20220902勝手にハイキング「壬申の乱から1350年記念 霞ヶ浦~大矢知ウォーキング」(その1)……霞ヶ浦駅から志氐神社、明円寺そして大膳寺跡へ
9月2日に行ってきた、勝手にハイキング「壬申の乱から1350年記念 霞ヶ浦~大矢知ウォーキング」の本編その1です。前回ウォーキングに行ったのは、7月17日で(2022年7月17日:20220717堀川・宮の渡し跡・熱田神宮ウォーキング)、それから1ヶ月半ぶり。今回の行き先は、四日市の大矢知あたり。今年(2022年)は、壬申の乱(672年)から1350年。壬申の乱には、桑名や四日市辺りも大いにかかわりがあります。桑名市博物館でも「壬申の乱と桑名」という展覧会がありましたし(2022年7月24日:九華公園のアオサギは2羽……博物館で「壬申の乱と桑名」を観る)、今日の行き先の1つであるくるべ古代歴史館でも記念展示が行われています。ということで、まさに勝手に「壬申の乱から1350年記念」と銘打って、ゆかりのところを中心に訪ね歩く「霞ヶ浦~大矢知ウォーキング」に出かけたという次第。台風11号と秋雨前線の影響を心配したのですが、午前中は上天気。桑名では最高気温32.8℃。汗だくになって歩いてきたのですが、最後に、これまた勝手にご褒美を設定しておきました。冒頭の写真はくるべ古代歴史館。今回も、同級生K氏とのウォーキング。
いきなりの余談ですが、壬申の乱と桑名のかかわりは、概略、次の通りで、これらのことが「日本書紀」に書かれているのです。ちなみに「桑名」の名前が資料に初めて出てくるのが、この「日本書紀」の記述です。また、今回のウォーキングで歩いたのが、次の中に出てくる「朝明」なのです。
天智天皇が亡くなると、討手がかかるのを恐れた大海人皇子は、6月24日、少人数で吉野を脱出し、休息はあっても昼夜道を急ぎ、伊賀・鈴鹿・三重(現在の四日市市の一部・菰野町)・朝明(あさけ:現在の四日市市の一部と川越町・朝日町)を経て26日に桑名へ着いてやっと宿泊するという強行軍で、吉野から約145㎞離れた桑名に到着しました。
この日歩いたルートの全体図。近鉄名古屋線の霞ヶ浦駅をスタートして、志氐(しで)神社、明円寺、大膳寺跡、浄恩寺、南北伊賀留我神社、荒木十兵衛頌徳之碑、天武天皇迹太川遙拝所跡、久留倍官衙遺跡・くるべ古代歴史館、長倉神社、照恩寺、大矢知興譲小学校(忍藩陣屋跡)、亀屋佐吉などを回って、三岐鉄道三岐線大矢知駅まで。現地で実際に歩いたのでは、7.5㎞でした。
近鉄桑名駅を8時30分に発車する塩浜行き普通電車に乗車。霞ヶ浦駅には8時43分に到着。¥260。8時50分頃にスタート。右の画像は、詳しいルートマップその1。マップには、旧東海道のルートも示してあります。ここは、去年の伊勢参りツアーでも歩きました(2022年1月5日:2021年「東海道・伊勢街道歩いて伊勢参りツアー」のまとめ)。
まずは、志氐(しで)神社。前から訪ねたかったところです。昨年、東海道を歩いたとき、一の鳥居と、ここの神社に関わる「妋石(みよといし)(夫婦石)」は見ています(2021年5月10日:20210508「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第3回「富田~四日市」(その2)……八幡常夜燈、八幡地蔵堂、八幡神社跡、かわらずの松、志氐神社一の鳥居と妋石、光明寺を経て国道1号線へ)。
