寺院

2021年4月26日 (月)

20210425「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第2回「伊勢朝日駅~近鉄富田駅」(その1)……橘守部生誕地遺跡、浄泉坊、西光寺、豊田一色道標、桜並木から多賀大社常夜燈へ

 4月25日の「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第2回「伊勢朝日駅~近鉄富田駅」の本編その1です。今回のハイキングは、桑名から伊勢神宮まで、10数回に分けて、歩いてお参りに行こうというもの。平成31(2019)年に近鉄ハイキングの企画で開催された「昔も今もお伊勢参り」(2020年1月2日:2019年近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り」の記録)に再挑戦。4月9日に第1回として、桑名・七里の渡し跡から朝日町にある近鉄伊勢朝日駅まで歩きました(2021年4月 9日:20210409「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」……第1回「七里の渡し跡~近鉄伊勢朝日駅」その1……七里の渡し跡から七曲見附跡、2021年4月11日:20210409「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」……第1回「七里の渡し跡~近鉄伊勢朝日駅」その2……天武天皇社からゴールの伊勢朝日駅へ(完))。

Iseasahi0   第2回の今回は、近鉄伊勢朝日駅から朝日町を歩き、四日市へ。松寺、大矢知、蒔田を経て、近鉄富田駅までの6.9㎞を歩いてきました。この日のコース全体のマップ。伊勢朝日駅をスタート。駅の側にポケットパークがあり、そこに樹齢300年以上のエノキ。朝日町内で浄泉坊、西光寺など寺を周り、北勢バイパスの手前で多賀大社常夜燈。朝明川を越えると、四日市に入ります。そこに小公園。松寺の御厨神明社のあと、酒造会社を見つけ、行ったものの直売所は休み(残念)。松寺立場跡・輝子頌徳記念碑、蓮証寺、宝性寺、蒔田の御厨神明社へ。ここで小休止の後、長明寺、鏡ヶ池跡。さらに八風街道をちょっと冨田方向に道草して、田村寺。続いて、三光寺を出たところで、鳥居を見つけ、若宮八幡神社にも立ち寄り、冨田一里塚跡碑、八幡神社、行啓道路記念碑と進み、玉吉稲荷神社。ゴールの近鉄富田駅に向かっていたとき、大きな松の木を見つけ、またもや道草。そこは蓮光寺跡でした。

Iseasahi1  こちらは、詳細なコースマップその1。伊勢朝日駅から多賀大社常夜燈まで。朝日町は、小さな町ですが、見どころはいろいろあります。ただし、この日歩いた東海道筋には、橘守部生誕地遺跡、浄泉坊、西光寺、豊田一色道標、桜並木(昔は松並木)、多度大社常夜燈くらい。朝日町は、何回か歩きに来ています(たとえば、2020年12月11日:20201211勝手にJRさわやかウォーキング三重・朝日町へ……朝日町歴史博物館の「古文書から歴史をよみとく-江戸時代の朝日-」を見て、井後神社、善照寺、移田神社、井後神社旧址へ、2018年6月24日:20180624勝手に近鉄・三交バスハイキング「朝日町天神山、苗代神社、縄生廃寺跡から東海道を江場まで」)。ちなみに、朝日町という地名は、日本書紀に、天武天皇が壬申の乱のときに、この付近で朝日を拝んだという記述があるためだそうです。

Img_0791c_20210425165901   近鉄桑名駅を8時44分に出る四日市行き準急に乗車。スタートの伊勢朝日駅は、2駅目。8時52分に到着、¥210。伊勢朝日駅のホームは対面式で、駅舎も上下線が別にあります。下りの改札を出たすぐが、東海道。8時55分にスタート。

201022155014_3 Img_0796c_20210425165901  踏切を越えてじきにポケットパークがあります。と書きましたが、調べたら、改修されて令和2年4月から「語らいの広場」という名前に変わっていました(写真は、朝日町のサイトからお借りしました)。木陰がもう少しあるといいなとは思ったものの、よい公園です。この公園の南端には樹齢300年以上といわれるエノキがあります。このあたり、小向(おぶけ)にも、焼き蛤を売る茶屋があり、立場になっていたといいます。東海道中膝栗毛にも、小向や縄生(なお)の地名とともに、蛤が名物であることが出てきます。

Img_5871c_20210426131301  スタートから800mほど、ちょうど朝日町役場の北の東海道沿いに「橘守部生誕地遺跡」があります(写真は、2017年10月5日撮影:朝日町歴史散歩へ……昼は、味噌天丼)。橘守部(1781~1849年)は、江戸後期の国学者。17歳のとき、一家離散のため江戸に下り、20歳を過ぎてから学問を志したのですが、香川景樹、平田篤胤、伴信友とともに「天保の国学四大家」の一人に数えられるに至っています。ここの裏手にある町役場の敷地の一角に「橘守部翁生誕の地」の石碑が建っています。

Img_0805c_20210425165901Img_0836c_20210426132201  この遺跡からすぐ、朝日跨線橋東交差点の手前、西側に小向山浄泉坊(おぶけさんじょうせんぼう)。浄土真宗本願寺派のお寺。由来書きによれば、正治元年(1199)年、正治寺として小向御厨神明宮の別当寺として建てられました。当初は禅宗であったといいます。その後、愛洲宗貫が小向に城を構え、延元4(1339)年に朝明郡の地頭職に補せられ、伊勢守を名乗り、この寺を菩提寺にして愛洞山と称しました。寛正の頃(1460~1465年)、伊勢左衛門尉真弘のの末裔が出家して小向坊浄泉と言って、正治寺に住み、応仁元(1467)年、蓮如上人が関東から帰洛の際、その教化を受けたと言います。天正年間、沼木宗喜、飯田庄之助の城が寺院付近にあり、それを攻めた滝川一益の兵火にかかって焼失しました。慶長8(1603)年に、伊勢慶昭が小向にあった正治寺を再興し、小向山浄泉坊と改称し、寛永15(1638)年、西本願寺から木仏と寺号の公称を受けています。

Img_0808c_20210426132201  徳川家にゆかりのある桑名藩主の奥方の菩提寺になっていたことがあるといわれ、本堂の棟や、山門に徳川家の定紋三ツ葉葵が入っています。そのため参勤交代の大名はこの寺の門の前では駕籠から降りて一礼したと伝えられます。

Img_0812c  ここは何度か訪ねたのですが、いつもすっかり失念して、見ていないところがあります(かといって、突然行っても見られないと思うのですが)。この寺の書院が、旧桑名城の三の丸御殿を移築したものだといわれているのです(西羽晃著「郷土誌を訪ねて」,pp.134~135)。

Img_0823c_20210426132201  境内には、「明治廿七八年戦役従軍者紀念碑(大迫尚敏書)」、「日露戦役従軍者記念碑(大山巌書)」「殉難之碑(と私には読めますが、かなりアヤシい)(靖国神社宮司 筑波藤麿為)」の3つの碑があります。大山元帥が揮毫したこういう碑、この地方でもかなりよく見ます。いったいどのくらい書かれたのでしょう。

Img_0839c Img_0842c_20210425165901  朝日跨線橋東交差点を渡ってさらに進み、スタートから1.2㎞のところに朝明山西光寺。真宗大谷派のお寺。確実な証跡はないものの、現存する絵像ご本尊の裏書きからは、明応5(1496)年に開基されたと考えられています。その後、貞享2(1685)年、大谷派に転じ現在に至ったといいます。現在の建物は、明治10~23年にかけて建立されたもの。

31a68bfc  このお寺、以前立ち寄ったときには、街道沿いに立派な松があり、松並木の名残かという気がしたのですが、この日は、松の木は見当たりませんでした。写真は、平成29(2017)年10月5日に撮ったもの(朝日町歴史散歩へ……昼は、味噌天丼)。一昨年の近鉄ハイキング「昔も今も伊勢参り」で通ったときも松はありました(2019年3月10日:20190310近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅1日目~東海道、旅人気分で七里の渡しから富田へ」……雨天決行にて「完」)。ちょっと残念な気がしつつ、歩き続けます。

Img_0846c_20210425165901 7ba5b98a  スタートから1.5㎞のところで、東海道は左折となります。そこに「東海道はこちらでござる」という看板。地元の方の手作りと思いますが、ありがたいご配慮。4年ほど前にみたものと違って、新しくなったなと思ったら、やはりそうでした(右の写真は、2017年11月9日に撮影:旧・東海道ウォーク(安永~富田)へ(前編))。

D0a511fe  341a785e その先、1.8㎞あたりの道路脇に、見逃しそうな小さな道標があります。「豊田一色」への道を示しています。豊田一色は、川越町の地名。ここから南東側にあります。道標から、柿交差点のところまでは、現在は桜並木になっていますが(右の写真。ただし、これは2017年11月9日に撮影:旧・東海道ウォーク(安永~富田)へ(前編))、明治の地図では、このあたりは、東海道の両側は水田だったようです。「ホントに歩く東海道」の解説には、「当時は民家は一軒もなかった。郷土資料「大矢知地区幕末・明治生まれの実話」には、「追い剥ぎ、辻切り、乞食」の出没する寂しい道だったとある」と書かれています。

Img_0854c  柿交差点の西に多賀大社常夜燈があります。弘化3(1846)年に、滋賀県の多賀大社から勧請して祀られた神社(現在は、井後(いじり)神社に合祀)の神殿前に建てられていたものといいます。元々は、東海道沿いにあったものでしたが、昭和46 (1971)年に街道から30m西の現在地に移転されています。「お多賀さんの灯籠」と親しまれ、かつては燈籠番が毎夜、火を灯していたそうです。ここは、伊勢湾岸自動車道や、北勢バイパスの高架のすぐ下。右手(西)には、鈴鹿の山並みがよく見えますが、今でも水田がたくさんあり、江戸時代などは、さみしいところだったと思われます。

Img_0861c_20210426173301 Img_0864c_20210425173201  柿交差点を渡り、伊勢湾岸自動車道&北勢バイパスの高架をくぐると、朝明橋で朝明川を渡ります。東征中の日本武尊が当地で夜明けを迎え、朝明川の水で口をすすいだことから川の名が付いた、とする伝承があります。右の写真は、朝明川の上流方向。鈴鹿の山並みも見えます。

 キリが良いので、その1は、朝日町内を歩いた、ここまで。その2では、四日市に入り、松寺、大矢知、蒔田と進みます。

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2021年4月25日 (日)

20210425「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」……第2回「伊勢朝日駅~近鉄富田駅」(予告編)

 本日・4月25日は、「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」の第2回に行ってきました。前回の終点である近鉄伊勢朝日駅から東海道を歩いて、近鉄富田駅まで。第1回のときは、1回で完結できるだろうと書き始めたものの、予想外に記述が長くなり、急遽2回の記事になりました。反省して(微笑)、今日のところは、予告編。この伊勢詣りツアー、同級生K氏と二人旅。

Iseasahi0  こちらが、今日のコース全体のマップ。伊勢朝日駅をスタートしますが、伊勢朝日駅は東海道に沿ったところにあります。駅の側にポケットパークがあり、そこに樹齢300年以上のエノキ。朝日町内で浄泉坊、西光寺など寺を周り、北勢バイパス側で多賀大社常夜燈。朝明川を越えると、四日市に入ります。そこに小公園。御厨神明社のあと、酒造会社を見つけ、行ったものの直売所は今日は休み(残念)。松寺立場跡、蓮証寺、宝性寺、蒔田御厨神明社、長明寺、鏡ヶ池。さらに八風街道をちょっと冨田方向に道草して、田村寺。三光寺を出たところで、鳥居を見つけ、若宮八幡神社に立ち寄り、冨田一里塚跡碑、八幡神社、行啓道路記念碑と進み、玉吉稲荷神社。ゴールの近鉄富田駅に向かっていたとき、大きな松の木を見つけ、またもや道草。蓮光寺跡でした。現地で歩いたのは、6.9㎞。

Img_0791c_20210425165901 Img_0796c_20210425165901  スタートの近鉄伊勢朝日駅。桑名駅を8時44分に出る四日市行き準急に乗車。8時52分着、¥210。8時55分に伊勢朝日駅をスタート。ホームは対面式で、駅舎も上下線が別にあります。東海道に出てすぐに踏切を渡ります。その先にポケットパークがあり、この公園の南端に樹齢300年以上といわれるエノキ。東海道を往来した旅人たちを見てきたと思います。街道の並木としては、松が一般的で、朝日町内も同様だったのですが、エノキのような「雑木」も混じっていたそうです。

