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2021年5月10日 (月)

20210508「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第3回「富田~四日市」(その2)……八幡常夜燈、八幡地蔵堂、八幡神社跡、かわらずの松、志氐神社一の鳥居と妋石、光明寺を経て国道1号線へ

210508tomida2  5月8日の「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」、第3回「富田~四日市」の本編その2です。その1では、近鉄富田駅をスタートし、茂福神社と茂福城跡を見て、県道64号線の高架をくぐるところまで来ました。左の画像は、詳しいマップその2です。八田三丁目西の交差点がそこです。このあとは、八幡常夜燈、八幡地蔵堂と八幡神社跡、かわらずの松、志氐神社社号標・常夜燈・妋石、光明寺と進みます。光明寺の先で東海道は、国道1号線と同じルートになります。

Img_5226c_20210508165901  中部運輸局四日市自動車検査場を過ぎ、米洗川(よないがわ)の手前、西側に常夜燈があります。八幡(やわた)常夜燈です。一昨年の近鉄ハイキングでもここを通ったのですが(2019年3月29日:20190324近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅2日目~ 東海道、旅人気分で間の宿・富田から四日市宿へ」(その2)……八幡常夜灯、八幡地蔵堂、八幡神社跡、かわらずの松、妋石(みよといし;夫婦石)、光明寺を経て国道1号線に合流)、その時には、この常夜燈について詳しいことがよく分かりませんでした。今回、ここから先、羽津地区で立ち寄ったところには、「羽津地区まちづくり推進協議会」が新たに説明板を立ててくださってあり、いろいろと知ることができました。この常夜燈は、明治35(1902)年9月に建てられています。Img_5230c_20210510043201 両側面には「両大神宮」と刻まれ、台座には世話人として羽津村中人100余名の名があります。設置年代からみて、それ以前にあったものを建て替えたと考えられるのですが、以前のものの記録はないそうです。設置当時、茂福から米洗川までは、一軒の家もない「芝原縄手」と呼ばれる、松並木の寂しい道で追いはぎも出たといいます。一方、東海道中が盛んな頃には、このあたりまで四日市宿の飯盛り女や客引きが迎えに来ていたそうです(以上、説明板より)。このあと訪ねる八幡地蔵堂は、もともとこの常夜燈の向かいに建っていました。

Img_5238c_20210510044501 Img_5243c  八幡常夜燈のすぐ先に米洗川。左の写真は、その上流方向です。この先に伊賀留我神社(北伊賀留我神社と南伊賀留我神社があります)や、その近くには、天武天皇迹太川御遙拝所跡があります。天武天皇が壬申の乱で、奈良の吉野を離れて鈴鹿を経て三重県に入り、迹太川(とおがわ)のほとりで天照大神に戦勝祈願したと日本書紀にありますが、迹太川は、現在の米洗川であると考えられています。右の写真は、米洗川を渡った先の東海道の様子。

Img_5246c_20210508165901  八幡常夜燈から300mほど、八田第一集会所の隣に、八幡(やわた)地蔵堂と、伊勢国八幡(はちまん)神社跡があります。お地蔵様は、延命地蔵尊。このあと通った金場町にある金場地蔵尊と同じ一つの石から作られた兄弟地蔵で、こちらの地蔵、もとは羽津村の南北の入口(この地蔵は北の入口)に置かれ、村内に疫病が入り込まないようにするための結界地蔵といわれるものであったといいます。上に書いたように、昔は、米洗川北側の八幡常夜燈の向かい辺りにあったのが、昭和4年(1929年)に、八幡地区の住民によって現在地に移設されたそうです。トリビアですが、このお地蔵様、仏像の知識に乏しい石工が彫ったらしく、螺髪に来迎印という阿弥陀如来の形になっています。地蔵堂の前には「真誉法眼(しんよほうげん)上座」という石碑が建っています。是についても、以前来たときには分からなかったのですが、新しい説明板によれば、堂守の真誉師(しんよし)の遺徳を偲んで建てられたもの。

Img_5257c_20210508165901  八幡神社は、勧請年代は不明ですが、江戸時代の旅行記に、「一国一社にして村名も八幡(やわた)と称し、皇国六十六拝の一つに数えられている古社である」と紹介されています。東西40間、南北55間という広い社地を持つ、著名な神社出遭ったそうです。明治41(1908)年に志氐神社に合祀されて、ここ旧社地には「伊勢国八幡神社碑」と刻まれた石柱が建ち、往時を偲ぶよすがとなっています。八幡神社の遺品は、鳥居が志氐神社東口に、また、石燈籠が東海道沿いにある志氐神社一の鳥居脇に移設されています。

Img_5265c_20210508165901  八幡地蔵堂・八幡神社跡から400mほど、堀切川を渡る直前に、松の木が一本。「かわらずの松」です。戦前まで、このあたりは松並木でした。戦後は、経済発展にともなって、道路の拡幅が行われ、また、松食い虫の被害を受けて、東海道の松並木は姿を消してしまいました。この松は、樹齢200年以上とされ、江戸時代からここを行き交う旅人を見守っていたと思われます。ここは、今は羽津というところですが、その昔は「かわらず(川原須)」と呼ばれていましたので、その地名からこの松は「かわらずの松」と名づけられ、大切にされています。同行のK氏は、「もっと立派な松だと思ったがなぁ」とひと言。

Img_5303c  かわらずの松の先、スタートから4㎞を過ぎたところに志氐(しで)神社の一の鳥居と石柱、常夜灯などがあります。志氐神社は、上記の伊勢国八幡神社を合祀した先。神社は、この一の鳥居から400mほど北西に入ったところ(四日市市大宮町)にあります。いろいろと見るべきものもあるようですから、一度行ってみたいとは思っているのですが、まだ実現していません。往復800mの寄り道はちょっと厳しい。主祭神は、気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ;祓戸の神(ハラエドノカミ)ともいい、祓を行う場所である「祓戸(はらえど)」を守る神)。創祀年代は明かではありませんが、社記では垂仁天皇の頃といいます。

