20210508「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第3回「富田~四日市」(その1)……近鉄富田駅をスタート、明治天皇御駐輦跡碑、善教寺、薬師寺、常照寺、新設用水道碑・力石、證圓寺から茂福神社と茂福城跡に立ち寄り
5月8日の「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」、第3回「富田~四日市」の本編その1です。桑名のアメダスでは、最高気温22.9℃、晴れあるいは薄曇りで、歩くのにはちょうどよい気候でした。近鉄富田駅をスタートし、東海道を歩いて近鉄四日市駅まで。この日で3回目でしたが、七里の渡し跡から伊勢神宮内宮までは、東海道・伊勢街道だけでも約94㎞あります。まだまだ15㎞地点。先は長いのですが、急ぐ旅ではありませんから、ユルユルと参ります。
こちらがコースの全体マップ。立ち寄り箇所は割愛したところもあります。近鉄富田駅を8時50分にスタートし、東海道に入ってすぐに明治天皇御駐輦跡碑、善教寺、薬師寺、常照寺、新設用水道碑・力石、證円寺と回ります。その後、茂福神社と茂福城跡へ寄り道。東海道に戻って、八幡常夜燈、八幡地蔵堂・八幡神社跡、かわらずの松。光明寺、金場延命地蔵を眺めて多度神社で小休止(というには長く50分ほど)。三ツ谷一里塚跡を見て海蔵川を渡り、法泉寺。さらに三滝川を越えて、旧四日市宿の中心部へ。空襲で昔の建物は焼失してしまっています。建福寺、陣屋跡、本陣跡、問屋場跡、札の辻、道標。このあたりから諏訪神社のところまで、短い区間ですが、昔の街道は失われています。諏訪神社からスワマエ商店街を出たところで、今日のコースは終了。昼食を摂って(1時間)、ゴールの近鉄四日市駅へ。14時30分にようやく到着(笑)。現地で歩いたのは、8.8㎞。
詳しいマップその1。近鉄富田駅東口から南東へ200mで東海道に入ります。富田地区市民センターに道標、続いて富田小学校の敷地内に明治天皇御駐輦跡碑。十四川の畔に善教寺、その先に常夜燈、薬師寺、常照寺と寺が続き、東海道が鉤型に曲がるところに新設用水道碑・力石があります。その裏手が證円寺。證円寺を出たところに服部泰次郎の道標。街道沿いに茂福神社の社五俵があり、寄り道することに。いったん東海道を離れ、茂福神社と茂福城跡に立ち寄って来ました。
富田地区市民センターの敷地に道標が1基。「左 富田一色 東洋紡績 川越村 道」とあります。大正6(1917)年10月に建立されたもの。富田一色(現四日市市富田一色町)や川越村(現三重郡川越町)のほかに東洋紡績という当時全国一の生産量を誇る紡績会社の名が刻まれています。三重紡績(明治19(1886)年6月創設)と大阪紡績(明治15年(1882)5月創設)とが、大正3(1914)年に対等合併して東洋紡績株式会社になっています(現在の東洋紡)。東洋紡績富田工場は、東洋紡績の最大規模の工場でしたが、現在は、イオンモール四日市北店や、住宅地、四日市松原郵便局などになっています。
富田地区市民センターには「富田の焼き蛤」という説明板があります。焼き蛤といえば、桑名というイメージですが、実は、東海道の小向(おぶけ:初回に歩いた朝日町にあります)や、ここ富田で売られていました。小向、富田は江戸時代、桑名藩領でしたので、「桑名の焼き蛤」として有名になったと書かれています。四日市市立博物館の時空街道には、焼蛤屋が再現されています(右の写真)。当時は、松葉や松かさであぶっていました。
市民センターの隣、市立富田小学校の敷地内には、明治天皇御駐輦跡碑があります。「駐輦(ちゅうれん)」とは、天皇が行幸の途中で車を止め、お休みになること。つまり、このあたりで明治天皇がお休みになったことを示すのがこの碑。明治天皇は、富田茶屋町・広瀬五郎兵衛という方のところで4度休まれました。明治元(1868)年9月、東京に向かわれたとき、同年12月京都に戻られるとき、明治2(1869)年3月、神器を奉じて東京に遷都されるときなどの4回です。広瀬五郎兵衛宅は、この富田小学校正門から富田地区市民センターあたりにあったそうです。最初の時には、焼き蛤をご賞味になったこともあったと説明板に書かれていました。なお、記念碑は、公爵・近衛文麿の筆です。
少し行くと、十四川に行きあたります。富田の町を西から東に流れています。ここは、桜の名所。桜並木が川の両岸に約1.2㎞にわたって続き、800本のソメイヨシノが植えられています。大正12(1923)年、地元で製網業を営んでいた伊藤勘作他の有志が植樹したのが始まりだそうです。
