お知らせ

  • データの移行について
    2005年10月26日のブログ開始当初から、2024年11月30日までの記事は、「猫の欠伸研究室(アーカイブ)」に移行しました(http://blog.livedoor.jp/taichimaru151/)。 このココログの「猫の欠伸研究室」には、2019年1月以降の記事を残し、2018年12月以前の記事は削除しました(2019年1月1日から2024年11月30日までの記事は、両方にあります)。

レンズを通した自然観察

  • この「レンズを通した自然観察」ということばは、恩師のお一人が、私の趣味を形容しておっしゃったものです。2023年2月7日のブログに書きましたが、実はときどき思い出していることばです。お世話になった先生方はたくさんいらっしゃいますが、この恩師は、就職のことから学位論文の執筆、審査に至るまで本当にお世話になった先生です。「写真の撮り方を指南してもらいたい」ともおっしゃったのですが、これはお世辞と理解しています。私はほぼ隠居状態となって10年以上になりますが、今、改めてこのことばをかみしめています。この先生には結婚式の際に「理論と臨床をつなぐ仕事をするように」ということばをいただきました。体調を崩してそれには十分に応えられませんでしたので、せめてこの「レンズを通した自然観察」については、極めるとまでは行かないにしても、もう少し精進したいと考えています。

ブログ名の由来

  • ブログ名の「猫の欠伸研究室」は、中日新聞の夕刊に連載されている「紙つぶて」というコラム(平成22(2010)年1月13日)に、元新党さきがけ代表の武村正義さんが書いていらっしゃった「人生は猫の欠伸である」というコラムによります。武村さんは、“チベットで鳥葬を取り仕切る僧侶が、「人の生涯は猫の欠伸のようなもの」と語った”と書いていらっしゃいます。「猫の欠伸のようなもの研究室」としたかったのですが、ちょっと間延びしますので、「猫の欠伸研究室」とした次第です。「研究室」とつけたのは、過去、大学に勤めていたことがあるということやら、知らないこと、分からないことがあると何でも調べずにはいられない性分であること、屁理屈、講釈が大好きであることからであります。しかし、「人生の研究をしている」のではありません。「大所高所」からのご高説を開陳できるほどの力量はないが故、「小所低所」からの戯れ言をつぶやくのが精一杯(苦笑)。身の程に合わせ、勝手なことを書き綴っていますので、御用とお急ぎでない皆様には、今後ともご交誼のほど、お願いいたします。是非ともコメントを頂戴し、少しでも世間を広げたいと熱望しております。

モットー

  • 座右の銘というほど立派なものはありませんが、過去に体調を崩し、療養生活を送った経験から、私なりのモットーをつくっています。その一つは、「淡々と飽きもせず……」です。自分では、「……」と余韻を残しているところが気に入っています。こだわりすぎや、やり過ぎはよくありません。若い頃はムキになってやったこともありますが、今はこのように「淡々と飽きもせず……」が自分に合っていると思っています。もう一つは「晴耕雨読」ならぬ「晴歩雨読」です。マンション暮らし故、耕すところはありません。代わりに歩いています。そして、最近(令和3(2021)年に入った頃から)追加したのが、「散歩生活、ときどき仕事」。NHKのテレビ番組に「晴れ、ときどきファーム!」というものがあります。これのもじり。浅学非才の身ですので、ご交誼の上、いろいろとご教示をお願いします。

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2019年5月

2019年5月31日 (金)

M池公園にてコアジサシの求愛給餌

Img_7956c  「エッ?! こんなところに」と思ったのですが、コアジサシがカイツブリ用に浮かべてある発泡スチロールの上にいました。Img_9948c 珍しく30分以上も粘ってみていたら、右の写真のような求愛給餌のシーンを3度ほど目撃できました(微笑&喜)。久しぶりであります。今日は金曜日、なぜか分からないうちに「定例プチ遠征日」となっております。曇り空ではありましたが、長良川河口堰と、臨駐、某所、M池公園と回って来ました。冒頭の2枚の写真は、M池公園にて撮影。

Img_9951c  求愛給餌が成功すると、オスはこの写真のように、伸びをして胸を張るような動作をします。「どうだ!」というか、「やったぁ!」という感じもしますが、これはたぶん本能的な行動。遺伝プログラムに書かれているのだろうと思います。

Img_9815c  そのM池公園には、もちろんカイツブリを見に行ったのですが、コアジサシが合計4羽飛んでいたのです。最初にいたのは3羽、Img_9829c あとからもう1羽。オス3羽、メス1羽かと思っていたのですが、オス、メス2羽ずつだったかも知れませんし、途中で入れ替わりがあったかも知れません。しかし、しっかりと楽しめましたねぇ(微笑)。

Img_9812c  割りと大きな魚をゲットして、メスのところに急いでいたと思われるのですが、何と、次の写真を見たら、右のように落としてImg_9813c しまうという失態をおかすコアジサシも。弘法も筆の誤りというか、上手の手から水が漏るというか(苦笑)。慌てすぎたのでしょうか?

Img_9910c  もう1つ別の求愛給餌シーン。オレンジの球形の浮きの上で待つメス。そこへオスが、小魚を運んで来ました。どうするのだろImg_9911c うとみていたら、オスの方は着地せず、「空中求愛給餌」。メスに小魚を渡したら、そのまま向かって左の方へと飛び去って行きました。

Img_9971c  さらに失敗シーン。こちらは、最初の2枚の写真の発泡スチロール。向かって左はそれと同じメス。間隙を突いて、別のオスがImg_7963c 小魚を咥えて求愛に訪れたのですが、メスはそっぽを向いて相手にせず(苦笑)。オスはしばらくウロウロした挙げ句、結局は、自分で食べてしまいました。その後も未練たらしく、同じ発泡スチロールの上にいましたが、メスからは視線も合わせてもらえませんでした。チョンチョン。

 

Img_7905c  さて、ついでにM池公園の様子。カイツブリは合計12羽。営巣している巣は6ヶ所。卵はあると思われますが、ヒナはまだのImg_9748c ようです。そして、M池の西を歩いているとき、北から南に向かってゴイサギが1羽通過。いきなりでちょっとビックリ。

Img_9787c  オオヨシキリは、蓮田にも、元・花菖蒲園の周りにもいました。近寄ると逃げますので、なかなかよい写真は撮れません。またチャレンジしましょう。

Img_9661c  話を戻して、長良川河口堰。今日は、サギはゼロ。まったくいませんでした。カワウは小数。Img_7840c 他に目だったのはハクセキレイのみ。合計6羽ほど。アユのぼりも心なしか、元気なし(苦笑)。「まぁ、こういうこともある」とは思ったものの、ちょっとガッカリ。コチドリの鳴き声はしたものの、写真には撮れず。カルガモが1羽飛んできたくらい。

Img_9684c  西の親水広場まで往復して、東側の魚道まで戻って来て、しばらく待っていたら、9時半を過ぎる頃からコアジサシが3羽ほど登場。しかし、いかんせん遠い。早々に撤退し、臨駐へ。

Img_9692c  その臨駐、念のためと思って立ち寄ったところ、今日は、オスのヒバリが1羽のみ。ケリ、コアジサシ、コチドリの姿はやはりありませんでした。今年は諦めた方がよいかも知れません。

Img_7873c  そして、某所へ。コアジサシのミニ営巣地。今日も10数羽がいるのを確認できて、一安心。ひらいさん情報では、コチドリもImg_7880c いるということでしたが、前回は確認できず(2019年5月26日:河口堰と某所へ臨時プチ遠征(微笑)……コアジサシのダイビングなど)。今日も肉眼では気づかなかったのですが、帰宅してパソコンで見たら、写っていました(苦笑)。まぁ、よくあることですが……。コチドリも巣に就いているように見えます。コアジサシも、コチドリも無事に子育てをしてもらいたいと願っています。

Img_7933c  週末、6月2日の日曜に、近鉄ハイキングに行こうかと思案中。「斎王まつり 日本遺産斎宮散策と王朝絵巻「斎王群行」」です。斎宮には一度行きたいと思っていましたし、斎王まつりはけっこう絢爛豪華のようですし。斎宮は、松阪から少し伊勢寄りのところ。左の写真は、M池公園で咲き始めたアジサイ。

2019年5月30日 (木)

好天なれど鳥は少なし……メダカ水槽にヒメタニシを試験導入

Img_7814c  25.5℃とさほど気温も上がらず、風もあって気持ちの良い日となりました。朝、あれこれと用事をしていたら、散歩に出るのがいつもより1時間遅れ、9時20分にスタート。ちょっと遅いので、余計に鳥はいません。いつも通り、住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀南公園、京町、寺町、田町と5.6㎞を歩いてきました。

 

Img_7785c_2  九華公園では、花菖蒲がかなり咲いてきました。左は、管理事務所の南、奥平屋敷跡への入り口にある菖蒲園。それなりに見らImg_9587c れる景色になっています。ここには、私の好きな原種の野花菖蒲がありますが、それも3~4輪咲いてました。アップにしたら、花がちょっと傷んでいましたが、ご容赦ください。品種改良したものものよいのですが、やはりこの野花菖蒲がベストと思いいます。

 

Img_7788c

 こちらは、奥平屋敷跡にある花菖蒲園。ここは、品種ごとではなく、ランダムに植えられています。ボチボチと咲いて来ていまImg_7791c す。これら2ヶ所は、月が変わると見頃になるかなと思います(あくまでも個人的な、勝手な予測です)。それに対して、右の写真にあるように、本丸跡の花菖蒲園は、ちょっと貧弱なまま。花菖蒲自体の生育がよくありません。一部で咲いてはいますが、背丈が低い状態。手前(東側)は、雑草に負けそうな感じ。手入れの順番で行くと、今年はここの土の入れ替えなどが行われるはずでしたが、管理業者さんも、造園業者さんも変わってしまい、その辺りの連携が取れていません。ちなみに、今日は、ツツジの選定作業と、管理事務所の南の花菖蒲園の手入れが行われていましたが、昨年度までとは違った業者さんが来ていました。

Img_9592c_2  時間が遅かったせいもあって、野鳥はほとんどいません。いたとしても、スズメ、ドバト、カラス、ムクドリ、シジュウカImg_9609c ラ、ハクセキレイくらい。写真も、「鳥がいました」というようなものしか撮れず、残念。右のシジュウカラは、幼鳥と思いますが、警戒心がまだ薄いのか目の前に来たのにこんな写真しか撮れませんでした。貝塚公園も、このところ、モズの幼鳥の姿が見られなくなりました。

Img_9623c_2  ツバメの巣も巡回してきました。京町のあるお宅で雛が誕生していました(呉服屋さんとは別)。ここでは3羽はいるのを確Img_9617c_2 認。右の写真は、桑名市博物館の玄関先の巣。5羽がかなり成長して、巣が窮屈になった感じです。親鳥はせっせとエサを運んで来ています。

Img_7805c  田町の商店の巣のツバメのヒナも大きくなり、親と同じくらいの感じ。親がエサを運んでくると、盛大にアピール合戦。向かって右のヒナがエサをもらっていました。

Img_7827c  ところで、記事というより、自分のための記録です。4年前、ブロ友のこころんさんにいただいて以来、メダカを飼っていまImg_7829c す。初夏になると、水を替えても1週間もすると、緑色になってしまいます。100均で買った食品保存容器4つと、プラスティック製の睡蓮鉢1つがありますが、食品保存容器の方は、ご覧の通り(ちょうど1週間前に水を替えました。ヒメタニシを入れると水をきれいにしてくれると伺いました。

Img_7817c  Amazonなどでも売っていますが、息子が家内の実家に置いている水槽にヒメタニシがいますので、今日、10個ほど持ってきて、入れてみることにしました。取り敢えず、上の2枚の写真の容器に夕方入れてみました。これで様子を見て、良さそうであれば、本格的に導入しようと考えています。

2019年5月29日 (水)

20190525近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅5日目~伊勢街道旅人気分で伊勢湾沿いの白子から河芸へ」(その3)……河芸の伊勢街道を歩き、弘法井戸、伊勢上野城跡、道路元標跡を見て、近鉄・豊津上野駅にゴール(完)

20190525kintetsuhikingshiroko4 5月25日の近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅5日目~伊勢街道旅人気分で伊勢湾沿いの白子から河芸へ」もその3となり20190525kintetsuhikingshiroko5 ました。その2で鈴鹿市から津市に入り、千里を歩いてきました。上野に入って田中地蔵堂までがその2で見たところ。その2の終わりにも書きましたが、上野は伊勢街道の宿場だったそうです。

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 津市河芸町上野あたりの伊勢街道の様子。道幅はさほど広くなく、あちこちに連子格子が残っており、昔の風情を感じさせまImg_7372c す。右の写真にあるお宅の2階の窓、何となく虫籠窓(むしこまど;目の細かい縦の格子が等間隔に並ぶ虫籠格子(むしこごうし)をつけた窓)かなと思わせます。

Img_7374c  8.2㎞の手前に上野公民館があります。公民館の前に「上ノ宿~伊勢街道~」という案内板があります。それによれば、上ノ宿Img_7376c は、上野藩主・分部光嘉(わけべみつよし)が城下町として整備した約2㎞にわたる町並みです。元和5(1619)年に分部氏が近江国大溝(現在の滋賀県高島市)へ転封になり、上野城は廃城となりますが、その後も伊勢街道の宿場として発展したといいます。家数300余軒、本陣・脇本陣・問屋・御七里(?七里飛脚か?)があり、宿も27軒を超え、妓楼も7~8軒ありました。宿内の街道は防衛のためヶ所で屈折しており、道幅は9尺だったそうです。

Img_7381c  上野公民館のすぐ先、西側には上野神社の石柱と、鳥居があります。上野神社は、今年2月8日の近鉄ハイキングで訪ねました(20190202近鉄ハイキング「名所・旧跡めぐり お江の里と海の幸」へ(その1)……千里駅をスタートし、上野神社、円光寺へ)。創始年代は不詳ですが、伊勢の国司・北畠氏の祈願社として奉祀されたと伝えられていまする(建徳2(1371)年という説があります)。主祭神は、誉田別尊(ほむたわけのみこと;応神天皇)。ここから200mほど登っていくと上野神社があります。向かって左にはお寺が写っています。ここは、真宗高田派の最勝寺。明応2(1493)年の創建とされます。境内には伊勢上野城にあった地蔵を延命地蔵として安置しているそうです。

Img_7405c_1  上野神社の鳥居から300mほどのところ、東側に弘法井戸。石造の弘法大師を祭る御堂の前に井戸家形があり、中は深さ2mImg_7389c_1 ほどの貯水槽になっていて、清水を湛えています。弘法大師のお告げにより井戸を掘ったという伝説は全国各地にありますが、弘法大師の時代にはまだ伊勢街道はありませんでした。大師伝説とこの清水を結び付けて弘法井戸と名付けたと思われます。付近の家々で井戸講を組織し、清掃管理や法要を営んでいます。伊勢街道が出来て、多くの人が通るようになり井戸の水が旅人に利用されるようになり、この大師堂も出来たものと思われます。

Img_7391c  左の写真は、貯水槽。水がたたえられていました。井戸家形内部には、由来が書かImg_7401c れています。昔、上野村を通りかかった旅の高僧(弘法大師)が一軒の農家に立ち寄り、水を所望しました。その家の人が、このあたりは赤水しかでないので、きれいな水を遠くまで汲みに行き、差し上げたところ、大師は大変喜ばれ、「さぞ日々の飲み水に困っている事でしょう。ここを掘ってみなさい」と錫杖でお指しになったところを掘ると、清水があふれ出たというのです。それを村人が「弘法井戸」と称して大切に使ってきました。伊勢街道を旅する人々も立ち寄り、この水で疲れを癒やしたといいます。昭和35(1960)年、町営上水道が開設されるまでは生活用水として重要な役割を果たしてきました。

Img_7407c  弘法井戸のすぐ先、枡形だったかなと思う角のところに「道路改修記念碑」があります。伊勢上野城跡へ上る細い道の手前でImg_7420c す。この伊勢街道・上野宿には戦国時代、戦術上3ヶ所の枡形がありました。道幅が狭く、直角に曲がっているため、時々人馬が衝突したので、有志が北角の家を購入し、道路を拡幅したときの記念碑だそうです。確かにここはクランクではなく、カーブが緩やかになっていました。記念碑は風化してしまい、読めません。

 このあたりは、上野宿の中心だったようで、近くには丸屋本陣跡、問屋跡(荒井屋)、武家屋敷跡などもあったといいます(こちら)。しかし、事前の調べが及ばず(そもそも上野が宿場町ということを意識していませんでした……苦笑)。

Img_7421c  スタートから8.6㎞地点、時刻は12時10分を過ぎた頃、やっと伊勢上野城跡への登り道に入ります。民家の前の細い道で、Img_7422c 「ホントにここから登るの?」と思いつつ、目の前には以前来た記憶のある山。途中、日蓮宗の妙見堂がありました。が、この先の坂道に意識が集中しており、写真を撮っただけで通過してきてしまいました。ネットで検索しても情報は出て来ません(このフレーズ、何度も書いていますが、懲りていないということです……笑。人はそうそう変われないということを自ら実証中で、我ながら笑うしかありません)。

Img_7424c_1  それはさておき、左の写真のようなところを通り(この道でホントに伊勢上野城跡へ出られるのか? と思い2Img_7427c_1 つつ)、200m弱進むと、見覚えのある景色が見えてきました。今年2月にもここ伊勢上野城跡に来ているからです(2019年2月11日:20190202近鉄ハイキング「名所・旧跡めぐり お江の里と海の幸」へ(その2)……伊勢上野城跡、光勝寺から八雲神社でお祓いを受ける)。

Img_7432c_1  右上の写真から少し登ると、本丸跡とされるところに出ます。ここが伊勢上野城跡。2月のときは、伊勢街道ではなく、もう1本北側の道から入りました。織田信長の弟、信包702682be が、津城の仮城として元亀元(1570)年に改修築城したのが伊勢上野城。浅井長政が信長に攻められ自害した後、長政に嫁いでいたお市の方と、その娘の三姉妹(茶々(豊臣秀吉側室)、(京極高次正室)、(徳川秀忠継室))が移り住んだとされるお城です(地元の方には恐縮ながら、近年の研究によると、当初、お市の方と三姉妹を保護したのは信包ではなく、信長、信包、お市達の叔父である織田信次であることが明らかとなっており、上野城に滞在していたとされるのは誤りで、守山城(尾張国)で過ごしていたのが正しいとする説もあります(こちら)。地元では、「ゴーちゃん」というキャラクターもつくられています(写真は、津商工会議所のサイトからお借りしました)が……)。その後、廃城となり、後に津藩主・藤堂高虎により取り壊され、現在は城郭の跡のみ残っています。

Img_7447c  標高38mの伊勢街道沿いの台地にあり、伊勢湾や鈴鹿連峰が一望できます(ということになっています)。展望台にある資料Img_7451c_1 室は、日曜のみ開館ということで、今日は見られず残念。展望台3階までは登ってきましたが、木々が生い茂ってしまい、眺めは今ひとつ。伊勢上野城跡は、2月のハイキングの記事をご覧いただければ幸い。

Img_7439c_1  伊勢上野城跡に着いたのが、12時15分でした。ここまで来れば、ゴールも見えてきますので、昼ご飯にすることに。例によって、駅ナカファミマ弁当。代わり映えしません(苦笑)。ただし、今日は、「明太海苔弁当(税込¥430)」。年齢を考えれば、もうちょっとヘルシーな弁当にしないといけませんが……。展望台が見える木陰のベンチで弁当タイム。ここはたぶん本丸の跡の端っこ。目の前に広い空間と森の緑、よく晴れた青空が広がって、気持ちの良いところ。弁当を食べ、しばらく休んで、12時35分に再スタート。

 

Img_7476c  伊勢上野城跡の北から西を回って、再び伊勢街道に出ます。コースとしては、伊勢街道に出て右折し、西に向かうのですが、Img_7483c コースマップに「道路元標跡」があるとありました。これも見なくてはなりません。100m足らず、戻って見てきました。それが、左の写真。上野村の道路元標があったところ。ここの道路元標は木製で、現物は損傷が激しいので、河芸中央公民館に保管されています(河芸中央公民館は、三重K-ABCアセスメント研究会でたびたび行っていますが、まったく気づきませんでした。今度行ったらきちんと確認してきます)。本体は木製の四角柱、頂上部は銅板製だそうです(こちらにその写真があります)。正面に「白子町へ壱里参拾壱町九間上野村」、右側面に「距津市元標弐里拾六町四拾参間」、左側面に「距伊勢国桑名郡長島村管轄境拾壱里拾六丁四拾五間(一九一三)」、裏面に「大正二年三月三重県」と彫ってあるといいます。道路元標は、県内の各市町村の中心となる場所に県が建てたもので、昔の人々が旅をする目安となる里程を示したものです。神戸で見た道路元標にも、長島村管轄境までの距離が示してありました。県境までの距離も示すことになっているのかも知れません。

Img_7491c_1  これでこの日のハイキングで見るべきところはすべてクリアしました。左の写真はスタートからほぼ10㎞地点。今回の伊勢街Img_7504c_1 道歩きはここまで。ここで左折して、ゴールの近鉄名古屋線・豊津上野駅に向かいます。国道23号線を越えていきます(この日何度目でしょう?)。イオンタウン津河芸の南を通り、近鉄名古屋線の踏切を渡ったところに、豊津上野駅。スタートから10.4㎞、ゴール時刻は12時53分。暑い中、よく歩いてきました(自画自賛)。600ml入りのお茶のペットボトルを飲み干しました。

Img_7507c_1  今日もまた、無事に踏破記念マグネットをいただきました。デザインは、甕釜冠(かめかまかぶり)地蔵堂。これで、Img_7527c 初回から5個連続でゲット。この調子で12回シリーズの伊勢参り、最後までこぎ着けたいと思っています。次回は、9月の予定。あみま倶楽部のスタンプも19個目。20個目目前。去年は1年かかって20個でしたから、かなりのハイペース。豊津上野駅を12時56分に出る四日市行き普通電車に乗れました。白子に13時5分に着いて、13時11分発の名古屋行き急行に乗り換え。桑名には13時40分着。¥620。

Img_7530c_1  Alkooのデータは、こちら。歩数は、22,189歩でした(生活リズム計では、20,462歩)。10㎞あまりを歩きましたので、これは妥当。距離は、17.0㎞。こちらはいつものことながら、過大評価。

今日も雨は降らず(微笑)……江戸橋での仕事の日でした

Dscn1100c  水曜日、江戸橋での仕事の日。雨は昨夜半には上がりました(微笑)。好天ではありませんでしたが、これで4週連続で雨には降られずに済みました。しかし、この地方は6月8日か9日頃には、例年梅雨入りですから、これからは油断ができません。授業はかなり遅れ気味でしたが、今日は相当スピードアップして、回復しました。出席票に書かれたコメント、質問を読むと、学生諸君も何とか付いてきてくれたようです。

Dscn1110c  さて、非常勤先の講師控え室の軒先にツバメの巣がありますが、ここには今年はツバメは来ていません。前にも一度書いたと思Dscn1108c いますが、去年、ヒナが落下するというアクシデントがあったためかと思います。その代わり、校舎棟の2階に新たに巣をつくっているということを助手の先生から伺ったのですが、先週見ようと思ったら、「最近来ていません」ということでちょっとガッカリ。しかし、今日は、「また時々来て、巣をつくっているようです。新しい泥がついています」というお話しで、見てきました。確かに巣作りが現在進行形と思われました。右の写真で赤丸をつけたあたり。今日は余計な刺激を与えないようにと、校舎の中からそっと見てきました。助手の先生、私の悪影響(笑)を受けて、興味をお持ちなのです。

Dscn1111c  非常勤に出かけて、帰ってからは出欠チェックと、出席票に書かれたコメント、質問をチェックして、Q&Aを書いていますのDscn1114c で、これといって何もありません。が、今日は非常勤先から江戸橋駅まで歩く途中でこんなものを見つけました。「カラスいけいけ」と書いてありますが、カラスが生ゴミを突くのを防止するネットボックスだそうです。リンク先に情報がありますが、いろいろのタイプがあるようです。ここで見たのは、「カラスいけいけ」の大タイプのようです。¥36,800。これでカラスの被害が防ぐことができれば、安いものかも知れません。

Dscn1115c  相変わらずまとまりのない話を垂れ流していますが、帰りの電車で四日市市楠町あたりで、今年も(去年も見たということですが)「田んぼアート」が行われていました。近鉄名古屋線・北楠駅の北あたりです。去年は6月の終わりになって気づきました(2018年6月27日:梅雨空はどこへ?)。6月20日の往きに気づいたものの、帰りにはすっかり失念し、この日に写真を撮ってきたという次第。去年は、四日市のゆるキャラ・こにゅうどうくんがモチーフでしたが、今年は何でしょう? こういうことや、水田にサギが見られるのが、通勤のささやかな楽しみです。

2019年5月28日 (火)

20190525近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅5日目~伊勢街道旅人気分で伊勢湾沿いの白子から河芸へ」(その2)……道標3基、楳荘翁碑、村社八幡社、甕釜冠地蔵堂、本福寺、尾前神社石碑、丹羽君碑、田中地蔵堂

20190525kintetsuhikingshiroko2  その1では、白子の子安観音寺まで来ました。着いたのは10時半、スタートから2.7㎞。子安観音寺は、近鉄・鼓ヶ浦駅のほど近Isekaidou く。これでもう1駅分歩いてきたことになります。このあたりの伊勢街道、「みえの歴史街道」に2本のルートが書いてあります。1本はこのハイキングで歩いたもの、もう1本は鈴鹿市伝統産業会館から戻ってそのまま直進して、堀切川方面に向かうルートです(右の図参照)。この日は、右の「みえの歴史街道」にある「このあたりは道が狭い」と注記されているところを通りました。

Img_7190c  子安観音寺をで少し進んだあたりの伊勢街道。「みえの歴史街道」に注記されている通り、かなり細くなり、これが伊勢街道か? と思うくらい。実測ルートマップに描いたように、子安観音寺の先で直角に2度、曲がります。ここにそれぞれ道標があります。

Img_7192c_1  まず最初の角にあるのがこちら。金属製の枠が填められ、しかも傾いてしまっています。左の写真は、子安観音寺から歩いてきImg_7196c_1 た、北側から撮ったもの。右の写真は、南側からのもの。北から見ると、「左くわんおん道」「右さんくう道」と刻まれています。「くわんおん」は、子安観音寺。「さんくう道」は伊勢街道(参宮街道ともいいます)。弘化4(1847)年に建てられたもの。

Img_7200c_2  さらにそのすぐ先、民家の前にも道標があります。こちらはかなり小さいもの。「左いせみち」「右くわんおん道」と刻まれています。Img_7203c_1頂上部分と北面にすり減ったくぼみがありますが、これは、伊勢型紙を彫るのに使う砥石をならした跡といわれています。西面は電柱と接触していますので、不明。これら2基の道標は、いずれもい伊勢参宮と、子安観音寺参詣のための道標。

Img_7209c_1  道標の先も細い道を歩いて、堀切川方面へ向かいます。コースには指定されていませんが、伊勢街道をわずかに戻ったところに「楳荘翁碑」があります。これも以前の近鉄ハイキングで見ましたので、ちょっと確認してきました。「楳荘翁」とは、儒者・別府梅荘翁の碑です。別府梅荘は、文政10(1827)年、河芸郡上野村(現在の津市河芸町上野)に生まれました。ここ寺家(鈴鹿市寺家)の住人で若い頃から絵をよくし、生け花や煎茶にも優れたそうです。明治28(1895)年、京都で没。門人らが明治29(1896)年12月、この碑を建てています。碑の撰は、富岡鉄斎の筆によります。

Img_7215c_1  この先、堀切川にかかる逢来橋の北側の袂にはもう一つ道標があります。西面に「右いせみち」と刻まれています。しかし、Img_7218c その他には何も刻まれていないようで、詳細は不明。左の写真で道標の手前にあるのは、「鼓ヶ浦」と刻まれた石碑。このあたりの東(鈴鹿市伝統産業会館の南あたり)は、鼓ヶ浦海岸で、海水浴場などもあるところ。

Img_7231c  堀切川に突き当たって、伊勢街道は右折し、西に向かいます。近鉄名古屋線の踏切を渡り、またすぐに国道23Img_7234c 号線を越えます(地下通路)。国道23号線の橋で堀切川を渡って、磯山地区に入り、スタートから4㎞地点を通過。国道23号線は家内の実家に行くときに通る道。このあたり、ドンキホーテや、スーパーマーケットがあり、馴染みの光景を見ながら進むのですが、しばらく立ち寄るところはありません。

20190525kintetsuhikingshiroko3  実測ルートマップは、その3に入ってきます。近鉄磯山駅の西あたり、スタートから5㎞の手前で村社八幡社に立ち寄ります。Img_7243c_1 主祭神は、誉田別尊(ほむたわけのみこと;応神天皇)、金山毘古尊(かなやまびこのみこと;鉱山の神)、素戔之男命(すさのおのみこと)、菅原道真大山祇之命(おおやまつみのみこと;山の神)。当社の創祀は不詳ですが、社伝によれば正安元(1299)年に社が創建されたとされているそうです。

Img_7253c_3  太田忠左衛門という人の先祖が、御神体を字六人彫りの堀切川下流から背おって来て、安置したと伝わります。その時、獅子Img_7256c も一緒だったそうですが、忠左衛門の枕元に現れ「別保へ連れてって」というので、隣村の神社へ連れていったためこの神社には獅子がいないといいます。確かに狛犬というか、獅子はありませんでした(左の写真、上右の写真をご覧ください)。境内にある木、2本の根元には、右の写真のように赤い、小さな鳥居が置かれていましたが、これについては不明。ずいぶん暑くなってきましたので、ここの境内の木陰で小休止させてもらいました。時刻は、11時10分。

Img_7289c  鈴鹿市磯山から津市河芸町に入る直前で、また国道23号線を渡り、東側へ。中ノ川を越えると、津市河芸町にImg_7296c 入ります。東千里交差点まで、国道23号線を歩き、近鉄名古屋線の踏切を渡ります。ちょうど名古屋行きのアーバンライナーが通過。細い川を越えますが、その橋の名前が「瓶冠橋」。これから行く、「甕釜冠地蔵堂」の名にちなむのでしょう。

Img_7313c_1  こちらが次の目的地である「甕釜冠(かめかまかぶり)地蔵堂」です。この地蔵堂には、珍しいものがあります。この堂はもImg_7303c_2 と光明院といって伊勢参宮の旅人の休憩所で、旅の無事安穏を祈願した場所でした。宝形造りの仏堂の屋根の上には、露盤(仏塔の相輪のいちばん下にある四角い盤)と宝珠(塔の相輪の一部で、水煙の上にのせる飾り)を置くのが普通ですが(このあと訪ねた田中地蔵堂の写真と比べていただければよく分かります)、この堂は炊事用の釜と水甕が伏せてあり、これが堂の名前の由来となっています。なぜこのような変わった建築をしたのか理由について諸説があり、確かなことはわかりません。いや、本当に珍しいものを見ました。

Junreimichi  ここはまた、巡礼道との分岐点になります。左の画像は、「みえの歴史街道」の「伊勢街道」該当部分。しかしこの「巡礼道」が調べてもよく分かりません。「みえの歴史街道」にある伊勢街道のマップをずっと見ていくと、巡礼道は伊勢街道の東側を通り、栗真町屋で伊勢街道に合流しています。この道を「古伊勢街道」としているところもありますが、そうかも知れません。

 

20190525kintetsuhikingshiroko4  甕釜冠地蔵堂を過ぎると、実測ルートマップはそのになります。時刻は11時半を過ぎており、本当に暑くなってきました。立ち寄る場所があまりないと、余計に暑く感じますし、たくさん歩いているような気がします。ペットボトルのお茶はどんどん減っていきます(笑)。

Img_7318c  甕釜冠地蔵堂からImg_7323c 300mほどのところに「真宗大谷派 八葉山本福寺」という石柱が立っています。真宗大谷派といえば、我が家の宗派。これは訪ねてみないといけません。道から奥まった境内に入っていくと、「親鸞上人御?跡」という石柱が建っています。西面には「八葉山本福寺」と刻まれています。碑陰には、「文化○○」とあるのですが、読めませんでした。文化年間(1804~1817年)に建てられたということかと思います。ネットでは情報は得られませんでした。

Img_7329c  ここ本福寺は、親鸞の弟子だった西念房が創建したといいます。西念房(1182〜1291年)は、親鸞聖人の直弟子の一人。6歳の時、父(信州高井郡井上城主・井上五郎盛長)が討死し、一門の多くが出家しました。井上三郎貞親は越後で親鸞聖人の教えを受け、西念房という法名を授かり、その後、親鸞聖人に従って関東に入り、生涯聖人を思いながら念仏をひろめたといいます(こちらを参照しました)。境内には、案内板などはなく、詳しいことは分からず、ちょっと残念。

Img_7331c_1  本福寺から100mほどのところ、東側に尾前神社石碑。尾前(おざき)神社は、この碑から東に200mほど入らねばなりませImg_7336c_1 んでしたので立ち寄ってはいません。雨乞いのかんこ踊りが行われていたそうです。さらにその先には、「丹羽君碑」(右の写真)。この辺りには、江戸時代に紀州藩白子の大庄屋だった丹羽家があり、円応寺組十五か村の大庄屋を務め、また、兄弟で廻船問屋を営み、五十人同心として港を差配していたといいます。この碑は丹羽家何代目かの主を顕彰したもののようですが、碑文も風化して読めず、不明です。

Img_7345c  スタートから7㎞で近鉄千里駅のところへやって来ます。道は二股になっていますが、伊勢街道は右折し、千里駅の北で近鉄名Img_7346c 古屋線を渡り、さらにまたまた国道23号線を越えます。この日は、何度も近鉄名古屋線と国道23号線を越えます。

Img_7353c_1  津市河芸町上野に入ってすぐ、道の西側に田中地蔵堂。民家の間に立っていますが、由緒などは不明。近くを流れる川が田中川であるための名前かという気がします。このお堂の屋根はごく普通のもの。甕釜冠地蔵堂のそれが珍しいものであることが納得していただけると思います。

 その2はここまで。その3では、いよいよ津市河芸町上野の町へと進みます。今まで知らなかったのですが、上野は伊勢街道の宿場町だったそうです。それも少し調べてと思っています。

桑名市博物館にて「改元記念企画展『元号と宸筆』」を見る

Dscn1091c  朝から雨になりました。夜には強く降るという予報です。明日の仕事の準備を済ませ、今日は、桑名市博物館へ行ってきました。とはいえ、ツバメの巣を見に行ったのではなく、現在開催されている「改元記念企画展『元号と宸筆』」をみたいと思って、です。「宸筆」は「しんぴつ」と読み、天皇の直筆を意味します。この展覧会は、タイトル通り、令和への改元を記念して、江戸期の改元に関する史料など、元号にまつわる作品や宸筆が90点あまり出ています。「晴歩雨読」のモットーですので、午前中から雨が降ったら出かけようと考えていたのです。案外というと失礼ですが、賑わっていました。「雨だから博物館にでも行こう」と考えた方は多いのかも知れません。6月30日(日)まで。月曜休館。高校生以上は、入場料¥150。

Gengoutoshinpitsu1c  出品リストは、こちら。いただいたものをスキャナで取り込みました。明治時代以前は、吉兆や災害などがあると、改元はよGengoutoshinpitsu2c く行われていました。江戸時代には、菅原道真公の子孫にあたる有識者たちが、それぞれ複数の元号案を提出し、朝廷の上級貴族がそこから絞り込みを行い、天皇の意見を付けて幕府に呈示し、調整された上で決められていたといいます。学校法人立命館が所蔵する「徳大寺文書」14点にそれらがあります。儒者の唐橋在庸(からはしありのぶ、1656~90;少納言、文章博士、大学頭)は、生涯で2回元号制定に関わり、「天和」は1681年の「延宝」からの改元のときに採用されたほか、「明治」「宝永」「明和」「安永」などが後に採用されるに至っています。選考の事前審査に関わると思われる資料も出ています。候補の音の響きが悪いとか、「安」が下にあるとよくないことが起こるといった否定的意見が書かれた資料もあります。このほか、元号に関わる古文書、美術品、天皇の宸筆もあり、興味深く見られました。

Dscn1084c  ところで展示品は撮影禁止なのですが、桑名市博物館では、いつもエントランスに1品だけ、撮影可能なものが展示されていまDscn1086c す。今回は、桑名の刀工・三品廣房(みしなひろふさ)父子の合作刀です。廃刀令(明治9(1876)年)が出されたあと、明治13(1980)年につくられたもの。説明によれば、廃刀令は、実際には「帯刀禁止令」というものだったそうですが、武士の特権が消失したことを可視化したことは間違いないということです。刀銘は、「伊勢国義朋斎三品廣房作七十二才/明治十三辰九月日 二代目三品廣房作」。

Dscn1098c

 展覧会を見終わってからはもちろん、ツバメの巣を見てきました。が、博物館から出て来たときには、けっこう本降りで、うまい具合に写真が撮れませんでした(苦笑)。明日は江戸橋での仕事。雨は未明で上がるという予報(微笑)。

2019年5月27日 (月)

20190525近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅5日目~伊勢街道旅人気分で伊勢湾沿いの白子から河芸へ」(その1)……伊勢型紙資料館、大徳屋長久さんで早くも土産を買い、久留真神社、道標、目付役所跡、鈴鹿市伝統産業会館、西方寺で山口誓子句碑を見て、子安観音寺へ

Img_7076c_1  5月25日に出かけた近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅5日目~伊勢街道旅人気分で伊勢湾沿いの白子から河芸へ」の本編、その1です。この日は、30℃を超える暑い中、伊勢参りツアーの第5回目に参加したのですが、桑名では31.3℃。絶好の(?)行楽日和です。受付は、近鉄名古屋線・白子駅。前回は、5月 4日に鈴鹿線・鈴鹿市駅からここ白子駅まで歩いてきました(20190504近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅4日目~伊勢街道、旅人気分で伊勢平野の鈴鹿から海運で栄えた白子へ」(予告編))。旅3日目、4日目と同行してくださったMさん、今日は所用ということで、私一人旅。受付が白子駅で9時半から11時ということで、桑名駅を9時1分に出る五十鈴川行き急行に乗車。9時32分に到着。¥490。東口に出たら、数10mも行列(苦笑)。

Img_7080c_1  本日のコースマップ。B4サイズで両面。白子を駅をスタートして、まずは、伊勢型紙資料館に立ち寄ります。その後伊瀬街道に入って、小原木本舗大徳屋長久、鈴鹿市伝統産業会Img_7084c_1 館、子安観音、村社八幡社を経て、津市河芸町に入り、甕釜冠(かめかまかぶり)地蔵堂、弘法井戸から伊勢上野城跡に立ち寄って、名古屋線・豊津上野駅がゴール。途中、今回もいくつか道標があります。マップ上は、約9.8㎞。今日のコースは、すべて伊勢街道。近鉄名古屋線や、国道23号線を縫うようにして歩いて行きます。白子駅からはひたすら南西に向かって進むというルート。もらったコースマップのナンバーは243。

190525kintetsuhikingshiroko  こちらが、実際に歩いた実測ルートマップの全体像。ほぼ直線的に10㎞あまりを歩きましたので、かなり縮小され、細部がよくImg_7089c 分からなくなっています。詳しい実測ルートマップは、いつものように、この本編の中で載せていきます。立ち寄り先は、ここに示した以外にもたくさんあります。鈴鹿市伝統産業会館や、伊勢上野城跡に寄る際には、伊勢街道を少し外れています。近鉄名古屋線の駅の数でいうと、白子駅から4駅分歩いたことになります。マップを受け取り、あみま倶楽部のスタンプを押してもらうのに少し時間がかかり、白子駅をスタートしたのは、9時43分。

20190525kintetsuhikingshiroko1  白子駅からはまず、東に向かい右折。最初の立ち寄り先は、伊勢型紙資料館。ここは、江戸時代末期の建物で白子屈指の型紙Img_7099c_1 問屋であった「寺尾斎兵衛家」の住宅を修復して、平成9(1997)年に開館しています。寺尾家は江戸時代から、伊勢型紙の生産から販売までを行い、東北地方から関東一円に行商をしていたそうです。ここは、去年(2018年)3月17日の近鉄ハイキングで来ています(近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(予告編))。

Img_7102c  伊勢型紙資料館を出て、すぐ北側の細い道を通って、伊勢街道を目指しますが、途中で、瑞雲山龍源禅寺があります。臨済宗Img_7104c 妙心寺派の禅寺。開創は平安時代と伝わっていますが、由緒は不詳です。境内には平家ゆかりの「青葉の笛」に関わる旧跡[青葉の竹林]が伝承されています。このお寺が所有する文化財「涅槃図」「地蔵菩薩半跏像」などから、鎌倉時代には寺としての活動があったと考えられています。江戸時代初期、妙心寺第百七十五世 絶江紹是禅師(ぜっこうしょうていぜんじ)によって再興され、江戸中期には、臨済宗中興の祖・白隠禅師(はくいんぜんじ)と、その高弟・東嶺禅師(とうれいぜんじ)が滞在して禅を説いたといいます。ここには、去年3月17日の近鉄ハイキングで立ち寄っていますので、詳細はそちらで(近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(その5)……白子港、伊勢型紙資料館、龍源禅寺、勝速日神社などを経てようやくゴール(完))。

Img_7109c_2  このあと、伊勢街道に入ります。伊勢街道に入ってすぐ(スタートから700mあまり)に大徳屋長久さん。享保元(1716)年Img_7535c 創業のまさに老舗。まだこの日のハイキングは始まったばかりなのですが、ここでもう土産を買います(微笑)。小原木と、かりんとう饅頭。小原木は、楕円形に焼いた薄い小麦粉の生地に粒餡を乗せ、真ん中でふたつに折った半月形のお菓子。鈴鹿にいた頃からの馴染みで懐かしいので、このあたりを通るとついつい買いたくなるのです。1個100円。かりんとう饅頭は娘の大好物。かりんとう饅頭、いつもなら5個¥600のところ、この日はハイキング特価で¥500。小原木5個と合わせ、¥1,040なり。これで土産もできましたので、あとは歩くのに専念できます(笑)。

Img_7116c_1  大徳屋長久さんの先で、白子港に注ぐ小さな川を渡ると、伊勢街道は枡形になっています。そこを越えると1㎞、すぐに久留真(くるま)神社があります。主祭神は、大己貴尊(オオアナムチノミコト)。大国主命(オオクニヌシノミコト)の別称。往昔Img_7120c_1 は大已貴尊と須世理姫尊(スセリビメノミコト、大国主命の妻)の2柱の神さまを通称伊勢の森(現在の白子・御殿町一帯)という神奈備(神域)にお祀りして福徳さんと称え奉ったそうです。ここも、次の唯信寺や、道標も、鈴鹿市伝統産業会館も、去年3月17日の近鉄ハイキングで訪ねています(近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(その3)……同心屋敷跡、道標を見て久留真神社、大徳屋長久山で土産をゲットし、まちかど博物館などへ)。久留真神社で10時5分。

Img_7127c  久留真神社の先には山中山唯信寺。真宗高田派のお寺。ネット検索ではこれという情報は出て来ませんでした。唯信寺の先のImg_7132c_1 曲がり角に道標。このあたりの道は曲がり角が多いため、ここの和田さんの先祖が昔道標を建てました。しかし、それは再三再四倒されたそうで、昭和12(1937)年3月に再び、和田甚一郎さんが現在も残るこの道標を建てています。当時は高さ3m。ところが昭和30年代にまたこれが倒されたので、今のように建て直したそうです(現在の高さは2mあまり)。道標の西側には「👉 さんぐう道」、北側には「👈 神戸四日市道」とそれぞれ刻まれています。ちなみに、「さんぐう道」が伊勢街道を、「神戸(かんべ)」は、鈴鹿市の神戸を指しています。

Img_7140c  道標から300mほどのところの西側に目付役所跡があります。ここは今まで気づいていませんでした。目付は、政事や家臣の非違糾察(ひいきゅうさつ)、秩序維持を目的とする監察する役人。つまり、代官以下、庄屋に至るまでの素行、品行、身持ちを監察する役人。俸禄200~250石(米俵にして500~625俵)で、2年ほどで交代する役人でした。この役所は、敷地5反ほどで(4,545平方メートル)伊勢街道に面し、役所の建坪は50坪あまり(65平方メートル)だったそうです。

 

Img_7150c_1  伊勢街道をさらに下り、2㎞の手前で左折し、いったん伊勢街道を離れ、鈴鹿市伝統産業会館に立ち寄ります。ここも、去年3月17日の近鉄ハイキングで立ち寄ったところ(近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(その2)……比佐豆知神社、西方寺の山口誓子句碑、レトロな風呂屋などを見て鼓ヶ浦海水浴場と、伝統産業会館へ)。何度もハイキングに参加していると、こういうことはよくあります。ここは、鈴鹿市が全国に誇る「鈴鹿墨」「伊勢形紙」の伝統工芸を紹介して、優れた技術を後世に伝えることを願って、昭和58(1983)年に開館しています。ここは、鈴鹿墨や、小紋・友禅などの図柄を着物の生地に染めるために用いる伊勢形紙の作品・製造道具などが展示紹介されています。

Img_7153c_1  内部も撮影できました。左の写真の奥には、伊勢型紙を彫る工程についての説明があります。右には、鈴鹿墨についての展示Img_7155c_1 が見えます。中央には、両者の体験コーナーや、実演コーナーが設けられています。ここも去年3月17日に訪ねています(近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(その2)……比佐豆知神社、西方寺の山口誓子句碑、レトロな風呂屋などを見て鼓ヶ浦海水浴場と、伝統産業会館へ)。鈴鹿墨の発祥は延暦年間(782~806年)ともいわれ、江戸時代には墨染め用、紋書き用としてより精度の高い高級な墨が開発され、その後文房(ぶんぼう)としての用途も多くなったといいます。しかし、現在も墨を作り続けているのは進誠堂のみ。一方、伊勢型紙は本来、友禅、ゆかた、小紋など着物の柄や文様を染めるために用いる型紙で、1,000年余りの歴史があります。和紙を柿渋で加工した型地紙に彫刻刀で着物の文様や図柄を丹念に彫り抜いていきます。

Dentousangyoukanstamp  去年は気づきませんでしたが、ここにはスタンプがありましたので、押してきました(微笑)。毎度毎度書きますので、繰り返しませんが、こういうスタンプ、やはり貴重だと思いますねぇ。桑名市も観光で売り出そうと思っているのであれば、九華公園、六華苑、石取会館等において欲しいところ。鈴鹿市伝統産業会館でスタートから2.1㎞、時刻は10時20分頃。

Img_7161  次の目的地、子安観音寺に向かいます。左は、鈴鹿市伝統産業会館から伊勢街道に戻ったあたり。2.5㎞の手Img_7163 前で右折し、西へ。これまた去年のハイキングでも見たのですが、「昭和湯」というお風呂屋さんの跡。今はもう廃業していると思われます(こちら)。私の実家の隣も、お風呂屋さんでしたので、こういう昭和風の銭湯は気になります(実家の隣は、富士温泉といいました。私が中学生くらいの頃、廃業しています)。

Img_7165  子安観音寺に行く途中には、西方寺。子安観音寺の南東すぐにある西方寺です。真宗高田派。境内に山口誓子の代表作「海にImg_7168 出て 木枯帰る ところなし」の句碑があります(昭和53(1988)年建立)。この句にちなんで誓子が命名した書院「木枯亭」が本堂に隣接してあります。内部の写真は、こちらにあります。誓子は、ここで俳句教室を開いたり、句会に通ったりしていたそうです。武家造りで江戸中期に建てられたものを明治の初めに移築しています。

Img_7171  西方寺も去年3月17日に来ているのですが、そのときには気づかなかったのがこちら。囲碁の天元であった島村俊廣(明治45(1912)~平成3(1991)年)九段の石碑。島村九段は、鈴鹿市の出身。大正14(1925)年、四日市商卒。昭和52(1977)年、第3期天元戦で苑田8段を破り、天元位。

Img_7173  そして、子安観音寺。たぶん3回目(去年3月17日の記事は、近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(その1)……子安観音寺【加筆修正しました(3/19)】にあります)。地元では、「白子の子安観音」で親しまれています。その名の通り、安産祈願で有名。高Img_7180 野山真言宗。聖武天皇の命令で藤原不比等が建立したと伝えられ(道證上人の開山によります)、1250年以上の歴史があります。本尊は、「白衣観世音菩薩」。縁起によれば、「この浦(鼓ヶ浦)に鼓の音あり、怪しみて網を下ろしけるに、鼓に乗り、観世音の尊像上がらせ給う、帝これを聞こしめし、伽藍建立ありて勅願寺となりぬ。妊婦安産の霊験あり」と記されているそうです。異説には、鼓ヶ浦の海の中から赤ん坊に背負われてご本尊が現れたという話もあります。

Img_7187  子安観音寺に着いたのが、10時半。けっこう暑かったので、一休みすることに。境内にはちょうど、田中観月堂さんが出張販Img_7188 売をしていました。ここも、「小原木」をつくっています(ここのものは、不断桜 大原實といいます)。大徳屋長久さんと、久住屋菓舗さんのものは食べたことがありましたが、田中観月堂さんのものは試したことがありませんでしたので、1個¥90でお買い上げ。その場でいただいてきました。皮がもっちりとしている感じ。餡もコクがあります。子安観音寺で一休みしていたら、「大山田のじいちゃん」に遭遇。去年4月の多度のハイキング(20180428近鉄ハイキング「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」(予告編))から顔見知りの方。それ以降、あちこちの近鉄ハイキングで出会うのです。名前は存じ上げませんが、すでに70代半ばと思われます。しかしそれにしてはお元気。いつもサッサと歩いて行かれるのです。「やぁ!」ということでしばし歓談。これもハイキングならでは楽しみ。「それでは、またどこかで」と、私は先に再スタート。

 長くなりましたし、キリも良いので、その1はここまで。子安観音寺のあたり、みえの歴史街道を見ると、伊勢街道は2つのルートが書いてあります。この日は、そのうち「このあたりは道が狭い」となっているところを行きます。道標など見所もありますので、こちらの方が興味があります。その道標からはその2にて。

九華公園で大人になりかけのホシゴイ

Img_7690c

 正午に28℃になっています。昨日くらいの最高気温になるということですから、もう少し上がるのでしょう。午前中も、日向は暑く、散歩して来たら一汗掻きました(笑)。8時半過ぎから、いつも通り(といっても金曜以来)、住吉神社、九華公園、貝塚公園、京町、吉津屋町、田町と回って6.0㎞。2時間半の散歩。

Img_7703c_1  今日のハイライトはこちら。大人(ゴイサギ)になりかけたホシゴイ(微笑)。ホシゴイはゴイサギの幼鳥。3年くらいすると、Img_9486c 成鳥になるといわれています。九華公園の鎮国守国神社の社務所の裏(西)、いつもゴイサギがいる木空堀を越えたあたりにいました。今頃、ここでゴイサギや、ホシゴイを見ることはありませんので、最初は目を疑いました。それに、なんだか黒っぽく見え、ホントにゴイサギ(ホシゴイ)かと疑ったり。

Img_7715c  逆光だから黒いのかと思い、大回りして、南側へ。順光の位置で見ると、そんなに黒い感じはしませんでしたが、頭は青くなりかけで「青黒」い感じ。堀を覗き込んだりして、餌でも獲りたそうな素振りをしていました。しばらく見ていましたが、動かず。しかし、30分後にはいなくなっていました。

Img_9466c  3日ぶりにいつものコースに来ましたが、相変わらず鳥はいません。左の写真のスズメの幼鳥は、七里の渡し跡にて。斜面になImg_9471c った堤防に降りてきていました。周りに大人のスズメはいません。卵から孵って2週間で巣立ち、1カ月もしないで独立するといいますから(こちら)、そろそろ独り立ちしたのかも知れません。右は、九華公園で見た大人のスズメ。こちらは回りにスズメの幼鳥がいましたので、まだまだ子スズメの世話をしている最中と思います。

Img_9488c  九華公園では、カワラヒワや、シジュウカラのファミリーに遭遇。シジュウカラ・ファミリーは、公園内を移動してImg_9525c いました。その他は、ドバト、キジバト、ムクドリ、ハクセキレイなど。あの子育て中のカラスは、相変わらず神経質になっていて、神戸櫓跡近くの電柱の上に陣取って、ずっと鳴いています。昨日は、車のリアガラスに嘴から突っ込んで、ガラスを割ったという情報もあります。しばらくは、こちらも気をつけなければなりません。

Img_7720c  花菖蒲は、3ヶ所の菖蒲園のうち、2ヶ所でボツボツ咲き進んできています。まずは、管理事務所の南、奥平屋敷跡への入り口Img_9510c の手前にある菖蒲園。左の写真のような様子。ほぼ例年通りの咲き具合と思います。右の写真は、「和田津海(江戸系)」という品種。今日、もっともたくさん咲いていました。左の写真では中央よりやや奥にあります。ここには、原種の野花菖蒲もあるのですが、その生育状況は今ひとつ。

Img_9516c  奥平屋敷跡すぐ北の菖蒲園も少しずつ咲いています。ただ、ここはランダムに植えられていて、何という品種が咲いたのか、Img_9534c_2 私のような素人には分かりません(苦笑)。右は、野球場の南の堀端に咲いていたもの。ヒルガオかなという気がします。今まで気づかず(笑)。

Img_7730c  九華公園の南のお宅では、こちら。アジサイか、それに似たものか? 葉っぱを見ると、アナベルに似ている気がしますが、Img_7730c 植物は自信なしと宣言しておきます。ご存じでしたら、ご教示いただければ幸いです。このあと貝塚公園では、ヒヨドリ、カワラヒワくらいで、今日はモズには会えず。

Img_7741c  ツバメの巣チェック。こちらは桑名市博物館の玄関先にある巣。5羽のヒナは元気そうでした。親が入れ替わり立ち代わりやって来Img_9549c て、エサを与えています。しばらく眺めていたら、お尻を巣の外に突き出し始めたヒナが(笑)。その瞬間の写真が右のもの。さて、お分かりになるでしょうか?

