20190519近鉄ハイキング「谷川士清旧宅と県立美術館・総合博物館春の専修寺を訪ねて」へ(その1)……谷川士清旧宅、谷川神社、福蔵寺にある士清の墓から國魂神社へ
5月19日の近鉄ハイキング「谷川士清旧宅と県立美術館・総合博物館春の専修寺を訪ねて」の本編です。この日は、午前中は曇りがち、途中、県立美術館を出て総合博物館へ行くまでは小雨に降られ、その後は晴れてくるという天候に恵まれました(苦笑)。
受付は、近鉄名古屋線・津新町駅にて9時半から10時半ということでしたので、桑名駅を9時1分に出る五十鈴川行き急行に乗
車。9時48分に到着。¥750。受付開始からすでに20分ほど経っていますから、もう混雑はしていません。慌てて来る必要はありませんし、ゆっくり回ればよいと思って、です。いきなりの昔話ですが、津新町駅に向かって右手(右の写真で)には、今はグランステーシア津新町というマンションが建っていますが、昔はここに近鉄東海ストアがありました(昭和63(1988)年まで)。また、すぐ近くには、娘が生まれた病院もありますので、ちょっと懐かしいエリアです。
それはさておき、左の画像がこの日のコースマップ。津新町駅を出て、谷川士清旧宅、谷川神社、國魂神社を回って津偕楽公園
へ。その後は、三重県立美術館、三重県総合博物館、三重県総合文化センターから高田本山専修寺。ゴールは、近鉄名古屋線・高田本山駅という、マップ上は10.4㎞。右は、実際に歩いたルートマップ。今日のコースあたりはほとんどなじみがあるところや、何度か来ているところですので、重大なコースミスはしでかしませんでした。谷川士清旧宅や谷川神社は、以前から訪ねてみたかったところ。このあたりや、國魂神社が初めて訪れるところです。9時56分にスタートしました。
こちらは、拡大した実測ルートマップその1。津新町駅を出て、駅のすぐ北を通る県土163号線を西へ。県立津高校の手間で右
折し、すぐに旧・伊賀街道に入ります(左折)。最初の立ち寄りポイントである谷川士清旧宅は、この旧・伊賀街道沿いにあります。右の写真は、津新町駅から県道163号線を経て、伊賀街道に入ったあたり。伊賀街道は、伊勢・伊賀二国の大名・藤堂高虎が移封された後、津(本城)と上野(支城)をむすぶ最も重要な官道として整備された、全長約12里(約50㎞)の街道です。この道は上野経由で伊勢に向かう参宮客だけでなく、津方面から水産物や塩が、また、伊賀方面からは種油や綿などが運ばれた伊賀・伊勢両国の経済・生活の大動脈でもありました。
伊賀街道に入って少し歩いて行くと、谷川士清旧宅周辺の文化財散策マップがあります。これは大きくて、分かりやすい優れ
ものです。その脇には、谷川士清が詠んだ和歌も掲げられていました。「別れこし みやこの空も 身にしみて 又なつかしき いせの浦風」とあります。今日と遊学を終えた士清が、故郷への帰路、鈴鹿の峠を越えて、ふと香る潮風に故郷を感じて詠んだものだそうです。
スタートから1.2㎞で谷川士清旧宅に到着。谷川士清(たにがわことすが;宝永6(1709)~安永5(1776)年)は、伊勢の生んだ二大国学者の一人で、本居宣長と並び称される学者です。八町で町医を営む谷川義章の長男として生まれ、幼い頃から家
業を継ぐため勉学に励み、さらに一人前の医者になるため享保15(1730)年頃から京都に遊学しています。享保20(1735)年、津に帰郷、父の跡を継いで医者となり、地域・近郊の人々の信頼を受けていました。医業のかたわら学問にもうちこみます。士清自身の研究による著書として、宝暦元(1751)年には、20年あまりかけて研究した日本書紀の注釈書「日本書紀通証(ニホンショキツウショウ)」(全35巻)を完成させました。特に第1巻附録の「和語通音」は動詞の活用図表で(現在の五十音表)、それを見た本居宣長はその学識にうたれ、以後手紙を交わして交友が始まりました。また士清のもう一つの偉業に、わが国最初の五十音順にならべられた国語辞典、「和訓栞」(全93巻)をまとめたことが挙げられます。この「和訓栞」が実際にすべて出版されたのは、明治20(1887)年で、士清が亡くなってから110年後のことでした。士清の遺志をついだ子孫の人々が本にしたのです。谷川士清の会のサイトにも、詳しい業績が書かれています(こちら)。この日も、谷川士清の会の方々が案内や説明をしてくださいました。
