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2020年4月19日 (日)

20200411「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(東員~楚原)」(その3)……石仏墓地、ヨシヅヤのスガキヤで昼食、ねじり橋・めがね橋を見て、員弁西小学校で句碑を確認して楚原駅にゴール(完)

200411touin3  4月11日の「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(東員~楚原)」のその3です。どうも筆の進みがあまりよくありませんでしたので、あまりキリがよくないとは思いつつ、リセットする意味でその2にはキリをつけました。員弁中学校のところを過ぎて、7㎞地点で左折、北勢線を越え少し行った石仏墓地からです。

Img_2350c_20200411202601  石仏墓地は、一般の墓地でもあるのですが、美濃国守護・土岐大膳太夫父子の墓があります。高さ92cmの五輪の塔3基が、土岐康行、その子・康政、その子・持頼の墓とされています。土岐康行は、守護職継承のことなどで弟満貞と対立し、美濃、尾張に内乱が起ったため、元中6=康応元 (1389) 年に室町幕府の討伐を受け、滅ぼされました(土岐氏の乱)。康政は、土岐氏の乱、また応永6(1399)年の応永の乱でも反幕府側にくみしたものの、のちにゆるされ、伊勢守護を継ぎました。持頼は、父の死没以前に伊勢守護を継承したものの、密通事件を起こし、一時、伊勢守護を解任されてしまいます。のちに罪を許され、正長元(1428)年、北畠満雅が小倉宮を奉じて挙兵した際、伊勢守護に再任されました。再任後、伊勢を平定したのですが、強引に荘園押領を進める一方、将軍足利義教の意を迎えることに努めました。しかし、義教には冷遇され、永享12(1440)年5月、国人一揆鎮圧のため大和三輪山麓に滞陣中、義教の命を受けた細川氏、長野氏らに攻められて自害しています。五輪塔の傍らには説明板があったものの、古くて文字がかすれてしまって、読めなかったのは残念。

Img_2363c_20200411204601  このあと、員弁街道に戻り、楚原駅の方に向かいますが、時刻が11時45分でしたので、先に昼食を摂ることに。楚原駅の周囲には飲食店はありませんので、国道421号線に出て、ヨシヅヤ員弁店へ。ヨシヅヤは、愛知県尾張地方を中心としたスーパー。普通のフードコート以外にも、飲食店が入っているだろうと思ったのですが、当てが外れ、スガキヤしかありませんでした(苦笑)。「たまには、スガキヤでもいいか(スガキヤの方には、大変失礼な言いぐさで申し訳ありません。普段、スガキヤに入ることは滅多にないのです)」ということで、「直火焼き塩豚カルビ丼・サラダセット(¥350)」を食べてきました。美味しかったのですが、量的にはやや少なめ。店員さんが、「ラーメンか何かをセットにしなくていいか」と聞いてこられた訳です。食事、休憩、次回の話をして、楚原駅方面に戻り、ねじり橋、めがね橋を見に行くことに。往復でプラス2㎞ほど。

Img_2373c_20200418110801  楚原駅のすぐそばにある楚原神社の北の交差点まで戻り、ねじり橋・めがね橋にむかいます。員弁街道からはこの交差点でいったん離れます。この道は、以前、近鉄ハイキングで阿下喜のお雛さんを見に行ったときに通った道です(2018年2月27日:近鉄ハイキングで“昭和レトロな町でおひなさん 早春の鈴鹿山脈を眺め「あげきのおひなさん」へ”(予告編)……マップ上9㎞なのに、12.4㎞も歩いたお話(笑))。途中、昔ながらの「金物屋さん」などもあって、懐かしい感じがしました。員弁西小学校方面へ向かいます。

Img_2378c_20200411205401 Img_2376c  小学校を過ぎて坂を下っていくと、まずは、ねじり橋。長さは約9.1m。正式には、「六把野井水拱橋(ろっぱのいすいきょうきょう)」といい、大正5(1916)年に建造。江戸時代につくられた六把野井水にかかる橋。線路と用水が斜めに交差するため(約40度で)、アーチ橋下部のブロックは、ひねりを入れてつくられています。この構造は、「ねじり間歩(まんぽ)」といい、現存するコンクリートブロック製の橋では唯一といわれます。「日本の近代土木遺産-現存する重要な土木構造物2000選(土木学会)」に選ばれています。