Img_9566c  続いて、田町の商店にある巣。ここのヒナは成長してきましたが、まだ親がエサを運んで来ています。ヒナは5羽。親も暑いのに大変です。京町、吉津屋町、田町のそれぞれの民家にある巣では、親が巣に就いていましたから、抱卵中と思います。

 ところで、博物館の巣からお尻を突き出したヒナ。写真をよくご覧ください。お尻の穴から、丸くて白い物体が出かけています。これくらいになると、巣の外に排泄するのです。暑さ故の酔狂、ご容赦ください(微笑)。

2019年5月26日 (日)

河口堰と某所へ臨時プチ遠征(微笑)……コアジサシのダイビングなど

 今日も暑い日になっています。全国の天気を見ると、北海道で猛暑とか。北海道の方は暑さに慣れていらっしゃらないでしょうし、5月から猛暑日では堪らないと思います。ご自愛ください。われわれも、気をつけなければなりません。

Img_7669c  さて、今日は臨時プチ遠征(微笑)。ブロ友のひらいさんからの情報をいただいて、とあることを某所にて確認に。その前に、Img_7551c こちら、長良川河口堰へ。一昨日に続いて、であります。今日もミサゴがいたものの、管理橋の下流、西側の監視塔近くで、かなり遠い。親水広場まで往復しても、ずっとここにいました。

Img_7557c  コサギ(左の写真)や、ダイサギ(右の写真)はいたものの、今日はアオサギはゼロ。全般に静かでした。それも、東側(長良Img_7559c 川左岸)の魚道にはカワウのみで、サギの仲間はいません。西側には、コサギが3羽、ダイサギは2羽と少なめでした。

Img_7579c  親水広場に降りていく坂道では、中洲にいるオオヨシキリの鳴き声がよく聞こえてきますが、姿は確認できません。代わりにとImg_7585c_1 いうことではありませんが、ホオジロのオス。一昨日と同じあたりに出現。このあたりが縄張りなのかも知れません。親水広場では、ハクセキレイの幼鳥。このハクセキレイさんも、一昨日見たのと同じかも知れません。

Img_7589c  シギは、イソシギを一瞬見たものの、写真には撮れず。コチドリの鳴き声がしてきたのでよく探すと、1羽がアユの孵化試験をする水路にいました。このほか、ハクセキレイの成鳥を3羽確認。他にはスズメくらい。

Img_9386c_1

 河口堰には、今日もコアジサシがやって来ていました。数は多くなく、3羽程度。西側でも見られます。東側の魚道下流のとこImg_9440c ろで待っていると、割りと近くで写真が撮れます。ホバリングしているところや、ダイビングするため急降下していくところもそれなりに(微笑)。

Img_9445c  ダイビングして小魚を捕って、再び飛んで行くところも撮れました。左の写真の直前に、ダイビングして水の中にいるところImg_9407c も。なんとなく泳いでいるようにも見えます(微笑)。

Img_7609c  さて、このあと某所へ。数は多くはありませんが、コアジサシが営巣し始めているようです。ひらいさんと二人で、情報交換をしながら、それぞれImg_9282c 観察を続けたいと思っています。

Img_7620c_1  写真はそれなりの数を撮ってきましたが、少しだけ公開しておきます。

2019年5月25日 (土)

20190525近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅5日目~伊勢街道旅人気分で伊勢湾沿いの白子から河芸へ」(予告編)

Img_7076c  今日も30℃を超え、桑名では31.3℃でした。絶好の(?)行楽日和です。今日は、待望の近鉄ハイキングの「お伊勢さん参りハImg_7087c イキング」の5日目。「昔も今もお伊勢参り~旅5日目~伊勢街道旅人気分で伊勢湾沿いの白子から河芸へ」であります。受付は、近鉄名古屋線・白子駅。前回は、5月 4日に鈴鹿線・鈴鹿市駅からここ白子駅まで歩いてきました(20190504近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅4日目~伊勢街道、旅人気分で伊勢平野の鈴鹿から海運で栄えた白子へ」(予告編))。今日は、Mさんは、所用で私一人旅。白子駅で9時半から11時ということで、桑名駅を9時1分に出る五十鈴川行き急行に乗車。9時32分に到着。¥490。東口に出たら、数10mも行列(苦笑)。

Img_7080c  本日のコースマップ。B4サイズで両面。白子を駅をスタートして、伊勢型紙資料館、小原木本舗大徳屋長久、鈴鹿市伝統産業会Img_7084c 館、子安観音、村社八幡社を経て、津市河芸町に入り、甕釜冠地蔵堂、弘法井戸から伊勢上野城跡に立ち寄って、名古屋線・豊津上野駅がゴール。途中、今回もいくつか道標があります。マップ上は、約9.8㎞。今日のコースは、すべて伊勢街道。近鉄名古屋線や、国道23号線を縫うようにして歩いて行きます。白子駅からはひたすら南西に向かって進むというルート。

190525kintetsuhikingshiroko_1  こちらは、実際に歩いた道をトレースした実測ルートマップ。ほぼ直線的に10㎞あまりを歩きましたので、かなり縮小され、細部がよく分からなくなっています。詳しい実測ルートマップは、またいつものように、本編で載せます。立ち寄り先も、ここに示した以外にもあります。鈴鹿市伝統産業会館や、伊勢上野城跡に寄る際には、伊勢街道を少し外れています。近鉄名古屋線の駅の数でいうと、白子駅から4駅分歩いたことになります。

Img_7091c  さて、マップを受け取り、あみま倶楽部のスタンプを押してもらうのに少し時間がかかり、スタートしたのは、9時43分。白Img_7099c 子駅から東に向かい、右折。最初の立ち寄り先は、伊勢型紙資料館。ここは、江戸時代末期の建物で白子屈指の型紙問屋であった「寺尾斎兵衛家」の住宅を修復して、平成9(1997)年に開館しています。寺尾家は江戸時代から、伊勢型紙の生産から販売までを行い、東北地方から関東一円に行商をしていたそうです。ここは、去年(2018年)3月17日の近鉄ハイキングで来ています(近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(予告編))。

Img_7109c_1  このあと、伊勢街道に入ります。伊勢街道に入ってすぐ(スタートから700mあまり)に大徳屋長久さん。享保元(1716)年創業のまさに老舗。まだ今日のハイキングは始まったばかりなのですが、ここでもう土産を買います(微笑)。小原木と、かりんとう饅頭。小原木は、楕円形に焼いた薄い小麦粉の生地に粒餡を乗せ、真ん中でふたつに折った半月形のお菓子。鈴鹿にいた頃からの馴染み。1個100円。かりんとう饅頭は娘の大好物。かりんとう饅頭、今日は5個¥600のところ、ハイキング特価で¥500。小原木5個と合わせ、¥1,040なり。

Img_7116c  街道を進み、久留真神社。主祭神は、大己貴尊(オオアナムチノカミ)。大国主命(オオクニヌシノミコト)の別称。往昔はImg_7120c 大已貴尊と須世理姫尊(スセリビメノミコト、大国主命の妻)の2柱の神さまを通称伊勢の森(現在の白子・御殿町一帯)という神奈備(神域)にお祀りして福徳さんと称え奉ったそうです。ここも、次の道標も、鈴鹿市伝統産業会館も、去年3月17日の近鉄ハイキングで訪ねています。久留真神社あたりでスタートから1㎞。10時5分。

Img_7132c  久留真神社のすぐ先で伊勢街道は、枡形になっています。そこに真宗高田派の唯信寺。唯信寺の前を曲がったところに道標があります。「さんぐう道」「神戸(かんべ)道(鈴鹿市神戸(かんべ)のこと)」「四日市道」と刻まれ、指のかたちの矢印が描かれています。このあたりは曲がり角が多いため、参宮客などが迷わないようにということで、道標を和田さんという方が建てたのだそうです。何度も倒され、立て直しを繰り返した結果、現在は(昭和30年代以降)、高さ2mあまりとなったそうです(説明板による)。

Img_7150c  さらに進み、白子から寺家に入ったところで、鈴鹿市伝統産業会館に立ち寄り。いったん伊勢街道から外れます。ここは、鈴Img_7153c 鹿市が誇る「鈴鹿墨」と「伊勢形紙」の伝統工芸を紹介して、優れた技術を後世に伝えるために、昭和58(1983)年に開設されました。鈴鹿墨や、小紋・友禅などの図柄を着物の生地に染めるために用いる伊勢形紙の作品・製造道具などが展示紹介されています。

Img_7173c  鈴鹿市伝統産業会館を出て、次は、子安観音寺に向かいます。これまでに2回ほど訪ねています。地元では、「白子の子安観Img_7180c 音」で親しまれています。その名の通り、安産祈願で有名。高野山真言宗。聖武天皇の命令で藤原不比等が建立したと伝えられ、1250年以上の歴史があります。本尊は、「白衣観世音菩薩」。その昔、鼓ヶ浦の海の中から赤ん坊に背負われて現れたといい(鼓に乗って現れたという記述もあります)、安産にご利益があるとされています。境内には、不断桜があり、天然記念物に指定されています(大正12(1923)年3月指定)。

Img_7187c  境内で、田中観月堂さんが出張販売をしていました。ここも、「小原木」をつくっています(ここのものは、不断桜 大原實といいます)。大徳屋長久さんと、久住屋菓舗さんのものは食べたことがありましたが、田中観月堂さんのものは試したことがありませんでしたので、1個¥90でお買い上げ。その場でいただいてきました。皮がもっちりとしている感じ。餡もコクがあります。子安観音寺で10時半、スタートから2.8㎞。

Img_7192c  小腹を満たし、伊勢街道を進みます。このあたり、みえの歴史街道の地図では2つのルートが描かれていますが、細い道の方をImg_7200c 進んでいます。子安観音寺の先で、道標が2つ。左のものは、弘化4(1847)年建立。「左くわんおん道」「右さんくう道」とあり、子安観音寺と伊勢街道とを示すもの。右は、民家の手前にある小さな道標。「左いせみち」と刻まれています。頂上部分と北面はすり減ったくぼみがありますが、これは伊勢型紙彫りに使う砥石をならした跡といわれているそうです。

Img_7243c  3㎞を過ぎ、堀切川沿いから近鉄名古屋線の線路、国道23号線を相次いで渡ります。鈴鹿市磯山に入ってきました。5㎞の手Img_7253c_2 前、近鉄磯山駅の西に村社八幡社があります。主祭神は、誉田別尊、金山毘古尊、素戔之男命、菅原道真、大山祇之命。太田忠左衛門という人の先祖が、御神体を字六人彫りの堀切川下流から背おって来て、安置したと伝わります。その時、獅子も一緒だったそうですが、忠左衛門の枕元に現れ「別保へ連れてって」というので、隣村の神社へ連れていったためこの神社には獅子がいないといいます。当社の創祀は不詳ですが、社伝によれば正安元(1299)年に社が創建されたとされているそうです。確かに狛犬というか、獅子はありませんでした。ずいぶん暑くなってきましたので、ここの境内の木陰で小休止させてもらいました。時刻は、11時10分。

Img_7313c  村社八幡社の先で再び国道23号線を、今度は東へ渡り、中ノ川を越え、近鉄名古屋線の線路を東千里交差点のすぐ先でまた渡Img_7303c_1 ります。津市河芸町東千里です。ここに珍しい地蔵堂があるのです。甕釜冠(かめかまかぶり)地蔵堂。この堂はもと光明院といって伊勢参宮の旅人の休憩所で、旅の無事安穏を祈願した場所でした。宝形造りの仏堂の屋根の上には、露盤と宝珠を置くのが普通ですが、この堂は炊事用の釜と水甕が伏せてあり、これが堂の名前の由来となっています。なぜこのような変わった建築をしたのか理由について諸説があり、確かなことはわかりません。

Img_7331c  甕釜冠地蔵堂から300mほど先には、尾前神社石碑。尾前(おざき)神社は、この碑から東に200mほど入らねばなりませんでしたのでImg_7336c 立ち寄ってはいません。雨乞いのかんこ踊りが行われていたそうです。さらにその先には、「丹羽君碑」(右の写真)。この辺りには、江戸時代に紀州藩白子の大庄屋だった丹羽家があり、円応寺組十五か村の大庄屋を務め、また、兄弟で廻船問屋を営み、五十人同心として港を差配していたといいます。この碑は丹羽家何代目かの主を顕彰したもののようですが、碑文も風化して読めず、不明です。

Img_7353c  7㎞を過ぎたところに、近鉄千里駅。ここを過ぎ、また近鉄名古屋線と、国道23号線を越えます。7.3㎞あたりに「田中地蔵堂」。2体のお地蔵様がいらっしゃいます。この側を流れる川が、田中川ですから、それに因んだ名前かと思います。田中川を渡り、津市河芸町上野へ。

Img_7405c  8.5㎞ほどのところに「弘法井戸」。上野中町の北端、道路の東側にあります。石造の弘法大師を祭る御堂の前に井戸家形があImg_7389c り、中は深さ2mほどの貯水槽になっていて、清水を湛えています。弘法大師のお告げにより井戸を掘ったという伝説は全国各地にありますが、弘法大師の時代にはまだ伊勢街道はありませんでした。大師伝説とこの清水を結び付けて弘法井戸と名付けたと思われます。付近の家々で井戸講を組織し、清掃管理や法要を営んでいます。伊勢街道が出来て、多くの人が通るようになり井戸の水が旅人に利用されるようになり、この大師堂も出来たものと思われます。

Img_7407c  弘法井戸のすぐ先、伊勢上野城跡へ上る道の手前に「道路改修記念碑」があります。この伊勢街道・上野宿には戦国時代、戦Img_7420c 術上3ヶ所の枡形がありました。道幅が狭く、直角に曲がっているため、時々人馬が衝突したので、有志が北角の家を購入し、道路を拡幅したときの記念碑だそうです。確かにここはクランクではなく、カーブが緩やかになっていました。記念碑は風化してしまい、読めません。

Img_7424c  いよいよ伊勢上野城跡へ登ります。今日指定されたコースは、こんな細くて、竹藪に囲まれた、けっこう急な坂道(苦笑)。Img_7432c 今年(2019)年2月2日の近鉄ハイキングでも来ましたが、そのときは、伊勢街道ではなく、もう1本北側の道から入りました(20190202近鉄ハイキング「名所・旧跡めぐり お江の里と海の幸」へ(予告編))。織田信長の弟、信包が、津城の仮城として元亀元(1570)年に改修築城したのが伊勢上野城。浅井長政が信長に攻められ自害した後、長政に嫁いでいたお市の方と、その娘の三姉妹(茶々(豊臣秀吉側室)、(京極高次正室)、(徳川秀忠継室))が移り住んだとされるお城です。その後、廃城となり、後に津藩主・藤堂高虎により取り壊され、現在は城郭の跡のみ残っています。標高38mの伊勢街道沿いの台地にあり、伊勢湾や鈴鹿連峰が一望できます。展望台にある資料室は、日曜のみ開館ということで、今日は見られず残念。展望台3階までは登ってきましたが、木々が生い茂ってしまい、眺めは今ひとつ。

Img_7439c  伊勢上野城跡に着いたのが、12時15分でした。ここまで来れば、ゴールも見えてきますので、昼ご飯。例によって、駅ナカファミマ弁当。代わり映えしません(苦笑)。ただし、今日は、「明太海苔弁当(税込¥430)」。年を考えれば、もうちょっとヘルシーな弁当にしないといけませんが……。展望台が見える木陰のベンチで弁当タイム。ここはたぶん本丸の跡の端っこ。目の前に広い空間と森の緑、よく晴れた青空が広がって、気持ちの良いところ。弁当を食べ、しばらく休んで、再スタート。

Img_7476c  城の北から西側、南側を回って、また伊勢街道へ出ます。伊勢街道へ出たところで右折するのが、定められたコースなのですが、見たいものがありましたので、左折(ちょっと戻る方向へ)。100mほど戻ったところに「道路元標跡」があるのです(コースマップにも記載されています)。上野村の道路元標があったところ。現物は損傷が激しいので、河芸中央公民館に保管されています(河芸中央公民館は、三重K-ABCアセスメント研究会でたびたび行っていますが、知りませんでした……笑)。本体は木製の四角柱、頂上部は銅板製。

Img_7491c  これで、今日の見所は一通り見終えました。伊瀬街道をもう少し進み、スタートから10㎞のわずか手前まで。左の写真のとこImg_7504c ろで左折し、国道23号線をまたもや渡ります。中保交差点。ここは、Furniture Domeやイオンのショッピングセンターがあります。12時53分、ゴールの近鉄名古屋線・豊津上野駅に到着。スタートからは10.4㎞。いやぁ、今日は暑かった。600ml入りのお茶のペットボトルを飲み干しました。

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 今日もまた、無事に踏破記念マグネットをいただきました。デザインは、甕釜冠(かめかまかぶり)地蔵堂でした。これで、Img_7527c 初回から5個連続でゲット。あみま倶楽部のスタンプも19個目。20個目目前。去年は1年かかって20個でしたから、かなりのハイペース。豊津上野駅を12時56分に出る四日市行き普通電車に乗れました。白子に13時5分に着いて、13時11分発の名古屋行き急行に乗り換え。桑名には13時40分着。¥620。

Img_7530c  Alkooのデータは、こちら。歩数は、22,189歩でした。10㎞あまりを歩きましたので、これは妥当。距離は、17.0㎞。こちらはいつものことながら、過大評価。本編はまた明日以降、順次、アップしていきます。

2019年5月24日 (金)

金曜はプチ遠征(笑)……河口堰でコアジサシ20数羽、キアシシギ、M池公園でもコアジサシ、カイツブリは営巣中、1号線沿いのケリの巣は消滅?

Img_6968c  金曜日ですので、恒例のプチ遠征の日(笑)。行き先はこのところ、毎度同じ。長良川河口堰(左の写真)と、弥富のM池公園(右の写真)、帰りに1号Img_6971c 線・長島町内でケリの巣確認というパターン。8時50分に河口堰に到着、10時まで。花市場に立ち寄って、熱帯スイレンが入荷していないか確認(まだ入りません)。M池公園は10時35分から11時15分。帰り道にケリの巣を見て、12時前に帰宅。

Img_6883c まずは、長良川河口堰。いくつか収穫がありました。東側の魚道、下流側でコサギが小魚を捕っていました。けっこう頻繁に魚Img_8859c を捕って食べていましたので、不思議に思ったのですが、写真をパソコンで見て、納得。コサギの足下を見ると、小魚がかなりたくさん上っていくのです。写真をクリックして拡大していただくと、ご覧いただけると思います。右は、咥え直して、飲み込む寸前のシーン。開けた嘴の間に小魚が写っています。

Img_9060c  そして、コアジサシ。最終的には、20数羽が来ているのを確認しました。左の写真は、管理橋往復し、東側(左岸)に戻って来たとき(10時前の河口堰下流側の様子)。小さくて分かりにくいものの、ここだけで12羽が写っています。西側にも何羽かいました。

Img_8905c  河口堰に到着して、管理橋を渡り始めた頃、東側には2羽。ちょっと距離があったので、なかなかうまく捉えられませんでしImg_8937c_1 た。いつものように「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」方式で、何枚かはそれなりに見られるものとなりました。左の写真は、これからダイビングしようというところ。右は、ダイビングして小魚をゲット、上昇しつつあるところです。

Img_8952c  証拠写真レベルではありますが、ミサゴも目撃。管理橋を中程まで進んだあたりで、西の空を悠然と飛んでいました。下を見Img_8961c ていますので、獲物を探していたようです。そのまま揖斐川の上空へ行き、揖斐川を上流の方へ飛んで行きました。河口堰の西側では、まずはダイサギ(右の写真)。

Img_8963c  そして、アオサギ。アオサギは、魚道の上流側に2羽。左の写真は、そのうちの1羽ですが、色Img_9010c が薄いので若い個体と思われます。写真を撮っていると、例によって、すぐに気づいて逃げます。毎回思うことですが、もう少しフレンドリーになって欲しいもの(苦笑)。コサギも何羽か見られました(右の写真)。

Img_6918c_1  親水広場に回って、上流・西側の監視塔近くにシギと、何とコアジサシの姿も! ビックリ。左の写真に写っているコアジサImg_6916c シは、この直前まで上空を飛び、ダイビングしたり、右の写真のコアジサシのところへ飛んで行ったりしていました。たぶんオスなのでしょう。残念ながら、求愛給餌は見られませんでした。シギは、2羽はイソシギ。左の写真で向かって左にいる、やや大きいシギはキアシシギかと思います。それにしても、コアジサシとシギのコラボ写真も撮れ、ちょっと嬉しい(微笑)。

Img_6926c  近くの、別の浮きのところにもシギがいました。これもキアシシギと思います。しばらく見ていたのですが、シギたちはそのうちにいなくなり、コアジサシも20分くらいしたら、姿がなくなっていました。

Img_9015c  親水広場ではハクセキレイが4羽ほど。そのうち、左の写真のハクセキレイは、若い個体のようです。今風にImg_6958c いえば、「令和生まれのハクセキレイ」かも知れません(微笑)。巣立って、一人で生きているかと思うと、「頑張れよ」と励ましたくなります。親水広場を回って、管理橋に戻る途中では、ホオジロのオス。中洲からは、オオヨシキリの鳴き声がかなり聞こえるのですが、ここではどこにいるか見分けられません。

 河口堰からM池公園に向かう途中、ひょっとしてコアジサシがいないかと思って、某臨駐を見てきましたが、鳥影はゼロ。ヒバリも、ケリも、コチドリもいませんでした。

Img_9100c  さて、M池公園。カイツブリの営巣状況のチェックに来たのですが、ここでもコアジサシ2羽を目撃。これまた証拠写真ですImg_9104c が、ダイビングして小魚をゲットしていたようですし、2羽がシンクロして飛んでいるようでもありました。そのまま北の方へ飛び去って行き、見失いました。どこかに営巣地があると思うのですが、どこでしょう?

Img_6977c  カイツブリの巣。営巣していたのは、6ヶ所でしたので、先週と同じと思います。左の写真では、カイツブリは巣に向かって右Img_7048c にいます。卵があるかどうかは分かりません。卵があるときに巣を離れる場合、隠していくということですし。右の写真のように、まだ巣を直しているかと思われるものもあります。抱卵期間は20~25日といいますから、早くて今月終わりに雛が孵るかどうかということでしょう。

Img_6981c  M池公園のカイツブリは、発泡スチロールの上に巣をつくっています。空の巣が4ヶ所ほどあり、よく見ると(左の写真)、何かの枝で固定してあるようです空、これは間違いなく、人為的に置かれたものでしょう。自然の状態では、水辺近くの水生植物や杭などに水生植物の葉や茎を組み合わせた逆円錐状の巣をつくるといいます。

Img_9117c  公園の遊水池を一回りしていると、東のエリアで、カイツブリ同士がトラブっている様子。前回来たときにも見ました(2019Img_9119c 年5月17日:河口堰魚道観察室でコサギに大接近、コアジサシも1羽、M池公園のカイツブリは巣作り中)。仔細はよく分かりませんが、繁殖期には縄張りを形成しますから、それを侵したという可能性が高い気がします。

Img_7070c_1  帰り道、長島町内の国道1号線沿いで、ケリの巣をチェックしに行ったのですが、何と、もう1ヶ所の方も不在。先週土曜のひらいさん情報では(2019.05.18~19 お散歩週報(オマケはN里))、「余り暑く無いのでウトウトしていました」ということだったのですが、何かあったのでしょうか。これで1号線沿いの巣はなくなっていました。残念。

20190519近鉄ハイキング「谷川士清旧宅と県立美術館・総合博物館春の専修寺を訪ねて」へ(その3)……三重県総合博物館で「ボタニカル・デザイン展」を見て、高田本山専修寺にお参りし、高田本山駅にゴール(5時間20分かけて「完」)

 5月19日の近鉄ハイキング「谷川士清旧宅と県立美術館・総合博物館春の専修寺を訪ねて」のその3です。その2では、津偕楽公園を訪ねたあと、三重県立美術館で「「没後200年記念 増山雪斎展」を見てきました。弁当を食べて、13時に再スタートしたものの、小雨に見舞われて歩く羽目に。この日、雨は大丈夫だろうと高を括って、雨具を持参しなかったのです。

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 美術館が5.5㎞地点でした。津市大谷町を歩いています。このあたりは閑静な住宅街。よく知りませんが、たぶんけっこう高級な住宅地と思います。地図ではわからないのですが、このあたり、博物館に向かうと登り坂。小雨が降り続いています。ちょっと弱気になって、あまり降るようなら、もう歩くのは止めてバスで津駅に行って帰ろうなどと思ったりしていました(笑)。それでも、途中、バス停や、街路樹の下で雨宿りしながら三重県総合博物館へ向かいました。幸か不幸か、大降りにはならず、また、遠くには晴れ間も見えましたので、途中からは取り敢えず博物館までは行くことにしました。

Img_6398c  スタートから6.7㎞、13時20分過ぎに三重県総合博物館に到着。去年9月22日のJRさわやかウォーキングで来ています(20180922JRさわやかウォーキング「国宝高田本山専修寺御影堂・如来堂と一身田寺内町を訪ねて」へ(予告編)……【キョリ測データを付記しました(9/23)】)。このときは、「幕末維新を生きた旅の巨人 松浦武四郎」展を見ています。その2にも書きましたが、平成26(2014)年に三重県総合文化センターの隣接地に新しく建設され、開館しています。

Img_6402c  この日は、ここでも見たいものがありました。それは、「第23回企画展『ボタニカル・デザイン -植物のかたち、その観察-』」です。三重県総合博物館では初めての植物をテーマにした企画展。植物のさまざまな「かたち=デザイン」に焦点を当てImg_6409c て、その意味や、おもしろさが紹介されていました。植物は自由に移動することができませんから、花やタネ、葉の形に工夫をこらし、子孫を残そうとしてきたということが強調されていました。第2会場ではさまざまな形の植物を集めたミニ植物園も開催されています。こちらも家庭の日ということで、¥800のところを¥640で入ることができました。展覧会は撮影可でした 。

Img_6411c  内容は、4つに大きく分けられています。花のしかけ(花粉を誰が運ぶなど)、タネの旅(周囲の「動く」力をたくみに利用するなど)、葉のくふう(光や水を得る、身をまもるために工夫されたかたちなど)そしてボタニカル・デザインと人のくらし(私たちのくらしの中にある植物のかたち)。左の写真は「いろいろな花」というコーナー。基本的な花のつくり、ルール(めしべ、おしべ、花弁、萼片(がくへん)などの構造)、花の構造、花のつき方といったまさに基本知識から学べるようになっていました。

Img_6427c  私が興味を持ったものの一つに、松ぼっくりのさまざまがあります。左の写真はその一部。大きさもかなり違いがありますが、かたちにもバリエーションがありました。左の写真で奥の、中央右に写っているのはダイオウマツの松ぼっくり。これ、我が家にもあります(九華公園の元管理人Oさんからいただいたもの)。左にあるさらに大きな松ぼっくりは、ナガミマツのもので、その長さは30~50cmにもなります。

Img_6429c  もう一つ、興味を持ったというより、驚いたもの。何でしょう? これ、セイタカアワダチソウの標本。標本ですから、採取して、乾燥してつくってありますから、実物がこの長さだったということです。4.2mあり、三重県総合博物館の敷地内に生えていたそうです。普通は、1~2m程度に成長しますが、よく肥えた土地では3.5~4.5mにもなるということです。背が高くなることにはメリットがあるのでしょう。「虫媒花」といって、虫に花粉を運んでもらう花だそうですから、背が高くなることで目だって虫に花粉を運んでもらいやすくなるのでしょうか(勝手な推測です)。ちなみに(私もよく区別できていませんでしたが)、気管支ぜんそくや花粉症の原因になると思われていたことがありましたが、それはブタクサの方。セイタカアワダチソウは虫媒花で風媒花ではないので、花粉の生成量は少ない上に比較的重く形状も風で飛ぶのには不適で、無関係と考えられているそうです。

Img_6432c  人のくらしとボタニカル・デザインのところも面白い内容でした。今はもうほとんど見なくなりましたが、唐草模様。唐草模様の風呂敷などがありました。唐草模様は、植物の茎やつる、葉が伸び、絡みつく様子をデザインしたもの。生命力や反映を連想させる、おめでたい模様として扱われます。古代オリエントに起源があり、中国を通して日本にもたらされたと考えられています。

Img_6407c  三重県総合博物館といえば、ミエゾウ全身骨格復元標本。「ミエゾウ」は、その化石が三重県内で最初に発見されたことから、世界中で通用する正式な学名を「Stegodon miensis(ステゴドン・ミエンシス)」と名づけられた太古のゾウです。県内のあちこちから多数の化石が発見され、この博物館にも多くの化石資料が収蔵されています。三重県総合博物館は、国内各地で発掘・保管されているミエゾウ化石の形態データを3次元スキャンで収集して、このミエゾウの全身骨格復元標本を展示しています。

Img_6444c  前回来たとき見逃してきたものがありました。それは左の写真。オオサンショウウオです。オオサンショウウオは世界最大のImg_6449c 両生類で、岐阜県以西の本州、四国、九州北部に分布し、特別天然記念物に指定されています。こちらは、旧三重県立博物館時代から、飼育展示されていたオオサンショウウオの「さんちゃん」です。2階の飲食休憩コーナー側に設置された水槽にいます。さんちゃんは、名張市でケガをしていたところを保護され、それ以来20年以上にわたって博物館にいます。博物館の約42万点を数える収蔵資料のうち、唯一生きている資料です。

Img_6452c  三重県総合博物館を出て来たら、雨は上がり、青空も広がってきていました。ラッキー! 総合文化センターの東を回り、マックスバリュや本の王国のところを通って県190519kintetsuhikingtsusinmachi4 道10号線へ出ます。右のマップにある勝久寺は、以前立ち寄ったことがありますが、今日はコースにはなっていません。8㎞を過ぎて右折。JR紀勢本線を渡って、高田本山専修寺のある一身田(いっしんでん)に向かって行きます。

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 実測ルートマップもいよいよその5で、最後。JR紀勢本線を渡ったあと、旧・伊勢別街道を越えます。伊勢別街道は、関宿東Img_6472c 追分(亀山市)から津市芸濃町椋本(むくもと)、津市一身田を通り、伊勢街道と合流する江戸橋までの総距離およそ四里二六町(約18.5㎞)の街道です。

Img_6475c  9㎞を過ぎたところで、毛無川を渡ります。志登茂川の支流。この川は、一身田寺内町を囲む環濠になっています。去年、何度Img_6479c か一身田寺内町や、高田本山専修寺に来ましたので、このあたりはすでに馴染み。毛無川を越えると、一身田寺内町の仲町商店街。この日は、日曜日でしたが、高田本山専修寺ではとくに行事もなく、商店街も閑散としていました。土産に桜おこしがあったら買おうと思っていましたので、和菓子屋さん2~3軒を覗いてみましたが、今の時期はつくっていないということでした(11月~3月の期間限定でした)。

Img_6489c  専修寺の山門が見えてきました。その手前にあるのは、「釘貫門」。釘貫門は、柱を立てて並べ、横に貫を通しただけの簡単Img_6493c_1 な門です。町の入り口に設けられた木戸を示すこともあるようです。現在は、この山門前の釘貫門だけが残っていますが、宝暦年間(1751~63年)の絵図には、他に3カ所の矢来(釘貫門)が描かれています。釘貫門は、道を挟んで東西に同型同大の2棟からなっています。両方をつなぐ構造や、開閉装置はないものの、専修寺では釘貫門と呼ばれています。この門は、山内寺院と町屋を隔てる堀の北に位置し、堀に架けられた石橋と併せて「聖俗の結界」をなす役割を担っています。

Img_6502c  高田本山専修寺山門。御影堂の正面にあり、間口20m、奥行き9m、高さ15.5mという立派なもの。町並みと一体になって、本山の門前にふさわしい雰囲気を醸し出しています。

Img_6508c  左の写真は、御影堂。宗祖・親鸞聖人の木像が安置されています。間口42.72m、奥行き33.5m。725畳敷きImg_6511c で、全国の木造建築物の中でも5番目に大きいもの。延宝7(1679)年の建立。2,000人が一度に参拝できる広さだそうです。右は、如来堂。ご本尊の阿弥陀如来様がいらっしゃいますので、教義の上ではこちらが本堂になります。間口25.66m、奥行き26.62m。寛延元(1748)年の建立。如来堂のタ 観は本格的な禅宗様の形式だそうです。これらの2つのお堂が一昨年、国宝に指定されました。

Img_6526c  近鉄ハイキングのコースとして専修寺に立ち寄ったのですが、実はここには、家内の父親のお骨が収めてあります。なので、Dscn1061c まずは納骨堂へ行き、お参りしてきました。専修寺へは、今年初めて。家内の父にもずいぶんご無沙汰してしまっており、叱られたかも知れません。ゆっくり手を合わせてきましたので、勘弁してもらいましょう(微笑)。土産に本当は、桜おこしが欲しかったのですが、11~3月の季節限定でしたので、境内の茶所(ちゃじょ)にある売店で煎餅を買ってきました。茶所は、本来は湯茶の接待所。ここにも仏壇があります。土産は、家内の母にもお裾分けしました。

Img_6559c  高田本山専修寺を14時55分に出るのですが、その前に唐門も見てきました。如来堂の正面に建つ門で、天保15(1844)年に棟上げをしました。屋根は檜皮葺で、正面と背面の軒に大きな唐破風があることから唐門と呼ばれています。専修寺境内を回っている間にスタートから10㎞。

Img_6561c  専修寺を出て東に向かいます。栄橋で環濠を渡り、一身田郵便局のところを右折。毛無川沿いにゴールの近鉄名古屋線・高田Img_6577c 本山駅を目指します。11㎞を過ぎてしばらくして、伊勢鉄道の高架をくぐります。くぐったところでちょうど、名古屋行きの快速みえが通過。右の写真では、右手が名古屋方向。

Img_6581c  ゴールの近鉄名古屋線・高田本山駅の手前で1本早く曲がってしまったのですが、大勢に影響はありませんし、距離も変わりませんでした。15時18分にやっとのことでゴールイン。ハイキング/ウォーキング参加史上、もっとも遅いゴール時刻でした。スタートが9時56分でしたから、5時間20分あまりを要したことになります。実測ルートマップ上、12㎞を歩いてきました(実際には、立ち寄り先であれこれ歩き回ったりしていますので、+αがあります)。この日は、途中雨にも降られましたし、立ち寄り先であれこれ見てきましたので、よく歩いたと実感。高田本山駅15時34分発の名古屋行き普通電車に乗って、白子駅に15時49分着。ここで15時51分発の名古屋行き急行に乗り換え。桑名駅到着は、16時22分。¥690。

  ちなみに、これまでにもっともゴールインが遅かったのは、2019年1月27日のJRさわやかウォーキング(伊勢市)でした(20190127JRさわやかウォーキング「新春に二千年の時を刻む大神宮へのおかげ参り」へ(予告編))。新春のお伊勢さん参りのウォーキングでしたが、伊勢市駅を9時50分にスタートして、ゴールしたのが14時半でした。15.5㎞を4時間40分で歩いています。今日は、12㎞を5時間20分ですから、このときの記録をはるかに凌駕しています(何の自慢にもなりませんが……)。

Img_6601c  この日のハイキングで、あみま倶楽部のスタンプは18個目。よいペースです。無理をせず、着実に積み重ねましょう。Img_6617c ALKOOのデータは、右の写真の通り。20.5㎞歩いたというのは、やはり過大評価。歩数は、26,811歩に達していました。1月27日のJRさわやかウォーキングの時は、27,351歩(NINTEDOのDSの生活リズム計による)。この日歩いたのは、ハイキングで12.0㎞、桑名駅までの往復が1.8㎞ですから、合計13.8㎞。

Dscn1063c  ハイキング翌日NintendoのDSの生活リズム計のデータを確認したところ、歩数は24,202歩となっていました。「朝型のチータータイプ」に認定されましたが、チーターになったのはたぶん初めて。途中風が強かったり、雨に見舞われたりしましたが、見るべきところも多く、楽しめました。この日は、美術館、博物館に立ち寄り、展覧会を見ましたし、土産も買いましたので、ちょっと出費は嵩みましたが(合計¥3,778)、これくらいで1日しっかり楽しんだわけですから高くはありません。

 次は、5月25日に伊勢参りツアーの第5回があります(昔も今もお伊勢参り~旅5日目~伊勢街道旅人気分で伊勢湾沿いの白子から河芸へ)。これは何をさておき参加したいと思っています。近鉄名古屋線・白子駅から伊勢型紙資料館、小原木本舗大徳屋長久、鈴鹿市伝統産業会館、子安観音、甕釜冠地蔵堂、弘法井戸、伊勢上野城跡を経て、豊津上野駅がゴール。立ち寄り先はほとんどいったことがありますが、通しで伊勢街道を歩くところに意義ありです。まだ事前の予習が十分ではありません。前日になって慌てて予習となりますが、できる範囲で(苦笑)。

2019年5月23日 (木)

九華公園でカラスの巣を発見……先日の管理人さん襲撃犯か?

Img_6808c  全国的に暑くなったそうですが、ここ桑名は26.8℃でした。日向を歩いているとけっこう暑いのですが、日陰は過ごしやすい感じ。週末にかけては、もっと暑くなり、猛暑日になりそうなところもあるといいます。まだ5月なのに、先が思いやられます。そrはそれとして、いつも通りの散歩。8時20分から住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀南公園、入江葭町、京町、吉津屋、田町と5.7㎞。

Img_6821c  九華公園。ツツジはすっかり終わってしまい、サツキと思いますが、少しだけ咲いています。管理事務所北の筏橋あたりなどにImg_6819c 数本サツキが植わっています。公園内は、青々として気持ちの良い空間が広がっています。ツツジの刈り込みはしない見込みと聞いていましたが、やはりやることになったようです。約550本のつつじがあるといわれていますが、これまではきれいに仕立てられていましたので、刈り込みをしないとなると、とんでもない状況になると思っていました。

Img_6822c  花菖蒲園は、相変わらずボチボチという状況。公園内に3ヶ所ありますが、管理事務所から奥平屋敷跡へ行くところが、たぶんもImg_8742c っとも見事になりそうです(左の写真)。ここは、何種類か咲き始めています。右の写真は、肥後系の稲妻という品種。今年最初に咲き始めたもの。ここには、原種の野花菖蒲がありますが、生育状況は今ひとつという感じ。改良された花菖蒲もよいのですが、私自身はこの野花菖蒲がもっとも好みなのですが、ちょっと心配。

Img_6788c_1  本丸跡の南にある花菖蒲園は、ご覧のような状況(5/21撮影)。一時は雑草に勢いが負けているような風でした。雑草は、シルバー人材センターの方々が抜いてくださったのですが、全体に生育が今イチ。とくに東側エリアは、よくありません。一部で花も咲いてはいるのですが、背丈が伸びていませんし、咲いた花も貧弱です。約4,000株の花菖蒲があるとされています。6月1日から花菖蒲まつりですが、どうでしょう?

