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2021年4月11日 (日)

20210409「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」……第1回「七里の渡し跡~朝日」その2……天武天皇社からゴールの伊勢朝日駅へ(完)

210409sichirinowatasi1 4月9日の「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」の第1回「七里の渡し跡~朝日」のその2です。あまり考えずに書き始めたため、1回の記事で収まりませんでした。その1では、七里の渡し跡をスタートして七曲がり見附跡まで来ました。新町のお寺を丁寧に見て回った結果です。七曲がり見附跡は、この詳細マップその1の中央最下部にあります。ここで右折して、東海道は西へ。鍋屋町という名前の通り、鋳物師などが集まっていたあたりに入ります。

Img_5119c_20210410044401 Img_5125c_20210410044401  天武天皇社天武天皇を祀る、全国で唯一の神社だそうです。壬申の乱(672年)に大海人皇子(のちの天武天皇)が桑名郡家に駐泊されたことにちなみ、のちに創建されました。右は、「本願寺跡・梅花仏鏡塔」。ここにはかつて本願寺という大きな寺があり、その境内に芭蕉の門人である各務支考の分骨墓・梅花仏鏡塔があります。墓は各務の姓にちなんで、円形の鏡を模しています。この2箇所は以前に立ち寄っていますので、パス。

Img_5128c_20210410044401  本願寺跡の先の交差点のところに一目連神社があります(マップにはスペースがなくなり、記入してありません)。御祭神は、天目一箇命(あめのまひとつのみこと)。鍛冶(かじ)に関わる神様で、多度大社の別宮にも祀られています。このあたりは「鍋屋町」地名のとおり、鍋屋が多かったので、天目一箇命への信仰が篤く、金属工業の神として勧請されました。この日は、社殿を新しくする工事が行われていました。境内には、美濃派の俳人・徐風庵(じょふうあん)の句碑があり、また、道をはさんだ向かいには、道標が1基あります(2020年5月4日:20200501ご近所神社めぐり……(その2)一目連神社、本願寺跡・梅花仏鏡塔、天武天皇社、伝馬公園、金刀比羅神社)。

 スタートから3㎞ほどのところにお寺が2つ。まずは、瑞瑋山明圓寺。Img_5132c_20210410044401浄土真宗大谷派のお寺。開基は不明ですが、元は多度町香取にある法泉寺の末寺。戦国時代に香取(多度)の安田空明の家臣・伊藤孫右衛門が出家して再興したといいます。

Img_5144c  続いて、Img_5141c_20210410044401松下山教覚寺。浄土真宗本願寺派のお寺。文明3(1471)年、深谷部の地主・紀伊氏の一族紀伊直行が出家して正玄と名乗り、町屋に道場を開いたのが始まりとされます。ここでも墓地を見たのですが、「正四位勲三等加藤久米四郎墓」とあるのに気づきました。加藤久米四郎は、明治17(1884)年、市内西方に生まれ、明治40(1907)年、日本法律学校(現在の日本大学)を卒業し、大正6(1917)年、政界入り。衆院議員を7期連続務めました。国道1号線沿いにある「参宮国道碑」を書いています(2021年2月27日:20210227勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道再び(川口町~下深谷)」(完))。顕彰碑が、西方連合自治会により、平成19(2007)年6月に笹山溜池公園に建てられています(2021年3月23日:20210320勝手にハイキング「諸戸水道・駅西を行く」……その3(南大山田神社から海善寺を経て桑名駅西口にゴールで「完」))。

Img_5151c  教覚寺の墓地で、このようなお墓を見つけました。よくよく見てみましたが、「囲い」の部分は跡から支えるためにつけたものではなさそうで、初めからこういう形のようでした。

Img_8249c_20210410065801 Img_5165c_20210410070101  教覚寺を出たところに中川梵鐘店。江戸末期創業の鋳造会社で、全国各地の梵鐘を手がけており、永平寺や、名古屋の日泰寺、三河の鳳来寺などの梵鐘もここがつくったもの。その先、矢田町交差点で国道1号線を渡ります。交差点の南東、南西には右の写真のように「左右対称」と思える建物があります。向かって左は、和菓子の和(かず)。ここの最中は絶品。右は、呉服屋の「にし眞」ですが、もう営業はしていません。

