20221223長島ウォーキング(本編その1)……近鉄長島駅から光岳寺、長島八幡社、小田江神崎神社、大智院、光栄寺、稲荷阿岐波神社、長島城跡へ
12月23日に行ってきた「長島ウォーキング」の本編その1です。この日から「クリスマス寒波襲来」ということで、西風が強くて寒い日でした。しかし、これで令和4(2022)年のウォーキング納めということで、予定通り出かけたという次第。いつものように、同級生K氏と二人で歩いてきました。冒頭の写真は、この日の朝の藤原岳。
近鉄桑名駅を8時23分に出る名古屋行き準急に乗車。近鉄長島駅までは1駅で、8時27分に到着。¥210。今日のウォーキングは、昔流行った言葉でいえば「安近短」です。右の画像が、この日歩いたルートマップ。近鉄長島駅から南のあたりの歴史散歩という次第。主な立ち寄りスポットは、光岳寺、長島八幡社、小田江神崎神社、大智院、光栄寺、稲荷阿岐波神社、長島城跡、正敬寺、花林院、善明寺、蓮生寺、神明社、崇泉寺、願證寺、皇大神社、深行寺、旧久我屋敷・水辺のやすらぎパーク、長島川遊歩道、日神神社と回って、なばなの里がゴール。この日が、年内最後のウォーキングということで、「ウォーキング納めだからなばなの里で乾杯しよう」というのが、最大のテーマ(微笑)。
ルートマップその1。この範囲に訪ねたところのほとんどがあります。さほど広くはない範囲をあちこちウロウロしてきました。たくさん立ち寄りたいところがありましたから、なるべく効率的に回ろうと考えた結果です。崇泉寺から先は、願證寺、皇大神社、深行寺と回って、水辺のやすらぎパーク・旧久我屋敷に戻る形でしたので、ルートが往復となって、重複しています。
近鉄長島駅を8時半にスタートしましたが、駅前に「伊勢湾台風水位標」があります。伊勢湾台風に襲われたとき、当時の桑名郡長島町内では堤防が15ヶ所も決壊し、1ヶ月間は水没したままであったそうです。この水位標の上の部分にあるのが、伊勢湾台風の時の水位です。輪中の郷にも同様の水位標がありますが、そこでの水位は3.9mだったといいます。
最初の目的地である光岳寺に向かう途中、西を見ると鈴鹿の山並みがみえました。長島は、もともと輪中地帯ですから、ほぼ平地で、あちこちで鈴鹿山脈がみえるのです。
近鉄長島駅から500m弱で天機山伝通院光岳寺。浄土宗のお寺。屋根瓦や、山門に三つ葉葵の御紋があります。徳川家康の母である伝通院の菩提寺の1つだからです。
創建は不詳ですが、古くは、下野国(現在の千葉県関宿)にあり、弘経寺と称していました。慶長7(1602)年、徳川家康は母親である伝通院の菩提寺の1つに定め、天機山伝通院光岳寺と改称しました(伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼という法名によると思われます)。当時の領主で、家康の異父弟である松平康元が光岳寺を庇護し、同家の移封先である加納藩(岐阜県岐阜市)、小諸藩(長野県小諸市)に随行し、慶安2(1649)年、当時の当主松平康尚(やすひさ)が長島藩に移封になると、長島城下に移りました。ここに祀られている「沓踏子安延命地蔵菩薩」は、伝教大師最澄が自ら彫り込んだと伝えられるもので、伝通院の念持仏だったといいます。
光岳寺からは長島八幡神社へ。この神社は、寛元3(1245)年に藤原(九条)道家が勧請したと伝えられている、長島最古の神社です。ご祭神は、応神天皇、仲哀(ちゅうあい)天皇、神功皇后(じんぐうこうごう)。天正12(1584)年には、小牧長久手の戦いに際して織田信雄が戦勝祈願をなし、その賽謝として鎧・兜一領を奉納したといい、また、歴代長島城主からも武神として崇敬されていました。獅子舞は、元禄12(1699)年に北島村の氏子によって始められた獅子舞神事が今も伝わっています。この獅子舞を一度は見てみたいとずっと思っているのですが、なかなか実現していません。