Img_8786c  さて、散歩コース、野鳥は相変わらずいません。知人のYさんも歩きがてら野鳥を見ておられるのですが、このところお目にかかっても、「今日もいませんねぇ」という話ばかり。それでも、貝塚公園では、あのモズの幼鳥に出逢えました。逆光のところに飛び出てきたので、こんな証拠写真しか撮れませんでしたが、それでも見られないよりははるかにマシ(微笑)。オスだろうと思っています。

Img_8736c  その他、桑名七里の渡し公園のところでは、カワラヒワ。これも色が薄い感じですから、幼鳥かも知れません。スズメの幼鳥Img_8850c もあちこちで見かけます。まだ親の側にいることが多いように思います。右は、田町からの帰り道、同じく、桑名七里の渡し公園のところで見かけたスズメの幼鳥。

Img_8816c  ツバメの巣も巡回してきました。左の写真は、桑名市博物館の玄関先の巣にて。親がやって来てエサを与えています。写真をImg_8827c 撮っていると、たいていこちらを見るような気がします。不審もしくは危険人物ではないかチェックされているのかも知れません(苦笑)。右は田町の商店にある巣。ヒナは少し成長してきた感じがします。先日、ここは、他のペアのツバメがやって来てもめ事が起きていましたが、今日は平穏。ここは、2ヶ所の巣があり、その別ペアは、北側の巣を使おうとしていたようですが、その気配、今日はありませんでした。これらの他、京町、吉津屋町、田町の3軒のお宅では、親ツバメが巣に就いていました。

Img_8760c  ところで、5月21日に九華公園の管理人さんがカラスに襲われた話を書きました(今日の散歩は二部構成(笑)……野鳥も花菖蒲もパッとはせず)。今日、そのあたりを恐る恐る、よく見てきましたら、神戸櫓跡の松の木の上の方にカラスの巣があり、ヒナImg_6830c がいるのが見えました。巣を見上げていると、親カラスがそばにある電柱に降りてきて、少し威嚇するように鳴き始めましたので、「これはヤバい」と思って早々に撤退しました。神戸櫓跡の東側、辰巳櫓跡との間の松の木にも、別の巣があるかも知れません。カラスがエサを咥えてきて運んでいましたから。これはしばらく、このあたりを歩く時はよほど気をつけないといけません。管理人さんたち(お二人が交代で勤務しておられます)は、お二人とも複数回襲われたそうですから、カラスに顔を覚えられた可能性が大でしょう。

20190519近鉄ハイキング「谷川士清旧宅と県立美術館・総合博物館春の専修寺を訪ねて」へ(その2)……津偕楽公園と、三重県立美術館「没後200年記念 増山雪斎展」

190519kintetsuhikingtsusinmachi2  5月19日の近鉄ハイキング「谷川士清旧宅と県立美術館・総合博物館春の専修寺を訪ねて」のその2です。その1では、谷川士清旧宅、谷川神社、士清の墓から國魂神社まで来ました。スタートから2.2㎞、國魂神社を拝観し終えて11時10分頃。思ったよりも時間がかかっていますが、谷川士清旧宅や、士清の墓で、谷川士清の会の方の説明をゆっくり聞いたことも影響しています。國魂神社から県道42号線を東に進み、左折して安濃川を新町大橋で渡って、三重県庁、津駅西方面に向かっています。

Img_6245c  県庁西の交差点です。スタートから3.7㎞地点。正面の大きな建物は、県議会の議事堂。向かって左にある茶色の建物が、三重県 Img_6261c_1 庁。どちらも、知ってはいますが、未だかつて中に入ったことはありません。ここを過ぎるとすぐ左手(西側)にあるのが、津偕楽公園。もとは「下部田山(しもべたやま)」あるいは「御殿山」と呼ばれ、藩主の鷹狩り場の休憩所の御殿が建てられていました。貞応年間(1652~1655)には藩士に労をねぎらうために、遊息の地として分け与えられたという記録があるそうです。津藩第11代藩主・藤堂高猷(とうどうたかゆき)公は、安政年間(1854~60)にこの地を家臣から買い上げて、別荘を設け、「御山荘」と呼ばれました。偕楽園の名は、園内の亭舎に「偕楽園」の扁額が掲げられていたことによるもので、「人々が偕に楽しむ」というところからきています。明治10(1877)年に「三重県公園」として整備しなおされ、津市民をはじめ、広く三重県民のいこいの公園となった。昭和38(1963)年には津市指定史跡名勝になっています。約5.5haの園内は、自然の丘陵や谷の趣が生かされ、春には桜や紫つつじ、秋には紅葉などが楽しめるところです。春は、花見の名所

 ちなみに、藤堂高猷公(文化10(1813)~明治28(1895)年)は、文政8(1825)年に津藩・11代藩主になっています。公武合体的佐幕論の考えを持っていました。鳥羽・伏見の戦では、津藩は初め傍観したものの、官軍について幕府軍を攻撃、さらに戊辰戦争・箱館戦争にも派兵しています。このため、桑名藩など幕府軍側からは「裏切り者」とされました。高猷公は、明治4(1871)年に隠居しています。

Img_6363c  偕楽公園には、公園として遊具なども設置されていますが、常夜灯や碑などの歴史的な記念物も多数あります。また、デゴイImg_6253c チの名で親しまれている国鉄D51形蒸気機関車が静態保存されています。その他、公園の北東端には三重県立博物館があったのですが、三重県総合文化センター隣接地に三重県総合博物館として移転開館し、また、かつては園内にあった三重県立図書館も同じく県総合文化センター内に移転しています。

Img_6349c  上述のように、公園内にはさまざまな歴史的記念物があります。かなり高低差のある公園内を回って、一通り見てきました(と書きつつ、実は、龍燈籠を見忘れました)。まずは、「部田(へた)の常夜燈」。この常夜灯はもともと、塔世橋の南詰にありましたが、のちに四天王寺の薬師堂前に移され、その後ここに来ています。元治元(1864)年に刊行された「五十世作楽(いそざくら)」に描かれた絵には、津の城下町の北の入り口にあたる門の側に描かれています。高さ3.5m、「天保元年庚申十二月建」とあります(天保元年は1830年)。この年、おかげ参りを機会に建てられ、旅人の安全や神宮への感謝、町内の安泰を祈るものでした。見忘れた龍燈籠は、龍の形をした燈籠で、頭上に火袋と獣口のついた笠石をのせ、身をよじっているといいます。藤堂高虎公が朝鮮から持ち帰ったとも、二代藩主・高次公が江戸でつくらせたものを移したともいわれるそうです。

Img_6268c  左の写真は、「中山武平君頌徳碑」。中山武平(ぶへい)は、明治2(1869)年、安濃郡村主(すぐり)村生まれ。養蚕業のImg_6276c 発展に寄与し、県高等養蚕伝習所を開設し、また、関西製糸株式会社を設立。地方行政刷新、教育施設の充実、公共事業にも尽力した人物。右の写真は、「拙堂斎藤先生碑」。斎藤拙堂は、津藩が生んだ全国的にも有名な漢学者で、多くの文人墨客と交流しました。寛政9(1797)年、津藩の江戸藩邸で生まれ、文政2(1819)年、儒員試補に抜擢。文政6(1823)年には講官となり、文政8(1825)年には藤堂高猷公の侍読(じとう;学問を教授する学者)を命ぜられました。弘化元(1844)年には藩校有造館の第3代督学(とくがく:学事を監督すること、人)となっています。 

Img_6359c_1  次に、「鍼聖(しんせい)杉山総検校(そうけんぎょう)頌徳碑」。本名は杉山和一(わいち)。津藩士の子どもとして、慶長8(1603)年生まれ。幼くして失明。江戸に出て鍼術を究め、5代将軍・徳川綱吉の病にも施術し、ついに最高位の関東総検校になりました。鍼の施術法の一つである管鍼 (かんしん) 法(鍼術で金属製の管に入れ、その端を指でたたいて患部に刺し込む鍼)の創始者です。総検校とは、室町時代以降、当道(特定の職能集団が自分たちの組織をいう語で、狭義には特に室町時代以降に幕府が公認した視覚障害者の自治組織)の最高責任者で、全国の視覚障害のある人を統轄しました。昭和44(1969)年建立。

Img_6345c  「田上一雄君追懐碑」。津の人で、日露戦争に予備少尉として従軍し、死没した方の追悼碑。第三師団第三十三歩兵連隊に従軍したとあります。第三十三歩兵連隊は、日露戦争当時は、名古屋・守山に連隊本部がありました。その後、大正14(1925)年には、第3師団から第16師団に所属変更され、守山から久居(現陸上自衛隊久居駐屯地)に転営しています。建立者は、岡山医学専門学校の校長と教授の名前がありますから、医学生だったのではないかと思います。

Img_6323c  「孝女登瀬碑」です。登瀬は、天明8(1788)年、員弁郡阿下喜村(現在のいなべ市阿下喜)の農家に生まれ、安芸郡山田井村で養女となり、さらに6歳の時、安濃郡連部(つらべ)村の養女となりました。しかし、養父母は病弱なため野良仕事ができず、貧窮で家屋敷も手放すような有様でした。登瀬はこの養父母を養うため、昼は方向、夜は養父母に孝養を尽くしたといいます。津藩第10代藩主・藤堂高兌(たかさわ)公はその孝養を聞き、米20俵を与えて賞し、田一反(約992平方メートル)あまりも授けたそうです。

Img_6313c  これは、「松本宗一碑」。松本宗一(天保13(1842)~明治22(1889)年)は、明治時代の新聞人で、明治11(1878)年、「伊勢新聞」を創刊し、社長となりました。その後、三重県会議員も務め、県民に民権思想をひろめるなど、県下の言論界をリードした人物です。伊勢新聞は、三重県内初の日刊紙。新聞となった第1号は、「松本家志」によれば、明治11(1878)に刊行されました。当初は13部の手書きだったといいます。

Img_6308c  左の写真は「殉職警察官吏消防組員招魂碑」です。昭和10(1935)年に警察教会三重支部と三重県消防協会によって建てらImg_6306c れたもの。それまでの殉職警察官25柱、同消防職員6柱の招魂碑です。右は、「三重県公園記念碑」。明治10(1877)年に建てられたもので、現在の偕楽公園が三重県公園として整備されたいきさつや、偕楽公園の四季の美しさを賞賛し、また、勉学の大切さを説いています。撰並びに書の福井氏はのちに安濃郡長になりました。

Img_6296c_1  「忠魂報國碑」です。日清戦争(明治27(1894)~28(1895)年)に従軍し、亡くなられた陸軍歩兵一等兵・加藤嘉吉氏を記念した碑です。この加藤嘉吉氏の碑の奥(南側)に「征西陣亡士卒招魂碑」もありましたが、見逃していました。明治10(1877)の西南戦争で死亡した兵士の招魂碑で、津町・安濃郡出身の兵士22名の名が記されているそうです。

Img_6284c  公園内の案内板には、旧塔世橋常夜灯、龍燈籠の他、10基の石碑などがあげられていました。案内板も見たもImg_6284c2 のの、じっくりと確認しなかったがため、龍燈籠と征西陣亡士卒招魂碑を見逃してしまいました(苦笑)。記事を書くときにいろいろと調べたところ、「鳥居古墳石室・石棺」が、移転・復元されているということも分かりました。これは、県庁駐車場の東南(鳥居町193番地)にあったものが、土が崩れて危険なため、昭和38年3月発掘調査を行い旧・三重県立博物館横に移転、復元したもののようです(こちら)。ただし、県立博物館は、移転したあと敷地内には入れないようになっていました。事前の予習をもう少しきちんとしておくことと、現地の案内板はよくよく確認しないといけません。分かってはいるものの、なかなか徹底できません。

Img_6365c  左は、旧・三重県立博物館。昭和28(1953)年6月に開館しましたが、建物が耐震基準を満たさないため、平成19(2007)Img_6372c_1 年10月10日から展示室を閉鎖。平成23(2011)年から26(2014)年にかけて三重県総合文化センターの隣接地に新しく博物館が建設され、三重県総合博物館として再開館されました。偕楽公園を回り終えたのは、12時ちょうどで、4.6㎞。スタートから2時間余り。まだ半分も歩いていませんので、先を急ぎます。

Img_6375c  津駅西の交差点を左折し、三重県立美術館へ。昭和57(1982)年に中部・東海地区初の本格的な美術館として開館していまImg_6389c す。日本の近代洋画のコレクションが充実しているそうです。うろ覚えなのですが、最初の職場で患者さんたちを引率して、何かの展覧会を見に来たような気がします。あらかじめ打ち合わせに来たとき、学芸員の方が親切に対応してくださったことはよく覚えています。その後、平成3(1991)年5~6月に行われた「高田本山専修寺展」に私の父親を連れてきたら、たいそう喜んでいた記憶があります(その後、高田本山専修寺にも一緒に参詣しています)。緑も多く、落ち着いた雰囲気の中にあります。

Img_6379c  余談はともかく、この日の近鉄ハイキングに参加した目的の一つが、ここで開催中の「没後200年記念 増山雪斎 展」(6月16日まで)を見ることでした。増山正賢(ましやままさたか;宝暦4(1754)~文政2(1819)年)は、伊勢長島藩第5代藩主にして、書画に長けた文人大名として、「雪斎(せっさい)」の号で知られています。山水人物から花卉草虫に至るまで、数多くの作品を遺しました。とりわけ、虫類を真写した博物図譜、花鳥画にみられる表現の精緻は、高く評価されてきました。桑名市博物館で展覧会(「増山雪斎~大名の美意識~(平成19(2007)年10月~11月)を見たのですが、この展覧会も何とか見てみたいと思っていました。絶好のチャンス。この日は、家庭の日ということで、通常¥900のところ、¥700で入場できました。

Sessai  雪斎について詳しく紹介するほどの知識はありませんが、細密で色鮮やか、作風も幅広いという印象を持っています。写実的で色鮮やかな花鳥画が特徴とされます。左は、展覧会のチラシ(三重県立美術館のサイトからお借りしました)。こちらに展覧会の詳細があります。「虫好き大名、今日も描く」というキャッチコピー、なかなかよくできていると思います。雪斎は、25年間藩主を務めた後、17歳の息子に家督を譲り、その後は東京・巣鴨で風流三昧の日々を送ったそうです。行政面での業績はあまり知られていませんが、文化人としては一流だったといわれます。ここでも30分以上かけてじっくり見てきました(微笑)。

Img_6395c  さて、増山雪斎展を見終えて、12時45分。まだ先も長いので(美術館で5.5㎞とほぼ半分)、前庭を借りて、弁当を食べることにしました。当初は、高田本山専修寺でと思っていたのですが、このペースでは、専修寺に着くのは14時過ぎになりそうでしたから。この日のコースでは、飲食をともなうようなイベントはなさそうでしたので、例によって駅ナカファミマの「バラエティおかず&おむすび(税込¥368)」。ハイキングの受付で「ご当地弁当」でも売ってくれると、その土地の名物などが食べられてありがたいと思うのですが……。弁当を食べている間にヤバい事態が生じました(笑)。予報と異なり、雨がポツポツと……。まぁ仕方ありません、行けるところまで行って、ダメならバスに乗って津駅に行こうと、次の目的地である三重県総合博物館を目指します。幸い、バスが通る道。途中、バス停で雨宿りしつつ行きます。13時に再出発。

 その2はここまで。次は、三重県総合博物館から高田本山専修寺へ向かいます。

2019年5月22日 (水)

江戸橋は今日も好天だった(微笑)

Dscn1073c  今日もよい天気で、桑名では28℃を超え、暑いくらいになりました。今日は、江戸橋での仕事の日。4月の2回は天候には恵まれませんでしたが、10連休明けは、3回連続の好天で「3連勝」。これで巡り合わせが代わったかも知れません(微笑)。学生たちの出席状況も、先週は83%ほどに落ちたものの、それ以外はほぼ90%をキープしています。今年度は、出席をきちんと確認するよう依頼が来ています。来年度から始まる給付型奨学金制度との関連で、厳格かつ適正な成績管理を実施・公表しているなどの要件を満たさないと、給付型奨学金制度の対象大学にしないという決まりがあるそうですから、大学・短大も大変です。

Dscn1070c  ところで、先週授業に行ったとき、助手の先生から校舎棟の2階にツバメが巣を作り始めているという話を伺い、今日は見てこなくっちゃとちょっとだけ意気込んで出かけたのですが(授業にもそれくらいの意気込みはあるんだろうな、というツッコミはありえます……苦笑)、残念ながら、諦めてしまったようだということでした。また、先週、先々週とグラウンドでヒバリを見たのですが、今日はそれもおらず。まぁ、本務に専念しろということでしょう(笑)。

 

 

2019年5月21日 (火)

20190519近鉄ハイキング「谷川士清旧宅と県立美術館・総合博物館春の専修寺を訪ねて」へ(その1)……谷川士清旧宅、谷川神社、福蔵寺にある士清の墓から國魂神社へ

 5月19日の近鉄ハイキング「谷川士清旧宅と県立美術館・総合博物館春の専修寺を訪ねて」の本編です。この日は、午前中は曇りがち、途中、県立美術館を出て総合博物館へ行くまでは小雨に降られ、その後は晴れてくるという天候に恵まれました(苦笑)。

Img_6081c  受付は、近鉄名古屋線・津新町駅にて9時半から10時半ということでしたので、桑名駅を9時1分に出る五十鈴川行き急行に乗Img_6085c 車。9時48分に到着。¥750。受付開始からすでに20分ほど経っていますから、もう混雑はしていません。慌てて来る必要はありませんし、ゆっくり回ればよいと思って、です。いきなりの昔話ですが、津新町駅に向かって右手(右の写真で)には、今はグランステーシア津新町というマンションが建っていますが、昔はここに近鉄東海ストアがありました(昭和63(1988)年まで)。また、すぐ近くには、娘が生まれた病院もありますので、ちょっと懐かしいエリアです。

Img_6080c  それはさておき、左の画像がこの日のコースマップ。津新町駅を出て、谷川士清旧宅、谷川神社、國魂神社を回って津偕楽公園190519kintetsuhikingtsusinmachi へ。その後は、三重県立美術館、三重県総合博物館、三重県総合文化センターから高田本山専修寺。ゴールは、近鉄名古屋線・高田本山駅という、マップ上は10.4㎞。右は、実際に歩いたルートマップ。今日のコースあたりはほとんどなじみがあるところや、何度か来ているところですので、重大なコースミスはしでかしませんでした。谷川士清旧宅や谷川神社は、以前から訪ねてみたかったところ。このあたりや、國魂神社が初めて訪れるところです。9時56分にスタートしました。

190519kintetsuhikingtsusinmachi1  こちらは、拡大した実測ルートマップその1。津新町駅を出て、駅のすぐ北を通る県土163号線を西へ。県立津高校の手間で右Img_6095c 折し、すぐに旧・伊賀街道に入ります(左折)。最初の立ち寄りポイントである谷川士清旧宅は、この旧・伊賀街道沿いにあります。右の写真は、津新町駅から県道163号線を経て、伊賀街道に入ったあたり。伊賀街道は、伊勢・伊賀二国の大名・藤堂高虎が移封された後、津(本城)と上野(支城)をむすぶ最も重要な官道として整備された、全長約12里(約50㎞)の街道です。この道は上野経由で伊勢に向かう参宮客だけでなく、津方面から水産物や塩が、また、伊賀方面からは種油や綿などが運ばれた伊賀・伊勢両国の経済・生活の大動脈でもありました。

Img_6097c  伊賀街道に入って少し歩いて行くと、谷川士清旧宅周辺の文化財散策マップがあります。これは大きくて、分かりやすい優れImg_6100c ものです。その脇には、谷川士清が詠んだ和歌も掲げられていました。「別れこし みやこの空も 身にしみて 又なつかしき いせの浦風」とあります。今日と遊学を終えた士清が、故郷への帰路、鈴鹿の峠を越えて、ふと香る潮風に故郷を感じて詠んだものだそうです。

Img_6116c_1  スタートから1.2㎞で谷川士清旧宅に到着。谷川士清(たにがわことすが;宝永6(1709)~安永5(1776)年)は、伊勢の生んだ二大国学者の一人で、本居宣長と並び称される学者です。八町で町医を営む谷川義章の長男として生まれ、幼い頃から家Img_6114c 業を継ぐため勉学に励み、さらに一人前の医者になるため享保15(1730)年頃から京都に遊学しています。享保20(1735)年、津に帰郷、父の跡を継いで医者となり、地域・近郊の人々の信頼を受けていました。医業のかたわら学問にもうちこみます。士清自身の研究による著書として、宝暦元(1751)年には、20年あまりかけて研究した日本書紀の注釈書「日本書紀通証(ニホンショキツウショウ)」(全35巻)を完成させました。特に第1巻附録の「和語通音」は動詞の活用図表で(現在の五十音表)、それを見た本居宣長はその学識にうたれ、以後手紙を交わして交友が始まりました。また士清のもう一つの偉業に、わが国最初の五十音順にならべられた国語辞典、「和訓栞」(全93巻)をまとめたことが挙げられます。この「和訓栞」が実際にすべて出版されたのは、明治20(1887)年で、士清が亡くなってから110年後のことでした。士清の遺志をついだ子孫の人々が本にしたのです。谷川士清の会のサイトにも、詳しい業績が書かれています(こちら)。この日も、谷川士清の会の方々が案内や説明をしてくださいました。

Img_6105c  谷川士清は、本居宣長に比べその知名度は今ひとつです。これは、彼が、水戸光圀が編集した「大日本史」の誤りを一つ一つImg_6109c 指摘した「読大日本史私記」を書いたがため、日ごろ士清を快く思っていなかった幕府に格好の弾圧の口実を与えることになったからだといいます。幕府の圧力は、津藩を通して一気に強まり、士清は「他参留(たさんどめ)」(津藩領国からの出国禁止)、長男士逸(ことはや)は「所払い」(津領内への入国禁止)の処分を受けました。左の写真は、谷川士清旧宅の前にある士清の辞世の歌を説明したもの。「何故爾砕伎志身會登人問婆其禮等答牟日本玉之譬(なにゆえに 砕きしみぞと 人問はば それと答えむ やまとだましい)」。なぜそんなに(勉学に)努力するのですかと問われれば、私は日本玉霊(やまとだましい=神道、国学)を究めるためです、と答えるでしょう、という意味。

Img_6103c  ところで、この谷川士清旧宅の辺りは、八町という地名です。藤堂高虎公が、津城下を拡張、整備した際、八町畷と呼ばれたところに町がつくられたことに因むといいます。伊賀街道に面したこの辺は、江戸店を持つ商人や、士清などの学者、文化人が住む、賑やかな町であったそうです。

Img_6124c  谷川士清旧宅からら300m足らずのところに谷川神社があります。主祭神は、谷川士清と、古世子大明神。こImg_6130c こは、玉むしの森と呼ばれ、士清が日々祈念していた古世子明神がもともとあったところ。旧来の古世子大明神は、長保2(1000)年創祀と伝えられる由緒のある地です。谷川士清の功績を後世に伝える事を目的に、明治末頃から地元の有力者が中心になって、神社の創建を国に請願し、大正14(1925)年に創立許可され、昭和8(1933)年1月6日、士清の御霊代を鎮めて現在に至っています。その社殿は「石をこよなく好んだ」士清翁に因み1メートル程に積み上げられた石の上に建てられました。

Img_6161c  境内には、谷川士清の「反古塚(ほごづか)」があります。士清が、晩年(安永4(1775)年)、自ら築き、建立の日から3日続けて玉虫が姿を現したことから「玉虫塚」の名もあります。後世に自分の説が誤って伝わることがないように、これまで自分が書いて不用になったメモや下書き(反古)を埋めたといわれています。碑陰には、士清の辞世の歌が刻まれています。市指定史跡。

Img_6167c  谷川神社には、「遙拝所」もありました。皇紀二千六百年(昭和15(1940)年)に建てられています。この年は、神武天皇の即位から2,600年目に当たるとされ、全国的にさまざまな記念行事が行われました。南西の方角に建てられていますから、伊勢神宮の遙拝所で間違いありません。

Img_6169c  谷川神社のすぐ隣に福蔵寺があります。臨済宗妙心寺派のお寺なのですが、ボランティア・ガイドの方によれImg_6171c ば、現在は無住で、檀家の数も少ないということでした。谷川家の菩提寺だったといいます。もとは、勅願寺で、寺域もかなり広大であったそうです。境内には、稲荷社や、初午堂もあるのですが、残念ながら、少し荒れてしまっています。

Img_6142c  墓域内には士清と孫の士行(しこう)、父の義章の3人の墓があります。しかし、津藩から所払い処分を受けた長男士逸はありません。左の写真は、士清の墓。正面に「淡斎谷川士清之墓」Img_6133c と、右側に「宝永己丑(1709年)二月廿六日生 安永丙申(1776年)十月十日終」、左側には「孝子士逸謹建」と刻まれています。国の史跡。士清は幼い頃から、このお寺で住職・浩天和尚に様々なことを学んだといいます。

Img_6186c  谷川神社・福蔵寺を拝観し終えて、時刻は10時50分。次の目的地である國魂神社へ向かいます。伊賀街道を少し戻Img_6189c って左折し、県道42号線に出て右折。東に向かい、スタートから2.2㎞で到着。こちらが、國魂神社。昔から「くにたまさん」「八王子さん」(はっちょいさん)「宮さん」といって、氏子の方々から親しまれました。國魂神社は天地造化の神、八柱の神を祀り、八王子社と稱し、延喜(901)以前にすでに存在していた非常に古い神社です。慶長13(1608)年、藤堂高虎公の城郭拡張の際、全村西に移され現在の地に鎮座し、宝暦9(1759)年、桃園天皇より神階正一位の勅額を賜っています。明治4(1871)年、八柱神社と改称、更に同41(1908)年3月國魂神社と改称され、同年9月に近在の村社八社、無格社及び境内社等27柱を合祀し、祭神35柱を奉斎することになりました。主祭神は、国狭槌尊(くにさづちのみこと;土地をつかさどる神)、豊斟渟尊(とよくもぬのみこと;天地の間に混沌としたものが雲のようにただようさまを神格化したもの)、泥土煮尊(ういじにのみこと;妹の沙土煮尊(すいじにのみこと)と男女一対の神で、宇比地は泥土、須比智は砂土で、土砂を神格化した神)、沙土煮尊(すいじにのみこと)、大戸道尊(おおとのじのみこと;女神・大苫辺尊(おおとまべのみこと)と対をなす。大戸は「大所」で、大地が凝固した時を神格化した神)、大戸邊尊(おおとのべのみこと;大戸道尊の妹。大地が完全に凝固した時を神格化したとする説があり、「道(地)」は男性、「邊(弁)」は女性の意味)、面足尊(おもだるのみこと;神から人への橋渡しとして、人体の完成を表わす神とする説、 整った容貌に対する畏怖を示すとする説、 神の言葉の神格化とする説、 あるいは、防塞守護の神とする説などいろいろ)、惶根尊(かしこねのみこと;面足尊とともに生まれた女神)のいわゆる「造化神」八柱。神様調べは、やはり難しいというのが、率直な感想。造化神というのは、今まではあまりお目にかかっていないと思います。

Img_6197c  相殿神は、大国主尊、少毘古那尊、月読尊(つくよみのみこと;月の神。夜の食国(おすくに)の支配を命じられた)、建速須佐之男尊、天之忍穂耳命、天之菩卑命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須卑命、多紀理毘売命、市杵島毘売命、多岐都毘売命、志夫美宿禰(しのぶすくね;古事記にのみ登場する、開化天皇の孫)、仁徳天皇、大日霊貴命、豊受毘売命、稲倉魂命、応神天皇、日子穂穂出見命(ヒコホホデミノミコト;海幸山幸の神話で知られる山幸)、天児屋根命、菅原道真、大山祇命、速玉之男神、火具土神、罔象女神、八衢比古神、八衢比女神の27柱。神社検索三重のサイトからコピー&ペーストしました(笑)。自分で打ち込むのはとてもではありませんが、大変。検索も、ちょっとサボらせてもらって、初めて目にした(と思う)神様のみでご容赦いただきます。しかし、主祭神を含め、35柱の神様を奉祝するのも大変ではないかという気がします。拝殿は、平成8(1996)年に改築されています。

Img_6209c

 境内には、稲荷社がありました。由緒書きには、「本殿東側に伏見稲荷大社の御分霊を祀る稲荷社を拝し」とあるのみで、稲Img_6213c 荷社そのものの由緒は不明。さらに、由緒書きには、「西側に氏子地域内より寄せられた山の神石碑を祀る」とありましたが、これには気づきませんでした。鳥居をくぐって右手(東側)には、「神宮遙拝所」もあります。これは、大正9(1920)年11月に建てられています。

Img_6220c_1  さらに、忠魂碑も境内にあります。これは、神社前に立てられていたものを昭和17(1942)年に移したものだといいます。戊辰戦争以降の300柱を祀る碑です(こちら)。大正9(1920)年10月建之。「元帥子爵 川村景明 書」とあります。川村景明(かわむらかげあき;嘉永3(1850)~大正15(1926)年)は、薩摩に生まれた陸軍軍人、華族。薩英戦争・戊辰戦争に従軍したのち、東京衛戍総督、鴨緑江軍司令官等を歴任しています。

 その1は、ここ國魂神社まで。このあと、県道42号線をもう少し東に行き、左折。安濃川を新町大橋で渡って、三重県庁、津駅西方面に向かいます。次の目的地は、津偕楽公園。その2は、この偕楽公園から。

今日の散歩は二部構成(笑)……野鳥も花菖蒲もパッとはせず

Img_6759c_1  よく降りました.午前中も9時半過ぎ頃までは時々小雨。10時頃、青空が見えてきたので、散歩に出かけました。が、途中、七里の渡し跡地角の知人宅に立ち寄ったら、思わぬ長居。11時半までいてしまい、いったん帰宅。1㎞歩いたかどうかでしたので、昼食を済ませ、一休みして14時15分頃から、再散歩(笑)。田町、京町、九華公園、住吉神社といつもとは逆コースで15時半帰宅。あわせて6.6㎞を歩いてきました。冒頭の写真は、住吉神社の狛犬と拝殿。

Img_8690c  中途半端な散歩でしたので、スズメ、ムクドリ、ドバトなど以外に出会った鳥は、ヒバリくらい。左は、午前中の散歩で、揖斐Img_8725c_1 川の堤防にいたヒバリ。たぶんオス(冠羽が見えていますので)。右は、午後からの散歩帰りに、桑名七里の渡し公園にいたヒバリ。ここでヒバリを見るのは初めてですので、その証拠。これはオスで、近くにメスと思われるヒバリもいました。

Img_6768c  午後からは、ツバメの巣も巡回してきました。まずは、田町の商店の巣。左の写真のように、5羽。ここには2つの巣があります。昨日は気づきませんでしたが、これまで空いていた北側の巣が、修復されており、今日はツバメが2羽その近くに来ていました。昨日のトラブルは、ご近所さんのもめ事かも知れません。このほか、近くの民家の巣にも親ツバメが就いています。

Img_8710c  こちらは桑名市博物館にある巣。ちょっとピントが合っていませんが、ヒナは4羽。親がやって来てエサを与えています。このほか、吉津屋町にある巣と、この近くの民家の巣でも、親ツバメが巣に就いていました。したがって、現在ヒナがいるのが2ヶ所、親が巣に就いているのは3ヶ所。もう1ヶ所で営巣するかも知れないという状況です。

Img_6784c  九華公園には、14時40分頃到着。この時間では野鳥はいません。散歩するメンバーも、午前中とは異なった方々ばかりで、顔Img_6793c_1 なじみはいらっしゃいません。管理人のKさんに久しぶりにお目にかかったら、先日、カラスに襲われたとおっしゃっていました。本丸跡で営巣しており、ヒナが落ちたりしたことがあったそうです。そのあたりで清掃作業をしておられたら、後ろからカラスに後頭部を直撃されたそうです。嘴で突かれたか、足で蹴られたかは定かではないようですが、目から火が出た!とおっしゃっています。夜、その夢でうなされたとも。笑い事ではありません。子育て中のカラスには要注意です。

Img_6797c  ところで、花菖蒲園の様子。左は、管理事務所の南のところ。南西から撮りましたので、あまりよく写ってはいませんが、朱Img_8718c い橋の近くに10数輪咲いています。去年並かと思いますが、他の2ヶ所は、あまりパッとしません。例年、5月末にはかなり咲きますので、来週の様子を待ちたいと思います。

Img_8723c

 帰りがけ、揖斐川の堤防にカワラヒワがやってきました。「河原鶸」ですから、これがホントの「カワラヒワ」(微笑)。明日は、水曜日で江戸橋方面での仕事。雨というジンクスは打ち破ったかも。ただし、油断はいたしません。

2019年5月20日 (月)

京町の呉服屋のツバメのヒナは巣立っていました……博物館の巣でもツバメのヒナ誕生

Img_6752c_1  スッキリしない天候です。午後4時を過ぎて雨が当たってきた感じですが、それまでは曇天と、強めの風という日。こんな天候でImg_6736c すし、今日はエレベーターの部品交換が実施されるため、10時から12時までは運転停止。ということで、早めに散歩に行って帰ってこようと、8時半出発で10時前帰宅のつもりで出かけました。しかし、マーフィーの法則ではありませんが、こういうときに限って知り合いに出会って、話し込んでしまうものです(苦笑)。住吉神社から七里の渡しへ行ったところと、九華公園内でそれぞれ知人、合計三方に遭遇。「今日は急ぎます」と事情を話したら、「それなら、私のところへ寄って、お茶でも飲んでゆっくりしていけ」とおっしゃる方もありました。それはそれでありがたいのですが……。貝塚公園方面はパスして、京町、田町でツバメの巣を確認しているうちに10時を過ぎてしまい、アウト。9階まで階段を登って帰宅(笑)。

Img_6630c  九華公園では、ツツジはほとんど花が終わりました。花菖蒲園は3ヶ所ありますが、管理事務所の南、奥平屋敷跡への入り口のとImg_6634c ころは左の写真のような感じです。いつも「去年の今頃の方がよく咲いていた気がする」と書くのですが、過去記事の写真を見ると、大差はなさそうです(2018年5月20日:5月らしい陽気……花菖蒲はボチボチ)。右は、ここで咲いていたものなのですが、品種名の札がない列に咲いていましたので、何という種類か、分かりません。

Img_6638c  こちらは、奥平屋敷跡の菖蒲園で咲いていたもの。何度か書いていますが、管理形態と、管理委託業者が代わり、4月以降、造園業者さんが来て手入れをするということがなくなりました。今年の咲き具合も気になりますが、来年以降、花菖蒲だけでなく、桜やツツジがどうなるのか、心配になります。鳥は、ドバト、ムクドリ、スズメ、カラス、ハクセキレイのみ。今日は、雨に降られるとイヤだと思って、超望遠コンデジのみ持参。スズメの写真をたくさん撮ったものの、ピンぼけなど多発(笑)。

Img_6678c  ツバメの巣チェックの結果。京町の呉服屋さんの巣は空っぽ。5/18(土)から今日までの間に巣立ったと思われます。右は、Img_6670c 桑名市博物館の玄関先にある巣。雛が孵ったばかりのようでした。ずっと親が巣に就いていたわけではありませんでしたので、「いつの間に?」というのが率直な感想です。少なくとも3羽いるようでした。

Img_6705c  田町の商店にある巣。しばらく見ていたら、親ツバメが4羽、入り乱れて、空中戦というと大袈裟ですが、バトルを展開。この巣の持ち主でないツバメのつがいが近くにやって来たため、追い払おうとしているように見えました。写真は、その最中、この巣の親ツバメがいったん巣に戻って、警戒しているところ。ヒナは5羽、もしくは6羽いるようです。このほか、現在、親ツバメが巣に就いているのは、私が見ている範囲では、京町(呉服屋さんとは別)、吉津屋町、田町でそれぞれ1軒です。

2019年5月19日 (日)

20190519近鉄ハイキング「谷川士清旧宅と県立美術館・総合博物館春の専修寺を訪ねて」へ(予告編)

  本日は、近鉄ハイキング「谷川士清旧宅と県立美術館・総合博物館春の専修寺を訪ねて」へ行ってきました。午前中は曇りがち、途中、県立美術館を出て総合博物館へ行くまでは小雨に降られ、その後は晴れてくるという天候に恵まれました(苦笑)。例によって、今日のところは予告編を。

Img_6084c 今日の受付は、近鉄名古屋線・津新町駅。4月28日にもここからのハイキングに来ています(20190428近鉄ハイキング「『阿漕』砂浜ハイキングと津グルメ散策』へ(予告編))。受付は、9時半から10時半ということでしたので、桑名駅を9時1分に出る五十鈴川行き急行に乗車。9時48分に到着。¥750。受付開始からすでに20分ほど経っていますから、もう混雑はしていません。慌ててくる必要はありませんし……。

Img_6080c  今日のコースマップ。津新町駅を出て、谷川士清旧宅、谷川神社、國魂神社を回って津偕楽公園へ。その後は、三重県立美術190519kintetsuhikingtsusinmachi 館、三重県総合博物館、三重県総合文化センターから高田本山専修寺。ゴールは、近鉄名古屋線・高田本山駅という、マップ上は10.4㎞。右は、実際に歩いたルートマップ。今日のコースあたりはほとんどなじみがあるところや、何度か来ているところですので、幸いコースミスはしでかしませんでした。谷川士清旧宅や谷川神社は、以前から訪ねてみたかったところ。このあたりや、國魂神社が初めて訪れるところです。9時56分にスタートしました。

Img_6095c  最初の立ち寄りポイントである谷川士清旧宅は、旧・伊賀街道沿いにあります。左の写真は、津新町駅から県道163号線を経て、伊賀街道に入ったあたり。伊賀街道は、伊勢・伊賀二国の大名・藤堂高虎が移封された後、津(本城)と上野(支城)をむすぶ最も重要な官道として整備された、全長約12里(約50㎞)の街道。この道は上野経由で伊勢に向かう参宮客だけでなく、津方面から水産物や塩が、伊賀方面から種油や綿などが運ばれた伊賀・伊勢両国の経済・生活の大動脈でもありました。

Img_6116c  こちらが谷川士清旧宅。谷川士清(たにがわことすが;宝永6(1709)~安永5(1776)年)は、伊勢の生んだ二大国学者の一人で、本居宣長と並び称される学者です。八町で町医を営む谷川義章の長男として生まれ、幼い頃から家業を継ぐため勉学に励み、さらに一人前の医者になるため享保15(1730)年頃から京都に遊学しています。享保20年(1735)、津に帰郷、父の跡を継いで医者となり、地域・近郊の人々の信頼を受けていました。医業のかたわら学問にもうちこみます。士清自身の研究による著書として、宝暦元(1751)年には20年あまりかけて研究した日本書紀の注釈書「日本書紀通証(ニホンショキツウショウ)」(全35巻)を完成させました。特に第1巻附録の「和語通音」は動詞の活用図表で(現在の五十音表)、それを見た本居宣長はその学識にうたれ、以後手紙を交わして交友が始まりました。また士清の偉業に、わが国最初の五十音順にならべられた国語辞典、「和訓栞」(全93巻)をまとめたことが挙げられます。谷川士清は、本居宣長に比べその知名度は今ひとつです。これは、彼が、水戸光圀が編集した「大日本史」の誤りを一つ一つ指摘した『読大日本史私記』を書いたがため、日ごろ士清を快く思っていなかった幕府に格好の弾圧の口実を与えることになったからだといいます。幕府の圧力は、津藩を通して一気に強まり、士清は「他参留(たさんどめ)」(津藩領国からの出国禁止)、長男士逸(ことはや)は「所払い」(津領内への入国禁止)の処分を受けました。

Img_6124c  谷川士清旧宅から300m足らずのところに谷川神社があります。主祭神は、谷川士清命、古世子大明神。玉むしの森と呼ばれ、士清が日々祈念していた古世子明神ゆかりの地に社殿を構えています。谷川士清の功績を後世に伝える事を目的に、明治末頃から地元の有力者が中心になって、神社の創建を国に請願し、大正14(1925)年に創立許可されました。その社殿は「石をこよなく好んだ」士清翁に因み1メートル程に積み上げられた石の上に建てられ、昭和8(1933)年1月6日、士清の御霊代を鎮めて現在に至っています。境内地は、旧来の古世子大明神が長保2(1000)年創祀と伝えられる由緒のある地です。

Img_6161c  境内には、谷川士清の「反古塚(ほごづか)」があります。士清が、晩年(安永4(1775)年)、自ら築き、建立の日から3日続けて玉虫が姿を現したことから「玉虫塚」の名もあります。後世に自分の説が誤って伝わることがないように、これまで自分が書いて不用になったメモや下書き(反古)を埋めたといわれています。市指定史跡。

Img_6169c  谷川神社の北隣にあるのが、福蔵寺。臨済宗妙心寺派のお寺なのですが、ボランティア・ガイドの方によれば、現在は無住Img_6142c で、檀家の数も少ないようです。元々、谷川家の菩提寺だったといいます。墓域内には士清と孫の士行(しこう)、父の義章の3人の墓があります。もとは、勅願寺で、寺域もかなり広大であったそうです。右は、士清の墓。正面に「淡斎谷川士清之墓」と刻まれています。国の史跡に指定されています。士清は幼い頃から、このお寺で住職・浩天和尚に様々なことを学んだといいます。

Img_6186c  谷川神社から800mあまり。県道42号線沿いにあるのが、國魂神社。昔から「くにたまさん」「八王子さん」(はっちょいさImg_6197c ん)「宮さん」といって、氏子の方々から親しまれました。國魂神社は天地造化の神、八柱の神を祀り、八王子社と稱し、延喜(901)以前にすでに存在していた非常に古い神社です。慶長13(1608)年、藤堂高虎公の城郭拡張の際、全村西に移され現在の地に鎮座し、宝暦9(1759)年、後桜町天皇より神階正一位の勅額を賜っています。明治4(1871)年、八柱神社と改称、更に同41(1908)年3月國魂神社と改称され、同年9月に近在の村社八社、無格社及び境内社等27柱を合祀し、祭神35柱を奉斎することになりました。主祭神は、国狭槌尊(くにさづち)、豊斟渟尊(とよくもぬ)、泥土煮尊(ういじに)、沙土煮尊(すいじに)、大戸道尊(おおとのじ)、大戸邊尊(おおとのべ)、面足尊(おもだる)、惶根尊(かしこね)のいわゆる「造化神」八柱。神様調べは、また本編を書く際に行います。

Img_6261c  県道42号線をさらに東へ。新町大橋を渡って、三重県庁方面へ。県庁西の信号を過ぎた左手(西側)にあるのが、津偕楽公園。昔は「御山荘(ごさんそう)」、または「御山荘山」といい、津藩第11代藩主・藤堂高猷(とうどうたかゆき)公が、安政Img_6363c 年間(1854~60)に別荘を設けたのが始まり。偕楽園の名は高猷公の俳号からきています。明治23(1890)年に津市の公園となり、約5.5haの園内は、自然の丘陵や谷の趣が生かされ、春には桜や紫つつじ、秋には紅葉などが楽しめるところです。春は、花見の名所。

Img_6353c  園内には、江戸藩邸から移築した灯籠や、天保元(1830)年」の年号がある常夜灯(塔世橋南詁から四天王寺薬師堂前を経て移築;左の写真Img_6276c )のほか、漢学者で津藩校有造館督学・斎藤拙堂(右の写真)や、津出身の針術創出者・杉山検校、「伊勢新聞」の創始者・松本宗一の碑などが建っています。見所満載でしたので、かなり高低差のある公園内を30分ほどかけて一周。そのお陰で、私の前後には、ハイキング参加者の姿がほとんど見えなくなりました(笑)。偕楽公園をでたあたりで4.6㎞を歩き、時刻は12時。まだ半分も来ていませんので、先を急ぎます。

 公園を出て北へ。津駅西の交差点を左折し、西へ。三重県立美術館を訪ねます。Img_6389c現在、「没後200年記念 増山雪斎 展」が開催Img_6379c されているのです。増山正賢(ましやままさたか;宝暦4(1754)~文政2(1819)年)は、伊勢長島藩第5代藩主にして、書画に長けた文人大名として、「雪斎(せっさい)」の号で知られているのです。山水人物から花卉草虫に至るまで、数多くの作品を遺しました。とりわけ、虫類を真写した博物図譜、花鳥画にみられる表現の精緻は、高く評価されてきました。桑名市博物館で展覧会を見たことはあるのですが、この展覧会も何とか見てみたいと思っていましたので、絶好のチャンス。今日は、家庭の日ということで、通常¥900のところ、¥700で入場できました。

Img_6395c  展覧会を見て出て来たら、12時45分でしたので、美術館の前庭で昼ご飯。例によって、駅ナカファミマの弁当。本当は、高田本山専修寺で食べようと思っていたのですが、谷川士清旧宅、谷川神社とここでゆっくりしすぎました(苦笑)。このペースでは、弁当を食べられるのは14時過ぎになりそうでした。弁当を食べている間にヤバい事態が(笑)。雨がポツポツと……。まぁ仕方ありません、行けるところまで行って、ダメならバスに乗って津駅に行こうと、次の目的地である三重県総合博物館を目指します。幸い、バスが通る道。途中、バス停で雨宿りしつつ行きます。13時に再出発。

Img_6398c  三重県総合博物館。13時20分着、スタートからは6.7㎞。今日はここでも見たいものがありました。それは、「第23回企画展『ボタニカル・デザイン -植物のかたち、その観察-』」です。こちらも家庭の日ということで、¥800のところを¥640で入Img_6409c ることができました。展覧会は撮影可でしたので、本編のときには、多少とも紹介できると思います。三重県総合博物館では初めての植物をテーマにした企画展。植物のさまざまな「かたち=デザイン」に焦点を当てて、その意味や、おもしろさが紹介されていました。また、第2会場ではさまざまな形の植物を集めたミニ植物園も開催されています。

Img_6444c  ところで、前回行ったとき見逃してきたものがありました。それは左の写真。オオサンショウウオです。旧三重県立博物館時代から、飼育展示されていたオオサンショウウオの「さんちゃん」です。2階の飲食休憩コーナー側に設置された水槽にいます。さんちゃんは、名張市でケガをしていたところを保護され、それ以来20年以上にわたって博物館にいます。博物館の約42万点を数える収蔵資料のうち、唯一生きている資料です。博物館で見学していたのは、30分ほど。外へ出たら、雨も上がって、青空も見えてきました。13時50分、出発。三重県総合文化センターはパスして、その東を抜け県道10号線を北西へ。8㎞を過ぎて右折し、高田本山専修寺に向かいます。

Img_6487c  ようやく一身田の町を経て、高田本山専修寺に到着。スタートから9.3㎞、14時25分になってしまっていました。当初の予定Img_6502c では専修寺でお昼を食べようと思っていたのですが、谷川士清旧宅、谷川神社、津偕楽公園、三重県立美術館、三重県総合博物館とそれぞれ見たいところばかりでしたので、こんな時間になってしまったのです。左は、一身田寺内町に掲げられていたフラッグ。専修寺の御影堂と如来堂が国宝に指定されたのは、一昨年11月。右は、山門。御影堂の正面にあり、間口20m、奥行き9m、高さ15.5mという立派なもの。

Img_6508c  左の写真は御影堂。宗祖・親鸞聖人の木像が安置されています。間口42.72m、奥行き33.5m。725畳敷きで、全国の木造建Img_6511c 築物の中でも5番目に大きいもの。延宝7(1679)年の建立。右は、如来堂。ご本尊の阿弥陀如来様がいらっしゃいますので、教義の上ではこちらが本堂になります。間口25.66m、奥行き26.62m。寛延元(1748)年の建立。これらの2つのお堂が国宝。

Img_6526c  ハイキングのコースで立ち寄ったのですが、家内の父親のお骨が収めてありますので、まずは、そちらへ行き、お参りしてきDscn1061c ました。専修寺へは、今年初めて。家内の父にもずいぶんご無沙汰してしまっており、叱られたかも知れません。ゆっくり手を合わせてきましたので、勘弁してもらいましょう(微笑)。土産に本当は、桜おこしが欲しかったのですが、11~3月の季節限定でしたので、境内の茶所(ちゃじょ)にある売店で煎餅を買ってきました。茶所は、本来は湯茶の接待所。ここにも仏壇があります。土産は、家内の母にもお裾分けの予定。

