7月17日の「堀川・宮の渡し跡・熱田神宮ウォーキング」の本編その3です。ルートマップはその3とかなり重なりますが、その4です。堀川の白鳥橋を渡って、堀川右岸へ。愛知時計の工場東で、まずは、被爆堤防・空襲跡。続いて、宮の渡し跡へ行きますが、その前に軻遇突智社。宮の渡し跡からは、伝馬町を経て円通寺、熱田神宮へ。
白鳥橋を過ぎると、右手(西側)に愛知時計電機があります(写真は、2020年1月11日に撮影)。元は、明治時代中期に創業された掛時計メーカー。現在もその系譜を継ぐ社名ですが、実際には、精密計測機器類メーカーになっています。戦前から時計製造による技術・資本蓄積によって派生した機械、電機、化学部門などを擁し、さらには航空機とそのエンジン製造にまで携わった歴史があります。昭和初期には九六式艦上爆撃機、九九式艦上爆撃機などを設計、製造しました。
その愛知時計電機の敷地の東側、堀川沿いの遊歩道に古い護岸が保存されています。これは、昭和8(1933)年に築造された護岸の一部です。この表面には、昭和20(1945)年6月9日の「熱田空襲」の際の爆撃でできたものだそうです。平成4(1992)年から「マイタウン・マイリバー整備事業」で新しい護岸が設置されたときに撤去されたものを保存しています。ここのほぼ対岸に大瀬子公園があります。ここはかつて、熱田魚市場があったところ。天正年間(1573~1592年)には既に魚市場があり、織田信長の居城清須に魚介類を運んでいました。また、寛永年間(1624〜1644年)には木之免、大瀬子に四戸ずつの問屋ができ、市場が開設されていたといいます。
宮の渡し跡の手前、マンションの敷地内に軻遇突智(かぐつち)社。軻遇突智(カグツチ)は火の神。この一帯には秋葉社・軻遇突智社が合わせて5社あるといいます。この5社の他にも路地に入っていくと、小さな秋葉社の祠や、屋根神様もあるそうです。
いよいよ宮の渡し跡へ。宮の渡し跡は、東海道五十三次のうち41番目の宿場である宮宿(みやしゅく、みやじゅく;宮の宿)にあった渡し場。スタートから5.7㎞、11時20分に到着。宮宿は、東海道にある宿場のなかでも最大級の規模でした。42番目の宿場である桑名宿(くわなしゅく、くわなじゅく)に行くには、船で海路を行かねばなりません。その距離が七里であったため「七里の渡し」と呼ばれていました。七里の渡しが始まったのは、元和2(1616)年といいます。満潮時には陸地沿いの航路を辿り、それは約7里(27㎞)でしたが、干潮時には沖を廻らねばならず、この場合は約10里(39㎞)でした。所要時間は、3時間から4時間と推定されています。渡し賃は、正徳元(1711)年の規定では乗合船一人当り45文(1,125円)であったといいます。宮の渡し跡、今は、「宮の渡し公園」として整備され、時の鐘と、常夜燈が復元されています。
時の鐘は、延宝4(1676)年に尾張藩2代藩主・徳川光友の命によって作られました。熱田の住民や、東海道をゆく旅人に時刻を知らせる役目を担いました。江戸時代に使われていた鐘は、今も蔵福寺(熱田区神宮二丁目、浄土宗西山禅林寺派)に保管されています。昭和58年に宮の渡し公園内に復元され、ふたたび近隣住民や訪れた人に時間を知らせています。
常夜灯は寛永2(1625)年、藩の家老にして犬山城主である成瀬正房が熱田須賀浦太子堂(聖徳寺(熱田区大瀬子町、浄土宗西山禅林寺派)の隣地に建立したものの、風害で破損。承応3(1654)年からは現在の位置に移り、神戸町の宝勝院に管理がゆだねられ、で宮の渡しの安全を見守る役となりました。しかし、寛政3(1791)年、またしても火事で焼失。同年、成瀬正典によって再建されたもののすぐに荒廃。昭和30(1955)年になってやっと当時とほぼ同じ位置に復元されました。宮の渡し跡で11時半過ぎ。スタートからは6.5㎞。
このあとは、内田橋から伝馬町を経て、秋葉山円通寺へ。伝馬町という地名は、宿場町ならどこにもあります。名古屋の伝馬町は、旧東海道沿いにあり、慶長3(1601)年に宮宿と隣の今道が、共に伝馬役に任命されたことが、町名の由来となっています。ちなみに、桑名にも伝馬町があり、ここも東海道沿いの町です。桑名の伝馬町も、伝馬持ちのものが多く居住したと桑名市史本編にあります。
秋葉山円通寺です。曹洞宗の寺院。山号は補陀山(ほださん)ですが、秋葉山、羽休山ともいうようです。ご本尊は釈迦如来。熱田の両参り「熱田さま」「秋葉さま」として親しまれているといいます。秋葉大権現は、火の神様。「火防守護」その他七難を除き、除災開運・家内安全・授福繁栄の神様だそうです。
