20200315「勝手に三岐鉄道ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』」(三ツ矢橋から三岐鉄道北勢線・星川駅)(補遺編にて完)
3月15日に行ってきた「勝手に三岐鉄道ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』」(三ツ矢橋から三岐鉄道北勢線・星川駅)の補遺編です。見てきたところはさほど多くありませんし、話に夢中になって見逃したところもいくつかありますので、補遺編として書くことにしました。概要は、昨日(3/15)の予告編をご覧ください(2020年3月15日:20200315「勝手に三岐鉄道ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』」(三ツ矢橋から三岐鉄道北勢線・星川駅)(予告編))。
まずは、歩いたルートと、立ち寄ったところの詳しいマップその1です。私とM氏は、桑名駅から近鉄名古屋線に乗って益生駅まで。ここでK氏と合流。員弁街道を歩く前に、お二人とも有王塚と俊寬塚の存在は知ってはいたものの、行ったことはないということでしたので、まずはそちらへ。これは益生駅の西にあります。
有王塚の全景。右手前にある「有王塚」の石碑。碑陰には「「哀弧忠零落僅修荒墳 大正7年夏 昌忠」とあり
ます。大正7年は1918年。これは、天春静堂(本名又三郎。明治6(1873)年、三重郡保々村(現四日市市中野町)生まれ。実業界で活躍したが、心臓病により引退。静養の傍ら俳句に精進したといいます)によるもの。さらに、この石碑の正面に句碑が建っています。句碑の正面には、「塚になけわが泣くあとを友千鳥 句仏」、裏に「有王者俊寛侍者也 少尋師絶島事生収骨行脚没 桑名里人塚之此是也 大正十四年十二月十二日」とあります。大正14年は1925年。句仏は、大谷句仏(浄土真宗の僧・俳人。東本願寺二十三世)。案内の石碑も、句碑も俳人天春静堂が、この塚の荒廃を惜しんで修築し、 静堂をめぐる桑名の俳人たちによって句碑を建て、また有王講という保存会を創ったことによります。なお、俊寬は、平家物語に登場するのですが、そこに有王という侍童は出て来ません。潤色されて有王が登場するのは後代の俗書だそうです。この地には、往昔、りん(舟偏に侖)崇寺(りんそうじ)があって、また付近に塚が多く、後年、りん崇寺によって有王伝説が流布されたようです。すなわち、俊寛の侍童有王丸が、流罪中の俊寛を鬼界ヵ島に訪ね、師の骨を抱いて高野に収めるために行脚中 、りん崇寺門前で生き倒れたというのです。この種の伝説はあちこちに残っていて、高野聖の宣伝によったものとされます。なお、りん崇寺は、現在は、南寺町(桑名別院本統寺の南)にあります(帰帆山円林院りん崇寺)。
員弁街道の起点は、益生駅の東300mほどのところにある三ツ矢橋交差点です。東海道は、この三ツ矢橋交差点の南120mほどのところを通っています。東海道のその辺りは、矢田立場でした。街道は、別の街道から追分などでつながっているものだと思っていましたが、員弁街道は東海道から分岐するという風にはなっていないようです。ちなみに、員弁街道(濃州道)は、ここから、東員町鳥取、いなべ市員弁町笠田、いなべ市北勢町阿下喜、いなべ市藤原町川合などを通り、いなべ市藤原町山口で巡見道と合流し、濃州(今の岐阜県)へ向かいます。
馬道駅の東にある阿耨山善龍寺。詳細は、3/15の予告編に書きました。この寺の山号の文字「耨」という文字が、3人とも読
めず、唸っていました(苦笑)。調べたら、音読みは「ドウ・ジョク・ヌ・ドク・ノク」、訓読みは「くわ・くさぎる・すく」でした。意味は、「くわ。くわで草をかる。くさぎる。すく」といいます。「阿耨山」は「あどうざん」と読むのでしょうか。
続いて、玉三稲荷神社。この近くの何ヶ所かに大きな看板が出ており、前から気になっていた神社でした。
員弁街道沿いには、左の写真のように一の鳥居と社号標が建っています。神社は、ここから奥に入っていきます。京都にある伏見稲荷大社の桑名支部、しかも現存する最古の支部といいます。拝殿は、3/15の記事にも載せましたが、右の写真のようになっています。御祭神は、玉三稲荷大神と清龍大神。「玉三稲荷大神」は、お稲荷様ですから、宇迦之御魂神と思います。また、清瀧大神は、龍神と考えます。
こちらが、清瀧大神。伊勢神宮とも書かれています。伊勢で龍神伝説で有名なのは、松尾観音寺(龍神伝説については、こちらを参照)。清瀧大神の背後には、「玉龍之瀧」という石碑がはめ込まれた人工の瀧。かつては、水が流れていたと思われます。このほか、北側に祖霊社、別社として金山稲荷社(金運)と長福稲荷社(健康運)が祀られていましたが、これらにはお参りはしてきませんでした。
玉三稲荷には、神宝として「白蛇の天然石」があるそうですが、下調べが十分でなく、あとから気づいた次第。2匹の白蛇がお互いの尻尾で結び合い、顔を向かい合わせて巻き付いており、良縁・縁結びのご利益があるそうです。ちなみに、白蛇は七福神の一柱である弁財天の化身で、古来より財宝神として崇められているといいます。また、ここにある松は「三鈷(さんこ)の松」と呼ばれており、葉が三葉で一組(通常は二葉一組)になっているという貴重な品種とか。これもあとから気づいたので、見ていません。
