20221203桑名駅西&諸戸水道ウォーキング(1回完結)【カワセミについて付記(12/17)】
今朝は、2.2℃まで冷えました。わが家の玄関先から見える藤原岳も初冠雪していました。道理で冷えたわけです。木曽御嶽山にも雪が積もっているのも見えました。
今日は、予定通り、「桑名駅西&諸戸水道ウォーキング」に出かけてきました。ルートマップは、桑名駅スタートと書きましたが、実際には、桑名神明社で同級生K氏と待ち合わせ。そこから、諸戸水道水源井、養泉寺、諸戸水道貯水池遺構、長善寺、諸戸徳成邸跡、徳成第一公園、走井山公園、勧学寺、上野御膳水、上野神社、十念寺墓地、冷水庵、南大山田神社、太夫の大楠、増田神社、西桑名神社、西方城跡、西方寺、西方廃寺跡、海善寺と回ってきました。桑名駅スタート&ゴールでカウントしますと、6.8㎞のコース。アップダウンがかなりあり、最高地点は海抜70mくらいでした。かなりの運動量。昨年3月20日に同じところを回っていますので(2021年3月20日:20210320勝手にハイキング「諸戸水道・駅西を行く」(予告編))、今日の記事は簡略版で1回完結。
桑名駅東口。写真を撮っただけで、今日は通過。今年もイルミをしていますが、まだ見ていません。夜はほとんど出歩かないのです。形式上、ここがスタート地点。
桑名駅の南300mほどのところに、東から西へ順に、三岐鉄道北勢線のナローゲージ、JR関西線の狭軌、近鉄名古屋線の標準軌と、3種類の線路幅を渡る踏切があります。この3種類の幅の線路を渡る踏切は、全国でここだけだそうです。右の写真では、ちょうどJR関西線の列車(手前)と近鉄名古屋線の電車が通過していくところ。
こちらが、今日の集合場所である桑名神明社。由緒書きによれば、創始は応永年間(1394~1427年)で、伊勢神宮の分社とし天照大神を遷座し、村の氏神として祀ったといいます。天正年間(1573~1591年)、兵火のため類焼に逢い、社誌古帳等すべて灰となって、詳細は分からないといいます。明治3(1870)年に社殿を改築し、その時、地域の神社を合祀しており、境内には、八天宮、山の神社、一二三社(稲田の神)の他、稲荷社が。
桑名神明社の東にある信号を渡って、シェルメール桑名東方というマンションのすぐ東にある細い道を南に入って行くと、諸戸水道水源井があります。諸戸水道は、初代諸戸清六が、独力で上水道敷設を計画し、東方丘陵地の地下水を集めた貯水池を築き、桑名市内に上水道を普及させたもの。この井戸は、その水源でした。諸戸水道は、近代的な上水道としては、全国で7番目に完成しました。明治37(1904)年に竣工し、昭和4(1929)年まで使用されています。この水源井のすぐ西に貯水池遺構もありますが、ルートの関係で、先にもう1箇所を訪ねます。ちなみに、この水源井の近くでは、常に地下水が染み出ているところがあります。それだけ水が豊富に出たところだった証しでしょう。
続いて、蓮華山養泉寺。真宗大谷派のお寺。桑名願証寺内にあったのですが、願証寺が高田派に改宗したときにしたがわず、独立しました。長島一向一揆の総指揮者で戦死した下間豊前の子・舎人が出家し、伝馬町に再建された願証寺内で創始したお寺です。移転を繰り返したのですが、昭和4(1929)年にここに来ています。多度、長島を含め桑名市内には、長嶋一向一揆に関わりのあるお寺がたくさんあります。
養泉寺のすぐ北には、諸戸水道貯水池遺構があります。初代諸戸清六は、ここに東方丘陵地の地下水を集めた貯水池(東西約13.4m・南北約23.2m、深さ約3.6m)を築き、延長14㎞にも及ぶ給水管で桑名町周辺(給水区域:旧桑名町・旧赤須賀村・旧益生村、旧大山田村の一部)に共用栓55ヶ所、消火栓24ヶ所を設置し、市民に無償提供したのです。貯水池の側壁と底面はコンクリート造、内壁は全て煉瓦積です。上屋は失われてしまっています。
この遺構の南には、万年山長禅寺。曹洞宗のお寺。かつては長島にあったのですが、明治の木曽三川改修工事のため、現在地に移転しています。「桑名市史 本編」によれば、天正の頃、美濃高須城主・徳永左馬助正重が田地を寄附して一宇を建立したとあります。薩摩義士・和田善助の墓があります。ただ、このお寺、至る所に「用のない方は入らないように」という掲示があり、敷居が高い(苦笑)。お寺は、もっとオープンでいて欲しいと思います。
