晴れて気温も上がるという予報でしたので、予定通りに津島へウォーキングに行ってきました。題して「津島神社初詣ウォーキング」。同級生K氏と今年の初ウォーキングです。今回は、例によって予告編。津島には初めて出かけましたが、歴史のある、見どころの多いところでした。桑名では最高気温は、7.3℃。歩き始めは、日も照っていて風もなかったのですが、次第に雲が増え、風も出てきましたが、無事に初ウォーキングを終えられました。
JR桑名駅を8時38分に出る名古屋行き普通に乗車。弥富駅に8時45分に着いて、名鉄尾西線に乗り変え。8時48分発の普通豊明行きに乗り換えます。津島には8時59分に到着。運賃はJRが¥200、名鉄が¥300。9時5分頃にスタート。
こちらが今日歩いてきたルートマップ。立ち寄り先については、この予告編で紹介するところが記載してあります。マップ上は、4.4㎞。これは、津島市と津島観光協会の「津島市散策マップ」にあった「ぎょうさんコース」をモデルに自作したもの。現地でルートを変えたところや、歩きながら見つけたところもあり、実際には6㎞半くらいを歩いたと思います。津島駅から西に天王通を進み、途中あちこち立ち寄りながら、主に津島神社、天王川公園を見て回り、本町筋を経て天王通に戻り、津島駅にゴールしました。
まずは、補陀山常楽寺。曹洞宗のお寺。本尊は如意輪観音坐像。寺は、応永6(1399)年の創建と伝わっています。津島牛頭天王社神主家氷室氏の菩提所です。
その先に円空千体仏が地蔵堂に納められています(写真で向かって左の御堂)。あの有名な円空(寛永9(1632)~元禄8(1695)年)が彫った小仏千体が納められています。5cm程の六地蔵が裾に付けられた21cmの地蔵坐像を中心に5cm程の小仏、千躰が階段のある岩壁のように造られた光背にぎっしりと並べ付けられており、他の善財童子・護法神・韋駄天の三像と共に厨子に納められているそうです。町内会で管理を行い、町を守る地蔵として奉られています。
円空千体仏の先で天王通は旧津島街道と交わります。ここを右折し、津島街道沿いに少し行くと津島観光交流センターがあります。昭和4(1929)年に銀行建築として、柱・梁・床・壁・屋根をすべて鉄筋コンクリート造で当地に新築されました。建物の正面は「復興式」と呼ばれる建築様式で、西洋建築におけるルネッサンス様式を基調としながらも意匠や装飾を簡略化したものです。名古屋銀行、東海銀行津島支店をへて津島信用金庫の本店として利用されていました。
観光交流センターの北東に久遠山成信坊(くおんざんじょうしんぼう)。真宗大谷派。創建は不詳ですが、明徳2(1391)年、7代慶専のときに天台宗から真宗に改宗。長島一向一揆のとき、住職の祐念は教如上人の身代わりになり、津島御坊の称号を授けられています。石畳の参道は臼でできており、「ひきうす寺」とも呼ばれています。
市神社(いちがみしゃ)は、津島神社の境外末社の1つ。大市比売命(おおいちひめのみこと)、大歳神(おおとしのかみ)、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)を祀り、古くは名古屋から津島に入る「上街道」に沿って立ち並び、栄えた商家の守り神として崇められました。
観光交流センターの裏になりますが、清正公社(清正公遺跡)。加藤清正が幼少の頃、寄寓していた叔父の家があったと伝わるところ。ここに清正の徳を偲んで建てられたのが、清正公社です。清正が少年の頃、鬼の面を被って賊を追い払ったという言い伝えがあります。
天王通に戻ってさらに西へ。御旅所跡に大イチョウがあります。実に見事です。幹周囲5.41m、樹高30m、推定樹齢400年。大イチョウは、もう1本。東参道の鳥居のところにもあります。こちらは、幹周囲5.30m、樹高25m、推定樹齢600年と。どちらも愛知県の天然記念物に指定されています。
ここから津島神社にお参りするのですが、その前に土産を買ってしまいました。東の鳥居の前に店を構える総本家角政さんで「くつわ・あかだ」を購入。くつわは開運招福を祈るお菓子で、あかだは平安時代から続く疫病よけのお菓子。ずっと前から知っていたので、一度食べてみたかったのですが、ずいぶん固いお菓子と聞いて、試しに少しずつ両方が入っているものを買ったのです(¥200)。お店の方に伺ったら、口の中に含んでしゃぶっていたら柔らかくなるということでした。
