20220528松阪ウォーキング(その2)……樹敬寺で本居宣長墓・原田二郎墓所、松阪三珍花の発祥地をめぐり、原田二郎旧宅、松阪工業高校の赤壁校舎から御城番屋敷へ
5月28日に行ってきた「松阪ウォーキング」の本編その2です。その1では、来迎寺、常教寺まで来ました。その2では、樹敬寺で本居宣長の墓、原田二郎の墓所を訪ね、その後、松阪三珍花である松阪菊、松阪撫子、松阪花菖蒲のそれぞれの発祥の地を周り、原田二郎旧宅、県立松阪工業高校の赤壁校舎を見て、御城番屋敷まで。
法幢山樹敬寺(じゅきょうじ)。浄土宗、知恩院末寺。鎌倉時代初期の建久6(1195)年、俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)上人が、東大寺大仏殿復興大勧進のために、細頸に不断念仏道場を建て、南北朝時代の正長元(1428)年には戦火で廃墟となりました。文亀元(1501)年、敬誉(きょうよ)上人が、伊勢神宮参拝の際に不断念仏院を訪れて復興を志し、28年間にわたって浄財集めを行っています。敬誉上人は「樹敬上人」と呼ばれて親しまれていたことが寺号の由来だといいます。
しかし、明治26(1893)年の松阪大火により全焼し、現在の建物は、それ以降のもので、本堂は、明治35(1902)年に再建されました。右の写真にあるように、往時は、8つの塔頭がある大きなお寺でした。嶺松院は、宣長歌会の会場だったといいます。写真はありませんが、歌碑があり、「しめやかにけふ春雨のふる言をかたらん嶺の松かけの庵 舜庵」とあります。「舜庵」は宣長の雅号の一つ。院は明治の大火で焼失しました。
ここに来たのは、墓地に本居宣長と長男の春庭、原田二郎などのお墓があるからです。このお寺は、代々本居家の菩提寺で、宣長は、72歳の生涯を閉じる前年、遺言書をしたため、自分の墓を樹敬寺と、山室山(松阪市山室町)に指定しています。左の写真は、宣長夫妻の墓と春庭夫妻の墓が背中合わせに立っているところ。宣長・春庭墓は国指定史跡に指定されています。右の写真は、原田二郎の墓所。
墓地は、土塀で囲まれていますが、これは、松阪市内では見かけないめずらしいものだそうです。樹敬寺には、以前も訪ねています(2018年11月11日:20181103近鉄ハイキング「蒲生氏郷を訪ねて 氏郷まつりと松阪城下町散策」へ(その3)……和歌山道道標、樹敬寺で本居宣長墓所、御城番屋敷で武者行列を見る)。
山門の西には、「明治天皇樹敬寺御晝餐所(ごちゅうさんしょ)」という石碑が建っていました。明治天皇は、明治13(1880)年7月7日、ここ樹敬寺にて昼食を摂られたということです。この年7月4日~6日、明治天皇は三重県庁、裁判所、師範学校、津中学校を御巡覧され、願王寺(寒松院)でご宿泊されました。津市の寒松院には、明治天皇行在所跡があります(4月29日:20180423勝手に近鉄ハイキング「名古屋線・津新町駅から松菱、お城公園など」(その1)……津新町駅界隈、松菱百貨店、藤堂家墓所の寒松院)。7日に伊勢神宮に御親謁されていますから、そのとき、ここでお昼を召し上がったということでしょう。その後は、名古屋、大阪に向かわれたといいます。
このあとは、松阪三珍花の発祥地めぐり。まずは、松阪菊発祥の地。新町の郵便局の向かいにあります。江戸時代後期、菊愛好家の木下藤八が嵯峨菊からつくり出したそうです。江戸菊、肥後菊、嵯峨菊と並ぶ古典菊の1つ。花は、花弁が縮れて垂れ下がるのが特徴、繊細で優美な趣があるといいます。
続いて、殿町にある松阪撫子発祥の地。松阪撫子は、花弁が長く垂れ下がっているのが特徴で、江戸時代後期(1830年頃)、この地に住んだ紀州藩士・継松栄二が、華麗なカワラナデシコの花に見せられて育てていたところ、突然変異によるものか、5枚の花弁が深く咲け、細長い糸状に縮れて垂れる花をを見つけ、改良して作り出したとされます。第119代光格天皇は、この松阪撫子を愛され、現在も京都の宝鏡寺で「御所撫子」の名で栽培されているそうです。
そのすぐ先には、松阪花菖蒲発祥の地。江戸時代後期(1810年頃)、この地に住んだ紀州藩士・吉井定五郎が、野花菖蒲を改良して、現在の松阪花菖蒲を作り出したといいます。花が三英先(外花被(外側の大きな花弁)が三枚のものを三英花、六枚のものを六英花といいます。こちら)で、花弁は縮緬地の薄弁で大きく、互いに重なり垂れるといいます。江戸系や肥後系のものに比べ、女性的で優雅な花だそうです。伊勢系の花菖蒲は、九華公園にもあります。調べて見たら、こちらに分かりやすい解説がありました。
