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2022年9月 7日 (水)

20220902勝手にハイキング「壬申の乱から1350年記念 霞ヶ浦~大矢知ウォーキング」(その2)……浄恩寺、南北伊賀留我神社、荒木十兵衛頌徳碑から浄恩寺道道標へ

Kasumigaura2  9月2日に行ってきた、勝手にハイキング「壬申の乱から1350年記念 霞ヶ浦~大矢知ウォーキング」の本編その2です。その1では、まだ、スタートした霞ヶ浦駅から2㎞あまりの大膳寺跡までしかたどり着いていません。志氐神社について、あれこれ講釈を垂れてしまったため。左は、その2で歩いた辺りの詳しいルートマップ。浄恩寺、南伊賀留我神社、福徳寿御嶽神社、北伊賀留我神社、荒木十兵衛頌徳碑、浄恩寺道石碑から天武天皇迹太川御遙拝所跡へと進んでいきます。

Img_0802c_20220906165901 Img_0764c_20220905191801  斑鳩山浄恩寺。真宗本願寺派。その1で立ち寄った旧・斑鳩山大膳寺(天台宗)に長享2(1488)年3月、本願寺の蓮如上人が立ち寄った際、その教化を受けて延徳年間(1489~1490年)に浄土真宗に転じたといいます。このとき、蓮如上人から御親筆六字及び十字の名号が与えられ、寺宝として残されているそうです。現在の本堂は明治28(1895)年の建立。

Img_0798c_20220906165901  境内には、聖徳太子堂があります。聖徳太子は仏教を篤く敬い保護したため、日本仏教興隆の祖として宗派を問わず信仰されています。様々な寺院に聖徳太子像を安置した堂があり、仏像同様篤く信仰されているのです。この太子堂は、明治2(1869)年に、四日市市西富田町にある三光寺(浄土真宗本願寺派)から移建されたものです。ちなみに、三光寺には、去年の「歩いて伊勢参りツアー」の時、立ち寄っています(2021年4月25日:20210425「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」……第2回「朝日~富田」(予告編))。余談ですが、このあたりの地名は「羽津戌(はづぼ)」だそうです。ちょっと珍しい感じ。

Img_0815c_20220902194101  浄恩寺辺りは、細い入り組んだ道。3㎞を過ぎて、南伊賀留我神社へ。伊賀留我神社は、南と北と2社があります。北伊賀留我神社にあった説明板には、伊賀留我神社は、斎宮と記されており、斎宮は伊勢神宮の斎宮ですから、伊勢神宮との関連があると思われます。また、鵤(いかるが)の地名は、大和の斑鳩との関わりも伺わせます。ここ鵤は、聖徳太子の御料地という言い伝えもあるそうです。この御遙拝所跡の北西には、「斎宮」という地名もあります。

Img_0824c_20220902194101 Img_0885c_20220907041501  鵤村は、もとは一つの村でしたが、寛永年間(1624~1645年)に南北2村に分れました。北鵤村は桑名藩領で、北の伊賀留我神社は、齋宮(いつきのみや)大明神とか、北鵤村伊賀留我神社と称しました。一方、分村した南鵤村(こちらは、忍藩支配所)にも、新たに伊賀留我神社を祀り(左の写真)、ここに新旧二社が併立となりました。しかし、安永8(1779)年に、両村の氏子で本社末社の争論が起こったといいます。社記によれば鵤御厨(いかるがみくりや)の地名より起り、垂仁天皇のとき、額田部の子孫が天照大神を奉斎して鈴鹿忍山宮への巡幸中に休んだ場所に天照大神の荒御魂を祀ったと伝えられるものの、天正の信長の兵乱によって神社所有の古文書などが失われ、創祀年代など由緒は不詳だということです。以上は、北伊賀留我神社にあった説明板(右の写真)によります。

Img_0849c_20220906172901  御祭神は、天照大御神荒魂(あまてらすおおみかみのあらみたま)、大年命(おおとしのみこと:稲の実りを守護する神)、大山津見命(おおやまつみのみこと:山の神)、天武天皇。「荒魂」は、「物事に対して激しく活動する神霊」をいい、「和魂(にぎみたま)」に対して称されます。古く日本人は神の霊魂の作用および徳用を異なる作用を持つ霊魂の複合によると考えたことによります。伊勢神宮の内宮にも、別宮として「荒祭宮」があり、そこには天照大神の荒魂が祀られています。

