20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(その3)……雨の中、亀山古城跡、花しょうぶまつり、亀山城多門櫓から亀山神社へ
6月9日のJRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」もその3となりました。雨は相変わらず降り続いています。実測ルートマップ、今回は2枚。JR亀山駅を出て西へ、時計回りに歩き、またその1のマップの範囲に戻って来ています。亀山公園内で開催されている花しょうぶまつりに向かうのですが、その途中で、まずは、亀山古城跡。
こちらがその亀山古城(こじょう)跡。亀山市若山町にある比高差15mの小高い山がそれ。江戸時代につくられた複数の「亀山城絵図」で「古城」と記されています。その2で触れた大庄屋・内田権四郎昌克が編集した「九々五集」には、この地方を治めていた関左近将監実忠(せきさこんしょうげんさねただ)が、文永2(1265)年に築城したと書いているそうです。以後、関氏累代の居城でしたが、元亀4(1573)年、城主・関盛信が織田信長の怒りに触れ、蒲生氏郷に預けられ、城は信長の子・神戸信孝に与えられます。天正11(1583)年閏正月の羽柴秀吉の攻略に際し、城将の佐治新助はよく防戦したものの、加藤清正・山内一豊・細川忠興などの猛攻により落城。この城は、秀吉方についた元城主・関盛信の子・一政が城主となったのですが、その一政が陸奥白河に移され、新城主となった岡本良勝が新たな城(近世の亀山城)を築くにあたって廃城にしたとされます。しかしながら、発掘調査では、このあたり周辺では明確に中世の城と見られる遺構は確認されていないそうです。
12時半近く、スタートから6.4㎞で花しょうぶまつりの会場へ。今回で22回目。前々から一度見てみたかったものの、来たのは初めて。この6月9日(日)の10:00~15:00に花しょうぶまつりが開催されていました。この菖蒲園は、平成10(1998)年にすでにあった菖蒲園の西側に4,000平方メートルを増設したといいます。もともと亀山城の濠(ほり)跡で、以前は田んぼとして利用されていたところ。この濠に面して、北西に本丸西多聞櫓、この菖蒲園の入り口には関見櫓があったそうです。
約4,000平方メートルの花しょうぶ園には、およそ100種類、約12,000株の花しょうぶが植えられています。手入れはよくされてい
る感じですが、かなり広いのでどこで写真を撮ろうか、迷いました。雨にもかかわらず、かなりの人出があります。あれこれ写真を撮ってきた割りには、どうも今ひとつという感じがしてなりません。
斜面に段々畑のように花菖蒲園がしつらえられています。順番に見ていくと、1年目のものから、順次、2年目、3年目と植え替えてありました。花菖蒲には、「連作障害」のような現象が見られると聞きますから、これはよい工夫かも知れません(素人の理解ですから、間違っているかも知れません)。
12時半を過ぎました。雨は小降りでしたが、残すのは亀山城多門櫓のみでしたし、1㎞くらい歩けばゴールというところまで
来ています。菖蒲畑の目の前に屋根付きのベンチがありましたので、ここでお昼にすることにします。今日は、JRさわやかウォーキングということもあって、桑名駅のキオスクでゲットしてきた「幕の内弁当」。¥450。焼き魚や、野菜の煮物なども入っていますから、コンビニの幕の内よりもよいかも(微笑)。ただし、ご飯は、コンビニ弁当の方が美味しい感じでした。
いよいよ亀山城跡に入って行きますが、花菖蒲園から公園池の南を通って、かなりの高低差のある階段を上がっていくと、ま
