20190504近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅4日目~伊勢街道、旅人気分で伊勢平野の鈴鹿から海運で栄えた白子へ」(その2)……ようやく神戸城跡にたどり着き、常夜灯、矢椅神社、宇気比神社、いくつかの道標と山の神、正信寺から彌都加伎神社へ
5月4日の近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅4日目~伊勢街道、旅人気分で伊勢平野の鈴鹿から海運で栄えた白子へ」のその2です。その1では近鉄鈴鹿市駅をスタートして間もないところでコースミスをし、ウロウロしてしまいました。しかしそのお陰で龍光寺などにもお参りできましたから、まぁ良し。歩きに来ているのですから、余分に歩いても気にしません(笑)。神戸城跡がある神戸公園の入り口で正式なコースでは1㎞。時刻はほぼ10時半。
ようやく神戸城跡にたどり着きました。道に迷っていましたので、「たどり着いた」というのがまさに実感。江戸時代には神戸藩の藩庁が置かれていました。神戸氏4代の神戸具盛が天文年間(1532~1555年)に築城したのが始まりです。永禄11(1566)年の滝川一益の侵攻に和睦し、養子にうけいれた織田信長の三男神戸信孝により、より強固に修築されます。その後、城主は度々代わり、関ヶ原の戦い以降は一柳氏(ひとつやなぎうじ)が5万石で入りました。天領となった時期もありましたが、慶安3(1650)年には石川総長(いしかわふさなが)が1万石で当地に封じられ、さらに、享保17(1732)年には本多忠統(ほんだただむね)が2万石で封じられ、城を修築し入城し、これ以降明治維新まで、本多氏7代が居城として用いました。現在城の中心部は神戸公園となり、二の丸跡には、三重県立神戸高等学校が建てられています。
本丸には自然石をそのまま積み上げた野面積みの天守台があり、ここに神戸信孝により5重6階の天守が築かれました。北東に小天守と南西に付櫓がある複合連結式の天守であったといいます。しかし、天守は、文禄4(1595)年に解体され、桑名城に三重櫓として移築され、「神戸櫓」と呼ばれました。その後、江戸時代を通して、天守閣は造られませんでした。こういうエピソードがありますので、神戸城跡も、前から一度この目で見たかったところなのです。天守台跡で、早くも小休止。
余談気味ですが、桑名城跡には、このように「神戸櫓跡」があります。本丸跡の南西の隅。ここの案内板にも、上述のよう に、神戸城から天守閣を遷したとあります。この頃(文禄年間、1592~1596)、桑名の城主は一柳直盛。江戸時代になって、初代藩主・本多忠勝が城を拡張し、本格的な近世城郭を築いたときも、神戸城から遷した天守は櫓として残され、「神戸櫓」と呼ばれました。
天守台には明治9(1876)年10月に建立された「神戸城址天守臺碑」があります。本多家の初代城主本多忠統が「藩祖」とし統君したこと、神戸信孝が残した天守があったことなどが漢文で記されています。時間をかければ読めると思うのですが……。ちなみによそのブログで「神戸城址天守堂碑」としているものがありますが、「堂」ではなく「台」の旧字体「臺」だと思います。それに「天守堂」では意味をなさないような気がします。
話の順序が戻りますが、公園入り口には、「勤皇烈士 吉川治太夫 忠魂碑」がありました。吉川治太夫(文化6(1809)~文久3(1863)年)は、朱子学者・松崎慊堂(まつざきこうどう;明和8(1771)~天保15(1844)年)の弟子で、藩校教倫堂の教授にして、神戸藩の飛地であった河内長野の代官を勤めていました。尊皇思想を持っていた治太夫は、天誅組が挙兵すると金銭や食料を提供し、領内の庄屋吉年米蔵を天誅組に加わらせました。天誅組は、その後朝敵とされ、周辺諸藩に討伐されてしまいます。吉年米蔵はいったん捉えられたものの、治太夫の弁護で釈放され、親戚を頼って阿波へ向かいますが、再び捕えられます。米蔵の尋問において治太夫の関与も疑われ、治太夫は、岸和田藩より召還されました。しかし、岸和田への道中、自刃。神戸藩は吉川家を断絶させて、天誅組の変への藩の関与を否定。関与は治太夫の個人行動ということで、藩への御咎めはなくて済んだといいます(以上、こちらを参照)。
