お知らせ

  • データの移行について
    2005年10月26日のブログ開始当初から、2024年12月31日までの記事は、「猫の欠伸研究室(アーカイブ)」に移行しました(http://blog.livedoor.jp/taichimaru151/)。 このココログの「猫の欠伸研究室」には、2020年1月以降の記事を残し、2019年12月以前の記事は削除しました(2020年1月1日から2024年12月31日までの記事は、両方にあります)。

レンズを通した自然観察

  • この「レンズを通した自然観察」ということばは、恩師のお一人が、私の趣味を形容しておっしゃったものです。2023年2月7日のブログに書きましたが、実はときどき思い出していることばです。お世話になった先生方はたくさんいらっしゃいますが、この恩師は、就職のことから学位論文の執筆、審査に至るまで本当にお世話になった先生です。「写真の撮り方を指南してもらいたい」ともおっしゃったのですが、これはお世辞と理解しています。私はほぼ隠居状態となって10年以上になりますが、今、改めてこのことばをかみしめています。この先生には結婚式の際に「理論と臨床をつなぐ仕事をするように」ということばをいただきました。体調を崩してそれには十分に応えられませんでしたので、せめてこの「レンズを通した自然観察」については、極めるとまでは行かないにしても、もう少し精進したいと考えています。

ブログ名の由来

  • ブログ名の「猫の欠伸研究室」は、中日新聞の夕刊に連載されている「紙つぶて」というコラム(平成22(2010)年1月13日)に、元新党さきがけ代表の武村正義さんが書いていらっしゃった「人生は猫の欠伸である」というコラムによります。武村さんは、“チベットで鳥葬を取り仕切る僧侶が、「人の生涯は猫の欠伸のようなもの」と語った”と書いていらっしゃいます。「猫の欠伸のようなもの研究室」としたかったのですが、ちょっと間延びしますので、「猫の欠伸研究室」とした次第です。「研究室」とつけたのは、過去、大学に勤めていたことがあるということやら、知らないこと、分からないことがあると何でも調べずにはいられない性分であること、屁理屈、講釈が大好きであることからであります。しかし、「人生の研究をしている」のではありません。「大所高所」からのご高説を開陳できるほどの力量はないが故、「小所低所」からの戯れ言をつぶやくのが精一杯(苦笑)。身の程に合わせ、勝手なことを書き綴っていますので、御用とお急ぎでない皆様には、今後ともご交誼のほど、お願いいたします。是非ともコメントを頂戴し、少しでも世間を広げたいと熱望しております。

モットー

  • 座右の銘というほど立派なものはありませんが、過去に体調を崩し、療養生活を送った経験から、私なりのモットーをつくっています。その一つは、「淡々と飽きもせず……」です。自分では、「……」と余韻を残しているところが気に入っています。こだわりすぎや、やり過ぎはよくありません。若い頃はムキになってやったこともありますが、今はこのように「淡々と飽きもせず……」が自分に合っていると思っています。もう一つは「晴耕雨読」ならぬ「晴歩雨読」です。マンション暮らし故、耕すところはありません。代わりに歩いています。そして、最近(令和3(2021)年に入った頃から)追加したのが、「散歩生活、ときどき仕事」。NHKのテレビ番組に「晴れ、ときどきファーム!」というものがあります。これのもじり。浅学非才の身ですので、ご交誼の上、いろいろとご教示をお願いします。

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2021年5月

2021年5月31日 (月)

御坊さんで菩提樹が咲き始めました

Img_2907c_20210531154901  今日もよく晴れて、散歩日和。夏日ですが、昨日よりはやや楽。いつも通り7時半過ぎから散歩。住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀公園、京町、新築町、常磐町、寺町と歩いて、6.5㎞。散歩日和と書きましたが、歩いている人はさほど多くはありません。冒頭の写真は、住吉神社の前で撮ったもの。春先は、もっと人が歩いていました。

Img_3482c_20210531154801 Img_3516c_20210531154801  御坊さん(桑名別院本統寺)で、菩提樹の花が咲き始めました。連日のように見に行っていた甲斐がありました。まだ本当に咲き始めたばかりです。

Img_2932c Img_2959c_20210531154901  さて、話を戻して、揖斐川の堤防、三の丸水門の近くで、久しぶりにヒバリの姿を見ました。このあたりは、先週、草刈りが実施されたところ。ヒバリは2羽。繁殖時期なのですが、ヒナの姿はありません。草刈り作業の影響があったのか、気になるところ。これとは別に、住吉神社の前では揚げ雲雀。降りて来たものの、どこに降りたかは分からず。

Img_3005c_20210531154901 Img_3038c_20210531154901  柿安コミュニティパーク駐車場の西側で、シジュウカラ・ファミリー。いつも、九華公園にいるファミリーかなという気がします。なかなかじっとしていませんし、写真を撮りやすいところに出てくるとは限りません。2枚の写真とも、ヒナ。

Img_3049c_20210531155001  九華公園の北門を入ってすぐ、相撲場の東あたりでは、ハクセキレイのヒナきょうだい。2羽だけで、ほぼ同一行動をしています。先週末から、その姿を見ています。

Img_3246c_20210531154801 Img_3267c_20210531154801  それぞれを撮影すると、こんな感じ。いかにも幼い印象。見るたびに大丈夫かぁとか、頑張れよとか、声をかけたくなります。

Img_3186c  奥平屋敷跡は静か(苦笑)。わずかにスズメ、カワラヒワ、ムクドリが来たくらい。シジュウカラには出遭いませんでしたので、柿安コミュニティパークにいたファミリーは、やはりここによく来ていたものと思われます。鳥小屋のセキセイインコは、数えられた範囲では39羽。「密」になっています。管理人さんが餌をやったときは皆、「黙食」していますが、それ以外は、賑やか過ぎます。

Img_3176c_20210531154901  やや余談ですが、前管理人のOさんお手製の餌台を九華公園内某所に設置しました。先日から、Oさんが「今、考えている」とおっしゃっていたもの。ハトなどは入れないようにとか、取り外し可能な屋根とか、工夫に満ちています。設置後、約30分ほど離れて見ていましたが、その間には、まだ誰もやって来ませんでした。明日以降のお楽しみ(微笑)。

Img_3104c_20210531162201 Img_3164c_20210531154901  花菖蒲園の様子。左は管理事務所の南の、右は、奥平屋敷跡の北の花菖蒲園。見比べると、一目瞭然。奥平屋敷跡のところの方が、景色になっています。もう月が変わり、明日からは、「花菖蒲まつり」。なのですが、実際には、イベントはありません。写真撮影会が企画されていたようですが、早々と中止になっています。

Img_3131c_20210531154901 Img_3149c_20210531154901  昨日と違うパターンで花菖蒲を撮ろうと思ったものの、これがなかなか(苦笑)。菖蒲園には入れませんので、その点からも限りがあります。右の花菖蒲は、まだ開く直前。左の写真の花菖蒲は、「尾花の露」(肥後系)という品種のクローズアップ。

Img_3305c_20210531154801  こちらは、本丸跡の花菖蒲園に咲いていたもの。色の付き方が、珍しいのですが、品種名の札がないので、不明。

Img_3236c_20210531154901  その他、九華公園での話題を2つ。ツツジの木の剪定作業が始まりました。見た目をよくする意味もありますが、風通しをよくし、また、栄養が行き渡るようにするためにも必要な作業だそうです(こちら)。6月中旬~7月には翌年の花芽ができますから、ちょうどよいタイミングです。

Img_3172c_20210531154901  ミドリガメが、上陸して来ているのをときどき見かけます。今日も、奥平屋敷跡に来ていました。先日は、神戸櫓跡の、小高いところまで上がってきていた個体もあったそうです。まだ、産卵シーンや、産卵用の穴を掘っているところは見ていません。6月になると、そろそろ本格的な産卵シーンを迎えると思いますので、そのうち見られるはず。

Img_3327c_20210531154801  貝塚公園では、草刈り機を使っての草刈り作業が2ヶ所で行われていました。これ、ご承知のように、大きな音を立てますので、鳥はほとんどいません。離れたところにスズメ、ムクドリ、カワラヒワが少しいたくらい。

Img_3424c_20210531154801  新築の市営住宅の近くで、アジサイ。毎年見ていますが、同じところからさまざまな色のアジサイが咲いていて、不思議なのです。何本かあるのかなど、よく見てみたいのですが、それなりに人やクルマが通るところなので、あまり不審な行動もできず(苦笑)。

Img_3355c_20210531154801 Img_3380c  ツバメの巣のチェック。まずは、京町H。ヒナが誕生していました。目が開きかけていますので、昨日くらいでしょうか。見えた範囲では2羽。親はエサを運んで来ますし(左の写真)、右の写真のようにヒナの排泄物を片付けたりしています。

Img_3390c  京町Mでは、ヒナは昨日まで4羽だったはずが、今日は3羽しか見当たりませんでした。ウ~ン、アクシデントでもあって、落ちたのでしょうか。気になります。京町Sでは、新たに修復した巣に親ツバメが就いていました。やり直しが進行中。期待しましょう。

Img_3552c_20210531154801 Img_3548c_20210531154801  御坊さんでは、菩提樹の花を見たあと、池のスイレンはどうか覗き込んだら、そこへイソヒヨドリのメスが登場。すぐ近くでも、他に鳴き声が聞こえたので探したら、山門にもう1羽。こちらは、幼いようですから、巣立ってきたヒナのように思えます。昨日は、ここでオスを見かけました。

2021年5月30日 (日)

花菖蒲写真あれこれと、ヤマボウシ

Img_2881c_20210530134301  今日もよく晴れて、27℃を越えました。迷ったものの、結局、いつも通りのコースを散歩することに。7時20分にスタート。住吉神社から七里の渡し跡、風呂町、江戸町、九華公園、貝塚公園、内堀南公園、外堀、京町、寺町と5.8㎞。10時15分に帰宅。天気はよかったものの、鳥もおらず、散歩友達も少ない。

Img_2477c_20210530134401  桑名七里の渡し公園でハクセキレイ、スズメ、カワラヒワ。七里の渡し跡から風呂町へ。あの美容室のアジサイを見るため。ちょうど、美容師さんがやってこられ、「今が見頃ですよ」とおっしゃいます。確かに。いつも見せてもらっている御礼を申し上げると、喜んでくださいました。

Img_2524c_20210530134401 Img_2520c_20210530134401  江戸町では、歌行燈本店の前へ。ここは、種類、数とも多いので、見頃はまだもう少し先。店の前だけでなく、北側の美濃街道に面したところや、南側の駐車場にもアジサイの鉢が並んでいるのです。

Img_2557c_20210530134401  九華公園へは、7時45分到着。ドバト、スズメ、ムクドリ、カワラヒワが少数。さらに、相撲場近くで、ハクセキレイのヒナが2羽。もう自立しているようで、親の姿はありません。餌を探している様子でした。

Img_2683c_20210530135401 Img_2696c_20210530134401  奥平屋敷跡についたときにはシジュウカラ・ファミリーがいました。ただ、木の奥にいるのが多く、写真が撮れたのは、このヒナ1羽のみ。他には、スズメが姿を現したくらい。今日は、九華公園では、これくらい。もう少しいるかと思ったのに、案外でした。

Img_2632c_20210530134401 Img_2604c_20210530135901  こちらは、奥平屋敷跡北にある花菖蒲園。それなりに咲いて来ています。しかし、3つの花菖蒲園全体を眺めると、まばらであったり、特定の部分だけ花菖蒲が咲いていなかったり、徒長したのではないかと思えるようなひょろ長い花菖蒲があったりで、なかなか(苦笑)。それと、写真を撮る者からすると(ご覧になるだけの方にも同じとは思いますが)、花がらを摘んで欲しいと思います。左のような全体像の写真では目立ちませんが、少しクローズアップしようと思うと、花がらが写り込んでしまうのです。

Img_2715c_20210530134401 Img_2718c_20210530134401  そこで、去年もトライしましたが、かなり接近してみたり、部分的にクローズアップしてみたりなど、いささか工夫(微笑)。ただし、これも、写真を撮っている時には気づかず、パソコンの大きな画面で見ると、花が傷んでいるのに、あとから気づくこともあります。「後悔先に立たず」の典型で、笑えますというか、笑わざるを得ず。

Img_2651c_20210530134401 Img_2675c_20210530134401  左の写真は、ヒガンバナなどでお馴染み、下から見上げたアングル。あまりおもしろくないかも知れません。右の写真は、斜め上から、敢えて全体像ではない写真を撮ってみたもの。花菖蒲は、まだしばらく楽しめますから、アングルその他をさらに工夫してみましょう。

Img_2726c Img_2744c_20210530134401  貝塚公園では、スズメ、ムクドリ、カワラヒワくらい。京町でツバメの巣のチェック。左の写真は、京町Sの巣。親が巣に就いていました。右の写真は、京町Mにて。ちょうど親鳥が2羽続いて、ヒナにエサを運んで来ました。この他、京町Hでも親が出たり入ったり。ここは、ヒナはまだのようです。京町Kでは、親ツバメがやって来て、巣をつくる作業が続いていました。何度も書きましたが、駐車場の壁面につくっていますので、クルマが汚れるのを嫌って、巣が壊されるのです。

Img_2807c_20210530134401  寺町では、まずは、常信寺へ。真宗高田派のお寺。ミツマタ、サンシュユなどがあります。ここにヤマボウシがあったのを思いだしたので、見てきました。去年は、6月10日に見に行っています(梅雨入りかぁ……イソヒヨドリのオス、アジサイ)。ミズキ科で、ハナミズキにも近いもの。花のように見えるのは花弁ではなく、総苞(花のつけ根の葉)です。8月から9月になると、果実が紅橙色に熟し、そのまま食べられるそうです。

Img_2828c_20210530134301  続いて、御坊さんで菩提樹のチェック。そう何度も見に行く必要はないのですが、ついつい足が向くのです。去年は、6月3日に咲き始めました(2020年6月3日:桑名別院で菩提樹の花が咲き始めました)。今週後半くらいに作でしょうか。常信寺にもありますから、そちらも忘れずに見てこないといけません。御坊さんでは、イソヒヨドリのオスも見つけたのですが、逃げられました。

Img_2855c_20210530134301  寺町商店街にある花屋さん。ときどき買うことがあります。ホテイソウもここで買いました。今日は、「メダカ太郎」と題して、メダカとホテイソウのセットを売っていました。¥480。メダカは2~3匹入っているようでした。そして、このところ気になっているのは、メダカ太郎の脇で売っている苔玉。小さいのが¥900、大きい方は¥1,500。もう少しディスカウントされないかと期待しているのですが、少しずつ売れているようですから、それは期待薄かも。実は、退職する前、苔玉に少し凝った時期がありました(たとえば、2008年6月6日:新入り)。

Img_2858c_20210530134301  寺町商店街北の交差点を渡ったら、ワンちゃんに遭遇。一人で散歩中。というか、首輪をつけていましたので、どこかの飼い犬が脱走してきた様子。ちょっと老犬のようで、動きは、あまり活発ではありませんでした。

Img_2863c  ついこの間、5月になったと思ったら、明日はもう5月の最終日。早いものです。いったい何をしていたのか? と思わないでもありません(苦笑)。次の土曜日は、コロナワクチン接種を予約してあります。体調を整えておかねば。

2021年5月29日 (土)

アマサギは見られたものの、コアジサシはおらず……ホオジロデーだったかも(笑)

Img_1829c_20210529145101  午後からは薄雲が広がってきましたが、午前中はよく晴れていました。最高気温も、今のところ、28.4度(14時半)。コアジサシが来ているか確認したい、また、オオヨシキリやアマサギを見たいと思って長良川河口堰、長島町方面へ出かけてきました。さらに、キジはまだいるか、いたら母衣打ちを見たいと考え、町屋川へも行ってきました。河口堰には7時半前に到着。1時間20分ほど滞在。長島でアマサギを探していたら、ブロ友のひらいさんに遭遇。しばし歓談。10時過ぎに町屋川緑地公園に到着。40分ほど滞在し、11時過ぎに帰宅。

Img_1834c_20210529144801  河口堰、あまり鳥はいませんでした。サギは、コサギが1羽のみ。左岸の上流側の魚道でエサ探しをしていました。カワウもかなり少なく、合計10羽みたくらい。カワウと言えば、千本松原では5月26日に第1回のカワウ駆除が行われたようです。ここ何年かたくさん集まり、糞害などがひどかったのです。こちらの報告によれば、平成30(2018)年以降、営巣数が急増しています。話が横道に逸れました。

Img_1937c_20210529144801 Img_1959c_20210529144701  あまり鳥がいないため、西側に行くのにいつもなら15分以上かかるのに、今日は10分で(笑)。コアジサシも飛んでいません。中洲からはオオヨシキリの鳴き声が賑やか。なのですが、あまり近くには来ません。割と近いところにくるのは、ホオジロ。初めは、オスを計3羽見たのですが、結局のところは、ホオジロ・ファミリー4羽がよく見られました。

Img_2067c Img_2002c_20210529150501  ヒナも2羽。まだ警戒心が弱いのか、10m以内まで近づいても平気でした。あまりにも近寄ると、ちょっと離れたところへ移動していきます。地面にも降りて来ていました。

Img_1968c_20210529144701  オオヨシキリの姿も何とか捉えたいと思って粘ったものの、難航。1枚は、オオヨシキリにはピントが合わず、ヨシにピントがあった写真でした(爆)。もう1枚がこれ。たぶんオオヨシキリと思います。葦原から一瞬、親水広場に出て来たところを撮ったもの。逆光の位置。

Img_2101c_20210529144701 東側に戻って来たら、揚げ雲雀。見ていたら、魚道観察室の入り口近くに降りて来ました。そこにヒバリは2羽。

Img_2108c Img_2136c_20210529144701  もう1羽は、うずくまって、こんな体勢。初めは何をしているか分からず。砂浴びではなさそう。ひょっとしたら「疑傷(ぎしょう)」行動かも知れません。私が撮影していたところからは、直線で20mあまり(ただし、堤防上の道路から見下ろしていましたので、これは平面的な距離)。

Img_2157c_20210529144701 Img_2077c_20210529144701  管理橋を渡る時にも注意して見ましたし、親水広場の東側のいつも集まっているところも時間をかけて、何度か観察したものの、コアジサシは、今日は、1羽も見られませんでした。5月23日には14羽ほど見たのに(2021年5月23日:河口堰でコアジサシとホオジロのヒナ、上之輪新田ではケリにイワツバメ)、どうなったのでしょう? 気になりますが、1時間20分の間に1羽も来ないということは、今日は見られない可能性が高いと考え、長島町内へ。

Img_2183c_20210529144701  年のため、臨時駐車場に立ち寄ったものの、何もおらず。続いて、某所。今シーズンもケリや、コアジサシが営巣を試みたところ。ただ、ここにはカラスが跋扈しています。今日は、コチドリらしき鳥が1羽いたのみ。ただし、この場所の中央付近で、こんな証拠写真のみ。卵を抱いているように思えるのですが、そうだとしたら無事に育ってほしいものです。

Img_2205c_20210529144701 Img_2249c_20210529152101  さらにクルマを走らせ、アマサギを探します。とあるところで、ダイサギが見えましたのでそちらへ。ダイサギを撮ってから、周りをよく見たら、なんとゴイサギが水田にいるのに気づきました。さらにそちらへ回ります。

Img_2237c  ゴイサギが水田にいるのは、たぶん初めて見ました。クルマの中から撮ったもの。クルマで近づくと、割と平気でした。ダイサギは、クルマでも嫌うようで、すぐに逃げます。

Img_2269c_20210529144701  さらに、クルマを進めたら、アマサギを発見。アマサギを撮影していたら、初めに書きましたように、ブロ友のひらいさんと出会ったのです。しばし、歓談。N里へでもと誘っていただいたのですが、あいにくこの頃は10時開園(この時点では9時過ぎ)。またの機会にと思います。アマサギは2羽来たのですが、揃っているところは撮影失敗。

Img_2303c  町屋川へ行く途中、セブンイレブン近くでもアマサギを見つけ、セブンにクルマを置かせてもらい撮影に。そっと歩いて近寄ったつもりが、ちょっと距離があるところで逃げられました(苦笑)。セブンイレブンに戻って、駐車料金代わりに、珈琲を1本購入して、町屋川へ。

Img_2358c_20210529152801Img_2394c_20210529144601  町屋川には10時頃到着。4月10日以来(2021年4月10日:町屋川へキジを探しに……ついでに町屋御用水取水口も見てくる)。もう少し早い時期に来たかったのですが、なかなか。ブロ友のじゅほうさんが、ここでキジの母衣打ちを見たとおっしゃっていたので、気になっていたのですが、今日になってしまいました。河川敷は、キジを見た時に比べ、草木がかなり生い茂っていました。町屋川緑地公園の東にクルマを止め、公園の西端までゆっくり往復したり、河川敷に降りたりしたのですが(右の写真は河川敷にて)、キジの鳴き声が聞こえたのは、40分ほどいた間で1回のみ。姿は見えませんでした。

Img_2361c_20210529144801 Img_2384c_20210529144801  町屋川にも、オオヨシキリがいて、盛んに鳴いています。しかし、いかにも遠い。上記のように河川敷にも降りて見たものの、あまり状況は変わりません。かろうじて撮れたのは、これらの2シーン。証拠写真もよいところ(苦笑)。弥富のM又池公園に行くと、割と近くで見られることがあるのですが、そこは愛知県。愛知県には緊急事態宣言が、三重県にはまん延防止等重点措置がそれぞれ出ています。ルールを遵守して、残念至極なのですが、県境越えはしておりません(M又池公園でそろそろカイツブリのヒナが孵っているでしょうし、弥富のアオサギコロニーや、治水神社のアオサギ営巣地も見に行きたいのは山々)。

Img_2340c_20210529144701 Img_2354c_20210529144701  ここでも、ホオジロ。今日は、ホオジロ・デーなのかも(苦笑)。そして、アオサギが2羽飛来したのですが、気づくのが遅れ、これまた証拠写真。

Img_2406c_20210529144601  アサガオ日報。やはり、手前にある大きい鉢の方のアサガオが元気。奥の小さい鉢の方はイマイチ。しかし、種はまだたくさんストックがありますから、うまく行かなければやり直しましょう。

Img_1934c_20210529144801  明日も好天のようです。いつも通りの散歩にするか、どこか近場へ出かけるか、思案中。写真は、長良川河口堰の親水広場にて。こういう広々としたところは、気持ちがよいものです。

2021年5月28日 (金)

野花菖蒲咲く

Img_1389c_20210528152901  もう少しよく晴れるかと思ったのですが、薄曇りの1日です。しかしまぁ、雨が降らなければいつも通り、散歩生活です。7時半から住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀南公園、外堀、京町、新築町、常磐町、寺町と6.0㎞。普段の散歩で6㎞を歩いたのは久しぶり(苦笑)。

Img_1377c Img_1411c_20210528152901  桑名七里の渡し公園のところで、電線にハクセキレイ。ちょっと証拠写真的ではありますが。このところ、この七里の渡し公園も、鳥はあまりいません。揖斐長良川の中洲からはオオヨシキリの鳴き声がよく聞こえます。そのオオヨシキリ、今日も、旅館山月の裏手にいました。姿もチラリと見えたのですが、写真には収められず。中央の木々の奥に入って、鳴いていました。

Img_1430c_20210528152901 Img_1604c_20210528152801  九華公園ではまずは、スズメのヒナ2羽。きょうだいでしょうか。この2羽だけで行動していましたから、すでに自立したものと思われます。こういうシーンを見ると、思わず「頑張れよ!」と声をかけたくなります(微笑)。ハクセキレイのヒナもいたものの、全部ピンぼけ写真でした。奥平屋敷跡では、ムシクイらしき姿。右の写真のように、まったくの証拠写真(苦笑)。この他、シジュウカラのファミリーも来たのですが、そちらは観やすいところには出て来てくれず、残念。まぁ、ムシクイとシジュウカラのヒナも一応見られましたので、ヨシ。

Img_1596c_20210528153801  鳥小屋のセキセイインコ。じっとしていてくれませんし、巣箱などに入り込んでいたりしますので、正確に数えられませんが、今日確認できた範囲では、35~36羽になりました。賑やかというより、やかましいくらい。まだ巣箱にヒナがいるそうですから、40羽ほどになりそうです。さらには、今日見ていた時も交尾しているカップルがいました。いったい何羽になるのでしょう?

Img_1644c_20210528152801  奥平屋敷跡すぐ北の花菖蒲園のところにミドリガメが1匹、上陸して来ていました。産卵のためでしょうが、見たのは、先日に続いて2匹目。これからが本番と思います。このあとは、ムクドリ、スズメ、ドバト、キジバトを見たくらい。

Img_1467c Img_1495c_20210528152901  管理事務所の南の花菖蒲園の様子。部分を撮っていますので、割と咲いているように見えます(微苦笑)。実は、全体的には1~2割くらいしか咲いていません。ただし、今日見たら、私の好みの「野花菖蒲」が咲いていました(右の写真)。花菖蒲には園芸品種がたくさんありますが、私としては原生種である「野花菖蒲」がベストと思っています。今年は、ちょっとヒョロヒョロと伸びてしまった印象があるのは残念。

 こちらは、「舞猩々(まいしょうじょうと読むのでしょう)」。肥後系の品種。Img_1522c_20210528152901ちなみに、花菖蒲は、品種数が豊富な江戸系、室内鑑賞向きに発展してきた伊勢系と肥後系、原種の特徴を強く残す長井古種の4系統に分類できます(こちらによる)。江戸では花菖蒲の栽培が盛んで、松平定朝(菖翁、安永2(1773)~安政3(1856)年、伊予松山藩主松平家の一族。大坂町奉行、大目付などを歴任)という旗本が、60年間にわたり300近い品種を作出したそうです。伊勢系は主に、三重県松阪市を中心に鉢植えの室内鑑賞向きに栽培されてきた品種です。伊勢松阪の紀州藩士吉井定五郎により独自に品種改良されたといい、菊、撫子と並ぶ「伊勢三品」の一つ。肥後系は、熊本県を中心に鉢植えの室内鑑賞向きに栽培されてきた品種。もとは、肥後熊本藩主細川斉護が、藩士を菖翁のところに弟子入りさせ、門外不出を条件に譲り受けたもの。こう見ると、江戸時代というのはすごい時代だったと思えますし、武士が関わっていたというのにも驚きます。

Img_1670c_20210528152801 Img_1674c_20210528152801  本丸跡の花菖蒲園。中央から東側がよく咲いています。今年植え替えています。そのせいか、花は美しい気がします。愛好家の方から、管理事務所には花菖蒲の咲き具合についての問い合わせが増えているそうです。管理人Kさんによれば、昨日は、島根県の方から電話があったとか。関連して、今日、諸戸氏庭園のFacebookには、「花菖蒲が咲き始め、来週末が見頃か」とありました。

Img_1695c_20210528152801  貝塚公園。ここでもシジュウカラ・ファミリー。かろうじて、ヒナらしき姿を捉えました。他には、ムクドリ、スズメなど。どこもあまり鳥はいません。散歩コースでは、夏鳥が少ない。

Img_1723c_20210528152801 Img_1735c_20210528152801  京町では、今日もまたツバメの巣をめぐってきました。左の写真は、京町H。親鳥は巣にいましたが、ヒナの姿はまだ見えません。右の写真は、京町S。ヒナがいたのに、その巣が崩落し、写真に写っている古い巣を補修しています。先日は親が巣に就いていたのですが、今日は見た時間には不在。

Img_1747c_20210528152801  京町M。ヒナは4羽でした。親がやって来て、餌を与えています。無事に育って欲しいものです。京町Kで巣をつくろうとしていましたが、今日は、泥粒が少しついていただけ。ここは、駐車場の壁ですので、車が汚れるのを嫌って、居住者の方が壊してしまいます。さて、どうなりますか?

Img_1800c Img_1784c_20210528152801  寺町商店街では、三八市が開催されていました。私は御坊さん(桑名別院本統寺)へ。山門の南にある池にスイレンがあるのです。もう咲いているだろうと思ったのですが、今日は、3輪だけ(左の写真のスイレンと、右の写真で向かって左は同じもの)。

Img_1780c_20210528161101  気にしている菩提樹は、まだつぼみ。去年は、6月3日に咲き始めました(2020年6月3日:桑名別院で菩提樹の花が咲き始めました)し、常信寺にも菩提樹がありました(2020年6月12日:梅雨らしい1日ながら、「吉日」でした)。と書いていますが、自分の忘却防止のため(爆)。常信寺には、ヤマボウシもありますが、これ、見忘れていました。この去年6月12日の記事に出て来ます。

Img_1440c_20210528152901  ところで、鎮国守国神社の社務所の裏では、ビワの実が色づいて来ています。ビワの実、嫌いではありません(微笑)。しばらく晴れが続きそうですから、ありがたい。

Img_1366c  アサガオ日報。あまり代わり映えしませんが、大きい方の鉢のアサガオの方が元気という感じ。

2021年5月27日 (木)

雨上がり散歩で、アジサイ探索

Img_1312c_20210527163501  アメダスのデータでは、未明から降り始めました。思ったほど大雨にはなりませんでしたが、それでも、16時現在の24時間雨量は、50mmちょうどでした。雨ですので、午前中は「雨読」。昨日の講義のQ&Aを書き、チェックして仕上げ、メールで送り、印刷をお願いしました。午後になり、15時過ぎには、雨はほぼ上がりましたので、散歩の虫がウズウズ(苦笑)。15時20分から16時過ぎまで2.5㎞ほど歩いてきました。短い距離でも、歩いて来ると気分もスッキリします。住吉神社、柿安コミュニティパーク、江戸町、川口町、風呂町、宮町、船場町、七里の渡し跡、住吉入江です。冒頭の写真は、風呂町にある美容院のアジサイです。

Img_1218c  歩き始めたものの、とても細かい霧雨が降っているような、降っていないようなという感じでした。傘はいらないくらいでしたし、カメラも濡れる様子はありませんでしたので、そのまま歩いてきました。

Img_1234c_20210527163501  七里の渡し跡の手前に今は廃業した旅館・山月があります。その裏手に差し掛かったら、オオヨシキリの鳴き声が聞こえてきました。もちろん揖斐長良川の中洲からも、オオヨシキリの鳴き声は聞こえるのですが、写真に写っている建物の裏あたりから聞こえたのです。しばらく前にも、この近くの三の丸公園の西端から聞こえたことがあります。中洲からときどき遠征してくるのだろうと思います。

Img_1237c_20210527163501 Img_1253c  三の丸水門から下流の揖斐川右岸の高水敷は、草刈りが行われたようです。毎年2回、6月頃と12月頃に行われます。ドバトとスズメが集まっていたくらいで、他の鳥はいません。ヒバリの巣がなかったかちょっと気になります。柿安コミュニティパークにも、ドバト、スズメ(右の写真)、ムクドリがいました。九華公園には行かず、北門の前で右折して、江戸町へ。

Img_1290c_20210527163501 Img_1270c_20210527163501  江戸町では、例によって歌行燈さんのアジサイを見てきました。咲いているアジサイの数が増えてきていました。雨上がりで、アジサイの花も、はも濡れていて、いい感じを醸し出しています。

Img_1278c_20210527163501  もう少ししたら、満開(というのもヘンですが)になって見応えのある景色になると思います。

Img_1300c_20210527163501 Img_1316c_20210527163501  歌行燈さんからほど近いところ、風呂町にある美容院のところにもアジサイがたくさん育てられています。ここは、散歩友達の女性に教えていただき、去年も6月半ばに見に行っています(2020年6月18日:降られるために散歩に行ってきました(微苦笑))。去年も書いていますが、赤、白、紺(青)と原色に近いアジサイが並んでいます。

Img_1203c_20210527163501 Img_1206c_20210527163501  アサガオ日報です。葉が青々としてきて、立派になってきた印象があります。サギソウも、順調です。ということで、ベランダ園芸、これからが楽しみになっています。明日からしばらくは、好天が続くという予報。ありがたいことです。散歩生活がベストなのです。

Img_1282c_20210527165701  【超余談】 ネットニュースを見ていたら、国際オリンピック委員会(IOC)の元副会長で最古参委員のディック・パウンド氏(79)はCNNのインタビューで「中止の選択肢は事実上すでに排除されている」と発言し、開催に前向きな姿勢だそうです。同氏は26日付の英イブニング・スタンダード紙でも「東京五輪を止めることができるのはアルマゲドン(人類滅亡)だけだ」と語り、中止するには「時すでに遅し」だとコメントしているといいます(リソースはこちら。リンク切れが生じるかも知れません)。バカげた話です。なぜそれほど開催にこだわるのでしょう? 「利権だ」という話が聞こえて来ますが、公的な国際機関でもないIOCがどうしてこれほどエラそうに言うのでしょう。こういうわけが分からないのにエラそうにされるのは大嫌いですし、日本も舐められたものです。

2021年5月26日 (水)

授業の後片付けに手間取って、寄り道バードウォッチング【付記あります(5/27)】

Dscn3998c  朝のうちは晴れていましたが、昼は曇り。午後は晴れたり、曇ったりです。今日は、スーパームーンで皆既月食ですが(たとえばこちら)、この分では我が家あたりでは見られるかどうかかなりアヤシい。北海道西部~中部地方以西では月出帯食(月が欠けた状態で昇ってくること)だそうですが……。写真は、帰りに撮った近鉄江戸橋駅。

Dscn3959c  さて、水曜日で、江戸橋での仕事の日。お陰様で晴れのち、薄曇りという感じで、気温も24.9℃。教室も、換気のため窓も、ドアも開いていてさわやかな風が通り抜け、気持ちよく講義を行ってきました。今日で6回目が終了。今年度は、講義15回プラス筆記試験1回の計16回ですので、無事1/3を終えられました。学生諸君も熱心に聞いてくれています。A6サイズの出席票を使っていたのですが、質問、コメントが細かい文字で書かれ、読みにくかったものですから、今回からA5サイズに変更し、「大きな文字で、濃く書いてね」と頼みました。回収してビックリ。多くの学生が、半分以上(全部で10行)、びっしりと書いてくれていました。文字は大きく書いてくれたものの、これは、まさにうれしい悲鳴。

Dscn3963c 5c36f8d8  授業終了後、助手の先生が、「先生、去年ツバメが巣をつくったところが改修されています」とおっしゃるので、見てきました。校内某所です。去年は、ごく普通のタイプのツバメが巣をつくっていました(お椀形)。今日見てきたのは、こういう巣。これは、普通のツバメの巣ではありません。ネットで調べたら、コシアカツバメが徳利状の巣をつくるとありました(こちら)。今日は親ツバメの姿はありませんでしたので、また来週見てきます。コシアカツバメは右の写真のようなツバメ。これは4年前に家内の実家近くでみたもの(2017年5月3日:コシアカツバメ……家内の実家にて)。

Dscn3965c Dscn3967c  授業の後片付けが遅くなり、いつもの電車に間に合うかどうか分からなかったので、江戸橋駅に行く途中、志登茂川を覗いてきました。水鳥はいないだろうと思ったのですが、豈(あに)図らんや(微笑)。それどころか、まったく予想外。マガモのペアがいたのです。今頃、どうしてマガモがいるのでしょう?

