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2021年9月26日 (日)

20210925「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第10回「津・栄町~津・高茶屋」(その1)……津駅をスタートし、まずは四天王寺など寺巡りをして、塔世橋へ

Tsu0  9月25日に行ってきた「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」の第10回、「津・栄町~津・高茶屋」の本編その1です。予告編でも書きましたが、この日は、微妙な天気予報でした。微妙というのは、桑名など三重県北勢地域は晴れか曇り、津から南は弱い雨となっていたのです。しかし、翌日(9月26日)の予報はもう少し悪いものでしたので、思い切って出かけたという次第。前回(2021年9月12日:20210912「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第9回「津・一身田~津駅」(その1)……雨にも負けず、高田本山駅から巡礼道との追分、孟夏の常夜燈を経て、三重大学前へ、2021年9月13日 :20210912「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第9回「津・一身田~津駅」(その2)……三重大学前から江戸橋を渡り、上浜の町を通って津駅へゴール(完))、降雨コールドゲームではありませんが、津新町駅まで行く予定が、途中、津駅までで断念しましたので、今日は津駅からスタート(津駅は栄町にあります)。前回の残りが、初馬寺、四天王寺、観音寺、大門商店街など。ゴールは、高茶屋。JR紀勢線・高茶屋駅に設定。冒頭の画像が、この日歩いたコースの全体像。現地で歩いたのは、9.9㎞+α。スタートした津駅あたりでは晴れ間もあったのですが、途中、5㎞地点の閻魔堂・市杵島姫神社に着く前から雨が降り始め。その後は、強弱はあったものの、ゴールの高茶屋駅までほとんど雨。前回の再現フィルムのような感じ。同級生K氏と二人旅が続いています。

Img_2554c_20210926163201  桑名駅を8時42分に発車する五十鈴川行き急行に乗車。津駅には9時24分着。いつも非常勤に行くときと同じ時間帯の電車。津駅東口に出て、9時半にスタート。スタートしたときは、ご覧のように青空。正面が津駅。駅ビル(津チャム)になっています。その右手の高い建物が、アスト津“UST津”、「明日都津」だそうです。ホテル、公共施設、飲食店、さまざまなショップが入っているそうですが、未だに行ったことはありません。ちなみに、高さは地上94mで、三重県内では2番目に高い建築物です(三重県内トップは、四日市港ポートビルの100m)。

Tsu1  詳しいルートマップのその1。津駅から東に向かい、国道23号線の1本西(手前)の道が伊勢街道。右折して、善徳寺、初馬寺、心覚寺、四天王寺とお寺が続きます。安濃川を塔世橋で渡ります。橋を渡った南詰西側に旧塔世橋高欄が保存されています。

Img_2556c_20210926163201 Img_2562c_20210926163201  上述のように、津駅から東に向かい、伊勢街道に入ります。左の写真で中央の道が、前回歩いてきた伊勢街道。奥の方が江戸橋でそちらから来ています。この左手が津駅。右の写真は、津駅から来て右折し、伊勢街道に入ったところ。

Img_2572c_20210926163201 Img_2566c_20210926163201  右折してすぐに寿福山善徳寺(じゅふくざんぜんとくじ)。真宗高田派。開基は、無碍光院善明といいます。善明と寺の沿革の詳細は不明だそうですが、開山以来400年近く経ていると考えられています。「考えられています」というのは、このお寺は、宝暦11(1761)年秋と明治16(1883)年3月に焼失し、古い資料が残っていないのです。第9世住職真源が、明治42(1909)年10月、前住真鏡とともに本堂を再建しています。なお、この真源は、明治31(1898)~37(1904)年まで、札幌別院輪番を拝命し、在任中に別院を創建したそうです。墓地がなかったのですが、昭和47(1972)年、偕楽霊園に移っています。

Img_2576c_20210926164701 Img_2593c_20210926164701  善徳寺の脇の道を西に入ったところに。馬寶山蓮光院初馬寺真言宗御室寺派。掲げられていた縁起によれば、聖徳太子が42歳の時、四天王寺(後述)を建立するため当地を訪ねたとき、病気になられ、自ら本尊馬頭観世音菩薩を彫られ、また、大日如来阿弥陀如来を師である高麗の僧・恵慈と慧聡に彫刻させ、奈良・法興寺の善徳僧正を召されて厄除除難の法を修したところ、病もよくなり、事業も進展したといいます。元和3(1617)年には国家鎮護の道場となり、その後、津藩主が藤堂高虎の時、藩主祈願所となっています。通称は、津の初午さん。三重四国八十八ヶ所第64番札所伊勢西国三十三所観音霊場第17番札所。ご本尊の馬頭観世音は、中日新聞のWeb「田中ひろみの仏像大好き」で取り上げられています(こちら)。