もう一つ、「○○先生の碑」と読める碑があったのですが、題字も本文もかなり風化してしまっていて現地でも読めませんでした。ネットであれこれ調べても、情報は出て来ませんので、お手上げ。お手上げなのにこれについて書いたのは、ひょっとしたら何かご存じの方がいらっしゃるかも知れないと思ったためです(微笑)。もしご存じのかたがいらしゃったら、ご教示ください。
城跡のことについてはまだまだ知識も経験も足らないのですが、土塁と思われるものもありました。土塁の跡の上も歩けると ころもあります。城跡の西から南にかけては、水堀があります。昔のものかどうかは分かりません。城の堀であれば、もっと幅が広い気もします。
このあと、神戸高校の南から東を回って、伊勢街道に戻りま す。伊勢街道に出たところに終南山善導寺がありました。浄土宗のお寺。山門を見たとき、ちょっとビックリしました。「まさか壊れているわけではないよな?」と失礼なことを思ってしまいました。鐘楼門の名残りのような簡素な山門です。このすぐ隣に真宗大谷派の浄願寺というお寺があったはずなのですが、しっかり確認せず、そのまま通過しました。
村瀬病院の所へ来ると、その向かいに割りと大きな常夜燈があります。 嘉永2(1849)年に建立した常夜燈が、明治18(1885)年の洪水により倒壊してしまったので、 それを惜しんだ地元地子町の人々が再建したもの。もとの常夜燈は、村瀬病院の西にある旧熊野権現跡の小公園に保管されているのですが、この日は見てきませんでした。小公園には常夜灯の上部が残っているといいます。また、 この公園には、「右いなふ道」「左志ろこ道」と刻まれた元禄2(1699)年の道標もあるそうです。
このあと、矢橋一丁目交差点で四日市鈴鹿環状線を越えて、矢椅神社(やぎじんじゃ)。主祭神は、大穴牟遅 神(おおなむちのかみ;大国主神の別名)。相殿神は、大山祇神。創祀については詳しくは分かりませんが、寛文2(1662)年の棟札に「八王子」とあり、また、「三国地志」にも「俗に八王子と称す」とあり、八王子社と呼ばれていたものと思われます。延喜式内社とされています。
さらに進み、2.8㎞ほどのところで、伊勢鉄道の高架をくぐります。伊勢鉄道・鈴鹿駅のすぐ南。線路をくぐったすぐ先に宇 気 比(うけひ)神社。主祭神は、天之忍穂耳命(アマノオシホミミノミコト;瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の父)。相殿神は、天津日子根命(あまつひこねのみこと;天照大神の子)、天之菩卑能命(アマノホヒノミコト;天照大神の子。天孫降臨に先立って、葦原の中つ国に遣わされたが、大国主命に味方して復命しなかった)、活津日子根命(いくつひこねのみこと;天の安の河で素戔嗚尊と天照大神が誓約を行なった際生まれた、五男神中の一神)、熊野久須毘命(クマノクスビノミコト;須佐之男命が天照大御神の持ち物である八尺勾玉を譲り受けて化生させた五柱の神の一柱で、天照大御神の物実から生まれたので天照大御神の子であるとされた)、多紀理毘売命(タキリビメノミコト;天照大神と素戔嗚尊との誓約のときに、素戔嗚尊の剣から生まれた三女神の一。福岡県の宗像大社の祭神で、沖津宮に鎮座するとされる)、市寸島比売命(イチキシマヒメノミコト;天照大神と素戔嗚尊との誓約の時に生まれた三女神の一。福岡県の宗像大社の辺津宮の祭神)、多岐津比売命(タギツヒメノミコト;天照大神と素戔嗚尊との誓約のときに、素戔嗚尊の剣から生まれた三女神の一。福岡県の宗像大社の祭神で、中津宮に鎮座するとされます)。
この宇気比神社の創祀、由緒については明らかでありません。「河芸郡史」「神戸平原地方郷 土史」などにも、旧名八王子 祠、由緒不詳と記されているのみだそうです。上右の写真では、八幡社の社号標も建っているのですが、神社検索三重のサイトでは言及されていませんし、祀られている神様にも八幡様はありません。東に別の鳥居がありますが、これが八幡社の鳥居でしょうか?