Img_0828c_20220906171501 Img_0825c  南伊賀留我神社には、皇居遙拝所と神宮遙拝所とがあります。左の写真が皇居遙拝所。昭和11(1936)年10月、「角力會」が建立しています。昭和11年は、226事件、ベルリンオリンピック、日独防共協定成立など、大きな動きがあった年。皇居遙拝所は、これまでに訪ねた神社では、同じく四日市の椿岸神社(2018年2月20日:20180217酒蔵みてある記「伊藤酒造の銘酒「鈿女」と智積養水をたずねて」(その2)……大師堂と、椿岸神社あれこれ)、鈴鹿の蒲冠者範頼之社(2019年5月5日:20190420JRさわやかウォーキング「旧東海道 石薬師宿と鈴鹿「植木まつり」を訪ねて」へ(その2)……佐々木家の菩提寺・浄福寺から石薬師寺、蒲冠者範頼之社、蒲桜を見て、石薬師一里塚跡)にありました。

Img_0834c_20220906171501  以前に来た時には、気づきませんでしたが、砲弾らしきものも置かれていました。ネットで検索したら、こういうものもきちんと調べている方がありました(こちら)。全長約82㎝、直径約25㎝。弾体に次のように文字が刻まれているそうです:大正元年奉納 海軍一等水兵勲八等 相松弥曾七」。大正元年は、1912年。他の神社で私も砲弾などが奉納されているのを見たことがあります。例えば、川越町の神明神社上海事変記念のもの(2019年2月10日:20190210近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 早川酒造部『天一』」へ……早川酒造部で楽しんで「完」、いなべ市下笠田の八幡神社の砲弾と機雷(2018年3月2日:近鉄ハイキングで“昭和レトロな町でおひなさん 早春の鈴鹿山脈を眺め「あげきのおひなさん」へ”(その2)……下笠田の八幡神社)などがあります。八幡神社のものは、日露戦争の記念品のように思われました。

Img_0837c_20220907032801 Img_0846c_20220907033301  拝殿に向かって左手(西側)には、スダジイの古木。幹の内部は空洞になってしまい、樹皮だけで生きていると説明がありました。それでも上部では枝を伸ばし、青々と葉が茂っています。樹齢などは書かれていませんでしたが、「老樹の不老長寿にあやかり、健康長寿を祈りましょう」とも書かれています。もう1つ(右の写真)、南伊賀留我神社の由緒を記した石碑もありました。なお、南伊賀留我神社では、「日待祭」が伝わっているそうです。「日待」とは、旧暦1・5・9月の15日または農事のひまな日に講員が頭屋(とうや)に集まり、斎戒して神をまつり徹宵して日の出を待つ行事といいます。ここ伊賀留我神社では、祈年祭の前夜、2月15日の夕刻から16日の早朝にわたって日待祭が執り行われています。

Img_0852c_20220907033801 Img_0858c_20220907033801  北伊賀留我神社へ行く前に近くに福徳寿御嶽神社という神社があるのが分かっていましたので、寄ってみることにしました。由緒などは分かりませんが、御嶽信仰に関わる神社のようです。御嶽信仰であれば、ご祭神は、国常立尊(くにのとこたちのみこと:天地創成神話の国土神の最初の神)、少彦名命(すくなひこのみこと:穀霊、酒造りの神、医薬の神、温泉の神)、大己貴命(おおあなむちのみこと:「日本書紀」が設定した国の神の首魁(しゅかい)=大国主命)と思われます。

Img_0870c_20220907033801 Img_0862c_20220907033801  境内には色々なものがありましたが、左の写真にある石碑を見ると、「御嶽山頂上鎮座 大己貴命-神武天皇-白河天皇(白河大神)総霊神」、「噴火の御嶽山鎮座」などと刻まれています。「五円玉」は、全産業に渡って「ご縁をいただくもの」とありました。この神社の境内から、裏にある糠塚山に登れるという話もあったのですが、そちらはパスしてしまいました。

