20221223長島ウォーキング(本編その2)……正敬寺、花林院、善明寺、蓮生寺、明治の東海道道標、又木神明社、願證寺、深行寺から水辺のやすらぎパーク・旧久我屋敷へ
12月23日に行ってきた「長島ウォーキング」の本編その2です。その1は、旧長島城跡まででした。ルートマップはその1。マップの中央あたりです。その2では、長島川を渡って、川の東へ。正敬寺、花梨院、善明寺、蓮生寺とお寺が続きます。
まずは、石城山正敬寺(しょうきょうじ)。真宗大谷派。写真でお分かりのように、手入れが行き届いた、良いお寺なのですが、残念ながら、由緒書きもなく、また、ネット検索ではとくに情報は出て来ません。
正敬寺の北に盤龍山花林院(ばんりゅうざんかりんいん)へ。曹洞宗のお寺。家康の異父同母弟である松平康元が父久松俊勝の冥福を祈るため、三州西郡(こちらの記述によれば、現在の愛知県蒲郡市に含まれる地域)に一寺を建て父の法号を採って花林院と名づけたそうです。その後、松平氏は下総関宿へ移封。さらに加納、信州小諸へと移封されたので、寺もこれにしたがって移転しています。松平康尚が長島藩主となると、花林院も長島に寺基を移しました。その後、増山氏が長島に入封すると増山氏もまた花林院を代々の位牌所として庇護しています。門の脇に「乳授薬師(ちちやくし)」という石碑も建っています。
禅寺らしく、山門の脇には、大きな「戒壇石(かいだんせき)」があり、「不許葷酒入山門(=葷酒山門に入るを許さず」と刻まれています。山門をくぐった右手(北側)には、地蔵堂が2ヶ所あります。
元の本堂は天保年間の建立だったそうですが、昭和36(1961)年に焼失。その後、鉄筋コンクリートで再建されています。
長島藩主松平、増山両家の位牌所で、墓所には増山氏の13基の墓碑があるそうです。左の写真は、増山正修(ましやま まさなお)公のお墓。天保13(1842)年、長島藩主増山家7代となっています。
境内には、また、福原銭太郎(ふくはらせんたろう:慶応3(1867)~昭和13(1938)年))の墓があります。福原は、伊勢国桑名郡長島村(現在の三重県桑名市長島町)出身。士族・福原資英の長男として生まれ、陸軍軍人で最終階級は陸軍中将。日清、日露戦争に参戦。陸軍士官学校教官、参謀本部部員、近衛師団参謀も歴任し、日露戦争時には第12師団高級参謀を務めています。大正9(1920)年、桑名町長に選出され、10年間在職。また、大正11(1922)年には三重県会議員に当選し、2期務めました。その後、昭和6(1931)年から昭和8(1933)年まで長島村長も務めています。余談ながら、福原は、九華公園の西側入り口にある碑の文字を書いています(右の写真)。この碑陰には、「昭和3年5月建之 桑名町会議員一同」とあります。
続いては、長崎山善明寺。真宗大谷派で、長島六坊の1つ。開祖は長崎新蔵。長崎は一向一揆の後しばらく尾張にいましたが、その後長島に戻り、寛永12(1635)年、善明寺を開創。現本堂は大正4年(1915)の再建。
善明寺の先でグルッと回って今度は西へ。紫雲山蓮生寺。真宗高田派。このお寺では、旧長島城の大手門の一部が山門として使われています。蓮生寺第十一世賢道のとき(明治9(1876)年)に払い下げを受けたものです。旧大手門より縮小されているそうです。
一回りして、稲荷阿岐波神社の近くにある大手橋のところに戻ってきました。橋の東側に道標が1基あります。稲荷阿岐波神社の前から大手橋のところは街道であったようです。ここは三叉路で、道標の正面には正面には、「👈 前ヶ須 津島/宮 名古屋道」、左右両面には「右 久波奈ミち」「左 くわなみち」とそれぞれ刻まれています。この道標は、「明治の東海道」を示しているものでした。明治4(1871)年に七里や三里の渡しが廃止され、東海道は熱田から前ヶ須(現在の弥富市)に至り、前ヶ須から官営渡船で長島を横断する鰻江川(うなぎえがわ:長島輪中と葭ヶ崎輪中の間の水路を鰻江川といいました。明治24(1891)年に締め切られています)を通り、桑名川口町へ着くコースに変更されました。なお、これとは別に、前ヶ須から民営渡船で押付(桑名市長島町、国道1号線と県道7号線の交差点あたり)へ渡り、長島を陸路で横断し、十日外面(とおかども:伊勢大橋東詰交差点あたり)から桑名福島へ渡る民営渡船のコースもありました。
