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2022年6月 7日 (火)

強風の1日……美白スズメ2号を見つけ、イソヒヨドリはごちそうにありつき、浄土寺で昨日の講座の実地見学

Dsc07669c  天気は良くなったのに、1日中強風。最大風速は、8.7m/sとアメダスのデータにありますが、諸戸氏庭園の工事現場の吹き流しは真横に流れていました。10m/s以上吹いていたに違いありません。風のせいか、気温は上がらず24.9℃。7時半から、住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀公園、京町、吉津屋町、新築公園、アピタ桑名店、寺町、田町、浄土寺と6.9㎞を歩いてきました。浄土寺は、昨日の市民大学ゼミナール郷土史学科で聞いたことを確かめに行ったのです。

Dsc07634c  桑名七里の渡し公園のところで、イソヒヨドリのメス。写真は、ご注意ください。カナヘビ(ニホンカナヘビか?)を捕まえて咥えているところです。見つけたときには、すでにカナヘビを咥えており、振り回して、地面似たたき付け、弱らせている最中でした。この後、カナヘビを咥えたまま、どこかへ飛び去っていきました。ごちそうをゆっくり味わうということではないと思いますが……。

Dsc07661c  住吉神社の前で、カワラヒワ。しばらくあまり見なかったのですが、またボチボチと散歩コースのあちこちに出てくるようになりました。船津屋から山月の裏手で、ホオジロのオスとメスを見たのですが、写真は撮れませんでした。このあたりでよく見ます。縄張りにしているのかも知れません。

Dsc07757c  揖斐川の右岸の高水敷の草刈りが行われましたので、ヒバリなどがいないか見て回りましたが、ムクドリと、ツバメが飛んでいるだけ。柿安コミュニティパークの桜の木に、やたら白っぽい鳥。スズメの幼鳥のようです。ずっと以前「美白スズメ」と名付けたスズメが我が家近辺にいましたが((2015/11/21:アオサギの飛び姿、“美白スズメ”、ノスリ(?)、そしてクルマ好きのジョウビタキ……照源寺では、紅葉とツグミ、シロハラも;2015/11/24:美白スズメとユリカモメ、再び、ハシビロガモも脱エクリプスの途中か?……キタキチョウもいました)、いわばその第2号(美白スズメ2号)。向かって左に普通のスズメの幼鳥も写っています。

Dsc07776c Dsc07842c  九華公園では、今日もまた、とくにこれという鳥はいません。スズメの幼鳥は、公園のあちこちにいます。すでにエサをもらっている姿は見られず、皆、自立したようです。ツバメの幼鳥も1羽。親鳥2羽とともに、野球場の近くのワイヤーで休んでいました。

Dsc07886c  京町のお宅のツバメの巣を見て、びっくり。親が不在のことが多かったのですが、今日言ってみたら、ヒナが3羽、孵っていたのです。田町の商店や、三崎通のお宅でも、私が見に行くと巣には親鳥がいないことがよくありました。親自身がエサでも採りに行っていたのかも知れませんが、ずっと抱卵しているとは限らないのでしょう。

Dsc07928c Dsc07983c  こちらは、田町の商店にある巣。5羽とも元気で、巣からあふれそうなくらい大きくなってきました。これは、巣立ちも近そうです。巣立ちを見られることはなかなかありません。明日は江戸橋での非常勤に行きますが、その間に巣立ってしまうかも。親鳥は、エサを運んできて、向かって右端のヒナに与えていたのですが、なかなか口に入らなかったようで、隣とその隣のヒナが、「自分にくれ!」とばかりに接近していました。

Dsc08045c Dsc08057c  この後、袖野山浄土寺へ。西山浄土宗(せいざんじょうどしゅう)のお寺。昨日のくわな市民大学ゼミナール郷土史学科で、ここの話を聞き、今まであまりはっきりと意識していないことがありましたので、それを確かめに行ったのです。

Dsc08061c  ここには、本多忠勝公の本廟があることはよく知られています。ただし、昨日も書いたように、本多家の菩提寺ではありません。菩提寺は西岸寺で、これはいまは岡崎にあります。もともとは、本多忠勝公がなくなられたとき、ここに諱からとって、西岸寺という寺を建て、菩提寺にしたのですが、2代・本多忠政公が、元和3(1617)年、播磨国姫路に転封されたとき、菩提寺の西岸寺も姫路に移りました。その跡地に、浄土寺が移転してきたのです。その際の条件に、本多忠勝公の廟所を守るということがあったとか。

Dsc08076c Dsc08074c  確かめたかったことの一つは、忠勝公の墓所の手前(南側)に、梶勝忠(左の写真)、中根忠実(右の写真)の二人の墓があり、それらは、互いの墓が向かい合って建っているというのです。

Dsc08070c_20220607161701 Dsc08067c  向かい合って建っているところを写真に撮るのは困難ですが、左の写真は梶勝忠の、右の写真は中根忠実の墓をそれぞれ入れて、本多忠勝公の廟所を撮ったもの。奥に見えているのが、忠勝公の廟所(本来は、上屋に覆われていたと思われます)。殉死をしたのであれば、主君の墓のそばに並んで墓が建てられるのだそうですが、そうはなっていません。その理由には、①当時存命であった徳川家康が、殉死を禁じていた、②梶、中根の両社は、本多家のもともとの家臣ではなく、本多忠勝が大多喜に封じられたとき、家康から付けられた家臣(御付人)であったからなどが考えられるといいます。

Dsc08059c  もう一つの確かめたかったことは、こちらのお墓。「贄氏目阿弥之墓(にえしもくあみのはか)」の存在。確かそういう墓があったなというくらいの認識でした。桑名に贄左京進という豪家があり、出家して目阿といいました。宝治元(1247)年10月に頓死しました。その頃、この近辺の人が、関東からの帰り道、箱根山で日が暮れてしまったとき、忽然とこの贄氏が現れ、今月7日になくなったのだが、冥界の苦痛が耐えがたいので、所領の芦野を三崎の地蔵尊(浄土寺)に寄進して、住職に弔ってくれるよう依頼したといいます。贄氏である証拠に、衣服の片袖を引き裂いて渡しました。その人が桑名に戻って、妻子にそのままを語り、証拠の片袖を見せたところ、棺の中にある衣服の片袖であったといいます。驚いて、地蔵尊参詣し、道観上人にお願いして、追善をしたと出て、「私は今こそ、浄土に往生できた」といったという話が、「久波奈名所図会」に載っています。その贄目阿弥の墓がこれなのです。講師の大塚先生は、桑名に残るもっとも古い墓ではないかとおっしゃっていました。「ひびが入っているから、触ったらダメよ。見るだけ」とも(微笑)。

Dsc07903c  明日は、江戸橋での非常勤の8回目。明日で、折り返し地点を通過できます。晴れの予報でありがたい。

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