Img_0805c_20210425165901  朝日町役場の北で「橘守部生誕地遺跡」を見たあと(今回は割愛)、浄泉坊。スタートから800mほど。真宗本願寺派。桑名藩にゆかりのあるお寺で、山門などに三ツ葉葵のご紋があります。参勤交代の大名は、ここで駕籠を降りて黙礼したと伝わります。朝日跨線橋東の交差点を過ぎ、JR関西線朝日駅の東に西光寺。真宗大Img_0842c_20210425165901 谷派。安永6(1777)年の銘のある梵鐘があります。ここのお寺には、以前来たときには、立派な松があり、松並木の名残かと思ったのですが(2017年10月5日:朝日町歴史散歩へ……昼は、味噌天丼、2019年3月10日:20190310近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅1日目~東海道、旅人気分で七里の渡しから富田へ」……雨天決行にて「完」)、今日は見当たりませんでした。切られてしまったのでしょうか。

Img_0800c_20210425172501 Img_0846c_20210425165901  朝日町内にも、東海道を案内する標識、看板がたくさんあります。左の写真は、浄泉坊より伊勢朝日駅よりにある小向神社を案内する社号標ですが、その脇に東海道の案内板が見えます。「みえ歴史街道」とありますから、行政が建てたものでしょう。西光寺の先、スタートから1.5㎞ほどのところで東海道は左折します。右の写真は、そこにあるもの。これは手作りですから、どなたかが掲げてくださったものと思います。

Img_0854c Img_0864c_20210425173201  スタートから2.2㎞で、伊勢湾岸自動車道&北勢バイパスの高架に来ます。柿交差点の北西に多賀大社常夜燈。弘化3(1846)に建立され、かつては燈籠番が毎夜火を灯したそうです。この先で、高架をくぐり、朝明川を朝明橋で渡ります。東征中の日本武尊が、このあたりで夜明けを迎え、朝明川の水で口をすすいだことから川の名が付いたという伝承もあります。さらに、余談というか、講釈というか(笑)。朝日町という地名、日本書紀に、天武天皇が壬申の乱のときに、この付近で朝日を拝んだという記述があるためだそうです。

Img_0871c_20210425165901 Img_0891c_20210425165901  四日市に入ってすぐ、川沿いに小公園。「ここは四日市の東海道 北玄関 松寺」と看板にあります。なぜかシーボルトが通ったことが取り上げて書かれています。近くには、力石。100㎏だそうです。2.8㎞地点に御厨神明社。「御厨」は、伊勢神宮の神領をいいます。「神明社」は、天照大神を御祭神とする神社。他の地方のことは承知していませんが、三重県北勢地方ではあちこちに「御厨神明社」があります。ここは松寺の御厨神明社、あとで蒔田の御厨神明社も訪ねています。

Img_0905c_20210425182901 Img_0911c_20210425165901  御厨神明社を出て100mあまりで、東海道の東に醸造所らしき建物。見つけたらからには見に行かないといけません(笑)。タカハシ酒造でした。文久2年の創業だそうですから、1862年。江戸末期の激動の頃。直売所があったのですが、あいにく日曜は定休。残念。

Img_0933c_20210425165901 Img_0937c_20210425165901  その先に松寺立場跡と「輝子頌徳記念碑」。桑名宿から四日市宿までの間に、立場は5つあったといいます。朝日町小向、四日市の富田などです。「輝子頌徳記念碑」は、大矢知村で弘化3(1846)年に生まれた佐藤輝子を検証するもの。若くして夫を亡くしたものの、裁縫などを千数百人以上に教えたといいます。右の写真は、松栄山蓮証寺。真宗本願寺派。400年くらい前、ここに御堂があったといいます。

Img_0972c_20210425170001 Img_0984c  大矢知に入って、まずは、龍王山宝性寺と、蒔田の御厨神明社。隣り合って建っています。宝性寺は、天平12(740)年に聖武天皇の勅願で創建されたのが始まり。現在は、蒔田第一自治会が管理しています。本尊は十一面観音菩薩。本堂は市の文化財。阿弥陀堂もあります。本堂に向かって右手(北)に蒔田の御厨神明社。

Img_1006c_20210425170001  宝性寺と御厨神明社のすぐ南に朝明殿長明寺があります。浄土真宗本願寺派。立派な山門があるのと、寺の周りが、素掘りの環濠で囲まれているのが特徴。環濠に囲まれているのは、ここは文治年間(1185~90)に蒔田相模守宗勝が居城した、蒔田城(まいた)跡といわれるからです。

Img_1026c_20210425170001  蒔田の交差点を渡ったところに鏡ヶ池跡。聖武天皇が朝明頓宮に入る途中、池に差しかかられたとき、突風で天皇の笠が池に吹き落とされたのを村の少女が進み出て笠を拾い上げ、天皇に渡したという話が伝わっています。文明年間に東海道のコースが代わり、この池の真ん中を通るようになり、池は分断されたといいます。明治末期まで東海道の両脇にしばらくは池が残っていたそうです。

Img_1039c_20210425170001  鏡ヶ池の先で、東海道は八風街道に交わります。弘法山田村寺の話をしたら、行ってみようということになり、寄り道。八風街道を200mほど東に行ったところにあります。真言宗醍醐派。ここは、2度ほど訪ねています(たとえば、2017年12月22日:近鉄ハイキング「巨大かぼちゃ『中風封じの田村寺』と垂坂公園を訪ねて!!」へ(その1))。冬至のとき、中風封じが行われ、巨大カボチャで有名。

Img_1043c_20210425170001 Img_1079c_20210425170001  関西本線の踏切を渡り、三岐鉄道三岐線の高架をくぐると、木下山三光寺。真宗本願寺派。平安時代末期、時の後鳥羽院守護職としてこの地を治めた蒔田相模守宗勝の墓碑があります。三光寺の先で東海道は左折するのですが、右を見たら、鳥居が見えました。年寄りの割に好奇心旺盛で、またもや行ってみようとなりました。若宮八幡神社です。元治元(1864)年、「氏子相計り應神天皇を鎮め神として奉祀」だそうです。

Img_1093c_20210425170001 Img_1117c_20210425170001  東海道に戻って、近鉄名古屋線・三岐鉄道三岐線の高架橋をくぐったところ、スタートから5.8㎞ほどのところに冨田一里塚跡碑があります。江戸・日本橋からは98里。JR関西線富田駅の西に八幡神社。康安2(1279)年に勧請されたといいますから、鎌倉時代。境内には、江戸時代から若者たちがトライしてきたという力石(100㎏)があります。

Img_1124c_20210425170001 Img_1140c_20210425190501  富田八幡社の先に、「行啓記念道路碑」。大正天皇が皇太子の時代、ここを通られたことを記念して建てられたもの。大正天皇は、明治43(1910)年11月、第三師団と第十五師団の対抗演習見学のためいらした途中、当時の三重県立第二中学校(旧制富田中学校、現在の四日市高校)に立ち寄られたのです。この碑の先で、東海道は右折。電柱に手作りの案内板が掲げられていて助かります。東海道は、さらに直進するのですが、今日は、次の交差点を右折し、ゴールの近鉄名古屋線・富田駅に向かいます。途中で、吉玉稲荷神社。明治39(1906)年に伏見稲荷大社から勧請してつくられました。

Img_1144c_20210425170101  そのまま富田駅に向かおうとしたら、K氏が「あの大きな松は何だ?」と。私自身、何回か見た記憶はあるのですが、さほど疑問を持たずにいました(苦笑)。やはり一人で行くよりも同行者がある方が、見ているものが違って、よいのです。冨松山(ふしょうざん)蓮光寺跡でした。かつての冨田城主南部家ゆかりの寺があったところ。寺は、平成10(1998)年に茂福に移転しています。現在は、公園。

Img_1151c_20210425170101  そして、スタートから6.9㎞を歩いて、12時15分を過ぎた頃、近鉄富田駅に到着。途中、宝性寺で休憩していますが、歩き始めからは3時間20分。薄曇りで、風はあったものの寒いということはありません。

Img_1163c_20210425170101 1619322033863c  駅の周りを見て回った結果、西口の前にある「達磨や」でお昼を食べることに。「四日市とんてき丼」をチョイス、¥660。とんてきは、四日市名物。リンク先にある「四日市とんてき」の定義からすると、ちょっと外れるところはあったものの、味はまさにとんてきでした。

Img_1189c_20210425192001  昼食を済ませ、近鉄富田駅12時56分発の名古屋行き急行に乗車。桑名駅には、何と13時03分に到着。あっけない(苦笑)。¥260。今日は、最初に書いたように、現地で6.9㎞を歩き、桑名駅~自宅往復が2.2㎞、合計9.1㎞を歩いて、17,100歩でした。明日以降、本編を書きます。

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2021年4月23日 (金)

20210422勝手に近鉄名古屋線ハイキング「長島漫歩」(その1)……光岳寺、花林院、正敬寺から長島城跡へ

Img_9196c_20210422174301  4月22日の“勝手に近鉄名古屋線ハイキング「長島漫歩」”のその1です。天気がよくて、気温が上がるのはこの日までということもあり、出かけようと思っていました。幸か不幸か、朝早く目が覚めて、前日の授業のQ&Aや、仕事のメールを書き終えられるなど、9時頃には、dutyを一通り済ませられたのです。そこで、先日から考えていた「長島漫歩」に行ってきました。水辺のやすらぎパークにある牡丹園を見に行こうというのが、第一の目的。去年まではクルマを使ったのですが、最近、コペンは娘の通勤用になってしまっています。故に長島駅まで電車で行き、あとは歩きました。

Nagashima11  歩いたコースはこちら。近鉄長島駅から南を歩いてきました。光岳寺、花林院、正敬寺と寺を回ったあと、長島城跡である長島中学校、長島中部小学校の前を通り、長島川遊歩道を下って、稲荷阿岐波神社から、水辺のやすらぎパークへ。久我邸や、牡丹園を見て、一休みしてから、長島幼稚園近くの遊歩道の終点まで。そのすぐ近くには、花市場があり、そこに立ち寄って来ました。いつもバードウォッチングに行く河口堰は今日はパス。近鉄長島駅に戻って電車で帰るつもりが、国道1号線の伊勢大橋東詰交差点でこのまま歩いて帰った方が早い、と思い直し、伊勢大橋を徒歩で渡って帰宅。長島駅から自宅までが7.5㎞。自宅から桑名駅までが1.1㎞で、合計8.6㎞の散歩でした。

Img_9203c Img_9210c  桑名駅を9時48分に出る名古屋行き普通に乗車。次の駅が近鉄長島駅。乗車時間はわずかに4分、料金は210円。車両はガラガラ。近鉄、儲かってないと思います。近鉄長島駅前(駅の南)には、伊勢湾台風の水位標があります(右の写真)。当時、このあたりは5mを越える水に浸かったそうです。この写真を撮っていたら、名古屋行きの特急ひのとりが通過して行くのが見えました(右の写真の奥に写っています)。ひのとりが走り始めて1年あまり。一度くらいは乗りたいもの。といいつつ、来年で登場10年になる「しまかぜ」にもまだ乗っていません。同級生K氏と「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣り」を始めましたが、伊勢まで行ったら、帰りはしまかぜに乗って宴会をしながら帰ってこようと話しています(笑)。ウォーキングのスタートは、9時55分。ちなみに、ひのとりは、1本だけ桑名駅にも停車します(こちら)。大阪難波21時発の名古屋行き「ひのとり621列車」。このひのとり、白子、四日市にも止まり、桑名には22時59分。名古屋着は、23時16分。

Img_9228c  近鉄長島駅から南へ下っていきます。長島は、平成16(2004)年に多度町とともに桑名市に合併しています。木曽三川河口部に位置し、町全域が平坦です。かつては堤防に囲まれた複数の輪中によって構成されていました。地名の長島は7つの洲からなる「七島」、あるいは南北に長い土地であることから付けられたとされます。明治時代に行われた木曽三川分流工事に伴って、輪中を分けていた小河川の多くが廃川となるとともに、一部の土地は長良川の新河道となり、現在のような地形となっています。木曽三川改修工事についての簡単な歴史は、こちら

Img_9231c Img_9237c_20210423042501  近鉄長島駅から500mで、天機山伝通院光岳寺。浄土宗のお寺。山門に三つ葉葵の御紋があって驚きました。後述のように、徳川家康の母である伝通院の方の菩提寺だったのです。今回は、事前の予習をほとんどしないで出かけました。思わぬところ、身近なところに歴史ありです。学生諸君にもいつも言っていますが、予習は、やはり必要です(苦笑)。

