目に御社跡が残っています。伊勢神宮の祭礼では、この地に自生する榊の枝を、神社内に湧く泉「長命水」に一晩浸して奉納する習わしがあり、古くから「神の井」として、伊勢詣でに訪れる人々の信仰を集めてきたといいます。

Img_8991c_20210103172001  拝殿前には、かつてご神木だった長命杉が飾られていました。令和元(2019)年11月に伐採されました。「当地の榊原城主Img_9475c_20210104173501 榊原信濃守興経がここに社殿を再興されたときに植えられた杉の木」だったと伝わります。それが天文19(1550)年だそうですから、樹齢は470年。このご神木を使った「長命お守り」があります(右の写真)。

Img_9009c_20210104172001  途中、コサギが上空を通過。コサギ、アオサギ、ダイサギなどを見ることがあります。

Img_9019c_20210104172001  町内のあちこちに山の神、大日様などが祀られています。左の写真は、三交バス榊原口停留Img_9030c_20210104172001 所の東にあるもの。このすぐそばには、常夜灯も建っています。

Img_9032c  常夜燈は、他にもいくつかあります。これは、同じく榊原病院前バス停の近くにあるもの。隣にはお地蔵様もいらっしゃいます。残念ながら、私には由来などは不明。

Img_9051c_20210104172101  真宗高田派の萬照山善福寺近くの水田に、トビが降りていました。トビもよく見ます。多いときには、一度に30羽くらいが飛んでいます。

Img_9061c_20210104172101  善福寺。実家の菩提寺ではありませんが、立ち寄ることがあります。本堂前に大イチョウ。高田派のお寺で、掲示板には「お七夜」のポスターがありました(1月9~16日)。お七夜は、報恩講で、親鸞聖人のご命日の法要。高田本山専修寺は、我が家の宗旨ではありまImg_9013c_20210104172001 せんが、ここは私が好きなお寺。2~3年、続けてお七夜に行っているのですが、今年は、感染防止のためお非時もないそうです。行きたいのですが、どうでしょうねぇ?

Img_9063c_20210104172101  善福寺から実家に戻る途中、金比羅山(こんぴらさん)への登山口があります。たぶん標高は100mあまり。しかし、頂上まで登ると、伊勢湾まで遠望できます。頂上には金比羅宮がありますので、金比羅山。若いときには何度か登りましたが、今はねぇ……(爆)。

Img_9065c_20210104172101  実家の裏庭には、愚息手製の野鳥の餌台がありました。つくったという話は聞いていたものの、久しぶりに行ったので、見るのは初めて。屋根に鳥の糞がついていましたので、エサを置いておけば野鳥が来るのだと思います。

Img_9071c_20210103172001  12月31日の朝は、銀世界。津市のアメダスでは4cmの積雪といっていましたが、もう少しImg_9083c_20210103172001 たくさん積もった感じ。これらの写真は、朝7時過ぎに撮ったもの。

Img_9102c_20210103172001  この日は、9時45分頃から散歩開始。左の写真は、上右の辺りと同じところを撮ったもの。歩いていても、まだときどき雪が降っていました。

Img_9115c_20210104175601  貝石山、射山神社と、前日と同じコースを回って、射山神社の東にあるお宅で、屋根にコサギを発見。風もかなり強かったので、ご覧のような有様。雪であまり見るべきものはありません。

Img_9123c_20210104175601  こちらは、林性寺。天台真盛宗のお寺。山号は、六龍山。戦国時代の榊原氏(リンク先にある「清和源氏仁木氏流の榊原氏」)の菩提寺。毎年、3月14日から16日まで開帳される涅槃図があります。これは、縦3.4m、横2.58mと大きなもので、室町時代の作。他のものには見られない三毛猫が描かれているという珍しいもの。これは、何度か拝観に行きました(2018年3月14日:林性寺の涅槃図を拝み、稲荷大師堂も拝観)。

Img_9141c_20210104175601  誓願寺観音堂。もとは別の場所の山裾にあったのですが、明治7(1874)年8月に廃寺となり、その開基・由緒などは判りません。廃寺になって残された観音堂は、昭和11(1936)年12月の榊原温泉復興行事の一環として朱色に彩色されて展望のきく貝石山の中腹に移設されました。当時、区会所に移されていた十王堂の閻魔像、湯治場の観音堂にあった三十三体の観音像などをあわせて安置しています。しかし、貝石山に移された観音堂は山道が険しく、参詣に不便なため、昭和40(1965)年頃に地元の方が提供した現在の三交バス林性寺前バス停の南脇の地に移築されています。

Img_9147c_20210104175601  榊原口バス停東の榊原川でアオサギさんを発見。気づかないで歩いていたのですが、向こうが逃げ、葦原の陰に。さらにそのImg_9161c 西、第2区集会所近くの電柱にトビが降りて来ました。