Dscn3973c Dscn3988c  さらに上流側のちょっと遠いところには、ダイサギ。下流側の江戸橋のところには、アオサギさん。アオサギ、最近、九華公園には来ませんし、先日、長良川河口堰でも見ませんでしたので、ずいぶん久しぶりに見ました。5月始め以来と思います。

Dscn3975c Dscn3984c  そして不用意に覗き込んだらいったん逃げられたのですが、シギさんたち5羽。飛び立ったものの、さほど遠くないところに降りました。今度は、慎重に近寄って、堤防上の道路からそっと覗き込んで写真を撮りました。これは、キアシシギでしょう、きっと。

Dscn4001c  明日は、大雨だそうです。それに気温も20℃止まりとか。それなら、「雨読の日」ですが、今日の質疑のQ&A書きにちょうどよいと思っています。

【付記(5/27)】 pnさんからご教示をいただきました。ツバメの巣はイワツバメの巣の可能性もあるということです。私がこれまで見たイワツバメの巣は、もう少し球状だった記憶があります。いずれにしても、昨日は親ツバメの姿を見ていません。来週出かけた時に、もう一度見てこようと思っています。

 また、シギ5羽のうち、1羽はソリハシシギ(反嘴鴫)でした。左の写真ではまん中、右の写真では向かって右に写っているのがそれです。

2021年5月25日 (火)

20210522「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第4回「四日市~日永の追分」(その3)……日永小学校の表忠碑・稲垣末吉翁頌徳碑、実蓮寺、西昌寺、日永一里塚跡碑から名残の一本松、東海道日永郷土資料館を経て日永の追分へ(完)

210522yokkaichi1 210522yokkaichi1  5月22日の「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第4回「四日市~日永の追分」の本編その3です。その2では、コースマップ#2の途中でしたが、日永神社とそのとなりにある長命山薬師堂まででした。#2の残りの日永小学校にある表忠碑・稲垣末吉翁頌徳碑、実蓮寺、西昌寺、日永一里塚跡碑を回り、続いて、コースマップ#3に入り、名残の一本松を見て、東海道日永郷土資料館から日永の追分まで。日永の追分は、東海道と伊勢街道(参宮街道)の追分。次回からは、伊勢街道を歩きます。

Img_9180c_20210522165201  長命山薬師堂からすぐというか、日永神社のすぐ南に日永小学校があります。小学校の敷地内に「表忠碑」と「稲垣末吉翁頌徳碑」とがあります。表忠碑は、戦没者の遺徳をたたえ、永遠に顕彰するため、明治42(1909)年8月に、日永村在郷軍人の方々が発起人となって、日永村が建立しています。揮毫者は、元帥公爵の大山巌(天保13(1842)~大正5(1916)年、明治期に活躍した陸軍軍人)。稲垣末吉は、日永の追分まで自費で配管を敷設して、水を旅人達に供した方です。稲垣は、明治時代、東京で製錨工場を創設。後に製鋼工場となり、巨万の富を築きました。地元に戻り、地域社会のために、社会福祉、寺社建立、学校建設にも尽力し、さまざまな寄付をするなど貢献された方です。日永小学校の前身である日永尋常小学校の講堂も、明治42(1909)年に稲垣の寄附でできているそうです。

Img_9210c_20210522165201 Img_9216c_20210522165201  日永小学校の東に普光山証明院実蓮寺(ふこうざん しょうめいいん じつれんじ)があります。ここは初めて来たのですが、滝川一益に関わりがあって、前から一度訪ねたかったところです。浄土宗のお寺。開山の由来は不明ですが、昔は、登城山にあったものが、承久2(1220)年、現地に移転したといいます。当時、尼御所(内親王や摂関家の女子が出家し、一寺の住持となった際の、その寺、またはその尼の敬称)と称されていて、寺領は日永地内に37ヶ所あり、6,000石を領していました。大永2(1522)年に伏見宮皇女今日姫が入寺したといいます。その後、寺は一時荒廃したものの、滝川一益が北勢5郡の領主に任じられたとき、一益は、寺領20石を与えて菩提寺とし、母の位牌と墓碑を安置しています。慶長年間(1596~1625年)にも、宮家の尼公が住しており、世間では尼御所といわれていたのですが、その後、寺領を失い、寺は衰退しています。大正11(1922)年、宮内省は今日姫の事跡を調査し、皇室御内緒寺院となっています。

Img_9224c_20210522165201  滝川一益の母の墓碑は、よく調べていかなかったのですが、こちらのサイトによれば、右の写真で中央にある大きなものがそれのようです。お寺は無住のように思ったのですが、実蓮寺のインスタによれば、ご住職は倒れてリハビリ中で、息子さんが世話をしておられるようです。

Img_9232c_20210522165201  実蓮寺を出て東海道に戻ったところに雲祥山西唱寺(うんしょうざん さいしょうじ)。真宗高田派。永禄2(1559)年、僧・玄聖(げんしょう)の開創で、もとは安立院という浄土宗のお寺でした。江戸時代初期、誓宅が住持の時に、專修寺第14世尭秀(ぎょうしゅう)上人に帰依して真宗高田派となり、上人から本尊を賜っています。寛文元(1661)年には西唱寺と改められました。正徳2(1712)年、中川十兵衛尉が、聖徳太子の木造を奉じて当山に立ち寄り、伝法法師に願ってここに留まり、享保2(1717)年、ここで没しています。

Img_9239c_20210522165201 Img_9248c  西昌寺には、寺宝がたくさんあったそうですが、昭和20(1945)年6月18日の四日市空襲によって本堂や庫裏、太子堂、書院などが全焼してしまい、寺宝、古文書等は一切灰燼に帰してしまいました。戦後、昭和21(1946)年から35(1960)年にかけて順次、庫裏、梵鐘、本堂、書院が再建されて今日に至っています。境内には、安政6(1859)年、近隣の有志で登城山(白鬚神社の北)から竹管で水道を引いた「水道記念碑」があります(右の写真)。現在、その水源は公園になり、碑はそこから移されたそうです(ホントに歩く東海道 四日市~石薬師による)。この記念碑、ようやく見られました。というのも、4年前のJRさわやかウォーキングのときも(2017年12月19日:雪もちらつく中、JRさわやかウォーキング(関西線・南四日市駅)へ……10.9㎞コース(その3、完))、一昨年の近鉄ハイキングのときも(2019年4月27日:20190411近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅3日目~東海道、旅人気分で四日市宿から伊勢路へ」(その2)……興正寺、両聖寺、日永神社、頌徳碑と表忠碑)見忘れたのです。4年越しで宿題を終えた感じ(笑)。

Img_9263c_20210522165201  西昌寺のすぐ南、スタートから4.7㎞地点に「日永一里塚址」の石碑が建っています。県指定史跡。四日市市内には4ヶ所の一里塚がありました(富田、三ツ谷(海蔵川の北詰)、日永、釆女(杖衝坂を登りつめたあたり))。日永の一里塚は、江戸からちょうど百里。塚はもとは5m四方で高さ2.5mの塚が街道の両側に築かれていたそうです。「東海道分間延絵図(とうかいどうぶんげんのべえず)」(文化3(1806)年)によれば、西側の塚に松の木3本、エノキ1本、東側の塚にエノキ1本が描かれています。西側の塚にはエノキが残っていたのですが、明治2(1869)年には伐採され、塚自体もすでにありません。家屋と倉庫の境界のわずかな空き地に細い標柱が立っているのみですから、見逃しそうです。

Img_9276c_20210522165201  コースマップ#3に入ります。5㎞を過ぎたところに「東海道名残の一本松」。旧・東海道の東側に立派な松の木が一本、立っていて、いかにも松並木の名残という雰囲気。かつて、ここ日永の集落と泊村の集落との間は、家は一軒もなく、道の両側に低い土手が築かれ、松並木が植えられていたといいます。このような場所は縄手と呼ばれており、この松はその縄手の名残りで、往時の東海道や日永の歴史の一端を今に伝える貴重なものです。松は、今では、この一本だけが残っています。そのため「東海道名残の一本松」と呼ばれているのです。たくさんあった松は、戦時中、松根油を採ったためほとんどなくなったといいます。縄手の道幅は、土手も入れて約5間(9m)でした。旧東海道の道幅は、3間(約5.5m)で、これは現在も変わっていません。写真はいったん通り過ぎて、南から撮ったもの。

Img_9281c  今日のゴールにかなり近づいてきました。とはいえ、今日は、マップ上は5㎞弱。「駅から駅」が基本ですのでこうなっています。それはさておき、さらに東海道を下っていくと、伊勢蔵(いせぐら)という醸造屋さんがあります。以前JRさわやかウォーキングや近鉄ハイキングで2回訪ねています(2018年6月2日:「近鉄あみま倶楽部30周年記念ハイキング ~ものづくりのまち・四日市探訪~ 伝統工芸、老舗の味を満喫。わくわく感いっぱいの四日市を楽しもう!」へ(完)、2017年12月17日:雪もちらつく中、JRさわやかウォーキング(関西線・南四日市駅)へ……10.9㎞コース(その1))。

Img_9284c_20210524164501 Img_9286c  直売所もあります。立ち寄るつもりはなかったのですが、敷地内に気になるものが見えましたので、確認(微笑)。味噌仕込みに使っていた30石の桶。直径210cm、高さ194cmで、1回の仕込み量は約5,000㎏。味噌汁を作ったら、30万人分が作れる量だそうです。創業は大正3(1914)年。味噌、醤油を醸造しておられます。

Img_9301c_20210522165201  続いて、東海道日永郷土資料館に立ち寄ろうと思ったのですが、閉まっていました。新型コロナのためかと思ったら、「令和3年には家主に返却するため、令和2年9月から片付け、移転で休館」ということでした。ここは土蔵付きの商家の建物を借りて日永郷土史研究会が営んでいました。「日永足袋」「日永うちわ」をはじめ、地域に残る歴史・民俗・文化・街道(東海道・伊勢街道)などに関わるさまざまな資料を、古代から昭和30年代ごろまで時代別、テーマごとに展示していました。

Img_9311c_20210522165201 Img_9316c_20210524165601  そして、いよいよ、今日の最終目的地である「日永の追分」に到着。スタートから6㎞、時刻は12時22分。ここもJRさわやかウォーキングや、近鉄ハイキングで何度か来ていますし(たとえば、2019年4月30日:20190411近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅3日目~東海道、旅人気分で四日市宿から伊勢路へ」(その3)……日永の追分から伊勢街道に入り、河原田神社)、その昔は、この交差点はクルマで何度も通っていました。鳥居は桑名の七里の渡しに建てられた「伊勢一の鳥居」に対して「二の鳥居」と呼ばれます。鳥居は、安永3(1774)年に一志郡須ヶ瀬村(現在の津市)出身の伊勢商人渡辺六兵衛が東海道を往来する人のために遥拝鳥居として建てさせたのが最初。その後たびたび建替えが行われ、現在のものは、平成28(2016)年10月に、伊勢神宮の遷宮にあたり、内宮の別宮である伊雑宮(いざわのみや)の鳥居を移建しています。当初は伊勢街道をまたぐように建てられていましたが、現在は伊勢街道が鳥居の横を迂回して、鳥居をくぐらずに進めるようになり、また、昭和48(1973)年の移建時に周りが公園化されました。

Img_9332c  現在の追分には、常夜燈、道標、清めの手水所があります。元々あった道標は、明暦2(1656)年に建てられたもので、現存する東海道の道標としてはもっとも古いものです。これは、現在は、日永神社の境内に移されています(日永神社で見て来ましImg_9319c_20210524165701 た)。今ここにあるものは、嘉永2(1849)年に桑名・魚町の尾張屋文助が建てたとあります。現在、桑名・魚町に尾張屋という屋号の店はないと思いますが、近くの吉津屋には仏壇屋さんが(昨年、廃業しました)、北寺町には酒屋さんがそれぞれ同じ屋号であります。常夜燈のひとつは奉献時から存在したと推定されます。手水所の水は、西に位置する丘陵地(泊山(登城山))からの湧水です。昭和4(1929)年、地元実業家・稲垣末吉が、泊山に別荘を建てた時、掘った井戸からとても良い水が湧き出したので、自費で配管を敷設して、日永の追分まで引き、旅人達に供したのだといいます。稲垣末吉の頌徳碑が、日永小学校にありました。「追分鳥居の水」と呼ばれ、名水の評判が高く、たくさんの人が汲みに来ます。私も一口飲んでみました。まったくの個人的印象では、お茶や珈琲を入れるのに適している感じ(もっと冷たいと、生で飲んでも美味しいと感じた気がします)。これで、今日の目的地はコンプリート。帰りは、四日市あすなろう鉄道に乗って帰るのですが、時間も時間ですから、電車の時刻を確かめて、昼食にします。四日市行きは、12時38分、13時8分、13時38分。

Img_9346c_20210522165201 1621655724345c  昼食は、予めリサーチしておいた洋風食堂モンヴェールにて。けっこう人気の店のようです。今日は、日替わりランチのチキンカツのタルタルソースをチョイス(¥950)。いや、美味しかったです。カツの揚げ具合が絶妙でしたし、タルタルソースも美味しい。他のテーブルを見ると、ハンバーグや、オムライスを食べている方も多く、それもよかったかも知れません。

Img_9353c_20210522165201 Img_9354c_20210524171101  ゴールの四日市あすなろう鉄道追分駅には、13時30分着。ここまでで6.3㎞。券売機の上にこにゅうどうくんのイラスト。これ、飛び出しているように見えますが、いわゆる「だまし絵」。楽しめます。この路線は、元は近鉄内部線でしたが、平成27(2015)年4月1日に四日市あすなろう鉄道が内部線及び八王子線の運営を引き継ぎました。社名の「あすなろう」には、未来への希望(明日にむかって)や、内部・八王子線の特徴であるナローゲージ(特殊狭軌線:線路幅が762 ㎜)、将来にわたり市民とともに育てていく鉄道という思いが込められています。

Img_9370c_20210522165201 Img_9378c_20210524171501  13時38分発のあすなろう四日市駅行きに乗車。13時52分に四日市着。¥270。今日は、ほぼあすなろう鉄道の路線に沿って歩いてきましたので、車窓からそれらを眺めながら乗ってきました。ちなみにここもナローゲージの電車。ナローゲージは、全国で3ヶ所残っているそうですが、そのうち2ヶ所が三重県、しかも北勢地方にあります。もう1ヶ所の三岐鉄道北勢線と同じく、「電車に乗ってるぞ」感が堪りません(微笑)。

Img_9382c  四日市駅から近鉄に乗り換え。14時10分発の名古屋行き急行に乗車。桑名には、14時22分着、¥300。近鉄四日市駅の改札口近くに、こにゅうどうくん。これは、ホントに立体。萬古焼でできているそうです。

Img_9395c_20210522165201  この日の歩数は、ALKOOで16,632歩。現地で6.3㎞、自宅から桑名駅までの往復が2.2㎞、計8.5㎞でした。この日で、「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」も4回目。東海道は歩き終えました。次回からは、伊勢街道に入ります。桑名・七里の渡し跡から伊勢神宮・内宮までは、どこにも立ち寄らず、ひたすら東海道・伊勢街道だけを歩いて約94㎞。日永の追分は、20㎞地点の少し前。ということは、まだ74㎞以上残っています。まぁ、仕事ではありませんから、慌てず、ゆっくりと参ることにします。

今日も、シジュウカラのヒナ【オリンピックについて余計なつぶやきを追加(5/25)】

Img_1190c_20210525152801  5月も、今日を含め残り1週間。たちまちのうちに時が過ぎていくような気がします。困ったことだと思いつつ、格別変化のある暮らしをしている訳ではありません(苦笑)。ということで、今日もいつも通り、散歩生活。7時半スタートで、住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀公園、京町、南魚町、田町、三崎通から桑名七里の渡し公園に寄って帰宅。5.8㎞、3時間コース。写真は、桑名七里の渡し公園。散歩する人は、案外少ないので、もったいない気がします。

Img_0743c_20210525152701 Img_0747c_20210525152701  最近、もっともよく見るのはスズメ。これらの写真は、三の丸水門の近くで撮ったもの。4羽ほどの親子連れがいました。ヒナは親に餌をねだっていましたが、この時はもらえず。そろそろ自立を促されているのかも知れません。

Img_0796c_20210525152701 Img_0845c_20210525152701  九華公園では、今日も奥平屋敷跡で鳥見。ついた時から、シジュウカラのヒナの鳴き声がよく聞こえていました。左の写真のヒナは、自分で餌を探しているようでした。一方、右の写真のヒナは、親から虫をもらって食べているところ。

Img_0871c_20210525152801  こちらのヒナは、奥平屋敷跡にあるステージの階段のところに降りて来ました。いやぁ、ヒナはやはりカワイイ。姿形もそうですが、仕草も何ともいえません。それにいわゆる「つぶらな瞳」。オッサンも魅入られてしまいます(笑)。今日は、散歩友達のMさんと、前管理人のOさんと3人で鳥見でした。

Img_0951c_20210525152801 Img_0958c_20210525154301  この他、奥平屋敷跡にやって来たのは、スズメ。ヒナもいましたし、カワラヒワもやって来ます。ここしばらく、カワラヒワのヒナには気づきません。かなり自立したためかと思っています。ちなみに、今日は、カメの上陸は確認できませんでした。

Img_0989c  二の丸跡でも、シジュウカラ・ファミリー。ヒナも賑やか。4~5羽のヒナがいるように思われました。カメラ目線もくれます(微笑)。他に見かけた鳥は、少数のヒヨドリとムクドリ、キジバトくらい。カラスの姿もほとんどありません。

Img_0758c_20210525152701 Img_0764c_20210525152701  花菖蒲の様子は、1日くらいでは大きくは変わりませんが、今日もまた撮って来てしまいました(笑)。管理事務所には、毎日、数件、花菖蒲の開花状況についての問い合わせの電話があるそうです。今のところ、月替わりの頃か、来月初めくらいが見頃かと思えます。これらの2枚は、管理事務所の南にある菖蒲園。ずいぶん背が高くなっている花菖蒲もあります。

Img_0967c_20210525152801 Img_1043c_20210525155001  左の写真は、奥平屋敷跡のすぐ北の菖蒲園。右の写真は、本丸跡の花菖蒲園で撮りました。3ヶ所とも、まだまばらに咲いている状況。一斉に咲きそろうと見事なのですが、そういう場面が見られるかどうか、気になっています。「猫の欠伸研究室(アーカイブ)」で、昔の写真を見ていただくと、一斉に咲いたところの写真もあるはずです。これを書きながら、適当に選んだのが、2014年6月2日の記事(スイレンはリベンジ、花菖蒲、懐かしいMarkⅡそして、石取祭の御籤占いの結果)ですが、一斉に咲いているところが見られます。

Img_1082c_20210525152701 Img_1121c_20210525152701  京町、三崎通あたりで、今日もツバメの巣を見て回ってきました。左は、京町H。まだヒナはいないようです。右は、京町Sの巣。修復を終えたと思われると昨日書きましたが、今日は、親ツバメがやって来ていました。まだ卵は産んでいないかも知れません。

Img_1143c  京町Mでは、ヒナがいるのを昨日、確認しました。まだしっかり目が開いていないようですので、昨日、卵から孵ったくらいのように思います。この他、京町Aは、巣は壊れたままで、修復する様子はうかがえません。ツバメも来ていないようです。

Img_1164c_20210525152701 Img_1174c_20210525152701  京町Kと名づけたところ。いったん巣を作りかけたものの、ここは駐車場で、車が汚れるのを嫌って居住者の方が壊してしまったようでした。しかし、今日は、ツバメが出入りしていました。再び、巣を作り始めていたのですが、ここは巣作りを許してもらえない可能性が高いと思います。清水町で見つけた巣は、崩落してしまっていました。

Img_0712c_20210525152701  アサガオ日報。これまたあまり代わり映えしませんが、お陰様で順調です。サギソウも、同じく、順調。水やりに気をつけ、忘れた頃に肥料を施せば大丈夫と思います。

Img_1065c Img_1062c_20210525152701  明日は、江戸橋での仕事、6回目。1/3を過ぎるということです。雨は降らない予報ですから、ちょっと安心(微笑)。左の写真は宮町にて、右は三の丸にて。

【余計なつぶやき(5/25)】 アメリカ国務省が日本に対する渡航警戒レベルを最も厳しい「渡航中止・退避勧告」(レベル4)に引き上げたのと、国連のアントニオ・グテーレス事務総長がWHO(世界保健機関)の年次総会で「世界は新型コロナウイルスとの戦争状態にある」と発言下というニュースが伝わっています。「東京オリンピックは中止したら」という提案のように思えてなりません。IOCの規定の中に「参加者の安全が深刻に脅かされている場合」に、開催都市からIOCに対して開催を返上できる、というルールがあるといいますから、正式には、開催権の返上のようです。ワクチン接種はそれなりに進んでいるようですが、変異株もまん延し、新型コロナ感染症の収束は見通せません。コロナとオリンピックという「2正面作戦」を採るのはきわめて困難のように思えます(そもそも私自身は、なぜ東京でオリンピックをするのか、その意義がよく分かりません)。官房長官も五輪相も、さらには都知事もやる気満々のような発言をしていますが、なぜそこまでオリンピックをしたいのでしょう? 政治家はいずれも「紋切り型」というか、壊れた蓄音機のようなというか、ワンパターンの発言しかしません(安全安心な大会にするために総力を挙げて取り組まないといけないといった類い)。具体的な説明ができないようなことはしてはならぬと思うのですがねぇ……。以上、余計なつぶやき。

2021年5月24日 (月)

20210522「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第4回「四日市~日永の追分」(その2)……水沢道標、大聖院、円楽寺、興正寺、両聖寺と寺が続き、日永神社、長命山薬師堂へ

210522yokkaichi1  5月22日の「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」の第4回「四日市~日永の追分」のその2です。その1では、近鉄四日市駅をスタートし、崇顕寺、東漸寺と回り、日永に入って、大宮神明社まででした。詳細なマップはその2(左の画像)。日永駅近くを歩いています。水沢道標のあとは、大聖院、延楽寺、興正寺から天白川を渡って、両聖寺と続きます。その先で笹川通りを越えます。平成2(1990)年の4月から平成5(1993)年の3月初めまで、この近くにある笹川団地に住んでいましたので、懐かしいあたり。笹川通りを渡って、日永神社、長命山薬師堂、日永小学校にある表忠碑・稲垣末吉翁頌徳碑、滝川一益の菩提寺・実蓮寺、西昌寺から日永一里塚跡碑へと進みます。

Img_8969c  大宮神明社から300mほど、大聖院へ入る角に「水沢(すいざわ)道標」があります。大正12(1923)年9月にあった集中豪雨による水害までは、この碑の手前(南)の道が水沢(四日市市の南西端、鈴鹿山脈の麓、伊勢茶の栽培が盛んな地区)への道でした。碑は、元は東海道との角にありましたが、現在は、少し西に入った民家の庭にあります。 

Img_8976c_20210523203001 Img_8979c_20210523203001  碑表には、「水澤は藍より出て紅葉哉 大坂 羽津み」とあります。「羽津み」は、江戸中期(1780~1800年頃)の大坂の古銭研究家・河村羽積(はづみ)のこと。碑陰には、「猿丸太夫名歌古跡水澤へ 是より三里」と刻まれています。水沢には、宮妻峡や、もみじ谷という紅葉の名所があります。百人一首にある「奥山に 紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき」という三十六歌仙の一人である猿丸太夫の読んだといわれる歌の情景を、紅葉の名所・水沢楓谷(もみじだに)に名残を求めたものであろうかと、「日永ものがたり」にあるといいます。水沢の楓谷は昔から紅葉の名所で、菰野藩主の土方公(初代は、土方雄氏(ひじかたかつうじ)」は必ずこの紅葉を愛でたというくらいです。

Img_8986c_20210522165101Img_9003c_20210522165101  水沢道標のすぐ西に無動山大聖院(むどうさん だいしょういん)。真言宗醍醐派。ご本尊は不動明王。寺伝によれば、天平10(738)年、行基(天智7(668)~天平勝宝元(749)年)の開山に係る古刹とされ、当初は西方の愛宕山に位置し、塔頭17院を有する大寺であったと言われます。平安時代には醍醐寺座主定海(ていかい)僧正御住坊でした。永禄8(1565)年、松井親蔵法印が千草氏の庇護のもの、一族の守り本尊であった不動明王を奉じ、氏寺として寺院を再興しました。元禄3(1690)年、中興第4世大僧都・海養法印は寺院を現在地に移し、寺名を大聖院と改めました。神戸藩主御祈願寺として信仰を集めましたが、明治初めの廃仏毀釈の風潮が厳しく、寺領地を失い、境内も現在の範囲を残すのみとなったといいます。本尊の不動明王(秘仏)は、鎮守府将軍源頼義公、義家公父子の念持仏で、平安後期のもの。大正4(1915)年、重要文化財に指定されています。他に、県指定有形文化財に指定された絹本著色釈迦三尊十六善神像もあります。

Img_9011c_20210523204201 Img_9014c_20210523204201  境内には、地蔵堂(左の写真)の他に、庚申(こうしん)堂もあります。庚申とは、十干と十二支とを組み合わせたものの第57番目。庚申信仰は、もとは道教の守庚申より出た庚申(かのえさる) の年または日の禁忌行事を伴う信仰でした。庚申の夜には,人の体内にいる三尸 (さんし)の虫が、その体内を抜け出して天帝にその人の罪過を告げると信じられ、これを防ぐため道士たちは不眠の行を行なったのです。これが守庚申で、庚申講として伝わっています。

Img_9025c_20210522165101 Img_9043c  大聖院から100mあまり先に萬松山円楽寺(ばんしょうざんえんらくじ)。天台宗。昔は「延楽寺」とも書かれ、比叡山延暦寺の末寺です。ご本尊は、不動明王。文明2(1470)年の「扶桑鏡銘梵鐘銘文集」にこの寺のことが触れられており、それ以前の創基と考えられるのですが、安政元(1854)年の大地震で倒壊し、また、大正12(1923)年の水害にも遭い、寺の記録は失われているそうです。

Img_9047c_20210524063501 Img_9054c  境内には、観音堂、地蔵堂(左の写真)のほかに、白龍稲荷大明神も祀られています。禅宗系のお寺に稲荷社が祀られているのをよく見る気がします。何か理由があるのでしょうか。あの有名な豊川稲荷も、正式名は「妙嚴寺」といい、山号を圓福山とする曹洞宗のお寺です。この円楽寺、最近は人形供養で有名のようです(こちら)。

Img_9065c_20210522165101  お寺が続きます。こちらは、日永山興正寺(こうしょうじ)。真宗高田派。貞観6(864)年の創建。もとは登城山(現在地から1㎞ほど西、南部丘陵公園のところ)にあり、そのときは天台宗でしたが、文暦元(1234)年、親鸞聖人が当寺に立寄られたとき浄土真宗に改宗。その後200年程して、真宗高田派第十世・真慧(しんね)上人が津の一身田に本山を定められた時に、高田派となっています。天文13(1544)年、真宗高田派第十二世・堯慧(ぎょうえ)上人は、ここ興正寺で「日永千部」というこの寺の復興勧進法要を勤め、興正寺が高田派の有力な末寺になったといいます。天正2(1574)年、現在地に移ってきています。

Img_9070c  秀吉、家康の庇護が篤く、また、天正3(1575)年に滝川一益から寺領の寄進と諸役免除を受けているといいます。滝川一益が興正寺に対して出した「日永興正寺四至傍至の事」という寺領を与える文書、豊臣秀吉の寺内「禁制状」などの文書が残っているそうです。寺のそばを流れる天白川が、寺を囲むように曲がっているのも、滝川一益が堀の役目をするようにしたという話もあり、この堤を昔の人は「滝川堤」と呼んだそうです。冒頭のコースマップをご覧いただくと、天白川がこの興正寺の裏手で大きく蛇行しているのが見て取れます。

Img_9106c_20210522165101 Img_9119c_20210522165101  天白川を渡って150mほどで、林光山弘願院両聖寺(りんこうざん こうがんいん りょうしょうじ)があります。浄土宗のお寺。最初は、天台宗林光山西教院と称していましたが、住職の専阿(せんな)上人が、浄土宗第三祖記主良忠禅師と比叡山で一緒に修行した縁で、宝治2(1248)年、記主良忠禅師がここで浄土教を宣布されたのを契機に、浄土宗に改宗しています。それ故、記主良忠禅師を開基とし、専阿上人を第二代としています。第三代道阿玄忍上人のとき、前期の両聖人に因んで寺号を両聖寺としています。明治40(1907)年、両聖寺の鎮守であった八幡社は分離され、大宮神明社(先に立ち寄った神社)に合祀されています。

Img_9122c_20210524071701  両聖寺には、毎年8月に天白川の堤を固めるために行われた「つんつく(堤築)踊り」が今に伝わっています(動画はたとえば、こちらにあります)。踊りながら太鼓を打ち鳴らす踊りで、2020年に発祥400年を迎えました。この起源については、滝川一益の母の隠居所を実蓮寺境内に建築する地固め工事に歌った歌謡と動作を取り入れた踊りであるという伝承や、滝川一益が田畑を流失する農民の困窮を見て、天白川の堤防を築くための地固め、地つきに歌ったとする伝承があります。なお、元和6(1620)年の「清水九朗左衛門手記」に「日永踊之事ツンツクノ事ハ此ノ町地タカメ浪切踊トテ帯ヲ手ニモチ扇ニ而踊浪入也」とあり、近世の初頭には現在のような「つんつくおどり」があったと推測されています。

Img_9128c  両聖寺の先で笹川通りを渡ります。この道は、昔、笹川に住んでいた頃よく通りましたし、名古屋に通う通勤のバスの経路でした。写真は、西を向いて撮っています。この先に笹川団地というURと県営住宅等の大規模な団地があります。

Img_9161c_20210522165201  笹川通りを越えて、4㎞を過ぎると左手(西側)に日永神社があります。棟札によれば、慶長14(1609)年、天照大御神を当地に勧請し、南市場神明社が創建されました。その後、社名を南神明社と改称。明治40(1907)年、日吉神社、岡山白髭神社、山之神、並びに天正10(1582)年創建と伝えられる追分神明社をそれぞれ南神明社に合祀の上、日永神社と単称するに至っています。明治44(1911)年、日永字蔵屋敷の池鯉鮒(ちりゅう)社、字登城山の稲荷社を合祀しています。江戸時代には神戸藩主本多氏の崇敬厚く、神社は栄えました。

Img_9138c_20210522165201  ご祭神は、天照大神天手力男神(あめのたぢからおのかみ:天照大神が天岩戸に閉じこもった時、神々は、天岩戸から出てもらうために神事を行い、また天鈿女命(あめのうずめのみこと)が卑猥な踊りをしたところ、神々が爆笑しました。天照大神が不思議に思い、天岩戸を細めに開いたとき、この神が手をとって引き出したといいます)、栲幡千々姫神(たくはたちぢひめのみこと;天照大神の子の天忍穂耳命と結婚し、天火明命と瓊瓊杵尊を産んだ)、大山咋命猿田彦命波邇夜須比売命(はにやすひめのみこと;火之夜芸速男神を産んで死ぬ間際の伊邪那美命の大便から波邇夜須毘古神・波邇夜須毘売神の二神が化生した。ハニは土のこと)、菅原道真大物主神(オオモノヌシノカミ;奈良県桜井市の大神(おおみわ)神社の祭神)、大山津見神(オオヤマツミノカミ;山をつかさどる神)、道反之大神(チガエシノオオカミ;黄泉の国へとイザナミを迎えに行ったイザナギがそこで、腐り蛆にまみれ穢れたイザナミを見て、逃げ出し、黄泉の国と現世の間に大きな岩(千引き岩)を置いて塞ぎました。その岩のことをいいます)、宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ;五穀、食物をつかさどる神)です。天照大神に関わるたくさんの神様がいらっしゃいます。

Img_9142c_20210522165201  境内には、追分旧道標があります。明暦2(1656)年に仏性院(四日市市川原町)を開いた恵心という僧によって建てられた、東海道現存最古の道標(全国では5番目、県内では2番目に古いといいます)です。嘉永2(1849)年、今の大きな道標が建てられるまで、日永の追分に建っていたものがここに移設されました(明治40(907)年)。正面に「大神宮」と刻まれ、左面に「山田」、右面に「京」と刻まれています。この「石造旧日永の追分道標」は、四日市市有形文化財に指定されています。

Img_9158c_20210524130501  ここにも、皇大神宮遙拝所があります。「皇大神宮」は、もちろん、伊勢の神宮の2つの正宮のうちの1つである「内宮」のことです。「遙拝」は、遠く離れた所から神仏などをはるかにおがむことですから、この方角に伊勢の内宮がある訳です。この皇大神宮遙拝所の石碑は新しいのですが、昭和57(1982)年に建てられています。

Img_9169c_20210524131601  日永神社のすぐ南隣に長命山薬師堂があります。市指定文化財である薬師如来座像が納められています。鎌倉時代中期の作とされ、元は伊勢安国寺の旧像。天正年間(1573~1592年)、安国寺炎上の時、日永村の実蓮寺(あとで訪ねています)に運び出され、その境内の小堂で内仏として信仰されていたものが、文化13(1816)年、ここに移されたといいます(説明板による)。

 コースマップ#2も、まだ最後まで行っていませんが、長くなりましたので、その2はここまで。日永小学校にある表忠碑・稲垣末吉翁頌徳碑、実蓮寺、西昌寺、日永一里塚跡からその3とします。

シジュウカラのヒナはカワイイ……九華公園でミドリガメ、上陸し始めました

Img_0273c_20210524150601  曇りで午後からは、雨がぱらつくかも知れないという予報でしたが、その通りになっています。気温は、24.8℃に。いつもと同じく、7時半から散歩。これまたいつも通り、住吉神社、七里の渡し跡から江戸町、九華公園、貝塚公園、内堀南公園、外堀、京町、寺町と5.4㎞。このところ、散歩距離がやや短めになっていますねぇ(苦笑)。今月の平均も、5.5㎞。

Img_0176c_20210524150001 Img_0186c_20210524150001  江戸町では、歌行燈さんのアジサイを見てきました。先週に比べると、咲いている花が増えてきました。月が変わる頃になると、もっと見事になるように思います。

Img_0207c Img_0210c_20210524150001  九華公園、今日も静かでした。サツキはほぼ満開になってきています。右の写真は、相撲場。一昨年までは、名古屋場所の前になると、峰崎部屋の皆さんが、鎮国守国神社を宿舎にして、ここで稽古をしたのですが、去年は新型コロナで来られず。今年は、峰崎部屋は、峰崎親方が5月に定年を迎えられるということで、部屋が消滅しています。力士全5人は、芝田山部屋に移籍したそうです(こちら)。コロナが落ち着いたとしても、桑名に宿舎を構える相撲部屋はなくなってしまいました。一時は、貴乃花部屋も来ていたのに、残念。

Img_0463c_20210524150001 Img_0515c_20210524145901  今日も奥平屋敷跡で、鳥見。Yさん、Oさんと3人組(笑)。スズメ、ムクドリくらいしか来ず、「今日もボウズか」と思っていたら、シジュウカラファミリーがやって来ました。6~7羽くらいと思います。賑やかで、ちっとも落ち着きませんでした。ヒナの姿もあったのですが、餌をもらったらようやくじっとしてくれました。これらの2枚は同じヒナ。蛾のようなものを食べていました。

Img_0343c_20210524145901 Img_0308c  他にはスズメ。ヒナもいます。今年は、「スズメの学校」といえるシーンには遭遇していません。さらに、今シーズン初、ミドリガメが上陸して来ていました。去年は、5月22日に産卵シーンを見ていますから(2020年5月22日:ミドリガメの産卵と「スズメの学校」……今年は桑名水郷花火大会も中止で残念至極)、今年は遅いくらい。ちなみに、このカメさん、鳥見に気を取られているうちにスタコラとどこかへ行ってしまい、卵を産んだかどうかは見届けられず。

Img_0319c_20210524145901 Img_0323c_20210524145901  余談のような話しですが、奥平屋敷跡にある鳥小屋は、最近、一段と賑やかになっています。数えられた範囲で33羽になっています。管理人さんによれば、まだ巣箱にヒナが6羽ほどいるそうです。近いうちに40羽くらいになりそう。ただ、管理人さんは、エサ代がかなり嵩むとぼやいておられました。

Img_0539c_20210524145901  中には、小屋の片隅の金属製の柱が腐って、穴があいたところに入り込んでいるインコもいます。まだ若い個体のように見えますが、こんなところが気に入ったのか、落ち着くのか(微笑)。

Img_0216c_20210524150001 Img_0239c  冒頭にも花菖蒲の写真を掲げましたが、管理事務所の南の菖蒲園は、左の写真のような感じです。うまくアングルを工夫すると、右の写真のように、それなりに咲いているように撮れます(微苦笑)。右の写真は、伊勢系の青柳という品種。ちなみに、冒頭の写真の花菖蒲、品種名の名札がない、奥平屋敷跡の菖蒲園で撮りましたので、名前は分かりません。

Img_0606c_20210524145901 Img_0614c_20210524145901  こちらは、本丸跡の花菖蒲園の様子。どういう訳か、はたまた、訳はないのか、東側のところばかり咲いています。ここの花菖蒲園、名札があるところとないところとがあり、今咲いているのは、名札がないところのもの。

Img_0657c_20210524145901 Img_0675c_20210524145901  貝塚公園ではスズメとムクドリ、カワラヒワくらいしかいませんでした。内堀公園にはいつもほとんど鳥はいません。京町でのツバメの巣チェックの結果。京町Hでは親ツバメがまだ巣に就いていました。京町Mでは、ひなが誕生していました(右の写真)。中央あたりに、ヒナの嘴が見えています。京町Aは、巣が壊れたままで、親ツバメの姿もありません。京町Sは、巣の修復は終わっているように見えますが、今日は、ツバメはいませんでした。

Img_0121c_20210524150001 Img_0129c_20210524150001  アサガオ日報。今朝7時頃の写真です。大きい植木鉢の方、早くに出た芽はかなり生長し、アサガオらしくなってきています。中央に出て来たばかりの芽も見えます。小さい方の鉢は、芽は3本のまま。

Img_0133c_20210524150001  サギソウの方は、特に変わりはありません。例年並みという印象です。去年は確か2輪しか咲きませんでした。今年はもう少したくさん咲いてほしいところ。

 

2021年5月23日 (日)

20210522「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第4回「四日市~日永の追分」(その1)……近鉄四日市駅をスタート、崇顕寺(丹羽文雄の生家)、東漸寺、大宮神明社へ

210522yokkaichi0  5月22日に行ってきた「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」の第4回「四日市~日永の追分」の本編第1回です。この「伊勢詣りツアー」は、同級生K氏と二人旅。この日は、朝8時過ぎは晴れていましたが、その後は曇り。しかし、最高気温23.9℃で、ウォーキング日和といえます。スタートは近鉄四日市駅。東海道を歩いて、日永の追分まで歩き、ゴールは、四日市あすなろう鉄道追分駅に設定。四日市駅から300mほど東へ行くと東海道に入ります。崇顕寺(作家・丹羽文雄の生家)、東漸寺から赤堀を通り、鹿化川(かばけがわ)を越えて大宮神明社へ。その後、水沢道標を見て、大聖院、延楽寺、興正寺と寺巡り。天白川を渡り、両聖寺、日永神社へ。日永小学校で表忠碑と稲垣末吉翁頌徳碑を見て、実蓮寺、西昌寺と行くと、日永一里塚跡碑がひっそり建っています。名残の一本松を越えるとゴールも近い。東海道日永郷土資料館を見たかったものの、閉館してしまっていました。日永の追分が今日の最終目的地。そこからゴールの四日市あすなろう鉄道追分駅まで6.3㎞。駅近くの洋風食堂モンヴェールで昼食。

