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2020年5月 4日 (月)

20200501ご近所神社めぐり……(その2)一目連神社、本願寺跡・梅花仏鏡塔、天武天皇社、伝馬公園、金刀比羅神社

0501walking2  5月1日の「ご近所神社めぐり」のその2です。その1では、市役所から南あたりにある立坂神社、神舘神社、八重垣神社に参拝してきた話を書きました。続きをどうするか決めてありませんでしたが、取り敢えずは、このあと回って来た旧東海道沿いにある一目連神社、本願寺跡・梅花仏鏡塔、天武天皇社、さらに、伝馬公園、金刀比羅社について取り上げることにします。左はその1でも載せた歩いたルートマップですが、八重垣神社を出てから南に行き、若宮町方面を回っていますが、これは歩く距離を稼ぐためで、立ち寄ろうと思ったところはありません。地図では、本願寺とあるあたり(西鍋屋町交差点)で右折しています。右折して歩いたところは、旧東海道。東海道、西は善西寺の方に続き、益世小学校の手前(東)で左折し南に続いて、安永から町屋川方面に行きます。今日の記事で取り上げるところは、以前の記事でも取り上げていますから、内容の重複があります。

Img_6039c_20200503161901  グルッと回ったあたりには、カラオケ店とか、飲食店、パチンコ店が集まっています。写真は、県内の大手チェーンのパチンコ店の店頭の掲示。自粛要請を受けて休業中。私自身は、最初の勤務先の患者さんのレクレーションの付き添いで何度かしたことがあるくらいで、もう40年近くやったことはありません。あちこちで休業要請に応じないパチンコ店が問題になっていますが、かなりのランニングコストがかかるそうですから、パチンコ店もかなり大変なのでしょう(単なる感想です)。

Img_6054c_20200503161901   さて、旧東海道に入って50mほどのところに一目連神社があります。御祭神は、天目一箇命(あめのまひとつのみこと)。大Img_6060c_20200503161901 物主神をまつる祭具をつくったとき、鍛冶(かじ)を担当した神様。多度大社の別宮にも祀られています。先ほど「西鍋屋町交差点」を曲がったと書きました。このあたりは「鍋屋町」という名前が記すとおり、鍋屋が多かったので、天目一箇命に対する信仰が篤く、金属工業の神として勧請されたと考えられています。

Img_6058c_20200503161901  一目連神社の境内には、美濃派の俳人・徐風庵(じょふうあん)の句碑があります。「名いろいろ さだまる夏の 木かげかな 徐風庵」と刻まれています。徐風庵は、芭蕉門下の各務支考(かがみしこう)が美濃に興した俳諧の一派。美濃派(再和派)の第九世・多賀徐風庵(1772~1832)。旗本加藤平内に仕えた代官です。美濃派は、員弁街道ハイキングで、東員町交番の裏に自然石の石碑がありそこに岩田卜際の句「雲いくへ ひばりなくなく そりみ坂」が刻まれていました(2020年3月29日:20200329「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』(星川~東員)」(予告編))。卜際も徐風庵に学んでいます。

Img_6066c  一目連神社の向かいに道標が1基あります。「左 東海道渡舩場道」「右 西京伊勢道」と刻まれています。「渡舩場」は、七里Img_6067c_20200503161901 の渡しを指していると考えられます。碑陰には、「明治廿年十一月廿八日開店之祝意建…」とあります。明治20年は、1887年。「西京」とあるのは、京都のことで、東京に対しての表現と思われます。伊勢道は、東海道を下って、四日市の日永の追分から分かれます。

Img_6076c  一目連神社からさらに50mほど先の右手(南)に本願寺跡があります。火災で記録が消失したため、詳しいImg_6080c_20200503161901 ことは分かりませんが、江戸時代には本願寺村があり、古くからの古刹であったと考えられています。このあたりから東鍋屋町。

Img_6083c_20200503161901 Img_6086c_20200503161901  境内には、松尾芭蕉の門人である各務支考の分骨供養塔である「梅花仏鏡(鑑)塔(ばいかぶつかがみとう)」があります。支考は、上述のように、美濃派の創始者であり、美濃国だけに限らず近国に多数の門弟を抱えていました。支考は、宝永8(1711)年に佯死(ようし;死んだふりをすること)して、墓を同国山県郡北野村(現岐阜市山県北野)の獅子庵に建てました。この墓は各務の姓にちなんで、円形の鏡を模して、鑑塔と称しています。支考が実際に亡くなったのは、享保16(1731)年。この頃桑名では、美濃派の俳諧が流行しており、その指導的立場にあったのは、支考の直門の雲裡坊杉夫で、桑名本願寺住職を務めていたと考えられています。彼は、支考の没後に、その人物を片田舎に埋もれさせることを惜しみ、分骨を受けて北伊勢の門人たちの手により本願寺に鑑塔を建立し、「桑名万句」を編するなどして支考の霊を供養するとともに、東海道を往来する旅人にも参詣させようとしたといいます。この前後に雲裡坊を初代社長として北伊勢美濃派俳人等を統合し、「間遠社(まとおしゃ)」が結成されています。鑑塔の周囲には、歴代の間遠社社長の句碑が建っています。

