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2022年5月 7日 (土)

20220507東海道ウォーキング「亀山宿~関宿」(超予告編)

Kameyama0_20220508045001  4月23日の東海道ウォーキング「井田川~亀山」(2022年4月23日:20220423東海道ウォーク「井田川~亀山」(予告編))に引き続いて、今日は亀山宿~関宿までを歩いてきました。好天に恵まれ、また気温も上がり、亀山のアメダスでは、最高気温は28℃を超えていました。冒頭の画像が、今日歩いたルートの全体像。関宿ではもっとたくさんのところを見て、立ち寄って来ていますが、狭い範囲ですので、主なところだけ示しました。膨大な写真を撮ってしまい、まだすべてを確認していませんので、今日のところは、超予告編。明日以降、この超予告編を予告編にする作業から取りかかります。

Img_1298c_20220507193101 Img_1322c_20220507193901  桑名駅を8時14分に出る亀山行き普通に乗車。亀山には、9時ちょうどの到着。¥680。前回、最後に、西町問屋場跡まで行ってきました。当初は、この西町問屋場跡から東海道に入る予定でしたが、その前に、いきなり寄り道。

Img_1383c_20220507193101 Img_1426c_20220507193101  寄り道したのは、加藤家長屋門。江戸時代後期、亀山城主・石川家の家老職を務め、亀山城西之丸に居を構えていた加藤家の屋敷の長屋門。現在は屋敷の表門である長屋門とこれに連なる土蔵などが遺されています。その先で、飯沼慾斎生家跡。飯沼慾斎は、江戸後期の蘭方医,植物学者。伊勢国亀山の商人西村信左衛門の次男。母方の伯父で美濃国大垣の飯沼長顕に入塾し、のち京都に出て漢方、本草学を学んだ後、蘭方に転学し、大垣で開業しています。

Img_1438c_20220507193101 Img_1526c_20220507193101  旧舘家住宅。明治6(1873)年に商家として建てられました。枡屋という屋号で、幕末から大正にかけて呉服商を営んでいた大店です。土日に無料公開されています。右は、京町口門跡を、その西の京町坂橋の西詰から見た景色。ここは、滝川にかかる橋ですが、もとの東海道は、もっと低いところを通っていました。ちなみに、東海道五十三次を描いた浮世絵の多くは、京町門口跡あたりから亀山城を眺めた景色となっています。

Img_1607c_20220507193101 Img_1625c_20220507193101  左の写真は、浄土宗の慈恩寺。奈良時代に聖武天皇の勅願により行基が開いたと伝わっています。往時には、七堂伽藍があったものの、度重なる兵火で焼失。幕末、亀山藩の家老を務めた近藤幸殖の墓があります。右の写真は、野村一里塚跡。日本橋からは105里。北側の塚だけが現存しています。樹齢400年を超える椋の木が植わっています。一里塚に椋は珍しいそうです。

Img_1677c_20220507193101  途中、端折りますが、亀山市布気町に昼寝観音という観音さんがあります。東大寺の大仏を建て直すお金を全国から集めているとき、石山観音(津市芸濃町)から運ばれたといいます。各地の観音が集まって、西日本の観音めぐり33箇所を決める会議を開いたのですが、この落針(おちばり)の観音は昼寝をしていて会議に行かなかったため33箇所に選ばれなかったとか。

Img_1740c_20220507193301  旧国道1号線(現県道565号線)、JR関西線を越えますと、太岡寺畷(たいこうじなわて)に出ます。ここは、旧東海道の鈴鹿川沿いの道路で、約400mにわたり桜並木が続いています。桜の咲く時期になると、桜のトンネルが見事だろうと思えます。しばらく立ち寄るところはありません。

Img_1825c_20220507193301 Img_2037c_20220507193101  スタートから5㎞を超え、ようやく「関宿」の案内板。東海道五十三次の47番目の宿場町として栄え、今なお当時の雰囲気が残されています。ここは、ずっと以前から訪ねてみたかったところで、ようやく長年の念願が叶いました。右の写真は、関宿にある百六里庭・眺関亭の2階から眺めた関宿の西方向。向こうの山は、鈴鹿山脈。

Img_1847c_20220507193101  ここは、関宿東の追分。東海道と伊勢別街道との分岐点です。鳥居の向こうが、伊勢別街道。椋本、専修寺あたりを経て江戸橋で伊勢参宮街道につながっています。総距離およそ四里二六町(約18.5㎞)。江戸時代には京都方面からの参宮客で賑わいました。

Img_1919c_20220507193101 Img_1934c_20220507193101  関宿には見どころが多数。今日もあちこち見て回ってきましたが、ごくかいつまんで。こちらは、関の山車会館。狭い宿内の家並みを山車が巡行する様から、限度いっぱいの意味で使われる「関の山」の語源であるとも言われる「関の山車(せきのやま)」の展示を中心に祭りの付属品や歴史資料が展示されています。関の山車は、高さ4mとかなり大きいのに驚きました。「関の山車」は、元禄年間から伝わる祭礼で、江戸後期には16基もの山車があり、横幕・見送幕・提灯を豪華に飾りつけて華美を競い合ったそうです。山車の台車から上が回転する構造となっており、巡行時の辻々などで勢いよく回転させることが特徴の一つ。現在は木崎町・大裏(北裏)町・中町三番町・中町四番町の4基が保存され、関神社の夏祭りとして例年7月下旬の土・日曜に開催されています。

Img_2083c_20220507193101  こちらは、関宿旅籠玉屋歴史資料館。江戸時代の貴重な旅籠建築を修復し、旅籠で使われていた道具や歴史資料が展示してあります。宝珠の玉をかたどった虫籠(むしこ)窓が魅力的。この虫籠窓は、屋号にちなんで、宝珠の玉(玉から火焔があがる様)をかたどったものとなっているのだそうです。

Img_2092c_20220507193101 1651900657728c  関の戸をつくっている深川屋さん。創業約380年で、「忍びの隠れ蓑」だそうです。江戸時代寛永年間より作り続けられている「関の戸」は、忍者の末裔・服部伊予保重が考案した餅菓子です。2019年にこの深川屋に残っていた古文書から当時の忍びの記述が発見されたといいます。先日、三重県総合博物館でも買ってきたのに、今日もまた、土産は関の戸。和三盆と抹茶の6個ずつの詰め合わせ。¥1,118。

Img_2096c_20220507193101 Img_2104c_20220507193101  関郵便局。郵便局の敷地は、天正20(1592)年、家康が休憩したので、御茶屋御殿屋敷と呼ばれ、幕府代官陣屋、亀山藩役人詰所となっています。高札場もここにありました。ポストが、宿場の雰囲気に合わせてつくられていますし、敷地内に道路元標があります。

Img_2162c_20220507193201  関地蔵院。天平13(741)年、奈良東大寺の僧行基が、諸国に流行した天然痘から人々を救うため、この地に地蔵菩薩を安置したと伝えられています。この地蔵菩薩は、わが国最古のものです。関地蔵院で14時。途中で1度、20分くらい休憩して、おやつを食べただけで、ここまで歩き続けてきました。このあと昼食。

Dsc_6434c Img_2202c_20220507193202  JR関西線・関駅の近くに道の駅関宿があります。ここなら何か食べられるだろうということで立ち寄ったら、定食屋みくらという店がありました。冷やし海老おろしうどんをチョイス。¥840。

Img_2214c_20220507193201  Img_2242c_20220507193201 JR関西線・関駅には、14時45分頃にゴールイン。9.3㎞を歩きました。ここは、JR西日本のエリア。亀山までは1駅なのですが、この時間帯には1時間に1本のみ。しかも非電化区間。右の写真のように1両のディーゼルカーが走っています。

Img_2258c_20220507193201 Img_2266c_20220507193301  14時59分発の亀山行きに乗車。亀山には15時5分着。ここでJR東海の関西線に乗り換え。15時26分の名古屋行き快速。ただし、快速になるのは、四日市から。桑名には、16時6分着。料金は、通しで¥770。9.3㎞も歩き、また、暑かったのでそれなりに疲れました。しかし、今日は、念願の関宿を訪ねられましたので、心地よい疲労感です。歩数は、22,266歩。現地で9.3㎞、自宅から桑名駅往復が2.4㎞で、計11.7㎞。冒頭に書きましたように、今日のところは、以上、超予告編。

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2022年4月27日 (水)

20220423東海道ウォーク「井田川~亀山」(その3)……亀山城址にて多門櫓、明治天皇行在所旧蹟、亀山演武場などを見て、亀山駅にゴール(完)

220423kameyama2c Kameyamacastlec  4月23日の東海道ウォーク「井田川~亀山」の本編その3です。その2では、能褒野神社二の鳥居・露心庵跡から姫垣外苑まで来ました。ここからは、いよいよ亀山城址に進みます。

Img_9277c_20220425165001 Img_9272c_20220425165001  姫垣外苑通のすぐ西に亀山西小学校があります。門や塀が、いかにも城内にあるという造りでした。

Img_9280c_20220423175501  亀山城跡。スタートからほぼ6㎞。11時50分に到着。丹波国にあった明智光秀の亀山城(亀岡城とも)と区別するために、伊勢亀山城といわれることもあります。文永2(1265)年に関実忠によって若山(現在の三重県亀山市若山町)に築城され(冒頭2枚目のマップで、亀山古城趾としたところ)、その後、現在の位置に移されました。江戸時代は東海道の要衝としてたびたび城主が変わり、石川氏の時代に幕末を迎えています。江戸時代初頭には丹波亀山城の天守を解体するよう命じられた堀尾忠晴の間違いによって、天守を取り壊されたという話が伝わっていますが、真偽のほどは定かではないようです。正保年間(1644~1648年)、本多俊次が城主の時に天守跡に現在の多門櫓が建てられました。

Img_9293c_20220425170001 Img_9296c_20220425170101  その多門櫓、確か休日は内部が公開されているはずで、もう一度是非みたいと思っていました(2019年6月9日:20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(予告編)……雨にも負けず(苦笑))。平屋建、白壁の塗込で屋根は入母屋造り、東西北の三方に破風があり、平時は武器庫として利用されていました。県内に唯一現存する城郭建造物として、昭和28(1953)年に県史跡に指定されています。高石垣の上にそびえる多門櫓は、見事です。

Img_9415c_20220425170601 Img_9396c_20220423175601  その姿は、城跡から出て、池の側の方まで降りていくと眺めることができます。桜の季節であれば、きっと趣があることでしょう。