Img_6581c  高田本山専修寺を14時55分に出て、毛無川沿いにゴールの近鉄名古屋線・高田本山駅を目指します。駅の手前で1本早く曲がってしまったのですが、大勢に影響はありませんし、距離も変わりません。15時18分にゴールイン。ハイキング/ウォーキング参加史上、もっとも遅いゴール。スタートが9時56分でしたから、5時間20分あまりを要したことになります。実測ルートマップ上、12㎞を歩いてきました(実際には、立ち寄り先であれこれ歩き回ったりしていますので、+αがあります)。高田本山駅15時34分発の名古屋行き普通電車に乗って、白子駅に15時49分着。ここで15時51分発の名古屋行き急行に乗り換え。桑名駅到着は、16時22分。¥690。

 ちなみに、これまでにもっともゴールインが遅かったのは、2019年1月27日のJRさわやかウォーキング(伊勢市)でした(20190127JRさわやかウォーキング「新春に二千年の時を刻む大神宮へのおかげ参り」へ(予告編))。新春のお伊勢さん参りのウォーキングでしたが、伊勢市駅を9時50分にスタートして、ゴールしたのが14時半でした。15.5㎞を4時間40分で歩いています。今日は、12㎞を5時間20分ですから、このときの記録をはるかに凌駕しています(何の自慢にもなりませんが……)。

Img_6601c  今日のハイキングで、あみま倶楽部のスタンプは18個目。よいペースです。無理をせず、着実に積み重ねましょう。ALKOOImg_6617c のデータは、右の写真の通り。20.5㎞歩いたというのは、やはり過大評価。歩数は、26,811歩に達していました。1月27日のJRさわやかウォーキングの時は、27,351歩(NINTEDOのDSの生活リズム計による)。今日歩いたのは、ハイキングで12.0㎞、桑名駅までの往復が1.8㎞ですから、合計13.8㎞。

Dscn1063c  DSの生活リズム計のデータでは、歩数は、24,202歩となっていました。「朝方のチータータイプ」に認定されましたが、チーターになったのはたぶん初めて。途中風が強かったり、雨に見舞われたりしましたが、見るべきところも多く、楽しめました。以上、予告編本編は、また少しずつ書いていくことにしますので、いつも通り、ホドホドにご期待ください m(_ _)m

 オマケ。相変わらず@niftyのココログは、動作が不安定。この記事も、かなり書いたところで「Webページが反応しません」というエラーが何度も出ました。ブラウザをCromeからFirefoxに戻して確認しても同じ現象がおきます。ということは、@niftyのココログ側にエラーの原因があると考えられます。写真が拡大しない現象は、理由は分かりませんが、回避するスキルが身につきましたので、たぶん大丈夫と思います。今月28日にメンテナンスが行われる予定ですが、しっかり不具合を解消してもらいたいと思っています。

2019年5月18日 (土)

呉服屋さんのツバメの巣は満員御礼

Img_6075c  奄美や沖縄地方はすでに梅雨入りしたそうですし、九州方面では雨とか。我が家あたり、薄曇りでかなり強い南風が吹いています。10時過ぎから所用があり、朝7時45分から散歩スタート。少しでも時間が早いと、鳥もいるかと思ったのですが、そうそううまい話はありません(苦笑)。いつもよりはコースを短縮して、住吉神社、九華公園、京町、田町と4.9㎞。9時15分に帰宅。

Img_8642c  揖斐川沿いでは、船津屋さんの裏手の堤防上空に揚げ雲雀。今の時期になっても?という気もします。写真は撮ったものの、小Img_8649c さくて訳が分かりません。柿安コミュニティパークに来たら、桜並木にシジュウカラ・ファミリー。先日から九華公園あたりで見ている家族かも知れません。賑やかですから、すぐに分かります。ただし、写真が撮りやすいところに出て来てはくれませんので、苦労します。

Img_8657c

 九華公園でも鳥はいません。笑えてきますというか、もう笑うしかありません。スズメのヒナは、あちこちに親に連れられてきImg_6057c ていました。あとは、ムクドリ、ドバト、キジバト、ハクセキレイ、カラスくらい。花菖蒲園も、様子はあまり変わりません。早くに咲き始めた花菖蒲はすでに、花がしおれてきてしまっています。

Img_8672c  九華公園からは、京町、田町でツバメの巣チェック。京町の呉服屋さんの巣は、ご覧の通り。満員御礼というか、押し合いへImg_8681c し合いという状況。やはり4羽のヒナがいました。すでに親並の体の大きさをしていると思いますが、まだ親がエサを運んで来ています。このほか、今日は吉津屋町のお宅と、田町の商店とそれぞれ親ツバメがいました。田町の商店の巣では、ヒナが生まれていたのですが、今日は姿は見えず(右の写真)。

Img_6048c  ところで、昨日でしたか、諸戸氏庭園の煉瓦蔵西の空き地にご覧のようなタンクが設置されました。ネットで調べたら、コンクリートなどを入れる、移動式タンクのようでした(こちら)。現在、主屋を揚げ屋して基礎などの修復工事が行われていますので、それに使うのかと思います。珍しいものがあると、どうも気になります(笑)。

2019年5月17日 (金)

河口堰魚道観察室でコサギに大接近、コアジサシも1羽、M池公園のカイツブリは巣作り中

Img_5911c 金曜日になるとプチ遠征したくなるようです(笑)。先週、5月10日にも行きましたし(河口堰でコアジサシとキアシシギ、M池公園でカイツブリの営巣とバン、オオヨシキリ)……。今日も先週と同じく、長良川河口堰と、M池公園へ。臨駐はパスし、帰りに国道1号線沿いのケリの巣をチェック。8時30分出発、12時前に帰宅。

Img_8542c 河口堰では、久しぶりに魚道観察室からコサギが狙えました。管理橋から、親水広場を往復して東側まで戻ってきたら、魚道観Img_8545c 察室の前にコサギがいました。透明アクリル板越しの撮影ですから、今一つクリアでなくなるのはやむを得ません。左の写真は、EOS kissx-5の250mmでノートリミング。目の前数mのところにきました。右もx-5で90mm、ノートリミングです。目元がピンク色がかっていますから、婚姻色です。

Img_5976c 魚道観察室には、3つの観察窓があり、もっとも奥のところの、少し下流側にこのコサギはいました。左の写真で、向かって右奥Img_5958c のところ。気づかれなかったのには、このコサギが観察窓の正面にいなかったのが幸い(撮影にはちょっと苦労しましたが)。

Img_5907c 河口堰に着いたのは、8時45分。ほぼ1時間滞在しました。前回(5/10)ほど、サギも他の鳥もいませんでしたが、最後に魚Img_5900c 道観察室からのコサギのショットが撮れましたので、大いに成果ありといえます。河口堰に着いたとき、東側の魚道では、上流側にコサギ4羽、下流側にコサギ1羽、他にカワウが数羽という風でした。右の写真のコサギも、婚姻色を呈していますので、ひょとしたら魚道観察室から撮影したのはこのコサギかも知れません。

Img_8478c アオサギさんは、管理橋を渡った西側に2羽。左の写真は、閘門へのアプローチの下流側にいました。今日は、西側の下流側Img_5920c
は、このアオサギとコサギが1羽のみ(カワウは除いて)。右の写真は、上流側の魚道の堤防上。こちらのアオサギさんは色が薄いので、若いと思われます。

Img_5927c 上流側、アオサギの近くには、ダイサギも1羽。親水広場も一回りしてきたのですが、今日見つけられたのは、ハクセキレイ1Img_5935c 羽のみ。旅鳥のシギも、イソシギも、コチドリもいません。カワラヒワは少しいましたが……。残念。

 

Img_5947c  河口堰西側に近い中洲からもオオヨシキリの鳴き声はけっこう聞こえてきます(ただし、中堤交差点に近いところでは、伊勢大橋架け替え工事が行われていますので、その辺りにはいません)。オオヨシキリも1羽だけ見つけたのですが、カメラを構えたとたんに逃げられました。代わって、管理橋へ上る道路脇で、ホオジロ。あいにくの逆光となる位置。

Img_8505c  東側へ戻って来たのが9時半頃。今日は来ないかと思っていたら、登場。コアジサシ。しかし1羽のみ。それに遠い。管理橋のImg_8508c_1 上からおそらく100m以上先。証拠写真レベル以下の写真しか撮れませんでした(苦笑)。ダイビングもしており、右の写真をよく見ると、小魚を咥えているように見えます。

Img_6025c なばなの里の花市場に立ち寄って、熱帯スイレンが入っていないか見たのですが、まだでした(メダカの睡蓮鉢に入れたいとImg_8570c_1 思っているのです)。尾張大橋を渡って、弥富のM池公園へ。カイツブリの営巣状況と、オオヨシキリを見るつもり。いつもは、東側から反時計回りに行くのですが、パターンを変えようと、西側から一周。中之島の南あたりで、カイツブリのつがい、2組がトラブっているのに遭遇。1組がもう1組を威嚇するかのように、猛ダッシュ。右の写真では今ひとつよく分からないかも知れませんが、ご想像ください(微笑)。

Img_5990c 観察できたカイツブリは合計14羽。カイツブリがいた、あるいは巣作り中の巣は6ヶ所。空っぽの巣(発泡スチロールのみがImg_6021c 浮いている状態)は2ヶ所。左は、中之島の南にある巣。夫婦揃って巣をつくっている最中です。右の巣は、池の東側に浮いている巣。ここでは1羽のみが賢明に巣作り中。去年は、6月5日にヒナを確認していますから(2018年6月05日:河口堰でミサゴ、三ツ又池公園でカイツブリのヒナとアマサギ)、また今月終わりか、月が変わったくらいに見に行くことにしましょう。

Img_8599c_1  オオヨシキリは、前回と同じく蓮田からも鳴き声が聞こえていましたし、元花菖蒲園の方からも鳴き声がしていました。左のImg_8619c 写真は、蓮田で撮ったもの。ちょっとだけ顔を見せてくれたものの、蓮の枯れたものと被ってしまいました。今日は、バンは見当たりませんでした。右は、元花菖蒲園の脇の樹上で。このオオヨシキリ、あちこち移動してくれ、引っ張り回してくれました。これまた枝被り。これはもう一度トライしなくてはなりません。

Img_6032c  帰り道、長島町内の国道1号線沿いで見つけたケリの巣をチェック。しかしながら、その1の場所には見当たりませんでした。Img_6035c_1 ここには今日は、大型トラック2台が止まっており、何か作業でも行われるのかも知れません。前回、この敷地に入るか否かという時点で攻撃されましたので、恐る恐る訪ねたのですが、拍子抜けし、さらにガッカリ。もう1ヶ所は、今日も暑い中、ケリさんは巣に就いていました。こちらだけでも無事に育てて欲しいもの。

Img_8595c

 週末、天気がスッキリしないようです。明日午前中は、所用がありますが、日曜(5/19)は近鉄ハイキングに行くつもりです。津新町駅から高田本山駅までの「谷川士清旧宅と県立美術館・総合博物館春の専修寺を訪ねて」、約10㎞。谷川士清旧宅、谷川神社、津偕楽公園、三重県立美術館などから高田本山専修寺へというコース。谷川士清(たにがわことすが)は、江戸時代の国学者で、初めて五十音順の国語辞典(和訓の栞)を作った人です。谷川神社は、その士清を祀っています。津偕楽公園は、桜の名所。昔は「御山荘」(ごさんそう)といい、津藩第11代藩主藤堂高猷公(とうどうたかゆきこう)が 安政年間(1854~60)に別荘を設けたことに始まります。県立美術館では、「没後200年記念 増山雪斎展」が開催されています。増山雪斎は、伊勢長島藩第5代藩主。書画に長けた文人大名(「雪斎」は号、増山正賢といいます)。山水人物から花卉草虫に至るまで、数多くの作品を遺しています。高田本山は、今年はまだ行っていませんので、この機会にということです。雨にならないことを願っています。

2019年5月16日 (木)

九華公園の花菖蒲はボチボチ……スズメ、シジュウカラそしてモズのヒナ、ツバメのヒナも誕生

Img_5740c_1  12日の研究会に始まり、13日は歴史講座、14日は市役所の会議、そして昨日15日は江戸橋での仕事と、最近の私にしては珍しく予定が立て込んで、いささか疲れました。現役バリバリの頃なら、難なくこなしたはずですが、よくいえばスローライフが、有り体に書けばサボり癖が身についていますので、何だかなぁという気もしますが、これがまぁ現実(笑)。しっかり歩いていませんでしたので、今日はいつも通り散歩。8時20分から3時間あまり、住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀公園、京町、田町から七里の渡し跡、住吉入江と6.5㎞。ちょっと頼まれたこともあってウロウロ。

Img_5750c  九華公園は13日以来。ツツジはほとんど終わりを迎えていました。代わってそろそろ花菖蒲の季節ですが、咲き始めているのImg_8333c は、管理事務所から奥平屋敷跡へ行く途中にある菖蒲園のみ。紫色をした稲妻(肥後系)と、ピンク色の曲水の詩(肥後系)の2種類が咲いて来ています。ここと、奥平屋敷跡への入り口にある菖蒲園は、菖蒲の生育も順調のようで、花菖蒲が楽しめそうですが、本丸跡の菖蒲園では、雑草に負けている感じで、心配です。花菖蒲はきちんと手入れをする必要があると思いますが、管理業者も造園業者も代わって、ほとんど手を入れておらず、どうなるのでしょう? 市役所がきちんとしてくれる必要があると思います。

Img_5747c  またまた気が早いといわれますが、アジサイも蕾が出始めています。左の写真は、九華公園の管理事務所南で撮ったもの。季節の先取りというか、季節の変化をよく見たいという気があるものですから、先へ先へと気になります(落ち着きがないだけなのかも知れませんが……笑)。

Img_5746c  さて、散歩コース、相変わらず鳥の姿は少ない状況が続いています。我が家の隣、諸戸氏庭園からはたいていコゲラの鳴き声や、木などをつつく音が聞こえてきます。歴史案内人をしておられるKさんが、庭園内の茶室脇にある藤棚の竹をつついていることがあると教えてくださったのですが、何をしているのかは不明。鳥は少ないものの、ヒナたちの姿は割りと目につきます。左のスズメのヒナは、九華公園の入り口で撮影。九華公園内、あちこちで見られます。

Img_8348c  九華公園では、シジュウカラのヒナの姿も何カ所かで見ました。左の写真は、公園外周遊歩道の東側にて撮ったもの。先日、外周遊歩道の南にあるお宅に親が7~8羽を連れてきていましたが、そのファミリーかという気がします。今日は、九華公園では他にはムクドリ、ドバト、カラスくらい。カワウもいません(笑)。

Img_5772c  貝塚公園。モズのヒナを探しに来ました。見当たらないので、東屋でしばらく待っていたら、出て来ました。ただし、日陰の枝にばかり。あちこち移動するのをついて回ったのですが、数分で見失いました。しばらくはここにいてくれると期待して、貝塚公園に通うことにしましょう。

Img_8379c  このあとは、京町、田町でツバメチェック。まずは、呉服屋さんの巣。13日以来なのですが、急に大きくなった感じ。体も結Img_8391c 構大きくなっていますし、顔つきも変わってきていました。何羽いるか、ハッキリしなかったのですが、4羽のようです。まだ親はエサを運んで来ていますが、エサを与えずに巣の回りを誘導するように飛び回る様子もあります。ヒナたちは巣でけっこう活発に動くのですが、巣立ちはまだかなという気がします。

Img_5779c  博物館の玄関にある巣では、ちょうど巣にいる親が交代。代わりにやって来た親は、巣の中をチェックしていました。卵があるように思えます。写真は、割愛しますが、吉津屋町のお宅の巣にも、親ツバメがいました。ここも抱卵中と思います。

Img_8456c  そして、田町の商店にある巣では、ヒナが生まれたばかりのようでした。写真のように、まだ目も開かず、羽毛もほとんど生えていないヒナの姿が1羽だけ見えました。楽しみです。この近くにある民家でも、親ツバメがずっと巣に就いていますから、卵を抱いているものと思います。ツバメたちの子育ても真っ盛りという感じ。

Img_5884c  余談。メダカを飼っていますが、この時期からは水替えを頻繁に行う必要があります。ほとんどグリーンウォーター化していましたので、気になっていたのですが、余裕がなくてしばらく放置していました。今日、ようやく水替えを実施。卵が見当たらないのがちょっと気になります。エサはたくさん食べているのに(苦笑)。ヒメタニシを入れるとよいとブロ友のこころんさんに伺いました。愚息が、家内の実家に置いている水槽にヒメタニシが入れてあり、藻を食べてくれるため、きれいなので、効果はありそう。実家から持って来るか、どこかホームセンターで探してみましょう。

20190504近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅4日目~伊勢街道、旅人気分で伊勢平野の鈴鹿から海運で栄えた白子へ」(その3)……菅原社、北の端の地蔵堂、役行者神変大菩薩、江島若宮八幡神社、久住屋菓舗を経て白子駅に無事ゴールイン(完)

190504kintetuhikingsuzukashi3  5月4日の近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅4日目~伊勢街道、旅人気分で伊勢平野の鈴鹿から海運で栄えた白子へ」もその3となりました。コースミスをしでかしたり、あちこちウロウロしたり、見るべきものを見逃したりといろいろとあります(笑)。その2では、左の実測ルートマップその3にある弥都加伎神社まで来ました。ほぼ5㎞、神社を出たのは、11時50分過ぎ。

Img_4528c  弥都加伎神社の先、150mほど行ったところに道標。明治2(1869)年に建立された「式内弥都加伎神社」への丸い自然石の道Img_4533c 標です。天皇の神宮参拝に際し、弥都加伎神社に勅使が派遣されたのを記念して建てられたもの。さらにその先、スタートから5.6㎞ほどのところの西側にも、山の神があります。ここは、これまでの3ヶ所とは異なり、赤い木造の鳥居と、同じく赤い木造の燈籠、いずれもかなり古びたものが建っていました。

Img_4535c 6㎞の手前からは、フジクラ鈴鹿事業所の西側を進みます。昭和45(1970)年に先進のCVヶ-ブル工場として建設されま190504kintetuhikingsuzukashi4_1 した。工場の敷地は大変きれいに整備されています。余計なことではありますが、これだけきれいになっているということは、たぶん相当儲かっているのでしょう。このあたりから実測ルートマップはその4へ(右の画像)。

Img_4536c  関連会社のフジラクダイヤケーブル鈴鹿工場の敷地にかかるあたりに、菅原社があります。主祭神は、菅原道真、相殿神は宇迦Img_4540c 之御魂神。神社検索三重のサイトによれば、創祀の事情やその年代は不詳です。集落の産土神として古くから信仰を集めており、地区民の心のより処となってきたといいます。

Img_4541c  菅原社で12時15分、あまり休まず歩き続けてきましたので、一休みすることに。同行のMさんと二人、拝殿近くの日陰で、風Img_4543c 通しのよいところに腰を下ろして休ませてもらいました。けっこう汗を掻いていましたので、気持ちいい。あれこれと話し込んでしまい、40分ほども休んでいたというか、しゃべっていたというか(笑)。コースを歩く人もほとんどなくなってきたのに気づき、「これはいかん」と思い、12時55分、ようやく再び歩き始めます。境内には、右の写真のような忠魂碑があります。第2次世界大戦に、打越地区から出征され、戦死なさった8名の方の慰霊のためのもの。平成21(2009)年3月に建立。古いものを建て直したのかと思ったのですが、「菅原社本殿・拝殿御造営竣工にあたり、之を建立する」とあり、その辺の事情は不明。

 先を急ぎます。7㎞を過ぎて、江島の町に入ります。白子保育園の東あたりに「老農水原政次翁彰功碑」があったはずですが、すっかり失念して通り過ぎました(笑)。時々やらかします。大正13(1924)年に建立。水原翁は、弘化4(1847)年、現在の市内木田町に生まれ、青年時代農業をなし、32才から30余年三重県農事試験場や県農会に勤め農事に関する知識の普及や農事改良につくし県下初の農事試験場長であった方。

Img_4547c  7.5㎞あたりで近鉄名古屋線の踏切を渡ります。渡ったところに、北の端の地蔵堂。約800年前、鎌倉時代のものだそうです。石像本体周囲にImg_4549c 六體の菩薩が刻まれています。「六體」とは、五翼の優世に六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)に迷う衆生を救う六分身を表しています。この地蔵は、江戸時代から北の端の地蔵と呼び、お守り寺悟真寺(ごしんじ;浄土宗のお寺、白子本町にあります(白子駅の北東))の古記録にも「霊験あらたかで願うこと叶わざるなし、遠近の信者多く毎年8月24日の縁日は善男善女の参詣が列を作る」などとされているといいます。江戸時代、寺家、白子などから江戸方面に型紙等の行商に出る人らはこのお地蔵さんで道中の無事を祈りました。

Img_4553c_1  北の端の地蔵堂から道を挟んだ東側には、「役行者(えんのぎょうじゃ)神変大菩薩」があります。役行者は、役小角(えんのおづぬ)ともいわれ、奈良時代の山岳呪術者。寛政 11(1799) 年に修験道の開祖と仰がれ、朝廷から「神変大菩薩」の諡号(しごう)を受けましたた。ここの社は、この修験道の開祖である「役行者神変大菩薩」が祀Img_4555c_2 られています。役小角(舒明天皇6(634)年伝~ 大宝元年6月7日(701年7月16日)伝)は、修験道の開祖とされています。 実在の人物だそうですが、伝えられる人物像は後世の伝説によるところが大きいといいます。天河大弁財天社や大峯山龍泉寺など多くの修験道の霊場に、役行者を開祖としていたり、修行の地としたという伝承があります。鬼神を使役できるほどの法力を持っていたという言い伝えもあり、なかなか面白い。

190504kintetuhikingsuzukashi5  さて、江島の町を進みます。7.5㎞以上来ましたので、ゴールも近くなってきます。実測ルートマップはその5へ。次の立ち寄Img_4560c_1 り先は、江島若宮八幡神社。これまでの近鉄ハイキングで3回来ています。江島本町近くで、いったん伊勢街道を離れ、東へ進み、江島若宮八幡神社の脇参道から入ります。

 

Img_4566c  江島若宮八幡神社。ここはもう4度目。鈴鹿市内で2番目に広い境内を持つ神社(最も広いのは、椿大神社です)。八幡さんだImg_4561c_1 けをお参りしてきました。主祭神は、大鷦鷯命(オオササキノミコト、仁徳天皇)、品陀和気命(ホンダワケノミコト、応神天皇)、息長帯比売命(オキナガタラシヒメノミコト、神功皇后)。これらを始め、17柱の神様が祀られています。平安時代初期、禁中に奉祀せられていた若宮八幡宮(京都石清水八幡宮の分霊)を醍醐天皇が、神意に問いて伊勢宗廟(皇大神宮)の戌亥の方なる当地に奉遷せられたことに始まります。明治42(1909)年5月には、大宝天社、湊守社、稲荷社、風の宮、愛宕社が合祀されました。

Img_4637c_1  江島若宮八幡神社の次は、その向かいにある伊勢昆布に立ち寄ります。ここではこの日、ハイキング参加者を対象にもれなくImg_4563c_1 (買い物をしなくてもという意味)抽選会が催されていました。ガラガラポンの、回すと玉が出てくるもの。緑色の玉が出て、抽選会場の前にあった箱に入っているものから1つ選べということに。ということで、「磯の木昆布」という昆布菓子をいただいてきました。伊勢昆布の写真は、昨年(平成30(2018)年3月17日の鼓ヶ浦の近鉄ハイキング(近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(予告編))の時に撮影しました。

Img_4570  伊勢昆布で8.1㎞、時刻は13時25分頃。北西に向かい江島本町の交差点から再び、伊勢街道へ。最後の立ち寄り先は、久住屋Img_4572 菓舗さん。このあたりに来たときのお約束(個人的なものですが)で、大はら木(おはらぎ;店によって名前が多少異なります)とかりんとまん(かりんとう饅頭)を買ってきました。同行のMさんも、大はら木をお買い上げ。後日伺ったら、気に入られたそうで、一安心。

Img_4578  久住屋菓舗さんからは、ゴールの近鉄名古屋線・白子駅へ直行。13時48分、無事にゴール。はじめにも書きましたが、スタートからは9.3㎞+α。コースミスをしましたので、「+α」がかなりありました。今日も「お伊勢Img_4580 さん参りハイキング」ですので、完歩者には、特性マグネットがもらえました。かなりゆっくり来ましたので、もらえるかどうか心配していたのです。デザインは、神戸城跡でした。これまでのところ、4個全部が揃っています。

Img_4584  さぁ、時刻も時刻ですから、昼ご飯を食べて帰ろうということに。しかし、白子駅の東口ではこの時間、食事ができるところImg_4587 は見当たりませんでした。自由連絡通路を渡って、白子駅西口へ。白子駅西口も、私が鈴鹿で働いていた頃とは雲泥の差で、昼間食事ができそうな所はきわめて限られていました。白子ストーリアホテルの向かいにうなぎ、すしの「魚萬」というお店。ランチ営業が14時までということで滑り込みセーフ。刺し身や貝のフライのランチ、¥1,080を食べてきました。このランチ、思った以上に美味しくいただけました。が、お腹が空いていましたので、写真を撮り忘れてしまいました。同行のMさん、美味しい食べ物検知能力が優れておられます。大将はわれわれとほぼ同年代で、話も合い、楽しい一時を過ごしてきました。

Img_4590_1  遅めの昼食を済ませ、白子駅発14時29分の名古屋行き急行に乗車。連休中ではありましたが、この時間まだ空いていました。最近は、堂々と優先席を使わせてもらっています(笑)。桑名駅には15時3分着。¥490。

Img_4595  あみま倶楽部のスタンプは、これで17個目。去年よりかなりハイペース。ALKOOによれば、歩数は23,188歩。歩いた距離はImg_4597 17.7㎞となっていますが、これはたぶん過大評価。ハイキングで歩いたのは9.3㎞+α。自宅から桑名駅往復が、1.8㎞ですから、合計11.1㎞+α。「+α」は2㎞もないくらいでしょう。この日は暑かったのでいささか疲れました。ハイキング/ウォーキングの過去分の記事は、これで滞貨一掃できました(微笑)。次回の近鉄ハイキングは、5月19日に津新町で開催される「川士清旧宅と県立美術館・総合博物館春の専修寺を訪ねて」に参加しようと思っています。

2019年5月15日 (水)

今日は晴れて、私の勝ち(爆)……江戸橋と、帰りに津駅に立ち寄り

Dscn1036c  水曜日、江戸橋での仕事の日。薄曇りのち晴れで、私の勝ち(爆)。まぁ、勝ち負けではありませんが、気分的な話しというこDscn1040c とで、ご容赦あれ。冗談半分、本気半分の話はともかく、今日は、今年度4回目の非常勤の仕事。履修登録者は、55名。今日の出席は48名。登録したものの、1回も出席していない学生さんもあり、こちらが心配になります。しかし、出欠の取り扱いは、最初の授業で厳しく取り扱うと宣言してありますし、18歳になれば大人扱いですから、必要以上のお世話はしないことにしています。出席してくれた皆さんは、熱心に聞いてくれていますから、それに応えられるようにしようと考えています。ただ、余計な話をしすぎているのか、授業は計画より遅れ気味で、工夫が必要になっています。

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 先週から気づいていたのですが、非常勤先のグラウンドには、ヒバリがいます。先週は、揚げ雲雀がみられましたので、ひょっとするとグラウンドのどこかで営巣しているかも知れません。今日は写真を撮ろうとは思ったのですが、非常勤に行くときに持っているのは、フツーのコンデジ。ズームしているうちにヒバリはどこかに行ってしまいました。さらに助手の先生からの情報では、教室棟の2階にツバメが巣を作り始めているそうです。帰り際に見上げたら、ツバメが往き来していました。来週、見てこなくてはなりません(何をしに行っているのか?)。

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 帰りに津駅まで行き、チャムの3階にある別所書店に行ってきました。江戸橋から津までは近鉄名古屋線で一駅、¥200。今年の市民大学講座の関係で城の本と、近鉄ハイキングの伊勢参りツアーに関連して伊勢街道の本がないかと思ったのですが、あいにくどちらも見つけられませんでした。14時頃帰宅。出欠確認と、Q&Aをほぼ済ませられました。

 

2019年5月14日 (火)

20190504近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅4日目~伊勢街道、旅人気分で伊勢平野の鈴鹿から海運で栄えた白子へ」(その2)……ようやく神戸城跡にたどり着き、常夜灯、矢椅神社、宇気比神社、いくつかの道標と山の神、正信寺から彌都加伎神社へ

190504kintetuhikingsuzukashi1 5月4日の近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅4日目~伊勢街道、旅人気分で伊勢平野の鈴鹿から海運で栄えた白子へ」のその2です。その1では近鉄鈴鹿市駅をスタートして間もないところでコースミスをし、ウロウロしてしまいました。しかしそのお陰で龍光寺などにもお参りできましたから、まぁ良し。歩きに来ているのですから、余分に歩いても気にしません(笑)。神戸城跡がある神戸公園の入り口で正式なコースでは1㎞。時刻はほぼ10時半。

Img_4428c_1  ようやく神戸城跡にたどり着きました。道に迷っていましたので、「たどり着いた」というのがまさに実感。江戸時代には神戸藩の藩庁が置かれていました。神戸氏4代の神戸具盛が天文年間(1532~1555年)に築城したのが始まりです。永禄11(1566)年の滝川一益の侵攻に和睦し、養子にうけいれた織田信長の三男神戸信孝により、より強固に修築されます。その後、城主は度々代わり、関ヶ原の戦い以降は一柳氏(ひとつやなぎうじ)が5万石で入りました。天領となった時期もありましたが、慶安3(1650)年には石川総長(いしかわふさなが)が1万石で当地に封じられ、さらに、享保17(1732)年には本多忠統(ほんだただむね)が2万石で封じられ、城を修築し入城し、これ以降明治維新まで、本多氏7代が居城として用いました。現在城の中心部は神戸公園となり、二の丸跡には、三重県立神戸高等学校が建てられています。

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 本丸には自然石をそのまま積み上げた野面積みの天守台があり、ここに神戸信孝により5重6階の天守が築かれました。北東に小天守と南西に付櫓がある複合連結式の天守であったといいます。しかし、天守は、文禄4(1595)年に解体され、桑名城に三重櫓として移築され、「神戸櫓」と呼ばれました。その後、江戸時代を通して、天守閣は造られませんでした。こういうエピソードがありますので、神戸城跡も、前から一度この目で見たかったところなのです。天守台跡で、早くも小休止。

Img_4828c  余談気味ですが、桑名城跡には、このように「神戸櫓跡」があります。本丸跡の南西の隅。ここの案内板にも、上述のようImg_4824c に、神戸城から天守閣を遷したとあります。この頃(文禄年間、1592~1596)、桑名の城主は一柳直盛。江戸時代になって、初代藩主・本多忠勝が城を拡張し、本格的な近世城郭を築いたときも、神戸城から遷した天守は櫓として残され、「神戸櫓」と呼ばれました。

Img_4417c_1  天守台には明治9(1876)年10月に建立された「神戸城址天守臺碑」があります。本多家の初代城主本多忠統が「藩祖」とし統君したこと、神戸信孝が残した天守があったことなどが漢文で記されています。時間をかければ読めると思うのですが……。ちなみによそのブログで「神戸城址天守堂碑」としているものがありますが、「堂」ではなく「台」の旧字体「臺」だと思います。それに「天守堂」では意味をなさないような気がします。

Img_4408c  話の順序が戻りますが、公園入り口には、「勤皇烈士 吉川治太夫 忠魂碑」がありました。吉川治太夫(文化6(1809)~文久3(1863)年)は、朱子学者・松崎慊堂(まつざきこうどう;明和8(1771)~天保15(1844)年)の弟子で、藩校教倫堂の教授にして、神戸藩の飛地であった河内長野の代官を勤めていました。尊皇思想を持っていた治太夫は、天誅組が挙兵すると金銭や食料を提供し、領内の庄屋吉年米蔵を天誅組に加わらせました。天誅組は、その後朝敵とされ、周辺諸藩に討伐されてしまいます。吉年米蔵はいったん捉えられたものの、治太夫の弁護で釈放され、親戚を頼って阿波へ向かいますが、再び捕えられます。米蔵の尋問において治太夫の関与も疑われ、治太夫は、岸和田藩より召還されました。しかし、岸和田への道中、自刃。神戸藩は吉川家を断絶させて、天誅組の変への藩の関与を否定。関与は治太夫の個人行動ということで、藩への御咎めはなくて済んだといいます(以上、こちらを参照)。

Img_4421c  もう一つ、「○○先生の碑」と読める碑があったのですが、題字も本文もかなり風化してしまっていて現地でも読めませんでした。ネットであれこれ調べても、情報は出て来ませんので、お手上げ。お手上げなのにこれについて書いたのは、ひょっとしたら何かご存じの方がいらっしゃるかも知れないと思ったためです(微笑)。もしご存じのかたがいらしゃったら、ご教示ください。

Img_4436c  城跡のことについてはまだまだ知識も経験も足らないのですが、土塁と思われるものもありました。土塁の跡の上も歩けるとImg_4441c ころもあります。城跡の西から南にかけては、水堀があります。昔のものかどうかは分かりません。城の堀であれば、もっと幅が広い気もします。

 このあと、神戸高校の南から東を回って、伊勢街道に戻りまImg_4451c す。伊勢街道に出たところに終南山善導寺がありました。浄土宗のお寺。山門を見たとき、ちょっとビックリしました。「まさか壊れているわけではないよな?」と失礼なことを思ってしまいました。鐘楼門の名残りのような簡素な山門です。このすぐ隣に真宗大谷派の浄願寺というお寺があったはずなのですが、しっかり確認せず、そのまま通過しました。

Img_4455c_1  村瀬病院の所へ来ると、その向かいに割りと大きな常夜燈があります。 嘉永2(1849)年に建立した常夜燈が、明治18(1885)年の洪水により倒壊してしまったので、 それを惜しんだ地元地子町の人々が再建したもの。もとの常夜燈は、村瀬病院の西にある旧熊野権現跡の小公園に保管されているのですが、この日は見てきませんでした。小公園には常夜灯の上部が残っているといいます。また、 この公園には、「右いなふ道」「左志ろこ道」と刻まれた元禄2(1699)年の道標もあるそうです。

Img_4463c_2  このあと、矢橋一丁目交差点で四日市鈴鹿環状線を越えて、矢椅神社(やぎじんじゃ)。主祭神は、大穴牟遅Img_4468c_1(おおなむちのかみ;大国主神の別名)。相殿神は、大山祇神。創祀については詳しくは分かりませんが、寛文2(1662)年の棟札に「八王子」とあり、また、「三国地志」にも「俗に八王子と称す」とあり、八王子社と呼ばれていたものと思われます。延喜式内社とされています。

Img_4473c_2  さらに進み、2.8㎞ほどのところで、伊勢鉄道の高架をくぐります。伊勢鉄道・鈴鹿駅のすぐ南。線路をくぐったすぐ先にImg_4475c 気 比(うけひ)神社。主祭神は、天之忍穂耳命(アマノオシホミミノミコト;瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の父)。相殿神は、天津日子根命(あまつひこねのみこと;天照大神の子)、天之菩卑能命(アマノホヒノミコト;天照大神の子。天孫降臨に先立って、葦原の中つ国に遣わされたが、大国主命に味方して復命しなかった)、活津日子根命(いくつひこねのみこと;天の安の河で素戔嗚尊と天照大神が誓約を行なった際生まれた、五男神中の一神)、熊野久須毘命(クマノクスビノミコト;須佐之男命が天照大御神の持ち物である八尺勾玉を譲り受けて化生させた五柱の神の一柱で、天照大御神の物実から生まれたので天照大御神の子であるとされた)、多紀理毘売命(タキリビメノミコト;天照大神と素戔嗚尊との誓約のときに、素戔嗚尊の剣から生まれた三女神の一。福岡県の宗像大社の祭神で、沖津宮に鎮座するとされる)、市寸島比売命(イチキシマヒメノミコト;天照大神と素戔嗚尊との誓約の時に生まれた三女神の一。福岡県の宗像大社の辺津宮の祭神)、多岐津比売命(タギツヒメノミコト;天照大神と素戔嗚尊との誓約のときに、素戔嗚尊の剣から生まれた三女神の一。福岡県の宗像大社の祭神で、中津宮に鎮座するとされます)。

Img_4478c_1  この宇気比神社の創祀、由緒については明らかでありません。「河芸郡史」「神戸平原地方郷 土史」などにも、旧名八王子Img_4480c 祠、由緒不詳と記されているのみだそうです。上右の写真では、八幡社の社号標も建っているのですが、神社検索三重のサイトでは言及されていませんし、祀られている神様にも八幡様はありません。東に別の鳥居がありますが、これが八幡社の鳥居でしょうか?

Img_4482c   宇気比神社から道路を渡ってすぐの左手に山の神の鳥居と燈籠があります。伊勢街道では、この先、東玉垣町に入るあたりまImg_4484c_1 での間に、ここを含めて4ヶ所の山の神が祀られています。山の神というと、あちこちで神社にたくさん合祀されているのを見ますが、この付近では、合祀せずにそのままお祀りしたということかと思います。そうしたからには何か理由があるのでしょうが、個人的にはこのあたりが水田地帯で豊作を願う気持ちがより強かったためかという気がします。右は、この山の神の先の伊勢街道。スタートから3㎞付近。11時15分頃。好天で暑いくらいでした。

190504kintetuhikingsuzukashi2_1  さらに進むと、実測ルートマップはその2へ入ります。伊勢鉄道線を越え、国道23号線を肥田町交差点にある地下道で越えます。ずっと「旧伊勢街道」と描いてあるルートを辿っています。

Img_4485c  3.1㎞あたり、伊勢街道がカーブしているところに道標と山の神が向かい合って建っていまImg_4490c_3 す。道標は道の東側。ハッキリとは読めませんが、「右若松道 □□□□」とあります。若松は伊勢若松のことでしょう。山の神は、右の写真のようになっています。宇気比神社近くにあったのとよく似ており、鳥居の手前、向かって右に燈籠があります。

Img_4496c  金沢川(かなさいがわ)と新川を渡って、ほぼ4㎞の所には、表忠碑と山の神があります。表忠碑は、玉垣地区が英霊280柱のImg_4498c ために建てたもの。表忠碑の手前に山の神。鳥居の奥に山の神の石碑、鳥居手前向かって左に燈籠。山の神の隣には、天白社がありましたが、それを知ったのはハイキング終了後。社といっても普通の建物のようなものがあったと記憶しています。

Img_4506c  玉垣幼稚園、玉垣小学校の西を進んでいくと、伊勢街道は枡形になっています。突き当たったところに浄土真宗高田派のおImg_4510c 寺、正信寺があります。写真にはうまく写っていませんが、本堂の前に大きなクスノキがあります。 本堂は、大正3(1914)年に建立。

Img_4513c_1  この正信寺のところが枡形になっていると書きました。お寺のちょうど角に道標が1つあります。文化4(1807)年の建立。丸い自然石にImg_4511c 「右さんぐう道」と刻まれています。左の写真で、伊勢街道は左手奥から来て、右手手前に進みます。男性は正信寺に向かって歩いておられます。

190504kintetuhikingsuzukashi3  伊勢街道は、この先で国道23号線に突き当たり、西玉垣町交差点の手前で左折し、東へ。実は、この国道に突き当たるところにも道標があったのですが、見忘れてしまいました(苦笑)。元治2(1865)年に建立され、「左さんぐう道」と刻まれているものです。この道標の所から西に「地蔵大松」が見えたはずですが、これも失念。伊勢街道についてはガイドブックの類いが見当たらず、三重県がつくった「みえの歴史街道」のうち、伊勢街道のウォーキングマップを参考にしています。詳しいもので、参考になるのですが、文字が細かく、近眼&老眼の我が身にとっては見にくいのが難点。このあたりは、商業出版されたものの方がはるかに便利なのです。

Img_4523c  それはさておき、5㎞のところに弥都加伎神社(みずかきじんじゃ)があります。近鉄ハイキングのパンフレットで見たとき、名前がカッコイイので、興味が湧いていたところ(笑)。時刻は11時50分近く。主祭神は、大土御祖神(おおつちみおやのかみ;土を司どる神)。相殿神は、埴安比売神(ハニヤスヒメノカミ;火之夜芸速男神を産んで死ぬ間際の伊邪那美命の大便から化生した二神のうちの一神。「ハニ」(埴)とは土のこと)、素盞嗚命大山祇命菅原道真天忍穗耳命(アマノオシホミミノミコト)、天津日子根命(あまつひこねのみこと)、熊野久須毘命(クマノクスビノミコト)、多紀理比売命(タキリビメノミコト)、市寸島比売命、事比羅神(コトヒラノカミ?;大物主神のことで、大和の三輪山に鎮座する神、大国主命の協力者)、速玉之男命(はやたまのおのかみ;絶命して黄泉国へ去ったイザナミを連れ戻しにいったイザナギは、見ないでくれといわれたイザナミを見てしまい、妻と別れることになったのですが、その別れ際に唾を吐きました。その唾を吐く神をハヤタマノオと呼びます。唾を約束をかためる意につかっているようです)、奧津島比売命(オキツシマヒメノミコト;「沖の島」の「姫神」という意味。 古事記では多紀理毘売命の異名)、品陀和気命(ホンダワケノミコト;応神天皇)、大日霊命(オオヒルメノムチ;天照大神の異称)、狹依比売命(さよりひめのみこと;イチキシマヒメノミコトのこと)。旧村社。いらっしゃる神様は、重複があったり、いろいろでややこしい。神社検索三重のサイトでは、「特に土に携わる職業の方々の安全繁栄」に御神徳があるとされています。

Img_4527c_1  天平13(741)年の創祀。山田原の土宮の御霊を海部村に勧請し、その後現地へ奉祭したとあります。「山田原の土宮」は、伊勢神宮の外宮の別宮である「土宮(つちのみや」と思います。土宮の説明には、「御祭神は大土乃御祖神。古くから山田原の鎮守の神でした」という記述があります。宝亀元(770)年、土之御祖神、埴安比売命を合祀。延喜5(905)年、社名を土宮から現名称へ変更していますが、それ以前には土御前とも呼ばれたといいます。陶器、左官、粘土、土木工事各業のほか、農民はもとより土に携わる職業の人達、また、豊受宮に糀を奉献したことにより酒、みそ等の職業の人達の多くの崇敬をあつめていたようです。慶長19(1614)年、造営。明治2(1869)年3月、明治天皇御東幸の途次、勅使が奉弊代拝しています。この地は玉垣御厨だったといいますから、伊勢神宮の領地であったということでしょう。

 長くなりましたしキリが良いので、その2はここまで。それにしても、神社によっては多数の神様がいらっしゃり、調べるのはけっこう大変。神様の名前や、どういう神様かは多少は頭に入ってきましたが、なぜその神社にいらっしゃるのかはまだよく分からないところが多々あります。明治の合祀政策によって、いくつかの神社を合祀したことも影響しているのでしょう。隣接する地域に多く祀られているように思える神様もいらっしゃいます。その土地にどのような人々が住んだかや、どのような仕事に携わっていた人が多いのかなども影響しているのでしょう。まだまだ修行が必要と思いつつ、その3へ続きます。その3は、岸岡町にある菅原社から。

午前中は会議へ……市役所の駐車場がタイムズ24になっていました

Dscn1035c  朝から曇天で、時々ぱらついていましたが、午後からは本降り。雨が降って、緑も濃く感じ、これはこれで良しという気もします。冒頭の写真は、諸戸氏庭園方面。諸戸氏庭園は、6月16日まで春の特別公開中。原則として、月曜休園。大人一人¥500。昨日、歴史講座でお目にかかった、歴史案内人をしていらっしゃるKさんによれば、月が変わる頃になると、花菖蒲が見頃になる見込みだということでした。行くとしたら、その頃が狙い目です。午後、雨が降らなければ散歩に行こうと思っていましたが、断念。学会発表の抄録のチェックや、依頼された資料の準備、明日の非常勤の講義内容の確認とパソコンなどの準備に勤しんでおりました。

Dscn1022c  午前中は、予定通り、市役所で特別支援教育に関わる会議に出席してきました。会議の内容についてはもちろんここには書けませんが、あれこれ発言し、担当の先生方の仕事を増やしたり、頭を悩ませたりしたかも知れません。私で役に立ち、必要なことがあれば、微力を尽くしたいと思っていますから、ご容赦願うことにしましょう。今日、市役所で確かめたかったことがありました。左の写真をご覧ください。市役所本庁舎の北側の光景。何にお気づきになるでしょう?

