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2020年3月29日 (日)

20200329「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』(星川~東員)」(予告編)

Img_8073c_20200329180701 Img_8082c_20200329180701  不要不急の外出は避けるべきところではありますが、厚生労働省の勧告「換気が悪く、人が密に集まって過ごすような空間に集団で集まることを避けてください」を遵守して、「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』に行ってきました。3月15日の「益生(三ツ矢橋)~星川」に続いての第2弾として、三岐鉄道北勢線の星川駅から、桑名の隣の東員町にある北勢線・東員駅まで歩いてきました。休日の北勢線は、1両にせいぜい数人の乗客、歩いているのは旧街道で人混みとはほど遠い。昼食だけはカフェレストにてという次第。本日は、予告編で主な立ち寄り先を取り上げます。

Img_8085c  朝方、雨がわりと遅くまで残りましたので、スタート時刻を11時に変更。三岐鉄道北勢線西桑名駅を10時35分に発車する楚原行きに乗車。星川駅には10時48分着、¥240。10時55分にスタート。今日も、前回同様、K氏、M氏との三人旅。私の悪影響を受けたのか、お二人とも「是非とも行く」という意気込み(微笑)。

200329hossikawatouin  こちらが本日歩いたコース。前回同様、ほとんど三岐鉄道北勢線に沿っています。ハイキングで歩いた距離は6.3㎞。自宅から西桑名駅往復が、2.1㎞ですから、合計8.4㎞。今日のコースには、寺社仏閣、地蔵堂などの他、道標、桑名市の天然記念物、穴太徳の碑などさまざま見るべきところがあり、楽しめます。予定していたところで見つけられなかったものもありましたが、概ね満足。

Img_8087c_20200329180801  星川駅をスタートして、北勢線の踏切を渡って右折する(西に向かう)と員弁街道に出ます。嘉例川を越え、すぐにまた北勢線を渡った先、右手あたりが星川城跡です(左の写真で、中央に見える万代家具に向かって左あたりの守と思われます)。室町時代の城館跡。春日部若狭守が居城したといいます。春日部氏は、旧朝明郡萱生(現在の四日市市萱生町)の豪族で、星川城主はその一族。織田信長の伊勢侵攻の時に滅んだといいます。

Img_8093c_20200329182201  スタートから700mほどで星川神社の参道入り口に来ます。員弁街道脇には一の鳥居と、「延喜式内星川神社/神厨星川神明Img_8106c_20200329182201 神社」の石柱(明治34(1901)年建立)。星川神社は、この地を開拓した星川武彦命の祖先を祀ります(勢桑見聞志抄)。御祭神は、天照皇大神。相殿神は、須佐之嗚命、大山祇神、宇迦之御魂神、火産霊神。社伝によれば、創立は応神天皇時代とされますが、詳細は不明。明治40(1907)年11月に八坂神社、御厨神明社、山神社を、また、同45(1912)年2月に大字仲新田の稲荷社を合祀しています。台地の上にあり、このあたりも星川城の範囲だったのかという気もしました。

Img_8115c_20200329183101  1㎞の手前に星川山安渡寺(ほしかわざんあんどじ)。特定の宗派には属さない単立の寺院。ご本尊は、平安時代の聖観世音Img_8120c_20200329183201 菩薩(桑名市指定文化財)。檜の一木造り。伊勢巡礼30番札所。奈良時代、行基によって創建され、星川城主・春日部若狭守によって大伽藍が建立されたといいますが、織田信長の兵火で焼失したといいます。鎌倉時代には、「星川の観音さん」として知られていたことが、四日市市南富田町の善教寺が所蔵する阿弥陀如来像の胎内文書に記されています。境内には、見事なしだれ桜とソメイヨシノがありましたし、ここからの眺めはかなりよいものがあります。

Img_8159c_20200329193301  森忠名神明神社(もりただなしんめいじんじゃ)です。スタートからは約1.2㎞。主祭神は、天照皇大神。相殿神は、大山津Img_8169c_20200329193301 見命。創始は不詳。古代、このあたりは伊勢神宮の領地で、「守忠」あるいは「盛忠」という人の名田でした。神宮の領地管理に貢献があったので、その名が地名となったといいます。守忠/盛忠の名田に建てられた神明社から、神社の名前が来ています。