Img_9321c_20220423175601  多門櫓のところから、石垣を見下ろすと、かなり高いことがよく実感できます。

Img_9329c_20220425171001  多門櫓から降りた、すぐ西には、与助井戸があります。これは、亀山城本丸で使われていたイドといいます。城を築く前にあった与助という鍛冶屋の家の井戸であったと伝えられ、そのため、与助井戸と呼ばれていました。現在は、埋められています。木の枠は、井戸のあった場所を示しています。場外への抜け穴があったという話もありますが、確認はされていないそうです。

Img_9333c Img_9343c_20220425171401  多門櫓の西下には、「史跡明治天皇亀山行在所遺構」があります。明治天皇は、明治13(1880)年、三重県下巡幸の時、7月10日東町藤屋(伊藤市次郎宅)を行在所とされ、10、11日の両日、名古屋・大阪両鎮台対抗演習を統覧されました。これは、この折、玉座とされた奥8畳間など行在所の一部が移築保存されたものです。建物はまず井尻町に移された後、昭和10(1935)年、亀山小学校(現・亀山西小学校)地内に移築され、同14(1939)年三重県史跡に指定されました。同26(1951)年、市文化財となり、32(1957)年、ここ亀山城多門櫓石垣北側に再度移築されたのです。

Img_9356c_20220423175601 Img_9352c_20220425171801  その西には、亀山演武場が復元されており、亀山藩御流儀心形刀流武芸形(おんりゅうしんぎょうとうりゅうぶげいがた)(県文化財)が伝承されています。演武場は、約50坪の道場。心形刀流は、亀山藩武芸指南役山崎雪柳軒(やまざきせつりゅうけん;文政11(1828)~明治15(1882)年)が免許皆伝を得て、元治元(1864)年、亀山に演武場を開設し、柳生新陰流に代わって御流儀となりました。ちなみに、心形刀流は、心の修養を第一義とし、技の錬磨を第二義としているといいます。すなわち、技は形であり、心によって使うものであるとします。心が正しければ技も正しく、心の修養が足らないと技は乱れると考えられています。この技が刀の上に具現されるため、流名に示すように心形刀流となるそうです。こちらに心形刀流のパンフレットがあります。

Img_9360c_20220425171801  この亀山演武場の門として、「大久保神官家の棟門」が用いられています。大久保家は、江戸時代に南崎権現社の神官を務めていました。大久保家は、寛永9(1632)年に西町権現、東町八幡宮、西町三社権現を、また、13ヶ村42社の神官をかねていたともいいます。この門は、しばらく亀山小学校の裏門として使われた後、昭和30(1955)年に亀山神社境内に再び移築され、現在に至っています。

Img_9366c_20220423175601  亀山神社です。延享元(1744)年、備中松山から石川総慶が亀山城に入城した際、城内に小祠を設けたことに始まり、それ以来、亀山城内の旧館跡に鎮座して真澂(ますみ)神社として崇敬されて来たといいます。明治4(1871)年に城北の若山の地に遷座した後、同9(1876)年に再び本丸跡に遷座しています。明治40(1907)年から41(1908)年にかけて西町鎮座の郷社亀山皇太神社、阿野田村鎮座の式内社真木尾神社などを合祀し、社殿を現在の地である西丸に新築して奉遷し、社号を亀山神社と改めました。主祭神は、源義家源義時石川義純石川家成。亀山神社について、詳しくは、2019年6月17日の記事をご覧ください(20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(その3)……雨の中、亀山古城跡、花しょうぶまつり、亀山城多門櫓から亀山神社へ)。

Img_9373c_20220423175601  このあと、花菖蒲園の方をちょっと覗いて、亀山城をあとにしましたが、その前に、ますみ児童公園に保存されているC58蒸気機関車を見てきました。359号機です。子どもたちが小さい頃、家内の実家に行く途中に立ち寄って見たことがあります。きれいに手入れされています。75年前につくられたもので、昭和45(1970)年まで現役でした。

Img_9401c_20220423175601  亀山城址をあとにして、池の側の畔を歩いて行くと、「石井兄弟敵討遺跡石碑」があります。元禄14(1701)年5月9日早朝に、石井源蔵(33歳)・半蔵(30足)兄弟が、28年目にして父の敵・赤堀水之助を、ここ亀山城石坂門外で討ち取ったことを記念して、昭和7(1932)年に亀山保勝会によって建立されたものです。本懐を遂げた石井兄弟は、旧主の青山忠重に帰参を許されています。当時「元禄曽我兄弟」と称され、歌舞伎、講談、絵本、浮世絵などに取り上げられ、赤穂浪士の討ち入りと並び賞賛されました。

Img_9431c_20220423175601  池の側の向かい側に田中病院があり、その前に「池の側松並木」。亀山石坂門から池の側(外堀)に沿って植えられた松並木で、市天然記念物に指定されています。今は、写真に見える大きな松が1本だけで、その向こうに若木が植えられていました。

Img_9438c_20220423175601 Img_9448c_20220423175601  池の側松並木の南で、東海道に行き当たります。次回は、ここから関宿を目指す予定。小公園になっていて、そこが、西町問屋場跡。右の写真あたりに宿役人若林家の屋敷、問屋場が並んでいたと考えられています。右の写真は、関宿方面を撮ったもの。

Img_9488c_20220423175601 Img_9492c_20220423175601  これで今日の目的地はコンプリート。JR関西線亀山駅に向かい、12時40分に到着。取り敢えずは、7.4㎞を歩いてきました。亀山駅前では、現在、再開発が進んでいます。リニアが通ることを見越してです。マンションも建設されています。

Img_9500c_20220423175601 Dsc_6375c  名古屋行きの電車の時刻を確認して、昼食を摂ろうと思って、駅前を見渡したものの、コンビニもありません(苦笑)。駅前から県道565号線方面に行ったものの、食事ができそうなところは近くには見当たらず。駅前に引き返してきて、よく見たら、和菓子屋である瑞宝軒にカフェとありました。「食事はできますか?」と聞いたら、「大丈夫ですよ」との返答。ランチがあったので、それをチョイス。コーヒー付きで¥1,100。サワラのフライとハンバーグ。ご飯は七分づきのもの。なかなか美味しくいただけました。あとで調べたら、この瑞宝軒さんは、江戸時代後期、東海道沿いに角屋として開業した、歴史のある和菓子屋さんでした。

Img_9507c_20220423201901 Img_9517c_20220423175601  亀山駅に戻って、確か売店があったので、関の銘菓・関の戸を土産にしようと思ったら、売店は閉まっていました。残念。亀山を13時24分に出る名古屋行き快速に乗車。桑名駅には、14時6分着。¥680。けっこうよく歩いた感じでしたが、歩数は、18,459歩でした。自宅から桑名駅往復が、2.4㎞ほどですから、この日のトータルの歩行距離は、10.2㎞。次回は、亀山から関宿まで歩く予定。その先は、東海道と関西線が離れてしまうので、電車で行って歩くのが困難。県境まで東海道を歩くのは、難しそう。

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2022年4月26日 (火)

20220423東海道ウォーク「井田川~亀山」(その2)……能褒野神社二の鳥居・露心庵跡から姫垣外苑まで

220423kameyama2c  4月23日の東海道ウォーク「井田川~亀山」の本編その2です。その1では、JR関西線・井田川駅をスタートして、和田一里塚跡まで来ました。その2では、和田一里塚跡を過ぎてさらに西へ。栄町の交差点から、カメヤマローソクの工場を見て、能褒野神社二の鳥居、露心庵跡へ。このあたりが亀山宿東の入り口。本町広場には巡見道説明板がありますが、ここが巡見道との追分。ここから東町にかけて、昔の亀山の中心部。東町は、江戸町門口跡。福泉寺、法因寺を過ぎて、江ヶ室交番前交差点は、大手門跡・高札場跡。東海道は、ここで左折します。この先にある枡形を見て、江ヶ室交番前交差点に戻り、亀山城跡に向かいます。多門櫓・明治天皇行在所旧蹟・亀山演武場・亀山神社と回って、花菖蒲園を覗いて、亀山駅に向かいます。池の側で、石井兄弟敵討ち遺跡石碑。田中病院前には、天然記念物の池の側松並木。その後、西町問屋場跡を見て、亀山駅にゴール。

Img_9081c  栄町の交差点を過ぎると、左手(南側)にカメヤマローソクの亀山本社工場があります。昭和2(1927)年の操業。現在の社名はカメヤマで、本社も大阪に移転してしまいましたが、私には「亀山ローソク」の方が馴染みがあります。結婚式でのキャンドルサービスを日本で普及させたのは、この会社です。

Img_9092c_20220425065501  スタートから3.7㎞を過ぎたところに、能褒野神社の二の鳥居が道路をまたぐように立っています。能褒野神社は、ここから北東へ直線距離で3㎞。亀山市田村町にあります。日本武尊は、能褒野でなくなり、墓は「延喜式」に「能襃野墓」とあったのですが、後世に所在不明となりました。一帯には日本武尊の陵墓と伝えられる古墳がいくつかあったのですが、明治12(1879)年に「王塚」あるいは「丁字塚」と呼ばれていた前方後円墳(現在の能褒野王塚古墳)が、内務省によって「能褒野墓」に治定されています。その後、地元有志により日本武尊の遺徳をしのぶため能褒野陵周辺での神社の創建が企画され、明治28(1895)年に竣工しました。

Img_9096c_20220423175501  鳥居のすぐ西には、露心庵跡があります。亀山宿東端に位置する寺院跡です。天正12(1584)年に神戸正武が亀山城を襲ったものの、城を守る関万鉄斎はわずか13騎でこれを撃退したと伝わっています。この合戦の戦死者を城下の東端に2つの塚を築いて葬っています。この寺を建立した露心法師は、関氏一門で、もとは桑名城主に仕える武士でしたが、西町善導寺で仏門に入りました。その後、亀山城主であった石川昌勝に願って、古戦場の松林に友松庵を建て戦死者を供養したと伝えられます。この庵は露心の名にちなんで、その後、露心庵と呼ばれるようになりました。明治に廃寺になっています。