Img_5167c_20210410070401 Img_5173c_20210410070401  交差点を渡ったところには、走井山善西寺。浄土真宗本願寺派のお寺。戦国時代、矢田城の城主・矢田俊元(としもと)は、織田信⻑と戦って亡くなりましたが、その孫・俊勝(としかつ)は出家してこの寺を建て、祖父の法号をとって寺号にしています。善西寺を検索したら、ご住職は、名古屋大学大学院理学研究科修了の理学博士。生命科学の研究者でいらしたそうです。

Img_5175c_20210410070501 Img_5174c  このあたりは、慶⻑町割当時は城下外の矢田村でしたが、東海道に⾯して家並が続き、旅人の休息する茶店が多く、立場となっていました。国道1号線に分断され、東⻄に分れたのですが、東矢田町は戦災でほぼ全焼したのに対し、こちら側の⻄矢田町は戦災を免がれ、連子格子の家も見られ、街道の⾯影を残しています。この写真の竹内家には馬をつないだ輪が道路に⾯して残っています(善西寺のすぐ西)。

Img_5184c_20210410070501 Img_5190c_20210410070501  さらにその先、南側には江戸時代に建てられたというお宅が残っており、ここには現在もお住まいだそうです。お庭なども立派なものがあると聞きます。機会があれば、拝見してみたいもの。右の写真は、矢田の火の見櫓跡。文政8(1825)年、町方からの願いによって火の見櫓が建てられています。現在のものは、東海道宿駅制定400年を記念して復元されたもの。東海道はここで左折し、南へ。

210409sichirinowatasi2 Img_5193c_20210410071501  ようやく詳細マップはその2に入ります。南に向いたあたりの東海道の様子が、右の写真。地名でいうと、福江町。

Img_5196c_20210410071501  スタートして3.6㎞ほどのところに神戸岡神社があります。縁起は不詳ですが、この付近には伊勢神宮の領地があり、古地図には「神⼾岡」とあるといいます。また、伊勢国風土記にはこの付辺を「桑名神⼾」と称したいいますので、伊勢神宮に関わりがあるかも知れません。明治28(1895)年、立坂神社に合祀されましたが、昭和35
(1960)年に現在地に再建しています。小さい神社ですので、これまできちんと観ていませんでしたが、境内にはいろいろとありました。

Img_5206c_20210410071501 Img_5200c_20210410071501  まずは「戦役勇士碑」。裏には回れず、碑陰は確認できませんでしたが、碑表にはたくさんの方のお名前が刻まれていました。このあたりから出征された方々と思います。向かって右は、橋の親柱。現地では何と書いてあるのかよく分からなかったのですが、帰宅して、町屋御用水のことを調べていたら、判明。「新福橋」と刻まれています。神戸岡神社の西にある「新地」は正徳年間(1711~16年)に足軽屋敷として開発された土地で、東海道沿いの福江町から新地へ出入りするために町屋御用水に橋が架けられました。この橋は、新地の「新」と福江町の「福」を採って「新福橋」と名付けられたのです。その橋の親柱ということ。これでスッキリ(微笑)。

Img_5212c_20210410071501  神戸岡神社から100mあまり行った、西側に御用水親水広場があります。御用水とは、町屋御用水。寛永3(1626)年、桑名藩主松平定行によってつくられた上水道。4月10日にその取水口を見てきています(町屋川へキジを探しに……ついでに町屋御用水取水口も見てくる)。町屋御用水は、繁松新田の東京堂書店の南、桑名医師会の看護専門学校の南を通り、近鉄と JR の線路下を暗渠で抜けると新地地内へ入り、広い道路の真ん中
を流れます。護岸は石張りで整備され、ここに水面へ降りられるように階段が設けられ、親水広場になっています。それがここ。

Img_5218c_20210410194801 Img_5221c_20210410194801  御用水親水広場を覗いてすぐのところ、東側に桑部山了順寺。浄土真宗本願寺派のお寺。戦国時代の桑部城主・毛利秀重(ひでしげ)の 孫・秀元(ひでもと)が、永禄10(1567)年に織田信長に敗れて後出家して、元和7(1621)年に創建した寺です。山門は 桑名城の門を移したものといわれています。現在の建物は明治35(1902)年の建築で、戦災を免がれ、東海道筋に昔ながらのたたずまいを残しています。

