20190411近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅3日目~東海道、旅人気分で四日市宿から伊勢路へ」(その2)……興正寺、両聖寺、日永神社、頌徳碑と表忠碑を見て、西昌寺、日永一里塚跡、東海道名残の一本松を経て、おちゃのやまなかさんで一息、東海道日永郷土資料館で小腹を満たす
4月11日の近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅3日目~東海道、旅人気分で四日市宿から伊勢路へ」のその2です。前回、大聖寺まででしたが、3㎞も来ていません(苦笑)。ボチボチ、ゆるりと行くことにします。地名でいうと日永の町を歩いています。前回見てきた東漸寺あたりから、今日書く両聖寺付近の東海道は、初めて歩くところです。
スタートからほぼ3㎞のところに、日永山興正寺という真宗高田派のお寺があります。貞観6(864)年の創建。もとは登城山(現在地から1㎞ほど西、南部丘陵公園のところ)に あり、そのときは天台宗でしたが、文暦元(1234)年、親鸞聖人が当寺に立寄られたとき浄土真宗に改宗しました。その後200年程して、真宗高田派第十世・真慧(しんね)上人が津の一身田に本山を定められた時に、高田派となっています。天文13(1544)年、真宗高田派第十二世・堯慧(ぎょうえ)上人は、ここ興正寺で「日永千部」というこの寺の復興勧進法要を勤め、興正寺が高田派の有力な末寺になったといいます。天正2(1574)年、現在地に移ってきています。
秀吉、家康の庇護が篤く、また、天正3(1575)年に滝川一益から寺領の寄進と諸役免除を受けているといいます。滝川一益が興正寺に対して出した「日永興正寺四至傍至の事」という寺領を与える文書、豊臣秀吉の寺内「禁制状」などの文書が残っているそうです。寺の蕎麦を流れる天白川が、寺を囲むように曲がっているのも、滝川一益が堀の役目をするようにしたという話もあり、この堤を昔の人は「滝川堤」と呼んだそうです。
興正寺の先で天白川を越えると、すぐに林光山弘願院両聖寺があります。浄土宗のお寺。最初は、天台宗林光山西教院と称し ていましたが、住職の専阿(せんな)上人が、浄土宗第三祖記主良忠禅師と比叡山で一緒に修行した縁で、宝治2(1248)年、記主良忠禅師がここで浄土教を宣布されたのを契機に、浄土宗に改宗しています。それ故、記主良忠禅師を開基とし、専阿上人を第二代としています。第三代道阿玄忍上人のとき、前期の両聖人に因んで寺号を両聖寺としています。明治40(1907)年、両聖寺の鎮守であった八幡社は分離され、大宮神明社に合祀されています。
両聖寺には、毎年8月に天白川の堤を固めるために行われた「つんつく(堤築)踊り」が今に伝わっています。踊りながら太鼓を打ち鳴らす踊りで、2020年には発祥400年を迎えます。この起源については、滝川一益の母の隠居所を実蓮寺境内に建築する地固め工事に歌った歌謡と動作を取り入れた踊りであるという伝承や、滝川一益が田畑を流失する農民の困窮を見て、天白川の堤防を築くための地固め、地つきに歌ったとする伝承があります。なお、元和6(1620)年の「清水九朗左衛門手記」に「日永踊之事ツンツクノ事ハ此ノ町地タカメ浪切踊トテ帯ヲ手ニモチ扇ニ而踊浪入也」とあり、近世の初頭には現在のような「つんつくおどり」があったと推測されています。
両聖寺から200mあまりで、日永神社に到着。ここは、一昨年12月17日にJRさわやかウォーキングで訪れています(2017年 12月19日:雪もちらつく中、JRさわやかウォーキング(関西線・南四日市駅)へ……10.9㎞コース(その3、完))。昔は南神明社と呼ばれていました。明治40(1907)年以降日永神社というようになりました。建仁年間(1201-1204)頃に創建されたといわれています。天正年間(1573-1592年)に織田信長の伊勢侵攻の際、焼失しています。その後、再建され、江戸時代には神戸藩主本多氏の崇敬厚く、神社はさかえました。明治40(1907)年11月、岡山白髭社、日吉神社、追分神明社の3社を、明治41(1908)年1月に池鯉鮒、山神、天満、事比羅、土大神の5社を、明治44(1911)年9月に稲荷社を合祀しました。