Img_9117c_20220423175501 Img_9124c_20220423175501  スタートから4㎞を過ぎ、10時40分頃、本町広場に到着。9時から歩いていますので、ここで一休み。ここの交差点は、東海道と巡見道との追分。巡見道は、江戸時代に幕府の巡見使の通った道のことです。県内の巡見道は、ここ亀山市の東町で東海道から分かれ、現在の国道306号を縫うようにして北上しています。巡見使は、将軍の代替わりごとに諸国の政情、政道の得失・民権の風俗を査察するために派遣される幕府の役人で、県内へは約10回の派遣の記録があります。右の写真が、巡見道。

Img_9111c_20220425152101 Img_9107c_20220425152101  この先、本町の通りを進んで行きますが、あちこちのお宅に昔の屋号を記したものが掲げられていました。「宿場の賑わい復活プロジェクト」として、平成13(2001)年に「きらめき亀山21 町並み保存分科会」がつくったものでした(このあといった枡形のところに掲示がありました)。屋号が掲げられていると、昔のことを早々しながら歩くことができ、楽しさが増します。

Img_9152c_20220425152801  亀山医院の前を過ぎると、東海道は左に曲がり、変則の4叉路に出ます。ここは、江戸門口跡。延宝元(1673)年、亀山城主・板倉重常によって気づかれた城門がありました。東西120メートル、南北70メートルで堀や土塁に囲まれた曲輪があり、その曲輪は3つに区画され、それぞれが枡形になっていたといいます。西側の区画には、番所がおかれ、通行人の監視や警固にあたったそうです。番所というよりも、亀山城惣構の城門という位置づけと考えられています。

Img_9160c_20220425153301  東町交差点。ここからアーケードのある商店街となります。シャッターが閉まっている店もありますが、まだまだ現役でやっている店もたくさん。

Img_9170c_20220423175501 Img_9179c_20220425153701  ふれあい広場の向かいを入っていくと、お寺が2つ並んでいます。まずは、松風山福泉寺。元は、慈覚大師が創設した天台宗のお寺でしたが、15世紀後半に真宗高田派に改宗しています。山門が立派でした。正面軒唐破風付入母屋造で、寛政7(1795)年の築造といいます。

Img_9183c_20220425153701  ここは、亀山愛児園という認定こども園を営んでいます。そのためか、境内には入れないようになっていましたので、山門から覗いて写真だけを撮ってきました。ちなみに、亀山愛児園は、昭和21(1946)年6月、三重県で戦後最初に開園された保育所だそうです。

Img_9222c Img_9189c_20220425154501  福泉寺の西隣にあるのが、真宗大谷派の宝亀山法因寺。創建は不詳ですが、蓮如上人の縁があったと伝えられており、門前に「蓮如上人御旧蹟」と刻まれた石碑が建っています。

Img_9195c Img_9198c_20220425154601  本堂も、庫裏も立派な建物でした。墓所には、江戸時代末期亀山藩の郡代奉行であった黒田孝富(亀山藩の藩政改革を断行し明治元年に暗殺)の墓があったのですが、これは見忘れてしまい、残念。

 Img_9201c_20220425154901 また、推定樹齢約300年の「左巻カヤ」が、墓所にあります(たぶん左の写真のもの)。亀山市指定天然記念物。この「左巻カヤ」は、カヤの変種で、種子が大型で、種子の殻の表面にみられる螺旋状の線が左巻きのカヤだということです。

Img_9227c_20220423175501  東海道に戻って、江ヶ室交番前交差点へ。ここは、亀山城の大手門跡。高札場もここにありました。大手門は、大手門櫓と大手脇櫓からなる枡形門でしたが、明治初頭には石垣に至るまで破却されています。東海道は、ここで左折し、南に向かいます。亀山城にはここを直進するのですが、東海道にある枡形だけを見てくることにしました。が、江ヶ室交番のところにある道路元標を見忘れました(苦笑)。

Img_9245c_20220423175501 Img_9249c_20220425162601  100メートルほど南に行ったところに東海道の枡形が残っています。ちょうど亀山市シルバー人材センターのところ。枡形を確認して、この日は、亀山城跡に向かいます。

Img_9267c_20220423175501  亀山西小学校の東のところに「姫垣外苑」。このあたりには、太鼓櫓があったといいます。小規模な三階の櫓で、最上階に時を告げる太鼓がおかれていました。江戸時代中頃に築造され、嘉永7(1854)年の大地震で倒壊。文久2(1862)年頃には再建されています。ちなみに、亀山城の別名は、「粉堞城(ふんちょうじょう)」といいます。「粉堞」とは、姫垣( 城壁などの上にめぐらした低い垣。また、たけの低い垣根。小さい垣)や、表面に白い胡粉(ごふん: 白色顔料。板甫牡蠣(いたぼがき)の殻を数年、風雨にさらし、粉砕、水簸(すいひ)、乾燥して作った炭酸カルシウムを成分とする粉末)を塗った簡易な塀という意味があります。「姫垣外苑」は、これに由来する名前ということ。

 その2は、私にしてはやや短い記事ですが、キリが良いのでここまで。その3では、いよいよ亀山城址へと入っていきます。

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2022年4月25日 (月)

20220423東海道ウォーク「井田川~亀山」(その1)……井田川駅を降りて、和田一里塚跡へ

Img_8837c_20220423175801  4月23日の東海道ウォーク「井田川~亀山」の本編その1です。同級生K氏との日程調整の関係で、1ヶ月ほどの間が開きましたというか、月1回ペースになっています。この日は、3回目の「東海道ウォーク」。昨年、「東海道・伊勢街道歩いて伊勢参りツアー」を完歩した後、今年はまず、三重県内の東海道を歩こうと考え、1回目では四日市の日永の追分~鈴鹿の加佐登を(2022年2月5日:20220205東海道ウォーキング(日永の追分~加佐登)(予告編))、前回は加佐登から亀山の井田川までを歩きました(2022年3月19日:20220319東海道ウォーク「加佐登~井田川」(予告編))。今回は、井田川駅から東海道を歩いて、亀山の町へ。亀山では、東海道からは少し外れますが、亀山城跡も主なところを回って来ました。亀山の最高気温は、26.3℃。ほぼ曇りで、正午頃からはしばらく晴れていました。歩くのにはちょうどよい気候。

Img_8845c_20220423175401 Img_8851c_20220424151701  JR関西線・桑名駅を8時14分に出る亀山行き普通に乗車。井田川駅には、8時54分着。¥590。9時ちょうどに井田川駅をスタート。駅から南西に向かいます。右の写真は、これから歩く東海道。都会を通っている東海道に比べると、のんびりした感じ。

220423kameyama1c  こちらが、実際に歩いたルートマップのその1。井田川駅から南西に進み、川合町で国道1号線を越え、西信寺、正福寺を周り、椋川を越えると和田に入ります。谷口法悦題目、道標1基、シャングリさんの小祠と訪ねて、東海道は西に向きを変え、幸福寺、道標1基、福禅寺、石上寺(せきじょうじ)を経て、和田一里塚跡に至ります。

Img_8857c_20220423175401  井田川駅からすぐの右手(西側)に「旧井田川小学校跡碑」があります。亀山市立井田川小学校は、歴史を遡ると、明治8(1875)年3月に田村、長明寺、海善寺の3ヶ村が共同で田村に設けた「田村学校」に始まります。その後、明治24(1891)年4月に鈴鹿分位だが羽尋常小学校となり、大正4(1915)年2月にここに移転。さらに、昭和54(1979)年4月に亀山市みどり町に移転するまで、ここにありました。

Img_8873c_20220424153501 Img_8876c  このあと、国道1号線を渡って、東海道は左折します。朝日町や、四日市市、鈴鹿市もそうでしたが、亀山市も、東海道の案内標識が充実しています。桑名にも東海道の案内はあるのですが、石柱になっています。格好は良いのかも知れませんが、気づきにくいのが難点。名所旧跡の案内も、似たような状況。

Img_8892c_20220423175401 Img_8882c_20220424153801  この先で右手にお寺が続きます。まずは、真宗高田派の廻向山西信寺(さいしんじ)。詳細は不明。

Img_8905c_20220424153801 Img_8896c_20220423175401  その先に浄土宗の三世山浄業院正福寺。こちらも、みえの歴史街道にも、ネットにもこれという情報はありません。

Img_8914c_20220423175401  国道1号線の高架橋をくぐり、和田町に入ると、スタートから1.5㎞地点の手前、西側に「谷口法悦題目塔」。川合と和田の境にあります。元禄年間(1695~98)のもの。題目塔(だいもくとう)は、南無妙法蓮華経と刻まれた、鎮魂を目的とする供養塔です。谷口法悦(生年不詳)は京都の商人で、一族とともに、全国の街道筋に100基以上の驚異的な数の題目塔や仏涅槃図、板曼荼羅などを寄進しています。刑死者供養に刑場跡や街道筋に題目塔を建立したとも伝わっています。ここの題目塔は、川合と和田の境にあり、昔から「川合のやけ地蔵さん」「法界塔さん」と呼ばれています。高さは2.59メートルで、塔の正面に「南無妙法蓮華経」、右側に「後五百歳中廣宣流布」、左側に「天長地久國土安穏」、背面に「施主谷口法悦」と刻まれています。

Img_8939c_20220424164601 Img_8942c_20220424164601  東海道が県道23号線の和田交差点に接近する手前に和田の道標があります。「従是 神戸 白子 若松道」と刻まれ、白子道を示しています。元禄3(1690)年、度会益保によって建てられたものです。裏には、「元禄三庚午年正月吉辰 施主度会益保」とあります。神戸城下町へ3里半、白子町へ3里、若松村へは3里14丁。若松村には、亀山藩領の港があり、そこへの重要な道路を示しているのです。また、この道標は、三重県の東海道に現存する最古のものだそうです。

Img_8951c_20220423175501  道標の先には、シャングリさんの小祠。川合と和田の境にあって、和田の村に悪霊が入ってこないよう、見張るためのもの。シャングリさんの小祠を過ぎると、東海道は西向きになります。

Img_8981c  和田の公民館の向かい側に「井尻道」の道標があります。これは、田中音吉が建てたもの。田中音吉は、亀山生まれの明治~大正時代の実業家。明治30(1897)年、亀山共同社(のち亀山製絲会社)を設立しています。亀山あたりの道路の分岐点に多数の道標を建てています。今のところ、61基の存在が確認されています(こちら)。ちなみに、井尻は、ここから南に、県道23号を超えた鈴鹿川沿いにある町。