Img_9240c_20210422172401 Img_9234c  創建は不詳ですが、古くは、下野国(現在の千葉県関宿)にあり、弘経寺と称していました。慶長7(1602)年、徳川家康は母親である伝通院の菩提寺の1つに定め、天機山伝通院光岳寺と改称しました(法名が、伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼によると思われます)。当時の領主で、家康の異父弟である松平康元が光岳寺を庇護し、同家の移封先である加納藩(岐阜県岐阜市)、小諸藩(長野県小諸市)に随行し、慶安2(1649)年、当時の当主松平康尚が長島藩に移封になると、長島城下に移りました。ここに祀られている「沓踏子安延命地蔵菩薩」は、伝教大師最澄が自ら彫り込んだと伝えられるもので、伝通院の念持仏だったといいます。

Img_9255c Img_9355c_20210422172401  近鉄長島駅あたりから、長島幼稚園付近まで、途中、ちょっと途切れてはいますが、長島川遊歩道があります。長島駅の南のポケットパークから光岳寺のところ、長島城跡の近くの城東橋から長島幼稚園あたりまで、です。今日は、ほぼこれに沿って歩いてきました。光岳寺からさらに南に向かいます。長島中学校の東で長城橋を渡って長島川の東へ。お寺が2ヶ所ありますので、そちらに。

Img_9272c Img_9280c  スタートから1㎞のところに、盤龍山花林院(ばんりゅうざんかりんいん)。曹洞宗のお寺。門の脇に「乳授薬師(ちちやくし)」という石碑も建っています。しかし、碑陰には何も説明はありませんし、ネットで調べても情報は出て来ません。最近の経験では、「長島町史」を見れば分かると思うのですが、あいにく手元にはありません。

Img_9284c_20210423045801 Img_9288c_20210423045801  禅寺らしく、山門の脇には、大きな「戒壇石(かいだんせき)」があり、「不許葷酒入山門(=葷酒山門に入るを許さず:クンシュサンモンニイルヲユルサズ)」と刻まれています。山門をくぐった右手(北側)には、地蔵堂が2ヶ所あります。

Img_9291c_20210422172401  ここは、家康の異父同母弟である松平康元が父・久松俊勝の冥福を祈るため、三州西郡(こちらの記述によれば、現在の愛知県蒲郡市に含まれる地域)に一寺を建て父の法号を採って花林院と名づけました。その後、松平氏は下総関宿へ移封。さらに加納、信州小諸へと移封されたので、寺もこれにしたがって移転しています。松平康尚が長島藩主となると、花林院も長島に寺基を移しました。その後、増山氏が長島に入封すると増山氏もまた花林院を代々の位牌所として庇護しています。墓所には増山氏の13基の墓碑があるそうですが、調べて行きませんでしたので、墓所は見てこず(こちら)。また、慶長6(1601)年に長島藩主菅沼家初代となった菅沼定仍(さだより)の室、菅沼定盈(さだみつ)の継室の墓も残っているため、花林院以前にこの地には菅沼氏の女系の菩提寺、祈願所があったと考えられています。

Img_9296c_20210423072001  元の本堂は天保年間の建立だったそうですが、昭和36(1961)年に焼失。その後鉄筋コンクリートで再建されています。

Img_9309c_20210422172401 Img_9319c  花林院のすぐ南、細い道を1本隔てて石城山正敬寺(しょうきょうじ)。真宗大谷派のお寺。お寺にも由緒書きなどはなく、また、ネットで検索してもとくに情報は出て来ませんでした。

Img_9327c_20210422172401  再び長城橋を渡って、元の道に戻ります。そこは、長島中学校の東側。長島中学校には、城の大手門のような立派な門があります。それもそのはず、ここは、長島城の跡なのです。

Img_9331c_20210422172401  長島城の起源は、寛元3(1245)年、藤原(九条)道家が館を築いたことにさかのぼります。文明14(1482)年、北勢四十八家の一人、伊藤重晴によって城が再建されました。元亀元(1570)年、一向宗・願証寺の住職・証意蓮淳蓮如上人の6男)の曽孫)によって伊藤氏一族が追放され、長島一向一揆の拠点となりますが、その後、織田信長によって攻略され、滝川一益の居城となりました。賤ヶ岳の戦い後、織田信雄の居城となるのですが、天正14(1586)年の天正地震で天守が倒壊するなど甚大な被害を受けたため、信雄は清洲城に移りました。江戸時代に入ると、菅沼氏が2万石で封じられ、長島城を改修。元和7(1621)年、菅沼氏が移封されると、長島藩は廃藩となり、長島城も一時廃城となったものの、慶安2(1649)年、久松松平家の松平康尚が那須藩より1万石をもって入り、長島藩が再興されました。元禄15(1702)年には、4代将軍家綱の生母の弟・増山正利の子の正弥(まさみつ)が常陸下館より2万石で移され、以後8代続き明治維新に至っています。この間、城郭は順次拡大されましたが、天守は上げられませんでした。

Img_9341c_20210422190001  現在、城跡は長島中部小学校・長島中学校の敷地となり、遺構の大半は失われていますが、東側に石垣および堀が残るそうです(ただし、まったく気づかず、見ていません)。長島中部小学校内の「大松」は、天然記念物であり、市の指定文化財にもなっています。クロマツの大樹で、樹齢300年以上と推定されており、長島城があった当時は本丸の西南にあったといいます。

 その1はここまで。その2は、稲荷阿岐波神社から。その2で完結のつもり。

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2021年4月22日 (木)

20210422勝手に近鉄名古屋線ハイキング「長島漫歩」(予告編)……水辺のやすらぎパークでボタンを楽しむ他

Img_9196c_20210422174301  今日もよく晴れ、27℃になりました。朝早く目が覚めたので、昨日の授業のQ&Aや、仕事のメールを書き終え、さらに、ワケあって家事にも勤しみ、「本日のduty」を一通り済ませられました。そこで、先日から考えていた「長島漫歩」に行ってきました。水辺のやすらぎパークにある牡丹園を見に行こうというのが、第一の目的。去年まではクルマを使ったのですが、最近、コペンは娘の通勤用になってしまっています。故に長島駅まで電車で行き、あとは歩きました。

Nagashima11 Img_9946c_20210422172601  今日歩いたコースはこちら。長島駅から南を歩いてきました。光岳寺、花林院、正敬寺と寺を回ったあと、長島城跡である長島中学校、長島中部小学校のところを通り、長島川遊歩道を下って、稲荷阿岐波神社から、水辺のやすらぎパークへ。長島幼稚園のところからなばなの里にある花市場に立ち寄って来ました。河口堰は今日はパス。近鉄長島駅に戻って電車で帰るつもりが、国道1号線の伊勢大橋東詰交差点でこのまま歩いて帰った方が早い、と思い直し、伊勢大橋を渡って帰宅。長島駅から自宅までが7.5㎞。自宅から桑名駅までが1.1㎞で、合計8.6㎞の散歩でした。歩数は、15,273歩。今日は、取り敢えず、予告編。今日は、下調べはコースのみで、立ち寄り先については白紙状態でした。

Img_9203c Img_9210c  桑名駅を9時48分に出る名古屋行き普通に乗車。次の駅が近鉄長島駅。乗車時間はわずかに4分、料金は210円。車両はガラガラ。近鉄、儲かってないと思います。近鉄長島駅前(駅の南)には、伊勢湾台風の水位標があります(右の写真)。この写真を撮っていたら、名古屋行きの特急ひのとりが通過。走り始めて1年あまり。一度くらいは乗りたいもの。といいつつ、「しまかぜ」にもまだ乗っていません。同級生K氏と「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣り」を始めましたが、伊勢まで行ったら、帰りはしまかぜに乗って宴会をしながら帰ってこようと話しています(笑)。ウォーキングのスタートは、9時55分。

Img_9231c Img_9240c_20210422172401  浄土宗天機山伝通院光岳寺。スタートから500m。山門に三つ葉葵の御紋があって驚きました。創建は不詳ですが古くは弘経寺と称し現在の千葉県関宿にありました。慶長7(1602)年、徳川家康は母親である伝通院の菩提寺に定め、光岳寺と改称しました。当時の領主で家康の異父弟である松平康元が光岳寺を庇護し、同家の移封先である加納藩(岐阜県岐阜市)、小諸藩(長野県小諸市)に随行し、慶安2(1649)年、当時の当主松平康尚が長島藩に移封になると長島城下に移りました。ここに祀られている「沓踏子安延命地蔵菩薩」は、伝教大師最澄が自ら彫り込んだと伝えられるもので、伝通院の念持仏だったといいます。

Img_9355c_20210422172401 Img_9583c_20210422172501  近鉄長島駅あたりから、長島幼稚園付近まで、ちょっと途切れてはいますが、長島川遊歩道があります。長島駅の南のポケットパークから光岳寺のところ、長島城跡の近くの城東橋から長島幼稚園あたりまで、です。今日は、ほぼこれに沿って歩いてきました。右の写真は、水辺のやすらぎパークあたりのものですが、なかなかよい感じですし、何よりも空いているのがいい。

Img_9272c Img_9291c_20210422172401  長島中学校の手前で、長島川を渡り、盤龍山花林院(ばんりゅうざんかりんいん)へ。曹洞宗のお寺。門の脇に「乳授薬師(ちちやくし)」という石碑も建っています。長島藩主松平、増山両家の位牌所で、墓所には増山氏の13基の墓碑があるそうですが、調べて行きませんでしたので、墓所は見てこず(こちら)。家康の異父同母弟である松平康元が父俊勝の冥福を祈るため、三州西郡に一寺を建て父の法号を採って花林院と名づけたそうです。

Img_9309c_20210422172401 Img_9319c  花林院のすぐ南には、石城山正敬寺(しょうきょうじ)。真宗大谷派。ここについては、ネット検索ではとくに情報は出て来ません。

Img_9327c_20210422172401 Img_9331c_20210422172401  長島川沿いに戻ります。立派な門がありますが、これは桑名市立長島中学校の門。長島中学校や、長島中部小学校のあたりが、長島城の跡です。寛元3(1245)年、藤原道家が館を築いた後、長島一向一揆の本城、長島藩の居城を経て現在長島中部小学校・中学校地となっています。

Img_9341c_20210422190001  長島中部小学校校内の「大松」は、天然記念物であり、市の指定文化財になっています。クロマツの大樹で、樹齢300年以上と推定されており、長島城があった当時は本丸の西南にありました。現在は長島中部小学校のシンボルとなっています。

Img_9370c_20210422172401 Img_9390c_20210422172401  長島中部小学校の南、大手橋の南たもとのところに稲荷阿岐波神社があります。主祭神は、宇迦之御魂神。初めは、萱町の田村邸の邸内社でしたが、後に中町花林院門側に遷座、それ以後、次第に長島三町の産土神として祀られています。下町・中町・萱町の3町内によって石取祭が行われており、7月第3金・土曜日に町内を回ります。

Img_9411c  稲荷阿岐波神社から大手橋を渡った先に道標が1基あります。正面には、「👈 前ヶ須 浮(? 「津」とも見えます)島/宮 名古屋道」、左右両面には「右 久波奈ミち」「左 くわなみち」とそれぞれ刻まれています。

Img_9468c_20210422172401  スタートから2.2㎞、時刻は、10時35分、長島水辺のやすらぎパークに到着。旧久我邸を改修し、休憩施設として整備したところです。久我家は江戸時代、長島藩の重職にありました。しかし、明治4(1871)年の廃藩置県によって一時は長島県が置かれ、当時の藩主増山氏が知事になりましたが時を経ず、安濃津県に編入され、明治5年(1872年)には三重県と改称されました。この時、久我氏は戸長に任命され、長島・大島・松ヶ島・駒江・出口・又木・小島の各村を治め、明治22年(1889年)市町村制が施行されるまで続きました。去年は、4月28日に来ています(2020年4月28日:河口堰でコアジサシ、コムクドリ、ヒレンジャク、ササゴイ、長島水辺のやすらぎパークで牡丹……プチ遠征を楽しみました

Img_9453c Img_9492c_20210422172501  ここには、牡丹園が整備されています。しかし、今年は花が早かったのか、咲いているところは少ない感じでした。今日は平日ということもあってか、空いていました。去年も書きましたが、「穴場スポット」です。藤棚、屋敷内にはツツジなどもありますが、いずれも盛りを過ぎつつありました。久我邸の裏手には、シャクヤクが育てられていました。係の方によれば、「1週間ほどすると咲くから、また是非見に来て欲しい」ということでした。

Img_9543c_20210422172501  40分ほど歩いてきましたので、四阿で一休み。桑名駅のファミマでゲットしてきた「豆大福」をおやつに(微笑)。朝5時半頃には、朝食を食べますので、10時を過ぎると小腹が空いてくるのです(笑)。水辺のやすらぎパークで20分ほど過ごし、10時55分にウォーキングを再開。長島川遊歩道を歩いて、長島幼稚園方面に向かいます。