Dscn1019c  4月1日から本庁舎にある3ヶ所の駐車場が、タイムズ24(株)が運営する有料時間貸駐車場となるというニュースを新聞で読んDscn1020c でいたのです。こちらに市のお知らせがあります。駐車場の入り口に着いたとき、「ホントにタイムズ24になってる!」と思いました(笑)。24時間利用可能で、基本料金は60分で¥200。住民票交付など窓口を利用する場合には60分まで無料。私のように「市が実施する事業や会議などの参加者」は、利用時間すべてが無料になります。市役所に用事のある方にはほとんど影響はないのですが、庁舎東側や、北側の平面駐車場は、これまでゲートも駐車券もありませんでしたので、ちょっとだけ手間が増えたというところ。ネットで調べてみると、他にも例はあるようです。時代の変化で、ある意味合理的なのでしょうが、昭和世代には違和感もあります(苦笑)。

Dscn1030c  オマケ。サギソウはその後も順調に育っています。小さい方の鉢が乾いていることがありますので、気をつけていないといけません。今日が雨ですから、明日は水曜で、江戸橋に行く日ですが、雨ではないことを強く願っています。

2019年5月13日 (月)

シジュウカラとツバメのヒナ……午後からは市民大学講座「城と城下町-桑名城を中心に-」へ

Img_5675c  25℃近くになり、散歩をしていても汗ばむくらい。半袖の人もたくさんあります。午前中は8時半からいつも通り散歩。住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀公園、京町、田町と5.5㎞。九華公園でよくお目にかかる、バードウォッチングをなさる女性と、「あまりにも鳥がいないので、張り合いがないですね」と嘆きあったくらい。揖斐長良川の中洲からは、オオヨシキリの鳴き声がよく聞こえて来ますが、道筋にいるのはスズメ、ムクドリ、ドバトくらい。ヒバリの姿を見なくなりました。

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 九華公園のつつじはほぼオシマイ。花菖蒲は咲き始めましたが、まだご覧のような様子。3輪咲いているのは肥後系の稲妻。向かって右でピンクの蕾が見えてきているのは、曲水の詩という品種。今月下旬になると、もっとたくさん咲いて、それなりに見応えがあるようになると思います。

Img_5680c  鎮国守国神社では、今日は「当日祭・献茶式」が行われました(といっても祭の儀式そのものは見てきていません。宮司さん、氏子総代の方や、氏子地区の係の方と知り合いというくらい)。今日の祭Img_5682c が本来、鎮国守国神社のお祭だそうです。「当日祭」というからには何かの記念日だと思いますが、確かめてはいません。松平定信公(守国公)が、文政12(1829)年5月13日に亡くなられていますので、それかと個人的には推測しています。松平家の現在の御当主もいらっしゃるそうですし、献茶式には、茶道松尾流の家元もいらっしゃるということです。

Img_5685c  いつもはブルーシートで覆ってある、拝殿の西にあるこの場所でセレモニーがあり、拝殿で献茶式が行われるようでした(拝殿内には、お茶の用意(私自身はよく知りませんが、本格的な茶道のそれと思えます)がしてあるのが見えました)。興味はありますが、氏子ではありませんし、邪魔をするといけませんので、いつも通り散歩を続けました。

Img_8255c  外周遊歩道の南にバラを作っておられるお宅があります。そこを通りかかったら、賑やかなシジュウカラの鳴Img_5695c き声。この写真で右端にいるのは親。黒ネクタイが太いのでオスと思われます。他の4羽はヒナのようでした。ヒナは、このほかに2~3羽いました。あまりよい写真は撮れませんでしたが、右の写真のシジュウカラ、嘴が何となく黄色い感じですし、色が薄く、ヒナと思います。

Img_8275c_1  今日は貝塚公園も静かでしたので、そのままツバメの巣チェックへ。博物館の玄関先、京町の呉服屋さん、田町の商店、田町のImg_8294c_2 民家の他、吉津屋町のあるお宅の巣にもツバメがいました。この吉津屋町のお宅の巣にツバメがいるのは、今年は、今日初めて確認。ただし、すぐに飛び出てどこかに行ってしまいました。左の写真は、呉服屋さんの巣。ヒナ、3羽はいるのは確認できたのが、もう1羽いるかも知れません。右は田町の商店にある巣。親が2羽で何か作業中。何をしているのかよく分かりませんでした。

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 午後は、今年で3年目の参加となった「市民大学講座 ゼミナール 郷土史学科」の第一回目に出席。中央公民館からモデルチェンジDscn1004c した「パブリックセンター」にて。1回2時間で、12月までに7回の講座があります。¥3,000。今年度は「城と城下町ー桑名城を中心にー」というテーマ。いつも行っている九華公園は桑名城跡にありますので、このテーマはとくに興味があります。講師は市博物館元館長で、歴史専門官の大塚由良美先生。大変分かりやすく、楽しいお話しで2時間はあっという間。今日は、城、城郭などについての基本的な内容について取り上げられました。次回以降は、桑名城についての具体的な話になる予定ですが、今日の内容は基礎的な事項なのでしっかり復習しておいてくださいといわれ、苦笑。不詳・私めが学生たちにいつもいっていることと同じことを念押しされました。

 明日は、ハッキリしない空模様のようですが、午前中は、市役所の会議に出席予定。

20190504近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅4日目~伊勢街道、旅人気分で伊勢平野の鈴鹿から海運で栄えた白子へ」(その1)……近鉄鈴鹿市駅をスタート、高田派神戸別院などを見て、龍光寺の大雲龍に感激していたら、早々にコースミスをしてウロウロ

 5月4日に開催された近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅4日目~伊勢街道、旅人気分で伊勢平野の鈴鹿から海運で栄えた白子へ」の本編をスタートします。この日は、絶好の行楽日和でした。今回もMさんと二人旅。「同行二人」というよりは、「弥次喜多珍道中」に近いかも知れません。

Img_4302c_1  4月11日に参加した「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅3日目~東海道、旅人気分で四日市宿から伊勢路Img_4295c_1 へ」の続きということで、前回のゴールであった近鉄鈴鹿線・鈴鹿市駅がスタート。受付は、9時半から11時。桑名駅を8時42分に出る松坂行き急行に乗車。伊勢若松駅に9時9分に着いて、鈴鹿線に乗り換え。9時20分発に乗車し、鈴鹿市駅には9時25分に到着。¥490。あの10連休中とあってか、すでに長蛇の列。もらったマップのナンバーは234番。スタートできたのは、9時40分。

Img_4298c_2  こちらがこの日のコースマップ。両面になっています。マップの下が北。スタートの鈴鹿市駅も下の端に描かれています。神戸Img_4300c_2 城跡に立ち寄ってから伊勢街道を下って白駒で。途中、常夜燈(村瀬病院のところ)、弥都加伎神社(みずがきじんじゃ)、北の端の地蔵堂、江島若宮八幡社、伊勢昆布、久住屋菓舗などが主な立ち寄り先で、近鉄名古屋線・白子駅がゴール。コースマップ上は、約9㎞。鈴鹿市駅あたりは市役所などもある、市の中心街。そこからひたすら南へ下っていくことになります。

190504kintetuhikingsuzukashi_1  実測ルートマップ。スタートしていきなりコースミスをしでかした(苦笑)のと、立ち寄り先でウロウロした分を除けば、9.3㎞。この実測ルートマップには、細かい立ち寄り先は書き切れませんでしたので、割愛してあります。

190504kintetuhikingsuzukashi1_1  細かく見た、実測ルートマップその1。札の辻と朱書したところまで前回歩いています。この日は、ゴトウ耳鼻咽喉科と書かれているところからが伊勢街道。ここから南へ進んでいき、神戸城跡に立ち寄るためいったん伊勢街道を離れ、神戸高校の周りを一周して、伊勢街道に戻ります。この途中で、曲がるべきところを間違えて、ウロウロしましたが、それはまたあとで。

Img_4306c_1  スタートから300mあまり、東側に浄土真宗高田派神戸別院があります。寛政5(1793)年4月に建立されました。「准御坊・掛所」と呼ばれたこともあったようですが、近隣では「神戸の御坊さん」として親しまれたといいます。寺内には、明治13(1880)年7月3日、明治天皇Img_4310c の行在所となった御殿が残っています。山門近くには、「明治天皇神戸行在所」という石柱が3本も立っています。

Img_4315c_1  神戸別院から道を挟んだ西側には、浄土真宗高田派の高檟山願行寺。光明本尊は、南北朝時代の作で画面中央部に光明を放つImg_4318c 「南無不可思議光如来」の名号が書かれたもので、県下でも2点しかない仏画だそうです(市指定文化財)。享保6(1771)年、神戸町内の161件を焼いたという「信濃屋の火事」で類焼し、天明7(1787)年に再建されたと伝わっています。

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 願行寺を見てさらに伊勢街道を南へ進みます。スタートから600mほどのところで、神戸城跡へ回るため、いったん街道を離れ、右折。左の写真では突き当たりにある魚次商店のところ。ところが、この先スタートから700mあまりを過ぎたところで左折すべきだったのですが、それを見逃してしまいました。気づかずに直進。実測ルートマップには、ミスして歩いた部分は記載していません。

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 東王山(とうおうざん)慎福寺。真言宗豊山派のお寺。院号は、瑠璃光院(るりこういん)。ご本尊は薬師如来。永禄Img_4328c 2(1559)年3月、法印紹盛上人の開基と伝わり、往時は七堂伽藍を備え、神福寺と称していたといわれます。神戸城主・織田信孝公の祈願寺とされ、寺領660石を受領し栄えたのですが、江戸時代の大地震により焼失。その後再建され、明治初年の廃仏毀釈の際、寺名を慎福寺と改称したといいます。3月の初午には100年以上続く「厄除け護摩祈禱」が行われます。

Img_4334c_1  コースミスに気づかないまま、さらに進み、天澤山龍光寺(りょうこうじ)の山門前に出ました。臨済宗東福寺派別格地といImg_4344c_1 う寺格を持っています。ここは、「神戸の寝釈迦」で有名で是非とも訪ねたかったところで、喜んだのです(知らぬが仏)。ちなみに「神戸の寝釈迦」は、毎年3月15日前後にご開帳があります。涅槃図は、京都東福寺(当山の本山)の画僧・兆殿司(ちょうでんす;吉山明兆きっさんみんちょう)が画いたといわれます。兆殿司は、家内の実家近くにある林性寺の涅槃図も描いています(2018年3月14日:林性寺の涅槃図を拝み、稲荷大師堂も拝観)。

Img_4342c  室町時代、応永29(1433)年11月29日の深夜、伊勢湾の方より奇異なる霊光が飛び來り、当山の旧跡地西条の沢山に至って消えるということが15日間続いたといいます。時の神戸城主は、神戸家二代実重で、伊勢国司・北畠満雅が称光天皇に奉上したところ、東海龍王の瑞光であるからこの地に禅寺を建立して国家安泰を祈るべしとのことであったといいます。天皇は満雅を開基とし、神戸実重を普請奉行として天澤山龍光寺を創建したとされます。

Img_4359c_1  本堂の天井画は、畳50畳大の大雲龍となっています。これは見事でした。しばらく見上げて、見とれていたくらい。雪兆の筆によります。雪兆は、堀越雪兆(ほりこしImg_4361c せっちょう;1800-1885)であろうと思われます。龍光寺には、他にもいろいろと興味深いものがありましたし、なかなか良い雰囲気のお寺でした。

Img_4366c  境内にはいろいろなものが他にたくさんありました。まずは、本堂の扁額。書いた人の名前をImg_4367c 見てひっくり返りました。あの三条実美とあるのです。三条実美はいうまでもなく、幕末・明治の公卿・政治家。どういう縁でここにその書があるのでしょう?龍光寺の沿革を見ると、天皇や江戸幕府とも密接な関係があったということですので、そういう関わりでしょうか?

Img_4370c  境内の北側のエリアには、まずは斎藤緑雨の警句の碑。「按ずるに筆は一本也、 箸は二本也。衆寡敵せずと知るべし」 とありました。「筆一本で稼いでも、 二本の箸 (生活) は操れない」という意味で、 文筆家として生きていく厳しさをユーモラスに表現しながら、 その気概も込められている一言。斎藤緑雨(さいとう りょくう:慶応3(1868)~明治37(1904)年)は、鈴鹿の生まれ(龍光寺の近くに生家があったといいます)。明治時代の小説家・評論家。明治法律学校(明治大学)中退。仮名垣魯文に師事。坪内逍遙・幸田露伴・森鴎外等と親交を結び、小説家、評論家として活躍しました。境内にあるNPO法人SUZUKA文化塾「啐啄庵」の2階が「緑雨亭」になっており、緑雨の著作が読めますし、緑雨の生家の遺構を活用し、4畳半と8畳間が復元されています。

Img_4376c_1  他に倉田公人子の句碑。「日の丘に 立ちて寥朗の 秋を見る」。平成2(1990)年12月建立。その側には、種田山頭火の句碑Img_4378c もあります。「分け入っても分け入っても青い山」。説明によれば、倉田公人子が生前、種田山頭火(明治15(1882)~昭和15(1940)年)と机を並べて俳句の勉強をした因縁によって、同じ時に山頭火の代表句の句碑を建てたとあります。倉田公人子については、ネットでは情報が出てこず、不明。

 境内には山口誓子の「寝釈迦像人天蓋の下なるかな」という句碑もあったのですが、まったく気づかず。このほか、大鵬関に関する石碑や、包丁碑などもありましたが、ここでは割愛します。

Img_4390c  龍光寺を出てさらに先に進んで、観音寺(かんおんじ)。浄土宗のお寺。開創は鎌倉時代、真言宗であったといいます。元亀元(1570)年、三蓮社休波観愚老和尚により浄土宗に改宗。神戸城主、本多候が当神戸に就封以来その菩提寺となっています。とここまできて、東を見たら、先ほど通過してきた交差点(栄橋西)が見えました。さすがにヘンだと気づいて地図を見回すのですが、龍光寺も、観音寺も記載がありません(立ち寄り先ではない寺の名前は書かれていないのです)。近くの商店の方に地図を見せて伺うも要領を得ず。少し戻って、庭の手入れをしていた女性に尋ねたら、行き過ぎていたことが判明。正しい道を教えていただき、実測ルートマップにあるコースに戻ることができたという次第(苦笑)。慎福寺の手前を左折すべきでした。

Img_4397c  その慎福寺の南を通っていると、お寺の中に「近藤達先生頌徳碑」がありました。近藤達(こんどうさだむ)は、明治時代に神戸近在で学校教育に尽力された方で、その功績と徳を称えるものでした(こちらに慎福寺による説明があります)。近藤は、幼いときに神戸藩の儒学者・服部松渓に入門し、孔孟の教えを受け、また、藩の算師・鈴木芳兵衛に算法を学びました。明治維新の際、頽廃した学校制度を憂え、明治3(1870)年、神戸西町に子どもを集めて学芸を教え始めます。明治13年(1880)年1月には西河野学校を設立、当初は自宅を校舎に充て、翌年には校舎を新築。明治25(1892)年、この学校がいい野村尋常小学校になったときには校長に任じられました。教育に当たっては忠君と孝悌を宗俊、子どもたちにも親切、実直で地方有力者を多数育てたといいます。この碑は、当時の田中文部大臣から題字の揮毫を得て、昭和6(1931)年2月に建立されています。

Img_4402c_1 慎福寺を過ぎ、龍光寺が経営するすずか幼稚園のところを左折します。結構細い道でしたので、「また間違えたか?」というImg_4405c 不安も頭をよぎったのですが、県立神戸高校らしき建物が見えてきましたので、大丈夫(微笑)。神戸城跡(現在は神戸公園となっています)が見えてきました。時刻は10時半近くで、スタートから50分ほど経っているのですが、コースミスをしてウロウロしましたし、龍光寺などにお参りし、見学していましたので、コース設定上はようやく1㎞ほど。ちなみに、コースミスをしてウロウロしていた方は多数ありました。地図をよくよく見て歩けば間違えなかったのでしょうが、細い曲がり道には注意書きをしてもらえるとありがたいところ。その1は、ここまで。その2は神戸城跡から。

2019年5月12日 (日)

午後からは研究会へ……午前中は時間制限法による散歩、九華公園で花菖蒲3輪

Img_8159c  5月も早くも12日。今日から4日連続で予定が入っているという、私にしては珍しい日々(笑)。昼頃から出かける予定がありましたので、午前中は、時間制限法による散歩。8時10分出発、10時には帰宅しなければということで、住吉神社、九華公園、京町、田町と回って4.8㎞。九華公園では、花菖蒲を撮影に来たとおっしゃるご夫婦に遭遇。しかしまだ、ご覧の通り、管理事務所から奥平屋敷跡へ行くところで、稲妻という肥後系の品種が3輪咲いているだけでした。野鳥撮影も難しいのですが、花の撮影も、タイミングが微妙です。「咲いていた」という証拠写真を撮っていってくださいと申し上げたら、大ウケされました(微笑)。

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 野鳥はいません。本当にいないのです。スズメ、ドバト、カラス、ムクドリ、キジバトくらいはどこにでもいますが、それ以外、今日も九華公園ではシジュウカラとコゲラの鳴き声を聞いただけ。スズメは親鳥が、ヒナを連れてあちこちに出て来ています。左の写真は、奥平屋敷跡北の花菖蒲園にて。ヒナはもう一羽いたものの、カメラを構えるのに手間取っているうちに、この1羽のみになりました。

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京町から田町にかけて、ツバメの巣のチェックをしてきました。左の写真は、京町の呉服屋さんの巣の様子。ヒナは3羽は確認したImg_5624c のですが、もう1羽いるように思えてなりません。親鳥はかなり警戒していて、側で写真を撮っていたら、私のすぐ近くを威嚇するように2度、3度飛んで行きました。その他、京町のお宅、田町の商店、田町の民家の3ヶ所で親ツバメが巣に就いているのを確認しました。右の写真は、京町のあるお宅にて撮ったもの。ここ、親ツバメが巣にいたり、いなかったりしていますが、卵を抱いていると期待しています。

Dscn0997c  午後からは、ある研究会に参加するため、12時出発で日進市方面へ。往きだけはたいてい東名阪自動車道を利用します。Yインターチェンジではほとんどサギはいなかったのですが、Kインターでは、インターの名古屋寄りのあたりに無数のサギたち。コサギが多かったようには思うのですが、数え切れないくらいのサギが集まっています。チャンスがあれば、一度出かけて確認してきたいと思います。

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 そして、研究会はこちら、いつもの女性の苑。話題提供者を含め10数名の参加者はほとんど女性。男性は私と話題提供者の先生の2人。別に肩身が狭いとかそういうことはありません。心理アセスメントについて勉強してきました。若い方の参加も多く、これから活躍してくれることを期待しています。

 冒頭に4日連続で予定と書きましたが、今日はこの研究会。明日は午後から、「くわな市民大学講座 ゼミナール郷土史学科」の今年度第1回の講座。今年は、桑名城を巡ってのお話し。明後日は、市役所にて特別支援教育関係の会議が午前中にあります。明明後日、水曜は、江戸橋方面での非常勤。目が回りそうです(笑)。

20190511JRさわやかウォーキング「四日市港開港120周年記念ボードビルからの展望と萬古まつりを楽しもう」へ(その2)……霞ヶ浦パークブリ ッジ、三滝公園で小休止して萬古まつり会場へ、三滝川沿いを歩いてJR四日市駅へゴールにて「完」

190511jrwalkingtomidamaha12  5月13日のJRさわやかウォーキング「四日市港開洪120周年記念 ポートビルからの展望と萬古まつりを楽しもう」のその2でImg_5422c_1 す。霞ヶ浦緑地公園を抜けて、霞ヶ浦パークブリッジへ来ています。この橋を渡って6㎞を過ぎると、港エリアから離れ、市街地へと向かって行きます。国道23号線の午起交差点で右折し、三滝公園へ。

Img_5438c  三滝公園です。正面入口に噴水があり、今日のような暑い日には爽快感を演出しています。テニスコートもあり、スポーImg_5436c ツを楽しむこともできます。レクリエーションにももってこいの場所といえます。ここで6.3㎞、時刻は11時を過ぎましたので小休止。木陰に入って、小腹を満たし、お茶で水分補袷。10分ほど休んで、再スタート。

Img_5453c  11時20分、川原町交差点に到着。スタートから7.3㎞を過ぎたくらい。ここから西で萬古まつりが開催されています。一通り見て回りました。食べ物はともかく、急Img_5455c_1 須とかは気にはなったものの、結局、何も買いませんでした。

Img_5458c  萬古神社にお参り。去年の近鉄ハイキングの時にもお参りしています(2018年5月12日:近鉄Img_5471c ハイキング“四日市港ポートビルからの眺望と賑わう「四日市萬古まつり」を楽しむ」”へ(懲りずに予告編か?)【一部訂正しました(5/22)】)。なので、詳細は去年の記事をご覧ください。ばんこの里会館も見てきました。この向かいにある駐車場で、パフォーマンスなどが行われています。余談ですが、この一帯、歩行者天国になっており、大賑わいですので、JRさわやかウォーキングの矢印案内板が設けられていません。私よりやや年配の女性のウォーキング参加者が地図を片手に迷っておられましたので、「救出」してきました。近鉄の高架を越えて、さらに西へ進もうとしておられました。この方、JR四日市駅と近鉄四日市駅の位置関係を逆に思い込んでいらっしゃったようです。お互い様であります。

Img_5485c_1  その後、地名でいうと滝川町あたりを回り、三滝川沿いに国道1号線の四日市橋へ出て来ます(左の写真)。左の写真では橋をImg_5492c 渡った向こう側が四日市の市街地。橋は渡らず国道1号線を横断し、川沿いに進み、もう1本下流の三滝橋を渡ります。この三滝橋は、旧東海道のルートにあたります。先だって、3月24日の近鉄ハイキングで通ったあたり(2019年3月30日:20190324近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅2日目~ 東海道、旅人気分で間の宿・富田から四日市宿へ」(その3)……「国寶元三大師道」道標、多度神社、三ツ谷一里塚跡、法泉寺を回り、嶋小餅店でみたらし団子を食べ、三滝川を渡る)。

Img_5498c_1  三滝橋を渡って左折。しばらく堤防道路を進んだ後、いったん三滝川の河川敷に降りました。慈善橋の下をくImg_5511c ぐって、老松橋のところまで600mほど河川敷を行きます。途中、慈善橋の下でイワツバメがたくさん飛んでいるのを発見。さすがに超望遠コンデジでは撮影は困難。都会ではやはり、こういう橋の下に巣をつくっているようです。前方には、うみてらす14から見たコンビナート地帯が見えます。慈善橋を越えたあたりで9㎞。11時45分。

Img_5521c  もう立ち寄り先もありませんので、ひたすら歩いてゴールを目指すのみ。北浜町、新町と歩いて行きます。「立ち寄り先はなImg_5523c い」と書きましたが、本町プラザが一応指定されていました(笑)。今までのハイキング/ウォーキングでも指定されてはいたのですが、一度も寄ったことはありません。正式には、四日市市民交流会館。トイレを借りることができるという感じ(参加者は年配の方が多いので、重要事項です)。会議室などがあるほか、1階ロビーには祭の神輿が展示されていますが、パス。

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 12時5分、JR四日市駅にゴール。10.4㎞を歩いてきました。イヤそれにしても、けっこう暑かったですねぇ。参加カードにスタンプを押してもらい、これで6個目。去年は1年で6個でした。今年は何とか10回参加して、参加賞をもらいたいと思っています。Img_5538c ゴールでは何ももらえないと思っていたのですが、四日市港開港120周年記念のポケットティッシュと、缶バッジをいただけました。こういうちょっとしたものでもいただけると嬉しくなります。  

Img_5535c  恒例により、完歩記念パネルも撮影(笑)。これを撮影しないと、JRさわやかウォーキングに参加した気がしないのです。前にも書きましたが、ゴールの駅名が変わるだけで、看板そのものは毎回同じものが置いてあるのですが……。

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 さらに、AGF鈴鹿工場から移動販売車が出ていて、コーヒーなどの無料サービスが行われていました。ホットコーヒー、冷たImg_5548c いカフェオレなどがいただけたのですが、暑かったので、冷たいカフェオレをお願いしました。が、ペットボトルから紙コップに注がれ、ちょっとガッカリしてしまいました(笑)。駅のコンコースでは、金城軒の太白永餅を売っていましたが、買わず。創業は慶応4年というか、明治元年というか(1868年)。四日市の本町通りに店があります。冷たい白玉あんみつとお茶のセットも¥150で売っていて、その場で食べられるようになっていてけっこう人気でした。

Img_5556c  次の名古屋方面は、12時10分に普通電車があったものの、これには乗れず。12時26分の快速みえ10号名古屋行きに乗車。桑Img_5550c 名到着は、12時37分。¥240。指定席に乗らなければ、乗車料金だけで乗れます。キハ75形気動車が使われていて、乗り心地は快適です。停車駅も、名古屋~多気間は、特急南紀とほぼ同じ。

Img_5561c  ALKOOのデータは、歩数20,735歩、距離は15.9㎞となっていました。歩いた距離は、キョリ測で調べると、ウォーキングで10.4㎞、自宅から桑名駅往復が1.8㎞ですから、合計12.2㎞(+α)。暑かったのでけっこう汗を掻き、少々疲れ、帰宅後は30分ほど爆睡でした。

2019年5月11日 (土)

20190511JRさわやかウォーキング「四日市港開港120周年記念 ポートビルからの展望と萬古まつりを楽しもう」へ(その1)……JR富田浜駅をスタートし、浜園緑地を経て四日市港ポートビルを楽しみ、霞★夢くじら公園から四日市ドームへ

 本日も絶好の行楽日和。27℃近くになり、けっこう暑い日でした。昨日の記事に書きましたように、若干迷ったものの、富田浜駅で開催されるJRさわやかウォーキングに行ってきました(四日市港開港120周年記念 ポートビルからの展望と萬古まつりを楽しもう)。しかし、実は、昨晩、さらに「紀勢線全通60周年記念 新緑が映える瀧原宮と三瀬谷ダムを訪ねて」もいいなと迷ったものの、JR紀勢線・滝原駅はいかにも遠く(特急南紀を利用して1時間半ほど。普通を乗り継いでいくと3時間あまり)、乗車料金だけで¥1,830、特急南紀の指定席を使うとさらに¥2,010と費用も嵩むので断念(もっと早くから計画しておけばよかった……笑)。

Img_5212c  上述のように、今日のJRさわやかウォーキングは、JR関西線・富田浜駅がスタート。受付は8時半から11時。桑名駅を8時51分Img_5224c 発の亀山行き普通に乗車。富田浜は3駅目で、9時2分には到着。なんと¥200。財布に優しい(微笑)。今まで何度も通ってはいたものの、利用するのは初めて。駅名から想像できますが、明治40(1907)年7月、富田浜海水浴場の海水浴客専用として、当時の関西鉄道の富田浜臨時仮停車場が開業(富田 - 四日市間)。昭和3(1928)年3月、 富田浜駅に昇格し、通年営業を開始しています。

Img_5221c  本日のコースマップ。JRさわやかウォーキングでは、コースに矢印の着いた案内看板が出ますので、マップはきわめて簡単なも190511jrwalkingtomidamaha のです。右は実際に歩いた、実測ルートマップ。このあたりは、すでに何度かハイキング/ウォーキングで来ていますので、余分な寄り道もしませんでしたし、コースミスもしでかしませんでした(笑)。コースマップでは、9.8㎞となっていましたが、実際には10.4㎞でした。

190511jrwalkingtomidamaha11  こちらは、少し詳しくした実測ルートマップその1(前半部分となっています)。四日市港の新しい港の方を歩くコースになっています。今回の記事は、1回完結のつもりで書き始めたのですが、長くなりそうなので、その1とします。

Img_5230c  富田浜駅を9時5分にスタートして東へ。国道23号線の手前を左折して北へ向かいます。このあたり立派な松並木があって、海Img_5237c 岸であったことを想像させられます。300mほど行くと、富田浜病院の東に湊というか、小さなマリーナがあります。この港の先で国道23号線をくぐって四日市港のエリアに入っていきます。

Img_5242c  左の写真が国道23号線をくぐって出た先。ここから南に浜園緑地が続いています。富田浜駅から数分。ドングリ林が広がってImg_5247c いて、秋にはドングリ拾いができそうです。この公園は、長さ500mあまり。木々に囲まれ真っ直ぐのびた遊歩道で、四日市港をながめながら歩け、気持ちの良いところ。そういえば、九華公園でお目にかかる方が、ここや近くの富双緑地でもバードウォッチングができるとおっしゃっていました。

Img_5252c  浜園緑地を過ぎて、霞大橋を渡り、四日市港ポートビルを目指します。そういえば、ちょうど1年前(2018年5月12日)にImg_5257c は、近鉄ハイキングでポートビルと、萬古まつりに来ています(近鉄ハイキング“四日市港ポートビルからの眺望と賑わう「四日市萬古まつり」を楽しむ」”へ(懲りずに予告編か?)【一部訂正しました(5/22)】)。

Img_5268c  四日市港ポートビルには、9時30分過ぎに到着。出発から2.1㎞ほど。今日のJRさわやかウォーキング参加者は、無料入場券がImg_5277c もらえます(微笑)。このビルは、四日市港の開港100周年を記念して、平成11(1999)年8月5日に開館。14階建てですが、13~14階の間は18mの吹き抜け構造になっています。高さは地上100mで三重県内で最も高いビルです。14階の展望展示室は、愛称「うみてらす14(フォーティーン)」。地上90mで、昼は鈴鹿山脈からセントレア、名古屋方面まで見渡せます。夜は全国的にも有名になった四日市港の夜景が一望できるスポットです。

Img_5287c  今日はほぼ快晴で眺めは抜群。左の写真は、うみてらす14から南西の方の眺望。コンビナートや、四日市ドーム、右手には鈴鹿Img_5299c_1 山脈が見えます。遠くは鈴鹿や、亀山方面。中央左に見える赤白に塗られた煙突の向こうは、四日市港千歳地区(旧港)。すぐ下に広がるのは、霞港公園。右の写真は、南東方向。コンテナターミナル、国際物流センター、モータープールがあります。中央上、やや右手にはセントレアも見えるのですが、今日はちょっと霞んでいてよく分かりませんでした。

Img_5310c  続いて、北東の方向。ガントリークレーンの向こうは、中部電力川越火力発電所。霞ヶ浦北埠頭から伸びるのは、みえ川越イImg_5331c ンターに続く「四日市いなばポートライン」。去年(218)年4月に開通。遠くにかすかに名駅前のJRセントラルタワーズなども見えます。右は、北西方向の写真。奥には鈴鹿山脈が連なっています。右端に見えるのは、養老山地(多度山など)。伊吹山も見えるはずですが、霞んでいます。

Img_5345c  眺めをしっかり堪能(2周してきました……笑)。14階展望室の中央にはジオラマ。これはよくできています。また、入場のImg_5283c 際、パンフレットともに、「港DATA」カードを2種類いただけました。四日市地区と、霞ヶ浦地区の2種類です。四日市地区は、港の南部にあり、四日市港発祥の地。明治32(1899)年に開港。霞ヶ浦地区は、北部にあり、霞ヶ浦南・北埠頭と工業用地とからなっています。南埠頭は昭和48(1978)年から、北埠頭は平成22(2010)年から全面供用されています。

Img_5358c  小休止もしてきましたので、うみてらす14には、30分ほど滞在。霞大橋までは、来た道を戻ります。霞大橋の下をくぐって、Img_5404c 霞★夢くじら公園(霞ヶ浦緑地)方面へ。海岸線に沿った南北に長い公園です。北側には、松並木や散策広場、遊具があります。南側エリアには野球場、サッカー場、四日市ドームなどのスポーツ施設があります。

Img_5381c  ここ霞★夢くじら公園の北側のエリアには、石碑、銅像などがありました。まずこれは、この公園の由来を記したもの。昭和46(1971)年1月、当時の市長・九鬼喜久夫氏により建立されました。霞ヶ浦の地は江戸時代、伊勢国朝明郡羽津村が開発した土地でしたが、安政の大地震によって水没したり荒廃したりしました。その後、小菅剣之助、伊藤伝七、村瀬周輔らによって霞ヶ浦土地株式会社が創立され、十万坪にも及ぶ霞ヶ浦の埋立が大正12(1923)年に完成しました。さらに、大正13(1924)年には霞ヶ浦海水浴場と住宅地が造成されています。昭和3(1928)年には伊勢電鉄が開通し、羽津駅が開設され、交通の便も整いました。昭和4(1929)年には霞ヶ浦土地株式会社によって競馬場(現在の四日市競輪場)が開設され、このあたりは一大レジャーセンターとなっています。羽津駅は昭和13(1938)年に廃止、臨時停車場が現在の霞ヶ浦駅となりました。戦後は、工業開発が行われ、海岸線は埋め立てられ、海水浴場も昭和35(1960)年頃にはなくなりました。昭和42(1967)年には霞ヶ浦第1期埋立工事が始まって、昭和45(1970)年には石油コンビナート用地として完成しました。霞ヶ浦緑地は昭和48(1973)年に完成し、現在では競輪場、オーストラリア館の他各種スポーツ施設が建てられています。

Img_5385c  由来記の南には、「平田佐次郎紀功碑」があります。平田佐次郎(初代)は、天保13(1842)年、旧朝明郡南福崎村(現在の三重郡川越町)の農家水越佐七の五男として生まれ、13歳の時に平田家へ奉公に出て、船の船員・ボーイとなり、18歳で支配人となりました。23歳で500石の伊宝丸を買収して船主となり、江戸・四日市間の貨物運搬に従事しています。主人の家・平田家の養子になって、平田佐次郎と改名して、兄佐平に伊宝丸を譲り、新たに1,400石の福吉丸を購入して、廻漕業に従事しました。その後、製網業が有利と知り、慶応4(1868)年、漁網の製造販売を目的に麻屋平田漁網商店、その後、製網から綿紡績の平田紡績を創設し、財を成しています。明治27(1894)年、関西鉄道が開通して富田駅が設置されたたものの、当時の道路は車馬の通行さえ困難な荒れた道で、これを憂いた平田佐次郎が補修を行い、併せて新道も新設しましたた。これによって周辺村民の利便性が上がったので、明治31(1898)年2月、彼の功績を称える碑が周辺村民により建てられました。以前は富田一色海運橋付近本町にありましたが、海運橋周辺の整備事業の際に平田佐矩氏像の横に移設されたようです。

Img_5395c_1  「平田佐矩氏像」です。上述のように、平田佐次郎紀功碑の南にあります。平田佐矩(ひらたすけのり)は、明治29(1896)年、三重郡富洲原町に生まれ、平田紡績株式会社社長を務め、三重織布会社や桑野電機会社などの取締役を兼務していましたが、昭和34(1959)年、第11代四日市市長に就任し、昭和40年(1965年)まで市長を務めました。高度成長期に当たるその就任期間に四日市の工業発展に尽力しています。特に力を入れたのが霞ヶ浦の開発で、近畿日本鉄道株式会社の協力と八幡製鉄株式会社の援助を得て、昭和38年(1963年)に霞ヶ浦土地株式会社所有の霞ヶ浦の土地を市の所有地としました。この銅像は市制70周年記念で建立されたものです。

Img_5412c  このあと、霞ヶ浦緑地公園を南に進みます。四日市ドームや、霞ヶ浦野球場のところを通って、霞ヶ浦パークブリッジに行くImg_5419c のですが、長くなりましたので、今日のところはここまで。上記のように、1回で完結のつもりで書き始めたのですが、長くなりそうですので、今のところ2回に分けることに予定変更。右の写真、霞ヶ浦第一や宮城のあたりで、スタートから4.8㎞、時刻は10時35分を過ぎた頃。その2は、霞ヶ浦パークブリッジから。

2019年5月10日 (金)

河口堰でコアジサシとキアシシギ、M池公園でカイツブリの営巣とバン、オオヨシキリ

Img_5006c  今日はまた好天で、気温も25℃を超え、過ごしやすい日になっています。いつもの散歩コースにはあまり鳥がいませんし、揖斐Img_5203c 長良川の中洲からオオヨシキリの鳴き声が聞こえるようになったので姿も見たくなり、プチ遠征。長良川河口堰とM池公園、その他へ行ってきました。左の写真は長良川河口堰、右はM池公園。8時半出発、11時50分帰宅。歩いたのは、たぶん4㎞弱。

Img_7895c  河口堰でコアジサシを目撃しました。東側と西側の魚道あたりで、それぞれ2羽。いずれでもダイビングして、小魚を咥えていくImg_7951c のが遠くに見えました。管理橋の上から見ていましたので、クリアな写真は望むべくもなく、それはちょっと残念。左の写真は河口堰東の魚道上空、右は西の魚道上空でそれぞれ撮ったもの。

Img_7925c  こちらは、東側の魚道でダイブして、小魚をゲットし、南へ飛んで行ったところ。ほとんど証拠写真ではありますが……。去年は、ざっと確認したところではコアジサシは見ていないと思います。ブロ友のひらいさんも先日、導流堤方面で多数確認しておられますが(2019.05.02 GW日記(6日目))、営巣地はどこでしょう?

Img_5038c  また、河口堰では、たぶんキアシシギと思いますが、親水広場の東に3羽。10mあまりの距離で見ていたのですが、逃げることImg_5042c もありませんでした。シベリアから東南アジアやオーストラリア方面に渡る途中、日本には旅鳥としてやって来ます。全長は約25cm。その名の通り、足が黄色。ここで休んでいたのかも知れません。

Img_8019c

 近くにはイソシギが1羽。このイソシギは、アユ孵化用の水路にいたのが、私に驚いて、逃げたもの。イソシギは、この水路あたりにたいてい1羽はいます。

Img_5078c  そのアユ孵化用水路には、珍しくコチドリも2羽。コチドリはたまにこの親水広場で見かけます。コチドリを見ていたら、ツバImg_5069c メが2羽、水路に降りてきていました。泥を取りに来たようで、嘴でくわえていくのが見えました。巣を補修するのに使うのでしょう。

Img_5002c_1  その他は、いつものメンバー。まずは、コサギさん。左のコサギは、河口堰東の魚道にいたもの。写真を撮ったら魚道にいたImg_5011c ものが、堤防上に逃げました。右の写真のダイサギは、堰西側の閘門へのアプローチ、下流側で。目元が緑色ですから、婚姻色かも知れません。

Img_7998c_1

 アオサギは、3羽。じっとしていたのは、堰西側の魚道上流にいた、左の写真のアオサギさんだけ。他は、例によって逃げ足の速いこと。こちらが気づくか気づかないかのうちにもう飛び立っているのです(苦笑)。

 ところで、河口堰の管理橋を往復して東側に戻って来たら、70代後半と覚しき男性がカメラを提げて歩いてこられました。「何を撮っているの?」と聞かれ、あれこれ話していました。名古屋からいらして、ダムカードを収集しているということで、河口堰のものも見せてもらいました。このあと、菰野に立ち寄って、石榑トンネルを抜けて、滋賀県の姉川まで行くとおっしゃいます。いや、元気な方でした。

 M池公園に行く前に臨駐に立ち寄ってみましたが、鳥影はゼロ。ヒバリもコチドリもいません。

Img_5193c  そのM池公園は、カイツブリの繁殖地でありますし、オオヨシキリも今頃もう来ているはず。しかし、到着したとき、カイツImg_5150c ブリのあの響き渡るようなさえずりが聞こえず、ちょっと心配になりました。しかし、公園の散歩道に沿って一周したところ、カイツブリは合計11羽を確認。営巣し始めている巣も3ヶ所ありました。他にカメが乗っていて、カイツブリが回りをウロウロしている巣も1ヶ所。

Img_5180c  オオヨシキリは、去年たくさんいた、もとの花菖蒲園にはいませんでした。花菖蒲園だったところは蘆が生えるのですが、まだ伸びてきておらず、オオヨシキリの鳴き声はしません。蓮田まで来たら、ここに生えている蘆や、周りにある木からオオヨシキリの鳴き声が聞こえてきました。葦の方が近かったものの、まったく見えません。50mほど先の木にいるのが見えましたので、撮ったのが左の写真。全くの証拠写真(苦笑)。

Img_8126c  さらにこの蓮田で近くを動く鳥がいるのに気づきました。枯れた蓮の陰になってあまりよいショットは撮れなかったのですが、バンがいました。全長32cm。クイナの仲間。水田を害敵から守る「田の番をする鳥」としてバンの名が付けられたといいます。今年2月3日、JRさわやかウォーキングで訪れた呼続公園で遠くから見ましたが、近くで見るのは初めて(2019年2月 3日:20190203JRさわやかウォーキング「節分の尾張四観音・笠寺観音と旧東海道めぐり」へ(予告編))。遮るものがないところまで出てこないかとしばらく待ったものの、出て来てはくれませんでした。

Img_8099c M池公園でもアオサギを何度か見たものの、やはりすぐに逃げます。何度も繰り返し書いていますが、見て、写真を撮るだけですからもっとフレンドリーにしてもらいたいもの。

Img_8140c  M池公園からの帰り道、先日も確認したケリの巣を見てきました。長島町内の国道1号線沿いにある2ヶ所です。M池公園からImg_5204c 近い方では、巣のある空き地に入るや否や、巣に就いていた親鳥が慌てて飛び出てきて、猛攻撃を受けました(苦笑)。クルマに突っ込んできそうな勢い。これは、確実に卵を抱いていると思えます(左の写真)。早々に撤退。もう1ヶ所、別のところではこれに懲りて遠くからそっと見てみました。ケリが巣に就いており、ここも抱卵中と思えます。今日は、どちらの巣もケリは1羽しかいませんでした。

Img_5007c  先日の相談会の報告書も何とか仕上げ、本日午後、投函しました。明日は、近鉄ハイキングも、JRさわやかウォーキングも四日市方面であります。近鉄ハイキングは、「伊坂ダムを訪ねて」。近鉄富田駅から十四川堤、伊藤手延製麺所、亀屋佐吉、丸井屋老舗から伊坂ダムを経て、三岐鉄道・三岐線・暁学園前駅がゴールという8㎞コース。伊坂ダムは、去年(2018年)7月14日、猛暑の中汗だくになって歩きました(20170714近鉄ハイキング「湖面を渡る風が心地よい夏の伊坂ダムを訪ねて」(予告編)……猛暑でしたが、10㎞あまりを完歩!)。このコースはたぶん去年と同じと思われます。JRさわやかウォーキングは、「四日市港開港120周年記念 ポートビルからの展望と萬古まつりを楽しもう」ということで、JR関西線・富田浜駅から、浜園緑地、四日市港ポートビル、霞★夢くじら公園、三滝公園から萬古まつり会場を経て四日市駅がゴールという約9.8㎞コース。こちらもこれまでのハイキング/ウォーキングでほとんど歩いたところ。思案中ですが、JRさわやかウォーキングの方へ行こうかという気がしています。近鉄ハイキングは去年とまったく同じコースと思われることと、JRさわやかウォーキングでは、富田浜駅に降りたことがないからという、ささいな理由(笑)。明日の朝の気分で最終的には決めます。

20190428近鉄ハイキング「『阿漕』砂浜ハイキングと津グルメ散策」へ(その3)……阿漕浦砂浜を歩いて津ヨットハーバーへ、津グルメはパスし、弁当を食べ、松菱百貨店へゴール(完)

190428kintetsuhikingtsushinmachi2_1  4月28日の近鉄ハイキング「『阿漕』砂浜ハイキングと津グルメ散策」のその3です。その2では、念願であった結城神社にお参190428kintetsuhikingtsushinmachi3 りしました。結城神社からは、400mほど東へ行くと、阿漕浦(あこぎうら)海岸に出ます。スタートからは4㎞。春は潮干狩り、夏は海水浴、冬はノリ漁場となります。かつては伊勢神宮の供物の漁場で、殺生禁断の海でした。昔、貧しい漁夫平治が病母のためこの海で魚をとったため罰せられ、簀巻きにされて海に沈められたという「阿漕平治」の物語が伝わっています。これは、謡曲、浄瑠璃に歌われています。この物語から、「阿漕(しつこく、ずうずうしいこと。義理人情に欠けあくどいこと)」ということばができていますし、津の名物「平治煎餅」の名前の由来にもなっています。近くに平治の霊をまつる阿漕塚もあります(津ヨットハーバーの西)。

Img_3736c  阿漕浦海岸に出て来ました。目の前は伊勢湾。良く晴れていれば、知多半島、セントレア、渥美半島、伊勢や鳥羽方面、答Img_3749c 志 島、上島などがハッキリ見えるのですが、ちょっと霞んでいます。沖合には大きな船や、ヨット多数が見えます。ヨットは、同じタイプのものがたくさん出ていましたから、ヨット教室でも開催されていたのかも知れません。右の写真は、南東の方角にあるジャパンマリンユナイテッドの津事業所。昔は、日本鋼管といいましたので、今でも地元ではそう呼ばれています。造船会社。

Img_3769c  ここから津ヨットハーバーまで、砂浜を1㎞あまり歩いて行かねばなりません。しかし、それにしても砂地は歩きにくい(苦Img_3760c 笑)。途中で休んでいるハイキング参加者もたくさん。砂浜に犬を連れて散歩にきている人もあります。歩きにくいものの、気持ちは良いところ。

Img_3782c  海岸をほぼ歩き終え、津ヨットハーバーが間近になったあたりで、12時。昼食をどうしようかと思案。高虎ドッグは地元では超人気店で、休日は駐車場は満車、待つ人が入り口の階段にまで並びます。今日は近鉄ハイキングの立ち寄りスポットにもなっていますので、たぶん入れないと予測してきました。また、松菱百貨店からのバスがたぶん13時前くらいにあるはず。ということで、ここで駅ナカファミマで入手してきた弁当を食べることにしました。「いなりおむすびセット(税込¥380)」であります。毎度書きますが、コンビニ弁当ももう少し選択肢のバリエーションが欲しいところ。近鉄さんも、ハイキングの時にスタートの駅でその土地の名物を入れた「ハイキング弁当」でも売ってくれないでしょうか(笑)。

Img_3813c  弁当を食べ終えて、再出発は12時25分。ヨットハーバーの手前・阿漕浦海浜公園で、野口雨情の歌碑を見つけました。もともと津北・津・津南ロータリークラブが昭和58(1983)年に建てたのですが、いろいろの経緯があって、平成29(2017)年8月に再建されたもの。野口雨情は、童謡「赤い靴」の作詞などで知られています。「漕が浦の舟人は ゆらりゆらりと船を漕ぐ 野口雨情」と刻まれています。

Img_3817c  さらに、阿漕浦海岸の岩田川寄り、ヨットのマストが林立している伊勢湾海洋スポーツセンターの前の海岸堤防の所には、津出身で、全国的にも有名な俳人長谷川素逝(はせがわそせい)の句碑があります。長谷川素逝(直次郎)は、明治40(1907)年大阪に生まれました。父が大阪砲兵工廠の技師だったからで、本籍は津市。大正4(1915)年、父の退職によって津に帰り、養正小学校に転入。津中学校を経て、第三高等学校、京都大学国文科を卒業。俳句を田中王城・鈴鹿野風呂に師事。昭和7(1932)年、三島重砲連隊幹部候補生として入隊。除隊後、津の自宅に帰ります。昭和9(1934)年4月、京都伏見商業学校の教員、その9月津中学校の教員となって津に帰ったのですが、昭和12(1937)年、中国との戦争が始まると程なく砲兵少尉として応召。翌年月、病を得て入院、内地送還となっています。その後は、病を癒やしながら句作に励みます。昭和21(1946)年、40歳にて旧大里陸軍療養所で没。句碑には、「遠花火 海の彼方に ふと消えぬ」とあります。

Img_3835c   砂浜を歩き終えて、スタートから5㎞半、津ヨットハーバーに到着。伊勢湾のほぼ中央に位置し、かなり大規模なヨットハーImg_3827c バーです。一年を通して、海も割りと穏やかだそうで、たくさんのヨットが係留されています。ヨット教室も開かれたり、体験乗船もできたりといろいろと楽しめそうです。もっと若くて、お金があったらヨットもやってみたいものなどと思いつつ歩いて行きます。

Img_3839c_2  ヨットハーバーのすぐ西に、今日の「津グルメ」の店が2軒。左は、高虎ドッグ。予想通り、駐車場は満車で、諦めて帰っていくクルマも多数。階段に人が並んでいますが、これは入店待ちの行列。焼き立てパンでつくられる51種類のドッグサンドが食べられます。ドッグサンド、ホットドッグサンド、スウィーツ系、など種類が豊富で、どれにするか迷うくらい。3~4年前に一度だけ来たことがありますが、残念ながらブログには書いていません。ここに来るなら、平日がお勧め。この日は、店内で食べると「ちょっと、ドック」がもらえたはず。

Img_3841c  高虎ドッグの西にT2の菓子工房ハーバー店。チョコレートケーキ、チョコ菓子の専門店だそうです。こちらは、始めからパスの予定でしたので、そのまま通過。カフェを利用すると「シュークリーム」が1個プレゼントされることになっていました。T2の菓子工房あたりで5.6㎞。あとは立ち寄るところはありませんので(正規のゴールである津新町駅に行くには、ラーメンいたろうに立ち寄ります。いたろうでは、津ぎょうざのプレゼントがあり、これはちょっと魅力ですが……)、岩田川沿いを西へ向かいます。

Img_3851c  スタートからほぼ7㎞で岩田川にかかる岩田橋を通過。往きは、この1つ上流にある昭和橋を渡っています。橋の向こう、右手には個人的ゴールに設定した松菱百貨店が見えてきました。岩田橋を渡った向こうは、津市の繁華街。市役所や、津城跡のお城公園、昔ながらの大門商店街などがあるエリア。去’年(2018年)4月23日の「またもや勝手に近鉄ハイキング(笑)……本日は、名古屋線・津新町駅から松菱、お城公園などなど(予告編)」で歩き回ったあたり。

