20200501ご近所神社めぐり(補遺編)……立坂神社、神舘神社、八重垣神社、天武天皇社……【追記あります(5/11)】
5月1日に行った「ご近所神社めぐり」は、主なところについては2編の記事に書きました。神社の境内社その他については、割愛しましたので、今回は「補遺編」として若干の補足をしておきます。
まずは、立坂神社。もとは「矢田八幡社」でしたが、明治以後は、東方にあった式内社立坂神社が矢田八幡社に名称を譲ったため、こちらが式内立坂神社と呼ばれるようになりました。立坂神社は、戦災を免れましたので、昔の風情を残しています。
神社の神門には、今でも「八幡宮」の扁額がかかっています。八幡社は、八幡神(やはたのかみ、はちまんし
ん)を御祭神とします。武家から武運の神(武神)として崇敬を集めました。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされています。
拝殿に掲げられている奉額「立坂神社」は、嘉永6(1853)年、有楢川宮熾仁(アリスガワノミヤ タルヒト)親王の筆になるといいます。有楢川宮熾仁親王といえば、あの和宮親子内親王との婚約をしたものの、和宮内親王が将軍徳川家茂の婚姻を内定したため、成婚を辞退しています。慶応3(1867)年の王政復古によって新政府の総裁職を務めるなど、皇族の第一人者として公務を担当し、戊辰戦争には東征大総督として参加しています。また、立坂神社には、明治2(1869)年には、明治天皇東幸の際、桑名に駐輦され、立坂神社には奉幣使が遣されています。
こちらは、「勢州桑名城圖(国立国会図書館蔵)」。「徳川四天王の城-
桑名城絵図展-(桑名市博物館にて平成28(2016)年3~4月に開催)」の図録からお借りしました。右は、その部分を拡大した画像。左上、惣堀の北側に矢田八幡社とあるのが、現在の立坂神社です。桑名藩主本多忠勝の崇敬深く、以後代々の藩主の保護を受けています。ちなみに、矢田八幡社の南には足軽屋敷が設けられています。「大鏡院様時代桑名藩城郭内地図」にも足軽屋敷が描かれています。大鏡院様は、5代藩主松平定綱公の法号。定綱公は、寛永12(1635)~慶安4(1652)年に藩主。
それ以前から矢田八幡社のあたりには大日孁貴社がありました。大日孁貴(おおひるめのむち)は、天照大神の異名。左の画像で、「神立宮(現在の神舘神社」と書いたところの右隣にあります。この図は、「久波奈名所図会」に載っている「益田庄桑名三崎天正元亀以前之図」です。
大日孁貴社は、現在は、立坂神社の拝殿に向かって右手(東側)にあります。大日孁貴尊は、立坂神社の主祭
神となっています。摂社(本社に縁故の深い神を祀った神社)として扱われています。
境内社もたくさんあります。左は、真清神社。右は、子安稲荷神社。ただし、摂社、末社についての詳細は不明。神社検索(三重)のサイトにも説明がありません。社頭に境内案内図はあったものの、境内社の詳細についての説明はありませんでした。
こちらは、菅原神社と八天宮。向かって右が菅原神社、左が八天宮。菅原神社は、いうまでもなく菅原道真が御祭神。八天宮
は火伏の神様 。
払戸(はらえど)です。神門をくぐって左手(西側にあります)。「祓戸(祓所、祓殿)」とは祓を行う場所のことで、そこに祀られる神様を「祓戸大神(はらえどのおおかみ)」といいます。払戸大神は、祓を司どる神です。
立坂神社は、初めの方にも、元の記事にも書きましたが、戦災に遭っていませんので、昔の風情が残っていて、落ち着いた雰囲気の神社です。
続いて、神舘(こうだて)神社。。倭姫命が伊勢神宮鎮座地を求めて巡幸したとき、御休泊所として神館(かんだち)が建てられ、その旧跡に御厨神社として当社が創建されたといいます。上に載せた「久波奈名所図会」に載っている「益田庄桑名三崎天正元亀以前之図」では、「神立宮」として描かれています。
倭姫命は、「大神の鎮座地」を求めて、笠縫邑を出発し、宇陀から近江・美濃を経て伊勢に到着されたと伝えられています。
桑名では、野代宮に4年間留まられたといいます。画像は、倭姫宮御杖代奉賛会のサイトからお借りしました。倭姫命の巡幸については、こちらに説明があります。
周豪があり、昔は神戸の役館であったとも推定されています。右の写真は、神社の裏手。表にも裏にも神門
があって立派です。
境内には鏡ヶ池があり、その向こうには社が2つ。向かっ
て左は、鏡ヶ池社。天照大神がここに留まった際、水を求められてつくられた池がこれで、鏡の形に似ていたことから鏡ヶ池と名づけられました。御祭神は、竜神で俗に白龍さんといわれています。
