今日までは暖かいという天気予報でした。遠くに出かけるのは憚られますので、近場でいつもと違うところへと考え、久しぶりに大山田川あたりを歩くことにしました。大山田川は、大山田団地にある光陵中学校の北あたりから東に流れ、東名阪道、国道258号線の下を通って、播磨から伊勢大橋の北で揖斐川に注ぐ一級河川。たぶん6㎞足らずの長さ。いつものように、播磨にある日物谷の市営住宅近くから歩き始めました。まずは、播磨橋まで。今日はここから南に少し下り、岸西山(がんさやま)へ。ここは遺跡になっており、また、大正寺という浄土宗のお寺と尾野神社北之宮があります。初めて訪ねました。その後、大山田川に戻り、沢南橋あたりまで下って、上之輪新田を覗き、大山田水門から伊勢大橋、福島地内と歩いて、六華苑脇から住吉神社へというコース。6.9㎞。最高気温は12.4℃と暖かく、風も弱かったので、今日もまた散歩日和。
日物谷の市営住宅近くから播磨郵便局近くの間では、まずは、セグロセキレイ。いつもの散歩コースで見るセキレイは、ハクセ キレイがほとんど。セグロセキレイは、大山田川に来るとたいてい見られます。キセキレイもときどき見られますが、今日は出遭いませんでした。右の写真は、コガモ。大山田川の今日歩いた範囲のあちこちで見られます。とくに多いのは新宮西橋のところ。
播磨郵便局の南あたりで、アオジ。ただし、超証拠写真(苦笑)。ちょっと距離があり過ぎました。さらに その近くで、ハクセキレイも。
播磨橋から南へ。岸西山へ向かいます。教育委員会の文化財のサイトによれば、ここは弥生~古墳時代の遺跡で、弥生土器が出土したといいます(岸西山遺跡)。左の写真は、岸西山の南西側から少し登ったところから、大正寺の山門方面を撮ったもの。
まずは、大正寺へ。浄土宗のお寺。岸西山と号します。こちらのサイトや「くわな史跡めぐり」によれば、江戸時代中期の開基といい ますが(桑名市史によれば、明和(1764~1772年)の頃)、他にネット検索では詳しい情報は出て来ません。お寺は、岸西山の東北側の斜面に建っており、山門から境内へは下っていきます。
山門を潜って、境内の右手には鳥居とお社がありました。お社の中は暗かったのですが、覗いてみると、狐が見えましたので、おそらく稲荷社と思われます。しかし、社号、由緒を示すものはなく、詳細は不明。
大正寺に来たのは、野村増右衛門の供養塔があることを知ったからです。野村増右衛門は、桑名藩島田代官所(桑名藩領の員弁郡嶋田村、現桑名市島田)の手代(8石2人扶持という記録があります)という軽輩の身から藩を左右する実力者にのしあがっています(郡代となり、700石を得ています)。その権力は家老をも凌ぐと言われたこともあります。新田開発、河川改修、焼失した城の修理など藩への貢献は大きかったのですが、宝永7(1710)年、突然公金横領等の嫌疑で捉えられ、弁明もむなしく処刑されました。処罰は増右衛門だけでなく一族の老人や、わずか1歳の子どもを含む44人が死刑、関係者数100名が追放または罷免にされたという、桑名藩では前代未聞の大事件でした。藩の公式記録が、後年、すべて焼却されているために不明な点が多いのですが、敏腕を振るう野村に対して長期間ないがしろにされた(と思った)譜代家老らの憎悪(私怨)によるものとされています(こちらも参照)。この失政の責任を問われ、藩主・松平定重(久松松平家)は越後高田(現在の新潟県上越市)に国替えになっています。久松松平家が文政6(1823)年に桑名に再封されると、増右衛門の罪は許され、文政10(1827)年に供養塔が建立されました。最初は、大山田川川原の処刑場に建てられたのですが、明治42(1909)年、ここに移転されています。なお、増右衛門の墓は、現在は、島田の共同墓地にあります。
大正寺の南に尾野神社北之宮があります。由緒書きなどはありません。尾野神社は、この南西にもあります。今は、そちらが本社のように思います(後の付記をご覧ください)。尾野神社は、孝昭天皇の子で春日臣の祖・天押帯日子命(あめのおしたらしひこのみこと)と衝立船戸神(ついたてふなとのかみ)を祀っています。衝立船戸神は、杖の神や曲がり角の神で、桑名では川が曲がっているところに祀られていることが多いようです。尾野神社は、舟着明神とも呼ぶ。古くはこの付近が海岸線であったといわれ、その境内に舟繋松と称する松があります。この北之宮については、詳細不明(付記したように、桑名市史の記述によれば、もともと尾野神社は、このあたりに鎮座していたものを、後に船着大明神の社へ奉遷して相殿としたという説があります)。