Img_9632c_20210422192901 Img_9636c  遊歩道は、長島幼稚園のところが終点。途中、ツグミや、カルガモがいました。長島幼稚園近くで、とある野鳥が来ていないか見てきたのですが、見当たらず。ここまで来ると、なばなの里や、花市場がすぐ近くです。もちろん、初めから承知の上で歩いてきています(笑)。

Img_9639c_20210422172501  花市場の駐車場の一角に日神神社(ひがみじんじゃ)。天照大神を祀っています。由緒書きには、元和3(1617)年頃開墾された駒江新田に延宝6(1678)年、西外面(にしども)の八幡社の摂社として現在地に勧請され、天照大神を祀っています。

Img_9647c 28b5b944  花市場。なばなの里に隣接したファーマーズ・マーケット。ときどき来ます。今日の目当ては、植物や花ではなく、昼の弁当(笑)。ここには私のふるさとのものと同じ「押し寿司」を売っているのです(2012年10月13日:花市場で買い物のついでに、またまた河口堰へ)。今日はあいにく、押し寿司だけのものは売り切れ。やむなく助六と押し寿司のセットを購入(¥420)。ここで時刻は、11時20分。

Img_9674c Img_9666c_20210422194001  時間のこともあって、なばなの里にも、長良川河口堰にも立ち寄りません。なばなの里は、現在、イルミネーション期間中ですから、入場料は、2,300円なのです。なばなの里限定の「さくら安永餅」を今年も売っていますので、それを買いたいと思うものの、2,300円を払ってまで買いに行くのもどうかと思うのです。

Img_9720c  伊勢大橋東詰交差点には、11時35分。スタートからは4.7㎞。当初は、ここから北に向かって、大智院、光栄寺、小田江神崎神社などに立ち寄って近鉄長島駅まで行くつもりでしたが、方針変更。伊勢大橋を歩いて渡って帰宅することにしました。扱ったこともあって、わざわざ大回りすることもないかと考えたのです。

Img_9709c  伊勢大橋を渡る手前で、三重交通のバス停であったところにこんな看板。4月1日から路線の統廃合で、伊勢大橋東詰のバス停が廃止されたのです(こちら)。桑名駅から長島温泉に行くバスは、53系統に統合され、ここは通らなくなったのです。もともと本数も少なかったですし、たぶん利用客も多くはなかったのでしょう。

Img_9742c_20210422172601  伊勢大橋の中程にある、中堤交差点の東で珍しい看板を見つけました。「カワウ駆除のため通行止め」の予告看板。中堤道路で、5月10日~6月30日の間の4日間、朝4時~8時にカワウの駆除をするので、通行止めになるのだそうです。千本松原あたりから治水神社木曽三川公園三川センターのところの間の松林にカワウが巣をつくっています。それを駆除するということだと思われます。

Img_9826c_20210422172601 Img_9830c_20210422172601  伊勢大橋からしばらくは割愛して、六華苑。長屋門の前にある大イチョウも青々としてきました。いつもの住吉神社には、12時17分。スタートからは7㎞ちょうど。無事に歩いてこられましたので、御礼にお参り。この近くで散歩友達・通称Tちゃんに遭遇。屋外で昼ご飯を食べておられました。

Img_9938c_20210422172601  マネをしてではありませんが、外の方が気持ちよさそうでしたので、諸戸氏庭園前の桜並木のところのベンチで、私も昼ご飯にすることに。花市場でゲットしてきた弁当を食べてきました。ということで、長島駅からは7.5㎞、朝、自宅から桑名駅までが1.1㎞、合計8.6㎞を歩いてきました。諸戸氏庭園前に戻って来たのは、12時25分。3時間半で7.5㎞を歩き、あちこち見て回ってきたという次第。もう少し詳しい記事は、またいつものように、明日以降ボチボチと。

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2021年4月11日 (日)

20210409「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」……第1回「七里の渡し跡~近鉄伊勢朝日駅」その2……天武天皇社からゴールの伊勢朝日駅へ(完)

210409sichirinowatasi1 4月9日の「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」の第1回「七里の渡し跡~近鉄伊勢朝日駅」のその2です。あまり考えずに書き始めたため、1回の記事で収まりませんでした。その1では、七里の渡し跡をスタートして七曲がり見附跡まで来ました。新町のお寺を丁寧に見て回った結果です。七曲がり見附跡は、この詳細マップその1の中央最下部にあります。ここで右折して、東海道は西へ。鍋屋町という名前の通り、鋳物師などが集まっていたあたりに入ります。

Img_5119c_20210410044401 Img_5125c_20210410044401  天武天皇社天武天皇を祀る、全国で唯一の神社だそうです。壬申の乱(672年)に大海人皇子(のちの天武天皇)が桑名郡家に駐泊されたことにちなみ、のちに創建されました。右は、「本願寺跡・梅花仏鏡塔」。ここにはかつて本願寺という大きな寺があり、その境内に芭蕉の門人である各務支考の分骨墓・梅花仏鏡塔があります。墓は各務の姓にちなんで、円形の鏡を模しています。この2箇所は以前に立ち寄っていますので、パス。

Img_5128c_20210410044401  本願寺跡の先の交差点のところに一目連神社があります(マップにはスペースがなくなり、記入してありません)。御祭神は、天目一箇命(あめのまひとつのみこと)。鍛冶(かじ)に関わる神様で、多度大社の別宮にも祀られています。このあたりは「鍋屋町」地名のとおり、鍋屋が多かったので、天目一箇命への信仰が篤く、金属工業の神として勧請されました。この日は、社殿を新しくする工事が行われていました。境内には、美濃派の俳人・徐風庵(じょふうあん)の句碑があり、また、道をはさんだ向かいには、道標が1基あります(2020年5月4日:20200501ご近所神社めぐり……(その2)一目連神社、本願寺跡・梅花仏鏡塔、天武天皇社、伝馬公園、金刀比羅神社)。

 スタートから3㎞ほどのところにお寺が2つ。まずは、瑞瑋山明圓寺。Img_5132c_20210410044401浄土真宗大谷派のお寺。開基は不明ですが、元は多度町香取にある法泉寺の末寺。戦国時代に香取(多度)の安田空明の家臣・伊藤孫右衛門が出家して再興したといいます。

Img_5144c  続いて、Img_5141c_20210410044401松下山教覚寺。浄土真宗本願寺派のお寺。文明3(1471)年、深谷部の地主・紀伊氏の一族紀伊直行が出家して正玄と名乗り、町屋に道場を開いたのが始まりとされます。ここでも墓地を見たのですが、「正四位勲三等加藤久米四郎墓」とあるのに気づきました。加藤久米四郎は、明治17(1884)年、市内西方に生まれ、明治40(1907)年、日本法律学校(現在の日本大学)を卒業し、大正6(1917)年、政界入り。衆院議員を7期連続務めました。国道1号線沿いにある「参宮国道碑」を書いています(2021年2月27日:20210227勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道再び(川口町~下深谷)」(完))。顕彰碑が、西方連合自治会により、平成19(2007)年6月に笹山溜池公園に建てられています(2021年3月23日:20210320勝手にハイキング「諸戸水道・駅西を行く」……その3(南大山田神社から海善寺を経て桑名駅西口にゴールで「完」))。

Img_5151c  教覚寺の墓地で、このようなお墓を見つけました。よくよく見てみましたが、「囲い」の部分は跡から支えるためにつけたものではなさそうで、初めからこういう形のようでした。

Img_8249c_20210410065801 Img_5165c_20210410070101  教覚寺を出たところに中川梵鐘店。江戸末期創業の鋳造会社で、全国各地の梵鐘を手がけており、永平寺や、名古屋の日泰寺、三河の鳳来寺などの梵鐘もここがつくったもの。その先、矢田町交差点で国道1号線を渡ります。交差点の南東、南西には右の写真のように「左右対称」と思える建物があります。向かって左は、和菓子の和(かず)。ここの最中は絶品。右は、呉服屋の「にし眞」ですが、もう営業はしていません。

Img_5167c_20210410070401 Img_5173c_20210410070401  交差点を渡ったところには、走井山善西寺。浄土真宗本願寺派のお寺。戦国時代、矢田城の城主・矢田俊元(としもと)は、織田信⻑と戦って亡くなりましたが、その孫・俊勝(としかつ)は出家してこの寺を建て、祖父の法号をとって寺号にしています。善西寺を検索したら、ご住職は、名古屋大学大学院理学研究科修了の理学博士。生命科学の研究者でいらしたそうです。

Img_5175c_20210410070501 Img_5174c  このあたりは、慶⻑町割当時は城下外の矢田村でしたが、東海道に⾯して家並が続き、旅人の休息する茶店が多く、立場となっていました。国道1号線に分断され、東⻄に分れたのですが、東矢田町は戦災でほぼ全焼したのに対し、こちら側の⻄矢田町は戦災を免がれ、連子格子の家も見られ、街道の⾯影を残しています。この写真の竹内家には馬をつないだ輪が道路に⾯して残っています(善西寺のすぐ西)。

Img_5184c_20210410070501 Img_5190c_20210410070501  さらにその先、南側には江戸時代に建てられたというお宅が残っており、ここには現在もお住まいだそうです。お庭なども立派なものがあると聞きます。機会があれば、拝見してみたいもの。右の写真は、矢田の火の見櫓跡。文政8(1825)年、町方からの願いによって火の見櫓が建てられています。現在のものは、東海道宿駅制定400年を記念して復元されたもの。東海道はここで左折し、南へ。

210409sichirinowatasi2 Img_5193c_20210410071501  ようやく詳細マップはその2に入ります。南に向いたあたりの東海道の様子が、右の写真。地名でいうと、福江町。

Img_5196c_20210410071501  スタートして3.6㎞ほどのところに神戸岡神社があります。縁起は不詳ですが、この付近には伊勢神宮の領地があり、古地図には「神⼾岡」とあるといいます。また、伊勢国風土記にはこの付辺を「桑名神⼾」と称したいいますので、伊勢神宮に関わりがあるかも知れません。明治28(1895)年、立坂神社に合祀されましたが、昭和35
(1960)年に現在地に再建しています。小さい神社ですので、これまできちんと観ていませんでしたが、境内にはいろいろとありました。

Img_5206c_20210410071501 Img_5200c_20210410071501  まずは「戦役勇士碑」。裏には回れず、碑陰は確認できませんでしたが、碑表にはたくさんの方のお名前が刻まれていました。このあたりから出征された方々と思います。向かって右は、橋の親柱。現地では何と書いてあるのかよく分からなかったのですが、帰宅して、町屋御用水のことを調べていたら、判明。「新福橋」と刻まれています。神戸岡神社の西にある「新地」は正徳年間(1711~16年)に足軽屋敷として開発された土地で、東海道沿いの福江町から新地へ出入りするために町屋御用水に橋が架けられました。この橋は、新地の「新」と福江町の「福」を採って「新福橋」と名付けられたのです。その橋の親柱ということ。これでスッキリ(微笑)。

Img_5212c_20210410071501  神戸岡神社から100mあまり行った、西側に御用水親水広場があります。御用水とは、町屋御用水。寛永3(1626)年、桑名藩主松平定行によってつくられた上水道。4月10日にその取水口を見てきています(町屋川へキジを探しに……ついでに町屋御用水取水口も見てくる)。町屋御用水は、繁松新田の東京堂書店の南、桑名医師会の看護専門学校の南を通り、近鉄と JR の線路下を暗渠で抜けると新地地内へ入り、広い道路の真ん中
を流れます。護岸は石張りで整備され、ここに水面へ降りられるように階段が設けられ、親水広場になっています。それがここ。

Img_5218c_20210410194801 Img_5221c_20210410194801  御用水親水広場を覗いてすぐのところ、東側に桑部山了順寺。浄土真宗本願寺派のお寺。戦国時代の桑部城主・毛利秀重(ひでしげ)の 孫・秀元(ひでもと)が、永禄10(1567)年に織田信長に敗れて後出家して、元和7(1621)年に創建した寺です。山門は 桑名城の門を移したものといわれています。現在の建物は明治35(1902)年の建築で、戦災を免がれ、東海道筋に昔ながらのたたずまいを残しています。

Img_5228c_20210410194801  了順寺を出ると、日立金属桑名工場が西側にあります。このあたりが、江場松原跡。東海道は、七里の渡し跡から大福村までは両側に家並が続いていたのですが、大福村を過ぎて江場安永にかけては、両側には家はなく、松並木となっていたといいます。この松並木を通して、両側とも眺望が秀れ、東は伊勢の海が見られ、⻄には鈴⿅の山脈が遠望されたそうです。松並木は、昭和34(1959)年の伊勢湾台風頃まで残っていたのですが、現在は一本の松もなく、家並となり、一部は⽇立金属工場庭園となっています。