このあと、国道1号線を越えて、1号線の南側へ。まずは、又木交差点のところにある神明社へ。ご祭神は、天照大神。慶長19(1614)年、西外面村遠浅に神明宮として勧請したのが始まりといいます。その後、荒廃したため、西外面鎮座のハ幡宮を当地の産土神として崇敬するに至りました。大阪の陣に際し、当地の民が多く徴発されて出陣しましたが、全員つつがなく帰村したのは、神明の加護によるものとして再び社殿を造営し奉斎したと伝えられています。さらに、享和3(1803)年には秋葉社を、また、天保2(1831)年には末社金刀比羅宮を勧請し、当地の氏神として多くの崇敬者の信仰を集めています。簡素な社ですが、それなりの由緒、経緯があるものです。
神明社の東に真宗大谷派の崇泉寺。草木が生い茂っていて、無住かとも思えますが、墓地は割ときれいでした。この崇泉寺については、詳しいことは不明。
さて、いよいよ願證寺(がんしょうじ)へ。山号は、長島山願證寺。長島御坊ともいいます。願證寺は戦国時代、織田信長と長島の一向宗門徒の間で起こった長島一向一揆の舞台となった寺として、悲惨な歴史があります。しかし、もとの願證寺は杉江につくられ、その跡は明治期の河川改修工事によって、長良川の川底に沈んでしまいました。現在の願證寺は、門徒のために祐泉寺を寺縁により願證寺の名称で呼ぶようになったものです。
こちらが長島一向一揆殉教の碑。長島願證寺は、当時、東海地方の一向宗の中心として、その門徒は、およそ10万人といわれるほどで、長島の城主伊藤重晴を追い出し、一向宗門徒による自治を行っていました。天正2(1574)年7月、信長は三度目の長島攻撃を開始し、志摩の九鬼水軍を中心に数百艘の軍船を用いるなど、これまでにない大軍を動員しました。この軍船の威力は大きく、長島方の受けた被害は甚大でした。長島方では食糧不足から餓死者が続出、二つの砦は落ち、風雨に紛れて砦から脱出した男女千人余りが信長軍に斬り殺されました。三カ月にわたる籠城戦が続き、9月29日、遂に長島方は降伏し、門徒衆は船で逃げ出しました。しかし、待ちかまえていた信長軍に攻められ、砦に残っていた男女2万人余りは、周囲に柵を設けて閉じ込められ、四方から火を放たれ焼き殺されてしまったといいます。殉教の碑は、長島一向一揆400年追悼法要を勤修するに当り、昭和50(1975)年9月に建てられています。今は、ナガシマスパーランド、なばなの里、イルミなど観光で知られる長島の地にも、このような痛ましい出来事があったのです。
次の深行寺へ行く途中に小さな社がありました。コースマップを描いた「キョリ測」には載っていなかったのですが、皇大(こうたい)神社です。元禄12(1699)年、長島藩主松平忠充公により勧請されたとしています。後年、増山氏が藩主になってからも、例祭には必ず幣帛が供進されるなど、代々の長嶋城主の崇敬と附近の人々の信仰が篤い神社であると伝えられています。明治3(1870)年、現在地に遷っています。後同城主増山公の代に毎年旧暦九月一六日の例祭には必ず幣帛を供進され、
願證寺の東には、佐々木山深行寺(じんぎょうじ)。真宗大谷派で、ここも長島六坊の1つ。開祖は平野智忍。平野は、一向一揆の後しばらくは、越前にいましたが、寛永3(1626)年、千倉に創設し、元禄3(1690)年殿名に遷っています。このとき、佐々木と改姓。長島城の奥書院がここに移築され、本堂として使われていたそうですが、昭和63(1988)年老朽化のため改築されています。
深行寺から長島水辺のやすらぎパーク・旧久我屋敷へと戻ります。ここは、ボタンの名所で、見に来たことがあります(2020年4月28日:河口堰でコアジサシ、コムクドリ、ヒレンジャク、ササゴイ、長島水辺のやすらぎパークで牡丹……プチ遠征を楽しみました)。久我屋敷は、長島藩の重臣であった久我家のもの。明治になって久我氏は戸長に任命され、長島・大島・松ヶ島・駒江・出口・又木・小島の各村を治めました。、家屋は明治12(1879)年)に建築されたもの。水辺のやすらぎパーク・旧久我屋敷については、昨年4月に訪ねた記事にも詳しくあります(2021年4月24日:20210422勝手に近鉄名古屋線ハイキング「長島漫歩」(その2)……稲荷阿岐波神社、道標、長島水辺のやすらぎパークから花市場に立ち寄り、そのまま歩いて伊勢大橋を渡り「完」)。
その2はここまで。その3では、長島川遊歩道を歩いて、日神神社にお参りし、なばなの里にゴール。「ウォーキング納め」で祝杯(微笑)。
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