岸西山を頂上まで登ると(といっても標高は40m足らず)、魚藍(ぎょらん)観音堂があります。「久波奈名所図会」の泡 州崎之部によると、元禄2(1689)年11月、掛樋通の堀さらへをした時、水底より出現したものといいます(現在、久波奈名所図会を確認中)。唐、元和12年の作とも、また伝教大師の作ともいうが定かではありません。昭和50(1975)年3月、市指定文化財。これと時を同じくして、愛染明王、役行者の脇侍佛とともにここに安置されたといいます。今は、ちょっと手入れが行き届いていない感じがしました。
観音堂に向かって右手には、「魚藍観音碑」と、水谷孟生の歌碑があります。魚藍観音碑には、ここに魚藍観音が納められた経緯が記されています。魚藍観音は、「元禄2(1689)年、掛樋の御堀さらへの時、水中より出現し、一時は、不破義幹氏の手もとにあった」とあります。不破義幹氏は先々々代の春日神社の宮司さんにして、郷土史家。水谷孟生氏は、和菓子の花乃舎の4代目主人。歌碑には、「ちちと鳴く 間遠の浦の 群千鳥 母ともしたふ むらさきの雲」とあります。この歌は、ここ魚藍観音の山号「紫雲山」に因んだものといいます。
こちらは、岸西山の頂上あたり。このあたりが岸西山遺跡かと思います。建物の礎石らしきものがありますが、詳細は不明。水谷孟生の歌碑の他、小林雨月庵句碑があると「くわな史跡めぐり」にはあったのですが、しばらく歩き回ったものの、こちらは分からず。ちなみに「箒めの とどかぬもよし 苔の花」という句だそうです。雨月は、本名、慶治郎で志知の人。本統寺にある冬牡丹句碑建立に尽力したといいます。
岸西山の頂上からはそれなりに眺望が利きました。揖斐・長良川まで見えます。長良川河口堰も見えますし、手前にはエディオンなども。今ほど木々が茂っていなかった頃なら、もっとよく見えたと思います。
岸西山を下りて、NTNの産業機械技術開発センター近くの水路の方へ。愚息が、この水路にコガモがいると いっていましたので、見に行った次第。今日は、メスが2羽のみ。ここからは、養老鉄道播磨駅南あたりへ戻ります。「戻る」というのは、播磨橋のすぐ東に出るからです。
今までは、播磨橋からは、大山田川右岸を下っていくのですが、養老鉄道 の踏切のすぐ東から通行止め。災害復旧工事のためです。堤防道路の下が崩れたようですが、河床の方も草木を取り除いたりしたようです。鳥見という視点からすると、ちょっとなぁと思いますが、まぁ治水が優先ですね。
その先、新宮西橋付近は、コガモがたくさんいるところ。橋の上流側に集まっています。その数20羽を越えるくらい。ここ新宮 西橋は、橋の下にイワツバメが営巣します。去年のブログを見ると、今頃すでにイワツバメが来ていたとあります(2020年1月18日:大山田川沿いから福島あたりでバードウォッチング……カワセミ、ケリ、芸達者なアオサギたち、そしてイワツバメが来て白梅が咲いて、春の雰囲気)。今日はまだイワツバメ之姿は見られませんでした。
新宮西橋からJR/近鉄の鉄橋までの間で、オオジュリン。左の写真はメス、右の写真はオスと思います。たくさんとはいいませんが、このほかにも数羽いましたし、このあと、沢南橋の上流でも見ました。オオジュリンも、普段の散歩コースでは見られません。
沢南橋のすぐ上流にある人・自転車専用橋のところで、カワラヒワにツグミ。カワラヒワは、 護岸のスロープにも止まっていたりします。また、このあたりでは、メジロも出て来ました。ウグイスの地鳴きも聞こえていたのですが、さすがに姿は見られませんでした。オオジュリンは、このあたりにもいます。
人・自転車専用橋のところでは、再びアオジらしき鳥。アオジは、証拠写真もどきばかり(苦笑)。
沢南橋から下流側を見たら、ダイサギが3羽にアオサギが1羽。ただし、アオサギは葭の陰に隠れています。近くにはオオバンも浮いていましたし、イソシギらしき鳥も逃げていくのが見えました。イソシギは逃げ足は速いのです。このあたり、以前、コガモもいましたし、カワセミをよく見るところですが、今日はどちらもいません。コサギやジョウビタキも見られませんでした。
ここから、上之輪神社を経て、上之輪新田へ。ケリがいないか探そうと思ったのです。単眼鏡で2回ほどチェックしたのですが、ケリの姿はありません。
南側の水田にセキレイたち。セグロセキレイとハクセキレイが1ペアずつ。写真はセグロセ キレイ。ここで実は、10時10分を回った頃。ふと「ひのとりが来るかも知れない」という考えが浮かんできました。しかし、セキレイたちの向こうにオスのモズが登場し、そちらに気を取られました。
これが不覚のもと。気づいたら、ひのとりがすぐ近くまでやって来ていました。左の写真、パッと見にはそれなりに撮れたと思えるかも知れませんが、実は、これは大阪行き。つまり、進行方向は向かって左で、最後尾の写真(苦笑)。