原田二郎旧宅。ここは、松阪の旧紀州藩同心の居住した武家屋敷の遺構です。原田二郎は、紀州藩松坂領の町奉行所の同心の家に生まれました。原田は、21歳のとき京都に上がり、さらに23歳のとき、東京に出て英語と医術を学んだ後、大蔵省に勤め、31歳で横浜の第74国立銀行(現在の横浜銀行の前身)の頭取となり手腕を発揮。34歳のとき松阪に戻ります。54歳の時、井上肇の依頼で大阪の鴻池銀行の整理、再建にあたりました。71歳で再建に成功した後、退職。そのときに得た莫大な退職金、全財産をすべてつぎこみ、社会公益事業に対する助成団体、原田積善会を設立しました(大正9(1920)7月)。原田積善会は、現在も公益財団法人として、社会事業分野と学芸事業分野の2つを柱に継続して幅広く行っています。原田二郎旧宅には、以前にも訪れています(2018年6月15日:20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(その1)……小津安二郎青春館、夢休庵で松阪撫子、原田二郎旧宅から松坂神社【明治天皇樹敬寺御晝餐所を付記しました(6/17)】)。
原田二郎旧宅は、松坂城の内堀に面していたようで、屋敷内西側の庭に「松坂城堀跡」の表示がありました。この表示板の向こう側に掘、さらにその奥に土塁があったそうです。右は、表示板の拡大。赤丸のところが、ここ原田二郎旧宅。
原田二郎旧宅から御城番屋敷へ向かおうとしたら、原田二郎旧宅の向かいに「松阪徳義社発祥地」という石柱が建っていました。三つ葉葵の紋もあります。調べてみたら、松阪徳義社は、明治維新後、窮乏する士族(武士)の生活を救うため、紀州藩第14代藩主・徳川茂承(もちつぐ)によって創設されました。明治11(1878)年の創設以来、現在も続いているそうです。財団法人松阪徳義社は、平成25(2013)年4月、一般財団法人に組織変更しましたが、 現在も、「教育・救助」の活動と紀州徳川に関係する松阪市内の3寺社(樹敬寺・清光寺・来迎寺)を持ち回りして、毎年社員が出席する法要を続けるとともに、学校教育に対する支援活動や、文化振興に関する支援活動などを行っています。
さらに、御城番屋敷に向かう途中、県立松阪工業高校の正門前を通ります。ここは明治35(1902)年に全国唯一の応用化学専攻の「三重県立工業学校」として創立された三重県でもっとも歴史の有る工業高校です。当時、木造校舎の外壁は実験に用いる硫化水素の影響を受け黒変することがないようにと朱色に塗装されており、そのため創立早々から「赤壁(せきへき)」と呼ばれていました。校門から覗いたら、赤い木造校舎が見えました。明治41(1908)年につくられた旧三重県立工業学校製図室が、資料室として保存されているのだそうです。この旧三重県立工業学校製図室はハーフティンバー様式(木造建築の一様式。柱、梁、斜材などはそのまま外にむきだしにし、その間に石、煉瓦、土を充填して壁としたもの)を取り入れた木造平屋建切妻造で、木部に赤褐色の塗料が塗られています。
いよいよ御城番屋敷(ごじょうばんやしき)。松坂城裏門跡を出た先に石畳の両側に武家屋敷が並んでいます。石畳の両側に、美しく整えられた槇垣が巡らされており、美しい景色をなしています。御城番屋敷は、松坂城を警護する「松坂御城番」という役職の武士20人とその家族が住んだ武士の組屋敷です。屋敷には、今も子孫の方が住まわれ、維持管理を行っています。明治になると、「苗秀社(びょうしゅうしゃ)」を創設して激変の世を乗り越え、大正15(1926)年には合資会社に改組、平成28(2016)年には合同会社となり現在に至っています。現存する江戸時代の武家屋敷でも最大規模を誇る貴重な建造物で、平成16(2004)年、国指定重要文化財に指定されました。
住んでいたのは、40石取りの紀州藩士20人とその家族。このような組屋敷(長屋)は全国でも大変珍しい上に、今も多くの
人々がここで暮しているのです。御城番は、もとは、紀州藩家老田辺安藤家に紀州藩主徳川頼宣から遣わされていた与力衆が安藤家の陪臣となるよう命じられたことに抗議して、幕末の安政3(1856)年、脱藩して浪人となったのですが(田辺与力騒動)、その6年後、紀州藩主の直臣として帰参を許され、松坂御城番職に就きました。文久3(1863)年、松坂城南東の三の丸に藩士とその家族の住居として新築されたのがこの組屋敷です。約1ヘクタールの屋敷地に主屋2棟と前庭、畑地、土蔵、紀伊徳川家初代藩主を祀る南龍神社があり、主屋は東棟に10戸、西棟に9戸が残っています。松阪市はこのうち1戸を借り受けて復原整備を行い、平成2(1990)年から一般公開しています。御城番屋敷にも何度か訪ねていますが、詳しい記事がこちらにあります(2018年6月18日:20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(その2)……御城番屋敷、本居宣長記念館)。
キリが良く、また、この先訪ねた場所まで触れると長くなりそうですから、その2はここまで。その3は、本居宣長ノ宮、松阪神社、松坂城跡から。
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