ずは「ますみ児童公園」。亀山公園の一部。ここには、蒸気機関車C58 359が静態保存されています。75年前につくられたもので、昭和45(1970)年まで現役(こちら)。引退した年からここにあるようです。大昔、子どもたちが小さい頃、家内の実家に行く途中立ち寄った記憶があります。
亀山城は、天正18(1590)年に岡本宗憲(良勝)が、亀山古城の東に築城しました。この近世亀山城の下層には、戦国期の亀山城が確認されており、中世末期の城郭を母体に築かれたと考えられています。「九々五集」によれば、築城時には、本丸・二之丸・三の丸からなり、天守もあげられていたとされます。この天守は、寛永9(1632)年に丹波亀山城(京都府亀岡市)の天守を解体するよう幕府から命じられた出雲松江城
主・堀尾忠晴が、間違えて伊勢亀山城の天守を取り壊したとされていますが、天守の規模、形状はもちろん、その位置も含めて事実関係は一切不明といいます。亀山城には、「姫垣(城壁などの上にめぐらした低い垣)」を意味する「粉堞城(ふんちょうじょう)」の別名があったのですが(粉堞とは、姫垣や表面に白い胡粉(ごふん)を塗った簡易な塀という意味。山田木平によれば、粉堞とは姫垣をさし、白い城壁が連なる景観からの別名であるといいます(伊勢亀山城)。以上、こちらを参照。)、「粉蝶城(こちょうじょう)」と間違われたものが広く流布しています。江戸時代初頭には、上洛する将軍の休泊所として本丸御殿があったといいます。明治6(1873)年の廃城令によってほとんどの建造物は壊され、堀も埋め立てられ、現在は、多門櫓(「多聞櫓」という表現が多いのですが、亀山城ではこのように「多門櫓」と書かれています。また、多門とは長屋状の建物のことです)と石垣、土居、堀の一部が残っています(伊勢亀山城のパンフレットによります)。なお、岡本宗徳以後は、城主が頻繁に代わり、 延享元(1744)年に備中松山から石川総慶(いしかわふさよし)が入り、その後は石川氏が統治ししました 。
こちらが多門櫓。観光案内などには南のアングルから撮った写真が載っているのですが、亀山中学校か、その南まで行かない
と撮れません。雨も降っていたので、断念。この多門櫓は、天守台といわれる本丸高石垣上にあり、寛永9(1632)年頃に築造されたとみられます(寛永13(1636)年や、正保年間(1644~1648)とする文献もあります。この記述は、亀山市の資料によります)。三重県で唯一現存する城郭建造物として県史跡に指定されています(昭和28(1953)年)。安政束海地震(1854 年)によって大破したのですが、修理され、明治時代には、士族授産の木綿緞通工場として使われました。そのため、唯一破壊を免れ、今日に残っています。「平成の大修理」が平成25(2013)年3月に完成し、往時の姿に復原するというコンセプトの元、真っ白な白壁の漆喰となっています。
多門櫓には、13時頃到着。土日、祝日の10時から16時に観覧できます。階段の上には甲冑姿の人が見えます。この多門櫓
も、一度は訪ねたかったところです。瓦は葺き替えられ、壁も漆喰の白壁に戻されてはいますが、三重県内では、石垣の上に元の位置のまま城郭建築が残っている唯一の例です。
建物は、東西8間(15.8m)、南北6件(10.9m)の一重櫓で、屋根は入母屋造本瓦葺(い
りもやづくりほんかわらぶき)。建築部材から見つかった「惣武具」や「武器蔵」といった文字から、当時は武具庫として使用されていたと考えられています。たしかに「櫓」の始まりは、「矢倉」といいます。
櫓に登って、一度してみたかったことがあります。大したことではありません。むしろ「し ょうもないこと」です(苦笑)。櫓の中から、窓を通して外を見てみたいということです。この2枚の写真は、櫓の南側を見たもの。ちょうど亀山駅の方角で、右の広場は亀山中学校のグラウンド。池は、「池の側」という名称のようです。