Img_3862c_3  12時45分頃、松菱百貨店前に到着。まずは、百貨店前にある岩田橋バス停に向かって、バスの時刻を確認。家内の実家方面へImg_3869c のバスは、12時55分発で一安心。松菱百貨店1階の食品名店街へ。自分の土産と、家内の母への手土産を物色。養老軒のフルーツ大福出張販売もあったのですが、生ものだから2時間しか保証しないといわれ、断念。平治煎餅と、平治最中を買い、母には平治最中と、山二造酢で買った醸造酢を土産にすることにしました。予定通りのバスに乗り、45分ほどで実家へ(¥730)。2時間半ほど滞在して、16時半のバスに乗車(¥530)。久居駅で17時7分の近鉄名古屋行き急行に乗り換え、桑名には17時58分着。¥820。

Img_3879c_2  この日であみま倶楽部のスタンプは、16個目。お陰様で順調です。ALKOOのデータは、右の写真のとおり。ハイキングで歩Img_3959c_2 いたのが7.1㎞、家内の実家とバス停の往復が1㎞足らず、桑名駅までの往復が1.8㎞ですから、合計9.9㎞くらいのはず(キョリ測のデータ)。14.8㎞も歩いていません(バスがゆっくり走ったときなどをカウントしていると思います)。歩数は、生活リズム計では、17,751歩でした。

Img_3955c_1  我が家への土産は、上記の通り、平治煎餅。左の写真のもので税込み¥540。阿漕平治が阿漕浦海岸に忘れたという傘の形をしSyohin_img1 ています(右の写真、平治煎餅のサイトから借りました)。煎餅そのものは、あちこちにある卵煎餅です。桑名でいえば、かぶら煎餅と同じ製法と思います。

 という次第で、4月28日の近鉄ハイキング「『阿漕』砂浜ハイキングと津グルメ散策」の旅日記も無事ゴールにて、「完」であります。よく書いていますが、こういうハイキング/ウォーキングの企画のお陰で、近いところで、名前は知っていても行ったことのないところ、行きたいと思っていても自分ではなかなか行かないところ、多数を訪れられ、楽しめています。

20190428近鉄ハイキング「『阿漕』砂浜ハイキングと津グルメ散策」へ(その2)……教圓寺、神明神社、山二造酢を経て結城神社へ

190428kintetsuhikingtsushinmachi2 4月28日の近鉄ハイキング「『阿漕』砂浜ハイキングと津グルメ散策』」の本編、その2です。その1では、三重刑務所、真教寺・閻魔堂、市杵島姫神社を訪ねました。市杵島姫神社でスタートから2.4㎞、神社を出たのは10時45分過ぎ。市杵島姫神社前の道路を渡ったところに教圓寺があります。

Img_3540c  一乗山教圓寺は、真宗高田派のお寺。落ち着いた良い感じのお寺ですが、由緒などは不明(案内板はなく、ネット検索でも情報Img_3553c は出て来ません)。境内に「生川翁碑」と読める顕彰碑らしきものがありましたが、これについても詳細は不明。碑そのものがかなり古びていて、良く読めませんでした。こういうとき、たいてい「もっとよく見てくれば良かった」と思うのですが、その反省はなかなか活かされません(苦笑)。我ながら困ったもの。

Img_3558c_2  教圓寺から100mあまり先に人だかりが。よく見たら、ここが神明神社でした。神社というので、もっと大きなものを想像しImg_3561c ていたのです。道ばたに鳥居があり、鳥居のすぐ奥にお社が建っていました。は江戸時代の絵図には「一万度祓納社」として描かれているそうです。説明板によると、悪病が流行して町中がとても苦しんだ時に、人々が相
談して阿漕町の中心部に神社を祭り祈祷したところ、病が治まったことから、町の守護として信仰を集めるようになったといいます。

Img_3563c_2  この神明神社、とても珍しい神社で、こういうタイプは初めて見ました。それは、御祭神が屋根に作られた天窓の上に祭られImg_3572c ていることです。左の写真は、了解をいただいて拝殿の内部を撮影したものです。天井の中央あたりに天窓があり、そこだけ明るくなっているのがお分かりいただけると思います。拝殿の手前にしゃがみ込んで、見上げて撮った写真が右のもの。

Img_3578c  ズームアップすると、この写真のようになります。天窓の向こうに小さなお社が見えます。御祭神は、大日孁貴命(オオヒルメノムチノミコト;天照大神の異称)です。天窓の向こうに祀られていますから、地元では「まんどさん」と呼ばれています。いや、珍しい神社にお参りできました。

Img_3579c  このあたりの伊勢街道の様子。ここ阿漕町津興から八幡町へかけての街道沿いは、明暦(1655~57年)の頃になると、藩が町づくりに力を入れたため、茶店や商店が増えたそうです。現在も、旧街道沿いには格子などが残る建物が並んでいます。

Img_3582c  続いて、山二造酢さんに立ち寄るのですが、ここもウッカリして通り過ぎるところでした。大変失礼ながら、ご覧のような外Img_3586c 観ですから m(_ _)m 明治20(1887)年創業という、歴史のある会社です。ここでは、ハイキング参加特典として、試飲サービスがありました。いただいたのは、Gin-Vine(ジンビネ)のゆず味。生姜と、酢を合わせたものにゆずの香りが付けられています。

Img_3587c

 即売も行われていました。家内からは冗談半分に「一升瓶に入った、普通のお酢を買ってきて」といわれましたが、さすがにImg_3877c それはちょっと願い下げ。重いですし、割れたらどうしようもありません。このハイキングの後、家内の実家に行くつもりというのはその1でも書きましたが、家内の母親が酢が好きですので、土産に900ml入りの、ごく普通の醸造酢を1本買ってきました。値段を書くと、支障があるかも知れませんが、何と¥270。こんな値段の土産を持って行ったとはいえません(笑)。

Img_3593c  山二造酢さんから100mも行かないところの東側に「水子 子育 地蔵菩薩」という幟が掲げられた山門が見えました。見たからには立ち寄らねばなりません(笑)。近くにいらした、ハイキング参加者の高齢女性お二人は、「水子、うちにはないから」とパスされました。私に言わせれば、もったいない、何か面白いものがあるかもしれないのにということで、見てきました。

Img_3595c  山門をくぐってすぐ左手に地蔵堂。見たところごく普通のお地蔵様。これが水子地蔵でしょう。傍らに立つ石碑には、「薬師庵住大徹(?)法圓上座」Img_3601c と刻まれています。ちょっと気になったのは、ここが広場のようになっていることでした。

Img_3597c  奥に石碑が建っていますので、確認してみると、北畠国主の祈願仏であった薬師如来の庵があったところと書かれていました。永禄12(1569)年、兵乱により家士等が如来様をゆかりのある一志郡松崎村の船乗りを業とする者に預け、厨子に入れたまま小船に乗せ、ここ八幡の地に安置すべく、新たに庵室を建てたということでした。ところが、平成18(2006)年に、この南にある松原寺とともに火災で焼失してしまったのだそうです。

 余談。神明神社で天窓の向こうのお社を撮影するとき、逆光になりましたので、カメラの絞りをマイナス側に補正したのですが、それを戻すのをすっかり失念し、最後まで歩きました(笑)。いや、年は取りたくないもの。このあと、撮った写真が「なんだか暗いな」と思っただけ。載せた写真は、レタッチソフトで修正を図っています。

Img_3610c  話を戻して、伊勢街道を南下。3㎞地点で左折して行くと、結城神社の境内や看板が見えてきます。看板のところをさらに右折Img_3613c し、一の鳥居に向かいます。この神社も一度訪ねてみたかったところです。枝垂れ梅が300本あるのです。できれば梅の季節に来たかったのですが、今年はその時期に近鉄ハイキングやJRさわやかウォーキングがなかったのです。

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 結城神社は、結城宗広(ゆうきむねひろ;?~延元3=暦応1(1338))を祀る建武中興十五社(けんむちゅうこうじゅうごしゃ)の一社です。「建武中興十五社」は、建武中興(建武の新政)に尽力した南朝側の皇族・武将などを主祭神とする15の神社です。建武の新政は、正慶2(1333)~建武3(1336)年の後醍醐天皇による公家一統政治ですが、後醍醐天皇の信任を得ていた新田義貞足利尊氏の武力には力及ばず短時日のうちについえました。

Img_3661c_2  結城宗広は、南北朝時代の武将。元弘の乱(後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕クーデター)には、初め鎌倉幕府軍に加わったのですが、後醍醐天皇の綸旨(りんじ)を受け天皇方に転じ、新田義貞とともに鎌倉を攻め、幕府を滅ぼしました。南北朝時代は、南朝方に属し、延元2=建武4(1337) 年、南朝方の形勢を挽回するため、義良親王、北畠親房らとともに陸奥経営に派遣されることになり、一行は伊勢・大湊から出航したものの、暴風雨のため安濃津(三重県津市の港の古称)に漂着。再挙を図っている間に宗広は、病死しました。神社の創立年月は不詳ですが、地元の人々が「結城明神」と称えて、結城公の御墓側に小祠を建てたのに始まるといいます。寛永9(1632)年、津藩主・藤堂高次公が千歳山よりこの地に八幡神社を遷祀された後も、古社八幡宮と称し、産土神と同様の崇敬を集めていました。文政7(1824)年、津藩主・藤堂高兌公により社殿が造営され、結城神社と呼ばれるようになりました。昭和20(1945)年7月の津大空襲によって灰燼に帰したものの、昭和30年代に復興しています。

Img_3668c_3  結城神社といえば、枝垂れ梅が有名です。境内神苑には、枝垂れ梅約300本のほか、10種類80本の梅の木が植えられ、例年、Img_3673c_1 早咲きが1月下旬から花をつけ、2月中旬ごろから満開となり、3月中旬まで楽しめるそうです。また、1月下旬に雲竜梅が見ごろ、300本のしだれ梅は3月上旬が見ごろになります。

Img_3677c  右上の写真と、こちらの写真にありますように、この梅園の中に結城宗広公の御墓があります。左の写真にある鳥居をくぐって行くと、木々に覆われ、昼でもやや暗いとことに墓があります。この場所にImg_3680c は、塚の上に六体地蔵が置かれ、結城塚と呼ばれていたそうですが、現在は、墓碑の石柱が石亀の上に載っています。ちなみに、ネットで調べると、結城宗広の墓は、福島県白河市の関川寺(かんせんじ;結城家の菩提寺)や、伊勢の光明寺にもあります。伊勢の光明寺あたりが終焉の地で、結城神社近くの阿漕浦海岸で遭難したということのようです。

 結城宗広は、南北朝時代の軍記物語である「太平記」にも取り上げられています。「太平記」は宗広の死について、「常に死人の首を見ないと気持ちが晴れないと言って、僧尼男女を問わず毎日2,3人の首を切ってわざわざ目の前に縣けせるほど、生来暴虐な人物で狼藉が多かったため、その報いを受けて塗炭の苦しみを味わい地獄に堕ちるという」凄惨な描写をしているといいます(こちら)。

Img_3651c  結城神社に着いて驚いたのは、狛犬の大きさでした。立札には「北村西望作 伊藤伝七奉納 日本一の狛犬 高さ一メートルImg_3652c 四十センチ 昭和十二年五月御祭神六百年記念」と書いてあります。奉納した伊藤伝七(11代目)は、四日市の実業家で三岐鉄道社長などを務めました。狛犬は、高さ1.46m、鋳銅製。作者の北村西望(せいぼう)は、長崎の平和祈念像の制作で知られます。この狛犬は北村の若い頃の作品。

Img_3665c  結城神社にはまた、南北朝時代に活躍した奥州白河(現在の福島県白河市)結城市の紙本墨書結城神社文章(県文化財)46通があります。この中には、隠岐(現在の島根県)を脱出した後醍醐天皇が、結城氏に出した北条高時追討の綸旨や、陸奥守として赴任した北畠顕家が結城宗広に宛てた書状なども含まれます。

Img_3632c_1  ところで、結城神社の鳥居をくぐったところで「津八幡宮」という案内板があり、気になったので先にこちらに行ってきました。場所は、冒頭の実測ルートマップもご覧ください。結城神社のところにも書きましたが、垂水村(現在の津市垂水)千歳山にあった八幡神社(今日との石清水八幡宮から、伊勢国へ初めて分霊された神社)を寛永9(1632)年、津藩主・藤堂高次公がこの地に遷祀されたのに始まります。主祭神は、応神天皇神功皇后。相殿神は、住吉大神(すみよしのおおかみ;航海の神)、藤堂高虎公です。寛永21(1644)年には、藤堂家の鎮守神社となっています。この頃からの氏神祭が、現在は、津まつりとして続いています。

 長くなりましたし、キリが良いのでその2はここまで。ゴールまではあと少し。結城神社で一息入れ、11時45分に再スタート。結城神社を出るところで3.7㎞。このあとは、阿漕浦海岸に出ます。

2019年5月 9日 (木)

九華公園で花菖蒲一輪開花……九華公園でもモズの幼鳥、京町のツバメのヒナは3羽

Img_7792c_2   天気は日替わりという感じです。薄曇りで、散歩に出るときはちょっと小寒いかなという感じでした。例によって例の如く、8時20分から3時間ほど、住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀公園、京町、田町と5.8㎞を歩いてきました。九華公園のつつじは、盛りを過ぎて、主観的にはもう終わりという気がします。今年は、咲き始めてからの天候が安定せず、一気に満開にはなりませんでした。ダラダラと咲いて来たという気がします。漏れ聞くところでは、今年は、花が終わってからの剪定はしないようですので、来年、どのようになるか気になります。

Img_7778c  その九華公園、またもや「気が早い」とお叱りを受けるかも知れませんが、花菖蒲が一輪、開花しました。管理事務所から奥平屋敷跡へ行くところで、肥後系の稲妻という品種が咲いていました。去年も、5月10日に咲き始めていますから(2018年5月10日:九華公園で花菖蒲一輪開花……スズメのヒナと、鳥の巣が落ちているのも発見)、ほぼ同じ。3ヶ所の花菖蒲園がありますが、奥平屋敷跡回りの2ヶ所はそれなりに期待できそうですが、本丸跡のところは雑草の方が勢いがあるくらいで、ここはどうなるか心配しています。管理体制が変わってから花菖蒲園の手入れも、シルバー人材センターの方による除草以外、行われていないのです。敢えて書きますが、桑名市はやる気があるのかと問いたいところです。

Img_7775c  さて、住吉入江から七里の渡し跡や三の丸公園までの間では、スズメ、カワラヒワ、カラス、ドバトくらいしかいません。三の丸水門まで来て、ようやくヒバリが1羽。それもちょっと遠いところに出て来ました。揖斐長良川の中洲からは、オオヨシキリの鳴き声が聞こえてきますが、例年に比べるとちょっと静かな印象。これからもっと増えてくれることを期待しています。

Img_7796c_1  九華公園には8時40分頃到着したのですが、ここも静かでした。ハシブトガラスや、シジュウカラがいたくらい。公園内を一Img_4952c 回りしても、スズメやムクドリ、カルガモ1羽を目にしただけ。気を取り直して、改めて奥平屋敷跡を見に行ったら、モズとコゲラが出て来てくれました。ただ、どちらもあまりきれいには撮れず、証拠写真レベル。モズ(左の写真)は、幼鳥のように見えます。先日、貝塚公園で見たモズと同じかも知れません。このあと、貝塚公園でやはり幼鳥らしきモズを見ました。2つの公園は、中心部分で見ると400mも離れていませんので、往き来している可能性があります。

Img_7808c  スズメのヒナは、九華公園のあちこちで鳴き声を聞き、姿を見ます。しかし、まだ地面に降りては来ず、親に連れられて木々Img_7816c_1 を移動していますので、撮影はしにくい。かなり粘ったものの、左のような写真しか撮れません。地面に降りて、親の跡を追いかけていたヒナもいたのですが、右の写真のように後追い写真になってしまいました(苦笑)。右の写真では、後ろ(手前側)にいるのが、ヒナです。

Img_7825c  最近、九華公園あたりでは、ハクセキレイもあまり見ませんでしたが、このところ少しずつ戻って来ています。九華公園や、散歩コースの町中ではお馴染みの鳥になっていますので、見られないとちょっともの足らないのです。ヒヨドリも同様で、しばらくほとんど見ませんでしたが、この頃少しずつカムバックしています。このほか、知人は、九華公園の外周遊歩道でエナガを見たとおっしゃっていたのですが、残念ながら私は見られませんでした。ちなみに、キンクロハジロはいませんでした。

Img_4975c  貝塚公園も静かでしたが、南側のエリアの少し高くなったところにある東屋で待っていたら、モズが出て来ました。この東屋あたりは、鳥見スポット。幼鳥のように見えます。枝が被ってしまうような写真しか撮れませんでしたが、先日見たモズと同じような気がしますし、九華公園で今日見たモズと同じかも知れないという気がします。

Img_7855c  このあとは、京町、田町でツバメの巣チェック。左は、呉服屋さんの巣。親もエサを運んで来たですが、あいにくうまく撮れず。10分ほど待ったものの、その後は来ませんでした。2羽と思っていましたが、3羽のヒナがいました。この写真では2羽はハッキリ写っていますが、向かって左にもう1羽がいます。今日は見ていたら、ご主人が出ていらっしゃったので、ツバメの巣を見せてもらうことを許していただけるようお願いしたところ、快くご了解いただいた上に、「ごゆっくりどうぞ」といってくださいました。このお宅の皆さんは、ツバメが営巣するのを心から喜んでいらっしゃるようでした。

Img_4987c_1 その他の巣では、博物館の巣と、田町の商店および民家の3ヶ所で親ツバメが巣に就いていました。このまま行くと、今年は4ヶ所でヒナが見られそうで、楽しみです。左の写真は、田町の民家にある巣の様子。

2019年5月 8日 (水)

好天に恵まれました……が、週間予報が気になります(微笑)

Dscn0965c_1  水曜日、江戸橋方面での仕事の日です。昨年から続くジンクスをようやく打ち破ることができ、今日はご覧のような好天に恵まDscn0972c れました(微笑)。出席する学生たちも、例年、ゴールデンウィーク明けは10%以上減るのですが、今年は前回とほぼ同じ数の学生たちが出席。この点でも恵まれました(微笑)。ということで気分よく仕事を終えられました。

Dscn0970c  非常勤先には、非常勤講師控え室の前にツバメの巣があるのですが、今年は来ていません。去年は、営巣していたのですが、ヒナが落ちて、人の手で巣に戻したことがあったそうです。ヒナが落ちているとかわいそうに思って戻すということはよくありますが、これは勧められていません(たとえば、こちら)。親ツバメが警戒してしまったのでしょう。残念ではありますが、やむを得ないと思います。

Dscn0988c  帰り道、江戸橋駅で閃いてというか、思い出してパンなどの自販機を撮ってきました。近鉄名古屋線では主な駅(たぶん急行が止まるような駅)には置いてあると思います(桑名から津あたりまでは置いてあったと思います)。4月7日の近鉄ハイキングの時には、さくらまつりの会場で昼食が食べられず、近鉄平田町駅でこの自販機のお世話になりました(2019年4月 7日:20190407近鉄ハイキング「春を彩る 鈴鹿さくら祭りと伊奈冨神社のつつじ」(予告編))。江戸橋のように学生さんたちがたくさん利用する駅では、昼頃などほとんど売り切れになっていることもよくあります。ちなみに、今日は写真を撮ってから「イセ野カツオ」というだじゃれのような食べ物を売っているのに気づきました。ただし、¥290とそれなりのお値段でしたので、買いはしませんでした(笑)。アオサ味のかつおぶしチップと香ばしいアーモンドスライスチップが入っていて、酒のつまみにあいそうなものです。

Dscn0983c

 という次第で、今日のところは好天に喜んだのですが、夕方のニュースで週間天気予報を見ていたら、来週水曜日はあまりスッキリしないとありました。今日の好天はまぐれだったのかも知れません。やはり、どこかでお祓いを受けてきた方が良いかも知れません。

 

 



2019年5月 7日 (火)

20190428近鉄ハイキング「『阿漕』砂浜ハイキングと津グルメ散策」へ(その1)……津新町駅をスタートし、三重刑務所、真教寺・閻魔堂と市杵島姫神社へ

 ようやく4月28日に参加した近鉄ハイキング「『阿漕』砂浜ハイキングと津グルメ散策」への本編に到達しました(笑)。本当は、4月30日の「近鉄エンジョイウォーキング 特典満載!平成最後のハイキング!癒しの花景!かざはやの里2019藤まつり」に行き、そのついでに家内の実家へ行ってこようと計画していたのですが、この日は雨という天気予報でしたので予定を変更したのです。平成最後を記念して「近鉄オリジナル缶バッジ」や、かざはやの里ではキリン生茶と津市銘菓野田あられがもらえたり、いくつかの立ち寄り先でも特典があったのですが、天気には勝てません。

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 この日のハイキングは、近鉄名古屋線・津新町駅で9:30~10:30の受付ということで、桑名駅9時1分発の五十鈴川行き急行にImg_3434c 乗車。江戸橋に行くときや、ハイキングに行くときもよく乗る時刻の電車。津新町には、9時49分着。¥750。受付開始から20分も経っていますので、もう空いていました。まぁ、ゆっくり行きましょう(微笑)。

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 この日のコースマップ。マップの左側に今日の立ち寄りポイントと、それらの間の距離が示されていますが、目を疑いました190428kintetsuhikingtsushinmachi_1 (笑)。津新町駅を出て最初の立ち寄り先が、三重刑務所となっていたのです。「エッ、三重刑務所?! 何をするの?」とビックリというか、ビビりました。その後は、市杵島姫神社、旧伊勢街道、 神明神社、山二造酢を経て結城神社へ。その後は、阿漕浦砂浜(砂浜を歩くの?!)、津ヨットハーバーと、近くにある高虎ドッグ、T2の菓子工房、ラーメンいたろう(このあたりがグルメですが、高虎ドッグは超人気店ですから、入るのは難しそう)、津新町駅へ戻るというコース。マップ上7.6㎞。しかし、この日は家内の実家へも行ってこようと思っていましたので、ゴールは勝手に松菱百貨店に変更しました。松菱百貨店前の岩田橋バス停から三重交通のバスに乗って、実家へ行くつもりです。ということで、松菱百貨店まで7.1㎞を歩きました。

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 こちらは、実測ルートマップその1。津新町駅を出て、岩田橋の手前で左折し南下。昭和橋を渡って三重刑務所に向かいます。地図には描きませんでしたが、ちょっとだけ構内に立ち入ってきました(微笑)。ちなみに、間違っても塀の中へは入っておりません。その後、国道23号線を渡って、旧伊勢街道に入ります。9時50分にスタート。

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 津新町駅のすぐ南に交番があります。その脇にこういう旧町名とその由来を示す石柱が立っています。去年(2018年)4月23日にこのあたりに来たときにも気づいています(またもや勝手に近鉄ハイキング(笑)……本日は、名古屋線・津新町駅から松菱、お城公園などなど(予告編))。このあたりは、古河といったとあります。このあたり、現在は「南丸之内」です。古くは1㎞ほど南にあった衆楽のあたりを安濃川の旧河道が通っていたそうで、その旧河道に因んだ地名といいます。津の中心街、あちこちにこの旧町名を表す石柱がありました。なかなかよいアイデアと思います。

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 駅を出てすぐに右折し、近鉄名古屋線とJR紀勢線の踏切を渡り、500mほどで右折し南へ。岩田川にかかる昭Img_3445c 和橋を渡るのですが、その手前、西側にお地蔵さんがあります。去年の「勝手にハイキング」でも見ましたが、たいそう立派な建物で、きちんと世話がなされている様子です。「光徳地蔵」と刻まれていました。改めてネットで検索してみましたが、去年と同様に「光明功徳仏(ピンピンコロリ地蔵)」というものが出て来たものの(こちら)、関連があるのかはまったく不明。あちこちにあるお地蔵様は、よほど有名なものでないとその情報は出て来ません。

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 スタートから1㎞の手前に、最初の立ち寄り先である三重刑務所。執行刑期が10年未満で初犯の男性受刑者を収容する刑務所だそうです。その昔、鈴鹿で働いていた頃からここに刑務所があることは知っており、前も通ったことはあるのですが、ご覧の通り、普通の刑務所という雰囲気。なぜここが立ち寄り先?と不思議。

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 正門の先に行ってみて、納得。煉瓦組みの重厚な門がありました。これは、大正5(1916)年に建築された、当時の「安濃津監獄」の正門。重厚なイメージで、文字は右から左に書かれています。現在は塀の外にあって門としての機能は果たしておらず、歴史的資料として保存されています。三重刑務所は、明治41(1908)年から大正8(1919)年にかけて建てられ、その後、平成20(2008)年に改修されました。

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 「安濃津監獄」の正門に近づいて写真を撮って、あたりを見ていたら、気になる掲示がありました。そちらにも近寄っていってみました。左の写真、ちょっと読みにくいのですが、「出迎え等 一般車両 進入禁止」と書いてあります。「ほぉ、テレビドラマなどで見る、出所シーンはこういうところで展開されるのか」などと思って見ていました。が、気づいたら、左上に監視カメラ。たぶんしっかりチェックされていたのでしょう(苦笑)。早々に退散することにしました。

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 三重刑務所前を南へ。1.2㎞ほどのところを左折し、国道23号線を岩田交差点で越えると、そこからは旧・伊勢街道に入りま190428kintetsuhikingtsushinmachi2 す。左の写真は、伊勢街道に入ったあたり。実測ルートマップは、右に示したように、その2に入ります。

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 岩田交差点から1㎞弱で、天台宗のお寺、阿漕山真教寺(あこぎざんしんきょうじ)にやって来ます。通称は、「閻魔堂」で、Img_3485c_2 ここの近くにあるバス停も、「エンマ堂」というくらい。このあと訪ねる、東隣にある市杵島姫神社とともに、津の守護として町の入り口に建立されたものです(慶長19(1607)年、津藩2代藩主・藤堂高次公による)。ご本尊は、木造閻魔王座像」ですが、他にも木造十一面観音立像(県文化財)があります。高さ2m36cmで、17世紀後半につくられた檜の一木造で、円空の作と考えられています。円空仏としては最大の大きさだそうです。円空は、寛文11(1671)年、法隆寺で修行しており、その直後の作品であると推定されるそうです。右の写真では、向かって左におられます。

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 真教寺のすぐ東隣が市杵島姫(いちきしまひめ)神社。この場所は、大昔には庚申塚でした。市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)は、南朝の重鎮であった北畠氏一族の守護神として北畠氏滅亡まで、津市美杉町多気の城内に御鎮座されていました。北畠親房公、顕家公、顕能公と大変崇敬心厚く、その心は代々家臣に至るまで受け継がれました。天正4(1576)年12月、北畠家からの依頼により、岩田の清長院がご神体を預かることになり、社殿を新築して安置しました。多気城主が崇敬した神ということで人々から格別の信仰が寄せられたといわれます。先に述べたとおり、その後、藤堂藩による城下町づくりが進められる中、万治、寛文の頃(1660~1662年)に現在地にご遷座、この地の産土神になっています。万物の生命を司る水の神、音楽芸能、子孫繁栄の神として崇敬され、付近の人々から「弁財(べざい)さん」と親しまれました。そのため、このあたりに「弁財(べざい)町」という町名がつきました。なお、「三重県の歴史散歩」には、「この神社は北畠氏が身体としていた弁財天を、江戸時代にこの神社に遷したことから、『弁財さん』と呼ばれて親しまれ、弁財町の地名の由来となった」と書かれています。市杵島姫命は、神仏習合では、弁財天と同じとされています。

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 主祭神は、市杵島姫命。天照大神と素戔嗚尊との誓約(うけい)の時に生まれた三女神の一で、福岡県の宗像大社の辺津(へImg_3502c つ)宮の祭神。相殿神は、建速須佐之男命宇迦之御魂命大物主神猿田毘古神大山津見命天照皇大御神徳川家康、事比良神(不明ですが、奈良の大神神社の末社に事比良神社があり、大物主神が御祭神)。 

Img_3511c  こちらはご神木。樹齢が400年とも500年ともいわれるイチョウの木です。昭和20(1945)年に津が空襲を受けたとき、湯気のようにもうもうとしたものが出て、神殿を包み込み、焼失を防いだといわれます。また、風向きも変え、火の手を止めたともされます。今もたくさんのギンナンがなるといいます。

Img_3492c  ここには、津市の文化財に指定されている「湯立釜」があります。この湯立釜は神事に用いるもので、湯をたぎらせ、その湯を竹笹で祓い罪・穣れを清めるものです。この釜の寸法は直径43 cmで、獣面装飾のある足が3足付いています。「元文五庚申年(1740)正月多気郡相可郷西村廣定、同廣泰奉納」と記されています。製作者は中山村(現・津市栗真中山町)安保氏で2代市太夫周正、あるいは3代市太夫周重の作とみられています。津藩の鋳物師の祖とされている辻氏より後に阿保氏は津に来ていますが、辻氏と並び称される鋳物師でした。興味深いことに、寄進者が多気の人で北畠氏ゆかりの人ということです。

Img_3503c  境内には、稲荷社もありました。杉山稲荷だそうです。このお稲荷さんは、橋南中学校のそばImg_3506c に祀られていたものが、明治の初め頃にここへ遷されたといわれています。

Img_3524c  拝殿の東に石碑がありました。石碑、石柱の類い、気になります(微笑)。「市杵島姫神社再建之記碑」です。この地に遷って以降数百年経ち、社が傾き、雨風を防げない状態になってしまい、この神社が由緒ある神霊を祀っていることも忘れられる状態になっていたといいます。再建計画も合ったが、力及ばずそのままになっていたものを、明治35(1902)年1月に再建したという由来が刻まれています。

Img_3538c  ここ市杵島姫神社も、津のガイドブックなどを見ていて、一度訪ねてみたかったところでした。満足して次へ向かいます。左は、神社を出て、振り返って撮った写真。真教寺と市杵島姫神社が隣り合わせになっていることがよく分かります。切りが良いので、その1はここまでとします。その2は、このすぐ近くの教圓寺から。

貝塚公園のモズは、幼鳥か?……九華公園のキンクロハジロはおらず(令和になって0羽)

Img_4900c_1 天気はよいものの、強風。数m/sの風が吹きまくっています。たまには違うところの景色をということで、冒頭の写真は、住吉神Img_4901c 社の前から見た揖斐川の下流方向。中央に小さく見えているのが蟠龍櫓。右の写真は、三の丸水門から見た蟠龍櫓と三の丸公園。木々が青々として気持ちよい光景。1ヶ月ほど前は、桜が満開だったところ。今日もまたいつも通り、8時20分から散歩。住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀公園、京町、寺町、田町と5.9㎞。

Img_4905c  九華公園のつつじは、盛りを過ぎてきました。写真は花が傷んでいたり、散り始めていたりするところを避けて撮りますから、Img_4909c そういう印象は見えません(というより、見えないようにしている訳ですが……)。風が強いので、散歩する人も少なめ。鳥も少なめで、奥平屋敷跡でシジュウカラ、コゲラ、カワラヒワを見たくらい。他はスズメにドバト、ガラス、そして堀の上空ではツバメが飛び交っています。ちなみに、今日は、キンクロハジロはいませんでした。タイトルにも書きましたが、「令和になって0羽」などと、つまらないオヤジギャグが頭をよぎりました(笑)。

Img_4912c  貝塚公園も静かで、スズメ、ムクドリくらいしか声が聞こえませんでしたが、しばらくするとモズが出て来ました。公園の南側のエリアを移動します。追いかけてようやく撮れたのが、このショット。日陰に入ったせいなのか、色模様がややくすんだ感じ。確信はありませんが、ひょっとしたら幼鳥なのか? という気がします。ネットで「モズ 幼鳥」で検索して出て来た写真のものとよく似た印象があります。

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 ツバメチェック。京町の呉服屋さんの巣、ヒナは2羽のようです。親ツバメが10分以内くらいの頻度で戻って来てはエサを与えImg_7723c ています。時々、近くの電線に止まって休んでいる感じに見えることはありますが、忙しそうです。博物館の玄関にある巣(右の写真)や、田町の商店にある巣では、親ツバメがずっと巣に就いています。京町のあるお宅の巣は昨日、また、田町にの民家の巣は先日、それぞれツバメが座っていましたが、今日は不在。

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 鳥も、散歩友達も少なく、10時半過ぎに帰宅しましたので、昼前に内科の定例受診。大賑わいを覚悟して行ってきましたが、1時間待ちで済みました(笑)。明日は、江戸橋方面での仕事。雨はなさそうですが、明日も強風とか。安定した晴れを強く望みます(微笑)。左の写真は、玄関先から見た多度山。緑濃い時期ですが、いろいろの緑色が見えて面白い。

2019年5月 6日 (月)

ツバメのヒナが孵っていました……スズメのヒナも登場、九華公園のキンクロさんは1羽

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 夕方からは雨というものの、午前中は上天気。今日もまた、絶好の散歩日和です。10連休もいよいよフィナーレ。今日は、8時20分からいつも通り、住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀公園、京町、田町と6.2㎞を歩いてきました。冒頭の写真は、三の丸水門の前から見た揖斐川の上流方面。

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 今日のトップニュースは、こちら。京町の呉服屋さんのツバメの巣にヒナがいました。2羽のヒナがいるのは確実。しばらく見ていたのですが、それ以上は未確認です。この巣には、4月上旬頃から親ツバメが来ており、下旬には時々巣に就いているのを見ていましたが、ずっといるわけではなく、卵を抱いているのか確信が持てないでいました。親が巣にいないこともよくあったからです。ツバメの抱卵期間は13~17日といいますから、4月20日前後には卵を産んでいたと思われます。観察は難しい。このほか、京町東のお宅や、田町の商店でもツバメが巣に就いていました。しばらく巡回が欠かせません。

Img_4802c  さて、九華公園は、5月2日以来です。この間、カモはほとんどが帰ってしまい、今日はキンクロハジロのオスが1羽のみ。聞くところでは、昨日も1羽だったとか。このキンクロさん、遠くから見る限り異常はありません。何らかの理由で帰れないのか、あるいは帰りたくないのかは不明。越夏隊になるのか、もうしばらく様子を見る必要があります。

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 最近、時々、九華公園の堀にニューフェースが来ています。それは、カルガモのペア。以前からいるカルガモ1羽は、たまに姿が見えないこともありますが、まだまだ元気です。こちらのニューフェースは、居着いてはいませんが、1ヶ月くらい前から時々来ているのです。ずっといてくれるようになると楽しみが増えるのですが……。

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 さらに、今日は、辰巳櫓跡と神戸櫓跡の間で、スズメのヒナを見つけました。幼いスズメらしき鳴き声が盛んに聞こえてきまImg_4851c したので、よくよく探したら、3羽ほどのヒナが、親に連れられてきていました。堀に突き出た松の木の枝に止まりましたので、あまり近づけませんでした。3羽いたうちの2羽の写真。同じ場所で同じようなシーンです。左の写真では、向かって左にいるヒナが、枝を加えようとしていますがこれは、いくら何でも食べられません。そろそろ他にも、スズメのヒナが出てくると思います。

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 つつじまつりの真っ最中というか、まつりが始まって1週間にもなりませんが、早くから咲いたつつじの花は少しずつ傷んできImg_4862c ています。場所を選ばないと、きれいな写真は撮れなくなってきています。今日もカメラを持った方がたくさん来ておられましたが、工夫が必要だったと思います。

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 「おまえはいつも気が早い」といわれるでしょうが、花菖蒲園をよく見ると、蕾が出てきているものがありました。管理事務Img_7550c 所から奥平屋敷跡へ行くところの西にある菖蒲園です。全体として、生育状況はまだまだという感じなのですが、「稲妻」という肥後系の品種です。ちなみに、去年は5月10日に「筑紫路」という品種(肥後系)が最初に咲いています(2018年5月10日 :九華公園で花菖蒲一輪開花……スズメのヒナと、鳥の巣が落ちているのも発見)。去年の記事にも「つぼみも少しずつでてきてはいるものの、全体としては、生育はあまり芳しくないように見えます。」と書いていましたが、5月下旬にはかなり見事に咲いていました。

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 このあと、貝塚公園へ。鎮国守国神社の境内では気づかなかったのですが、梅の実がすでに大きく実っていました。といって も、梅の木を見上げて気づいたのではなく、足下に落ちていたのを蹴飛ばして気づいたような始末(苦笑)。

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 オマケ。鎮国守国神社でご覧のような掲示を見つけました。金魚まつりの頃、掲げられたと思います。求める方も多いのでしょうし、神社としても収入増を図らなければならないという事情もあるのでしょう。先だっての地域誌「ぽろん」5月号に宮司さんが「夏に桑名100社御朱印巡りを開催する」とおっしゃっていました。なかなか面白そうな企画で、楽しみです。

Img_7597c 最初に書きましたように、10連休もオシマイ。今週からは、また江戸橋方面の仕事も再開されますし、先日の相談会の報告書も仕上げてお送りしなければなりません。そろそろ気持ちを切り替えてことに当たらなければなりません。

20190420JRさわやかウォーキング「旧東海道 石薬師宿と鈴鹿「植木まつり」を訪ねて」へ(その3)……加佐登神社、白鳥塚、植木まつりの鈴鹿フラワーパーク、荒神山観音を訪ねて、ゴールの加佐登駅へ(完)

190420jrwalkingkawano11  4月20日のJRさわやかウォーキング「旧東海道 石薬師宿と鈴鹿「植木まつり」を訪ねて」へのその3です。その2では、旧東海190420jrwalkingkawano12 道の石薬師一里塚跡までやって来ました。左の実測ルートマップでは、国道1号線の上田口バス停の辺りまで来たことになります。1号線をくぐって、上田町に入り、田園地帯などを抜けて、加佐登(かさど)神社を目指します。国道1号線をくぐるところで4.8㎞、時刻は11時20分頃。

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 こちらは、国道1号線を越えた、上田町あたり。南を見ています。前方に見えるのは、国道1号線の上野町交差点から加佐登方面に向かう県道47号線が、JR関西線を越える高架橋。昔とあまり変わらない光景で、懐かしさを覚えます。鈴鹿で働いていたのは、昭和54(1979)年4月~平成4(1992)年5月。令和を迎えた今からすると、とんでもない昔のようです(笑)。

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 上田町に入ってすぐ、コース脇にある民家のところ(実測ルートマップで5㎞とあるあたり)に常夜燈がありました。石薬師魅力再発見委員会が設置した案内板には「山ノ原の常夜灯」と書かれています。明治の初め頃、伊勢神宮へ燈明を上げる目的で建てられたということです。各戸が回り番で油を持ち寄って燈明を上げ、伊勢神宮に向いて参拝したのですが、その後、燈明は伝統に変わり、街灯のような存在になりました。街灯も本格的に整備されるに至り、この常夜灯も当初の役目を忘れられ、眠りについています。

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 この先、加佐登神社の手前まではダラダラと上り坂が続きます。こういう登り坂は、普段平地しか歩いていませんので、けっImg_2766c こうハード(笑)。水田地帯から登るにつれて、植木農家が増えてきます。これは、昔から同じ。国道1号線を越えたところから2㎞ほど坂道を上り下りしてようやく加佐登神社の一の鳥居近くにやって来ました。

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 こちらが加佐登神社の一の鳥居。神社は、奥に見える丘の上にあります。この「丘の上にある」というのがなかなかのとImg_2767c ころ(苦笑)。右の案内図にありますが、階段を登って約450mも行かないといけないのです。これは昔と変わらず。裏からのルートは車も入れる道で、この日のウォーキングも裏から入ってくれると、あの階段を登らなくて済むのに、と思っていました。がそうそう甘くはありません。まあ歩きに来たのですから、覚悟して登り始めます。

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 こちらが表参道を登り始めたところ。参道は昔のままですが、階段の手前に「必要な方はお使いください」と、杖が置いてありましImg_2778c た。さすがにまだ杖のお世話にはなりません(爆)。450mの登りはやはり、さすがにキツい。途中、何度か休みつつ登って行きます。私が、境内に入ってお参りを済ませ、あちこち見てから一休みしていたら、70歳くらいと思われる男性が、息を切らし、汗だくで登ってこられました。

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 5分あまりかかったでしょうか、ようやく境内に上がってこられました。日本武尊の能褒野(のぼの)陵墓と伝えられた白鳥塚古墳の横に鎮座し、尊が死の間際まで持っていたといわれる笠と杖をご神体として祀っています。延喜式神名帳にある、伊勢国鈴鹿郡の倭文神社(しとりじんじゃ)を合祀したと伝えられ、また、 紫ツツジの名所としても知られています。日本武尊を主祭神とし、古来、御笠殿社(みかさどのしゃ)と呼ばれていました。境内には倭文神社や慈悲山廃寺があったと伝えられます。明治6(1873)年に「笠殿」(かさどの)から現社名へ改め、明治41(1908)年に近隣の神社16社を合祀し、現在の姿となっています。

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 主祭神は、日本武尊。相殿神は、天照大御神豊受大神火之迦具土神気吹土主神(はらえどのかみ)、速玉之男命天羽槌雄神(あめのはづちのおのかみ;天照大神を天の岩戸からさそいだすために、文布(あや)をおった神)、大国主命伊邪那美神伊邪那岐神大雀命(おほさざきのみこと;仁徳天皇)、建速須佐之男命菅原道真品田和気命予母都事解之男神(よもつことさかのおのみこと)、息長帯比売命(オキナガタラシヒメノミコト;神功皇后)、大山津見神。上述のように16社を合祀したためか、たくさんの相殿神がいらっしゃいます。

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 拝殿には、「日本武尊」と書かれた大きな扁額が掲げられていますし、拝殿に向かって右(東側)には、日本武尊の石像があImg_2803c ります。この石像は、昔からあったように記憶しています。ヤマトタケル(生年不詳~景行天皇43年)は、第12代景行天皇皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたります。熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄。伝説的英雄ですから、その姿は想像でしかあり得ませんが、ここの石像、ちょっとおっさんくさい(微笑)。

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 加佐登神社に着いたのが11時50分頃でしたから、ここで昼ご飯。この日は珍しく、おにぎりを作ってもらってImg_2818c 持参。鳥居の脇にあった東屋が空いていましたので、そこでムラサキツツジを見ながら昼食&休憩。ムラサキツツジは、4月7日に出かけた伊奈富神社でも見て来ました(2019年4月 7日:20190407近鉄ハイキング「春を彩る 鈴鹿さくら祭りと伊奈冨神社のつつじ」(予告編))。

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 12時20分、再スタート。白鳥塚古墳を見に行きます。加佐登神社の北西すぐのところにあります。7基から成る白鳥塚古墳群Img_2847c_1 の主墳。正式名称は白鳥塚古墳1号墳で、三重県下最大の帆立貝式古墳だそうです。帆立貝式古墳とは、円丘の一方に比較的小さな方形の付属物が付き、平面形がホタテガイに似た古墳です。ヤマトタケルの白鳥伝説(ここがヤマトタケルノミコトの墓といわれ、その霊が白鳥となって飛び去ったという伝説)から、白鳥塚と呼ばれています。本居宣長や平田篤胤ら江戸時代後期の国学者の多くが、白鳥塚を古事記にあるヤマトタケルの能褒野(のぼの)陵墓として最有力視しました。明治9(1876)年教部省は白鳥塚をヤマトタケル陵墓と治定したのですが、明治12(1879)年、宮内省はそれを覆し、丁子塚(現亀山市)を治定しています。これ以後、丁子塚がヤマトタケル陵墓(能褒野王塚古墳)とされました。能褒野網津か古墳がヤマトタケル陵墓に治定された後、地元有志により日本武尊の遺徳をしのぶため能褒野陵周辺での神社の創建が企画され、明治28(1895)年に能褒野神社が建立されました。白鳥塚の周りを一周。直径67mだそうです。こんもりした丘という感じです。5世紀前半に築造されたとみられるそうですが、中世以降の戦乱による荒廃もあり、学術調査では複数の円筒埴輪が出土しているのみです。加佐登神社には、鈴鹿にいた頃何度も訪れていたのですが、白鳥塚は今回初めて。

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 白鳥塚南方に新しい句碑があります。俳人・小林青波(鈴鹿市俳句連盟理事)が、この地で吟行した時に詠んだ句、「白鳥Img_2854c 座 能褒野の天に 懸りたり」が刻まれています。平成29(2017)年12月に建立されています。句碑の近くには、神社の奉賛会が建てた「日本武尊 白鳥陵」という石碑もありますし、その上には、ナンジャモンジャと思われる木も。

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 以上で、加佐登神社、白鳥塚を見終え、加佐登調整池を回る道に出て、植木まつりが行われている鈴鹿フラワーパークに向かImg_2865c_1 います。フラワーパークは、白鳥塚のすぐ西。加佐登調整池は、私が鈴鹿に就職した頃は工事中で、昭和58(1983)年2月に竣功しています。フラワーパークは、私が鈴鹿にいる頃はまだなかったと思います。

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 フラワーパークは、9.9haもある広い公園で、家族連れなどに人気のスポットのようです。中に入るのは、初めて。パンジーImg_2873c やビオラ(一緒か?)、八重桜などが咲き誇っていました。この日は、天気もよく、青空で風も弱いという絶好の行楽日和。ウォーキングでなければ、ゆっくりしたいところ。

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 植木まつりは、フラワーパークの北西エリアで開催されていました。園芸や、植木には興味はありますが、いかせんマンショImg_2877c ン住まいで、庭はありません。庭があったとしても、何か購入しても駅まで歩いた上に、電車で持ち帰るのはどうも、という次第で、会場を見て、通過したのみ(笑)。飲食ブースもたくさん出ていましたので、ここでお昼にしてもよかったかも知れません。

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 この日最後の立ち寄りスポットは、荒神山観音寺。フラワーパークの西隣。ここは、去年12月の近鉄ハイキングで訪ねていまImg_2887c_1 す(2018年12月2日:20181202近鉄ハイキング「鈴鹿の隠れた紅葉の名所「荒神山の喧嘩」で有名な荒神山観音寺を訪ねて」へ(予告編)……最初の勤務地あたりを訪ねて、センチメンタルジャーニー、2018年12月7日:20181202近鉄ハイキング「鈴鹿の隠れた紅葉の名所「荒神山の喧嘩」で有名な荒神山観音寺を訪ねて」へ(その3)……加佐登の町を経て、荒神山観音寺へ) 真言宗御室仁和寺派のお寺。9世紀の初期、嵯峨天皇の時代、弘仁3(812)年に、弘法大師が日本武尊を御神霊を仏像としてまつり、神事山(こうじやま)と称したのが始まりです。また、この荒神山観音寺の裏山では、慶応2(1866)年に神戸長吉(かんべのながきち)と穴太徳(あのうとく、穴太の徳次郎;ちなみに、穴太は、桑名の隣、東員町の地名)が、荒神山の賭場の縄張り争いから大喧嘩をしたこともありました。詳しいことは、これらバックナンバーをお詠みいただければ幸いです。この日は、本堂にお参りし、少し休憩したのみ。荒神山観音寺を出たところで9.4㎞、時刻は13時近く。

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 荒神山観音寺から先は、昔懐かしいところ。高塚町、加佐登町を通って、昔の勤務先の前を通過し、ひたすら加佐登駅に向かImg_2940c_1 いました。13時34分の電車に乗ろうと思って、です。13時20分にJR関西線・加佐登駅に無事ゴール。明治25(1892年)2月6日に関西鉄道の河原田 - 亀山間に高宮駅(たかみやえき)として開業しました。ちなみに、高宮という地名は、古代、この地に景行天皇が行在所を置かれたという伝承があるからです。明治36(1903)年加佐登駅に改称。はじめに書きましたように、ここまでに11.5㎞を歩き通しました。加佐登駅は、平成24(2012)年10月1日に無人駅になっています。が、今日は大賑わい。売店も出ており、桑名からも安永餅、美鹿山荘も出店していました。

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 例によって、この「完歩記念パネル」を撮影(微笑)。ゴールの駅名が変わるだけで、いつも一緒のパネルではありますが……。

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 この日は、TOICAエリア拡大記念のさわやかウォーキングということで、ICカード利用者のうち、先着1,000Img_2954c_1 名に「フリクションペン」をいただけるということで、ありがたく頂戴して来ました。また、鈴鹿市からの記念品として、右の写真にあるようなキャラクターの入ったクリアファイルをいただきました。うえきぴーあーるキャラクターの「たまさぶろう」だそうです。

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 加佐登駅では、古いスタンプが置かれていました。これは、昭和57(1982)年にJR関西線が完全電化したときのもの(私がImg_2959c_1 鈴鹿で就職したのは、昭和54(1979)年4月。その頃は、非電化で、単線区間ばかりのため、名古屋から1時間半くらいかかっていました。とんでもないところに就職してしまったと思ったものでした)。今日の河曲駅も、加佐登駅も新たにICカードが使えるようになりました。加佐登駅でも、右の写真のように、ICカード用の、入場、出場をチェックする機械が設置されていました。

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 加佐登駅のホームにこんなにたくさんの人がいるのはなかなか見られません。13時34分発の名古屋行き快速名古屋行きに乗車。四日市までは各駅停車なのですが、それ以降は快速になり、四日市の次が桑名。その次はもう名古屋。便利です。¥500。

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 JRさわやかウォーキングの参加は、去年11月以来、この日でようやく5個目。JRさわやかウォーキングは、JRImg_2980c_1 東海のエリアのあちこちで行われますから、近くであるとは限りません。咲いて10個のスタンプを溜めないと賞品はもらえませんから、今後とも、精進を重ねないといけません。右は、本日のALKOOのデータ。ウォーキングの11.5㎞に桑名駅往復が1.8㎞。合計では、13.3㎞でした。

2019年5月 5日 (日)

絶好のバードウォッチング日和(微笑)……河口堰、長島、弥富方面へプチ遠征

Img_4601c 今日は絶好のバードウォッチング日和です(微笑)。毎日同じようなことをいっている気がしますが、まぁその辺りは問わず。Img_4613c いつもの散歩コースであまり鳥がいませんので、いささかの欲求不満も募っておりました故、プチ遠征してバードウォッチングをしてきました。まずは、こちら、長良川河口堰へ。朝8時出発。次いで、臨時駐車場、1号線沿線、サギ山と回り、排水機場にも立ち寄って来ました。

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 まずは河口堰の東側(長良川左岸)の魚道、左の写真には写っていないものも含め、コサギが4羽集まっていました。それと、あImg_4611c のアユのぼりも久しぶりに見ました。この季節、やはりこれを観ないといけません。ちなみに、冬には無数にいたキンクロハジロなどのカモはゼロ。カルガモもまったくいなくなっていました。

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 コサギの中には、繁殖期を示すサインが出ているものもいます。つがいの形成期から繁殖期の前半期にかけて足Img_4609c の指の色もピンク色になりますが、左のコサギはまさにその通り。コサギたちは魚道で餌になる小魚を狙っていましたが、しばらく見ていた間には成果は上がりませんでした。堰の下流側にもコサギが4羽。

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 河口堰の西側まで移動。アオサギを発見。それも2羽。ひらいさんを見倣うなら「一散歩1アオサギ」の目標が達成できましたImg_4631c (微笑)。こちら側には、ダイサギ、コサギをあわせて10羽以上の姿が見えました。

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 ダイサギ。目元が緑色になっていますから、このダイサギも繁殖期のようです。コサギもそうですが、繁殖期なのに、ここに来ていてもよいのでしょうか? ひょっとして相手が見つからなかった?