Img_8989c_20220423175501  井尻道の道標のところの小路を入ると、真宗高田の當修山幸福寺がありますが、ご覧のような状況。本堂はありますが、庫裏は見当たりません。境内も、工事中というか、工事に取りかかる直前という印象でした。ネットではこれという情報は見つけられず、詳細は分かりません。

Img_8971c_20220423175501  東海道に戻り、井尻道の道標の先、右手に(北側)天台真盛宗の福善寺。こちらのお寺も、宗派以外には、ネットなどではとくに情報は出て来ませんし、説明板もありません。

Img_9002c_20220423175501  スタートから2.5㎞ほどのところに那智山松寿院石上寺(なちさんしょうじゅいんせきじょうじ)。高野山真言宗。本尊は子安延命地蔵菩薩。伊勢七福神の一つ。延暦15(796)年、大和国布留郷(ふるのさと)の住人「紀真龍」(きのまたつ)が、石上神宮の神告により、この地へ那智山熊野権現を勧請し、新熊野三社として祀ったのが、新熊野権現社の起源で、同年8月弘法大師が真龍の元を訪れ、地蔵菩薩を刻み一宇を建立して、那智山石上寺と名付けたのが、当山の始まりとされています。

Img_9006c_20220423175501 Img_9013c_20220424171601  朱雀天皇(在位931~947年)の勅願寺や、建久6(1195)年に鎌倉将軍家の祈願所となるなど、名刹で壮大な神廟寺院も、永禄年中(1567~1569年)、織田信長の伊勢進攻の兵火により焼失したものの、権現社と地蔵堂は難を免れたといいます。その後、正保元(1644)年に再興、正徳2(1712)年に僧是幼が中興して今日に至っています。伊勢七福神としては、布袋尊を祀っています。

Img_9045c_20220424171701 Img_9049c_20220424171801  境内は広く、西側の高くなったところに鐘楼と熊野権現社があります。元は、このあたりに勧請された熊野神社の神宮寺で、大伽藍があったといいます。境内には、四国88箇所霊場巡りも再現されていました。

Img_9061c_20220423175501  石上寺から300メートルほど西に、和田一里塚跡。江戸日本橋から104里。慶長9(1604)年、亀山城主であった関一政が築造したもの。当初は街道の両側に塚が設けられ、頂上部には榎が植えられていましたが、道路の拡幅工事により片側が消滅。僅かに残されたもう一方の塚の一部も、昭和59(1984)年、道路の拡幅にともないなくなりました。現在のものは、跡地の東側の近接した場所に模式復元されたものです。

 その1は、ここまで。その2では、いよいよ亀山宿へと進んで行きます。

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2022年4月23日 (土)

20220423東海道ウォーク「井田川~亀山」(予告編)

Img_8837c_20220423175801  1ヶ月ほどの間が開きましたが、今日は、「東海道ウォーク」の3回目。前回は、JR関西線・加佐登駅から井田川駅まで歩きました(2022年3月19日:20220319東海道ウォーク「加佐登~井田川」(予告編))。今回は、井田川駅から東海道を歩いて、亀山へ。亀山では、東海道からは少し外れますが、亀山城跡も主なところを回って来ました。亀山の最高気温は、26.3℃。ほぼ曇りで、正午頃からはしばらく晴れていました。歩くのにはちょうどよい気候。今日のところは、予告編です。

Img_8845c_20220423175401Img_8857c_20220423175401  JR関西線・桑名駅を8時14分に出る亀山行き普通に乗車。井田川駅には、8時54分着。¥590。9時ちょうどに井田川駅をスタート。駅から南西に向かいます。すぐに右手(西側)に「旧井田川小学校跡碑」があります。井田川小学校は、大正4(1915)年2月にここに移転して来て、昭和54(1979)年4月にみどり町に移転するまで、ここにありました。

Img_8892c_20220423175401 Img_8896c_20220423175401  このあと、国道1号線を渡って、東海道は左折。右手にお寺が続きます。まずは、真宗高田派の廻向山西信寺(さいしんじ)(左の写真)。その先に浄土宗の三世山浄業院正福寺(右の写真)。どちらも、みえの歴史街道にも、ネットにもこれという情報はありません。

Img_8914c_20220423175401  正福寺の先で1㎞。椋川を渡って、国道1号線の高架をくぐって、1.5㎞地点の手前、西側に「谷口法悦題目塔」。川合と和田の境にあります。元禄年間(1695~98)、谷口法悦が造立。「南無妙法蓮華経」と刻まれています。谷口は、日蓮宗の篤信者で、17世紀末頃、一族とともに各地の寺院、街道筋にこうした題目塔を造立しています。

Img_8932c_20220423175401 Img_8951c_20220423175501  県道23号線の和田交差点に東海道が接近する手前に道標があります。「従是 神戸 白子 若松道」とあり、白子道を示しています。元禄3(1690)年、度会益保によって建てられたものです。若松村には、亀山藩領の港があり、そこへの重要な道路を示しています。また、この道標は、三重県の東海道に現存する最古のものだそうです。道標の先には、シャングリさんの小祠。川合と和田の境にあって、和田の村に悪霊が入ってこないよう、見張るためのもの。

Img_8989c_20220423175501  和田の公民館の向かい側に「井尻道」の道標があります。これは、田中音吉が建てたもの。Img_8981c田中音吉は、亀山生まれの明治~大正時代の実業家。明治30(1897)年、亀山共同社(のち亀山製糸会社)を設立しています。このあたりの道路の分岐点に道標を建てています。今のところ、61基の存在が確認されています(こちら)。ここを南に入ると、真宗高田の當修山幸福寺がありますが、ご覧のような状況。庫裏も取り壊されているようですし、境内も、工事中というか、工事に取りかかる直前という印象でした。ネットではこれという情報は見つけられませんでした。

Img_8971c_20220423175501  東海度に戻って少し行くと、スタートから2.5㎞を過ぎた右手に(北側)天台真盛宗の福善寺。こちらのお寺も、宗派以外には、ネットなどではとくに情報は出て来ません。

Img_9006c_20220423175501  こちらはその先にあるImg_9002c_20220423175501  石上寺(せきじょうじ)。那智山松寿院という号があります。本尊は子安延命地蔵菩薩。伊勢七福神の一つ。元は、このあたりに勧請された熊野神社の神宮寺で、大伽藍があったといいます。境内には、四国88箇所霊場巡りも再現されていました。

Img_9061c_20220423175501  石上寺からほど近くに、和田一里塚跡。江戸日本橋から104里。慶長9(1604)年、亀山城主であった関一政が築造したもの。昭和59(1984)年、道路の拡幅にともない、それまで残っていた塚の一部がなくなり、跡地の東側のここに模式復元されたものです。

Img_9085c_20220423175501 Img_9096c_20220423175501  栄町交差点を過ぎ、スタートから3.7㎞ほどのところに、能褒野神社の鳥居。この鳥居から北東へ約3㎞のところに能褒野神社があります。能褒野神社は、日本武尊能褒野御墓(やまとたけるのみことのぼのおんぼ)のところにあります。この御墓は、日本武尊が、東征帰路にこのあたりで亡くなられたという記紀の記述に基づき、明治12(1879)年に内務省が「日本武尊能褒野御墓」と定めています。鳥居のすぐ先に露心庵跡。天正12(1584)年に神戸正武が亀山城を襲ったものの、城を守る関万鉄斎はわずか13騎でこれを撃退したと伝わっていますこの合戦の戦死者を城下の東端に2つの塚を築いて葬っています。関氏一門の露心はこのあたりに仏庵を建立し、戦死者を供養したといいます。この仏庵が露心庵です。明治に廃寺になっています。

Img_9117c_20220423175501 Img_9124c_20220423175501  このあと、本町交差点にある本町広場(巡見道説明)で一休み。10時40分頃から11時頃まで。この本町交差点で、東海道と巡見道とが分岐します。右の写真で、奥の方向に続くのが巡見道。

Img_9151c_20220423175501  東町のバス停のところは、江戸門口跡。延宝元(1673)年、亀山城主・板倉重常によって築かれた門があったところ。番所もおかれ、通行人の監視や警護に当たったといいます。

Img_9170c_20220423175501 Img_9222c  東町の商店街に入っていきます。5㎞の手前を北に入ったところに、まずは福泉寺。慈覚大師が創設した天台宗の古刹で、寛正元(1460)年に真宗高田派に改宗したと伝えられます。山門は寛政7(1795)年の建立で、県の文化財に指定されています。福泉寺に向かい合うようにしてあるのが、真宗大谷派の法因寺。蓮如上人御旧蹟であり、また、墓地内に天然記念物である「法因寺の左巻カヤ」があります。果実に白筋があるのですが、その筋が左巻に現れるのが珍しいとされています。

Img_9227c_20220423175501 Img_9245c_20220423175501  江ヶ室交番前の交差点は、亀山城の大手門跡です。大手門があったほか、ここは高札場でもありました。東海道は、ここで左折して南に向かいます。すぐ先に枡形が残っています(右の写真)。このあと、亀山城跡を見に行きたかったので、枡形を確認して、江ヶ室交番前の交差点に戻り、東海道からは外れて、亀山城跡へ。

Img_9280c_20220423175501  亀山城は、別名を粉蝶城(こちょうじょう、ふんちょうじょう)といいます。文永2(1265)年に関実忠によって若山(現在の三重県亀山市若山町)に築城され、その後現在の位置に移されています。江戸時代は東海道の要衝としてたびたび城主が変わり、石川氏の時代に幕末を迎えました。

Img_9396c_20220423175601 Img_9321c_20220423175601  ここで必見なのは、多門櫓。多門櫓は、天守台といわれる本丸高石垣上にあり、寛永9 (1632)年頃に築造されたとみられます。三重県で唯一現存する城郭建造物として県史跡に指定されています。土日祝日は公開されており、今日も内部を見学してきました。

Img_9356c_20220423175601  多門櫓の西にある明治天皇行在所遺構です。Img_9333c明治天皇が明治13(1880)年7月10日、11日に大阪鎮台・名古屋鎮台兵対抗演習天覧のため、亀山の藤屋でニ泊されたときに玉座として使われた建物が、亀山城跡地に移築され残っているのです。右の写真は、そのさらに西にある亀山演武場。元治2(1865)年、十五代亀山藩主石川総脩により武道場の設立が許され、南野村喬松館御殿の東(現在の南野町)に、江戸の伊庭道場の長所を取り入れた約50坪の道場が建設されました。廃藩置県や廃刀令を経て、明治15(1882)年に演武場はここに移設されています。亀山藩に伝わる心形刀流(しんぎょうとうりゅう)を今に伝えています。