ここの境内は、歴史を感じさせる、なかなか良い雰囲気です。一の鳥居をくぐると、池があり、太鼓橋が架かっています。この橋を渡って境内に進むのです。
八幡神社からは、長島自動車学校、エスペランス桑名の南を通って、予定では大智院に向かうことにしていました。しかし、曲がり角で小田江神崎神社(おだえかんざきじんじゃ)がすぐ近くに見えましたので、寄り道。ご祭神は天照大神、豊受大神。
社頭にあった由緒書きには、概略次のような説明がありました。天文13(1544)年、小田江崎(於多井川の川元)に勧請奉祀したと伝わります。その後洪水や長島一向一揆の際の小田御崎砦の近くであったため社頭は大破。慶長8(1603)年、再建されています。寛文7(1667)年、藩主・松平良尚公が、社頭近くを往還が通るのを見て、社頭を東表にし南方の藪下に往還を付け替え、社の前後50間の社地を与えています。20年ごとに遷宮を行い、それが今なお受け継がれています。
この神社は、一説には天文13(1544)年の大水の時、上流から漂着した流れ宮を村民が拾い上げて勧請したともいう。この社の対岸、現在の桑名市蛎塚の揖斐川堤腹に蛇ノ宮という社があり、この社に大蛇が住んで、常にこの両者の間を行き来しているので、この川を船が通行するときには両岸の社に向かって、船頭が拝礼をしないと、川に濁流が渦巻いて、その船の進路をふさぎ、船を襲うといい伝えられているといいます。そのため、当社では、毎年8月7日の祭礼でかがり火をたいて、夜を徹する行事を行うそうです(濁り祭)。
長良川左岸の堤防道路に沿って南下すると、大智院があります。真言宗智山派のお寺。ここは、元禄2(1689)年松尾芭蕉が奥の細道の旅を大垣で結んだ後、伊勢神宮の遷宮を参拝に行ったのですが、その最初に立ち寄ったところです。ここで、芭蕉は挨拶句「うき我を さひしからせよ 秋の寺」をしたためたといいます。その直筆の色紙「真蹟懐紙」が残されています。
芭蕉が来訪した100年後(寛政元(1789)年)に長島藩主・増山正賢(雪斎)公は、近習などを集めて詩文をつくったり、自筆によって記念の石碑を建立しました。それが、この「蕉翁信宿処」の石碑です。時の藩主が自ら筆をとり顕彰碑を建立したのは珍しいことで、歴史、文学的に評価が高いものだそうです。 文人藩主らしい堂々とした風格の書体と評されています。また、三重県内に現存する芭蕉碑(約120基)中11番目に古く大切に保管されてきたそうです。なお、「信宿」は、同じ場所に二泊するという意味だそうです。
山門の脇にあるこちらの碑は、曽良塚です。右の方には、「伊勢乃国 長島……曽良」とあるようです。調べてみましたら、「行き行きてたふれ伏とも萩の原」という句が刻まれているということです。元禄2年8月の「おくのほそ道」本文に、山中温泉滞在中の出来事として、「曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云所にゆかりあれば、先立ちて行に、「行き行きてたふれ伏とも萩の原」曾良 と書置たり(後略)」とあるそうです。この「ゆかり」が大智院で、第四世住職法印良就が曽良の叔父です。ちなみに、前回訪ねたときも忘れたのですが、今回も、境内にあるはずの芭蕉句碑を見逃しました(苦笑)。前期の句に「伊勢国長島大智院に信宿ス」という前書きがつけられた句碑があるのです(「信宿」は、二泊という意味)。元の句碑は、伊勢湾台風でながされてしまい、後に再建されたそうです。この芭蕉の句「うき我を さひしからせよ 秋の寺」は、後に『嵯峨日記』で推敲されて、「憂きわれを寂しがらせよ閑古鳥」と変えられています。