Img_2589c_20210926164701 Img_2590c_20210926164701  伊勢の津七福神巡りの霊場にもなっています。第3の恵比寿天。右の写真では、向かって左手に恵比寿様。中央には、「水掛魚藍観世音」。私としては、こちらの観音様の方が気になりました。魚籃観音(ぎょらんかんのん)は、三十三観音の一つで、魚を入れたかごを手にさげています。大魚に乗っている像もあるそうです。羅刹(らせつ:人をたぶらかし、血肉を食うという悪鬼)・毒龍の害を除く功徳があるといいます。ここにあった説明板によれば、「九鬼浦の漁業不漁のみぎり當観音の霊感を得て奉祝祈願するに大漁を得たりという」とありました。また、「魚に携わる料理、旅館、飲食等の商いをなすもの、繁昌したりという」ともあります。九鬼浦は、尾鷲市九鬼町でしょう。

Img_2618c_20210926172101 Img_2611c_20210926172101  初馬寺から伊勢街道に戻り、スタートから600mほどのところに心覚寺。真宗高田派。このお寺については、詳しいことは分かりませんでした。境内には、「経石塚」という大正3(1914)年建立の石碑がありました。経石塚(きょうせきづか)は、おそらく、何かの願望成就のため、お経を小石に書写して塚を築いたもの。

Img_2625c_20210926173001  スタートから800mあまりのところで県道10号線を渡ります。この西には三重県庁(中央の焦げ茶色の建物)や県議会の議事堂(その左手)が見えます。

Img_2628c_20210926173001 Img_2634c  信心深い訳ではありませんが、さらにお寺が続きます。スタートからほぼ1㎞で、塔世山四天王寺曹洞宗の中本山。推古天皇の勅願によって、聖徳太子が建立したといいます。用明天皇の時、聖徳太子は守屋大連の軍に三度も敗れたため、太子は四天王尊像を刻み、勝利すれば寺塔を建立するという誓願をたてました。その結果、守屋の軍を破ることができたので、誓願どおり四つの四天王寺を建立し、その一つがこの寺とされています。しかし、度重なる兵火によって焼失を繰り返し、はっきりしたことは分かっていません。以前訪れた時に聞いた話では、ここは東の四天王寺で、大阪にある四天王寺は、「西の四天王寺」だそうです。写真の山門は、市の有形文化財。全体に使われている木が太く、高さもあり、均整のとれた美しい姿です。この形に再建されたのは、寛永18(1646)年、二代藩主・高次公の時代。

Img_2636c_20210926175201 Img_2667c_20210925184901  戦火で荒廃と復興を繰り返していましたが、安濃津城主だった織田信包が再建し、織田信長、信包の母でもある土田御前の墓があります。その他、藤堂高虎夫人の九芳院の墓、斎藤拙堂らの学者・文化人の墓、幕末の写真家で藩校有造館で化学を講じた堀江鍬次郎(くわじろう)の墓などがあります。さらに、芭蕉翁文塚など詩文に関係深い碑も数多い。詳細は、2019年9月7日に近鉄ハイキングの「お伊勢さん参りハイキング」で訪ねたときの記事をご覧ください(2019年9月10日:20190907近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅7日目~伊勢街道、旅人気分で津のまちから垂水へ」(その1)……津駅をスタートし、四天王寺へ)。

Img_2671c_20210925184901  この日見てきたのは、まずは、花屋寿栄禅尼(かおくじゅえいぜんに)こと、織田信長信包の生母の墓。信長、信包の生母は土田御前(どたごぜん/つちだごぜん、生年不詳~文禄3(1594)年)。墓が津にあるのは不思議に思えます。本能寺の変で信長と孫の信忠が自害した後は、孫の信雄の庇護のもとにありましたが、天正18(1590)年の信雄の改易後は、伊勢国安濃津の信包のもとに引き取られ、ここで亡くなったのです。