Img_8798c_20210522165101 Img_8803c_20210522165101  桑名駅を8時42分に出る松阪行き急行で近鉄四日市まで。8時54分着、¥300。8時58分にスタート。四日市駅から東へ300mほど行くと、中央通りをはさんで、北に前回歩いたスワマエ商店街の入り口が見えます。ここを右折して、東海道に入ります。

Img_8800c Img_8807c  曲がり角の手前に「こにゅうどうくん」の自販機。あとからも触れるつもりですが、四日市は、観光や東海道に力を入れているのがよく分かります。各地区ごとに名所旧跡に案内板が建てられていますし、東海道を示す看板も豊富にあります。右の写真は、近鉄四日市駅から来て、東海道に曲がるところにある石柱。四日市の取り組みに比べると、桑名のそれは、はっきり言って貧弱です。

210522yokkaichi1  こちらは、詳しいコースマップその1です。四日市駅、「あすなろう四日市」となっていますが、ここが近鉄四日市駅。四日市あすなろう鉄道も乗り入れています。南出口から出て、国道1号線方面に向かい、諏訪栄町交差点の手前で右折し、東海道に入ります。阿瀬知川を越えて崇顕寺、東漸寺と回って、赤堀へ。しばらく立ち寄るところはありません。鹿化川(かばけがわ)を渡って、大宮神明社・二柱神社に立ち寄るのですが、その手前にはかつてなが餅の笹井屋がありました。

Img_8810c_20210523185801  阿瀬知川にかかる阿瀬知橋。阿瀬知川は、三滝川から引いた水路で、雨水幹線の1つです。阿瀬知川は戦争直後まではホタルの舞う自然豊かな川だったそうですが、事業所や家庭からの雑排水が流入した結果、汚染が進み、どぶ川になっていました。平成12(2000)年頃から、「阿瀬知川をきれいにする会」の浄化活動が行われ、錦鯉が住めるようになったと言います。市街を貫流し、四日市港に至っています。

Img_8814c_20210522165101 Img_8818c_20210523185801  阿瀬知川を渡ってすぐに、仏法山崇顕寺。真宗高田派のお寺で、作家・丹羽文雄(明治37(1904)~平成17(2005)年)の生家です。昭和7(1932)年「鮎」でみとめられ、風俗小説を多作しましたが、のち仏教への傾斜から「親鸞」、「蓮如」を著しました。日本芸術院会員で、文化勲章を受章しています。田原藤太秀郷(藤原)の末胤である田原忠秀が、文明元(1469)年、浜田城を築き、孫元網の時元正3(1575)年に織田勢の滝川一益に滅ぼされたのですが、この田原家の一族丹羽弥八郎時定が菩提のため、創建したといわれています。もとは天台宗の寺でしたが、文亀2(1502)年に眞慧(しんね)上人に帰依し高田派の寺となっています。天和元(1618)年の火災と、昭和20年四日市大空襲で焼失し、由緒の詳細は不明。

Img_8835c_20210523192901  崇顕寺の先あたりの東海道の様子。道路の広さは、昔と同じくらいのように思えます。東海道を含む五街道は、幅5間(9メートル)と規格が定められていました(こちら)。また、このあたりは古い家がかなり残っていますので、昔の街道の雰囲気を偲ぶことができます。

Img_8838c_20210522165101 Img_8845c_20210522165101  スタートから800mほどで東漸寺。こちらも真宗高田派。建仁元(1201)年創建の古刹です。童話作家・東光敬(あずまこうけい)の生家。東は、丹羽文雄の弟である房雄(文雄に代わって、崇顕寺を継いでいます)と同級生。東については、こちら(四日市文化協会の広報誌)に言及されています。

Img_8849c  この東漸寺で驚いたのは、本堂の入り口。障子に板戸。今は、多くのところがサッシになっていますので、珍しい。

Img_8873c_20210523200501  東漸寺の先、四日市あすなろう鉄道赤堀駅の手前に地蔵堂。かなり年月が経っている印象。建物がコンクリートブロックの上に載せられていて、大切にされているように思えます。ただ、残念ながら、道沿いにあるお地蔵様については、よく分からないことが多いのです。この地蔵尊についても、「ホントに歩く東海道」の第12集「桑名~庄野」のマップに載っているものの、説明はありません。みえの歴史街道にある東海道マップにも「お地蔵さん 連子格子の家の前の小さな祠に祀られている」とあるだけです。

Suzukipharmacy_20210523193601  東漸寺のあとはしばらく立ち寄るところはありません。赤堀にかつて鈴木薬局という四日市でもっとも古い建物(嘉永5(1852)年建築)があったのですが、4年ほど前に解体されてしまいました(こちら)。残念です。鈴木薬局は、200年以上も続いた旧家でした。現在は、跡地に鈴木という表札が出た、大きなお宅があります。この鈴木薬局の写真は、四日市・常磐地区のホームページからお借りしました。

Img_8889c Img_8892c  2㎞を過ぎて鹿化川(かばけがわ)を越えます(左の写真)。鹿化川を越えると日永に入ります。鹿化川の上流には、「鹿化川千本桜」と呼ばれる桜並木があり、名前のとおり約千本のソメイヨシノが 5km にわたり咲いています(2019年1月26日:20190126近鉄ハイキング“酒蔵みてある記 銘酒「三重の寒梅」丸彦酒造をたずねて”へ(予告編))。鹿化川橋を渡ってすぐ左手には、かつてなが餅の笹井屋があったといいます(右の写真のあたり。昭和30年に現在の本店に移転。本店は前回見てきました)。

Img_8947c_20210522165101 Img_8905c_20210523194601  スタートから2.3㎞のところに大宮神明社があります。詳しい由緒は不詳ですが、社伝によれば第11代・垂仁天皇の御代、皇大神宮が伊勢にお遷りになる時に岡山の丘陵地(現在、四日市南高校があるところ)に一時お留りになり、そこに神宮の神領地として皇大神宮を勧請したのが始まりとされています。永禄5(1562)年、それまで舟付け明神といって崇め祀っていたこの岡山の神明社が炎上したので、その頃出来上がりつつあった新道路(東海道)の傍らに遷座されたのが今の大宮神明社です。江戸時代には神戸(かんべ)藩主・本多家の崇敬を受けていました。「永宮さん」とも呼ばれるそうです。

Img_8914c_20210522165101  主祭神は、天照大御神。相殿神は、天手力男命(アマノタヂカラオノミコト;天照大神の隠れた天の岩屋の戸を手で開けた大力の神)、栲幡千千比売命(たくはたちぢひめのみこと;高皇産霊神の子の児火之戸幡姫の子で、天照大神の子の天忍穂耳命と結婚し、天火明命と瓊瓊杵尊を産んだ。織物の神として信仰される他、安産、子宝等の神徳をもつとされる)、市寸杵島姫命(イチキシマヒメノミコト;天照大神と素戔嗚尊との誓約の時に生まれた三女神の一。福岡県の宗像大社の辺津宮の祭神)、田心姫命(タキリビメまたはタギリヒメとも;日本神話に登場する女神で、宗像三女神の一柱。宗像大社では「田心姫神」として、沖ノ島にある沖津宮に祀られている)、多岐津比売命(タギツヒメノミコト;天照大神と素戔嗚尊との誓約のときに、素戔嗚尊の剣から生まれた三女神の一。福岡県の宗像大社の祭神で、中津宮に鎮座するとされる)、品陀和気命(ホンダワケノミコト、応神天皇)、大山津見命(オオヤマツノミコト;山をつかさどる神)、弥都波能売命(ミズハノメノミコト;代表的な水の神(水神))となっています。明治40(1907)年に天白社、八幡社の二社を合祀し、明治41(1908)年には5社を合祀しています。例祭は10月の体育の日。獅子舞があり、八幡獅子が家々を回るそうです。また、6月30日夜には、那護志(なごし)の大祓があり、いわゆる「茅の輪くぐり神事」が盛大に行われます。

Img_8921c_20210522165101 Img_8917c_20210523195601  境内には、摂社として二柱大神があります。ここは江戸時代末より病気平癒の神(センキの神)として信仰されています。少彦名命(すくなびこなのみこと;農業・酒造・医薬・温泉の神)と、大己貴命(おおなむちのみこと;天照大神に対して国津神(土着の神々)の頭領たる位置をあらわす)が祀られていますから、二柱神社。他に、稲荷社、山の神社と靖国社があります。さらに、皇大神宮遙拝所も(右の写真)。皇大神宮は、もちろん伊勢神宮。前にも書きましたが、四日市市内の神社では、こうした伊勢神宮の遙拝所を時々見ます。

Img_8948c  大宮神明社を出たところに紀念碑。田中光治郎という、明治6(1873)年に生まれた方のもの。日清戦争に参戦され、亡くなられました。明治31(1905)年3月の建立。上司であった、第三師団歩兵第六聯隊第二中隊長で、陸軍歩兵大尉である口羽清之の撰。

Img_8952c_20210522165101  大宮神明社のすぐ先に立派な屋敷がありました。見入っていたら、買い物途中と思われる地元の女性が、「ここはね、昔、庄屋さんの家だったんだよ」と教えてくださいました。確かに、そう思えるようなお宅です。屋敷も広く、縦も桃大きく、蔵がありますし、門も立派でした。四日市駅から南あたりの東海道、あちこちで新しい住宅も建っているのですが、そういう中にこうした昔風の建物が残っています。

 その1は若干短めですが、キリが良いのでここまで。その2は、水沢道標や大聖院から。

河口堰でコアジサシとホオジロのヒナ、上之輪新田ではケリにイワツバメ

Img_9454c_20210523155101Img_9469c_20210523155101  午後からは割とよく晴れたものの、午前中は雲も多く、風も強く吹いていました。しかし、最高気温は、27.3℃と夏日。今日は、長良川河口堰等長島町と、上之輪新田に行ってきました。河口堰あたりでは、コアジサシが気になっていましたし、上之輪新田ではムナグロを見て以来、変わった鳥が来ていないかと期待しているのです。

Img_9509c_20210523155101Img_9532c_20210523155101  長良川河口堰には、8時半に到着。しかしながら、左岸側には、カワウが数羽いたのみで、サギは不在。西側に行って、コサギが2羽のみ。アオサギや、ダイサギはまったく見当たりません。ちょっと期待はずれ(苦笑)。親水広場に降りていくと、アユの孵化試験をする水路にハクセキレイが1羽。ウ~ン……。中洲には、オオヨシキリはいて、けっこう鳴いていたのですが、姿が見えたのは遠くて、すぐに飛んでしまい、写真は撮れず。さらにガッカリ。

Img_9640c_20210523155101 Img_9671c_20210523155101

 コアジサシも、最初は、4~5羽しか見えなかったのですが、次第に増えてきて、西側の監視塔近くでは、14羽ほど来ていました。ちょっと遠かったものの、姿ははっきり確認できました。飛び交ったり、降りて来たりはしていましたが、さすがにもう求愛給餌をするようなシーンは見られません。

Img_9648c_20210523155101 飛び姿にもチャレンジしたのですが、さすがに歩留まりはよくありません。それでもまぁ、これくらい撮れれば、ヨシとしましょう(満足はしていませんので、さらにチャレンジします)。東側に帰る時、左岸に近いところにもコアジサシが3~4羽飛んでいました。ダイビングもしていたのですが、今日はまったく撮れず。コアジサシたちが、どちらに向かって飛んで行くか確認したかったのですが、東の方に行く1~2羽を見たのみ。このあと、ブロ友のひらいさんからいただいた情報を手がかりに探しに行ったものの、コアジサシが営巣しているところは見つかりませんでした。

Img_9610c_20210523160101  管理橋の西の端にある木と、親水広場にある池の端では、ホオジロのオス。合計2羽。左の写真は、親水広場の池のところにいたオス。近くの植え込みにいたのですが、私が歩いたのに驚いて飛び出してきました。

Img_9722c_20210523155101 Img_9769c_20210523155101  さらに、帰ろうと、親水広場から管理橋に上がる坂道に差し掛かったところ、西側にある木にホオジロの親子。最初に左の写真の個体に気づいたのですが、見た時は、「ヘンな鳥」と思いました。しかし、近くにホオジロのオスが餌らしき虫を咥えて止まっていましたので、これはホオジロのヒナだろうと思います。

Img_9772c_20210523155101  親にはピントが合っていませんが、こんな位置関係で出て来ました。ホオジロのヒナは、初見、初撮影です(微笑)。

Img_9812c_20210523155101  このあと、某駐車場に行ったものの、スズメしかいませんでした。さらにひらいさんから情報をいただいたたところも確認したものの、コチドリ1羽とスズメたちのみ。そこには、カラスが出没していましたので、営巣には安全、安心なところではなさそうです。

Img_9920c_20210523155101  続いて、上之輪新田へ。ここは、田植はまだで、その準備として代掻きが2ヶ所で行われていました。以前、ここの北の端は、休耕田となっていて、コスモス畑がつくられていたこともありましたが、今年は見渡す限り、代掻きが行われています。したがって、たぶんコスモス畑は、今年もありません。

Img_9834c_20210523155101 Img_9949c_20210523155101  まずは、ハクセキレイ。水田の土が細かく砕かれたので、食べ物が取りやすいのでしょう。あちこち飛び回りながら、田んぼの土をつついていました。なぜか、コチドリも1羽登場。こちらも、懸命にエサ探しをしていました。

Img_9860c_20210523155101 Img_9913c  今日、ここでもっとも多かったのは、ケリ。合わせて10羽くらいいました。ここに載せた2枚の写真は、割と接近して取ったのですが、警告はされず。ということは、子育ては終わったということでしょうか? あるいは今年巣立ってきたケリたちでしょうか? 見かけでは大人のように見えますが、分かりません。

Img_0020c Img_0008c_20210523155101  もう1種類、イワツバメが4羽ほどで、盛んに飛び回り、水田や道路にも降りて来たりしていました。この近くにある新宮西橋のところで営巣しています。道路に降りて来たイワツバメたち、あまりこちらを警戒している様子はありませんでした。今年巣立った個体なのかも知れません。

Img_0047c_20210523155301 Img_0087c_20210523155201  さて、上之輪新田は、私にとっては撮り鉄スポット。名古屋発のしまかぜが来る時間でしたので、いつものように「俄撮り鉄」。しまかぜのあとに、アーバンライナーもやってきました。最近、名阪特急は、アーバンライナーでの運行になっています。

Img_9433c_20210523161901  オマケは、アサガオ日報。今朝6時頃の撮影です。順調に伸びていますし、さらに芽も出て来ています。このままうまく育って欲しいところ。

Img_9494c_20210523155101  今週は、わりと晴れの日が多い予報です。今のところ、水曜日も晴れの予報。私には、これがもっともありがたい(苦笑)。仕事に行くのですから、雨でもいいだろうと思われるかも知れませんが、江戸橋駅から徒歩10分あまりですので、晴れてくれた方がいいのです。

2021年5月22日 (土)

20210522「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第4回「四日市~日永の追分」(予告編)

210522yokkaichi0  朝8時台は晴れていましたが、その後は曇り。最高気温23.9℃。ウォーキング日和でした。「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」の第4回として四日市から日永の追分までの東海道を歩いてきました。スタートは近鉄四日市駅、ゴールは四日市あすなろう鉄道。今日は、取り敢えず予告編。左の画像は、今回のコースマップ。近鉄四日市駅から300mほど東へ行くと東海道に入ります。崇顕寺(丹羽文雄の生家)、東漸寺から赤堀を抜け、鹿化川を越えて大宮神明社。水沢道標を見て、大聖院、延楽寺、興正寺、天白川を渡り、両聖寺、日永神社へ。日永小学校で表忠碑と頌徳碑を見て、実蓮寺、西昌寺と行くと、日永一里塚跡碑が建っています。名残の一本松を越えるとゴールも近くなります。東海道日永郷土資料館を見たかったものの、閉館していました。日永の追分が今日の最終目的地。ゴールの四日市あすなろう鉄道追分駅まで6.3㎞。駅近くの洋風食堂モンヴェールで昼食。

Img_8798c_20210522165101 Img_8803c_20210522165101  桑名駅を8時42分に出る松阪行き急行で近鉄四日市まで。8時54分着、¥300。8時58分にスタート。東へ300mほど行くと、中央通りをはさんで、北に前回歩いたスワマエ商店街の入り口が見えます。ここを右折して、東海道に入ります。

Img_8814c_20210522165101 Img_8845c_20210522165101  阿瀬知川を越えると東海道の左手(東側)に仏法山崇顕寺があります。真宗高田派のお寺ですが、作家・丹羽文雄(明治37(1904)~平成17(2005)年)の生家です。昭和7(1932)年「鮎」でみとめられ、風俗小説を多作しましたが、のち仏教への傾斜から「親鸞」、「蓮如」を著しました。日本芸術院会員、文化勲章を受章しています。崇顕寺は、もとは天台宗の寺でしたが、文亀2(1502)年に眞慧(しんね)上人に帰依し高田派の寺となっています。天和元(1618)年の火災と、昭和20年四日市大空襲で消失していて、由緒の詳細は不明。右の写真は、東漸寺。こちらも真宗高田派。建仁元(1201)年創建の古刹です。童話作家・東光敬(あずまこうけい)の生家。東は、丹羽文雄の弟である房雄(文雄に代わって、崇顕寺を継いでいます)と同級生。東については、こちら(四日市文化協会の広報誌)に言及されています。

Img_8889c Img_8892c  東漸寺のあとはしばらく立ち寄るところはありません。赤堀にかつて鈴木薬局という四日市でもっとも古い建物(嘉永5(1852)年建築)があったのですが、4年ほど前に解体されてしまいました(こちら)。鈴木薬局は、200年以上も続いた旧家でした。2㎞を過ぎて鹿化川を越えます(左の写真)。橋を渡ってすぐ左手には、かつてなが餅の笹井屋があったといいます(右の写真のあたり。昭和30年に現在の本店に移転。本店は前回見てきました)。

Img_8914c_20210522165101 Img_8921c_20210522165101  その先に大宮神明社。詳しい由緒は不詳ですが、社伝によれば第11代・垂仁天皇の御代、皇大神宮が伊勢にお遷りになる時に岡山の丘陵地(現在、四日市南高校があるところ)に一時お留りになり、そこに神宮の神領地として皇大神宮を勧請したのが始まりとされています。永禄5(1562)年、それまで舟付け明神といって崇め祀っていたこの岡山の神明社が炎上したので、その頃出来上がりつつあった新道路(東海道)の傍らに遷座したのが今の大宮神明社。「永宮さん」とも呼ばれるそうです。主祭神は、天照大御神。境内社に二柱大神があります(右の写真)。江戸時代末より病気平癒の神(センキの神)として信仰されています。少彦名命(すくなびこなのみこと;農業・酒造・医薬・温泉の神)と、大己貴命(おおなむちのみこと;天照大神に対して国津神(土着の神々)の頭領たる位置をあらわす)が祀られています。

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 大宮神明社を出てすぐのところに立派なお宅があり、見入っていましたら、通りかかった近所の女性が、「ここはね、昔、庄屋さんの家だったんだよ」と教えてくださいました。確かに、そう思えるようなお宅です。屋敷も広く、縦も桃大きく、蔵がありますし、門も立派でした。四日市駅から南あたりの東海道には、あちこちにこうした昔風の建物が残っています。

Img_8969c Img_9003c_20210522165101  日永駅の東を過ぎたところに水沢道標。大正12(1923)年9月にあった集中豪雨による水害までは、この碑の前(南)の道が水沢(四日市市の南西端、鈴鹿山脈の麓、伊勢茶の栽培が盛んな地区)への道でした。碑は元は東海道との角にありましたが、現在は、民家の庭にあります。その西に無動山大聖院(むどうさん だいしょういん)。真言宗醍醐派のお寺。ご本尊は不動明王。寺伝によれば、天平10(738)年、行基の開山に係る古刹とされ、当初は西方の愛宕山に位置し、塔頭17院を有する大寺であったと言われます。平安元禄3(1690)年、中興第4世大僧都・海養法印は寺院を現在地に移し、寺名を大聖院と改めました。神戸藩主御祈願寺として信仰を集めましたが、明治初めの廃仏毀釈の風潮が厳しく、寺領地を失い、境内も現在の範囲を残すのみとなったといいます。 

Img_9043c Img_9065c_20210522165101  このあと、お寺が続きます。まずは、萬松山円楽寺。天台宗。昔は「延楽寺」とも書かれ、比叡山延暦寺の末寺。文明2(1470)年の「扶桑鏡銘梵鐘銘文集」にこの寺のことが触れられており、それ以前の創基と考えられるのですが、安政元(1854)年の大地震で倒壊し、また、大正12(1923)年の水害にも遭い、寺の記録は失われているそうです。右の写真は、日永山興正寺。真宗高田派。貞観6(864)年の創建。もとは登城山(現在地から1㎞ほど西、南部丘陵公園のところ)にあり、そのときは天台宗でしたが、文暦元(1234)年、親鸞聖人が当寺に立寄られたとき浄土真宗に改宗。その後200年程して、真宗高田派第十世・真慧(しんね)上人が津の一身田に本山を定められた時に、高田派となっています。天正2(1574)年、現在地に移ってきています。秀吉、家康の庇護が篤く、また、天正3(1575)年に滝川一益から寺領の寄進と諸役免除を受けています。

Img_9119c_20210522165101  興正寺の先で天白川を越えると、すぐに林光山弘願院両聖寺があります。浄土宗。最初は、天台宗林光山西教院と称していましたが、住職の専阿(せんな)上人が、浄土宗第三祖記主良忠禅師と比叡山で一緒に修行した縁で、宝治2(1248)年、記主良忠禅師がここで浄土教を宣布されたのを契機に、浄土宗に改宗しています。それ故、記主良忠禅師を開基とし、専阿上人を第二代としています。第三代道阿玄忍上人のとき、前記の両聖人に因んで寺号を両聖寺としています。両聖寺には、毎年8月に天白川の堤を固めるために行われた「つんつく(堤築)踊り」が今に伝わっています。踊りながら太鼓を打ち鳴らす踊りで、2020年には発祥400年を迎えます。その起源については、滝川一益の母の隠居所を実蓮寺境内に建築する地固め工事に歌った歌謡と動作を取り入れた踊りであるという伝承や、滝川一益が田畑を流失する農民の困窮を見て、天白川の堤防を築くための地固め、地つきに歌ったとする伝承があります。

Img_9138c_20210522165201 Img_9142c_20210522165201  さらに笹川通りを越え、南日永駅のすぐ東に日永神社。昔は南神明社と呼ばれていました。明治40(1907)年以降、日永神社というようになりました。建仁年間(1201-1204)頃に創建されたといわれます。天正年間(1573-1592年)に織田信長の伊勢侵攻の際、焼失。その後、再建され、江戸時代には神戸藩主本多氏の崇敬厚く、神社はさかえました。ご祭神は、天照大神天手力男神(あめのたぢからおのかみ)他。境内には、追分旧道標があります。明暦2(1656)年に仏性院(四日市市川原町)を開いた恵心という僧によって建てられた、東海道現存最古の道標(全国では5番目、県内では2番目に古いといいます)。嘉永2(1849)年、今の大きな道標が建てられるまで、日永の追分に建っていたものがここに移設されました(明治40(907)年)。

Img_9180c_20210522165201  日永神社の南にある日永小学校の敷地に表忠碑と頌徳碑があります。「表忠碑」は、戦没者の遺徳をたたえ、永遠に顕彰するため、明治42(1909)年8月に、日永村在郷軍人の方々が発起人となって建立されています。揮毫者は、元帥公爵の大山巌。頌徳碑は、「稲垣末吉翁頌徳碑」日永出身の実業家・稲垣末吉は、日永の追分まで自費で配管を敷設して、水を旅人達に供した方。稲垣は、明治時代、東京で製錨工場を創設、後に製鋼工場となり、巨万の富を築きました。地元に戻り、地域社会のために、社会福祉、自社建立、学校建設にも尽力し、さまざまな寄付をするなど貢献しています。

Img_9216c_20210522165201 Img_9224c_20210522165201  その先で普光山証明院実蓮寺に立ち寄り。ここは初めて来ました。浄土宗のお寺。開山の由来は不明ですが、昔は、登城山にあったといいます。承久2(1220)年、現地に移転。滝川一益が、菩提寺として母の位牌と墓碑を安置したというので、一度立ち寄りたいと思っていたのです。無住のように思ったのですが、インスタによれば、ご住職は倒れてリハビリ中で、息子さんが世話をしておられるようです。滝川一益の母の墓碑は、よく調べていかなかったのですが、こちらのサイトによれば、右の写真で中央にあるものがそれのようです。

Img_9239c_20210522165201  実蓮寺から東海道に戻ってすぐ、雲祥山西唱寺(うんしょうざんさいしょうじ)。真宗高田派。永禄2(1559)年、僧・玄聖(げんしょう)の開創で、もとは安立院という浄土宗のお寺でした。江戸時代初期、誓宅が住持の時に、專修寺第14世尭秀(ぎょうしゅう)上人に帰依して浄土真宗となり、本尊を賜っています。寛文元(1661)年には西唱寺と改められました。寺宝がたくさんあったそうですが、昭和20(1945)年6月18日の四日市空襲によって本堂や庫裏、太子堂、書院などが全焼してしまい、寺宝、古文書等は一切灰燼に帰してしまいました。境内に、安政6(1859)年、近隣の有志で登城山(白鬚神社の北)から竹管で水道を引いた「水道記念碑」があるのですが、見てくるのを失念。過去に2回も失敗しているのに、さらに失敗を重ねました(苦笑)。

Img_9263c_20210522165201  西昌寺から南へ100m足らずのところに「日永一里塚址」の石碑が建っています。県指定史跡(昭和13年4月指定)。四日市市内には4ヶ所の一里塚がありました(富田、三ツ谷(海蔵川の北詰)、日永、釆女(杖衝坂を登りつめたあたり))。日永のImg_9276c_20210522165201 一里塚は、江戸からちょうど百里。「東海道分間延絵図(とうかいどうぶんげんのべえず)」(文化3(1806)年)によれば、西側の塚に松の木3本、エノキ1本、東側の塚にエノキ1本が描かれています。西側の塚にはエノキが残っていたのですが、明治2(1869)年には伐採され、塚自体もすでにありません。家屋と倉庫の境界のわずかな空き地に細い標柱が立っているのみで、見逃しそうです。その先、東海道の東側に、「東海道名残の一本松」(右の写真)。かつて、ここ日永と泊村との間は、家は一軒もなく、松並木の縄手道だったそうです。今では、この一本松だけが今に残り、往時を偲ぶよすがになっています。そのため「東海道名残の一本松」と呼ばれているのです。たくさんあった松は、戦時中、松根油を採ったためほとんどなくなったといいます。縄手の道幅は、土手も入れて約5間(9m)でした。現在の道幅もほぼ同じです。

Img_9301c_20210522165201  日永の追分の手前に東海道日永郷土資料館がありますので、立ち寄ろうと思ったのですが、閉まっていました。新型コロナのためかと思ったら、令和3年には家主に返却するため、令和2年9月から片付け、移転で休館ということでした。ここは土蔵付きの商家の建物を借りて日永郷土史研究会が営んでいたのですが、残念です。

Img_9311c_20210522165201  12時23分、スタートから6㎞を歩いて、日永の追分に到着。東海道と伊勢街道(参宮街道)との分岐点です。鳥居は、桑名の七里の渡し跡に建てられた「伊勢一の鳥居」に対して「二の鳥居」と呼ばれます。鳥居は、安永3(1774)年に一志郡須ヶ瀬村(現在の津市)出身の伊勢商人渡辺六兵衛が東海道を往来する人のために遥拝鳥居として建てさせたのが最初。その後たびたび建替えが行われ、現在のものは、平成28(2016)年10月に、伊勢神宮の遷宮にあたり、内宮の別宮である伊雑宮(いざわのみや)の鳥居を移建して建替えられました。当初は伊勢街道をまたぐように建てられていましたが、現在は伊勢街道が鳥居の横を迂回して、鳥居をくぐらずに進めるようになり、また、昭和48(1973)年の移建時に周りが公園化されました。現在の追分には、常夜燈、道標、清めの手水所があります。元々あった道標は、現在は、日永神社の境内に移されています。これで、今日の目的地はコンプリート。

Img_9346c_20210522165201 1621655724345c  四日市あすなろう鉄道追分駅へ向かうのですが、電車の時刻だけ確かめて、昼食へ。予めリサーチしておいた洋風食堂モンヴェールにて。けっこう人気の店のようです。今日は、日替わりランチのチキンカツのタルタルソースをチョイス(¥950)。いや、美味しかったです。他のテーブルを見ると、ハンバーグや、オムライスを食べている方も多く、それもよかったかも知れません。

Img_9353c_20210522165201 Img_9370c_20210522165201  ゴールの追分駅には、13時30分着。ここまでで6.3㎞。13時38分発のあすなろう四日市駅行きに乗車。13時52分に四日市着。¥270。今日は、ほぼあすなろう鉄道の路線に沿って歩いてきましたので、車窓からそれらを眺めながら乗ってきました。ちなみにここもナローゲージの電車。元は近鉄内部線でしたが、平成27(2015)年4月1日に内部線及び八王子線の運営を引き継ぎました。社名の「あすなろう」には、未来への希望(明日にむかって)や、内部・八王子線の特徴であるナローゲージ(特殊狭軌線:線路幅が762 ㎜)、将来にわたり市民とともに育てていく鉄道という思いが込められています。三岐鉄道北勢線と同じく、「電車に乗ってるぞ」感が堪りません(微笑)。

Img_9395c_20210522165201  四日市駅から近鉄に乗り換え。14時10分発の名古屋行き急行に乗車。桑名には、14時22分着、¥300。今日の歩数は、ALKOOで16,632歩。現地で6.3㎞、自宅から桑名駅までの往復が2.2㎞、計8.5㎞でした。本編は、いつも通り、また明日以降ボチボチと書いていきます。

2021年5月21日 (金)

雨の止み間を狙ったつもりが、返り討ちに遭う(苦笑)

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05211430rain  朝6時台から8時台にかけてよく降りました。午後になって止み間も出て来て、雨雲レーダーを見ても、雨雲の隙間がありましたので、揖斐川の堤防か、七里の渡し跡くらいまでは行ってこられそうだと思って、出かけたものの、住吉神社にお参りし終えたら、降ってきました(苦笑)。雨雲の動きが、案外早かったようです。1㎞歩いたかどうかで、散歩とはいえないくらい。

Img_8761c_20210521152901 Img_8752c  桑名七里の渡し公園。雨が降ったので、せせらぎに水がたまって、小型の野鳥が水浴びに来ているかと思ったのですが、当てが外れました。公園にいたのは、ドバトとスズメ。スズメは、右の写真のように、枯れ草をくわえていました。一番仔を自立させ、もう1回、繁殖する準備だろうと思います。

Img_8764c_20210521153001  住吉神社前の様子。歩いている人や、自転車に子どもを乗せている人が、けっこういました。このあとすぐに雨が降ってきましたので、私同様に降られた方はたくさんいます。同じマンションの方も、自転車で散歩に行こうとなさったのですが、私同様、すぐに撤退してこられました。

Img_8643c_20210521153001 Img_8659c_20210521153001  今朝は、川霧が出ていました。今朝、5時頃のこと。川の水温や、地表の温度が上空の気温より高い時に見られるものだったと思います。映像だけ見ると、幻想的と言えるのかも知れませんが、朝からけっこうな湿度でした(苦笑)。

Img_8721c Img_8690c_20210521153001  アサガオ日報(微笑)。正午頃撮った写真です。けっこうな勢いで成長しています。もう少し種を蒔いた記憶がありますので、まだ芽が出てくるかも知れません。

Img_8748c  雨ということで、雨読の日。読書と、ウォーキングの資料づくりをしていました。明日の天気予報は、晴れ。久しぶりですから、期待が高まります(微笑)。出かけなくっちゃ。

2021年5月20日 (木)

いかにも梅雨らしい天候……アジサイ、花菖蒲はボチボチ

Img_8276c_20210520164401  起床した5時過ぎにはよく晴れていたのに、すぐに曇ってきました。散歩から帰ってきた10時過ぎには、雨が落ちてくるという誠に梅雨らしい天候。午後からは、よく降っています。明日の夕方までは雨の予報。散歩は、7時半から住吉神社、江戸町、九華公園、貝塚公園、内堀公園、京町、吉津屋町、新築公園、常磐町、老松公園、寺町と5.8㎞。湿気があり、ちょっと蒸し暑い感じで、汗もかくくらいでした。

Img_8319c_20210520164401 Img_8315c_20210520164401  江戸町の歌行燈本店のアジサイ。全体としては、まだまだという印象ですが、部分的にはけっこう咲いて来ています。5年以上前から見ています(たとえば、2016年6月12日:歌行燈本店のアジサイ……土俵は準備OK、モミジが紅葉!)。

Img_8337c_20210520164401  ここのアジサイは、たぶん6月に入ってから、見事になると思います。ときどき散歩コースを変えて、見て回って来ようと思います。

Img_8418c Img_8428c_20210520164501  鳥はいませんので、九華公園には20分ほどで到着。九華公園も静か。雨を心配してか、散歩する人も少なく、鳥もいません。散歩友達で出会ったのは、鳥見の先輩Sさん(奥様から、雨が降るといけないから早く散歩に行くようにといわれたそうで、我が家と同じ)、Yさん、公園前管理人のOさん、現管理人のKさんくらい。奥平屋敷跡、二の丸跡、朝日丸跡で見たのは、スズメ(ヒナを含む)、ムクドリ、カワラヒワ、ハシボソガラス、シジュウカラ。

Img_8443c_20210520164501  本丸跡では、ハクセキレイ。二の丸跡を歩いている時、コゲラの鳴き声が聞こえたものの、姿は見えず。あまりにも鳥が出て来ませんので、春先から何となく恒例になっている奥平屋敷跡での「鳥見タイム」も早々にお開き(いつもは小1時間なのですが、今日は、30分足らず)。

Img_8376c Img_8401c_20210520164401  花菖蒲はボチボチと咲いて来ていますが、まだ見頃にはほど遠い様子。これらの2枚は、管理事務所の南にある菖蒲園で撮ったもの。今のところ咲いているのは、稲妻(紫色)、曲水の詩(ピンク色)、青柳(薄いブルー)の3種類です。奥平屋敷跡北の菖蒲園で咲いているのは、一昨日載せた薄い黄色の花のみ(2021年5月18日:悲報、ツバメの巣2ヶ所が崩落)。

Img_8460c_20210520164501Img_8465c_20210520164501  本丸跡の花菖蒲園。どういうわけか、もっとも東のエリアでのみ咲いています。ちょうど名札が掲げられていないところで、私には品種名が不明。

Img_8476c_20210520164501Img_8488c_20210520164501  紫色の花菖蒲は、花が見事。上に載せた稲妻と同じ色模様をしているようにも見えるのですが、「自信があるか?」と問われると、どうもイマイチ(苦笑)。右のピンク色の花のものも、曲水の詩に似ているような気がしていますが、それ以上でもそれ以下でもありません(笑)。

Img_8512c_20210520164501 貝塚公園では、カワラヒワ、スズメなどがいた外、コゲラを目撃。ちょっと高い木のてっぺんにいました。証拠写真しか撮れず、残念。九華公園で一時期、巣穴を掘っていたのですが、結局、営巣はせず。貝塚公園でも、木をつつく音がしていたのですが、やはり営巣はしていないと思います。

Img_8515c_20210520164401Img_8548c  内堀公園でベンチに座って休憩していたら、イソヒヨドリが登場。初めにメスがやって来て、そのあとこのオスが追いかけてきた感じ。メスの写真は撮れなかったのですが、見ていたら、オスがメスに貢ぎ物の毛虫を持ってきたのに、受け取ってもらえなかったようでした。メスはどこかに行ってしまい、オスはしばらくして、毛虫を自分で食べてしまいました。

Img_8576c_20210520164401Img_8586c_20210520164401  京町でツバメの巣チェック。京町Aは、先日書きましたように、巣が崩落し、今日も親ツバメは来ていませんでした。左の写真は、京町H。親が巣に就いています。右の写真は、京町Sの巣。崩落した巣は放棄し、先日同様、となりにある古い巣を修復していました。京町Mにも親ツバメが座っていました。

Img_8256c_20210520164401Img_8614c_20210520164601  アサガオの発芽状況。左の写真は、今朝6時20分を過ぎた頃のもの。右は、10時半過ぎ。5ヶ所から芽が出ていましたが、4時間ほどでけっこう伸びてきていましたし、もう1ヶ所からも発芽しています。

Img_8630cImg_8636c_20210520164601  16時過ぎの写真。芽はさらに伸びてきています。コンデジ(Nikon coolpix S7000)でタイムラプスも撮ったのですが、「街中モード」では最長25分間しか撮れません。しかし、25分のタイムラプス動画でもよく見ると、伸びているのが確認できます。もう1つの植木鉢でも芽が出て来ています(右の写真)。