大智院のすぐ南には、長島六坊の1つである銀杏山光栄寺。真宗大谷派。長島六坊は、織田信長の長島攻めに抵抗するため石山本願寺から寺侍として願證寺に送り込まれた僧らによって創建された寺院です。長島一向一揆では門徒衆の旗頭として活躍しました。長島落城後は、一時、それぞれ石山本願寺や北陸方面へ退散したのですが、豊臣秀吉が天下を統一した頃には、これらの僧やその師弟らは長島に帰ってきて再び寺を建てています。長島六坊は、すべて真宗大谷派の寺院で、元禄年間に六坊の公称が認められ、白袈裟着用を許されるなど大谷派の中でも一般末寺とは異なる特別な地位が与えられました。現在、桑名市長島町にはそのうち4つが残っています。光栄寺は、飯田九蔵が慶長4(1599)年に開創しました。宝暦の洪水を受け、現在の西外面(ども)に堂宇を再建しています。
続いて、稲荷阿岐波神社に向かいます。光栄寺の南で左折し、東へ。ほぼ水田の中を歩いて行きます。旧長島城の大手橋の西にこの神社があります。主祭神は、宇迦之御魂神。相殿神は、大名持之命。変わった名前ですが、これは大国主命の別名。大国主命には、たくさんの別称があるようです(こちら)。
社伝などによれば、初めは、萱町の田村邸の邸内社でしたが、後に中町の花林院門側に遷座、それ以後、次第に長島三町(下町、中町、萱町と思われます)の産土神として祀られています。また、長島城内未申に位置する二ノ丸櫓東隅に「杉峠稲荷社」が祀られており、歴代長島城主の崇敬をうけ、藩主・松平忠充により貞享3(1686)年、礼殿等の造営がなされていたといいます。その後、天保年間(1830~1843年)に至って、藩主・定政(神社検索(三重)にはこのようにありますが、享和元(1801)~天保13(1842)年の藩主は7代・増山正寧(まさやす)、天保13(1842)~明治2(1869)年は、増山正修(まさなお)が8代藩主。「定政」という名前は、増山家の藩主には見当たりません。こちら)により現鎮座地への遷座が行なわれました。大正3(1914)年、中町の稲荷社を合祀し、稲荷阿岐波神社と単称しています。「阿岐波神社」という割には、秋葉さんを祀っていないのが不思議。
下町・中町・萱町の3町内によって石取祭が行われており、7月最終の金・土曜日に町内を回ります。説明板によれば、もともとは稲荷社境内秋葉社の石取神事として行われ、神社の玉垣の敷石を年に一度新しくするために、美しい石を町屋川から拾い採ってきたもので、江戸時代末期ごろからは大祭として行われるようになっています。かつては街道沿いに神社があり、渡祭も行われていたのですが、昭和初期に稲荷社へ合祀となり、現在は、祭車を曳いて鐘や太鼓を鳴らしながら歩く町練りのみが行われています。なお、境内には、日露戦役記念碑が建っています。書は、大山巌。元帥、陸軍大将。日露戦争のときは、満州軍総司令官を務めています。
稲荷阿岐波神社からすぐ北に長島城跡があります。現在、城跡は長島中部小学校・長島中学校の敷地となり、遺構の大半は失われていますが、東側に石垣および堀が残るそうです(ネットにある情報では、石垣は大手橋の下にあるそうです)。長島城の起源は、寛元3(1245)年、藤原(九条)道家が館を築いたことにさかのぼります。文明14(1482)年、北勢四十八家の一人、伊藤重晴によって城が再建されました。元亀元(1570)年、一向宗・願証寺の住職・証意(蓮淳(蓮如上人の6男)の曽孫)によって伊藤氏一族が追放され、長島一向一揆の拠点となりますが、その後、織田信長によって攻略され、滝川一益の居城となりました。賤ヶ岳の戦い後、織田信雄の居城となるのですが、天正14(1586)年の天正地震で天守が倒壊するなど甚大な被害を受けたため、信雄は清洲城に移りました。江戸時代に入ると、菅沼氏が2万石で封じられ、長島城を改修。元和7(1621)年、菅沼氏が移封されると、長島藩は廃藩となり、長島城も一時廃城となったものの、慶安2(1649)年、久松松平家の松平康尚が那須藩より1万石をもって入り、長島藩が再興されました。元禄15(1702)年には、4代将軍家綱の生母の弟・増山正利の子の正弥(まさみつ)が常陸下館より2万石で移され、以後8代続き明治維新に至っています。この間、城郭は順次拡大されましたが、天守は上げられませんでした。
