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2022年5月13日 (金)

20220507東海道ウォーキング「亀山宿~関宿」(その3)……いよいよ念願の関宿へ

Kameyama3  5月7日の東海道ウォーキング「亀山宿~関宿」の本編その3です。その2では、亀山城・京口門跡から西のあたりで寺、野村一里塚などを巡って、太岡寺畷まで行きました。鈴鹿川沿いを歩いて、6㎞を過ぎる頃、小野川を渡り、いよいよ関宿に近づいていきます。亀山市関町小野で国道1号線から逸れて関宿に向かいます。そこに関の小萬の碑ともたれ松。7㎞の手前で関宿東の追分があります。ここは、伊勢別街道との追分。関宿は、見どころ多数。

Img_1825c_20220507193301  国道1号線から関宿に入るところにこの看板。看板に「重要伝統的建造物群保存地区」とあります。令和3年8月2日現在、104市町村で126地区が指定されています。三重県では、ここ関宿のみ。指定されたのは、昭和59(1984)年12月10日。東海道五十三次の47番目の宿場町で、今なお当時の雰囲気が残されています。江戸時代後期から明治時代にかけて建てられた町家が200棟以上現存。

Img_1834c_20220512171701 この看板を過ぎてすぐ左手に「関の小萬の碑」と「もたれ松」があります。関の小萬(せきのこまん)は、鈴鹿馬子唄にも謡われていますが、女性の身で父の仇討ちをした仇討烈女として有名です。小萬の父は、九州久留米有馬氏の家来で、剣道指南役牧藤左衛門でしたが、遺恨により同輩の小林軍太夫に殺されました。身重の妻は、夫の仇を討つため旅に出たものの、鈴鹿峠を越え、関宿についた頃には旅の疲れが重なって、地蔵院前の旅籠山田屋の前まで来たときには行き倒れ同様の有様だったといいます。山田屋の主人も女将も親切な人たちで、この女性を引き取って手厚く看病し、女性はそこで女の子を産みました。これが小萬です。女性はまもなく、子どもの将来を宿の主人山田屋吉右衛門に託して死んでしまいます。

Img_1831c_20220512171701 Img_1828c_20220512171701  小萬は成長して養父母から両親のことを聞き、亡き母の志を継いで亡父の仇討ちをする決心をします。山田屋の主人は、亀山藩家老加毛寛斎に頼んで武術の修行に励むようにしました。天明3(1783)年8月、運良く仇と巡り会うことができた小萬は、馬子姿に変装し、て亀山城大手前の辻で仇のくるのを待ち受け、見事本懐を遂げることができたといいます。これにより、関の小萬の名前は一躍高まったのですが、その後も山田屋にとどまって養父母に仕え、享和3(1803)年正月、36歳で亡くなりました。墓は福蔵寺にあります。ちなみに、この碑があるところには、当時、亀山に通った小萬が若者の戯れを避けるために姿を隠しても持たれたと伝わる松があったところから、「小萬のもたれ松」と呼ばれました。こういう話が好きですので、ついつい長くなりました。さらに余談を重ねると、鈴鹿馬子唄には、次のようにあります(部分を引用しています)。

与作思えば 照る日も曇る 関の小万の エー涙雨
関の小万が 亀山通い 月に雪駄が エー二十五足
関の小万の 米かす音は 一里聞こえて エー二里ひびく
馬は戻(い)んだに お主は見えぬ 関の小万が エーとめたやら
昔恋しい 鈴鹿を越えりゃ 関の小万の エー声がする

Img_1838c_20220512171701 Img_1841  関の小萬の碑を過ぎて、関宿に向かいますが、そこはゆるい登り坂。右の写真のような、昔の琺瑯看板もあって、徐々に時代を遡っているような気がしてきます。

Img_1847c_20220507193101  7㎞の手前で関宿東の追分。ここには、鳥居があります。20年に一度の神宮式年遷宮の際に、内宮宇治橋南詰の鳥居を移したものです。またもや余談ですが、桑名の七里の渡し跡にある、伊勢一の鳥居は、内宮宇治橋北詰の鳥居を移しています。この鳥居の向こうに続く道は、伊勢別街道。伊勢別街道は、「いせみち」「参宮道」「山田道」などと呼ばれ、幾つかの宿場町があり、江戸時代には京都方面からの参宮客で賑わったそうです。ここから津市芸濃町椋本(むくもと)、津市一身田(いっしんでん)を通り、伊勢街道と合流する江戸橋までの総距離およそ四里二六町(約18.5㎞)の街道です。

Img_1866c_20220513110301 Img_1863c_20220513105401  追分からすぐのところに岩間家があります。白木屋という屋号で、往時は、主に東追分で稼ぐ人足や車夫の定宿を営んでいたといいます。この東の追分を過ぎると、徐々に昔の町並みが見えてきます。遠くには、鈴鹿の山並みも見えてきて、桑名からは、遠くまで来たものだという気分になります。