Img_8347c_20210520172701  ところで、昨日の授業の質問へのQ&Aは、午前中に書き終え、午後、最終チェックを済ませて、助手の先生にメールで送って、印刷をお願いしました。去年までですと、感想、質問などをまったく書かない学生もいたのですが、今年は皆が毎回きちんと書いてくれます。それだけ真面目に聞いてくれている証拠と思いますし、いろいろと考えたものもあり、楽しみつつ、回答を書くのにアタマを使っています。

Img_8452c  オマケ。桑名市では、昨日から新型コロナワクチンの個別接種が始まっています。公園前管理人のOさんは、昨日、早速かかりつけ医の先生のところでワクチンを打ってもらってきたそうです。「今日は、肩の辺りがちょっと張った感じだけど、それくらいで、他は大丈夫」と言っておられました。

2021年5月19日 (水)

案の定雨で苦笑……アサガオの芽が出て来ました

0519rain Dscn3926c  超パートタイマーの出勤日でした(微苦笑)。が、案の定、雨(爆)。梅雨入りも早かったので、昨日も書いたように、2018年の再現かと危惧しています(2018年6月20日:授業点描と通勤電車の楽しみ……オマケはジンクスの検証(笑))。しかも、桑名のアメダスでは、ご覧のように9時台から13時台までと、ちょうど出勤から退勤の時間帯に雨が降るという巡り合わせ。これは、もう笑って、諦めるしかありません。桑名駅を8時40分に出る松阪行き急行に乗ったら、塩浜駅あたりから雨が当たってきました(ちょうど9時頃)。帰宅したのは、13時半少し前。昼食を食べて一休みしていたら、空が明るくなってくるという始末。まぁ、こんなもの。「運を天に任せる」しかありません。

Dscn3891c  授業は、前回の積み残しが少しありましたが、次のテーマは今日と来週との2回でこなしますので、何とか吸収できると思います。学生諸君の出席率は、90%弱でいつも並でした。例年、雨が降ると出席率が下がることがあるのですが、今のところは大丈夫。コロナに梅雨入りで学生の皆さんの気分も滅入るとは思いますが、めげずにやってもらいたいと思っています。

Dscn3886c Dscn3889c  ときどき書きますが、出勤の時、電車ではまずは、当日の補足説明と授業レジメをざっと確認します。その後は、車窓風景を眺めているのがほとんど。昔は、本を読んだりしましたが、この頃は老眼で読書には不適切な環境となっています。それ故、外を見ている次第。これら2枚は、白子~江戸橋間の東側の風景。雨が降っていますが、よく見ると、水田に白いサギの姿が見えるのです。今の時期、塩浜~江戸橋の間、水田にサギたちが来るようになっています。これを観るのが通勤の楽しみ。

Dscn3894c  こちらは、帰りに町屋川鉄橋を渡る時に撮ったもの。雨天&コンデジ写真ですから、条件が悪く、クリアではありません。中央、川の中に白いサギ(たぶんダイサギ)と、手前側、右下の中洲の端っこにアオサギがいます。

Dscn3909c Dscn3922c  ところで、月曜の朝、アサガオの種を蒔きました(2021年5月17日:梅雨入り2日目、アサガオの種まきと歴史調べ)。夕方、17時前によくよく見たら、芽が2本、出て来ていました。こんなに早いとは思っていませんでした。小学生がするようなことではありますが、素直にうれしい(微笑)。ご笑覧くだされば、幸い。

Dscn3895c  明日の天気予報は、午前中は晴れのち曇り。雨は午後からとなっていますので、散歩に行けると期待しています。いつもの授業のQ&Aは、今のところ1/4くらいの進捗状況。ボチボチと進め、明日中には完成予定。写真は、帰宅途中、近所のお宅で撮ったアジサイ。

2021年5月18日 (火)

悲報、ツバメの巣2ヶ所が崩落

Img_8252c_20210518161501  予報では、終日曇りで、夕方にわか雨でした。朝のうちは晴れ間も出ましたが、16時前からアメダスには記録されないくらいの弱い雨。いつも通り、7時半から3時間、散歩。住吉神社、江戸町、九華公園、貝塚公園、内堀公園、京町、吉津屋町、新築公園、常磐町、寺町商店街とたくさん歩いたつもりが、5.8㎞。やはり散歩はいいなぁ、というのが率直な感想。27.7℃になり、汗をかいて帰ってきました。

Img_7884c_20210518161601  我が家を出てすぐの住吉入江近くのお宅のテレビアンテナにメジロ。大きさに似合わないくらい、辺り一帯に響き渡る鳴き声。どこにいるのか?!と思うくらい(笑)。諸戸氏庭園、桑名七里の渡し公園あたりには、スズメ。メジロの鳴き声は他からも聞こえてきます。揖斐川の堤防に上がると、揖斐長良川の中洲から、盛んにオオヨシキリの鳴き声が聞こえてきます。

Img_7933c_20210518161601 Img_7958c_20210518161501  九華公園では、今日も鳥は少なく、スズメ、ムクドリ、カワラヒワ、シジュウカラ、ハクセキレイ、ヒヨドリ、ドバト、カラスなど。あまりに鳥が少ないので、普段は撮らないドバトも1枚(苦笑)。スズメのヒナは、奥平屋敷跡にて。スズメのヒナは、このあと、二の丸跡や朝日丸跡にもいました。

Img_8040c Img_8048c  朝日丸跡にて、ハシブトガラスの親子。ヒナが、親に餌をねだる行動は、スズメやカワラヒワなどと同じように、頭を下げ、翼を上下しながら鳴きます。このシーンを見ると、どちらが親で、どちらが子か分かりますが(左の写真)、パッと見では(たとえば、右の写真)、区別は難しい。

Img_8171c_20210518161501  貝塚公園、内堀公園では、カワラヒワ、ムクドリ、スズメなど。貝塚公園で耳慣れない鳥の鳴き声が聞こえたのですが、しばらく探しても、姿は見えず。四阿のあたり。残念。正体不明(笑)。内堀公園で、スズメの写真。

Img_8175c_20210518161501 Img_8182c_20210518161501  このあと、京町あたりでツバメの巣のチェックをしたのですが、ショッキングな出来事が2件。写真は、京町Aの巣。散歩に行けなかった2日の間に、巣が崩落したようです。ずっと使っていた巣ですから、耐久性が低下したのでしょうか。巣の真下には、落ちた部分がそのままになっていました。近くに、親ツバメの姿はありません。

Img_8192c_20210518161501 Img_8211c_20210518161501  もう1ヶ所。京町Sでも、巣が崩落(左の写真で、向かって右の巣)。ここは、ヒナが孵っていたのですが(2021年5月15日 :九華公園で花菖蒲が咲き始め、京町ではツバメのヒナが誕生……コロナワクチンの接種予約も無事完了)、その姿は見当たらず。しかし、たぶんここに来ていた親ツバメと思いますが、向かって左のしばらく使っていなかった巣を修復していました。繁殖のやり直しをしてくれると思います。田町、三崎通あたりの巣も、崩落しているところがあります。古い巣は、そういう危険性があるということでしょう。

Img_8185c Img_8220c_20210518161501  その他、京町H(左の写真)、京町M(右の写真)では、親ツバメが巣に就いていました。こちらでは、無事にヒナが孵ってくれることを願います。

Img_7909c_20210518161601 Img_7918c_20210518161601  さて、花の写真。江戸町の歌行燈本店さんのアジサイ、少しずつ咲いている花が増えています。月末近くには、花盛りとなるでしょうか。

Img_7947c_20210518161601 Img_7937c_20210518161601  九華公園の花菖蒲園。チラホラと咲いて来ています。まずは、管理事務所の南のところ。先日から咲いている曲水の詩、稲妻に加え、青柳(伊勢系)が咲き始めました。

Img_7976c_20210518161501  奥平屋敷跡のすぐ北にある花菖蒲園では、こちらが2~3本咲いていました。ここの花菖蒲園は、バラバラに植えてありますので、何という品種かは不明。

Img_8141c_20210518161501 Img_8150c_20210518161501  本丸跡の花菖蒲園でも、2種類が咲き始めていました。ただし、ちょうど品種名を書いた札が立っていないところで、何という種類かは分かりません。詳しい方であれば、お分かりになるかも知れません。

Img_7877c_20210518161602  ところで、今日は、やっとファンヒーターを片付けました(苦笑)。いわれないとやらないのです。昨日は湿度が高くて不快でしたので、エアコンの試運転をしていましたので、「いい加減にファンヒーターは片付けよう」となった次第。ついでに、扇風機も出してきました。

Img_7968c_20210518161601  明日は、今年度5回目の江戸橋での仕事。リソースによって違うので、戸惑うのですが、朝方雨という予報と、昼過ぎから雨という予報とがあります(苦笑)。昨年はすべて遠隔授業でした。一昨年(2019年)は、晴天に恵まれましたが、一昨昨年(2018年)は、雨続きでした(2018年6月20日:授業点描と通勤電車の楽しみ……オマケはジンクスの検証(笑))。この年は、前期途中からピンチヒッターで1科目増え、1コマ目、2コマ目と連続して講義をしていました。この年、6月20日までの10回の仕事のうち、完全に晴れたのは、1回のみ。傘マークがあるのは何と8日(「のち曇」「のち晴れ」を含みます)でした。この時のイメージがありますので、助手の先生からは、「今年は天気はどうでしょうねぇ?」などといわれます(笑)。

2021年5月17日 (月)

梅雨入り2日目、アサガオの種まきと歴史調べ

0517amedas 05171525rain  梅雨入り2日目。先ほど、テレビの天気情報を見ていたら、「梅雨入りが早いからといって、梅雨明けも早いとは限りません。今年の予想は、7月17日頃(ウェザーニューズ社の予想)」と言っていました。2ヶ月も雨の季節が続くのかと嘆息(苦笑)。昨日から今日にかけては、いかにも梅雨という雨の降り方。11時過ぎに少し強い雨がありましたが、午後になって2時過ぎくらいからは雨は上がってきています。午前中、やむを得ない用事で、10時過ぎから1時間ほど、駅方面に出かけたのみで、蟄居生活でした。明日は、午前中は晴れのち曇りの予報。散歩に行かなくっちゃ(笑)。

Img_7804c_20210517160401Img_7814c_20210517161201  昨日、アサガオの種を……と書きました。育て方をよく見たら(たとえば、こちら)、「芽切り」をして、一晩水につけた方が発芽しやすいとありました。そこで、保管してあった種にニッパーで傷をつけ、一晩水につけました。その間に、鉢(去年使ったものと他にもう1つ)、土を用意しておきました。ここまでが昨日の作業。といっても、大した作業量ではありません。種が小さいので、芽切りをするのにちょっと苦労したくらい。

Img_7843c_20210517160401 Img_7855c_20210517160401  今日は、用事に出かける前に「種まき」作業。左の写真は、一晩水につけたあとの種の様子。鉢に入れた土に、割り箸で深さ1.5cmほどの穴を開け、種まき。芽が出て来てから、間引きすればよいと考え、ちょっと多めに種を蒔いてあります。100均園芸が基本ですので、100均ショップで買ってきた「花と野菜の土」に「赤玉土」を混ぜてあります。種まきもすぐに完了。あっけないくらい。

Img_7859c_20210517160401  こちらが、種まき完了の状態。と書いても、鉢に土が入っているだけに見えます(苦笑)。しばらくは、水やりに注意すればオーケーのはず。

Dscn3881c  それ以外の時間は、本を読んだり、調べ物をしたり。調べ物は、桑名の歴史に関わることがら。市民大学郷土史学科の第1回講義で、「国替え」が取り上げられました。そこに出て来た、野村増右衛門事件や、豪商・山田彦左衛門についてもう少し詳しく知りたいと考えてのこと。野村増右衛門(正保3(1646)~宝永7(1710)年)は、もともと8石3人扶持という微禄の小者に過ぎませんでしたが、当時の桑名藩主・松平定重はその実力を評価して登用しました。野村は改革で倹約をはじめ、元禄大火による城郭並びに城下の復興再建、幕命による津藩との相模酒匂川の大工事の完成、領内町屋川下流の新田開発、員弁郡宇賀川改修による農地の開発、神社仏閣の造営修理、道路河川の修復、地場産業の開発などに寄与するなどの政策を実施して次第に頭角を現し、750石取りの郡代という異例の昇進を遂げました。しかし、公金の横領や農民の搾取、豪華な私生活、一族親族の登用その他様々な嫌疑の訴状が家老などの連名で出され、逮捕・糾問され、わずかに弁明のできなかったことがらで、死罪に処されています。一族44名も死刑となり、関係者に至っては370人余(一説に571人)に及ぶ大粛清事件になったのです。勝手にハイキングで、野村の墓(2021年2月9日:20210206桑名の八風街道を行く(能部から志知へ)その2……善教寺、櫛田神社、野村増右衛門の墓から平群神社へ)や、供養塔(2021年1月15日:大山田川あたりでバードウォッチングとプチ歴史散歩……大正寺と尾野神社について付記、修正しました【1/18】)を訪ねています。山田彦左衛門は、江戸時代の豪商。材木で財をなしたようです。奥平松平家時代には、藩の御用商人でした。我が家のお隣の諸戸氏庭園は、この山田彦左衛門の隠居所であった庭園を初代諸戸清六氏が買ったもの。桑名の歴史について書かれたものに、その名前は登場するのですが、あまりまとまった内容を見たことがないのです。奥平松平家の松平忠尭が忍藩に移封されたとき、忍に行っていて、資料があまりないのかも知れません。

Inabevaccin  余談。コロナワクチンの予約については、東京や大阪で大規模接種センターの予約も始まったそうですが、あちこちで予約できないという事態が続いています。高齢者はネットが苦手という理由で、ネット予約を支援する仕事を自治体がしているという話しもあります。が、私見では、これはそもそもワクチン接種のやり方、予約の仕方が悪いから、余分な仕事をしているように思えます。桑名のお隣のいなべ市では、左の画像にあるよう、接種会場は、いなべ総合病院1ヶ所で、日時は地区別に割り振ってあります。個別通知によって日時指定ですので、予約の必要はありません。指定日時に接種できない場合や、日時の変更が必要なときには、専用電話へ連絡するのです。会場までの交通手段がない場合には、各地区老人会単位でバスの送迎があるといいます。これこそ、住民サービスのお手本と、私には思えます。

2021年5月16日 (日)

早くも梅雨入り……ベランダ園芸の近況も

Img_7722c_20210516115101  午前中に東海地方にも梅雨入りが宣言されました。平年よりも3週間も早いということです。今年は、春先から「花が早いな」と思っていたら、梅雨入りまでもこんなに早くなってしまい、いったいどうなっているのでしょう? 梅雨明けも早い? 暑くなるのも早い? 猛暑が来る? あまり先取りして心配しても仕方ありませんが、気になってしまいます。

0516rain 0516weather  5時過ぎに起きた頃からすでに雨は降っており、雨雲レーダーを見ても、止み間はありそうですが、こういうときに散歩に出ると、途中で降られること必至(笑)。それ故、端から散歩は諦めています。

Img_7729c_20210516115101 Img_7743c_20210516115101  午前中は、まずは、メダカハウスの水替え。100均で買ってきた食品保存容器が4つと、樹脂製の睡蓮鉢が1つ。すべて、洗って水を入れ替えました。小1時間の作業。見た目には、きれいになって、メダカも気持ちよさそうに思えるのですが、メダカたちにとってはどうなのでしょう?

Img_7746c_20210516115101  ホテイアオイは、連休の頃、寺町商店街の花屋さんで買ってきたもの。去年買ったものがあったのですが、かなり枯れてしまっていました。復活を期待したのですが、思うようには行かず。1個¥100は、ちょっと高い気もしましたが、やむを得ません。メダカはすでに、このホテイアオイの根に卵を産み付けています。以前は、卵が産み付けられた水草は、別の容器に入れたのですが、最近はそのまま。親が子どもを食べるという話しもありますが、あまり増えすぎても困るということでこのようにしています。

Img_7752c_20210516115101  雨の日の記事の典型(笑)として、ベランダ園芸の近況。左の写真は、今日のサギソウの様子。小ぶりのプランターに7株が植えてあります。大きさも例年並みですので、生育は、順調と思います。

Img_7761c_20210516115101 Img_7775c_20210516124201  こちらは、オモト(万年青)。その名の通り、年中青々としています。伝説ではあるものの、徳川家康の江戸城入城に先立ち、徳川家が代々栄えますようにと、葉を常に保つオモトを家臣が献上したといいます。これまではあまりマジメに世話はしていませんでした。花も咲くはずなのですが、見たことはありません。今日、マジマジと見てみたら、新しい芽らしきものは出てきていました。雨の日には、じっくり眺める時間を作ることにします。

Img_7764c_20210516115101  午後からは、アサガオの種まきでもしようかと思ったり、今日それをやってしまったら、明日も雨だから、することがなくて退屈するかな、などと思案中(苦笑)。市民大学郷土史学科の第1回のまとめはしてしまいました。そこから派生する郷土史の勉強でもしようか、本でも読むかとも思ったり。

2021年5月15日 (土)

九華公園で花菖蒲が咲き始め、京町ではツバメのヒナが誕生……コロナワクチンの接種予約も無事完了

Img_7707c_20210515123401  本来でしたら、今日は、桑名でJRさわやかウォーキングが予定されていたのですが、愛知県に緊急事態宣言が出たため、中止。5月中のJRさわやかウォーキングはすべて取りやめになってしまい、残念。訳あって、10時から散歩スタート。今日は、娘が付き添い(笑)。週末になると、娘も「歩く」というのです。理由は、定かではありません(というか、書かないことにします)。住吉神社、七里の渡し跡、歌行燈、九華公園、内堀公園、京町、寺町商店街と4.4㎞。1時間半。

Img_7558c_20210515123501 Img_7562c_20210515123501  歌行燈にまたもや行ったのは、娘が自分もアジサイが見たいといったから。昨日から、さらに咲いたものがありました。これからの楽しみです。ときどき見に行くことにします。現地ではまったく気づかなかったのですが、帰宅してパソコンで写真を見たら、歌行燈さんの店頭にも、歴史案内人の方々による東海道の案内板がありました。相も変わらず「見れども見えず」です。

Img_7577c_20210515123501 Img_7585c_20210515123501  九華公園では、花菖蒲が咲いていました。昨日、咲きそうだと書いた2種類。肥後系の曲水の詩と、同じく肥後系の稲妻。3箇所、花菖蒲園がありますが、今のところ咲いていたのは、この3本のみ。今月末頃に見頃となるかなという気がしています。

Img_7595c_20210515123401 Img_7604c  時間が遅いので、野鳥はあまりいません。相撲場近くでコゲラを2羽目撃したものの、写真は撮れませんでした。もっともたくさんいたのは、今日もスズメ。ヒナもあちこちにいます。左の写真に写っているのも、ヒナと思われますが、巣立って少し時間が経っている気がします。このヒナ、単独行動。すでに親からは離れたようです。文献的には、スズメの親が巣立ったヒナを世話するのは、巣立ち後10日ほどといいますから、もう自立している(させられている?)のでしょう。このほか、カラスのヒナもいて、親から餌をもらっているのですが、ちょっと動くと親か、ヒナか区別がつかなくなります。

Img_7651c_20210515123401 Img_7679c_20210515124801  京町では、京町A、京町H、京町Sの3箇所のツバメの巣を見てきました。いずれも親ツバメが巣に就いていました。その中で、京町Sでは、ひなが誕生していました。左の写真では、5羽のヒナがいるように見えます。ツバメの一腹卵数は3~7個といいます(こちら)。ただ、右の写真では、ヒナが6羽いるようにも見えます。いずれにしても、無事に育って欲しいと願っています。

Img_7713c_20210515123401  寺町商店街では、娘にねだられてスイーツをゲット。大黒屋さんという和菓子屋さんを覗いたら、今日から販売を開始したわらび餅を勧められ、ついつい買ってきてしまいました。本日のおやつは、これです(微笑)。

1621033696935c  ところで、新型コロナワクチン接種の予約、今朝、無事に済ませて来ました。そろそろ落ち着いた頃かと思ったものの、実際に行ってみるまではどのくらいの行列か分からず、不安を抱きつつ、朝7時20分過ぎにかかりつけ医に到着。拍子抜けしました。5番目なのです。診療開始は8時半なのですが、ワクチン接種の予約は8時から受け付けてもらえました。到着から1時間で予約まで完了。6月5日、26日の予約が取れ、一安心。キャンセルなどという羽目に陥らないように注意しなくてはなりません。

 待っている途中、主治医&友人が様子を見に出て来ました。月曜の予約開始以来、昨日までで、スタッフともども疲労困憊だといっていました。初日は、駐車場からクルマが溢れ、近くの県道の信号交差点まで渋滞していたのだそうです。「大変だから、お前、手伝っていけよ」といわれたものの、丁重に辞退(苦笑。プ~タロウ生活も長いので、足を引っ張ること必至ですから)。何ごとも、現場がもっとも大変という実感を新たにしてきました。医療関係の皆様には、大変お世話になります。何卒ご自愛くださいますように。

2021年5月14日 (金)

アジサイ、花菖蒲の季節も間近

Img_7220c_20210514153301 Img_7216c_20210514153301  予報では、30℃になって真夏日ということでしたが、28.9℃止まり。しかし、暑い(笑)。歩いてきたら、汗をかきました。7時40分から3時間かけて、住吉神社、川口町、江戸町、九華公園、貝塚公園、内堀南公園、外堀、京町、吉津屋町、京町に戻って寺町と少しバリエーションをつけて6.2㎞。川口町、江戸町と回ったのは、気が早すぎるとおしかりを受けること必定ですが、歌行燈さんのアジサイがどうなっているか見てきたのです(苦笑)。まだ咲いていないかと思ったら、すでに咲いている種類もありました。水やりの途中、写真を撮らせてもらいました。

Img_7166c_20210514153201 Img_7175c_20210514153201  さて、桑名七里の渡し公園には、ハクセキレイのオスが1羽。久しぶりに姿を見せていました。メジロの鳴き声も聞こえてくるのですが、やはり姿は見えず仕舞い。公園の南、住吉入江沿いの遊歩道にはスズメたち。ヒナも3羽ほど混じっています。揖斐長良川の中洲からは、オオヨシキリの声がよく聞こえてきて、気になります。

Img_7265c  歌行燈さんを回って九華公園へ。このところ、ヒヨドリはほとんどいません。スズメ、ドバト、ムクドリ、カワラヒワなどが中心。メジロの鳴き声が聞こえるときもありますし、シジュウカラの鳴き声はほぼ毎日聞かれます。奥平屋敷跡では、最近はスズメの親くらいしか来ません。左の写真は、今日の奥平屋敷跡。木々が青々としてきています。

Img_7290c_20210514153301  奥平屋敷跡では、松の木にカワラヒワ(左の写真)。きれいな声で鳴いていましたので、大人と思います。このほかには、スズメの大人くらい。

Img_7325c_20210514153301 Img_7347c_20210514153301  スズメのヒナは、二の丸跡や朝日丸跡によくいます。これら2枚の写真は、二の丸跡で撮ったもの。ただし、ご覧のように草が伸びてきていて、なかなかクリアには撮れないのが、難点といえば難点。

Img_7367c Img_7399c_20210514153201  朝日丸跡では、カワラヒワのヒナ。左の写真、写りがあまりよくないのですが、ヒナが2羽写っています。

Img_7448c  貝塚公園には9時40分。ムクドリか、カワラヒワしかいません(苦笑)。散歩友達が2人、木陰の風が通るところで休んでおられました。「今日は、木陰で風が通るところがいいなぁ」と。

Img_7452c Img_7466c_20210514153201  京町では、いつもどおり、ツバメの巣を見てきました。左は、京町H。オス、メスとも巣にいるという珍しいシーン。向かって左のツバメは、このアトスをでて、近くの軒先へ。他に巣に親ツバメがいたのは、京町A、京町S、京町Mと4箇所。京町Kは、巣作り途中で破壊されたと書きましたが、再チャレンジはしていない様子。京町Tも巣をつくりに来ている様子はありませんでした。昨年は、5月15日に京町Hでツバメのヒナが誕生しています(ツバメのヒナが誕生@市博物館)。

Img_7244c_20210514153301 Img_7250c_20210514153301  さて、冒頭には歌行燈さんのアジサイについて書きましたが、九華公園ではいよいよ花菖蒲が咲きそうになって来ています。管理事務所の南の菖蒲園では、昨日、蕾が膨らんで、ピンク色やら紫色やらが見えてきたと書きましたが、今日は、ご覧のように、咲く寸前。左の写真のものは、曲水の詩、右は稲妻。

Img_7434c_20210514153201  本丸跡の花菖蒲園でも、つぼみがたくさん出て来て、色が見えてきたものがあります。ここは、今年、すべて植え替えたところ。ちなみに、昨年、九華公園では5月18日に花菖蒲が咲き始めました(2020年5月18日:市博物館のツバメのヒナ、姿を消す……特別定額給付金、振り込まれました(微笑))。

Img_7510c_20210514153201  花菖蒲といえば、吉津屋町にある仏壇店でかなり咲いていました。ここはいつも早くから咲いていると思います。今まで、このブログで紹介したことはほとんどなかったような気がします。

Img_7492c_20210514153201 Img_7502c_20210514153201  ところで、吉津屋町を回って来たのですが、それは、昨日、桑名歴史案内人の方々が「東海道」と書いた案内板を持って歩いておられたからです。たぶんどこかに設置するのだろうと思って、今日、見てきたという次第。それが傑作。左の写真のように、九華公園前管理人のOさんが掲げられた看板の下にあったのです。色合いが違いますから、目立たないことはないのですが……。

Img_7506c_20210514153201  京町公園の前から県道504号線まで吉津屋町を歩いて、他にないか探したところ、石市石材店の前にも1つ、ありました。視線の高さにあるとよく分かると思いますが、お願いして掲げさせてもらうものですから、そうそう贅沢もいえないのでしょう。桑名でも、こういうものがつくられるようになったかと、ちょっとうれしい気持ち。

Img_7423c_20210514153201  余談。コロナワクチンの予約について、友人は昨日、予約を取ってきたという連絡がありました。ついでにいろいろと情報も教えてくれ、かかりつけ医のところは、午前、午後とも60名の予約枠のようです。医療機関によって状況はバラバラ。何時間も並んだという話がある一方で、電話がすぐに通じたという話しもありです。結局のところ、国は地方自治体に押しつけ、地方自治体のほとんどは、一見平等のような「先着順方式」を採用し、高齢者やその家族に面倒を押しつけ、混乱を招いています。つまり、上流から下流へと面倒が押しつけられて来ている、という構図。さらに、桑名市は、「桑名モデル」と称して、市の手間を惜しんで、開業医さんにもろもろ押しつけたという気がします。

2021年5月13日 (木)

花菖蒲のつぼみ、膨らむ

Img_7145c  昨日からの雨は思ったほど強くは降りませんでした。今朝は、小さい雨雲が残っていたものの、7時半くらいには雨は上がったので、7時45分から散歩開始。住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀公園、京町、南魚町、田町、三崎通から桑名七里の渡し公園を経て帰宅。5.8㎞。2時間半ほど。写真は、帰宅したときの北の空。スッキリとは晴れず、気温は25℃。

Img_6759c_20210513162401 Img_6857c  結論から書けば、今日も、人も鳥もあまりいませんでした。もっともたくさん見たのはスズメと、そのヒナたち。九華公園では、相撲場の辺りや、二の丸跡、朝日丸跡に親が連れて来ています。左の写真は、相撲場の土俵の上。土俵にはカバーが掛かっています。右は、朝日丸跡で、2羽のヒナが並んでいるところ。

Img_6985c_20210513162401  他に、シジュウカラもヒナを連れてきているのですが、シジュウカラの場合、ヒナは地上には降りてきません。スズメよりもよく動く印象もあります。しかも今日は、曇天で、写真を撮るのは難しい。明日は天気がよく、暑くなるといいますが、明日、再度チャレンジしたいと思います。

Img_6792c Img_6798c_20210513162401  九華公園では、3箇所の花菖蒲園をしっかり見てきました。まずは、管理事務所の南のところ。ここは、種類別に列を変えて植えられています。2種類の花菖蒲でつぼみが出て来ていました。右の写真は、曲水の詩という肥後系の花菖蒲。ピンク色の花が咲きます。

Img_6806c_20210513162401  こちらは、同じく肥後系の稲妻という花菖蒲。紫系統の花が咲きます。最近は、5月中旬から咲き始めますが、今年も同様のようです。本丸跡の花菖蒲園でもつぼみが出て来ており、先が色づいていました。本丸跡は、今年植え替えています。

Img_6976c_20210513162401  鎮国守国神社では、今日は例祭の1つである「当日祭・献茶式」ですが、新型コロナの影響で、宮司さんと氏子の代表の方による御神事のみが執り行われます。鎮国さんでは、今は、金魚まつりがメインのようになっていますが、本来はこの当日祭がもともとの祭だそうです。いつもは、拝殿の手前左側にあるところ(たぶん「払戸」だと思います)で神事が行われるのですが、今日は、雨もあって、拝殿にて。「当日祭」というからには何かの記念日だと思いますが、確かめてはいません。松平定信公(守国公)が、文政12(1829)年5月13日に亡くなられていますので、それかと個人的には推測しています。

Img_7071c_20210513162401  貝塚公園でも鳥は少なく、カワラヒワとそのヒナを見たくらい。人も鳥もいませんので、散歩が速く進むこと(苦笑)。散歩友達が多いと、口の運動をしてくるのです。

Img_7105c_20210513162401 Img_7111c_20210513162401  京町でのツバメの巣チェック。親ツバメが巣に就いていたのは、京町A、京町S(左の写真)、京町Hの3箇所。京町Mは不在。巣を作りかけていた京町Kでは、壁につけた泥が落とされていました。駐車場ですから、クルマを置いている方が、嫌がられたのでしょう。ちょっと残念。京町Tには、ツバメの姿もありませんでしたし、巣をつくっている様子もありません。

Img_7120c_20210513162401  清水町で新たに巣を見つけました。ここは、事務所兼住宅。2階の事務所に上がっていく階段の裏につくられています。車庫のようになったところで、ツバメが好む感じのところ。

Img_7003c_20210513162401  散歩から早めに帰宅しましたので、午前中で昨日の江戸橋での授業のQ&Aを書き終えました。一昨年までは、授業当日中(水曜日)に書いてしまったように記憶しています。アタマの働きが悪くなったのか、意欲やモチベーションが下がったのか、疲れるようになったのか、はたまた複合要因なのか? しかしいずれにしても、学生諸君の質問や、感想、コメントを読むと、いろいろと参考になり、また、回答や説明を考えて文章にしなくてはなりません。「学生たちのため」といいつつ、実は自分にもメリットが多々ありますので、止められませんねぇ(微笑)。

20210508「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第3回「富田~四日市」(その4)……建福寺、四日市陣屋跡、札の辻、本陣跡、問屋場跡、道標、諏訪神社からスワマエ商店街で「完」

210508tomida4  5月8日の「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第3回「富田~四日市」の本編その4です。旧四日市宿の中心部へと進み、建福寺、四日市陣屋跡、黒川本陣跡、問屋場跡、帯屋脇本陣跡、札の辻、道標と回ります。この道標のあたりから諏訪神社のところまで、短い区間ですが、昔の街道は失われています。諏訪神社からスワマエ商店街を出たところで、今日の東海道のコースは終了。昼食を摂り、ゴールの近鉄四日市駅へ。

Img_5492c_20210511112301 笹井屋本店の先、市立中部西小学校の北にお寺の屋根が見えます。曹洞宗のお寺、東冥山建福寺です。一昨年の近鉄ハイキングの伊勢詣りでは、道を間違えて、この寺に立ち寄っています(2019年3月31日:20190324近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅2日目~ 東海道、旅人気分で間の宿・富田から四日市宿へ」(その4)……四日市宿中心部(建福寺、四日市陣屋跡、黒川本陣跡、帯屋脇本陣跡、問屋場跡、札の辻)、道標を見て、諏訪神社からゴールの近鉄四日市駅へ(完))永和3(1377)年、曹洞宗の僧・竺堂了源が開創したと伝えられます。3代目蔵海令珍の時に、周囲の地を会下と称し、数百の人家が移住し、毎月4日を初日にして門前に市がたち、これから四日市の地名が生まれたといわれています。

Img_5468c_20210508170001 その後、文明2(1470)年、浜田城を築城した田原(俵)忠秀がその菩提寺である建福寺の伽藍を再興し、七堂伽藍の大寺としました。しかし、天正3(1575)年、織田信長軍によって浜田城は落城し、建福寺も兵火に遭い、大伽藍も烏有(うゆう)に帰し、その後、安政の地震、明治38(1905)年の大火、第2次大戦の空襲の被害で、すべてを失っています。現在の本堂は、昭和52(1977)年に再建されました。

Img_5472c  山門を入って左手には、「安政元年震災惨死者之碑」があります。安政元年には、東海地震南海地震とが、32時間をおいて起きています。この震災で亡くなられた300人あまりの方々の五十回忌法要を執り行ったときに建てたものと碑陰にありました(明治36(1903)年建立)。前回と同様、よく調べずに立ち寄ったため、境内に残っているという、芭蕉句碑には気づきませんでした(芭蕉の句碑は、本堂に向かって右手のソテツのあたりにあったようです)。また、泗水の井戸(四日市陣屋の辺りに4ヶ所あった良質な井戸のうち、1つが現存するというのです。これか?と思ったものはあったのですが、それは違いました)も見られませんでした。ちょっと残念。やはり、下調べは重要(微苦笑)。

Img_5501c_20210508170001  このあと、中部西小学校の西側を回って、四日市陣屋跡へ。中部西小学校は、四日市陣屋跡にあります。四日市は天領でしたので代官所が置かれました。慶長5(1600)年、徳川家康が水谷光勝を四日市の代官に任じて天領を管理させ、陣屋は、Img_8395c_20210511115701 慶長8(1603)年、水谷光勝によって築かれました。右に案内板にあった陣屋の絵図の部分だけの写真を載せています。時期によって建物には変更があったようですが、この絵図には42の部屋が描かれており、白洲もあります。享保9(1724)年、和郡山の松平吉里の領地となりますが、享和元(1801)年には再び天領となり、以後は多羅尾氏が代々代官を世襲しました。明治維新後は度会県の支所が置かれ、明治5(1872)年から翌年まで三重県庁となっています。しかし、明治9(1876)年に勃発した伊勢暴動によって焼打ちされ焼失してしまいました。ここ中部西小学校の辺りが代官所跡ですが、学校の正門に案内板があるのみで遺構は残っていません。「水谷光勝」という名前に記憶がありましたので、調べてみたら、彼の墓は桑名・萱町の顕本寺にありました(こちら)。

Img_5526c_20210508170001  陣屋跡を見て、旧・東海道に戻ります。東海道に戻るあたりでスタートから7㎞。写真が札の辻。江戸時代には、高札場があったところ。あちこちに「札の辻」という地名が残っています。また、ここは、「菰野道」のスタート地点。菰野道は、菰野町菰野まで続く11㎞の街道です。四日市宿の中心で、このあたりに本陣、脇本陣、問屋場がありました。

Img_5530c_20210508183301  黒川本陣跡は、現在、黒川農薬商会になっています(左の写真)。黒川本陣は、第二本陣で、第一本陣として清水本陣がありました。 第一本陣は清水太兵衛家が代々なり、高札場のあった札の辻北角に明治10(1877)年頃まで続きました。黒川本陣は、二番本陣で、文化8(1811)年頃から脇本陣だった黒川彦兵衛がついています。東京遷都の際、明治元(1868)年9月24日を初めとして明治天皇はこの黒川本陣を合計4回行在所として利用されたといいます。調べたところ、黒川本陣の門が、明治末期に薬師寺に移転されたとありました。その遺構が戦災にも遭わず残っているといいます。しかし、その薬師寺、今は、住職も亡く、表札の「薬師寺」の文字も朽ち果てているようです。場所は、黒川農薬商会から北西へ、国道1号線を渡ったところ。

Img_8401c_1_20210511125401  この近藤建材店が脇本陣の帯屋跡とされています(写真は、2019年3月24日撮影)。その根拠となる資料は必ずしも明確ではないようで、角川日本地名大辞典(旧地名編)の「辻の西南角に脇本陣の帯屋があった」という記述にしたがうと、この近藤建材店のところと考えられるということです。四日市は、海軍第二燃料廠をはじめ多くの工場群を擁した四日市は、アメリカ軍の重要攻撃目標とされ、昭和20(1945)年6月18日午前0時45分には、アメリカ軍B-29戦略爆撃機89機が焼夷弾11,000発・567.3トンを投下しています。このとき、人的被害は、被災者47,153人、死者736人、負傷者1,500人、行方不明者63人。約1時間の絨毯爆撃で全市の35%が焼失、市街地は焦土と化しました。このように空襲に遭ったがため、昔の宿場などは残っていないのだと思います。四日市空襲については、こちらを参照。