谷川士清は、本居宣長に比べその知名度は今ひとつです。これは、彼が、水戸光圀が編集した「大日本史」の誤りを一つ一つ
指摘した「読大日本史私記」を書いたがため、日ごろ士清を快く思っていなかった幕府に格好の弾圧の口実を与えることになったからだといいます。幕府の圧力は、津藩を通して一気に強まり、士清は「他参留(たさんどめ)」(津藩領国からの出国禁止)、長男士逸(ことはや)は「所払い」(津領内への入国禁止)の処分を受けました。左の写真は、谷川士清旧宅の前にある士清の辞世の歌を説明したもの。「何故爾砕伎志身會登人問婆其禮等答牟日本玉之譬(なにゆえに 砕きしみぞと 人問はば それと答えむ やまとだましい)」。なぜそんなに(勉学に)努力するのですかと問われれば、私は日本玉霊(やまとだましい=神道、国学)を究めるためです、と答えるでしょう、という意味。
ところで、この谷川士清旧宅の辺りは、八町という地名です。藤堂高虎公が、津城下を拡張、整備した際、八町畷と呼ばれたところに町がつくられたことに因むといいます。伊賀街道に面したこの辺は、江戸店を持つ商人や、士清などの学者、文化人が住む、賑やかな町であったそうです。
谷川士清旧宅からら300m足らずのところに谷川神社があります。主祭神は、谷川士清と、古世子大明神。こ
こは、玉むしの森と呼ばれ、士清が日々祈念していた古世子明神がもともとあったところ。旧来の古世子大明神は、長保2(1000)年創祀と伝えられる由緒のある地です。谷川士清の功績を後世に伝える事を目的に、明治末頃から地元の有力者が中心になって、神社の創建を国に請願し、大正14(1925)年に創立許可され、昭和8(1933)年1月6日、士清の御霊代を鎮めて現在に至っています。その社殿は「石をこよなく好んだ」士清翁に因み1メートル程に積み上げられた石の上に建てられました。
境内には、谷川士清の「反古塚(ほごづか)」があります。士清が、晩年(安永4(1775)年)、自ら築き、建立の日から3日続けて玉虫が姿を現したことから「玉虫塚」の名もあります。後世に自分の説が誤って伝わることがないように、これまで自分が書いて不用になったメモや下書き(反古)を埋めたといわれています。碑陰には、士清の辞世の歌が刻まれています。市指定史跡。
谷川神社には、「遙拝所」もありました。皇紀二千六百年(昭和15(1940)年)に建てられています。この年は、神武天皇の即位から2,600年目に当たるとされ、全国的にさまざまな記念行事が行われました。南西の方角に建てられていますから、伊勢神宮の遙拝所で間違いありません。
谷川神社のすぐ隣に福蔵寺があります。臨済宗妙心寺派のお寺なのですが、ボランティア・ガイドの方によれ
ば、現在は無住で、檀家の数も少ないということでした。谷川家の菩提寺だったといいます。もとは、勅願寺で、寺域もかなり広大であったそうです。境内には、稲荷社や、初午堂もあるのですが、残念ながら、少し荒れてしまっています。
墓域内には士清と孫の士行(しこう)、父の義章の3人の墓があります。しかし、津藩から所払い処分を受けた長男士逸はありません。左の写真は、士清の墓。正面に「淡斎谷川士清之墓」
と、右側に「宝永己丑(1709年)二月廿六日生 安永丙申(1776年)十月十日終」、左側には「孝子士逸謹建」と刻まれています。国の史跡。士清は幼い頃から、このお寺で住職・浩天和尚に様々なことを学んだといいます。
谷川神社・福蔵寺を拝観し終えて、時刻は10時50分。次の目的地である國魂神社へ向かいます。伊賀街道を少し戻