Img_9366c_20220423175601  そのさらに西には、亀山神社。延享元(1744)年、備中松山から石川総慶が亀山城に入城した際、城内に小祠を設けたことに始まり、それ以来、亀山城内の旧館跡に鎮座して真澂(ますみ)神社として崇敬されて来たといいます。このあと、花菖蒲園の場所を覗いて、亀山駅に向かいました。

Img_9401c_20220423175601 Img_9431c_20220423175601 城の南に池の側という名前の池があります。その畔に「石井兄弟亀山敵討遺跡」と刻まれた石碑があります。これは、元禄14(1701)年5月9日、石井半蔵・石井源蔵の兄弟が、父の宇右衛門と兄の三之丞の仇である赤堀源五右衛門を伊勢国亀山の城下で討ち取ったことに関する記念碑。この先、田中病院の前には、松の木があります。ここは「池の側 松並木」。亀山城石坂門から池の側(外堀)に沿って植えられた松並木で、市天然記念物です。

Img_9488c_20220423175601 Img_9492c_20220423175601  JR関西線・亀山駅には、12時40分頃到着。亀山駅前では、リニア開通を見越して、駅前の整備とともに、マンションの建設などが行われていました。電車の時刻を確認してから、昼食を食べられる店を探して、若干ウロウロしました。昼食のために歩いたのも含め、亀山駅までで最終的には7.8㎞を歩いています。

Img_9500c_20220423175601 Dsc_6375c  昼食は、結局、駅前にあった「瑞宝軒」という和菓子屋さんがやっているカフェへ。最初は、和菓子屋さんだから昼ご飯はないなと思って、いったん通り過ぎたものの、ほかに飲食店はなく、戻って来て「食事ができますか?」と聞いたら、大丈夫といわれました。ランチもあったので、それをチョイス。コーヒー付きで¥1,100。サワラのフライとハンバーグ。ご飯は七分づきのもの。なかなか美味しくいただけました。

Img_9507c_20220423201901 Img_9517c_20220423175601  亀山駅を13時24分に出る名古屋行き快速に乗車。桑名駅には、14時6分着。¥680。けっこうよく歩いた感じでしたが、歩数は、18,459歩でした。自宅から桑名駅往復が、2.4㎞ほどですから、今日のトータルの歩行距離は、10.2㎞。予告編はここまで。本編はまた明日以降、ボチボチと書いていきます

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2022年4月16日 (土)

今日もアカハラがいました

Dsc06538c Dsc06573c  昨晩から、ずっと7~8m/sの北西の風が吹いています。散歩の時は、いつも揖斐川の堤防を歩きますが、飛ばされそうでした(苦笑)。プチ遠征も考えたものの、この強風ではと思い直し、いつものように、7時半から住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀南公園、外堀、京町、田町、三崎通と5.7㎞、3時間コース。距離がやや短いのは、九華公園のあちこちでしゃべっていたから(微苦笑)。散歩友達や、鎮国守国神社の宮司さん、神社総代の方など。散歩のお陰で、ローカルな世間が広がっています。冒頭の写真は、諸戸氏庭園前にあるマイ・ソメイヨシノ。右は、蟠龍櫓のところ。どちらもほとんど葉桜。桜が咲いていたのは、ずいぶん前だったような気がします。

Dsc06557c_20220416151501  七里の渡し跡までで、スズメ、ハシボソガラス、ドバトくらいしか見ませんでした。揖斐川には、水鳥はまったくおらず。七里の渡し跡で、ヒドリガモが16羽。まだいたのか、という感じ。

Dsc06595c  九華公園ではまず、ツグミ。いつも北門を入ったところにある四阿のあたりにです。今日は、スズメやドバト、ヒヨドリがあまりいません。カワラヒワもほとんど鳴いていません。

Dsc06601c Dsc06613c  鎮国守国神社の社務所裏にゴイサギ。正面を向いていたので、最初は何だか分からず、「ヘンなヤツがいる」と思ってしまいました。右は、横から見えるところに回って撮ったもの。

Dsc06719c  コゲラの巣。見に行っても、巣をズーッと見ているわけではありません。注意がそれた隙に、巣にいた親が出ていき、代わりがやって来たところ。カメラを向けるのが、ちょっと遅れてしまったのです。

Dsc06692c_20220416151501 Dsc06784c  奥平屋敷跡には、今日も、アカハラがいました。2日連続で見たのは、初めて。しばらくいてくれるといいのですが、どうでしょう。ツグミもまだまだやって来ます。

Dsc06780c_20220416151501 Dsc06753c  ハクセキレイのオスと、カワラヒワも来ました。ハクセキレイのメスは、ここしばらくやって来ていません。カワラヒワは、少数。ほかは、スズメ、ムクドリ、ドバト。ハシボソガラスは1羽が必ず巣に就いています。今日は、ヒヨドリがほとんどいません。カワセミには、しばらく会っていません。

Dsc06906c Dsc06631c  カモは、キンクロハジロが6羽。オス4羽にメス2羽。ヒドリガモは見られなくなりました。オオバンも来なくなっています。鳥が少ないので、たまにはカワウさんを。ただし、カワウも、多くは来ていません。

Dsc06818c Dsc06865c  さらに、奥平屋敷跡で鳥を待っていたら、アゲハ。木の葉っぱに止まっていました。その奥平屋敷跡の今日の様子。ハナミズキが咲いて、木々には葉が繁ってきて、ただでさえ少ない鳥を見つけにくくなっています。まぁ、気持ちの良いところであるのは、間違いありませんが……。このあと、貝塚公園では、カワラヒワの鳴き声を聞いただけ。内堀南公園には鳥はおらず。京町の呉服屋さんの巣にだけ、ツバメがいました。

Dsc06581c Dsc06583c  話は戻りますが、柿安コミュニティパークの藤棚。ここしばらく、コミュニティパークの東側の揖斐川堤防で、ヒバリやホオジロを探していたので、フジが咲いたのを見ていなかったのです。数年前よりも、ちょっと貧弱ですが、2種類のフジが植わっています。

Dsc06934c Dsc06937c  こちらは、内堀南公園の藤棚。ここのフジは、手入れがされていない割に、きれいに咲きます。毎年写真を撮って載せていますが、藤棚のそばに種がこぼれて、そこから出て来た木にも花が咲いています(右の写真)。これ、何となく気に入っているのです。

Dsc06997c  あちこちでハナミズキもよく咲いてきています。これは、県道613号線、桑名宗社の裏手あたりでの光景。ところで、今夜は、マンションの管理組合の理事会。責任者を仰せつかっていますが、いろいろと用事があります。私が普段使っているエレベーターのリニューアル工事、週末は休止。階段を登らなくても帰宅できるのは、ありがたい。リニューアル工事は、来週の月曜~水曜で終わる予定。もう1基エレベーターがありますが、そちらは来月、工事の予定。

Img_8528c_20220416163501  余談。今年2月4日の記事に鎮国守国神社に新しい献灯場所ができ、黄色い提灯が奉納された話を書きました(立春寒波なるも、モズ、カワセミ……確定申告の準備中)。黄色い提灯に黒い文字で、神社ではあまり見たことがないタイプだと思っていました。今日、宮司さんに伺ったら、学生時代に靖国神社に参拝されたとき、同じような提灯が掲げられていたのだそうです。黄色い提灯に黒い文字の方が、文字がぼやけず、いいとお考えになったのだそうです。なるほど。ちゃんと意味というか、理由があるものなのです。

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2022年4月 4日 (月)

今日こそが絶好の花見日和

Dsc08990c Dsc09004c  昨日の夜の予報では、雨でしたが、朝から良く晴れました。こういう風に予報が外れるのは大歓迎です(笑)。最高気温も21℃を超え、まさに花見日和。7時半からいつものように散歩に出ましたが、住吉神社からは、桜堤防へ。その後、九華公園、内堀公園、桑名宗社(春日さん)、京町、新築公園、常磐町、老松公園、寺町と、若干バリエーションをつけて6.7㎞。冒頭の2枚の写真は、桜堤防にて。

Dsc08973c Dsc09103c  住吉入江や、住吉水門あたりには、鳥影はまったくありません。ちょっと寂しい気がしますが、渡り鳥が帰っていくのは、春が進んだ証拠ですから、まぁやむを得ません。しかし、七里の渡し跡では、ヒドリガモが18羽(右の写真)に、コガモも3羽いました。

Dsc09131c Dsc09225c  蟠龍櫓とソメイヨシノも、好天に恵まれそれなりの写真が撮れました。今日もまた、ヒバリやホオジロがいないかと柿安コミュニティパークの東側の堤防を歩きましたが、何もいません。ツグミも見ませんでした。

Dsc09038c Dsc09193c  揖斐川には、シラウオ漁の漁船が1組出ていました。4月になってもシラウオ漁をしているのは珍しい。左の写真にも写っていますが、ユリカモメが3羽ほど漁船にやって来ていました。

Dsc09143c  ユリカモメ、九華公園にはほとんど来なくなりました。よく見ると、ガングロ化してきています。これは、夏羽にモデルチェンジ中なのです。ユリカモメは、英語では“Black-headed gull”といいます。「頭の黒いカモメ」です。

Dsc09244c Dsc09255c  桜堤防まで足を伸ばしましたが、九華公園にはほぼいつも通り、8時に到着。鎮国守国神社には、ゴイサギが2羽とホシゴイが1羽。このところずっといます。前にも書きましたが、ゴイサギは、繁殖シーズンに入っていると思うのですが、こんなところにいてだいじょうぶなのでしょうか?

