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2022年6月 1日 (水)

20220528松阪ウォーキング(その3)……本居宣長ノ宮、松阪神社、松坂城跡から不二屋で焼きそばにて「完」

220528matsusaka2 Img_4011c_20220531044101  5月28日に行ってきた松阪ウォーキングの本編その3です。その2では、御城番屋敷までやって来ました。ここまで歩いてきたのは、3.8㎞ほどでしたが、時刻は12時も過ぎていましたので、松坂城裏門跡のところある御城番屋敷が眺められる木陰で小休止。

Img_4028c_20220528200101  その後、まずは、本居宣長ノ宮へ。本居宣長(秋津彦美豆櫻根大人)と平田篤胤(神霊能真柱大人)をご祭神としています。もとは、本居大人奥墓(おくつき)がある旧山室村にあったのですが、大正4(1915)年、この森に遷座しました。本居宣長を神と祀る世論は早くからあったようですが、明治8(1875)年3月、川口常文等が主唱し、旧山室村(現・松阪市山室町高峰)の大人奥墓の傍に社宇を建て、山室山神社と号しました。その後、現・松阪市役所所在地を経て、昭和6(1931)年に現在地に遷座。昭和21(1946)年に社号を本居神社と改称。平成7(1995)年4月、本居宣長ノ宮と称しています。合格祈願・学業成就などの御利益があるとされます。

Img_4035c  本居宣長ノ宮には、本居宣長の歌碑があります。「志きしまの やまとこころを 人とはば あさひににほふ 山さくら花」という宣長61歳(寛政2(1790)年)の時の自画像に添えられたもの。この自画像は、本居宣長記念館のサイトにあるこの画像と思います。

Img_4044c_20220528200101  松阪神社は、平安時代以前の創立とされますが、年代は詳かではありません。天正16(1588)年、蒲生氏郷が、飯高郡矢川庄の宵の森と呼ばれていた丘に築城した時に、城の鎮守社と定めて、宵の森の南の丘に社を新たに御造営されて出来た神社です。御祭神は、主祭神が誉田別命と、宇迦之魂神。合祀されている神様は、33柱。明治に17神社を合祀したために多いと思われます。松阪神社については、次の記事をご参照ください:2018年11月12日:20181103近鉄ハイキング「蒲生氏郷を訪ねて 氏郷まつりと松阪城下町散策」へ(その4)……松阪神社、本居宣長ノ宮

Img_4056c_20220531063901 松阪神社についてもう1つだけ。それは、このご神木。クスノキの大変古い巨木。氏郷が松坂城をつくった頃すでに、この位置に500年を経過した木としてあったといいます。それ故、樹齢900年以上。樹高25m、胸高周囲7mで、木の下には、深さ3mの穴があり、太い根が穴の上にまたがって生えています。

 961b9bed 本居宣長ノ宮・松阪神社と松坂城跡の間には本居宣長記念館がありますが、12時半を過ぎていました。最後に行って昼食を食べようと思っていた不二屋のランチ営業が、14時半までということで、ちょっと急ぎましたから、パス。本居宣長記念館、私は4年前の5月に訪ねています(2018年6月18日:20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(その2)……御城番屋敷、本居宣長記念館)。写真は、このときのもの。

Img_4015c_20220528200101 Img_4024c_20220528200101  松坂城跡へは、裏門跡のところから入りますが、その前に1つ、2つ。裏門跡の西側にある石垣のところに「捨石」の遺構があります。ここは、隠居丸あたりで、江戸時代の修理のあとのようです。表土から約0.2m下。幅0.8~1.0m、長さ19mで、石垣が孕んだ部分だけにあるといいます。

Img_4021c_20220531065901 Img_4018c  捨て石の遺構から裏門跡のところには大きな常夜燈が2基あります。左の写真のものは、「旧櫛田川渡し場常夜灯」。安永9(1780)年のもの。向かって左には、「銚子場組 江戸干鰯問屋」とあります。右の写真のものは、「永代 常夜灯」、文政6(1823)年のもの。こちらの台石には「新玉講」と刻まれています。

