20240327勝手にハイキング「稲沢の美濃路と稲葉宿を訪ねて」(その1)……観音禅寺、赤染衛門歌碑公園、修理若御子神社、稲葉神社、禅源寺から金神社へ
3月27日、桑名では最高気温が18.5℃になりました。風は4~5m/sとやや強かったものの、ハイキング日和でした。当初は、翌日の28日を予定していましたが、この日の方が天気がよいということで日程を変更し、稲沢へハイキングに行ってきました。「稲沢の美濃路と稲葉宿を訪ねて」というテーマにしました。同級生K氏と二人旅の珍道中。冒頭の写真は、前回の国府宮ウォーキングでも見てきた三菱ビルソリューションズ稲沢ビルシステム製作所にある高さ173mのエレベーター試験塔。この日のコース終盤でよく見えていました。
近鉄桑名駅を8時45分に出る名古屋往き急行に乗車、近鉄名古屋駅には9時9分着。¥530。名鉄に乗り換え。9時11分発須ヶ口行き特急に乗り、須ヶ口には9時18分着。9時21分発岐阜行き普通に乗り換えて、国府宮駅に9時31分着。¥400。9時35分にスタート。珍道中と書きましたが、いくつかハプニングがありました。まずは、桑名駅で乗る電車の発車時刻を8時39分と私が勘違いしていました。調べるときに土日休日の時刻表を見たため。名鉄名古屋駅では、当初予定していたとおりの電車に乗ることができ、結果オーライ(苦笑)。
こちらがこの日のルートマップ。前回は、JR稲沢駅から国府宮神社などを回りましたが(2024年2月24日:20240224はだか祭の余韻残る国府宮神社ウォーキング(予告編))、この日は、名鉄国府宮駅から西、さらに南西のあたりを歩いてきました。美濃路、旧稲葉宿から南に足を延ばして、性海寺から名鉄奥田駅へゴールというコース。マップ上は、7.7㎞でした。
詳しいルートマップその1。名鉄国府宮駅をスタートして、観音禅寺、赤染衛門歌碑公園、修理若御子神社、稲葉神社、禅源寺、金神社などを回り、その先、宝光寺、津島道道標、稲葉宿問屋場址石碑、本陣跡ひろばなどが、美濃路に沿った旧稲葉宿のあたりになります。
国府宮駅からすぐ近くに補陀山観音禅寺。臨済宗妙心寺派。説明板によれば、元は北方の稲島町にあり、暦応元(1338)年、清拙が創建したと伝わります。しかし、時代とともに衰え、江戸時代、現在地に忠嶽によって再興されました。明治24(1891)年の濃尾地震で全壊し、明治35~37(1902~1904)年にかけて名古屋の東照宮境内にあった古堂2棟から現本堂ほかがつくられ、文翁和尚によって再建されました。
境内で気になったのは、こちら。道標のようで、「左 国の宮/こまき 道」と彫られていました。どこかにあったものがここに移設されているのであろうと思います。観音禅寺について調べていたら、「観音寺のむじな」という昔話がヒットしました。昔、観音寺の裏には藪があり、そこにむじなたぬきの親子が住んでおり、和尚さんが可愛がったのに、小僧たちがいたずらをしたというような話です。
松下一丁目北交差点の近くに赤染衛門歌碑公園があります。赤染衛門は女流歌人で、平安の中古36歌仙の一人。「やすらわで寝なましものを 小夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな」で知られます(『小倉百人一首』に載っている歌。高校のときに暗記した記憶があります)。『拾遺和歌集』以下の勅撰集に約90首入集、和泉式部と並び称されます。家集に「赤染衛門集」があり、「栄花物語」前編の作者ともいわれます。尾張守に任じられた夫(大江匡衡)とともに稲沢に赴任しました。
大江匡衡と赤染衛門が詠んだ歌が歌碑になっています。稲沢市制30周年を記念して、平成元(1998)年に建立。以下の引用のように刻まれています。また、「衣かけ松の跡」の石碑も建てられています。赤染衛門が長保3(1001)年、夫ともにここに隅、この松の枝に衣を掛けたと伝わっています。この石碑は、昭和46(1971)年に稲沢市教育委員会によって建てられました。
国にいきつきたりしにはつ雪のふりしに
はつ雪とおもほへぬかなこのたびは 稲ふる里を思ひいでつつ 匡衡
めずらしきことはふりずぞ思ほゆる 行きかへりみるところなれども 赤染