御祭神は、気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)他9柱です。気吹戸主神は罪・穢れけがれを祓い去る神様で、様々な災いから守り、生きる気力を授けるとされます。また、伊邪那岐命・伊邪那美命を祀っており、縁結び・夫婦円満などの信仰も篤く、これが東海道にある「妋石(みよといし)」に関わります。羽津の氏神様でもあります。
垂仁天皇の御代の鎮座とされ、古くは高野御前(たかのみまえ)と称されていました。倭姫命が天照大神を奉斎して神宮御鎮座の地を求めて巡幸された際、桑名野代の宮から鈴鹿忍山宮への途次に当たっているため、伊勢の皇大神宮の御鎮座である垂仁26(BC4)年より前とみられています。壬申の乱の際、大海人皇子が吉野から鈴鹿を経て桑名の頓宮へ至る途中、迹太(とほ)川のほとりで伊勢の皇大神宮を遥拝しています。その時、「御幣(しで)」を垂らして禊祓いをしたことによって、この地に「志氐(しで)」の名が起こり、社名となったといいます。皇子がお祓いをした岡が御祓岡(岡山)、天照大神を望拝された山が額塚山(ぬかつかやま)であり、望拝の時に献じる米を迹太川で洗ったので、以後これを米洗川(よないがわ)と称したとされています(以上は、志氐神社のサイトにある説明)。延喜式内社。
明治維新までは羽津村、吉沢村、別名村、八幡村、鵤村の総社とされ、明治40(1907)年以降、白須賀の神明社と住吉社、八幡の八幡神社、別名の長谷神社と荒神社、各字の山之神、その他の祭神が合祀されています。
境内にはさまざまなものがあります。まずは古墳。拝殿に向かって左手の森がそれです。古墳時代前期に築造された北勢随一の前方後円墳で、培塚は7基あったと伝えられていますが、現在は1基残すのみです。社務所建築等により前方部は取り壊されていますが、椎の古樹が前端部にあたるとされています。嘉永5(1852)年、後円部の墳頂が発掘され、内行花文鏡、勾玉、管玉、車輪石などが出土したそうです。古墳の規模、出土品等からこの地の高貴な方の墳墓とみられ、一説には額田連(ぬかたのむらじ)の祖・意富伊賀都命(おういがつのみこと)の陵墓ともいわれています。四日市市内に残る唯一の前方後円墳。
こちらは、四泥(しで)の御神木。樹齢推定500年と伝えられるスダジイの木です。意富伊賀都命の陵墓とされる前方後円墳の前方部の位置に自生しています。古より四泥能埼の霊木として力強い双幹の樹形をしており、それは夫婦和合の象徴の姿だとされています。御神木のところには、万葉集の歌碑があります。いかに引用する歌が刻まれていますが、聖武天皇が天平12(740)年、藤原広嗣の乱のとき、戦禍をさけて奈良の京をたち、一志郡の方から朝明、桑名と美濃に潜幸された際に、従者の丹比家(屋)主真人(たじひのやかぬしのまひと)が詠んだ歌とされています。奈良の都に残した妻を恋しく思い、志氐神社の神様にお供えして妻の無事を祈った歌といいます。
後爾之 人乎思久 四泥能埼 木綿取之泥而 将徃跡其念
(後(おくれ)にし 人(ひと)をしのはく 志氐(しで)の崎(さき)
木綿(ゆふ)取りしでて さきくとそおもう)
巻第六 一〇三一番 丹比家主真人
ちなみに、この歌碑に関連して、「万葉旧跡 四泥能埼(しでのさき)」という石碑もあります。これは、昭和48(1973)年に寿風会が建てたもの。
妻恋稲荷神社(つまこいいなりじんじゃ)。御祭神は、倉稲魂命、日本武尊、弟橘田媛命。この本社は、東京都文京区妻恋町妻恋坂に鎮座する妻恋神社。日本武尊が、東征の時、「吾妻者耶……」と恋い慕った故事から、妻恋明神と号されています。源頼義が奥州鎮圧のとき信仰したことや、徳川家康・家光・慶善などの崇敬篤く、関八州の稲荷の総司とも仰がれた名社で、江戸庶民の崇敬深く、ことに「虫封じ」の祈願は有名で、大正天皇が御幼少の折にも御祈祷を奉斎された神社だといいます。神社名の妻は日本武尊、恋は弟橘媛命、稲荷は倉稲魂命に由来します。嘉永6(1853)年、志氐神社の神主森出雲守泰友の代に、この妻恋神社の御分霊を庭内に分霊されています。