ご祭神は、天照大神、天手力男神(あめのたぢからおのかみ)、栲幡千々姫神(たくはたちぢひめのみこと;天照大神の子の天忍穂耳命と結婚し、天火明命と瓊瓊杵尊を産んだ)、大山咋命、猿田彦命、波邇夜須比売命(はにやすひめのみこと;火之夜芸速男神を産んで死ぬ間際の伊邪那美命の大便から波邇夜須毘古神・波邇夜須毘売神の二神が化生した。ハニは土のこと)、菅原道真、大物主神(オオモノヌシノカミ;奈良県桜井市の大神(おおみわ)神社の祭神)、大山津見神(オオヤマツミノカミ;山をつかさどる神)、道反之大神(チガエシノオオカミ;黄泉の国へとイザナミを迎えに行ったイザナギがそこで、腐り蛆にまみれ穢れたイザナミを見て、逃げ出し、黄泉の国と現世の間に大きな岩(千引き岩)を置いて塞ぎました。その岩のことをいいます)、宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ;五穀、食物をつかさどる神)です。
境内には、追分旧道標があります。明暦2(1656)年に仏性院(四日市市川原町)を開いた恵心という僧によって建てられた、東海道現存最古の道標(全国では5番目、県内では2番目に古いといいます)です。嘉永2(1849)年、今の大きな道標が建てられるまで、日永の追分に建っていたものがここに移設されました(明治40(907)年)。正面に「大神宮」と刻まれ、左面に「山田」、右面に「京」と刻まれています。この「石造旧日永の追分道標」は、今年3月26日、四日市市の有形文化財に指定されました。
ここにも、皇大神宮遙拝所があります。「皇大神宮」は、もちろん、伊勢の神宮の2つの正宮のうちの1つである「内宮」のことです。「遙拝」は、遠く離れた所から神仏などをはるかにおがむことですから、この方角に伊勢の内宮がある訳です。この皇大神宮遙拝所の石碑は新しいのですが、昭和57(1982)年に建てられています。
日永神社のすぐ南隣に、長命山薬師堂があったのですが、この日はすっかり失念して、通り過ぎました(2017年12月19日:雪もちらつく中、JRさわやかウォーキング(関西線・南四日市駅)へ……10.9㎞コース(その3、完))。市指定文化財である薬師如来座像が納められています。鎌倉時代中期の作とされ、元は伊勢安国寺の旧像。天正年間(1573~1592)、安国寺炎上の時、日永村の実蓮寺に運び出され、その境内の小堂で内仏として信仰されていたものが、文化13(1816)年、ここに移されたといいます(説明板による)。実蓮寺は、日永小学校の東(日永カヨーの裏手)に現在もあります。滝川一益が菩提寺とし、一益の母親の墓もあるそうですから、見たかったのですが、今回もパスしました。
日永神社から長命山薬師堂を挟んですぐ南が、日永小学校。その敷地内に、日永出身の実業家・「稲垣末吉翁頌徳碑」と「表忠碑」があります。稲垣末吉は、日永の追分まで自費で配管を敷設して、水を旅人達に供した方です。稲垣は、明治時代、東京で製錨工場を創設、後に製鋼工場となり、巨万の富を築きました。地元に戻り、地域社会のために、社会福祉、自社建立、学校建設にも尽力し、さまざまな寄付をするなど貢献された方です。「表忠碑」は、戦没者の遺徳をたたえ、永遠に顕彰するため、明治42(1909)年8月に、日永村在郷軍人の方々が発起人となって建立されています。揮毫者は、元帥公爵の大山巌。
スタートから4㎞、10時40分頃に雲祥山西唱寺(うんしょうざんさいしょうじ)。浄土真宗高田派のお寺。永禄2(1559) 年、僧・玄聖(げんしょう)の開創で、もとは安立院という浄土宗のお寺でした。江戸時代初期、誓宅が住持の時に、專修寺第14世尭秀(ぎょうしゅう)上人に帰依して浄土真宗となり、本尊を賜っています。寛文元(1661)年には西唱寺と改められました。正徳2(1712)年、中川十兵衛尉が、聖徳太子の木造を奉じて当山に立ち寄り、伝法法師に願ってここに留まり、享保2(1717)年、ここで没しています。
西昌寺には、寺宝がたくさんあったそうですが、昭和20(1945)年6月18日の四日市空襲によって本堂や庫裏、太子堂、書院などが全焼してしまい、寺宝、古文書等は一切灰燼に帰してしまいました。戦後、昭和21(1946)年から35(1960)年にかけて順次、庫裏、梵鐘、本堂、書院が再建されて今日に至っています。境内に、安政6(1859)年、近隣の有志で登城山(白鬚神社の北)から竹管で水道を引いた「水道記念碑」があるのですが、一昨年12月のJRさわやかウォーキングの時に続いてまたもや、見てくるのを失念。