十四川を渡る手前、東側に成徳山善教寺(じょうとくざんぜんきょうじ)。真宗高田派のお寺。ご本尊は、阿弥陀如来。このご本尊は、国の重要文化財に指定されています。作善日記から仁治2(1241)年正月頃に造られたと考えられています。本堂は大変立派です。真宗高田派の本山である専修寺の如来堂を模していると説明板にありました。その昔、このあたりまで海岸線が来ていたことから「海戸尻(かいとじり)」と呼ばれていたといいます。ここに「海戸尻道場」があり、これが善教寺の前身であったそうです。
こちらが善教寺の宝物殿。重要文化財に指定された木造阿弥陀如来立像と、その像内納入文書が収められています。阿弥陀様は、高さ79㎝の桧材寄木造りで、玉眼と漆箔が施されているそうです。像内納入文書は、修復のときに発見され、阿弥陀経などの御経の他、作善願文、作善日記など。
十四川を渡ったところに常夜燈。「氏子中」とはありますが、神社のものではなく、街道の常夜灯という説明があります。桑名の七里の渡しから伊勢まで、伊勢神宮へ導く光であったと書かれていました。天保10(1839)年の建立。常夜灯は近くにもう1基あったとそうですが、それは鳥出神社(四日市市富田2丁目)に移されています。街道沿いには、連子格子のある民家があちこちにあります。
スタートから1㎞の手前に薬師寺。浄土宗のお寺で、ご本尊は、阿弥陀如来。大同年間(806~810年)、この地に疫病が流行し、人々が苦しんでいたことを旅の途中で知った弘法大師が、薬師如来を彫って開眼すると、人々の難病はたちまち平癒したので、人々は弘法大師に感謝するとともに、薬師堂を建て薬師如来を祀ったことに始まるといいます。その後、茂福城主であった朝倉下総守盈盛(みつもり)が菩提寺としたそうです。しかし、永禄10(1567)年、瀧川一益の兵火で焼失しています。ちなみに、ここは尼寺。
薬師寺の門前には、忠魂碑や慰霊塔が4基建っています。中央右にある忠魂碑は、帝国在郷軍人会富田町分会によって大正4(1915)年11月に建立されています(こちらのブログ)。中央左の慰霊塔の方は、大東亜戦争殉国士慰霊塔で、富田地区遺族会が建てたもの。4基ともの説明は、「いのりむし文庫」さんのブログ記事にありました。こちらをご参照ください。
薬師寺からほど近いところに光明山常照寺。浄土真宗本願寺派。四日市市茂福(もちぶく)町になります。天文7(1538)年、釈法導によって開山され、寛文年間(1661~1673年)にそれまでの天台宗から浄土真宗本願寺派に転派しています。詳細は、調べたものの分かりませんでしたが、本堂は明治42(1909)年に再建され、鐘楼・山門は明治の末に建てられたといいます。平成7(1995)年11月本堂・鐘楼の屋根の修復が行われたようです。
鐘楼の鐘は、昭和27(1952)年の四日市大博覧会で「平和の鐘」として展示されたものです。ちなみに、「四日市大博覧会」は、2回開かれており、昭和27(1952)年のものは、「講和記念全日本農機具新日本産業大博覧会」です。この博覧会については、三重県のサイト「歴史の情報蔵」のこちらのページに言及があります。ちなみに、もう一つの「四日市大博覧会」は、「国産振興四日市大博覧会」で、昭和11(1936)年3月25日から同年5月13日までの50日間開かれました。この鐘の池の間(いけのま:梵鐘の部分の名。鐘身の中央部で、乳の間(ちのま)と中帯(なかおび)の間にあり、銘などが刻まれています)には、常口(じょうこう)の歌「一筋に世界の平和祈りつつつくやこの鐘永久に(とわに)ひびけと」が刻まれています(「常口は、調べたものの不明)。
いささか余談ですが、この寺の山門から本堂に行くところにおもしろいものがありました。写真のように、石臼と思われるものが一列にはめ込まれているのです。それぞれに摺石の模様が異なっていて、楽しめます。
東海道は、常照寺のところで鉤型に曲がりますが、そこに新設用水道の碑と力石が2つあります。右の写真が「新設用水道碑」と力石。「新設用水道碑」は、新設された用水道を記念する碑。ここから北西に十四川から七丁(760m)の暗渠による水路を通し、各家の敷地内にマンボ(人工の地下水路、一般名はカナート。東海地方での呼称のようです。三重県北勢地方でもよくあります。「間風」、「間歩」、「万堀」などと表現)を設置して生活用水や防火用水として、明治37(1904)年から昭和中期まで利用したといいます。昭和34(1959)年の伊勢湾台風の水害で使えなくなり、この用水道は消滅しました。碑の右には、「水源地是ヨリ七町」とあります。