こちらは多門櫓の内部。梁や柱は立派なもの。それに、外観に比べ、「質
実剛健」という印象を受けました。それにしてもというか、やはりというか、本や資料を読んでいるだけでなく、現地に行って、実際に見てみることが肝心です。百聞は一見にしかずというとおり。感心しました。
多門櫓の西に亀山神社がありましたので、そちらへ。延享元(1744)年、備中松山から石川総慶が亀山城に入城した
際、城内に小祠を設けたことに始まり、それ以来、亀山城内の旧館跡に鎮座して真澂(ますみ)神社として崇敬されて来たといいます。亀山城主石川氏の祖である陸奥守源義家及び六男義時以下数世の神霊を祀っていました。明治4(1871)年に城北の若山の地に遷座した後、同9(1876)年に再び本丸跡に遷座しています。明治40(1907)年から41(1908)年にかけて西町鎮座の郷社亀山皇太神社、阿野田村鎮座の式内社真木尾神社などを合祀し、社殿を現在の地である西丸に新築して奉遷し、社号を亀山神社と改めました。
主祭神は、源義家、源義時、石川義純、石川家成。相殿神は、大山津見神、保食神、宇迦之御魂神、猿田比古神、天照皇大神、大名牟遅命、品陀和氣命、伊邪那美大神、市杵島姫命、火之迦具土神、建速須佐之男命、速玉之男神(はやたまのおのかみ)、句々廼遅命(くくのちのみこと;伊奘諾尊と伊奘冉尊から生まれた。「くく」は茎、「ち」は精霊の意味で、木の守護神、菅原道真、速山津見命(はやまつみのみこと;山のふもとをつかさどる神。伊邪那岐命が火の神迦具土を斬ったとき、その右手から生成した)、大鷦鷯命(仁徳天皇)、安閑天皇、瀬織津比女命(せおりつひめのみこと;祓神・水神・瀧神・川神とされる女神)、天児屋根命、黄泉津事解之男命(よもつことさかのをのみこと;黄泉国へ去った伊奘冉を連れ戻しにいった伊奘諾は、見ないでくれといわれたイザナミを見てしまい、妻と別れることになったが、その別れ際に唾を吐いた。その唾を吐く神を速玉之男神と呼び、((両神の関係を)掃う神を黄泉津事解之男と呼ぶ)、大山咋神(おおやまくいのかみ;大年神(「とし」は穀物。稲の実りを守護する神。素戔嗚尊の子)の子)、柴垣神、天神地祇八百万神(天の神と地の神。天つ神と国つ神。あらゆる神々。日本では、高天原(たかまのはら)に生成または誕生した神々を天神、初めから葦原中国(あしはらのなかつくに)に誕生した神を地祇とする)。
神社の境内には、稲荷社がありました。「出世稲荷」とあります。我が身は、今さら出世も何もありませんが、愚息などはひょっとしたらその見込みがあるかも知れませんので、お参りしてきました(微笑)。さらに、この記事を書くのに調べていたら、拝殿に向かって右手前に天神様もあるようでした(苦笑)。「真澂(ますみ)天神」です。前段落に載せた拝殿の写真をよく見ると、確かに写っています。雨のせいで急いだためであります。
さらに、二の鳥居を潜った右手には「宝篋印塔(ほうきょういんとう;宝篋印陀羅尼という呪文を収めた塔。のちに供養塔,墓碑塔として建てられた)」の基礎部が残っています(市文化財)。これは、ここにあった善導寺が西町
に移転されたときに残されたものとされ、昭和26(1951)年の西小学校運動場拡張工事の際、取り壊された本丸石垣の中から五輪塔などとともに発見されたそうです。花崗岩、高さ53.1cm、幅76cmの基礎と、二段の答申を受ける部分からなっています。正慶5(1332)年7月のもので、亀山市内にある在銘石造品としては最古といいます。
その3でゴールできるかと思って書き進めましたが、亀山城跡には、これらの他、復元された亀山演武場、明治天皇亀山行在所遺構、いくつかの石碑もあります。長くなりましたので、その3はここまで。
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