Dsc09437c  公園では、露店も、堀めぐりも早くもこの時間から準備中。月曜日ですが、普段の平日よりは、人出は多い印象。新1年生と思われるお子さんを連れた親御さんも。桜の木の下で、真新しいランドセルをショット記念撮影をしておられました。微笑ましい。などと書くと、ジイ様根性丸出し(苦笑)。

Dsc09362c Dsc09316c  奥平屋敷跡では、コゲラが登場。右の写真のように、いつの間にか親コゲラが入って、中で向きを変えられるほど、深い穴を掘ったようでした。

Dsc09309c Dsc09428c_20220404185501  いつものように奥平屋敷跡には8時過ぎからほぼ1時間いたのですが、コゲラも同じ時間、入れ替わりはあったものの、営巣作業を継続。ちょっと分かりにくいかも知れませんが、よく見ていただくと、木くずが飛んでいるのが見えます。何度も繰り返し、掘っては木くずを放り出すという作業をしていました。他に奥平屋敷跡では、カワラヒワ(右の写真)、ドバト、スズメ、ムクドリなど。

Dsc09283c  カモは、いよいよ少なく、私が見たのは、ヒドリガモ2ペアと、キンクロハジロ2羽のみ。ただし、散歩&鳥見友達のYさんは、他にヒドリガモが1ペアと、キンクロハジロが9羽いたといいます。オオバンは、2羽が泳ぎ回って、堀に散った桜の花びらなどを食べていました。

Dsc09456c  鎮国守国神社の境内では、ドウダンツツジの花が咲き始めていました。ただし、まだほんのごく一部。

Dsc09481c Dsc09516c  再び、鎮国守国神社の社務所裏を見に行くと、ゴイサギ・ホシゴイが増えていました。というか、よく見えるところに現れたということでしょう。ゴイサギが4羽にホシゴイが2羽になっていました。Yさんによれば、土曜日には、ゴイサギ・ホシゴイが8羽いたそうです。

Dsc09614c  九華公園の桜は、もう何度も撮りました。今日は、テレビ、新聞情報では満開となっていましたが、少しずつ散り始めています。桜が散り始めると、次は、花筏が見たくなります。奥平屋敷跡と立教小学校の間の堀の様子がこの写真。花筏にしては、まだちょっとという感じですが。もうしばらくすると、もっとそれなりの花筏が見られると思います。

Dsc09641c Dsc09649c  このあと、内堀公園に立ち寄ってから桑名宗社(春日さん)へ。ここには、金龍桜があり、先日、春日さんのインスタで見ごろだと載っていましたので、見てきました。もとの金龍桜が枯れてしまい、これはその子孫。松平定綱が摂津の天台宗金龍寺から分植したもので照源寺にもあります。

Dsc09654c  春日さんの眺憩楼。3月28日にオープンしています。いずれ拝観したいと思っています。春日神社が所蔵する、天文12(1543)年に村正自身によって奉納された作品のレプリカが展示されており、また、建物は、明治時代の料亭「船津屋」を移築したもので、一見の価値は十分あります。6月末までは無料。御朱印にはあまり興味はないのですが、特別授与品の「村正切り絵御朱印」にはちょっと気持ちが動きます。

Dsc09686c  新築公園では、今日もツバメが巣材を取りに来ていました。毎回同じツバメのように思えます。写真のツバメは、尾が短いのでメスと思いますが、近くの電線には相方のオスがいて、一緒に飛び去って行きました。新築公園には、ハクセキレイのペアも来ていました。

Dsc09746c Dsc09748c  御坊さん(真宗大谷派桑名別院)では、今日は、「子ども花まつり」が開かれていました。白象に乗ったお釈迦様は、初めて見た気がします(今までは、近くの仏壇屋さんの白象を借りていたはず)。

Dsc09750c  白象に乗ったお釈迦様は、何となく現代風。花まつりは、4月8日に開催されます(こちら)。

Dsc09762c  このあと、住吉入江から帰宅。この写真の桜の景色も、私の好きなところ。奥に見えているのは、諸戸氏庭園。主屋の修理が続いていて、シートに覆われているのがちょっと残念。

Dsc09768c  午後からは、気合いを入れ直して、土曜日の相談会の報告書の加筆修正を行っています。このブログを書いている時点では、ほぼ完了。明日、発送できそうです。

Dsc09728c_20220404185401 Dsc09730c  余談。市民会館が、4月1日から「柿安シティ・ホール」に名称変更。「ネーミングライツ」を柿安さんが手に入れたということ。桑名では市民会館のネーミングライツは、5年で更新。1年50万円だったと思いますが、きわめて個人的には、50万円稼ぐのに、ネーミングライツを売るのはどうかという気がします。「桑名市民会館」でわれわれには何も不都合はないからです。

Dsc09770c  さらなる余談。我が家の玄関先から見える藤原岳。今年は4月になってようやく雪がほとんどなくなりました。

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2022年3月25日 (金)

今シーズン初めてツバメを撮影……春日さんで「眺憩楼」、石取会館で江戸時代の祭車を見る

Dsc03246c  今日までは天気もよく、暖かいとか。朝のうちは、何だか空が霞んでいました。今日も17℃を超え、歩いてきたら、汗を掻きそうなくらいの陽気。いつものように、7時半から住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀公園と回ってから、春日さん(桑名宗社)、石取会館、京町、寺町、三崎通、住吉入江に戻って、桑名七里の渡し公園と歩いて、6.4㎞。午後からは、新しい運転免許を受け取って、その帰りに市役所に寄って用事を1つ済ませてきました。

Dsc03252c Dsc03794c  諸戸氏庭園前にあるマイ・ソメイヨシノ。一分咲きか、二分咲きかというところ。老木ですが、毎年見事に花を咲かせてくれ、楽しめます。ここの桜並木、他にヤマザクラもあり、花見をしたいくらいのところです。

Dsc03275c Dsc03286c  住吉入江から住吉水門のあたり、今日も水鳥はいません。もう来なくなったといった方が良いかも知れません。住吉水門の下流側・右岸堤防には、コガモ3ペアとオオバン1羽。住吉水門のところの高水敷でヒバリ3羽を見つけ、写真を撮ろうとしたものの、見事に逃げられ失敗。揖斐川には、カンムリカイツブリが合計3羽ほど。すっかり夏羽にモデルチェンジして、見違えそうになるものもいます。

Dsc03293c Dsc03388c  九華公園では、鎮国守国神社の社務所裏のいつものところにゴイサギが1羽。他は、静かです。先日も書いたと思いますが、繁殖シーズンに入っているためと思います。昨日までは、イカルの鳴き声が聞こえていましたが、今日はまったく聞けず。いなくなったかも知れません。巣作り中のはずのコゲラは、今日は、私がいる間には姿を現しませんでした。奥平屋敷跡では、ツグミ。

Dsc03412c  カワラヒワは、九華公園を始め、あちこちで見ます。こちらは、奥平屋敷跡で見たカワラヒワ。ペアでいて、その片方が写真のように、巣材に使うと思われるものを咥えていました。ちょっと遠かったので、トリミングはしましたが、分かりにくいかも知れません。

Dsc03422c  奥平屋敷跡の松の木にあるカラスの巣。親ガラスが巣に就いているようです。黒っぽいものが見えますが、たぶんハシボソガラスの尾羽。ときどき、もう1羽がやって来ます。

Dsc03501c  二の丸跡で、ジョウビタキのオス。地面に降りて、盛んに餌を啄んでいました。ジョウビタキを見ることが少なくなった気がします。モズは、このところサッパリ見なくなりました。

Dsc03557c Dsc03448c  カモは、今日は合計49羽。ホシハジロのオス(右の写真)は、数を数えていたら、どこかからか飛んで来ました。ヒドリガモ、今日は、2ペア。ハシビロガモはオスが2羽、メスが1羽。他はキンクロハジロ。ユリカモメは見ていません。

Dsc03524c Dsc03542c  本丸跡のソメイヨシノ、パッと見は代わり映えしませんが、それなりに見られるくらいに咲いて来ました(左の写真)。例年であれば、しだれ桜がソメイヨシノよりも1週間くらい早くから咲くのですが、今年は同時進行(右の写真)。

Dsc03535c Dsc03530c  予定では明日から、「桑名城お堀めぐり」が始まります。今日は、それに使う船が曳航されてきていました。公園では、今日もさらに露店の準備が進んでいましたが、右のような掲示物も出されています。ちょっと矛盾している気もしますが、実際に花見客がどれくらい来園するでしょう?

Dsc03615c Dsc03678c  貝塚公園から内堀公園に向かう途中、ようやく今年初めて、ツバメの写真が撮れました。尾が長いので、これはオス。ツバメはもう1羽、石取会館の前でも見ました(右の写真)。次は、飛んでいるところに挑戦したいと思っていますが、さてどうなりますか?

Dsc03652c  春日さんは、ヒョッとしたら初詣以来かもしれません。このところ、社務所の改修工事をしていて、完成が近いというので、見てきました。

Dsc03661c  こちらがその社務所。明治時代の料亭「船津屋」を移築した建物で、明治天皇をはじめ皇族の方々が宿泊されたことから菊紋が使用されているそうです。この部屋より見る揖斐川と多度山の景色は素晴らしく、明治21(1888)年に有栖川宮熾仁親王がお越しの際に、賞賛され、筆を採って「眺憩楼」という名を賜ったといいます。昭和35(1960)年にここ桑名宗社に移築されたものの、公開はされていませんでした。このたび、桑名宗社の所蔵する村正の写しがつくられ、それを常設展示するため、改修工事を行っていました。3月28日から一般公開されます。詳しくは、こちら

Dsc03663c Dsc03667c  ついでにコブシ。境内の神社会館の西にあります。去年も見に来ています(2021年3月22日:コブシの花、満開@桑名宗社……前期高齢者2年目に突入(微苦笑))。

Dsc03657c_20220325161201 Dsc03659c  金龍桜も気になっていましたが、まだちょっと早かったようです。去年は、3月の末になって咲き始めています(2021年3月29日:春日神社の金龍桜とドウダンツツジが咲き始めました……ツツジの花芽も大きくなる)。

Dsc03676c Dsc03674c  春日さんから石取会館へ。石取祭の祭車行事を紹介する施設です。大正14(1925)年に四日市銀行桑名支店として竣工した建物で、国の登録有形文化財になっています。

220322chunichiishidor  3月22日の中日新聞に「桑名・石取祭の祭車を常設展示 現存最古の遺産、処分話から一転し継承へ」という記事が載っていましたので、その祭車(さいしゃ)を見に行ったという次第。150年ほど前まで使われていたとされる祭車が、常設展示されているのです。現在の祭車は、三輪構造ですが、四輪となっており、現存する祭車では最古と考えられています。原型部分は、19世紀初めの江戸時代につくられたと思われ、高さ2.6メートル、長さ2.7メートル、横幅1.7メートルです。ただ、残念ながら、館内の撮影は禁止。

Dsc03732c Dsc03753c  このあと、寺町商店街へ。「河津桜にメジロ」を撮って来ました。もう、かなり葉桜になっていますが、メジロは近所のお宅から出て来て、蜜を吸っていきます。

