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2021年4月29日 (木)

20210425「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第2回「朝日~富田」(その3)……田村寺、三行寺、富田一里塚跡碑を見て、八幡神社、行啓道路記念碑、吉玉稲荷神社、蓮光寺跡に立ち寄り、近鉄富田駅にゴール(完)

Iseasahi3  4月25日の「東海道・伊勢街道歩いて伊勢詣りツアー」第2回「朝日~富田」の本編その3です。四日市市内で、松寺、蒔田と歩いて、聖武天皇ゆかりの鏡ヶ池跡まで来ました。このあと、八風街道をちょっと冨田方向に道草して、田村寺へ。東海道に戻って、三光寺。ここで鳥居を見つけ、若宮八幡神社に立ち寄り、冨田一里塚跡碑、八幡神社、行啓道路記念碑と進み、玉吉稲荷神社。ゴールの近鉄富田駅に向かっていたとき、大きな松の木を見つけ、またもや連光寺跡に道草。

Img_1039c_20210425170001  蒔田交差点の次の交差点で、東海道は、八風街道と交わります。八風街道を少し富田の方向に行ったところに弘法山田村寺があります。ついでだから行ってみようということになり、寄り道。田村寺は、八風街道を200mほど東南に行ったところにあります。真言宗醍醐派。ここは、2度ほど訪ねています(たとえば、2017年12月22日:近鉄ハイキング「巨大かぼちゃ『中風封じの田村寺』と垂坂公園を訪ねて!!」へ(その1))。冬至のとき、中風封じが行われ、巨大カボチャで有名。「かぼちゃ大師の日」といわれています。

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 田村寺の創立は江戸時代末期(1850年頃~)。寺伝によれば、平安時代初期、坂上田村麻呂公が東征の帰途、この地で休息した際、村人のもてなしに感謝し、田村の姓を下賜され(それ故、この地区には田村姓が多いようです)、江戸時代に坂上田村麻呂公の霊を弔い、草庵を開いたといいます。明治時代、大慈遍照二世の大導師が弘法大師を信奉し、信徒ともに厄除け大師の恩恵に浴し、大師堂を建立。さらに真養大和尚により寺格を整え、弘法山・田村寺と称し、真言宗醍醐派に属することになったといいます(別の伝承もあります。こちらもご覧ください)。

Img_1043c_20210425170001 Img_1066c_20210428070601  東海道に戻って関西本線の踏切を渡り、三岐鉄道三岐線の高架をくぐると、木下山三光寺。真宗本願寺派のお寺。平安時代末期、時の後鳥羽院守護職としてこの地を治めた蒔田相模守宗勝の墓碑があります。承久3(1221)年、法名を祐善とした宗勝が示寂し、富田郷木下にあった江戸法徳寺(真言宗)の分地に埋葬されました。子々孫々その菩提を弔い、11代正了の時、真宗8代門主・蓮如上人の教理に触れ、一宇の坊舎を建立したのが始まりと伝わります。慶長11(1606)年、長福寺という寺名で本願寺の末寺に列し、現在地に寺院を建立したのですが、寺名が江戸幕府に忌避され、享保2(1717)年に三光寺と改名。翌年、寺院御堂が建立されたものの、安政大地震により破壊され、再建されたのですが、昭和37(1962)年には火災で焼失。現在の本堂は、昭和47(1972)年に建てられています。

Img_1046c_20210428065601  こちらが境内にある蒔田相模守宗勝の墓碑。

Img_1074c_20210428071001 Img_1079c_20210425170001  三光寺の先で東海道は左折するのですが、右を見たら、鳥居が見えました。年寄りの割に好奇心旺盛で、またもや行ってみようとなりました。若宮八幡神社です。元治元(1864)年、「氏子相計り應神天皇を鎮め神として奉祀」だそうです。主祭神は、応神天皇。相殿神は、大山祇命、護国の英霊。

Img_1093c_20210425170001 602593e9  東海道に戻り(このあたりで5㎞を過ぎています)、三岐鉄道三岐線と近鉄名古屋線の高架をくぐったところに富田一里塚跡碑があります。日本橋からは98里。縄生の一里塚よりも立派な石碑が建っています。県指定の史跡(昭和12(1937)年11月指定)。四日市市内には4ヶ所の一里塚がありました。ここ富田の他、三ツ谷(海蔵川の北詰)、日永、釆女(杖衝坂を登りつめた先)です。いずれも、すでに塚はありません。私がこれまで歩いてみてきた中で、塚が残っていたのは、亀山の野村一里塚と、名古屋の笠寺一里塚。右に亀山の野村一里塚の写真を載せておきます(2019年6月 9日:20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(予告編)……雨にも負けず(苦笑))。野村一里塚は、県内12ヵ所の一里塚のなかで唯一、昔ながらの原形を保っています。残っているのは北側の塚で、南側の一里塚は、大正3(1914)年に取り壊されました。