大山田川が揖斐川に注ぐあたり、大山田水門の先にアオサギが1羽。さらにその南、甚内ポンプ場の排水口の ところにもアオサギがやって来ました。
伊勢大橋西詰交差点を越えて、揖斐川沿いの堤防。先日も、伊勢大橋架け替え工事で杭打ちが行われていましたが、今日もその準備のようでした(午後から、杭打ちが行われ、音が響いてきていました)。
福島(ふくじま)の水田でケリ。以前は、上之輪新田や、ここ福島の水田ではよく ケリを見たのですが、ここ2~3年はあまり見なくなってきています。さらにこのあたりでは、ツグミがけっこういました。
福島というか、諸戸苑から水路をはさんでその北にちょっとした梅の木畑があります。ここには、白梅と紅 梅とがありますが、毎年早めから咲いています。ここでも紅梅の方が早くから咲いたようです。
このあとは福島のポンプ場のところから六華苑の北を通って、揖斐川の右岸堤防へ。セグロ カモメが飛んで来て、揖斐川に降りたと思ったら、何か魚を捕まえて食べているのが見えました。さらに、最近はあまり触れていませんが、揖斐長良川の中洲にある「アオサギの集合場所」には、今日は、アオサギが4羽やって来ていました。余りにも早い時間にはやって来ないようです。
住吉神社には、11時10分頃到着。8時半から歩き始めましたから、ここまで2時間40分くらい。ほぼ7㎞ですから、まあよく歩いてきました。住吉神社の前では、久しぶりに散歩友達のTさん。今年初めて出会ったと思います。
【大正寺と尾野神社についての付記(1/18)】 いずれも桑名市史によって付記します。まず、大正寺については、桑名市史(本編pp.469~470)では「岸西庵(一雲寺=大正寺)」という見出しで言及されています。
東方村北岸西山にある。本尊阿弥陀如来、開基は本梁、宝暦9(1759)年松平下総守の家臣奥平宗右衛門の次男宅之丞定盈が美濃国庭田村の浄土宗円満寺の弟子となり、法号を本梁と称し、明和頃当庵を創建した。
境内の観音堂紫雲山一雲寺は、空也上人(元禄3寂70)の開基と伝うる古刹で、もと今一色堤原の南、会下(えんげ、えか)にあったのを安永3年(1774)当所に移した。<中略>明治5年(1873)に廃庵となったが、信徒の来賽多く、愛知県市江の浄円、善戒等により仏道として継がれ、明治末期から妙香尼の代になって信徒益々増え大正14年(1925)大正寺となった。昭和30年(1955)1月9日浮浪人の放火にて全焼、31年4月落成、本尊は照源寺末の廃寺北楠の玄忠寺より迎えた。現住職水谷祐愼、前期の火災にて什物伝記等一切焼失したので詳細は知ること困難である。
次に尾野神社について。桑名市史(本編pp.51~52)に、「市内大字東方、小野山の北方、字西場様に鎮座し俗に船着大明神と称する」とあります。さらに、以下のように記述が続きます。
この地は往古に尾津浦また小野入江・小野古江・船戸村とも云い、町屋川と西別所川の落ち合った処でここを往来する船の停泊所であったと伝う。西方は走井山の給料に連らなり、東は田野に民居し、その山嶺(尾)に続いた野であったので尾野と称し、転じて小野とも書かれているが、一説には上代の名族、小野氏族民の占拠地であったとも伝えられている。<中略>一説には尾野山の北の鼻山に鎮座してあったのを、後に船着大明神の社へ奉遷して相殿としたという。
この社の祭神については、異説多く、通説素戔嗚尊(午頭天王)とし、また野槌神とし、また衝立船戸神とし、相殿を宇賀御魂神・八幡神・春日神・神明神・山神の五神とし、または小野臣の祖神、天押帯日子命として、相殿に天照大神・宇賀神・春日神・八幡神を祀るとも云う。
社はその西方丘陵に奉祀する高御前に対し、江御前とも称する。郷司家旧記には第53代淳和天皇の天長年中、僧空海が伊勢へ来錫した時、疫病が流行してこの社に参拝したと云い、館家日記には、この社の祭神を素戔嗚尊とするには、織田氏の兵乱にこの社を天王に擬して兵火を免れようとした名残であろう。往古は東富津御厨、内宮若江御厨等あり、今の字に畝若江之内・若之尻等あるは御厨田なるべく、依って天照大神を祀って村名を田宮村と云い、船戸村に船戸神を祀ったとある。
以上の記述によると、大正寺の南にある尾野神社北之宮は、最初のパラグラフにある「一説には尾野山の北の鼻山に鎮座してあった」社のことかという気がします。
なお、尾野神社のある大成小学校の北の丘は、尾野山城跡とされますし、この尾野山城跡と、大成小学校を挟んだ南側のところは、白山鼻ヶ城跡とされます(こちら)。
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