Img_5520c_20210508170001  問屋場跡。もとは福生医院という耳鼻咽喉科医院でしたが、現在は、東海道四日市宿資料館になっています。現在は、残念ながら新型コロナのため閉館中。こちらも根拠となる資料がないようで、角川日本地名大辞典(旧地名編)の「北町(近世~近代)」に、「清水家の西隣に問屋場が、辻の西南角に脇本陣の帯屋があった」との記述があり、また、東海道分間延絵図には辻の西南角辺りに脇本陣と問屋場が描かれています。これで旧四日市宿の中心部を一通り見てきたことになります。

Img_8392c_20210511130501  参考までに、こちらは、四日市陣屋跡の案内板にあった「東海道分間延絵図」の四日市宿の部分。「東海道分間延絵図」は、江戸幕府が東海道の状況を把握するために、道中奉行に命じて作成した詳細な絵地図です。地図の中央にあるのが、札の辻で、ここが東海道(東西=左右に伸びています)と菰野道(北に向かう道)の交差点。菰野道はここがスタート。札の辻の右下には四日市陣屋が描かれています。陣屋に向かって右(東)は、三滝川。橋がかかっています。ちなみに四日市は、東海道五十三次43番目の宿場。

Img_5536c  柳通を越えたところの民家の角に道標が建っています。文化7(1810)年に建立された道標で、「すぐ江戸道」「すぐ京いせ道」とあります。元々は、札の辻にあったようです。また、ここに現在建っている道標は、もとの道標が戦災で損傷したのを惜しんで、昭和28(1953)年頃、地元の人・大西清之助が稲葉町の永田石材店でこしらえた複製道標です(『四日市市史研究・すぐ江戸道の札の辻』より)。もとの道標は、昭和20(1945)年の戦火に遭って破損しています。その道標は、慶安(1650年)の頃、問屋役を務めていた吉田角左右衛門兼武の子孫の方の中庭に、鉄枠で補強されて休んでいるといいます(四日市市史研究第3号『“すぐ江戸道”の札の辻』より;情報源はこちら)。この道標については、いろいろな状況があるようですが、詳細はリンク先をご覧ください。

Img_8424c_20210511131101 Img_5539c_20210511130201  ちなみに、この道標は、写真(2019年3月24日撮影)にある仏壇店の道をはさんだ右角にあります。ここは、旧南町京方入口付近で、旧東海道が消失する地点です(ここから、諏訪神社の門前までの旧・東海道約50mは、国道1号線を通したため、消失。旧・東海道は、このお宅を斜めに通っていたと思われます。

Img_5557c_20210508170001 Img_5576c_20210508170001  国道1号線諏訪神社前交差点を渡って、諏訪神社へ。諏訪神社は、旧・東海道に面しています。鎌倉時代初期の建仁2(1202)年、信州の諏訪大社の御分霊をこの地に勧請し創祀されたと伝わっています。主祭神は、建御名方命(タケミナカタノミコト)と八重事代主命(ヤエコトシロヌシノミコト;事代主神(コトシロヌシノカミ)ともいいます)で、四日市・浜田の総産土神とされます。ここは、すでに2度ほど来ています。境内社には、稲荷社、山津見社、天神社がありますし、伊勢神宮と明治神宮の遙拝所、さらには明治天皇の御製歌碑もあります。諏訪公園には、誓文御柱(五箇条の御誓文を刻んだ塔)も。境内は一通り見て来ましたが、詳細は割愛します。こちら(20180323近鉄ハイキング「港町、四日市を散策 みやまどさんから四日市臨港をたずねて」へ(オマケ)……四日市旧港の「波止改築記念碑」、諏訪神社の伊勢神宮遙拝所、諏訪公園の「誓文御柱」)をご覧ください。

Dscn5160c 諏訪神社に隣接して諏訪公園があります(写真は、2017年11月28日の撮影)。中世ヨーロッパ調の中庭をイメージした公園として、中央にせせらぎと噴水があります。トリビアですが、公園の地下には、大きな「雨水調整池」があるそうです。すわ公園交流館の係員の方が教えてくださいました。この付近でたびたび洪水が起こり、その水がなかなかひかなかったことから整備されました。平成5(1993)年にできた「諏訪公園雨水調整池」は、長さ48m、幅33.6m、深さは深いところで23mもあり、20,400立方メートルの雨水を貯めることができるといいます。

Img_5566c_20210511144301  公園の北側エリアに、「すわ公園交流館」があります。様々なイベントを企画・開催し、中心市街地活性化をはかるための施設として活用されています。登録有形文化財。もとは、実業家の熊澤一衛が昭和天皇御大典記念事業として、鉄筋コンクリート赤レンガ造り2階建て一部塔屋付きの図書館建物を寄付し、四日市市立図書館として、昭和4(1929)年に開館したもの。

Img_5582c_20210508170001 Img_5588c_20210508170001  諏訪神社の先の東海道は、商店街になっています。その名もスワマエ商店街。諏訪神社の前にある商店街ですし、ここが諏訪神社の表参道の位置づけ。左の写真でアーケードの商店街になっていますが、この道が旧・東海道です。営業していない店もありますが、全体としてはけっこう活気がある商店街です。この商店街で見逃せないのは、大四日市祭に登場する「大入道」の人形(首が伸び縮みします。見たときも伸び縮みしていました)。任下用の前にいるのは、四日市のキャラクターである「こにゅうどうくん」。この商店街を出たところが、今日の東海道歩きの終点。ここまでで8.3㎞。13時10分を過ぎた頃。

Img_5600c_20210508170001 Img_5598c  近鉄四日市駅方面に向かい、一番街で昼食を食べるところを探しました。いろいろと店があって迷ったのですが、なぜか飲み屋さんへ(笑)。本当はここの2階にある「三重人」がいいかと思ったのですが……。アレやコレ屋というお店。隣のテーブルで美味しそうにビールを飲んでいる方も会ったのですが、ランチのみ。ソースカツ丼、¥968(税込み)。美味しかったものの、前期高齢者には、量がやや多く、カツが固め(苦笑)。1時間ほど滞在。

Img_5610c_20210508170001 Img_5617c_20210508170001  ゴールの近鉄四日市駅には、14時30分に到着。北口。14時51分の名古屋行き急行に乗車。桑名には、15時03分着。七里の渡しから近鉄四日市駅までは、3日間(3回)に分けて歩いたのに、たった12分で戻ってこられます(微苦笑)。¥300。現地で歩いたのが8.8㎞、自宅から桑名駅往復が2.2㎞で、合計11.0㎞。歩数は、スマホのALKOOで20,812歩。よく歩きました。ということで、「完」。

2021年5月12日 (水)

雨には降られず……今年度4回目の江戸橋での仕事【ワクチンについての余談もろもろあります】

Dscn3872c  大型連休で1週間開きましたが、水曜日で、江戸橋での仕事の日です。ずいぶん以前から、江戸橋に行く日の天候をよく話題にしています。江戸橋駅から徒歩10分あまりですので、天候は気になります。現役の頃は、地下鉄の出口から徒歩10秒ほどで勤務先の建物に入れるという好条件だったのが影響していると自分では思っています。今日は曇天でしたが、幸い、雨が降り始めたのは、14時過ぎ。帰宅してからでした。

Dscn3869c  今日は、受講者数が確定して、名簿をもらってきました。40名あまり。人数的には、ちょうどよいクラスサイズ。しかし、コロナ対策で、たぶん100名ほど入れる大教室を使っていますが、そもそも机・椅子も減らされていますので、ガラガラという感じで、何となくいいような、悪いような(苦笑)。今日で4回目ですが、出席率は、86~90%ほど。登録だけして、出席皆無という学生もあり、気になります。出欠は、出席票で確認するのですが、今風の「キラキラネーム」もあり、いったいどう読むのだ? という名前がかなりありました。今日もらった名簿にはふりがなが記載されています。目を通して、「ヘェ~、こう読むんだ」と感心することしきり(微苦笑)。キラキラネームは、音を先に決めて、そこに漢字を当てはめている印象。こういう場合、漢字には意味があるということはあまり重視されていない気がします。学生たちに「漢字には意味があるんだ」と話すと、「知らなかった」といわれることもあって、驚きます。

 以上、散歩には行っていませんし、これという写真も今日はありませんので、余談ばかりの記事で恐縮。雨は明日の朝までという予報。明日は散歩に行けるでしょうか。

 余談の極み:コロナワクチンの予約をめぐって、あちこちで混乱が起きています。某薬局チェーンの会長ご夫妻が特別扱いを求めた(秘書がしつこく要望したということだそうですが)ということも話題になりました。こういうことは、他でもあるんじゃないかと疑いたくなります。電話予約も、ネット予約もパンクしているというニュースはかなりたくさんあります。「まったくねぇ」と呆れるばかり。デジタル庁をつくって、こういうことをデジタル化しても、そもそも政府や、マイナンバーシステムに信頼がありませんから、きっとうまく行かないだろうと思えます。

 ちなみに、知人によれば、私のかかりつけ医のところは、今朝も開院時点でたくさんの行列ができていたそうです。普通に診察を受ける人ばかりではなさそうです。私自身は、ワクチン接種は早く受けた方がいいかなと考えているのですが、こういう混乱に自ら参加するのは、混乱をさらに増す要因になりますから避けたいと思っています。当初は、受付開始から1週間くらい経ってから行こうと思っていたのですが、もう少し様子を見ることにしようかと思案中です。

【さらなる余談の追加】 高齢者のワクチン接種をかかりつけ医で行うのは、一時期、短期間、「桑名モデル」とか言っていましたが、結局、市役所の手間を開業医さんに押しつけただけのように思えます。愚息がお世話になっている某耳鼻科医院では、今日なら7月4日の予約が取れるのだそうです。偏っていますねぇ。

2021年5月11日 (火)

20210508「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第3回「富田~四日市」(その3)……金場延命地蔵、道標2基、多度神社、三ツ谷一里塚跡碑、法泉寺、仏性院からなが餅笹井屋本店まで

210508tomida2  5月8日の「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」の第3回「富田~四日市」の本編その3です。その2は、光明寺という真宗本願寺派のお寺まででした。光明寺の先で東海道は、国道1号線と重なります。1号線に出て、金場延命地蔵(これは、八幡地蔵堂の地蔵と兄弟地蔵)、道標。その後、1号線から逸れて、多度神社と三ツ谷一里塚跡を経て、海蔵川を渡り、法泉寺、仏性院と回って行きます。

Img_5351c_20210508170001  光明寺からすぐに東海道は、左折、右折を繰り返し、国道1号線に出ます。海蔵橋の手前までは東海道と国道1号線は同じルート。その途中、国道の東側に金場延命地蔵があります。交通量が多いので、西側の歩道から写真を撮ったのみですが、ここの地蔵は、その2で書きましたように、八幡地蔵堂の地蔵と兄弟地蔵。もとは、羽津の東海道の南端、二重川(ふたえがわ)にかかる堺橋のたもとの堤(今の金場町交差点付近)にあったのですが、昭和48(1973)年、市道拡幅工事で二重川が埋められたのにともない、ここに移転しています。

Img_5355c Img_5359c_20210510192401  金場町の交差点は、5差路になっています。国道1号線と北から来る県道9号との間に道標があります。東海道と新濃州道の分岐点です。大正12(1923)年に建立された道標。南面には「右 四日市/左 大矢知道」、東面には「右 桑名/左 四日市道」とあります。金場延命地蔵と、この道標は、2019年3月24日の近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅2日目~ 東海道、旅人気分で間の宿・富田から四日市宿へ」で見逃したところでした(2019年3月30日:20190324近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅2日目~ 東海道、旅人気分で間の宿・富田から四日市宿へ」(その3)……「国寶元三大師道」道標、多度神社、三ツ谷一里塚跡、法泉寺を回り、嶋小餅店でみたらし団子を食べ、三滝川を渡る)。これでスッキリ(微笑)。

Img_5374c_20210510193601  国道1号線から多度神社の方に逸れて行くところにも道標があります。「国寶元三大師道」の道標です。これは、垂坂山観音寺への道を示すもの。元三大師(がんざんだいし)は、平安時代の天台宗の僧・良源(りょうげん、延喜12(912)~永観3(985)年)。垂坂山観音寺は、御本尊に良源をまつり、「垂坂山のお大師さん」「元三さん」として信仰を集めており、約1,100年の歴史がある天台宗のお寺。この道標から、北西へ直線距離で約3.5㎞のところにあります。この碑は、大正4(1915)年7月に三ツ谷の森太吉という方が建立しています。森太吉は、「 賣藥界の覇者」と言われます。碑の右側には、「垂坂山観音寺是より二十三丁」と記されています。23丁は、約2.5㎞。

Img_5377c_20210508170001 Img_5385c_20210510201801 この道標からすぐに多度神社があります。この神社は、その名の通り、桑名・多度にある多度大社から分祀された神社。それ故、主祭神は、天津彦根命(あまつひこねのみこと)。創立は、明治18(1885)年。明治40(1907)年、海蔵神社へ合祀されましたが、昭和25(1950)年に復興再建され、現在に至っています。

 Img_5389c_20210510201801 境内には、拝殿の東に南に向いて「慰霊」碑がありました。海蔵地区遺族会が建てたもので、戦没者57柱と戦災没者3柱を祀っています。昭和40(1965)年3月の建立。筆は、当時の田中覚・三重県知事。

Img_5399c_20210508170001  多度神社の、これまたすぐ先(100m足らず)、海蔵川の土手を登る途中の左側に三ツ谷一里塚跡の石碑があります。東海道の三ツ谷には、かつて一里塚がありました。しかし、その場所は昭和20年代に海蔵川が拡幅された際に、川の中に取り込まれてしまいました。「東海道分間之図」(元禄3(1690)年)によると、三ツ谷の一里塚は東海道が海蔵川に突き当った辺りに記されています。このため、平成13(2001)年、東海道宿場・伝馬制度制定四百周年を記念して、海蔵地区地域社会づくり推進委員会がこの場所に一里塚跡の石碑を建てて、後世に伝えることにしたのです。三ツ谷一里塚は、日本橋からは99里。

Img_5406c_20210510202601  旧道には橋がありませんので、国道1号線の海蔵橋に迂回します。海蔵川の堤防は、桜の名所です。海蔵川を渡ると、だんだんと四日市の町に入っていきます。

Img_5431c_20210508170001 Img_5417c  海蔵橋から200mあまりのところ、四日市市京町にあるのが、法泉寺。真宗本願寺派のお寺。四日市にあるのですが、ここは桑名の幕末の歴史を語る上では、外せません。明治元(1868)年、鳥羽伏見の戦いで敗れた桑名藩は恭順を決め、1月23日に先代藩主・松平定猷の嫡子・萬之助(後の松平定教)は家老を引き連れて、四日市の新政府軍陣営(真光寺:朝日町にある真光寺か)に出頭したのですが、実際に幽閉されたのは、ここ法泉寺です。萬之助は、法泉寺に100日間謹慎蟄居して恭順の意を表しました。当時の遺品が残り、寺宝となっているそうです。この時、萬之助はまだ12歳でした。法泉寺では人々の出入りが禁じられましたので、檀家も参詣できずに困ったといいます。

Img_5424c_20210510203001  法泉寺の境内には、太田覚眠師頌徳碑がありました。太田覚眠(慶応2(1866)~昭和19(1944)年)は、四日市出身で、真宗本願寺派の僧。法泉寺16世。明治36(1903)年、年西本願寺の開教師となり、シベリアに渡り、ウラジオストクに駐在。翌明治37(1904)年、日露開戦で強制送還されたが、講和条約締結後再びウラジオストクで布教に当たりました。

Img_5445c_20210508170001 Img_5434c  法泉寺の先に仏性院。浄土宗。ノーマークだったのですが、ふと見たら山門が見えたのです。これは行かねばなりません(微笑)。割と小さなお寺。ネットで調べても、これという情報は得られませんでした。

Img_5441c_20210511072801  境内にはお地蔵様。靖博地蔵尊という説明がありました。昭和19(1944)年1月21日、明野陸軍飛行学校(現在の陸上自衛隊明野駐屯地にある航空学校)北伊勢分教場(三重県鈴鹿郡川崎村(現在の亀山市北東部))を飛び立った複葉機(いわゆる赤とんぼ:日本軍の練習機は目立つように橙色に塗られていたことから別名「赤とんぼ」と呼ばれていました。その代表的な機種は、九三式中間練習機九五式一型練習機)が戦闘訓練中、接触事故を起こし、海蔵川周辺に墜落。林靖博少佐(名古屋市出身、当時27歳)が殉職しました。不憫に思った当地の有力者が発起し、婦人会などの協力を得て浜一色に地蔵尊を建立し、それが令和3(2021)年3月、ここに移転されたとあります。つまり、移転されたばかり。

Img_5454c_20210511110101 Img_5453c_20210511110101  続いて、三滝川を渡ります。橋は、三滝橋。このあたり、道幅は結構広くなっています。この三滝橋、江戸時代は、東海道を往還する人馬でにぎわう土橋でしたが、明治10(1877)年に板橋(長さ42間、幅2.5~3間)に架け替えられ、さらに大正13(1924)年6月には、鉄構橋(長さ約72m、幅6.3m)になっています。橋梁の歩道には、萬古焼陶板で作られた祭の絵や古地図などがあります。

Tokaido43_yokkaichi_20210511110201  ちなみに、歌川広重が「東海道五十三次」で描いた四日市宿は、この三滝橋あたりとされます。絵では、旅人が笠を飛ばされて慌てている光景が描かれています。遠景に船の帆柱らしきが立っていますので、上流側から見ていて、左が桑名宿の方と考えられています。土橋(どばし、つちはし、つちばし)は、一般には丸太を隙間なく並べて橋面を作った木の橋の橋面に土をかけてならした橋だそうです(城における土橋はこれと異なり、堀を横断する通路として設けられる土の堤)。江戸時代まで、日本の川にかかる橋のほとんどは土橋でした。広重の絵は、これとは違ったものになっていますが、実際にはどうだったのでしょう?

210508tomida4  三滝川を渡るあたりから、詳細なマップはその4になります。いよいよ旧四日市宿の中心部へと進みます。第二次大戦の時の空襲で昔の建物は焼失してしまっています。建福寺、四日市陣屋跡、黒川本陣跡、問屋場跡、帯屋脇本陣跡、札の辻、道標と回ります。この道標のあたりから諏訪神社のところまで、短い区間ですが、昔の街道は失われています。諏訪神社からスワマエ商店街を出たところで、今日の東海道のコースは終了。

Img_5461c_20210508170001 Nagamochi  三滝橋を渡った先で旧・東海道は左折します。いささか余談めきますが、三滝橋を渡ったところになが餅の笹井屋本店があります。土蔵造りの建物。天文19(1550)年、戦国時代の頃の創業とされます。初代・彦兵衛が、勢州日永の里に因んでつくったというように、もとは日永に笹井屋はあったようです。あの藤堂高虎も足軽の頃、なが餅のおいしさに感動し「武運のながき餅を食うは幸先よし」と大いに喜んだという話があります。なが餅は、小豆餡を白い搗き餅でくるんで平たく長くのばし、両面を焼香ばしく焼き上げてあります。同様の餅は、東海道や伊勢街道沿いにたくさんあったようですが、現在は、この笹井屋の他、四日市市には太白永餅(金城軒)が、また、桑名には、安永餅(永餅屋老舗と、安永餅本舗柏屋)があります。画像は、永餅屋老舗さんのサイトからお借りしました。小腹が空いたときのおやつに最適です。個人的には、安永餅本舗柏屋さんのものが好みです。

 詳細なマップその4に入って、ちょっと中途半端になりますが、長くなりますから、その3はここまで。その4では、旧四日市宿中心部から諏訪神社、スワマエ商店街へ行きます。

今日は、スズメのヒナ・デー

Img_6442c_20210511154401  5月も早くも1/3が過ぎました(笑)。こうやって年をとっていくのかなどと思ったりもします。それはさておき、今日もまた、いつも通りに散歩。7時半から住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀南公園、外堀、京町、寺町と5.3㎞。6㎞くらい歩いたつもりでしたが、ちょっと足らず。3時間。鳥はいません。最近では最も少ない印象。

Img_6413c  住吉水門のところで、ホオジロのオス。ちょっと距離があり、証拠写真(笑)。若いオスのような印象ですが、あくまでも印象。囀っていました。ここに来るまでも、このあと九華公園に着くまでも、ほとんど鳥を見ません。ドバトやヒヨドリもほぼゼロ。

Img_6458c_20210511154401  九華公園の奥平屋敷跡も、今日は鳥は少ないこと。ごく少数のスズメと、ごく少数のカワラヒワと、1羽のシジュウカラのみ。ハクセキレイを久しぶりに見ました。コゲラの鳴き声が聞こえたのですが、姿は見られず。烏、ドバト、ムクドリは今日は、来ず。ギャラリーは、私を含め4人。「鳥よりもギャラリーの方が多いぞ」というジョークが飛ぶくらい(苦笑)。

Img_6481c_20210511154501 Img_6549c_20210511154401  二の丸跡、朝日丸跡、九華橋あたりにはスズメのヒナがけっこうたくさん来ていました。親鳥が側にいるものもあり、ヒナだけで親が餌を運んでくるのを待っているものありで、それぞれに楽しめます。

Img_6560c  「見返り美人」のヒナも。先日も書きましたが、そろそろ「スズメの学校」が開かれないか、期待しているのですが、今シーズンはまだ見ていません。

Img_6585c_20210511154401  公園を散歩する方は、案外少なく、いつも歩いている人ばかり。カメは、この写真の中央下にも写っていますが、たくさん甲羅干ししています。人より、カメの方がはるかにたくさんいます。

Img_6612c_20210511154401  貝塚公園も静か。平日は、人はほとんどいません。最近、鳥も少ないのですが、今日は、貝塚公園でも、スズメのヒナに遭遇。2羽が親鳥につれられていました。

Img_6695c_20210511154401  京町では、いつも通り、ツバメの巣チェック。京町A、京町S、京町Mの3箇所で親鳥が巣に就いていました。左の写真は、京町Kの巣作り進行中のところ。作業は、少し進んだ感じでしたが、ツバメの姿はありません。どこから泥を撮って運んでくるのか、興味があります。もっとも近い水田でも、ここから南東へ800mほどあります。

Img_6672c_20210511154401  さらに、別のところで、物件を探していると思われるツバメのペアを見つけました。ここも商店をしているお宅なのですが、玄関先が奥に引っ込んでいます。その玄関先にやって来ていたのです。ツバメは、車庫や、こういう奥まった玄関で、屋根などがあるところを好むような気がします。ここは、京町Tと命名します。

Img_6708c Img_6711c_20210511154401  ほぼ余談。寺町商店街の河津桜の並木で、「サクランボ」が熟しているのを見つけました。花が咲いている頃から考えていたことを思い切って実行(爆)。味わってみました。が、渋い&苦いで、とても食べられたものではありませんでした。皆様には、試すのはお勧めしません。

Img_6387c_20210511154501  ところで、明日は、2週間ぶりに江戸橋での仕事。午前中は、晴れそうで、ありがたい(苦笑)。夜から木曜午前中にかけては、大雨の予報です。写真は、諸戸家の玄関前で撮りました。

 余談。散歩友達で、コロナワクチンの予約を取ろうと、電話をかけた方がありましたが、「全然つながらなかった」そうです。私は、もう少し時間をおいて、様子を見て行動します。

2021年5月10日 (月)

20210508「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第3回「富田~四日市」(その2)……八幡常夜燈、八幡地蔵堂、八幡神社跡、かわらずの松、志氐神社一の鳥居と妋石、光明寺を経て国道1号線へ

210508tomida2  5月8日の「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」、第3回「富田~四日市」の本編その2です。その1では、近鉄富田駅をスタートし、茂福神社と茂福城跡を見て、県道64号線の高架をくぐるところまで来ました。左の画像は、詳しいマップその2です。八田三丁目西の交差点がそこです。このあとは、八幡常夜燈、八幡地蔵堂と八幡神社跡、かわらずの松、志氐神社社号標・常夜燈・妋石、光明寺と進みます。光明寺の先で東海道は、国道1号線と同じルートになります。

Img_5226c_20210508165901  中部運輸局四日市自動車検査場を過ぎ、米洗川(よないがわ)の手前、西側に常夜燈があります。八幡(やわた)常夜燈です。一昨年の近鉄ハイキングでもここを通ったのですが(2019年3月29日:20190324近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅2日目~ 東海道、旅人気分で間の宿・富田から四日市宿へ」(その2)……八幡常夜灯、八幡地蔵堂、八幡神社跡、かわらずの松、妋石(みよといし;夫婦石)、光明寺を経て国道1号線に合流)、その時には、この常夜燈について詳しいことがよく分かりませんでした。今回、ここから先、羽津地区で立ち寄ったところには、「羽津地区まちづくり推進協議会」が新たに説明板を立ててくださってあり、いろいろと知ることができました。この常夜燈は、明治35(1902)年9月に建てられています。Img_5230c_20210510043201 両側面には「両大神宮」と刻まれ、台座には世話人として羽津村中人100余名の名があります。設置年代からみて、それ以前にあったものを建て替えたと考えられるのですが、以前のものの記録はないそうです。設置当時、茂福から米洗川までは、一軒の家もない「芝原縄手」と呼ばれる、松並木の寂しい道で追いはぎも出たといいます。一方、東海道中が盛んな頃には、このあたりまで四日市宿の飯盛り女や客引きが迎えに来ていたそうです(以上、説明板より)。このあと訪ねる八幡地蔵堂は、もともとこの常夜燈の向かいに建っていました。

Img_5238c_20210510044501 Img_5243c  八幡常夜燈のすぐ先に米洗川。左の写真は、その上流方向です。この先に伊賀留我神社(北伊賀留我神社と南伊賀留我神社があります)や、その近くには、天武天皇迹太川御遙拝所跡があります。天武天皇が壬申の乱で、奈良の吉野を離れて鈴鹿を経て三重県に入り、迹太川(とおがわ)のほとりで天照大神に戦勝祈願したと日本書紀にありますが、迹太川は、現在の米洗川であると考えられています。右の写真は、米洗川を渡った先の東海道の様子。

Img_5246c_20210508165901  八幡常夜燈から300mほど、八田第一集会所の隣に、八幡(やわた)地蔵堂と、伊勢国八幡(はちまん)神社跡があります。お地蔵様は、延命地蔵尊。このあと通った金場町にある金場地蔵尊と同じ一つの石から作られた兄弟地蔵で、こちらの地蔵、もとは羽津村の南北の入口(この地蔵は北の入口)に置かれ、村内に疫病が入り込まないようにするための結界地蔵といわれるものであったといいます。上に書いたように、昔は、米洗川北側の八幡常夜燈の向かい辺りにあったのが、昭和4年(1929年)に、八幡地区の住民によって現在地に移設されたそうです。トリビアですが、このお地蔵様、仏像の知識に乏しい石工が彫ったらしく、螺髪に来迎印という阿弥陀如来の形になっています。地蔵堂の前には「真誉法眼(しんよほうげん)上座」という石碑が建っています。是についても、以前来たときには分からなかったのですが、新しい説明板によれば、堂守の真誉師(しんよし)の遺徳を偲んで建てられたもの。

Img_5257c_20210508165901  八幡神社は、勧請年代は不明ですが、江戸時代の旅行記に、「一国一社にして村名も八幡(やわた)と称し、皇国六十六拝の一つに数えられている古社である」と紹介されています。東西40間、南北55間という広い社地を持つ、著名な神社出遭ったそうです。明治41(1908)年に志氐神社に合祀されて、ここ旧社地には「伊勢国八幡神社碑」と刻まれた石柱が建ち、往時を偲ぶよすがとなっています。八幡神社の遺品は、鳥居が志氐神社東口に、また、石燈籠が東海道沿いにある志氐神社一の鳥居脇に移設されています。

Img_5265c_20210508165901  八幡地蔵堂・八幡神社跡から400mほど、堀切川を渡る直前に、松の木が一本。「かわらずの松」です。戦前まで、このあたりは松並木でした。戦後は、経済発展にともなって、道路の拡幅が行われ、また、松食い虫の被害を受けて、東海道の松並木は姿を消してしまいました。この松は、樹齢200年以上とされ、江戸時代からここを行き交う旅人を見守っていたと思われます。ここは、今は羽津というところですが、その昔は「かわらず(川原須)」と呼ばれていましたので、その地名からこの松は「かわらずの松」と名づけられ、大切にされています。同行のK氏は、「もっと立派な松だと思ったがなぁ」とひと言。

Img_5303c  かわらずの松の先、スタートから4㎞を過ぎたところに志氐(しで)神社の一の鳥居と石柱、常夜灯などがあります。志氐神社は、上記の伊勢国八幡神社を合祀した先。神社は、この一の鳥居から400mほど北西に入ったところ(四日市市大宮町)にあります。いろいろと見るべきものもあるようですから、一度行ってみたいとは思っているのですが、まだ実現していません。往復800mの寄り道はちょっと厳しい。主祭神は、気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ;祓戸の神(ハラエドノカミ)ともいい、祓を行う場所である「祓戸(はらえど)」を守る神)。創祀年代は明かではありませんが、社記では垂仁天皇の頃といいます。

Img_5296c  先に触れたように、八幡神社にあった常夜燈が、ここに移設されています。「天下泰平 八幡宮御神前 国家安全」と正面に刻まれています。

Img_5299c_20210508165901  この志氐神社一の鳥居のところに、東海道の両側に2つの大きな石があります。これらは「妋石(みよといし)(夫婦石)」と呼ばれています。志氐神社には、伊弉諾尊(イザナギノミコト)と伊弉冉尊(イザナミノミコト)も祀られていて、縁結び・夫婦円満のご神徳があるとされます。古書にも「婦女の婚姻を求むる祈願を之になす」と記述があり、古来より、東海道を行き交う多くの旅人は、この夫婦一対妋石をなでて、縁結び・夫婦円満の願いを込めたといいます。石は、鳥居の真下に1つ(上の鳥居が写った写真をよくご覧ください)、道を挟んだところにもう1つ(左の写真)あります。きちんと撫でて来たらよかったかと、思ったりして(苦笑)。

Img_5307c_20210508165901  このすぐ先(100mあまり)には、初野山摂護殿光明寺(はつのざんしょうごでんこうみょうじ)があります。真宗本願寺派のお寺。元は大矢知村青木谷にあったといいます。弘仁年間(810~824年)に空海が諸国を巡回した時に、小堂を建てたのが始まりと伝わっています。寛正元(1460)年に、下野国高田の専修寺第10世眞慧(しんね)上人が諸国巡化の際、最初に近江国坂本の妙林院(浄土真宗寺院。真慧が専修寺の出張所として創建したものの、廃絶。跡地不明)から光明寺に来錫し、約1年間在住して付近を教化した時に、当時の住職が改宗して浄土真宗高田派に転じたといいます。

Img_5321c_20210510065401  享禄年間(1528~1531年)に、羽津城主赤堀左京大夫盛義(宗昌)が出家して光明寺に入り善願と名乗り、現在地に寺を移して初野山青木堂光明寺と称しました。天正年間(1573~1591年)に京都興正寺の勧めにより、高田派から本願寺派に転じたとされます。寛文3(1663)年2月、雷により堂宇、宝物、記録等一切を焼失し、創建の年月、開基の事蹟、中古世代住職名等すべて不明になりました。第5世俊応の妹せつが青蓮院宮に仕えた関係で、皇族所縁の品々を下賜され保管していたのですが、これらは、戦災で焼失しています。

Img_8233c_20210510065501  光明寺の山門前には、「八十宮(やそのみや)御遺跡」の碑が建っています(左の写真は、2019年3月24日に撮影)。八十宮は、霊元上皇の内親王(吉子内親王(よしこないしんのう);正徳4(1714)~宝暦8(1758)年;八十宮は幼名)で、正徳5年、7代将軍徳川家継の婚約者になったのですが、家継は翌年死去。享保11(1726)年内親王となり、同17(1732)年、19歳で仏門に入りました。徳川家継は江戸幕府の第7代将軍(在任:1713~1716年)ですが、宝永6(1709)年)7月3日生まれですから、婚約当時はわずか6歳。八十宮の方は、何と1歳で婚約しています。正徳6(1716)年閏2月18日(4月10日)に納采の儀を行ったのですが、そのわずか2ヶ月後、享保元(1716)年4月30日(6月19日)に家継は亡くなります。八十宮は、1歳7ヵ月で後家となってしまったのです。政治的な思惑が働いたのでしょうが、何ともいえない話。光明寺にこの「八十宮御遺跡」の碑があるのは、その宮付に光明寺第5世俊応の妹つねが召されたとされます(こちら)。碑は、昭和3(1928)年3月に桑名吉津屋町の寺本久治が建てています(寺本についてGoogleで検索すると、昭和22年の官報に名前が出て来ますが、どのような人物かは不明。こちら)。

Img_5334c_20210508165901  境内には、森多三郎紀念碑とその墓碑があります。文久元(1861)年、桑名藩が過酷な年貢米の増徴を命じたのに対し(当時の藩主は、松平定敬)、これを阻止しようと、羽津村組頭村方三役の一つで、名主、庄屋を補佐する役目)であった森多三郎ら17名が先頭に立って藩に抵抗しました。その結果、藩は年貢の増徴を断念することになったのですが、その後、多三郎は桑名藩庁に呼ばれて安永の料理屋に行き、毒酒を飲まされ、帰途、この光明寺までたどり着いたところで絶命したと伝えられています。この碑は、当時の羽津村の肝煎、組頭、小前惣代が藩の譲歩を勝ち取った記念に、多三郎の功績に報いるものですが、桑名藩の追及を畏れ、碑文は紀念碑という文字と、建立年、多三郎を含む百姓の代表名という簡素なもになっています。また、紀念碑の前には、「釋浄諦信士」と刻まれた森多三郎の墓碑が建てられています。

Img_5345c_20210508170001 Img_5281c_20210510070501  光明寺から200m足らずのところで旧・東海道は、左に曲がり、国道1号線に入ります。スタートからは4.6㎞ほどのところ。この先、金場町、三ツ谷と進みます。これもいささか余談ですが、羽津地区のあちこちに右の写真のようなものが置かれていました。「とうかいどう」と透かし彫りになっていて、電源コードがつながっていますから、夜は灯りが入ると思います。なかなか風情があっていい感じ。その2は、ここまで。その3は、国道1号線沿いにある金場延命地蔵や、道標を見て、多度神社へとなります。

愛鳥週間初日は、スズメとカワラヒワのヒナデー……午後からは市民大学郷土史学科へ【ワクチン接種について追記(5/10)】

Img_6070c  今日から愛鳥週間です。などということは、これまでほとんど書いたことがないと思いますが……(苦笑)。まぁ、年中、愛鳥週間という気持ちですから(笑)。したがって、いつもどおり、朝7時半から散歩&バードウォッチング。住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀公園、京町、寺町とまずは、5.1㎞。今日は、午後から市民大学郷土史学科の第1回講義がありますので、やや抑え気味。冒頭の写真は、住吉神社前から見た揖斐川、長良川河口堰。中洲からは、今日もオオヨシキリの鳴き声がよく聞こえて来ます。

Img_6015c_20210510165401 Img_6039c_20210510165401  拙宅マンションの公園にスズメファミリー。ヒナ1羽に親2羽。ヒナはスゴい勢い(笑)。左の写真のように、親が餌を持って来ると、飛びかからんばかりの勢いで行きます。ヒナはじっとしておらず、親を追いかけたりして移動しまくり。なかなかこれは、という写真が撮れません。「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」方式も、通じません。

Img_6103c_20210510165401 Img_6169c_20210510165401  最近の恒例どおり、諸戸氏庭園前からずっと、ほとんど野鳥はいません。もちろん、ハシボソガラスや、スズメ、ムクドリ、ドバトはわずかに見ますが……。九華公園の奥平屋敷跡でいつものように、Yさん、Mさんと鳥見というか、鳥待ちというか。今日よく見たのは、カワラヒワ。1つの家族は奥平屋敷跡の中を移動。ヒナは2羽いたように見えます。

Img_6110c_20210510165401 Img_6217c_20210510165401  スズメも出てきたものの、いつもより少ない感じ。しかも、親スズメばかり。虫を捕まえたスズメもいたのですが、これはどうやら自分で食べるためのようでした。1時間ほど待って、カワラヒワ、スズメのほかに来たのは、コゲラが1羽のみ。

Img_6269c_20210510165401  二の丸跡、朝日丸跡でも、スズメファミリーが、それぞれ複数いて、ヒナを連れてきていました。しかし、スズメのヒナはなかなかじっとしていません(苦笑)。その点、カワラヒワのヒナは、樹上の高いところにいるものの、親が来るのを割とじっと待っていますから、写真は撮りやすい。

Img_6083c_20210510165401 Img_6086c_20210510165401  花菖蒲園が気になって、3箇所とも見て回ってきました。まずこれらは、管理事務所の南のところ。ここでも、本丸跡と同様、少しずつつぼみが出て来ていました。ここも何とか咲きそうだと思えます。

Img_6189c_20210510165401  奥平屋敷跡の入り口の花菖蒲園。しばらく前には、葭のような草が生えていましたが、それはなくなりました。今年の花菖蒲、どうでしょう。何といっても市の花ですから、きれいに咲いて欲しいと思うのです。

Img_6361c_20210510165401  貝塚公園では、散歩友達のSさんに久しぶりに会いましたが、鳥はあまりいません。スズメ、ムクドリ、カワラヒワくらい。木の高いところでメジロが鳴いていたものの、姿は見えず。京町では、京町A、京町H、京町Sと巣を見てきました。AとH二は親ツバメがいましたが、Sでは不在。

