20210508「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第3回「富田~四日市」(予告編)
今日は、4月25日に引き続いて(2021年4月25日:20210425「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」……第2回「朝日~富田」(予告編))、「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」の第3回として、近鉄富田駅から近鉄四日市駅までを歩いてきました。桑名のアメダスでは、最高気温22.9℃、晴れあるいは薄曇り で、歩くのにはちょうどよい気候でした。今日のところは、予告編です。桑名駅を8時42分に出る松阪行き急行に乗車。近鉄富田駅には、8時49分着。¥260。8時52分にスタート。
こちらが、今日のコースマップの全体図。近鉄富田駅をスタートし、南東へ200mあまり行ったところが東海道。ここを右折。明治天皇御駐輦跡碑、善教寺、薬師寺、常照寺、新設用水道碑・力石、証円寺と来たところで東海道は、左折し、すぐ右折。その後、茂福神社と茂福城跡へ寄り道。東海道に戻って、八幡常夜燈、八幡地蔵堂・八幡神社跡、かわらずの松。このあたりは羽津。光明寺、金場延命地蔵を眺めて多度神社で小休止(というには長く50分ほど)。三ツ谷一里塚跡を見て海蔵川を渡り、法泉寺。さらに三滝川を越えて、旧四日市宿の中心部へ。空襲で昔の建物は焼失してしまっています。建福寺、陣屋跡、本陣跡、問屋場跡、札の辻、道標。このあたりから諏訪神社のところまで、短い区間ですが、昔の街道は失われています。諏訪神社からスワマエ商店街を出たところで、今日のコースは終了。昼食を摂って、ゴールの近鉄四日市駅へ。14時30分にようやく到着(笑)。現地で歩いたのは、8.8㎞。
東海道に入ってすぐ、市立富田小学校の敷地内に「明治天皇御駐輦(ちゅうれん)跡碑」。「駐輦」とは、天皇がお休みになること。明治天皇は、4度この地で休まれたといいます。富田茶屋町・広瀬五郎兵衛という方のところです。広瀬五郎兵衛宅は、この富田小学校正門から富田地区市民センターあたりにあったそうです。焼き蛤をご賞味になったこともあったと説明板に書かれていました。なお、記念碑は、公爵・近衛文麿の筆です。「その手は桑名の焼き蛤」で有名な桑名の焼き蛤ですが、初回にあるいた朝日町小向(おぶけ)や、ここ富田あたりでも焼いて、売られていました。富田までは、旧桑名藩領でした。
十四川の手前、東側に成徳山善教寺(じょうとくざんぜんきょうじ)。真宗高田派のお寺。ご本尊は、阿弥陀如来。このご本尊は、国の重要文化財に指定されています。作善日記から仁治2(1241)年正月頃に造られたと考えられています。本堂は大変立派です。真宗高田派の本山である専修寺の如来堂を模していると説明板にありました。
十四川からほぼ300mのところには、薬師寺。浄土宗のお寺で、ご本尊は、阿弥陀如来。大同年間(806~810)、この地に疫病が流行し、人々が苦しんでいたことを旅の途中で知った弘法大師が、薬師如来を彫って開眼すると、人々の難病はたちまち平癒したので、人々は弘法大師に感謝するとともに、薬師堂を建て薬師如来を祀ったことに始まります。その後、茂福城主であった朝倉下総守盈盛(みつもり)が菩提寺としたそうです。しかし、永禄10(1567)年、瀧川一益の兵火で焼失。ちなみに、ここは尼寺。
光明山常照寺。浄土真宗本願寺派のお寺。ここは、四日市市茂福町になります。天文7(1538)年、釈法導によって開山され、寛文年間(1661~1673)にそれまでの天台宗から浄土真宗本願寺派に転派しています。本堂は明治42(1909)年に再建され、鐘楼・山門は明治の末に建てられたといいます。平成7(1995)年11月本堂・鐘楼の屋根の修復が行われたようです。鐘楼の鐘は、昭和27(1952)年の四日市大博覧会で「平和の鐘」として展示されたものです。