鏡ヶ池社に向かって右にもお社がありますが、これについては不明。さらに、もう1つお社がありました。正面の神門を潜っ
て右手にありますが、これについても説明などはなく、分かりません。明治政府は、一村一神社を目指す神社合祀政策を明治39(1906)年の勅令によって進めました。全国で大正3(1914)年までに約20万社あった神社の7万社が取り壊されたといいます。三重県ではとくに合祀が甚だしく行われ、明治36(1903)年に10,524社あった神社が、大正2(1913)年には1,156社にまで減少して、県下全神社のおよそ9割が廃されました。その結果、合祀の経緯が煩雑で、合祀された神社数が多く、そのために各神社の祭神が多くなっています。「どうしてこれらの神様が一緒に祀られているのか」とか「なぜこれほどたくさんの御祭神が祀られているのか」と思うことがありますが、合祀がかなり強引に行われたためでしょう。
八重垣神社は、神舘神社からほど近く、国道1号線沿いに一の鳥居が建っています。江戸時代は牛頭天王社と称していまし た。牛頭天王は、インドの祇園精舎の守護神。スサノオノミコトの本地仏と説かれ、除疫神として、京都八坂神社、愛知津島神社に祀られています。桑名市史には清和天皇貞観年中、卜部清麻呂が尾張国津島の牛頭天王を京都祇園に勧請のため当所通過の節、供御を献じた地だとあります。
八重垣神社は、古くは近くにあった大福田寺(だいふくでんじ)の鎮守でした。大福田寺は、もともと、今より約1,400年前、聖徳太子(574~622年)が伊勢の山田に創建されたお寺。その後、後弘年間(1278~1288年)、天災・火災に遭い堂塔伽藍は荒廃し、寺運は衰えたのですが、時の後宇多天皇(在位1274~1287年)はその荒廃を嘆き、勅命により北勢四ヶ郡内(三重、朝明、猪名郡、桑名)の土地を寄進し、桑名郡神戸郷(現在の桑名市大福地内)に七堂伽藍、塔頭三十七、末寺四百四十余ヶ寺を有する大寺院を再建しました。上掲の「益田庄桑名三崎天正元亀以前之図」には(上掲の図、左端)はその当時の位置に描かれています。元亀・天正年間の兵火に直接被害を受けることはなかったものの、近隣での度重なる兵火、劫掠(ごうりゃく)、風水害の難を受け、再び寺運は衰退し、江戸時代、万治3年から寛文2年(1660~1662年)に現在地(桑名市東方、桑名高校東)に移転しています。
境内には、「赤龍社」というお社があります。ここも由緒書きなどはなく、桑名市史の八重垣神社のところにも言及はありま
せん。名前からして、龍神を祀っているように思うのですが、参道には右の写真のように、朱い鳥居が並んでいます。龍神は、普通は水神の一つ。朱い鳥居といえば、お稲荷さん。さて、どういう神様を祀っているのでしょう? ネットで調べると、田無神社には五行思想に基づいて「五龍神」が祀られ、赤龍神は南方を守護しているといいます。
もう一社、天武天皇社。天武天皇を主祭神とするのは、全国でこの神社のみです。元は現在の新屋敷付近にありましたが、慶
長の町割の際に本願寺とともに、現在の鍋屋町に移りました。上掲の「益田庄桑名三崎天正元亀以前之図」には、元あった場所に描かれています。
境内社としては、稲荷社ともう1社が祀られています。どちらも御祭神名などは示されていません。右のお社 は、火産霊(ほむすび)社かと思うのですが(桑名市史に合祀したという記述があります)、確認できていません。
私が気になったのは、境内にあるこちら。初めて見たときには、「鳥居が壊れているのか」などと思ったのですが、そうではなさそうです。いろいろと調べて見たら「冠木(かぶき)鳥居」というタイプがあると書いてあるサイトがありました(こちら)。冠木門(二本の柱に貫を通したもの)の形式の鳥居(厳密に鳥居といってよいのかどうか不明ですが、参道にありますから鳥居と見てよいのでしょう)。
さらに境内には「あわすはし」と彫られた石柱が1基、ひっそりと立っています。「泡洲橋」の親柱かと思うのですが、未確認です。日進小学校の敷地内に七曲見附の説明板と泡洲橋の親柱があるのですが、きちんと確認した記憶がありません。
以上、調べが不十分であったり、説明がなかったりではありますが、5月1日の「ご近所神社めぐり」の補遺編です。
【追記(5/11)】
あとから思い出しましたので、追記しておきます。立坂神社の西参道にも「冠木鳥居」がありました。天武天皇社のものはコンクリート製でしたが、こちらは木製で注連縄がかかっています。
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