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2022年10月 9日 (日)

20221009桑名駅西ウォーキング(一回完結)

Ekinishi  曇りのち、15時ころから雨という予報でした。午前中は、雨は大丈夫だろうということで、予定通り「桑名駅西ウォーキング」に行ってきました。勝手にハイキングのシリーズの1つです。実際に歩いたルートマップは、左のもの。当初の予定では、聖衆寺、秋葉三尺坊大権現から竹林を歩いて、式部泉を見て、高塚山古墳の麓へ行くつもりだったのですが、通れなくなっていて、予定変更。北別所神明社へショートカットし、さらに、旧桑名市民病院跡地を見て、岸西山へ。それ以降は予定通り。6.6㎞

Img_2505c_20221009172601 Img_2494c_20221010034401  スタートは、桑名駅西口。ここで同級生K氏と待ち合わせ。8時20分にスタート。桑名駅は、2年前の8月に新しくなり、駅前も再開発されるはずですが、実際の整備はまだまだこれから。

Img_2525c_20221009172601 Img_2518c_20221009172601  最初の目的地は、光徳山円妙寺。日蓮宗。久松松平家第2代当主で桑名藩主(第6代)の松平定良の菩提寺として建立されました。宝暦年間(1751~1764年)に火災に遭い、境内が全焼したので、当時の旧桑名藩主・久松松平家の領国である陸奥白河藩へ移転。文政6(1823)年、白河藩の久松松平家が、桑名へ再び国替えとなり、当寺も桑名に戻って来ています。山門は、嘉永年間(1848~1855年)に建てられ、戦災に遭わず現在に至っています。

 続いて、Img_2599c_20221009172601 Img_2582c_20221009172601神宝山法皇院大福田寺。聖徳太子創建と伝えられる真言宗のお寺。ただし、実際には、鎌倉時代末の創建と考えられます(これは、今年9月の市民大学郷土史学科の講義で聞いた話)。山門は江戸時代建立といわれています。右は、本堂。

Img_2566c_20221009172601  こちらは、大福田寺にある聖天堂歓喜聖天が祀られています。歓喜天は、頭は象、身体は人間の姿をした仏法守護神です。もとインド神話の魔王で、のち仏教にとり入れられました。単身像と双身像とあり、双身像は、男神と女神とが抱擁する姿をとることが多く、夫婦和合・子宝の神として信仰されるといいます。

Img_2606c_20221009172601 Img_2616c_20221009172701  円妙寺墓地。円妙寺とは離れてしまっていますが、当所、円妙寺が建立されたころには、寺はこの墓地の東北辺りにあったといいます。桑名藩6代藩主・松平定良(1632~1657年)とその正室養仙院の墓があります。定良は、明暦3(1657)年7月18日、26歳で病没。日蓮宗を信仰したので、松平家の菩提寺照源寺とは別に、円妙寺が創建され、ここに葬られました。法名光徳院円妙日法大居士。右は、定良の墓。

Img_2638c_20221009172701  桑名駅からずっと緩い坂を登ってきて、市立桑陽保育所の敷地内に「立坂神社𦾔跡」があります。このあたりは、以前は東方立坂町といい、立坂神社があったとされます。ただし、立坂神社の由緒には、いろいろとあり、一筋縄ではいきません。今月の市民大学郷土史学科では式内社がテーマでしたが、立坂神社に関しては、諸々あるという話でした。ここには、もともとは、産土神の高野御前を祀ったといいます。この西にある海善寺の僧が修行に出る時、道中安全を祈願して草鞋を供えたので、草鞋社ともいったといいます。ここにあった立坂神社は、尾野神社に合祀されています(新矢田にある立坂神社は、もともと矢田八幡社と称しており、江戸末期以後、式内立坂神社と称しています)。まさに諸説ありの世界ですが、ここでは詳細は割愛。

Img_2657c_20221009172701 Img_2662c_20221009172701  ここから照源寺の西へ。左の写真は、尾畑城跡(おばたじょうせき)。今は私有地になっていますので、入れません。史料には、田辺伊勢丸が居城したとありますが、築城時期など詳細は不明。中世の城館跡で、土塁を巡られた方形の曲輪が残っているといいます。右は、ここの交差点にある道標。「右 土佛山 左 西方(にしかた)」とあります(西方は、ここから西へ1㎞あまりのところの地名(イオン桑名があるあたり)。石碑には、「東京 多賀源」とも刻まれています。

Img_2736c_20221009172801 Img_2671c_20221009172901  土佛山大正院聖衆寺に登っていくところまでやって来ました。左の写真で、階段を上がったところが聖衆寺。左手に道があり、そこを進むと竹林の中を歩いて行け、式部泉があるはずのところ。私は、これまで式部泉を確認できていませんでしたので、今日こそと思ってきたのですが、「通行止 この先宅地造成工事のため通り抜け不可となります」とあります。宅地造成工事が行われるとは、この先は民有地だったのでしょうか? このあと聖衆寺に上がって見下ろしても、竹が沢山切られ、重機が入って整地している様子が見えました。残念至極。

