20250531JRさわやかウォーキング「刈谷市制施行75周年 刈谷城下町&ご褒美マルシェ満喫散歩」へ(一回完結)
曇りという天気予報でしたし、桑名では、朝、晴れ間も出ていましたので、これなら大丈夫だろうと思って、JRさわやかウォーキング「刈谷市制施行75周年 刈谷城下町&ご褒美マルシェ満喫散歩」に行ってきました。ところが、受付のJR東海道線逢妻駅に着く頃には、雨。車内放送でも「さわやかウォーキングにご参加のお客様には、雨が降り始めましたので、足元にお気をつけてお歩きください」というアナウンスが流れたくらい。現地に近い大府のアメダスのデータでは、10時台から雨が記録されていました。
桑名駅を7時48分に発車するJR関西線の普通電車に乗車。名古屋駅には8時22分着。8時31分発の東海道線の岡崎行き普通電車に乗り換え、逢妻駅には8時57分に着くはずだったのですが、熱田駅で急病の方が出て、救急隊到着まで停車。結局、この電車は運休となり、熱田駅であとから来る豊橋行き普通に乗り換え。当然、この電車も遅れていて、8時54分発のところを8分遅れで運行。逢妻駅には9分遅れの9時21分の到着。当初の予定からは30分弱遅くなりました。運賃は、¥360+¥430=¥790。名古屋駅で途中下車すると、通しで乗る¥870より、¥80安くなります。
コースマップを受け取ったのですが、冒頭の画像のように15分で雨が止むと思い、しばし待機。9時50分を過ぎて、雨がほぼ止みましたので、ようやくスタート。今日のコースは、逢妻駅→刈谷市歴史博物館→亀城公園→市原稲荷神社→郷土資料館→秋葉社・松秀寺→刈谷駅がゴール。マップ上は5.4㎞。刈谷駅ではマルシェが開かれているということです。右は、実際に歩いてきたルートマップですが、コースマップ通りに歩きました。
逢妻駅をスタートしてすぐのあたりでの写真。天気が悪くても、参加者はかなりたくさんありました。私など、普段は、天気予報がよくないと、簡単に諦めてしまいますので、反省した方がよいかも知れません。雨は降ったり止んだりを繰り返し、だんだんと強くなりました。途中からは、傘が手放せなくなりました。
最初の立ち寄り先は、刈谷市歴史博物館。ちょうど企画展「木札の世界ー木に書き残された歴史ー」が開かれていて、入場料金も¥600のところが、¥500で入れたのですが、空模様から見て、先を急いだ方がよかろうということで、パス。
歴史博物館からすぐ先に亀城公園があります。亀城とも呼ばれた刈谷城址を利用した公園。現在、刈谷城の姿はありませんが、お堀あとの城池、子亀池が城址の面影を残しています。桑名の九華公園と同様に、ソメイヨシノが約400本植えられており、花見で賑わうそうです。
こちらは、本丸跡。正しくは「刈屋城」ですが、刈谷市が昭和25(1950)年4月に市制施行してから「刈谷」と表記されるようになりましたので、城名もそれ合わせています。天文2(1533)年、水野忠政により築城。築城後、忠政は、本拠地を緒川から刈谷に移し、徳川家康の生母於大は、刈谷城から岡崎の松平広忠に嫁しています。於大は父忠政の死後、兄水野信元が今川氏を離れ織田氏についたため、松平氏を離縁された後、刈谷城近くの椎の木屋敷で久松氏に再嫁するまでの日を過ごしています。 水野家のあとは、深溝松平家、久松松平家、稲垣家、阿部家、本多家(忠勝系)、三浦家と頻繁に城主が交代しています。
園内には十朋亭があります。日本庭園と調和し、各種会合、休憩所などに利用できます。十朋亭は、大正5(1916)年、刈谷城本丸隅櫓跡に財団法人刈谷士族会の集いの場として建築されました。その後、大野介蔵氏(刈谷藩士族、かんばん方式などの「トヨタ生産方式」を築いた大野耐一の祖父)の隠居家として使われるようになり、昭和11(1936)年に刈谷町がこれを買い受けました。昭和47(1972)年には、故石田退三氏の厚意により改築され、今に至っています。私は、刈谷市内にある高校を卒業しているのですが、卒業して、第1回クラス会をここで行った記憶があります。建物の外観については、漠然と覚えているのですが、それ以外については、忘却の彼方(笑)。50年以上前の話です。