17f5fb9d  この日は、電車が通過する時間にうまく合いませんでした。電車が通っている写真は、2018年2月27日の近鉄ハイキングの記事から引用しました。ねじり橋は、次に行くめがね橋とともに、三岐鉄道北勢線の人気撮り鉄スポットです。

Img_2384c 55b8548c  こちらがめがね橋。長さは約19.8m。正式には、「明智川穹㝫橋(あけちがわきゅうりゅうきょう)」。眼鏡橋は、全国に数多く存在しますが、ここが珍しいのは、コンクリートブロック製だということ。三連式のアーチはとても美しい。右の電車が通過している写真も、2018年2月27日の近鉄ハイキングのときに撮影したもの。

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 ねじり橋、めがね橋を見ましたので、楚原駅に向かいますが、来るときにはそのまま通過した員弁西小学校で「多湖健一句碑」をImg_2410c 確認 。南東側の入り口の両側に、それぞれ1基が建っています。西側の句碑(左の写真)には、「飛び来る蜻蛉手の上に遊びけり」と刻まれています。碑表には他に「九一翁そう荷と、碑陰には「昭和六年春 健一」とあります。東側の句碑には、「雪の朝めじろ囀る薮の中」とあります。他には、西側の句碑と同様に、碑表に他に「九一翁そう荷と、碑陰には「昭和六年春 健一」とあります。昭和6年は1931年。多湖健一は、明治8(1875)年生まれで、土木建設業で成功した人です。笠田新田にある生家跡にも句碑があります(村しぐれ走る女の素足哉)。

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 これでこの日訪ねようと思ったところはすべてコンプリート。来た道を辿って楚原駅に向かいます。時間があれば、楚原神社も行こうと思いましたが、電車の時刻が迫っていましたので、パス。それでも、道ばたで気になったものだけは写真を撮ってきました。一つは、楚原駅北の市営住宅の敷地にあった石碑。向かって右の大きい石碑には「如禾必(以か?)稲/直胤筆」と刻まれていると思います。「禾」は、のぎ、イネ科植物の先端にある毛、穀物、いねなどの意味があります。その傍らにある、小さい石碑には、「死亡會員霊位」とあり、碑陰には「昭和十一年……」とありました。急いだので、十分には確認してきませんでした。

Img_2423c_20200418113001  もう一つは市営住宅の南にあった楚原公民館の敷地内の「里程標」。碑表には「桑名郡桑名町字京町エ四里Img_2425c_20200418113001 壱町十六間/津市元標エ十四里貳拾五町拾九間/大泉原村大字楚原、右側「三重郡富田村大字東富田エ四里拾三町貳十四間/桑名郡七取村大字香取エ貳里三拾壱町四拾壱間」、碑陰「明治四十五年三月 三重縣」、左側「員弁郡阿下喜村大字阿下喜壱里三拾壱町四拾壱間」とあります。前のパラグラフで触れた石碑2基と、楚原神社、さらに駅の南には天白神社がありますが、次ぎに員弁街道ハイキングに来る機会があれば、これらからしっかり見てこようと思います。

Img_2430c  楚原駅は、この里程標の目の前。13時45分に到着。その1にも書きましたが、現地で歩いたのは11.3㎞! 私にとっては、自宅から西桑名駅往復が2.1㎞ですから、合計13.4㎞。歩数は、24,835歩にもなりました。この日はここまで。ちImg_2434c ょうど13時51分に西桑名行き電車がありましたので、それに乗車して帰途につきました。改札口の脇に「鉄道むすめ/楚原れんげ」のパネル。西桑名駅のホームにもありました。「楚原れんげ」の名字「楚原」はこの駅の名前から。「れんげ」という名前は、前にも書きましたが、「蓮花寺駅」に由来します。ちなみに楚原れんげ嬢は、東員駅の駅務員という設定。西桑名駅には、14時26分着。¥430。

 次は、ここ楚原駅から阿下喜駅までを歩く計画を立て、コースマップもつくっていましたが、新型コロナウイルスをめぐる状況が芳しくありませんので、無期限延期としました。

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