Img_5884c_20210509145201 Img_6368c_20210510165401  昨日・5月9日に見つけたものの、当日の記事に書き忘れたのですが、京町のマンションで巣作りにトライしているツバメのペアがいました。左の写真は、昨日見たシーン。右は、今日の様子。少し作業が進んだような気がします。ここは、京町Kと名づけます。

Img_6372c_20210510165301  帰り道、住吉入江沿いでカワラヒワ・ファミリー。ヒナは2羽。ということで、愛鳥週間初日は、スズメとカワラヒワのヒナに楽しませてもらいました(微笑)。

Dscn3842c Dscn3844c  ところで、午後からは、予定通り、パブリックセンターで市民大学郷土史学科の今年度第1回講義。13時30分からですが、受講費の納入、開講式、オリエンテーションがあり、13時前に到着。13時半から2時間、全7回の講義です。8月は夏休みで12月まで月1回。

Dscn3850c  今年度のテーマは、「桑名藩の重要事件ー戊辰戦争を中心にー」というもの。第1回の今日は、「所替、国替、移封」について。桑名藩の藩主は、本多忠勝、忠政から久松松平家、奥平松平家、再び久松松平家で幕末を迎えています。このうち、久松松平家には、あの松平定信もいます。久しぶりに講義を聴いて、マジメにノートをとったら、アタマがいささか飽和気味(苦笑)。アタマを使う機会を増やさないといけません。

【新型コロナワクチン予約騒動についての追記(5/10)】 桑名市では、今日から高齢者を対象に新型コロナのワクチン接種の予約が始まりました。敢えて「騒動」と書きましたが、大変なようです。私自身は、主治医&友人が「1週間くらい経ってから来るように」と言っていたこともあり、今日はアクションは起こしていません。よそから聞くところによれば、我が主治医のところは、朝5時過ぎから待っていた人がいたとか。夕方、友人からの連絡では、午前中で120名を越える方の予約が入り、そこで今日の予約を打ち切ったそうです。友人は、「夕方ならいつも空いているから、診察がてら予約しよう」と思って立ち寄ったら、駐車場が溢れていたと言っていました。わざわざタクシーで乗り付けたのに、予約が終わっていたという方もあったそうです。今日の時点でも、いつどれだけワクチンが入ってくるか、不明のようですから、予約を受け付けるということ自体に無理があったと考えられます。いやはや、です。

 細かいことはともかく、総理の勇ましい、裏付けのアヤシいことばだけでなく、もう少しきちんと見通しを持って、システマティックにやらないといけません。それに年寄りが先にワクチンを受けた方がよいのかという気もします。医療関係者もまだ行き渡っていませんし、警察、消防、救急を始め、電気、水道、ガス、交通機関その他、生活インフラに関わる方たちを優先した方がよいとも考えます。

2021年5月 9日 (日)

20210508「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第3回「富田~四日市」(その1)……近鉄富田駅をスタート、明治天皇御駐輦跡碑、善教寺、薬師寺、常照寺、新設用水道碑・力石、證圓寺から茂福神社と茂福城跡に立ち寄り

 5月8日の「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」、第3回「富田~四日市」の本編その1です。桑名のアメダスでは、最高気温22.9℃、晴れあるいは薄曇りで、歩くのにはちょうどよい気候でした。近鉄富田駅をスタートし、東海道を歩いて近鉄四日市駅まで。この日で3回目でしたが、七里の渡し跡から伊勢神宮内宮までは、東海道・伊勢街道だけでも約94㎞あります。まだまだ15㎞地点。先は長いのですが、急ぐ旅ではありませんから、ユルユルと参ります。

210508tomida0  こちらがコースの全体マップ。立ち寄り箇所は割愛したところもあります。近鉄富田駅を8時50分にスタートし、東海道に入ってすぐに明治天皇御駐輦跡碑、善教寺、薬師寺、常照寺、新設用水道碑・力石、證円寺と回ります。その後、茂福神社と茂福城跡へ寄り道。東海道に戻って、八幡常夜燈、八幡地蔵堂・八幡神社跡、かわらずの松。光明寺、金場延命地蔵を眺めて多度神社で小休止(というには長く50分ほど)。三ツ谷一里塚跡を見て海蔵川を渡り、法泉寺。さらに三滝川を越えて、旧四日市宿の中心部へ。空襲で昔の建物は焼失してしまっています。建福寺、陣屋跡、本陣跡、問屋場跡、札の辻、道標。このあたりから諏訪神社のところまで、短い区間ですが、昔の街道は失われています。諏訪神社からスワマエ商店街を出たところで、今日のコースは終了。昼食を摂って(1時間)、ゴールの近鉄四日市駅へ。14時30分にようやく到着(笑)。現地で歩いたのは、8.8㎞。

210508tomida1  詳しいマップその1。近鉄富田駅東口から南東へ200mで東海道に入ります。富田地区市民センターに道標、続いて富田小学校の敷地内に明治天皇御駐輦跡碑。十四川の畔に善教寺、その先に常夜燈、薬師寺、常照寺と寺が続き、東海道が鉤型に曲がるところに新設用水道碑・力石があります。その裏手が證円寺。證円寺を出たところに服部泰次郎の道標。街道沿いに茂福神社の社五俵があり、寄り道することに。いったん東海道を離れ、茂福神社と茂福城跡に立ち寄って来ました。

Img_4996c_20210509200201  富田地区市民センターの敷地に道標が1基。「左 富田一色 東洋紡績 川越村 道」とあります。大正6(1917)年10月に建立されたもの。富田一色(現四日市市富田一色町)や川越村(現三重郡川越町)のほかに東洋紡績という当時全国一の生産量を誇る紡績会社の名が刻まれています。三重紡績(明治19(1886)年6月創設)と大阪紡績(明治15年(1882)5月創設)とが、大正3(1914)年に対等合併して東洋紡績株式会社になっています(現在の東洋紡)。東洋紡績富田工場は、東洋紡績の最大規模の工場でしたが、現在は、イオンモール四日市北店や、住宅地、四日市松原郵便局などになっています。

Img_4993c_20210509074201 259463ca_20210509074501  富田地区市民センターには「富田の焼き蛤」という説明板があります。焼き蛤といえば、桑名というイメージですが、実は、東海道の小向(おぶけ:初回に歩いた朝日町にあります)や、ここ富田で売られていました。小向、富田は江戸時代、桑名藩領でしたので、「桑名の焼き蛤」として有名になったと書かれています。四日市市立博物館の時空街道には、焼蛤屋が再現されています(右の写真)。当時は、松葉や松かさであぶっていました。

Img_5003c_20210508165901 Img_5007c_20210509200301  市民センターの隣、市立富田小学校の敷地内には、明治天皇御駐輦跡碑があります。「駐輦(ちゅうれん)」とは、天皇が行幸の途中で車を止め、お休みになること。つまり、このあたりで明治天皇がお休みになったことを示すのがこの碑。明治天皇は、富田茶屋町・広瀬五郎兵衛という方のところで4度休まれました。明治元(1868)年9月、東京に向かわれたとき、同年12月京都に戻られるとき、明治2(1869)年3月、神器を奉じて東京に遷都されるときなどの4回です。広瀬五郎兵衛宅は、この富田小学校正門から富田地区市民センターあたりにあったそうです。最初の時には、焼き蛤をご賞味になったこともあったと説明板に書かれていました。なお、記念碑は、公爵・近衛文麿の筆です。

Img_5054c_20210509200601  少し行くと、十四川に行きあたります。富田の町を西から東に流れています。ここは、桜の名所。桜並木が川の両岸に約1.2㎞にわたって続き、800本のソメイヨシノが植えられています。大正12(1923)年、地元で製網業を営んでいた伊藤勘作他の有志が植樹したのが始まりだそうです。

Img_5048c_20210509200601 Img_5028c_20210508165901  十四川を渡る手前、東側に成徳山善教寺(じょうとくざんぜんきょうじ)。真宗高田派のお寺。ご本尊は、阿弥陀如来。このご本尊は、国の重要文化財に指定されています。作善日記から仁治2(1241)年正月頃に造られたと考えられています。本堂は大変立派です。真宗高田派の本山である専修寺の如来堂を模していると説明板にありました。その昔、このあたりまで海岸線が来ていたことから「海戸尻(かいとじり)」と呼ばれていたといいます。ここに「海戸尻道場」があり、これが善教寺の前身であったそうです。

Img_5044c_20210509200601  こちらが善教寺の宝物殿。重要文化財に指定された木造阿弥陀如来立像と、その像内納入文書が収められています。阿弥陀様は、高さ79㎝の桧材寄木造りで、玉眼と漆箔が施されているそうです。像内納入文書は、修復のときに発見され、阿弥陀経などの御経の他、作善願文、作善日記など。

Img_5058c_20210509201501 Img_5064c_20210509201701  十四川を渡ったところに常夜燈。「氏子中」とはありますが、神社のものではなく、街道の常夜灯という説明があります。桑名の七里の渡しから伊勢まで、伊勢神宮へ導く光であったと書かれていました。天保10(1839)年の建立。常夜灯は近くにもう1基あったとそうですが、それは鳥出神社(四日市市富田2丁目)に移されています。街道沿いには、連子格子のある民家があちこちにあります。

Img_5069c_20210509201801 Img_5075c_20210508165901  スタートから1㎞の手前に薬師寺。浄土宗のお寺で、ご本尊は、阿弥陀如来。大同年間(806~810年)、この地に疫病が流行し、人々が苦しんでいたことを旅の途中で知った弘法大師が、薬師如来を彫って開眼すると、人々の難病はたちまち平癒したので、人々は弘法大師に感謝するとともに、薬師堂を建て薬師如来を祀ったことに始まるといいます。その後、茂福城主であった朝倉下総守盈盛(みつもり)が菩提寺としたそうです。しかし、永禄10(1567)年、瀧川一益の兵火で焼失しています。ちなみに、ここは尼寺。

Img_5065c_20210509201801  薬師寺の門前には、忠魂碑や慰霊塔が4基建っています。中央右にある忠魂碑は、帝国在郷軍人会富田町分会によって大正4(1915)年11月に建立されています(こちらのブログ)。中央左の慰霊塔の方は、大東亜戦争殉国士慰霊塔で、富田地区遺族会が建てたもの。4基ともの説明は、「いのりむし文庫」さんのブログ記事にありました。こちらをご参照ください。

Img_5089c_20210509202701 Img_5092c_20210508165901  薬師寺からほど近いところに光明山常照寺。浄土真宗本願寺派。四日市市茂福(もちぶく)町になります。天文7(1538)年、釈法導によって開山され、寛文年間(1661~1673年)にそれまでの天台宗から浄土真宗本願寺派に転派しています。詳細は、調べたものの分かりませんでしたが、本堂は明治42(1909)年に再建され、鐘楼・山門は明治の末に建てられたといいます。平成7(1995)年11月本堂・鐘楼の屋根の修復が行われたようです。

Img_5104c Img_5107c_20210509202701  鐘楼の鐘は、昭和27(1952)年の四日市大博覧会で「平和の鐘」として展示されたものです。ちなみに、「四日市大博覧会」は、2回開かれており、昭和27(1952)年のものは、「講和記念全日本農機具新日本産業大博覧会」です。この博覧会については、三重県のサイト「歴史の情報蔵」のこちらのページに言及があります。ちなみに、もう一つの「四日市大博覧会」は、「国産振興四日市大博覧会」で、昭和11(1936)年3月25日から同年5月13日までの50日間開かれました。この鐘の池の間(いけのま:梵鐘の部分の名。鐘身の中央部で、乳の間(ちのま)と中帯(なかおび)の間にあり、銘などが刻まれています)には、常口(じょうこう)の歌「一筋に世界の平和祈りつつつくやこの鐘永久に(とわに)ひびけと」が刻まれています(「常口は、調べたものの不明)。

Img_5100c  いささか余談ですが、この寺の山門から本堂に行くところにおもしろいものがありました。写真のように、石臼と思われるものが一列にはめ込まれているのです。それぞれに摺石の模様が異なっていて、楽しめます。

Img_5137c_20210509203801 Img_5112c_20210508165901  東海道は、常照寺のところで鉤型に曲がりますが、そこに新設用水道の碑と力石が2つあります。右の写真が「新設用水道碑」と力石。「新設用水道碑」は、新設された用水道を記念する碑。ここから北西に十四川から七丁(760m)の暗渠による水路を通し、各家の敷地内にマンボ(人工の地下水路、一般名はカナート。東海地方での呼称のようです。三重県北勢地方でもよくあります。「間風」、「間歩」、「万堀」などと表現)を設置して生活用水や防火用水として、明治37(1904)年から昭和中期まで利用したといいます。昭和34(1959)年の伊勢湾台風の水害で使えなくなり、この用水道は消滅しました。碑の右には、「水源地是ヨリ七町」とあります。

Img_5120c  力石(ちからいし)は2つあります。約32貫(約120㎏)と、約5貫(約19㎏)の2つ。明治の半ば、このあたりの2つの寺のお堂を再建する際に土台石として奉納されたもの。お堂の地築(地固め)に近郷在住の人々が奉仕に集まったのですが、土台石からこれを選んで、休憩時間に力比べに使ったといいます。大正の終わりごろまでこの石で力比べをして競ったといいます。肩越しまで担ぎ上げた人は幾人もなかったそうです。大きい方には、「三十三メ」と刻まれています。小さい方は、子ども用かと説明されています。

Img_5149c_20210509204201 Img_5152c_20210508165901  新設用水道碑と力石の裏手(山門は、旧・東海道を曲がったところ)にあるのが、林光山證圓寺(りんこうざんしょうえんじ)。当初は天台宗でしたが、天文年間(1532~55年)、住職が真宗本願寺の第10世證如上人に帰依して改宗したと伝わっています。その後、永禄10(1567)年、茂福掃部輔盈豊(もちぶくかもんのすけみつとよ)は裏切りを疑われ、滝川一益に長島城に呼ばれて謀殺されました。茂福城が落城すると、臣・林玄證(はやしげんしょう)は盈豊の遺児を敵から隠し、鍋坂の村中に逃れて密かに養育し、成人の後、自身の娘と娶せて家督を譲っています。遺児すなわち林三郎左衛門盈景(みつかげ)とその末裔はこの證圓寺の住職になります。

Img_5164c  境内には「第二十三代御門主御巡教記念樹」と刻まれた石柱があります。真宗本願寺派第23代門主は、大谷光照(おおたに こうしょう:明治44(1911)~平成14(2002)年)。

Img_5170c  證圓寺を出たところの角に小さな道標がありました。東海道に面した側には「左 四日市 服部泰……」、向かって右には「右 いかるが」とあります。これは、服部泰次郎による道標。「いかるが」は「伊賀留我」で、ここから北西に1.5㎞あまり行ったあたり。北伊賀留我神社や、南伊賀留我神社、さらにその近くには、天武天皇迹太川御遙拝所跡もあります。服部泰次郎は、安政元(1854)年に小杉村で生まれ、10代半ばから小間物や雑貨を天秤棒で担いで行商に歩きました。29歳の頃には米穀商となり、近郊で買い集めた米を四日市港から横浜に船で送り伊勢米の販路を拡大しています。日清・日露戦争の際には軍用米の取扱業者となるなど、県下屈指の米穀商となりました。大正8(1919)年3月、行商をしていた頃に道がわからなくて苦労した経験から、予ねて念願の道標建立を三重郡役所に申し出て、北勢地方に多数の道標を建てています。服部の道標は、集落の辻に立てられ、その行き先の多くは隣の集落への道筋を示し、ほとんどが地名を刻んでいます。集落に住む人々が日常通っている間道を、遠来の人に教えることを目的としたものといわれています。明治、大正の頃に成功した人たちは、服部泰次郎のように、皆を助けるという貢献をしています。共助というのでしょうか、いつの間にか忘れられているような気がします。

Img_5182c_20210508165901 Img_5192c  證圓寺から200m弱のところに茂福(もちぶく)神社の石柱があります。神社はここから北西にさらに200mほど入ったところにあります。ちょっと迷ったものの、せっかくだからと茂福神社に立ち寄ることにしました。東海道からはいったん離れます。創祀は永禄10(1567)年以前とされます。明治28(1895)年4月茂福神社と改称されるまでは天王社と称されていました。明治42(1909)年、鳥出神社に合祀されたものの、昭和25(1950)年、分祀され現在に至っています。主祭神は、建速須佐之男命。相殿神は、天照大御神、保食神、猿田彦命、大山祇命、大宮能売命、上筒男命、中筒男命、底筒男命。茂福城主であった茂福掃部輔盈豊も祭祀に関わっていたそうです。

Img_5195c_20210508165901 340257b9  茂福神社の100mほど西には、茂福城跡。近鉄名古屋線の線路脇に小さな土壇と石碑が建てられています。電車から、右のような看板が見えます(2017年12月23日撮影)。城跡を標示する石柱と最後の城主・茂福盈豊(みつとよ)の碑が建てられています。この碑文によると、貞冬という人物が越前朝倉氏のもとにいましたが、応永年間(1394~1428)の乱を避けて当地に移り、地名に因んで茂福氏を名乗ったとされます。「伊勢軍記」によれば、永禄3(1560)年に茂福氏は羽津城の田原氏と合戦に及び勝利したのですが、その7年後に城主朝倉盈豊は、長嶋で織田信長の家臣である瀧川一益に謀殺されました。その際、斬られた主人の首を家臣の小川宗春が奪い取り、朝明郡保々(朝倉氏の本拠地)に葬ったといわれます。この時の戦いで茂福城は落城したとされます。

Img_5225c_20210509210501  東海道に戻って、茂福神社の社号標の少し先で、県道64号上海老茂福線の高架橋をくぐります。ここで約2.8㎞。この道路は、以前は、富田山城有料道路(とみだやまじょうゆうりょうどうろ)といい、東名阪自動車道の四日市東ICと国道1号線を結んでいましたが、平成8(1996)年に無料化されています。ここまでが、実測ルートマップその1の範囲で、切りがよいので、その1はここまで。

待ちに待ったヒナたち登場……散歩の終わりに博物館にて「能ある鷹は文化を残す―松平定信の文化史―」を見てくる

Img_6005c_20210509145201  昨日はよく歩いてきましたが、今日は今日でいつも通りに散歩です。ただし、時間はちょっと遅く8時から。住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀公園、京町あたりと回って、桑名市博物館へ。5月30日まで「能ある鷹は文化を残す―松平定信の文化史―」を開催中なのです。今日は、午前中に26.7℃となり、半袖でで歩いている人もよく見かけました。

Img_5650c_20210509145301 Img_5637c_20210509145301  まず、タイトル通り、鳥のヒナたち。「いよ、待ってました! パチパチ!!」という感じ(微笑)。船津屋さんの裏手からシジュウカラの鳴き声が盛んに聞こえて来ました。よく探したら、木々の間に親子。餌をもらっていたのですが、決定的瞬間はピンぼけ連発。ヒナが餌になる虫をもらって、一所懸命食べているところが何とか撮れました(ちょっと画像は粗いのですが……)。近くには、オスのシジュウカラがいました。

Img_5822c_20210509145201  貝塚公園では、何気なく撮ったカワラヒワが、ヒナでした。このところ、九華公園では、カワラヒワのヒナは見かけなくなりました。カワラヒワの鳴き声はしていますから、いないということはないと思います。

Img_5934c_20210509145201 Img_5972c_20210509145201  博物館で展示を見て、まさに帰り道、住吉入江の南の端で、スズメのヒナを見つけました。1羽のみ。左右の写真は、同じヒナです。嘴が黄色く、頬の黒い部分もまだ色が薄い。待ちに待ったスズメのヒナです。近くには、なぜか大人のスズメが3羽。

Img_5992c_20210509145201 Img_5995c_20210509145201  餌をもらうシーンも確認できました。上右の写真に雑草が写っていますが、それについている実をもらっているように見えました。去年は、九華公園で「スズメの学校」と名づけたシーンを見ましたが、今年も見たいものです(2020年5月22日:ミドリガメの産卵と「スズメの学校」……今年は桑名水郷花火大会も中止で残念至極)。なお、スズメのヒナは、三の丸公園でも樹上に2羽、止まっているのを見ました。

Img_5675c_20210509145301  さて、揖斐川の堤防を歩いていると、揖斐長良川の中洲からオオヨシキリの鳴き声が盛んに聞こえてきます。「また、河口堰に見に行くか」と思っていたら、三の丸公園のところで、オオヨシキリの鳴き声が聞こえてきました。西側の堀(七里の渡し跡の奥)に近いところ。公園内や、七里の渡し跡の方などから探したのですが、結局、オオヨシキリは見つけられませんでした。このあたりにも来てくれるなら、うれしい。弥富のM池公園でも、公園の外周遊歩道にある木で鳴いているのを見たことがあります。

Img_5725c_20210509145301 Img_5686c  九華公園では、北門を入ってすぐのところの水たまりで、スズメが水浴び。今日は、2羽が同時に来ています。割と無警戒で、側を人が通っても、私が少し近づいても逃げません。おもしろい写真が撮れないかと思って、何枚もシャッターを押したのですが、なかなかこれはという写真はありません。

Img_5762c_20210509145401 Img_5746c_20210509145401  左の写真は、パッと見では、スズメとは思えない気がします。スズメの水浴びを見ているとまずは、頭を下げ、水にくぐらせながら翼を羽ばたいて、身体を水にくぐらせるようにしているようです。動画で撮ってスロー再生して確認するとよいかも知れません。

Img_5808c Img_5812c_20210509145301  九華公園、ツツジは本当にオシマイ。気が早いので、花菖蒲が気になります。去年は、5月7日につぼみが福良なものがありました(2020年5月7日:スズメのヒナが親からエサをもらっていました)。写真は、本丸跡のところの花菖蒲園。春先に全面的に植え替えをしました。一部でつぼみが出て来ていました。去年、ここは貧弱だったのですが、この分なら咲きそうです(というか、全部植え替えて咲かなかったら却っておかしな話しになります)。

Img_5804c Img_5790c_20210509145301  こちらは、サツキ。咲き始めは早かったのですが、その後がスローペースのように思えます。ツツジも、咲くのは早かったのですが、咲きそろわず、また、満開に至らなかった木もありました。

Img_5832c_20210509145201 Img_5849c_20210509145201  京町では、この時期恒例、ツバメの巣チェック。左の写真は、京町H。右の写真は、京町S。どちらも、ときどきいないこともありますが、ほぼ巣に就いていますので、卵があるのではないかと思います。今日は、京町Mにも親ツバメがいましたが、京町Aは不在。

Img_5912c_20210509145201  ツバメの巣を見て回ってから、桑名市博物館へ。娘が付き合ってくれました。5月30日まで「能ある鷹は文化を残す―松平定信の文化史―」展を開催しています。桑名市博物館は、その前身である桑名市立文化美術館の開館から数え、今年が開館50周年です。桑名藩関係資料や古萬古、茶道具などのコレクションがありますが、その中心は、松平定信に関する資料です。文政6(1823)年に定信の嫡男定永が、白河から桑名へ国替えとなったことから、定信に関するものが多く桑名に伝わっているのです。定信が亡くなったのが5月ということで、定信の業績と、桑名にもたらした文化を振り返る展覧会という趣旨で企画されています。

0508sadanobu1 0508sadanobu2   2階展示室では、併せて、「越川(えっせん)の文化交流 ―長島藩主増山雪斎と桑名―」と、「刀剣コレクションⅠ」が行われています。前者について、桑名と長島は揖斐川や長良川に隔てられていますが、古くから交流も深く、江戸時代にも文化の交わりがありました。文化人として知られる長島藩主増山雪斎と、長島藩校設立を助けた十時梅厓(とときばいがい)、桑名の文化人魯縞庵義道(ろこうあんぎどう)による、川を越えた3人の文化交流が紹介されています。増山雪斎は、先日、三重県立美術館で「若冲と京の美術―京都 細見コレクションの精華―」を見てきたときにも、出品されていました。

Img_5923c_20210509145201  これは、毎回の展覧会で1点ある「撮影可」の展示物。赤楽茶碗は、定信作。茶入れ(銘「あり明」)は、松平家伝来のもので、定信が命名。手前に半分写っているのは、楽字香合。これは、定信が青木木米(あおきもくべい:江戸後期を代表する京都の文人陶工、南画家)に注文してつくったもの。

 明日は、市民大学郷土誌学科の今年度第1回。開講式などがありますので、早めに行かないといけません。そして、桑名では、新型コロナのワクチン接種の予約開始日。私自身は、主治医&友人から、少し落ち着いた頃予約してくれといわれましたから、もう少し先でと思っています。

2021年5月 8日 (土)

20210508「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第3回「富田~四日市」(予告編)

Img_4989c_20210508165901  今日は、4月25日に引き続いて(2021年4月25日:20210425「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」……第2回「朝日~富田」(予告編))、「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」の第3回として、近鉄富田駅から近鉄四日市駅までを歩いてきました。桑名のアメダスでは、最高気温22.9℃、晴れあるいは薄曇り で、歩くのにはちょうどよい気候でした。今日のところは、予告編です。桑名駅を8時42分に出る松阪行き急行に乗車。近鉄富田駅には、8時49分着。¥260。8時52分にスタート。

210508tomida0  こちらが、今日のコースマップの全体図。近鉄富田駅をスタートし、南東へ200mあまり行ったところが東海道。ここを右折。明治天皇御駐輦跡碑、善教寺、薬師寺、常照寺、新設用水道碑・力石、証円寺と来たところで東海道は、左折し、すぐ右折。その後、茂福神社と茂福城跡へ寄り道。東海道に戻って、八幡常夜燈、八幡地蔵堂・八幡神社跡、かわらずの松。このあたりは羽津。光明寺、金場延命地蔵を眺めて多度神社で小休止(というには長く50分ほど)。三ツ谷一里塚跡を見て海蔵川を渡り、法泉寺。さらに三滝川を越えて、旧四日市宿の中心部へ。空襲で昔の建物は焼失してしまっています。建福寺、陣屋跡、本陣跡、問屋場跡、札の辻、道標。このあたりから諏訪神社のところまで、短い区間ですが、昔の街道は失われています。諏訪神社からスワマエ商店街を出たところで、今日のコースは終了。昼食を摂って、ゴールの近鉄四日市駅へ。14時30分にようやく到着(笑)。現地で歩いたのは、8.8㎞。

Img_5003c_20210508165901 Img_4993c_20210508165901  東海道に入ってすぐ、市立富田小学校の敷地内に「明治天皇御駐輦(ちゅうれん)跡碑」。「駐輦」とは、天皇がお休みになること。明治天皇は、4度この地で休まれたといいます。富田茶屋町・広瀬五郎兵衛という方のところです。広瀬五郎兵衛宅は、この富田小学校正門から富田地区市民センターあたりにあったそうです。焼き蛤をご賞味になったこともあったと説明板に書かれていました。なお、記念碑は、公爵・近衛文麿の筆です。「その手は桑名の焼き蛤」で有名な桑名の焼き蛤ですが、初回にあるいた朝日町小向(おぶけ)や、ここ富田あたりでも焼いて、売られていました。富田までは、旧桑名藩領でした。

Img_5028c_20210508165901  十四川の手前、東側に成徳山善教寺(じょうとくざんぜんきょうじ)。真宗高田派のお寺。ご本尊は、阿弥陀如来。このご本尊は、国の重要文化財に指定されています。作善日記から仁治2(1241)年正月頃に造られたと考えられています。本堂は大変立派です。真宗高田派の本山である専修寺の如来堂を模していると説明板にありました。

Img_5075c_20210508165901  十四川からほぼ300mのところには、薬師寺。浄土宗のお寺で、ご本尊は、阿弥陀如来。大同年間(806~810)、この地に疫病が流行し、人々が苦しんでいたことを旅の途中で知った弘法大師が、薬師如来を彫って開眼すると、人々の難病はたちまち平癒したので、人々は弘法大師に感謝するとともに、薬師堂を建て薬師如来を祀ったことに始まります。その後、茂福城主であった朝倉下総守盈盛(みつもり)が菩提寺としたそうです。しかし、永禄10(1567)年、瀧川一益の兵火で焼失。ちなみに、ここは尼寺。

Img_5092c_20210508165901  光明山常照寺。浄土真宗本願寺派のお寺。ここは、四日市市茂福町になります。天文7(1538)年、釈法導によって開山され、寛文年間(1661~1673)にそれまでの天台宗から浄土真宗本願寺派に転派しています。本堂は明治42(1909)年に再建され、鐘楼・山門は明治の末に建てられたといいます。平成7(1995)年11月本堂・鐘楼の屋根の修復が行われたようです。鐘楼の鐘は、昭和27(1952)年の四日市大博覧会で「平和の鐘」として展示されたものです。

Img_5112c_20210508165901  東海道は、常照寺の先で鉤型に曲がりますが、そこに新設用水道の碑と力石が2つあります。「新設用水道碑」は、新設・用水道・碑で、新設された用水道を記念する碑。ここから北西に十四川から七丁(760m)の暗渠による水路を通し、各家の敷地内にマンボ(人工の地下水路)を設置して生活用水や防火用水として、明治37(1904)年から昭和中期まで利用したといいます。昭和34(1959)年の伊勢湾台風の水害で使えなくなり、この用水道は消滅しました。力石は2つあります。約32貫(約120㎏)と、約5貫(約19㎏)の2つ。小さい方は、子ども用かと説明があります。

Img_5152c_20210508165901  その先で東海道はすぐに右折。角には、林光山證圓寺。当初は天台宗でしたが、天文年間(1532~55年)、住職が真宗本願寺の第10世證如上人に帰依して改宗したと伝わっています。その後、永禄10(1567)年、茂福掃部輔盈豊(もちぶくかもんのすけみつとよ)は裏切りを疑われ、滝川一益に長島城に呼ばれて謀殺されました。茂福城が落城すると、臣・林玄證(はやしげんしょう)は盈豊の遺児を敵から隠し、鍋坂の村中に逃れて密かに養育し、成人の後、自身の娘と娶せて家督を譲っています。遺児すなわち林三郎左衛門盈景(みつかげ)とその末裔はこの證圓寺の住職になります。

Img_5182c_20210508165901 Img_5189c_20210508165901  スタートから1.7㎞のところに茂福神社(もちぶくじんじゃ)の社号標があります。神社はここから北西にさらに200mほど入ったところにあるのですが、せっかくだから寄り道することに。茂福神社の創祀は永禄10(1567)年以前とされます。明治28(1895)年4月、茂福神社と改称されるまでは天王社と称されていました。明治42(1909)年、鳥出神社に合祀されたものの、昭和25(1950)年、分祀され現在に至っています。主祭神は、建速須佐之男命。茂福城主であった茂福掃部輔盈豊も祭祀に関わっていたそうです。

Img_5195c_20210508165901 340257b9  茂福神社の100mほど西には、茂福城跡。近鉄名古屋線の線路脇に小さな土壇と石碑が建てられています。電車から、右のような看板が見えます(2017年12月23日撮影)。城跡を標示する石柱と最後の城主・茂福盈豊(みつとよ)の碑が建てられています。この碑文によると、貞冬という人物が越前朝倉氏のもとにいましたが、応永年間(1394~1428)の乱を避けて当地に移り、地名に因んで茂福氏を名乗ったとされます。「伊勢軍記」によれば、永禄3(1560)年に茂福氏は羽津城の田原氏と合戦に及び勝利したのですが、その7年後に城主朝倉盈豊は、長嶋で織田信長の家臣である瀧川一益に謀殺されました。その際、斬られた主人の首を家臣の小川宗春が奪い取り、朝明郡保々(朝倉氏の本拠地)に葬ったといわれます。この時の戦いで茂福城は落城したとされます。

Img_5226c_20210508165901  茂福城跡から東海道に戻り、県道64号上海老茂福線の高架橋をくぐり、500mほど行った米洗川(よないがわ;上流に天武天皇迹太川御遙拝所跡があります)の手前に八幡常夜燈があります。旧東海道を往来する人々のためのものですが、現存のものは明治35年に建てられたといいます(こちら)。南側には、「南大神宮」と刻まれています。かなり大きな常夜燈です。このあたりでスタートから3.2㎞。時刻は、10時10分。あちこち見て回っていますので、かなりのスローペース。

Img_5246c_20210508165901 Img_5257c_20210508165901  米洗川を渡った先には、八幡地蔵堂と、伊勢国八幡神社跡。お地蔵様は、延命地蔵尊で、このあと見る金場延命地蔵尊と同じ一つの石から作られた兄弟地蔵で、もとは羽津村の南北の入口(この地蔵は北の入口)に置かれ、村内に疫病が入り込まないようにするための「結界地蔵」といわれるものであったといいます。昔は、米洗川北側の常夜燈(上記の常夜燈と思います)の向かい辺りにあったのが、昭和4年(1929年)に、八幡地区の住民によって現在地に移設されたそうです(こちら)。八幡神社は、明治41(1908)年に志氐神社に合祀されています。石柱には「伊勢国八幡神社碑」と刻まれ、往時を偲ぶよすがとなっています。

Img_5265c_20210508165901  スタートから3.7㎞地点には、かわらずの松。昔の松並木の名残である松の木です。このあたりが「川原須(かわらず)」という地名であったことから、こう名づけられています。樹齢200年を優に超えるようです。松並木は、道路の拡幅と、松食い虫の被害を受けてほとんどなくなってしまい、今残っているのは、この1本だけになっています。

Img_5303c Img_5299c_20210508165901  4㎞を過ぎたところに志氐(しで)神社の一の鳥居。志氐神社は、ここから北西へ400mほど入ったところにあります。主祭神は、気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ;祓戸の神(ハラエドノカミ)ともいい、祓を行う場所の神)。創祀年代は詳らかでありませんが、社記では第11代・垂仁天皇の頃といいます。志氐神社には行きませんでしたが、この鳥居の前に「妋石(みよといし)(夫婦石)」があります。志氐神社には、イザナギ・イザナミも祀られていて、縁結び・夫婦円満のご神徳があるということから、東海道を行き交う多くの旅人は、この夫婦一対みよと石をなでて縁結び・夫婦円満の願いを込めたといいます。石は、鳥居のところに1つ、道を挟んだところにもう1つあります(右の写真は道を挟んだ東側にあるもの)。

Img_5307c_20210508165901  志氐神社社号標からすぐ先(100mあまり)には、初野山摂護殿光明寺(はつのざんしょうごでんこうみょうじ)があります。真宗本願寺派のお寺。元は大矢知村青木谷にあったといいます。弘仁年間(810~824年)に空海が諸国を巡回した時に、小堂を建てたのが始まりと伝わっています。寛正元(1460)年に、下野国高田の専修寺第10世眞慧上人が諸国巡化の際、最初に近江国坂本の妙林院(浄土真宗寺院。真慧が専修寺の出張所として創建したものの、廃絶。跡地不明)から光明寺に来錫し、約1年間在住して付近を教化した時に、当時の住職が改宗して浄土真宗高田派に転じたといいます。享禄年間(1528~1531年)に、羽津城主赤堀左京大夫盛義(宗昌)が出家して光明寺に入り善願と名乗り、現在地に寺を移して初野山青木堂光明寺と称しました。天正年間(1573~1591年)に京都興正寺の勧めにより、高田派から本願寺派に転じたとされます。寛文3(1663)年2月、雷により堂宇、宝物、記録等一切を焼失し、創建の年月、開基の事蹟、中古世代住職名等すべて不明になりました。

Img_5334c_20210508165901  境内には、森多三郎紀念碑とその墓碑があります。文久元(1861)年、桑名藩が過酷な年貢米の増徴を命じたのに対し(当時の藩主は、松平定敬)、これを阻止しようと、羽津村組頭(村方三役の一つで、名主、庄屋を補佐する役目)であった森多三郎ら17名が先頭に立って藩に抵抗しました。その結果、藩は年貢の増徴を断念することになったのですが、その後、多三郎は桑名藩庁に呼ばれて安永の料理屋に行き、毒酒を飲まされ、帰途、この光明寺までたどり着いたところで絶命したと伝えられています。この碑は、当時の羽津村の肝煎、組頭、小前惣代が藩の譲歩を勝ち取った記念に立てたもので、紀念碑の前には、「釋浄諦信士」と刻まれた森多三郎の墓碑が建てられています。

Img_5351c_20210508170001  光明寺からすぐに東海道は、左折、右折を繰り返し、国道1号線に出ます。海蔵橋の手前までは東海道と国道1号線は同じルート。その途中、国道の東側に金場延命地蔵があります。交通量が多いので、西側の歩道から写真を撮ったのみですが、ここの地蔵は、八幡地蔵堂の地蔵と兄弟地蔵。もとは、羽津の東海道の南端、二重川(ふたえがわ)にかかる堺橋のたもとの堤(今の金場町交差点付近)にあったのですが、昭和48(1973)年、市道拡幅工事にともない、ここに移転しています。

Img_5377c_20210508170001  海蔵橋の手前で東海道は、国道1号線から左(東)へ入ります。そこにあるのが、多度神社。この神社は、その名の通り、桑名・多度にある多度大社から分祀された神社。それ故、主祭神は、天津彦根命(あまつひこねのみこと)。創立は、明治18(1885)年。明治40(1907)年、海蔵神社へ合祀されましたが、昭和25(1950)年に復興再建され、現在に至っています。スタートから5.3㎞、時刻は11時10分でしたので、小休止。のつもりが、50分ほどお茶を飲みながら話し込んでしまいました(苦笑)。