お寺なのに神様?? お堂が二つある!?など、疑問があるのですが、始まりが、尾張国の豪族であった尾張氏が熱田社に神宮寺として建立したものとされることに関連するのでしょう。つまり、神仏習合の色合いが濃く残っているということ。弘仁年間(810~824年)に当地を訪れた空海がこの地に小宇を築いて、自ら彫った十一面観音像を安置したと伝わっています。宝暦7(1757)年に伽藍の大造営が行われましたが、明治24(1891)年の濃尾地震で全壊。明治40(1907)年に本堂が建て直されるなどしたものの、これらは昭和20(1945)年の名古屋大空襲によって焼失、戦後に再建されました。寺が開かれて多くの修行僧が集まった中に、一人の僧に姿を変えた秋葉三尺坊(あきばさんじゃくぼう)がおり、長年の修行を経て永享年間(1429~1441年)、ついに鎮防火燭の秘法を得たといいます。喜びのあまり本当の姿を見せた三尺坊は寺の守護を誓したと伝わり、これに由来して、秋葉三尺坊大権現や羽休の秋葉などの通称で呼ばれています。
最終目的地は、熱田神宮。円通寺のすぐ北になります。まずは、本殿へお参り。3連休の中日で、暑かったのですが、けっこう賑わっていました。その創祀は、三種の神器の一つ草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)の御鎮座に始まります。第12代景行天皇の御代に、日本武尊(やまとたけるのみこと)は神剣を今の名古屋市緑区大高町火上山に留め置かれたまま三重県亀山市能褒野(のぼの)で亡くなりました。妃である宮簀媛命(みやすひめのみこと)が、神剣を熱田の地に祀られたことが熱田神宮の始まりです。延喜式名神大社(みょうじんたいしゃ)・勅祭社に列せられ、国家鎮護の神宮として特別の取り扱いを受けました。御祭神は、熱田大神(草薙神剣を御霊代(みたましろ)としてよらせられる天照大神のこと)。相殿神は、「五神(ごしん)さま」と呼ばれ、草薙神剣とゆかりの深い神々で、天照大神、素戔嗚尊、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命。宮簀媛命、建稲種命は尾張氏の遠祖として仰がれる神々。
お参りを済ませ、熱田神宮宝物館へ。校倉風鉄筋コンクリート造の建造物で、昭和41(1966)年12月に開館しています。皇室をはじめ、将軍・藩主・一般の篤志家などから熱田神宮に寄進された資料約6,000点が収蔵されているといいます。国宝・重要文化財・愛知県文化財に指定されたものが177点もあります。また、熱田神宮に草薙神剣を奉斎することから、刀剣類はとくに多く、名刀の宝庫ともいわれています。この日は、7月の平常展として「熱田神宮宝物展」のほか、コーナー展として「尾張の名工」が開催されており、熱田神宮に奉納された刀剣類がたくさん見られました。
ほかに熱田神宮で見てきたのは、信長塀。永禄3(1560)年、織田信長が桶狭間出陣の時、熱田神宮に必勝祈願をし、みごと大勝したので、そのお礼として奉納した築地塀(ついじべい)です。土と石灰を油で練り固め、瓦を厚く積み重ねたものです。兵庫西宮神社の大練塀、京都三十三間堂の太閤塀とともに日本三大土塀の一つ。
最後に、私自身が過去2回にわたって果たせなかったことのリベンジ(微笑)。熱田神宮内にある宮きしめん神宮店で、きしめんを食べてきました。まさに「三度目の正直」です。この日もそれなりに賑わっており、席を見つけるのに10分ほど待ちましたし、注文してから商品が提供されるまで15分ほど。冷やし宮きしめん(¥800)を食べてきました。
土産は、定番のきよめ餅。宮きしめん近くの売店でゲット。抹茶風味のものもあったのですが、オーソドックスな方を選択。こしあんをやわらかい羽二重餅でくるんだお菓子。純白に「きよめ」の焼き印が押されています。5個入りが、¥750。江戸中期の天明5(1785)年頃、「きよめ茶屋」が設けられ、参詣客にお茶を呈したといいます。元々、名物がなかった熱田神宮周辺の地域に、伊勢神宮における赤福餅のような名物を作ろうという考えから、きよめ茶屋の話を基に、きよめ餅総本家・初代・新谷栄之助が第二次世界大戦前に「きよめ餅」と名づけた菓子を考案し、今の名鉄神宮前駅前に店舗を構えたといいます。たちまち評判となり、「熱田参りにきよめ餅」「名古屋土産にきよめ餅」と知られるようになったそうです。
これで全てコンプリート。名鉄名古屋本線の神宮前駅に向かいます。駅ビルは、解体工事中でした。名鉄神宮前駅は、この駅ビルの裏側(東側)。13時30分に到着。ここまで9.4㎞を歩いてきました。13時33分発の準急可児往きに乗車。名鉄名古屋駅には13時40分着。近鉄名古屋駅を14時1分発の松阪行き急行に乗り換え。桑名駅には、14時22分着。名鉄が¥230、近鉄は¥450。
この日の歩数。20,650歩。現地で歩いたのが9.4㎞。帰りは、買い物のついでに迎えに来てもらいましたので、朝、自宅から桑名駅までが1.1㎞。合計10.5㎞を歩きました。
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