Dsc03780c  明日は、雨予報。とくに午後から荒れ模様とか。ある社会福祉法人の評議員会に出席するため、菰野まで行かねばなりません。写真は、桑名七里の渡し公園。

 

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2022年3月24日 (木)

20220319東海道ウォーク「加佐登~井田川」(その3)……西富田町から井田川駅にゴール(完)

220319kasado2c  3月19日に行ってきた”東海道ウォーク「加佐登~井田川」”の本編その3です。その2では、鈴鹿川沿いから安楽川沿いの汲川原、中冨田、西冨田を歩きました。西冨田の福萬寺では、掲示板にあった「煩悩を卒業することはできません 松本梶丸」ということばに悩みました。あらゆる煩悩を欠くことなく具えている私にとっては、戸惑いを残したまま、次へ進むのです(苦笑)。ルートマップその2では、「ひろせ道」道標、西冨田の川俣神社、和泉公民館の地蔵尊、弘法井戸、和泉の川俣神社が残っています。

Img_7148c_20220319175901 Img_7145c_20220323193501  「ひろせ道」道標です。この道標も、田中音吉の寄付により建立された道標です。田中音吉については、その2の記事に詳しく書きました(2022年3月23日:20220319東海道ウォーク「加佐登~井田川」(その2)……汲川原から西冨田の福萬寺へ)。ここから北に1.5㎞ほど行ったところに鈴鹿市広瀬町がありますから、そこへの道を示すものと思います。

Img_7152c_20220323194101  安楽川の手前に西冨田の川俣神社があります。主祭神は、多紀理毘売命(たぎりひめのみこと:素戔嗚尊と天照大神が高天原で誓約(うけい)をした際、天真名井(あめのまない)の水滴の中から生まれた宗像三神の一神。福岡県玄海町の宗像大社の沖津宮に祀られています)。相殿神は、経津主命武甕槌神玉依毘売命品陀和気命息長帯比売命崇徳天皇大穴牟遅命金山毘古神八衢比古神、八衢比売神久那斗神。鳥居の近くには、庚申塔屋、山の神もあります。

Img_7167c_20220323194101  このあたりは、東海道の道筋に面して賑わった地域であり、古くは八王子と称されていました。当社は、この町の南端に鎮座しています。現存している棟札によれば、中世近世を通じ宝殿その他社殿の造営が行われていたようです。明治41(1908)年、中富田町の川俣神社と共に和泉の川俣神社に合祀されましたが、その後、昭和23(1948)年、氏子の総意により分祀され、現在に至っています。ご覧のように、開かれた空間にある神社で、気持ちも解放される感じでした。

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Img_7160c_20220323194101  ここには、無上冷水井戸跡があります。神戸城主であった織田信孝が愛飲したと伝わる井戸の跡です。ここから、神戸城は、東に直線距離で6.7㎞ほどのところにあります。神戸城まで水を運んだと思うのですが、それもけっこう大変でしょう。境内には、また、旧和泉橋の親柱が1基、保存されており、「昭和10年6月竣功」の文字が見えます。

Img_7170c  さらに道標もありました。「右ひろせ 左はたけ」と刻まれています。「ひろせ」は、上掲の「ひろせ道道標」の鈴鹿市広瀬町と思われます。「はたけ」は不明。もともと、どこにあったかも不明。

Img_7198c_20220323200601 Img_7216c_20220319180001  西冨田の川俣神社は、安楽川のすぐそば。和泉橋で安楽川を渡ります。渡った先は、鈴鹿市和泉町。旧東海道は、このあたりに土橋がかかっていましたが、出水時には渡しがあったそうです。和泉公民館の前に「弘法井戸 500m」という看板がありました。これもノーチェックでしたが、寄り道。建屋は新しいのですが、井戸自体は古そうでした。現地に説明板はなく、ネットで検索しても何も出て来ません。

Img_7220c_20220319180001  その弘法井戸の南に鳥居が見えましたので、さらに寄り道。これが、和泉の川俣神社でした。主祭神は、大穴牟遅命(おおあなむちのみこと:「日本書紀」が設定した国の神の首魁(しゅかい)。「古事記」では大国主神の一名とされる)。相殿神は、市杵島比売命久那斗神八衢比古神、八衢比売神道反大神(ちかえしのかみ=道神=道祖神)。

Img_7228c_20220323202401   延喜式内社と比定されています。創始は、不詳。江戸時代の地誌類には八王子社とありますが、和泉町の位置が鈴鹿川の本流と出合うところにあり、川俣神社の名がでたものと考えられています。明治41(1908)年、井田川村各地に鎮座の諸社を合祀しましたが、昭和26(1951)年、各村の氏子の総意により中冨田、西富田の川俣神社等を分祀し、現在に至っています。これで、このあたりの川俣神社4社にお参りしたことになります。

Img_7235c_20220319180001  和泉公民館のところまで戻りました。この公民館は、いかにも昭和の公民館という雰囲気。私の実家近くの公民館もこんな建物だった記憶があり、懐かしい気がしました。この敷地内に地蔵堂。由緒その他は、不明。Img_7246c_20220323202801 地蔵堂は、由緒が明らかでないことも良くありますが、それはちょっと残念な気がします。

Img_7237c_20220323202801 Img_7250c_20220323202801  和泉公民館の敷地内にも、旧和泉橋の親柱が保存されています。さらに、こんな写真を載せて良いのかと若干迷いましたが、公民館のトイレ(右の写真)。公民館本体と同様に、昭和の雰囲気たっぷりのトイレというか、公衆便所といった方が似合います。

220319kasado3c  実際に歩いたルートマップはその3に入ります。和泉公民館の先で6㎞を過ぎます。和泉西のバス停のところで、道標と地蔵堂。地福寺の手前に明治天皇御小休所碑。ここは観音堂跡で、ここにも和泉橋の親柱があります。県道641号線を越えると、東海道は田舎道。関西線井田川踏切を越え、地蔵堂らしきものを見て、いったん井田川駅にゴール。ここまでで7.3㎞、時刻は12時30分。時刻表を確認してから、昼食へ。

Img_7277c Img_7274c_20220324042201  道標は、「のゝぼり道」とある2基が並んでいます。左の写真で手前にある、自然石に彫ったものは江戸時代のもので、奥にある石柱は大正3年のものです。いずれも半分近くが埋まっているのは残念。「のゝぼり」は、「野登」と思います。亀山市の北端、安楽川の上流域、亀山ジャンクションの北西一帯です。

Img_7280c_20220319180001  地蔵堂は、江戸時代からのものだそうですが、由来などは分かりません。江戸時代からここにあるそうです。

Img_7295c_20220319180001  スタートから6.4㎞ほど、東海道の右手の小高くなったところに明治天皇御小休所碑があります。明治13(1880)年7月13日に行われた陸軍大演習にいらっしゃったときのもの。かたわらには、古い和泉橋の親柱が保存されています。

Img_7302c_20220319180001  この場所は、観音堂跡。こちらに「戦国期以前は『小田町道心がいどう』と呼ばれ、七堂伽藍が立ち並ぶ大寺。道心とは『仏道を信奉する心』 1568年信長戦火で焼失。1677年観音堂建立。」とありますから、地福寺の境内にあった観音堂の跡ということかと思われます。鬼瓦が保存されている土台には、「極楽山 観音堂跡 平成9年7月」とあります。極楽山は、地福寺の山号。

Img_7333c_20220324044001 Img_7316c  その極楽山地福寺。浄土宗のお寺。亀山藩主が観音堂の阿弥陀如来に帰依し、また、観音菩薩三十三体も祀られ、東海道の旅人が多く立ち寄ったといいます(こちら)。地福寺は、小高いところにあり、眺めの良いところです。

Img_7340c_20220324045001 Img_7346c_20220319180001  地福寺の先で東海道は、県道641号線(左の写真)を超えます。県道を越えた先の景色が右の写真。急に「田舎道」になります。

Img_7352c_20220319180101 Img_7372c_20220324162901  こういうところを通って、関西線の井田川踏切を越え、すぐに左折したのが右の写真。「本当に東海道か?」と心配になります。踏切を越えた辺りで亀山市に入ります。

Img_7384c_20220324162901 Img_7381c_20220324163101  井田川駅の手前で地蔵堂と思われるもの。説明書きもなく、ネットで検索しても何も情報が出て来ません。「みえの歴史街道 東海道」のウォーキングマップにも「地蔵堂」として写真が載っているだけ。きちんとお世話はされています。

Img_7396c_20220319180101 Img_7399c_20220319180101  JR関西線・井田川駅。12時30分に到着。ここまでで7.3㎞。上りの時刻表を見たら、名古屋行きはちょうど出たところ(12時29分発)。次は、1時間後でしたから、昼食を食べに行くことにしますが、その前に、駅前に日本武尊像があります。日本武尊は、伊吹山で荒神を征伐中、伊勢国の能褒野(のぼの)で崩じたといいます。能褒野は、井田川駅から北へ1㎞ほどのところ。能褒野王塚古墳があり、日本武尊の墓とされていますし、その隣に能褒野神社があります。

Img_7403c_20220324164601 Img_7406c_20220324164601  日本武尊像の脇には、古事記に見える日本武尊の歌「倭は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる倭しうるはし」の歌碑と、弟橘姫(おとたちばなひめ)は日本武尊の妃であることを説明した系図があります。

Img_7418c_20220319180101 Dsc_0028c  昼食は、200メートルほど行った国道1号線井田川駅口交差点近くのうどん屋・甚八か、すき家1国亀山店の2択。事前リサーチの結果、すき家で食べたいものがあり、そちらへ。クリーミーオニサラ牛丼と決めていました(微笑)。並盛りが¥550。お新香セット¥150をつけました。並盛りなのに、けっこうな量があり、満腹。

Img_7456c_20220319180101  再び井田川駅に戻って、結局、歩いたのは7.9㎞。13時29分発の名古屋行き快速に乗車。快速になるのは、四日市駅から。桑名には、14時5分着、¥590。この日の歩数は、19,000歩を越えました。現地で歩いたのが、7.9㎞。自宅から桑名駅往復が、2.2㎞で合計10.1㎞でした。次回は、4月中旬以降。井田川駅から亀山まで歩きます。

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2022年3月23日 (水)