長島中部小学校内の「大松」は、天然記念物であり、市の指定文化財にもなっています。これは、クロマツの大樹で、樹齢300年以上と推定されており、長島城があった当時は本丸の西南にあったといいます。また、長島中学校の建物は何となく、お城風に作られています。右の写真は校門(2021年4月22日に撮影)。
キリがよいので、その1はここまで。その2は、長島川を東に渡って、真宗大谷派の正敬寺から。
« 今日は、ゴイサギ&ホシゴイ・デー | トップページ | 20221223長島ウォーキング(本編その2)……正敬寺、花林院、善明寺、蓮生寺、明治の東海道道標、又木神明社、願證寺、深行寺から水辺のやすらぎパーク・旧久我屋敷へ »
「旅行・地域」カテゴリの記事
- 九華公園でアオサギ2羽が接近遭遇……大円寺にも立ち寄ってきました(2024.10.08)
- 今日はアオサギとカワセミ……余談はフクロウ(2024.10.07)
- 20240911近鉄あみま俱楽部ハイキング「久居散策」へ(その2)……高通児童公園、賢明寺、本念寺、川併神社、奈良道、妙華寺、玉セン寺を経て久居駅にゴールにて「完」(2024.09.15)
- 20240911近鉄あみま俱楽部ハイキング「久居散策」へ(その1)……久居駅をスタートし、寺町、久居八幡宮、子午の鐘・木槿塚を回る(2024.09.13)
- 20240911近鉄あみま俱楽部ハイキング「久居散策」へ(予告編)(2024.09.11)
「散歩」カテゴリの記事
- 九華公園でアオサギ2羽が接近遭遇……大円寺にも立ち寄ってきました(2024.10.08)
- 今日はアオサギとカワセミ……余談はフクロウ(2024.10.07)
- 九華公園にてカワセミとエゾビタキ(2024.10.06)
- 雨の止み間に散歩で、アオサギ2羽(2024.10.04)
- 九華公園にエゾビタキが2羽、貝塚公園にはモズが登場(2024.10.03)
「神社」カテゴリの記事
- 20240911近鉄あみま俱楽部ハイキング「久居散策」へ(その2)……高通児童公園、賢明寺、本念寺、川併神社、奈良道、妙華寺、玉セン寺を経て久居駅にゴールにて「完」(2024.09.15)
- 20240911近鉄あみま俱楽部ハイキング「久居散策」へ(その1)……久居駅をスタートし、寺町、久居八幡宮、子午の鐘・木槿塚を回る(2024.09.13)
- 20240911近鉄あみま俱楽部ハイキング「久居散策」へ(予告編)(2024.09.11)
- アブラゼミが登場し始めました(2024.07.26)
- 九華公園で半月ぶりにカワセミ(2024.07.21)
「寺院」カテゴリの記事
- 九華公園でアオサギ2羽が接近遭遇……大円寺にも立ち寄ってきました(2024.10.08)
- 20240911近鉄あみま俱楽部ハイキング「久居散策」へ(その2)……高通児童公園、賢明寺、本念寺、川併神社、奈良道、妙華寺、玉セン寺を経て久居駅にゴールにて「完」(2024.09.15)
- 20240911近鉄あみま俱楽部ハイキング「久居散策」へ(その1)……久居駅をスタートし、寺町、久居八幡宮、子午の鐘・木槿塚を回る(2024.09.13)