いよいよ今日の最大の目的地である津島神社へ。古くは津島牛頭天王社といいました。今日も一般に「お天王さま」と呼ばれています。社伝によれば、欽明天皇元(540)年の鎮座ですから。1500年近くの歴史があります。疫病や厄除けの神様として親しまれています。「西の八坂神社、東の津島神社」と並び称され、全国に3000余あるといわれる天王社の総本社です。
多くの武将が天下取りを争っていた戦国時代、織田信長や豊臣秀吉など名をあげた武将とのつながりも強く、徳川家康の四男松平忠吉の妻の寄進による本殿(左の写真の向かって左)や、楼門(左の写真で右奥の建物)は国の重要文化財です。ご祭神は、建速須佐之男命。相殿神は、大穴牟遅命(大国主命)。右の写真は、豊臣秀頼が寄進したという楼門。詳しくは、本編にて。
津島神社の表参道を下って県道68号線に出て左折。東に少し行ったところに堀田家住宅があります。しかし、残念ながら、開館しているのは、土日祝日のみ。堀田家住宅は、江戸時代中期、正徳年間(1711~1716年)に建てられたといわれ、その後修理・増築を重ね、県道拡幅工事のために昭和48(1973)年に約60m西の現在の場所に移されました。数度にわたって手が加えられてはいますが、質も保存状態も良く、屋敷の構えや間取りなどには尾張の地方色がよく現れているといいます。国の重要文化財。機会があれば、ぜひ拝観したいところ。
堀田家住宅の南に天王川公園。木曽川の支流である佐屋川に合流する天王川は、江戸時代まで当時の町の中央を流れていましたが、江戸時代中期の河川改修で佐屋川が廃され、天王川はここに丸池として残りました。天王川公園は大正9(1920)年に完成し、日本歴史公園100選の1つに選ばれています。桜もきれいだそうですが、尾張津島藤まつりは有名ですし、夏には尾張津島天王祭が開かれます。どちらも私は来たことがないのですが、一度は見てみたいと思います。
その天王川公園の中之島にヨネ・ノグチ銅像があります。といってもご存じない方がほとんどのように思います。かく申す私も、知りませんでした。が、この方、あの彫刻家イサム・ノグチのお父さんなのです。ヨネ・ノグチこと野口米次郎は、明治8(1875)年に津島市で生まれました。愛知一中から慶應義塾を中退してサンフランシスコへひとり旅立ち、北米の大詩人ミラーと出会い、詩作を始めます。明治29(1896)年の詩集「Seen and Unseen」、明治36(1903)年の「From the Eastern Sea」は、優美な情緒にあふれ、欧米で絶賛されましたが、日露戦争を機に日本に帰国。銅像は、佐織の梶浦正之らが発起人になり建立されました。
公園の東側に入江のようになったところがあります。ここは津島湊跡。津島は尾張から伊勢を結ぶ天王川舟運の川湊として繁栄を極め、全国でも有数の商業地として発展しました。とくに室町時代には、津島湊に商人が集まり、多くの物資の集積場となっています。
津島湊跡のところに車河戸(くるまこうど)。「車」は天王祭の船のこと。祭船に乗せる屋形が石垣に囲まれた島に1年中置いてあります。これは江戸時代からのしきたりだそうです。宵祭りの提灯付けなどの祭の準備はここで行われるそうです。車河戸の南には、祭船が保管されています。
続いて鏡池山瑞泉寺。もとは、天王川西岸の天王島にあり真言宗の瑠璃光寺といったのですが、良王君が逝去し瑞泉寺殿と号したことから菩提寺となり、瑞泉寺に改号したと伝わります。永正14(1517)年、舟戸の地に移転し、浄土宗に改宗。津島四家、七苗字の一つである大橋氏の菩提寺。芭蕉句碑がある。というのですが、津島幼稚園を併設していて、境内には入れないようになっていました。
瑞泉寺・津島幼稚園の向かい、東側に六角地蔵(六地蔵尊)。灯篭型の六角で珍しい地蔵堂。厨子の中に地蔵尊像があり、厨子の外周りには六地蔵が立てられています。境内には延享2(1745)年奉献の石灯篭があります。この六地蔵尊は、人間に姿を変えて深夜の盗賊を追い払ったという逸話が残されています。元は船戸町にありました。