本丸跡には、松本奎堂(けいどう)歌碑があります。昭和18(1943)年に建てられました。松本奎堂辞世の句「君か為 命死にきと世の人に 語りつきてよ 峯の松風」が彫られています。松本奎堂は、天保2(1831)年、刈谷藩士松本印南(いなみ)の次男として生まれました。青年期には尾張国沓掛村(現豊明市)の伊藤両村の門に入り、18歳のときには槍の試合中、あやまって左目を傷つけられました。その後、江戸に出て昌平坂学問所に学び、大変優秀な成績をあげました。勤皇の志強く、藩のいきかたにもあきたらず脱藩、文久3(1863)年、天誅組3総裁の1人として38名の同志とともに兵を挙げました。この挙兵は失敗しましたが、のちの倒幕運動の魁となりました。
亀城公園に隣接して、刈谷球場があります。ここにも思い出があります。たぶん小学校6年生を卒業した春休みに中日ドラゴンズのオープン戦を同級生S君と一緒に見に来たのです。その時は、もちろんこんな立派な球場ではありません。小学校5年生になるまではジャイアンツファンだったのですが、5年生で同じクラスになったI君から、地元の球団を応援しなければならないと説得され、中日ファンに転向していたのです。今日は、愛知県高校野球連盟の招待試合として、仙台育英高校を招いて、第1試合は、中京大中京と、第2試合には、至学館高校がそれぞれ対戦する予定でしたが、中止となったようです。
刈谷球場の南には、市原稲荷神社。白雉4(653)年、亀狭山(現在の亀城公園)に瑞兆(ずいちょう…良い事が起こる前兆)が現れ、その地に社殿を創立したのがはじまりといわれています。その後、天文2(1533)年、水野忠政の刈谷城築城により、現在の場所へ移りました。永禄3(1560)年、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれたとき、刈谷城は今川方であった鳴海城代岡部長教の襲撃に遭い、そのときに市原稲荷神社も焼失しましたが、同5(1562)年に再建され、初代藩主水野勝成以来の歴代刈谷藩主による寄進を始め、領内3社としての特別な崇敬を受けています。
ご祭神は、倉稲魂神、保食神、大山祇神の三柱。境内には、摂社、末社がいくつかありますが、こんな天候でしたから、お参りしてきたのは、刈谷神社(右の写真)のみ。もとは昭和初期まで旧刈谷城郭内にあった土井神社(明治年間の亀城殖産合名会社創設に当り土井家の藩祖利長公を祀る)。昭和18~19(1943~44)年頃、高射砲探照灯陣地備築のため、市原稲荷神社境内に刈谷士族会が社殿を移転したそうです。現在は、土井家歴代藩主、地元自治功労者、天誅組松本・宍戸両志士、日清・日露戦争以降の戦没者の英霊を併せ祀っています。
境内には、小規模の花菖蒲園も。ハナショウブの生長もよく、花もきれいに咲いています。
市原稲荷神社を回ってから、亀城小学校のところにある郷土資料館へ。建物は、昭和3(1928)年10月に亀城尋常高等小学校(現在の刈谷市立亀城小学校)の本館として建設されました。この昭和初期の建築様式をとどめる亀城小学校旧本館の建物を保存活用して、昭和55(1980)年に開館しています。国の登録有形文化財。実は、私の出身高校が、旧制中学として大正8(1919)年4月に設立されたとき、刈谷町立亀城尋常高等小学校の一部を仮校舎としてスタートしています。建物の時代は異なりますが、その頃の雰囲気が少しは感じられるかと期待していたのです。
郷土資料館の庭には、下町の常夜灯と、丸形ポスト。下町の常夜灯は、現在の銀座6丁目の角にあったそうです。昔は、この角が旧熊村と、旧刈谷町の境になっていて、夜道を急ぐ人びとの目印になったそうです。大正時代までは、昔の姿で立っていたとか。丸形ポストは、刈谷市に現存する唯一のものだとありました。昭和42(1967)年6月に富士見町に設置されたもの。
郷土資料館のすぐ先に刈谷藩校文礼館跡。文礼館の前身は、土井氏が西尾藩主であった時に藩士の子弟教育のために設立した藩校だといわれています。土井氏は刈谷に転封後、天明3(1783)年に美濃出身の儒者秦子恭を教授として招き、文礼館を開きました。一時は途絶えましたが、慶応4(1868)年5月に再興されました。明治期には刈谷義校(初等学校)に転換。明治6(1873)年には第一番小学刈谷学校となり、明治19(1886)年には尋常小学刈谷学校となっています。この学校は明治41(1908)年に亀城尋常高等小学校となり、現在は刈谷市立亀城小学校となっています。