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 親水広場の方へも降りて、一回りしてきました。イソシギ1羽、ハクセキレイ2羽を見たほか、揖斐川との中洲からは、数は多Img_4637c くはないものの、オオヨシキリの鳴き声が聞こえて来ました。伊勢大橋に近いところでは、10連休中にもかかわらず、橋の架け替え工事が行われています。

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 40分ほどかけて河口堰の東側へ戻って来ました。コサギ、カワウの他には、メスのモズが1羽。魚道観察室あたりにコサギがいれば、行ってみようと思っていましたが、あいにく不在。ちなみに、先日、ひらいさんのブログでは、長島町の南端あたりでコアジサシを見たという情報が載っていましたが、今日、河口堰ではまったくいませんでした。

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 続いて、某臨時駐車場へ。一通り確認したものの、いたのはヒバリ2羽で、ちょっと残念。前回来たときには、コチドリの姿もImg_7380c あったのですが、今日はいません。去年は、ケリの姿も見られたのですが、それもありません。この2羽のヒバリ、射たところはやや離れていたのですが、つがいかも知れません。

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 さらに、国道1号線沿線の2ヶ所へ、ケリのチェックに。5月2日になばなの里の花市場に行った帰りにケリが座っているところImg_4657c を見つけていたのです。まずは、空き地なのですが、臨時駐車場のような感じのところ。ケリはいました。1羽がくぼみに座り、もう1羽が近くで警戒中という感じ。

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 次の場所。同様に1羽のケリがくぼみに座り、もう1羽は近くでパトロール。ケリの繁殖期は3月から7月で、抱卵・ヒナ養育にImg_4664c それぞれ約1ヶ月ほどかかるといいますから、また定期的に観に来ることにしましょう。

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 そしてこちらへ。弥富市内の某サギ山。一部の様子が右の写真ですが、奥の方や、木の低いところにもいますので、数え切れImg_7429c ないくらいです。伊勢湾岸自動車道の下を通る県道を挟んで、サギたちの鳴き声が良く聞こえてきます。普段は、県道をたくさんのトラック、トレーラーの騒音で鳴き声はかき消されてしまうのです。あちこちの巣も賑やかですが、未だに飛び交って巣材を運んでくる親サギもいます。

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 サギ山に着いたのは9時45分頃。最初に目についたのは、左のアオサギさんたち。色・模様からしてヒナに間違いないのですImg_4683c が、すでにかなり育っていて、体の大きさは親に遜色なし。Wikipediaの説明では、「4~5月に1回に3~5個の卵を産む。<中略>雌雄で抱卵・育雛を行い 、抱卵期間は23~28日。雛は孵化してから50~55日で巣立つ」とあります。右の巣には、ヒナは4羽いるようです。食欲旺盛でしょうから、親は餌探し、餌運びがたい変でしょうね。

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 こちらの巣のヒナは、まだまだ小さい感じです。アタマはボサボサ(笑)、口を開けて餌でも要求しているのでしょうか?親Img_4705c アオサギも「トサカが立っていて(?)」、落ち着かないような雰囲気。この巣を見ていると、まだオスが巣材を運んできていました。巣の補修をしているのでしょうか? このオス、何度も飛び立って巣材を調達してきているのです。ヒナが大きくなると、巣をさらに丈夫にする必要があるのか?などと思いますが、実際のところは不明。

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 サギ山にいるのはほとんどがアオサギですが、ダイサギもかなり混じっています。ダイサギの巣も、アオサギImg_4738c のものとほぼ同じようで、樹上に木の枝を組み合わせた皿状の巣がつくられています。アオサギは数が多いこともあってか、比較的よく見えるところにあり、ヒナも確認できるのですが、ダイサギの巣にヒナがいるのかどうかはよく分かりませんでした。少なくとも、体の小さな個体には気づきませんでした。

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 ひらいさん情報では、確かゴイサギもいるということでしたが、初めのうちはゴイサギの姿は見えませんでした。30分ほど見Img_4754c ていたのですが、そのうちに、木々の奥や、木の低いところから飛び出てくるようになりました。

Img_7509c_1  最初のうちは、親のみでしたが、そのうちホシゴイの姿も出て来ました。今年生まれのホシゴイと考えるべきでしょうね。ゴImg_7520c イサギ、ホシゴイが見え始めると、そのうち、木々の奥に後ろ姿があるのにも気づけるようになりました(微笑)。アオサギとゴイサギのコラボ写真もゲットでき、満足(微笑)。

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 こちらは、アオサギとダイサギのコラボ写真。このアオサギさんは、色が薄めですからヒナなのかも知れません。しかし、それにしても、このサギ山はすごいところです。時間を忘れて楽しめます。1つだけ気になることは、ここはJRAの施設に隣接しています。名古屋競馬場がここに移転するのです。2022年4月にオープン予定といいます(こちら)。すでに、伊勢湾岸自動車道弥富インターの北、西尾張中央道の東のエリアでは、樹木がかなり伐採されてしまっています。サギ山のあたりがどうなるか、気になります。いつぞやは、弥富市内のコアジサシの営巣地になっていた空き地も建物が建って、繁殖できなくなってしまいました。

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 最後に、某排水機場に立ち寄って来たのですが、カワウがいるだけでした。ミサゴがよくいたのですがねぇ。まぁ、しかし、今日はしっかりとバードウォッチングを楽しめました。明日もよい天気と思っていたら、下り坂とか。連休最後なのに残念。

 

20190420JRさわやかウォーキング「旧東海道 石薬師宿と鈴鹿「植木まつり」を訪ねて」へ(その2)……佐々木家の菩提寺・浄福寺から石薬師寺、蒲冠者範頼之社、蒲桜を見て、石薬師一里塚跡へ

190420jrwalkingkawano11_2 4月20日のJRさわやかウォーキング「旧東海道 石薬師宿と鈴鹿「植木まつり」を訪ねて」のその2です。その1は、佐佐木信綱記念館を訪ねたところまででした。記念館を出たのが、10時半くらい。さらに東海道を下っていきます。

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 記念館を出て、県道115号線の石薬師小学校南交差点を渡ってすぐに、浄福寺という真宗高田派のお寺がありまImg_2549c_1 す。ここは佐々木家の菩提寺となっています。山門の前の石の築山の上に信綱の父・弘綱の記念碑と、信綱の孫・幸綱の歌碑が建っています。開基は、室町時代の永正年間(1504~1520年)と伝わっています。

Img_2557c こちらが、佐々木弘綱の記念碑。佐々木弘綱については、その1にも触れましたが、明治15(1882)年、53歳の時上京し、東京大学講師となっています。古典の口語訳書、撰集、自作歌集、和歌に関する研究書など著作は100あまりに及びます。弘綱は、明治24(1891)年6月に64歳でなくなりました。この碑は、明治41(1908)年に建立され、以後、毎年、碑前祭が境内で行われていたといいます。碑表には、「わかの浦に 老いを屋しなふ 阿し堂徒盤(あしたずは) 雲の宇辺越(うえを)も よそに見類(みる)か難(な)」という弘綱の矜持詠があります。

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 こちらは、佐佐木幸綱の歌碑。佐佐木幸綱(昭和13(1938)年~)は、歌人、国文学者、早稲田大学名誉教授で、現代短歌会の重鎮。佐佐木信綱の孫。佐佐木治綱佐佐木由幾の長男。歌碑には、「しゃくなげを 愛し短歌を すずか嶺を愛し 石薬師を 愛したる人」とあります。信綱を詠んだ歌で、歌碑は平成27(2015)年12月に建立されました。

Img_2568c 浄福寺の前では、佐佐木信綱顕彰会の方たちが待機しておられ、「信綱かるた道」の説明を配っておられ、また、信綱や、東Img_2573c 海道石薬師宿、浄福寺のことなどを話してくださいました。浄福寺も、落ち着いた感じの良いお寺です。常福地を出て、さらに東海道を下ります。

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 浄福寺の先の交差点に、川もないのに「南町橋」の親柱が残っています。旧東海道に交差して、東西に「願入坊川」が流れ、Img_2574c 南町と中町との境をなしていたようです(こちら)。現在、川は暗渠化され、親柱のみが残っています。

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 南町橋の親柱が残っているところの西側には、小さい道標が1つ、あります。「上田加佐登」Img_2582c_1 と刻まれています。上田や、加佐登は、これからこのウォーキングで訪ねるところの地名。大正3(1914)年に田中音吉(弘化5(1848)~大正5(1916)年)が寄附した道標です。田中音吉は、実業家で、米穀・製茶業を営んでいたのですが、前橋や八王子の蚕糸業を視察し、明治20(1887)年、郷里の三重県鈴鹿郡亀山で製糸業を始めました。明治30(1897)年には、亀山共同社(のちの亀山製糸会社)を設立しています。

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 スタートから3.6㎞ほどで国道1号線を越えます。1号線の上にかかっている橋は、瑠璃光橋。Img_2592c 「なんだかカッコイイ名前だな」と思ったのですが、この名前には、理由がありました。このあたりの1号線は、鈴鹿で働いていた頃、何度も通ったところ。石薬師から四日市寄りに少し行くと、自由が丘というところがあります。レストラン(スオーミヤコなど)や、最近B級グルメとして有名になった「四日市とんてき」の店(名物とんてき来来憲)があり、昼ご飯などを食べに行ったりしていましたし、結婚して四日市に住んでからは、通勤経路でしたす。

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 さて、瑠璃光橋を渡るとすぐに高富山(たかとみざん)石薬師寺があります。この瑠璃光橋の名前は、石薬師寺の院号(瑠璃Img_2619c_2 光院)に由来していました。旧東海道に面しています。1号線を越えてすぐのところから入ったのですが、これは裏門でした。石薬師寺は、真言宗東寺派のお寺。ご本尊は、弘法大師自らが、一夜にして爪で刻んだとされている薬師如来像。秘仏になっていて毎年12月20日のおすす取りに合わせて、開扉されます。寺伝によれば、神亀3(726)年、泰澄(奈良時代の山岳修験者。加賀国白山を開創したと伝えられる)が、当地で巨石の出現を見、薬師如来の示現と悟り、草庵を設け供養したことが開創とされています。その後、弘仁3(812)年、空海(弘法大師)が、巨石に薬師如来を刻み開眼法要を行い、人々の信仰を集めたことにより、嵯峨天皇(在位809~823年)は勅願寺とし、荘厳な寺院を建立し、名を高富山西福寺瑠璃光院と称していたといいます。

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 ちなみに、安藤広重が描いた「東海道五十三次」の石薬師宿には、この石薬師寺がモチーフになっています。

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 嵯峨天皇が、勅願寺とされたことによって、堂坊も整い、塔頭寺院も十二ヵ寺院、寺領も三町に達し繁栄を極めたのですが、天正3(1575)年、織田信長の兵火で諸堂坊舎は悉く灰燼に帰したといいます。しかし、御本尊は難を免れ、住職の円賢(えんけん)法印はすぐに仮堂を造り、慶長6(1601)年、神戸(かんべ)城主の一柳監物(けんもつ)直盛が霊験を得、報謝のために諸堂諸坊を再建、現在に至っています。

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 裏門から寺内に入ってすぐ左手に「青面金剛(しょうめんこんごう)」が4基並んでいます。青面金剛は、元来は、密教で鬼病を流行させる鬼神。体は青色で、二本、四本または六本の腕があり、弓矢宝剣を握り、頭髪はさか立ち、体に蛇をまとい、足に鬼を踏んでいるそうです。日本では、後世、庚申信仰に取り入れられ、庚申待の本尊となっているといいます。この青面金剛は、鎌倉時代のものといいます。

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 青面金剛の先には、天満宮がありますが、鳥居が朱色です。ちょっと違和感を覚えつつお参りし、お堂を覗いてみると、牛のImg_2608c 他に狐の姿も見えました。菅原道真公だけでなく、お稲荷さんも併せて祀られていると思われます。

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 境内には歌碑もいくつかありました。まず、左の写真は、佐佐木信綱の歌碑。「蝉時雨 石薬師寺は 広重の 画に見るがごImg_2616c と みどり深しも」という歌が刻まれています。「信綱かるた道」の39番にも掲げられているもので、昭和7(1932)年8月に詠んだもの。右は、岩佐又兵衛による「無病にと 頼みすゑける 石薬師 かたき祈願を 忘れ給ふな」という歌。岩佐又兵衛は、江戸前期の画家。このほか、芭蕉句碑や、一休禅師、西行法師の歌碑もあったのですが、事前の調べが足らず、気づかず仕舞いでした。

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 石薬師寺についたのは、10時40分過ぎ。スタートして1時間15分、境内を回っていたら、11時前。小腹も空いてきましたし、歩き始めから1時間半近くになりますので、先ほど、佐佐木信綱記念館の前でゲットしてきた「卯の花もち」をいただくことにしました。包みを開けたら、こんな風。イメージとしては、桑名や四日市で売っている「なが餅」を丸くしたもの。食べてみても、まさにその通りでした。三重県内の東海道・伊勢街道は、「餅街道」と言われるくらい。あちこちでいろいろなタイプのお餅、あるいはそれに類した菓子が名物になっています。一息ついて、次へ。

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 実は、このウォーキングに向けてあまり予習をしてこなかったのですが、石薬師宿については、「ホントに歩く東海道(風人Img_2683c_1 社)」と「チャント歩ける東海道五十三次 袋井宿~京三条大橋(山と渓谷社)」の該当箇所だけは見てきました。それによると、石薬師寺のすぐ東に「蒲冠者範頼之社(かばのかんじゃのりよりのやしろ)」があると書かれていました。範頼は、源範頼(みなもとののりより)で、義朝の第6子、頼朝の弟。遠江国蒲御厨(がまのみくりや)で成長したので蒲冠者と称したといいます。頼朝の命令で、弟・義経とともに西国への遠征隊の総指揮官となりました。学問武芸に秀で、願望成就の神として信仰されています。ここは、御曹子社(おんぞうししゃ)ともいうようで、大木神社の境外末社です。なお、左の写真で鳥居に向かって右に写っているのは、スダジイの大木です。地上1.5m程で大きく2幹に分かれており、幹周を実測すると7.15mあったそうです(ここを参照)。鳥居の脇に「蒲桜」への案内があります。

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 蒲冠者範頼之社の境内、木陰にひっそりと「宮城遙拝所」と刻まれた石柱が立っていました。四日市の椿岸神社では、「皇居遙拝所」を見ましたが(2018年2月20日:20180217酒蔵みてある記「伊藤酒造の銘酒「鈿女」と智積養水をたずねて」(その2)……大師堂と、椿岸神社あれこれ)、同じものです。

Img_2698c_1  さて、案内にしたがって60mほど南へ行くと、「蒲桜(かばざくら)」がありました。三重県指定天然記念物。寿永年間(1182~Img_2712c_1 84年)の頃、蒲冠者源範頼が平家追討のため、西へ向かう途中、石薬師寺に詣でて武運を祈願し、戦運を占うため鞭にしていた桜の枝を地面に逆さに挿して、「我が願い叶いなば、汝地に生きよ」と言って去ったのち、生長したのがこの蒲桜であるという言い伝えがあります。このため、「逆桜」ともいうようです。ヤマザクラの変種の一つで、赤茶の芽、花は一重の五弁、直径5cmで白~淡紅色。まだ花が残っていました。

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 蒲冠者範頼之社のところで4㎞過ぎ、蒲桜を見て、再び石薬師寺の山門前に戻って、東海道を下っていきます。300mほどいくImg_2730c_1 と、蒲川に差し掛かります。ここは石薬師の集落が終わるあたり。蒲川橋の向こうに榎の大木が見えてきますが、ここが石薬師一里塚跡。江戸・日本橋からは102里(約399㎞)。かつては東海道の両側に榎が植えられていたのですが、榎は伊勢湾台風で折れたといいます。その後、昭和52(1977)年に、南側に榎の若木を植え、「史跡石薬師の一里塚跡」の碑が建てられました。

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 東海道は、この石薬師一里塚跡から左へ(西へ)折れ、JR関西線の下をくぐって、庄野宿へ向かいます。このImg_2743c 日のウォーキングでは、東海道とはここで分かれ、直進し、国道1号線の下をくぐって、上田町の方へ進みます。この先、加佐登神社、鈴鹿フラワーパーク、荒神山観音寺を訪ねますが、その2はここまで。

2019年5月 4日 (土)

20190504近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅4日目~伊勢街道、旅人気分で伊勢平野の鈴鹿から海運で栄えた白子へ」(予告編)

 今日は、絶好の行楽日和(笑)。近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅4日目~伊勢街道、旅人気分で伊勢平野の鈴鹿から海運で栄えた白子へ」に行ってきました。今日もMさんと二人旅。「同行二人」というよりは、「弥次喜多珍道中」に近いかも知れません。4月11日に参加した「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅3日目~東海道、旅人気分で四日市宿から伊勢路へ」の続き。

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 続きということで、前回のゴールであった、近鉄鈴鹿線鈴鹿市駅がスタート。受付は、9時半から11時。桑名駅を8時42分に出るImg_4295c 松坂行き急行に乗車。伊勢若松駅に9時9分に着いて、鈴鹿線に乗り換え。9時20分発に乗車し、鈴鹿市駅には9時25分に到着。¥490。すでに長蛇の列。もらったマップのナンバーは234番。スタートできたのは、9時40分。

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 本日のコースマップ。鈴鹿市駅をスタートして、神戸城跡、常夜燈、弥都加伎(みずがき)神社、北の端の地蔵堂、江島若宮八Img_4300c 幡神社などを経て、伊勢昆布でくじ引き、久住屋菓舗に立ち寄って名古屋線・白子駅がゴール。マップ上、9.3㎞のコース。立ち寄り先として、コースマップに例示してあったのは、これらのところですが、例によって、興味関心の赴くままあちこちとみてきましたし、今日は、スタートしてしばらくで道に迷ったりして、いろいろとありました(笑)。さらには、最高気温も25℃を超えたようで暑くて、けっこう疲れました。

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 こちらは実際に歩いた、実測ルートマップ。実際に立ち寄ってみてきたところはここに示した以外にもたくさんありますし、これには道に迷ってウロウロした分は書いてありません。このルートでは9.3㎞を歩いていますが、実際にはこれにプラス1~2㎞ほど歩いたはずです。

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 鈴鹿市駅をスタートし南下。前回見た札の辻の東から伊勢街道に入ります。300mほどのところ、東側に真宗高田派神戸別院がありました。寛政5(1793)年4月に建立。「神戸の御坊さん」として親しまれました。寺内には、明治13(1880)Img_4315c 年7月3日、明治天皇の行在所となった御殿が残っています。門が開いておらず、参拝はできませんでした。別院の向かい側に真宗高田派の願行寺。享保6(1771)年、神戸町内の161軒を焼いたという信濃屋の火事で類焼し、天明7年(1787)年に再建されたと伝えられています。市文化財に指定されている光明本尊は、南北朝時代の作で中央に光明を放っており、県下でも2点しかない仏画だそうです。

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 スタートから600mほどのところ、T字路で、神戸城跡に向かうため、いったん伊勢街道を離れました。しかしこのあと、曲がImg_4344c り角を見逃したまま直進。さらに300mほど行ったところにあったのが、臨済宗東福寺派別格地 天澤山龍光寺(りょうこうじ)。「かんべの寝釈迦(ねじゃか)まつり」で有名なお寺。ここも一度は訪ねてみたかったところ。ただし、寝釈迦まつりは、3月ですので、涅槃図は拝観できません。室町時代、応永29(1433)年11月29日の深夜、伊勢湾の方より奇異なる霊光が飛び來り、当山の旧跡地西条の沢山に至って消えるということが15日間続いたといいます。時の神戸城主・神戸家二代実重で、伊勢国司・北畠満雅称光天皇に奉上したところ、東海龍王の瑞光であるからこの地に禅寺を建立して国家安泰を祈るべしとのことであったといいます。天皇は満雅を開基とし、神戸実重を普請奉行として天澤山龍光寺を創建したとされます。

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 本堂の天井画は、畳50畳大の大雲龍となっています。これは見事でした。雪兆の筆によります。雪兆は、堀越雪兆(ほりこし せっちょう;1800-1885)であろうと思いますが、まだ調べが十分ではありません。龍光寺には、他にもいろいろと興味深いものがありましたし、なかなか良い雰囲気のお寺でした。と、ここまでは良かったのですが、道を誤ったとは気づかず、そのまま本来のルートとは逆の北に向かってしまいました。言い訳ではありませんが、同様の方かなり多数(苦笑)。近くで皆さんウロウロしておられたのです。スタートから1㎞近く進んでから、「これは変だ」ということにようやく気づき、地元の方お二人に伺ってみました。その結果、龍光寺の手前で曲がるべきところを見逃していたことが分かり、指定されたルートに戻りました(笑)。600mほど余分に歩いたと思います。

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 10時半近くになってようやく神戸城跡に到着。コース通りに来ていれば、スタートから1.1㎞地点ですから、40分もかかるところではありません(苦笑)。神戸氏4代の神戸具盛が天文年間(1532~1555年)に築城しました。滝川一益の侵攻に和睦し、養子に受け入れた織田信長の3男神戸信孝によってより強固に修築されました。城主は度々代わり、関ヶ原の戦い以降は一柳氏が5万石で入っています。その後、天領となった時期もありましたが、慶安3(1650)年、石川総長が1万石で当地に封じられ、さらに、享保17(1732)年には本多忠統が2万石で封じられ、明治維新まで本多氏7代が続きました。

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 本丸には野面積みの天守台があり、かつては神戸信孝が築いた5重6階の天守があったのですが、その天守は文禄4(1595)年に解体、桑名城に三重櫓として移築され神戸櫓と呼ばれました。現在、城の中心部は神戸公園となり、二の丸跡には三重県立神戸高等学校が建てられています。

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 伊勢街道沿い、村瀬病院の向かいに大きな常夜燈があります。昭和5(1930)年再建されたとありました。ここの近くにある神戸地子町公園にある常夜灯を偲んで地子町の人々が建てたともいわれます。地子町公園にある常夜燈は、嘉永2(1849)年建立。明治18(1885)年、洪水で倒れ、竿部分だけが残っています。この公園には、「右いなふ道」「左志ろこ道」と刻まれた道標もあるのですが、今回はこれらは見てきませんでした。

Img_4473c_1 伊勢鉄道鈴鹿駅の南で、伊勢鉄道の高架を潜ったところにあるのが、宇気比(うけひ)神社。主祭神は天之忍穂耳命(アマノオシホミミノミコト)。交通安全、海上安全の神様として崇敬されています。由緒は明らかではありませんが、「河芸郡史」「神戸平原地方郷 土史」などには、旧名八王子祠、由緒不詳と記されているそうです。ここで2.8㎞、11時10分頃。

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 宇気比神社の先の伊勢街道。宇気比神社から先の伊勢街道沿いには、山の神が4カ所ほど、そのまま残っています。これまでのImg_4490c_2 ハイキング/ウォーキングで見て来た神社には、たくさん山の神が合祀されていました。このあたりにたくさん山の神が残っているからには何か理由があるのでしょう。

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 途中かなり端折って、いきなり5㎞地点まで飛びます。時刻は11時50分近く。弥都加伎神社まで来ました。ここの主祭神は、Img_4527c 大土御祖神。土を司る神様です。天平13(741)年に創祀。山田原の土宮の御霊を海部村に勧請し、その後現地へ奉祭したといいます。「山田原の土宮」は、伊勢神宮の外宮の別宮である「土宮(つちのみや」かと思います。土宮の説明には、「御祭神は大土乃御祖神。古くから山田原の鎮守の神でした」という記述があります。延喜5(905)年に社名を土宮から現名称へ変更。慶長19(1614)年、造営。明治2(1869)年3月、明治天皇御東幸の途次、勅使が奉弊代拝しています。この地は玉垣御厨だったといいますから、伊勢神宮の領地であったということでしょう。

 このあと、北江島町の白子保育所を過ぎたあたりに「老農水原政次翁彰功碑」があったはずなのですが、話に夢中になって、見逃してしまいました(苦笑)。まさに珍道中です。

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 6㎞を過ぎるとフジクラの鈴鹿事業所があります。その西側を進み、6.5㎞地点に菅原社。主祭神はもちろん、菅原道真。創祀の事Img_4541c 情及び年代は不詳ですが、集落の産土神(うぶすながみ)として古くから信仰を集め、地区民の心のより処となってきたそうです。確かに、何となく落ち着く境内でしたので、ここで休憩しながらおしゃべりで30分ほどいてしまいました(苦笑)。13時前になってようやく腰を上げて、再び歩き始めました。

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 菅原社から1㎞ほど、近鉄名古屋線の踏切(白子-千代崎の間)を渡ってすぐに「北の端の地蔵堂」があります。約800年前、Img_4549c 鎌倉時代のもの。石像本体周囲に六體の菩薩が刻まれていました。六體とは五翼の優世に六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)に迷う衆生を救う六分身を表します。この地蔵は、江戸時代から北の端の地蔵と呼ばれ、江戸時代、寺家、白子などから江戸方面に型紙等の行商に出る人らはこのお地蔵さんで無事を祈り、見送りをしたといいます。「北の端」というのは、白子の町から見ると北の端にあったからのようです(こちら)。スタートからは、7.5㎞ほど。13時10分頃到着。

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 北の端の地蔵堂から道を挟んで東側には、役行者神変大菩薩がありました。修験道の開祖である「役行者神Img_4553c 変大菩薩」が祀られたお社。寛政11(1799)年に、朝廷から役行者に対して神変大菩薩という諡号(しごう)が贈られています。

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 さらに伊勢街道を進み、8㎞手前で江島若宮八幡神社に着きます。ここはもうImg_4561c 何度も来ていますので、西の参道から入って八幡さんだけをお参りしてきました。主祭神は、大鷦鷯命品陀和気命息長帯比売命。平安時代初期、禁中に奉祀せられていた若宮八幡宮(京都石清水八幡宮の分霊)を醍醐天皇が、神意に問いて伊勢宗廟(皇大神宮)の戌亥の方なる当地に奉遷せられたことに始まります。

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 江島若宮八幡神社の向かい側(南側)にある伊勢昆布さんで、ハイキング参加者には特典として、「来店でくじ引き1回(空くじなし)」というイベント。ガラガラポンで出て来たのは緑色の玉。何等賞なのかなど、詳細はあまり分からなかったのですが、「そこのはこに入っているものから1つ選んで良い」ということで昆布飴をゲット。

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 このあとまた、伊勢街道に戻ります。600mあまりのところに久住屋菓舗。創業は文久年間(1861~64年)。以前にも近鉄ハイキングで訪ねています。ここや、大徳屋長久さんに来たら、大はら木(おはらぎ)と、かりんとう饅頭を買わねばなりません(と思っています)。今日も大はら木とかんりとまんを4個ずつお買い上げ。¥780。今日のハイキング特典として、¥600以上購入でかりんとまん1個プレゼントということで、ありがたくいただいてきました。これで今日の立ち寄りポイントは、コンプリート。

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 久住屋菓舗さんからは、600mほどでゴールの近鉄名古屋線・白子駅へ。13時45分でした。はじめにも書きましたが、スタImg_4580c_1 ートからは9.3㎞+α。「+α」がかなりあったように思います。かなりゆっくり来ましたので、もらえるかどうか心配したのですが、無事に踏破記念マグネットをゲットできました。デザインは、神戸城跡でした。

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 食事をして帰ろうということになりましたが、ゴールの白子駅東口には、これというところがありませんので、西口側に行っImg_4590c_1 て探しました。白子駅あたりは、私が鈴鹿で働いていた頃には繁華街があったのですが、それも今は昔。商店街はシャッター通りと化しています。ちょっと探して、ランチメニューもあるという魚萬寿司さんを発見。刺し身や貝のフライのランチ(¥1,080)をいただいてきました。ランチ営業は14時まででしたので、滑り込みセーフ。このランチ、思った以上に美味しくいただけました。が、お腹が空いていましたので、写真を撮り忘れてしまいました。同行のMさん、美味しい食べ物検知能力が優れておられます。

 遅めの昼食を済ませ、白子駅発14時29分の名古屋行き急行に乗車。連休中ではありましたが、この時間まだ空いていました。最近は、堂々と優先席を使わせてもらっています(笑)。桑名駅には15時3分着。¥490。

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 あみま倶楽部のスタンプは、これで17個目。去年よりかなりハイペース。ALKOOによれば、歩数は23,188歩。歩いた距離はImg_4597c 17.7㎞となっていますが、これはたぶん過大評価。ハイキングで歩いたのは9.3㎞+α。自宅から桑名駅往復が、1.8㎞ですから、合計11.1㎞+α。「+α」は2㎞もないくらいでしょう。暑かったのでいささか疲れました。ハイキング/ウォーキングの記事が滞っていますが、ゆるりとお待ちいただければ幸いです。

2019年5月 3日 (金)

絶好の仕事日和(微笑)……名古屋にて相談会

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 好天で、暑いくらいになりました(27.4℃)。絶好の仕事日和です。書き間違いではありません、10連休の7日目(とはいえ、我が身には連休はさほど影響ありませんが)、名古屋にて相談会をしてきたのです(微笑)。10時から2時間でお二組の相談を承ってきたのです。8時半過ぎに出て、相談会終了後、コーディネートしてくださる方とランチ。文房具屋さんに立ち寄って15時に帰宅。

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 会場はこちら、名古屋国際センタービル内の1室を借りていただきます。会場のルールで2時間しか借りられませんので、1時間×2組という次第。事前に必要な資料を送っていただいて、アセスメントを行い、相談会では1時間の面談。たいていお子さんご本人と親御さん(ご両親ということもありますし、お母様だけということもあります)。後日、まとめた報告書をお送りしています。これから、報告書をまとめる作業に取りかかります。次回は、6月中旬で調整中。

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 国際センタービルで相談会をしますと、ランチは25階にある中華料理の東天紅で。いつもはレストランでランチですが、ゴールDscn0955c デンウィーク中はレストランはお休みで、バイキングのみ。ということでバイキングをいただいてきました。場所もレストランとは別で、窓からの景色はご覧のよう。レストランは名古屋駅に向いていますが、こちらは東の、栄の方に向いていました。テレビ塔も見えています。左の写真は、外堀通りや、名古屋高速都心環状線の方を見ています。右の写真で奥に向かう、広い通りは桜通。いやぁ、いい眺めで気持ちが良い感じでした。

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 さて、明日は、近鉄ハイキングを予定。お伊勢さん参りハイキングの4回目。「昔も今もお伊勢参り~旅4日目~伊勢街道、旅人気分で伊勢平野の鈴鹿から海運で栄えた白子へ」ということで、鈴鹿市駅から、神戸城跡や、弥都加伎神社、江島若宮八幡神社を経て、白子駅までの約9㎞。明日も天気はよく、気温も上がりそうです。

20190420JRさわやかウォーキング「旧東海道 石薬師宿と鈴鹿「植木まつり」を訪ねて」へ(その1)……河曲駅をスタートし、田園地帯を抜け、石薬師宿へ、大木神社の鳥居、小澤本陣跡、天野記念館から佐佐木信綱記念館へ、土産とおやつをゲット

Img_2359c_1  4月20日に出かけてきたJRさわやかウォーキング「旧東海道 石薬師宿と鈴鹿「植木まつり」を訪ねて」の本編をスタートしまImg_2354c す。この日のさわやかウォーキングは、JR東海の「TOICAエリア拡大記念」と銘打ったものでした。というのも、JR関西線で、ICカードが使えるのは、3月までは四日市駅まででしたが、4月になって亀山駅までの各駅でも使えるようになったのです。スタートは、JR関西線・河曲(かわの)駅。といってもあまり知られていないでしょう。関西線の四日市から下り方向には、南四日市、河原田、河曲、加佐登、井田川と続いて、亀山が東海エリアの終点。河曲駅は、鈴鹿市木田町にあります。もとは木田信号場として開設され、その後、昭和24(1949)年に鈴鹿駅として開業したものの、周辺の発展ができず、また、駅から市役所まで約20分も歩かなければならず、年々乗降客は減少。当時、建設中であった国鉄伊勢線(現・伊勢鉄道)で鈴鹿市の中心部である神戸地区に新駅が設置されることをきっかけに新駅の名称を鈴鹿駅とし、こちらを河曲駅に改称しました(昭和48(1973)年)。元々無人駅で、駅も写真のようにちょっと淋しい状況ですし、駅の周囲は田園地帯(右の写真、遠くに国道1号線沿いに建つマンションが見えています)。

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 この日、河曲駅での受付は、8時半から11時。コースマップは、左の画像の通り、佐佐木信綱記念館、石薬師寺(いしやくし190420jrwalkingkawano_2 じ)、加佐登(かさど)神社、鈴鹿フラワーパーク(鈴鹿市植木まつり会場)、荒神山観音寺と回って、JR関西線・加佐登駅がゴール。マップ上は、9.8㎞。加佐登は、最初の就職先&一人住まいがあったところです。石薬師あたりは、その少し四日市寄りにある自由が丘というところには、当時、食事などに来たことがありますが、旧東海道沿いは初めて。佐佐木信綱記念館も、石薬師寺も訪ねてみたかったところです。今朝は、JR桑名駅を8時51分に出る亀山行き普通電車に乗車し、河曲駅着は9時20分。¥410。右の画像が、実際に歩いたルート。若干寄り道をしていますので、11.5㎞を歩いてきました。

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 スタートは9時25分。旧・石薬師宿に入るまでは、立ち寄り先は指定されていません。河曲駅を出てすぐ西の踏切を渡っ190420jrwalkingkawano11 て、 黙々と田園地帯を進みます。右の画像は、少し詳しい実測ルートマップ(その1)。浪瀬川沿いを上流に向かって進み、三重県消防学校と県立石薬師高校の北側を回って、国道1号線を歩道橋で渡り、旧東海道に出ます。2㎞ほどは、川沿い、水田の中そして丘に登る道となっています。

Img_2374c この日(4月20日)は、早くも田植があちこちで行われていました。田植、以前は、ゴールデンウィークくらいでしたし、わImg_2381c れわれが子どもの頃は、6月頃だったように思います。ずいぶん早くなったもの。ちなみに、浪瀬川沿いには、何カ所かに「この川にはまむしがたくさん生息しています」などという表示があってビビりました。

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 浪瀬川沿いを1.8㎞ほど来て、左折し川を渡ります。前方の小高い丘に入っていきますが、この先に三重県消防学校と、県立石薬師高校があります。が、最初のうちは、藪の中にでも活かされるような雰囲気でした(笑)。登り坂でけっこうキツく、ホンImg_2392c トにこの道かと思うくらい。JRさわやかウォーキングでは、コースの各所に案内の矢印がありますから、道は、ほとんど間違えようがありません。Img_2395c

 石薬師高校の北で右折し、国道1号線に出ます。1号線を渡る横断歩道橋のところに朱い鳥居が見えました。こうなると、ほぼImg_2397c 条件反射のようにそちらへ向かいます。「三國稲荷社」とあります。ネット上では情報は出て来ません。

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 拝殿には、「新出稲荷保存会」の名前で、吨枳尼天(だきにてん)が祀られているという趣旨の説明が掲示されていました。吨枳尼天は、仏教の鬼神。密教では、胎蔵界曼陀羅外院にあって、大黒天に所属する夜叉神。自在の通力をもって6か月前に人の死を知り、その心臓を食うといいます。日本では狐の精とされ、稲荷信仰と混同されています。ただし、ここに祀られている由来などについては触れられておらず、不明。

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 スタートから2.6㎞、10時前に国道1号線の横断歩道橋を渡ります。ここを渡り終え、100mほど進むと、旧東海道に出ます。Img_2411c_1 石薬師宿の中心であったところの近く。右の写真は、旧東海道に出たところで、南の方を撮ったもの。この先に本陣跡などがあります。石薬師宿(いしやくししゅく、いしやくしじゅく)は、東海道五十三次の44番目の宿場です。元和2(1616)年に宿場となっています。徳川家康が、東海道を制定したのが慶長6(1601)年ですから、15年ほど遅れています。四日市と亀山の間が長すぎたので、高富村にあった集落を東海道の通る台地の中央部に移して、村落にして、石薬師と名づけたといいます。石薬師の名前は、石薬師寺に由来します。今日歩いた東海道は、ここから石薬師一里塚跡まで。

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 旧東海道に入ってすぐのあたりに大木(おおき)神社の一の鳥居と社号標があります。大木神社は、延喜式内の古い神社で。宿場の守護神ともいえるところですが、ちょっと奥まっていましたので、お参りはしてきませんでした。主祭神は、品陀和気命。相殿神は、豊受比売神天照大神。社殿背後の森は、市指定「椎の森」で杉、アラカシ、サカキ、ソヨゴ、ヤツデ等と椎の木とが混生して美しい森を形成しているといいます。

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 大木神社の鳥居からほど近いところの右側(西側)に、小澤本陣跡があります。表示は2ヶ所ありましたが、いずれも本陣の敷Img_2435c 地だといいます。大名の名前が書かれた「関札(せきふだ、宿札ともいう)」や、江戸時代の宿帳が残されていて、忠臣蔵で有名な浅野内匠頭、大岡裁きの大岡越前守、江戸幕府の基礎を築いた徳川家光の名前もあるそうです。この近くに松の大木があったので、「松本陣」ともいったという話があります。小澤本陣跡の向かいには、園田家が務めた問屋場がありました(と書きましたが、実は、見忘れました。問屋場跡のあたりの、元旅籠だった家の壁に陶板で宿の町割が再現されているはずなのです。気づいたときには、かなり進んでいて、戻る元気が出ませんでした……苦笑)。

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 さらに、本町集会所になっている天野記念館が見えてきました。ここは、タイムレコーダーで名高いアマノ株式会社の創業Img_2450c 者・天野修一(明治23(1890)~昭和51(1976)年)翁が、昭和39(1964)年に故郷である石薬師町本町のために建てたものです。 天野修一翁は鈴鹿市に奨学資金を寄贈して若人の育英に偉大な功績をあげています。前庭にある記念碑の「天野記念館」の文字は天野修一翁の揮毫によるもの。

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 さて、旧東海道に入ってから、あちこちに佐佐木信綱の歌が書かれた歌額が掲示されていました。天野記念館の先にあったものがこちら。「願わくは われ春風に身をなして 憂ある人の 門をとはばや」とあります。これらは、「信綱かるた道」といいます。東海道・石薬師宿沿いに、佐佐木信綱の50首の短歌が掲げられているのです。これは佐佐木信綱顕彰会が整備されたもので、このあと訪ねた浄福寺の前で会の方々が50首が載せられたパンフレットを配っておられました。

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 スタートから3㎞を過ぎた、石薬師小学校の南側に「佐佐木信綱記念館」があります。私はここを訪ねたいと思っていた割りに不勉強で、記念館という1つの施設があるのだと思っていました。しかし、実際には、佐佐木信綱資料館、佐佐木信綱生家、石薬師文庫、土蔵の4つを一体として、佐佐木信綱記念館としていました。左の写真は、資料館。記念館は、上述の佐佐木信綱顕彰会が鈴鹿市から委託されて運営しています。

 佐佐木信綱は、歌人・国文学者として業績を残していますが、明治5(1872)年 6月、現在の鈴鹿市石薬師町で生まれました。佐々木家は、代々医者・学者であったそうですが、祖父・徳綱は書家で武術にも秀で「東海道人物誌」に紹介されるほどであったといいます。また、父・弘綱は、本居宣長の流れを汲む伊勢の国学者・足代弘訓に学び、江戸から明治にかけて歌人・国学者として全国的に活躍し、門弟は1,600名に及んだともいわれています。信綱は、父の指導の下、満4歳の時万葉集、古今集、山家集の名歌を暗誦、5歳には孝経の素読をしたそうで、5歳のときにはすでに短歌を詠んでいます。

障子からのぞいてみればちらちらと雪のふる日に鶯がなく

 明治10(1877)年12月、父・弘綱が鈴屋社中から招請され、一家は松阪へ移住し(信綱は5歳)、信綱は翌年湊町小学校に入学しました。さらに、明治15(1882)、一家は上京。明治17(1884)年東京大学文学部古典科に12歳で入学し、同21(1888)年、16歳で卒業しています。卒業後は、宮仕えはしないという父の考えを継ぎ、生涯文筆生活でした。昭和38(1963)年12月、熱海市西山の凌寒荘にて没。享年91。石薬師には、もっと長く住んだと思い込んでいましたので、5歳で松坂に移ったというのは意外でした。

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 佐佐木信綱記念館の施設を順に見ていきます。まずは、石薬師文庫。昭和7(1932)年、信綱が還暦に当たって旧・石薬師村に寄附したもの。以前からあった土蔵(現存します)を文庫とし、写真に写っている建物が閲覧所として建設されました。伊勢国学に関する多くの版本や写本などを含む貴重な書籍が贈られました。開所式には明治の元勲・田中光顕(4月20日に訪ねた「忘帰處」の處でも出て来た人物:20190411近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅3日目~東海道、旅人気分で四日市宿から伊勢路へ」(その3)……日永の追分から伊勢街道に入り、河原田神社、忘帰處で眺めを楽しみ、鈴鹿市へ)、三重縣知事などが出席しています。現在は地域の図書館として、ボランティアによって運営されています。

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 石薬師文庫の前には、佐佐木信綱・幸綱父子の歌碑と、距離標があります。大正時代のもの。東面に「距 津市元標へ九里四Img_2479c 町拾七間」とありました。南面にも「三重郡日永村大字泊へ壱里貳拾一町……」などと刻まれていましたが、敷地内で入れず、十分確認できませんでした。左の写真には写っていませんが、この右手には、「佐々木弘綱翁?居之門(最後の文字は?)」という石碑がありました。

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 閲覧所になっている建物の右手にも歌碑があります。信綱が石薬師文庫を寄贈するに当たって詠んだ歌が、刻まれています。「これのふぐら 良き文庫(ふぐら)たれ 故郷の 人のために 若人のために」とありました。歌碑は、没後二年祭(昭和40(1965)年)を期して郷人によって建てられました。

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 そして、上と同じ写真をもう一度載せますが、こちらが佐佐木信綱資料館です。佐佐木信綱博士の業績を顕彰するとともに、Img_2507c 市民文化の向上と広く文学の研究に寄与するために設置されたもの。昭和61(1986)年に開館しました。佐々木家を始め、ゆかりのある方から寄贈、寄託を受けた品々の他、生家に保管されていた資料が収納、展示されています。遺愛品、御下賜品、書簡、原稿、書籍など多数があります。

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 私にとって佐佐木信綱は、歌人、国文学者というよりも、唱歌「夏は来ぬ」の作詞者として記憶されていまImg_2529c す。「卯の花の 匂う垣根に 時鳥(ほととぎす) 早も来鳴きて 忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ」が浮かんでくるのです。資料館でもこの歌が繰り返し流されていました。「卯の花」は、ウツギ。記念館の敷地だけでなく、石薬師の町中には至る所に、この卯の花が植えられています。記念館の玄関脇の日当たりのよいところでは、もう咲き始めていました。

Img_2516c_1  資料館の隣には、佐佐木信綱の生家があります。仔細がよく分からなかったのですが、生家はここに昭和45(1970)年に移築されたといいます。庭には、信綱が使った産湯の井戸もありますし、石薬師文庫の書庫に使われている土蔵も残っていました。