次へ行く前に、諸戸徳成邸があったところを見てきました。以前にも立ち寄ったのですが(2020年8月17日:39.2℃のもと村正史跡めぐりスタンプラリーへ……3時間で7.9㎞を歩き村正の鍔の形のピンバッジをゲット)、すっかり高級住宅街に再開発されています。ただし、諸戸家墓所はそのまま残っています(右の写真)。諸戸徳成邸は、2017年に最後の公開を見に行っています(2017年4月29日:「諸戸徳成邸」特別公開へ……「見納め」になるということで)。
続いて徳成第一公園。徳成農園跡です。ここは、東洋紡績の前身である三重紡績を創立した一人、伊藤傳七(第10代)(嘉永7(1852)~大正13(1924)、明治~大正時代の実業家、貴族院議員)が果樹栽培などの研究のため、明治43(1910)年に園芸場を設けた跡地です。
走井山公園。桜の名所でもあります。戦国時代に矢田城がありました。北畠氏の家臣である矢田半右衛門俊元の居城でしたが、織田信長の伊勢侵攻の際に滝川一益によって攻められ落城すると、その後は一益に与えられ、長島一向一揆を攻略する最前線基地として使われました。
走井山勧学寺の本堂。聖武天皇の御代(724~749年)、行基菩薩の草創によるものと伝えられています。室町の頃(1390~1570年)までは走井山北麓にありました。同地内(現在の桑名高校付近)の海善寺が廃寺となり、本尊の千手観音立像が当寺へ移されてきています。桑名藩主・松平定重公(1657~1710年)の時、現在地の矢田城跡に再建されました。明治の初め(1870~1880年頃)、いったん廃寺の憂き目に遭ったものの、近在の信者有志の尽力により再興されました。本堂は、松平定重公寄進のもので、市内に現存する寺社建築としては最も古いとされます。
走井山公園から南、三岐鉄道北勢線馬道駅の方に降りてきたところから振り返った写真。何度か取り上げていますが、この写真に三猿(見ざる・聞かざる・言わざる)があります。この三猿は私のお気に入り。ここで見上げたら、背後にイチョウの大木があって、なかなか良い景色でした。
こちらは上野御膳水(ごぜんみず)。背後の上野の丘から湧き出た水で、江戸時代、桑名藩主の飲料水として、毎日、桑名城まで運ばれたのが、ここ上野の湧水なのです。そのため、「御膳水」と呼ばれます。以前は、筧から水が流れ出ていたそうです。今は、飲用には適しません。
上野御膳水の西に上野神社。上野神社のご祭神は、建御雷之男神(タケミカヅチノカミ:鹿島神宮の神)、齋主神(いわひぬしのかみ:経津主神(ふつぬしのかみ)ともいう、香取神宮の神)、天児屋根神(アマノコヤネノミコト:天照大神が天の岩屋に隠れたとき、祝詞を奏した神)など7柱。上野村の氏神様。
石取祭で有名な春日神社(桑名宗社)は、桑名神社と中臣神社の2社からなっていますが、中臣神社はもともと上野に鎮座していたといいます。神護景雲2(768)年、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮から奈良市の春日大社に建御雷之男神を勧請した際、ここ上野に一時鎮座し、翌神護景雲3(769)年にその鎮座地に創建されたのが、その中臣神社であると伝わっています。この中臣神社は、正応2(1289)年8月、桑名神社境内に遷座され、上野を離れました。永仁4(1296)年8月、中臣神社に春日大社から建御雷之男神、斉主神、天児屋根神、姫大神の4柱が勧請されたのですが、その際には上野村(現在の桑名市太夫)の若太夫と一太夫が遣わされたとされます。その後、中臣神社の旧鎮座地に春日大社の4柱を祭神とする四之宮神社が祀られました。明治41(1908)年、上野村内にあった山神社(祭神は 大山津見神)と富士浅間社(祭神は木花咲耶比売命)、繁松新田の一目連神社(祭神は天目一箇命)とともに立坂神社へ合祀されたのですが、戦後、四之宮神社を旧地に戻そうという動きがあり、昭和23(1948)年4月に、現在地へ分祀。この時、四之宮神社とともに合祀されていた旧村内3社の祭神もあわせて祀り、社号は上野神社と改められています。
上野神社から竹林の中を少し登っていきます。最初に来た時はずいぶん不安を抱きながら登っていった記憶があります。ここに上野墓地があります。「十念寺山」とも呼ばれます。慶長の町割のとき(慶長6(1601)年)、十念寺は桑名城付近から現在地の伝馬町に移転したのですが、しかし、面積が不足したため、この一帯を藩主に賜ったといいます。十念寺の歴代住職の墓などがあります。見つけた中でもっとも古いお墓は、「寛永五年(1628年)」とあり、驚きました。花が手向けられている墓もたくさんありました。