Img_1117c_20210425170001Img_1114c_20210428190401  さらに進み、6㎞を過ぎたところに八幡神社があります。弘安2(1279)年に勧請されたのが始まりといいますから、鎌倉時代。かつては、このあたりを八幡と呼んだと伝わっています。明治42(1909)年、鳥出神社に合祀され、社殿址に「八幡神社址」の石碑が建立されたものの、昭和40(1965)年頃、現在の社殿が再建され、富田西町の産土神として戻っています。神社の説明板には、昔は、東海道五十三次の富田立場の西端がここ八幡の森で、昼でも暗く鬱蒼と樹木が茂っていたといいます。

Img_1106c_20210428190401  境内には、江戸時代から若者たちがトライしてきたという力石があります。力石は、鎌倉の頃から大正時代頃まで時代を超えて、若者たちに愛され、継承されてきました。八幡神社の力石は、約100㎏。体力を養うことを目的にしたもので、この石に触れることによって健康長寿への親交を深めたであろうと説明板にありました。

Img_1124c_20210425170001 Img_1121c_20210428192001  八幡神社から100mほど、東海道が緩く左折する角に「行啓道路記念碑」。大正天皇が皇太子時代にこの道路を通られたことを記念して建てられたものです(現在の石碑は、昭和2(1927)年に再建されたもの)。明治43(1910)年、第三師団第十五師団の対抗演習を見学のためいらした皇太子殿下は、三重県立第二中学校(旧制富田中学校・現四日市高校)に立ち寄られました。全校生徒が迎える中、御座所に入られ、授業を参観し、成績品陳列室を回られ、最後に校庭において4・5年生の中隊分列行進をご覧になってお帰りになられたといいます。県立二中は、明治32(1899)4月に創立されたばかりで、そこに「皇太子殿下をお迎えすることはまさに破天荒の出来事であり、職員・生徒はもちろん富田の住民の感激は大変なものであった」と伝えられています。右の写真に写っているところが、この行啓道路と思われます。今のJR関西線富田駅から近鉄名古屋線近鉄富田駅の南東に続く道です。

Img_1130c 33190a17  6.3.㎞あたりで東海道は右折します。曲がるところには、手作りの「右 東海道⇒」という看板が掲げられています。これは助かります。また、桑名のことを書きますが、桑名市内にも東海道を表示する石柱が建っているのですが、これが格好はよいものの、目立ちません。たとえば、右のもの。桑名市内、吉津屋見附跡の少し先に建っているもの(2019年3月10日の撮影:20190310近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅1日目~東海道、旅人気分で七里の渡しから富田へ」……雨天決行にて「完」)。

Img_1133c_20210428192801 Img_1137c_20210428192801  右折して100mあまり、県道8号線との交差点までが、今日の東海道歩き。東海道は、このまま直線で富田地区の市民センターや、富田小学校の方向に続きますが、ここで右折して、ゴールに設定してある近鉄富田駅に向かいます。ここの角にある寺村薬局のところに里程標があります。大正3(1914)年11月、三重県が建てています。津市の元標までは「拾里(約39.3㎞)」、四日市大字四日市までは「壱里八町(4.8㎞)」、桑名郡桑名町大字桑名へは「貳里貳拾町(約10㎞」などとあります。

Img_1140c_20210425190501  近鉄富田駅に向かって100m足らずのところに吉玉稲荷神社。神社検索三重には出て来ません。四日市の富田地区がつくっている「とみだまちあるきマップ」には、「稲荷社(吉玉稲荷、鎮火稲荷)」として載ってます。それによれば、京都の伏見稲荷神社から明治39(1906)年に勧請されたもの。本殿には三種の神器「別格大々祀式」の書簡があります。また、境内には天地龍神の石碑もあります。「別格大々祀式」は、神社の格式と思われます。「大々祀式」については、こちらに言及がありました(以下、引用)。

万延元年の伏見稲荷での分祀に関しての式料と供物代がありましたのでご紹介します。大々祀式料20両(供物3両)、大祀式料7両2分(供物1両)、本祀式料3両(供物3分)、中祀式料2両(供物2分)、小祀式料1両(供物1分)、略祀式料3分(供物2朱)、大略祀式料2分(供物2朱)の7段階で、それぞれの神璽(印鑑もそれぞれ大きさが異なっている)を捺したお札を分祀してもらっています。

