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2022年6月21日 (火)

20220612水の都・大垣ウォーキング(その3)……船町川湊から美濃路を歩いてゴールの大垣駅へ(完)

Ogaki0_20220620182901  6月12日の「水の都・大垣」ウォーキングの本編その3です。奥の細道むすびの地をしっかり見て、船町道標のところへ来ました。ここから美濃路を歩いて行きます。ルートマップでは、左下にある水都公園のあたりからになります。船町道標のところに大垣城京口門跡、その近くに飯沼慾斎邸跡、柿羊羹で有名なつちや本店を見て、美濃路大垣宿本陣跡、善念寺、問屋場跡、本町道標、大垣城大手門跡、広嶺神社、大垣城名古屋口門跡、稲荷神社、栗屋公園を経て、掘抜井発祥の地、愛宕神社、岐阜町道標を回って、大垣駅へ。昼食を食べてから、金蝶園製菓本店で土産の水まんじゅうをゲットして、コンプリート。

Img_5179c_20220612191201 Img_5197c_20220618175701   水門川の東側に戻り、美濃路を歩きます。水都公園の近くに船町道標。道標は、高さ約2mの円柱状の石製で、文政年間(1818~1830年)に大垣城下京口御門(西総門)の南、美濃路沿いに建立されました。その標面には「左 江戸道」・「右 京みち」とあり、さらに上部には旅人の道中の安全を願い梵字(種子)が刻まれています。第二次大戦で被害を受け、路傍に横たわっていたのですが、修復されたといいます。船町道標の東、水都公園の脇に大垣城西総門(京口門)跡(右の写真)。京都方面にあることから、京口門とも呼ばれました。総堀に橋を架け、門をもうけることによって、防御としています。

Img_5215c_20220618202401  水都公園から北に向かい、はな街道に出た東南角のところが、飯沼慾斎(いいぬまよくさい)邸跡です。飯沼慾斎(天明3(1783)~慶応元(1865)年)は、伊勢亀山の西村安守の次男で(2022年5月11日:20220507東海道ウォーキング「亀山宿~関宿」(その1)……亀山駅をスタートし、武家屋敷などを見て、京口門跡あたりまで)、母方の親戚である大垣の飯沼長顕の娘と結婚し、この地で蘭方医として医学に従事しました。長顕は大垣で町医者をしており、慾斎はそのもとで儒学、医学を習い、京都で福井丹波守に学んだ後に、長顕の娘と結婚して飯沼長顕の跡を継いでいます。28歳の時に、江戸で宇田川玄真に蘭学を学び、天保3(1832)年に義弟に家業を譲って隠居し、大垣郊外に平林荘を築いて30年ほど本草学の研究に専念しました。リンネの分類法を用いた日本で最初の体系的な植物図鑑「草木図説」を安政3(1856)年から文久2(1862)年にかけて出版。人体解剖、種痘、写真の研究などにも取り組んだそうです。

Img_5222c_20220619045601  美濃路をたどっていくと、スタートから4㎞を過ぎたあたりに、柿羊羹のつちや俵町本店があります。すごい建物というか、看板が屋根に乗っており、また、卯建も上がっています。しばし、見入ってしまったくらい。宝暦5(1755)年(薩摩義士による宝暦治水工事が完成した翌年)に、園助という人が「柏屋光章」という屋号で店を開いたのが始まりだそうです。柿羊羹は四代目右助という人が天保9(1838)年に、堂上蜂屋柿の濃密な甘味に注目して、これを羊羹の材料として利用して創製したといいます。ちなみに、柿羊羹は、今回のウォーキングでは購入しておりません。

Img_5247c_20220612191201  つちや俵町本店の先に美濃路大垣宿本陣跡。美濃路は、中山道の垂井宿から、東海道の宮宿(名古屋市熱田)までの約57.5kmの街道です。ここ大垣宿の本陣は、永禄年間(1558~1569年)に創建されたとされています。建物の一部が保存されていますし、明治天皇がお泊まりになったときの部屋も残っています。また、大垣祭の山車に関する資料もたくさん展示されていて、地元の方が説明してくださいました。地元の方が、交代でここに詰めて、観光客の対応をしておられます。ちなみに、明治天皇は、明治11(1878)年の東海・北陸御巡幸の際に宿泊されており、「大垣宿本陣跡附明治天皇行在所跡」として大垣市の史跡に指定されています。この明治天皇の北陸・東海巡幸は、明治11(1878)年8月30日に出発し、東京から前橋・長野・新潟・富山・金沢・福井・京都・岐阜・名古屋・静岡をめぐって11月9日帰京するという、陸路72日間の大旅行だったそうです。