Img_5234c_20210410194801 スタートから4㎞を過ぎて、西に城南神社。江⼾時代までは「神明宮」と呼ばれていました。倭姫命が、伊勢神宮鎮座地を求めて巡行された時立ち寄られたという伝承があります。その縁で、伊勢神宮の遷宮ごとに皇大神宮(内宮)の一の鳥居、占殿舎の一部を下賜されて、御木曳きが行われます。明治41(1908)年、旧城南
村各字の神社を合祀して城南神社と称しました。境内の手水鉢には、嘉永4(1851)年の銘があります。合祀された各社は昭和30(1955)年に旧社地に分祀されました。

Img_5244c_20210410194801  主祭神は、天照大御神。相殿神は、保食神(うけもちのかみ:食物の神)、少彦名神(スクナビコナノカミ:医薬の神)、天目一箇命(あまのまひとつのみこと:鍛冶の神)、大山津見命(おおやまつみのみこと:山の神)、火産霊神(ほむすびのかみ:火の神)、豊受比売命(とようけひめのみこと:食物を司る神、伊勢神宮外宮に祀られる)。城南神社で11時15分、スタートから2時間以上歩いてきましたので、30分ほど小休止。

Img_5254c_20210410194801 Img_5257c_20210410194801  城南神社から200数十メートルのところに清浄山晴雲寺。真宗大谷派のお寺。大永2(1522)年、東城(現在の九華公園付近にあった)の城主・伊藤武左衛門の一族の明⻄(めいさい)が、一族の菩提を弔うために建立。江⼾時代には、関東へ行く諸大名などは、この晴雲寺に立ち寄って、衣服を改めて桑名城下に入ったといいます。現在の本堂は明治27(1894)年の建築。また、慶応4(1869)年、戊辰戦争の際、赤報隊の一部・滋野井隊(幕末~明治時代の公家・華族である滋野井公寿(しげのい きんひさ)を隊長とする)がここ晴雲寺に宿泊し、「偽勅使」として捕縛されるという事件の舞台でもありました。

Img_6912c Img_5559c_20210410202801  晴雲寺からすぐに国道258号線を地下道でくぐり、安永へ。このあたりも立場でした。安永は東海道筋であると共に、町屋川を利用した舟運の舟着場でもありましたので、通行客を相手とする茶店が多くありました。名物として「安永餅」が売られていたのですが、現在は、このあたりには売る店はありません。しかし料理旅館「玉喜」、「すし清」(右の写真)が茶店の名残りで、両店とも藤の花が見事です。

Img_5285c Img_5295c_20210410194801  すし清の手前に伊勢両宮常夜燈と里程標があります。伊勢両宮常夜燈は、文政元(1818)年、東海道の道しるべと伊勢神宮への祈願を兼ねて桑名や岐阜の材木屋によって寄進されたものです。江⼾時代の東海道はここから町屋川に進み、対岸の縄生(なお)までかけられた板橋を通りました。常夜燈の横にある「里程標」は、明治26(1893)年に建立されたもの。里程標には、町屋川の中央から北が桑名郡であること、三重県庁及び桑名郡役所までの距離が刻まれています。三重県庁までは、11町3里余(約47km)です。江⼾時代の町屋川は、川幅が232問余(約420m)あり、寛永12(1635)年に初めて橋がかけられ
た。昭和8(1933)年、国道1号線にかかる町屋橋がやや下流にできましたので、旧橋は廃止。現在の橋は、平成元(1989)年に架け替えられたもの。

Img_5312c_20210410194801210409sichirinowatasi3  町屋橋を渡ると、三重郡朝日町に入ります。左の写真は、町屋橋を渡った先、縄生(なお)あたりの東海道。南西を向いて写真を撮っています。朝日町に入ってからの詳細マップは、その3(右の画像)。

Img_5315c_20210410194801  橋本川を越えるとじきに、雨宝山金光寺(うほうさんこんこうじ)が西にあります。高野山真言宗のお寺。もともと天台宗で、その後、真言宗になったといわれています。延宝2(1673)年に現在の公民館縄生分館の辺りに小堂が建てられ、本尊十一面観世音を祀ったが、寛政年間(1789-1800)に類焼し、3年後に現在地で再建されました。しかし、明治3(1870)年、当時の住職・浄海(じょうかい)を最後に無住となり、この小さな本堂のみが残されています。ご本尊は、十一面観音菩薩。

Img_5324c_20210410194801 Img_5333c_20210410194801  金光寺の南隣にあるのが、桔梗山真光寺(しんこうじ)があります。浄土真宗本願寺派。大同2(807)年、最澄が天台精舎として創建。興国元(1340)年に本願寺第三世覚如上人の教化を受けて浄土真宗に改宗しています。

Img_5337c_20210410194801  ここ真光寺には、松平家の定紋である梅鉢紋入りの大手水鉢があります。これは、桑名藩7代藩主・松平定重公が、万治3(1660)年に寄進した ものです。先代藩主の定良公が、有馬温泉での湯治から帰藩途中に病死したのですが、町屋川の洪水で、川留めになり、真光寺がその遺骸を3日間安置し、供養したことへの返礼で拝領したものです。

Img_5343c  さらに進みます、スタートから6.1㎞あたり、水谷たばこ店の店先に山口誓子の句碑があります。この句碑には山口誓子の筆跡で、「露けさよ 祷りの指を 唇に触れ 誓子」と刻まれています。以前は、ほとんど読めなかった記憶がありますが、きれいになったかも知れません。「俳句のくに 三重」の説明によれば、「外に出て露けき中でお祈りをした。合掌し、その手を唇に近づけたので指の先が唇に触れた。私はその指先を感じながら祈りを続けた」ということです。昭和25(1950)年10月建立。誓子は、昭和16(1941)年、伊勢富田(四日市市富田)に移り、療養したといいますから、その頃の句でしょう。

Img_5347c Img_5353c  山口誓子句碑から目と鼻の先、「縄生の一里塚跡」の石碑があります。ここは、桑名の七里の渡や、西富田の庚申橋から、それぞれちょうど一里のところになるはず。伊勢国には、12カ所に一里塚がもうけられたといいます。この石碑は、新しいのですが、それもそのはず、平成13(2001)年に、東海道宿場・伝馬制度制定400周年記念事業で作られたもの。ボンヤリと歩いていると、見逃しそうなくらいの小さな石碑です。いささか余談ですが、この日のゴールにした近鉄名古屋線・伊勢朝日駅の手前に「安達本家酒造」があります。以前来たとき(2017年11月9日:旧・東海道ウォーク(安永~富田)へ(前編))、自動販売機で、ここが造っている地酒を買おうと思ったのに、うまく行きませんでした。運転免許証を入れて、年齢認証を受けるというのが、何度やってもうまく行かなかったのです。今日、リベンジできるかと思ったら、自販機には商品が何も入っていませんでした。一度、酒屋さんでここの「富士の光」を探してみましょう。

Img_5359c_20210410194801 Img_5356c_20210410194801  これでこの日の目的地はコンプリート。ゴールは、伊勢朝日駅に設定してあるのですが、その前にすでに時刻は12時半。伊勢朝日駅の手前に「日乃出」という食事処へ。前日にリサーチ済み。今の時期お昼は「日替わり弁当」のみのメニュー。¥700。刺し身、フライ、卵焼きなどに味噌汁付きですから、まぁ「お値打ち」。平日でしたが、我々の他にもお客さんはそこそこやって来ていました。

Img_5366c  昼食を済ませて、伊勢朝日駅には13時10分着。ここは普通電車のみ停車。次の名古屋方面行きは、13時25分の名古屋行き普通。桑名までは2駅。13時30分着とたった5分。¥210。9時から、実質3時間かけて歩いてきたのですが、電車では載ったかと思うと、すぐに降りなくてはならないくらいで笑えます。

Img_5376c  この日のスマホのALKOOのデータ。16,225歩でした。現地で歩いたのが6.7㎞。我が家から七里の渡し跡までと、桑名駅から自宅までとを合わせて1.5㎞。合計8.2㎞を歩きました。

 

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2021年4月 9日 (金)

20210409「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」……第1回「七里の渡し跡~近鉄伊勢朝日駅」その1……七里の渡し跡から七曲見附跡

038718b8 9c781bed  一昨年、近鉄ハイキングの企画で「昔も今もお伊勢参り」に参加し、12回に分けて桑名の七里の渡し跡(スタートは近鉄桑名駅)から伊勢神宮・内宮(ゴールは近鉄五十鈴川駅)に参加しました(こちらにまとめの記事があります)。3月10日から12月1日でした。12回のハイキングで歩いた距離の合計は、133.8㎞。七里の渡し跡から内宮まで、単純に東海道・伊勢街道を辿ると、94㎞ほどになります。近鉄ハイキングでは、駅がスタート、駅がゴールですし、あちこち立ち寄ったり、一部でルートが重複したり、初瀬街道を歩いたりしましたので、40㎞ほどプラスになっています。この「歩いて伊勢詣り」の話を同級生K氏にしたところ、「行ってみたい」といいますので、今年、再挑戦することにした次第です。東海道で四日市の追分まで、そこから伊勢街道に入り、内宮を目指します。12回で行こうとしますと、13~15㎞を歩く回ができますので、1回に歩く目安を6㎞としています。まだ、すべての計画が立ったわけではありませんが、新年度からスタートしようということで、今日がその第1回。「同じところを歩いて、おもしろいのか?」という疑問をお持ちになるかも知れません。一度訪ねたところであっても見逃していたり、気づかなかったりするものごとが必ずあります。また、何か新しいテーマを持てば、別の楽しみも出て来ます。これについて、桑名から伊勢まで、伊勢詣りの街道には、別名「餅街道」という名前があります(こちら)。有名な赤福餅以外にも、たとえば、桑名、四日市には「なが餅」「安永餅」がありますし、宮川の渡しの北には、私の大好物である「へんば餅」があります。個人的には、これらの餅を楽しもうとも思っているのです。

Img_4968c_20210409173101  「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」と勝手に命名(微笑、ちょっと長いのですが)したツアーの今日は、第1回目。スタートはもちろん、ここ、七里の渡し跡。鳥居は、伊勢一の鳥居。伊勢神宮のご遷宮の際、宇治橋のところの鳥居が払い下げられます。東海道は、名古屋の宮からここまで海上七里をやって来て、再びここから陸路。

210409sichirinowatasi0210409sichirinowatasi1  左が、今日のコースマップ全体像。立ち寄り先は多々ありましたので、割愛しています。七里の渡し跡をスタートし東海道を歩いて、6.7㎞。近鉄伊勢朝日駅がゴール。右は、詳しいコースマップその1。近鉄益生駅近くの矢田立場跡あたりまでのもの。七里の渡し跡を9時にスタートしました。桑名市内で実にたくさんのところへ立ち寄っています。我ながら驚き。私自身は、何度も訪ねたところがほとんどですので、説明は最小限にしています。

Img_4981c Img_4985c_20210409173901  桑名宗社(春日神社)。何度もいっていますので、今日は、神社の境内には行っていません。K氏が「志るべ石」を知らないというので、それと青銅の鳥居だけを見てきました。正面には「志類べ以志」、右側面には「たづぬ留かた」、左側面には「おしゆるかた」とあります。「迷い子石」ともいわれるもので、人が大勢集まる所に立てられました。多度大社の鳥居の横にも同じものがあるそうなのですが、そちらは見たことがありません。

Img_4988c_20210409173901  春日神社の先には、歴史を語る公園。その向かいには、旧・桑名城の石垣が残っています。このあたりは、堀沿いで「片町」と呼ばれます。東海道の西側にしか町屋がなかったためにこの名前がついています。七里の渡し跡から続く堀で、江戸時代には、このあたりで日用品などが荷揚げされたといいます。東海道は、この歴史を語る公園の先で右折し、西に向かい、京町へ。

Img_7149c  京町交差点の西に京町公園があります。このあたりが、京町見附跡。ここには京町門があり、その南に番所が遭ったといいます。北側には郷方役所もありました。門の西側(写真でいうと、左手)には総構の堀がありました。今は、寺町堀、吉津屋堀にその名残があります。また、枡形があったそうですが、今は廃止されています。東海道は、京町公園の手前で左折し、南へ。吉津屋町あたりでスタートから1㎞、県道654号線を越えます。

Img_4991c_20210409173901 Img_8510c_20210409184201  鍛冶町に入って、ここにも見附がありました(吉津屋見附跡)。ここには現在も枡形が残っています。写真の中央で右に曲がり、その先を左、左と曲がって、正面奥に出て来ます。その先で七津屋橋跡に出ます。桑名市内の東海道では、初めて堀にかかった橋がありました。現在は堀も、橋もありません。七里の渡し跡にある常夜燈は、もともとここにありました。