東海道は、常照寺の先で鉤型に曲がりますが、そこに新設用水道の碑と力石が2つあります。「新設用水道碑」は、新設・用水道・碑で、新設された用水道を記念する碑。ここから北西に十四川から七丁(760m)の暗渠による水路を通し、各家の敷地内にマンボ(人工の地下水路)を設置して生活用水や防火用水として、明治37(1904)年から昭和中期まで利用したといいます。昭和34(1959)年の伊勢湾台風の水害で使えなくなり、この用水道は消滅しました。力石は2つあります。約32貫(約120㎏)と、約5貫(約19㎏)の2つ。小さい方は、子ども用かと説明があります。
その先で東海道はすぐに右折。角には、林光山證圓寺。当初は天台宗でしたが、天文年間(1532~55年)、住職が真宗本願寺の第10世證如上人に帰依して改宗したと伝わっています。その後、永禄10(1567)年、茂福掃部輔盈豊(もちぶくかもんのすけみつとよ)は裏切りを疑われ、滝川一益に長島城に呼ばれて謀殺されました。茂福城が落城すると、臣・林玄證(はやしげんしょう)は盈豊の遺児を敵から隠し、鍋坂の村中に逃れて密かに養育し、成人の後、自身の娘と娶せて家督を譲っています。遺児すなわち林三郎左衛門盈景(みつかげ)とその末裔はこの證圓寺の住職になります。
スタートから1.7㎞のところに茂福神社(もちぶくじんじゃ)の社号標があります。神社はここから北西にさらに200mほど入ったところにあるのですが、せっかくだから寄り道することに。茂福神社の創祀は永禄10(1567)年以前とされます。明治28(1895)年4月、茂福神社と改称されるまでは天王社と称されていました。明治42(1909)年、鳥出神社に合祀されたものの、昭和25(1950)年、分祀され現在に至っています。主祭神は、建速須佐之男命。茂福城主であった茂福掃部輔盈豊も祭祀に関わっていたそうです。
茂福神社の100mほど西には、茂福城跡。近鉄名古屋線の線路脇に小さな土壇と石碑が建てられています。電車から、右のような看板が見えます(2017年12月23日撮影)。城跡を標示する石柱と最後の城主・茂福盈豊(みつとよ)の碑が建てられています。この碑文によると、貞冬という人物が越前朝倉氏のもとにいましたが、応永年間(1394~1428)の乱を避けて当地に移り、地名に因んで茂福氏を名乗ったとされます。「伊勢軍記」によれば、永禄3(1560)年に茂福氏は羽津城の田原氏と合戦に及び勝利したのですが、その7年後に城主朝倉盈豊は、長嶋で織田信長の家臣である瀧川一益に謀殺されました。その際、斬られた主人の首を家臣の小川宗春が奪い取り、朝明郡保々(朝倉氏の本拠地)に葬ったといわれます。この時の戦いで茂福城は落城したとされます。
茂福城跡から東海道に戻り、県道64号上海老茂福線の高架橋をくぐり、500mほど行った米洗川(よないがわ;上流に天武天皇迹太川御遙拝所跡があります)の手前に八幡常夜燈があります。旧東海道を往来する人々のためのものですが、現存のものは明治35年に建てられたといいます(こちら)。南側には、「南大神宮」と刻まれています。かなり大きな常夜燈です。このあたりでスタートから3.2㎞。時刻は、10時10分。あちこち見て回っていますので、かなりのスローペース。
米洗川を渡った先には、八幡地蔵堂と、伊勢国八幡神社跡。お地蔵様は、延命地蔵尊で、このあと見る金場延命地蔵尊と同じ一つの石から作られた兄弟地蔵で、もとは羽津村の南北の入口(この地蔵は北の入口)に置かれ、村内に疫病が入り込まないようにするための「結界地蔵」といわれるものであったといいます。昔は、米洗川北側の常夜燈(上記の常夜燈と思います)の向かい辺りにあったのが、昭和4年(1929年)に、八幡地区の住民によって現在地に移設されたそうです(こちら)。八幡神社は、明治41(1908)年に志氐神社に合祀されています。石柱には「伊勢国八幡神社碑」と刻まれ、往時を偲ぶよすがとなっています。