Img_6092c_20200503174301  天武天皇社。天武天皇社の御祭神は、天武天皇、皇后持統天皇高市皇子です。天武天皇を主祭神とするのは、全国でこImg_6105c_20200503174301 の神社のみです。天武天皇(大海人皇子)は、壬申の乱の時に、皇后と共に吉野より潜幸され、桑名郡家に宿泊されました。「6月24日に吉野を出発した大海人皇子の一行は、26日には朝明郡を経て、桑名郡家に到着し、宿泊する。翌27日、大海人皇子は吉野から同行していた妃の讃良皇女(のちの持統天皇)を残して不破に向い進発した」というのですが、桑名郡家がどこかは確定していません。天武天皇の桑名滞在は僅かでしたが、皇后は約2ヵ月も逗留され、当地が2帝との関係浅からぬものがあるため、後世、祭ったものです。

Img_6123c_20200503174301  天武天皇社の背後(北側)には、伝馬(てんま)公園があります。伝馬公園は、近世の桑名城下町でいうと、その南西端にあります。16世紀末頃からこの地に所在した浄土真宗の寺院「願証寺」の境内の一部であったと伝わっています。願証寺はもとは長島にあり、明応6(1497)年、蓮如上人の子・連淳が入って東海地方の浄土真宗の中心として、門徒10万人余を擁する一大勢力を保っていました。本願寺が織田信長と対立したとき、願証寺も信長に反旗を翻したのですが、天正2(1574)年に信長に滅ぼされました。しかし、江戸時代、桑名に再興し、約1万坪(約33,000平方メートル、野球場3個分くらい)に及ぶ境内を有していましたが、正徳5(1715)年の高田派への宗旨替えで内紛が起こり、廃寺に至ったといいます。伝馬役に従事する人々が多く住んでいたため、それが町名になりました。一昨年、市教育委員会が遺跡発掘調査を行い、江戸時代、桑名城下町に全国6番目に整備された上水道管が初めて敷設状態で見つかりました。その説明会にも行っています(2018年12月13日:20181208伝馬公園遺跡発掘調査説明会に参加して来ました)。

Img_6125c_20200503174301  ここで一休み。上の写真のように、ほとんど誰もいませんでした。若い男性が一人、ベンチに座ってスマホを見ていただけ。私は藤棚の下のベンチで休憩。藤の花にはクマバチが寄って来ます。羽音が大きく、ずんぐりむっくりの体も壊そうに見えますが、温厚な性格なので、こちらが手を出さなければ大丈夫。

Img_6135c_20200503174301  伝馬公園の近くに掛樋という交差点があります。これは、江戸時代、御用水が城の惣構堀をまたぐための水Img_6137c_20200503174301 道橋がかけられたことに由来するものです。掛樋交差点の東に金刀比羅神社があります。宝永7(1710)年、桑名藩主・松平忠雅公が備後福山から移封されたときに随伴した円覚院住持が境内に祀られ、維新後廃寺となったものの、御祭神は現存したと由緒書きにあります。御祭神は、薬師十二神将の一つとあります。これは、宮毘羅 (くびら) です。薬師如来の家来から船神となり、航海安全を守る神となっています(桑名市史本編)。桑名は、伊勢湾舟運の中心の一つでしたから、金刀比羅神社の崇敬者は多かったかも知れません。由緒書きには水神を祀っているともあります。ちなみに、金刀比羅宮の御祭神は、大物主神と、崇徳天皇となっています。

Img_6145c_20200503174301  境内には、金刀比羅神社と宗霊社と2つの社が祀られています。たぶん向かって左が金刀比羅神社、右が宗霊社。神社検索三重のサイトには載っていませんので、神社庁傘下の神社ではありません。宗霊社は、祖霊社かという気がしますが、不明。祖霊社であるならば、祖先の霊を祭るための社です。

 5月1日の「ご近所神社めぐり」で回って来た神社は以上。それぞれの神社の境内社などについては触れていません。「補遺編」または「その3」として書こうと思っています。

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