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 この先に「いもや本店」があります。ここで東海道は右折し、南へ。いもや本店は、プラモデルや玩具を売っています。かなり昔のものもたくさんあります。8年ほど前、ご主人に呼び止められ店内をじっくり見たことがありました(2013年4月19日:いもや本店と、天武天皇御洗足井(とうとう見つけました!))。ご主人は最近、お亡くなりになったという噂を聞きました。去年夏は、店は閉まっていた気がしますが、今日は、入り口が半分くらい開いていました(この写真は、2019年3月10日の撮影)。

Img_4994c_20210409185301 いもや本店の先が新町。このあたり、桑名でもう一つの「寺町」といえるほど寺が集められています(慶長の町割のとき)。左は、四宝山教宗寺。真宗本願寺派のお寺。かつては、萱町にある法盛寺の塔頭でした。「桑名市史 本編」によれば、明応2(1493)年開基とあります。戦災で焼失し、城南村和泉に仮本堂を営なんだ後、ここに来ています。

Img_4997c_20210409185401 Img_5002c_20210409185401  続いて、瑠璃山医王院光明寺。西山浄土宗のお寺。開基は不詳。元は真言宗で、春日神社の東にあり、その神宮寺として神事に与ったといいます(桑名市史 本編)。慶長の町割で現地に移っています。町田武須計(まちだぶすけ)の墓があるというのは知っていたのですが、これまできちんと確認したことはありませんでした。墓地の一角にそれはありました。町田武須計は、桑名藩士。戊辰戦争に参戦しています。明治2(1869)年、桑名藩権大参事。三重県会議員を経て、明治22(1889)年、初代桑名町長に就任しました。武須計は、あの立見鑑三郎尚文の長兄(立見は、町田家の三男として生まれ、立見家へ養子に入っています)。このほか、七里の渡し船が遭難した際に亡くなった旅人の供養碑が残っているというのですが、このことはすっかり失念していました(苦笑)。一つ覚えていると、一つ忘れているという有様で、苦笑せざるを得ず。

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Img_5022c_20210409185401  となりに泡洲崎八幡社。この付近、旧泡洲崎の鎮守。桑名は、江戸時代以前、町屋川の流れによって、自凝洲崎(おのころすざき)、加良洲崎(からすざき)、泡洲崎(あわすざき)の3つの洲に分かれていました。その泡洲崎の鎮守でした。慶長の町割の時、現在の一色町からここに遷ってきました。境内に、天保13(1842)年、新町の北の端に建立された導石があります。「右きゃういせみち」「左ふなばみち」とあります。「ふなばまち」は、七里の渡し方面、「船場」と考えられます。この導石は、初めてきちんと確認してきました。

Img_5037c Img_5034c  鎮照山凝念院光徳寺。浄土宗のお寺。鎌倉時代に、恵心僧都が泡洲崎念仏道場として創建。明治7(1874)年に日進小学校の前身である進善学校が開始されたところ。境内には、萬古焼の創始者である沼波弄山(ぬなみろうざん)の墓があります。

Img_5058c_20210409193001 Img_5055c  佛光山九晶院十念寺。浄土宗のお寺。天智天皇の勅願によって、現在の菰野町(朝明郡切畑村)に創建され、天平宝宇年中、行基が興隆して朝明寺と称されまし。室町時代に桑名(現在の桑名城本丸のところ)に移り、慶長の町割でここに移転。十念寺には七福神祭があります。右はそれに関わる七福堂。

Img_5066c_20210409193001 Img_5062c_20210409193001  十念寺には、桑名藩士森陳明(つらあき)の墓があります。森陳明は、松平定敬京都所司代に在職中、公用人として定敬を助けました。戊辰戦争では、定敬にしたがって函館に立て籠ったのですが、敗れたのち、朝廷が桑名藩に対して、反逆の主謀者を出だせと命じた時、進んで全藩に代わって出頭し、明治2(1869)年11月13日、東京深川の藩邸で死に就いています。九華公園には、森を讃える「精忠苦節」碑があります。

Img_5071c_20210409193001 これは十念寺についての余談。墓所の入り口に写真のように、昔ながらの手押しポンプがありました。昔は、井戸水をこの手押しポンプで組んだものです。私の実家にもありました。このポンプ、驚くべきことに現役。押したら、水が出ました。

Img_5101c_20210409194701 Img_5081c_20210409194701  次に、妙延山寿量寺。日蓮宗のお寺。初めは天台宗でしたが、文明年間(1469~87年)、日意のときに日蓮宗に改めています。織田信長の兵火に遭い、全焼。元は一色町にありましたが、慶長の町割で伝馬町に移転。境内には行ってすぐのところに狩野光信の墓があります。光信は、秀吉、家康に仕えました。慶長11(1606)年、江戸に下向し、慶長13(1608)年、帰洛の途中、桑名で病死しここに葬られました。

Img_5087c_20210409194701 Img_5091c

 寿量寺には登録有形文化財が2件あります。旧大黒殿鐘楼がそれです。いずれも昭和10(1935)年頃の建築。和洋折衷のようなスタイルが特徴。寺院建築に鉄筋コンクリート造りを導入した貴重な資料とされます。

Img_5108c_20210409194701 Img_5111c_20210409194701  県道401号線を越えると、大悲山長圓寺。浄土真宗本願寺派。古くは江場村にあったのですが、慶長の町割の時に現在地へ移りました。この寺の第11代住職魯縞庵義道(ろこうあんぎどう、天保2(1831)年没、73歳)は、「桑府名勝志」、「久波奈名所図会」を著したほか、「桑名の千羽鶴」も考案しています。「桑名の千羽鶴」とは、1枚の紙で連続した鶴を多く折る珍しい方法です。

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 長圓寺のとなりには、高竜山謝徳院報恩寺。真宗本願寺派のお寺。応仁2(1468)年、教順の開基。真言宗でしたが、寛永2(1625)年、改宗しています。元は江場村にあったといいますが、慶安の洪水で古い資料を失って、詳細は不明。

E322212a  報恩寺の先で、日進小学校の前に出ます。このあたりが七曲見附跡。消防団の車庫が見えています。ここから日進小学校の敷地辺りに七曲見附があり、東海道は枡形になっていたそうです(今は、枡形はありません)。消防団車庫のすぐ手前を東海道が通っていました(北から南=写真では右から左)。

 東海道はこのすぐ先で右折し、西に向かいます。右折したあたりは、鍋屋町。今回は、1回で完結のつもりで書き始めましたが、立ち寄り先が多く、案外長くなりそうですので、今回はここまでとします。後半は、もう1回で書き終えられると思います。詳細マップのその1も、最後までは来ていません。続きは明日以降。

 

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2021年4月 8日 (木)

花祭(灌仏会)

Img_4628c_20210408154401  20℃近くになりました。外を歩いて来たら少し汗ばんだのですが、室内はけっこう肌寒い気がします。今日も今日とて、いつもどおり(笑)。朝7時半から散歩。住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀公園、京町、寺町、御坊さん(桑名別院本統寺)、三八市と5.5㎞。鳥は少なかったものの、散歩友達にたくさん出会い、話し込み、帰宅は11時15分頃。オッサンも世間話に勤しむのです(爆)。三八市では、去年11月以来、みたらし団子を購入(2020年11月23日:九華公園でカワセミをじっくり観察……寺町・三八市でみたらし団子を久しぶりにゲット)。

Img_4911c_20210408154401  今日は、4月8日で花祭。お釈迦様の誕生日を祝う行事が行われます。そのため、御坊さんに寄って来たのです。花御堂の中に仏様を安置し、灌仏偈(かんぶつげ)を唱えながら香湯または甘茶を注ぎます。花祭は、「灌仏会(かんぶつえ)」ともいいますが、この季節になると、なぜか、高校時代、古典の授業で習った徒然草の一節が浮かんできます。間違うといけませんから、きちんと調べ、次に引用してあります。「灌仏」には「くわんぶつ」とカナが振ってあった記憶もあります。第19段の「折節の移り変わるこそ、ものごとにあはれなれ」で始まるところにあります。

「灌仏の比(ころ)、祭の比、若葉の、梢涼しげに茂りゆくほどこそ、世のあはれも、人の恋しさもまされ」と人のおほせられしこそ、げにさるものなれ。五月、あやめふく比、早苗とるころ、水鶏(くいな)のたたくなど、心ぼそからぬかは。六月(みなづき)の比、あやしき家に夕顔の白く見えて、蚊遣火(かやりび)ふすぶるもあはれなり。六月祓(みなづきばらえ)又をかし。

 大意は、以下の通り:

「四月の灌仏会のころ、葵祭のころ、若葉の梢が涼しげに茂っていく頃こそ、世のあはれも、人恋しさも高まるものだ」と、ある人がおっしゃっていたが、まったくその通りだ。五月、屋根にあやめを葺く端午の節句、六月の早苗を取って田植えするころ、水鶏(くいな)のたたく声など、心細くないことがあろうか。みすぼらしい家に夕顔の花が白く見えて、蚊遣火をいぶしているのも趣深い。六月の夏越の祓も味わいがある。

Img_4668c_20210408161801 Img_4661c_20210408154401  さて、冒頭にも書きましたが、今日も鳥は少なく、住吉入江にオオバンが1羽いましたが、諸戸氏庭園、桑名七里の渡し公園には何もいません。揖斐川では、珍しく、4月になってもシラウオ漁をしている漁船が1組。4月になって見たのは、記憶にありません。七里の渡し跡では、ヒドリガモが13羽。堤防の法面に上がって、草を食べていました。柿安コミュニティパークの堀にはキンクロハジロが1羽。

Img_4751c  九華公園では、北門を入ったところにツグミ1羽。昨日は、どこでも見なかったのですが、今日はこのあとあちこちで目撃。昨日まで残っていた露店はすべて撤収されていました。花もほぼ散り、歩く人はいつも散歩している人だけ。管理人さんは、花見期間中にたまったゴミ処理に大わらわ。業者さんが来るのはまだ先だそうで、大変です。

Img_4711c_20210408154401  奥平屋敷跡。今日は、待てど暮らせど、シメが現れず。シロハラだけはずっといました。他には、スズメ、カワラヒワ、ドバトが少数。ハクセキレイは上空を通過。ツバメも時折、飛んで行きます。シジュウカラ2羽が来たものの、松の木の高いところに入ってしまい、どこにいるか見分けがつきません。散歩友達とは、「今日は、スズメ&ドバト鑑賞会だなぁ」とぼやくことしきり。二の丸跡、朝日丸跡でも、カワラヒワ、ヒヨドリ、スズメなど。ツグミは、本丸跡からも鳴き声が聞こえましたし、鎮国守国神社にもいました。

Img_4719c_20210408154401 Img_4771c  カモは、合計37羽。昨日と同じく、ヒドリガモが2ペア、ハシビロガモが1ペア、他はキンクロハジロ。二の丸堀の西側エリアに集まっています。ユリカモメ、例年、4がつに入るとほとんど姿を見せませんが、今日は1羽だけが飛来。

Img_4792c_20210408154401 Img_4759c  桜は八重桜以外、見るところはありません。ツツジは、公園のあちこちで咲き始めました。本丸跡の藤棚の藤もそれなりに咲いてきました。ずっと以前は、房が垂れていましたが、手入れも施肥もされませんから、そういう光景はしばらく見ていません。

Img_4776c_20210408154401  野球場前の堀で、甲羅干しをしていたカメ。頬に桜の花びらをつけていました。面の皮が厚いのか、花びらがついていても気にはならない様子。何食わぬ顔で甲羅干し中なので、笑えます。

Img_4805c Img_4847c_20210408154401  貝塚公園では、珍しくメジロが数羽。シロハラを2羽同時に目撃。複数いるような気がしていましたが、今頃になって確認できました。このほか、写真は撮れなかったのですが、ツグミも少なくとも3羽。内堀公園でも、ツグミが3羽、飛び出して、どこかに飛び去りました。

Img_4906c_20210408154401  京町では、呉服屋さんの巣のところに、ツバメが2羽。電線や、近くのお宅の軒先で休んでいるのですが、時折、巣のあるところにも入って行きます。そろそろ巣の修復や手入れをするのではないかと思っています。田町付近や、京町の別のお宅ではまだツバメはやって来ていません。

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2021年4月 3日 (土)

20210331“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”(その3)……額田神社(増田)、額田神社旧跡、源流寺、額田神社(額田)を経て北勢線在良駅にゴール(完)

210331nisibessho3 210331nisibessho4  3月31日に出かけた“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”の本編その3です。今回で終了するはず(微笑)。その2では、蓮華寺地内で神社、寺、城跡、遺跡のあったところを見て回りました。今回は、北勢線、県道63号線を越えて、南へ。増田にある額田神社と、源流寺を回る予定でした。しかし、額田神社でここの世話をしていらっしゃる氏子の方に出会い、いろいろとこの神社のことを教えていただきました。増田の集会所に額田神社旧跡の石碑があると伺ったのでそこへ。さらに、神社の由来の話を聞いて、額田にある額田神社の本社もついでにお参りしようと思い立ち、時間も早かったので足を延ばして、北勢線・在良駅にゴールとしました。詳細マップは、その3・4です。