20220319東海道ウォーク「加佐登~井田川」(その2)……汲川原から西冨田の福萬寺へ

Img_6810c_20220322192301220319kasado2c  3月19日に行ってきた”東海道ウォーク「加佐登~井田川」”の本編その2です。その1では、JR関西線・加佐登駅から庄野宿を一通り見て回りました。庄野宿を抜けたあたりでスタートから2㎞。県道643号線の高架をくぐります。このあたりの東海道は、国道1号線などによって失われています。鈴鹿市内では、こういうところについては、左の写真のように、案内図が掲げられていて、分かりやすくなっています。その2では、鈴鹿川沿いから安楽川沿いを歩きます。平野道道標、いぼとり地蔵、真福寺、神戸藩領界石と女人堤防碑、中冨田の川俣神社、清光寺、常念寺、福万寺から西富田の川俣神社を過ぎて、安楽川を和泉橋で渡ります。このあたりはまだ鈴鹿市。

Img_6837c_20220319175901 Img_6862c_20220323150501  スタートから2.5㎞ほど、民家の脇に平野道道標があります。平野は、鈴鹿川の対岸にある町のことと思われます。この道標の向かい側に高札場があったといいます(みえ歴史街道ウォーキングマップ 東海道)。この道標は、田中音吉(弘化5(1848)~大正5(1916)年)が寄附したもの(右の写真)。田中音吉は、実業家で、米穀・製茶業を営んでいたのですが、前橋や八王子の蚕糸業を視察し、明治20(1887)年、郷里の三重県鈴鹿郡亀山で製糸業を始めました。明治30(1897)年には、亀山共同社(のちの亀山製糸会社)を設立しています。裏には「大正三年 寄附者 田中音吉」と刻まれています(こちら)。さらに道標の脇に「平野道」を示す標識には、「いぼとり地蔵 この奥50m」とあります。気づいたからには行ってみないといけません(微笑)。

Img_6858c_20220319175901 Img_6845c_20220323133901  50m進むと、鈴鹿川の堤防の下に地蔵堂があります。このお地蔵様がいつ頃、どのようにして祀られるようになったかは不明ですが、ここ平野道で、道標のお地蔵さんとして露天に建っていたものを、この地に移し、地蔵堂がつくられたと伝わっています。昔から、いぼと眼病に効くといわれ、地元の方だけでなく、遠方からお毬に来る方もあるそうです。8月には地蔵盆が行われます。地蔵堂に向かって右手には、昭和7(1932)年に建てられた「地蔵尊石碑」があります。甫元という医者がこの地蔵をつくり奉ったと書かれています。

Img_6873c_20220323151201  いささか余談ですが、平野道道標の先にある掲示板に「庄野 寄っといで音頭」のチラシが貼ってありました。というか、実は、庄野宿にもあちこちにこれやにたチラシが掲げられていたのです。

Img_6876c_20220323151601 Img_6880c_20220319175901  真宗本願寺派の真福寺。ここのお寺も、現地でも、ネット検索でもこれという情報は得られませんでした。

Img_6922c_20220319175901  真福寺の先、スタートから3㎞のところに女人堤防碑があります。この辺りは、冒頭のルートマップからもお分かりのように、安楽川と鈴鹿川の落ち合うところで、たびたび水害がありました。人々は水害に悩まされていたため、築堤を神戸藩に申し出たものの、許可が折りませんでした。そこで、文政12(1829)年頃、お菊を先頭に女性たちが、「女であれば許可がなくても罪が軽くなるだろう」と禁を犯し、打ち首を覚悟で堤防を補強したのです。彼女たちは、いったん捕らえられたものの、処刑の直前に許され、その後、労をねぎらわれたといいます(こちらに碑文の全文があります)。

Img_6949c_20220319175901 Img_6945c_20220323153001  現地にあった説明板の図によれば、女人堤防碑の西側にその堤防があるということで、これらの写真がそうだと思われます。左の写真で、画面外になりますがこの左手に女人堤防碑があり、向こう(南)に続く道が堤防と思われます。右の写真は、東海道を挟んで北に続く堤防。

Img_6909c_20220323153301 Img_6926c_20220323153401  女人堤防碑の横と、東海道を挟んだ反対側とには、神戸藩領界石が1対で建っています。いずれにも、「従是東神戸領」と刻まれており、ここから東が神戸藩の領地であることを示しています。左の写真が北側、右が南側(女人堤防碑の横)にあるもの。ただし、もとは、中冨田の亀山藩領地との境界にあったものを移設しています。

Img_6904c_20220319175901  さらに北側の神戸藩領界石の脇には、山の神が祀られています。手水石は、文化10(1813)年のもの。

Img_6971c_20220323154301 Img_6963c_20220323154401  これら女人堤防碑の東側には広い空き地が広がっています。マップに「廃寺跡?」と書いたところですが、地蔵堂と墓石群があったので、そう書きました。地蔵堂には、かつて真福寺にあった薬王院のものと思われる位牌が並んでいます。

Img_7073c_20220323154901  女人堤防碑を過ぎると間もなく、中冨田に入ります。スタートから3.5㎞、10時45分頃に、中冨田の川俣神社に到着。主祭神は、大毘古命(おおひこのみこと)。記紀によれば、孝元天皇の皇子で、崇神天皇 10年、四道将軍の一人として北陸に出征、戦功を立て、垂仁天皇の代に大夫になったといいます。相殿神は、天照大神中臣神天児屋命(あめのこやねのみこと)か? 天児屋命は、天岩戸神話のなかに登場する神で、中臣氏の祖神)、須佐之男命猿田毘古大神玉依比売命

Img_7040c_20220319175901  創祀については明らかではありませんが、古くは八王子社と称したようです。明治41(1908)年に和泉村の川俣神社に合祀されましたが、その後、昭和23(1948)年に分祀、再興されています。左上の写真からも分かるように、境内には大木、古木がたくさんあり、いかにも神社という雰囲気になっています。周囲には、古墳・遺跡も多く、国衙(律令制度下での政庁)が置かれるなど、早い時期に開発された地だったそうです。川俣神社は延喜式内社ですが、いくつかあるうち、ここが元々の川俣神社であった可能性が高いともいわれます(こちら)。ちなみに、川に社を向けたためか、本殿の背後に鳥居があるという配置になっています。

Img_7048c_20220323160801 Img_7052c_20220323160901  また、山の神と、地蔵堂のような御堂があります。この御堂、写真をよく見ていただくと分かりますが、白い布がかけられていて、祀られているものが直接見えないようになっています。

Img_7016c_20220319175901  ここ川俣神社には、中冨田一里塚跡があります。江戸・日本橋から100番目の一里塚で、ここ川俣神社の東隣に街道を挟んで一里塚があったといいます。榎の大木があった、大規模な塚だったそうです。享和3(1803)年の「東海道亀山宿分間絵図」によれば、一里塚の近くに「御馳走場」と書かれた家があり、当時、東海道を往来する大名行列などの一行を接待する場所であったと考えられます。また、現在も、「東百里や(ともりや)」という屋号で呼ばれる家があるそうです。

Img_7023c_20220323162101  中冨田村は、また、亀山藩領の東端で、中冨田一里塚跡碑と並んで、亀山藩領界石が建っています。「従是西亀山藩領」と刻まれています。先ほどの「神戸藩領界石」も、もとはこの近くにあったもの。

Img_7077c_20220319175901  川俣神社のすぐ先に真宗高田派の清光寺という、小さなお寺。現地でも、ネット検索でも、これという情報は出て来ませんでした。

Img_7081c_20220319175901 Img_7097c_20220319175901  こちらは、天台真盛宗の富光山城念寺。お寺の説明板によれば、承応年間(1652~54年)、智詮和尚の開基とされ、ご本尊は阿弥陀如来。当時は、別のところにあったのですが、安政元(嘉永7(1854)年11月の大地震(11月4日の安政東海地震と、翌日11月5日の安政南海地震)で倒壊したため、同じ村内にあって、倒壊を免れた平建寺を買収して、現在地へ移転したといいます。平建寺は、山号を白浪山と号し、高野山真言宗の寺でした。本尊は、延命地蔵尊で中冨田の氏仏をして進行され、現在は、地蔵堂に祀られています。

Img_7100c_20220323163801 Img_7094c_20220323163801  こちらが、白浪山平建寺のご本尊であった延命地蔵を祀る地蔵堂。境内には、右の写真のように、「白浪山平建寺」と刻まれた石柱も残っています。

Img_7110c_20220323163801  また、現在の境内は、麻生はつの遺志により、隣地の屋敷跡の寄進を受けて拡大されたそうで、その功績を後世に残すために境内に「麻生はつ屋敷跡」の碑が立てられています。しかし、地震で倒壊し、倒壊を免れたお寺を買収して、ここに移転したというようなことがあるものなんだとと感心しました。

Img_7138c_20220319175901 Img_7126c_20220323171601  4㎞を過ぎてしばらく行くと、真宗高田派の金光山福萬寺。文永11(1274)年の開創。当初は、天台宗で、常照寺と称していましたが、寛文元(1661)年、専修寺第14世堯秀上人の御化道によって高田派に転向しています。明和8(1771)年7月の大洪水により、その時安置されていた書物・什器・寺宝などすべて流失。御本尊は中冨田にかかり、住職家族2人とも洪水のため死亡。弟子僧の一人が辛うじて難をまぬがれ、翌年、寺名を福萬寺と改め再興を計ったものの、再建には十数年を費やし、文化4(1807)年にようやく川崎村西願寺の下御堂を買請け、上棟式をしました。

Img_7142c_20220319175901  このお寺の掲示板にあったことば。「煩悩を卒業することはできません 松本梶丸」とあります。松本梶丸(昭和13(1938)~平成20(2008)年)は、真宗大谷派本誓寺の住職でした。石川県松任市生まれ、昭和36(1961)年、大谷大学仏教学科卒業。真宗大谷派宗務所出版部、研修部勤務を経て、本誓寺住職。親鸞聖人は、「煩悩成就のわれら」とおっしゃったそうです。「煩悩成就」ということは、あらゆる煩悩を欠くことなく具えていることだそうです。あらゆる煩悩を欠くことなく備えているとすれば、煩悩を卒業することはできないでしょうね。う~ん、何だか分かったような、分からないような……。

 長くなりましたし、煩悩に悩まされてしまいましたので、ルートマップその2の途中ですが、記事その2はこのあたりで、お後がよろしいようで。その3は、ひろせ道道標、西冨田の川俣神社から。

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