赤染衛門歌碑公園を出てすぐのところに「尾張国衙址」という案内板があるのを見つけました。ウォーキングコース沿いにある名所旧跡は一応チェックしたつもりでしたが、見逃していました。ただし、調べてみると、次の交差点を南に入って200mほど行った松下公民館のところにありました。国衙は、律令制において国司が地方政務を執った役所が置かれていたところ。尾張の国衙は、松下の地にあったとされ、この地が政治・文化の中心であったといいます。
スタートから1㎞あたりに修理若御子(すりわかみこ)神社。由緒書きによれば、尾張大国霊神(尾張大国霊神社=国府宮神社のご祭神)が国内を修理するのを助けた修理若御子命(墨染天神)がご祭神。天香山命(あまのかぐやまのみこと:尾張連等の祖神)の御子、天村雲命(あめのむらくものみこと)といいます。江戸時代は、墨染天神と称したといいます。
境内末社には、神明社、津島社、富士浅閒社の3社があります。津島社は、拝殿に向かって右手前に鎮座。おもしろかったのは、神明社が拝殿に向かって右手奥の、玉垣の中に鎮座しておられたこと。さらに境内の南西には、右の写真のように、塚のようなところがあり、「延覚行者」等と刻まれた石碑が建ち並び、もっとも高いところにはお社が祀られていました。これについては、由緒書きにも触れられておらず、不詳。こちらのサイトによれば、御嶽信仰の大師たちが祀られているといいます。
稲葉神社に行く途中、白龍社が祀られていました。白龍社といえば、水の神様。ここは、宮田用水土地改良区の建物が建つ敷地内。用水土地改良区ですから、白龍社を祀ったのでしょう。
稲葉神社。昭和32(1957)年に伊奈波神社、熊野・白山社、日吉社の3社を合祀し、伊奈波神社となりました。ご祭神は、物部印葉連公(もののべいんばむらじのきみ)、櫛御気之命(くしみけのみこと:須佐之男命の別名とされる)、伊邪那美神(いざまみのかみ)、大山昨神(おおやまくいのかみ)です。昭和36(1961)年に稲葉神社と改められました。
稲葉神社の西、愛知文教女子短期大学の近くに金華山禅源寺があります。臨済宗妙心寺派。長い参道の先に勅使門があります。残念ながら、門から先には入れないようになっていました。永和2(1376)年、南禅寺47世太清禅師の建立といいます。寛永11(1634)年に徳川家光が上洛の折、旅宿となっています。このとき、寺内で家光の不快(おこり)が治癒したことを喜び、葵の紋をつけることが許され、本堂の大屋根などに用いられています。勅使門は、寛永年間(1624~44年)の建立。8代虎岩和尚の隠居後、しばらく無住が続いた後、九代満源和尚が美濃妻木の崇禅寺から伝法を受け、寛文6(1666)年に本堂を再建。延宝7(1679)年に十一面観音を祀って本尊とし、再興されています。
左の写真は、勅使門から拝見した禅源寺の境内。なかなか落ち着いた、よい感じのお寺です。右の写真は、本堂の大屋にある葵の紋。
勅使門に向かって左手には、秋葉三尺坊大権現。秋葉神社も、秋葉三尺大権現も、神仏習合の火防(ひよけ)・火伏せの神として祀られます。禅源寺の守護神という位置づけなのかと思います。
先にも書きましたが、愛知文教女子短期大学があります。学校法人足立学園により昭和26(1951)年に稲沢女子短期大学として設置されています。現在は昼間2学科(幼児教育学科第一部・第三部、生活文化学科生活文化専攻・食物栄養専攻)となっています。
その先に金(こがね)神社。ご祭神は、物部金弓連公。物部氏の祖である宇摩志麻治命の子孫で、4世紀中頃の人と思われるそうです。禅源寺の鎮守であった金宮大明神をここ西町の産土神として奉斎したといいます。
金神社の南に愛知啓成高校。学校法人愛知真和学園が設置しています。昭和2(1927)年に設立された稲沢高等女学校がその起源。昭和23(1947)年に学制改革で、稲沢女子高校となり、さらに平成13(2001)年に男女共学化を図り、愛知啓成高校になっています。平成18(2006)年には野球部が選抜高校野球大会に出場しました。
この先で旧街道の美濃路や、旧稲葉宿に入ります。キリがよいので、その1はここまで。
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