スタートから3.7㎞地点には、かわらずの松。昔の松並木の名残である松の木です。このあたりが「川原須(かわらず)」という地名であったことから、こう名づけられています。樹齢200年を優に超えるようです。松並木は、道路の拡幅と、松食い虫の被害を受けてほとんどなくなってしまい、今残っているのは、この1本だけになっています。
4㎞を過ぎたところに志氐(しで)神社の一の鳥居。志氐神社は、ここから北西へ400mほど入ったところにあります。主祭神は、気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ;祓戸の神(ハラエドノカミ)ともいい、祓を行う場所の神)。創祀年代は詳らかでありませんが、社記では第11代・垂仁天皇の頃といいます。志氐神社には行きませんでしたが、この鳥居の前に「妋石(みよといし)(夫婦石)」があります。志氐神社には、イザナギ・イザナミも祀られていて、縁結び・夫婦円満のご神徳があるということから、東海道を行き交う多くの旅人は、この夫婦一対みよと石をなでて縁結び・夫婦円満の願いを込めたといいます。石は、鳥居のところに1つ、道を挟んだところにもう1つあります(右の写真は道を挟んだ東側にあるもの)。
志氐神社社号標からすぐ先(100mあまり)には、初野山摂護殿光明寺(はつのざんしょうごでんこうみょうじ)があります。真宗本願寺派のお寺。元は大矢知村青木谷にあったといいます。弘仁年間(810~824年)に空海が諸国を巡回した時に、小堂を建てたのが始まりと伝わっています。寛正元(1460)年に、下野国高田の専修寺第10世眞慧上人が諸国巡化の際、最初に近江国坂本の妙林院(浄土真宗寺院。真慧が専修寺の出張所として創建したものの、廃絶。跡地不明)から光明寺に来錫し、約1年間在住して付近を教化した時に、当時の住職が改宗して浄土真宗高田派に転じたといいます。享禄年間(1528~1531年)に、羽津城主赤堀左京大夫盛義(宗昌)が出家して光明寺に入り善願と名乗り、現在地に寺を移して初野山青木堂光明寺と称しました。天正年間(1573~1591年)に京都興正寺の勧めにより、高田派から本願寺派に転じたとされます。寛文3(1663)年2月、雷により堂宇、宝物、記録等一切を焼失し、創建の年月、開基の事蹟、中古世代住職名等すべて不明になりました。
境内には、森多三郎紀念碑とその墓碑があります。文久元(1861)年、桑名藩が過酷な年貢米の増徴を命じたのに対し(当時の藩主は、松平定敬)、これを阻止しようと、羽津村組頭(村方三役の一つで、名主、庄屋を補佐する役目)であった森多三郎ら17名が先頭に立って藩に抵抗しました。その結果、藩は年貢の増徴を断念することになったのですが、その後、多三郎は桑名藩庁に呼ばれて安永の料理屋に行き、毒酒を飲まされ、帰途、この光明寺までたどり着いたところで絶命したと伝えられています。この碑は、当時の羽津村の肝煎、組頭、小前惣代が藩の譲歩を勝ち取った記念に立てたもので、紀念碑の前には、「釋浄諦信士」と刻まれた森多三郎の墓碑が建てられています。
光明寺からすぐに東海道は、左折、右折を繰り返し、国道1号線に出ます。海蔵橋の手前までは東海道と国道1号線は同じルート。その途中、国道の東側に金場延命地蔵があります。交通量が多いので、西側の歩道から写真を撮ったのみですが、ここの地蔵は、八幡地蔵堂の地蔵と兄弟地蔵。もとは、羽津の東海道の南端、二重川(ふたえがわ)にかかる堺橋のたもとの堤(今の金場町交差点付近)にあったのですが、昭和48(1973)年、市道拡幅工事にともない、ここに移転しています。