Img_4075c_20220528200101  さて、いよいよ松坂城跡へ。まずは、二の丸跡から御城番屋敷を眺めます。ここからの御城番屋敷の眺めもすばらしいものがあります。奥の右手には、松阪工業高校が見えます。

Img_4096c_20220528200101 Img_4122c  天守閣跡まで登ってきましたが、けっこうな高低差で、かなりの運動量でした。しかも、御城の曲輪をつなぐ階段は、どういうわけか段差がかなり高いのです。ちなみに、松坂城は、天正16(1588)年に蒲生氏郷によって築城されました。建造物はなく、豪荘な石垣が残るのみです。

Img_4129c  天正18(1590)年、氏郷は、小田原征伐の軍功により陸奥国会津60万石の大封を得て若松城に移りました。その後、藩主の入れ替わりが何度かあり、元和5(1619)年、紀州藩の藩領となりました。松坂城はこのあたりを統括する城として城代が置かれました。天守は、正保元(1644)年に台風のため倒壊したとされ、以後は天守台のみが残ることとなっています。寛政6(1794)年、二の丸に紀州藩陣屋が建てられ、以後、紀州藩領として明治維新を迎えました。城内には、松阪市歴史民俗資料館があり、2階に小津安二郎松阪記念館が開設されていますが、こちらもこの日はパス。

8db7334f  このあと、鈴の森公園まで足を伸ばして、松阪市埋蔵文化財センター(はにわ館)で船形埴輪などを見ようと思っていたのですが、松坂城跡を見終わった時点で、13時。実は、この日の朝、同級生K氏と駅で待ち合わせたとき、不二屋で焼きそばを食べようということになり、これが今日最大のミッションになっていたのです。不二屋は、昼の営業が14時30分まで。さらに、今朝のメ~テレの「ドデスカ ドようびです。」で不二屋の焼きそばが取り上げられていました。賑わっていて入れない、食べられないのはマズいということで、埴輪はパスして、不二屋へ(笑)。写真は、2018年5月26日の撮影。

Img_4138c_20220528200101 Img_4142c_20220528200101  不二屋は、中町にある松阪肉の和田金や、和菓子で、お土産で有名な老伴をつくっている柳屋奉善の近くにあります。が、これらの店には、目もくれず、不二屋へ。

 

Img_4145c Dsc_6492c  こちらが、その不二屋。13時10分過ぎに到着。店の外まで行列か?と心配したら、杞憂に終わりました(微笑)。待っていたお客さんは1組(ただし、われわれのあとからも続々とお客さんは来ていました)。無事に焼きそばを食べられました(¥800)。麺は揚げてあり、サクサク。タレは和風出汁が効いた少し固めのもの。不二屋さん独自の「かたやきそば」。サッパリとして美味しい焼きそばを堪能できました。ちなみに、テレビで取り上げられるずっと前から、家内の勧めでこの店のことは知っていたのですが、実際に訪れて、食べたのはこの日が初めてでした。

Img_4160c_20220528200101 Img_4172c_20220528200101  昼食を済ませ、松阪駅には、14時5分に戻って来ました。松阪駅を14時15分に出る名古屋行き急行に乗車。桑名駅には、15時22分に到着。¥960。暑かったので少しお疲れ。現地では、6.3㎞ほどを歩きました。自宅から桑名駅往復が、2.4㎞ですので、合計8.7㎞。歩数は、17,332歩。

Dsc_6502c  この日は、とくに土産は買ってこなくてよいということでしたが、観光物産センターを覗いたら、柳屋奉善の老伴(おいのとも)に新しいバージョン、レモン味がありましたので、それを試しに買ってきました。こちらは、1個¥230。昔ながらのものは、1個¥180。

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