宇気比神社から道路を渡ってすぐの左手に山の神の鳥居と燈籠があります。伊勢街道では、この先、東玉垣町に入るあたりま での間に、ここを含めて4ヶ所の山の神が祀られています。山の神というと、あちこちで神社にたくさん合祀されているのを見ますが、この付近では、合祀せずにそのままお祀りしたということかと思います。そうしたからには何か理由があるのでしょうが、個人的にはこのあたりが水田地帯で豊作を願う気持ちがより強かったためかという気がします。右は、この山の神の先の伊勢街道。スタートから3㎞付近。11時15分頃。好天で暑いくらいでした。
さらに進むと、実測ルートマップはその2へ入ります。伊勢鉄道線を越え、国道23号線を肥田町交差点にある地下道で越えます。ずっと「旧伊勢街道」と描いてあるルートを辿っています。
3.1㎞あたり、伊勢街道がカーブしているところに道標と山の神が向かい合って建っていま す。道標は道の東側。ハッキリとは読めませんが、「右若松道 □□□□」とあります。若松は伊勢若松のことでしょう。山の神は、右の写真のようになっています。宇気比神社近くにあったのとよく似ており、鳥居の手前、向かって右に燈籠があります。
金沢川(かなさいがわ)と新川を渡って、ほぼ4㎞の所には、表忠碑と山の神があります。表忠碑は、玉垣地区が英霊280柱の ために建てたもの。表忠碑の手前に山の神。鳥居の奥に山の神の石碑、鳥居手前向かって左に燈籠。山の神の隣には、天白社がありましたが、それを知ったのはハイキング終了後。社といっても普通の建物のようなものがあったと記憶しています。
玉垣幼稚園、玉垣小学校の西を進んでいくと、伊勢街道は枡形になっています。突き当たったところに浄土真宗高田派のお 寺、正信寺があります。写真にはうまく写っていませんが、本堂の前に大きなクスノキがあります。 本堂は、大正3(1914)年に建立。
この正信寺のところが枡形になっていると書きました。お寺のちょうど角に道標が1つあります。文化4(1807)年の建立。丸い自然石に 「右さんぐう道」と刻まれています。左の写真で、伊勢街道は左手奥から来て、右手手前に進みます。男性は正信寺に向かって歩いておられます。
伊勢街道は、この先で国道23号線に突き当たり、西玉垣町交差点の手前で左折し、東へ。実は、この国道に突き当たるところにも道標があったのですが、見忘れてしまいました(苦笑)。元治2(1865)年に建立され、「左さんぐう道」と刻まれているものです。この道標の所から西に「地蔵大松」が見えたはずですが、これも失念。伊勢街道についてはガイドブックの類いが見当たらず、三重県がつくった「みえの歴史街道」のうち、伊勢街道のウォーキングマップを参考にしています。詳しいもので、参考になるのですが、文字が細かく、近眼&老眼の我が身にとっては見にくいのが難点。このあたりは、商業出版されたものの方がはるかに便利なのです。
それはさておき、5㎞のところに弥都加伎神社(みずかきじんじゃ)があります。近鉄ハイキングのパンフレットで見たとき、名前がカッコイイので、興味が湧いていたところ(笑)。時刻は11時50分近く。主祭神は、大土御祖神(おおつちみおやのかみ;土を司どる神)。相殿神は、埴安比売神(ハニヤスヒメノカミ;火之夜芸速男神を産んで死ぬ間際の伊邪那美命の大便から化生した二神のうちの一神。「ハニ」(埴)とは土のこと)、素盞嗚命、大山祇命、菅原道真、天忍穗耳命(アマノオシホミミノミコト)、天津日子根命(あまつひこねのみこと)、熊野久須毘命(クマノクスビノミコト)、多紀理比売命(タキリビメノミコト)、市寸島比売命、事比羅神(コトヒラノカミ?;大物主神のことで、大和の三輪山に鎮座する神、大国主命の協力者)、速玉之男命(はやたまのおのかみ;絶命して黄泉国へ去ったイザナミを連れ戻しにいったイザナギは、見ないでくれといわれたイザナミを見てしまい、妻と別れることになったのですが、その別れ際に唾を吐きました。その唾を吐く神をハヤタマノオと呼びます。唾を約束をかためる意につかっているようです)、奧津島比売命(オキツシマヒメノミコト;「沖の島」の「姫神」という意味。 古事記では多紀理毘売命の異名)、品陀和気命(ホンダワケノミコト;応神天皇)、大日霊命(オオヒルメノムチ;天照大神の異称)、狹依比売命(さよりひめのみこと;イチキシマヒメノミコトのこと)。旧村社。いらっしゃる神様は、重複があったり、いろいろでややこしい。神社検索三重のサイトでは、「特に土に携わる職業の方々の安全繁栄」に御神徳があるとされています。
天平13(741)年の創祀。山田原の土宮の御霊を海部村に勧請し、その後現地へ奉祭したとあります。「山田原の土宮」は、伊勢神宮の外宮の別宮である「土宮(つちのみや」と思います。土宮の説明には、「御祭神は大土乃御祖神。古くから山田原の鎮守の神でした」という記述があります。宝亀元(770)年、土之御祖神、埴安比売命を合祀。延喜5(905)年、社名を土宮から現名称へ変更していますが、それ以前には土御前とも呼ばれたといいます。陶器、左官、粘土、土木工事各業のほか、農民はもとより土に携わる職業の人達、また、豊受宮に糀を奉献したことにより酒、みそ等の職業の人達の多くの崇敬をあつめていたようです。慶長19(1614)年、造営。明治2(1869)年3月、明治天皇御東幸の途次、勅使が奉弊代拝しています。この地は玉垣御厨だったといいますから、伊勢神宮の領地であったということでしょう。
長くなりましたしキリが良いので、その2はここまで。それにしても、神社によっては多数の神様がいらっしゃり、調べるのはけっこう大変。神様の名前や、どういう神様かは多少は頭に入ってきましたが、なぜその神社にいらっしゃるのかはまだよく分からないところが多々あります。明治の合祀政策によって、いくつかの神社を合祀したことも影響しているのでしょう。隣接する地域に多く祀られているように思える神様もいらっしゃいます。その土地にどのような人々が住んだかや、どのような仕事に携わっていた人が多いのかなども影響しているのでしょう。まだまだ修行が必要と思いつつ、その3へ続きます。その3は、岸岡町にある菅原社から。
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