Img_2679c_20210926175901  こちらは、藤堂高虎の夫人・久芳院の墓。高虎の正室・久芳夫人は、大坂夏の陣の翌元和2(1616)年8月20日、高虎の留守を守る津城で亡くなり、ここ四天王寺に葬られています。内助に徹したその生涯を偲び、肖像画とともに、菩提供養に思いのこもった高虎の文書が残っているそうです。久芳院は、 一色義直の娘といわれています。

Img_2692c_20210926180001  前回見逃したところもありました。これは、目洗い地蔵。長く目を患っていた男性が、四天王寺にやって来て、本堂に向かって歩いているときに、目が痛み出し、その場にうずくまりました。「せめてこの痛みだけでも何とかなれば……」と思ってじっとしていると、どこかからか水の流れる音が聞こえてきて、その水で何度か目を洗ったところ、痛みがすっかりなくなったといいます。昔々、インドの阿育王が仏教を広めるためにあちこちに建てさせた塔の一つが津の町にあり、聖徳太子はこの塔のそばにこの四天王寺を建てました。その塔は、しばらくして、江州の不塔山に移され、台石だけが四天王寺に残され、男の目を治した水はこの台石から流れ出ていたそうです。今はこの台石もありませんが、案内の石が残っています。

Img_2722c_20210926180801  山門の北、芭蕉翁文塚や二日坊杖塚のあるところに「史跡 地蔵堂跡 平景清鎧掛松 定行書」とある碑が建っています。これについては、2020年2月 6日の記事(20200202JRさわやかウォーキング「~新春キャンペーン~令和2年2月2日に、津の真ん中ウォーク 藤堂高虎ゆかりの地と日本三観音『津観音寺』を訪ねて」へ(補遺編)……比佐豆知神社と四天王寺)に書いてあります。地蔵堂跡については不明ですが、「平景清鎧掛松」については、「津市案内記」(津市役所発行)と「津市郷土読本」(津市教育会)には、「四天王寺の七不思議として、『血天井・景清鎧掛松・亀の甲の三尊像・蛇の鱗・薬師堂の瓦・風呂神・生佛』がある」とされているようです(こちら)。景清は、平家に仕えて戦い、都落ちに従ったため俗に平景清と呼ばれますが、藤原秀郷の子孫の伊勢藤原氏(伊藤氏)で、伊藤景清ともいいます。「悪七兵衛」(あくしちびょうえ)の異名を持つほど勇猛であったそうです。平景清については、あちこちに伝説が残り(こちらを参照)、桑名市志知にも「景清屋敷跡」があります。

Img_2663c_20210926175201 Img_2662c  四天王寺は、聖徳太子が建立したのですが、今年が「聖徳太子御聖忌千四百年遠忌」に当たるそうで、境内には左の写真のような法要の案内が掲げられていました。この大遠忌の参拝記念のパネルまで設置されています。

Img_2751c_20210926183901 Img_2765c  四天王寺には20分あまり滞在。伊勢街道には戻らず、そのまま南に向かい安濃川に行き当たります。安濃川を塔世橋(とうせばし)で渡ります。最初の橋は江戸時代に土橋として架けられ、現在は、平成4(1992)年3月のもの。

Img_2754c_20210926183901 Img_2763c_20210926184201  橋の途中には、「唐人踊り」のモニュメントがあります。唐人踊りは、江戸時代に朝鮮から幕府へ派遣された朝鮮通信使の身なりをまねていると伝わっています。喜怒哀楽の面をつけ、黄・白・赤色の上着、虎皮模様のズボン、笠、わらじをつけて、ラッパや笛、かね、太鼓のはやしで町を練り歩くそうです。毎年10月の津まつりで行われます。

Img_2767c_20210926183901 Img_2771c  塔世橋を渡った南詰の西側には、旧塔世橋高欄が保存されています。戦災の傷跡を残しています。この旧塔世橋高欄は、万成花崗岩(御影石の一種)を使ったもので、昭和9(1934)年の建設当時は斬新なデザインでした。昭和20(1945)年724日の空襲により橋脚・橋桁ともに被爆しました。これは、津市内に残る数少ない戦災の遺蹟であるということで、ここに移築、保存されたものです。まだ、本当は前回歩いたところのはずですが、長くなりましたので、その1は、ここまで。

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