20210409「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」……第1回「七里の渡し跡~朝日」その1……七里の渡し跡から七曲見附跡
一昨年、近鉄ハイキングの企画で「昔も今もお伊勢参り」に参加し、12回に分けて桑名の七里の渡し跡(スタートは近鉄桑名駅)から伊勢神宮・内宮(ゴールは近鉄五十鈴川駅)に参加しました(こちらにまとめの記事があります)。3月10日から12月1日でした。12回のハイキングで歩いた距離の合計は、133.8㎞。七里の渡し跡から内宮まで、単純に東海道・伊勢街道を辿ると、94㎞ほどになります。近鉄ハイキングでは、駅がスタート、駅がゴールですし、あちこち立ち寄ったり、一部でルートが重複したり、初瀬街道を歩いたりしましたので、40㎞ほどプラスになっています。この「歩いて伊勢詣り」の話を同級生K氏にしたところ、「行ってみたい」といいますので、今年、再挑戦することにした次第です。東海道で四日市の追分まで、そこから伊勢街道に入り、内宮を目指します。12回で行こうとしますと、13~15㎞を歩く回ができますので、1回に歩く目安を6㎞としています。まだ、すべての計画が立ったわけではありませんが、新年度からスタートしようということで、今日がその第1回。「同じところを歩いて、おもしろいのか?」という疑問をお持ちになるかも知れません。一度訪ねたところであっても見逃していたり、気づかなかったりするものごとが必ずあります。また、何か新しいテーマを持てば、別の楽しみも出て来ます。これについて、桑名から伊勢まで、伊勢詣りの街道には、別名「餅街道」という名前があります(こちら)。有名な赤福餅以外にも、たとえば、桑名、四日市には「なが餅」「安永餅」がありますし、宮川の渡しの北には、私の大好物である「へんば餅」があります。個人的には、これらの餅を楽しもうとも思っているのです。
「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」と勝手に命名(微笑、ちょっと長いのですが)したツアーの今日は、第1回目。スタートはもちろん、ここ、七里の渡し跡。鳥居は、伊勢一の鳥居。伊勢神宮のご遷宮の際、宇治橋のところの鳥居が払い下げられます。東海道は、名古屋の宮からここまで海上七里をやって来て、再びここから陸路。
左が、今日のコースマップ全体像。立ち寄り先は多々ありましたので、割愛しています。七里の渡し跡をスタートし東海道を歩いて、6.7㎞。近鉄伊勢朝日駅がゴール。右は、詳しいコースマップその1。近鉄益生駅近くの矢田立場跡あたりまでのもの。七里の渡し跡を9時にスタートしました。桑名市内で実にたくさんのところへ立ち寄っています。我ながら驚き。私自身は、何度も訪ねたところがほとんどですので、説明は最小限にしています。
桑名宗社(春日神社)。何度もいっていますので、今日は、神社の境内には行っていません。K氏が「志るべ石」を知らないというので、それと青銅の鳥居だけを見てきました。正面には「志類べ以志」、右側面には「たづぬ留かた」、左側面には「おしゆるかた」とあります。「迷い子石」ともいわれるもので、人が大勢集まる所に立てられました。多度大社の鳥居の横にも同じものがあるそうなのですが、そちらは見たことがありません。
春日神社の先には、歴史を語る公園。その向かいには、旧・桑名城の石垣が残っています。このあたりは、堀沿いで「片町」と呼ばれます。東海道の西側にしか町屋がなかったためにこの名前がついています。七里の渡し跡から続く堀で、江戸時代には、このあたりで日用品などが荷揚げされたといいます。東海道は、この歴史を語る公園の先で右折し、西に向かい、京町へ。
京町交差点の西に京町公園があります。このあたりが、京町見附跡。ここには京町門があり、その南に番所が遭ったといいます。北側には郷方役所もありました。門の西側(写真でいうと、左手)には総構の堀がありました。今は、寺町堀、吉津屋堀にその名残があります。また、枡形があったそうですが、今は廃止されています。東海道は、京町公園の手前で左折し、南へ。吉津屋町あたりでスタートから1㎞、県道654号線を越えます。
鍛冶町に入って、ここにも見附がありました(吉津屋見附跡)。ここには現在も枡形が残っています。写真の中央で右に曲がり、その先を左、左と曲がって、正面奥に出て来ます。その先で七津屋橋跡に出ます。桑名市内の東海道では、初めて堀にかかった橋がありました。現在は堀も、橋もありません。七里の渡し跡にある常夜燈は、もともとここにありました。
この先に「いもや本店」があります。ここで東海道は右折し、南へ。いもや本店は、プラモデルや玩具を売っています。かなり昔のものもたくさんあります。8年ほど前、ご主人に呼び止められ店内をじっくり見たことがありました(2013年4月19日:いもや本店と、天武天皇御洗足井(とうとう見つけました!))。ご主人は最近、お亡くなりになったという噂を聞きました。去年夏は、店は閉まっていた気がしますが、今日は、入り口が半分くらい開いていました(この写真は、2019年3月10日の撮影)。