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 資料館にスタンプがありましたので、押してきました(微笑)。毎度毎度書きますが、これまでハイキングで訪れた近郊の観Img_2990c_1 光地、記念館、資料館ではたいていこういうスタンプが置いてあります。良い記念になると思いますが、桑名ではありません。そして、佐佐木信綱資料館で珍しく土産を買ってきました(微笑)。栞です。右の3つは、伊勢型紙のものでこれらが1セット。左は、卯の花の押し花であろうと思いますが、そこに「卯の花の匂ふ垣根に」と手書きで添えられています。これは、家内の母へのもの。余談ですが、家内の母は私が読み終え、謹呈した時代小説を読んでいるのです。

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 さらに、資料館前に地元の「のぶ庵」という和菓子屋さんが出張販売しておられました。「卯の花もち」、1個¥110の和菓子を売っていましたので、お買い上げ(微笑)。途中、どこかでおやつにするつもり。

 さて、今回の主たる目的の佐佐木信綱記念館も見られ、土産とおやつをゲットしました。ここで区切りが良いので、その1はここまで。その2は石薬師寺から。

 

2019年5月 2日 (木)

晴れて散歩日和……つつじを楽しんできました

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 5月2日、よく晴れて気温も上がりました。マスコミでは相変わらず、「令和」で騒いでいます。まぁ、マスコミは騒ぐというImg_4206c か、自分たちで話題を見つけて、自分たちで盛り上げないと商売にならないところがありますから、やむを得ません。ホドホドにつきあうのがよいと思っています。改元が行われても、私自身は、例によって例の如く散歩です。8時15分スタート、住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀公園、京町、寺町と5.8㎞。今日は(も?)、知人何人かにお目にかかり、あちこちで話をしてきました(微笑)。右の写真は、住吉神社の前から見た、揖斐川の上流方向。青空で気持ちよい感じ。

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 昨日から、灯街道・桑名宿のイベントが始まっています。昨日は夕方、雨模様でしたので、出かけていません。住吉入江あたりImg_4194c に、鋳物燈籠に混じって、ご覧のような行灯も並んでいました。住吉浦休憩所&駐車場には、観光協会のブースが出て、物販をしているようです(くわな灯り屋台)。右は、昨日の夕方、我が家の玄関前から撮った写真。諸戸氏庭園の煉瓦倉庫の向こうに写っているのが、住吉浦休憩所。

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 柿安コミュニティパーク。去年、一昨年はここがメイン会場で、物販などのブースがたくさん並んでいましたし、展示物もあったのですが、今年は透明なテントが1つだけ。「光のドーム」というのだそうですが、ちょっと淋しい感じ。六華苑では、今日、明日と夜の演奏会があるようですが、3回目にして「尻すぼみ」ではないかと、密かに疑っています。去年は天候に恵まれないところもありましたが、九華公園の桜が満開の頃と重なり、夜桜も見られ、けっこう充実してた記憶があります。今年は、「出かけるまでもないかなぁ」と思っています。

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 九華公園のつつじは、かなり咲きましたが、全体が満開という状況ではありません。去年の今頃は、公園内全体が満開で見事Img_4229c だったのですが……。それでも、今日は天気もよくなりましたし、鎮国守国神社の金魚まつり(今日、明日)も開かれますから、人出はそれなりにあります。

Img_4242c  公園内、いつものように一通り回って、つつじの見事なところを写真に収めてきました。もう10年以上続けてみていますのImg_4247c で、あれこれ文句を書いてはいますが、450本のつつじがほぼ満開ですから、この連休、十分楽しめますので、お出かけください。

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 金魚まつりも、上に書きましたが、今日、明日と開かれています。明日は、午後から、氏子町内の金魚神輿が順番に神社に練Img_4258c り込みます。右は、昨日と同じような写真ですが、鎮国守国神社の宝物館(楽翁公百年祭記念宝物館)も、特別公開があります。午前9時30分~午後7時まで。大人300円、子供200円。分かりやすい展示とはいいがたいのですが、松平定信や、桑名藩に関わる文化財などが見られます。

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 露店も10軒くらい出ています。昔(ちょうど私が子どもの頃くらい)は、境内からあふれ、三之丸町内川の堀Img_4268c 端にまで露店が連なっていたそうで、金魚神輿が通れないくらいだったと聞きます。私が桑名に来た頃はもっと多かった記憶があります。金魚屋さんもたくさん来ていた記憶があるのですが、今年は1軒のみ。店を準備しておられたご主人に伺うと、「今は金魚を飼う人がいないので、売れないからね」ということでした。確かにそうでしょう。ネット上で金魚を飼うこともできるそうですが、小さいときなどに実際に生き物を飼うことで、命の大切さを自然に学んだような気がしますが、バーチャル世界では実感できないでしょうね。

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 鳥たちは今日もほとんどいません。揖斐長良川の中洲には、ダイサギが1羽見えたのみ。ヒバリも1羽鳴いていましたが、三の丸公園や、柿安コミュニティパークでは、ムクドリ、ドバト、スズメしかいません。九華公園のキンクロハジロご一行は、13羽。去年より多い感じ。冬鳥のツグミ、シロハラ、シメはもういません。

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 貝塚公園では、モズがよく鳴いていましたので、探したら、2羽がいました。カップルではないかと思います。カップルであれImg_7294c ば、ここで繁殖してくれると嬉しいのですが、どうなるでしょう? ツバメの巣は、京町あたりのものしか見て来ませんでしたが、博物館の玄関の巣には、親が座っていました。

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 明日は午前中、名古屋で相談会を予定しています。連休中ですが、それなりに気合いを入れて相談に当たってきます(微笑)。

2019年5月 1日 (水)

「令和」を求めて4.3㎞(笑)

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 いよいよ天皇陛下が代替わりなさり令和を迎えました。雨の朝。10時過ぎからほとんど上がりましたので、歩いてきました。歩かないと、ただでさえ動きがぎこちなくなっているアタマが働かない気がするのです(苦笑)。で、歩いてきてから思いついたのが、本日のタイトル。住吉神社、九華公園を半周し春日神社へ。さらに京町、寺町、田町、三崎通と4.3㎞。

Img_4100c   まずは、鎮国守国神社の様子。拝殿前に「奉祝 天皇陛下御即位 令和 新しい御代をお祝いしましょう」という幟。提灯にImg_4103c も、「奉祝 天皇陛下御即位」とありました。拝殿に向かって右、参集殿前には、「奉祝 天皇陛下御即位」とある幟。同じ幟は、境内の他の場所にも掲げられていました。

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 京町交差点では、「新元号奉祝行事」の一環として行われる稚児行列に遭遇。総勢は2,000人以上とか。先頭は神職の方々。続Img_4158c_1 いて、長島八幡神社の獅子舞をなさる方たち。そのあとに親御さんに付き添われたお稚児さんたち。稚児行列が10時半~12時。その後、獅子舞。14時から石取祭、17時から灯街道・桑名宿のイベントと続きます。寺町商店街の和菓子屋さんで、「令和」と入った饅頭でもないかと思ったのですが、それはありませんでした。

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 各町内では、午前中から石取祭の祭車が準備されていました。雨模様ですので、その対策が施されています。柱の先端にあるImg_4179c_1 角行灯には、本来の石取祭の時とは違って、「奉祝 御代替り」と「令和元年五月」の文字が入っています。

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 柿安コミュニティパークにある本多忠勝公の像の前には、「灯街道・桑名宿」のイベントの案内。公園内では準備はまだ行わImg_4124c_1 れてはいませんでした。鎮国守国神社や、氏子町内では、金魚まつりの準備が進んでいます。金魚まつりは、明日・明後日の2日間。境内では露店も2軒が準備中。

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 忘れるところでした。九華公園では、今日から5月15日までつつじまつりが開かれます。といImg_4097c っても、とくにイベントはありません。個人的には、この時期も堀めぐりの船を出したらよいのにと思います。

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 ツバメの巣も巡回してきました。博物館の玄関の巣(左の写真)、京町の呉服屋さんの巣(右の写真)、さらに田町の商店のImg_4162c 巣にも、親ツバメが座っていました。これら3ヶ所では、卵を抱いているのではないかと期待しています。三崎通のお宅では、巣の修復がまだ続いています。ここも期待できそうですから、計4ヶ所でヒナが見られると思っています。

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 春日神社で行われる長島八幡社の獅子舞や、夕方には灯街道・桑名宿のイベントなど見に行きたい気もしますが、相談会の準備がまだ残っていますので、またの機会にします。午後からは、準備に専念しましょう。

 

20190411近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅3日目~東海道、旅人気分で四日市宿から伊勢路へ」(その4)……階段付きの常夜燈、神戸見附跡、神戸の札の辻などを経て、鈴鹿市駅にゴール(完)

190411kintetsuhikingyokkaichi3  4月11日の近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅3日目~東海道、旅人気分で四日市宿から伊勢路へ」も、改元をまたいでようやくゴールできそうになりました(微笑)。その3では、河原田神社と忘帰處を経て、ようやく鈴鹿市に入り、善誓寺に立ち寄りました。JR関西線にそって進み、高岡橋で鈴鹿川を渡っていきます。

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 善誓寺を過ぎ、県道四日市鈴鹿線を横切り、続いてJR関西本線の踏切を横切ると、右手に「大泉源之助翁彰功碑」がありまImg_1367c す。これについては調べたものの、詳細は不明。その先、JR関西線沿いに常夜燈が見えます。これは、寛政11(1799)年に建立されたもの。高岡橋の北詰にあったもののようで、江戸から寄進されたと伝わっています。

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 ハイキングは4月11日でしたので、まだ桜が満開。このソメイヨシノ、枝振りもImg_1376c なかなかよく、「隠れた名桜」といってもよいかなどと思ったくらい。この桜の近くに「陸軍歩兵伍長 勲七等功七級 稲田稔之碑」が建っていました。桑名でも、大貝須や、上之輪などでこういう個人名の碑が建っているのを見ます。家族や親族が建てたものと思いますが、これを管理していくのはなかなか大変だろうという気がします。

Img_1379c

 高岡橋で鈴鹿川を渡ります。往時の伊勢街道は、実測ルートマップで北高岡とあるあたりから斜めに川を横切るImg_1383c ようなルートが描かれています。橋の途中で、スタートから10㎞。振り返って見ると、高岡城跡が遠望できました。現在は公園になっています。築城年代は不明。歴代城主は、神戸城主神戸友盛の家老山路弾正や、小島兵部とされます。永禄10(1567)年と翌11(1568)年の二度にわたって、織田信長の武将、滝川一益の猛攻を受けたが落城しませんでした。しかし、こういう不利な戦況下で山路弾正と主君神戸友盛は最終的に信長の三男織田信孝を神戸家の養子にすることで講和を受け入れています。

Img_1388c_1

 鈴鹿川を渡って、南岸の堤防道路を300mほど行くと、階段付きの常夜燈があります。文化4(1807)年建立。石の階段は点Img_1397c 灯のために付けられているのです。「太神宮常夜燈」「國土安穏」「五穀成就」などと刻まれています。階段部分には、「平成十一年十月吉日修復 大泉源之」とありました。平成の世の中になっても、こういうものを修復してくださる奇特な方がいらっしゃるんですね。

190411kintetsuhikingyokkaichi4  実測ルートマップは、その4になります。高岡の町を南西に向けて、一直線の道路が続いています。「みえのImg_1399c_1 歴史街道」の伊勢街道のマップによれば、このあたりは古代条里制の面影が残り、そのために道が一直線になっていると説明されています。

 

Img_1400c

 田んぼの中の道を1㎞ほど歩いたところに、常夜燈があります。こちらは、文化14(1817)年に建てられたものですが、大正9(1920)年に再建されています。旧・十宮村三軒屋の入り口に当たります。

Img_1409c_1

 その先さらに300mあまりで、神戸(かんべ)見附跡が見えてきます。写真で橋の向こう、登り坂になったところに案内Img_1415c_1 板があり、その右手が現在は公園になっていますが、このあたりに見附があったといいます。両側に土塁と石垣を築き、町の治安を守るために番人がいて、夜遅くには、木戸を閉じて通行を禁じたといいます。両側の石垣には、木戸の柵を支えた溝が残っているのだそうですが、見つけられませんでした(後で調べたら、かなり細いもののようで、容易には気づかないようでした)。

Img_1417c_1

 左は、案内板に描かれた明治2(1869)年の絵図。上が神戸の町。石垣が両側にあり、両開きの木戸が描かれています。石垣Img_1418c_1 は今も残っています。右の写真は、東側の石垣。そこには、「式内阿自賀神社 距此凡三町」とありました。明治2(1869)年建立。阿自賀(あじか)神社は、鈴鹿市須賀一丁目に現在もあります。距離がありましたので、行ってはいませんが、主祭神は品陀和気命、創建は建暦2(1212)年3月以前と考えられています。この見附跡あたりで12㎞。時刻は13時15分を過ぎたくらい。

Img_1434c

 神戸見附跡を過ぎて、いよいよ神戸の町へ入っていきます。このあたりは昔の雰囲気がかなり残っていて、連子格子の建物もImg_1427c いくつか残っています。町の一角には、「旅館 賀美(かみ)亭」があります(右の写真)。調べますと、今も営業しているようで、1泊4,000円くらいのようです。神戸は、十日市町(現神戸2丁目)が中心で、本陣や問屋もそこに集中していたといいます。幕末には旅籠は19軒あり、常磐町(現神戸8丁目)に14軒もあったといいます。賀美亭は、当時は「紙屋」という屋号だったといいます。こちらに実際に泊まった方のブログ記事があります。

Img_1441c

 さらに進み、近鉄鈴鹿線の線路を越え、神戸小学校の手前で六郷川という小さい川を渡るのですが、ここに「大橋」という橋がかかっています。何気なく渡ってしまったのですが、よく調べてみたら、かつては神戸藩士の水練場であったといいます。こんなところで泳げたのか、という気がするくらいです。しかし、これは現代のわれわれの感想に過ぎません。ここはまた、蛍の名所でもあったそうです。

Img_1446c_1

 大橋の先の三叉路が、札の辻。札の辻は、高札場があったところ。あちこちに今でもこの地名が残ります。伊勢街道は、ここImg_1454c で左に向かいます。三叉路の角には、「旅館あぶい」があります。ここも現在も営業しているようです。そのあぶいの前に「距離標」(右の写真)と、「神戸町道路元標」があります。距離標には、「大正三年拾壱月 三重縣」、「日永村へ 壱里貳拾町拾六間  白子町へ 壱里貳拾貳町四拾四間  神戸町」、「距 津市元標五里参拾四町拾七間」、「距 三重縣桑名郡長島村大字押付管轄境七里参拾壱町五拾間」とあります。

Img_1452c

 こちらが「神戸町道路元標」で、大正3(1914)年の建立。旅館あぶいの前を伊勢街道に沿って左折し、さらにその先の三叉路でさらに左折しますが、今回のハイキング、伊勢街道はここまで。ゴールの鈴鹿市駅に向かいます。

Img_1465c

 鈴鹿市駅に向かう途中、再び六郷川を渡ったところで、こんな像を発見してしまいました(笑)。見つけてしまったからには、見たくなります。しかし残念ながら、民家のすぐ側にあって、横や後ろを確認できませんでした。施主の名前が彫られたところだけは見えたのですが、野町、石薬師など市内の地名と氏名、それに一部の方には勲五等功七級などがついているだけで手がかりはありませんでした。

Img_1470c

 道の西側、六郷川の手前には、子安地蔵がありました(左の写真)。みえ歴史街道の伊勢街道のマップによれば、これは「宝珠山地蔵院」。ここは、「東海道中膝栗毛」の中で「安穏に火よけ地蔵の守るらん、夏のあつさも冬の神戸も」と詠まれているそうです。元は、街道の東側にあったといいます。さらに、道の西側、川を渡ったところImg_1472c には、多聞天(右の写真)。これについて詳細は不明。

Img_1484c_1

 13時35分、ようやく近鉄鈴鹿線・鈴鹿市駅にゴール。スタートからは、13㎞。今回はゴール受付で、「お伊Img_1476c_1 勢さん参りハイキング」参加記念のマグネットをいただきました。これで旅1~3日目のもの、3個が揃っています。デザインは、日永の追分。13時40分に伊勢若松行きの電車があったのですが、駅前を探して、昼食を摂ることに。

Img_1483c_1  駅のロータリーの南にある喫茶店「ロータリー」へ。ランチが美味しそうだったのですが、時間も時間で、売り切れ。カレーライスにしました。失礼ながら、あまり期待しなかったのですが、これがなかなかでした。ちなみに、鈴鹿にいた頃、鈴鹿市駅のあたりに何度か来た記憶があるのですが、その当時に比べるとかなり淋しくなった印象。14時10分の伊勢若松行き普通電車に乗車。伊勢若松には14時15分に到着。ここで名古屋線に乗り換えますが、名古屋行き急行が14時17分発でグッドタイミング。桑名着は、14時40分。¥490。

Img_1501c_1  この日のALKOOによるデータは、左の写真の通り。24,796歩。19.0㎞はたぶん過大評価。GPSで測定していると思いますが、行っていないところをトレースされていることもありますから、何らかのミスでしょう。キョリ測では、ハイキングで13.0㎞(立ち寄り先でウロウロしていますから、実際にはこれに+α)、桑名駅までの往復が2.1㎞(帰りに用事を済ませてきました)で、合計15.1㎞。トータルでこれだけの距離になりますと、さすがにしっかり歩いた気がしますし、足にいささかの疲労感を覚えます。

Img_1497c_1  あみま倶楽部のスタンプは、15個目。悪くないペースです。次の「お伊勢さん参りハイキング」は、5月4日(お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅4日目~伊勢街道、旅人気分で伊勢平野の鈴鹿から海運で栄えた白子へ)。今日のゴールである鈴鹿市駅から、神戸城跡、弥都加伎神社、江島若宮八幡神社、久住屋菓舗などを回って、名古屋線・白子駅まで9㎞のコース。

 ところで、実際にハイキングに行ったのが4月11日でしたのに、ブログ記事の方は、改元をまたいで5月1日になってしまいました。記憶があやしいところも出て来ますので、早めに書かねばなりません。4月20日のJRさわやかウォーキング「旧東海道 石薬師宿と鈴鹿『植木まつり』を訪ねて」と、4月28日の近鉄ハイキング「『阿漕』砂浜ハイキングと津グルメ散策』もあります。記憶が薄れるだけでなく、季節感も変わってしまいますから、ボチボチとやります。

 

 

 

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    著者の前著『スサノヲの正体』も、興味深く読みました。斬新な着眼点と発想で、思いもかけない結論に至っています。読み物としてはとてもおもしろいという点で、☆を5つとしました。ネタバレになりますから、詳しいことを書くのは控えておきますが、著者は、伊勢神宮に祀られているのは、いわゆる「天照大神」ではなく、別の霊威の強い(祟る)、二柱の神だとしています。祟るが故に、伊勢に放逐されたのだと主張するのです。ただ、著者の肩書きは、歴史作家にして、武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェローであり、仏教美術に関心をもち、奈良に通ううち、独学で日本古代史を研究したということですから、現在の歴史学や考古学が明らかにした内容と整合性がとれている主張なのかどうかは、私には判断はできかねます。それ故、「読み物としてはおもしろい」と評価しています。 (★★★★★)

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  • 森永 卓郎: 書いてはいけない

    森永 卓郎: 書いてはいけない
    他の本を買いに行った時、書店で平積みになっていましたので、思わず買ってしまいました。メディアのタブーに触れつつ、現在の日本が凋落している要因を3つ指摘しています。サブタイトルは、「日本経済墜落の真相」となっています。3つは、ジャニーズの性加害、財務省のカルト的財政緊縮主義、日本航空123便の墜落事件。この3つについては、関係者は皆知っているものの、触れてはいけない、本当のことをいってはいけないタブーになっているといいます。メディアで触れたら、瞬時にメディアには2度と出られなくなるそうです。ジャニーズ問題は、BBCの報道のためにオープンになってしまいましたが、著者の森永さんは、ご自身が病を得られたこともあって、現状を打破するためにこの本を書かれました。財務省による必要以上の財政緊縮政策と、日航123便の事故のお陰で日本がアメリカに対してどんどん主権を失っていったことが、日本経済の衰退の主たる要因と主張しています。たぶんそれは本当だろうなというのが、私の読後感。 (★★★★)

  • 立木 康介: フロイト『夢判断』 2024年4月 (NHKテキスト)

    立木 康介: フロイト『夢判断』 2024年4月 (NHKテキスト)
    何を今さら勉強しているのか? と思われるかも知れませんが、ちょっと前に流行った言葉でいえば、リスキリングに相当するかも知れません。学生時代に読みましたが、しっかり理解したかといえば、アヤシいのです。学生時代からは50年近い月日が経っていますので、その後の研究成果も含め、新しいことがあるだろうと思ったのです。100分de名著というNHK Eテレの番組のテキストです。講師の立木先生は、パリ第8大学で精神分析の博士号を取得され、京大人文科学研究所の教授。精神分析は「昨日までとは違う自分を手に入れるために行う」とおっしゃっていました。この番組でもっとも印象に残ったのは、あの有名な「エディプス・コンプレックス」よりも、今日、重要なフロイトが提案した概念は、「両性性」であるということでした。これは、いかなる個人も与えられた解剖学的性にしばられないセクシュアリティの自由を持つことをうたうものです。この視点に立てば、同性愛も、トランスジェンダーもいわば当たり前の存在であるということになります。これらを踏まえると120年間に書かれた「夢判断」の内容は、きわめて今日的な意義を持ってくると再認識する必要があります。 (★★★★★)

  • 諸富 祥彦: NHK「100分de名著」ブックス フランクル 夜と霧

    諸富 祥彦: NHK「100分de名著」ブックス フランクル 夜と霧
    フランクルのこの本は、改めて紹介するまでもないほど、有名な本です。私も学生時代、霜山徳爾先生の翻訳で読みましたが、ことばでは書き尽くせないほどの衝撃を受けたことを、いまでもよく覚えています。第二次世界大戦中にナチスの強制収容所に収監された経験をもとに、精神医学者・フランクルが、人生の目的を明確にし、その実現に向けて没頭する心理療法を紹介する本です。原題を直訳すると「それでも人生に然りと言う:ある心理学者、強制収容所を体験する」となります。実存心理学の名著であり、極限の環境におかれたとしても、何かが、あるいは、誰かがあなたを待っているということを主張しています。絶望して終わるのではなく、人生が何をわれわれに期待しているのかが問題であり、私たちはそれを学ぶことが重要だとしています。何度か読み直すことによって、人生への理解が深まる気がします。 (★★★★★)

  • 松田 忠徳, 増田 晋作: 枕草子の日本三名泉 榊原温泉

    松田 忠徳, 増田 晋作: 枕草子の日本三名泉 榊原温泉
    榊原温泉は、全国的に有名とはいえないかも知れませんが、名湯です。それは、枕草子に「湯は七栗の湯 有馬の湯 玉造の湯」にある、七栗の湯が榊原温泉と考えられるからです。最近、日本三名泉といえば、有馬温泉/兵庫県、草津温泉/群馬県、下呂温泉/岐阜県とされますが、枕草子に取り上げられたのはそれよりも古く、「元祖日本三名泉」といえます。榊原温泉の湯は、肌がきれいになる「美人の湯」というだけでなく、抗酸化作用もある健康の湯でもあります。この本は、日本一の温泉教授・松田先生と、地元を知り尽くした増田さんの共著で、「何もない」といわれていた榊原温泉の魅力を語り尽くしています。ちなみに、私にとっては家内の実家を知る上で格好のガイドブックです。 (★★★★)

  • 文藝春秋: 定年後に読む不滅の名著200選 (文春新書)

    文藝春秋: 定年後に読む不滅の名著200選 (文春新書)
    この本の帯には「これが定年後の知の道しるべ!」とありますが、私自身はさほど大上段に構えたつもりで読んではいません。どのような本が選ばれているかにももちろん興味はあったのですが、それらがどのように紹介されているかといった方面に興味があって読みました。本を紹介している方々はいろいろな分野で功なり、名を挙げた方ばかり。それらの方がどんな本を読み、どのように唱歌していらっしゃるかが知りたかったのです。ちょっと邪道な読み方ではありましたが、しっかりと楽しめました。 (★★★★)

  • 石田泰弘(編著): 街道今昔 佐屋路をゆく (東海の街道2) (爽BOOKS 東海の街道 2)

    石田泰弘(編著): 街道今昔 佐屋路をゆく (東海の街道2) (爽BOOKS 東海の街道 2)
    さほど本格的に取り組んでいるわけではありませんが、昔の街道を歩くのは好きです。この本のテーマである佐屋路(佐屋街道)も歩きたいと思って調べています。佐屋路は、東海道佐屋廻りとも呼ばれたように、東海道の迂回路でした。江戸時代に東海道宮宿と桑名宿の間を、陸路万場宿、佐屋宿の陸路を経て、佐屋から桑名宿への水路三里の渡しによって結んでいた街道です。実際に歩いて書かれたと考えられますが、旅人目線で書かれたウォーキングガイドです。津島街道、高須道も取り上げられています。部分的には歩いたところがありますが、佐屋路はいずれ、歩いてみたいと思い、計画中ですので、とても参考になりました。実際に歩かなくとも、歴史読み物としても楽しめます。 (★★★★★)

  • 柳瀬博一: カワセミ都市トーキョー 【電子限定カラー版】 (平凡社新書1049)

    柳瀬博一: カワセミ都市トーキョー 【電子限定カラー版】 (平凡社新書1049)
    東京都心にたくさんのカワセミが棲んでいるというのは、最近割とよく知られるようになっています。清流の鳥というイメージがあるかも知れませんが、東京の「野生」環境をうまく利用して繁殖もしています。そのカワセミが暮らす街は東京屈指の高級住宅街ばかりだそうです。すなわちカワセミも、人間も好む環境は同じというのです。カワセミが暮らす街は、人間にとってもよい街ということです。カワセミの存在に気付いたことから、「小流域源流」をキーワードに「新しい野生」と「古い野生」の繋がりを論じています。カワセミの生態も詳しく観察されていますので、私も今までよく知らなかったことが多々書かれていて、興味深く読みました。 (★★★★)

  • 内田 樹: コモンの再生 (文春文庫)

    内田 樹: コモンの再生 (文春文庫)
    私は、内田樹先生の評論が好きで割とよく読みます。「コモン(common)」とは、形容詞としては「共通の、共同の、公共の、ふつうの、ありふれた」という意味ですし、名詞としては「町や村の共有地、公有地、囲いのない草地や荒れ地」を意味します。昔は、ヨーロッパでも日本でも村落共同体はそういう「共有地」を持っていました。コモンを管理するには「みんなが、いつでも、いつまでも使えるように」という気配りが必要になるのですが、近代になって怒った「囲い込み」によって「コモンの私有化」が起こり、村落共同体が消え、集団的に維持されていた儀礼、祭祀、伝統芸能、生活文化が消えてしまったのです。著者は、このコモンを再生することが市民の原子化、砂粒化、血縁、地域共同体の瓦解、相互扶助システムの不在という索漠たる現状を何とかするために必要と考えています。ちなみに、マルクスとエンゲルスによるコミュニズムは、著者によれば「共同体主義」と訳した方がよく、彼らは「コモンの再生」が必要と提言したといいます。「共産主義」と訳されてしまったがため、なんだかよく分からないことになっているのです。「共有主義」あるいは「共同体主義」と意訳してくれていたら、もろもろが変わっていたかも知れないという話には、膝を打ちました。 (★★★★★)

  • 本田 秀夫: 知的障害と発達障害の子どもたち (SB新書)

    本田 秀夫: 知的障害と発達障害の子どもたち (SB新書)
    児童精神科医の本田先生の最新刊です。今回は知的障害が取り上げられています。これまでの本田先生の御著書では、発達障害が主に取り上げられてきたのですが、実は知的障害を持つ子どもたちも一定数存在していますし、発達障害と知的障害を合わせ持つ子どもたちもいます。その意味で、発達に困難のある子どもたちのことをきちんと理解して、適切な支援をする上では、両者を視野に入れることが重要です。著者は、知的障害の支援では、「早く」と「ゆっくり」がキーワードになると書いておられます。これは私もそうだと思います。可能な限り早期から支援を受けた方がよく、一方で、発達のスピードに合わせて「ゆっくり」としたペースで支援をすることが大切になります。発達障害の子どもたちにも「本児のペースに遭わせた支援が必要」とおっしゃる方がありますが、発達障害の子どもたちの理解/支援の上でのキーワードは「アンバランス」です。この本は、発達が気になるお子さんをお持ちの保護者の方、特別支援教育に携わる教員の方々にとって、基本的なテキストといえます。 (★★★★★)

  • BIRDER編集部: お手本でわかる!野鳥撮影術 (BIRDER SPECIAL)

    BIRDER編集部: お手本でわかる!野鳥撮影術 (BIRDER SPECIAL)
    バードウォッチングや野鳥撮影を趣味にしています。とはいえ珍鳥を追うのではなく、主に自宅近くを散歩しながら、いわば「定点観測」のように野鳥を見ています。自分の写真の撮り方を振り返ると、図鑑的に撮ることがほとんどです。なぜそうなのかを考えてみると、研究者の端くれであったことが関わっている気がします。つまり、写真を撮ることを、観察した記録やデータと見ているからではないかということに思い当たりました。野鳥撮影の「幅を広げたい」と思っていたら、この本が出版されました。ざっと目を通したところ、「色とりどりの花と鳥」「木の実レストラン」「やわらかい表情を追う」などさまざまなテーマで鳥とその周辺を撮る方法が載っています。これを参考に、自分の野鳥写真の世界を広げられたらいいなと思える本です。 (★★★★★)

  • 磯田 道史: 磯田道史と日本史を語ろう (文春新書)

    磯田 道史: 磯田道史と日本史を語ろう (文春新書)
    磯田道史さんが、さまざまな分野の達人と歴史についての論賛をしたのをまとめた本です。論纂とは、①人の徳行や業績などを論じたたえること、②史伝の終わりに著者が書き記した史実に対する論評のこと。異分野の専門家同士が議論をすることによって生まれるものは、別次元となり、大変興味深いものとなります。この本がその論より証拠。養老孟司さんとの論賛からは「脳化社会は江戸時代から始まった」という話が出て来ています。忠、孝、身分などは、シンボリズムであり、それらは見たり、触れたりできません。また、関東大震災に遭遇したことは、被害に対する鈍感さをもたらし、それが太平洋戦争につながったという指摘には、なるほどそういう面も確かにありそうだと思わされました。その他、歴史や人間について、実にさまざまな、新しい見方が示され、大変おもしろく読み終えました。 (★★★★★)

  • 保阪 正康: 近代日本の地下水脈 I 哲学なき軍事国家の悲劇 (文春新書 1440)

    保阪 正康: 近代日本の地下水脈 I 哲学なき軍事国家の悲劇 (文春新書 1440)
    本の帯に「『水脈史観』で日本の失敗を読み解く」とあります。「水脈史観」という概念には初めて接しましたが、「攘夷のエネルギーは、いまも日本社会の根底に流れている」という見方です。明治維新後、日本がとりえた国家像は、欧米型帝国主義国家、道義的帝国主義国家、自由民権国家、米国型連邦制国家、攘夷を貫く小日本国家の5つであったが、哲学なきまま欧米型帝国主義国家の道を突き進み、軍事中心の国家作りを推し進めたことが、戦前の日本の失敗の原因であったというのが著者の主張です。それは確かにそうだと思いますが、私には、ほんのサブタイトルにある「哲学なき国家」ということが、現代日本の様々な問題の背景にあるような気がしてなりません。 (★★★★)

  • 佐伯 泰英: 陰流苗木(かげりゅうなえき)~芋洗河岸(1)~ (光文社文庫)

    佐伯 泰英: 陰流苗木(かげりゅうなえき)~芋洗河岸(1)~ (光文社文庫)
    今回も特別に時代小説を取り上げます。この2つ前の本に佐伯泰英さんの「恋か隠居か 新・酔いどれ小籐次(二十六)」を取り上げ、これは佐伯さんの300冊目の「文庫書き下ろし小説」だと書きました。今回のこの本は、301冊目です。しかも、80歳を越えて、さらに新しいシリーズを始められたのです。美濃を食い詰めた浪人・小此木善治郎が、職なし、金なし、住むあてなしながら、剣の達人にしてとぼけた侍であるものの、なんとも頼りになる存在で、親切な住人や大家によって受け入れられた長屋の秘密と謎の渦に巻き込まれるという設定。これまたおもしろそうなシリーズです。毎月刊行で、全3巻の予定とか。第2巻が待ち遠しい内容です。 (★★★★★)

  • 養老孟司, 鵜飼哲夫: なるようになる。 僕はこんなふうに生きてきた(中央公論新社)

    養老孟司, 鵜飼哲夫: なるようになる。 僕はこんなふうに生きてきた(中央公論新社)
    養老先生の新刊が出たというので早速入手し、ほぼ一気に読み終えました。「はじめての自伝!」といううたい文句で、帯には「虫と猫と、バカの壁。考え続けた86年」ともあります。養老先生は、かなりしつこい性格でいらっしゃるようで、疑問に思ったことは「まぁいいか」などと思わず、考え続けてこられたそうです。その結果が、これまでのユニークな著作に結実しています。それはさておき、考え続けた結果、「なるようになる。」というのが、養老先生の現時点での結論だそうです。「なるようにしかならない」ではなく、「なるようになる。」のです。物事は、はっきりとした目的意識があって進むのではないので、「なるようになる。」なのです。忘れてしまったような些事がその後の人生を動かしてきたかもしれないともあります。なるほどと、この本を読み、養老先生の来し方をいささか知ると、納得できます。というか、納得した気になっているだけかも知れませんが…… (★★★★★)

  • 佐伯 泰英: 恋か隠居か 新・酔いどれ小籐次(二十六) (文春文庫)

    佐伯 泰英: 恋か隠居か 新・酔いどれ小籐次(二十六) (文春文庫)
    佐伯泰英さんは、この本で「文庫書き下ろし小説」というジャンルで300冊刊行を達成されました。佐伯さんの時代小説はすべて読んでいます。まさにストーリー・テラーといえる作家で、実に読み応えのある時代小説をたくさん書いておられます。このシリーズは、いったん完結となったかと思ったのですが、この「恋か隠居か」で復活しました(と理解しています)。隠居を考える小籐次ですが、小籐次親子に挑戦状が届くところから始まる物語。今回も楽しめました。 (★★★★★)

  • 安藤優一郎: 15の街道からよむ日本史 (日経ビジネス人文庫)

    安藤優一郎: 15の街道からよむ日本史 (日経ビジネス人文庫)
    街道歩きを少ししています。三重県内では、東海道のほとんど、伊勢参宮街道、美濃街道・養老街道などを歩きました。もっとあちこちの街道を歩きたいと思っていますが、そのときにこの本が出版されましたので、早速入手して読みました。芭蕉の奥州街道、伊勢参宮街道のお伊勢参り、武士の旅日記などの章をとくに興味深く読みました。主要な街道を取り上げることで読みやすい歴史物語となっています。 (★★★★)

  • 大芦治: 心理学をつくった実験30 (ちくま新書)

    大芦治: 心理学をつくった実験30 (ちくま新書)
    「誰もが一度は耳にしたことがある有名実験の背景・内容・影響を紹介、新たな心理学像を呈示する」と帯にあります。心理学全般に関心を持つ社会人を読者に想定しているといいますが、私には心理学史のテキストとして、あるいは、入門段階の心理学を学んだ方がさらに学習を深める際に読む本としてもよいかも知れません。 私自身も、心理学の教科書を執筆したことが何度かありますが、そこに引用する理論や実験については、いわゆる「孫引き」をしてしまったこともよくありました。この本の著者は、可能な限り原典にあたって執筆していらっしゃり、その意味では参考になったところが多々あります。 ところで、著者は心理学の未来にあまり明るい展望を持てないようです。臨床心理士、公認心理師の資格が人気を集め、心理学部などもたくさん設けられました。私自身の勝手な個人的意見を書けば、資格ができると、レベルは下がると思っています。根拠はありません。個人的な印象によるものです。私は実験心理学でトレーニングを受け、臨床心理の分野に進みました。心理学の基本は実験心理学と個人差測定心理学にあると思っています。学部段階からいきなり臨床心理学プロパーに進むのは、相当よろしくないと思います。臨床実践にあたってはその基礎となる確かな、科学的な学問(知見、理論なども含む)が必要です。また、仮説演繹法などのものの見方もきちんと身に付ける必要があります。これらは実験心理学と個人差測定心理学から養われると思っています。 この本は、基礎的知識がない方がいきなり読むのは難しいでしょうが、科学的心理学を学びたいと思う方にはよい参考書となります。 (★★★★)

  • 磯田 道史: 家康の誤算 「神君の仕組み」の創造と崩壊 (PHP新書)

    磯田 道史: 家康の誤算 「神君の仕組み」の創造と崩壊 (PHP新書)
    磯田先生の書く本はどれもとても面白く読めます。といっても、私が読むのは研究書ではなく、新書だからなのかも知れません。この本は、家康がなぜ幕藩体制を創ることができたのか、江戸時代、誰が神君の仕組みを崩わしたのか、幕末、かくして神君の仕組みは崩壊した、神君の仕組みを破壊した人々が創った近代日本とは、家康から考える日本人というものという5つの章からなっています。家康は天下を取ったあとこの国を支配するのに巧妙な仕掛けをつくり、平和な時代が続いたのですが、誤算が生じて、徳川政権が変質し、崩壊に至ったと著者は考え、そのプロセスを俯瞰しています。いろいろな時点で「神君の仕組み」を骨抜きにする人物や政策が表れたといいます。組織が弱体化する姿を見ておくと、自分たちの劣化を防ぐ力が養われると磯田先生は述べています。徳川時代が現在にあたえている影響も多く、その分析も興味深く読めます。 (★★★★★)

  • 多井 学: 大学教授こそこそ日記

    多井 学: 大学教授こそこそ日記
    文庫本を買いに本屋に行ったら、平積みしてあるのを見つけて思わず買ってしまいました。私もその昔、ご同業だったことがあったからです。帯に「いくらでも手抜きのできる仕事」とありますが、私の経験でもそういう人もそれなりにいました。ちなみに私自身は、こき使われたと思っています。さらに「現役教授が打ち明けるちっとも優雅じゃない生活」とも書かれていますが、これはまさに私の体験と同じ。本に書かれていることがらも、ことごとく納得できます。私は、「そうそう!」といいながら読み終えました。大学教授で儲けている人はごく一部などなど。まぁ大学教授の仕事や生活に興味をお持ちの方は、さほど多くはいらっしゃらないとは思いますが、お暇な方にはどうぞ。 (★★★★)

  • 宮口 幸治: 境界知能の子どもたち 「IQ70以上85未満」の生きづらさ (SB新書)

    宮口 幸治: 境界知能の子どもたち 「IQ70以上85未満」の生きづらさ (SB新書)
    「境界知能」という言葉は、専門家はよく知っていると思いますが、一般のご父兄や、小中学校の先生方にはあまりなじみがないかも知れません。IQという指標でいえば、多くの場合70以上85未満の子どもたちがこれに該当する可能性があります。一見したところでは普通の子どもたちと変わりはなく、なかなか気づかれません。しかし、理論的には約14%の子どもたちが含まれますから、本の帯にあるように「日本人の7人に1人」となります。平均と知的障害のはざまにあり、気づかれにくいものの、授業について行けなかったり、友だちと上手くつきあえなかったり、感情のコントロールが苦手であったりして、当事者の子どもたちは苦戦し、辛い思いをしています。発達障害はよく知られるようになりましたが、境界知能の子どもたちにもしっかり目を向け、必要な支援を提供することは喫緊の課題といえます。この本では、境界知能とはどのような状態なのか、教科学習の前に認知機能を向上することの重要性、子どもの可能性をいかに伸ばしたら良いかについて具体的に、分かりやすく解説されています。 (★★★★)

  • 関裕二: スサノヲの正体(新潮新書)

    関裕二: スサノヲの正体(新潮新書)
    タイトルに惹かれて手に入れたものの、序章の記述が私にとっては退屈でしばらく放っておいたり、読み直そうと思ってくじけたりしていました。しかし、そこを乗り越えるとこの本はとても面白くなり、ほとんど一気読みしました。スサノヲ(素戔嗚尊)の正体を探るプロセスでアマテラス(天照大神)の謎も明らかにされて行き、それもとても興味深いものがあるのです。アマテラスは皇祖神とされますが、実在の初代王と言われる崇神天皇はアマテラスを伊勢に追いやっています。また、伊勢神宮を整備した持統天皇だけは伊勢に参ったものの、それ以降明治になるまで、1,000年以上も歴代天皇は伊勢神宮を訪れていません。明治天皇が東京に遷御したあと武蔵国の鎮守勅祭の社に定めたのは、スサノヲの祀られる氷川神社(現さいたま市)です。明治天皇は氷川神社を訪れた翌年に、伊勢神宮を訪れています。そもそも伊勢にいる神はアマテラスなのかという疑問にも立ち向かっている、古代史や神に関心がある方にはお勧め。 (★★★★★)

  • 安藤 優一郎: 大名屋敷「謎」の生活 (PHP文庫)

    安藤 優一郎: 大名屋敷「謎」の生活 (PHP文庫)
    時代小説をよく読みます。捕物帖、市井の人たちの生活、侍の物語、大名の話などいろいろとあります。庶民の生活については、これまでもいろいろな本でかなり知っていますが、大名の生活については分からないところの方が多いと思っていました。タイトルに惹かれて買ったのですが、大名やその家族の生活が詳しく書かれているのではなく、勤番侍の生活、大名屋敷の庭園、御用達商人や豪農、幕末の動乱と大名屋敷などの話が中心でした。それはそれで知らなかったことが多々あり、興味深く読みました。 (★★★)

  • 服部環ほか: 指導と評価2023年10月号(図書文化社)
    「指導と評価」は、日本教育評価研究会の機関誌であるとともに、日本で数少ない教育評価に関する月刊誌です。この号では、教育・心理検査の意義と活用という特集が組まれています。「教育・心理検査の意義」に始まり、WISC-Ⅴ、KABC-Ⅱなどの個別検査の使い方、解釈の仕方、指導への活かし方がそれぞれの専門の先生によってわかりやすく解説されています。特別支援教育の現場でも、きちんとした心理アセスメント所見に基づいた支援を展開することが望ましいのですが、現場の先生方には敷居が高いようです。ご関心がおありの方には、どのように使えるか、どのように考えたらよいかについて基本的なことがらを理解するのに適しています。出版社のWebサイトからバックナンバーとして購入できます。 (★★★★)
  • 石田 光史, 樋口 広芳(ナツメ社): ぱっと見わけ観察を楽しむ 野鳥図鑑

    石田 光史, 樋口 広芳(ナツメ社): ぱっと見わけ観察を楽しむ 野鳥図鑑
    野鳥図鑑はすでに何冊も持っていますが、この野鳥図鑑は、2015年の刊行で、なぜ今までこの存在に気づかなかったと反省するほど便利そうなもの。掲載されているのは324種ですが、それぞれの特徴や、見わけのポイントがパッとわかるようになっています。その鳥の生活型や生息地、食性や羽色、形態などのほか、雌雄、夏羽冬羽、幼鳥などで特徴が異なる場合は、それらについても説明されています。観察したい行動から、おもしろい生態、探し方までもが載っていますし、鳥の鳴き声が聴けるQRコードも付いています。私自身、野鳥の特定がけっこうアヤシいので、しっかり活用しましょう。 (★★★★★)

  • 千枝大志(風媒社): 街道今昔 三重の街道をゆく (爽BOOKS)

    千枝大志(風媒社): 街道今昔 三重の街道をゆく (爽BOOKS)
    「東海の街道」シリーズの第4巻です。「街道歩きのお供に最適の1冊」といううたい文句。内容は、三重の主な街道、近世三重の城郭図・城下図を読み解く、お伊勢参り小咄、伊勢をめぐる〈参詣〉をデジタル化するの4章構成で、まさに三重の街道歩きの参考書としてよいと思います。私自身も県内の東海道、伊勢街道、美濃街道、濃州街道はほとんど歩き、ほかの街道も部分的に歩いていますし、城もここに載っているところはかなり訪ねています。デジタル化も、ブログに写真・記事を載せていますから、出来不出来はともかく、私も取り組んでいます。県内の街道はさらに歩こうと思っていますし、デジタル化にももっと取り組みたいと考えていますので、十分活用できるでしょう。 (★★★★★)

  • 唐沢孝一: 都会の鳥の生態学 カラス、ツバメ、スズメ、水鳥、猛禽の栄枯盛衰 (中公新書)

    唐沢孝一: 都会の鳥の生態学 カラス、ツバメ、スズメ、水鳥、猛禽の栄枯盛衰 (中公新書)
    都市にもたくさんの野鳥がいることを知る人は少ないかも知れません。私がいつも散歩している地方都市の公園では、これまで10年あまりで70種類近くの野鳥を観察しています。都会は自然の少ない人工的な環境にあふれていますが、野鳥たちはもともとの生態を活かしつつこれらにしたたかに適応してい生きています。この本では、カラス、ツバメ、スズメ、水鳥、猛禽を取り上げ、その都会における生態や、活動の変化、人間と鳥との関係とその変化などについて多くの実例や、調査結果をもとに、豊富な写真を使って楽しく読めるようにまとめられています。 (★★★★★)

  • 堤未果: 堤未果のショック・ドクトリン 政府のやりたい放題から身を守る方法 (幻冬舎新書)

    堤未果: 堤未果のショック・ドクトリン 政府のやりたい放題から身を守る方法 (幻冬舎新書)
    「ショックドクトリン」とは、テロや大災害など、恐怖でこくみんが思考停止している最中に、為政者や巨大資本がどさくさ紛れに過激な政策を推し進める悪魔の手法のことです。アメリカでの3.11以来、日本でも大地震やコロナ禍の裏で知らない間に個人情報や資産が奪われようとしているというのがこの本のテーマ。パンデミックで製薬企業は空前の利益を得、マイナンバーカード普及の先には政府のよからぬ思惑があるなどよくよく注意し、自分の生命・財産を守らないといけないというのが著者の主張。「今だけ、自分だけ、お金だけ」という強欲資本主義に負けないようにするには、ちょっとした違和感を大事にし、お金の流れがその裏にないか、また、それで大もうけして回転ドアをくぐって逃げる輩がいないかをチェックすることです。また、政府が何か、大急ぎで導入しようとしたり、既存の制度を急拡大しようとするときは、要注意だそうです。 (★★★★)

  •  奥山景布子: 葵の残葉 (文春文庫)

    奥山景布子: 葵の残葉 (文春文庫)
    いわゆる「高須四兄弟」である徳川慶勝、松平容保、松平定敬、徳川茂栄は、幕末維新の激動期に、結局のところ官軍と幕府とに分かれて戦う運命になったのですが、この四兄弟を取り上げて埋もれた歴史を活写した小説。私自身は、桑名藩主であった松平定敬が取り上げられているので興味を持って手に取った次第。幕末維新は、次々に色々な出来事が起きて、さまざまな人たちの思惑も複雑に入り組んでいるので、小説にするのは難しいと思っていたのですが、隠れた主人公ともいえる高須四兄弟の視点からとても躍動感のある読み物になっています。また、この時期の歴史をより一層深く理解できたという感想も持っています。 (★★★★)