Img_2678c_20221009172701  聖衆寺の本堂。真言宗醍醐寺派。桑名では「土佛さん(どぶっつぁん)」と呼ばれます。鎌倉初期の建仁4(1204)年に、北伊勢地方鎮護のため定舜法師が建立したといわれる古刹。信長の伊勢侵攻の時に焼かれ、現在の堂宇のみが残りました。江戸時代の中頃、瓦師岡本信行が、桑名藩主松平定重に寺運再興を言上して再興し、瓦製阿弥陀如来(市文化財)をつくったため、「土佛さん」といわれます。本堂は大正12(1923)年の建立。周りには、良い感じでモミジの木があります。これは、紅葉シーズンにもう一度来なくてはなりません。

Img_2691c_20221009172701 Img_2722c_20221009172701  聖衆寺の奥には、秋葉三尺坊大権現。火伏せの神として、秋葉三尺坊が祀られています。秋葉堂には、天手力雄命(アマノタヂカラオノミコト:天照大神の隠れた天の岩屋の戸を手で開けた大力の神)他の神様も祀られていますが、それらは以前訪ねたときの記事をご覧ください(2021年2月4日:20210201勝手に養老鉄道ハイキング「桑名駅西歴史散歩」(その2)……秋葉三尺膨大権現、尾畑山城跡、立坂神社旧蹟から円妙寺墓地で松平定良公墓所へ)。ここは、聖衆寺の奥の院で、高台で見晴らし良く、往時は景勝地として憩いの場所であったと伝えられています。東を見ますと、右の写真のような眺望が広がっています。

Img_2771c_20221009172901 Img_2755c_20221009172901  上述のように、式部泉には行けないようでしたので、聖衆寺から来た道を戻って、ショートカットして北別所神明社へ。創始は不詳。織田信長の伊勢侵攻の時、桑名ではここに本陣を置いたといいます。また、神社の由緒には、織田信長在陣の時、当神明社を崇敬し、幣帛等を奉納し、また、社内に信長の駒繋の松と伝える松があったといいます。ご祭神は、天照大御神。この北別所神明社の向かいあたりには、北別所中世墓跡があったといいますが、説明板などはありません。中世の墓の跡で、故瀬戸、常滑などの焼き物が出土したそうです。

Img_2786c_20221009172901 Img_2790c_20221009172901  ここから岸西山に向かう予定でしたが、「市民病院跡地を見ていこう」ということになり、寄り道。建物は、去年来たときに既に解体され、更地になっていました(2021年2月3日:20210201勝手に養老鉄道ハイキング「桑名駅西歴史散歩」(その1)……播磨を出発して北別所神明社、高塚山古墳に登るつもりがリタイア、式部泉を通って土佛山聖衆寺へ)。早ければ、一昨年、有料老人ホームと分譲型の医療モール、介護ショップを併設した調剤薬局など開業するということでしたが(こちら)、来月開業予定の医院と調剤薬局が建っていただけ(左の写真)。サービス付き高齢者住宅を建設するという看板がありましたが、未着工。

Img_2806c_20221009172901 Img_2812c_20221009172901  県道142号線を越えて、岸西山へ。ここには、岸西山遺跡があるというのですが、詳細は不明。まずは、岸西山大正寺へ。浄土宗。江戸時代中期の開基といいます(桑名市史によれば、明和(1764~1772年)の頃)。お寺は、岸西山の東北側の斜面に建っており、山門から境内へは下っていきます。ここには、野村増右衛門の供養塔があります(右の写真)。野村は、桑名藩島田代官所(桑名藩領の員弁郡嶋田村、現桑名市島田)の手代(8石2人扶持という記録があります)という軽輩の身から藩を左右する実力者にのしあがった人物。藩への貢献は大きかったのですが、宝永7(1710)年、突然公金横領等の嫌疑で捉えられ、弁明もむなしく処刑されています。

Img_2822c_20221009172901  大正寺から岸西山の頂上に行く途中に、尾野神社北之宮。尾野神社は、この南西にもあります。今は、そちらが本社のように思いますが、桑名市史には、「一説には尾野山の北の鼻山に鎮座してあったのを、後に船着大明神の社へ奉遷して相殿とした」と書かれています。岸西山の頂上には、魚藍(ぎょらん)観音堂があります。「久波奈名所図会」によると、元禄2(1689)年11月、掛樋通の堀さらへをした時、水底より出現したものといいます。昭和50(1975)年3月、市指定文化財。これと時を同じくして、愛染明王、役行者の脇侍佛とともにここに安置されたといいます。