Img_1478c_20210331172301  増田の額田神社です。この神社には、いろいろと由来があります。氏子の方の話と「桑名市史 本編(pp.53~54)」によれば、次の通り。もともと、この神社は、桑名郡額田村・増田村両村の鎮守として祭祀し、初めは、増田村にあったものを額田村の宮山に移遷しました。移遷の理由は、旧地が町屋川のすぐ側にあり、洪水によく遭ったということです。その後、増田村から宮山まで参詣するのに不便だということで、額田にある本社からこの増田の額田神社を文政8(1825)年に分祀奉遷したそうです。ただし、「桑名市史 本編」には、古社は本来宮山にあり、一時の事情によって増田に移遷したのを、再びその故地に復遷したという説があるとも書かれています。ここで、神社の世話をしておられる氏子の男性の方に出会い、この経緯や、あとで訪ねる旧社地のことなどを教えていただきました。こういう出会いはありがたいことですし、ハイキングの醍醐味の一つです。

Img_1487c Img_1503c  増田神社の御祭神は、意富伊我都命(おおいがつのみこと、または、おほいかつのみこと:古代、この地方を開発した額田連(ぬかたのむらじ)の祖)。相殿神は、天照皇大御神天津彦根命(あまつひこねのみこと:)。氏子の男性の許しをいただいて、左の写真の背後にある本殿にも入らせていただいて、お参りしてきました(右の写真)。この中に3つの社が祀られています。

Img_1495c_20210403045401Img_1499c_20210403045401  境内には、文政年間に分祀奉遷したことに関わる「鬼瓦」が保存されています。この鬼瓦には「文政十歳丁亥四月」と刻まれていま(文政10年は1827年)す。その下には、さらに人の名前らしきものもありました。ちなみに、この鬼瓦には、桑名宗社(春日神社)の中臣神社で用いられている「大」の文字が入った印が入っています。天津彦根命は、桑名宗社の桑名神社の御祭神でもあります。両神社に何かつながりがあるかも知れません。

Img_1515c_20210331172301 Img_1491c_20210403045401  もう1つの鬼瓦には、菊の御紋章らしきものが入っています。いや、なかなかおもしろい神社でした。東名阪自動車道にほど近い、水田地帯の中に鎮守の森があります。せっかく額田神社旧跡について教えていただいたので、そちらにも回ってみることにしました。

Img_1518c_20210331172301 Img_1531c_20210331172301  神社から東へ直線距離で200mほど、増田の町の中に増田集会所があります。氏子の方の話では、この敷地内に「額田神社御旧跡」の石碑があるということでした。探したら、建物の裏手にひっそりとそれは建っていました。ここが、旧増田村の中心ということで、神社があったものと思われます。なお、集会所の敷地内には地蔵堂もありましたが、詳細は分かりません。

Img_1554c Img_1565c_20210331172301  増田集会所から再び西へ。額田山源流寺。真宗大谷派の寺。ご本尊は、阿弥陀如来。このお寺の詳細については、調べた範囲ではよく分かりませんでしたし、「桑名市史 本編」にも出て来ません。以上で、当初の目的地はコンプリートしたのですが、初めにも書きましたように、増田の額田神社でお目にかかった氏子の方から、額田神社(本社)についても話を伺い、興味が湧いてきました。別の機会に行こうと思っていたのですが、この時点でまだ10時40分。額田神社までは、さほど遠くはありませんでしたので、お参りすることにしました。その前に、在良駅のすぐ東、東名阪自動車道の高架下に地蔵堂があると「くわな史跡めぐり」にあったので、見に行ったのですが、見当たりませんでした。

Img_1740c_20210331172401  左の写真は、濃州道沿いに建つ額田神社の社号標。右面には、「従是三丁五間」とあります(336mあまり)。明治14(1881)年10月28日の建立(写真は、額田神社にお参りし、在良駅に向かう途中で撮影)。

Img_1612c_20210331172301 Img_1621c_20210331172301  額田神社は、上の社号標のところから北にあります。北勢線を越えたところには額田神社の常夜燈。さらにそこから、長い参道を歩いて、前方の小高い丘の麓まで行きます。

Img_1720c_20210331172401  スタートから6.8㎞、時刻は10時55分。額田神社に到着。延喜式内社。御祭神は、意富伊我都命(おおいかつのみこと、おほいかつのみこと:古代、この地方を開発した額田連(ぬかたのむらじ)の祖、天津彦根神の孫)、天照大御神天津彦根命(あまつひこねのみこと)。第19代允恭天皇の頃(440年)、奉斎されたといいます。ちなみに、額田部氏は大和の額田郷から移住してきた一族で、付近には小さな古墳がいくつかあったという伝承があります。その他、増田の額田神社のところに書いたとおりです。

Img_1668c Img_1694c_20210403115201  額田神社には、一本松竜王社、火産霊社、猿王社、春日社、座(蔵)王社などの境内社がありました。一本松竜王社(額田山一本松御魂竜神(黒竜神))、火産霊社(八天宮、相殿秋葉山本宮神)および猿王社(猿の御魂)、春日社(春日明神四座(武甕槌神経津主神天児屋根神比売神))は、本殿に向かって右に(左の写真)、また、座(蔵)王社(広国押武金日命(安閑天皇)素戔嗚尊宇迦之御魂神市杵島比売神)は向かって左に(右の写真)御鎮座。それぞれ説明があります。

Img_1700c_20210403123501  さらに、境内にはこちら。いったい何か、見ただけではよく分からなかったのですが、説明には、「この一本松(群・村の境界大木)は道路開発により伐採されじ来(?)当神社に根幹を保存しておりました。永年の風雨雪により朽度甚だしく今度大地に返すことと<以下不明>/尚 御<不明>奉斎しています」とあります(一部、墨書きが薄れ、読めません)。

Img_1753c_20210403124201  額田神社にお参りを終えて、11時5分頃。急げば、11時15分在良駅発の西桑名行き電車に乗れます。員弁街道に出て、上に載せた社号標を見て、在良駅へ。左の写真は、額田神社の社号標のあるところから、在良駅方面の員弁街道を見たもの。

Img_1756c_20210331172401 Img_1760c_20210331172401  三岐鉄道北勢線・在良駅。東名阪自動車道の高架下にあります。11時10分をわずかに過ぎた頃、到着&ゴール。無事に11時15分発の電車に乗れました。西桑名駅までは、4駅、¥210。11時26分に西桑名駅に到着。

Img_1803c_20210331172401  この日のALKOOによる歩数のデータ。17,884歩。現地で歩いたのが7.6㎞、自宅から西桑名駅までの往復が2.3㎞、合計9.9㎞を歩いた結果。

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2021年4月 2日 (金)

20210331“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”(その2)……山神社、蓮花寺、白山神社・蓮花寺西城跡、蓮華寺東城跡、宇賀神社、宇賀遺跡

210331nisibessho2 3月31日に行ってきた“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”の本編その2です。その1では、西別所の八幡神社まででした。今回は、蓮花寺地内を巡った話し。地蔵堂のところで、員弁街道は城下橋を渡り、蓮花寺川の南を進みます。私は、そのまま蓮花寺川に沿って西へ。川は北へ向かいますが、直進。三岐鉄道北勢線・蓮花寺駅の北あたりで右折し、山神社、蓮花寺、白山神社(マップのもとにしたキョリ測では、宇賀神社となっていますが、そこは白山神社です)、蓮花寺東城跡を見てから南へ、宇賀公園にある宇賀神社にお参りして、宇賀遺跡があったところへ。  

Img_1249c_20210402065301 Img_1252c_20210331172201  蓮花寺川沿いの景色。向こうに見えているのは、在良小学校。よく晴れて見通しも利き、川沿いで広々としていて、とても気持ちよく歩けました。蓮花寺駅の北あたりで右折しましたが、そこに地蔵堂と、個人の方の慰霊碑。陸軍一等歩兵として従軍され、亡くなられた方のもの。碑陰は確認しませんでしたが、日清戦争か、日露戦争のものかと見ました。

Img_1262c_20210331172201 Img_1274c_20210331172201  スタートから2.9㎞、9時半過ぎに山神社。事前の調べでは、由緒もある神社でしたので、もっと立派なものを予測していました。御祭神は、大山津見神(おおやまつみのかみ、山を司る神)。正親町天皇の天正年間(1573~92年)以前の創始だそうです。蓮花寺村宇賀の城山(あとから訪ねる白山神社あたりか?)に内山源吾が城主として居城し、奉祀したといいます。天正年間、織田勢に滅ぼされたものの、その後も氏子の方々が「山の神」と称し、祭祀してきました。民家のまん中にあり、ブロック塀に囲まれた神社というのも珍しいのですが、氏子の方に祭祀されてきたというのが、よく分かる気がします。次の目的地、蓮花寺は、山神社のすぐ裏なのですが、細い道にクルマが止まっていたりして、結局、回り道。

Img_1286c_20210331172201  回り道をしたお陰で、「珍百景」に遭遇。普通のお宅と思うのですが、庭にスワンボートが置いてある光景。建物の中にも、富士山のような形のものが置いてあるのも見えました。「ナニコレ珍百景」に相当しそうな感じがします。

Img_1294c_20210402175901  このお宅のすぐ先に鳥居があります。この写真を撮った方からくぐるようになっていますので、このあと行くつもりの白山神社のものと思われます。大正9(1920)年の建立。車が通るには不便な気がします。この鳥居をくぐってすぐに右手に入る細い道があり、そこを行くと、蓮花寺でした。

Img_1297c Img_1306c_20210331172201  総仏山蓮花寺。真宗大谷派の寺。ご本尊は、阿弥陀如来。第二次世界大戦までは、総仏堂という説教所でした。在良村郷土誌によれば、蓮花寺先々代の紀伊浩洋は、漢籍で名高い人物であったそうです。堂は、先代が昭和33(1958)年に建て変え、旧村名(蓮花寺村)をとって総仏山蓮花寺と名づけたといいます。寺にある鐘は、戦時中に金属供出として出されたもの(今は、中里ダムの湖底に沈んだ深尾山薬王庵の持ち物)を譲り受けたといいます。かつてこの近くには、地名の語源となった「蓮華寺」がありました(ここ蓮花寺とは別の寺。蓮華寺は、後述の白山神社の西北西あたりにあったといいます)。蓮華寺村も、寺も、鎌倉時代にはかなり繁栄したそうですが、住宅開発に埋もれ、蓮華寺の寺跡は窺い知れません。蓮華寺には、無住国師(むじゅうこくし、あるいは、無住道暁(ムジュウドウギョウ))が住み、正和元(1312)年、87歳で没したといいます(異説あり)。無住国師は、臨済宗の僧で、中世文学の説話として代表的著作「沙石集」、「聖財集」、「雑談(ぞうだん)集」などを著しました。

Img_1313c_20210331195001 Img_1320c_20210331172201  蓮花寺からさらに坂を登っていくと、白山神社に出ますが、その手前に白山会館と小公園があり、そこに見事なソメイヨシノ。ちょうど満開。花見の名所にはほとんど行きませんが、こういうところで思いがけず、見事な桜に出遭うのもまたよし、という感じ。

Img_1328c_20210331172201  白山神社です。私がいつも使う「キョリ測」には、ここに、白山神社と宇賀神社があるとなっていますが、由緒書きによれば、ここに鎮座するのは白山神社。宇賀神社は、ここから南150mほどのところにあると書いてありました。

Img_1332c_20210331172201  白山神社の御祭神は、菊理姫命(くくりひめのみこと、白山比咩神社の主祭神。水を恵み、ものごとの和合・仲介・招福の神)。由緒書きによれば、白山権現菊理姫社と称し、正親町天皇の永禄年間(1558~70年)以前からあったといいます。境内社には、津島神社、火産霊社が、また、別宮には、護国神社があります。ここ、白山神社があるところは、蓮花寺西城(城山城)跡といわれ、内山源吾正則が居城したといいます。織田信長に滅ぼされています。現在、城の遺構はありません。

Img_1397c_20210331172301 Img_1407c  白山神社の北に神田池という大きな灌漑池があります。その南の端あたりが、蓮花寺東城(宇賀城)跡といわれます。蓮華寺東城には、後藤庄左衛門氏篤が居城しましたが、こちらも永禄年間に織田信長に滅ぼされています。城の遺構は、ここもありません。何となくもの足らない気もしますが、やむを得ません。