Img_8176c  この神社の境内には、伊勢神宮遙拝所と、神武天皇遙拝所/明治天皇遙拝所の石碑がありました。さほどたくさん見て回ったわけではありませんが、桑名市内の神社では、こうした遙拝所は初めて見ました。皇紀二千五百八十三年(大正12(1923)年)に、山上甚兵衛という方が両者とも建立しています。

Img_8190c  その先でヤマモリの桑名工場脇を通り、天皇八幡神社へ。ヤマモリは、明治22(1889)年創業。三林専太郎が、味噌・しょうゆ醸造業を始めました。今日では、それ以外にもかまめしの素、レトルト食品なども製造しています。三重大学カレーや、桑名カレーのレトルトもつくっています。

Img_8194c  天皇八幡神社。芳ヶ崎(はがさき)の産土神。春日社と牛頭天王社を相殿とします。御祭神Img_8199c は、品陀和気命、素盞嗚命、火産靈命、大山津見命、天兒屋根命。由緒は不詳ですが、鳥居は文化2(1805)年に再建した記録があるといいます。

Img_8222c_20200329194501  天皇八幡神社の南に桑名市の天然記念物に指定されているクロガネモチの木があります。ヤマモリの工場の西。クロガネモチは関東以西から四国九州、沖縄に分布する常緑高木樹。この木は雄株。天皇八幡神社のご神木で、剪定などはしてはならないとされているそうです。このあたりでスタートから約2㎞。

Img_8226c  天皇八幡神社のすぐ西に道標。ここを下ると北勢線七和駅に行きます。「(西)楚原道/東 桑名道/北 多度道/南 七和Img_8230c 駅」とあります。三岐鉄道が、北勢鉄道として大山田(現在の西桑名)~ 楚原間(14.5km)の開業を果たしたのは、大正3(1914)年ですから、それ以降の道標と思われます。道標のある交差点から、南、七和駅に向かってはいると、薬師堂があります。奈良時代に創建され、ご本尊は室町時代の作で、ここは中世の芳ヶ崎城跡(羽笠城跡)といいます。

Img_8249c_20200329202701  員弁街道に戻って五反田地内を進みます。大仲新田に入る手前、寒谷川を渡ったところに大日堂と地蔵堂がImg_8251c_20200329202801 あります。2.9㎞地点です。大日堂は、五反田にあった伝西寺が真宗大谷派に改宗し、星川に移るとき、本尊であった大日如来を安置する御堂を設けたといいます。現在、伝西寺は、バロー星川店の東にあります。地蔵堂については、詳細は不明。

Img_8261c  スタートから3.1㎞で弁天川にかかる弁天橋に来ます。ここが、桑名市と東員町の境界。昭和5(1930)年に完成した橋。弁天橋の先、100mほどの民家の庭に「穴太徳(あのうとく)の碑」があります。「穴太徳事 神戸屋徳次郎Img_8268c_20200329205201 碑」と刻まれています。穴太徳は「荒神山の喧嘩」の一方の当事者で、2代目広沢虎造による「血煙荒神山」の浪曲で有名です。かなり以前から、このあたりにこの碑があることを知っていて、是非とも見たいと思っていました。「穴太徳」は、通称(穴太徳次郎(あのうのとくじろう))で、本名は中野徳次郎。昨日の記事にも書きましたが、穴太徳は、慶応2年4月8日(1866年5月22日)の「荒神山の喧嘩」で、神戸の長吉(かんべのながきち)と私闘を展開した、桑名を縄張りとした博徒です。この荒神山の喧嘩では、神戸の長吉側の助っ人として乗り込んだ吉良仁吉は鉄砲で撃たれた上、斬られて死亡しました。吉良仁吉は、清水次郎長一家の応援をえて、穴太徳勢になぐりこんで、義理に殉じたのですが、講談で紹介され、庶民の人気者となりました。また、村田英雄の歌う「人生劇場」にも出てきました(♪俺も生きたや仁吉の様に~♫)。ちなみに、吉良は現在の愛知県西尾市吉良町。故郷からほど近いところですし、忠臣蔵で有名な吉良上野介は、この吉良の領主でした。話が広がってしまいましたが、あれこれいろいろなところで思わぬつながりがあるものだ、ということです。この穴太徳の碑の近くに「神田屋敷」と「六把野井水(ろっぱのゆすい)」があるはずでした。神田屋敷はここかと思うところはあったものの、確信が持てず。六把野井水は、見つけられませんでした。みえの歴史街道マップを見直したら、かなり細い水路でした。もう少ししっかり予習が必要です。

