20210201勝手に養老鉄道ハイキング「桑名駅西歴史散歩」(その3)……円妙寺、照源寺から専明寺まで
2月1日の「勝手に養老鉄道ハイキング『桑名駅西歴史散歩』」のその3です。スローペースで書いていますが、その2では、大福田寺まで来ました。次の円妙寺は、大福田寺から通りを1本はさんだ東。照源寺は、円妙寺から北へ300mあまり。途中、専明寺に立ち寄って、最後の目的地である尾野神社へ。尾野神社からゴールの養老鉄道播磨駅までは、500mほど。
円妙寺。日蓮宗のお寺。山号は、光徳山。桑名藩主・松平定良が、病の加治祈祷で日蓮宗を信仰したこともあり、これまでの桑名藩久松松平家歴代藩主の菩提寺である浄土宗照源寺ではなく、新たに日蓮宗の寺を菩提寺として建立することになり、明暦3(1657)年に建てられました。日蓮宗の僧侶で、かつて尾張・大光寺住職であった日隆が定良の病気平癒の祈祷をしていたため、その日隆が開山となっています。真言宗霊応寺があった跡地(現・三重県立桑名高等学校の道を挟んで北側、円妙寺墓地のあたり)に、顕本寺の塔頭寺院を元にして、定良の法号より光徳山円妙寺と号しました。また、塔頭寺院として、定良の殉死者である三名の院号をそのまま号した一安院、法性院、蓮心院も建立され、それぞれの菩提が弔われました。境内は約9,000坪にも及ぶ大寺院であったといいます。
宝永7年閏8月15日(1710年10月7日)、桑名藩主である久松松平家は越後高田藩へ国替えが行われたのですが、円妙寺はそのまま当地で存続。しかし、宝暦年間(1751~1764年)に火災に遭い境内が全焼したため、当時の旧桑名藩主・久松松平家の領国である陸奥白河藩へ、当寺と塔頭の一安院、法性院、蓮心院が移転しました。文政6(1823)年、白河藩の久松松平家は旧領国である桑名へ再び国替えとなり、当寺も塔頭三院と共に桑名に戻りました。寺がもともとあった場所は焼けたままで、建物もありませんでしたが、ちょうどその時、近隣にあった大福田寺が移転することになり、その大福田寺跡(現・大福田寺所在地)に入りました。この時に、桑名に残っていた養珠庵と仙妙庵は廃庵となります(それまでどこで存続していたのかは不明)。弘化4(1848)年12月、当寺と大福田寺の場所の入れ替わりがあり、円妙寺はそれまで大福田寺があった、日当たりも眺望も優れたすぐ東側の丘の上に移転し、大福田寺は元々あった場所に戻り、現在に至っています。この入れ替わりの理由は不明ですが、一説によれば、大福田寺側に問題があり懲罰的な意味合いで、それまでの条件の良い土地を追われ、元の谷間の窪地に戻されたのではないかといわれます。しかし、墓地の移転は行われず、大福田寺の墓地は丘陵上(現・円妙寺の南側)に残り、円妙寺の墓地も現本堂から少し離れた創建時の場所から移転されることなく現在に至っています。昭和20(1945)年、太平洋戦争の空襲でほとんどの境内の建物や寺宝が焼失したものの、嘉永年間に建てられた山門だけは被害を免れています。現本堂は昭和47(1972)年に再建されたもの。
境内には、社が1つ。岩谷社とありますが、由緒その他は不明。本堂前に石碑があり、たぶん「今此三界皆是我有」と刻まれています。あれこれ調べたら、法華経に「今此三界 皆是我有 其中衆生 悉是吾子 而今此処 多諸患難 唯我一人 能為救護」とありました。すなわち、「この世は全て仏の世界であり、そこに住む人は皆、我が子と同じだ。この世は色々な悩み、災難、苦しみがある。それを救えるのは、唯、私(仏)一人である」という意味だそうです(こちら)。
このような、「百度無盡燈」も本堂の前にありました。「尽」の字は、旧字体(盡)で刻まれています。「無尽燈」には、①油皿の油が減ると自然に補給され、燃え続けるように作られた灯明台、②仏の教えが次々と伝わって尽きないことを、一つの灯火が無数の灯火になることにたとえていう語、③仏前などに昼夜分かたずともすあかり。長明灯という意味があります。なるほどと思います(微苦笑)。以前、「常夜燈」と同じ意味ではないかと思うと書いたことがありますが、訂正しなければなりません。百度は「百度参り」でしょうから、お百度参りに関した燈りということかと思います。