Img_1419c_20210331172301 Img_1423c  蓮花寺東城跡から白山神社の南にある宇賀神社を目指します。宇賀神社は、宇賀公園の中。このあたりで、スタートから4㎞、10時頃。御祭神は、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ、食物、とくに稲の神霊)。ここも創始は不詳ですが、正親町天皇の御代(1557~86年)以前と伝えられ、蓮花寺西城(城山城)主・後藤庄左衛門の崇敬が厚かったといいます。この公園で小休止。

Img_1441c_20210331172301  宇賀神社の南あたりが宇賀遺跡。公園の南にある住宅地から、コミュニティバスの「マザック前」停留所のあたりにと思われます。縄文時代から中世にかけての複合遺跡です。弥生時代の遺構からは、井堰が見つかっており、稲の穂積みに使う木包丁も出土し、稲作が行われていたと考えられています。

 今回は、短めですが、キリが良いのここまで。その3では、額田神社(本社、増田)、額田神社旧跡と源流寺。

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2021年4月 1日 (木)

20210331“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”(その1)……西別所駅をスタートして、延寿院、万機庵跡、照林寺、員弁街道から西別所の八幡神社へ

210331nisibessho  3月31日の“勝手に北勢線ハイキング「西別所・蓮花寺を行く」”の本編その1です。この日は、陽気もよく、桜も満開でしたから、このテーマで歩いてきたという次第。今回も、「くわな史跡めぐり」を参考に自分でコースを組み立てています。この本の濃州道のところを見ています。濃州道は、去年、桑名から員弁まで歩き通しましたが、街道から離れたところは訪ねていません。そこでそうした見ていないところへ行こうというのが企画の趣旨。「くわな史跡めぐり」を参照しながら、「キョリ測」でコースを描いていきます。そうしてつくったものが、冒頭にあるマップ。キョリ測は、本来、距離を測定するサイトなのですが、このようにルートマップ作成にも応用できるのです。描いたものをPrint Screenで取り込んで、Paintに貼り付け、Corel Paint Shopでトリミングして、またPaintで距離数や訪ねる場所の説明を書き込んでいます。詳細マップも同様にしてつくり、プリントして持って歩いています。

 この日は、三岐鉄道北勢線で西別所駅まで行き、そこから、延寿院、万機庵跡、照林寺、八幡神社と回ったあとで、西別所城跡を見るつもりが忘れて、蓮花寺に入りました。当初、西別所城跡は見るつもりがなかったのですが、近いことに気づき、あとから思いついて、目的地にくわえたのです。その後、蓮花寺地内で山神社、蓮花寺、白山神社、宇賀公園、宇賀神社。さらに増田に行き、増田の額田神社、源流寺、そして、額田神社の氏子の方に教えていただいて額田神社旧跡を訪ねました(増田集会所)。これで在良駅にゴールするつもりでしたが、氏子の方に額田神社(本社)の話も聞きましたので、そちらまで足を延ばしました。現地で7.6㎞を歩き、自宅から西桑名駅までの往復が2.3㎞で、合計9.9㎞。

Img_1044c_20210331172101 Img_1050c_20210331172101  三岐鉄道北勢線・西桑名駅を8時23分に出る阿下喜行きに乗車。春休み期間ですので、空いていました。1輌に2~3人の客。西別所までは、2駅。¥190。

Img_1062c_20210331172101 Img_1072c_20210331172101  左の写真は、途中、馬道駅から見た走井山公園の桜。ここには桜の木が100本ほどありますが、満開。西別所駅には、8時28分に到着。右の写真が西別所駅ですが、向かって左(南側)には辻内鋳物工業の大きな工場がありました。取り壊されて更地になっています。スタートは、8時半。

210331nisibessho1  こちらが詳細なルートマップその1。まずは、北勢線の踏切を渡って、北側へ行き、さらに国道258号線をくぐり、延寿院へ。続いて、258号線をはさんだ万機庵跡から、濃州道沿いの照林寺、地蔵堂から八幡神社へ、その後、少し東に戻って光陽希望が丘保育園近くにある西別所城跡を見ようと思ったものの、忘れてそのまま西へ向かってしまいました(苦笑)。

Img_1088c_20210331172101 Img_1101c_20210331180001  さて、まずは、国道258号線の下をくぐって、その東にある延寿院を目指します。西別所駅は、町屋川でバードウォッチングをするときに何度か降りたことがあります。また、国道258号線は、クルマで何度となく通っていたのですが、このあたりを歩くのは初めて。左の写真で向かって右に見えている地下道を通っていきます。その先がよく分からなかったので、事前にストリートビューで見たものの、延寿院に入る道は今ひとつ不確か。結局、258号線沿いの小径を進み、どん詰まりにあった、この藪のようなところの奥から入れました。

Img_1104c Img_1109c_20210331172101  その先にあったのが、「北寺駐車場」の看板。この道で間違いはなかったようで、一安心。右手の奥から少し登って、お寺の境内に入っていけました。慈眼院北寺延寿院。高野山真言宗のお寺。ご本尊は、十一面観音菩薩。地元では、集落の北のはずれにあることから「北寺」と呼ばれます。延宝年中(1673~81年)、奥平貞登が観音堂を建てたのに始まります。奥平貞登の一族は、桑名藩5代藩主・松平定綱に使えて家老職を務めました。この地に山荘を建て、かたわらに小堂を建てて観音像を安置したと考えられています。享保21(元文元)(1736)年、大福田寺の住職・實圓がここを隠居寺としてから大福田寺の庵室となり、江戸末期からは尼僧によって住持されていました。しかし、檀家もなく、昭和中期には無住となり荒廃したため、西別所在住の有志によって昭和57(1982)年に本堂が修復され、また、北寺奉賛会が設立され、維持されています。

Img_1119c_20210331172101  境内には、宝暦5(1755)年に入寂した實圓と、安永5(1776)年入寂の實豊の墓碑である五輪塔2基などが残っています。左の写真で中央にある五輪塔が實圓のもの、向かって左が實豊のものです。境内には桜も咲き、ウグイスのさえずりも聞こえていました。時折、国道258号線を走るクルマの音が聞こえては来ますが、静かで落ち着いたお寺です。

Img_1125c_20210401152001  258号線をクルマで走っていただけの時は、まさかここにこのようなお寺があるとは思いもしませんでした。さらにもう一つ、蛇足。お寺のすぐ裏手には、「オレンジアベニュー」というラブホテルがあります。聖と俗、微妙な位置関係でもあります(この写真の背後に見える、白い大きな建物がそれ)。と変な感慨を抱きつつ、お参りはきちんと済ませ、延寿院をあとにします。

Img_1138c_20210331172201  再び、国道258号線をくぐって、その西側へ出ます。地下道を出たところから北を見た写真。前方の森に、万機庵跡があります。万機山蔵鷺庵(ばんきざん ぞうろあん)が正式名称のようですが、地元では万機庵、または、蔵六庵とも呼びます。「桑名市史 本編」には、「蔵鷺庵」として載っています(p.472)。もともとは曹洞宗のお寺でした。ご本尊は、観世音。明暦元(1655)年に、楊柳寺(市内新屋敷)第6世万機和尚が創建し、ここに閑居した庵跡といわれています。万機和尚は、真田幸村(信繁)の3男で、楊柳寺に在住30年。「桑名市史」によれば、桑名藩第3代藩主・松平定重公が、ここに山荘を設け、遊興したといいます。また、天正の頃の城跡で馬場の跡があることや、境内の「一本松は方二三十間にも及ぶ古木であった」ことも触れられています。1間は、約1.8mですから20間では36m、30間なら54mとなります。

Img_1148c_20210331172201 Img_1152c  それはさておき、万機庵跡ですが、上の写真の道を上り、途中から岡の方に入ったものの、岡の中は、これらの写真のような状況。「明治初めに無檀家の理由を以て廃庵となり、現在、跡地は竹林となっている」(こちら)ということは知っていたのですが、実際にかなり荒れていました。跡地には、万機和尚の墓石を含め、15基の墓石があるそうですが、見つけられませんでした。予めネットで検索したところ、最近、「送電線の鉄塔が立っているので、そこへの鉄塔巡視路はあるものの、きびしい藪と地形で、歩き回ることができず、墓石の場所は判らなかった」と書いているブログがありました(こちら。今年2月の初めの記事です)。2月1日に行こうとした高塚山古墳も、荒れていて入れませんでしたが(2021年2月1日:20210201勝手に養老鉄道ハイキング「桑名駅西歴史散歩」(予告編))、竹林は手入れされないとすぐに荒れてしまうようです。ということで、万機庵跡に行くのは、断念。なお、墓石の写真は、このWebサイトにあります。

Img_1155c_20210401153701  ちなみに、万機庵跡を探して歩き回っていたところ、国道258号線が見えるところに出ました。見えている建物は、先ほど触れた「オレンジアベニュー」。写真の右端に森が少し写っていますが、そこが延寿院です。万機庵跡からグランデージ西別所という住宅地の北側を通って1㎞を過ぎて左折し、南下。照林寺へ向かいます。

Img_1167c_20210331172201  照林寺。真宗本願寺派のお寺。ご本尊は、阿弥陀如来。ここは、員弁街道沿いにあり、昨年3月15日にも来ています(2020年3月15日:20200315「勝手に三岐鉄道ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』」(三ツ矢橋から三岐鉄道北勢線・星川駅)(予告編))。当時の西別所には寺がなく、明治44(1911)年、地元の人たちの懇請を受けて、萱町の法盛寺の塔頭を村の念仏道場であったここに移築して設立されました。その際、廃庵となった万機庵の建物の一部を庫裡として移築しています。さらに同庵に安置されていた阿弥陀如来像と十一面観音菩薩像も移安され、別壇に護持されているそうです。もとは、法盛寺の末寺。「桑名市史 本編(p.456)」には、「寛文10(1670)年、第2世靖南のとき、本山より寺号を許された」という記述がありますが、これは上記の念仏道場のことかという気がします。照林寺でスタートから1.3㎞、9時頃。

Img_1171c_20210331172201 Img_1174c_20210331172201  照林寺のところから次の地蔵堂のところまでは、員弁街道を歩きます。左の写真は、これから進む、西の方角。1.5㎞の少し手前、城下(しろした)橋のたもとに子安地蔵堂があります。このお地蔵様は、昔は北の台地上にあった寺(万機庵かという記述が、「歴史の道調査報告書改訂版(三重県教育委員会編集、1985年)にあります)に祀られていた地蔵といいます。廃寺になって放置されていたものが、明治初年頃か、街道安全のため現在地に移したと伝わっています。なお、「くわな史跡めぐり」に載っているこの「子安地蔵堂」の写真は誤りと思われます(他の地蔵堂の写真と間違っていると考えられます)。

Img_1190c_20210331172201 Img_1197c  地蔵堂を過ぎて、1.6㎞ほどのところで、希望が丘にある八幡神社に立ち寄るために員弁街道を離れます。天正元(1573)年、西別所城山、城下橋(子安地蔵尊のあったところ)北の山腹に八幡社があったといいます。元禄14(1702)年、その西別所城山にあった八幡社を現在地に勧請しています。明治44(19119年境内社を合祀しています。右の写真のように、かなり長い階段を登って、標高30数mのところに神社があります。

Img_1203c_20210401191501 Img_1209c_20210401191501  主祭神は、品陀和気命(ほんだわけのみこと、応神天皇)。相殿神は、菊理姫命(くくりひめのみこと、白山比咩神社の主祭神)、大山津見命(おおやまつみのみこと、山の神)、火産霊神(ほむすびのかみ、宇迦御魂神(うかのみたまのかみ、食物、とくに稲の神)。以上は、神社検索三重のサイトにある御祭神。神社の由緒書きには、菅原道真公もありました。

Img_1216c Img_1245c_20210331172201  先に書きましたが、この八幡神社は標高30数mのところにあり、眺望が利きました。この写真は、桑名市稗田から町屋川の向こう、桑部方面が見えています。ここでしばし休憩。八幡神社から再び、蓮花寺川沿いに戻り、蓮花寺方面に行きます。途中、なかなかよさげなソメイヨシノが2本、満開でした。これを過ぎて、川に沿って右に曲がっていきます。光陽希望が丘保育園近くにある西別所城跡に行こうと思っていたものの、この時はすっかり失念していました。西別所城には、北畠氏に従う矢田俊元(西別所城・額田城・蓮花寺城・安永城などを支配してお. り、桑名では有力な地侍でした)の与力、後藤弥五郎基成が居城していましたが、秀吉・信盛・長秀らの大軍の前に成すすべもなく落城したといいます。西別所城跡の遺構はないようです。毎度、「お前のブログの記事は長い」といわれますので、今回はこのあたりにて。その2では、蓮花寺地内を歩きます。

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