明正中学校の北西あたりで、員弁街道は右折するところにある地蔵堂と、石碑「瑠璃山明光寺 三界萬霊」については、割愛します。3/15の予告編をご覧ください。予告編では触れませんでしたが、もう一つ石碑? 墓?がありました。読める範囲では、「竹本三津杢(以下は、地中に埋まっていて見えず)」「行年?」とあります。「行年(ぎょうねん)」とあるからには、墓かと思いますが、「くわな史跡めぐり」にも「みえの歴史街道 濃州道」にも言及はありません。言及がないということは、歴史的な人物ではない人の個人の墓なのかという気がしますが、なぜここにあるのかは謎。
西別所駅の南にあった小祠堂。クローズアップ写真を右に載せておきます。予告編で書いたように、10cmほ
どの高さの、小さなお地蔵様が祀られていました。お供え物がありますから、お参りする方もいらっしゃるのでしょう。
詳しいマップは、その2の範囲へ。西別所駅のすぐ南には、辻内鋳物鉄工の
本社工場があります。ここは、500年を越える鋳物業の歴史があります。江戸時代、鋳物師の辻内家は、揖斐川右岸に住み、このあたりを「鍋屋堤」といいました。現在も、桑名水郷花火大会(今年は、11月21日(土)に開催)の会場は、「鍋屋堤」と表現されています。辻内善右衛門尉藤原種次は、桑名藩主・松平定重の命により、桑名宗社の青銅の鳥居をつくっています(寛文7(1667)年完成)。この鳥居は、その後たびたび崩れたのですが、その都度、辻内家によって補修され、現在に至っています。このように歴史のある辻内鋳物鉄工ですが、本社工場は稼働していないようでした。
辻内鋳物鉄工の前を過ぎると、員弁街道は三岐鉄道を渡って、右斜め(北西)に向かいます。そこに「日露戦争出征兵士の記念の碑」と書かれた「従軍紀念碑」がありました。まだ新しいもので、碑陰には西別所の勇士の方のお名前が刻まれていました。こんな新しい戦争の紀念碑は珍しいのですが、古いものを建て直したのかという気がします。建立年月日はありませんでした。そして、このあたりに安永6(1777)年の地蔵堂があるはずですが、この紀念碑に気をとられ、見忘れました(苦笑)。マルチタスクがアヤシくなっています。ということは、ワーキングメモリーが低下しているためか(爆)。そろそろ前期高齢者ですからねぇ。
このあとは、蓮花寺川に沿ってしばらく行きます。城下橋のところでも子安地蔵を見落としました(気づいて、振り返って、遠目の写真は撮りましたが)。在良駅と東名阪自動車道のところまでは、「くわな史跡めぐり」や「みえの歴史街道マップ」に載っているような見るところはありません。在良駅手前の東名阪自動車道の高架下にも地蔵堂があるのですが、これも気づかずに通過(苦笑)。ここは、このあと行く額田の子安地蔵を分祀したものです。あとで気づいたのですが、額田の、いわばご本尊を拝めばよいかと。
スタートから4㎞の手前、員弁街道が左折するところに額田神社の社号標。額田神社は、ここから400mほど北に行ったところにあります。式内社。意富伊我都命(おおいがつのみこと:額田連(ぬかたのむらじ)の祖)、天照大御神、天津彦根命を祀っています。意冨伊我都命と額田神社について、神社検索三重には、「天津彦根命ノ御孫ニシテ額田部連ノ御祖神デアリ第十九代(允恭天皇:西暦440年)ノ御世ニ御奉斎セラル。延喜式神名帳ニ桑名郡(郷)額田神社也トアル」とあります。「額田部」氏は、推古天皇の時代には外交で活躍した一族で、応神天皇の子であった額田大中彦の名代であるという説や天津彦根命の末裔だという説などいろいろあります。一度は行ってみないといけません。
予告編には書きましたが、額田の子安地蔵様はきちんと拝んできました。4.7㎞ほどで坂井橋に至ります。その手前、北側の北勢線の線路際に顕彰碑がありました。これは、「くわな史跡めぐり」や「みえの歴史街道マップ」には載っておらず、ノーチェック。「故水越徳次郎翁顕彰碑」とあります。水越徳次郎という方については、ネット検索では情報が出て来ませんが、K氏によれば、この地域の有力者で、地元に貢献した人だそうです。顕彰碑も、「桑名市長 水谷昇 書」とあります。そのご子孫が、このすぐ近くの貞昭院というお寺を開いたそうです。顕彰碑は、県道の向こうにありましたので、写真を撮ったのみで碑陰などは見ていません。
ゴールは、三岐鉄道北勢線・星川駅としました。駅の先の員弁街道沿いに、星川城跡、星川神社など見るべきところがたくさんあります。星川城には、中世、春日部若狭守が居城したとされます。春日部氏は、旧朝明郡萱生(現在の四日市市萱生町)の豪族で、城主の若狭守はその一族。城は、織田信長の伊勢侵攻で滅ぼされています。星川神社は、式内社。この地を開拓した星川建彦(たけるひこ)命を祀るといわれます。星川から先も近いうちに歩きたいと思っていますが、相談会準備もあり、今の時点では未定。
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