上の墓地からさらに登って、井坂山冷水庵(いさかさんれいすいあん)。曹洞宗。明暦2(1656)年に茂右衛門が境内地を寄進し、建立したといいます。位牌によれば、海蔵寺3世の剣嶺(けんれい)大和尚が開山し、その弟子である愚白(ぐはく)禅師が開基。海蔵寺の末寺。弘法大師の作という虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ:智慧と功徳が広大無辺である菩薩)を本尊とします。現在の本堂は、棟札によれば文化 13(1816)年4月に建てられたもの。境内に阿波国出身で桑名藩校進脩館(しんゆうかん)の副教(副校長)をつとめた佐父理希亮(安永3(1774)~文政3(1820)年:さぶりまれすけ)の墓で、亀に乗った「亀跌(きく)」があります。妻の柔は夫が異郷の地で亡くなり、将来は夫の業績がだれにも知られなくなることを嘆いて、自分の装身具を売り払い、ここに墓を建てたのです。
南大山田神社。元は太夫村八幡社でした。この八幡社は、明治41(1908)年10月に西桑名神社に合祀され、合祀した新しい神社を南大山田神社といいました。その後、第二次大戦後に分祀されたのではないかと思います。境内には、「八天宮」と刻まれた石柱と「両宮遙拝所」とがあります。「八天宮」は、火伏せの神。江戸時代の文政7(1824)年、桑名藩主の命で各村に八天宮を祭るようにされ、桑名員弁地方で特に信仰が多いそうです。両宮遙拝所は、もちろん伊勢神宮の外宮・内宮。伊勢神宮の遙拝所は、桑名あたりではあまり見かけません。ここで、小休止。
太夫の大楠(たゆうのおおくす)。元々、六本楠という名称の楠(楠群)があり、楠が6本あったといいます。 天正年間(1573~92)、三河の武士が、この六本楠に隠れて追手から逃れることができ、 一命を取り留めたそうです。後年、その楠が枯れた時に、その母親がお礼に植えたという話が伝わっています。幹が2つありますが、環境省巨樹巨木林データベースによれば、幹周6.80m、樹高20m、地上60cmの所で測ると、幹周は10.08mとあります。このあたり、八幡社(南大山田神社)の境内地であったと思われ、ご神木だったといいます。全体像の写真を撮り忘れましたので、左の写真は去年3月20日に撮ったもの。
大楠から北へ、すぐのところに、増田神社。ここは、伊勢太神楽で有名。伊勢太神楽は、伊勢神宮に参拝できない人の代わりに神楽を奉納する神事で、桑名市内の伊勢太神楽講社の人々によって受け継がれているもの。普段は各地を回っていますが、12月24日には増田神社境内で全曲が奉納されます。豪壮な獅子舞に加え、皿回しや軽業といった曲芸などもあります。 伊勢太神楽は、国の重要無形民俗文化財。
増田神社の御祭神は、天照皇大神など7柱。由緒書きによれば、白鳳元(672)年、壬申の乱の際に大海人皇子が、吉野から桑名に逃れ、桑名郡家に泊まられたという伝えがあります。そのときに神宮を遙拝された地に、この増田神社を奉祭されたとありました。
ここで一度、伊勢太神楽を見たいと思うのですが、未だ実現せず。大賑わいになるからです(人が大勢いるところは好まなくなりました)。伊勢太神楽、私は、春日神社の左大臣・右大臣奉納奉告祭で見ました(2016年8月21日:春日さんの左大臣・右大臣奉納奉告祭……伊勢大神楽の奉納も【動画をYouTubeにアップしました】)。
余談ながら、増田神社から県道を越えて、西桑名神社に向かいますが、県道交差点のところにある三和シヤッター販売店には、鉄人28号とスパイダーマンがいます。この光景は、地元ではたぶんかなり有名。
その先に、西桑名神社。主祭神は、品陀和氣命(ほんだわけのみこと:応神天皇)。勧請年月は明らかでないようですが、現在の西方配水場のあるところに、滝川一益が永禄年間(1558~1570年)に西方城を築かせた加藤勘助の祈願所であったといいます。また、この西桑名神社にも、大海人皇子(天武天皇)が白鳳年間(白鳳は、私年号)に桑名に立ち寄られたときに、ここから神宮を遙拝されたという伝説もあると由緒書きにはあります。