海蔵橋の手前で東海道は、国道1号線から左(東)へ入ります。そこにあるのが、多度神社。この神社は、その名の通り、桑名・多度にある多度大社から分祀された神社。それ故、主祭神は、天津彦根命(あまつひこねのみこと)。創立は、明治18(1885)年。明治40(1907)年、海蔵神社へ合祀されましたが、昭和25(1950)年に復興再建され、現在に至っています。スタートから5.3㎞、時刻は11時10分でしたので、小休止。のつもりが、50分ほどお茶を飲みながら話し込んでしまいました(苦笑)。
多度神社から海蔵川の堤防に上がったところに三ツ谷一里塚跡碑があります。三ツ谷には一里塚があったのですが、その場所は昭和20年代に海蔵川が拡幅された際に、川の中に取り込まれてしまいました。「東海道分間之図」(元禄3(1690)年)によると、三ツ谷の一里塚は東海道が海蔵川に突き当った辺りに記されています。このため、平成13(2001)年、東海道宿場・伝馬制度制定四百周年を記念して、海蔵地区地域社会づくり推進委員会がこの場所に一里塚跡の石碑を建てて、後世に伝えることにしたのです。三ツ谷一里塚は、日本橋からは99里。東海道は、直進するのですが、今は橋がありませんので、海蔵橋に迂回。海蔵川のこのあたりは、桜の名所。
海蔵橋から300mほど行ったところ、四日市市京町にあるのが、法泉寺。真宗本願寺派のお寺。明治元(1868)年、鳥羽伏見の戦いで敗れた桑名藩の国元は恭順を決め、1月23日に先代藩主・松平定猷の嫡子・萬之助(後の松平定教)は家老を引き連れて、四日市の新政府軍陣営(真光寺)に出頭したのですが、実際に幽閉されたのは、ここ法泉寺です。萬之助は、法泉寺に100日間謹慎蟄居して恭順の意を表しました。当時の遺品が残り、寺宝となっているそうです。萬之助、当時は12歳でした。
6.5㎞で三滝川にかかる三滝橋を渡ります。歌川広重が「東海道五十三次」で描いた四日市宿は、この三滝橋あたりとされます。絵では、旅人が笠を飛ばされて慌てている光景が描かれています。遠景に船の帆柱らしきが立っていますので、上流側から見ていて、左が桑名宿の方と考えられています。ここからが、旧四日市宿の中心部になります。
市立中部西小学校は、四日市陣屋があった跡に建っています。四日市は天領でしたから代官所が置かれました。慶長5(1600)年、徳川家康が水谷光勝を四日市の代官に任じて天領を管理させ、陣屋は慶長8(1603)年、水谷光勝によって築かれました。時期によって建物には変更があったようですが、案内板にあった絵図には42の部屋が描かれています。享保9(1724)年、和郡山の松平吉里の領地となりますが、享和元(1801)年には再び天領となり、以後は多羅尾氏が代々代官を世襲しました。明治維新後は度会県の支所が置かれ、明治5(1872)年から翌年まで三重県庁となった。明治9(1876)年に勃発した伊勢暴動によって焼打ちされ焼失してしまいました。ここ中部西小学校が代官所跡ですが、学校の正門に案内板があるのみで遺構は残っていません。
黒川本陣があったとされるところ、現在は、黒川農薬商会になっています。一番本陣は清水太兵衛家が代々なり、高札場のあった札の辻北角に明治10(1877)年頃まで続きました。黒川本陣は、二番本陣で、文化8(1811)年頃から脇本陣だった黒川彦兵衛がついています。東京遷都の際、明治元(1868)年9月24日を初めとして明治天皇はこの黒川本陣を合計4回行在所として利用されたといいます。右は、問屋場跡。もとは福生医院という耳鼻咽喉科医院でしたが、現在は、東海道四日市宿資料館になっています。現在は、残念ながら新型コロナのため閉館中。