Img_5399c_20210508170001  多度神社から海蔵川の堤防に上がったところに三ツ谷一里塚跡碑があります。三ツ谷には一里塚があったのですが、その場所は昭和20年代に海蔵川が拡幅された際に、川の中に取り込まれてしまいました。「東海道分間之図」(元禄3(1690)年)によると、三ツ谷の一里塚は東海道が海蔵川に突き当った辺りに記されています。このため、平成13(2001)年、東海道宿場・伝馬制度制定四百周年を記念して、海蔵地区地域社会づくり推進委員会がこの場所に一里塚跡の石碑を建てて、後世に伝えることにしたのです。三ツ谷一里塚は、日本橋からは99里。東海道は、直進するのですが、今は橋がありませんので、海蔵橋に迂回。海蔵川のこのあたりは、桜の名所。

Img_5431c_20210508170001  海蔵橋から300mほど行ったところ、四日市市京町にあるのが、法泉寺。真宗本願寺派のお寺。明治元(1868)年、鳥羽伏見の戦いで敗れた桑名藩の国元は恭順を決め、1月23日に先代藩主・松平定猷の嫡子・萬之助(後の松平定教)は家老を引き連れて、四日市の新政府軍陣営(真光寺)に出頭したのですが、実際に幽閉されたのは、ここ法泉寺です。萬之助は、法泉寺に100日間謹慎蟄居して恭順の意を表しました。当時の遺品が残り、寺宝となっているそうです。萬之助、当時は12歳でした。

 6.5㎞で三滝川にかかる三滝橋を渡ります。Tokaido43_yokkaichi_20210508182501歌川広重が「東海道五十三次」で描いた四日市宿は、この三滝橋あたりとされます。絵では、旅人が笠を飛ばされて慌てている光景が描かれています。遠景に船の帆柱らしきが立っていますので、上流側から見ていて、左が桑名宿の方と考えられています。ここからが、旧四日市宿の中心部になります。

Img_5501c_20210508170001  市立中部西小学校は、四日市陣屋があった跡に建っています。四日市は天領でしたから代官所が置かれました。慶長5(1600)年、徳川家康が水谷光勝を四日市の代官に任じて天領を管理させ、陣屋は慶長8(1603)年、水谷光勝によって築かれました。時期によって建物には変更があったようですが、案内板にあった絵図には42の部屋が描かれています。享保9(1724)年、和郡山の松平吉里の領地となりますが、享和元(1801)年には再び天領となり、以後は多羅尾氏が代々代官を世襲しました。明治維新後は度会県の支所が置かれ、明治5(1872)年から翌年まで三重県庁となった。明治9(1876)年に勃発した伊勢暴動によって焼打ちされ焼失してしまいました。ここ中部西小学校が代官所跡ですが、学校の正門に案内板があるのみで遺構は残っていません。

Img_5520c_20210508170001 Img_5530c_20210508183301  黒川本陣があったとされるところ、現在は、黒川農薬商会になっています。一番本陣は清水太兵衛家が代々なり、高札場のあった札の辻北角に明治10(1877)年頃まで続きました。黒川本陣は、二番本陣で、文化8(1811)年頃から脇本陣だった黒川彦兵衛がついています。東京遷都の際、明治元(1868)年9月24日を初めとして明治天皇はこの黒川本陣を合計4回行在所として利用されたといいます。右は、問屋場跡。もとは福生医院という耳鼻咽喉科医院でしたが、現在は、東海道四日市宿資料館になっています。現在は、残念ながら新型コロナのため閉館中。

Img_5526c_20210508170001  ここが札の辻。交差点の南東角から北西方向を撮っています。江戸時代には、高札場があったところで、あちこちに「札の辻」という地名が残っています。また、ここは、「菰野道」のスタート地点。菰野道は、菰野町菰野まで続く11㎞の街道です。この先で、東海道は昔の道が途切れています。

Img_5557c_20210508170001 Img_5576c_20210508170001  諏訪神社前の交差点で国道1号線を渡って、諏訪神社へ。旧・東海道に面しています。鎌倉時代初期の建仁2(1202)年、信州の諏訪大社の御分霊をこの地に勧請し創祀されたと伝わっています。主祭神は、建御名方命(タケミナカタノミコト)と八重事代主命(ヤエコトシロヌシノミコト;事代主神(コトシロヌシノカミ)ともいいます)で、四日市・浜田の総産土神とされます。境内には、稲荷社、山津見社、天神社がありますし、伊勢神宮と明治神宮の遙拝所、さらには明治天皇の御製歌碑もあります。諏訪公園には、誓文御柱(五箇条の御誓文を刻んだ塔)も。

Img_5582c_20210508170001 Img_5588c_20210508170001  諏訪神社の先の東海道は、商店街になっています。その名もスワマエ商店街。諏訪神社の前にある商店街ですし、ここが諏訪神社の表参道の位置づけ。左の写真でアーケードの商店街になっていますが、この道が旧・東海道です。営業していない店もありますが、全体としてはけっこう活気がある商店街です。この商店街で見逃せないのは、大四日市祭りに登場する「大入道」の人形(首が伸び縮みします。見たときも伸び縮みしていました)。この商店街を出たところが、今日の東海道歩きの終点。ここまでで8.3㎞。13時10分を過ぎた頃。

Img_5600c_20210508170001 Img_5598c  近鉄四日市駅方面に向かい、一番街で昼食を食べるところを探しました。いろいろと店があって迷ったのですが、なぜか飲み屋さんへ(笑)。本当はここの2階にある「三重人」がいいかと思ったのですが……。アレやコレ屋というお店。隣のテーブルで美味しそうにビールを飲んでいる方も会ったのですが、ランチのみ。ソースカツ丼、¥968(税込み)。美味しかったものの、前期高齢者には、量がやや多く、カツが固め(苦笑)。1時間ほど滞在。

Img_5610c_20210508170001 Img_5617c_20210508170001  ゴールの近鉄四日市駅には、14時30分に到着。北口。14時51分の名古屋行き急行に乗車。桑名には、15時03分着。3日間かけて歩いたのに、たった12分で戻ってこられます(微苦笑)。¥300。現地で歩いたのが8.8㎞、自宅から桑名駅往復が2.2㎞で、合計11.0㎞。歩数は、スマホのALKOOで20,812歩。よく歩きました。

 本編は、また改めて少しずつ書きますので、予告編はここまで。

2021年5月 7日 (金)

スズメのヒナは、まだか?……コロナ対策について追記あります

Img_4966c_20210507115201  曇っています。午前中の気温は、18.3℃止まり。午後にはにわか雨もあるという予報です。人も、鳥もいませんから、散歩が速く進むこと(苦笑)。いつも通り、7時半から住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀公園、新築町、アピタ桑名店、常磐町、寺町と6.7㎞。アピタ桑名店にまたもや立ち寄って来ましたが、今日発売の文庫本を買うため。10時には帰宅。

Img_4802c_20210507115201 Img_4809c_20210507115201  今日も揖斐長良川の中洲からはオオヨシキリの鳴き声が聞こえてきます。しかし、桑名七里の渡し公園でカワラヒワやスズメを見て、七里の渡し跡でツバメを見た以外、柿安コミュニティパークあたりまで鳥影はありません。コミュニティパークでドバト、スズメ、ハクセキレイ。九華公園でも、スズメはそれなりにいるのですが、他の鳥はサッパリ。管理事務所南でコゲラを一瞬見ましたが、他にはカワラヒワ、ムクドリ、ハシボソガラスが少しいるだけ。今日は、ヒヨドリにも遭遇しません。

Img_4856c  公園の外周遊歩道の南で、シジュウカラが2羽。去年の今頃は、スズメのヒナが出て来ていたので(2020年5月7日:スズメのヒナが親からエサをもらっていました)、期待しているのですが、今年はまだ。そろそろかと毎日思っているのですがねぇ……。

Img_4837c_20210507115201 Img_4827c_20210507115201  九華公園、空模様がアヤシいこともあってか、人出はほとんどありません。散歩友達も、Wさん一人のみ。人もいない、鳥もいない、ツツジも終わりで、歩いていてもあまり楽しみがありません。サツキは、本当にスローペースで咲いて来ています。

Img_4879c  貝塚公園では、ハクセキレイが1羽。他には、カワラヒワ、スズメ、ムクドリを見て、メジロの鳴き声を聞いたくらい。メジロは、木の高いところにいますので、姿を確認するのは容易ではありません。

Img_4933c_20210507115201 Img_4936c  寺町商店街を通り抜けてきたのですが、御坊さんの山門の方を見たら、モミジの翼果が目立っていました。九華公園で見るものよりも翼の部分が大きくて、より赤い気がします。葉も大きい気がします。当てずっぽうでは、オオモミジかと思うのですが、アヤシい限り。

Img_4943c_20210507115201 Img_4947c_20210507115201  ついでに菩提樹もチェック。木は青々としていますし、つぼみが出て来ています(右の写真)。これで、花を見逃したら笑いものになります。去年、咲き始めたのは6月3日でした(2020年6月3日:桑名別院で菩提樹の花が咲き始めました)。

Img_4921c_20210507121301  昼過ぎからは雨が降ってきそうです。雨雲レーダーを見ると雨雲が迫ってきています。雨読ですが、そろそろメダカハウスの水替えをしなくてはなりません。写真は、NTNシティ・ホールにある喫茶店の前にあった花。花も大きく、派手で目立っていました。まだ名前を調べていません。アマリリスです(ご教示、感謝)。

 追記です。三重県にも「まん延防止等重点措置」が適用される方針が固まったようです。対象地域は、県北部の12市町で、桑名市も含まれる見込み。具体的措置については、まだ分かりませんが、対象市町で時短要請に応じない飲食店に対しては過料を科すことができるようになるということのようです。三重県の対応は、比較的早めになされている印象がありますが、それに対して、国のやることは後手に周り、しかも小出し。戦術的にはもっともマズいやり方のように思われます。下手くそなリアクション芸人みたいと密かに思っています。目的と手段とを明確に区別した上で、対応の根拠と期間をきちんと説明しないといけません。管総理を始め、政治家の話には説明がないので、それが説得力をともなわない要因の1つになっています。また、感染防止をいいながら、一方で、税金を使って感染をばらまくようなGO TOキャンペーンをするような辻褄の合わないことは最悪。昨今のような状況で、オリンピックを開催するなど、どだい無理な話と思います。まぁ、私ごときがいくらぼやいても大勢に影響はありません。大所高所からではなく、小所低所からの愚考に過ぎませんから(笑)。さらにいえば、緊急事態宣言が必要なのは、総理官邸や、中央省庁なのではないかと疑っています。

2021年5月 6日 (木)

九華公園で「スズメとカメの鑑賞会」(笑)……ツバメの巣チェックも

Img_4544c  昨日と打って変わって、好天。朝一番は北風が吹いて、少し肌寒い感じもしたのですが、気温は、27.9℃まで上がりました。絶好の散歩日和です。今日も、相も変わらず7時半から散歩。住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀公園、新築町、アピタ桑名店、常磐町、京町、南魚町、田町、三崎通、桑名七里の渡し公園と、何と7.5㎞もウロウロ(苦笑)。

Img_4562c_20210506175301 Img_4558c  諸戸氏庭園、往きの桑名七里の渡し公園、住吉神社、揖斐川沿いには、鳥はまったくいません。揖斐長良川の中洲からは、オオヨシキリの鳴き声が聞こえてきます。三の丸公園で、ハシボソガラスとスズメ。三の丸水門の辺りにもスズメ。

Img_4570c_20210506174801 Img_4593c_20210506174801  九華公園に入っても、スズメとカワラヒワが少しいただけ。ヒヨドリもほとんどいません。サツキはボツボツと咲いて来ています。ツツジは、つつじまつりの最中ではあるのですが、個人的見解としては、「終わりました」です。ちなみに、「つつじまつり」といいながら、毎年、とくにイベントはありません。

Img_4607c Img_4627c  いつものように奥平屋敷跡、二の丸跡、朝日丸跡、本丸跡、鎮国守国神社、再度北門から相撲場、本丸跡と回ってくるのですが、スズメが目立つだけ。北門を入ったところにある花壇近くに水たまりがあり、スズメが水浴びしに来そうでしたので、待っていました。

Img_4628c_20210506174901 Img_4626c_20210506174901  予想は、ピタリ(微笑)。日陰でしたので、あまりよい写真は撮れませんでしたが、一応、スズメの水浴びシーンが撮れました。

Img_4658c_20210506174901 Img_4667c  このほか、九華公園で目だったのは、ミドリガメ。甲羅干しをするのに必死。石垣のほぼ垂直な面にまで取り付いて、甲羅を干しています。左の写真に小さいミドリガメが写っています。いったい、いつ孵ったカメでしょう? 毎年、産卵シーズンは5月後半から6月、孵化までには2~3ヶ月のはずですから。

Img_4601c_20210506174801  他には、ハシボソガラス。写真は、本丸跡で撮ったもの。他に、二の丸跡などにもいました。この写真のハシボソガラス、若いような気もしますが、今ひとつ不確か。他には、メジロの鳴き声を聞いたのと、外周遊歩道の東でシジュウカラを目撃したのみ。鳥見仲間のYさんは、私が実家に行っている間にもセンダイムシクイを見たとおっしゃっていました。こういう次第で、九華公園では、何だか「スズメとカメの鑑賞会」をしてきたような気分(爆)。

Img_4679c_20210506174901  貝塚公園でも鳥は少なく、ムクドリ、カワラヒワの他には、ハクセキレイ1羽。毎年のことといえば、それまでですが、やはり張り合いがありません。

Img_4692c Img_4698c_20210506180801  アピタに行く途中、もりえい病院の近くで、こんなのを見つけました。病院の建物とは、別の少し離れたところに、「ワクチン接種センター」が設けられていました。アピタ桑名店では、文房具を1つ購入。本屋も覗いたものの、これといった収穫はありません。

Img_4704c_20210506175001 Img_4718c_20210506175001  帰り道、京町と田町、三崎通でツバメの巣チェック。勝手に名前をつけることにします。左は、京町のお宅(京町Mとします)。右は京町の呉服屋さん(京町S)。

Img_4751c_20210506175001 Img_4733c  こちら、左は桑名市博物館(京町H)、右は、京町の別のお宅(京町A)。この4箇所が、今日、親ツバメが巣に就いていたところ。田町、三崎通では、3箇所の巣にもその近くにもツバメはいませんでした。他に清水町あたりで、巣を1つ見つけました。近くにツバメが2羽いましたので、営巣するかも知れません。

Img_4773c_20210506175001  最後に再び、桑名七里の渡し公園。9時開園ですので、往きにはまだ開いていません。昨日の雨で、せせらぎに水がたまって、鳥が水浴びに来ないかと期待したのですが、あいにくせせらぎ近くで管理員さんが作業中。カワラヒワが来たものの、水には入らず。大型連休は終わってしまいましたが、個人的にはあまり影響はありません。淡々と飽きもせず……、晴歩雨読。さらには、晴れときどき仕事の散歩生活であります(微笑)。

2021年5月 5日 (水)

実家4日目は雨

Img_4514c_20210506163501  実家滞在4日目は、朝6時頃から雨。さすがに散歩は諦めました。10時前から11時半過ぎまで買い物に行ったくらい。晴れた日でもそうですが、時間があると本を読んでいます。寒いとき以外は、勝手口を出たところにあるベンチ(愚息作)が気に入った場所。クルマを入れられるよう、カーポートが設置してあるので、少々の雨なら平気ですし、夏でも日陰になり、風通しがよいのです。ここで飲み物を手に、好きな本を2~3冊、そしてカメラを持って来るのです。鳥や昆虫、動物が出てきたのに気づいたら、写真を撮ります。

Img_4529c_20210506163501 Img_4533c_20210506163501  ここ、お気に入りの場所から眺めた裏山の景色。2枚の写真とも、東側を撮っています。左の写真には、餌台が小さく写っています。手前側は、アナグマが出てきたところ、餌台の向こうには鹿が来たところ。右の写真は、南側の方。この2枚の写真にある東側から北側にかけて、ウグイスが少なくとも3羽います。滞在2日目くらいから、鳴き方で判別できるようになりました。上手下手というか、習熟した/していないで個体差がかなりあるのです。

Img_4482c_20210506164301 Img_4506c_20210506152201  ところで、前日に餌台に置いたクッキー、キンカンは、この日もずっと手つかず。ご飯粒や、米を置けば、スズメが来たかと思います。また、ナッツの類いでしたら、ヤマガラなどが来たかも知れません。また次の機会に実験を続けましょう。この日も、イソヒヨドリのオスがやって来ました。

 夜になって帰宅したのですが、途中、鈴鹿あたりから土砂降りでした。道はさほど混んでいなかったものの、雨には参りました。5月3~5日の記事は、5月6日になって日付を遡って投稿しています。

 

2021年5月 4日 (火)

朝から鹿2頭、午後にはアナグマが登場(笑)

Dsc_0110c  5月4日、実家へ来て3日目、朝5時頃起きて、外へ出てビックリ。「超証拠写真」ではありますが、鹿の写真。実家の裏庭にニホンジカが2頭。ずいぶん昔から、鹿が来るとは聞いていたものの、この目で見たのは初めて。向こうも驚いた様子。スマホしか持っておらず、遠かったので、こんな写真ですが、鹿だということはお分かりいただけると思います。5年前の夏には、実家から帰る途中、道路に飛び出してきた鹿と接触したこともありましたっけ(2016年8月03日:実家からの帰り道、シカと接触……散歩では、アオサギにビビる)。

Img_4152c_20210506152001 Img_4172c_20210506152001  さて、この日も天気はよく、気持ちよく過ごせました。。この日も、いつも通り、7時半から散歩。前日とほぼ同じコースで4.3㎞。1時間半あまり。湯香里橋のところには、この日は、カルガモ2羽。ここから掛子橋あたりでは、昨日も書きましたがオシドリや、カワガラスなども見たことがあります(2018年5月5日:オシドリ発見、歴史散歩と高田本山専修寺へも……家内の実家へ(5/4、5)、2021年1月4日:2020~2021年末年始実家de散歩)。

Img_3768c_20210506152101 Img_4189c_20210506153701  前日同様、この日も射山神社に参拝。伊勢神宮の祭礼では、この地に自生する榊の枝を、神社内に湧く泉「長命水」に一晩浸して奉納する習わしがあり、古くから「神の井」として、伊勢詣でに訪れる人々の信仰を集めてきたといいます。この長命水は、現在は、御手洗場となって自由に汲むことができます(右の写真)。

Img_4206c_20210506152101  射山神社のすぐ東に神湯館という旅館があります。その玄関脇に美少女キャラクターを描いた幟旗がありました。「温泉♨むすめ 榊原伊都」だそうです。リンク先に詳しいキャラが書かれていますが、「高貴な雰囲気が漂う、文武両道で清廉潔白なむすめ。何事もズバズバと的確に答えてくれるので『榊原恋愛相談室』と言われている。いつも涼しい顔をしているが意外と負けず嫌いで、心の内では闘志を燃やしている」のだそうです。高校3年生で、誕生日は7月9日の蟹座、陸上部。趣味はお伊勢参りとネイルアートなどなど。公開日は、2017年10月27日だそうですから、私は3年半以上、気づかなかったと言うこと?? もっとも、中日新聞の記事によれば、昨年8月からPRの前面に押し出されたばかりでした(こちら)。

Img_4247c_20210506152101 Img_4248c  公民館のところで、コシアカツバメ。あまりよく撮れていませんが……。探したら、公民館の裏手(北西側)にコシアカツバメの巣らしきものがいくつかありました。コシアカツバメは、ここ家内の実家あたりや(2017年5月3日:コシアカツバメ……家内の実家にて)、九華公園でも見たことがあります(2019年9月18日:九華公園で今日もダイサギ……コシアカツバメも)。

Img_4282c_20210506152101 Img_3924c  実家のあたりは、水田がたくさんあります。前日もそうでしたが、この日も田植をする光景が何ヶ所かで見られました。結婚した頃、実家の田植を手伝ったことはあります(もちろん、戦力にはほとんどなりません。邪魔にならないよう、苗を運んだくらい……苦笑)。稲の他、麦を植えてあるところもかなりあります。麦は、すでに右の写真のように穂がかなり実ってきています。

Img_4296c_20210506152101 Img_4309c_20210506152101  湯の瀬の近くの電線では、ホオジロのオス。圓浄寺のそばのお宅では、鬼瓦にセグロセキレイ。たくさんではないものの、あちこちで鳥は見られます。この日、セグロセキレイは水田でも見られました。前日のことを思い出し、清少納言などの裏手にも行って見たものの、この日はセグロセキレイどころか、鳥は何もいませんでした。

Img_4343c_20210506152101  実家での散歩コース、かなり高低差があります。善福寺の東から県道28号線(亀山白山線)を見ると、このようにかなり見下ろす形になるのです。4㎞ほどしか歩きませんが、運動量はかなりあります。

Img_4360c_20210506152101  実家に戻って、思いついて、以前、愚息がつくった野鳥用の餌台にクッキーを細かく砕いて置いてみました。このあと、愚息がキンカンの実も追加したのですが(これまでにもキンカンを置いたら、なくなったそうです)、この日は結局、夕方まで鳥はやってこず。実家の裏手、ウグイスが少なくとも3羽いますし、ヒヨドリ、メジロ、コゲラ、フクロウなどの声が聞こえてきます。もちろん、スズメ、カワラヒワもいるのですが、餌の内容が悪かったのか、餌台の場所がよくないのか??

Img_4394c_20210506152101  午後、ふと見たら、ご覧のような動物が出て来て、ビックリ。イタチかとも思ったのですが、どうも違うということで、帰宅して今日になってから調べたところ、ニホンアナグマと判明。「体型はずんぐりしている。 食性はタヌキとほとんど同じ」「本州、四国、小豆島、九州地域の里山に棲息する。11月下旬から4月中旬まで冬眠する」「体長は40 - 60cm程度。尾長11.6 - 14.1cm。体重12~13㎏」だそうです。「同じ穴の狢」といいますが、タヌキとともに「狢(むじな)」扱いされるとか。実家の裏山に棲んでいるのでしょう。

Img_4418c_20210506152101 この日は、午後からツバメが2羽、実家にやって来て、玄関先、車庫、裏口あたりを飛び交っていました。巣をつくる場所を探している様子。玄関先には、巣がかけやすいようにと思って、受け皿がつくってあるのですが、ツバメはどうも車庫が気に入ったようです。しかし、車庫に巣をつくられると、シャッターが閉められなくなり、不用心。玄関のところか、勝手口につくってくれないかとこちらは思っていますが、どうなりますか。

2021年5月 3日 (月)

実家でも散歩(微苦笑)……県立美術館で若冲も見る

Img_3694c_20210506132701 Img_3711c_20210506132701  大型連休は、5月2日の午後から5日まで家内の実家に行っておりました。どこへ行っても、毎朝することは同じ(笑)。散歩です。これしかありません。実家の田んぼは、田植が終わっていました。といっても、よその方にお願いして作ってもらっているのです。そのため、米も買うことになっています。この日も、いつものように、朝7時半から散歩開始。西に見える青山高原には、風力発電の風車がたくさん見えます。よく晴れて散歩日和。気持ちよい天気。町内一周、4.5㎞ほど。

Img_3725c_20210506132701  あちこちでツバメが飛び交っています。巣のあるお宅もけっこうたくさん。家内の母は、自分のところにも来て、巣をつくってくれないかと熱望しています。

Img_3731c Img_3744c_20210506132701  貝石山のふもとを川が流れ、そこに湯香里橋がかかっています。去年でしたか、塗り直してきれいになっています。その上流にキセキレイが1羽。3年前には、ここでオシドリ夫婦を見たので、また見たいと思ったものの、そうそううまい話はありません。

Img_3751c_20210506132701  湯香里橋のさらに上流側に掛子橋。このあたりは山里ですから、ここまで来ると、セキレイもセグロセキレイがかなりたくさん見られ、ときどきキセキレイもいるという感じになります。バードウォッチングとしては、まぁ好スタート。

Img_3765c_20210506132701  続いては、実家へ行くといつもお参りする氏神様の射山神社。主祭神は、大己貴命(おおあなむちのみこと:大国主神)、少彦名命(すくなひこなのみこと:農業・酒造・医薬・温泉の神)、天照大神。式内社。大己貴命と少彦名命が、温泉大明神として古くから祀られてきました。

Img_3777c_20210506132801  この日散歩をしていて、気づいたのがこちら。憲法記念日でしたが、何軒かのお宅で、日の丸が掲げられていたのです。私が子どもの頃は、どこのお宅でも祝日には日の丸を玄関先に掲げていましたし、祝日を「旗日(はたび)」と呼んでいました。今では、我が家あたりや、いつもの散歩コースではほとんど見られなくなりました。

Img_3814c Img_3837c_20210506132801  ずっと歩いて、湯の瀬(榊原自然の森 温泉保養館)の東まで来ました。最近、この季節にはあちこちで鯉のぼりがたくさん泳いでいるのを見ますが、ここにも。ちょっと小規模ではありますが……。湯の瀬は、今年秋からリニューアル工事に入るようです。家内の実家あたりでは、飛びをたくさん見ます。ここでも頭上を飛んでいました。

Img_3861c_20210506132801 Img_3874c_20210506132801  湯の瀬からさらに東に行くと、実家の菩提寺。真宗高田派髙福山清浄光院圓城寺。花も、線香も、蝋燭も持ってきませんでしたが、墓参りというか、お墓にご挨拶という感じで立ち寄って来ました。西に布引の山並みが見えて、気持ちの良いところにあります。

Img_3902c_20210506132801  お寺近くの榊原川でダイサギ。尺ヶ寺橋あたりで見つけました。橋のすぐ下にいたのが、かなり遠くまで逃げられてしまい、この証拠写真。橋の西にある小公園で休んでいたら、ヤマガラが出てきたものの、うまく写真には撮れず、残念。

Img_3917c_20210506132801  実家に戻る方向に歩いています。途中に「キッチンしろ」。ローストビーフ専門店。去年10月にオープン。食べログなどではかなりの評判。150gのローストビーフ丼が¥850。テイクアウトもできますので、機会があれば是非と思っているのです。ちなみに、以前、ここは飲み屋さんでした。

Img_3953c Img_4081c_20210506132801  キッチンしろの少し先から西へ。秘密の場所(笑)へ。子どもの頃、探検したようなところ。榊原川に沈下橋が架かっているのです。旅館清少納言などの裏手。人はほとんどきません。温泉の源泉があります。この日は、ここで右のように、セキレイのひなを見つけました。ハクセキレイなのか、セグロセキレイなのかと思っていたら……。

Img_4073c_20210506132901Img_3972c_20210506150301  親鳥がやって来ました。セグロセキレイのひなでした。真っ黒ではなく、灰色をしているのです。親鳥が右の写真のように、餌をくわえてやって来ましたので、給餌シーンが撮れるかと、かなり粘って、移動したのにもついていったものの、結局、失敗。残念。左の写真は、ヒナに餌を与えたあとでした(苦笑)。セグロセキレイの親子は、上流へ移動してしまい、どこへ行ったのやら? ということで、セグロセキレイで30分。9時半頃帰宅。

Img_4130c_20210506132901  その後、家内、娘と3人で三重県立美術館へ。4月10日から5月23日まで行われている「若冲と京の美術―京都 細見コレクションの精華―」を見に行きました。といっても、家内は別行動。この展覧会、見たいと思っていたのですが、先日、江戸橋に仕事に行ったとき、助手の先生から「美学の先生がご紹介くださったので」とパンフレットをいただいていたのです(美学の先生は、後期の授業のとき、同じ時間帯なのです。細見美術館の研究員でいらっしゃいました)。

Img_4142c_20210506132901  1時間もあれば見て回れるかと思ったら、娘がけっこう熱心に見て回り、結局、2時間近く(苦笑)。家内からは、「私の存在は、忘れられたかと思った」と言われてしまいました。

5bea9888 F8e0f16b 帰りには、大門近くの蜂蜜まん本舗に立ち寄りました。ここの名物「蜂蜜まんじゅう」を買うため。蜂蜜まん本舗は、養蜂業の傍ら昭和28(1953)年に創業しました。蜂蜜まんの人気が高まるとともに、昭和40(1965)年ごろには養蜂業をやめ、蜂蜜まんの製造・販売一本に絞り、以来、津を代表する菓子として愛されています。我が家でも皆の好物。これは、絶品。実は、今回実家に行くとき、道の駅津かわげでも売っていないか探したのですが、売り切れていたのです。店舗の写真は、去年2月2日のJRさわやかウォーキングの時に撮ったものです(20200202JRさわやかウォーキング「~新春キャンペーン~令和2年2月2日に、津の真ん中ウォーク 藤堂高虎ゆかりの地と日本三観音『津観音寺』を訪ねて」へ(予告編))。

【お断り】 記事は、5月6日に、5月3日付けで投稿しています。

2021年5月 2日 (日)

連休ですが、鳥も散歩友達もいません

Img_3490c_20210502101201  安定しない天気のようです。一応、晴れ間はあるものの、散歩の間は雲も多く、風も吹いていて、少し寒い感じでした。いつも通り、7時半から、住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀公園、京町、寺町と回って5.4㎞。出かけようと思っていますので、2時間で帰宅。いつもなら、5月2~3日は、鎮国守国神社の金魚まつりなのですが、去年に続いて、中止。九華公園、鎮国守国神社は静かでした。

Img_3541c_20210502101201 Img_3551c  野鳥もいません。冬の鳥たちは、まったくいなくなりました。それ以外にも、九華公園までに見られたのは、ドバト、スズメ、ムクドリ、ハシボソガラス、カワラヒワなど。三の丸水門で揚げ雲雀。写真は撮ったものの、ピンぼけでボツ。九華公園も静か。鳥もいませんし、散歩する人も少ないのです。奥平屋敷跡にも、コゲラが来たものの、それ以外にこれという鳥は来ず。

Img_3603c_20210502101201  管理人Kさん、散歩友達Wさん、前管理人Oさんに会ったくらい。ツツジは、1本の木でも下の方では花が咲いていない感じ。満開になったとはいえません。写真は、サツキ。管理事務所の北にあります。今日見たところでは、2輪が開花。蕾が膨らんで、ピンク色になっているものもいくつかありました。それにしても、鳥も、散歩友達もいませんから、散歩が速く進むこと(苦笑)。

Img_3616c_20210502101201 Img_3621c_20210502101201  貝塚公園でも、ムクドリ、カワラヒワくらいしかいません。ここでは、散歩友達のSさんに会っただけ。今から、桑名駅の西の方まで歩いてくるとおっしゃっていました。今年のツツジ、九華公園よりも、貝塚公園(左の写真)や、内堀公園の方が見事です。

Img_3644c Img_3657c  帰り道、京町あたりでツバメの巣チェック。博物館の巣と、お宅その1では、巣にいませんでした。お宅その2とその3には親ツバメが巣に就いていました。

Img_3611c_20210502102801  去年は今頃、スズメのヒナが登場していたのですが、今年はまだ。

2021年5月 1日 (土)

コアジサシとムナグロを確認……長島プチ遠征&上之輪新田へ【鳥名を訂正しました(5/2)】

Img_2842c_20210501152901  朝のうちは晴れて、昼頃からは雨という予報でしたが、午後になってもときどきパラつくくらいです。雨雲レーダーを見ると(15時半現在)、もうじき降ってきそうです。昨日も書きましたように、プチ遠征に行ってきました(微笑)。長良川河口堰(左の写真)を始め、長島町内と、帰りにふと思いついて、上之輪新田にも立ち寄って来ました。これが大正解でした。

Img_2675c_20210501152901 Img_2651c_20210501152901  長良川河口堰では、コアジサシが数羽、飛んでいるのが見えました。最近は、超望遠コンデジしか持っていきません。かなりたくさん撮ったものの、なかなか。飛びものを撮るのに、もっと修行が必要です(苦笑)。写真を撮りながら、どちらの方向へ往き来するのかも気にしていたのですが、不明。昨年の今頃は、右岸の監視塔近くのフロートに降りてきたのですが、今日はそういう場面は見られませんでした。左の写真のコアジサシ、魚を咥えています。今日は、ダイビングシーンの撮影はうまく行かず。

Img_2495c_20210501152801 Img_2563c  親水広場に回って、オオヨシキリが見えないかと思って探しました。しかし、鳴き声は聞こえるものの、姿は見えず。その鳴き声も、管理橋から親水広場に降りる坂道の西側あたりまでしか聞こえません。伊勢大橋の架け替え工事が、親水広場のすぐ北側で行われていることが影響しているのでしょう。

Img_2573c_20210501152801 Img_2600c_20210501152801  親水広場で見られたのは、イソシギ。また、キアシシギが2羽、こちらは、長良川右岸側の監視塔近くのフロートの上にいました。他には、ツバメがかなりたくさん飛び交っていましたし、ハクセキレイが1羽いました。

Img_2456c_20210501152701 Img_2464c_20210501152801  話しの順序が逆になりましたが、魚道周辺には、コサギやダイサギがいました。これらの写真は、コサギ。目元や足先がピンク色ですから、繁殖期のサイン。

Img_2490c_20210501155201 Img_2530c_20210501155301  ダイサギ、コサギ、カワウが揃い踏みというシーンもありました。ズームアップしてはいますが、実際にもかなり接近していたようです。ダイサギも目元が緑色になっていて、やはり繁殖期真っ最中。コサギも、ダイサギも繁殖期なのに、河口堰にいてよいものでしょうか?