初めの方に書きましたが、刈谷には高校に通っていたのですが、今はもはや浦島太郎状態。すっかり変わってしまっていて、どこが何だかまったくといって良いほど分かりません。まぁ、高校時代も、名鉄三河線刈谷市駅で降りて、高校に往復するくらいで、あとはたまにラジオ部品を、当時あった中央無線に買いに行った程度ですから。
スタートから3.5㎞の手前で秋葉神社。松秀寺の境内にあります。ご祭神は、迦具土神。火の神様。宝暦4(1754)年に、刈谷城下の6町の有志の発起により、松秀寺境内に秋葉堂を建立する提案がなされ、宝暦6(1756)年に秋葉堂が建てられ翌年から祭りが行われました。安永7(1778)年になり、各町組ごとの出し物に笛・太鼓で拍手をとる形態に変わり、この年に初めて万燈が登場しています。出し物は次第に万燈に統一され、秋葉祭礼は「万燈祭」ともいわれるようになりました。つまり、この秋葉神社が、万燈祭の起源。万燈祭は長い伝統を受け継ぎ、火難防除・町内安全の感謝と祈りを込めて現在も続いており、県指定無形民俗文化財に指定されています。
秋葉神社の隣が円通山松秀寺。曹洞宗。
寺伝によると、寛正4(1463)年、十王山松秀寺と号したのを始めとし、その後、正徳5(1715)年に幡豆郡長円寺第13世通方円達和尚が当寺にきて、曹洞宗として中興開山となり、山号を円通山に改めています。
観音堂に祀られている十一面観世音菩薩立像は、延宝4(1676)年、刈谷の町人太田忠右衛門長正が寄進したもので、市指定文化財になっています。境内には、天誅組に参加した宍戸弥四郎の墓があるそうですが、墓そのものは見てきませんでした。右の写真は、山門前にある宍戸弥四郎の墓碑があることを示す石碑。しかし、天誅組の中心メンバーが、刈谷藩を脱藩した松本奎堂や宍戸弥四郎らであったというのは、不勉強にして知りませんでした。
これで立ち寄り先は、コンプリート。雨はいよいよ強く、時折強い風に煽られます。こんな日に来るんじゃなかったとは、ウォーキングに出かけたとき、ときどき思いますが、今日もまさにそれ。県道51号線に出て、ゴールの刈谷駅を目指します。名鉄三河線に沿って、JR東海道線を目指して歩いています。途中、デンソー本社あたりも見えます。
東海道線の跨線橋を越えていくと、ようやくゴールのJR東海道線刈谷駅が見えてきます。雨の降る中、よく歩いてきました(自画自賛ですから、お気遣いなく)。11時20分過ぎにゴール。1時間半で5.4㎞を歩いてきたことになります。JRさわやかウォーキングのゴール受付の手前でマルシェが行われています。
こちらがJRさわやかウォーキングのゴール受付。受付でさわやかウォーキングについてのアンケートを実施していました。スマホでQRコードを読み取り、ネット上で行うもの。これに回答すると、右の写真のカードがもらえるということで、協力して、1枚いただいてきました。ドクターイエローなど、新幹線の車両が写っています。
今回も無事にポイントをゲットできました(左の写真のもっとも上にあります)。右の写真は、最近のJRさわやかウォーキングの記録。今日までの1年で歩いたのは、50.1㎞。刈谷駅を11時25分に出る岐阜行き普通に乗って、名古屋駅には11時56分着。12時06分の関西線亀山行き快速に乗り換えて、桑名には12時28分着。運賃は、往きと同じく、¥430+¥360=¥790。
今日のGoogle Fitのデータ。歩いたのは、7.5㎞、12,991歩。普段の散歩に毛が生えたくらいでしたが、雨に降られましたから、その分、疲れました。できれば、刈谷駅に隣接する駅前観光案内所へ行って、土産を探したいと思っていたのですが、その気力はなし。リンク先にある、きしめんのルーツともいわれる「いもかわ(芋川)うどん」に関心があったのです。
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