 要するに勧請する(分祀してもらう)にあたって、どれだけの式料、供物料を収めたかによるランクづけでしょう。万延元年は、1860年。桜田門外の変が起きた年。

Img_1144c_20210425170101 Img_1147c  これで事前に調べた立ち寄り先は、すべてコンプリートと思って、近鉄富田駅に向かって歩き始めたのですが、K氏が「あの大きな松は何だ?」と。私自身、何回か見た記憶はあるのですが、さほど疑問を持たずにいました(苦笑)。やはり一人で行くよりも同行者がある方が、見ているものが違って、よいのです。冨松山(ふしょうざん)蓮光寺跡でした。この寺は、かつての冨田城主南部家ゆかりの寺でした。富田城主3代・頼武は、寛正元(1460)年、真宗高田派の10世・真慧上人がこのあたりを巡化されたとき帰依し、大矢知村青木谷に光明寺を再興し、奉献しました。上人は下野国専修寺から光明寺に移していた親鸞聖人座像を下賜され、頼武はそれを南部家の念持仏として城内に安置。それから100年を経て、永禄12(1569)年、5代金綱は松坂木造城で戦死、南部家も滅亡します。座像は、戦火を逃れ、富田城の堀に埋められたのですが、7代忠次がこの座像を彫りだし、この地に留まって仏門に入りました。忠次の長男・兼治は一宇と建立し、本尊阿弥陀如来を迎え、この座像を脇仏として蓮光寺の前身である南部堂を起こしました。蓮光寺は、平成10(1998)年に茂福に移転しています。ここは、現在は、富田中公園になっています。

Img_1151c_20210425170101 Img_1155c_20210428195901  これで本当にすべてコンプリート。ゴールの近鉄富田駅には、12時15分頃到着。スタートからは6.9㎞を歩いてきました。左の写真は、東口。右は、西口。西口の駅舎は新しくなっています。鳥出神社の鯨取神事に因んで鯨をモチーフにしています。

Img_1163c_20210425170101 1619322033863c  例によって昼食を食べていくことにし、近鉄富田駅のあたりを見て回ったのですが、結局、東口側にある達磨やへ。地元の方や、四日市高校の運動部の生徒さんたちがよく行く店のように思われます。私は、四日市とんてき丼をチョイス。食後の珈琲がついて¥660。とんてきは、いわゆるB級グルメで、四日市名物。リンク先にある「四日市とんてき」の定義からすると、ちょっと外れるところはあった(厚切りの豚肉ではありませんでした)ものの、味はまさにとんてきでした。満足。とんてきは、大学院を修了してすぐ就職した鈴鹿のS病院時代、昼食にときどき食べに行きました。鈴鹿の自由が丘というところにある「名物とんてき来来憲」というお店でした。

Img_1189c_20210425192001  昼食を終え、近鉄富田駅12時56分発の名古屋行き急行に乗車。桑名駅には、何と13時03分に到着。あっけない(苦笑)。¥260。この日は、現地で6.9㎞を歩き、桑名駅~自宅往復が2.2㎞、合計9.1㎞を歩いて、17,100歩でした。これで、歩いて伊勢詣りツアーの2回目も無事に終了。とはいえ、まだ、最終目的地の伊勢神宮内宮には80数㎞残っています。第3回目は、5月上旬の予定。5月中に日永の追分を過ぎて、伊勢街道に入れるでしょうか?

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コメント

TAKUさん、こんにちは。

雨がよく降っていて、テンションが上がりませんね。
私は、昨日の授業の質問へのQ&Aを書かねばならなかったのですが、なかなか取りかからず、能率も悪くなっています(苦笑)。

さて、近鉄富田駅近くに職場がおありなんですね。
どこで昼を食べようか、少しウロウロしたのですが、達磨やさんにしました。

私も、実は、「とんてき丼がある」という掲示を見て、惹かれました(微笑)。
友人は、豚の生姜焼きを選びましたが、美味しかったそうです。

唐揚げ屋さん、調べて見ましたが、安くてボリュームもあって、美味しそうですね。

投稿: mamekichi | 2021年4月29日 (木) 16時58分

こんにちは!
世の中はせっかくのGWですが、コロナ&雨のスタートであまり気分があがりません^^;

さて、食べ物ネタに食いついてしまいました(笑)
実は2年前に職場がこの近くになったため、達磨さんの前を通るたびに貼ってあるとんてき丼のメニューが気になっていたので、まさかこんなところで味の感想が聞けてうれしいです(笑)

私は西口側の唐揚げ屋さんによく行ってしまいます^^

投稿: TAKU | 2021年4月29日 (木) 14時34分

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