今回、コース設定にあたって参考にした「津島市散策マップ」には、六角地蔵の先にヨネ・ノグチ生家があると載っているのですが、予習のときにGoogle Street Viewでチェックしたら、それらしい建物はありませんでした。瑞泉寺や六地蔵の先で右折して確認してきましたが、ご覧のような状況。更地というか、駐車場というか、そういうスペースになっていました。リンク先の写真と見比べていただくとよくお分かりになるでしょう。
ヨネ・ノグチ生家跡から津島街道に戻って、三養荘。貞享2(1685)年の建築で、その原景を今ものこしています。この津島街道沿いだけでなく、津島にはあちこちに古い建物が残っています。桑名は第2次大戦のとき空襲に遭っていますが、津島は戦災には遭わなかったため、現在のように古い建物がたくさん残っているのでしょう。
上述のように津島街道沿いには古い民家がたくさんあります。こちらのお宅には、屋根神さまと卯建が上がっています。「卯建が上がらない」ということばがありますが、それは「地位・生活などがよくならない。ぱっとしない」といった意味。
本町2丁目と3丁目の境あたりに「坂井町の井戸」。町角に花崗岩の方形石組みの井戸があります。「大正七年十二月坂口町」と刻まれていますが、明らかに辻井の形態が残っています。昭和10(1935)年頃まで使用されていたと伝わっています。予告編では触れていませんが、ほかにも今日歩いてきたコースでは、このような井戸がいくつつもありました。
本町通りから橋詰町に入る北西角に道標。これは津島神社への参道を案内するものです。明治29(1896)年、尾西鉄道が開通した年に、氏子の浅井代次郎氏が寄附したものです。大正3(1914)年、尾西鉄道が名古屋鉄道に買収され、駅を今市場通りに設けてから、この鉄道を多く用いることとなり、参拝者の多くは、今市場通りから本町を経て橋詰で西へ折れ、神社へ出たのですが、天王通の開設とともに駅を移転した結果、こちらは、今日では裏通りとなっています。
これで当初予定していたところはほぼ回ってきましたが、天王通に出るところで堤下(とうげ)神社。もとは金燈篭社と称し、天明5(1785)年の天王川築留め以前は、川を隔てて津島神社の遙拝所であったといいます。祭神は須佐之男命奇御魂となっていますが、古くから乳児の夜泣き封じの信仰で広く知られています。
天王通に出て名鉄津島駅に向かっていると、とある民家風の建物のところで女性が立っておられました。あらかじめランチが食べられる店はチェックしていたのですが、ここ「なすがまま」もその1つ。ただし、おっさんが入るような店ではないなと思って、候補に入れていませんでした。しかし、この女性から声をかけられ、いろいろと伺う内に、これも縁かと思って、K氏とここで食事をしていくことに。「古民家カフェ」という位置づけのお店。ここを借りて、直してカフェにしているそうです。魅力的なメニューが並んでいたのですが、ランチをチョイス。今日は、コロッケ。これで¥880(税込み)。昼食がてら、12時過ぎから1時間ほど休憩。ゆったりできるお店でした。
なすがままからは、名鉄津島駅は目と鼻の先。13時10分を過ぎた頃にゴール。右の写真は、津島駅のホームから見た西の方角。この中央に見えるのが、今日歩いた天王通。奥に見える山並みは養老山地。かなり近くに見えます。13時24分発の弥富行き普通に乗車し、弥富には14時35分着。弥富からはJRに乗り換えて桑名へ。13時43分発のJR四日市行き普通で、桑名には13時50分着。電車賃は、朝と同じく合計¥500。
こちらは今日のGoogle Fitのデータ。歩いたのは、9.5㎞。自宅から桑名駅往復は、2.5㎞ほどと認識しています。それが正しければ、7㎞ほどを現地で歩いてきたはずで、歩数は、15,700歩でした。予告編は以上。明日以降、またあれこれ調べながら、本編を書いていきます。
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