続いて、東海山照源寺に来ました。ここでほぼ5㎞、時刻は10時50分頃。浄土宗のお寺。寛永元(1624)年、桑名藩主であった松平定勝公(徳川家康公の異父弟)が亡くなったとき、二代将軍徳川秀忠の命によって、定勝の子・松平定行公が建立した寺。定行は伊予松山へ移封しましたが、弟・定綱が藩主を継ぎましたので、松平家の菩提寺として存続しています。ここは私の好きなお寺で、たびたび訪れています。
当初は、東海山 泥垣院 崇源寺と号しました。それは定勝公の法号「崇源院殿」に因るものです。しかし、寛永3(1626)年に亡くなった秀忠公夫人の法号が、偶然、「崇源院殿」と一致したため、遠慮し寺号を「照源寺」と改めました。山号の頭文字「東」と、寺号の頭文字「照」の二字を合わせて「東照」となる由縁は、東照大権現(徳川家康)を祀ったことによるといいます。このように、桑名藩の菩提寺である照源寺が徳川家康公の供養をすることによって、桑名藩松平家は徳川家に対し末代にわたり忠誠を示したという訳です。現在も、徳川家康公の木像、位牌を安置し、供養しているそうです。
いろいろな石碑などがありますが、何といっても「松平定綱及び一統之墓所」(県史跡)。定勝の他、久松松平系の定綱他の一統の墓、26基が並ぶのです(2013年7月1日:照源寺へ、しかし、ハスは空振りで、松平定綱及び一統之墓所へ……昨日の散歩)。この日は、墓所は見ておりませんので、リンク先の記事をご覧ください。
山門近くに、大きな石碑があります。「佐藤翁頌徳碑」とあります。桑名の豪商で船頭平閘門の建設に尽力した佐藤義一郎を顕彰する碑。佐藤義一郎(天保2(1831)~明治37(1904)年)は、桑名藩士で、幕末~明治時代の武士、社会事業家。戊辰戦争で幕府についた同藩の救済運動に奔走。維新後は桑名病院や英語学校を設立するとともに、船頭平閘門の設立にも尽力しました(明治27(1894)年5月、桑名町の佐藤義一郎らは国会に閘門設立を請願した結果、現在の立田村船頭平地内に設置が決定されました)。篆額は、松平定晴子爵の書。松平定晴子爵は、高須四兄弟末弟・松平定敬公の四男。大正5(1916)年8月に建立。「桑名町建設」とあります。小山正武謹撰、椿蓁一郎謹書。
山門をくぐって境内に入ると、右手には、稲荷社。由緒その他は、不明。お寺にある稲荷社の由緒などはよく分からないことが多いのです。稲荷社の手前東に石碑らしきものが1つあるのですが(右の写真)、碑文などはまったく読めませんでした。
稲荷社の西には、「海星学園創立者 佐藤信之助翁像」があります。海星学園は、現在、四日市に学校法人エスコラピオス学園として、幼稚園、中学校、高校を運営しています。昭和20(1945)年、ここ照源寺に素封家・佐藤信之助氏(醤油醸造業)の発意で「桑名英学塾」が創設されたのがその始まり。さらに、翌昭和21(1946)年には、経済、文学専門教育を目的として民生学園を設立しています。昭和22(1947)年には、四日市市六呂見(現所在地)に民生学園を移転し、海星学園に改めています。
佐藤信之助翁像の西にある石碑。「西村徳右衛門碑」です。西村徳右衛門(1834~1886)は、柳本通徳(みちのり:徳右衛門の兄)ら10名とともに発起人となり、「桑名米商会所」を創立しました。米商会所は、明治11(1878)年3月に営業を開始。資本金は3万円で、その半分は旧藩主松平家の出資。船場町の旧川口番所に設立の予定でしたが、前年12月の伊勢暴動で焼失したため、殿町で始まりました。徳右衛門はまた、桑名銀行(その後百五銀行に合併)の創設にも関わっています。行書で書かれた碑文、私にはところどころしか読めていません(苦笑)。
西村徳右衛門碑の西、庫裏の近くには、「夫婦松」があります(市天然記念物)。クロマツの大樹が約1.6m間隔で東西に並
び立ち、太い根が互いに癒着して、連理しているのでこの名前が付いています。樹高は東の松が19m、西の松が12m、根元は同じく、4.1mと2.8m。本殿の前には、「茶筅塚」がありました。
山門に戻って、南側にあるもの。まずは、鐘楼堂。この日は写真を撮り忘れましたので、左の写真は、平成26(2014)年7月7日に撮ったもの(2014年7月8日:定例受診は、久しぶりの2時間半コースでお疲れ……オマケに、昨日の照源寺の蓮は咲いていない証拠写真(意味不明))。なお、この鐘楼堂については、「久波奈名所図会」に似たような絵がありますが、その詳しいことは不明。