Img_8295  ここからしばらくは見どころはありません。3.8㎞地点で県道14号線に出ます。東員一中の前を通過し、六把野新田ふれあいImg_8286 広場近くに延命地蔵堂と、道標があります(4.4㎞あたり)。みえの歴史街道マップには延命地蔵堂とありましたが、「病難除地蔵尊」と書かれていました。大正末期、有志の方々が建立し、祀ったもの。道標は、小さい上にかなりすり減ってしまっており、危うく見逃すところでした。「多度香取道」と刻まれています。右面は読めなかったのですが、こちらによれば「草薙稲次郎建」とあるようです。昔は、幅3~4尺(約90~120cm)の細い道だったのですが、多度祭では参詣客で賑わったそうです。

Img_8305  神田変電所前の信号のすぐ先で県道から分かれます。しまむらのすぐ先で藤川を渡ります。Img_8307 藤川橋という細い橋がありますが、かつては七ツ橋と呼ばれたそうです。この富士川の堤防、左岸にはソメイヨシノの桜並木。満開になったら見事だと思います。

Img_8326  東員交番の裏に道標があります。自然石でできています。「右あげきはった/左大いづみ石Img_8322 ぐれ」とあります。阿下喜、治田、大泉、石榑を指しています。道標は、文化14(1817)年に鳥取(このあたりの地名)の俳人岩田卜斎によって建てられ、裏面には卜斎の「雲いくへ ひばりなくなく そりみ坂」の句が記されています。「そりみ坂」は、「楚里見坂」「曲見坂」などと書いたといいます。また、このこの小高いあたりにはヒバリがたくさん生息していたそうで、「雲雀が岡」と呼んだといいます。私は、春、揚げ雲雀を見上げるのに、体を反らせて見たから「そりみ坂」かと想像しました。この道標のところで、道は二股に分かれていたようです(向かって左は途絶えたというのか、県道になったというか)。

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 道標の先、5.7㎞のところに鳥取塚と、珪化木の碑があります。鳥取塚は、饅頭型の円丘で、かつては古墳が4~5基ありました。今残っているのは1つで、東西21m×南北17m、高さ2.5m。桜などが植わっています。珪化木の碑には「鳥取塚」と刻まれています。明治44(1911)年の建立。この先にチリン坂や、「律師智傳之碑」という自然石の碑があったのですが、私が、この鳥取塚の西の道沿いにあると勘違いしていて、「碑がない」と思ってしまいました。次があれば、チリン坂や石碑からスタートしたいと思います。最後に勘違いがありましたが、予定ではここまで。ちょっと戻って、ゴールに設定した三岐鉄道北勢線・東員駅に向かいます。東員交番の交差点から南へ。

Img_8372c_20200329212501  その前に13時半を過ぎていましたので、昼食を摂ることに。あらかじめリサーチしておいたカフェレスト・Img_8370c_20200329212501 ラフィーネへ。東員駅から線路を挟んですぐ北。オムライスが美味しそうでしたので、ランチのセットに。スープ、サラダ、茶碗蒸し、ミニハンバーグがついて、¥980。前期高齢者には、ボリュームたっぷりすぎるくらい。オムライスの中のご飯には、細かな海老やタマネギやニンジンなどの野菜、それにたまごなんかも入っていました。右の写真、先に出て来たミニハンバーグをかじってしまっています(苦笑)。

Img_8383c  食事を終え、東員駅へ。14時32分発の西桑名行きに乗車。鉄道むすめ・楚原れんげの電車でした。西桑名までは¥340。M氏Img_8384c は星川駅で、K氏は蓮花寺駅でそれぞれ下車。西桑名には14時56分着。帰りも電車は空いていました。

Img_8395c_20200329212601  本日のALKOOのデータ。17,208歩でした。距離は、初めの方に書いたとおり、8.4㎞(キョリ測で測定)。本編は、また明日以降ボチボチと書きますが、K氏、M氏からは、次はいつ? どこを歩く? と催促(苦笑)。員弁街道を阿下喜あたりまで歩くことにするかも知れませんが、企画、下調べともストックがありません。

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