Img_5228c_20210410194801  了順寺を出ると、日立金属桑名工場が西側にあります。このあたりが、江場松原跡。東海道は、七里の渡し跡から大福村までは両側に家並が続いていたのですが、大福村を過ぎて江場安永にかけては、両側には家はなく、松並木となっていたといいます。この松並木を通して、両側とも眺望が秀れ、東は伊勢の海が見られ、⻄には鈴⿅の山脈が遠望されたそうです。松並木は、昭和34(1959)年の伊勢湾台風頃まで残っていたのですが、現在は一本の松もなく、家並となり、一部は⽇立金属工場庭園となっています。

Img_5234c_20210410194801 スタートから4㎞を過ぎて、西に城南神社。江⼾時代までは「神明宮」と呼ばれていました。倭姫命が、伊勢神宮鎮座地を求めて巡行された時立ち寄られたという伝承があります。その縁で、伊勢神宮の遷宮ごとに皇大神宮(内宮)の一の鳥居、占殿舎の一部を下賜されて、御木曳きが行われます。明治41(1908)年、旧城南
村各字の神社を合祀して城南神社と称しました。境内の手水鉢には、嘉永4(1851)年の銘があります。合祀された各社は昭和30(1955)年に旧社地に分祀されました。

Img_5244c_20210410194801  主祭神は、天照大御神。相殿神は、保食神(うけもちのかみ:食物の神)、少彦名神(スクナビコナノカミ:医薬の神)、天目一箇命(あまのまひとつのみこと:鍛冶の神)、大山津見命(おおやまつみのみこと:山の神)、火産霊神(ほむすびのかみ:火の神)、豊受比売命(とようけひめのみこと:食物を司る神、伊勢神宮外宮に祀られる)。城南神社で11時15分、スタートから2時間以上歩いてきましたので、30分ほど小休止。

Img_5254c_20210410194801 Img_5257c_20210410194801  城南神社から200数十メートルのところに清浄山晴雲寺。真宗大谷派のお寺。大永2(1522)年、東城(現在の九華公園付近にあった)の城主・伊藤武左衛門の一族の明⻄(めいさい)が、一族の菩提を弔うために建立。江⼾時代には、関東へ行く諸大名などは、この晴雲寺に立ち寄って、衣服を改めて桑名城下に入ったといいます。現在の本堂は明治27(1894)年の建築。また、慶応4(1869)年、戊辰戦争の際、赤報隊の一部・滋野井隊(幕末~明治時代の公家・華族である滋野井公寿(しげのい きんひさ)を隊長とする)がここ晴雲寺に宿泊し、「偽勅使」として捕縛されるという事件の舞台でもありました。

Img_6912c Img_5559c_20210410202801  晴雲寺からすぐに国道258号線を地下道でくぐり、安永へ。このあたりも立場でした。安永は東海道筋であると共に、町屋川を利用した舟運の舟着場でもありましたので、通行客を相手とする茶店が多くありました。名物として「安永餅」が売られていたのですが、現在は、このあたりには売る店はありません。しかし料理旅館「玉喜」、「すし清」(右の写真)が茶店の名残りで、両店とも藤の花が見事です。

Img_5285c Img_5295c_20210410194801  すし清の手前に伊勢両宮常夜燈と里程標があります。伊勢両宮常夜燈は、文政元(1818)年、東海道の道しるべと伊勢神宮への祈願を兼ねて桑名や岐阜の材木屋によって寄進されたものです。江⼾時代の東海道はここから町屋川に進み、対岸の縄生(なお)までかけられた板橋を通りました。常夜燈の横にある「里程標」は、明治26(1893)年に建立されたもの。里程標には、町屋川の中央から北が桑名郡であること、三重県庁及び桑名郡役所までの距離が刻まれています。三重県庁までは、11町3里余(約47km)です。江⼾時代の町屋川は、川幅が232問余(約420m)あり、寛永12(1635)年に初めて橋がかけられ
た。昭和8(1933)年、国道1号線にかかる町屋橋がやや下流にできましたので、旧橋は廃止。現在の橋は、平成元(1989)年に架け替えられたもの。

Img_5312c_20210410194801210409sichirinowatasi3  町屋橋を渡ると、三重郡朝日町に入ります。左の写真は、町屋橋を渡った先、縄生(なお)あたりの東海道。南西を向いて写真を撮っています。朝日町に入ってからの詳細マップは、その3(右の画像)。