個人的にもっとも目を引かれたのは、こちら。戦艦陸奥の第3砲塔の破片だそうです。戦艦陸奥は、日本海軍の戦艦で、長門型戦艦の2番艦。大正9(1920)年進水、大正10(1921)年就役の超弩級戦艦。ミッドウェー海戦に参加。昭和18(1943)年、広島湾において火薬庫の爆発事故のため沈没しています。破片につけられたプレートには「燈99小型20四分電路筐」「小型18四分(舟右発電機室)」「◎施術科倉庫通路」「◎入口」「小型22四分(甲板倉庫入口)」という表示があったのですが、私にはちんぷんかんぷん。これがここにある由来については、「神社の近所にあるスクラップ業者が『こういうものが入ったので神社に納めたい』と持ってこられたもの」という話がこちらのブログに載っていました。社務所でお聞きになったということですから、間違いはなさそうです。しかし、そのスクラップ業者さんは、どこから手に入れたのか、気になります。
他に志氐神社にあったのは、明治神宮遙拝所と、皇大神宮遙拝所です。明治神宮遙拝所は、四日市市内の神社でときどき見かけます。たとえば、小許曽神社(2019年3月7日:20190302近鉄ハイキング「ふるさとの味と春風を感じて悲劇の千奈美姫に想いを馳せる 四日市うつべのヤマトタケル・芭蕉の足跡を体感!」へ(その1)……塩浜駅をスタート、観音寺と小許曽神社へ【小許曽神社の記述を加筆修正しました(3/7)】)や、諏訪神社(2018年3月26日:20180323近鉄ハイキング「港町、四日市を散策 みやまどさんから四日市臨港をたずねて」へ(オマケ)……四日市旧港の「波止改築記念碑」、諏訪神社の伊勢神宮遙拝所、諏訪公園の「誓文御文御柱」)で見たことがあります。
志氐神社には、どうやら裏参道から入って、表参道から出たようでした(苦笑)。表参道の鳥居から出たところに真宗本願寺派の放光山明円寺。事前に何も調べず、ノーマークでした。創建は、永正12(1515)年だそうですが、ネットで調べたものの、由緒その他は分かりませんでした。
この後、別名あたりを歩いて、南いかるが町へ。2㎞を過ぎたところにある某マンションの北東にあるお宅の庭に「大膳寺跡」という石碑があります。道路からは奥まっていますので、見逃しそうなところ。ここには、延長7(929)年にに慈恵大師(じえだいし:良源。元三大師とも呼ばれる)の弟子である覚鎮(かくちん)が建立した斑鳩山大膳寺があったといいます。昭和52(1977)年から5年にわたる発掘調査で、建物跡や土壙(穴のこと)、溝址などの遺構とともに平安時代の前期から後期にわたる瓦や土馬などが発掘されています。ちなみに、延長7(929)年に、慈恵大師は垂坂に観音寺を建てています。その後、名僧が続いて法威を保ち近在の人々の篤い信仰を得て隆盛を極めました。第21代空源の時に織田信長に対して伊勢美濃三河の僧徒とともに長島に一揆をおこし、7年間に亘って抵抗したものの、天正2年7月、信長の大軍の前に敗れて空源は戦死。大膳寺は、この戦闘の際に信長の家臣、滝川一益によって、観音寺とともに焼き払われたとされています。この大膳寺は、このあと訪ねた慈恩寺にも関連しますが、長くなりましたので、その1はここまで。その2は、慈恩寺から。
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