- 20240719御坊さんライトアップ(2024.07.19)
- 今日も修行ですねぇ(苦笑)……野鳥はいないのです(2024.07.13)
「歴史散歩」カテゴリの記事
- 九華公園でアオサギ2羽が接近遭遇……大円寺にも立ち寄ってきました(2024.10.08)
- 20240911近鉄あみま俱楽部ハイキング「久居散策」へ(その2)……高通児童公園、賢明寺、本念寺、川併神社、奈良道、妙華寺、玉セン寺を経て久居駅にゴールにて「完」(2024.09.15)
- 20240911近鉄あみま俱楽部ハイキング「久居散策」へ(その1)……久居駅をスタートし、寺町、久居八幡宮、子午の鐘・木槿塚を回る(2024.09.13)
- 20240911近鉄あみま俱楽部ハイキング「久居散策」へ(予告編)(2024.09.11)
- ヒヨドリとヘクソカズラ(2024.08.02)
「城・城跡」カテゴリの記事
- 20240911近鉄あみま俱楽部ハイキング「久居散策」へ(その2)……高通児童公園、賢明寺、本念寺、川併神社、奈良道、妙華寺、玉セン寺を経て久居駅にゴールにて「完」(2024.09.15)
- 20240911近鉄あみま俱楽部ハイキング「久居散策」へ(予告編)(2024.09.11)
- 20240503近鉄ハイキング「春の桑名散歩 三八市をたずねて」へ(一回完結)(2024.05.03)
- 20240303JRさわやかウォーキング「本能寺の変、家康公も通ったと言い伝えのある隠れ古道を歩こう」へ(その3)……旧東海道から亀山城多門櫓、古刹遍照寺に参拝して、亀山駅にゴール(完)(2024.03.07)
- 20240303JRさわやかウォーキング「本能寺の変、家康公も通ったと言い伝えのある隠れ古道を歩こう」へ(予告編)(2024.03.03)
「名所旧跡」カテゴリの記事
- 20240911近鉄あみま俱楽部ハイキング「久居散策」へ(その2)……高通児童公園、賢明寺、本念寺、川併神社、奈良道、妙華寺、玉セン寺を経て久居駅にゴールにて「完」(2024.09.15)
- 20240911近鉄あみま俱楽部ハイキング「久居散策」へ(その1)……久居駅をスタートし、寺町、久居八幡宮、子午の鐘・木槿塚を回る(2024.09.13)
- 20240911近鉄あみま俱楽部ハイキング「久居散策」へ(予告編)(2024.09.11)
- 20240608勝手にハイキング「斎宮の花菖蒲群落へ」(一回完結)(2024.06.08)
- 20240604諸戸氏庭園の花菖蒲(2024.06.07)
「勝手にハイキング」カテゴリの記事
- 20240608勝手にハイキング「斎宮の花菖蒲群落へ」(一回完結)(2024.06.08)
- 20240517勝手にハイキング「吉崎海岸でハマヒルガオを見る」(一回完結)(2024.05.17)
- 20240327勝手にハイキング「稲沢の美濃路と稲葉宿を訪ねて」(その3)……性海寺、日吉社、西福院、恵明寺を経て名鉄奥田駅にゴールにて「完」(2024.04.02)
- 20240327勝手にハイキング「稲沢の美濃路と稲葉宿を訪ねて」(その2)……津島道道標、稲葉宿問屋場址石碑、中部電力旧稲沢営業所、稲葉宿本陣跡ひろば、崇福寺から八幡社へ(2024.04.01)
- 20240327勝手にハイキング「稲沢の美濃路と稲葉宿を訪ねて」(その1)……観音禅寺、赤染衛門歌碑公園、修理若御子神社、稲葉神社、禅源寺から金神社へ(2024.03.31)
« 今日は、ゴイサギ&ホシゴイ・デー | トップページ | 20221223長島ウォーキング(本編その2)……正敬寺、花林院、善明寺、蓮生寺、明治の東海道道標、又木神明社、願證寺、深行寺から水辺のやすらぎパーク・旧久我屋敷へ »
コメント