Img_1887c_20220513105501 Img_1898c_20220513110701  郵便ポストも、このように黒く塗られ、しかも「書状集箱」と表示されていて、それらしい雰囲気を醸し出しています。右は、「消火器具収納箱」。これも古い町並みの外観に合わせてつくられています。

Img_1871c_20220513105501 Img_1874c_20220513105501  このその3の初めにも書きましたが、関宿は「重要伝統的建造物群保存地区」で、江戸時代後期から明治時代にかけて建てられた町家が200棟以上現存しています。伝統的建造物には、すべて右のような番号が付されています。私たちのように観光で訪れるものにとっては、古い建物がたくさん残っているのは楽しみなのですが、建物の外観を変更(新築・増改築・改修・模様替え)するときは、市町村に申請して許可を得てから実施しなければなりませんから、お住まいの方にとっては大変であろうと思います。

Img_1880c_20220513111401  長谷屋資料館。「古しえの宿『長谷屋』」として、まちかど博物館に登録しています。旅籠の調度品ほかが展示され、毎日開館していますが、見学には予約が必要でした。

Img_1895c_20220513112201 Img_1892c_20220513112201  その先で、真宗高田派の宝林寺。由緒書きはなく、ネットでもこれという情報は出て来ませんでしたが、昔ながらの井戸があり、懐かしく眺めてきました。

Img_1906c_20220513121201 Img_1907c_20220513121201  こちらは途中で気づいたもの。このお店の前に取り付けられていたのは、「ばったり(揚げ店、店棚)」という、上げ下げができる棚。商品を並べたり、通りを通る人が座ったりしたところ。この建物の窓は、ちなみに私の好きな「虫籠窓(漆喰で塗り籠めた堅格子窓)」。軒下には、「幕板」があります。馬つなぎの「環金具(わかなぐ)」が残るところもあるということでしたが、見つけられませんでした。

Img_1910c_20220513114401  御馳走場跡。珍しい名前ですが、関宿に出入りする大名行列の一行を宿役人が出迎えたり、見送ったりする場所だったそうです。関宿には、4箇所の御馳走場がありました。ここは、享保19(1734)年につくられています。

Img_1919c_20220507193101  御馳走場跡のすぐ先に「関の山車(せきのやま)会館」があります(入館料は、このあと訪ねた関まちなみ資料館、関宿旅籠玉屋歴史資料館の3館共通で¥500)。山車収蔵展示棟を含む4棟からなっています。関宿に伝わる山車(やま)と関宿祇園夏祭りの歴史・文化を後世に伝えるため、関の山車と歴史的な関係資料が展示してあります。関宿祇園夏祭りは、江戸時代の文化年間から続く伝統行事で、4基の山車が出て、互いに華美を競います。新所、中町、木崎地区の旧東海道を中心に昼は一台の神輿が、夜は山車が町内を練り歩きます。7月の末に行われます。

Img_1934c_20220507193101 Img_1936c_20220513115401  こちらが、関の山車会館に展示してある山車の1つ(ガラス越しの撮影)。山車の上の部分は、「舞台まわし」と呼ばれ、回転するのだそうです。ちなみに、「一生懸命やってできる可能な限度。精いっぱい」という意味で用いられる「関の山」ということばは、この「関の山車」が語源です。関宿祇園夏祭りは、最盛期には16基もの山車があり、互いに競い合い、家々の軒先をかすめるよう巡行しました。山車が勢揃いすれば、狭い街道はそれだけで埋まってしまい、身動きもとれないほどであったことから、精いっぱいの意味で用いられるようになったのです。

Img_1964c_20220513120101  いささか余談。百五銀行亀山支店関プラザ出張所。斎宮跡でもこうした古風なつくりになっていました(2019年11月26日 :20191116近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅11日目~伊勢街道、旅人気分で斎宮から宮川の渡し・そして神領域へ」(その1)……竹神社、有明六地蔵、「斎宮旧蹟蛭澤之花園」と「斎王隆子女王之墓従是五丁」道標、安養寺と明星水の井戸)。ATMも「現金自動取扱所」という表示。

Img_1970c_20220513120901 Img_1976c_20220513120901  関神社はパスして、清静山延命寺へ。真宗本願寺派。ここの山門が、川北本陣の門が移築されたものでしたので、それを見に行った次第。明治5(1872)年に移築しています。川北本陣の現存する唯一の遺構。門は薬医門で、17世紀後半の建築と考えられています。川北家の家紋である三蓋松が掘られています。川北本陣は、関宿に2つあった本陣の1つで、慶長年間(1596~1615年)の頃から明治3(1870)年まで本陣を務めています。

 関宿の途中ではありますが、記事が長くなりましたので、その3はここまで。その4で、関宿の残りを見ることにします。

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