いもや本店の先が新町。このあたり、桑名でもう一つの「寺町」といえるほど寺が集められています(慶長の町割のとき)。左は、四宝山教宗寺。真宗本願寺派のお寺。かつては、萱町にある法盛寺の塔頭でした。「桑名市史 本編」によれば、明応2(1493)年開基とあります。戦災で焼失し、城南村和泉に仮本堂を営なんだ後、ここに来ています。
続いて、瑠璃山医王院光明寺。西山浄土宗のお寺。開基は不詳。元は真言宗で、春日神社の東にあり、その神宮寺として神事に与ったといいます(桑名市史 本編)。慶長の町割で現地に移っています。町田武須計(まちだぶすけ)の墓があるというのは知っていたのですが、これまできちんと確認したことはありませんでした。墓地の一角にそれはありました。町田武須計は、桑名藩士。戊辰戦争に参戦しています。明治2(1869)年、桑名藩権大参事。三重県会議員を経て、明治22(1889)年、初代桑名町長に就任しました。武須計は、あの立見鑑三郎尚文の長兄(立見は、町田家の三男として生まれ、立見家へ養子に入っています)。このほか、七里の渡し船が遭難した際に亡くなった旅人の供養碑が残っているというのですが、このことはすっかり失念していました(苦笑)。一つ覚えていると、一つ忘れているという有様で、苦笑せざるを得ず。
となりに泡洲崎八幡社。この付近、旧泡洲崎の鎮守。桑名は、江戸時代以前、町屋川の流れによって、自凝洲崎(おのころすざき)、加良洲崎(からすざき)、泡洲崎(あわすざき)の3つの洲に分かれていました。その泡洲崎の鎮守でした。慶長の町割の時、現在の一色町からここに遷ってきました。境内に、天保13(1842)年、新町の北の端に建立された導石があります。「右きゃういせみち」「左ふなばみち」とあります。「ふなばまち」は、七里の渡し方面、「船場」と考えられます。この導石は、初めてきちんと確認してきました。
鎮照山凝念院光徳寺。浄土宗のお寺。鎌倉時代に、恵心僧都が泡洲崎念仏道場として創建。明治7(1874)年に日進小学校の前身である進善学校が開始されたところ。境内には、萬古焼の創始者である沼波弄山(ぬなみろうざん)の墓があります。
佛光山九晶院十念寺。浄土宗のお寺。天智天皇の勅願によって、現在の菰野町(朝明郡切畑村)に創建され、天平宝宇年中、行基が興隆して朝明寺と称されまし。室町時代に桑名(現在の桑名城本丸のところ)に移り、慶長の町割でここに移転。十念寺には七福神祭があります。右はそれに関わる七福堂。
十念寺には、桑名藩士森陳明(つらあき)の墓があります。森陳明は、松平定敬が京都所司代に在職中、公用人として定敬を助けました。戊辰戦争では、定敬にしたがって函館に立て籠ったのですが、敗れたのち、朝廷が桑名藩に対して、反逆の主謀者を出だせと命じた時、進んで全藩に代わって出頭し、明治2(1869)年11月13日、東京深川の藩邸で死に就いています。九華公園には、森を讃える「精忠苦節」碑があります。
これは十念寺についての余談。墓所の入り口に写真のように、昔ながらの手押しポンプがありました。昔は、井戸水をこの手押しポンプで組んだものです。私の実家にもありました。このポンプ、驚くべきことに現役。押したら、水が出ました。
次に、妙延山寿量寺。日蓮宗のお寺。初めは天台宗でしたが、文明年間(1469~87年)、日意のときに日蓮宗に改めています。織田信長の兵火に遭い、全焼。元は一色町にありましたが、慶長の町割で伝馬町に移転。境内には行ってすぐのところに狩野光信の墓があります。光信は、秀吉、家康に仕えました。慶長11(1606)年、江戸に下向し、慶長13(1608)年、帰洛の途中、桑名で病死しここに葬られました。
寿量寺には登録有形文化財が2件あります。旧大黒殿と鐘楼がそれです。いずれも昭和10(1935)年頃の建築。和洋折衷のようなスタイルが特徴。寺院建築に鉄筋コンクリート造りを導入した貴重な資料とされます。
県道401号線を越えると、大悲山長圓寺。浄土真宗本願寺派。古くは江場村にあったのですが、慶長の町割の時に現在地へ移りました。この寺の第11代住職魯縞庵義道(ろこうあんぎどう、天保2(1831)年没、73歳)は、「桑府名勝志」、「久波奈名所図会」を著したほか、「桑名の千羽鶴」も考案しています。「桑名の千羽鶴」とは、1枚の紙で連続した鶴を多く折る珍しい方法です。
長圓寺のとなりには、高竜山謝徳院報恩寺。真宗本願寺派のお寺。応仁2(1468)年、教順の開基。真言宗でしたが、寛永2(1625)年、改宗しています。元は江場村にあったといいますが、慶安の洪水で古い資料を失って、詳細は不明。
報恩寺の先で、日進小学校の前に出ます。このあたりが七曲見附跡。消防団の車庫が見えています。ここから日進小学校の敷地辺りに七曲見附があり、東海道は枡形になっていたそうです(今は、枡形はありません)。消防団車庫のすぐ手前を東海道が通っていました(北から南=写真では右から左)。
東海道はこのすぐ先で右折し、西に向かいます。右折したあたりは、鍋屋町。今回は、1回で完結のつもりで書き始めましたが、立ち寄り先が多く、案外長くなりそうですので、今回はここまでとします。後半は、もう1回で書き終えられると思います。詳細マップのその1も、最後までは来ていません。続きは明日以降。
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