さて、この西昌寺あたりから、実測ルートマップは2枚目になります。四日市市もかなり南のエリアに入っています。四日市あすなろう鉄道と国道1号線の間を南下しています。東には、日永カヨーという大きなショッピングセンターや、県立四日市工業高校があります。日永の追分も近くなってきました。
西昌寺から南へ100m足らずのところに「日永一里塚址」の石碑が建っています。県指定史跡(昭和13年4月指定)。四日市市内には4ヶ所の一里塚がありました(富田、三ツ谷(海蔵川の北詰)、日永、釆女(杖衝坂を登りつめたあたり))。日永の一里塚は、江戸からちょうど百里だそうです。塚はもとは5m四方で高さ2.5mの塚が灯街道の両側に築かれていたそうです。「東海道分間延絵図(とうかいどうぶんげんのべえず)」(文化3(1806)年)によれば、西側の塚に松の木3本、エノキ1本、東側の塚にエノキ1本が描かれているといいます。西側の塚にはエノキが残っていたのですが、明治2(1869)年には伐採され、塚自体もすでにありません。家屋と倉庫の境界のわずかな空き地に細い標柱が立っているのみで、ウッカリしていると見逃します。
4.5㎞地点を過ぎたあたりに「東海道名残の一本松」があります。旧・東海道の東側に立派な松の木が一本、立っています。かつて、ここ日永の集落と、泊村の集落との間は、家は一軒もなく、松並木の縄手道だったそうです。今では、この一本松だけが今に残り、往時を偲ぶよすがになっています。そのため「東海道名残の一本松」と呼ばれているのです。たくさんあった松は、戦時中、松根油を採ったためほとんどなくなったといいます。縄手の道幅は、土手も入れて約5間(9m)でした。現在の道幅もほぼ同じです。写真はいったん通り過ぎて、南から撮ったもの。
時刻は11時、スタートして1時間半。4.9㎞を歩いてきて、のども渇いたなと思ったところで、今日の立ち寄りスポットである「お茶のやまなか(山中製茶)」さん。あすなろう鉄道・泊駅近く。ここで、熱いお茶の接待をしていただけました。創業60年だそうです。80代を迎えた初代店主自らお茶をくださったのですが、さすがお茶屋さん、香りも味も家庭では出せないものでした。しばし歓談の相手もしてくださり、よい休憩となりました。
泊の町から追分へ。お茶のやまなかさんを出て300mほどで、東海道日永郷土資料館があります。ここはまちかど博物館。以前にも来ており、たぶん3回目。ここには、郷土の歴史・民俗・文化を後世に継承するとともに、それらを学ぶことができるようにと、日永郷土史研究会を中心とした準備委員会が、土蔵付きの商家の建物を借りして開いたところ。日永の名産であった「日永足袋」「日永うちわ」をはじめ、地元に残る歴史・民俗・文化・街道(東海道・伊勢街道)などに関わるさまざまな資料が展示されています。
やまなかでお茶はいただきましたが、同行のMさんと今度は「小腹が空いた」ということになって(微笑)、資料館で出張販売されていた菊屋本店さんの「采女の杖衝」を買って食べることに。采女は、国道一号線で内部川を越えたあたりの地名。今年3月2日の近鉄ハイキングで訪れた「杖衡坂」のあるところ(20190302近鉄ハイキング「ふるさとの味と春風を感じて悲劇の千奈美姫に想いを馳せる 四日市うつべのヤマトタケル・芭蕉の足跡を体感!」へ(予告編)……歩きも歩いたり、15.6㎞)。日本武尊が伊吹山の賊を平らげ大和へ帰還の道すがら、負傷した足 を引きずり、剣を杖の代わりにして登られた故事に因んで名づけられ、また、松尾芭蕉が落馬して「歩行ならば杖衡坂を落馬かな」と詠んだあの「杖衝坂」からその名を取った銘菓。最中ですが、中身はあんことお餅。1個¥272。小腹を満たす以上の効果が得られました(笑)。
いよいよ日永の追分が目前に迫りましたが、長くなりましたので、その2はここまで。その3は日永の追分から、伊勢街道に入ります。
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