金龍桜。松平定綱公が、摂津の天台宗金龍寺(こんりゅうじ)から分植したという桜です。現在の木は、何度か植え継がれたものです。「徳川時代初期以来存在している名木のひこばえとして、今日にその特徴を伝えているものである」として、昭和9年(1934年)に国の天然記念物に指定されましたが、昭和34(1959)年の伊勢湾台風の被害で枯れ、指定は解除されました。右の写真は、昨年(令和2(2020))年4月4日に撮ったもの(2020年4月4日:「ひのとり」、照源寺の金龍桜、道祖神、走井山公園の桜に北勢線の「ゆる鉄写真」……土産は宝来軒本店の花見団子)。碑は、大正15(1926)年4月に建立。
金龍桜の西には、「平岡潤碑」。平岡潤(明治39(1906)~昭和50(1975)年)という方を私は不勉強にして知らなかったのですが、『桑名市史 本編』『桑名市史 補編』『桑名の伝説・昔話』を編纂されたお一人です(市史も持ってはいるのですが)。郷土史に造詣が深いだけでなく、『茉莉花 詩集』(平岡潤/著、平岡潤、1942)で高い評価を受け、「中原中也賞」を受賞しています。この碑の向かって左側に刻まれているのは、この詩集の表紙(右の写真)。また、詩人であるだけでなく美術にも秀で、自由美術家協会賞(第一回)を受賞し、画家を志すほどでした。終戦後、郷里の桑名に戻ってからは郷土資料の収集、編集、文化財保護に尽力しています。桑名市立図書館に勤務したこともあり、戦後、荒廃していた秋山文庫(桑名藩儒であった、秋山白賁堂(はくひどう)、その長男寒緑(かんりょく)、次男罷斎(ひさい)の三人の蔵書)の救済に立ち上がり、伊勢湾台風の際には浸水した史料の修復に取り組んでいます。その後は、昭和45(1970)年、桑名市立文化美術館(現在の桑名市博物館)が創設されると初代館長に就任しますが、残念ながら、昭和50(1975)年、郷土史の講話のさなかに心筋梗塞の発作で倒れ、亡くなられました(こちらを参照)。ここにも平岡潤氏についての記述があります。地元のことでも知らないこと多々あります。なお、右側の碑文は、次の通り。なお、これは、未刊の自筆稿本『無糖珈琲』第25節に所載されているといいます:
名誉
詩人は生まれながらにして傷ついてゐる。傷ついた運命を癒やさんために、彼は詩を創るのではなくして、詩を創ることが、傷ついた運命の主なる症状なのである。不治であるといふことは彼の本来の名誉と心得てよい。
昭和二十一年七月十日
平岡潤
さらにその西、本堂に向かって左手には、こちらの石碑があります。桑名市教育委員会の文化財のサイトによれば、照源寺には、以上の他に、松平定信歌碑、庵宗九(松尾流茶人)歌碑、深川照阿(幕末から明治にかけての連歌師)歌碑があるとされています。これらのいずれかという気もするものの、五七五七七になっていないように思われます。碑陰を見てこなかったので、不明。見て回った範囲で、石碑はこれが最後でしたが、見逃しているということになります。宿題を残しました。
照源寺には、最近、御堂てらカフェがつくられました。営業は、毎週 木・金曜日、午前8時~午後3時までとなっています。家内からは、一度行ってきたらと勧められていますが、まだその機会はありません。メニューは、右の写真のとおり。なかなかよさげ。
最近は、照源寺のように松平家菩提寺という由緒だけでやっていくのは難しいようで、来迎殿(宗旨宗派は問わないとか)という納骨堂の他、この写真のように、ペット供養の合同埋葬や、個別埋葬も行っています。
円妙寺、照源寺とも歴史のあるお寺で、長くなりました。10時50分頃に照源寺を出て、北へ。尾野神社に行く途中、真宗大谷派の東光山専明寺がありますので、ちょっとだけ立ち寄ります。ネット検索では、これという情報は出て来ません。
専明寺の山門をくぐった左手には、「故村長伊藤常七翁之碑」。大正元(1912)年10月の建立。このあたりは、東方村であったと思いますが、明治22(1889)年に市町村制が実施されたとき、桑名村、尾野山、西方村、太夫村、北別所村、播磨村、福島村、上之輪新田、西汰上村、東汰上村、蛎塚新田が合併して大山田村となっています。いずれかの村長を務めた方と思われますが、ネット検索では、情報は何も出て来ません。碑陰を見てこなかったのが、失敗。この失敗、毎回、必ず繰り返しています(苦笑)。なかなか学習しません。
3回で終わるつもりが長くなりましたので、その3はここまで。その4で完結するはずですが、その4では、尾野神社について。
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