西桑名神社は、明治41(1908)年10月に太夫村の八幡社(南大山田神社)を合祀し、南大山田神社と称しています。昭和9(1934)年9月、西桑名神社に改称。天正年中(1573~1591年)滝川氏の頃、既に城廓があったので、それ以前からの社であるとされています。
西方城跡は、今日は、場所を確認しただけで通過。かなり上り下りしてきましたので、これ以上の登りは勘弁して欲しいということ(苦笑)。西方城は、滝川一益の家臣加藤勘助が築いたとされます。矢田城を中心とする西別所3城(西方城、白山城、西別所城)の1つ。天正11(1583)年、滝川一益が転封の後、廃城となりました。現在は配水場、竹林、畑に変わっており、竹林内に土塁らしきものが残ります。前回の記事をご覧ください(2021年3月23日:20210320勝手にハイキング「諸戸水道・駅西を行く」……その3(南大山田神社から海善寺を経て桑名駅西口にゴールで「完」)。
西方状の北に西方寺(さいほうじ)。入り口に「真宗大谷派阿弥陀堂」と刻まれた門柱が立っています。天文16(1547)年、道覚が開基し、ご本尊も同年のものが伝わっています。かつては道場で、「旧道場」「総仏堂」「阿弥陀寺」と呼ばれました。昭和17(1942)年には「西方教会」と改称し、昭和27(1952)年に現在のように、西方寺となりました。
ここは今日歩いた中でたぶん最も高いところで、キョリ測で見ると、海抜約70m。眺めも良く、名古屋駅前の高層ビル群もよく見えたくらい。紅葉は、まだこれからという感じでした。
西方寺から下って、マリアモンテッソーリ幼稚園(右の写真) の南側を通って、西方廃寺跡。西桑名神社の北東にある笹山溜池公園がそれです(以前は、標識が建っていたようですが、今はありません)。西方廃寺は、奈良時代の寺院と考えられています。というのも、志摩国分寺や縄生廃寺(朝日町)と同系の瓦が出土しているためです(こちらを参照)。この近くには、西方窯跡があり、西方廃寺に瓦を供給するために創業した窯跡でした。4基の窯があったといいます。西方窯跡は、現在は、マリア・モンテッソーリ幼稚園の敷地内のようで、立ち入りはできません(こちらを参照)。
最後の目的地は、東明山海善寺。元木観音とも呼ばれています。前回来た時には、かなり荒れていたのですが、少しずつ修復されているようでした。江戸時代には、境内に大きな松があり、「元木の笠松」と呼ばれていました。また、付近は松林となっており、サギが生息していたので「鷺山」といわれていたといいます。古代からの寺院・海善寺の跡地とされます(くわな史跡めぐり)。千手観音が安置されています。前回は厨子の中で拝観できなかったのですが、今日は、しっかりと見られました。これで今日の目的地はコンプリート。時刻は11時45分。昼食を摂るために桑名駅方面に向かいますが、ここから先は、下り坂のみ。BSプレミアムの「日本縦断こころ旅」で火野正平さんが、自転車で坂を下る時の決め台詞に「人生、下り坂最高!」というのがありますが、似たような気分。
余談。桑名駅では、自由通路を通って東側へ。自由通路には、ベンチがいくつか設置されていました。今週水曜の非常勤に行った時には気づきませんでしたので、それ以降に置かれたかと思います。ベンチの足が、桑名の鋳物でつくられたものもありました。ベンチ本体は、多度山の間伐材を使っているのかなという気がします。
桑名駅の周囲は、ランチが取れるところ店は多くありません。今日もウロウロしてしまい、結局、最近も行った「桑名ホルモン&目利きの銀次」へ。12時半になっていました。「サバかつ定食(¥880)」で昼食。1時半過ぎまでしゃべって解散。
今日歩いた距離。Google Fitで約10㎞。ここまでの歩数は、17,767歩でした。よく歩きましたし、アップダウンがかなりありましたから、けっこうな運動量。年内にもう1回、長島の方へウォーキングに行きたいと思っています。
【カワセミについて付記(12/17)】 12月16日に鳥見の知人から、上野御膳水の南にある農業用のため池に最近、カワセミがペアで登場しているという情報を得ました。コースマップでは上野御膳水のすぐ南西にある池がそれです。オスのカワセミが以前からいたところにメスも来るようになったというお話しでした。
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