Img_2846c_20210501152901 Img_2468c_20210501155701  アクアプラザながらの周りでも、ツバメがかなり飛んでいて、建物の西側の入り口の軒下にも入って行くのですが、巣はありませんでした。カモ、カンムリカイツブリ、オオバンの姿はゼロ。カルガモが、右岸に1羽いたのみ。

Img_2612c_20210501152801 Img_2822c  おもしろかったのは、コサギのこんな体勢。管理橋の東西で、別々のコサギが同じような体勢で、餌の魚を狙っていたのです。ただし、今日は、コサギの漁のシーンは見られませんでした。

Img_2471c_20210501152801 Img_2515c_20210501152801  あのアユのぼりも、健在でした。管理橋を渡って、西側の親水広場に行く途中、名古屋行きのひのとりが行くのが見えました。近鉄も、ゴールデンウィーク中、特急列車の運休をするようですが(こちら)、名阪特急は例外のようです。しかし、連休明けからは、ひのとりにも運休があります(こちら)。

Img_2940c_20210501152901  河口堰では1時間半弱過ごし、その後、長島町内をあちこち見て回って来ました。まずは、某駐車場その1。ケリが合計4羽。どういう関係かは、不明。最初は、ケリ同士でトラブっているのかとも思ったのですが、このように集まってみたり、私のクルマに対して警告するような行動をとってみたり……。他には、ヒバリが1羽。

Img_3016c_20210501153001 Img_3055c_20210501153001  さらに、某駐車場その2へ。コチドリの鳴き声が聞こえます。確認できたのは、2羽。1羽がしゃがみ込む様子も見えたのですが、卵があるかどうかは分かりません(勝手に侵入できません故)。見ていると、このうち1羽が、近くの水田へ移動。

Img_3103c_20210501153001  某駐車場その3。ここは、ブロ友のひらいさんが、「ケリが卵を抱いている」と教えてくださったところ。ケリは、抱卵・ヒナ養育にそれぞれ約1ヶ月ほどかかるといいます。無事にヒナが孵って、育って欲しいと思います。

Img_3113c_20210501153001 Img_3121c_20210501161501  水田へ。ここもひらいさんに教えていただいたところ。ヒナがいたということだったのですが、残念ながら、見つけられず。かなり離れたところにいても、警戒行動の対象になってしまいました(苦笑)。このほか、水田を2箇所ほど見てきたのですが、ケリも、コアジサシも見当たらず。

Img_3198c_20210501161901 Img_3252c  10時15分頃になりましたので、帰宅しようと思ったのですが、伊勢大橋を渡っているときに、ふと「上之輪新田にも行ってみよう」という気になりました。別に天の声が聞こえて来たわけではありません。何気なく、そう思ったのです。これが大正解でした。第一印象は、「変わった鳥がいるな」でしたが、単眼鏡で見て、望遠で撮影して、分かりました。ムナグロです。初見、初撮影の鳥で、鳥図鑑+1! シベリアとアラスカ西部のツンドラで繁殖し、冬は東南アジアやオーストラリア、インド、アフリカ東部などへの渡りをおこない越冬します。かなりの長距離を移動することになります。日本へは、旅鳥として春と秋の渡りの時期に全国に飛来するのですが、マサカここで見られるとは、ラッキー。

Img_3296c_20210501153101  水田の一角に、15~6羽がいました。全長24cm、翼を開くと67cmにもなるといいます。チドリの仲間で、とても長い翼をしています。上面は黄褐色と黒褐色のまだら模様で、胸など下面は夏羽では黒色、冬羽ではうすい黄褐色をしています。全体に黄色っぽい個体もいましたが、これは、若い鳥かと思います。現場に私が到着して、10分もしないうちに姿を消してしまいました。思いつき、とても重要です(微笑)。

Img_3355c_20210501153101 Img_3430c_20210501153101  上之輪新田では、他に、ケリが計2羽。ただし、単独行動中で、ヒナの姿はありませんでした。揚げヒバリも、2箇所で見られました。休耕田もあり、そのあたりに営巣しているようです。

Img_3395c_20210501153101 Img_3413c_20210501153101  ついでにまたもや俄撮り鉄。ちょうど10時半頃でしたので、しまかぜが来るのを待ちました。あいにくの曇天でしたが、それなりに撮れて、まぁ満足。私の他にももうお一人、電車の撮影をする方がいらっしゃいました。

Img_3476c_20210501162901 Dscn3835c  帰宅後、寺町商店街まで足を伸ばし、花屋さんでホテイソウを買ってきました。メダカハウスに入れるのですが、去年からのものがほとんど枯れてしまったのです。一部残ったものが復活しないかと期待していたのですが、難しいようなので、買ってきたという次第。根が長い方が、メダカが卵を産むのによいので、そういうものを選んできました。

Suntorybird 【余談】 バードウィーク(5月10日~16日)に因んで、サントリーが“「愛鳥週間」に、あなたの性格に似た鳥を探そう!”というWebコンテンツを提供しています。エニアグラムの性格分類を軸に性格診断の専門家が作成し、(公財)日本鳥類保護連盟が鳥の監修をしています。私も試しにやってみたのですが、「ヤマガラタイプ」と判定されました。ヤマガラは好みの鳥の1種です(微笑)。人懐っこくて、好奇心旺盛、こまめだそうです。

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  • 関裕二: アマテラスの正体(新潮新書)

    関裕二: アマテラスの正体(新潮新書)
    著者の前著『スサノヲの正体』も、興味深く読みました。斬新な着眼点と発想で、思いもかけない結論に至っています。読み物としてはとてもおもしろいという点で、☆を5つとしました。ネタバレになりますから、詳しいことを書くのは控えておきますが、著者は、伊勢神宮に祀られているのは、いわゆる「天照大神」ではなく、別の霊威の強い(祟る)、二柱の神だとしています。祟るが故に、伊勢に放逐されたのだと主張するのです。ただ、著者の肩書きは、歴史作家にして、武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェローであり、仏教美術に関心をもち、奈良に通ううち、独学で日本古代史を研究したということですから、現在の歴史学や考古学が明らかにした内容と整合性がとれている主張なのかどうかは、私には判断はできかねます。それ故、「読み物としてはおもしろい」と評価しています。 (★★★★★)

  • 小塩真司: 「性格が悪い」とはどういうことか ――ダークサイドの心理学 (ちくま新書)

    小塩真司: 「性格が悪い」とはどういうことか ――ダークサイドの心理学 (ちくま新書)
    タイトルに惹かれて読みました。ただし、初めにお断りしておきますが、図表こそないものの、心理学の専門書といっても良いくらいの、分厚い記述になっていますので、馴染みのない方にとっては読みやすいものではありません。「性格が悪い」ことについて、最近研究が進んできた「ダークな性格」を中心にまとめられています。ダークな性格とは、マキャベリアニズム、サイコパシー、ナルシシズム、サディズムの4つの特性です。これらの特性とリーダーシップ、社会的成功との関連、身近な人間関係中でのダークな性格、ダークな人物の内面、ダークな性格の遺伝、ダークさとは何かについて、文献を引用しつつ論じられています。その上で、性格の良し悪しは、その内容ではなく、どのような結果に結びつくかで判断されるというのが、著者の結論でした。 (★★★★)

  • 和田 秀樹: 老いるが勝ち! (文春新書)

    和田 秀樹: 老いるが勝ち! (文春新書)
    和田秀樹さんは、もともと高齢者専門の精神科医です。浴風会病院というところで35年間勤務され、6,000人以上の高齢者の方を診てこられました。その臨床経験から、高齢者については、理屈通りに行かないと思うことがたくさんあるといっておられます。タバコをたくさん吸っていても100歳まで生きる人もいれば、検査データはすべて正常なのにガンで亡くなる人もいるのだそうです。医者にいわれて血圧その他に注意していたのに、脳卒中を起こす人もいます。和田さんはこの本で80歳を過ぎたら我慢せず、好きな物を食べ、行きたいように生きることを勧めています。また、医療に関わらない方が長生きできる共書いています。不摂生を勧めておられるわけではありませんが、常識にとらわれず、自由に生きた方が楽しみも見つかってよいのではないかと思います。養老孟司先生流にいえば「なるようになる」のですから。 (★★★★★)

  • 彬子女王: 赤と青のガウン オックスフォード留学記 (PHP文庫)

    彬子女王: 赤と青のガウン オックスフォード留学記 (PHP文庫)
    彬子女王殿下の英国留学記です。彬子女王は、ヒゲの寛仁親王のご長女。殿下は、女性皇族として初めての博士号をオックスフォード大学で取得されました。この留学記は、ネットで話題になっていましたので、ぜひとも読んでみたいと思っていました。今上天皇の「テムズとともに」も読んだことがありますが、皇族の皆様は、どなたも誠実で朗らかで、それでいてユーモア溢れるお人柄をお持ちのようですが、殿下も同様でいらっしゃり、それがよく感じられる文章で楽しく拝読し、爽やかな読後感を持ちました。 (★★★★★)

  • 石井光太: ルポ スマホ育児が子どもを壊す

    石井光太: ルポ スマホ育児が子どもを壊す
    タイトルに惹かれて買ったのですが、帯にあるように「衝撃の現場報告」でした。この本に書かれているエピソードのうち、いくつかはこれまでにもマスコミ報道などで接していましたが、これだけのことがらが一度に示されると圧倒されます。現代の子どもたちは、まさに私たちが知っている(知っていた)子どもではなくなっているといえるようです。たとえば、「2歳児のネット利用率は58.8%」「子守歌はアプリで聞く赤ちゃん」「ヘッドガードの制服化」「教室の『アツ』に怯える小学生」「褒められ中毒はエスカレートする」などなど。スマホが登場して16年でその影響は大ですが、子どもたちの特徴に影響しているのはスマホだけではなく、現代社会や、大人達のありようも大きく影響しているといえます。「『将来の夢は交通整理のバイト』と言う女子高生」などはその例でしょう。私が教えている学生も、「『アツ』がすごい」ということがあり、いったい何だ?と思っていましたが、よく分かりました。すでに若い先生方は、デジタル・ネイティブ世代になっていますし、この本に登場する若者達が社会に出て、その中核を担うのも遠い将来のことではありません。これらの若者は、高い情報処理能力を持ち、周囲に適応する力もあり、コンプライアンス能力も高いのですが、それらを認めた上で、彼らが自立した大人になるために何が必要か見極め、それを提供することが必要とされるのでしょう。その意味では、大人の世代にも彼らを適切に理解し、必要な支援を提供する責任があります。 (★★★★)

  • 養老 孟司, 中川 恵一: 養老先生、再び病院へ行く

    養老 孟司, 中川 恵一: 養老先生、再び病院へ行く
    『養老先生、病院へ行く』の続編です。医療とは距離をとっておられる養老先生が、再診のため1年3ヶ月ぶりに東大病院に行かれました。大病から復活された今だからこそ語ることができる老い、医療、健康、死との付き合い方について、養老先生ご自身と、教え子にして主治医の中川恵一先生がお書きになっています。養老先生のスタイルをそのまままねすることは、凡人には不可能であり、よろしくはありません。しかし、健康についての考え方や、死についてのとらえ方などはとても参考になります。私が啓蒙されたことがらは、「健康法は人の数だけ存在する」「養老先生は抜け道の天才」「不連続な体調の変化に気をつける」「具合が悪いときは一週間様子を見ると医者に行くべきかどうか分かる」「お酒はもはや百薬の長ではないが飲む飲まないは自分で決めてよい」などでした。 (★★★★★)

  • 宮口幸治: 歪んだ幸せを求める人たち―ケーキの切れない非行少年たち3―(新潮新書)

    宮口幸治: 歪んだ幸せを求める人たち―ケーキの切れない非行少年たち3―(新潮新書)
    「ケーキの切れない非行少年たち」シリーズの3冊目です。本の帯には「『幸せを求めて不幸を招く人』の戦慄ロジック」とあります。「みんな幸せになりたい」という動機は万人がもつものでしょう。しかし、幸せの形は人それぞれですし、幸せになりたいと強く願うものの、かえって生きづらさや苦悩を抱える人たちもたくさんいます。著者は、人は幸せになりたいが故に、結果的に他人が不幸になることでもやってしまうといいます。さらに、幸せになりたいのだけれど、そのやり方がよくない」と考える、結果的に他人を不幸にする人たちを理解できるともいいます。著者が長年関わってきた非行少年達にもそれは共通するそうです。歪んだ幸せを求める人たちの背景にある要因として、著者は、怒りの歪み、嫉妬の歪み、自己愛の歪み、所有欲の歪み、判断の歪みの5つの歪みを取り上げ、事例も含めて考察しています。これを読むと、こうした5つの歪みは、ごく普通の人びとも多少とももっているものといえます。最終章では、自分と他者の「ストーリー」という概念を用いて、歪んだ幸せを求める事についてどう向き合えばよいか、提案されています。 (★★★★)

  • 森永 卓郎: 書いてはいけない

    森永 卓郎: 書いてはいけない
    他の本を買いに行った時、書店で平積みになっていましたので、思わず買ってしまいました。メディアのタブーに触れつつ、現在の日本が凋落している要因を3つ指摘しています。サブタイトルは、「日本経済墜落の真相」となっています。3つは、ジャニーズの性加害、財務省のカルト的財政緊縮主義、日本航空123便の墜落事件。この3つについては、関係者は皆知っているものの、触れてはいけない、本当のことをいってはいけないタブーになっているといいます。メディアで触れたら、瞬時にメディアには2度と出られなくなるそうです。ジャニーズ問題は、BBCの報道のためにオープンになってしまいましたが、著者の森永さんは、ご自身が病を得られたこともあって、現状を打破するためにこの本を書かれました。財務省による必要以上の財政緊縮政策と、日航123便の事故のお陰で日本がアメリカに対してどんどん主権を失っていったことが、日本経済の衰退の主たる要因と主張しています。たぶんそれは本当だろうなというのが、私の読後感。 (★★★★)

  • 立木 康介: フロイト『夢判断』 2024年4月 (NHKテキスト)

    立木 康介: フロイト『夢判断』 2024年4月 (NHKテキスト)
    何を今さら勉強しているのか? と思われるかも知れませんが、ちょっと前に流行った言葉でいえば、リスキリングに相当するかも知れません。学生時代に読みましたが、しっかり理解したかといえば、アヤシいのです。学生時代からは50年近い月日が経っていますので、その後の研究成果も含め、新しいことがあるだろうと思ったのです。100分de名著というNHK Eテレの番組のテキストです。講師の立木先生は、パリ第8大学で精神分析の博士号を取得され、京大人文科学研究所の教授。精神分析は「昨日までとは違う自分を手に入れるために行う」とおっしゃっていました。この番組でもっとも印象に残ったのは、あの有名な「エディプス・コンプレックス」よりも、今日、重要なフロイトが提案した概念は、「両性性」であるということでした。これは、いかなる個人も与えられた解剖学的性にしばられないセクシュアリティの自由を持つことをうたうものです。この視点に立てば、同性愛も、トランスジェンダーもいわば当たり前の存在であるということになります。これらを踏まえると120年間に書かれた「夢判断」の内容は、きわめて今日的な意義を持ってくると再認識する必要があります。 (★★★★★)

  • 諸富 祥彦: NHK「100分de名著」ブックス フランクル 夜と霧

    諸富 祥彦: NHK「100分de名著」ブックス フランクル 夜と霧
    フランクルのこの本は、改めて紹介するまでもないほど、有名な本です。私も学生時代、霜山徳爾先生の翻訳で読みましたが、ことばでは書き尽くせないほどの衝撃を受けたことを、いまでもよく覚えています。第二次世界大戦中にナチスの強制収容所に収監された経験をもとに、精神医学者・フランクルが、人生の目的を明確にし、その実現に向けて没頭する心理療法を紹介する本です。原題を直訳すると「それでも人生に然りと言う:ある心理学者、強制収容所を体験する」となります。実存心理学の名著であり、極限の環境におかれたとしても、何かが、あるいは、誰かがあなたを待っているということを主張しています。絶望して終わるのではなく、人生が何をわれわれに期待しているのかが問題であり、私たちはそれを学ぶことが重要だとしています。何度か読み直すことによって、人生への理解が深まる気がします。 (★★★★★)

  • 松田 忠徳, 増田 晋作: 枕草子の日本三名泉 榊原温泉

    松田 忠徳, 増田 晋作: 枕草子の日本三名泉 榊原温泉
    榊原温泉は、全国的に有名とはいえないかも知れませんが、名湯です。それは、枕草子に「湯は七栗の湯 有馬の湯 玉造の湯」にある、七栗の湯が榊原温泉と考えられるからです。最近、日本三名泉といえば、有馬温泉/兵庫県、草津温泉/群馬県、下呂温泉/岐阜県とされますが、枕草子に取り上げられたのはそれよりも古く、「元祖日本三名泉」といえます。榊原温泉の湯は、肌がきれいになる「美人の湯」というだけでなく、抗酸化作用もある健康の湯でもあります。この本は、日本一の温泉教授・松田先生と、地元を知り尽くした増田さんの共著で、「何もない」といわれていた榊原温泉の魅力を語り尽くしています。ちなみに、私にとっては家内の実家を知る上で格好のガイドブックです。 (★★★★)

  • 文藝春秋: 定年後に読む不滅の名著200選 (文春新書)

    文藝春秋: 定年後に読む不滅の名著200選 (文春新書)
    この本の帯には「これが定年後の知の道しるべ!」とありますが、私自身はさほど大上段に構えたつもりで読んではいません。どのような本が選ばれているかにももちろん興味はあったのですが、それらがどのように紹介されているかといった方面に興味があって読みました。本を紹介している方々はいろいろな分野で功なり、名を挙げた方ばかり。それらの方がどんな本を読み、どのように唱歌していらっしゃるかが知りたかったのです。ちょっと邪道な読み方ではありましたが、しっかりと楽しめました。 (★★★★)

  • 石田泰弘(編著): 街道今昔 佐屋路をゆく (東海の街道2) (爽BOOKS 東海の街道 2)

    石田泰弘(編著): 街道今昔 佐屋路をゆく (東海の街道2) (爽BOOKS 東海の街道 2)
    さほど本格的に取り組んでいるわけではありませんが、昔の街道を歩くのは好きです。この本のテーマである佐屋路(佐屋街道)も歩きたいと思って調べています。佐屋路は、東海道佐屋廻りとも呼ばれたように、東海道の迂回路でした。江戸時代に東海道宮宿と桑名宿の間を、陸路万場宿、佐屋宿の陸路を経て、佐屋から桑名宿への水路三里の渡しによって結んでいた街道です。実際に歩いて書かれたと考えられますが、旅人目線で書かれたウォーキングガイドです。津島街道、高須道も取り上げられています。部分的には歩いたところがありますが、佐屋路はいずれ、歩いてみたいと思い、計画中ですので、とても参考になりました。実際に歩かなくとも、歴史読み物としても楽しめます。 (★★★★★)

  • 柳瀬博一: カワセミ都市トーキョー 【電子限定カラー版】 (平凡社新書1049)

    柳瀬博一: カワセミ都市トーキョー 【電子限定カラー版】 (平凡社新書1049)
    東京都心にたくさんのカワセミが棲んでいるというのは、最近割とよく知られるようになっています。清流の鳥というイメージがあるかも知れませんが、東京の「野生」環境をうまく利用して繁殖もしています。そのカワセミが暮らす街は東京屈指の高級住宅街ばかりだそうです。すなわちカワセミも、人間も好む環境は同じというのです。カワセミが暮らす街は、人間にとってもよい街ということです。カワセミの存在に気付いたことから、「小流域源流」をキーワードに「新しい野生」と「古い野生」の繋がりを論じています。カワセミの生態も詳しく観察されていますので、私も今までよく知らなかったことが多々書かれていて、興味深く読みました。 (★★★★)

  • 内田 樹: コモンの再生 (文春文庫)

    内田 樹: コモンの再生 (文春文庫)
    私は、内田樹先生の評論が好きで割とよく読みます。「コモン(common)」とは、形容詞としては「共通の、共同の、公共の、ふつうの、ありふれた」という意味ですし、名詞としては「町や村の共有地、公有地、囲いのない草地や荒れ地」を意味します。昔は、ヨーロッパでも日本でも村落共同体はそういう「共有地」を持っていました。コモンを管理するには「みんなが、いつでも、いつまでも使えるように」という気配りが必要になるのですが、近代になって怒った「囲い込み」によって「コモンの私有化」が起こり、村落共同体が消え、集団的に維持されていた儀礼、祭祀、伝統芸能、生活文化が消えてしまったのです。著者は、このコモンを再生することが市民の原子化、砂粒化、血縁、地域共同体の瓦解、相互扶助システムの不在という索漠たる現状を何とかするために必要と考えています。ちなみに、マルクスとエンゲルスによるコミュニズムは、著者によれば「共同体主義」と訳した方がよく、彼らは「コモンの再生」が必要と提言したといいます。「共産主義」と訳されてしまったがため、なんだかよく分からないことになっているのです。「共有主義」あるいは「共同体主義」と意訳してくれていたら、もろもろが変わっていたかも知れないという話には、膝を打ちました。 (★★★★★)

  • 本田 秀夫: 知的障害と発達障害の子どもたち (SB新書)

    本田 秀夫: 知的障害と発達障害の子どもたち (SB新書)
    児童精神科医の本田先生の最新刊です。今回は知的障害が取り上げられています。これまでの本田先生の御著書では、発達障害が主に取り上げられてきたのですが、実は知的障害を持つ子どもたちも一定数存在していますし、発達障害と知的障害を合わせ持つ子どもたちもいます。その意味で、発達に困難のある子どもたちのことをきちんと理解して、適切な支援をする上では、両者を視野に入れることが重要です。著者は、知的障害の支援では、「早く」と「ゆっくり」がキーワードになると書いておられます。これは私もそうだと思います。可能な限り早期から支援を受けた方がよく、一方で、発達のスピードに合わせて「ゆっくり」としたペースで支援をすることが大切になります。発達障害の子どもたちにも「本児のペースに遭わせた支援が必要」とおっしゃる方がありますが、発達障害の子どもたちの理解/支援の上でのキーワードは「アンバランス」です。この本は、発達が気になるお子さんをお持ちの保護者の方、特別支援教育に携わる教員の方々にとって、基本的なテキストといえます。 (★★★★★)

  • BIRDER編集部: お手本でわかる!野鳥撮影術 (BIRDER SPECIAL)

    BIRDER編集部: お手本でわかる!野鳥撮影術 (BIRDER SPECIAL)
    バードウォッチングや野鳥撮影を趣味にしています。とはいえ珍鳥を追うのではなく、主に自宅近くを散歩しながら、いわば「定点観測」のように野鳥を見ています。自分の写真の撮り方を振り返ると、図鑑的に撮ることがほとんどです。なぜそうなのかを考えてみると、研究者の端くれであったことが関わっている気がします。つまり、写真を撮ることを、観察した記録やデータと見ているからではないかということに思い当たりました。野鳥撮影の「幅を広げたい」と思っていたら、この本が出版されました。ざっと目を通したところ、「色とりどりの花と鳥」「木の実レストラン」「やわらかい表情を追う」などさまざまなテーマで鳥とその周辺を撮る方法が載っています。これを参考に、自分の野鳥写真の世界を広げられたらいいなと思える本です。 (★★★★★)

  • 磯田 道史: 磯田道史と日本史を語ろう (文春新書)

    磯田 道史: 磯田道史と日本史を語ろう (文春新書)
    磯田道史さんが、さまざまな分野の達人と歴史についての論賛をしたのをまとめた本です。論纂とは、①人の徳行や業績などを論じたたえること、②史伝の終わりに著者が書き記した史実に対する論評のこと。異分野の専門家同士が議論をすることによって生まれるものは、別次元となり、大変興味深いものとなります。この本がその論より証拠。養老孟司さんとの論賛からは「脳化社会は江戸時代から始まった」という話が出て来ています。忠、孝、身分などは、シンボリズムであり、それらは見たり、触れたりできません。また、関東大震災に遭遇したことは、被害に対する鈍感さをもたらし、それが太平洋戦争につながったという指摘には、なるほどそういう面も確かにありそうだと思わされました。その他、歴史や人間について、実にさまざまな、新しい見方が示され、大変おもしろく読み終えました。 (★★★★★)

  • 保阪 正康: 近代日本の地下水脈 I 哲学なき軍事国家の悲劇 (文春新書 1440)

    保阪 正康: 近代日本の地下水脈 I 哲学なき軍事国家の悲劇 (文春新書 1440)
    本の帯に「『水脈史観』で日本の失敗を読み解く」とあります。「水脈史観」という概念には初めて接しましたが、「攘夷のエネルギーは、いまも日本社会の根底に流れている」という見方です。明治維新後、日本がとりえた国家像は、欧米型帝国主義国家、道義的帝国主義国家、自由民権国家、米国型連邦制国家、攘夷を貫く小日本国家の5つであったが、哲学なきまま欧米型帝国主義国家の道を突き進み、軍事中心の国家作りを推し進めたことが、戦前の日本の失敗の原因であったというのが著者の主張です。それは確かにそうだと思いますが、私には、ほんのサブタイトルにある「哲学なき国家」ということが、現代日本の様々な問題の背景にあるような気がしてなりません。 (★★★★)

  • 佐伯 泰英: 陰流苗木(かげりゅうなえき)~芋洗河岸(1)~ (光文社文庫)

    佐伯 泰英: 陰流苗木(かげりゅうなえき)~芋洗河岸(1)~ (光文社文庫)
    今回も特別に時代小説を取り上げます。この2つ前の本に佐伯泰英さんの「恋か隠居か 新・酔いどれ小籐次(二十六)」を取り上げ、これは佐伯さんの300冊目の「文庫書き下ろし小説」だと書きました。今回のこの本は、301冊目です。しかも、80歳を越えて、さらに新しいシリーズを始められたのです。美濃を食い詰めた浪人・小此木善治郎が、職なし、金なし、住むあてなしながら、剣の達人にしてとぼけた侍であるものの、なんとも頼りになる存在で、親切な住人や大家によって受け入れられた長屋の秘密と謎の渦に巻き込まれるという設定。これまたおもしろそうなシリーズです。毎月刊行で、全3巻の予定とか。第2巻が待ち遠しい内容です。 (★★★★★)

  • 養老孟司, 鵜飼哲夫: なるようになる。 僕はこんなふうに生きてきた(中央公論新社)

    養老孟司, 鵜飼哲夫: なるようになる。 僕はこんなふうに生きてきた(中央公論新社)
    養老先生の新刊が出たというので早速入手し、ほぼ一気に読み終えました。「はじめての自伝!」といううたい文句で、帯には「虫と猫と、バカの壁。考え続けた86年」ともあります。養老先生は、かなりしつこい性格でいらっしゃるようで、疑問に思ったことは「まぁいいか」などと思わず、考え続けてこられたそうです。その結果が、これまでのユニークな著作に結実しています。それはさておき、考え続けた結果、「なるようになる。」というのが、養老先生の現時点での結論だそうです。「なるようにしかならない」ではなく、「なるようになる。」のです。物事は、はっきりとした目的意識があって進むのではないので、「なるようになる。」なのです。忘れてしまったような些事がその後の人生を動かしてきたかもしれないともあります。なるほどと、この本を読み、養老先生の来し方をいささか知ると、納得できます。というか、納得した気になっているだけかも知れませんが…… (★★★★★)

  • 佐伯 泰英: 恋か隠居か 新・酔いどれ小籐次(二十六) (文春文庫)

    佐伯 泰英: 恋か隠居か 新・酔いどれ小籐次(二十六) (文春文庫)
    佐伯泰英さんは、この本で「文庫書き下ろし小説」というジャンルで300冊刊行を達成されました。佐伯さんの時代小説はすべて読んでいます。まさにストーリー・テラーといえる作家で、実に読み応えのある時代小説をたくさん書いておられます。このシリーズは、いったん完結となったかと思ったのですが、この「恋か隠居か」で復活しました(と理解しています)。隠居を考える小籐次ですが、小籐次親子に挑戦状が届くところから始まる物語。今回も楽しめました。 (★★★★★)

  • 安藤優一郎: 15の街道からよむ日本史 (日経ビジネス人文庫)

    安藤優一郎: 15の街道からよむ日本史 (日経ビジネス人文庫)
    街道歩きを少ししています。三重県内では、東海道のほとんど、伊勢参宮街道、美濃街道・養老街道などを歩きました。もっとあちこちの街道を歩きたいと思っていますが、そのときにこの本が出版されましたので、早速入手して読みました。芭蕉の奥州街道、伊勢参宮街道のお伊勢参り、武士の旅日記などの章をとくに興味深く読みました。主要な街道を取り上げることで読みやすい歴史物語となっています。 (★★★★)

  • 大芦治: 心理学をつくった実験30 (ちくま新書)

    大芦治: 心理学をつくった実験30 (ちくま新書)
    「誰もが一度は耳にしたことがある有名実験の背景・内容・影響を紹介、新たな心理学像を呈示する」と帯にあります。心理学全般に関心を持つ社会人を読者に想定しているといいますが、私には心理学史のテキストとして、あるいは、入門段階の心理学を学んだ方がさらに学習を深める際に読む本としてもよいかも知れません。 私自身も、心理学の教科書を執筆したことが何度かありますが、そこに引用する理論や実験については、いわゆる「孫引き」をしてしまったこともよくありました。この本の著者は、可能な限り原典にあたって執筆していらっしゃり、その意味では参考になったところが多々あります。 ところで、著者は心理学の未来にあまり明るい展望を持てないようです。臨床心理士、公認心理師の資格が人気を集め、心理学部などもたくさん設けられました。私自身の勝手な個人的意見を書けば、資格ができると、レベルは下がると思っています。根拠はありません。個人的な印象によるものです。私は実験心理学でトレーニングを受け、臨床心理の分野に進みました。心理学の基本は実験心理学と個人差測定心理学にあると思っています。学部段階からいきなり臨床心理学プロパーに進むのは、相当よろしくないと思います。臨床実践にあたってはその基礎となる確かな、科学的な学問(知見、理論なども含む)が必要です。また、仮説演繹法などのものの見方もきちんと身に付ける必要があります。これらは実験心理学と個人差測定心理学から養われると思っています。 この本は、基礎的知識がない方がいきなり読むのは難しいでしょうが、科学的心理学を学びたいと思う方にはよい参考書となります。 (★★★★)

  • 磯田 道史: 家康の誤算 「神君の仕組み」の創造と崩壊 (PHP新書)

    磯田 道史: 家康の誤算 「神君の仕組み」の創造と崩壊 (PHP新書)
    磯田先生の書く本はどれもとても面白く読めます。といっても、私が読むのは研究書ではなく、新書だからなのかも知れません。この本は、家康がなぜ幕藩体制を創ることができたのか、江戸時代、誰が神君の仕組みを崩わしたのか、幕末、かくして神君の仕組みは崩壊した、神君の仕組みを破壊した人々が創った近代日本とは、家康から考える日本人というものという5つの章からなっています。家康は天下を取ったあとこの国を支配するのに巧妙な仕掛けをつくり、平和な時代が続いたのですが、誤算が生じて、徳川政権が変質し、崩壊に至ったと著者は考え、そのプロセスを俯瞰しています。いろいろな時点で「神君の仕組み」を骨抜きにする人物や政策が表れたといいます。組織が弱体化する姿を見ておくと、自分たちの劣化を防ぐ力が養われると磯田先生は述べています。徳川時代が現在にあたえている影響も多く、その分析も興味深く読めます。 (★★★★★)

  • 多井 学: 大学教授こそこそ日記

    多井 学: 大学教授こそこそ日記
    文庫本を買いに本屋に行ったら、平積みしてあるのを見つけて思わず買ってしまいました。私もその昔、ご同業だったことがあったからです。帯に「いくらでも手抜きのできる仕事」とありますが、私の経験でもそういう人もそれなりにいました。ちなみに私自身は、こき使われたと思っています。さらに「現役教授が打ち明けるちっとも優雅じゃない生活」とも書かれていますが、これはまさに私の体験と同じ。本に書かれていることがらも、ことごとく納得できます。私は、「そうそう!」といいながら読み終えました。大学教授で儲けている人はごく一部などなど。まぁ大学教授の仕事や生活に興味をお持ちの方は、さほど多くはいらっしゃらないとは思いますが、お暇な方にはどうぞ。 (★★★★)

  • 宮口 幸治: 境界知能の子どもたち 「IQ70以上85未満」の生きづらさ (SB新書)

    宮口 幸治: 境界知能の子どもたち 「IQ70以上85未満」の生きづらさ (SB新書)
    「境界知能」という言葉は、専門家はよく知っていると思いますが、一般のご父兄や、小中学校の先生方にはあまりなじみがないかも知れません。IQという指標でいえば、多くの場合70以上85未満の子どもたちがこれに該当する可能性があります。一見したところでは普通の子どもたちと変わりはなく、なかなか気づかれません。しかし、理論的には約14%の子どもたちが含まれますから、本の帯にあるように「日本人の7人に1人」となります。平均と知的障害のはざまにあり、気づかれにくいものの、授業について行けなかったり、友だちと上手くつきあえなかったり、感情のコントロールが苦手であったりして、当事者の子どもたちは苦戦し、辛い思いをしています。発達障害はよく知られるようになりましたが、境界知能の子どもたちにもしっかり目を向け、必要な支援を提供することは喫緊の課題といえます。この本では、境界知能とはどのような状態なのか、教科学習の前に認知機能を向上することの重要性、子どもの可能性をいかに伸ばしたら良いかについて具体的に、分かりやすく解説されています。 (★★★★)

  • 関裕二: スサノヲの正体(新潮新書)

    関裕二: スサノヲの正体(新潮新書)
    タイトルに惹かれて手に入れたものの、序章の記述が私にとっては退屈でしばらく放っておいたり、読み直そうと思ってくじけたりしていました。しかし、そこを乗り越えるとこの本はとても面白くなり、ほとんど一気読みしました。スサノヲ(素戔嗚尊)の正体を探るプロセスでアマテラス(天照大神)の謎も明らかにされて行き、それもとても興味深いものがあるのです。アマテラスは皇祖神とされますが、実在の初代王と言われる崇神天皇はアマテラスを伊勢に追いやっています。また、伊勢神宮を整備した持統天皇だけは伊勢に参ったものの、それ以降明治になるまで、1,000年以上も歴代天皇は伊勢神宮を訪れていません。明治天皇が東京に遷御したあと武蔵国の鎮守勅祭の社に定めたのは、スサノヲの祀られる氷川神社(現さいたま市)です。明治天皇は氷川神社を訪れた翌年に、伊勢神宮を訪れています。そもそも伊勢にいる神はアマテラスなのかという疑問にも立ち向かっている、古代史や神に関心がある方にはお勧め。 (★★★★★)

  • 安藤 優一郎: 大名屋敷「謎」の生活 (PHP文庫)

    安藤 優一郎: 大名屋敷「謎」の生活 (PHP文庫)
    時代小説をよく読みます。捕物帖、市井の人たちの生活、侍の物語、大名の話などいろいろとあります。庶民の生活については、これまでもいろいろな本でかなり知っていますが、大名の生活については分からないところの方が多いと思っていました。タイトルに惹かれて買ったのですが、大名やその家族の生活が詳しく書かれているのではなく、勤番侍の生活、大名屋敷の庭園、御用達商人や豪農、幕末の動乱と大名屋敷などの話が中心でした。それはそれで知らなかったことが多々あり、興味深く読みました。 (★★★)

  • 服部環ほか: 指導と評価2023年10月号(図書文化社)
    「指導と評価」は、日本教育評価研究会の機関誌であるとともに、日本で数少ない教育評価に関する月刊誌です。この号では、教育・心理検査の意義と活用という特集が組まれています。「教育・心理検査の意義」に始まり、WISC-Ⅴ、KABC-Ⅱなどの個別検査の使い方、解釈の仕方、指導への活かし方がそれぞれの専門の先生によってわかりやすく解説されています。特別支援教育の現場でも、きちんとした心理アセスメント所見に基づいた支援を展開することが望ましいのですが、現場の先生方には敷居が高いようです。ご関心がおありの方には、どのように使えるか、どのように考えたらよいかについて基本的なことがらを理解するのに適しています。出版社のWebサイトからバックナンバーとして購入できます。 (★★★★)
  • 石田 光史, 樋口 広芳(ナツメ社): ぱっと見わけ観察を楽しむ 野鳥図鑑

    石田 光史, 樋口 広芳(ナツメ社): ぱっと見わけ観察を楽しむ 野鳥図鑑
    野鳥図鑑はすでに何冊も持っていますが、この野鳥図鑑は、2015年の刊行で、なぜ今までこの存在に気づかなかったと反省するほど便利そうなもの。掲載されているのは324種ですが、それぞれの特徴や、見わけのポイントがパッとわかるようになっています。その鳥の生活型や生息地、食性や羽色、形態などのほか、雌雄、夏羽冬羽、幼鳥などで特徴が異なる場合は、それらについても説明されています。観察したい行動から、おもしろい生態、探し方までもが載っていますし、鳥の鳴き声が聴けるQRコードも付いています。私自身、野鳥の特定がけっこうアヤシいので、しっかり活用しましょう。 (★★★★★)

  • 千枝大志(風媒社): 街道今昔 三重の街道をゆく (爽BOOKS)

    千枝大志(風媒社): 街道今昔 三重の街道をゆく (爽BOOKS)
    「東海の街道」シリーズの第4巻です。「街道歩きのお供に最適の1冊」といううたい文句。内容は、三重の主な街道、近世三重の城郭図・城下図を読み解く、お伊勢参り小咄、伊勢をめぐる〈参詣〉をデジタル化するの4章構成で、まさに三重の街道歩きの参考書としてよいと思います。私自身も県内の東海道、伊勢街道、美濃街道、濃州街道はほとんど歩き、ほかの街道も部分的に歩いていますし、城もここに載っているところはかなり訪ねています。デジタル化も、ブログに写真・記事を載せていますから、出来不出来はともかく、私も取り組んでいます。県内の街道はさらに歩こうと思っていますし、デジタル化にももっと取り組みたいと考えていますので、十分活用できるでしょう。 (★★★★★)

  • 唐沢孝一: 都会の鳥の生態学 カラス、ツバメ、スズメ、水鳥、猛禽の栄枯盛衰 (中公新書)

    唐沢孝一: 都会の鳥の生態学 カラス、ツバメ、スズメ、水鳥、猛禽の栄枯盛衰 (中公新書)
    都市にもたくさんの野鳥がいることを知る人は少ないかも知れません。私がいつも散歩している地方都市の公園では、これまで10年あまりで70種類近くの野鳥を観察しています。都会は自然の少ない人工的な環境にあふれていますが、野鳥たちはもともとの生態を活かしつつこれらにしたたかに適応してい生きています。この本では、カラス、ツバメ、スズメ、水鳥、猛禽を取り上げ、その都会における生態や、活動の変化、人間と鳥との関係とその変化などについて多くの実例や、調査結果をもとに、豊富な写真を使って楽しく読めるようにまとめられています。 (★★★★★)

  • 堤未果: 堤未果のショック・ドクトリン 政府のやりたい放題から身を守る方法 (幻冬舎新書)

    堤未果: 堤未果のショック・ドクトリン 政府のやりたい放題から身を守る方法 (幻冬舎新書)
    「ショックドクトリン」とは、テロや大災害など、恐怖でこくみんが思考停止している最中に、為政者や巨大資本がどさくさ紛れに過激な政策を推し進める悪魔の手法のことです。アメリカでの3.11以来、日本でも大地震やコロナ禍の裏で知らない間に個人情報や資産が奪われようとしているというのがこの本のテーマ。パンデミックで製薬企業は空前の利益を得、マイナンバーカード普及の先には政府のよからぬ思惑があるなどよくよく注意し、自分の生命・財産を守らないといけないというのが著者の主張。「今だけ、自分だけ、お金だけ」という強欲資本主義に負けないようにするには、ちょっとした違和感を大事にし、お金の流れがその裏にないか、また、それで大もうけして回転ドアをくぐって逃げる輩がいないかをチェックすることです。また、政府が何か、大急ぎで導入しようとしたり、既存の制度を急拡大しようとするときは、要注意だそうです。 (★★★★)

  •  奥山景布子: 葵の残葉 (文春文庫)

    奥山景布子: 葵の残葉 (文春文庫)
    いわゆる「高須四兄弟」である徳川慶勝、松平容保、松平定敬、徳川茂栄は、幕末維新の激動期に、結局のところ官軍と幕府とに分かれて戦う運命になったのですが、この四兄弟を取り上げて埋もれた歴史を活写した小説。私自身は、桑名藩主であった松平定敬が取り上げられているので興味を持って手に取った次第。幕末維新は、次々に色々な出来事が起きて、さまざまな人たちの思惑も複雑に入り組んでいるので、小説にするのは難しいと思っていたのですが、隠れた主人公ともいえる高須四兄弟の視点からとても躍動感のある読み物になっています。また、この時期の歴史をより一層深く理解できたという感想も持っています。 (★★★★)