Img_2905c_20221009172901 Img_2898c_20221009172901  岸西山を下りて、養老鉄道に近いところで右折し、南下。尾野神社へ。尾野神社もやや小高い丘にありますが、ここは尾野山城跡でもあります(右の写真)。中世の城館跡で、遺構としては、郭が残っています。尾野山城跡も見てみたいのですが、右の写真中央にあるように、登り道がちょっと荒れていますので、未だ登ったことはありません。

 Img_2851c_20221009172901 Img_2860c_20221009172901 鳥居をくぐってすぐ右に進むと拝殿があります。お社が2つ連なって建っていますが、向かって左が尾野神社、右の少し小さい方が立坂神社です。尾野神社は平安時代からこの地にあったようです。尾野神社。主祭神は、天押帯日子命(あめのおしたるひこのみこと:孝昭天皇の皇子。春日、大宅(おおやけ)、栗田、小野、柿本氏ら中央豪族の祖)。

Img_2895c_20221009172901  尾野神社には、「船繋ぎの松」があります。「船着きの松」とも呼ばれます。尾野神社は、1,000数百年前には、船着大明神と呼ばれていました。当時、この地は町屋川と大山田川が合流するところで(本多忠勝による慶長の町割によって、両河川は現在のところを流れるよう改修されています)、海陸交通の接点として船の出入りがあったといいます。

Img_2918c_20221009172901 Img_2924c  真宗大谷派の東光山専明寺。とくにこれという情報が出てこないお寺ですが、なかなか立派で雰囲気も良いお寺でした。

Img_2986c_20221009173001 Img_2977c_20221009173001  そして、最後の目的地は、東海山照源寺。浄土宗。寛永元(1624)年、桑名藩主であった松平定勝公(徳川家康公の異父弟)が亡くなったとき、二代将軍徳川秀忠の命によって、定勝の子・松平定行公が建立した寺。定行は伊予松山へ移封しましたが、弟・定綱が藩主を継ぎましたので、松平家の菩提寺として存続しています。ここは私の好きなお寺で、たびたび訪れています。左の写真は、山門の南から見た光景。まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような感じがします。

Img_2935x  当初は、東海山泥垣院崇源寺と号しました。それは定勝公の法号「崇源院殿」に因るものです。しかし、寛永3(1626)年に亡くなった秀忠公夫人の法号が、偶然、「崇源院殿」と一致したため、遠慮し寺号を「照源寺」と改めました。山号の頭文字「東」と、寺号の頭文字「照」の二字を合わせて「東照」となる由縁は、東照大権現(徳川家康)を祀ったことによるといいます。このように、桑名藩の菩提寺である照源寺が徳川家康公の供養をすることによって、桑名藩松平家は徳川家に対し末代にわたり忠誠を示したという訳です。現在も、徳川家康公の木像、位牌を安置し、供養しているそうです。

Img_2948c_20221009172901 Img_2956c_20221009173001  ここには、「松平定綱及び一統之墓所」(県史跡)があります。定勝の他、久松松平系の定綱他の一統の墓、26基が並んでいます。右は、その定勝公の墓。これにて、今日の目的地は、式部泉などを除いて、コンプリート。

Img_2990c_20221009173001  いささか余談ですが、照源寺からは東へほぼ直線の道路が通じています。参宮町にある美濃街道との追分まで。八丁畷(はっちょうなわて)と呼ばれます。この八丁畷は、照源寺ができたときに参詣のための道としてつくられています。「八丁」は距離を表していると思いますが、約873m。美濃街道の追分から照源寺の三問あたりまでが約800mです。

Img_3010c_20221009173001 Dsc_0351c  桑名駅西口側には、食事をするところはほとんどありませんので、東口の方へ回って、ちょっと探して、目利きの銀次桑名駅前店へ。夜は居酒屋になりますが、海鮮料理、魚介料理の店。迷ったものの、ランチがありましたので、あじフライのランチをチョイス。自宅では、あじフライなどほとんど出て来ません。それにあじフライは、子どもの頃はけっこうごちそうだった記憶があります(苦笑)。そのため、あじフライがメニューにあるとついつい釣られます(微苦笑)。これで¥700。

Img_3023c_20221009173001  食事を終えて出て来たら、小雨が降っていました。しかし、ここまで降られずに済んでラッキー。今日のゴールは、ここ目利きの銀次とし、12時30分過ぎに到着。食事を終えて出て来たのが、13時15分ころ。ここまで6.6㎞。自宅往復が2㎞で、今日は合計8.6㎞を歩きました。歩数は、16,830歩。今回の記事は、1回で完結。よほどのことがあれば、補遺編を書きますが、今のところそれは未定。

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