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2022年9月 9日 (金)

散歩帰りに専正寺にて鳥居強右衛門一族の墓を見てくる【神社図鑑について付記しました(9/9)】

Img_1402c_20220909152201  曇りときどき雨という予報。雨は朝7時台に少し降っただけ。最高気温は3.13℃で、午後からは蒸し暑い。今朝は、8時から散歩。南の方に雨雲が見えましたので、迷っていたのですが、エイヤッと出かけました。歩いている途中で雨雲は消失。住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀公園、吉津屋町、新築公園、アピタ桑名店、八間通、堤原、専正寺と回って、6.4㎞。今日は、降られずに済みました(微笑)。が、鳥はいません(苦笑)。午後からは、歯科受診。

Img_1209c_20220909152201  住吉神社のところで、スズメたち。10羽ほど。揖斐川の堤防を七里の渡し跡の方へ歩こうとしたら、南東の空からアオサギが2羽飛来。諸戸氏庭園の方に飛んでいきました。今日は、超望遠コンデジでしたので、ピンボケ写真で残念(苦笑)。

Img_1251c  九華公園では、いつもの九華橋近くの樹上にアオサギ。「救いの神」は、健在。このあと、奥平屋敷跡でシギ、たぶんイソシギらしき姿を一瞬見たので、回り込もうとしたら、散歩友達某氏がやって来てどこかへ行ってしまい、確認できず。イソシギなら、数年に1回、姿を見せます。他には、本丸跡でシジュウカラ。バードウォッチングは、以上(笑)。

Img_1358c_20220909152201 Img_1392c_20220909152201  堤原から専正寺に回ってきたと書きました。火曜日に専正寺に行って鳥居強右衛門(とりいすねえもん)一族の墓を見てこないと、と書いたのですが(2022年9月6日:昨日の罪滅ぼしか、九華公園にアオサギ2羽)、ようやく行ってこられました。三竜山専正寺、真宗本願寺派です。専久寺と正念寺とが合併して専正寺になっています。正念寺は、寛永4(1627)年に常祐により「称念寺」として創建されています。法盛寺の末寺でした。承応元(1652)年、藩主松平定良公から境内地の寄付があり、その時に「正念寺」と改名しました。一方の専久寺は、天和年間、願信が創設し、元は三崎辺りにありましたが、6代住職閑嶺が正念寺から入寺して、萱町に移転中興。こちらも、もとは法盛寺の末寺。しかし、昭和20(1945)年、戦災にて焼失し、復興できませんでした。そこで、昭和22(1947)年に専久寺は正念寺と合して、専正寺となった次第。

Img_1372c_20220909152201Img_1366c_20220909152201  「蛤墳」。これは、火曜の記事にも載せました。説明板によれば、昔この辺りは、漁村で付近一帯にたくさんの貝殻が埋もれていました。文政6(1823)年に今一色(このあたり)に住んでいた谷氏が蛤の供養のためにこの碑を正念寺(現在の専正寺)に建てました。碑の中央に「蛤墳」、その両側に細字で碑文と歌一首が次のように刻まれています。「みでらちかきわたりには年を経(3字不明)蛤のさはにとられけるを谷何がしのいたみてそれが為に石ふみ建て供養し侍る いせのうみのあさからぬ心さしははまぐりも身をひるがへしてよろこばざらめや(3字不明)さとらめ あまおふねのりのみ声にはまぐりの貝の耳にもとめてしのばむ 一雲山人行業」。裏の銘は、「文政六年癸末九月 今一色谷氏 建之」。一雲山人行業は黒沢翁満(国学者、歌人、桑名藩士)の父で、狂歌に秀でた人。もとは1m足らずのものでしたが、大正年間、時雨蛤の同業8人が現在のように改築しています。市文化財。

Img_1377c_20220909152201 Img_1385c_20220909152201  鳥居強右衛門一族の墓は、蛤墳から西に行った墓所内にありました。初代鳥居強右衛門勝商(かつあき:?~天正3(1575)年)は、三河長篠城主奥平貞昌の家臣。天正3(1575)年5月、長篠城が武田勝頼に包囲されたとき、使となって城を脱出、岡崎に赴き、徳川家康、織田信長に救援を求め快諾を得ましたが、帰途、城外で武田側に捕らえられます。武田方は強右衛門を城近くに連行し、城中に向かって、援軍は来ないから降参せよというよう命じました。強右衛門は偽ってこれにしたがい、大声で、近く援軍がくるからもうしばらく辛抱せよと呼ばわります。そのため激怒した武田方のために磔にされました。初代強右衛門には子どもがおり、代々、強右衛門を襲名し、奥平松平家に仕えています。奥平松平家は宝永7(1710)年に桑名城主となりましたので、6代強右衛門清商も桑名に来て、桑名で亡くなり、新屋敷にあった桃林寺に葬られました。以後、11代強右衛門まで桃林寺に葬られましたが、文政6(1823)年に奥平松平家は桑名から武蔵国・忍(現行田市)に移りましたので、鳥居家も桃林寺も忍に移ってしまいました。鳥居家の墓は桑名に残ったままで、真如寺が管理していましたが、日進小学校の拡張や都市計画道路の建設などで、鳥居家の墓碑7基(7代、9代、10代、11代の4基と関係者3基)は、ここ専正寺の墓地に移されて現存しているのです。鳥居強右衛門一族の墓を確認し、長年の宿題をようやく果たした気分。

51rivh7lnql_sy291_bo1204203200_ql40_ml2_ 1bc16878 【神社図鑑についての付記(9/9)】 マイブックスにも取り上げましたが、サンドウィッチマン&芦田愛菜ちゃんMCの「博士ちゃん」に「三国志博士ちゃん」および「日本の神様博士ちゃん」として2回出演した佐々木秀斗君の自由研究をまとめた本です。出版社から依頼があって、このブログに載せた立坂神社の緑色の鳥居について、写真を提供したのです。この本の162ページに「提供:猫の欠伸研究室」として載っています。元記事は、2012年12月5日の「立坂神社(市内新矢田)へ散歩」です。この鳥居は、立坂神社西側の桑名カトリック教会に面したところに建っています。

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