って左折し、県道42号線に出て右折。東に向かい、スタートから2.2㎞で到着。こちらが、國魂神社。昔から「くにたまさん」「八王子さん」(はっちょいさん)「宮さん」といって、氏子の方々から親しまれました。國魂神社は天地造化の神、八柱の神を祀り、八王子社と稱し、延喜(901)以前にすでに存在していた非常に古い神社です。慶長13(1608)年、藤堂高虎公の城郭拡張の際、全村西に移され現在の地に鎮座し、宝暦9(1759)年、桃園天皇より神階正一位の勅額を賜っています。明治4(1871)年、八柱神社と改称、更に同41(1908)年3月國魂神社と改称され、同年9月に近在の村社八社、無格社及び境内社等27柱を合祀し、祭神35柱を奉斎することになりました。主祭神は、国狭槌尊(くにさづちのみこと;土地をつかさどる神)、豊斟渟尊(とよくもぬのみこと;天地の間に混沌としたものが雲のようにただようさまを神格化したもの)、泥土煮尊(ういじにのみこと;妹の沙土煮尊(すいじにのみこと)と男女一対の神で、宇比地は泥土、須比智は砂土で、土砂を神格化した神)、沙土煮尊(すいじにのみこと)、大戸道尊(おおとのじのみこと;女神・大苫辺尊(おおとまべのみこと)と対をなす。大戸は「大所」で、大地が凝固した時を神格化した神)、大戸邊尊(おおとのべのみこと;大戸道尊の妹。大地が完全に凝固した時を神格化したとする説があり、「道(地)」は男性、「邊(弁)」は女性の意味)、面足尊(おもだるのみこと;神から人への橋渡しとして、人体の完成を表わす神とする説、 整った容貌に対する畏怖を示すとする説、 神の言葉の神格化とする説、 あるいは、防塞守護の神とする説などいろいろ)、惶根尊(かしこねのみこと;面足尊とともに生まれた女神)のいわゆる「造化神」八柱。神様調べは、やはり難しいというのが、率直な感想。造化神というのは、今まではあまりお目にかかっていないと思います。
相殿神は、大国主尊、少毘古那尊、月読尊(つくよみのみこと;月の神。夜の食国(おすくに)の支配を命じられた)、建速須佐之男尊、天之忍穂耳命、天之菩卑命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須卑命、多紀理毘売命、市杵島毘売命、多岐都毘売命、志夫美宿禰(しのぶすくね;古事記にのみ登場する、開化天皇の孫)、仁徳天皇、大日霊貴命、豊受毘売命、稲倉魂命、応神天皇、日子穂穂出見命(ヒコホホデミノミコト;海幸山幸の神話で知られる山幸)、天児屋根命、菅原道真、大山祇命、速玉之男神、火具土神、罔象女神、八衢比古神、八衢比女神の27柱。神社検索三重のサイトからコピー&ペーストしました(笑)。自分で打ち込むのはとてもではありませんが、大変。検索も、ちょっとサボらせてもらって、初めて目にした(と思う)神様のみでご容赦いただきます。しかし、主祭神を含め、35柱の神様を奉祝するのも大変ではないかという気がします。拝殿は、平成8(1996)年に改築されています。
境内には、稲荷社がありました。由緒書きには、「本殿東側に伏見稲荷大社の御分霊を祀る稲荷社を拝し」とあるのみで、稲 荷社そのものの由緒は不明。さらに、由緒書きには、「西側に氏子地域内より寄せられた山の神石碑を祀る」とありましたが、これには気づきませんでした。鳥居をくぐって右手(東側)には、「神宮遙拝所」もあります。これは、大正9(1920)年11月に建てられています。
さらに、忠魂碑も境内にあります。これは、神社前に立てられていたものを昭和17(1942)年に移したものだといいます。戊辰戦争以降の300柱を祀る碑です(こちら)。大正9(1920)年10月建之。「元帥子爵 川村景明 書」とあります。川村景明(かわむらかげあき;嘉永3(1850)~大正15(1926)年)は、薩摩に生まれた陸軍軍人、華族。薩英戦争・戊辰戦争に従軍したのち、東京衛戍総督、鴨緑江軍司令官等を歴任しています。
その1は、ここ國魂神社まで。このあと、県道42号線をもう少し東に行き、左折。安濃川を新町大橋で渡って、三重県庁、津駅西方面に向かいます。次の目的地は、津偕楽公園。その2は、この偕楽公園から。
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