Img_5296c  先に触れたように、八幡神社にあった常夜燈が、ここに移設されています。「天下泰平 八幡宮御神前 国家安全」と正面に刻まれています。

Img_5299c_20210508165901  この志氐神社一の鳥居のところに、東海道の両側に2つの大きな石があります。これらは「妋石(みよといし)(夫婦石)」と呼ばれています。志氐神社には、伊弉諾尊(イザナギノミコト)と伊弉冉尊(イザナミノミコト)も祀られていて、縁結び・夫婦円満のご神徳があるとされます。古書にも「婦女の婚姻を求むる祈願を之になす」と記述があり、古来より、東海道を行き交う多くの旅人は、この夫婦一対妋石をなでて、縁結び・夫婦円満の願いを込めたといいます。石は、鳥居の真下に1つ(上の鳥居が写った写真をよくご覧ください)、道を挟んだところにもう1つ(左の写真)あります。きちんと撫でて来たらよかったかと、思ったりして(苦笑)。

Img_5307c_20210508165901  このすぐ先(100mあまり)には、初野山摂護殿光明寺(はつのざんしょうごでんこうみょうじ)があります。真宗本願寺派のお寺。元は大矢知村青木谷にあったといいます。弘仁年間(810~824年)に空海が諸国を巡回した時に、小堂を建てたのが始まりと伝わっています。寛正元(1460)年に、下野国高田の専修寺第10世眞慧(しんね)上人が諸国巡化の際、最初に近江国坂本の妙林院(浄土真宗寺院。真慧が専修寺の出張所として創建したものの、廃絶。跡地不明)から光明寺に来錫し、約1年間在住して付近を教化した時に、当時の住職が改宗して浄土真宗高田派に転じたといいます。

Img_5321c_20210510065401  享禄年間(1528~1531年)に、羽津城主赤堀左京大夫盛義(宗昌)が出家して光明寺に入り善願と名乗り、現在地に寺を移して初野山青木堂光明寺と称しました。天正年間(1573~1591年)に京都興正寺の勧めにより、高田派から本願寺派に転じたとされます。寛文3(1663)年2月、雷により堂宇、宝物、記録等一切を焼失し、創建の年月、開基の事蹟、中古世代住職名等すべて不明になりました。第5世俊応の妹せつが青蓮院宮に仕えた関係で、皇族所縁の品々を下賜され保管していたのですが、これらは、戦災で焼失しています。

Img_8233c_20210510065501  光明寺の山門前には、「八十宮(やそのみや)御遺跡」の碑が建っています(左の写真は、2019年3月24日に撮影)。八十宮は、霊元上皇の内親王(吉子内親王(よしこないしんのう);正徳4(1714)~宝暦8(1758)年;八十宮は幼名)で、正徳5年、7代将軍徳川家継の婚約者になったのですが、家継は翌年死去。享保11(1726)年内親王となり、同17(1732)年、19歳で仏門に入りました。徳川家継は江戸幕府の第7代将軍(在任:1713~1716年)ですが、宝永6(1709)年)7月3日生まれですから、婚約当時はわずか6歳。八十宮の方は、何と1歳で婚約しています。正徳6(1716)年閏2月18日(4月10日)に納采の儀を行ったのですが、そのわずか2ヶ月後、享保元(1716)年4月30日(6月19日)に家継は亡くなります。八十宮は、1歳7ヵ月で後家となってしまったのです。政治的な思惑が働いたのでしょうが、何ともいえない話。光明寺にこの「八十宮御遺跡」の碑があるのは、その宮付に光明寺第5世俊応の妹つねが召されたとされます(こちら)。碑は、昭和3(1928)年3月に桑名吉津屋町の寺本久治が建てています(寺本についてGoogleで検索すると、昭和22年の官報に名前が出て来ますが、どのような人物かは不明。こちら)。

Img_5334c_20210508165901  境内には、森多三郎紀念碑とその墓碑があります。文久元(1861)年、桑名藩が過酷な年貢米の増徴を命じたのに対し(当時の藩主は、松平定敬)、これを阻止しようと、羽津村組頭村方三役の一つで、名主、庄屋を補佐する役目)であった森多三郎ら17名が先頭に立って藩に抵抗しました。その結果、藩は年貢の増徴を断念することになったのですが、その後、多三郎は桑名藩庁に呼ばれて安永の料理屋に行き、毒酒を飲まされ、帰途、この光明寺までたどり着いたところで絶命したと伝えられています。この碑は、当時の羽津村の肝煎、組頭、小前惣代が藩の譲歩を勝ち取った記念に、多三郎の功績に報いるものですが、桑名藩の追及を畏れ、碑文は紀念碑という文字と、建立年、多三郎を含む百姓の代表名という簡素なもになっています。また、紀念碑の前には、「釋浄諦信士」と刻まれた森多三郎の墓碑が建てられています。

Img_5345c_20210508170001 Img_5281c_20210510070501  光明寺から200m足らずのところで旧・東海道は、左に曲がり、国道1号線に入ります。スタートからは4.6㎞ほどのところ。この先、金場町、三ツ谷と進みます。これもいささか余談ですが、羽津地区のあちこちに右の写真のようなものが置かれていました。「とうかいどう」と透かし彫りになっていて、電源コードがつながっていますから、夜は灯りが入ると思います。なかなか風情があっていい感じ。その2は、ここまで。その3は、国道1号線沿いにある金場延命地蔵や、道標を見て、多度神社へとなります。

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