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2021年11月17日 (水)

20211106「東海道・伊勢街道歩いて伊勢参りツアー」第14回「櫛田~斎宮」(その1)……櫛田駅をスタートし、豊養稲荷社、道標、櫛田川渡場跡を見て、櫛田橋を渡り、松阪市早馬瀬町へ

Kushida0 11月6日に行ってきた「東海道・伊勢街道歩いて伊勢参りツアー」の第14回「櫛田~斎宮」の本編その1です。忘れていたわけではありませんが、あくまでも仕事優先(微笑)。11月13日の相談会の準備を優先していたのです。この日は、近鉄山田線の櫛田駅から同じく斎宮駅まで現地では、6.7㎞を歩いてきました。櫛田駅を出発してじきに櫛田川を渡り、松阪市早馬瀬町へ。大乗寺、早馬瀬神社や、梵字の六字名号碑などを見て、祓川に至ります。ここは、斎王がお祓いをして、斎宮に入ったとされる川。ここから、明和町に入ります。外宮への道標で左折し、斎宮歴史博物館へ向かいます。見学したのち昼食を済ませ、斎宮跡を見学してきました。距離は短めでしたが、中身は濃いという感じ。

Img_9834c_20211106184001 Img_9838c_20211106183801  桑名駅を8時42分に出る五十鈴川行き急行に乗車。松阪には9時47分着。伊勢市・宇治山田方面への普通電車に乗り換えるのですが、10時10分の鳥羽行き普通まで時間があります。かねてから計画していた(企んでいた?)ように、JR紀勢線の1番ホームへ。ここに駅弁のあら竹商店の売店があるのです。斎宮跡で食べようということで、今日は駅弁をゲット。10時10分の鳥羽行き普通に乗って、櫛田駅には、10時16分に到着。¥1,020。

Kushida1  この日歩いた詳しいルートマップのその1。櫛田駅を出て、松阪市立揥水小学校の西を通って、県道37号線へ。櫛田郵便局のところで左折。ここからが、この日の伊勢街道。豊養稲荷社、道標、里程標と見て回ります。伊勢街道もこのルートを辿っていました。櫛田橋で櫛田川を渡り、漕代地区へ。大乗寺、早馬瀬神社、彰功碑を見て、地蔵尊。

Img_9842c Img_9851c  櫛田駅から歩き始めたのは、10時20分頃。松阪市立揥水小学校の西を通って行きます。初めてこのあたりに来たとき、「揥水」というのは珍しい名前だと思いました。「揥水」は、「櫛田川」のことでした。名付けたのは、江戸時代の儒学者・奥田三角(さんかく)。奥田(元禄16(1703)~天明3(1783)年)は、江戸時代中期の儒者。伊勢出身。はじめ、柴田蘋州(ひんしゅう)に、享保6(1721)年、京都に出て伊藤東涯(とうがい)に師事。享保16(1731)年、伊勢津藩に迎えられ、50年余にわたり4代の藩主につかえました。この時は、まったく失念していたのですが、櫛田郵便局の前には「奥田三角邸跡」という表示がありました。三角はこの奥田家の14代、あるいは15代とされています。三角の4代前の奥田忠重(ただしげ)は、越前豊原(現在の福井県坂井市丸岡町豊原)から櫛田川沿いのこの地にたどり着き、ここを豊原と名付けて地域を開拓した人物です。奥田邸は「豊原陣屋」と呼ばれる豊原組大庄屋でした。その跡地が、現在の櫛田郵便局付近にあたるということで、右の写のように、「奥田三角邸跡」という案内が掲げられているのです。ちなみに、屁理屈で恐縮ですが、「揥」は櫛を意味しています。

Img_9854c_20211106183801 Img_9859c_20211117202001  郵便局の角を左折すると、すぐに豊養稲荷社があります。神社検索(三重)にはリストアップされていません。こちらのサイトによれば、大櫛神社の旧地といいます。江戸時代には大櫛社と称していたのです。ちなみに、左の写真が伊勢街道です。

Img_9863c_20211117202001 Img_9867c_20211117202001  鳥居の脇に「式内大櫛神社」の石碑があります(左の写真)。その脇にもう1つ、石柱がありました(右の写真)。こちらは、かつてこのあたりで開かれていた櫛田大市の碑でした。この近くに(あとで出てくる道標の近く)紅葉屋という旅籠があり、そこから櫛田橋にかけて200mに及ぶ大規模な市が開かれたそうです。

Img_9875c_20211106183801  豊養稲荷社の前を進むと、道標に行き当たります。櫛田川の堤防のすぐ下です。文政2(1819)年、京の商人が寄進したもの。「左さんくうみち 右けかうみち」とあります。「さんくうみち」は「参宮道」ですが、「けかうみち」には、前回来たときも悩みました。「外宮」かとも思ったりしましたが、その時は、「下向(げこう)」と結論しています。「下向」は、①高い所から低い所へおりていくこと、②都から地方へ行くことといった意味(デジタル大辞泉)。さらに調べたら、goo辞書に「参り下向」ということばが載っていました「まいりげこう」、旧仮名遣いでは「まゐりげかう」で、「参上することと下向すること。また、神社や寺院に参詣すること」とありました。正しいことをご存じの方がいらっしゃったら、是非ともご教示ください。