力石(ちからいし)は2つあります。約32貫(約120㎏)と、約5貫(約19㎏)の2つ。明治の半ば、このあたりの2つの寺のお堂を再建する際に土台石として奉納されたもの。お堂の地築(地固め)に近郷在住の人々が奉仕に集まったのですが、土台石からこれを選んで、休憩時間に力比べに使ったといいます。大正の終わりごろまでこの石で力比べをして競ったといいます。肩越しまで担ぎ上げた人は幾人もなかったそうです。大きい方には、「三十三メ」と刻まれています。小さい方は、子ども用かと説明されています。
新設用水道碑と力石の裏手(山門は、旧・東海道を曲がったところ)にあるのが、林光山證圓寺(りんこうざんしょうえんじ)。当初は天台宗でしたが、天文年間(1532~55年)、住職が真宗本願寺の第10世證如上人に帰依して改宗したと伝わっています。その後、永禄10(1567)年、茂福掃部輔盈豊(もちぶくかもんのすけみつとよ)は裏切りを疑われ、滝川一益に長島城に呼ばれて謀殺されました。茂福城が落城すると、臣・林玄證(はやしげんしょう)は盈豊の遺児を敵から隠し、鍋坂の村中に逃れて密かに養育し、成人の後、自身の娘と娶せて家督を譲っています。遺児すなわち林三郎左衛門盈景(みつかげ)とその末裔はこの證圓寺の住職になります。
境内には「第二十三代御門主御巡教記念樹」と刻まれた石柱があります。真宗本願寺派第23代門主は、大谷光照(おおたに こうしょう:明治44(1911)~平成14(2002)年)。
證圓寺を出たところの角に小さな道標がありました。東海道に面した側には「左 四日市 服部泰……」、向かって右には「右 いかるが」とあります。これは、服部泰次郎による道標。「いかるが」は「伊賀留我」で、ここから北西に1.5㎞あまり行ったあたり。北伊賀留我神社や、南伊賀留我神社、さらにその近くには、天武天皇迹太川御遙拝所跡もあります。服部泰次郎は、安政元(1854)年に小杉村で生まれ、10代半ばから小間物や雑貨を天秤棒で担いで行商に歩きました。29歳の頃には米穀商となり、近郊で買い集めた米を四日市港から横浜に船で送り伊勢米の販路を拡大しています。日清・日露戦争の際には軍用米の取扱業者となるなど、県下屈指の米穀商となりました。大正8(1919)年3月、行商をしていた頃に道がわからなくて苦労した経験から、予ねて念願の道標建立を三重郡役所に申し出て、北勢地方に多数の道標を建てています。服部の道標は、集落の辻に立てられ、その行き先の多くは隣の集落への道筋を示し、ほとんどが地名を刻んでいます。集落に住む人々が日常通っている間道を、遠来の人に教えることを目的としたものといわれています。明治、大正の頃に成功した人たちは、服部泰次郎のように、皆を助けるという貢献をしています。共助というのでしょうか、いつの間にか忘れられているような気がします。
證圓寺から200m弱のところに茂福(もちぶく)神社の石柱があります。神社はここから北西にさらに200mほど入ったところにあります。ちょっと迷ったものの、せっかくだからと茂福神社に立ち寄ることにしました。東海道からはいったん離れます。創祀は永禄10(1567)年以前とされます。明治28(1895)年4月茂福神社と改称されるまでは天王社と称されていました。明治42(1909)年、鳥出神社に合祀されたものの、昭和25(1950)年、分祀され現在に至っています。主祭神は、建速須佐之男命。相殿神は、天照大御神、保食神、猿田彦命、大山祇命、大宮能売命、上筒男命、中筒男命、底筒男命。茂福城主であった茂福掃部輔盈豊も祭祀に関わっていたそうです。
茂福神社の100mほど西には、茂福城跡。近鉄名古屋線の線路脇に小さな土壇と石碑が建てられています。電車から、右のような看板が見えます(2017年12月23日撮影)。城跡を標示する石柱と最後の城主・茂福盈豊(みつとよ)の碑が建てられています。この碑文によると、貞冬という人物が越前朝倉氏のもとにいましたが、応永年間(1394~1428)の乱を避けて当地に移り、地名に因んで茂福氏を名乗ったとされます。「伊勢軍記」によれば、永禄3(1560)年に茂福氏は羽津城の田原氏と合戦に及び勝利したのですが、その7年後に城主朝倉盈豊は、長嶋で織田信長の家臣である瀧川一益に謀殺されました。その際、斬られた主人の首を家臣の小川宗春が奪い取り、朝明郡保々(朝倉氏の本拠地)に葬ったといわれます。この時の戦いで茂福城は落城したとされます。
東海道に戻って、茂福神社の社号標の少し先で、県道64号上海老茂福線の高架橋をくぐります。ここで約2.8㎞。この道路は、以前は、富田山城有料道路(とみだやまじょうゆうりょうどうろ)といい、東名阪自動車道の四日市東ICと国道1号線を結んでいましたが、平成8(1996)年に無料化されています。ここまでが、実測ルートマップその1の範囲で、切りがよいので、その1はここまで。
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