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2019年7月 1日 (月)

午後から市民大学講座の3回目……城と城下町

Img_2340c  心配した大雨、我が家あたりではさほどではありませんでしたが、九州の方では300ミリ以上降ったり、数十万人の方に避難勧告が出たりと大変だったようです。お見舞申し上げます。朝9時くらいまではアメダスに記録されるくらい降りましたが、その後午前中は小雨。午後からは晴れ間も出て来ました。昼前に買い物に出ただけで、散歩には出ていません。

Img_2350c  午後からは、月1回の市民大学講郷土史学科「城と城下町」の3回目があり、出席してきました。今日は、2部Img_2343c 構成。第1部では「ワークショップ」として、寸法の入った城の絵図から、櫓や門、枡形の大きさを調べるという課題(微笑)。30分で5枚の絵図から読み取るということで、ちょっと大変でした。右の写真がその資料の一部。江戸時代、幕府に提出した城絵図の付属として、このようなものがつくられたのです。

Kuwanatenshudaiato  たとえば、右上の絵図で、右下に天守があります。外は四重、内は六重になっていたといいますが(元禄14(170101)年の大火で焼失し、その後は再建されていません)、下の重は八間×六間、惣高さ石垣置き石より棟迄九間五尺六寸とあります。八間は約14.5メートル、六間は10.9メートルとなります。九間五尺六寸は、約17.1m。1間≒1.8メートル、1間=6尺、1尺=10寸です。左の写真は、桑名城天守台跡ですが、ここに高さ17メートルあまり、下の重が14.5×10.9メートル、四層六階の天守が建っていたということです(写真の石組みは、昭和53(1978)年5月に、楽翁公没後150年記念大祭協賛事業の一環として、新しく巨石を入れて献備したもの)。

Tatsumiyagura  こちらは、戊辰戦争の際、桑名城落城の印として焼かれた辰巳櫓の跡(上に載せた寸法入り絵図の写真では、左上に写っています)。3層構造で、三間六尺×二間五尺とあります。6尺が1間ですから、書き方がヘンですが、4間として計算すると7.3×5.1メートルの櫓であったことになります。さらに、絵図の寸法によれば、辰巳櫓の左(南)の石垣は、「此平石垣高三間」とありますから、約5.5メートルだったということ。この寸法を頭に置いて、散歩してみると、また違った見方ができるかも知れません。

Img_2345c  続いて、後半は、桑名城の普請について。年代の異なる城絵図を見比べると、城や城下町の変遷がよく分かるという話。たとえば、市内に赤須賀という漁師町があります。絵図で見ると、元々は、現在の元赤須賀が赤須賀漁師町でした。その頃は、城下町に含まれていましたが、正保2(1645)年、新田が開発され、町は揖斐川の方へと拡大しています。さらにその後、元の赤須賀(現・元赤須賀)には、下級武士の屋敷(足軽屋敷)がつくられています。年代が異なる地図を見比べれば、変遷が分かるということは、頭では分かっていたのですが、今までたとえば、桑名市博物館で開催された「徳川四天王の城-桑名城絵図展-」の図録を眺めていても、自分ではピンと来ていませんでした。どこかのチコちゃんに叱られそうですが、これでやっと実感できたという感じです(この年になってと思うと、笑えてきますが)。

 いやぁ、今日の講義では、面白いことを教えてもらいました(微笑)。上にも書きましたが、散歩の新しい楽しみ方が見えてきた気がします。あとは実行あるのみ(爆)。

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