Img_5258c_20220619075801 Img_5266c_20220619075801  大垣宿本陣跡からさらに東へ。美濃路は、結構何度も曲がっています。北に向かう角に真宗大谷派の龍谷山善念寺。事前の調べでは、特に情報はなかったのですが、山門が左の写真のように、珍しいものでしたから、同級生K氏曰く「これは珍しいから、写真を撮って、ブログに載せろ」(笑)。山門の屋根の材質は何か分かりませんが、銀色で、太陽の光を反射して目立っていました。

Img_5270c_20220619080201  善念寺の対面に問屋場跡があります。問屋場は、宿場において人馬の継ぎ立て業務を行ったところです。問屋役や、その助役の年寄、事務担当の帳付、馬指、人馬指が詰めていました。大賀寄宿の問屋場は、もとは本町にありましたが、寛文の頃(1661~1673年)、ここに移ったといいます。幕末には、問屋役は飯沼家が、本陣役と兼帯していたそうです。

Img_5274c_20220619120801  問屋場の先に本町道標。「左江戸道 右京道」と刻まれています。新しいなと思ったら、昭和48(1973)年に再建されたものだそうです。美濃路と竹鼻街道の分岐点に建てられたもので、竹鼻街道は、当初、大垣と竹鼻の往来に利用されたのですが、宝暦治水工事の完成と、宝暦11(1761)年に駒塚の渡しが開設されて、美濃路の短絡道として盛んに利用されることになったといいます。竹鼻街道は美濃国大垣宿から美濃街道と分れ、揖斐川、長良川、木曽川の大河を渡り、尾張国富田宿(愛知県一宮市尾西・富田)で再び美濃街道と合流する街道です。

Img_5289c  続いて、大垣城大手門跡へ。美濃路からは、少し西に入ります。大垣城七口之門の1つで、お城の東にあり、大垣城の正門で、本町に通じていました。初めに高麗門と呼ばれる外の門をくぐると、内側には第二の門である櫓門があり、二重に城門を配置した枡形形式の堅固な門だったといいます。明治4(1871)年に大手門を取り壊し、その跡地に広嶺神社が移建されています。境内東側の石垣は往時のものといわれており、そこにある水路がかつては、堀でした。

Img_5299c_20220620181101 Img_5302c_20220620181101  広嶺神社は、天正年間(1573~1592年)の創建で、もとは下魚屋町にありました。上記のように、明治4(1871)年にここ大手門跡に移転し、広嶺神社と改称しています。大正9(1920)年、本殿・拝殿を造営したものの、昭和20(1945)年7月の空襲で焼失しています。

Img_5304c  狛犬が独特でした。狛犬については、興味はあるものの、詳しくはありません。このタイプの狛犬をどこかで見た記憶はあるのですが、どこの神社だったか、今のところ思い出せません。

Img_5313c_20220620183101 Img_5319c_20220620183101  美濃路に戻って、田中屋煎餅総本家の前に脇本陣跡。この場所は本町大手北側で、戸田家の大垣入封に随従した上田家が務めるようになった元禄の頃(1688~1704年)に成立したといいます。この脇本陣は、「本町本陣」とも呼ばれ、間口12間半、奥行き16間半あまりで坪数127坪半もの格式ある建物でした。その先、美濃路が右折して、東に向かうところが高札場跡。ここは、いわゆる札の辻。高札場は、明治6(1873)年に廃止されましたが、その後、昭和になっても、掲示板として使われていたといいます。

Img_5324c_20220620192701 Img_5327c  高札場跡の先に大垣祭の軕(山車)が収めてある倉。美濃路大垣宿本陣跡で聞いた説明によれば、確かこの倉に収まっている、本町の軕がもっとも大きということでした。右の写真は、大垣城名古屋門口跡。