ここが札の辻。交差点の南東角から北西方向を撮っています。江戸時代には、高札場があったところで、あちこちに「札の辻」という地名が残っています。また、ここは、「菰野道」のスタート地点。菰野道は、菰野町菰野まで続く11㎞の街道です。この先で、東海道は昔の道が途切れています。
諏訪神社前の交差点で国道1号線を渡って、諏訪神社へ。旧・東海道に面しています。鎌倉時代初期の建仁2(1202)年、信州の諏訪大社の御分霊をこの地に勧請し創祀されたと伝わっています。主祭神は、建御名方命(タケミナカタノミコト)と八重事代主命(ヤエコトシロヌシノミコト;事代主神(コトシロヌシノカミ)ともいいます)で、四日市・浜田の総産土神とされます。境内には、稲荷社、山津見社、天神社がありますし、伊勢神宮と明治神宮の遙拝所、さらには明治天皇の御製歌碑もあります。諏訪公園には、誓文御柱(五箇条の御誓文を刻んだ塔)も。
諏訪神社の先の東海道は、商店街になっています。その名もスワマエ商店街。諏訪神社の前にある商店街ですし、ここが諏訪神社の表参道の位置づけ。左の写真でアーケードの商店街になっていますが、この道が旧・東海道です。営業していない店もありますが、全体としてはけっこう活気がある商店街です。この商店街で見逃せないのは、大四日市祭りに登場する「大入道」の人形(首が伸び縮みします。見たときも伸び縮みしていました)。この商店街を出たところが、今日の東海道歩きの終点。ここまでで8.3㎞。13時10分を過ぎた頃。
近鉄四日市駅方面に向かい、一番街で昼食を食べるところを探しました。いろいろと店があって迷ったのですが、なぜか飲み屋さんへ(笑)。本当はここの2階にある「三重人」がいいかと思ったのですが……。アレやコレ屋というお店。隣のテーブルで美味しそうにビールを飲んでいる方も会ったのですが、ランチのみ。ソースカツ丼、¥968(税込み)。美味しかったものの、前期高齢者には、量がやや多く、カツが固め(苦笑)。1時間ほど滞在。
ゴールの近鉄四日市駅には、14時30分に到着。北口。14時51分の名古屋行き急行に乗車。桑名には、15時03分着。3日間かけて歩いたのに、たった12分で戻ってこられます(微苦笑)。¥300。現地で歩いたのが8.8㎞、自宅から桑名駅往復が2.2㎞で、合計11.0㎞。歩数は、スマホのALKOOで20,812歩。よく歩きました。
本編は、また改めて少しずつ書きますので、予告編はここまで。
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ひらいさん、おはようございます。
お陰様で、3回かかって四日市までたどり着きました。
1回の目安が、6㎞前後にしていますので、伊勢まで行くにはまだ15回くらいかかりそうです。
今は住宅街になっているところも、江戸時代には田んぼばかりで、追いはぎが出たという説明があったりします。
多度神社は、多度大社から勧請したものでした。
四日市駅や、スワマエ商店街も賑わってはいませんでした。
四日市駅・四日市近鉄百貨店の東にあったスター21は、取り壊されて、更地になっているなど、様変わり。
電車も空いていて、特急は運休も多く、商店も売り上げが減って大変だろうと思います。
投稿: mamekichi | 2021年5月 9日 (日) 07時04分
mamekichiさん、おはようございます!
ハイキングも順調に進んでいますね、鉄道移動だと数十分のところでも、徒歩なら数時間~数日掛かりますが、色々見られるのは楽しみですね。
富田付近から四日市は住宅街が続きますが、お寺や神社も多い感じですね、多度神社は行った事が有りますが、やはり多度大社と関係有りなんですね。
四日市駅辺りは結構混雑しているのかと思ったのですが、写真を見る限りは閑散としてますね、コロナの事も有るので仕方なしだとは思いますが、飲食業の経営も大変そうです。
投稿: ひらい | 2021年5月 9日 (日) 06時39分