Img_0874c  これが、その糠塚山。県道64号線の伊賀留我神社前交差点近くから撮った写真。額突山、斑鳩山、浄恩寺山ともいいます。壬申の乱の時、天武天皇(大海人皇子)が、迹太川(とほがわ)の辺に進み、天照大神を望遥し、戦勝祈願をしたとされていますが、このとき遥拝した丘(山)が糠塚山であるという説があります。すなわち、ここで「ぬかずいた」ため「糠塚(ぬかづか)山」となったというのです。古墳でもあり、頂上には「天武天皇神宮遙拝所」の石柱があるそうです。しかし、当時の伊勢神宮の主神は天照大神ではなく、高御産巣日神(たかみむすびのかみ:高皇産霊尊ともいう:天地開闢の時、天御中主(あめのみなかぬし)神、神皇産霊(かんみむすひ)尊とともに高天原に現れた神)であったと考えられており、伊勢神宮を拝んだというよりも、太陽神である天照太神即ち太陽(朝日)を拝んだと考える方が、地形から見ても妥当といわれています。ちなみに、日本書紀には「丙戌に、旦に、朝明郡の迹太川の辺にして、天照太神を望拝みたまふ。」とあります。

Img_0881c Img_0891c_20220902194101  伊賀留我神社前の交差点の北に北伊賀留我神社があります。ご祭神は、大日霊貴命(おおひるめのむちのみこと:天照大神の別称)。相殿神は、大山祇命(おおやまつみのみこと:山の神)、意富伊我都命(おういがつのみこと:武神として崇敬を集めた天之御影神の息子)、倉稲魂(うかのみたま:食物(稲)の霊魂)。この神社には、「いのこ神事」の名残の大太鼓、大鉦が伝わっているそうです。「いのこ」は、「亥の子」で、旧暦10月の亥の日に、行われる行事で、収穫祭の一つのようです。古来、春の亥の日にやって来られた田の神が、山に去っていく日と信じられているそうです。関西地方で盛んに行われるといいます。「祭典行事表」には、「11月26日 奉告祭 いのこ」とあり、実際には11月末の日曜日にあると書かれていました。

Img_0900c_20220902194101  北伊賀留我神社から100mほど北に荒木十兵衛頌徳碑があります。荒木十兵衛は、桑名藩領朝明郡北鵤村の庄屋で、羽津用水を築造した人物です。田園地帯であるこの地は七つのため池があるものの、水利に恵まれずたびたび干害に見舞われました。十兵衛は村を干害から救うために、困難な利害を調整し、朝明郡平津村(現平津町)の朝明川から取水工事を行い、宝永3(1706)年、全長6㎞に及ぶ羽津用水を完成させました。この用水のおかげで北鵤、羽津、茂福等の村々の水田に水を潤すことができ、作物も豊かに実るようになったといいます。

Img_0903c しかし、同年、十兵衛の俊英を恐れた桑名藩は、褒賞を与えると見せかけて十兵衛を城内に召し、毒殺してしまったそうです。昭和27(1952)年(昭和28(1953)年4月としている情報源もあります)、四日市市長の吉田千九郎は十兵衛の功績を讃え、顕彰碑を北鵤の地に建てました。鵤説教所には、荒木十兵衛の位牌が安置されているそうです。なお、羽津用水の開削者については、時の郡代・野村増右衛門とする異説もあります(ただし、こちらは根拠が弱いようです。上記の羽津用水のリンク先をご覧ください)。

7b05544d  荒木十兵衛頌徳之碑に並んで「殉難の碑」があります。こちらは、羽津用水改作の際、十四川と交差させる地下の難工事で殉じた方々のためのものです(写真は、2018年9月18日撮影)。

Img_0915c_20220907044001 Img_0907c_20220907044001  さらに、荒木十兵衛頌徳碑の西、100m足らずのところに「浄恩寺道」の道標があります。「昭和貳年三月 道路改修祈念 現住専行」とあります。ここは、十四川のほとり。浄恩寺への参道であることを示すものと思われます。昭和2年ですから、1927年の建立。冒頭のルートマップを見ていただくと、ここから南西にまっすぐ、浄恩寺に道が続いています。

 ルートマップその2の途中ですが、長くなりましたので、本編その2はここまで。その3は、天武天皇迹太川遙拝所跡から。

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