Img_5315c_20210410194801  橋本川を越えるとじきに、雨宝山金光寺(うほうさんこんこうじ)が西にあります。高野山真言宗のお寺。もともと天台宗で、その後、真言宗になったといわれています。延宝2(1673)年に現在の公民館縄生分館の辺りに小堂が建てられ、本尊十一面観世音を祀ったが、寛政年間(1789-1800)に類焼し、3年後に現在地で再建されました。しかし、明治3(1870)年、当時の住職・浄海(じょうかい)を最後に無住となり、この小さな本堂のみが残されています。ご本尊は、十一面観音菩薩。

Img_5324c_20210410194801 Img_5333c_20210410194801  金光寺の南隣にあるのが、桔梗山真光寺(しんこうじ)があります。浄土真宗本願寺派。大同2(807)年、最澄が天台精舎として創建。興国元(1340)年に本願寺第三世覚如上人の教化を受けて浄土真宗に改宗しています。

Img_5337c_20210410194801  ここ真光寺には、松平家の定紋である梅鉢紋入りの大手水鉢があります。これは、桑名藩7代藩主・松平定重公が、万治3(1660)年に寄進した ものです。先代藩主の定良公が、有馬温泉での湯治から帰藩途中に病死したのですが、町屋川の洪水で、川留めになり、真光寺がその遺骸を3日間安置し、供養したことへの返礼で拝領したものです。

Img_5343c  さらに進みます、スタートから6.1㎞あたり、水谷たばこ店の店先に山口誓子の句碑があります。この句碑には山口誓子の筆跡で、「露けさよ 祷りの指を 唇に触れ 誓子」と刻まれています。以前は、ほとんど読めなかった記憶がありますが、きれいになったかも知れません。「俳句のくに 三重」の説明によれば、「外に出て露けき中でお祈りをした。合掌し、その手を唇に近づけたので指の先が唇に触れた。私はその指先を感じながら祈りを続けた」ということです。昭和25(1950)年10月建立。誓子は、昭和16(1941)年、伊勢富田(四日市市富田)に移り、療養したといいますから、その頃の句でしょう。

Img_5347c Img_5353c  山口誓子句碑から目と鼻の先、「縄生の一里塚跡」の石碑があります。ここは、桑名の七里の渡や、西富田の庚申橋から、それぞれちょうど一里のところになるはず。伊勢国には、12カ所に一里塚がもうけられたといいます。この石碑は、新しいのですが、それもそのはず、平成13(2001)年に、東海道宿場・伝馬制度制定400周年記念事業で作られたもの。ボンヤリと歩いていると、見逃しそうなくらいの小さな石碑です。いささか余談ですが、この日のゴールにした近鉄名古屋線・伊勢朝日駅の手前に「安達本家酒造」があります。以前来たとき(2017年11月9日:旧・東海道ウォーク(安永~富田)へ(前編))、自動販売機で、ここが造っている地酒を買おうと思ったのに、うまく行きませんでした。運転免許証を入れて、年齢認証を受けるというのが、何度やってもうまく行かなかったのです。今日、リベンジできるかと思ったら、自販機には商品が何も入っていませんでした。一度、酒屋さんでここの「富士の光」を探してみましょう。

Img_5359c_20210410194801 Img_5356c_20210410194801  これでこの日の目的地はコンプリート。ゴールは、伊勢朝日駅に設定してあるのですが、その前にすでに時刻は12時半。伊勢朝日駅の手前に「日乃出」という食事処へ。前日にリサーチ済み。今の時期お昼は「日替わり弁当」のみのメニュー。¥700。刺し身、フライ、卵焼きなどに味噌汁付きですから、まぁ「お値打ち」。平日でしたが、我々の他にもお客さんはそこそこやって来ていました。

Img_5366c  昼食を済ませて、伊勢朝日駅には13時10分着。ここは普通電車のみ停車。次の名古屋方面行きは、13時25分の名古屋行き普通。桑名までは2駅。13時30分着とたった5分。¥210。9時から、実質3時間かけて歩いてきたのですが、電車では載ったかと思うと、すぐに降りなくてはならないくらいで笑えます。

Img_5376c  この日のスマホのALKOOのデータ。16,225歩でした。現地で歩いたのが6.7㎞。我が家から七里の渡し跡までと、桑名駅から自宅までとを合わせて1.5㎞。合計8.2㎞を歩きました。

 

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