Img_9298c_20210103172001  元旦。初日の出は、吉例正月光景2021に書いたとおりですが、再掲。実家は、山の陰にあります。200mほど歩いて、東が開けたところから。津市の元旦の日の出は7時1分でしたが、やはり山陰になりますから、遅れます。7時25分頃、陽が昇ってくるのが見え始めました。初日の出に向かって右に見えるのは、真宗高田派の萬照山善福寺。

Img_9317c  元旦の散歩は、強風のためもあ利、また、陽が昇って暖かくなってからと思い、10時15分頃から。実家から西の方には、青山高原がよく見えます。青山高原には、風力発電用の風車がたくさん建てられています。

Img_9327c_20210104180901  射山神社で初詣。さすがにちょっとした行列。バス通りに面した鳥居のところから拝殿までの行列。10時半Img_9392c_20210104180901 頃。お参りをしたあとで、お下がりに「福餅」をいただきました。家内の母に聞くと、昔は、紅白の干菓子だったそうですが、今は、このようにお餅でした。

Img_9353c_20210104190501  途中、前日までと同じようなところを通り、また、榊原口バス停東の榊原川へ。前日、アオサギさんがいた橋の下流側でこの日は、ダイサギ。橋のすぐ下にいたのが、私に気づいて、逃げたところ。

Img_9362c_20210104190601  その東辺りのお宅の前でモズのメス。風で少々モシャっています(微Img_9383c_20210104190601 笑)。この日もまた、善福寺の方へ。善福寺近くの水田に小型の野鳥の群。ウ~ン、誰? ヒタキの仲間は間違いなし。

Img_9413c_20210104180901  1月2日の散歩。前日までの3日間は、実家から西へ向かい、反時計回りに回っていたのですが、この日は逆Img_9430c_20210104192001 コース。東に向かい、善福寺から榊原病院前バス停方面へ。重複するところは割愛。榊原口バス停近くの電線でハクセキレイ。さらに西に向かい、榊原幼稚園から少し南へ。式内射山神社一の鳥居跡と榊原信濃守塚跡。去年8月にも訪ねています(2020年8月16日:連日の猛暑……いささかの仕事と昨日の散歩写真@家内の実家)。一の鳥居跡は、昭和63(1988)年に朽ちかけた石柱を立て替えています。榊原信濃守塚跡碑は、「榊原郷土を守る会」(田中萬年会長)が、明治27(1894)年に温泉会所が作成した絵地図を基に、榊原姓の発祥となった榊原城初代城主の榊原信濃守興経(おきつね)の塚跡碑を建立したものです(平成30(2018)年8月)。ここは、現在は、水田のあぜ道となっていますが、温泉に向かう古道沿い。

Img_9438c_20210104192001  県道28号線を西へ。榊原幼稚園の西にも、山の神などを祀ったところがあります。花も供えられ、今でもきちんとお世話をImg_9440c_20210104192001 してくださる方がいるようです。さらにその西へ行くと、県道28号線と県道512号線の分岐に行き当たります。右の写真は、その手前から見た西の空。

Img_9446c  県道512号線は、青山高原に入っていく道。航空自衛隊の笠取山レーダー基地もあります。平成橋を渡って、私はすぐ右折し、榊原の町へ向かいます。

Img_9486c_20210104192001  射山神社近くまで戻って来て、旅館・食堂味楽だったところで、紅梅の花が一輪。他にもほころびかけてきているものもあり、また、つぼみは多数膨らんで来ていました。

Img_9500c_20210104192001  さらにその先、旧・国民宿舎紫峰閣の辺りの榊原川のところ。掛子橋の上流側で、セグロセキレイ。ここは、初めの方に書いた湯香里橋の上流約160mのところ。

Img_9515c Img_9555c_20210104192001  このあと、湯香里橋まで行って、見慣れない鳥が飛ぶのに気づきました。カワガラスのような気がして、掛子橋まで戻ります。2羽がいたものの、鳥はまたもや湯香里橋方面へ。ということを繰り返すこと3回。それ故、掛子橋と湯香里橋の間を3往復(苦笑)。ようやく撮ったのが、これらの写真。ウ~ン、証拠写真ですが、カワガラス。全長22cm。初見、初撮影。もうちょっとクリアな写真を撮りたいもの。

Img_9570c_20210104192001  湯香里橋から実家に戻る途中のお宅にて。こういうものは初めて見ましたが、「正月に歳神を家々に迎える依代として門口にImg_9572c_20210104192001立てる松飾り」という意味では、門松と同じ意味のものなのでしょう。

 という次第で、いつもながら、長々と、しかも、まとまらないものですが、令和2(2020)年12月30日から令和3(2021)年1月2日にかけての実家de散歩であります。

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