Img_5331c_20220620193301 Img_5335c_20220620193301  交差点を渡った先には、稲荷神社。大垣城主戸田氏定によって、享保12(1727)年9月の建立。大垣藩主から、毎年御供米15俵などが寄付されたそうです。廃藩後は、明治8(1875)年以降、中町、栗屋町の神社となっています。この稲荷神社も、昭和20年の空襲で、焼失しています。

Img_5350c_20220620194101 Img_5363c_20220620194101  稲荷神社の北に栗屋公園があります。美濃路沿いにここにも自噴井があるというので立ち寄ってきました。いくつかの自噴井がありました。右の写真にある説明板によれば地下150mから563リットル/分の湧水があるそうです(設置時のデータ)。

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 大垣駅近くまで戻ってきました。平和通りに堀抜井発祥の地。天明年間(1781~1789年)頃まで大垣地方では、生活用水として各町の裏通りを流れる用水を利用していましたが、渇水期になると、大垣の三清水(西外側町、清水町、室町)まで汲みにゆくことになり、非常に不便でした。天明2(1782)年、こんにゃく屋文七が、川端に2m程の穴を掘りそこに5mの材木を打ち込み、その後へ節を抜いた青竹を力いっぱい打ち込んだところ、その竹の先からきれいな水が噴出してきたといいます。これはこれはと大層喜び、「これはの井」と名付けられたそうです。それ以来どこの家でも、自噴の井戸が掘られるようになり「井戸槽(いどぶね)」と呼ばれています。

Img_5382c_20220612191201 Img_5379c  大垣駅のすぐ南東に、愛宕神社があり、その境内に岐阜町道標。 愛宕神社のご祭神は、軻遇突智神(かぐつちのかみ)。寛政6(1794)年に創建され、文化9(1826)年、火災に遭い近くにある文珠寺の北へ遷座したのですが、明治4(1871)、創建の旧地へ戻っています。岐阜町道標(ぎふまちみちしるべ)は、重要有形民俗文化財に指定されている道標。高さ3m余の角柱状の常夜燈で、文政5(1822)年、石工の中谷甚平光景が岐阜町から美濃路への南の出口に建立したものです。正面に「右きそ路」「左・京ミち」、左面には「北たにくミ道」とあるほか、道中の安全を願い、梵字(種子)が右面に8文字、左面の上部に1文字深く刻まれています。

Img_5399c_20220620194601 Dsc_6530c  これで今日訪れるところは、コンプリート。14時になっていましたので、何はともあれ、昼ご飯。大垣駅ビルのアスティ大垣へ。1階にある「おらが蕎麦」でちくわ天おろしそば(¥660)。なんとなく既視感があって、調べてみたら、津駅にある津チャムの「信州そば処 そじ坊」と同じ会社(グルメ杵屋レストラン)でした。

Img_5405c_20220612191201 お腹を満たしたあと、もう1つ重要なミッションがあります。土産を買わなければなりません(微笑)。朝、大垣駅をスタートした直後、狙いをつけておいた「金蝶園製菓総本家」へ。大垣駅の南。ここで、大垣名物水まんじゅうを買うことにしていたのです。大垣の水まんじゅうは、大垣の名水によって明治時代の初めに生まれました。冷たい地下水に漬けて冷やすよう、葛に水に強いわらび粉を混ぜ、柔らかく炊き上げた生地を陶器のお猪口に流して固めたものです。

Img_5455c_20220612191201  こちらが、今日の土産。こし餡のものと、向かって右は、「ミナモ」。岐阜県のキャラクターであるミナモをイメージし、水色(ソーダ餡)と黄色(レモン餡)がストライプ状になっています。

Img_5414c_20220612191201 Img_5411c_20220612191301  養老鉄道大垣駅には、14時40分にゴール。次の桑名行きは、15時6分発。桑名には、16時18分着。

Img_4549c_20220620195101  行きも帰りも、7700系の電車。東急からやってきたステンレス車両。

Img_5460c_20220612191201  この日の歩数は、19,089歩でした。現地で6.3㎞、自宅から桑名駅往復が2.4㎞ですから、合計8.7㎞。まぁ、よく歩いた感じです。

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