Img_9894c_20211106183801  道標で左折し、突き当たって右折し、櫛田川の堤防の下に行くと、里程標があります。そういえば、このあたり、近鉄ハイキングの伊勢参りツアーできたときには、道を間違えてウロウロした記憶があります(2019年10月31日:20191027近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅10日目~伊勢街道、旅人気分で松阪から王朝ロマンをたどる斎宮跡へ」(その2)……加茂川橋のたもとの常夜燈、大日寺町石、八柱神社、浄林寺、おもん茶屋跡、願證寺から櫛田川へ)。ここは、櫛田川の渡し場があったところで、これは大正3(1914)に建てられた里程標。正面には「距宇治山田元標三里二十町四十一間/距津元標六里十二町十八間」と、右には「距松坂元標一里二十九丁三十四間」、左には「距齋宮元標二十五町三十一間」とあります。裏は「大正三年三月建之」と読めました。斎宮(の元標)まで25町31間ですから、約2.8㎞。同行の同級生K氏は、この間から「早く斎宮に行ってみたいな」といっていたのですが、もうすぐそこという感じになってきました。

Img_9903c_20211106183801 Img_9913c_20211117203901  江戸時代はこのあたりから櫛田川の対岸に渡しがあったのですが、今は、県道37号線(鳥羽松阪線)の櫛田橋に回らなければなりません。

Img_9919c_20211117204501  櫛田川は、三重県中部の中央構造線沿いを西から東に流れている一級河川。その名は、あの倭姫命の故事に因みます。「倭姫命世記」では倭姫命が、天照大神の鎮座地を求めて諸国を巡行する際、この地で櫛を落とされたことから地名が櫛田と名付けられ、それが川名の由来ともなったとされます。それから歴代の斎王は、群行の際に櫛をこの川に捨て、神に仕える決心をしたといいます。櫛田橋は、300mほどの長さ。

Img_9927c_20211107063701  櫛田橋南詰交差点で左折し、漕代地区へ。町名は、早馬瀬町。何やら由緒がありそうな地名です。ここの交差点には、左の写真にあるような案内板が掲げられていました。我々がこのあたりを歩いた翌日が全日本大学駅伝で、この県道37号線を選手が走って行くのです。

Img_0821c_20211117205001  これまた講釈で重ねて恐縮ですが、櫛田橋を渡ってすぐ右のところには、常夜燈があったのですが、これは、松坂城跡に移設されています(左の写真)。平成30(2018)年11月3日の近鉄ハイキング(20181103近鉄ハイキング「蒲生氏郷を訪ねて 氏郷まつりと松阪城下町散策」へ……予告編)の時に見てきたこの常夜燈がそれだと思います(こちらのサイトの説明による)。

Img_9938c_20211106183801 Img_9943c_20211117205401  早馬瀬(はやまぜ)町に入って、漕代地区市民センターの西に医王山善福院大乗寺があります。浄土宗のお寺で、ご本尊は阿弥陀如来。本堂はかなり古い建物に見えましたが、境内は綺麗に整えられていました。明治初期には、ここに寺子屋があったといいます(こちら)。本堂に向かって左手(西)には、山の神が13基集められていました。お寺にあるのは珍しい。

Img_9946c_20211117205601  その奥には、石碑が1基。「平和之礎」と読めます。碑表には、20名の方々のお名前と「満州国」「比島」「ビルマ」などの地名、昭和20年4月6日などの日付が刻まれていました。第二次世界大戦で戦没された方々の慰霊碑でした。碑陰には回りませんでしたので、建立されたのがいつかや、どなたが建てられたかは確認できませんでした(三重県遺族会のリストにもありません)。

Img_0016c_20211106184301 Img_0014c_20211106183901  大乗寺の隣にというか、境内を共有している感じで早馬瀬神社があります。この神社について、詳しいことは分かりませんが、こちらのサイトを参照すると、かつて「早馬瀬の奇祭『よいよい神事』が毎年2月に行われていたようです。この行事は、従来から地区に居住する特定の家のうち、「番」に当たった「家長」(男であること)が大乗寺のお堂に篭って、誰にも見せてはいけないという「何かのこと」を行っているのだそうです。神社ですので、厄除けや、豊作祈願なのかという気がします。この神社、右の写真のように拝殿の前に扉があります。以前来たときには、「蕃塀」なのかと思ったのですが、どうも違うようです。

Img_9950c_20211117210601  南側の裏参道に当たるところの両側には、道標が建てに2つに割れた(割った?)ものが左右に建っていました。向かって右に建つものには「右けかう……」(……部分は、地中に埋まっています)。左に建つものには正面に「文化十三丙子春 櫛田川 越場…/同志…」とあります(こちらによる)。その左側に「左さんくう……」(……は同様に地中に埋まっています)。この道標、元は、渡し場付近にあったものをここに移設しています。文政13(1816)年建立。いや、それにしても不思議なというか、興味深い神社です。

Img_0020c_20211117212001  さらに早馬瀬神社の南には、大正11年建立の篤農家田所寅吉翁の彰功碑があります。詳細は不明。碑文も薄れていて、詠みにくいものでした。

Img_0043c_20211106183901 Img_0051c_20211118195001  早馬瀬神社から伊勢街道に戻って、すぐのところにお地蔵様があります。このお地蔵様には、「天保九戊年十月一日 施主 正木五良兵ェ時尋」と刻まれています。天保9年は、1838年。機殿(はたどの)神社への機殿道への分岐に立っているのですが、何を願って正木五良兵衛が立てたのかは、不明です。「伊勢参りの途中で亡くなった旅人の供養に立てたという話もあります(こちら)。ちなみに、機殿神社、現在は、神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ)と神麻続機殿神社(かんおみはたどのじんじゃ)の2社になっていますが、元々は同じ場所に鎮座していました。いずれも皇大神宮(内宮)所管社で、ここから櫛田川に沿ったさらに下流にあります。いずれも、神御衣祭(5月と10月の14日)に供進される和妙(にぎたえ・絹布)を奉職する神が祀られています。冒頭のマップでは、このお地蔵様から北へ向かう道が、機殿道と思われます(右の写真)。

 その1は、ルートマップ通り、ここまで。その2は、稲木町へと進みます。

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